「人生に無駄な経験は無い」
原田 晴之さん (1992年卒業 教養学部国際学科/大越ゼミ 1991年Willamette Univ.卒業/BA政治学専攻)

【プロローグ】
私が海外に興味を持ち始めたのは幼稚園での出会いがきっかけでした。カトリック系幼稚園で良くして頂いた神父、先生(シスター)方、そして聖書の挿絵に登場する聖人達は皆、外国人でした。園庭で先生と一緒に遊んでいた時に、花壇のチューリップが果たして自分と同じ様に見えているのだろうかと考えていた記憶が、ぼんやりと残っています。


(幼稚園から頂いた聖書)

【高校留学】
カリフォルニア州のメキシコ系アメリカ人家庭にホームステイをしながら、地元の公立高校 (Bloomington High School) に1年間通いました。激しい環境の変化に身を投じた事で、いきなり人生の転換期を迎えました。勉強不足による知識の無さや思考力の弱さを痛感し、帰国後に何を為すべきか大いに悩んだ時期でした。

■ 自律性を養う
私のホストファミリーは、モービルホーム (トラックで牽引出来る家) に住む共働き家庭(3人家族+犬1匹& 猫1匹)でした。食事は冷蔵庫にある食材を各自が勝手に料理して取ることが基本で、家事はホストブラザーと分担していました。ところが、滞在3か月を過ぎた頃から、冷蔵庫が空になることが増え、家事の分担も私に偏り始めました。
普段はのんびり屋の私でしたが、「空腹」が「飢え」に変わったところで突然「スイッチ」が入り、自分でも驚く程の行動力を発揮したのです。近隣の家や友人宅を訪ねて、「芝刈り」「庭木の剪定」「掃除」「洗車」「ベビーシッター」「犬の散歩」「プールの清掃」等の仕事を次々と取り、家事で身に付けたスキルを総動員して、一気に問題を解決してしまったのです。(その勢いは止まらず、学校の昼食を無料にして貰うことにも成功しました。)
その後、高校卒業に必須のクラス「American History」の前期分を、留学初期の英語力不足が原因で履修漏れが判明し、留学中最大の危機に直面しました。しかし、幸いにもその時ちょうど「スイッチ」が入って「エンジン全開」の状態だった為、この難局をうまく切り抜けられました。日本の高校で履修済みの世界史の教科書を手に、カウンセラーの先生や社会科の教諭、教頭先生に必死で掛け合いました。そして、補習クラスの履修を条件に「前期分」に相当する単位の置換を認めて貰うことに漕ぎつけたのです。
「自分の問題は自分で解決する」「自ら考え行動する」という自律性を養うことが、高校留学で得た最大の収穫でした。



(高校のクラス)

■ 英語の多様性とTPO
若者の英語、大人の英語、綺麗な英語、汚い英語、白人の英語、黒人の英語、メキシコ人の英語、インド人の英語、中華系の英語、西海岸の英語、LAヴァリーガール (Valley Girl) の英語、サーファーの英語等、多種多様な英語が日常生活でパワフルに話されており、米国デビューを果たした私の前に大きな壁として立ちはだかりました。私は小さなメモ帳を常に携行し、聞き取れた言葉をカタカナでメモし、帰宅後には鏡の前でネイティブスピーカーになったつもりで、カッコよく身振り手振り付きで発声練習を行いました。翌日には学校の友達にそれを披露してアルファベットに変換して貰い、帰宅後に辞書で調べて正確な意味を理解するというルーティンを徹底的に繰り返しました。その結果、3カ月後には確かな進歩を感じ、それが自信につながりました。
ところが、日々私が書き溜めて練習し、身に付けた英語が、米国の一般社会では決して受け入れられないギャング英語(メキシコ系のChicano Englishがベース)だった為に、それまで私を応援してくれた大切な友人が少しずつ私から離れて行きました。私はTPOをわきまえ、学校生活の中では標準的な英語を使うことを心掛けました。一方で、興味のあったインド、スペイン語、中国語訛りの英語については密かに練習を続けました。標準的な英語とそれ以外の切り分けにはかなり苦労しましたが、これも一つの学びでした。

■ 人種差別
ほぼ単一民族の日本で育った私にとって、自分が「有色人種」である事を強烈に意識させられ、自覚させられたのが米国での生活でした。留学当初、私は「Jap」「Nip」「Gook」「Chink」「Pigtail」「WOG」「Napalm」その他多くの差別語で呼ばれ、学校の内外で不当な扱いを受ける事がありました。ある日、真っ黒に日焼けした自分の手の甲を見た瞬間、「汚い!」と感じた自分に大きなショックを受けました。無意識の内に、東洋人であることに劣等感を抱いていたと気付き、驚いたのです。
滞在期間の後半には友人も増え、それは和らいで行きましたが、学校の授業で見せられた 「A Class Divided」 というドキュメンタリー番組 (※)を通じて、改めて自分が抱いていた「劣等感」の正体を考えさせられました。そして、白人以外の人種に対して抱いていたかもしれない「優越感」がいかに虚しいものであったかを痛切に感じました。

※ 1968年アイオワ州の小学校で実施された人種差別についての実験授業
YouTubeで日本語版を見つけたのでご紹介します。(NHK特集1988年4月29日放送)
「青い目 茶色い目 ~教室は目の色で分けられた~


(ウイリアム・ピータース著 / NHK出版) 

(高校の仲間)

(高校の仲間)

【東京国際大学】
校名が「国際商科大学 (ICC)」から「東京国際大学 (TIU)」に改称された年(1986年)に入学しました。「高校留学での体験を思い出として終わらせず、深堀りする事で経験値として落とし込みたい。更に勉学を重ねる事で進むべき将来の道を明らかにしたい。」との一心で門を叩きました。

■ スランプからの脱出
高い志と情熱を持って臨んだ「下羽ゼミ」(国際政治学)で私を待ち構えていたのは、日本全国から集まった個性豊かなクラスメート(曲者)達でした。私とは次元の違う高レベルの論客揃いで、自ら収集した情報(Fact)を分析(Study)し知識 (Knowledge) として吸い上げて行く「大学生の勉強方法」を当たり前の様に実践していました。私も必死で食らいつきましたが、元来の怠け癖と誘惑に弱い性格が邪魔をして空回りし、大学1~2年時は焦燥感に苛まれる事が多かったです。
3年に進級すると「大越ゼミ」(アメリカ研究論)を選択しました。下羽ゼミの仲間達が「厳格な修行僧」、「哲学者」の如く真理を追究する一体集団だとすれば、大越ゼミの仲間達は「まとまりの無い我儘な自由人」、「枠にとらわれない斬新的なクリエイター」の集まりといった印象でした。
一見、全く異なる二つのゼミでしたが、そこで学んだことは共通していました。知識の積み重ねや思考力の鍛錬は他人に代わって貰うことは出来ないこと、焦って背伸びをしても一足飛びに先には進めないこと、地道に継続することの重要性、そして勉強は苦しいだけでなく、取組み方次第では自由で楽しいものだということを教えられました。これは、至極当たり前のことかもしれませんが、私にとって大きな気付きでした。
スランプから脱出して改めて周りを見渡すと、それまで見過ごしていた周りのものが鮮明に見えるようになりました。大学が提供する豊富な選択授業や、新しい図書館や視聴覚室の英語教材の存在に気が付き、それらを積極的に活用することにしました。また、一度は諦めていた留学についても、挑戦したいという気持ちが湧いて来ました。親の支援で一度留学させて貰っていた為、再度の留学は経済的に難しいと感じていましたが、奨学金制度を活用することで再び挑戦出来るのではと考えました。そして、春・夏の海外セミナー(春:ウィラメット大学、夏:南オレゴン州立大学)や長期留学(ウィラメット大学)に全て応募し、大学からの支援を得られました。

■ 教育実習
将来の進路の一つとして教育関連の仕事を考えており、教職課程を履修しました。大学の紹介により、埼玉県の私立男子高校の2年生クラスで英語の教育実習を行いました。事前準備をしっかりして、気合を入れて挑んだ初授業でしたが、英語以前に生徒のやる気をいかに引き出すかが喫緊の課題であることが分かりました。授業中に簡単な問題を出して何人かの生徒を当てたところ、皆一様に立ち上がらず、中腰で「分かりません」と言って着席してしまいます。 私は、着席した生徒を再度しっかり立ち上がらせ、「分からなくても良いから、分かろうとしよう」と説得しました。そして、答えが出るまでヒントを出し続け、場合によっては答えを黒板に書いて声に出して読ませる等、兎に角最後まで諦めないで挑戦するように指導しました。 また、机の中に教科書ガイドを忍ばせている生徒達には、「英語なんて数学みたいに考えてもしょうがないから、教科書ガイドの積極利用は大歓迎!」と、机上に置いて堂々と使用するように奨めました。教科書の練習問題も面白い文章に全て書き換えて、少しでも楽しめるように工夫しました。
最初はやる気の無い生徒が多かったのですが、中学校で習った辞書の引き方から、必要と思われる基礎的な構文については丁寧に何度も教えたところ、徐々に授業に参加する生徒が増えて行きました。極めつけは、少しずるいやり方とも思いましたが、どのクラスにも必ずいるおしゃべりで明るい生徒をうまく乗せて、授業が楽しくなるようなムードメーカーの役割を担わせることでクラス全体がひとつになりとても充実した授業運営が出来る様になりました。 しかし、私の授業を見学した先生方の評価は、年配のベテラン教師と若い教師とで真っ二つに分かれました。あるベテラン教師は、「原田先生は元気があって声も大きく、発音だけは良いけれど、中学で教わった構文を、わざわざ高校の授業でまた教える必要はないでしょう?」と否定的なコメントを残して教室を出て行かれました。一方で、若い指導教諭は他の若い先生方と一緒になって「原田先生、気にしないで!生徒が分からないから、分かるまで教えるのは当然のことです。中学校で教わっていようがいまいが、関係ありません!」と、私の教授方法を全面的に支持して頂けました。
担当していたクラスには、当時では珍しい米国からの交換留学生が在籍していました。彼と共にハイスクールで実際に話されている会話をスキット形式で授業中に紹介すると、「生きた英会話」に関心を持つ生徒が何人も現れ、教えることのやりがいを大いに感じました (※)。ある日、彼から深刻な二つの悩みを打ち明けられ、それを解消する為に奮闘することになりました。一つ目は、日本語補習の個人レッスンの機会を与えるよう学校と調整したこと、二つ目は、関係がうまくいかないホストファミリーから新しいホストファミリーへの変更をサポートしたことです。実習生の立場で出過ぎた行動だったかもしれませんが、自らの高校留学でお世話になった方々への恩返しのつもりで思わず突っ走ってしまったのだと思います。 ※ それでも教科書英語で基礎を固める事は大切です。
初日から積極的に取組んだ教育実習はあっという間に終了し、仲良くなった生徒達や意気投合した若い先生方に温かく送り出して頂きました。実習校からは大学卒業後に是非来て欲しいという有難いお言葉を頂きましたが(もしかすると社交辞令だったかもしれません)、私は企業就職を選びました。実習期間中に出会った企業経験者の先生の柔軟な視点や考え方、そしてその言葉に感じた重みから、教師という職業には専門教科の知識だけでなく、幅広い社会経験が必要だと強く感じたのです。(これはあくまでも、私の自分自身への評価に基づく判断であり、大学卒業後直ぐに教職に就かれる方を否定するものではありません。)


(生徒からの寄書き)

【ウィラメット大学】
再びアメリカへ行くチャンスを得た2年間の奨学金プログラムでは、前回の高校留学時とは異なり、生活に適応するだけでなく、大学生活全体を通して様々な経験を積むことが出来ました。この留学期間は、私の学生時代で最も成長した時期であり、大いに学び、大いに悩み、そして大いに楽しむことで、現在の私の土台を築きました。


(ウィラメット大学)

■ 寮生活:フラットハウス
ウィラメット大学は、1842年に創立された西海岸で最も古い大学です。オレゴン州会議事堂に隣接する美しいキャンパス内の学生寮で2年間を過ごしました。キャンパスにある学生寮は、個室の寮もありますが、ルームメートとシェアする二人部屋が基本です。私が編入した当時は寮が満室でしたが、大学が交渉して会員制のフラタニティーハウスの一室を仮住まいさせて貰うことで留学生活をスタートしました。
「フラタニティー」(fraternity)とは辞書によると、「米国の男子学生の社交クラブ、友愛会」と定義されており、その歴史はアメリカの建国の歴史からそれ程遠くない1800年代初頭に、学生達が理想の学生生活を求めて結成したグループに遡ります。当時のアメリカは自由の国として建国されましたが、教育界は保守的で学生の行動には厳しい制約があり、その為学生の活動は地下に潜り、秘密結社的な形態をとりました。やがて、フラタニティーは全米に広がり、現在では多様なグループが設立され、共通の趣味や価値観を持つ学生が集う伝統的な学生組織として認知されました。私が仮住まいしたフラタニティーは、「ΣΑΕ:Sigma Alpha Epsilon」(略称 エス・エイ・イー)という全米に支部を持つグループでした。フラタニティーは「Greek Society」とも呼ばれ、ギリシャ語2~3文字の略称が一般的です。


(ΣΑΕハウス) 

(ΣΑΕの仲間達と)

その後、第一希望の寮であるWISH (Willamette International Studies House) に空きが出ず、止む無く移った個室のYork Houseでは、隣室の学生からタイプライターの音がうるさいとの苦情が出て、夜間の使用を禁止され、困っていました。そんな時、ΣΑΕから新会員候補としての招待(Bid)を受けました。私はフラタニティーという謎めいたグループに興味があり、招待を受けた後、正式なプロセスを経てメンバーとなりました。
フラタニティーのメンバーになる為には、「Rush」と呼ばれる募集期間中に希望するフラタニティーのイベントに参加し、メンバー達と交流します。そこで選ばれた者は招待状を受け取り、次に「Pledge」という新会員候補または見習いとして一定期間の試練や課題(Initiation)を乗り越えることで、正式会員となります。各フラタニティーには伝統的な儀式 (Ritual) やイベントがあり、その内容の多くは秘密です。会員となった後、秘密の合言葉や挨拶の仕方が伝授され、フラタニティーのギリシャ文字が入ったトレーナーやTシャツの着用が許されます。また、本部からはスーツのジャケットにつけるピンバッジ(記章)と証書が贈られます。
フラタニティーは、派手なパーティーを開催することがあり (※)、ハウスの地下室にはバーカウンターやビールサーバーが完備されています。パーティーの日には、キャンパス中から着飾った生徒が集まり大変な賑わいを見せます。クラスの課題に追われる私は、図書館横の24H Study Roomで勉強を終えた後、深夜遅くハウスに戻るのですが、パーティーが終わっているわけもなく、そのまま巻き込まれ酔っぱらって気絶することが何度かありました。アメリカの大学生活をフルに体験し、満喫する為には避けては通れない修行の場でもありました。(楽しい思い出です。)
※ フラタニティ―は、パーティーで大騒ぎするイメージばかりが先行していますが、ボランティア活動等の社会奉仕も盛んに行っています。

■ 授業
アメリカの授業は進行が早く、私が専攻していた政治学(Political Science)は、授業に出る前提となっている読書課題(Reading Assignment)の量が特に多い学科でした。成績は以下の4項目で評価され、ネイティブの学生ですら毎日必死で勉強に励んでいました。

①Attendance(出席)
②Participation(授業への参加、貢献)
③Exam(試験)
④Paper / Assignment(提出レポート・課題)
新入生は、最初の半年間(1st Semester)でしっかり勉強の習慣と最適な勉強法を身につけないと、学校が指定した成績に到達出来ず、学業保護観察処分(Academic Probation)を受けることになります。これにより、学校のイベントや部活動等への参加が禁止され、次の試験で成績が改善されない場合は退学(Academic Dismissal)の厳しい措置が取られてしまいます。
2度目の留学とはいえ、英語のハンディキャップが大きく、初年度の前期クラスでは、アドバイザーのセオドア・シェイ教授(政治学 博士)の助言を受けて、新入生クラス(100番台)で英語の基礎を固めると共に成績(GPA)の確保に努めました。その中で、「Public Speaking」のクラスは、毎回スピーチ原稿を準備し、クラスメートとビデオカメラの前でスピーチするという、とてもストレスフルなものでしたが、そこで学んだことは、後の授業だけでなく、就職後の仕事にも大変役立っています。
また、政治学の初級クラスでの初回レポートでは、政治哲学(The Role of The Individual and Political Order)について書きました。脳みそが千切れる程に考え抜き、何度も書き直し、連日の徹夜で仕上げましたが、既に提出締切日の授業が終わるタイミングであると気付きました。慌ててキャンパスを走り、教授のオフィスドアを激しくノックしました。何事かと出て来たシェイ教授は、開口一番「教師生活30年、寝巻き姿で飛び込んで来た生徒は君が初めてだ!」とあきれ返っていました。言われてはっと気付くと、確かに髪はぼさぼさ、無精髭、Tシャツに短パン、素足にスニーカー姿で、タイプライターで打ち終えたばかりのレポートを持って訪ねた私は、尋常でない迫力を感じさせたのかもしれません。本来受理されなかったかもしれないレポートでしたが、しっかり採点され、後日返却して頂きました。
実家から当時のレポートが出て来て、表紙に書かれたシェイ教授の温かいコメント(※)が、あの頃の私をどれほど励まし、支えとなっていたかを思い出しました。教授にとっては何気無い一言だったかもしれませんが、私には大きな力となりました。長い年月が経った今、改めて感謝の気持ちで一杯です。本当にありがとうございました!

※ シェイ教授のコメント
This is an excellent paper. Very thoughtful and full of interesting insights. Well done in all respects. It is an A paper which has to become an A- because it was late. Again, excellent essay!
これは素晴らしい論文だ。非常に思慮深く、興味深い洞察に満ちている。全ての点で良く出来ている。遅れた為 A- となったが、A論文である。もう一度言うが、素晴らしいエッセイだ!


■ 忘れられない貴重な体験の数々
夏休みの造園業や冬休みの牧場でのアルバイト、スクールマスコット(Barney the Bearcat)としての全米チアリーディング合宿参加や学校対抗のスポーツイベントでの活動、更に留学生会(WISA:Willamette International Student Association)やボランティア活動等、まるで見えない手に背中を押されるかのように、様々なことに挑戦し、貴重な体験を重ねました。これにより、自分の日本人としてのアイデンティティと価値観を確認し、現在のマインドセットの礎を築くことが出来ました。今、ひとつひとつの体験が記憶として蘇りますが、拙稿がネバーエンディングとなってしまいますので、ここでは割愛し、先に進ませて頂きます。
授業について行くのが精一杯だった私が、全ての活動をどうやってマネージメント出来たのか、今でも分かりません。しかし、私が留学生活を全う出来たのは、間違いなくウィラメット大学の教授陣とクラスメートの皆さんの支えがあったからです。また、海の向こうの日本から励ましの手紙を送ってくれたTIUの仲間達、両親、そして天のご加護にも感謝します。そして忘れてはならないのは、TIUAのDeanを務められていた川嶋教授のご厚意でご自宅にお招き頂き、ご馳走になった奥様の温かい家庭料理、かわいいワンちゃんのおもてなしが、ともすれば崩れそうだった私の心を癒し、励まして頂けたことです。この場をお借りして心から御礼申し上げます。
卒業式は屋外のスタジアムで盛大に開催されました。当時、湾岸戦争へ予備役(Reserve Force)として中東に派兵されたクラスメート達は、皆落第となってしまいました。当日はまだ帰還していなかった彼らの名前が読み上げられ、「名誉ある落第」として称えられました。観客席からは大きな歓声と拍手が沸き起こり、よく晴れた高い空にこだましました。


(学校新聞1面に掲載される)  

(卒業証書授与)

【就職】
資源に乏しい我が国が、高い技術力と品質でモノづくりをし、世界に輸出することで発展して来たことに、私は先人達への深い敬意を抱いていました。文系の私としては、直接モノづくりに関われないまでも、日本の優れた製品を世界中の人々に紹介し、使って貰うことで貢献したいと考えました。大袈裟かもしれませんが、日本と世界各国との経済交流を深めることで、日本の安全保障はもちろん、世界平和の維持に少しでも寄与したいという思いから、メーカーへの就職を決意しました。その後、2社目、3社目でIT・ゲーム業界を経験しましたが、初心に立ち返り4社目のメーカーに転職しました。ここで27年間勤め、来年には定年退職を迎えます。2社目、3社目での経験を通じて、製造業がハードウェア中心の開発からデジタル技術を介してインターネットやソフトウェアとの融合を考慮した開発へと進化していく流れを肌で感じられました。 

■ 1社目:放送機器メーカー
池上通信機株式会社(以下、池上)は、放送用・業務用機器の分野で世界的に高い評価を受けている放送機器メーカーです。それ以外にも、監視カメラ、医療用カメラ、錠剤検査装置等も手掛けています。主力製品の放送用カメラは、世界中の放送局や映像プロダクションで使用されており、その高い性能と信頼性で、現場のプロフェッショナルから絶大な支持を得ています。テレビで大型スポーツイベントやコンサート、そしてニュース報道の現場で使用されるカメラが一瞬映像に映る事がありますが、「Ikegami」のロゴを見るたびに胸が躍ります。 私が入社した当時 (1992年)の主流はアナログ方式であり、世界的な大手総合家電メーカーが開発した放送用カメラが束になっても、池上の製品には及びませんでした (※)。その後、1990年代後半からデジタル技術の導入が活発化し、デジタル方式への移行が加速しました。池上は競合他社との熾烈な競争を繰り広げながらも、積極的な技術革新を続け、業界での確固たる地位を守り抜きました。池上を離れた今でも、私は変わらず 「Ikegami Fan」であり続けています。 
※競争入札等で、競合他社のカメラと池上のカメラを並べて同じ対象物を撮影し、性能や操作性を比較することがありました。これにより、放送用カメラで最も重要な解像度や色再現性が一目瞭然に判別出来ました。特に色再現性については、競合他社のカメラは一般家電用技術を基にしている為、実物よりも鮮やかに映る傾向(誰が撮っても綺麗に映る補正回路?)がありましたが、池上のカメラは本物の色味を忠実に再現します。その為、放送業界のプロフェッショナルの厳しい要求や期待に応える製品であることが何度も証明されました。海外広告では、「The Professional Cameras dedicated to the Dedicated Professionals」というキャッチコピー(正確には覚えていませんが)が使われており、池上の特長を的確に表していると感じ、とても誇らしく思っていました。

● 海外業務の習得
池上は、人を育てることに長けた会社であり、私が在籍した4年間という短い期間の中で、海外セールスに必要な基本的スキルセットをほぼ全て学ぶことが出来ました。海外販売子会社、海外代理店、海外販売店、国内大手商社との取引を通じて輸出入の知識や見積書作成、受発注納期管理、代金回収、技術翻訳、顧客アテンド等、多岐にわたる業務を経験させて頂きました。
担当地域は、インドネシア、インド、パキスタン、オーストラリア、ニュージーランド、そして最後は北米でした。一番の思い出は、あるODA案件で、スタジオシステムと大型中継車(OB Van)の入札、落札、納入初期まで、上司と先輩社員の指導の下、懸命に進めたことです。途中で異動となり、最後まで関与することは出来ませんでしたが、この経験を通じて多くのことを学びました。特に、プロジェクトの初期段階での情報収集や綿密な計画、営業と工場関係者との緊密な連携が成功の決め手であることを深く実感しました。

● 恩義ある会社との別れ
池上では、尊敬できる上司、先輩、同僚に恵まれ、会社の外でもスポーツやBBQを楽しむ等、非常に親密なお付き合いをさせて頂きました。直属の上司であり兄貴分と慕っていたTさんに退職の意を伝えた時、最初は慰留されましたが、最終的には「会社にとって原田に残って貰うのは良いことだと思う。しかし、原田のこれからの人生が悔いの残らないものになるかどうかまでは保証出来ない。だから、原田が選んだこの決断を尊重し、応援する」と言って送り出して頂けました。今の会社で私が管理職となり、若い部下が辞める度にまさか同じ言葉で送り出すことになるとは、カルマを感じずにはいられません。

■ 2社目:ITベンチャービジネス
日本でのインターネット利用者が殆どいなかった1990年代初頭、サイバーテクノロジーズ・インターナショナル株式会社(以下、サイバー)が創業されました。創業メンバーは全員アメリカ人で、既にインターネットが爆発的に普及し始めていた米国ではなく、これから普及が見込まれる日本に進出してビジネスチャンスを掴もうとしました。彼らは企業や一般ユーザー向けのインターネット接続、サーバーレンタル、ウェブページ作成・更新メンテナンス、ソフトウェア・プログラム開発等のサービスを積極的に展開し、日本のインターネット黎明期を支える重要な役割を果たしました。

● インターネットとの出会い
創業メンバーの社長を含む4人はウィラメット大学の卒業生で、日本進出の手始めとしてインターネット導入に前向きな外資系企業から確実にビジネスを獲得し、その勢いで日本企業への展開を本格化しているところでした。ウィラメット大学の友人として食事に誘われ、集合場所として立ち寄った彼らのオフィスで、当時最先端のインターネット技術を次々と披露され、大変驚かされました。
一方で、そんな煌びやかなプレゼンテーションの後で私の心を捉えて離さなかったのは、今では当たり前となった電子メールでした。大変地味なアプリケーションでしたが、今後これが世界中で普及し、国境を越え遠くにいる人達と容易に繋がることが出来ると確信しました。私はこの新しいコミュニケーションツールの可能性に心を躍らせ、未来の広がりを感じずにはいられませんでした。
後に友人から、食事の真の目的が私の勧誘であることを明かされました。それまで私を育ててくれた池上への恩義があり、まだ大した貢献もしないうちに転職することに大変悩みましたが、これから急激な発展を遂げるであろうインターネット業界に身を投じて、世の中の動きを直に感じてみたいという思いが強くなり、新たな道に進むことを決意しました。

● インターネット・ビジネス
当時日本の大企業は次々とWebサイト(ホームページ)を立ち上げ、大口の仕事の依頼が寄せられました。大手総合家電メーカー、大手自動車メーカー、大手商社、大手不動産会社、外資系大手通信会社、駐日外国大使館等、多くの優良顧客との取引きが成立しました。 それまで安定した収入源のひとつであった個人向けダイアルアップ(電話線)やISDNによるインターネット接続サービス業務からは撤退し、設立当初から会社が目指していたIT技術による企業向け「ビジネス・ソリューション」の展開にシフトして行きました。サイバーが構築・運営サポートをしていた企業向けWebサイトには、今でこそ盛んに利用されているWebマーケティング機能が既に搭載されていました。ユーザーがどのようにWebサイトまでたどり着いたのか、Webサイト内のページアクセス・ログ(閲覧履歴)、再訪問率等を分析して顧客企業に提供していました。

● 時代の寵児
私が関わった仕事の中でエキサイティングだったのが、顧客であり提携パートナーでもあった株式会社ハイパーネットとの協業です。同社は、ウェブブラウザーに広告表示することでインターネット接続料金を無料にするシステムを開発し一世風靡したベンチャービジネスの雄でした。残念ながら急速な事業拡大をした直後に銀行融資が縮小され市場環境の変化(ITバブル崩壊)もあり倒産してしまいました。この企業の上層部は皆私と同世代で、社長を筆頭に物凄いカリスマとオーラを発していました。副社長のN野氏はハイパーネットを退職後、NTTドコモでi-modeを立ち上げ、現在KADOKAWAの代表取締役社長としてご活躍されています。ハイパーネットの倒産については「社長失格」(板倉雄一郎著 / 日経BP社)という本となり、後にTVドラマとして放映されました。同書に登場する人物は実名で書かれており、当時窓口としてお付き合いしていた事業部長のN山氏が突然退職された理由が分かり、心が痛みました。


(板倉雄一郎著 / 日経BP社)

● 夢破れる
大きな夢を抱いて入社したサイバーですが、小規模のベンチャービジネスが成長を続ける為には、卓越したアイデアだけでなく、資金面のバックアップや「運とタイミング」も必要です。当時、インターネットは日々目覚ましい発展を遂げていましたが、「インターネット」という言葉やイメージばかりが先行し、実際に何が出来るのか、どう活用するのかはまだ手探りの状態でした。魅力的なWebコンテンツやアプリケーションも殆ど無く、市場は未成熟で利益を創出するのは厳しい環境でした。サイバーの財務状況が悪化し始めた頃、私は親しくなった技術部長に誘われ、米系大手ゲームメーカーへ転職しました。現在サイバーは在りませんが、それぞれ別の道を歩んでいる友人達とは今でもインターネットで繋がっています。先日、カナダに移住した元社長と二十数年振りに再会し、友情を再確認出来たことが非常に感慨深かったです。学生時代に始まり、短いながらもサイバーで共に苦楽を味わった仲間との絆は、時を経ても変わらず、私にとって大切な宝です。

■ 3社目:米国ゲームメーカー日本支社
アクティビジョン・ジャパン株式会社(以下、アクティビジョン)は、世界最大手のゲームソフトメーカーであるActivision, Inc.(現:Activision Blizzard, Inc.)の日本法人でした。主な業務内容は、パソコンや家庭用ゲーム機向けのゲームソフトおよびライセンスの販売であり、米国本社で開発されたゲームを日本市場に合わせてローカライズ (日本語化) する機能も担っていました。バイリンガルのエンジニアが、日本語に翻訳された音声やテキストをゲーム内に組み込む作業を行っていました。アクティビジョンは「洋ゲー(洋物ゲーム)」として知られ、特定の「洋ゲーマニア」から強い支持を受けていました。
1990年代後半、ゲーム業界では大きな技術革新の波が起こりました。アクティビジョンはロボット対戦、カーチェイス、戦闘機対戦等のゲームにインターネット対戦機能や3Dポリゴン技術を導入し、リアルな質感のある画像でのオンラインマルチプレイ (※) を実現しました。更に、AI機能をいち早く採用することで、特定の洋ゲーマニアだけでなく、一般ユーザーも魅了しました。 ※ インターネット上で複数のユーザーが同時にプレイすること

● ゲーム業界に身を投じて
ゲーム業界には、「PC系」と呼ばれるパソコン向けのゲームソフトと、「コンシューマー系」と呼ばれる家庭用ゲーム機向けのゲームソフトがあります。前者はWindowsやAppleのOSを使用するパソコン向け、後者は任天堂、ソニー、セガが製造する専用ゲーム機(ファミコン、プレイステーション、セガサターン)向けです。私は、PC系ゲームソフトを営業活動のメインとし、北海道から九州までのパソコン量販店、ゲームソフト専門店、家電量販店、書店、玩具店を一人で回っていました。上司命令で、どこにいても最低でも週に1回は主戦場である秋葉原の得意先に顔を出すようにしていました。また、週末にはゲーム大会を企画・開催し、休む間もなく働いていました。
当時は、大きな量販店であっても購入を決める担当者の多くは、ゲームソフトに精通した若手社員やアルバイト学生でした。彼らは気さくに話を聞いてくれ、自社ゲームの反響や競合他社の情報、パッケージの改善点等を教えてくれました。私は毎晩帰宅後に自社ゲームと競合他社のゲームをプレイしながら知識を深め、次第に洋ゲーの独特な世界観に心を奪われるようになりました。日本のゲームが色鮮やかでBGMや効果音が派手で楽しいのに対し、洋ゲーの少しくすんだ色使いや幻想的なBGM、効果音には奥深い魅力がありました。
一度興味を持ち始めると、全国のゲーム調達担当者とのコミュニケーションが充実し、大手卸業者(問屋)から得た仕入情報の分析(顧客毎に違う売れ筋、売れないタイトルの傾向、地域毎の顧客動向他)が少しずつ出来るようになりました。当初は、やみくもに飛び込み営業を繰り返していたのですが、上司の熱血指導のお蔭で(毎日こっぴどく叱られていました )、体を使った営業だけでなく、頭を使った営業の重要性を認識し、営業スタイルの改善に努めました。そして問屋からの情報を基に、訪問先を絞り込み、顧客毎の個別アプローチを展開した結果、ポスター掲示や販促品の自由な配置、更にはアクティビジョン専用の特設コーナーの設置を許可される等、店舗でのプロモーション活動が活発化しました。その結果、アクティビジョンのゲームが店頭に増え、目立つ場所に置かれる機会も増えて行きました。

● 体力勝負だった広報活動
ゲーム業界での営業に慣れて来た頃、広報担当者の退職に伴い、掛け持ちで広報の仕事を担当することになりました。雑誌社を訪問して新作ゲームのデモを行い、記事掲載をして貰うことでその認知度を高める取組みを実施しました。広告よりも特集記事等に掲載される方が、広告効果が高く、費用対効果も抜群でした。当時はまだ最新ゲームを滑らかに動かせられる高性能なノートブックPCが少なかった為、大きなブラウン管モニター、ステレオスピーカーとデスクトップパソコン一式を抱えて会社から出て、道端で捉まえたタクシーに積んで雑誌社へ持ち込んでいました。今振り返ると体力と気力に満ち溢れていた若い自分だからこそ出来たのだと懐かしく思い出されます。

● 新たなる成長へ向けて
アクティビジョン・ジャパンは12〜13名の小さな会社でした。このような小さな会社が競争を勝ち抜く為には、綿密な戦略と作戦が必要であり、その実行過程では常に修正を加えながら前進していくことを学びました。特に、マーケティング理論「ランチェスターの弱者の戦略」を営業戦略に取り入れていたことは興味深く、勉強になりました。猪突猛進で頑張っているだけでは成果が上がらないことを、全国のお客様を訪問する営業活動やキャンペーン、広報活動を通じて理解しました。アクティビジョン・ジャパンでの経験は、仕事に対する考え方やアプローチを少しずつ変える契機となりました。


(30代まで続けたGymトレーニング) 

(老舗洋ゲー専門店で自社ポスターと)

■ 4社目:電子機器・部品メーカー
日本航空電子工業株式会社(以下、航空電子)は、「コネクタ事業(コネクタ)」、「インターフェース・ソリューション事業(タッチパネル、タッチパネルモニタ)」、「航機事業(航空・宇宙電子機器・部品)」の3事業ラインからなる電子機器・部品製造メーカーです。1953年の創業時に、将来日本に必ず訪れる航空・宇宙産業時代にエレクトロニクス技術で社会貢献をしたいという思いが社名に込められています。
一大決心して大恩ある池上を飛び出し、サイバーで夢破れ、ゲーム業界で忙しい日々を過ごしていましたが、心の奥底では、日本の高度な技術や製品を世界に紹介して行きたいという気持ちが再び強くなっていました。そんな折、週末に予定していた顧客とのアポイントがキャンセルとなり、ふと手に取った求人雑誌で『国際派転職フェア』の広告が目に留まりました。丁度スーツを着ていたこともあり、思い切ってその転職フェアを訪れてみると、そこには航空電子がブースを構えていました。航空電子は、池上の製品に使われていたコネクタを製造しており、その縁もあって興味を引かれました。しかし、再度転職することには少し躊躇しており、その場での決断は出来ませんでした。それでも、航空電子から何度も熱心にお誘いを頂いたことで、次第に決心が固まり、この会社で新たな挑戦をすることを決意しました。

● 航機事業ライン
最初に配属された航機営業本部では、技術翻訳から始まり、産業機器向けアプリケーションに使用される加速度計、光ジャイロ、リニアモータの営業に幅広く携わりました。具体的には、油田掘削時におけるドリル先端の位置・方向把握に使用される加速度計やセンサーパッケージ、製造機器のXYステージを駆動させるリニアモータ、トンネル内の壁面検査ロボットの位置・姿勢測定用センサーユニット、構造物の揺れを低減するアクティブ制振用センサーユニット等、様々なアプリケーションに関わりました。

配属初期の修行
私は航空電子が新卒以外で初めて雇った文系出身の営業マンでした。その為、技術用語が飛び交う営業フロアでは、日本語でさえ理解が難しい状況でした。そこで、会社にお願いし、最初の1ヵ月間は工場の設計部門で若いエンジニアの隣に席を設けてもらい、加速度計や光ジャイロの原理や応用について学ぶ機会を得ました。その結果、社内で話されている大まかな内容について把握出来るようになりました。当時、会社の営業フロアには、日本初の国産H-IIロケットの姿勢制御を司る慣性誘導装置の開発を担当し、NHK番組「プロジェクトX」に出演した技師長や、米国の技術系一流大学出身で油田ビジネスを開拓した猛烈営業部長(私の最初の上司)等、優秀な方々で溢れていました。彼らと共に働く中で、多くのご指導を頂き、新しい環境に慣れていくことが出来ました。
余談ですが、この技師長がH-IIロケット用の慣性誘導装置を開発中、ジェットコースターにその装置を載せて何度も試験を繰り返したという逸話を最近になって知り、私もテレビ番組のロケで、読売ランドのジェットコースターに加速度計ユニットを持ち込み、背中向きに乗って加速度を測定したことを思い出しました。先輩の開発時の逸話には遥かに及びませんが、私もほんの少しだけテレビに映ることが出来たこの経験には、ささやかながらもロマンを感じています。
閑話休題、工場勤務から営業部署に戻ると直ぐに、上司と技術部長と共に、英国を皮切りに米国テキサス州を中心とした石油掘削関連の顧客を次々と訪問しました。加速度計や光ジャイロの拡販においては、単に製品性能を示すだけでなく、顧客のアプリケーションやニーズに応じた技術提案が求められます。顧客の態度や反応から、航空電子がこれまで着実に顧客の要望に応え、その結果として深い信頼関係が築かれていることが分かりました。これをしっかり受け継ぎ、更に発展させていく責任が自分に課せられていると感じ、身が引き締まる思いがしました。(定年退職が迫る上司の背中から発せられる強烈なプレッシャーと期待が、ひしひしと伝わって来ました。)
毎晩ホテルに戻ると、上司と技術部長の指導の下で打合せ議事録を作成し、本社にFAXで報告した後、ようやく食事にありつけました。しかし、その食事も顧客接待を想定したレストラン開拓を兼ねており、寝るまで気を抜くことが出来ませんでした。厳しい旅でしたが、この経験は最高のOJTであり、普段忙しい上司と技術部長から直接学べた時間は贅沢で貴重なものでした。

予期せぬ異動
私は当初、米国の販売子会社に出向している方の交代要員として雇われていましたが、その話は諸事情により無くなってしまいました。そして2年後、会社の主力ビジネスであるコネクタ事業ラインの海外営業本部に異動することになりました。人生最後の転職として覚悟を決め、難しい技術知識の習得や営業活動に取組み、更には商社へ出向して営業スキルを磨いていた私にとって、この異動は大きなショックでした。社内とはいえ、全く異なる業種への異動は転職と同じようなインパクトを感じていました。

記憶に残る仕事
2年間の航機営業で特に印象深かった仕事の一つに、1998年にテキサス州ヒューストンのアストロドームで開催された海底油田関連の展示会(Offshore Technology Conference)への出展があります。当時、航空電子は世界最小サイズ (直径19mm) の耐環境・高温対応 (~175℃) の加速度計を開発し、小さなブースで発表しました。海底油田掘削関連の展示会ということもあり、他のブースはヘリコプターや商用潜水艦、ボート、掘削ドリル等大規模な展示を行っていましたが、我々のブースはお手製の20cm程のシーソーに加速度計を取り付け、それを上げ下ろしする際に出力される電気信号を波形モニターに映し出すという、非常にシンプルなデモを行いました。
派手な展示が多い中、航空電子の小さく地味なブースに展示開始と同時に多くの人が押し寄せ、大変驚きました。競合他社も同等仕様の加速度計を発表していましたが、偵察したところ、それは外観だけで中身の無い「どんがら(モックアップ)」でした。開発が間に合わなかったのです。この瞬間、私は心の中で「やった!」と叫びました。航空電子の開発が競争に勝った瞬間でした。
油田掘削は年々深く掘り進む傾向にあり、それに伴いドリルの先端はますます細くなっています。さらに掘削が進むにつれて地中温度は150℃を超える高温となる為、小型で耐熱、耐衝撃、且つ高精度な加速度計が業界で求められています。当時、この要件に応えられる会社は航空電子と競合他社の2社だけでした。


(米国テキサス州:Offshore Technology Conference)

もう一つ印象深い仕事としては、ある欧州メーカーへの拡販取組みがあります。当時、国内の主要産業機器メーカーとは既に取引があったものの、海外市場への進出はまだ限定的でした。そこで、私は半年以内に訪問することを目標に設定し、先ず幕張メッセで開催された国際展示会でその企業の展示ブースを訪ねました。アクティブ制振のアイデアを口頭で説明し、名刺を渡したところ、数週間後にはあっさりと招待を受けてしまいました。
会社内は大騒ぎとなり、私は、土日は自己啓発として関数電卓を片手に三角関数を復習し、平日は工場の技術データを集めながら、プレゼン資料の作成に努めました。1か月後、同年代の若手エンジニアと共に欧州へ飛び、そのメーカーでプレゼンを行いました。応対して頂いたのは博士号を持つ6人のエンジニアの方々で、文系出身の私にとっては緊張の連続でした。しかし、同行エンジニアと協力しながら、アクティブ制振の提案と試作品による試験結果の説明、質疑応答を行い、更に航空電子の航機関連主要製品の説明とデモンストレーションを実施しました。
結果的に多くの課題を持ち帰ることになりましたが、この出張では、航機事業ライン(工場・営業)の諸先輩から教えられ、託された全てを出し切り、初めて大きな達成感を味わうことが出来ました。そして、この達成感は、次の異動先へと向かう私にとって、一つの区切りを意味するものでした。

● コネクタ事業ライン
コネクタは、航空電子の総売上の8割以上を占める主力製品で、プリント基板や電子機器同士の電力や電気信号を接続・切断する為の重要な部品です。人工衛星や飛行機、電車、自動車、家電製品、パソコン、スマートフォン等、広範な分野で多種多様なコネクタが大量に使用されています。コネクタは、電力や電気信号を伝える金属製のコンタクトと、それらを絶縁するプラスチック(インシュレータ)で構成されており、電気的性能と機械的性能の両方を満たさなければならず、その開発には高度な専門知識とノウハウを要します。

営業マンはお客様に育てられる
私のコネクタ事業ラインでの業務は今年で25年目を迎えます。この間、多くの貴重な経験をさせて頂きました。中でも特に心に残っているのは、13年間担当を務めた、欧州のグローバル企業とのビジネスです。当時、GAM(Global Account Manager)として欧州、北米、アジアのR&Dや生産拠点に何度も訪れ、多くの開発案件に携わりました。そして、量産立上げ後に避けては通れない品質問題や納期問題、価格交渉等にも会社同僚と一丸となって積極的に取組み、その結果、No.1サプライヤーとして高く評価して頂きました。


(フィンランド:夏) 

(フィンランド:冬)

この経験から、メーカー営業マンは社内で得た知識やスキルを基盤にしながらも、最終的には顧客によって育てられることを強く実感しました。私自身、社内で基礎を固めた後、顧客と向き合い、彼らの要求に応える過程で成長して来ました。
先ず、社内での基礎作りとして、現場での実践経験に力を入れました。携帯電話やPDA、STB(セットトップボックス)等の電子機器を片っ端から分解し、基板の形状や実装部品の配列、高さ、投影面積等を丹念に調査して、アプリケーション毎の筐体形状や内部構造、実装技術について学びました。また、工場の技術フロアでは、試作品の組立てや評価試験にアシスタントとして参加し、その結果を英文レポートに纏めることで、コネクタ製品に関する理解を深めました。
次に、顧客と直接向き合い、彼らの要求に応える中で、営業マンとしての成長が促されたと思います。例えば、品質問題が発生した際には、通常は立入ることの出来ない顧客の生産ラインに特別に入れて貰い、技術評価試験に立会う機会がありました。品質問題はサプライヤーにとって避けたい事態ですが、これをチャンスと捉え、問題解決に取組むことで顧客の信頼を得られました。
その上で、品質問題とは別に、顧客の生産ラインで使用されている製造設備を把握し、その後、その設備メーカーを訪問して、次の製品作りに生かすヒントを得ることに努めました。これらのヒントを製品に反映し、品質や使い勝手を向上させることで、顧客の満足度を高めることが出来ました。

モノづくりの舞台裏
ここで少し、メーカーにおいてよく見受けられる工場部門間の関係性について触れたいと思います。それは、開発途上で、設計担当者と生産技術・製造部門のエンジニアとの間で立場の違いからしばしば緊張や対立が生じることです。設計者が斬新なアイデアやテクノロジーを投入して尖った製品開発に挑む一方で、生産技術や製造部門のエンジニア達は、その実現の為に多大な努力を強いられます。しかし、ひとたび新製品が市場に投入され、成功を収めると、全員がその達成感を共有し、固い絆で結ばれ、それが開発を続ける中で更に深まって行きます。こうしたモノづくりの舞台裏を知っていると、初めて訪問した顧客のプリント基板を見せて頂いた際に、生産技術や製造部門が設計にどのように影響を受けているかを指摘出来ることがあります。すると、窓口の設計者がその場で関連エンジニアを呼び出してくれることがあり、その結果、打合せは自然と笑いのある明るい雰囲気になることがよくあります。このような経験の積み重ねが、同じモノづくりに携わる顧客との関係構築に大いに役立ちました。


(北京:陳式太極拳「単鞭」のポーズ) 

(サンディエゴ)

信頼とバランスの構築
ビジネスの世界では、「Win-Win」という理想がよく語られますが、現実では、顧客がWinし、私達が少しLoseすることも少なからずあります。これは、顧客との力関係によるもので、ある程度は避けられないことです。私は常に顧客の立場を最大限に尊重しつつも、自社の利益を守る為に、適切なバランスを見つけるよう心掛けて来ました。その為、時には難しい話もしっかりと議論出来る関係構築が重要だと考えています。


(中国河南省:太極拳国際試合 相手は後にAlibaba創業者 Jack Ma氏のボディーガードに)

● 英国販売子会社出向
JAE Europe, Limited (以下、JAE EU)は、航空電子の販売子会社で、英国に本社を構え、ドイツ、フランス、イタリア、スウェーデンにもオフィスを展開し、欧州全域のビジネスをカバーしています。欧州市場は、特に自動車産業、産業用ロボット市場、医療機器市場において、世界の技術革新をリードする多くのテクノロジーリーダーが存在する重要な市場です。JAE EUは、この市場で欧州の先進企業と共に未来の技術革新に貢献することを目指しています。
入社当時に立ち消えた海外赴任の話が、18年後に突然舞い戻って来たかと思うと、急速に具体化し、家族(妻、長男: 中2、次男: 小6)を伴って英国に赴任することになりました。2016年から2020年まで英国ロンドンで生活し、その間にBrexitや新型コロナウイルスの蔓延といった大きな変化が起こる中で、仕事面でも家庭面でも得られることが多かったです。

新しい職場環境
JAE EUでの勤務が始まると、現地社員は英国、ドイツ、フランス、イタリア、スウェーデン等多国籍で構成され、顧客も30か国以上に跨っていることが分かりました。「欧州」と一言で括るにはあまりに大雑把過ぎる地域であり、国毎の人々や文化、習慣の違いを考慮した対応が必要なのは言うまでもありません。
私は一時期、営業に加えてマーケティングや技術チームの責任者も兼任していました。英国本社での勤務と並行して、ドイツのミュンヘンオフィスとの連携を強化する為に、頻繁に現地を訪れていました。現地社員との業務遂行においては、ドイツの労働法規や労務管理に細心の注意を払い、職務明細書(Job Description)に基づいた明確な業務指示を行い、ファクトとエビデンスに基づいた公正な業績評価を心掛けていました。また、拡販方針や戦略については納得がいくまで議論を重ねることで、チーム全体の目標と方向性を揃えました。
ドイツのメンバー達は、普段は家族生活を優先し、プライベートな時間を大切にしていましたが、いざという時は自ら進んで長時間の業務に取組んでくれました。私が別の仕事でドイツに行けなかった際には、急遽英国まで駆けつけ、ピザ1枚で深夜まで一緒に作業してくれることもありました。この経験は、ワークライフバランスを徹底して重視するドイツ人に対する固定観念を完全に払拭するものでした。彼らの献身的な姿勢と協力には、今でも感謝しています。

日常生活 ①:家族生活の変化
日本での生活と比較して、英国での生活では家族との関わり方に大きな変化がありました。日本で暮らしていた頃は、仕事のことばかりを考えていましたが、海外では家族の生活に積極的に関わり、生活環境を整えたり、日常生活のサポート(学校、病院、買い物、余暇)にも力を入れるようになりました。学校選びについては、私自身の留学経験から現地校を勧めましたが、息子達から「お父さんは自分の意志でアメリカに留学したんでしょ?僕らはお父さんの転勤で外国に来たんで自分の意志じゃないんだ!」と反論され、彼らの気持ちを尊重して日本人学校に通わせることにしました。(立派な主張だと感心しました。)
今では日本人学校に通わせたことが正しい選択だったと思っています。日本人としてのアイデンティティを確立する過程での良い教育を受けられました。ロンドン日本人学校には優秀な教師と生徒が集まり、非常に高い教育レベルが提供されていました。また、欧州を訪れる日本の要人(宇宙飛行士、スポーツ選手、芸術家、ミュージシャン、学者、政治家等)の多くがロンドン日本人学校に立ち寄り、貴重なお話を子供達に聞かせてくれる機会があり、大変恵まれた学習環境にありました。

日常生活 ②:ロンドンの暮らし
ロンドンでの生活は、歴史的な街並みや博物館、美術館、そしてミュージカル等、文化に容易に触れることが出来ました。気候は北海道より北に位置する為冬はやや寒いものの、年間を通じて非常に快適でした。また、都会でありながら自然が豊かで、緑あふれる公園が数多くあります。自宅の裏庭には、狐、リス、野鳥が頻繁に訪れ、心を癒してくれました。賢い狐は、生ごみを入れるコンテナのロックを外して荒らしていくこともあり、彼らとの知恵比べも日常の出来事でした。ロンドン中心街の観光スポットは、私達にとっては生活圏の一部であり、散髪や息子達のスポーツ用品、日本食材等の買い出しをしていました。日本食材は日本価格の何と3倍で、購入する品物によって一番安い店を選ぶ等節約に努めました。

日常生活 ③:自動車通勤
通勤については、赴任当初は大きな試練でした。オフィスは自宅から南西に60kmの距離にあり、朝の通勤時には頻繁に事故渋滞に巻き込まれました。英国では、警察が事故現場の調査を終えるまで道路を閉鎖する為、高速道路内で閉じ込められ、トイレに行けず苦しい思いをしたこともあります。閉鎖が解けた後、急いで高速道路を降り、ヒースロー空港で用を足したことも。たった10分の駐車でしたが、これまでで一番高くついたトイレでした。帰りが遅くなると、高速道路が閉鎖されて入れなかったり、途中で閉鎖となり止む無く最寄りの出口から出て行かなければならず、何度も道に迷いながら真っ暗な山道のような場所を走りました。その過程で、帰宅ルートが自然と増え、道に詳しくなりました。一度慣れてしまうと、自動車通勤は一人になれる特別な時間となり、iPhoneに入れた70~80年代の歌謡曲を大声で歌いながら眠気を覚まして帰る日々を楽しみました。

日常生活 ④:ハプニング
息子の剣道教室に参加した際、アキレス腱を断裂し、ロンドンの救急病院(A&E: Accident and Emergency)で全身麻酔の日帰り手術を受けることになりました。そこではクロスファンクショナルチーム(機能横断型チーム:CFT)による対応が行われており、大変興味深いものでした。
窓口での受付を済ませた私は、病室を行き来すること無く、直ぐに移動式のベッドに乗せられました。そのまま手術着に着替え、手術室前で待機する他の患者達の長いベッドの列に加わりました。手術が流れ作業のように次々と行われ、ベッドの列が動きながら手術室に近づいていく様子を見て、自分がまるで工場の生産ラインに投入された材料のような感覚を覚えました。 病院スタッフは役割毎に色分けされた制服を着用し、それぞれの専門分野に基づいてテキパキと対応してくれました。私のベッドには、手術前から退院までの全ての手順が記された私専用のノート(※)が置かれており、スタッフはそのノートに従って入れ替わり立ち代わり私の前に現れては、チェックボックスを埋めながら正確に漏れなく処置を進めていました。このオペレーションは、病院の人手不足を補い、患者の精神的・身体的負担を軽減するもので、大いに感銘を受けました。


(病院スタッフの制服:役割別色分け)  

(日帰り手術用ノート)

尚、私は外国人でしたが、NHS(National Health Service:国民保健サービス)に加入していた為、薬代を除き医療費は無料でした。一般的に日本人駐在者は会社で加入する海外旅行保険を適用し、高額なプライベート医療サービスを利用することが多いですが、私はNHSの病院で奇跡的に手術日を確保出来た為、また冒険心にも駆られて手術を受けることにしました。因みに、奇遇にも同じ剣道場で数週間後にアキレス腱を断裂したポーランド系の方は、NHSの手術待ちが3カ月だった為、ポーランドで手術を受けたそうです。英国の医療現場が慢性的に混雑し、極めて厳しい状況にあることは事前に知っていましたが、道場で私の為に呼んで頂いた救急車が2時間待ち(後にキャンセル)だったことから、その現実を身をもって痛感させられました。
※ノートには、手術前の準備(体温、脈拍、血圧、血液チェック、退院後の松葉杖の使い方指導等)から、術後の体力回復処置、退院許可迄のプロセスがページ毎に記載されていました。 その後、ギブスを装着してのドイツ出張では、イミグレーションの審査が驚くほどスムーズに進み、健常者としての移動よりも楽で早かったという貴重な体験もありました。イミグレーションでは電気自動車に乗せられ、そのまま空港出口まで送って貰えたことも印象に残っています。

英国赴任を終えて
振り返ると、英国での赴任は、仕事、異文化での暮らし、そして家族との時間という三つの面で、多くの学びと成長がありました。仕事や異文化での経験はこれまでも積み重ねてきましたが、家族の存在を何より大切にし、共に過ごす時間を最優先するようになったのは、この英国での生活がきっかけでした。子供達が成長し、家族で一緒に過ごす時間が減ってしまった今、コロナ禍のロックダウン中に家族水入らずで過ごした時間が特別な思い出となっています。ロンドンの青空の下、自宅裏庭で楽しんだBBQは、かけがえのない記憶です。 


(ジブラルタル海峡:ここから顧客のいるモロッコへ船で渡りました)


(ストーンヘンジ:ロンドンの自宅からたったの130km)


(アイスランド:家族旅行)

● 現在:コネクタ事業ライン
海外赴任から帰国後、特定顧客の営業チームの責任者を務めた後、営業ラインを離れ、海外契約書のリーガルチェックという新たな職務に就きました。この業務では、海外の取引先や今後取引を予定している会社から提示された契約書に含まれる法的問題や自社に不利益な条項が無いかを精査します。また、取引内容に適合しているかを確認し、必要に応じて修正案を提示します。契約締結プロセスは、最終交渉の場であり、トラブルを未然に防ぎ、健全な関係を築くことが重要です。
法務バックグラウンドはありませんが、営業経験を通じて基本的な契約書の知識は持っていました。しかし、それを専門職として扱うのは全くの初心者であり、当初は手探りの状態でした。その為、法務部門のアドバイスや支援を受けながら、外部セミナーを受講し、情報収集を重ねて来ました。現在、業務を始めてから1年以上が経過し、100件以上の契約書をチェックし、150件以上の文献を読み、少しずつ知見が積み上がって来たと感じています。 この仕事において、私が特に重視しているのは、営業バックグラウンドを活かしたリスク評価です。同じ条文でも、相手方がどのような会社で、どのようなビジネスを進めようとしているのかによって、評価が異なります。長年の海外ビジネス経験を基にした分析・判断力を発揮し、日々新たな業務に全力で取組んでいます。


(ロンドン: タワーブリッジを一望しながらのアフタヌーンティ)

【エピローグ】
これまでのキャリアを通じて学んだのは、「人生に無駄な経験は無い」ということです。転職や新たな挑戦を重ねる中で、失敗と成功を繰り返して来ましたが、その全てが今の私を形成する大切な要素となっています。若い世代の方々が自分の夢を追いかけ、理想に向かって進む為の力と勇気に少しでもなればという思いを込めて、この体験記を書き進めました。
「外国人と日本人は、同じものを見た時に同じように見えるのだろうか?」幼い頃に抱いたこの疑問に対する答えが、年月を経て少しずつ見えて来たように思います。私達の世界の見え方は、目の色等の生まれ持った特徴や、育った環境、経験によって異なるものです。同じ日本人同士でも、年齢や生活環境によって物の見え方には違いがあることを日々感じています。
交通機関の発展による人的交流に加え、インターネット技術の革新による国境を越えた情報交換の活発化が、本格的なグローバル社会の到来をもたらしました。今や世界中の人々との共生が日常となり、日本でも様々な背景を持つ人々が増えています。グローバルスタンダードや普遍的価値観の追求が進む中で、この流れに対して懸念も感じています。均一化による公平性は大切ですが、それによって多様性が失われることは避けなければなりません。また、多様性を認める為にマイノリティーを優先することが、時に不条理を生むこともあります。私達は、非常に難しい時代の局面に立たされています。
私は、より良い未来を築く為に、日々の小さな一歩を大切にしながら、自分らしく出来ることを続けて行きたいと思っています。この体験記が、読んで下さった方にとって、少しでも前向きな気持ちや、新たな一歩を踏み出すきっかけになれば幸いです。

(原田 晴之さんプロフィール)
 群馬県出身
1984年3月 東京都立板橋高等学校 卒業
1985年6月 米国カリフォルニア州Bloomington High School 卒業
1986年4月 東京国際大学教養学部国際学科 入学 (下羽ゼミ)
1989年9月 米国オレゴン州Willamette University入学 (3学年編入)
1991年5月 米国オレゴン州Willamette University 卒業 (BA政治学専攻)
1992年3月 東京国際大学教養学部国際学科 卒業 (大越ゼミ)
1992年4月 池上通信機株式会社 入社
1996年3月 池上通信機株式会社 退社
1996年4月 Cyber Technologies International株式会社 入社 (ITベンチャービジネス)
1996年10月 Cyber Technologies International株式会社 退社
1996年11月 Activision Japan 株式会社 入社 (米国ゲームメーカー日本支社)
1997年6月 Activision Japan 株式会社 退社
1997年7月 日本航空電子工業株式会社 入社 (電子機器・部品メーカー)
2016年3月 JAE Europe, Limited 出向(英国販売子会社)
2020年10月 日本航空電子工業株式会社 帰任、現在に至る

(航空電子スポンサーのボブルヘッド人形)
 

(シアトル:イチロー選手)

 

TIU 霞会シンガポール支部