“ オレゴンから愛”、異文化の架け橋に
島田 昌己さん(1981年度卒業 商学部 高橋宏チュートリアル、山岡ゼミ ESS /ウィラメット大学1980年度卒業)

( Willamette University-TIU教職員交換スナップ)
( Willamette University-TIU教職員交換スナップ)

島田昌己さんは、1981年3月に国際商科大学(現東京国際大学)を卒業。在学中にウイラメット大学(ウ大)での第1回春期ゼミナール参加され、3年次よりウ大に編入。ICCとウ大留学でダブルディグリーを取得され、人生が大きく変わったと感謝されています。
卒業後、Sonyに入社、26歳でオレゴン州への移住を決められ、日米交流の代理店業務や在ポートランド日本国総領事館に勤務。1993年からは現地法人東京国際大学アメリカにて ”ASP at Willamette University” で28年間、活躍されてこられました。パンデミック収束の先行きの見えない状況の中、今年の4月に退任されましたが、アメリカ社会に永住を決めて38年、日本人としてどんな貢献ができるかをこれからも考えていきたい、と述べられています。

入学した頃の大学のイメージは、他の伝統校に比べて革新的、躍動的で少数精鋭。
外国人学生と楽しそうに語る大学生のポスターに「米国オレゴン州ウイラメット大学姉妹校」のコピー、案内には好きなドルフィンが。「国際」という文字がまだ新鮮だった頃、ICC(国際商科大学)は他の伝統校に比べて革新的、躍動的で少数精鋭、新しい形の大学として「Vision, Courage, Inteligence」を掲げ、英知と機動力が養える大学のイメージでした。
 
入学しやすく、学長をはじめ教授陣や職員の方々との距離が近く、あの時代の英語の達人3者の二人(國弘正雄先生、浅野輔先生)が教鞭を取られていて、留充実した留学プログラムと海外からの留学生との交流が盛ん。自ずから求めて努力すれば、刺激的な出会いや人生を変えるような経験を提供してくれる「打てば響く」大学と感じていました。
ICCが将来の選択肢を広げるきっかけとなり、幸せな人生設計に繋がる「出会い」や「機会」を提供してくれたことに感謝しています。姉妹校のウイラメット大学と同じく、人生にポジティブな変化をもたらしてくれた大学でした。

ICC(国際商科大学/現東京国際大学)とウイラメット大学留学でダブルディグリー取得によって、人生が大きく変わったと感謝しています。
TIUの英語教育と留学制度を利用できてTIUとウ大にて素晴らしい教授、先輩、学友、そして後輩達に出会えたこと、大学の提供する留学経験が自己発見と価値観の確立につながり、進む道の選択肢に自信が持てたこと、幸せに繋がる人生設計ができたこと、価値観を共有できる素敵なパートナーに巡り会えて温かい家族を持てることに繋がったこと、幸せな人生を送ってこれたことなどですね。
将来を模索していた自分はICCに入学したことで、西海岸の隠れた名門、姉妹校ウイラメット大学(ウ大)に留学することができ、ダブルディグリー取得により進路の選択肢が海外にも広がり、人生が大きく変わった卒業生のひとりであることを感謝しています。

子供のころから海外へのあこがれがあり、外国留学できるようにとICCへ入学。
新潟県長岡市生まれ。隣の見附市で恵まれた生活環境の中で育ち、小学校から高校までは野球、柔道、水泳、サッカー、剣道、少林寺拳法と体を動かすことに熱中した。外国映画や洋楽が好きで自分の求めているものが外国にあるのではないかと感じていた。
そして入りやすく、外国に近づけるような雰囲気のある大学であるICCに入学希望。入学前は少林寺拳法部に入り自己確立と大学の英語学習に専念しようと思ったが都内での学生寮生活で実感した実用英語力の無さと留学制度を利用して海外生活体験をしてみたいと思い、ESSに入部。何とか短期留学まで漕ぎ着けました。


ICC時代の第1回ウイラメット大学春期ゼミナールウ大新聞の集合写真

ウイラメット大学(ウ大)での第1回春期ゼミナール参加から、3年次よりウ大に編入。
ウイラメット大学(ウ大)での第1回春期ゼミナール参加での強烈なインパクトが米国大学学位習得への新たな夢を創り、あの7週間での経験と出会いが長期留学への特訓の原動力となる。恩師と仰ぐ先輩や先生方のお陰で英語力と留学資金の二つの壁を何とかクリアーし3年次よりウ大に編入することができました。 現実は厳しく、現地では学位取得の勉強量に圧倒され、逃げることもできず、それまで経験したことがなかった苦しみを味わった。絶望感、疲労感の中で自分の弱さを見つけ、強さを悟り、覚悟を決めた後にやっと腹が座る。その後徐々に学業や留学生活が充実して行きました。
オレゴンとハワイ大学夏期授業参加時に出会った人々の暮らしを見て、家族との時間を大切にし、自然環境を敬うバランスの取れたライフスタイルに魅了された。自分の存在意義や生きる意味、そして幸せとは何かを模索し始めました。


ウ大少林寺拳法クラブ

ウ大 Beta会クリスマスパーティ

ウ大授業(学生国連)記事


ウ大卒業式

卒業後はSony日本へ入社。
留学終了後、恩師の勧めと太極の流れには逆らわずに就職戦線に臨んだ。就職活動は思ったよりスムーズに進み、数社から内定をいただくが、尊敬する先生や先輩のアドバイスもあり、SONYに就職。 プロフィール、ベータ方式ビデオ、ウオークマン、コンパクトディスクプレーヤー等の絶盛期。躍動的な職場で同僚、上司に恵まれて仕事も刺激的だったが、10年20年先の企業人の姿も見え、激務の中で変わっていく自分にも気付き、オレゴンで知り合った妻と4年目に方向転換に踏み切りました。

入社前ソニーサンディエゴ工場見学、本社内海外事業本部にて

26歳でオレゴン州への移住を決める。
将来の子育て環境はやはりオレゴンやハワイがいいと考え、自己中心的ではあったが自分達の幸せな姿が一番の親孝行になるのではと日本の家族を納得し、長男なるも26歳でオレゴン州に移住を決めて渡米しました。
ポートランド市に落ち着いて日本とオレゴンの架け橋となれるような仕事で日本の家族や友人達とも行き来ができ易い仕事、そして家族との時間も取れそうな仕事を探しました。
先ずは旅行業を中心とする日系2世企業にての日米交流の代理店業務を経験。フジテレビ「オレゴンから愛」などの現地ロケコーディネーションなども行いました。 その後ポートランド日本国総領事館にて領事事務や邦人援護に4年間従事し、地元官権との連携やオレゴン日米協会などのイベントにも協力してきました。


「オレゴンから愛」ロケ隊集合写真(古谷一行さん)

総領事公邸でのイベントで首席領事と

現地法人東京国際大学アメリカにて “ASP at Willamette University” で28年間、勤務してきました。
そして恩師や先輩からの誘いを受けて、現地法人東京国際大学アメリカにてもう一つの母校であるウイラメット大学におけるTIU生のための1年留学プログラム”ASP at Willamette University”に28年間スタッフとして従事することができました。

オレゴン到着後のオリエンテーション、ASP課外活動優秀者の表彰式、
TIUでのASP説明会とウ大交換職員と修了生との集合写真
日米間の間に立って、そして自分の人生に多大なる影響を与えてくれた姉妹校間の交流に微力なりとも貢献できる職場環境で、家族との時間を大切にしながらバランスの取れた幸せな生活をここまで送れた背景には、日米の家族、日米の友人達や恩師の方々のあたたかいサポートがあったからだと心から感謝しています。

WU-TIU交流や教職員交換スナップ

アメリカ社会に永住を決めて38年、日本人としてどんな貢献ができるかをこれからも考えていきたい。
パンデミックの影響で4月にTIUAが一時閉鎖され、予定していたより数年早い引退となってしまいましたが、滞っていたコミュニティへの貢献もできると思い、現在はポートランド日本庭園にてGarden MonitorとHorticulture Supportのボランティアをしています。

2020年は世界中がCOVID-19パンデミック状態に陥り、オレゴン州ポートランド市郊外では広域森林火災と煙害、そして警察官のアフリカ系アメリカ人への殺傷事件や司法制度の差別的扱いを引き金とした有色人種人権擁護デモの ”Black Lives Matter”が今も続いています。自宅待機や街のロックダウン状況が続き経済活動も停滞。連邦や州政府に対するコロナ対策に不満が募り、我慢できない人達が感染拡大を助長しています。現政権がそれまでのアメリカの雰囲気や対外的なイメージを随分変えてしまいました。それにこのパンデミック状況が拍車を掛けて多くの人々の心が病んでいるように見受けられます。

若い時から日本の伝統芸術や文化、そして庭園に興味はありましたが、外地にいて改めて日本の庭園美の素晴らしさを認識しました。そして日本庭園の芸術性が落ち着きや病んだ人々の心に安らぎと憩いの場を提供していることを嬉しく思い、日本の美を紹介するお手伝いと思って現在は週4回庭園に通っています。庭師のお手伝いを通して草木や土に触れることに喜びを感じ、放置されていた自宅の庭の手入れや松や紅葉の枝振りも良くなったことで家族や近所にも喜ばれています。
*現在ボランティアをしているポートランド日本庭園リンク
 https://japanesegarden.org/

アメリカ社会に永住を決めて38年、今までの経験をベースに受けてきた数々の恩恵に感謝し、お返しのつもりで日本人としてどんな貢献ができるかをこれからも考えていきたい。そしてパンデミックが落ち着くまでは難しいが、まだ健康で元気なうちに家族との時間をもっと大切にして、会いたい人に会いに行き、行きたい所へ行くことも大切だと思っています。来年秋には40周年記念となるので妻の念願であったニュージーランドへの旅行を計画中です。

後輩の皆さんへのメッセージ:
この世に生を受けたからには一人一人に何らかの役割、違った生き方があるように思います。人生は思い返せばあっという間の出来事。若いうちに機会を作って外に出て、冷たい風に吹かれるのも悪くない。人生はやったもの勝ち、失敗してもやらずにあとで後悔するよりは、そこに学びや後の糧になることが沢山ある。自分はICCに入学して素晴らしい出会いがあり、留学を通して新たな出会いや苦難挫折を経験できたからこそそれらが自己発見や自己確立のきっかけに繋がった一人です。

皆さんの夢や目的はそれぞれあると思うが、僕にとってはICCが与えてくれたあの留学と出会いが人生の発射台だった。そこから自分の存在意義、そして生き方の選択肢に巡り会え、好きなことをやりながら、愛する家族、友人、環境に囲まれ、それなりの生活を送ることができたことは幸運です。そして「自分なりの幸せ」を感じてここまで来られたのは、日米の家族、友人達が陰日向でこのライフスタイルをサポート、応援し続けてくれたお陰。これからも幸福感を分かち合うことができれば嬉しいと思います。 全ては自分の姿勢と気の持ち方次第。皆さんも自分なりの幸せを掴み取ってそのスナップショットを周りにシェアしては如何でしょうか。自分が幸せと感じれば家族や周りも幸せにできる「フォース」をきっと発することができるのではと。

国際化などは無縁の新潟の田舎から出て来て人生の2/3を海外で無事に過ごすことができました。オレゴン島田家は、妻と息子二人+長男のフィアンセ+愛犬という現在はフルハウスメンバーで、このポートランドで幸せ多いバランスの取れたファミリーライフを過ごさせてもらっています。

“There are no regrets, only good times…”(my favorite song by the Beamer Brothers)

近影と家族写真


Part2 「自分の生き方」関連ストーリー (興味と時間のある方へ):
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「ICC生時代は?」
入学直前に、以前は「楯の会」メンバーもいたという独特な塾風を持つ都内の学生寮「和敬塾」に入塾。そこで他大学の学生と積極的に交流しながら塾では初の米国人留学生との同室を希望して実用英語を体験。全く歯が立たず、それまでの英語学習方法では使い物にならないと痛感した。

英語能力向上を目的にESSに入部するも他者より遥かに劣る英語力のため、毎朝通学電車でESS仲間とNHKラジオ「基礎英会話」のダイアローグの暗記と掛け合い練習を続けて短期留学を目指した。1年生後期に第1回ウイラメット大学(ウ大)春季ゼミナールの選抜試験を受けるがようやく補欠で合格。落胆の所、1名辞退者が出たため繰り上げ合格を高橋先生から知らされ、自分にも機会が回ってきたとた勇んで出発した。

「ウイラメット大学との出会い」
1977年2月、高橋宏先生、学生課の小林宣二さん等の引率で男子学生32名で羽田空港から飛び立った。初めての海外、SFO経由でオレゴン州ポートランドへ。迎えに来たウ大生が何を言っているのか分からななったが取り敢えず送迎バスに乗り込みいざウ大へ。コンパクトなポートランド市街地を経て広々とした牧草地を州都セーラム市へ向かった。日本とは雰囲気が違う建物や民家は新鮮だったが静かな田舎町という印象に少々ガッカリ感もあった。

ウ大キャンパスに到着。世話係のウ大生の元気がいい。わけが分からないまま入寮。キャンパスツアーで緑の多い広いキャンパスに点在する煉瓦造りの建物や寮群、そして真ん中に小川が流れていてまるで公園のようだった。堂々とした風格と長い歴史を感じさせ、時差ぼけもあったであろうが、まさに夢の中にいるような日々が始まった。

ネイティブと無理なく対話をする高橋先生や後日到着して教授陣や学生と楽しそうに議論する浅野輔先生、教職員や現地学生とのコミュニケーションがうまい小林さん、そしてラウンジで流暢な英語で議論する長期留学中だった羽鳥成一郎先輩などに魅了された。先輩やウ大生を見て、こんな環境で長期間思いっきり勉強出来たらと真剣に考え始めたのである。

「留学準備、二つの壁」
初の海外経験、7週間のウ大ゼミナールはあっという間に終わり、空港に向かうバスの中で友情を築き上げたウ大生との別れに何人も男泣きした。夢のような7週間の思い出と別れの辛さを原動力にして仲間と「またここに戻ろう」と誓い合った。帰国後、有志数人で長期留学勉強会を始めたが自分の留学準備には時間が足りなく、どうしたらいいか模索していた。

そこでウ大学位取得を間近に控えた羽鳥先輩に手紙で帰国後の同居を申し込み、ハウスメイトとして生活を全て英語にして留学のへの具体的準備や指導をお願いした。羽鳥先輩は快く受けてくださり、朝の9時から夜中まで、FEN(米軍極東放送)ニュースの聞き取り、Time, News Weekの課題を読んで要約、意見をまとめ、夜はディスカッションと、留学に向けての実用的な準備が始まった。

更に羽鳥さんは有志を集めて”Valcan”と名付けた勉強会を立ち上げてアドバイザーに浅野輔先生も度々ご参加いただいた。時事問題の英語でのディスカッションの後はあの浅野先生が夕食を御馳走してくださったり、狭い学生アパートで夜中まで熱く語り合い、時には浅野先生も我々と雑魚寝して翌朝大学に向かわれるようなこともあった。ICC生としては一番充実していた時期だった。

先輩や先生のサポートと猛勉強の甲斐あって、数ヶ月後のTOEFLは入学基準にほぼ達した。だが次なる壁は留学資金だった。ICCの長期留学奨学金は1名だったこともあり、願書を出した後思い余って旅費を借り、ウ大奨学金オフィスに自己談判に行こうと決心して渡米した。無謀だったがあの時は留学する自分しか見えなかった。ウ大では春ゼミでお世話になったBuzz Yocom先生のサポートで、成績Bを維持する条件でウ大から奨学金をいただける段取りが奇跡的についた。これでやっと夢が叶うと入学許可と奨学金給付の手紙が届いた時は有頂天だった。

「留学開始 – “Gatkey Hell”」
浅野先生と羽鳥さんの影響でウ大では政治学を専攻しようと決め、意気込んで長期留学に出発した。しかし現実は厳しかった。一つも落とせない政治学専攻必修科目の授業に最初は全くついていけなかった。ノートも取れずディスカッションにも参加できず、予習は各科目20−30ページが4科目、徹夜しても準備が間に合わない。ショックだった。

今まで経験したことのなかった絶望感と疲労感に苛まれ、図書館が閉まった後はルームメイトに迷惑を掛けたくなかったため寮の地下室で勉強を続けた。朝方、読み終わらない課題のページに涙がぽろぽろと落ちた。それまでのやり方では実質的に無理だった。しかし後には引けず、教室、図書館、寮地下室だけの行き来と数時間の睡眠という苦しい日々が続いた。授業のあるGatky Hallに入るのが怖くて建物の名前が ”Gatkey Hell” に見えた。

最初のクイズ試験は殆ど無睡で準備し挑戦したが、結果はC-。奨学金停止と不名誉の帰国の恐怖が蘇った。答案を返された後、担当のCari Shay教授から「周りを見てごらん、あなたより成績が悪い生徒もいるのよ」と言われ、やっとあの時光が見えた。これ以上のことはできないという限界状況におかれ、やっと腹が座った。できる範囲の最善を尽くし、そして敗れても後に悔いを残さず、と覚悟を決めた。

その後徐々に効率や要領も分かり、小論文課題等を添削しくれる賢い学友、Greg N.にも恵まれて合格点を取れるようになって行った。Gregは卒業してLaw Schoolに進学し、ハワイで法律事務所や銀行などで活躍し、今はゆったり引退生活を送っている。8割掴めれば何とかなると開き直ったことで余裕ができ、高校時代やっていた少林寺拳法を留学仲間や現地学生と練習したり、学内のパーティで気分転換を測ってパランスが取れるようになって行った。


ウ大Christmas Party

「ハワイでの夏」
いつもポジティブなハワイ出身の学生、Mike M.から「勉強ばかりだと人生を無駄にするぞ〜!」と彼の家に遊びに行くことを誘われ、夏休みは名目上ハワイ大学で夏季講座を取りに行った。ホノルル空港に降り立つと、生暖かい甘い香りに何か肩の荷がスーと降りて楽になった感覚を今も覚えている。授業後は市バスでビーチに行き、暖かい波間にぷかぷか浮いていた。あんなにゆったりとできた時間はそれまでなかった。
波にゆっくり揉まれボーとしていると「俺って何んだ?…」、「何でここにいる?…」、「幸せって何?」など、自分は本当は何をしたいのかを考え始めた。まるで映画のシーンのような出来事もあり、日本とアメリカが溶け合ったハワイの雰囲気とメローさ、そこで出会った人々の暖かさやライフスタイルに強い愛着を感じ、後ろ髪を引かれながらオレゴンに戻った。

真面目過ぎた自分にMikeがハワイマジックを掛けてくれたお陰で、心が少しゆったりとしてウ大最終学年を迎えられた。MikeはICCに一学期留学し、ウ大卒業後は国際教育に従事しながら世界を駆け巡り、日米の修士号を取得して大学教員をしたり「青年の船」(Ship for World Youth)の講師などをしながら若者に留学の利点を推奨し続けてている。

「シニア イヤー」
キャンパスに戻ると、周りからはMasakiは少し雰囲気が変わったと言われた。自分でも今まで感じなかった自己意識、自信、そして余裕などを感じていた。勉学もキャンパスライフも充実し、バランスが取れた生活の中で、元CIA教授が教えるウ大生でも難関なアメリカ対外政策でB、国際機構クラスではAも取ることができた。試練や大きな壁もあったが、奨学金の条件を何とか満たして卒業まで漕ぎ着けたのである。今振り返っても、よく生き残れたと思う。苦しくも充実したこの留学経験が自己形成に役立ち、自分の価値観やバックボーンを形成し、自信に繋がったのだと思う。これも一重に恩師、友人達、そして家族の暖かなサポートのお陰である。


ウ大卒業式

卒論を書き上げた時はもう勉強は当分懲り懲りというのが正直な気持ちだった。早く就職して親にはもう負担をかけないようお金を稼ぎたいと思った。卒業前にアドバイザーのTed Shay教授からオフィスで愛用していたSONYのラジオを指差して「ここはいいものを作っているぞ。」と言われ、SONYに興味を持ち始めて帰国した。

「さて就職は?」
幸いウ大卒のICC先輩でSONYに就職した板垣 高さんがいらしたので帰国後自宅にお邪魔して話を聞くことができた。会社の予備知識がないまま赴いたので「会社の本でも読んで出直せ」と発破を食らったことが就職戦線の気構えや準備に役立ったことを感謝している。

あの頃は会社訪問は10月1日が解禁の協定があったが有名大学はパイプを持っていてそれ以前の内定「青田買い」が常であった。ICC(TIU)は新しい大学でその対象ではなかったため10月1日に川越駅から始電に乗って北品川の本社前に並んだ。五人のグループ面接のあと適性検査やSONY英検、一般常識や物理の問題もあった。そして最後は英和での面接。アポロ月面着陸時の同時通訳者、西山千さんも英語での面接をしていた。

採用期間中、既に内定をもらっていた有名校学生がいて他社に行かないように社内に留められていた。内定後、その地下組と合流した時に「最後の3名」と言われ、選考がいかに厳しく、入れたのが幸運であったことに驚いた。志願者は二千名いたとう。他に外資系銀行や外為会社からも内定通知をいただいていたので尊敬する国弘正雄先生に相談した所、もしもの転職時にどちらが役立つかとアドバイスを受け、後で國弘先生の洞察力に驚いた。

「勤め先1: ”It’s a SONY”」
創業25年を迎えたSONY本社海外事業(海事)本部にて4年間国際ビジネスの初歩を経験。大崎工場で米国向けTV生産ラインで革新的アイディアと品質重視のメーカーとしてのもの作り現場で研修の後、海事管理課にて海外販社社長報告や通産省税控除申請などを担当し、2年目から欧州1課(英独仏マーケット)に配属となった。

SONYドイツ担当として現地販社とのコミュニケーション、受注コーディネトを行った。海外販社の代表を東京に集めての国際カンファレンスでは当時のカリズマ経営者の盛田昭夫会長とお話をする機会にも恵まれて刺激的でダイナミックな仕事場だった。


ソニー本社海外事業本部内写真

しかし残業は常で身体的負担も多く、胃カメラを呑んだ後に初めて”Welcome to Sony”と先輩に言われた。海外駐在中や帰国された先輩や上司のお話を聴いて10年後20年後の自分を想像した。ある日遅い帰宅電車の窓になりたくない自分が写っているのに気づき、留学当時オレゴンやハワイで垣間見た仕事と私生活のバランスを保ちながら自然環境を楽しむライフスタイルへと心が移っていった。

ウ大で知り合った妻とバランスの取れた生活環境で将来子供を育てたいと話し合い、若気の至もあったのであろう、SONY UKへ赴任の話もあった中、米国への移住を決めて退社した。選り抜かれた個性ある素晴らしい同僚達、育てていただいた魅力的な先輩達、そして部署の上司が心の篭った送り出しパーティを開いてくれことは今でも感謝している。81年度入社の同期とは40年経った今でも交流が続いている。

「転職1:”From Oregon with Love”」
オレゴン州ポートランド市では日本とオレゴンの架け橋となれるような仕事を探し、旅行業を中核とする日系企業にて代理店業務を4年経験。国際部門のオペレーションマネージャーとしてフジテレビ「オレゴンから愛」などの現地ロケのコーディネートを担当した。ロケ中に俳優の古谷一行さんとお忍びで寿司屋に行ったり、妹の結婚式で帰国の折、一行さんや木の実ナナさんからご祝儀を頂いて、お返しに郷里の「越の寒梅」の一升瓶を2本持ち帰ったことが懐かしい。「ズームイン朝」のロケで本州ほどの面積のあるオレゴン州を撮影隊を連れて走り回った思い出や、レストラン番組のロケの合間に布施明さんと国際結婚についてホテルの部屋で語り合ったこともあった。


伊藤蘭さん

布施明さん

1985年にポートランドで開催された日米市長/商工会会頭会議での通訳、日本とオレゴン州の姉妹都市/姉妹校提携サポート、日本人小中高生対象のホームステイプログラムなども多数切り回してかなり忙しい4年間だったが、オレゴンの良さを確認でき知人が増えたことが次の仕事に繋がった。

「転職2:国際公務員」
仕事を通して懇意にしていただいたポートランド総領事館の領事から現地職員のお誘いを受け、お役所の仕事も面白い経験と思い、領事補佐として4年間領事事務を担当させていただいた。各種届出、パスポート発券やビザの発給などの他、現地官憲との連絡や連携、邦人援護や省庁VIPへの便宜供与などを経験することができ、更にオレゴン内で各界の知人や人脈ができたのは幸いであった。


オレゴン日米協会イベントサポート

「天職:古巣に戻る?」
領事館勤務4年目に留学時代にお世話になった姉妹校ウイラメット大学のヨーカム学長特別補佐から呼ばれ、当時TIUアメリカ Deanの川嶋先生、TIUA事務局長鳥原さんと共に母校ウイラメット大学での1年留学プログラムに現地スタッフとして加わらないかと勧誘を受けた。プログラムの改善、後輩の育成、そして姉妹校両校の交換プログラムの充実など、卒業生として両母校に貢献して欲しいと説得された。

補佐をしていた領事からは、領事館が安定した職であることや本省採用の道もあるなどと引き留められたが、当時の留学プログラムの実態を視察させていただいた後、制度やウイラメット大学との協力体制にまだ発展の余地があることに気付き興味が湧いた。

「TIUAでの自分のミッションは?」
初期のASP留学生活全般がTIUAに集中して日本の大学のアメリカ校の色合いが強かったことに懸念し、参加学生にはもっとウイラメット大学の居住型教育の全面、特にキャンパスライフに溶け込んでもらうことにより充実度を高めて、米国の大学での留学として満喫してもらいたいと考えた。自分が経験したような人生を変えるきっかけになるようなインパクト高い留学経験をもっと提供できる要素がまだいくつもあった。現状を少しづつ崩して、それらを徐々に組み込むことが自分のミッションと考え、1993年からTIUA現地法人スタッフとして働くことを決めたのである。

要となる教務経験を4年摘んだ後、1997年からは学生生活部門部も兼任して学生達がウ大キャンパスにある15の学生寮に分散して住めるように、そして可能な限り現地学生と同室になれるようにウ大側に働きかけた。留学生活全般の統括部長としてウ大ーTIU姉妹校交流委員会のメンバーに加わり、プログラムの維持と充実、学生や教職員の人的交流の更なる発展に関わることができたことは卒業生として嬉しい限りである。

更に、TIU生の一年留学への語学力、心構え、そして情報理解に不十分さを感じたため、一つの方策として、出発前のオリエンテーションをかなり充実させる必要があった。それにより保護者や学生のASP留学に対する不安や誤解を事前に軽減し、到着時のTIU生のソフトランディングを可能にして受け入れ側のウ大の業務負担もできるだけ少なくすることがこのプログラムを継続維持するに重要と考えた。

「ウ大/TIUAにおけるASP留学プログラムとは?」
この1年留学ASPはウ大とのTIU(ICC)創立時からの姉妹校としての信頼関係の上に時間を掛けて徐々に改善を重ねて構築された唯一無二のプログラムである。受け入れ側のウ大は創立1842年の歴史と定評のあるリベラルアーツ系私立大学で運営維持費はかなり高くつくが留学プログラムが提供できる教育・生活環境はどのレベルの学生が来ても満足できる素晴らしいものであると自負している。

この留学プログラムは対象が主にTIU生2年生で3学期制11ヶ月の語学とリベラルアーツ科目学習プログラム。ASPでのウ大認定単位は全てTIUに置換できる為、4年でTIU卒業ができる。3学期制で春は12週間、分散して入寮し、徹底した少人数能力/技術別アカデミック英語学習を中心に学内スポーツ、各種文化サークルやダンスパーティ、ハワイ祭(Luau)などの学内イベントに参加。10日間学期間休暇を経て夏学期はインテンシブな6週間。テーマ別語学科目に加えてウ大教員によるレベル別リベラルアーツ選択科目を受講する猛勉強期間となる。その後7週間の夏季休暇があり、全米各地で旅行や語学学校やホームスティプログラムなどに参加しそれまでに培った語学力や知識、現地情報などを活用しての自由行動期間となる。そして8月中旬にキャンパスに戻り各寮に入寮。下旬からウ大秋学期(新学年季)と同時に開始し、ウ大新入生の先輩として新入生の入寮をサポートやウ大正規リベラルアーツ科目の履修、学生会、クラブ活動などサッカー、テニス、水泳など大学代表スポーツチームへの参加も可能で正規メンバーとして他州での遠征試合にも参加したりと、現地生と肩を並べて学習や生活する機会に恵まれるプログラムである。

「さらなる挑戦」
上記の様に、単なる語学留学では出来ないユニークな利点が多いにも関わらず、TIU内や参加希望者から正確な理解を得ることがなかなか難しいという現実があった。それを解決すべく、メリットや現実を事前に正確に理解して申し込めるように、現実的で包括的なASP説明会をタイミング良く数回キャンパスで行うことを国際交流課の賛同と協力のもと実施することが必要だった。一般的な語学プログラムと異なるASPの現実を明確に提示し、認識のギャップや疑問を事前に取り除き、TIU生としての特権であるこのASPへの参加不参加を後で後悔のないように納得して決断してもらえるように努めた。説明者の人選や内容、フォーマットに気を配り修了在学生や社会で活躍する卒業生のプレゼンを含めるなどしてより効果的な説明会を2000年から実施することが可能となった。

TIUでのASP説明会とウ大交換職員と修了生との集合写真

更に日本の大学のアメリカ校への留学というイメージを拭い去り、ASPはアメリカの大学への留学であることを強調し、TIUの方針や制度、そして両大学在学生学への利益を理解できる教職員を開拓し維持していくことは姉妹校関係の着実な向上と質の高い交換プログラムの継続維持を可能にする為には不可欠なものと考え、教職員交換プログラムの一環としてASP説明会やウ大/ASP修了生の同窓会参加、そして川越や東京ツアー等も組み込むことにより、TIU、ASPそして日本の伝統文化への愛着と支持者を増やし、ウ大幹部の世代交代等による交流の価値や意義への浮き沈みを克服できるように考えた。


WU-TIU教職員交換スナップ

ASP開始から既に30年を超え、現在のプログラムは初期のプログラムに比べてTIU生がウ大の教育環境やキャンパス生活のメインストリーム(主流)にどっぷり浸り、学位取得の本格留学でなければなかなか味わえないような現地学生に限りなく近い各種の活動機会に恵まれたイマージョン状態に至っている。

紆余曲折を乗り越えて現在のイマージョン状態に至るには10年かかった。毎年TIUAスタッフと信頼のおけるウ大の協力者との創意工夫と努力により内容は更に充実してきている。そして2010年からはウ大学生会への代表選出や学内クラブへの参加、そしてASP修了生がウ大alumniとしての認識も受け、2017年からは1年留学でありながらウ大代表スポーツチームのレギュラー選手としての活動も可能となった。

参加費の毎年の上昇にも関わらず、毎年100名程度の参加学生を維持し、既に3千名を超えるTIUの後輩達がウ大キャンパスでの1年留学を経験している。修了生は海外でも活躍しており、「あの1年間が自分の人生の転換期」や「ランチバッド(発射台)や、起爆剤」となったと伝えてくれていることは大変嬉しいことである。

2020年COVID-19パンデミックの影響で2月に到着したばかりのASPが僅か2ヶ月で中断、第32期生が無念の全員帰国となってしまった。パンデミック収束の先行きの見えない状況の中、TIUA業務も一時中止となり教職員が解雇となった。米国に住んで38年、そのうちTIUAスタッフとしてウ大での1年留学プログラム運営に28年間従事できたことをここに感謝したい。

TIUの後輩達に米国留学での刺激的な経験や魅力的な出会いだけでなく、自分の潜在能力や弱みが発見できたり、自分の将来の生き方を見いだすきっかけとなるインパクトの高いプログラムをウ大スタッフと共に長年提供できたこと、そしてウ大とTIUとの姉妹校関係の充実にも何らかの貢献ができたことに充実感と喜びを感じている。今は早期のコロナの収束を願うと共に、後輩達の未来への踏み台(ランチパッド)となり得るASP留学プログラムの早期再開を心から祈っている。

(島田 昌己さんプロフィール)

学歴:
  • 1976年4月〜1981年3月 国際商科大学(現東京国際大学)、埼玉県川越市 国際貿易専攻
  • 1977年2月〜1980年5月 ウイラメット大学、オレゴン州セーラム市政治学、国際関係・国際機構専攻
  • 1995年8月〜1996年5月 アトキンソン経営学大学院、オレゴン州セーラム市 組織論、人的資源管理、経営管理統合科目修了
教鞭経験:
  • 「日本語初級」ポートランド・コミュニティ大学、ポートランド市(1991年)
  • 「ビジネス日本語とエチケット」ビーバートン市庁舎、ビーバートン市(1992年)
  • 「オレゴン映画から英語を学ぼう」文部科学省・現代GPプロジェクト、川越市(2006年、東京国際大学(2007年)
生涯学習経験:
  • 「マネージメント・デベロップメント・プログラム」、国際教育者協会全米学会2日間コース、ワシントン州シアトル市
  • 「異文化間コミュニケーション基礎」、国際教育者協会2地域学会2日間コース、ハワイ州ホノルル市
  • 「異文化間カウンセリング」、異文化間コミュニケーション協会20時間コース
主な所属団体、会員:
  • Japan America Society of Oregon (オレゴン州日米協会)
  • NAFSA (国際教育者協会)
  • Portland Japanese Garden Society (ポートランド日本庭園協会)
  • Surfing in Oregon (オレゴン・サーフィンクラブ)
職歴:
  • ソニー株式会社、東京都(1981年4月〜1984年8月)
    • 海外事業本部・管理課・ロイヤルティ/技術指導料管理業務、海外販社社長報告作成班(1981年4月〜1982年3月)
    • 海外事業本部・欧州1課・西独マーケット担当 (1982年4月〜1984年8月) Azumano Agency、オレゴン州ポートランド市(1985年1月〜1988年12月)
    • 国際部オペレーション・マネージャー 在ポートランド日本国総領事館、オレゴン州ポートランド市(1989年1月〜1992年12月)
  • 領事事務部、領事補佐 TIU America、オレゴン州セーラム市(1993年1月〜2020年4月)
  • 教務関連部門副部長(1993年1月〜1994年12月)
  • 大学登記官・教務部長(1995年1月〜1996年12月)
  • キャンパス・ライフ部門・教務関連部門統括部長(1997年1月〜2018年8月)
  • 学生関連部門統括部長・TIUA リーダーシップ執行チーム(2018年9月〜2020年4月)

 

TIU 霞会シンガポール支部