1986年、教養学部国際学科卒業の山本康貴と申します。今回は、ご依頼を頂きまして、大学時代から今日に至る小生の歩みをご紹介したいと思います。
下羽ゼミ、原ゼミで学んだことは、仕事に対する取り組み姿勢や思考方法など、大いに役に立っています。
大学のゼミでは、1年:地域研究(中岡先生)、2年:国際関係(下羽先生)、3年・4年:国際関係(原先生)に所属しておりました。
下羽先生のもとでは、ホルスティ著「国際政治」を教材に、毎週1~2章分の内容を、ゼミ生が持ち回りでまとめ、授業の中で発表しておりました。発表の後、ゼミ生間でその内容について、議論するのですが、予習をしていないと、この議論についていけないのです。議論についていくためには、該当部分を読み込み、理解するだけではなく、引用先文献や、関連事項なども調べて臨む必要がありました。私の場合、毎週該当部分を3回から4回は、読み返さなければなりませんでした。その為、テキストとなった「国際政治」は、常に携帯していたため、先ず外箱が壊れ、次にビニールカバーが破れ、最後には、装丁が壊れてしまいました。
3年からの原先生のゼミでも、学習スタイルは、同じでした。但し、原先生のゼミでは、題材を固定せず、毎回先生のご指定になる教材について、その週の当番が、レジュメにまとめ、ゼミで発表していました。発表の後、内容についての議論を行うのも、下羽先生のゼミと同じでした。
原先生のゼミでは、授業とは別に大変貴重な体験をさせて頂きました。
原先生は、歴史上の当事者に直接インタビューし、歴史を再構築するという研究手法(オーラル・ヒストリー)を用い、日米安保条約改定の政治過程を研究されておられます。私は、幸せなことに、岸信介元首相や、藤山愛一郎元外相、その他上級官僚や、野党党首などのインタビューのテープを文字に起こす作業をさせて頂きました。正に歴史の当事者たちの発言に触れることが出来、気分が高揚したのを今でも覚えています。
下羽先生は、原先生のゼミ1期生だったので、下羽ゼミと原ゼミには、交流があり、夏には、合同合宿を行っていました。2年生の時に参加したこの夏合宿で、下羽ゼミを上回る原ゼミの厳しさに接し、大変驚いたのと同時に、3年からは、絶対に原ゼミに入ると、心に決めました。
下羽ゼミから原ゼミにかけて、学んだ国際政治は、直接今の仕事には繋がりませんが、仕事に対する取り組み姿勢や思考方法など、間接的には大いに役に立っていると思います。
卒業後は自動車部品メーカーに就職、初めてのアメリカ出張はハプニング続きでした。
1986年に大学を卒業した私は、現在勤務する自動車部品メーカーに就職いたしました。当時の当社は、技術者枠と、文系枠の他、海外枠での採用を行っておりました。技術者枠と、文系枠は、人事の担当者面接の後、一般常識試験と役員面接で選考が行われていましたが、海外枠の採用では、一般常識試験に代わり、英語の試験が行われていました。私は、自ら申し込んだわけではないのですが、人事の担当者面接の際、将来的には、海外関係の業務を担当したいと言っていたので、海外枠に回されたのかもしれません。
役員面接も、無事通過し、内定を頂くことが出来ました。
最初に配属されたのは、海外部海外課という部署でした。海外課では、当時3社(アメリカ、台湾、タイ)あった、海外関係会社に対する、本社側の窓口業務や、本社から供給する部材の受発注や、船積み手配を担当していました。その他、海外関係会社で、立ち上げる新製品の金型、治具、設備の開発管理も行っていました。私は、その中で、アメリカの子会社を担当でした。
当時を振り返って、印象に残っていることは、入社4年目に行った初めてのアメリカ出張です。この出張は、私にとって初めて尽くしの出張でした。初めての海外渡航であり、初めての航空機搭乗でした。初めて海外出張にもかかわらず、いくつものハプニングがありました。
先ずは、シカゴ・オヘア空港での乗り継ぎで、成田からの便が遅延し、国内線に乗り遅れてしました。初めての海外、初めての航空機搭乗で、乗り遅れで、私は真っ青になりました。このまま、進むことも帰ることも出来なくなってしまうのではないかと不安になりました。顔を真っ青にしながら、カウンターへ行き、国際線の遅延により、国内線に乗り遅れた旨を告げると、無事次の便を手配して頂けました。あの時の不安は、これまで感じた不安の中でも、最大のものでした。
2時間ほど遅れて、目的地であるコロンバス空港に到着することが出来ました。空港には、現地出向者が迎えに来てくれていて、無事合流することが出来ました。
コロンバスでの仕事は、つつがなく終わりました。次は、ミシガン州のバトル・クリークに、1986年に設立した現法に向かうことになっていました。しかし、都合の良い便が手配できず、07:30にデイトン(コロンバスから、クルマで1時間半ほどの距離)から飛び立つ便しか空きがありませんでした。朝コロンバスから、移動したのでは、乗り遅れる可能性が高いので、デイトン空港近くのホテルに、前泊することにしていました。
しかし、デイトンに移動する日、仕事が終わると、現地出向者数名が、競馬に行くということになり、私も同行することになりました。私は、競馬にあまり興味はなく、3レース程賭けて、飽きてしまいました。しかし、現地出向者は、当てた外したと大盛り上がりでした。
次の日が、早いので、私は早々に帰りたかったのですが、そのようなことを言い出せるような空気ではありませんでした。結局、お開きになったのは、夜の10時過ぎでした。
そこから、地図を頼りに(当時は、ナビなどありませんでした)、デイトン空港を目指しまた。私は、元来方向音痴なので、無事たどり着けるか、ここでも不安になりましたが、なんとか、その日のうちにホテルに到着することが出来ました。
ここで、大きな問題に気が付きました。07:30のフライトですから、06:00には、チェックインしたいと思っていました。しかし、そこで気が付いたのは、レンタカーのキーが、手元に残っていることでした。その時点で、既に日付が変わっていましたので、レンタカー屋も既に閉まっていると思われ、どうしたものかと思案に暮れてしまいました。取敢えず、ホテルのカウンターに電話をして、事情を伝えたところ、翌朝空港で返せば、問題ないとのことでした。
不安を抱えながらも、その日は眠りにつき、翌朝は、念のため、フライト2時間前の05:30に、空港に到着致しました。空港で、レンタカー屋のカウンターに直行したのですが、カウンターはまだ空いていませんでした。仕方がないので、カウンターの前のベンチで、待つことにしました。しかし、フライトの1時間半前になっても、1時間前になっても、カウンターは開きません。このままカンターが開かず、フライトに乗り遅れるのではないかと、不安は最大限に膨らみました。
フライト30分前になり、やっと一人の女性が、カウンターに入りました。私は、カウンターに駆け寄り、女性にフライトが迫っているので、直ぐに返却手続きをお願いしたい旨を、真っ青な顔で伝えたところ、女性は、指定の駐車場にクルマを停めたら、書類一式を駐車場のポストに投函すれば、後日クレジットカードで精算されるといい、何を焦っているのかわからないという顔でした。日本では、レンタカー返却に当たっては、傷などないか、入念な確認がありますが、かの地では、全くあっさりとしたものでした。あの死ぬほどの不安は、何だったのでしょう?
北米担当から国内カーメーカー担当を経て、2002年にタイへ赴任。
さて、私は、その後1995年までの9年間、北米担当を9年間続け、1995年4月には、国内カーメーカー担当の営業に異動することになりました。国内カーメーカー担当といっても、私の担当する機種は、海外生産の機種でしたので、引き続き、営業の立場で、海外と関わることとなりました。
この時期から、北米担当から、後に私自身が、赴任することになるタイ及び周辺国で生産される機種を担当することになりました。特に、当社のタイ現地関係会社にとって、非常に大きなプロジェクトの競合が、異動間もない時期に行われることになりました。この競合では、世界中の27社が、参加してコンペが行われました。
この競合をまとめるため、タイの現地関係会社に頻繁に出張することになりました。結果、無事当社が、そのプロジェクトを受注することが出来ました。受注をすると、受注した製品を開発する必要がありますので、その為、受注後も、頻繁にタイへ出張することになりました。そして、当該機種が、量産開始となる年の2002年4月に、タイに営業ジェネラル・マネージャーとして、赴任することになりました。
(2004年イタリア出張、自動車メーカー本社前にて)
タイ人の仕事の進め方には、戸惑いましたが、しっかりと相手の立場で、相手の言葉で、説明をすると、しっかりと理解してくれました。
タイでは、最初タイ語が話せませんでしたし、タイ人の考え方が分からず、右往左往していました。とにかく、タイ人とは、英語で会話を行い、意思疎通に努めました。しかし、納期当日に仕事が終わっていないにもかかわらず、平気で定時に退社するとか、判っていないのに質問してこないなど、タイ人の仕事の進め方には、戸惑いました。
この事態が変わってきたのは、私がタイ語を話すようになり、部下のひとりひとりと会話することが出来るようになった頃からです。仕事の納期についても、しっかりと相手の立場で、相手の言葉で、説明をすると、しっかりと理解してくれました。その後は、自ら徹夜までしてくれるようになりました。質問をしないことについても、こちらから歩み寄ることで、何を理解し、何を理解していないかを、判るようになりました。
私は、タイに9年間おりましたが、タイに赴任してくる日本人駐在員を見てきて、いくつかのタイプがあるように感じました。仕事を、全部抱え込んでしまう人、その中には、抱え込んだ仕事を自分でこなせる人と、こなせない人がいます。前者のケースでは、現地のマネージャー、スタッフは、育ちません。後者は、仕事に穴をあけるだけではなく、精神的に参ってしまうケースも見られました。
私が、目指したのは、現地のマネージャー、スタッフに、仕事の進め方を教え、やってもらうことでした。もちろん、やらせっ放しでは、トラブルが発生した際、対応が遅れてしまいます。そこで、常に会話を通して、仕事の進み具合を把握することに努めました。
手前味噌ですが、上記のような取り組みの結果、赴任当時主任クラスだった現地スタッフが、今では、ジェネラル・マネージャーを任させるまでになっています。
(2011年タイ駐在からの帰任時の送別会)
タイでの駐在生活(単身赴任)は、9年におよび、赴任時8歳だった息子も、帰任時には、17歳になっていました。また、タイへの赴任時に、東京の本社にあった、私の所属していた営業部が、2004年に、秦野の事業所に移動になった為、帰任先は本社ではなく秦野事業所となってしました。その結果、国内でも単身赴任を続けることになり、単身赴任生活は、2020年現在、18年に及んでいます。
アジアからイギリス、ドイツ、アメリカ等で、仕事をする機会が増えました。
2011年に帰国してからは、再び国内カーメーカーを担当することになりました。国内メーカーなのですが、前述と同じく、国内生産より海外生産の方が多い状況ですので、中国や、タイ、そしてインドなどへの出張が多くなりました。
その後、2015年からは、日系以外のカーメーカーへの拡販を担当することになり、イギリス、ドイツ、アメリカ等で、仕事をする機会が増えました。特に、イギリスと仕事をすることが多くなったのですが、当初ブリティッシュ・イングリッシュになじめず、苦労しました。私は、アメリカ英語で育ちましたので、イギリス人の発音と独特の言い回しには、当初ついていけませんでした。今でも、イギリス人との会話には、苦労はありますが、以前よりは、理解できるようになったような気がします。
これまでグローバルな仕事に携わることができ、これからも成長を続けていきたい。
定年まで、3年となり、サラリーマン生活の最終コーナーを回っている感じですが、サラリーマン生活を振り返ると、海外関係の仕事に携わりたいという希望は、叶えられたように思います。また、いくつかの大きなプロジェクトも成功させる事が出来ました。現状に甘んずることなく、これからも成長を続けられるよう、最終コーナーを全力で走りぬきたいと思います。
(山本康貴さんプロフィール)
(第二キャンパス一期生、国際商科大学最後の卒業生)
その後、北米担当、国内カーメーカー担当