異国へのあこがれ
私は1950年の切れ目の年に伊豆の下田で生まれました。父は学徒徴兵の海軍特攻兵でした。父は長年、先に逝った戦友のために、「戦争の悲惨さ」を語り継ぎながら昨年12月に亡くなりましたが、私は父が奇跡的に生還してくれたお陰で自分がこの世に生を受けたことへの感謝を忘れたことはありません。
下田は言わずと知れた「開国の街」です。ペリーの来航を祝って毎年開催される「黒船祭り」。下田の街を闊歩する米兵にヨーヨーを買って貰ったことが私の国際交流の始まりでした。そんなある日、下田湾沖に停泊する米第七艦隊の戦艦を見たことが、私の心に“外国への憧れ”が芽生えたきっかけだったと思います。しかし、その時はまだ、「旅行」を仕事とし、生涯で51ヵ国も旅をするような人生を送ることになろうとは想像もしませんでした。
(アメリカ戦艦と外国への憧れ)
音楽との出会い
父の転勤に伴い、私は中学から高校時代を静岡市で過ごしました。クラブ活動はブラスバンド部でトランペットを担当しました。今でもクラシック音楽が大好きで、最近はオペラ鑑賞に嵌っています。それはきっと子供の頃に聴いた下田の街をパレードする米軍音楽隊の華やかなブラスの響きが耳に残っているからだと思います。
(中学・高校時代はブラスバンド部)
英語大好き人間
英検2級は中学の時に合格しました。当時はクラシック・レコードを聴きながら、アメリカのペンパルと文通するのが趣味でした。ある年のクリスマス、文通相手の女の子がネクタイピンを贈ってくれました。その時、母が驚いて言った言葉を覚えています。「アメリカでは中学生がネクタイをするんだねぇ!」。日本は奇跡的な「高度成長」の只中にありましたが、当時の中学生はネクタイもブレザーも持っていなかったのです。
そんな私に父がタイプライターを購入してくれました。外国と文通するならタイプライターが便利だろうと・・・。タイプ学校に行くのは苦手で殆ど独学でマスターしたのですが、その時に覚えたキーボード配列がその後の人生でどれだけ役立ったことでしょう!
大学時代は山登り
晴れて入学した国際商科大学は埼玉県にありましたので海がありませんでした。学生時代は大いに体を鍛えようと思っていた私は躊躇うことなく体育会「ワンダーフォーゲル部」に入部しました。 確かに山登りは辛くて厳しいものでしたが、頂上に立った時の感動と爽快感は想像を超えたものでした。3千メートルの日本の屋根から見る朝晩の景色の何と美しいことか!4年生になった私は一眼レフカメラを購入し、山の景色を撮り続けました。
「美しいものを求める」・・「美しいものを記録する」・・今もなお私が追い求める人生のテーマです。
伊豆の山育ちで健康にも恵まれた私は、大学4年間、全ての合宿に休むことなく参加したものでした。
「就職した会社は「東京観光」。先に就職していた大学の先輩からの勧めでした。「この仕事はお前にぴったりだ!」の言葉通り、これはまさに私にとって天職でした。
「東京観光で最初の配属は住友商事。商社の海外出張の手配が仕事でした。配属されて直ぐ、大使館へ提出するビザ申請書を作成する時に、ほとんどキーボードを見ないでタイプする私を見て上司が驚きました。中学の時に文通するために父に買って貰ったタイプライターをマスターしていたことが大いに役立ちました。
「三洋電機から誘いの言葉が掛かったのは、当時私が担当していたルフトハンザドイツ航空の送客人数が日本一を記録した頃のことでした。既に三洋電機にはロイヤルツーリストというインハウス旅行会社があったのですが、当時、秋葉原の電気店の招待旅行は全て大手旅行会社に流れていました。グループ内の団体旅行需要を自社で取り込みたいとの熱い要請を受けて、私は転職を決意しました。「手配する旅行会社から、提案する旅行会社へ」のスローガンを掲げ、ロイヤルツーリストは見事に三洋電機の団体旅行を一手に担うに至りました。
「この時、社内販売で購入したウインドウズ95が、その後の私の人生に大きな影響を与えました。1999年には生まれて初めてホームページを立ち上げました。「こんにちは、山下です」の文字がネット上に踊った時の感激は今も忘れません。今では私のサイトには旅の記録、ルーヴルの名画、オペラの解説、履歴書から確定申告書式まで・・・私が歩んできた人生の記録が詰まっています。
「その後、三洋電機は創業以来60年を超える歴史に幕を閉じましたが、その時に採用し一緒に団体旅行獲得に邁進した部下たちは、今も変わらずにパナソニックの旅行部門で頑張っています。
(1979年、明治・中央・国学院大学 欧州研修旅行、添乗の師本多氏と) | (1994年、北京ツアー) |
ひたすら世界へ
三洋電機で一定の成果を果たした私は、52歳の時に㈱ジェイピー旅行に転職しました。営業担当の取締役として迎えられたのです。JPとは「ジャパン・ポリス」、その名の通り警察のマーケットを扱う会社でした。特殊な仕事でしたが、「世界麻薬取締会議」の設営や、「青年警察官の語学研修旅行」などを通じてたくさんの警察幹部とのご縁を頂きました。
61歳で定年退職した私に、「まだまだ引退は早いよ!」と声をかけてくれたのは「トラベル懇話会」でした。お陰様で、旅行業界の経営者懇談会の事務局長を7年間勤めさせて頂きました。事務局長に就任して分かったことがあります。なんとこの会は、私が最初に就職した会社東京観光の吉村社長が発起・設立したものだったのです。退任する直前に「トラベル懇話会40年史」をまとめたのですが、会創設期の記事を収集しながら、東京観光時代のある時の朝礼で、「業界内外の諸問題を勉強・意見交換するために『トラベル懇話会という組織を立ち上げた』と吉村社長が報告したことを思い出しました。定年退職後に与えられた新たなステージを、奇遇にも最初に就職した会社の社長が用意していてくれたことを知って、ここでも人のご縁の大切さを思い知りました。
こうして、若かりし頃に外国に憧れた私は、世界51ヵ国を旅し、出国回数は218回を数えるに至りました。その間の旅行日数は1,367日。よくよく考えてみれば、4年弱海外赴任していたようなものです。言葉や文化は違っても、どの国に行っても人の笑顔は共通でした。相手を喜ばすために出来ることは無限であることを学びました。
(2011年、退職記念旅行 デルタ航空のCAさんから記念品贈呈) | (2018年9月、トラベル懇話会事務局長退任) |
(2017年、ミラノスカラ座にて 「セヴィリアの理髪師」を観劇) | (2018年、ヴェローナ・アレーナにて 日本を代表するソプラノ 山口安紀子さんと) |
(何かいい物語があって、語る相手がいる限り、人生捨てたもんじゃない)
デジタルが日本を変える
今、コロナ渦の中でこの原稿をまとめながら、旅行業・観光業の皆様のご苦労に思いを巡らせています。従業員も経営者もそのご苦労は如何ばかりかと胸が痛みます。
そんな中、去る8月6日に古希の誕生日を迎えました。それを記念して「私が生きた日本70年」と題した動画を編集しました。自分で編集したこの動画を観るにつけ、本当に日本が輝いていた一番良い時代を生きた幸運に感謝せずはいられません。
先に実施された「特別定額給付金」の給付状況を見て思うことがあります。日本はまだまだデジタル後進国なんだなぁと。かつてスウェーデンに年金制度を学びました。半世紀も前に、スウェーデンでの改革は日本と同じ悩みから始まりました。「このままでは長期的に年金制度を維持できない」と・・・。これを解決したのがデジタル技術でした。スウェーデンの国民は毎年国からオレンジの封筒を受け取ります。このオレンジ封筒の中には個人個人の毎年の所得と、その結果将来受け取れるであろう年金額が明記された書類が入っています。これを可能にしたのがデジタル・システムであることは言うまでもありません。
振り返って日本を見ると、個人情報が筒抜けになるのが怖いという理由でマイナンバーカード制度への移行がと滞っています。戦争で命を懸けた父たちの次の世代の人々が余りにもITを苦手にしています。市役所のベテランの中には未だにスマホさえ操作できない職員も少なくありません。
中学でタイプライターに出会い、キーボードに親しみ、50歳の前にホームページをアップし、パソコンやスマホから多くの“便利”を享受して来た者として、もっともっと日本のデジタル化が進み、多くの国民がその恩恵に浴する日が来ることを願いながら、古希の記念の動画をご紹介します。
「私が生きた日本70年」: https://youtu.be/_XwVvL_YhZg
(山下太郎さんプロフィール)
- 静岡県下田市出身 静岡市立高校卒業
- 1973年 3月 国際商科大学卒業(現東京国際大学)商学部5期 町田実ゼミ
体育会ワンダーフォーゲル部 - 1973年 4月 東京観光㈱入社
- 1987年12月 東京観光㈱退職
- 1988年 1月 三洋電機㈱入社 事業開発本部旅行業担当
3月 ㈱ロイヤルツーリスト出向 - 1997年 1月 同、東日本営業本部営業推進部長
- 1998年 4月 同、関東営業所長(群馬県邑楽郡大泉町)
- 2002年 1月 三洋電機㈱退職
- 2002年 8月 ㈱ジェイ・ピー旅行入社
- 2004年 8月 同、営業部長
- 2006年 5月 同、取締役
- 2011年 9月 ㈱ジェイ・ピー旅行定年退職
- 2012年 3月 トラベル懇話会事務局長就任
- 2018年 9月 トラベル懇話会退任