世界の平和を願いながら人生を送ってほしい
TOKU/馬場督之さん(1996年 商学部 経営情報学科卒業 TIUA 臼井ゼミ タイニーラヴ/軽音楽)

(日本で唯一のボーカル&フリューゲルホルン奏者・TOKU)

・TIU 入学
高校3年になる前の春休みに、母が講師をしている公文式が主催するアメリカでの10日間のホームステイ・プログラムに、妹とともに参加した。今思えば、この時の体験が僕の人生を大いに左右することになったのだと思う。
初めての海外で母国語ではない言葉で実際にコミュニケーションがとれるおもしろさを知ってしまった僕は、自分の高校に教えに来ていたアメリカ人の先生と積極的に交流するようになり、英語を話す機会を増やし、いつしかまた海外に行きたいという願望を抱くようになった。
東京国際大学の名前を知ったのは浪人生になってしまった年だった。この大学には、当時のどの国公私立の大学よりも飛び抜けて贅沢な語学留学プログラムがあるというのをその当時に知った。期間は1年で、アメリカ人のルームメイトと過ごせるなんて、もう受験しないわけにはいかなかった。他の大学も受験したが、本当にここにしか合格しなかった。もう絶対にこの語学留学プログラムに参加しろという神の思し召しなのかと思い、1年生の秋に2段階の試験を受けて合格し、晴れて留学が決まった。何が待ち受けているのか、僕の心は期待でいっぱいだった。

・音楽遍歴
僕は今ミュージシャンとして生きている。
それ以外の人生は全くもって想像がつかない。
音楽は僕の存在理由そのもの。生きる意味。
でも小さい頃からの夢というわけではなかった。
父親の影響で物心つく頃から音楽を聴くのを好きになり、どこに出かけるにも、寝る時にも、音楽がないとダメだった。音楽はいつも側にいた。
父親は趣味でいろんな楽器を演奏する人で、週末になるとうちに父親のブルーグラス・バンドのメンバーを集めては夜通し演奏していた。他にも様々な音楽を僕に教えてくれた。
小学生の時に父親が地元で初めてのレンタルスタジオを始めて、昼夜ひっきりなしに音楽を志す人が出入りするのを見ながら過ごしていたが、サッカー少年だった僕は楽器を演奏することに興味はなかった。
中学校に進んでその状況が変わる。なんと、進んだ中学校にはサッカー部がなく、仕方がないので他のスポーツ系ではなく、好きな音楽系の部活動をしようと思い吹奏楽部を覗きに行き、コルネットというトランペットに一番近い楽器を始めることになる。
とはいえ真面目にはやらず、譜面も読まず、持ち前の音感で隣の人の吹く音を覚えてしまい、あとは自由に吹いていただけだった。
なので、高校生になると高校が遠かったのもありコルネットを吹くのを止めてしまう。 そして、高校の仲間とバンドを始め、ドラムをプレイし始める。ほぼ同時にベースを始め、そして浪人生の時にはギターを始めた。
ロック、ポップ、フォークにはまり、TIUに入ってから最初に在籍したのは軽音のサークルだった。そのサークルから紹介されたバイト先のCD屋さんで、わけもわからずマイルス・デイビス (ジャズの帝王と言われたトランペッター)のCDを買い、その中の1曲を気に入り、耳で聞いて同じように吹けるように練習し、誘われるままに行ったジャズの生演奏をやっていたお店で言われるがままに飛び入りして練習したことを吹き、実はそれはマイルスがアドリブ(即興)で演奏したものだと初めて知り、それ以来ジャズに取りつかれて今に至る。
実は、小学生の時に僕の地元にやってきたマイルス・デイビスのコンサートに連れて行ってもらったことが大きく影響していると思う。最初で最後だったが、大のマイルスのファンの父親が「こんな機会は二度とあるかわからない!」と家族を連れて行ってくれた。その時に感じた会場の熱気を今でも覚えている。




 

・TIUA
さて、留学に話を戻したいと思う。
そんなわけで、留学が決まったときには僕はすっかりジャズに取りつかれていて、個人データに”音楽” “ジャズ” と書きまくり、TIUAに着いた日に出会ったのがジャズピアノをバリバリ弾く僕のルームメイト、Julian Snow だった。
ジャズにハマってすぐに購入し、もちろん一緒にアメリカに持っていったトランペットのケースを見つけた彼は、時差ぼけでフラフラの僕を練習室に連れて行った。そして2人でしばし演奏し、次の週にはベーシストを加えて練習し、さらにサックス・プレイヤーが加わり、僕らはウィラメット大学のキャンパスにある Bistro というカフェで毎週木曜日にライヴをするようになる。
あの時はジャズを始めたばかりで決して上手くない、むしろド下手なトランペッターで吹ける曲もわずかしかなかったのに、よくも僕をバンドに入れたものだと思う。今もってしても謎だ。
でも英語を勉強しに行ったのに、音楽も同時にやることができるなんて夢のようだった。
週末にはキャンパス内の屋外でギターを弾いて歌い、そのうち一緒に歌う仲間もできた。
ウィラメット大学にあるロザンヌという男女共同寮に住み、朝食はパンケーキとミルク、午後授業が終わるとウィラメットのキャンパスの芝生で宿題、夕食を終えたら仲間とバスケットボールを楽しみ、シャワーを浴びてトランペットと譜面を持って音楽練習室に向かい夜遅くまで練習した。Julian のバンドに付いて行くのは大変だった。片っ端から曲を知り、演奏(アドリブ)できるようにならなければならなかった。でもその大変な作業が楽しくて仕方なかった。
Bistro でのライヴはとにかく毎回が刺激そのものだった。
Julian 始めメンバーは皆達者なので置いてきぼりになることもしばしばだったけど、必死について行った。
ライヴ中はいろんな人が行き来していた。それを見ているのも楽しかった。そこで出会った友達と今でも交流は続いている。
時々開催されたフィールドトリップでオレゴンの他の土地に行けるのもとても刺激だった。見るもの全てが新しいって素晴らしいと思った。オレゴンの大自然はとにかく広い。オレゴン・コーストや Mt.Hood で経験したスノーボード、馬に乗ったのも覚えている。そして都市に行くとCDショップに行けるのが本当に嬉しかった。聞きたいジャズの名曲はまだ山ほどあった。それは今でもそう。




夏休みについても書かなければ!
7月の下旬からほぼ一ヶ月をかけてアメリカを見て回った。
飛行機ではなく、アムトラックという汽車でアメリカ大陸の大きさを肌で感じながらの旅。
セーラムを出発して、
まずはサンフランシスコまで汽車の中で1泊、
2泊ほどして
サンフランシスコからロスは朝から晩までまる1日を汽車の中で、
ロスで3泊ほどして
ロスからニューオリンズまでは汽車の中で2泊!
ニューオリンズで3泊くらいして、
ニューオリンズからニューヨークまでは汽車で1泊、
ニューヨークで3泊ほどして
ニューヨークからシカゴまでは汽車で1泊、
シカゴで2泊ほどして
シカゴからシアトルまでは汽車で2泊、
シアトルで2泊ほどして
シアトルからセーラムに。

行程はざっとかんな感じ。
1ヶ月以内ならば何度も途中下車できる切符を購入し、寝台車ではなく普通のコーチシートで全行程を移動した。日本人にとっては広くて、リクライニングさせると寝心地のいいソファになった。若さゆえに可能だった。
砂漠のど真ん中を走ってる時に、ここでエンジンが故障したらどうなるんだろうと思ったり、夜中に目が覚めて外を見ると、たまに田舎の街灯が流れていく真っ暗が続く景色だったり、汽車でしか味わえない経験をたくさんした。
当時はポータブルのカセットテープ・プレイヤーが音を出してくれる一番小さい機械、旅の間に何度テープをひっくり返したことか。
初めて訪れたジャズの街ニューオリンズ、そしてニューヨークではジャズのレジェンドの生の演奏に触れることができた。
ニューヨークで演奏を聞いた、とても印象に残るトランペッターがいた。その彼と、およそ7年後の自分がメジャー・デビューしたころに出会うとは夢にも思わなかった。そのニューヨークでのライヴの話をしたら、なんと彼はその時のことを覚えていた。2度目に会った時だったかな、お互いの誕生日が同じ日だということがわかり、以来彼が数年前に突然逝ってしまうまで、ずっと仲のいい友達になった。最後にやり取りしたメッセージは、お互いに「I love you」だった。

ちょっと話がずれてしまったけど、
TIUAに留学していた1993年という年は、今までの人生で一番充実していたと思う。それだけTIUAは僕に濃密な経験をさせてくれた。
そして、この時の体験、身につけた語学力は現在の僕のキャリアに大きく大きく関わっている。東京にやってくる海外からのミュージシャンと知り合い、その後も付き合いが続くのは語学力により相手を理解し友情を深めることができるということがとても大きいと強く感じる。
初めて日本に来るミュージシャン達を案内したり、日本のことを説明したりすることができるのは、同時に彼らの文化を理解することにも繋がり、その後の付き合いが深くなっていく。このお互いの理解、受け入れるという気持ちは、TIUAへの留学でいろんなものを見て知った経験があったから身についたのだと思う。
もちろんそれには、全てではなくとも相手をすぐに受け入れるオープンなマインドを持つということがとても重要だと思う。僕の場合は根っからの好奇心旺盛な性格も手伝って自然と身についたところもあるが、TIUの自由な校風から始まり、TIUAで経験した全てのことは僕をさらにオープンマインドの持ち主にしてくれたことは言うまでもない。


世界には様々な人種が存在する。そして、今現在は良くも悪くも日々多様な出来事があり、目まぐるしいくらいに時代が回っている。世界の動きを見ると、ポジティブなこともあるけど本当に苦しくなるような理解できないほどのネガティブなことも起こっている。人類がこれからどう生きていくのか、そして何より自分がどう生きていけばいいのか、常に敏感に物事を察知し、様々な情報を整理していかなければならない。
そんな時代でも、僕は全ての人間は同じく人間であり、単純に生まれや育ちが違うだけで肌の色で差別したりする心は一切持っていなくて、むしろ違うことに興味を抱く人間であれることに幸せを感じる。そしてそう思えるのは、TIUAでの生活を通じてアメリカでいろいろな人間と出会ったことが大きく影響していると思う。人種は違えど、愛を捧ぐ心は皆持っているということを強く学んだ。

・近況
今、僕はパリにも拠点を置き、ヨーロッパで自分のキャリアを広げようとチャレンジしている。2017年からパリに住む友人のプロジェクトに参加することで毎年2度パリに来てはそこを拠点にヨーロッパをツアーするようになり、その友人の勧めもあり彼のレーベルからヨーロッパ向けの自分のアルバムが2020年の1月に日本より先にフランスでリリースされ、2月にリリース・ツアーを行ったところで新型コロナウイルスによるパンデミックで、3年半もの間ヨーロッパに来ることが出来なくなった。
ようやく落ち着いたところで来られなかった月日を取り戻したい、チャレンジしたいという気持ちが、僕を言葉もわからない新たな土地・パリに住まわせることになった。逆にパンデミックがなければこういう気持ちにならなかったのかもしれない。
まだまだ種蒔きの段階だけど、数年のうちに何かに到達したいと思っている。それはヨーロッパ内のあらゆるところからオファーを受け始めることだと思っている。  

・1人の人間として
Life is one time.
人生は一度きり。
50年という年月を生きてより強くそれを感じる。なぜ自分はこの世に生を享けたのか、生きているうちに何ができるか、この貴重な時間を有意義に過ごすことを考えながら生きていきたい。
そして、これから大学生活を送る若人達に、自身が心から生きる喜びを感じられるものを見つけてほしいと心から願う。
そして真実を見つめ、家族を大切にし、心通う友に感謝し、世界の平和を願いながら実りある、意味ある人生を楽しみ、送ってほしいと切に希望します。

TOKU


(TOKU/馬場督之のプロフィール)
新潟県三条市出身 新潟明訓高校卒業
1996年3月 東京国際大学 商学部経営情報学科卒業 
TIUA留学 臼井ゼミ タイニーラヴ(軽音楽)

日本唯一のヴォーカリスト&フリューゲルホーンプレーヤー
父親の影響でノンジャンルで音楽に親しみ、中学時代にブラスバンドで初めての楽器コルネットを手にする。
  • 2000年1月アルバム“Everything She Said”でソニー・ミュージックよりデビュー。 デビュー当初から注目を集め、その年の8月には早くもブルーノート東京に出演。 アルバムはアジア各国でもリリースされ、積極的に海外での公演も行っている。 昨今、ジャズの枠を超えた幅広い音楽性から、m-flo、平井堅、Skoop On Somebody、 今井美樹、大黒摩季、などのアルバムにプレイヤーとして参加。
  • 2008年に発売したアルバム「Love Again」は初のDuet SongをExileのATSUSHI氏を迎えて収録。
  • 2011年3月の東日本大震災の直後に行われた、シンディー・ローパーの国内ツアーにも 参加し、話題となる。
  • 2011年4月27日、本人がずっと温めていた企画「TOKU sings & plays STEVIE WONDER- JAZZ TRIBUTE FROM ATLANTA」を発売。
  • 2015年5月、フランクシナトラの生誕100周年を記念して全曲シナトラのカバーアルバムを発売。そのレベルの高さに各所で大絶賛を浴びている。
  • 2017年6月、ジャンルを超えTOKUが今まで出会った様々なミュージシャン達とコラボレートしたアルバム「SHAKE」をリリース。
  • 2019年2月、今まで書いていたオリジナル曲からTOKU自身が厳選し、未発表曲、未発表テイクも含めたオリジナル曲のみによるコンピレーション「Original Songbook」をリリース。
  • 2020年4月、フランスを代表するミュージシャン達とレーコーディングした初のヨーロッパ録音「TOKU In Paris」をリリース。フランスで先行発売され、ヨーロッパでのアルバムリリース・ツアーは各地でソールドアウト、好評を得る。
    (TOKU Inc.®︎)
TOKU Inc. オフィシャルサイト
https://www.tokujazz.com

 

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