転職、そして天職 ~看護に自己の使命を見出して~
齋藤直美さん(1982年度/14期卒業 教養学部国際関係学科 原ゼミ 旅研究会)

 入学前から海外への関心が強く、旅行会社に就職してツアーコンダクターになるのが夢でした。入学後も国際関係論を学びながらツアーコンダクターの通信講座を受講し、旅行会社就職の準備を進めました。旅行による民間交流を通して異文化間の相互理解が深まり、政治レベルでは不可能な友好関係を構築することによって、世界平和につながると信じていました。3年生の時にアメリカ短期ホームステイを経験し、その思いはさらに強くなっていきました。ところが当時は4年制大卒女子にとっては就職氷河期。40社余りの旅行会社から門前払いされ、ようやくもぐりこんだ小さな旅行会社は典型的なブラック企業でした。薄給の上に帰りは連日最終電車。4か月余りで心身ともに崩壊し、夢破れて退職しました。
 その後、新聞の求人で偶然みつけた大学病院の外来クラークの仕事をすることになり、初めて医療の現場に足を踏み入れました。そこで垣間見た看護師さんたちの献身的な仕事ぶりに感動したのです。そして「目の前の一人の患者さんの力になれなくて何が世界平和だ!」という思いに至りました。また自分も専門職として自信を持って仕事をしたいという思いもあり、翌年准看護学校に入学しました。なぜ正看護師の学校に行かなかったかというと、父に大反対されたからです。実家は裕福ではなく、私の大学の入学金も父が退職金を前借りして行かせてくれたのでした。准看護学校なら1日おきの通学で1日おきに働けるので、わずかながら収入が得られたのです。その大部分を家に入れることを条件に看護師になることを許してもらいました。卒後は進学して2年後に国家試験に合格、27歳にしてようやく正看護師になることができました。

【透析看護との出会い】
 中堅の民間病院に就職して半年、懐妊が判明しました。当時の民間病院には育児休暇などというものは存在せず、首もすわっていない生後2か月の娘を預けて仕事に復帰しました。妊娠中から持病の腰椎分離すべり症が悪化して病棟勤務が限界になったため、産後から深夜勤務のない透析室に異動になりました。透析看護はかなり特殊分野です。まず透析機器の扱いを習得しなければなりません。そして患者さんたちは週に3回も通院している言わば「常連」で、自分の病気のことから病院の内部事情まで精通している人ばかり。新人看護師は当然のごとくやりこめられる洗礼を受けるのが常でした。ところが一度信頼を得ると、家族同様に接してくれるのです。どんなに明るく元気に見えても、臓器がひとつ機能していない内部障害1級の患者さんたちに当時の社会の目は冷たく、会社を辞めさせられたり縁談が破談になったりと、人生の悲哀を知り尽くした患者さんたちにそれとなく寄り添う術を学びました。
 次に就職した日野市立病院は新規に透析室を立ち上げようとしており、私はオープニングスタッフとして入職しました。民間病院から臨床工学士2名、看護師2名が呼び寄せられ、4名の患者さんを迎えてスタートしました。 

【透析室から病棟へ 知識を広げ技術をみがいた日々】
 透析室は「病院の離れ小島」と呼ばれました。当初は透析に関する知識のあるスタッフが私たち以外誰もおらず、パート医師が日替わりで担当するという状況でした。数年経過したところで、ようやく常勤の医師を迎えることができて患者数も増え、毎年透析学会に演題を発表できるようにもなりました。看護師が2増員され、11年目にしてようやく私は内科病棟に異動となりました。
 長年透析看護しかやってこなかった私は完全に透析バカになっており、腎臓以外の疾患の理解が足りず、通常の採血・点滴・処置介助もまるでできませんでした。1年目はとにかく内科一般の疾患・看護習得と採血・点滴の穿刺の上達に必死で、周囲の仲間に教えを求めました。翌年、病棟内に循環器チームが立ち上がり、私は自ら志願してそのチームに入ったものの、今度は心臓のことがさっぱりわからず、透析室で一緒に働いていた臨床工学士を拝み倒し、循環器疾患と心臓カテーテルに関する個人授業を何回もやってもらいました。仲間たちのありがたい支援のおかげで、1年後にはチームリーダーを務めるまでに成長することができました。
 循環器疾患で入院してくる患者さんは中高年の男性が多く、時々ベッドサイドでアメリカ大統領選挙や中東情勢等、国際関係の話をする機会がありました。「病院で看護師さんとこんな話ができると思わなかった」と喜んでいただき、こんな場面で大学での学びが活かせるとは思いませんでしたが、私の中で国際関係論はしっかり生きていました。  

【スタッフから管理職へ。自分が病気になるほど辛かった】
 この頃、病棟師長から昇進試験を受けるようにと再三推薦していただいていたのに、「その器ではありません」「管理職には向いていません」と逃げ回っていましたが、3年目でとうとう逃げ切れなくなり、副師長になりました。内科病棟で約2年間、外来に異動して約4年間副師長を勤めました。副師長といっても半分管理職・半分スタッフのような存在で、外来では師長の補佐をしながら救急室や心臓カテーテルの現場業務に入りました。外来業務は考えていたより壮絶で、夜間の救急室や血管造影室では急変もあり、目の前で患者の命が消える無力感と悲しさを何度か経験しました。平和な日本でさえ思いがけず亡くなる方がいるのに、戦争や紛争の中で亡くなっていく多くの人たちに思いをはせるとき、命の重さというものを考えずにはいられませんでした。
 その後外来師長に昇格しましたが、思えばこの頃が自分の看護師人生の中で一番辛かった時期でした。約80名の部下を管理するための面談と評価、勤務表の作成、多くの委員会への出席、師長会の運営、医師たちとの協議等々。途中で適応障害を発症し、胃腸薬と向精神薬を飲みながら2年間を乗り切りました。       


まだ楽しかった副師長の頃、救急室メンバーと

  

【医療安全管理室での活動 病院全体が活動範囲に】
 一年間の病棟勤務を経て、次の異動先は医療安全管理室でした。ここは病院内で医療に関する問題が発生した時に、部署からの報告に基づいて情報収集・分析・改善策立案・周知を行う部門です。安全委員会にも属したことがなく、まったくの畑違いの職場でした。研修を受けて医療安全管理者の資格は取得したものの、前任者が急に退職したための抜擢だったため、各部署からインシデントレポートが上がってきても満足に対応できず、そもそも何が問題なのかもわからない状況でした。インシデントレベルによっては医療事故として事例検討会を招集し、話し合った内容を議事録として記録に残しておくことも病院機能評価を通過するために求められる事案でした。「病院内のケイサツ」と陰口をたたかれながら頑張っていたところ、多摩地区公立病院の医療安全管理者会が立ち上がりました。他の病院の医療安全管理者たちも同じく孤独に戦っていたのでした。以降、対応に悩むことがあれば連絡を取り合い、意見交換したり相互訪問するなど、病院の垣根を越えて助け合っていくことができるようになりました。


医療安全部(感染制御室・医療安全管理室)の仲間たち

         

【定年後 コロナ対応に奔走】
 2020年3月に定年を迎え、ようやく再任用職員として少し余裕をもって仕事ができると思った途端、新型コロナが襲ってきました。余裕どころか最前線の発熱外来に連日駆り出され、防護服を着てひたすら患者さんの鼻から検体採取を行う毎日。病院全体が非常時態勢となり、コロナ病棟を新設し外来も必死で日々の業務をこなしていきました。
 コロナが落ち着くと外来の中央処置室に配置されました。ところが7年間師長を務めた結果、今度は現場の仕事が何もできなくなっていました。私は一緒に仕事をする仲間たちに頭を下げて、採血・注射・点滴などを指導してもらいました。教えてくれた人たちの中にはかつての部下も含まれていましたが、みんな親切に指導してくれて本当に感謝でした。おかげで、現在では中央処置室の管理を任され、楽しくやりがいをもって働き続けています。

【同窓生との歩み、出会い】
 在学中、1年生の時から仲良くしていた男女7人(?)とは、卒業後もつかず離れずの距離でお付き合いが続いています。ご無沙汰になることもありますが、なにか思うところがあったり、地方から誰か上京するとなると集まって、暫し学生に戻った気分で盛り上がります。
 一番驚いたのは、看護学校の同じクラスに二つ上のTIU同窓生がいたことです。在学中は全く接点がなかったのに不思議な出会いでした。人生の途中で方向転換するのは自分だけではなかったのだと勇気をもらい、励ましあいながら厳しい実習を乗り越えました。

【皆さんへのメッセージと今後のこと】
 かつて「看護師になることを決意しました」と恩師の原彬久先生にご報告したときのことです。私はお叱りを受けるとばかり思っていましたが、「国際関係論を学んだあなたが患者さんを看護する。胸躍るではありませんか。遠くから“直美頑張れ”とエールを送っています」との激励のお言葉をいただきました。父に反対されていた私は、百万の援軍を得た思いでした。無事に看護師になって数年たった頃、父が胃がんを患い私が勤務している病院に入院してきました。白衣で病室を見舞うと、同室の患者さんに「これ、俺の娘なんだ」と嬉しそうに紹介するではありませんか。あんなに反対したのに、結果的には私が看護師になったことを喜んでくれたのでした。
皆さんにお伝えしたいのは、こころざし半ばで方向転換することも、親の反対を押し切ることも、決して悪いことではないということです。大学で学んだことと全く違う道に進んだとしても、無駄になることまったくはありません。在学中に培った思考回路は、必ず次のステージで大きな力を発揮することでしょう。私という人間の基礎を作り上げてくれたTIUに心から感謝しつつ、私にしかできない看護を今後も貫いていきます。
 今年度は再任用職員としての最終年度です。来年の仕事はまだ決めていませんが、心身が正常に動くうちは働き続けたいと思います。また、来年はピースボートで地球を一周する旅を計画しています。シングルマザーで長年わき目も振らず働き続けた私に、今は母になった娘たちが「少しは自分のためにお金を使ったら?」と言ってくれたのがきっかけでした。遅ればせながら世界を自分の目で見てきたいと思います。もう一つは20年以上続けてきたランニングを細々とでも継続することです。歳を重ねながらも様々なことにチャレンジして、アクティブに過ごすのが私のスタイルだと思っています。


くにたちジョギングクラブの合宿で諏訪湖一周
30~80代まで年代幅広く、箱根駅伝の選手だった人も

 

(斎藤直美さんのプロフィール)
1982年3月 東京国際大学 教養学部国際関係学科卒業、原ゼミ、旅研究会
日野市立病院 勤続33年 現在は再任用職員として外来中央処置室勤務

 

TIU 霞会シンガポール支部