1983年国際商科大学(現東京国際大学)商学部卒業 藤原ゼミ ゴルフ部に所属しておりました。長谷川 毅(はせがわつよし)と申します。学生時代は両親の恩恵を受け何の不自由もなく育てて頂きましたが、卒業後には思いがけない試練が待っていました。その試練は今でも思い出したくないとても辛い思い出です。
でもその試練を乗り越えたおかげで自分自身も強くなり、人を見る目も出来ました。
現在63歳となりましたが、今では家族と孫達に恵まれ幸せに暮らしています。感謝感謝です!
東京都駒込の順天堂大学病院にて昭和35年7月29日生まれました。幼稚園から鎌倉市に家族で移住し、小学校6年生から茅ヶ崎市に移住。地元は神奈川県の鎌倉・茅ヶ崎・辻堂・藤沢といった湘南地区になります。建設会社を経営する父と医者の娘で元宝塚であった母との間に生まれて両親の恩恵を受け、幼少期時代は本当に大事に育てて貰いました。
ところが父の会社が大きくなるにつれ、両親が少しずつ不仲になり始めます。家族が東京に移る事となり、私だけが高校1年生(15歳)より鎌倉にて一人暮らしを始める事となるわけです。父親からは高校3年間で色々な経験(遊びや女性や良い事も悪い事も)をしろと言われ、そんな事を言われた15歳の少年が一人で暮らし始めれば良いも悪いも結果はお分かりの通り、どうしようもない生活が始まるわけです。
高校1年・2年その2年間はほとんど学校に行かなくなり、私の部屋は当時居場所のない先輩や後輩、同期男女の集まり場所となっていくわけです。どうしようもない乱れ切った生活の中では、本当に言葉に出来ないとんでもない経験がたくさんありました。自由が故に何でも出来てしまう止まらない暴走の中では、楽しい事や辛い事寂しい事色々な経験をさせて頂きました。
趣味はゴルフ(大好きです)・ピアノ・ギター・作詞作曲(最近は時間の余裕がなく全く楽器から離れています)。17歳の時に作った「「別離」もう」という曲はなかなかの自信作です。YouTubeでは長谷川毅「かあさんへ」とか、長谷川毅「眠れぬ思い
とか、長谷川毅「純~愛する者たちへ」を探索して頂くと私の下手な歌がYouTubeから聞こえてきます。15歳から19歳当時は30曲以上の持ち歌が有り、17歳の時のライブでは藤沢市のヤマハホールを立見席が出るほど満杯にした事もありました。
もう一つは、今の不動産と言う仕事です。(不動産に関すること全般・・土地を見たり住宅を見たり、又街を見る事が大好きです)
(私が18歳 初めてのショット)
体が先に行ってますね(^^;)
(チャリティーゴルフコンペで石川遼選手と)
(はなわチャンネルにご一緒しました)
(孫達も一緒に出演させて頂きました)
(彼が経営する稽古場のお弁当を弊社で一緒に!)
(宮里優作プロと家内)
(アントニオ古賀先生にはいつもお世話になっています。びっくりしたのは東京国際大学で客員教授をされていました)
1回目の転機 大学に入れる機会をくれた恩人 荒れ果てた私を救ってくれた方
大手会社の社長になられた方でした。その方がとにかくうちに来なさいと当時目に涙を浮かべながら私に言ってくれた言葉があります。「我慢」と言う言葉です。
ヤンチャだった高校2年生の私に1年間、学生なんだから必死で勉強しなさい。君にとっても将来それは絶対に無駄にはならないからと言葉をかけてくれた方がいます。そして、その方と一つの約束をするのです!今考えると大した内容ではないのですが、他人の大人の方に真剣な目で自分の事に関して言われたのが初めてでしたので、何か私もグッと来てしまいました。その約束とは「喧嘩をするな!我慢しろ!
約束通り膝下までの学ランそして58cmの太いズボン(ドカン)をやめ、普通の学ランで通学した何日目かの高校2年の7月、運が悪いのか良かったのかいつも対抗していた学生達と大船駅で遭遇し、15人に囲まれてぐしゃぐしゃにされました。
「我慢・我慢・我慢を三回」仕返しをしようとする仲間達にももういいからとその方との恩義を17歳の少年は感じ、男同士の約束を守ったわけです。直ぐにその方のご自宅に居候させて頂く事になり、家庭教師の先生も付けて頂きました。540人中500番位だった成績も今でも忘れませんが何と100位以内の98番になり何と4つの大学に合格することになります。以後その方とは私が結婚をするまで年に2度ほどお会いさせて頂き、そのご恩は自分なりにちゃんとお返しさせて頂きました。
私が入学する事になったその大学こそ「国際商科大学(現在)東京国際大学」になるのです。埼玉県の川越市という場所が私にとっては第2の故郷として懐かしい場所になりました。そこでも昔お世話になった先輩と偶然にお会いしてその先輩のお誘いで私はなんとゴルフ部に入部してしまいます。体育会のコンパでは、ここでは書けない他クラブとの騒動があり大変なことになってしまいましたが、その時自分自身が初めて連帯責任というものを感じ真に勉強になりました。
1981年米国ウィラメット大学に短期留学(オレゴン州セーラム)は、44年前の初めて見るアメリカの文化に圧倒されました。特にあのディズニーランドのパレードには、本当にびっくりしたのを覚えています・・ その2か月間はとても良い経験になりました。
(大学のキャンパスでなぜか白いスーツの18歳・・素晴らしい環境でした!)
(日本からの留学生達と記念写真)
(最初のホストファミリーがお出迎え)
(2件目のホストファミリー、奥様は大学教授)
入学当時下宿先を探していると、父がゴルフの帰りに川越でマンションを買って来たぞ~・・そんな父でした。そんなわけで4年後売却するからそれまでここに住めと新築のマンションに学生の身分で過ごし始めます。70㎡近くの学生には贅沢すぎるマンションでした。そんな学生生活を始めて束の間、父親がおまえは女難の層があるから新宿でクラブをやってみないかと私の学生生活の事など全く考えないで、今度は目黒にマンションを買ったからそこに住んで通えば良いと勝手過ぎる話です。もちろん部活は行かなくなるわけです(^-^; 新宿のクラブは当時私の知っている有名店では不夜城、Lee等で、華やか極まりない時代でした。弊店にも多くの財界人、高級官僚、政治家、芸能人、角界のトップの方達が集まる場所でありました。
その景色を19歳から21歳まで2年半の間見る事になるわけです。当時マクドナルドの時給がまだ460円の時代に女性のアルバイト料を1500円~2000円で募集をかけましたら百人以上の問い合わせが有り、その面接を19歳の少年がやるわけですから本当に無茶苦茶でした。23人その中から採用し夜の世界を何も知らない19歳の少年が水商売に入っていきます。15卓のお店は1テーブルで4万円から5万円程度で当時毎日満席状態!一日最低でも約70万円、良いボトルが入れば100万円程度の売り上げがありました。月に約2000万円位の売り上げで経費が80%位として当時のお金で毎月300万円から400万円のお金が19歳の少年に入ってくる様になると、またまた高校生時代のあの荒んだ生活の様にだんだんおかしくなっていきます。大学に行かなくなってしまいます(^^;)
当時では珍しいリースの仕事もし始めました。女性陣の中ではお子様がいる方もいらっしゃったので夜ではなく昼間の仕事として綺麗なお姉様3人にチームを組ませ、ブランド品のスーツを着させ、士業の先生をターゲットに絵のリース業を始めます。「先生~この絵2か月無料で飾らせて頂いていいでしょ♡気に入られたら3か月目からリースをお願い~♡」と絵を置いてくれれば100%契約になったのも同然です。2か月後に伺い絵を外せば・・そうです、当時は皆様タバコを吸っていたので後がクロスに残ってしまうんです。
当時50万円位の絵を最初20枚を20万円で購入し、それを月1万5千円から2万円でリースをかけて行くと約1年でその絵は無料になります。彼女たちは頑張り、1年間で色々な絵を100か所以上の士業の先生方の事務所に飾る事になります。年3回は違う絵と交換をしに行き、それが営業のフォローになる訳です。12か月目からは100枚としても毎月150万円~200万円のお金が入る仕組みです。
本当に20歳の少年が普通ならば絶対に行けないお店をそのお金を持って色々伺わせて頂きました。銀座では徳大寺、アナトリア、クラブ純等又赤坂ではあの山本社長がやられていたニューラテンクォーター(ここは父のお迎えに来た程度ですが)、このお店は15周年記念の時にはトムジョーンズを何と2時間のステージで10億ドル日本円にして3400万円(一夜のギャランティでは過去最高とギネスブックにも出ています)。そして20周年にはダイアナ・ロス、25周年にはサミー・ディヴィスJr・・昭和一番のナイトクラブでした。
そしてもう一つはあの六本木の帝王と呼ばれている杉良治社長がやられていたナイトクラブのペペロモコ・・、当時はリキビルにありとんでもない位流行っていました。たしか日本で最初のキャバクラも作った方です。ポップコーンという名前のお店だったと思います。こういった洒落た場所にお客様や同業者に連れられ毎日毎晩・・、今となっては墓場まで持って行くお話はたくさんある様な気がします。
あとスーパーマーケットをやりましたが、その事業は全く儲かりませんでした。ただPOSSシステムを初めて当時導入して社員教育マニュアルも作成した事が、後々考えれば良い経験になりました。
第2の転機 就職活動
そんな学生時代はあっという間に過ぎ、その事業全てを叔父夫婦に譲る事になり、本来の学生としての私の就職活動が始まります。女性をたくさん使ってきた私は男性に無い女性の気配り又コマメなところ、人に対しての対応力の素晴らしさを営業の世界で生かしたら接客業で生かしたら凄いなあと思い、商学部であった私は本来ならば商学概論、又は経済学概論をテーマとした卒業論文でなければいけないのですが、女性論(商売に繋がると考えました)という論文を提出しました。もちろん当時のゼミの教授は最初目を丸くしていました。
42年前に女性を管理職に又女性であっても社長にした方が良いと考えていた学生は私一人だったと思います。その卒業論文を見てくれた学生課の先生が就職活動の際応援してくれまして、知名度の低い大学としては珍しく、さとう製薬・フランスベット・アマダ、富士ゼロックス等の企業に内定を早々頂きました。私の父がトヨタ出身という事もあり、営業を学ぶために横浜トヨペットに入社することになりました。
今考えれば勿体ない企業ばかりをお断りして横浜トヨペットに入社するわけですが、そこでは社会人として又営業と言う根本的な事を教えられました。毎日100件訪問を繰り返しネクタイの先迄汗が染みるほど、とにかく頑張りました。その結果、その年の11月の展示会には私の御客様だけでその展示場が一杯になり、月に26台の販売登録をかける事が出来新人賞も頂きました。給料はと言うと固定給が16万円程度で、たくさん販売できたとしても25万円前後、確かあの当時1台車を売ると7000円位貰えたと思います。今考えるとトヨタの看板が有り楽に仕事が出来ました。
順調にトヨタマンで過ごしているとここで、又父の登場です。建設業の後を継げ・・・結婚を間近にしていた私はどうしようかと真剣に考えましたが、兄弟がいない私にとってはこれが宿命なのかなあと嫌々跡を継ぐ事になります。私の結婚式もそんなわけで跡継紹介兼結婚式みたいな感じの式になりました。当時としては200人近いとても立派な式を挙げて頂きました。しかし、そんな喜びもつかの間父の会社が倒産するのです。
結婚したばかりの私は職も失い、トヨタにいた時に父の会社の連帯保証人にもなっていて、その返済等では本当に大変な思いと経験をしました。一瞬で何もかも無くなり25歳の私にとっては悪夢のような出来事でした。
当時私の家内のお腹には今の長男がいて、とにかく直ぐに家内とこれから生れて来る子供たちの為に仕事を探さないと思っていた時期に面白い出会いがまたあるのです。その当時、競売にかかった横浜の自宅を見に来た不動産屋のおじさんとおばさんに(自由が丘の不動産屋さんの社長達)に、あなた不動産に向いているから不動産業者さんを紹介してあげるから一度東京に出て来なさいと言われ、当時の不動産業はダーティーなイメージがあり社会的認知も低い職種でしたが、藁をも掴む気持ちだった私は抱えている事情を全部話した上で世田谷区桜新町の不動産業者さんに勤務することになる訳です。これが私と不動産業との出会いでした。
私がこの不動産業を天職と思い今に至るまで、そしてこれからも続けていきたい仕事と会えた事は、実はそのお二人のお蔭なんです。最初は何千万円のものが本当に売れるのだろうかと言う不安ありました。反響営業ですので飛び込み営業をしてお客様を発掘する車の営業と比べれば、最初からお客様が購買意欲を持って話して頂ける本当にありがたい状態からスタートできる仕事でした。
ミルク代ミルク代と頑張った甲斐が有り、初年度から4年半で仲介手数料収入16億円を稼がせて頂き、全店のトップセールスで頑張り8年間務め3店舗の責任者を得たうえで独立する事になります。その時の給料歩合は売上手数料の10%ですからかなり当時としては良い収入でした。会社にとっても私は本当に良い社員だったと思います。
第3の転機 生き方が変わる そして独立のきっかけ
不動産会社に入り長男も無事誕生あとは自分が頑張ればこれからの見通しが見えて来たぞと一年経ち収入も安定してきた頃に、何と万1歳の長男が網膜細胞芽種という5万人に一人の目の裏にがん細胞が出来る小児癌になってしまいます。真面目に父は倒産するし家は無くなってしまう、せっかく授かった長男(私達夫婦の宝)までもと流石の私もペシャンコになりました。
お客様のご家庭は皆幸せで家を探しに来る中、私の長男は生きるか死ぬかで国立がんセンターの小児病棟にいるこのギャップを埋める為、車の中でバックミラーに自分の顔を写し、何度も何度も笑顔の練習をしました。
お客様を案内しているとお前の部屋はあそこだよ・・君の部屋はここにしよう等、本当に幸せそうな家族を見ながらのお客様のご案内は26~27歳の男には辛い修行でしたし、あの頃良く頑張ってたなあと当時の自分を褒めてあげたいと思います。
国立がんセンターの小児病棟は、今この時間でも小さな命が失われ涙にあふれている場所です。私自身もその場所に初めて行った時には、毎日毎日涙が止まりませんでした。他のお子様が私に対し「おじちゃん明日退院なんだ」と言って喜んでいたお子さんが、次の日に行くとシーツになっているんです。私の家内はショックで3か月の間まるっきり声が出なくなってしまいました。
若い夫婦にとって人に言えない又言っても分かって貰えないどん底の気持の中、毎日如何したら良いのかこれからどうなってしまうのか毎日が不安の連続でした。とにかく必ず助かるという希望を持ち続け、最後の神頼みではないですが必死に手を合わせました。私はと言うと昔の「手当て」を信じて7年間どんなに遅く帰っても息子の寝ている前に行き、その目に「絶対再発するな!」と1時間彼の目に手を当て必死に祈り続けました。(自分の気功で絶対にがん細胞を消してやると信じ込んでやっていました)
今考えると兄弟がいない私たち夫婦は、会社の先輩や色々な方から精神的に助けられました。そのおかげで長男は片目の視力は失いましたが、現在38歳になり鍼灸接骨院を開業させて頂き、車の免許も取得する事も出来ました。片方だけの目でも見えるだけお前は幸せなんだと言い聞かせ育てて来ました。随分親としてはひどい言動と行動をとった事もあります。そんな中で育った彼は本当に素晴らしい優しい青年に成長してくれ、私も家内も本当に心から嬉しいと思っています。
お世話になった病院には、毎年2回チャリティーコンペを開かせて頂いた募金の中から(当時150人以上のコンペ参加者でした)ダンボール何箱かのクリスマスプレゼントの購入費に当てさせて頂き、そのプレゼントを10年以上続けていました。小児病棟にはお正月も家に帰れないお子さんがいて、特に無菌室のお子さんは何も出来ないので流行りのビデオを見る位しか出来ません。
それからしばらく経って、公的な病院はおもちゃ等外部からの物は受け取ってくれなくなり、それからはそのチャリティー募金を世田谷区を通して区長室でチャリティーを行い、色んな施設に寄付させて頂いていました。
息子が6歳になり小学校入学の時に何でも買ってやるから何がいいんだと言ったところ、「パパもう一つのめめが見えるようになりたい」と言われ、私はその時男泣きをしました。こんな小さな子供がこんな思いをしているんであれば、自分で独立をして人の為に自分自身何か出来る社長になりたい。そこで独立を決意し、今から28年前の32歳の3月お世話になった会社を辞める事となります。
独立と倒産
今から35年前に駒澤大学の駅の上で120坪以上の店舗を借り、不動産業を始めます。城南地区に商圏を限定し最初は不動産仲介業、しばらくして渋谷店に賃貸事業部を、そして千駄ヶ谷に広告代理店、それからはビルオーナー業や建売事業をと、最終的には社員も60人近くになり取扱高120億位迄の法人を作り上げ、データーバンクでも不動産業者としては珍しい程の評価を頂きました。売り上げも大きくなる分銀行の借り入れもどんどん増えていき、気付くと35億位迄の金額になっていました。そんな時に10現場以上(50棟近かったと思います)任せていた工務店の倒産があり、とんでもない事態になりました。
城南地区の高額帯のお客様をターゲットとし営業をしていた弊社のお客様は新規でのお客様は殆ど無く、ご自身のご自宅を売却してその売却代金を購入物件に充当してプラスローンを組まれるいわゆる買替層の方々が多く、そのお客様自身の売却したご自宅の引き渡しも合わせてのセット営業でしたので、その工務店の倒産により工事の延期そしてその完成迄の間の住まいの提供、そして次の工務店の選出(住宅性能保証等の関係上50%出来ている建物を全て壊さないと次の工務店は請け負ってくれません)。お客様一人一人に対して毎朝毎晩そのフォロー業務を行いました。
大変だったのは私自身が工事費用を殆どその工務店に支払ってしまっていた事も有り、会社所有の持っていたビル他不動産(当時早期売却金額で約21億位になりました)を全部売却し、そのお金をその建物資金に充て建物をしっかりと完成させ、お客様に引渡を終えたうえで前の会社の幕が下りる事になります。リスケは6行の支店長は皆OKしてくれ上手く行っていたように見えたのですが、メインバンクのしかも本部から来たばかりの若い支店長が私は甘くありませんよの一言でした。
びっくりしましたのは未完成である物件を完成させる為に持っていた不動産を全て売却し、そのお金を建築代金として新規工務店に支払おうとしていた時に、お客様の建物に充当しないで銀行に返してくれとその支店長言った言葉です。正直リスケが上手く行けば残金は問題なく返せたのですが・・・。正直まさか法人と同時に個人口座をと思いましたが、通帳はすべて清算済。まるで空から爆弾が降って来たようでした・・! それから私自身の口座は全部清算となり、22年前にまたまた0からのスタートとなる訳です。自殺するのではと周りから言われましたが、今迄の大変だった事を考えればその試練は簡単に乗り越えられました。私自身がそういう状態であったにもかかわらずお客様や業者さんは誠意を分かって頂き、今現在も仲良くお付き合いさせて頂いています。本当にあっという間でした。
上場の話があったと思えば簡単に無担保で3億のお金を銀行が貸してくれたり、又毎年100人以上の忘年会、 そして海外へ社員旅行本当に素晴らしい輝かしいキラキラしていた日々でした。
ゴルフコンペや忘年会でお付き合いのあった同業者又今まで仲良かったと信じてた友人の散る早さをその時 初めて目の前見て、本当に寂しい気持ちで一杯になりました。片手位の方しか残りませんでした(^-^;。良い時も悪い時も一緒にいられる友人・・そんなにはいないものですね。
新たな出発 桜新町に出店 そして今
新会社TOWN-NETを等々力から2014年春に世田谷区の桜新町駅前に、本店を移転させて頂きました。お祝いのお花も小さい店舗に入りきれない程のたくさん頂戴し、改めてふんどしを引き締め頑張らないとなあと思っております。人に好かれようと又100人に通用する営業をしてきた自分ですが、これからの人生は99人から嫌われても1人の人と仲良くなってこれからの人生生きてゆこうと思ったわけですが、最近弊社に若い社員が入って来ましてその社員の為にもこれからは愛想良くしないとなあと思ってきた今日この頃です。
新会社を立ち上げるとお付き合いのあった地主さんは、20億の土地を専属専任で任してくれました。(手数料3%でも6000万円になりましたので本当にありがたかったです)逆にジャマもたくさんされました。祖師谷の地主さんには競合していた業者に契約数日前に私が倒産した事を言われ、農協相手の地主さんは私を選んではくれませんでした。その事をゴルフ友達の神宮前のビルオーナーにお話をするとじゃあこれ売って良いよとビル売却の専任を頂いたり(この物件も11億でした)、捨てる神あれば拾う神もいると本当に思いました。
当時私が売却して来た何社かの工務店の社長は20棟位長谷川社長に任せるからと社員がいない私に専属専任をくれたり(5000万円台から8000万円台でも一棟業者付でも150万円から240万円)の手数料になり、その売上等で今のTOWN-NETの基盤を作り立ち上げました。現在も桜新町の駅前で毎日毎日バタバタと一生懸命頑張っております。60人いて6000万円以上の経費がかかっていた頃は確かに会社も大きく見た目には良かったですが、今の4人の小さな会社もなかなか居心地が良いものです。だからこの会社を大事にしていこうと思っています。自分の力でどうにでも出来ますし、若い社員も入ってきたので会社を繋げていきたいと最近本気で思います。
現在は年間35億から40億の物件の売却・購入の仲介をメインに、都心そして城南地域を商圏とし頑張っています!また一昨年には全国ネットで不動産バトルどっちの家を買いますかという番組に出演させて頂き、とても良い経験になりました。
昨日の夢を今日の理想とし、明日の現実とする
仕事ではいつか家を持ちたいなあ~「夢」を物件をご案内して資金計算等をして私でも購入できるけど「理想」としてご契約頂きその物件をマイホームとして住んで頂くいわゆる明日の「現実」となるわけです。
同窓生の皆様、諸先輩の皆様、今後とも公私共に御指導頂きます様、何卒宜しくお願い致します。何か不動産に於いてご相談ごとがございましたら、いつでもお気軽にご連絡頂ければ幸いです。いつも楽しくいつも笑ってしあわせ しあわせ そしてツイテルツイテルの精神で頑張っています!
私に「宝の言葉」をかけて頂いたお二人をご紹介致します。お一人は元内閣総理大臣田中角栄先生の秘書軍団を率いていた「角栄のお庭番」朝賀昭先生です。
25歳の私が父の倒産により一文無しになり不動産業界に入社したその日桜新町にある八丁軒という小さなラーメン屋に入っていた時の話です。ラーメン屋さんの店主に私が「親父の会社が倒産してしまい今から死に物狂いで働いて稼がなくてならなくその為この近くの不動産会社に勤めることになったので宜しくお願いします。
という話をしてお金を払おうとするとここにいた親父さんが払っていったよと言われお店を出て 「すみません。見ず知らずの私にありがとうございました」とお礼とご挨拶をすると「今の話聞いてたぞ。君はいい目をしているから頑張れば大丈夫だ!」と仰っていただき全く知らない土地で今からどうしようと思っている私にとってこの言葉は「宝の言葉」になりました。「私が会社を設立した際には顧問になってください!」と訳のわからないお願いをしたのを今では本当に朝賀先生は弊社の顧問をして頂いています。感謝感謝です。
もう一人のかたは私が姉のように慕わせて頂いていますデヴィ夫人です。
21年前何十億というお金を騙され私があの芸人のはなわ君と六本木のバーで飲んでいた時の話です。バーのオーナーが長谷川さん会社駄目にしちゃったみたいだと夫人にお話ししたようで暫くすると席にドンペリを夫人からと出して頂きました。席までありがとうございますとお礼に行くと「あなたまだ若いでしょ。まだまだ頑張れば大丈夫ですよ」と仰って頂いたのです。私にとって二つ目の宝の言葉です。
私は昔からデヴィ夫人に憧れ直接お話ししたいなあという「夢」がありもしお目にかかれたら美味しい料理をご一緒したいなあという「理想」を持ち、今では月に数回ご一緒させて頂く「現実」となりました。夫人は厳しい方ですが、傍にいるとホッとする方です。そして夫人には色々教えて頂く事がたくさんあり、本当に勉強になります。人生の中でこの様な素敵な方とご一緒できる環境に、心から感謝しています。
スカルノ大統領夫人のデヴィ夫人にはいつも大変お世話になっています。2023年12月24日のクリスマスイブに可愛いチワワの赤ちゃんを孫の為にとお譲りして頂きました。そして夫人主催のハロウィンパーティーでのワンショットそしてインドネシアにご一緒させて戴いた時のホワイトパーティーの写真です。とても素敵で優しく大好きな方です!
私が営業時代は子供の運動会すらなかなか参加出来ず一、緒にいられる時間がありませんでした(^-^; 孫達とはなるべく一緒にと思っている中、このコロナ騒動で東京で働いている私はバイキンマン扱いで、なかなか娘宅に遊びに行っても抱っこすらさせて貰えません。(還暦を迎えた時がコロナのど真ん中でしたので)
人生まだまだ頑張って、この子達が結婚するまで元気でいたいものです。こんな風に思える自分自身の環境に心から感謝します。
何より大事なのは人生を楽しむ事!そしてその幸せは一人では決して味わえない!家族が皆健康で元気で笑顔一杯の暮らしがいつまでも続くことが私の心の願いです。しあわせしあわせ(^^♪ ついてるついてる(^^♪
(長谷川毅さんのプロフィール) | |
神奈川県出身 | 県立茅ヶ崎高校卒業 |
1983年3月 | 東京国際大学(旧国際商科大学)商学部卒業 藤原ゼミ、ゴルフ部、ウイラメット大学に短期留学(1980年) |
1983年4月 | 卒業後、横浜トヨペットへ入社。 その後、家業を継ぐが倒産。不動産会社に長年勤務後、独立。 |
1993年4月 | 会社設立(120億の売上を達成するが・・・) |
2011年7月 | 会社設立(昭和54年9月)2021年不動産業として開業 現在世田谷区桜新町1-13-10 三田ビル1F・2Fにて 不動産業として頑張っています。 |
- TOWN-NET会社ホームページ https://www.town-net.biz
城南の正直不動産(TOWN-NET) https://jonan-baikyaku.jp - 公益社団法人全日本不動産協会東京都本部 本部相談委員
- 公益社団法人全日本不動産協会東京都世田谷支部 副支部長 厚生委員長
- 国際ロータリー第2750地区東京赤坂ロータリークラブ会員
2017~2018年度 親睦活動委員長
2018~2019年度 プログラム委員長
2023~2024年度 理事
2024~2025年度 幹事
- 平成30年度
東久邇宮記念賞受賞
東久邇宮文化褒章受章
- 鍼灸接骨院 (長男大輔が開業)
Cure Natura 南林間店
〒242.0006 神奈川県大和市南林間1-4-5
TEL 046-244-3433