アメリカと日本の架け橋の橋桁の一部になる!
和田 昇さん(1983年商学部卒業 小峯ゼミ ESS)

ICC入学後は、ESSクラブで英語を鍛える。
「THの音にSの音が混ざっている。もう一度やり直し!」 ICC(国際商科大学)宮内猛先生の声が響き渡る。日頃から思いやりの気持ちを実行すれば、山手線にわざわざ優先座席を設ける必要はない。「Silver Seat Go Away」の題名で英語弁論大会に向けて猛特訓。でも正しい英語の発音ができない自分が歯がゆかった。

「アメリカと日本の架け橋の橋げたの一部になる」との思いで1978年4月兵庫県立芦屋高等学校からICC商学部商学科に入学。ESSクラブに入り英語を鍛えた。相手を論破するディベートやグループでディスカッションを行う仲間に支えられ、大勢の人に自分の思いを英語で伝えるスピーチに専念。当時は各大学間で英語弁論大会が盛んでスポンサーも多く賞品も魅力的。しかし、なかなか勝てない。2位、3位にはなるが、無冠の帝王と言われ優勝するまでかなりの時間を要した。すべての観衆へのアイコンタクト、訴えたい箇所の抑揚など英語力はもちろん、あらゆる事を題材にしたプレゼン能力を身につけた。


1978/4/8 ICC入学式に父と


ESSクラブの仲間(2列目中央が筆者)

派遣留学生に抜擢され、ウイラメット大とICCを卒業

1980年7月財団法人日本国際教育協会の学生国際交流制度の派遣留学生に選抜され、オレゴン州のウ大(Willamette University)に入学。 二つの大学単位を置換しながら1982年にウ大(BA)を1983年にICCを卒業。ウ大ではレ ーガン大統領の供給サイドの自由主義経済政策(レーガノミクス)を勉強するが、頼る日本人もおらず、教授の話が完全にわかるまで3ヶ月(最初はトピックスぼんやり、2ヶ月で話す単語が飛び飛びわかり、3ヶ月ですべての単語が見えた)、アメリカの政治 と経済を勉強して試験に合格、2年目の奨学金も得た。

毎日みっちり勉強ばかりではなく、毎週火曜の夜はワイルドなFraternity(男子学生組織)で騒いだり、同じ女子スカラー(奨学生)とJapanese Party(左)を企画したり、夏休みにバイトしてオンボロアメ車を買って友達とアメリカ中を旅したり、オンオフはっきりした毎日だった。英語が早いテンポで上達したのは女子友達に必死に思いを伝える必要があったから?ではないか。

卒業後は松下電器貿易に入社。北米部勤務  
1983年4月に心斎橋の松下電器貿易(MET)に入社。最初の3年間は北米部でアメリカ向け輸出、当時は各社員にパソコンもなく、テレックスやファックスで交信、国際電話も申請しないとできない時代。ナショナルの電子レンジを抱えてアメリカ全地域キャラバンで売り回り初めてお客さんのニーズを肌で感じその後の商品開発に役立てたこと覚えている。この頃実業団で英語弁論大会が盛んで、METの大会で1984年初優勝、実業団大会への出場切符を手にした。

1986年日本の貿易赤字解消のために、率先して松下電器(METと1988年に合併)が海外からの輸入を増やすことになり、東京浜松町の新設輸入開発部門に異動。食品の輸入開発を担当。英国から王室御用達のスコッチウイスキーを輸入販売、イタリアからカゴメにトマト缶詰、ミネラルウォーター、スパゲッティーを、ライオン向けにペットフードを輸入。その他、チョコレート原料や米菓用の材料などあらゆる新規輸入に挑戦。毎年ナポリで行うトマト缶詰1000缶味見チェック(殺菌確認)は過酷な出張、イタリアの協業パスタメーカー探しのため3週間イタリアを北から南のシチリアまで、毎日食べて(試食)飲んで(イタリアではワインは水)回っていたら、いい加減早く帰ってこいと上司から電話。みんな楽しい思い出。松下電器で商社営業を実践。 極めて珍しく内容が面白いので松下電器社内雑誌でも記事に取り上げられた。




浜松町貿易センタービル32階で。汗だく残業マンでロッキーと呼ばれていた。


ナポリ郊外のトマト缶詰工場で味チェック。

オーストラリアのペットフード会社と提携(2列目右から2番目筆者)
3回目のチャレンジで全国実業団英語弁論大会で優勝

新規輸入ビジネスが忙しくても、架け橋になるための自己実現は忘れない。2度全国実業団英語弁論大会に出場するが、あと一歩優勝に届かず。しかし、ICC時代同様、あきらめない思いを持ち続け、ようやく3回目の1989年12月の大会で優勝、翌年の5月当時の松下電器の谷井社長から社長賞。「Silence does not speak」のタイトルでウ大で経験したアメリカ体験をベースに、黙っていては相手に自分の思いは伝わらない。沈黙は金なりの日本文化もグローバルでは誤解を生む場合がある。ウ大で好きだった女性友達に本心を打ち明けられず、彼女が去ってしまった苦い経験も交え、グローバルで日本を代表して堂々とコミュニケーションすることの重要性を説いた。優勝副賞は架け橋になりたいと思っていたアメリカへの旅行券、新婚の嫁は大喜びだった。



 

本部企画からドイツ・ハンブルグに赴任
その後、2000年春に輸入開発の仕事から、スマホやパソコンに使われている微少部品などを高速で基板に実装するFactory Automation部門に異動。当時の複雑な営業ルート、社内分社統合を行う本部企画を任された。この取り組みの成功で希望していた海外販売会社の責任者としてドイツ・ハンブルグに赴任。


(ハンブルグ中心地のアルスター湖)


(ハンブルグ本社メンバーと。筆者中央下))

夏は白夜で夜の11時まで明るいものの、冬は午後3時に暗くなり雪も降る。当時、週末は店が開いておらず、食品スーパーも土曜の昼には閉まる。土曜疲れて寝坊したら買い物もできない。それでも美味しいビール、ソーセージ、シュパーゲル(白アスパラ)、シュニッツェル(ウィーンカツレツ)とクリスマスマーケットのグリューワイン(スパイスの入ったホットワイン)を堪能。海外勤務は責任と権限が大。北は北欧ロシアから、南のトルコ、チュニジア、モロッコまでEU27カ国含めて56カ国を相手に異文化、異民族、多言語に触れ、ダイナミックなグローバルビジネスの面白さを経験。また、地域スポーツ交流を通じ、バレーボールクラブやマラソン大会に出場(下写真右から3番目筆者)ローカルとの親睦を深めた。


ドイツで7年間勤務後、国内の工場勤務。海外顧客歓迎パーティで英語、中国語のMCなど担当 
ドイツで7年間勤務後、2007年に佐賀県鳥栖の工場に帰任、その後、山梨の甲府工場、そして現在の大阪豊中工場で2019年定年を迎えた。現在再雇用で来年まで現役を継続中。2016年から3年間連続で毎年1,000人を超える海外顧客歓迎パーティで英語、中国語のMCを担当できたのもICC時代からのスピーチに専念したお陰かもしれない。


アメリカとの架け橋の架橋の一部になれたかどうかは、もう少し時を経て検証したい。
コロナ過で仕事のやり方は変わったものの、どんな仕事でも精一杯全力で取り組み、悔いの無い社会生活を送る。特に営業はグローバルな人付き合いが大切。お客様と一期一会で出会いを大切に、信頼を勝ち得る。スピーディ対応と約束厳守は欠かせない。自分を磨き、鍛え、たくさんの良き同僚と楽しく働くことが大切だと思う。自分がアメリカとの架け橋の橋桁の一部になれたかどうかはもう少し時を経て検証したい。




【和田昇さんプロフィール】
1978年3月 兵庫県立芦屋高等学校卒業
1978年4月 ICC国際商科大学(現東京国際大学)入学(小峯ゼミ/ESS)
1980年9月 ウイラメット大学 (Willamette University) 入学
1982年5月 ウイラメット大学(BA)卒業
1983年3月 ICC卒業
1983年4月 松下電器貿易入社 北米本部
1986年10月 同社 輸入開発本部
1988年4月 松下電器産業と合併
2000年4月 インダストリー本部FA部門
2002年9月 ドイツハンブルグ赴任
2009年3月 佐賀県鳥栖
2009年8月 山梨県甲府
2015年4月 大阪府豊中
2019年6月 定年、再雇用 (パナソニックコネクト)

 

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