
幼少からフォーク・ロックに傾倒し、高校では剣道とバンド活動に没頭 中学に上がると当時大流行の剣道部を舞台にした青春学園ドラマ「俺は男だ!」に感化され剣道部に入部。同時に小遣いを貯め質屋で中古ギターを購入。ギターにもハマり出します。一方北海道に旅行する機会があり、公害が酷かった東京と比べ別の国の様に美しい大自然に驚愕し、北海道にもハマるのでした。
1959年12月、東京都北区王子生まれ。幼少の頃東久留米市に引っ越して33歳まで過ごしました。小学校3年の頃には音楽に目覚め、ラジオを媒体としてジャンルを問わず聞きあさる小学生でした。特にフォーク・ロック系に傾倒し、シンガーソングライター吉田拓郎氏の出現に衝撃を受け、これが私の人生に多大なる影響を与えることとなるのでした。
高校に上がると剣道とバンド活動に没頭します。専属コーチ不在の都立高校の割には、西東京大会でベスト8、全東京大会でベスト16とそこそこの成績を残しました。
バンド活動は校内の学園祭ではあきたらず、他校の学園祭にゲスト出演したり、公民館を借りて自主コンサートの開催と、一体いつ勉強していたのだろうという高校時代でした。
海外にも憧れ、国際人養成のTIUへ入学 大学未公認のダンスサークルの中に公認正式部活動昇進を目論む女子先輩がおられ、その情熱に賛同した私達は新組織設立に邁進する日々に突入するのでした。公認団体・社交ダンス研究会の発足活動開始です。外のライブハウスでコンサートどころではありません。 文化連合会での活動の経験が、今までの社会生活に役立っています 四年生になると運営を後進に譲り、勢いで文化連合会執行部の総務局長として新たな活動が始まりました。文化系部活動の統括本部としての多忙な日常業務、秋霞祭の時期には秋霞祭実行委員会、体育会本部との連携プレーと、組織・人間ネットワークの大切さ難しさを存分に味わう日々を送るのでした。
1978年に国際商科大学(現東京国際大学)入学。剣道部か軽音楽部か悩んだ末、軽音楽部Tiny Loveに入部。一年弱経過したところで活動を外のライブハウス等に求め、バンド全員で退部。そんな時ある教授から「社交ダンスのサークルがあるのだが、男子が少ないので参加してくれないか?」とお誘いがありました。女子の手を合法的に握れるという不純な動機からバンドメンバーと参加するのですが、この軽薄な行動がその後のキャンパスライフに大きな影響を与えるとは予想も出来ませんでした。
文化連合会本部に新団体設立の申請書を提出し監査が開始されました。
日常の活動方法のノウハウを学ぶ為、頻繁な他大学との交流、技術習得のため外部ダンススクールへの参加、夏合宿春合宿の実施、秋霞祭への正式参加、新入生勧誘及び歓迎行事と未知のイベントを数々こなしながら一年が経過し、文化連合会本部から大学公認団体認定を頂き、私は初代委員長就任となるのでした。
学業の話題が出ておりませんが、四年間の大学での活動の経験はその後の社会生活に大いに役立つものとなっていくのでした。現在、残念ながら「社会ダンス研究会」はありません。

(第13期文化連合会執行部メンバー)
卒業後は音響・計測機器メーカーのティアック(TEAC)へ就職 1990年代に入る頃、日本国内はパソコン時代に突入となり、私はパソコン周辺機器の国内事業部へ配置転換となりました。パソコン市場は業界自体が若いので若いヤツを全国の営業所長として配置するというプロジェクトが起こり、私は若干33歳で札幌営業所長に就任の人事命令が下るのでした。成長期の市場でもあり、昼夜営業活動に没頭して売り上げを倍増することができました。次に福岡や広島への移動の打診がありましたが、断ることになります。
憧れの札幌で、ライブ居酒屋『居酒屋拓郎』を開業 店内にはステージが常設されお客様が弾き語りやセッションを自由に行えます。もちろん演奏曲は吉田拓郎氏の作品に特化しています。お客様が自由に演奏できるというシステムは、2000年代に入るとフォーク酒場というジャンルとなり、全国的に大ブームとなります。当店はフォーク酒場の草分的存在と業界では言われています。
店の経営の傍らお客様とバンドを結成して、年に数回全国にライブツアーに出ています。期せずしてプロミュージシャン気取りの活動になっています。二年前からバンドに参加しているピアノ・シンセサイザー担当は、ロック系軽音楽部BMAに所属されていた二級先輩の水落和也さんです。在学中は見知らぬ同士が卒業後40年以上経った今、一緒にバンド活動をしています。御縁とは不思議なものですが、繋がるべくして繋がったと感じます。
1982年、無事卒業して音響機器計測機器メーカー・ティアック株式会社(TEAC)に就職しました。業務用ビデオ機器の海外事業部に配属され、アジアマーケット担当となり中国を中心としてシンガポールやタイなどのアジア諸国を出張で飛び回る営業マンとなりました。
前述の通り、私は北海道フリークでもあり漠然といつかは北海道に住んでみたいと思っていました。会社のお金で憧れの札幌に移住できたのだからと、サッサと脱サラ・独立を目論むのでした。組織から脱け出し一匹狼になるのですから、徹底的に好きな事を仕事にしてやろうと甘い野望を描き、最も衝撃を受けたアーティスト吉田拓郎氏に特化しこだわったライブ居酒屋「居酒屋拓郎」を大歓楽街ススキノに開業することとなりました。1995年のことで全国で唯一無二の店です。
時々プロ歌手のバックでギターを弾いたりもしています。


2024年11月30日に鳥取県米子市で行われた『岡本おさみ音楽記念碑完成記念式典』が日本海テレビのニュースなどで放映されました。居酒屋拓郎マスターの、旅の宿🎵斉唱がチョロっと映ってます!吉田拓郎や南こうせつなど数々のアーティストに詞を提供し、多くのヒット曲を世に送り出した米子市出身の作詞家・岡本おさみさん。その功績をたたえる音楽記念碑の完成のお露目でした。


居酒屋拓郎マスター・小林祐嗣の『今日までそして明日から』 エフエムWithFM83.0MHzで毎週日曜日21時~22時 放送しています。


札幌にお越しの際は、『居酒屋拓郎』にぜひお立ち寄りください。
今では全国から吉田拓郎ファンか集まる、拓郎ファンの聖地と言われ店が独り歩きしており、今年30周年を迎えます。こんなマニアックな店が激戦区ススキノで30年も続いたのは奇跡だとススキノ観光協会関係者から言われています。余計なお世話です。
当店が今だに存続しているのは、大学時代の組織作りの経験、人間ネットワークの大切さを学んだ賜物と確信しています。
札幌にお越しの際は、ぜひお立ち寄り頂けたら幸いです。


(小林祐嗣さんプロフィール) | |
1982年3月 | 国際商科大学(現東京国際大学)商学部商学科卒業 第14期生 井上準之助ゼミ 軽音楽部Tiny Love一年間在籍 社交ダンス研究会創設期委員長 第13期文化連合会執行部総務局長 |
1982年4月 | 音響機器計測機器メーカー・ティアック株式会社(TEAC)に就職 業務用ビデオ機器の海外事業部に配属され、アジアマーケット担当 パソコン周辺機器の国内事業部へ |
1993年11月 | 国内事業部札幌営業所長 |
1995年12月 | 札幌ススキノでライブ居酒屋「居酒屋拓郎」を開業 |
064-0806 札幌市中央区南6条西3丁目-6-11
Tel: 011‐531‐6676 豊水すすきの駅から220m
Facebook:居酒屋拓郎
色んなイベントを開催していますので、札幌にお越しの際は、是非お立ち寄りください。 (Facebook:居酒屋拓郎)からコンタクトしてください。