「大学、教授先生方、そして同窓会に感謝を込めて!」
大川和男さん (1978年商学部卒 泉暹ゼミ 少林寺拳法部)

大川和男さんは1978年に東京国際大学商学部を卒業。現在は税理士法人大川会計の代表税理士として活躍されています。学生時代に恩師泉暹教授との出会いがきっかけで職業会計人を目指されましたが、勉強と少林寺拳法部クラブの両立はかなり厳しかったと語られています。また同窓会霞会にも積極的に参加され、常任幹事、副会長なども歴任されました。これまでお世話になった大学、恩師の教授先生方をはじめ、同窓生の皆さんにはいつも感謝の気持ちを持たれて活動されています。

霞会(東京国際大学同窓会)シンガポール支部の皆様、初めまして、またはお久しぶりです! 私は、10期生(1978年卒、商学部商学科、泉ゼミ、少林寺拳法部)の大川和男でございます。 福岡県北九州市小倉北区の出身です。仕事は、「税理士法人 大川会計(東京池袋・北九州戸畑オフィス)」の代表税理士をしております。この度、霞会シンガポール支部より、会報「TIU Sparks」への寄稿依頼を承りました。

私自身は、あまりグローバルでもなく、拙い文章でもあり、特に「教養学部(1976年設置。1995年に、「国際関係学部」と「人間社会学部」に改組転換)」で、第2キャンパス(1982年開設。以下、「2キャン」)に通学されていた方は、よくわからないかもしれませんが、「懐かしいな」、「そんな事があったのか」などのご感想をお持ちいただけたなら、とても幸甚でございます。

入学当時は商学部商学科だけの大学でした
私が入学した当時(1974年、昭和49年。オイルショックの年。)は、まだ「国際商科大学(ICC =International College of Commerce and economics)」という名称の4年制単科大学で、「商学部商学科」しかありませんでした。また、キャンパスも、現在の第1キャンパス(以下、「1キャン」)のみでした。米国ウィラメット大学との姉妹校関係は、すでに締結(1969年)されておりました。

元々は、高田馬場の「一橋予備校」を運営しておられた金子泰蔵先生が、「これからは、4年制大学だ。」との思いで、一橋大学(旧東京商科大学)出身の有志らと共に創学(1965年)されたと聞いたことがあります。「わが大学は、一橋大学と兄弟校である」との言葉の所以です。

学生を集めるために、一流名門大学を目指していた「一橋予備校」の生徒達に、「うちの大学に来ないか?」と、金子泰蔵先生ご自身が声をかけられたとも聞いております。そのせいか、私の印象として、1期生から初期生の先輩方は優秀な方々が多いように感じます。
入学当初、校舎は少なく、2~3階建ての小さな建物が多かったです。中庭や運動場などもあり、「なんだかスペースが広いな」と感じました。

学生生活スタート時はワクワクと。でも勉強とクラブ両立の大学生活は厳しいものでした
私の下宿は、畑の中にポツンとある「学生の家」でした。下宿はアパートではなく、平屋が3棟建っており、1棟に4~5名の学生達が住んでいました。大家のおばさんに大学の事をお聞きしたら、「お坊ちゃん、お嬢ちゃんが多くて、おっとりとした大学ですよ」との事でした。
正門を入ると、広場に噴水があり、さらに真っすぐ行くと、古い建物「カレッジセンター(通称、カレセン)」があり、そこが唯一の学食でした。「この大学で、どのような学生生活が始まるのか?」とワクワクしておりました。

恩師、故泉暹(いずみ・すすむ)教授と出会い、職業会計人を目指す
入学当初、多くの授業科目(必修科目や選択科目)の中から、進学するための最低単位以上の科目を選ぶ必要がありました。下宿の先輩方に、いろいろ相談に乗っていただきました。

「僕は高校時代、グラフィックデザイナーを目指していましたが、父に説得され、家業の税理士事務所を継ぐことに決心しました。」と話すと、先輩が「それなら、絶対に泉教授の授業を選択したほうが良いよ。泉ゼミから、何人も税理士、公認会計士を輩出してるんだよ。厳しい先生だけど、大学の事をすごく愛している先生だよ」と、教えてくださいました。私は迷わず、泉先生の「簿記論」を選択しました。

「簿記論」の初めての授業。「やけに恰幅の良い先生だな」との印象を持ちました。そして授業が始まりましたが、「売掛金」「買掛金」やら、普通高校出身で、まだ一度も簿記の勉強をした事がなかった私は、最初から最後まで、チンプンカンプンでした。最初から、内容的に商業高校出身者レベルの授業でした。

「これはまずい!」と思った私は、授業後、教授室に戻るため廊下を歩く泉教授を追いかけ、「先生、僕は父の跡を継ぐため、職業会計人(税理士、公認会計士)を目指していますが、先生の授業がさっぱりわかりませんでした。どうすればいいんでしょうか?」と尋ねました。
泉教授は、「はははは!」と笑いながら、「君ね、本屋さんに行ったら、簿記検定試験用の『明解簿記』『簿記検定』という本が、3級から1級まで売っているから、それを買って、まず3級から自分で勉強しなさい」との事でした。

私は、その日の授業がすべて終わると、その足で本屋さんに直行しました。この日から、私の簿記の勉強がスタートしました。とにかく毎日勉強を続けていると、だんだん理解できるようになってきました。前期試験と後期試験では、泉教授の「簿記論」については、いずれも100点満点でした。そして1年生の秋に、「簿記検定試験3級(日本商工会議所主催)」を受験したところ、合格いたしました。2年生となった私は、引き続き、泉教授の「簿記原理」を受講しました。「簿記原理」についても、前期・後期試験とも100点満点でした。また、「簿記検定試験2級」にも合格することができました。本当に、泉教授のおかげと、感謝いたしました。

ある日、「簿記原理」の授業を、一番前の席で聞いていると(泉教授の授業だけは、いつも一番前の席に座りました。)、突然、マイク片手に「大川君という学生がいる」と言い出しました。私は、「急に私の名前を出して、何を言い出すんだろう」と聞いていました。
「普通高校出身でありながら、商業高校出身の学生達を追い越したすごい学生がいる。それが、大川君だ」と話されたのです。それを聞いていた私は、嬉しいやら、恥ずかしいやら。

3年生になると、ゼミの選択が必修科目(単位)となりました。掲示板に、泉ゼミの「募集条件」が張り出されておりました。内容はほとんど忘れましたが、一つだけ覚えているのは、一番最初に、「酒が飲めること」と書かれていたことです。 選考に落ちた学生も居たようですが、私は何とか泉ゼミに入ることができました。卒業まで、最も厳しい泉ゼミに居られた事は、私の大きな優越感となりました。ゼミ合宿にも、必ず参加いたしました。なぜなら、ゼミ合宿不参加の時点で落第、留年が決定するからです。結局、1年生から4年生まで、泉教授の前期・後期試験は、すべて100点満点でした。

4年生の12月のある日、自宅アパート(引越し後)のポストに、「東京国税局」と書かれた茶封筒が入っていました。「学生で、税金払う必要ないのに何だろう?」と、大学に向かう路上で見ました。なんと、入っていたのは、「税理士試験・簿記論」(国家試験)の「合格通知」(1/5科目め)した。僕は、歩く道の上で「やった!」と、本当に飛び上がって喜びました。

少し、泉教授の事について書かせていただきます。泉教授(簿記会計)は、米山教授(簿記会計)加藤教授(商法)と並んで、「一橋大学の三羽烏」と称されていました。3人は、一橋大学時代の同級生でありました。泉教授は酒豪で、学生達の間で、「霞ヶ関駅周辺の飲食店で、行ったことのない店はない。」と噂されていました。

現在、1キャンの正門を入ると、左側に留学生の母国である「万国旗ポール」がありますが、これは泉教授のご提案によります。
また、正門の入り口には、「枝垂桜」が植えられており、入学・卒業時の記念撮影場所となっていますが、これも泉教授が寄贈されたものです。

泉教授の言葉で、心に残っているのは、

  • 「これからは、どこの大学に行ったかではない。大学で、何を、どれ位学んだかが重要だ。」
  • 「僕の授業は、一橋大学と同じレベルだ。僕のゼミを卒業した者は、一橋大学を卒業したのと同 じだ。」 
  • 「学んだ事を、図示できなければ、本当に理解したことにならない。」など。

    私が卒業直前に、正門前の小料理屋でばったり泉教授にお会いした時、僕の背中をポンポンとたたきながら「大川君、よく頑張ったな。体育会のクラブに所属しながら、国家試験に1科目でも合格したのは、創学以来、大川君が初めてだ」と言ってくださいました。

    少林寺拳法部に入部
    私が入学当初、キャンパス内は、各クラブの新入部員勧誘が盛んでした。 私が下宿していた「学生の家」の自室に居ると、突然、ノックの音がして、同じ下宿の先輩が2人入ってきました。少林寺拳法部の2年生の先輩たちでした。 「俺たち、少林寺拳法部なんだけど」「あ、そうですか。僕は高校時代、空手の道場に通っていました。1級で茶帯です。空手部に入って、黒帯を取りたいんです」1人の先輩が「少林寺の技を教えてやるよ」と、私の手首をひねりました。これが、私と少林寺拳法の出会いでした。

    入部してみると、実際はまだ「愛好会」で、部員も新入生を除いて、10人程度の小さなクラブでした。道場など無く、練習は毎日、中庭の芝生の上でした。冬は、裸足で、霜柱をサクサクと踏みながらの練習でした。私たち新入生が10人ほど入部し、ようやくクラブらしくなりました。
    近所の居酒屋で、「新入部員歓迎コンパ」が行われ、新入生は全員、先輩方からしこたま飲まされました。現在では考えられない事です。
    今や「秋霞祭」などでも、キャンパス内での飲酒は、完全に禁止です。1~2年生は、ほとんどがまだ未成年だからです。

    私が2年生になった時、全員、初段(黒帯)になりました。キャンパス内に体育館が出来、「少林寺拳法部」道場(2F)も造っていただきました。少林寺拳法部では、休みの日に、急きょ招集をかけられる事もあり、「勉強との両立は、思ったより厳しい」ものでした。

    税理士試験制度について
    少し、税理士試験制度について、概要を説明しておきます。税理士試験科目は5科目に合格する必要があり、会計科目である「簿記論」と「財務諸表論」が必修科目、「法人税法」か「所得税法」が選択修科目で、残りの2科目を、任意科目として「相続税法」、「消費税法」や、地方税の「固定資産税」、「住民税」、「酒税」などから選択することになります。
    科目合格制で、1科目でも合格すれば、その科目は生涯有効となります。各科目60点以上で合格、合格率は各科目10%~20%で、最終資格取得者は受験者の5%程度と言われています。

    私の頃は、「法人税法」「所得税法」「相続税法」を「(主要)国税3法」と呼び、勉強のボリュームも大きいものでした。実務的には、「所得税より法人税の方が報酬が高い。相続税を知らなければ、儲からない。」。

    また、「税理士試験」には「試験免除制度」があります。

    ①経済学系の大学院(2年)を卒業することにより、会計2科目免除、法律系の大学院(2年)を卒業することにより税法3科目も免除されます。すなわち、2つの大学院を合わせて4年間卒業(修士又は博士学位を取得)すれば、税理士資格を取得できます。これを「ダブルマスター組」と呼んでいましたが、現在では、「シングルマスター」のみが条件となっています。

    ➁10年又は15年以上の国税従事者(税務署など)は、税法科目が免除されます。さらに、23年又は28年以上勤務し、指定研修を修了した者は、会計科目が免除されます。
    すなわち、定年退職まで、税務署などに勤務した者は退職後、「税理士会」に登録するだけで、税理士になれます。「税務署OB組」などと呼びます。

    私の場合は、必修の会計2科目と、「法人税法」、「相続税法」、「消費税法」の3科目に合格した「試験合格組」となります。

    税理士受験から税理士事務所開業まで
    大学卒業後、なかなか「税理士試験」に合格できませんでした。大学4年生時に、「簿記論」を受かっただけで、あと4科目(必須科目、選択必須科目他)に合格する必要がありました。
    そこで、東京高田馬場にある「税経学院(出版社)」が運営している「税経寮」に入って、受験勉強に専念する事にしました。すでに婚約していた家内とは、「遠距離恋愛」になってしまいましたが、「(財務諸表論に合格するまで)待ちます」と言ってくれました。私は、一大決心をしました。

    「税経寮」には、北海道から沖縄まで、全国から税理士を目指している人達が集まっていました。入寮してからは、食べてる時と、寝ている時以外は、すべて勉強のために費やしました。
    皆、専門学校にも通っていました。睡眠時間も、3~4時間でした。
    上京してから、試験日までの半年の間に、「受験ノイローゼ者」が6人出ました。彼らは、それぞれの実家に帰って行きました。僕は、「少林寺拳法部のおかげで、いつのまにか精神力が鍛えられていたんだな」と実感しました。

    8月初旬の税理士試験の2か月前ぐらいになると、毎月の「月例テスト(計算問題)」では、100点満点を取れるようになり、クラスで1番になりました。税理士試験後も、念のため受講を続け、12月の合格発表まで、100点満点の1番を続けました。苦手だった必須科目「財務諸表論」に、ようやく合格しました。(2/5科目め)

    婚約している事もあり、翌年、会計事務所に就職し、「税経寮」を退室しました。現在、「東京スカイツリー」が建っている地下鉄「押上駅」で安いアパート(2K)を見つけ、家内を北九州から呼び出し、新婚生活が始まりました。
    受験生である僕の状況を理解している家内は、勉強の手伝いもしてくれました。私が就職した会計事務所は、日本のバブルの影響で、あっという間に拡大していきました。(現在では、日本一のスケールを誇る会計事務所になりました。)その会計事務所に勤務している間に、「相続税法」に合格しました。(3/5科目め)

    しかしながら、仕事がどんどん忙しくなっていき、専門学校にも通えなくなってしまいました。 「父の事務所を継ぐ(資格取得)」事が第一命題であった私は、その会計事務所に4年半ほど勤務した後、縁あって、千代田区神田練塀町(秋葉原駅近く)にある一般企業(青果物等卸売及び貿易業)に転職しました。 その会社では、経理部長となり、日々の通常の「経理・入力業務」だけでなく、「銀行折衝」、「貿易実務」、「販売管理・会計システム構築」、「税務署対応」などにも従事しました。
    「決算・申告業務」なども私がすべて行いましたので、税理士を頼まず、申告書などには、「税理士署名押印」は無しのままでした。 その会社に勤務している間に、「法人税法」(4/5科目め)と「消費税法」(5/5科目め)に合格し、同じビル内の別室で開業することになりました。



    その会社と、取引のあったグループ会社4社、合わせて5社が、最初の顧問先になりました。
    これはとてもラッキーな事で、税理士事務所を開業しただけで、関与先が増えるわけではありません。開業して、最初に行ったのは、事務所の「基本理念づくり」です。「何故、開業したのか?他の会計事務所に勤務税理士として勤める、一般企業に勤める。実家に帰り、父親とともに働く。」いくつか選択肢はありました。 一つには、すでに顧問先ができたために、実家には帰れない。(跡を継ぐ事ができない。) 実務経験も、会計事務所、一般企業ともあるので、開業してもやっていけるはずだ。当時の社長は、「東京で食えない奴が、地方で食えるわけがない。」という信条をお持ちでした。

    いろんな企業の「社是社訓」「経営理念」「モットー」などを、勉強しました。結局、米国DHL社の経営理念に近いものになりました。関与先様も、少しずつではありますが、増えていきました。

    霞会の同窓会活動に参加
    私が同窓会活動に参加するようになりましたのは、税理士事務所を開業してからでした。その当時の同窓会組織は、まだしっかりしたものとは言えないものでした。
    現在のような「一般社団法人」という制度はなく、法律的にはPTAなどと同じく、「人格のない社団等」という組織でした。日本全国の学校の同窓会は、すべてこの「人格のない社団等」でした。

    当時の同窓会組織は、「幹事会」「常任幹事会」「総会」の3つでした。当時の会長は故三宅ヨシロウ先輩(1期生、野球部創部)、事務局長は池内和彦先輩(1期生、躰道部創部)でした。同窓会に参加するようになってから、いろんな先輩、後輩方とも知り合い、「幹事」に任命されました。そして、同窓会の会計監査を担当させていただきました。決算が近づくと、池内事務局長が資料を持って、私の事務所に来られました。

    当時は、同窓会本会だけでなく、少しの地方支部会(当初は任意で、補助金なし。)、藍旗会(体育会系OB会の集合組織)、オーナーズクラブ(経営者、企業の中枢関係者の、勉強会・交流会。その後、自然消滅。)がありました。

    同窓会に参加しているうちに、「常任幹事」に任命されました。役員会議・交流会の後、帰りの電車の中、三宅会長が「大川、今からうちに来て、泊まれ。」奥様、お嬢様をご紹介くださり、同窓会の話ではなく、「今度、東京マラソンに参加するのよ」とか、そんな話ばかりで、ご出身である土佐の鰹節を削って、ご馳走してくださいました。
    池内事務局長とも、個人的に親しくなり、「新国劇」に誘われてすっかりハマり、何度も一緒に観 劇いたしました。役者さん達とも親しくなり、なかなかできない経験をさせていただきました。

    同窓会の組織も、徐々に変わり、「幹事会」「会長」「副会長」「総会」になりました。そして、会長も、三宅先輩から東村真先輩(3期生、アメリカンフットボール部創部)に替わりました。
    実は、東村先輩とは、同窓会で知り合い、以前から個人的にもお付き合いさせていただいておりました。ご自分の所属するダーツチームに誘われ、私もメンバーになりました。週に一度は、一緒に飲むことになり、よく「大川、今日うちに泊まれ。」と何度もお世話になりました。

    東村先輩が「会長」に就任された時、東村先輩のご指名により、私も「副会長」の一人になりました。「会議は踊る」とは、よく言ったもので、「会長・副会長会議」でもなかなかコンセンサスが取れず、長時間にわたる事もままありました。

    東村先輩が「会長」を辞任する決意をされた時、私は東村先輩のご自宅におりました。「えっ、次の会長はどうされるのですか?」、「君野君に頼もうと思う」現会長である君野信太郎先輩(4期生、躰道部)の事です。 その時に、私も「副会長」を辞任する決意をしました。(君野先輩とも親しくさせていただいておりましたが、指名してくださった東村先輩が辞任されるのに、私だけ残るわけにはいかないと)

    税理士法人大川会計について
    現在の、私の「税理士法人大川会計」について、少し書きます。事務所としては、「主たる事務所」である「東京オフィス(豊島区池袋)」と、「従たる事務所」である「北九州オフィス(北九州市戸畑区)」の二つです。


    税理士法人大川会計北九州オフィス

     

    東京&北九州オフィス合同顔合わせ(両親を囲んで)

                       

    個人事務所を「法人化」したのは、父の生前中に、二人で「税理士会」に相談に行き、「税理士法人にした方がよい。」と勧められたからでした。これにより、自分の東京事務所と高齢化した父の北九州事務所の両方の仕事を、堂々と出来るようになりました。(税理士法上、「税理士は、事務所を一つしか持ってはいけない」事になっています)

    「東京オフィス」では、7、8年前から行政書士の紹介により、「中国人経営者」の関与先様が増え始めました。いわゆる「投資系ビザ」というもので、日本で500万円以上の投資をすればビザが取れるのです。その投資には、自分で資本金500万円以上の会社を設立することも含まれます。 また、そのビザを毎年更新するのに、いくつかの条件があり、そのうちのいくつかの書類は、税理士事務所が作成するものです。ビザ更新のためのご指導もしています。

    日本国内における中国人達のネットワークというのは凄いものがあり、次から次に紹介が始まりました。 また、これらの経営者たちは、本国の金持ちの子供達が多く、日本のビルを、「安いよ~!」とポンと1棟買いしたりするので、驚かされます。最近では、日本に会社を持つ香港の経営者や、韓国人の経営者までご紹介されました。 大変、有り難いことではありますが、業務の品質を落とすわけにはいきません。そのへんが、会計事務所経営の難しい部分であります。「スタッフを増やそうか、どうしようか?」

    最後になりますが、同窓生の皆様方のご活躍を応援しておりますとともに、更なる発展されますことを、心より祈念いたしております。 我が母校「TIU」の創学当時からの精神(理念とは別)である、「V (Vision=大志)、I (Intelligence=知性)、C (Courage=勇気)」を心に刻んで、頑張りましょう!

    (大川和男さんプロフィール)

    福岡県北九州市小倉北区出身
    1978年3月 国際商科大学(現東京国際大学)商学部商学科卒業 泉暹ゼミ 少林寺拳法部。
    卒業後、公認会計士・税理士事務所にて会計実務、税務業務、相続対策、会社設立、企業買収、企業評価および営業譲渡等の実務経験を積む。
    その後、一般企業に経理部長として勤務。経理システム構築、事務合理化対策、資金の調達・運用および貿易実務等に携わる。
    TKC全国会会員、認定経営革新等支援機関、商工会など主催セミナー講師なども行う。 1991年4月、大川和男税理士事務所を創業。
    2014年5月、税理士法人大川会計を設立、代表社員として現在に至る。

    【東京オフィス】
     〒171-0021 東京都豊島区西池袋2-36-1 
     ソフトタウン池袋203号
     TEL:03-3984-2275 FAX:03-3984-2274
    【北九州オフィス】
     〒804-0073 福岡県北九州市戸畑区明治町10-2
     TEL:093-884-0311 FAX:093-884-0315

    (税理士法人大川会計ホームページ)
    https://www.okawa-kaikei.jp/

     

    TIU 霞会シンガポール支部