1.はじめに
「789●△×◎」東京国際大学(当時は国際商科大学教養学部)在籍時の学籍番号、今でも鮮明に覚えています。
私は、現在、芸術文化を核とした国際交流や教育、福祉など、社会貢献事業の企画プロデュースをメインに、地域活性化や企業のプロモーションを提案しています。地域の文化施設の活性化と芸術文化教育事業、国際交流事業等による商圏の拡大、新規顧客の呼び込み、地域の次世代の育成、地域からの発信等を通し、文化と経済の融合を目指す地域活性化事業等を企画しています。
海外から演奏家やバレエダンサーを招へいし、大使館や大使公邸でのコンサートの他、青少年や若手プロに同じステージで共演する機会を提供し、彼らの夢の後押しをする教育事業が、実に驚くほどの成果をあげています。これまで参加された小学生~高校生は、現在、世界中のバレエ団で活躍し、中には、映画女優となって、日本アカデミー賞新人賞を獲得したり、ミスワールド日本代表になった人も、10万人のフォロワーをもつYOUTUBERになったりと夫々が多方面で、実に生き生きと挑戦を続けています。
彼らは、まだ始まったばかりの「夢の学校」という人生で、より多くを経験し、学び、チャレンジし、頑張れば、夢は実現するという事を身をもって学んでいるのです。
2.大学までの道
私は、群馬県館林市の出身で、小学校に入る前から、ヤマハの音楽教室に通ったり、洋舞踊を習ったり、活発で、好奇心旺盛なこども時代を過ごしました。
幼少期は、母の影響を多く受けました。母は、東京から群馬に疎開して来た人で、音楽や芸術に造詣が深く、その影響もあって、私も小学校入学前から、オルガン、ピアノを習いました。練習が嫌でサボり癖のある私に、母はスパルタで厳かったのですが、今では大変感謝しています。楽器は、練習しないと絶対に弾けないので、努力体質が身につきます。「やる」という意味は、単に時間を過ごすだけでなく、「できるようになるまで」が、「やる」という意味だと身をもって学べるのです。
また、洋舞踊は、思い切り身体を使って表現するのが楽しく、中学では体操部に入り、県大会に出場するほど頑張りました。この経験も、今、ロシアのバレエダンサー、イリーナ・ペレンとマラト・シェミウノフのプロデュースやバレエの教育事業を企画するのに、大変役立っています。
ピアノの先生のお父さんは、日本キリスト教団の牧師さんでもあり、日曜学校にも通いました。毎週聖書を読み、賛美歌を歌い、クリスマスには、劇をやったり、色々な家を回って、玄関先でクリスマスキャロルを歌ったり、夏はキャンプなどもしました。そんな経験から、先生のご家族と大変親しくしておりました。
ピアノの先生は、私が小学校4年生の時に、布教活動などの為に、カナダに移住することになりました。それから、先生との文通が始まりました。日本では、おとなしく、控えめな先生で、けっして社交的とは言い難かったのですが、その先生が、友人たちと車で、カナダを横断したり、バンクーバーの夕日の中をクルージングしている写真などが送られてきて、異国の生活文化に接し、大変刺激的で、外国へのあこがれを強くしました。
先生の父である、牧師さんは、英語の塾もされており、私が、小学校5年生になると、その英語塾へ入会のご案内が送られてきたので、何の疑問もなく、入塾しました。行ってみると、私以外の参加者は、皆6年生でした。中学から始まる英語の予習として、6年生にのみ、案内したようですが、私も6年生だと、牧師さんが勘違いしてしまったようでした。
6年生の先輩の中で、ただ一人の5年生でした。とにかく、私は、ピアノの先生との文通で芽生えた海外へのあこがれから、その為に、英語が不可欠であり、英語を学ぶことが楽しくて仕方なかったのです。そして、その結果、自分で言うのは何ですが、年下の私が、一番できてしまって、嬉しい反面、先輩方に悪い気がして、課題のペーパーができた順に提出して帰るという時は、出来上がっていても、一番最後に提出したりと、こどもながらに気を使っていました。
翌年も、今度は、同期の6年生たちと一緒にまた、同じコースを受けました。中学入学前に2年英語をやっていたので、中学での授業は、楽々すいすいでした。
ピアノの先生との文通も続き、カナダの美しい自然や、ホームパーティーなどの楽しそうな写真や絵ハガキは、私の外国へ行ってみたいという思いを年々強くさせました。1969年、アポロ11号月面着陸のテレビ中継以来、通訳という仕事が脚光を浴びていました。サイマルアカデミーの西山千さん、國広正雄さん、村松増美さん、鳥飼久美子さん、TBSのニュースキャスターを務めた浅野輔さんなどに、あこがれるようになりました。
母は、「女は、勉強なんかできなくても良い。学校なんて、どこでも同じ。」と公言しており、中学の先生は、隣の県の高校への進学を進めましたが、家から自転車で通えるところ、ということで、群馬県立館林女子高等学校に進みました。相変わらず、英語は好きで、得意でした。英語と数学が得意でした。クラブは、マンドリンギター部に所属し、指揮者として、多くのコンサートに出演しました。ちょうど、中学生の頃、館林市文化会館が建設され、開館当時は、連日、群馬交響楽団の演奏会や、劇団四季のミュージカルなど、文化会館に行くのが楽しみでした。そして、その同じ舞台で、自分も発表会でピアノを演奏したり、踊ったり、指揮をする機会に恵まれました。
旺文社のヨーロッパ英語研修ツアーの情報を見つけ、過去の参加者の感想などを読んでいるうちに、私も行きたくなり、無理だろうなと思いながらも、その思いがだんだん募って、ついに、母に相談しました。高校2年の時でした。
夏休みに、約3週間、イギリスのラムスゲートで、ホームスティしながら、外国人向けの英語学校に通い、その後、フランス、スイス、イタリアへの旅行がついているツアーでした。蛍雪時代や辞書などの出版社として、当時は、最大手だった旺文社が、中学生、高校生を中心対象として企画している語学研修ツアーで、親の心配を軽減するために、4人から6人のグループに、大人が一人つくという。旺文社が株主になっている、TV朝日の中堅社員のサバティカルか、海外のTV局の視察などもかねて、こどものリーダーとして、ついてくれるという体制で、本人も親も安心して、海外に出してもらえることになりました。
当時は、まだ外国へ行くのは珍しく、特に、私が住む群馬県館林市では、ましてや家族が同行せずに、高校生が一人で約1か月を一人海外へ行くというのは、大きな冒険でしたし、心配もされました。
担任の先生は、英語の先生だったので、よくわかってもらえるかと思いましたが、そうでもなく、校長先生と教頭先生とも面談をし、まるで、青山光子が、クーデンホーフ伯爵との結婚の為、ヨーロッパに渡る際、皇后陛下に謁見し、「海外にあっても、日本女子としての誇りと自覚を胸に、行動するように」とのお言葉を頂いたように、私も、校長先生から、「海外に行っても、館女生としての、自覚をもって、品行方正に勤めるように」というような言葉を賜りました。真面目な私は、イギリス到着後から、毎週、校長先生宛に、絵葉書を送りました。
高校時代には、QUEENなどロックグループのファンクラブに入ったり、武道館でのコンサートに行ったり、ロックマガジンなどを購読したりしました。またその頃、加藤タキさんが、コーディネーターという職業として、脚光を浴びており、私も、英語を使って、ロックグループの取材やコーディネートなどをする仕事につきたいとも思うようになりました。
そんな高校時代を過ごし、いよいよ、高校2年の冬頃から、進路を考えるようになりました。ピアノの先生や音楽の先生は、音大に行くことを進めてくれましたし、洋舞踊も習っていたので、ダンスの方面に進むか、また、数学も結構得意だったので、担任の先生などは、全科目受験の公立大学の教育学部などに行って、教師になるのが良いのではないかとか。。。
しかし、私の中では、通訳者、あるいは、コーディネーターになりたいという思いもあって、浅野輔先生と國広正雄先生のいる国際商科大学教養学部を受験しようと思いました。英検2級をもっていたので、推薦入学を受けました。そして、その他、ミッション系の大学も受験しました。
残念ながら、ミッション系の大学には、受からなかったのですが、その別の大学で見かけたファッショナブルな方を、国際商科大学の入学式で見かけ、声を上げそうに、嬉しくなりました。しかも同じクラス。とても仲良くなり、彼女の新婚旅行に同行するくらいの親友になりました。
大学時代は、通訳を目指していたくらいですから、英語のクラブに入りました。英語のクラブは、2つありましたが、英語で話す中身も学ぶというELI(English Language Institute)に入りました。毎日昼休みには、NHKのラジオ講座を先輩と予習復習し、放課後には、政治や経済の本などを読み、その内容を英語でディスカッションやディベートをするための論理的な思考を、英語と共に学びました。厳しく、かつユニークな先輩方に恵まれ、刺激的で、楽しく充実した日々でした。週末にも、KUEL関東学生英語会連盟等の大会(ディベートの試合等)などのイベントも多く、アルバイトなどする時間は、ありませんでした。
3年になって、国際関係学科を選び、ゼミは、国際政治、国際関係論の原彬久先生にご指導頂きました。これまたこのゼミの同期及び先輩方が、大変ユニークな方々で、しかし、とてつもなく優秀で、家族的な雰囲気の中、自主的なサブゼミ、本ゼミでも、多くの本を読み、自分の頭で考え、自分の意見を言う訓練をさせてもらった時期でした。恐れず、ひるまず、自分の考えをまとめ、発表する。問題提起をして、議論をする。そんな日々でした。しかし、秋霞祭などでは、ジャガイモのお店を出したり、皆で、色々な体験を共有しました。今思えば、本当に多くを経験し、鍛えられ、協力し、また、卒業できないかもしれない仲間を助けようと色々な応援や手伝いをいしたことなど、今も鮮明に会話の一つ一つが思い出されるほどです。私は、その男子からは、当時「親分」と呼ばれてました。下宿にノートを借りに来るだけでなく、風邪ひいたと言っては、ティッシュやみかんなど何でももらいに来ました。私は、その頃は、2階建ての一軒家に、最初の下宿で一緒だった同期の女性と2人で暮らしていたので、いつも、ことあるごとに色々な意味で頼られていました。
卒論は、「日本の外交政策決定過程における文化的要因―日本外交の文化人類学的考察―」だったかと思います。大学4年の夏頃から、ゼミの他の方々の就職が決まってきて、私もそろそろ卒業後の進路を考えなければならないと焦りました。当時、高度成長の波にのり、スポーツや余暇産業が良いのではと、YONEXを受けることにしました。就職課に色々と相談に行きましたが、イメージ的に良いなと思った大企業などは、親元からの通勤1時間以内の条件や、縁故採用だけだとか、当時は、女子の就職にまだまだ制約がある時代でした。そんな中、条件のないオープンに応募を募っているYONEXに焦点を絞りました。しかし、10月からの採用試験というので、他のゼミ生が、8月、9月に早々と就職を決め、卒論に集中している中、焦りのようなものも感じ、他にも、外資系の製薬会社、船舶会社、大手通信会社など、受けることにしました。しかし、私が希望した会社は、ほとんどが、「就職協定を守るので、11月から」というような感じでした。そんな中、YONEXは、10月から、書類選考、筆記試験、ディスカッション(モスクワオリンピックのボイコットを題材に、政治とスポーツに関するテーマ)などの試験がありました。ディスカッションは、ELIで仕込まれたので、得意分野でした。しかも英語でなく、日本語でいいのですから、水を得た魚のように、本領発揮!そして、次には、一次面接、役員面接、と勝ち進んでいき、やっと、採用となりました。
最初に出た採用内定はYONEXでしたが、11月の段階で、まだ、他に数社が筆記、一次が合格しており、更に、まだ先に面接試験が待っておりましたが、原先生の「一つ受かれば、もう良いじゃないか」という言葉に従って、YONEXに決めました。何度も試験の度に、会社に行っていたので、なんとなく既に愛着のような感情も芽生えていました。また、試験の度に会場で一緒になる他の受験者と顔見知りになっており、言葉を交わしたりしていたので、入社式の時には、既に3人ほどと友達になっておりました。そんな風に始まった社会人。社会人として1社目は、YONEXでした。
3.人生での良き出会いに導かれて
(1)メンター:村松増美先生
私の最大のメンターは、月面着陸やサミットでも有名な同時通訳者で、サイマルアカデミーの校長、村松増美先生です。10歳の頃、TVでドキドキしながら見た、月面着陸の同時通訳者、あこがれていた先生と、大変親しくさせて頂くという幸運を得ました。
湯島にあるYONEXの東京本社には、群馬から約2時間かけて通いました。冬は、朝、まだ星が出ているうちに、家を出るような感じで、夜も結構残業が多かったので、8時くらいに退社するような日々でした。同期入社、大卒女子は、7人でしたが、皆仲良しでした。会社は新潟が本社で、スポーツ用品という先の成長性が見込める会社でしたが、自分にはあわないとすぐに感じました。しかし、石の上にも3年というので、3年は、我慢しようと思いました。結果、3年7か月をここで学びました。学校は、黙っていても、3年、4年で卒業になります。これまで、クラブ活動などでも、入ったら、途中でやめるのは、なんとなく、我慢のできないダメ人間のようで、途中でやめることはなかったのですが、しかし、会社は、卒業という節目が回ってこないので、自分で卒業するしかないと言い聞かせました。辞めるということに関して、罪悪感を感じ、ものすごく悩んでしまったからです。
YONEXにいる時から、通訳になりたいという夢に向かって、サイマルアカデミーに通っていました。YONEXを辞めてからは、更に、上級のクラスに通いました。そして、サイマルアカデミー主催のオーストラリア英語研修ツアーに参加しました。その頃、サイマルアカデミーに掲示されていた「オランダ博のコーディネーター募集」を見た年配のクラスメイトが、「あら、こういうの、あなたにむいてるんじゃないの」と進めてくれて、願書を出してみました。
数日後、衆議院議員中山太郎事務所から電話がありました。「オランダ博のコーディネーターにご応募ありがとうございました。こちらの職は、すでに決定してしまったのですが、良かったら、秘書兼コーディネーターとして、働きませんか。」つまり、中山太郎先生の国会事務所で、秘書として働かないかというオファーでした。
通称MM、村松増美先生のモットーは「よく学びよく遊べ」。英語の他、国際人としての心得やマナー、学ぶ姿勢、好奇心、人との付き合い方など、本当に多くを学びました。また、スキー仲間として、一緒に滑ったオーストラリア、ニュージーランド、踊りまくったディスコなど、忘れられない思い出がたくさんあります。ビジネスやアカデミアの一線で、国際的に活躍する著名な大先輩方、各国大使もご紹介下さって、これらの方方からも多くを学びました。
衆議院議員中山太郎先生の秘書として、国会事務所に勤務することに関し、少し戸惑っていた私は、丁度、オーストラリア研修旅行の帰りの飛行機の中で、MMに相談しました。「私の知る限り、中山先生は、クリーンで立派な方だから、やってみなさい」との助言を頂き、迷いなく挑戦することにしたのでした。中山太郎先生の秘書、コーディネーターとしては、脳死臓器移植法案ができるまでの過程を経験させて頂き、その他、昭和天皇崩御の時などは、大変貴重な経験をさせて頂きました。同時に忍耐も学びました。
その後、サイマルの先輩の紹介で、作曲家の都倉俊一氏が会長を務める企画会社、「クローバー21」に勤務することになりました。当時、都倉氏が、投資家を集め、長崎原爆をテーマにしたミュージカルを、ロンドンで制作する為に作った会社でしたが、なかなか制作に時間がかかり、その間、私は、文化事業の企画プロデュースを担当することになりました。この時の経験が今の私の仕事の根幹を作っていると言えます。
1991年、ソ連のミハイル・ゴルバチョフ大統領の来日を記念して開催された、ワールド・チルドレンズ・フェスティバルの制作スタッフとして、財団法人国際児童交流財団ウエーブ2千に出向することになりました。
このイベントは、当時のソビエト連邦から100人、米国から60人、東西ドイツから30人のこどもたちを其々招き、世界平和を願い、芸術文化で交流する趣旨で、海部首相はじめ、財団の会長、長嶋茂雄、副会長、岡本綾子、カール・ルイス、ブルック・シールズ、ペレ他、国内外から様々な著名人が出演したバブル期ならではの祭典でした。こどもサミットでは、ミハイル・ゴルバチョフ大統領と海部俊樹内閣総理大臣が、平和の指きりをするという演出で、これはTVでも大変話題になりました。この大規模なイベントを約2週間で準備し、徹夜続きの日々で、私は完全に燃え尽きてしまいました。その後、この財団から、新しく始まる事業を担当してもらえないかとお声がかかり、財団職員となりました。それは、「夢の学校」という事業でした。
実は、最初にこの事務所に打ち合わせで出向いた時に、「私もこういうところで、仕事がしたいな。どういう人が、こういうところで働けるのだろうか。」と事務所を出る時に、働いている人を横目で見ながら、心でつぶやいたのですが、 何気に心に思っただけで、それに関して、就職活動をしたり、お願いしたり、アピールしたことも、何もしなかったのですが、願ったことが上から降ってきたような感じでした。
(2)夢の学校
長嶋茂雄が会長を務める国際児童交流財団ウエーブ2千は、「こどもたちに夢と希望を与える活動を行う」文部省所管の財団で、私は、「夢の学校」の事業主事となりました。
これは、長嶋茂雄、カール・ルイス、宇宙飛行士テレシコーワ、音楽家や俳優など、夢を成し遂げた人と一緒に小学校に行き、児童と講師となる著名人が互いに夢について語り合う交流授業で、1年間に、全都道府県84校の小学校で開催しました。なるべく、そういう経験を得難いと思われる離島や、全校生徒5人の山の中の学校とか、色々な学校を回りました。講師の選定、交渉、現場での仕切り、学校の選定、交渉、ロケハン、ロードマネジメント、アテンド、メディア対応、スポンサー対応と、想像を絶する忙しさで、年がら年中、旅をしているような感じでしたが、この経験も、現在私の仕事に大変役立っています。
私は、これらの講師が、こどもたちに語る熱い言葉を毎回聞いていました。例えば、カール・ルイスは、「こどもの頃、家族皆走るのが速かったのに、自分だけ遅かった。けれども走るの大好きだったので、いつかは速く走れるようになりたいと思い続けた。Never Give Up」と話す訳です。長嶋さんは、「貧しかったので、野球のボールが買えず、母が、夜中に、手を針で刺して血だらけにしながら、ボールを縫って作ってくれた。だから、頑張った。」と。これらの話に、私自身も大変勇気づけられ、大切はことをたくさん学ばせてもらいました。
ところが、残念なことに、この財団は1年後には潰れてしまい、それで仕方なく独立したのです。ある日突然仕事場が無くなってしまったので、途方にくれました。それまでに頂いた名刺を整理し、「独立したので、宜しくお願いします。」とお願いに行くのですが、お願いしないと誰にもわからないし、独立したと言ってしまうと後には引けないし、とても怖くて孤独で不安な時期でしたが、何とか生き延びました。
(3)K & Associates Internationalとして独立
そうして作ったのが、K&Aです。自分一人では、何もできないけれど、皆さんに助けて頂いて何とかできるという思いからK&アソシエイツにしました。
最初の仕事は、「24時間TV愛は地球を救う」で、歌手のマルシアさんの初恋の相手を探して、ブラジルから日本に来てもらうコーディネートでした。いくら請求して良いのかもわからず、「安すぎる」と言われ、そのような仕事の料金の相場も、仕事先に教えてもらうような船出でした。
その後は、地方の文化施設の企画やコンサルティングの仕事の機会を得ました。「夢の学校」の経験が評価されての依頼でした。神奈川県の「地球市民かながわプラザ」が最初の案件でした。この仕事の延長戦上で、NPO法人 ちきゅう市民クラブを設立しました。
また、この頃は、地域活性化のコンサル、市民大学講座の企画など地方自治体の仕事を中心に、商工団体のコンサルなど、地方の仕事が多い時期でした。これら行政の仕事をし、単年度の予算の組み方、事業の在り方など多くの疑問を感じ、改めてそれらのことを学び、考えてみたいと思い、立教大学大学院文学研究科比較文明学専攻博士前期課程に入学します。「文部科学省研究費助成研究」に参加し、地域と文化、公共のマーケティングなどを研究し、引き続きソフトパワーを活用した地域活性化のコンサルの仕事をしていました。
「地球市民かながわプラザ」の仕事で多くの留学生を紹介してくれた友人である工学博士チョウドリ モーミンウッディンさんが独立する際、会社設立を手伝い、株式会社チョウドリ ソフトウエア サービスのマーケティングを担当することになりました。文化と化学工学は、全く違う分野であり、そこに関わる人も仕事の仕方も違うので、大変刺激的で、一からの勉強でしたが、視野が広がりました。クライアントのエンジニアは、私の専門が化学工学だと思っており、最初に出版社から出た出版物に、執筆者として私の名前が出たのは、化学工学の専門書でした。大学院の学位、比較文明学修士が取得できたのも、チョウドリさんの応援と助言のお陰で、大変感謝しています。
(4)ピッコロ・ヴァイオリン研究会
2006年、ピッコロ・ヴァイオリン奏者、グレゴリー・セドフとの出会いにより、自費で音楽家を海外から招き、コンサートツアーを主催するという無謀な事業を始めることになってしまいました。それは、私が信頼する電気通信大学教授早川正士先生からの紹介でしたが、私自身、セドフさんの奏でる美しい音楽と、更に、この楽器を制作した音響学者カーリン・ハッチンス博士の偉業に感動して、この楽器を広めたい、セドフさんのことを多くの人に知ってもらいたいという使命感に燃えてしまったからでした。
私が感動したように、多くの方の共感を得られると思っていたのですが、実際は、クラシック音楽界の保守的な高い壁に阻まれ、苦労の連続でした。困難な状況であればあるほど燃えてしまい、「社会の受容能力を高めたい。新しいことに挑戦する人を応援したい。」との思いを強くし、「ピッコロ・ヴァイオリン研究会」を立ち上げ、以後、毎年、自費でセドフさんを日本に招き演奏会を主催するようになりました。
この頃、NHK教育TV趣味悠々「かっこよく弾く簡単ピアノ講座」などピアニスト、斎藤雅広さんのマネジメントや、企業の周年事業企画の仕事もしていましたが、とにかく、セドフさんの自主公演と招へいにお金がかかり、すっかり貧乏になりました。この苦労はしばらく続きました。とにかく必死に、できることは何でもやりました。文系ですが、東京大学で開催された日本音響学会で発表したり、学会誌に投稿したり、ラジオやTVにも出ました。そして、2010年には、当時の皇后陛下美智子様が、演奏会にお越し下さるという夢のようなことが実現したのです。
これも、色々なご縁が重なってのことでした。これで、多くの方に知って頂き、次の年には、苦労なくツアーを開催できると期待したのですが、神様は、更なる試練を下さいました。
2011年3月、東日本大震災に見舞われました。その年は、6月にセドフさんのツアーを予定しておりました。
(5)もう一人のメンター:下村満子さん
ジャーナリストの下村満子さんとの最初の出会いは、私が、自治体の市民大学講座などの講演会の企画をしていた際に、講演をお願いしたのが最初です。ちょっと色々あって、一旦決まった仕事だったのですが、ある誤解により、その後お断りされてしまったのです。困った私は、どうしようかと思いながらも、その時の気持ちや状況など、誤解が解けるよう、手紙を書いて送りました。その後、ご理解頂き、一度いらっしゃいということで、お目通りし、直に色々お話させて頂き、その後、親しくさせて頂くようになりました。
当時、下村さんは、医療法人の理事長をされており、VIP向けの健康サロンとして、岩月明シェフの「360Kカロリー、塩分2.2グラムのフルコースフランス料理」を紹介し、この料理を食べる会を開催して頂きました。その後は、ロイヤルパークホテルで、春夏秋冬の食材を活かし、年に4回、3年間一緒に開催しました。セドフさんの演奏も聴いて頂き、色々な方にご紹介下さいました。そして、2011年に下村さんの実家のある福島では、「下村満子生き方塾」が4月に開講予定で、その応援団に、私もセドフさんも加えて頂きました。
開塾を迎える準備をしていた3月、未曽有の大惨事が勃発しました。東日本大震災、津波、続く原発事故の3重苦が福島を襲ったのでした。下村さんは、事故直後、4トントラックに自らが乗り込み、食料や医療物資を届けるなどの活動をすぐさま始めました。
同時に、生き方塾はどうするのか。中止にするのか、延期にするのか。生き方塾の6月の会では、私が招聘する、また、同じく下村満子生き方塾の応援団にも加えて頂いているグレゴリー・セドフの演奏会も予定されていました。そもそも、そんな時に招聘できるのか。放射能を恐れて、海外に帰国する外交官や、来日をキャンセルする外来音楽家などが多い中、はたして、セドフさんは、日本に来てくれるのか。私が主催する東京公演も、芸大の学長他との共演の内容でしたが、キャンセルするか、実施するか、決断が迫られました。
とても厳しく悩ましく辛い時でした。省エネ、時差停電も敢行される中、夜の演奏会は、電力の消費というような批判もあり、また、多くの方は、外出を控えるようになった為、演奏会を開催しても、誰も来てくれないのでは、というような状況でした。
下村さんの生き方塾は、受講予定の福島の皆様が、「こんな時こそ、生き方塾が必要。なにか、心の支えがないと、生きていけない。前を向いて、進むために、是非開講して欲しい」と声を上げました。
その声に押され、下村満子生き方塾は、4月16日、余震が続く中開塾し、私も東京から参加致しました。その時、塾生の入塾の決意表明を聞き、更に私の母の「やれ~!」という言葉に背中を押され、また、グレゴリー・セドフがいち早く、「こんな時こそ、日本へ。皆さんの力になりたい」とのメッセージを寄せてくれ、招聘及びツアーを敢行することを決意しました。
福島での生き方塾での演奏会では、「ふるさと」や「会津磐梯山」などもレパートリーに加え、福島の皆様を元気づけました。会場では、すすり泣く声が聞こえました。この年は、埼玉に避難している双葉町の皆さんのところにも慰問演奏に行きました。その時、皆さんの失意の中での静かな葛藤、心の強さに、私もセドフさんも大変感銘を受けました。
前年に、ヤマハホールでの皇后陛下美智子様がお越し下さった演奏会に東京国際大学の理事長はじめ学長や同窓会役員の皆様がお越し下さったご縁で、2011年は、東京国際大学のオーディトリアムにて、オープンキャンパスの一環で、セドフの演奏会を開催して頂きました。コンサート後には、倉田信靖理事長とセドフの対談も行われ、私は、その司会進行及び通訳を務めました。
そして、この席上、グレゴリー・セドフは、これまでの日露交流活動や福島被災地支援などの功績をご憲章頂き、東京国際大学特命教授に任命頂きました。
その後も、東京国際大学でのグレゴリー・セドフの演奏会は、2013年と2016年に開催されました。
下村さんの生き方塾との関わりもあって、私とセドフさんの福島を応援する活動は、2011年から現在まで続いています。実は、ロシアでも、3月に、「福島の為に祈る」というコンサートを行っており、2020年は、また、夢のようなことでしたが、この演奏会のオープニングに、上皇后陛下美智子様が詩の朗読をされている映像でご参加下さり、大変特別な演奏会となりました。これも、Something Greatなお導きとしか言いようがありません。
また、下村満子様には、色々な機会を与えて頂きました。その最たるものは、「ダライラマ法王14世と科学者との対話」の総合司会に、私を推薦して下さったことです。360Kカロリーのイベントでは、経費削減の為、企画から司会までも私が担当していたので、それを聞いていて推薦して下さったのでした。その結果、TV局のアナウンサーも差し置いて、何と、私がその大役を務めることになりました。2012年と2013年、2度仰せつかり、その都度、法王より、お経を織り込んだシルクの白いスカーフ、祈りの「カタ」を頂きました。これも、真に夢のような出来事でしたが、下村満子さんのお蔭と心より感謝申し上げます。
4.人生は夢の学校-大学はインキュベーター-
人は何の為に生きるのでしょうか。誰もが人生でぶち当たる問いです。
私は、自分の人生を振り返り、人生の方向性は、小学生の時代にほぼ出来上がったように思います。その後の希望や思いも、その為に、例えば大谷翔平さんのように、人生設計ノートを書いたわけでもなく、掲げた目標に向かって、他のことを犠牲にして突き進むほどの努力をしてきた訳ではありませんが、なんとなく、思った方向へ導かれた気がします。おそらく、それは、私だけでなく、ほとんどの人がそうなんじゃないかと思います。
カール・ルイスが語った通り、思えば叶う。もちろん、人生は、良いことばかりでなく、むしろ、嫌なこと、避けたいこと、そして、ショッキングで立ち上がれないほどの苦しみの方が多いのだと実感します。しかし、人生は、その都度がレッスンであり、トレーニングであり、チャレンジだとも思うのです。
大学時代、多くのユニークな先輩や同輩に恵まれ、様々な経験をしました。厳しいゼミでは、多くの本を読み、本に読まれることなく、自分の頭で考え、他の人と違っても、自分の意見を言う訓練をさせられました。自分の信念や感受性に関しての自信があります。それは、音楽や洋舞踊を習った経験からも培われたものです。
世界同時パンデミックという未曽有の事態を、人類は体験しました。全てが初めてのことではありましたが、私は、2020年の2月頃から、なんとなく、変だなという違和感を抱いていました。世界が同時に同じことを行う。それに違和感を覚えました。ちょうど、3月11日、グレゴリー・セドフの「福島の為に祈る」というコンサートを行うために、ロシアへ行く前のことでした。私がロシアに入国した時、モスクワでも、サンクトペテルブルグでもマスクをしている人はほとんどいませんでした。私たちの演奏会、美智子様がビデオでご参加下さった演奏会も無事に終了し、イリーナ・ペレンとマラト・シェミウノフのバレエレッスンツア―に参加された小学生の関連の事業も、また、私どもが在サンクトペテルブルグ総領事館の職員をお招きしたバレエの公演も、無事に終了して、明後日帰国するという時に、ロシアでも、全ての劇場が閉鎖となり、日本からの入国もできなくなりました。私どもの予定が、無事に終了したとたんに、閉鎖です。危機一髪、ラッキーでした。日本への帰国もどうなるかと思いましたが、帰りの便では、マスクの使用が強制となりました。
帰国後のロックダウン、その間、私は、世界がどのように成り立っているのか、色々調べる時間をもらったように思いました。そして、その後の2022年のロシアのウクライナ侵攻。私は、ゴルバチョフの時代からロシア、当時はソ連でしたが、仕事で、多くかかわる機会を得ました。根室の北方四島交流施設ニホロの企画に参画し、ビザなし交流で島から来るロシア人の取材、また、元島民で返還運動に従事する日本人、根室、釧路の漁師の方々からもお話を伺いました。
また、ロシアのダイヤモンド会社アルロサの仕事にも関わり、その後は、ロシアの音楽家、バレエダンサーなどと家族のように付き合っています。2015年からは、毎年ロシアを訪れていました。最初に行く際には、日本では、ロシアは危険だとか、治安が悪いとか、モノが足りないとか、暗いとか、いろいろ言われていましたが、行ってみると、その差が大きすぎて夢のパラダイスのようでした。特に、音楽やバレエや美術が好きな私には、サンクトペテルブルグは、町中が美術館のようで、楽しくて感動にあふれ、宝くじが当たったら、ここに住みたいと思うほどでした。そして、観光国で、大勢の観光客が世界中から来ており、道行く人は、ほとんどがアイフォンを持っており、道を尋ねると、英語がわからない人でも、親切に調べて教えてくれます。日本の昭和の時代のような人情があります。
そして、毎年行くたびに、空港内は、高級なお土産物屋が増え、人々の暮らし、着るものも、高級デザートなど、高度成長している様に驚きました。ロシアにいる日本人を多く知っているので、彼らから色々聴いていることと、日本での報道が、全く違います。
そもそも、“プロジェクトフラ”を知っている人は、日本にどれくらいいるのでしょうか。日本では、偏ったことしか報道されず、大事なことが報道されないことが、わかってきました。
また、私は。2014年から、ロシアのバレエダンサーを招聘し、日本の若手プロ、青少年と共演する教育的事業を企画主催しており、2022年は、大変厳しい環境でしたが、ウクライナから避難してきたダンサーにも出演してもらいました。この時に感じたことは、ウクライナ人でも何人でもダンサーである限りは、踊る機会に踊りたいという事です。しかし、問題は、周りの人です、ロシア人が出る舞台で踊るのはいかがなものかとの非難がありました。また、観客も、本当は、多くの方は、芸術文化交流はどんな時でも大事であり、継続することで、平和に貢献できると思っていても、他人から、ロシアの見方をしていると見られたら困るというように、世間体ばかりを気にしている人が多いのです。
私は、原ゼミで、どんな時でも、自分が学び考えたことから、自分の意見が誰と違っても、そもそも全く同じであるはずはないのですが、はっきりと主張できることの重要性を学びました。権力も力も発言権もある人が、なぜか、それをする勇気がないのかという事を今回強く感じました。大学というアカデミアにあっても、多くの大学が、逃げ腰であることに失望致しました。大学こそ、どんな時でも、世論がいかようであっても、権力に負けず、自分の考えを持ち、事の大事さ、それを発言できる勇気を持った人材を育てるべきだと思いますし、大学は、率先して、そのような発信ができたはずです。
イラク侵攻後、イギリス首相が、イラク侵攻は間違いだったと発言した時、同盟国として、そのような発言は、いかがなものかと批判を受けましたが、同盟国だからこそ、間違いを正すべきなのではないでしょうか。
会社内で起こっている不正に関して、報告する人を保護する方向になっていますが、会社でも、内部告発を重要視し、保護するのであれば、国も同盟国の間違いを正すよう促進保護するべきだと思います。 そうしないと、世界は、良くなりません。 今は、金が権力になり、金が正義になってしまっています。本来の正義とはなんなのでしょうか。
私は、現在は、政治家の秘書でもありませんし、直接政治には関わっておりませんが、芸術文化を通して、国際理解や平和に貢献しているつもりです。実際、外国では、芸術文化は、上位の分野にカテゴライズされており、国家元首や、地位の高い方々にお目にかかれる機会も多いのです。たまに、日本の政治家から、それらの件で、意見を求められたりすることもあります。
2024年9月、私はロシア政府より招待を受け、サンクトペテブルグルで開催された“ユーラシア ウイメンズ フォーラム”に参加してきました。サンクトペテルブルグは、コロナ前と同様、世界中から観光客が訪れ、夜11時まで本屋も、ブティックも開いており、にぎわっていました。ヨーロッパのブランド品も売られており、物も豊富で、人々の暮らし向きも上昇しているように思いました。
フォーラムには、126か国から900人が招待されました。プーチン大統領もスピーチされ、元副首相、現国家院議長のヴァレンティナ・マトビエンコ閣下主催の晩さん会は、会場への入場前から延々と3時間以上、オーケストラの生演奏、ソリストたちのクラシック音楽、ジャス、ポップス、オペラ、民族音楽、舞踊、テクノとエンターテイメントのてんこ盛りで、豪華なフルコースの食事も、食べる暇もないくらい、魅力的で圧倒的でした。やはり、芸術文化による感動共有が、人々を結び付け、勇気や元気を与え、問題解決に向かわし得る大きな力があると実感致しました。私の仕事も、ものすごく大変で、毎回、もう辞めよう、続けられないと思うのですが、この貴重な体験を通じて、命ある限り、芸術文化交流・教育・福祉事業を継続していくことを決意できました。
サンクトペテルブルグでは、日本国総領事からも、公邸での昼食に、ご招待頂き、これまでずっと、どんな時も日露文化交流を継続してきたことに対しての、労いと感謝と敬意までものお言葉を賜り、今後への励ましも頂きました。更に、フォーラムに全日着物を着用して参加し、日本の魅力を伝えてくれたことにも感謝しますとのメールを頂きました。ロシアでの滞在で感じたことも、帰国後の日本でのこと、機会がありましたら、別途、詳細を報告したいと思います。
5.結びに 若い世代の方へのメッセージ
ここには、ショックな出来事や自殺しようとさえ思った経験については、もちろん書いておりませんが、誰もが、そんな辛い経験をしていることと思います。 でも、例えば10回中9回その大変な状況を何とか頑張って乗り越えれば、ものすごいご褒美のような夢のような出来事が1回くらい巡って来るものです。ひどい出来事で、もう生きていけないと思った時、私が色々考えて自分なりに結論づけたのは、「神様は、全ての人に、その人にあった最高の人生を用意してくれている」ということです。それを生かすも殺すも、その人次第。そう思って、受け入れて、それが自分の為になることと思えば、何とかやり過ごせます。
母校館林女子高校の創立90周年記念の式典で、在校生への講演の機会を得た際、これからを生きる若い世代に届けたメッセージを、まとめにしたいと思います。確か、TIUニュースで取材して頂いた際にもお話したことですが、
第一に、出会いを大切にしようということです。それは、人も機会も含まれます。大変なことも縁があれば引き受けましょう。大変なことは、誰だって嫌です。それでも、それを経験することで必ず成長できます。今までできなかったこと、不可能だと思ってたことが可能になるのです。大変なことを乗り越えられた、その成功体験を重ねることで、自分のキャパシティーをどんどん大きくすることができるのです。
ピッコロ・ヴァイオリン奏者のセドフさんを自費で招いてツアーをするということは、ほとんど不可能と思われることでしたが、今では、1年の間に、セドフさんに加え、ロシアのバレエダンサー、イリーナ・ペレンとマラト・シェミウノフ、メキシコのピアニスト、アレハンドロ・ベラ、オーストリアのヴァイオリニスト、ヨハネス・フライシュマン、ドイツのチェリスト、ユリウス・ベルガー、ピアニスト、オリバー・ケルンを招へいし、其々のツアーを行っています。
第二に、若い方に強く言いたいのは、失敗を恐れるなということです。考えてみて下さい。野球で3割打者って凄いんですよね。3割って事は、10回に7回は失敗してるんです。それでも、それってすごいことなんです。そう思うと、元気が出てきませんか。勇気が湧いてきませんか。人生は、夢を見つける、あるいは、追い求めて実現する学校なのですから、学校では、いくらでもトライ&エラーが許されるのです。特に、学生時代は、失敗を恐れずに色々なことにチェレンジして欲しいと思います。大学時代は、何でも挑戦して経験して欲しいと思います。その時の嬉しいことも、楽しいことも、苦しみも悲しみも、全てが成長のバネになります。
そして、私の好きな言葉を贈ります。「できないのは途中で止めてしまうから。」ピアノを習ったおかげで、「できるまでやることがやること」だと学びました。つまり、やり続ければ、必ずいつかできるようになるのです。カール・ルイスの言葉、「思い続ければ、いつか必ず叶う。Never give up 」です。「楽しんで、やり続ける。思い続ける」。其々の、ペースで、やればいいのです。
人との出会い、この広い宇宙にあって、天文学的な確率で、人生で出会う人たち。必然なのか、偶然なのかはわかりませんが、何らかの意味があると思います。もとを辿れば、人類は皆、兄弟であり親戚です。それぞれの人生に、環境に、出会いに感謝しつつ、この夢の学校で学び、トライ&エラーを楽しくやっていきましょう。
より良い種を生み出すために。無限の可能性に向かって、共に人生という学校で学び続け、夢の実現、更新の為に、挑戦し続けようではありませんか。
K&Associates International
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川島佳子 (KAWASHIMA,Keiko)
kkawashima@cssimc.com
(川島佳子さんのプロフィール) | |
群馬県館林市出身 | |
1982年3月 | 東京国際大学卒業 教養学部国際関係学科 原彬久ゼミ ELI |