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今世界で話題のスポーツ「パデル」で、世界と戦った経験を日本にも。
沓名舞子さん(2020年卒業 人間社会学部スポーツ科学科 堀川ゼミ)2025年12月1日学生時代の挫折-新しいスポーツへの挑戦パデルとの出会い TIUに入学したのは、高校の先生になりたい夢を叶えるため。小学2年生から始めた硬式テニスのスポーツ推薦で入学しました。当時は部活に注力しながらも教員免許取得のために必須単位を取得することに明け暮れていました。大学2年生の秋に関東に集結した選手のレベルの高さに圧倒され、結果が出ず退部という選択をしました。 パデルと出会ったのはその直後です。ゼミの同級生に「バイト先にテニスに似たスポーツがあるから遊びに来てほしい」そう言われて出向いたのがパデルコートでした。 実際に体験してみると似ているものの思った以上に難しいと感じたことを記憶しています。しかし、対応できた時の喜びや達成感、テニスで忘れかけていた「できることへの楽しさ」を思い出させてくれました。 今思えば、初めてパデルを体験したときから面白さに夢中になり、選手としてのスタートを切っていたのかもしれません。TIUに入学していなければ声をかけてくれた同級生も知り合わなかったので、パデルという競技には出会えなかったかもしれません。 パデルと知り合ってからまもなく、日本で世界大会のアジア予選が開催されることを知りました。当時はYouTubeでの配信などはなかったため、Facebookのライブ配信で見た記憶があります。そこには日本代表として日の丸を背負って戦う選手の姿がありました。 テニスでは夢のまた夢だった「日本代表」私もこの舞台に立ちたい。そう感じて練習に励みました。 バセドウ病との葛藤から、パデル日本代表・アジアチャンピオンにそんな矢先、バセドウ病という病気になってしまいます。バセドウ病は、甲状腺の病気で代謝が異常に良くなります。主な症状が倦怠感や眠気、動悸など、自分では気づきにくい病気です。当時私は歩くだけで息切れ、動悸がありました。投薬治療でしたが、薬が効いて安定するまでの2ヶ月間は運動禁止でした。 運動再開してからは苦悩の連続でしたが、翌年初めて日本代表に選出されます。 その年はアジアチャンピオンになりました。 卒業式の中止、ゼミ仲間との別れここから数年間日本代表として選手活動をしていくのですが、学生時代最後に襲いかかったのは、「新型コロナウイルス」でした。ゼミの忘年会でまた来年と言葉を交わした同級生に会うことは叶わず卒業しました。2年に1回行われる世界大会も延期となりました。 初めての世界大会、決意の転職 教員免許は取得しましたが、パデル選手として活動する場合、教員では難しいと思い、一般企業に就職しました。新卒で入社した会社はオフィスビルの法人営業でした。 コロナ禍で研修もオンラインになり、リモート需要が高まる中で、業界は打撃を受けながらも社会人としてのキャリアをスタートさせていました。 社会人2年目に朗報が来ます。延期になっていた世界大会が1年越しに行われることが決定しました。夢にまで見た世界大会。絶対に出たい。そう感じました。今まで以上に練習も時間を増やしたい、トレーニングにも時間を費やしたい。もっとパデル選手としての活動に注力したい。そんな気持ちもあり、3年は頑張ろうと思っていましたが、1年半で退職し、スポーツ選手としても応援してくれる会社「バリュエンスホールディングス株式会社」に転職します。 その会社ではデュアルキャリアを応援しており、スポーツ選手のみならず、様々な分野でされている方がいらっしゃいました。ここでは、練習のために在宅勤務で試合のあとすぐに練習に行けるようにしてくださったり、大会期間中の長期休暇をいただいたりと、部署の皆様の協力もあり、選手活動の時間を優先することができました。 (Asia Pacific Padel Tourにて) 初めて海外の試合に参戦してから1年後、2024年からアジアでも賞金付きのツアーが始まりました。 満を持して迎えた世界大会 – 悔しさと可能性選手活動の体制を整え、初めての世界大会は14位でした。正直緊張が強く、試合内容はよく覚えていませんが、世界のレベルの高さを痛感したと同時に自分に可能性があることも感じました。世界大会の経験を無駄にしてはいけない。そう感じより一層練習の質にこだわったのを今でも覚えています。 初めての世界大会から充実な1年間そこから私は社会人として仕事をしながら限られた時間の中で練習を行い、世界との差を埋めるために「短い時間で質の高い練習」を意識しました。 できる限り仕事以外の時間はパデルのことを考えました。その結果、世界大会の半年後に行われた全日本選手権で悲願の初優勝。世界大会で感じた差を埋めるために練習してきたことは間違えていなかったという証明だったと思います。 また、世界大会は2年に1回開催されていますが、感染症拡大の影響で2020年の大会が2021年にずれ込んでいたため、2年連続での開催となっていました。 1年後の世界大会に向けて、個人的にスポンサーを獲得したり、より一層切磋琢磨することになりました。 2回目の世界大会 —世界の壁と屈辱 —日本一になり、迎えた世界大会は16位という結果でした。紙一重の試合をほとんど落とした結果でした。対等に戦えるパデルはこの1年間で学んだものの、勝つパデルには到底及ばなかったということです。 現在の戦術は進化し続けていますが、当時は1回目の世界大会の際に、極力ミスを減らすことが重要だと考えていました。中々決まらないからこそ、ミスを減らすことが重要だと考えたからです。ミスをしないことで対等に戦えるようになりましたが、勝つとなると更なるレベルアップが必要だったということです。 対等に戦えるようになったからこそ、見えてきた景色でした。 しかし、この攻撃的なパデルをするには、圧倒的に試合の経験値が足りませんでした。 世界のパデルは目まぐるしく変化しています。 女子は、国内の男子と練習をしてもらえればレベルの高い練習もすることはできますが、海外の独特な戦術やターニングポイントは、体感しないと難しいという判断でした。 そのために私は、当時日本人の女子では初めてとも言える海外遠征をメインに大会を回ることにしました。 ありがたいことにスポンサーもついてくださり、会社や家族の理解もあり、日本ランキングを下げることにはなりましたが、世界ランキングに焦点を当て、活動を行うことができました。当時日本人最高ランキング201位、FIPという世界ツアーの海外大会で日本人初優勝など、今は形に残らない結果を出すことができました。 その翌年には、私以外の日本人の女子選手が海外遠征を始め、日本のレベルアップに繋がっていると思います。 私は、日本人で初めての記録や実績よりも私の行動で日本全体の行動が変わったことが重要であり、お金の不安や周囲への理解も含め、難しいと言われていた海外遠征に一歩踏み出したことが1番の功績だと感じております。 (日本人初となる海外開催のツアーで優勝) (World Padel Championships QATAR 2024にて) 世界を実感 — 強くなった日本代表迎えた3回目の出場となった世界大会。日本は11位という結果を残しました。 日本は世界ランキングが100位以内の選手がいない中での戦いでした。 ほとんどの国は世界ランキングが2桁台のエースという選手がいる中でしたので、日本一になって以来、自分に「よく頑張ったな」と思える結果でした。 先ほども申し上げたように世界のレベルは目まぐるしく進化しています。 10位以内に食い込んでいくには、エース級の選手を排出する、もしくは全員が150位程度の実力になる必要があると考えています。現在の日本人最高順位は162位です。 2026年にまた世界大会があります。アジア予選を勝ち抜き、世界大会に出場、さらに10位以内に入るためには、レベルの底上げと団体戦というパワーを武器にしていく必要があります。以前に比べると海外を主戦場にしている選手も増えてきました。日本国内のコート面数も少しずつ増えております。 2026年は名古屋周辺で行われるアジア大会の正式種目にもなり、認知度も向上してきました。ただ、まだプロとしてお金を稼ぐことは難しく、協会も潤沢ではないため、それぞれが個人的にスポンサーを獲得したり、普段は仕事をしながらお金をやりくりして選手活動をしています。 将来テレビで試合が放送されるようなスポーツになるよう普及活動も行っていく所存です。ぜひ、「パデル」をネットで検索してみてください。 (沓名舞子さんプロフィール) 埼玉県春日部市出身、埼玉県立浦和東高校卒 2020年3月東京国際大学人間社会学部スポーツ学科卒業 堀川ゼミ 硬式庭球部(2年次まで) 2021年8月バリュエンスホールディングス株式会社 勤務(ホームページ)https://www.valuence.inc /business/ 2021年11月World Padel Championships QATAR 2020 14位 2022年3月第5回全日本選手権 優勝 2022年9月World Padel Championships Egypt Qualifications 優勝 2022年9月FIP RISE OWEST 準優勝 2022年11月World Padel Championships UAE 2022 16位 2023年4月1ヶ月の長期休暇をいただき、ヨーロッパ遠征を敢行 2023年11月FIP Promotion ASIA 優勝 2024年9月World Padel Championships Kuwait Qualifications 優勝 2024年10月World Padel Championships QATAR 2024 11位 *2026年はアジア選手権や世界大会と主要大会が多く開催される年です。 日本はアジア王者として、世界と戦います。 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
沓名舞子さん(2020年卒業 人間社会学部スポーツ科学科 堀川ゼミ)2025年12月1日学生時代の挫折-新しいスポーツへの挑戦パデルとの出会い TIUに入学したのは、高校の先生になりたい夢を叶えるため。小学2年生から始めた硬式テニスのスポーツ推薦で入学しました。当時は部活に注力しながらも教員免許取得のために必須単位を取得することに明け暮れていました。大学2年生の秋に関東に集結した選手のレベルの高さに圧倒され、結果が出ず退部という選択をしました。 パデルと出会ったのはその直後です。ゼミの同級生に「バイト先にテニスに似たスポーツがあるから遊びに来てほしい」そう言われて出向いたのがパデルコートでした。 実際に体験してみると似ているものの思った以上に難しいと感じたことを記憶しています。しかし、対応できた時の喜びや達成感、テニスで忘れかけていた「できることへの楽しさ」を思い出させてくれました。 今思えば、初めてパデルを体験したときから面白さに夢中になり、選手としてのスタートを切っていたのかもしれません。TIUに入学していなければ声をかけてくれた同級生も知り合わなかったので、パデルという競技には出会えなかったかもしれません。 パデルと知り合ってからまもなく、日本で世界大会のアジア予選が開催されることを知りました。当時はYouTubeでの配信などはなかったため、Facebookのライブ配信で見た記憶があります。そこには日本代表として日の丸を背負って戦う選手の姿がありました。 テニスでは夢のまた夢だった「日本代表」私もこの舞台に立ちたい。そう感じて練習に励みました。 バセドウ病との葛藤から、パデル日本代表・アジアチャンピオンにそんな矢先、バセドウ病という病気になってしまいます。バセドウ病は、甲状腺の病気で代謝が異常に良くなります。主な症状が倦怠感や眠気、動悸など、自分では気づきにくい病気です。当時私は歩くだけで息切れ、動悸がありました。投薬治療でしたが、薬が効いて安定するまでの2ヶ月間は運動禁止でした。 運動再開してからは苦悩の連続でしたが、翌年初めて日本代表に選出されます。 その年はアジアチャンピオンになりました。 卒業式の中止、ゼミ仲間との別れここから数年間日本代表として選手活動をしていくのですが、学生時代最後に襲いかかったのは、「新型コロナウイルス」でした。ゼミの忘年会でまた来年と言葉を交わした同級生に会うことは叶わず卒業しました。2年に1回行われる世界大会も延期となりました。 初めての世界大会、決意の転職 教員免許は取得しましたが、パデル選手として活動する場合、教員では難しいと思い、一般企業に就職しました。新卒で入社した会社はオフィスビルの法人営業でした。 コロナ禍で研修もオンラインになり、リモート需要が高まる中で、業界は打撃を受けながらも社会人としてのキャリアをスタートさせていました。 社会人2年目に朗報が来ます。延期になっていた世界大会が1年越しに行われることが決定しました。夢にまで見た世界大会。絶対に出たい。そう感じました。今まで以上に練習も時間を増やしたい、トレーニングにも時間を費やしたい。もっとパデル選手としての活動に注力したい。そんな気持ちもあり、3年は頑張ろうと思っていましたが、1年半で退職し、スポーツ選手としても応援してくれる会社「バリュエンスホールディングス株式会社」に転職します。 その会社ではデュアルキャリアを応援しており、スポーツ選手のみならず、様々な分野でされている方がいらっしゃいました。ここでは、練習のために在宅勤務で試合のあとすぐに練習に行けるようにしてくださったり、大会期間中の長期休暇をいただいたりと、部署の皆様の協力もあり、選手活動の時間を優先することができました。 (Asia Pacific Padel Tourにて) 初めて海外の試合に参戦してから1年後、2024年からアジアでも賞金付きのツアーが始まりました。 満を持して迎えた世界大会 – 悔しさと可能性選手活動の体制を整え、初めての世界大会は14位でした。正直緊張が強く、試合内容はよく覚えていませんが、世界のレベルの高さを痛感したと同時に自分に可能性があることも感じました。世界大会の経験を無駄にしてはいけない。そう感じより一層練習の質にこだわったのを今でも覚えています。 初めての世界大会から充実な1年間そこから私は社会人として仕事をしながら限られた時間の中で練習を行い、世界との差を埋めるために「短い時間で質の高い練習」を意識しました。 できる限り仕事以外の時間はパデルのことを考えました。その結果、世界大会の半年後に行われた全日本選手権で悲願の初優勝。世界大会で感じた差を埋めるために練習してきたことは間違えていなかったという証明だったと思います。 また、世界大会は2年に1回開催されていますが、感染症拡大の影響で2020年の大会が2021年にずれ込んでいたため、2年連続での開催となっていました。 1年後の世界大会に向けて、個人的にスポンサーを獲得したり、より一層切磋琢磨することになりました。 2回目の世界大会 —世界の壁と屈辱 —日本一になり、迎えた世界大会は16位という結果でした。紙一重の試合をほとんど落とした結果でした。対等に戦えるパデルはこの1年間で学んだものの、勝つパデルには到底及ばなかったということです。 現在の戦術は進化し続けていますが、当時は1回目の世界大会の際に、極力ミスを減らすことが重要だと考えていました。中々決まらないからこそ、ミスを減らすことが重要だと考えたからです。ミスをしないことで対等に戦えるようになりましたが、勝つとなると更なるレベルアップが必要だったということです。 対等に戦えるようになったからこそ、見えてきた景色でした。 しかし、この攻撃的なパデルをするには、圧倒的に試合の経験値が足りませんでした。 世界のパデルは目まぐるしく変化しています。 女子は、国内の男子と練習をしてもらえればレベルの高い練習もすることはできますが、海外の独特な戦術やターニングポイントは、体感しないと難しいという判断でした。 そのために私は、当時日本人の女子では初めてとも言える海外遠征をメインに大会を回ることにしました。 ありがたいことにスポンサーもついてくださり、会社や家族の理解もあり、日本ランキングを下げることにはなりましたが、世界ランキングに焦点を当て、活動を行うことができました。当時日本人最高ランキング201位、FIPという世界ツアーの海外大会で日本人初優勝など、今は形に残らない結果を出すことができました。 その翌年には、私以外の日本人の女子選手が海外遠征を始め、日本のレベルアップに繋がっていると思います。 私は、日本人で初めての記録や実績よりも私の行動で日本全体の行動が変わったことが重要であり、お金の不安や周囲への理解も含め、難しいと言われていた海外遠征に一歩踏み出したことが1番の功績だと感じております。 (日本人初となる海外開催のツアーで優勝) (World Padel Championships QATAR 2024にて) 世界を実感 — 強くなった日本代表迎えた3回目の出場となった世界大会。日本は11位という結果を残しました。 日本は世界ランキングが100位以内の選手がいない中での戦いでした。 ほとんどの国は世界ランキングが2桁台のエースという選手がいる中でしたので、日本一になって以来、自分に「よく頑張ったな」と思える結果でした。 先ほども申し上げたように世界のレベルは目まぐるしく進化しています。 10位以内に食い込んでいくには、エース級の選手を排出する、もしくは全員が150位程度の実力になる必要があると考えています。現在の日本人最高順位は162位です。 2026年にまた世界大会があります。アジア予選を勝ち抜き、世界大会に出場、さらに10位以内に入るためには、レベルの底上げと団体戦というパワーを武器にしていく必要があります。以前に比べると海外を主戦場にしている選手も増えてきました。日本国内のコート面数も少しずつ増えております。 2026年は名古屋周辺で行われるアジア大会の正式種目にもなり、認知度も向上してきました。ただ、まだプロとしてお金を稼ぐことは難しく、協会も潤沢ではないため、それぞれが個人的にスポンサーを獲得したり、普段は仕事をしながらお金をやりくりして選手活動をしています。 将来テレビで試合が放送されるようなスポーツになるよう普及活動も行っていく所存です。ぜひ、「パデル」をネットで検索してみてください。 (沓名舞子さんプロフィール) 埼玉県春日部市出身、埼玉県立浦和東高校卒 2020年3月東京国際大学人間社会学部スポーツ学科卒業 堀川ゼミ 硬式庭球部(2年次まで) 2021年8月バリュエンスホールディングス株式会社 勤務(ホームページ)https://www.valuence.inc /business/ 2021年11月World Padel Championships QATAR 2020 14位 2022年3月第5回全日本選手権 優勝 2022年9月World Padel Championships Egypt Qualifications 優勝 2022年9月FIP RISE OWEST 準優勝 2022年11月World Padel Championships UAE 2022 16位 2023年4月1ヶ月の長期休暇をいただき、ヨーロッパ遠征を敢行 2023年11月FIP Promotion ASIA 優勝 2024年9月World Padel Championships Kuwait Qualifications 優勝 2024年10月World Padel Championships QATAR 2024 11位 *2026年はアジア選手権や世界大会と主要大会が多く開催される年です。 日本はアジア王者として、世界と戦います。 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
東京国際大学ラグビー部の再建に向けて
塩原裕之さん(1994年卒業 商学部商学科 三村ゼミ ラグビー部)2025年11月1日ラグビー部の再建に向けて 私は1994年に商学部商学科を卒業した塩原裕之と申します。これを読んでいるOB・OGの皆さん、皆さんが学生時代に所属したクラブやサークルが現在の大学でも活動をしているか否かご存じでしょうか?私は体育会ラグビー部に所属していたので、10年ほど前にはラグビー部が休部しているという事を大学関係者から聞き、非常に寂しい思いを持っておりました。 皆様がご存じの通り昨今、大学は箱根駅伝など駅伝部、サッカー、ウエイトリフティング、野球(他スポーツ部も複数有り)などの強化部に関しては部員の確保や支援などでサポートがありますが、ラグビー部は対象外でした。母校の大学でのラグビー部がない状況で何とか復活を出来ないものかを考える日々でした。当たり前ですが、一度休部した部活を復活させるには、一から部員を集めなければなりませんでした。 大学職員で川越のクラブチームでラグビーをやっている方にメールを送り、ラグビー部を再建させたい旨の連絡もしました。何かラグビーに興味を持った学生がいたら紹介して欲しいと…。 必ず、学生の中にはラグビーをやりたい者がいるはずだという思いからでした。そうして時が経って、暫くすると興味がある学生(経験者)がいると大学関係者から聞き、大学まで出向き、是非、ラグビー部を再建して欲しいことを学生たちに伝えて、ラグビー経験者が4名くらいで再スタートを切りました。皆さんが知っているラグビーは15人で行う競技だと思いますが、幸いな事に7人制ラグビーという人数が少ない場合でも出来る競技があります。こちらはオリンピック競技にも採用されている競技で、先ずはこちらからの活動を目指しました。 並行して、ラグビー部のホームページの作成も自費で手配しました。何も発信していないと、大学にラグビー部があること自体、認識されません。情報化社会やSNSの時代でもありますので、ホームページの整備も選手の写真をアップしたり、私が出来るだけの準備をしてきました。新入生への対策です。一から作り出す喜びも遣り甲斐になってきました。 2019年の5月から練習を始めて、人数も助っ人も加わり、ぎりぎりの7名が集まり10月の7人制の公式戦を行うことが出来ました。そして麻布大と横浜市立大、横浜商科大と対戦し、点差は僅差でしたが3勝して大会の結果はなんと優勝でした。トロフィーも協会から頂きました。 一応、優勝と言う形でチームに弾みが付き、その年は日本でのラグビーワールドカップが開催され、日本チームも強豪チームを撃破しベスト8進出となり、忘れもしない翌年の1月にOBを集めて優勝報告会を開催しラグビー部は追い風に乗って、4月のラグビー部員が何名入るか楽しみだね~と学生やOB同士で話した数日後に横浜港の大型客船のコロナのニュースが入ってきました。2020年からのコロナ禍の始まりでした。 その後は皆さまの承知の通り、その年の新入生たちは、部活動はもとより、学校自体に登校しなくなりました。その年は活動が出来ませんでした。再び、再活動を始めたのは2021年でした。その時の成績は残念ながら、公式戦は2敗となりました。 強豪の目黒高校でラグビーに出会い、東京国際大学ラグビー部へ途中ですが、私の自己紹介とラグビーとの出会いのことについて語りたいと思います。 私自身、ラグビーは高校時代から始めました。同世代の方々なら分かるかと思いますが、当時は「スクールウォーズ」という高校ラグビー部の弱小チームが数年後に全国大会で優勝を遂げる人気ドラマが放送されており、当時、強豪高校と言われた目黒高校に入学しました。 中学生までは野球、水泳、柔道をやっておりましたが、高校はラグビーをやりたいと思った訳です。楕円のボールへの憧れや思いっ切り相手を倒すタックルに興味を持っていました。 当時の目黒高校は俗にいうスパルタでした。朝練、昼連、授業後の多摩川河川敷での長時間の練習があり、1年間の休みは数えるほどで、しかも高校1年時の後半からは寮生活でした。高校生活の全てがラグビー中心となり、厳しい練習に耐え、練習時間や試合数などでは他校には負けない自信もありました。特にタックルが評価され1年時の後半からFWでのFLやNO8でレギュラーにもなりました。(しかしながら後にタックルでの脳震盪の回数が多く、自分では高校でラグビーを一区切りと考えていました。)高校3年の花園予選では、準々決勝で国学院久我山に敗れ高校生活は終わりました。進路は当時の自己推薦で商学部商学科に入学し大学でも4年間続け、4年時には主将も務めました。 現在はラグビー部の監督(ボランティア)と通常時の仕事は外国人人材紹介の営業マンをやっています。主に週末の土曜日に川越のグランドや8月には夏合宿の菅平へも行きました。 ラグビーは人生に例えることがあります。楕円球はどこに弾むかは分かりません。右に行くのか、左に行くのか?跳ね返ってくるのか?でも、そのチャンスは全力でプレーしていれば掴めるチャンスが高まります。また、苦しい時には相手との我慢比べです。必ず試合では全力を出すことの大切さ、自己犠牲の精神の大切さも学びます。自分のタックルで相手がボールを落として、味方がそのボールを持ちトライのためにゴールに走ります。 辛いことも沢山ありますが、私が大学時代に体得したのは目黒高校時代のスパルタでもない真逆のラグビーでした。ラグビー好きな部員が集まり、楽しむという「本来あるべきスポーツをやる目的」を実践する部活でした。ちなみに現在の東京国際大のラグビー部のモットーは「エンジョイラグビー」です。選手たちもラグビーを伸び伸びとやっています。 ラグビー部の活動の経緯 話をラグビー部の活動の経緯に戻します。それ以降も活動を重ねて継続しました。 コロナ禍以降、少しずつ地道に活動して行き、2023年の新入生でラグビー経験者が4名入り、嬉しい誤算もあり、着々とラグビー部が賑やかになってきました。 同時に中途採用で大学職員になったラグビー経験者の堂内コーチの手助けもあり、やっとラグビー部が形になってきました。ラグビー部が強化部に選ばれなかった事で、私はメリットもあると思っています。強化部に指定されれば、リクルートで入部するのは、経験者のみですが、東京国際大ラグビー部には、大学から初めてラグビーを始める者もおります。様々なスポーツの要素がラグビーにも活かせる訳です。そして、未経験者歓迎を打ち出し、積極的に一般学生を勧誘出来るのは大きなメリットであり、一から始められる部活なのです。事実、大学から未経験でラグビーを始めた部員は現在6名もいます。 また、留学生が入部出来る部活でもあり、今迄に南アフリカなど様々な学生でワンチームを目指せる訳です。今、現状では、ラグビー部員は17名(MGを含み)になりました。 この秋には7人制の公式戦の大会と15人制(3大学合同・東国大・創価大・埼玉大)の試合の日程も決まり。勝利に向けて日々、練習しております。先日も合同練習に参加しましたが、他大学の学生と一緒に試合をして苦楽を共にし、勝利を目指す仲間になる事で大学を超えた交友関係も拡がり必ずや人生に於いても貴重な良い経験になると思います。 創部60周年記念祝賀会を開催しました2025年6月28日には池袋キャンパスで創部60周年の記念祝賀会兼懇親会が開かれ、1期生から現役学生までの約60名の方々にご参加を戴きました。1期生の方は80歳でした。やはり、現役学生がいるのと、いないのでは大きく異なります。一旦、休部を経験して、ラグビー部の活動が0になった事を知る側からすれば、地道にラグビー部のメンバーを集めて、現在、活動していることはOB・OGからすれば嬉しい訳で、寄付も戴くことができました。今後は二度と休部に成らない様に皆で力を合わせて精進して参りたいと思います。 エンジョイラグビーを実践して、ラグビー部を盛り上げていきたい私が皆さんに伝えたい事は、是非、たまには大学に目を向けて欲しいと言うことです。秋霞祭の名称がインターナショナルフェスティバルに変わり、大学構内には様々な国の留学生も見掛ける様になりました。キャンパスも池袋キャンパスも新設され、部員が分かれて練習するときもあります。色々と大学の環境も変わってきました。是非、皆さん、学生時代に自分が所属した部活やサークルがどうなっているかも調べてみて下さい。貴方の手助けを求めているかも知れません。(私の現役学生時代に比べ様々な部が活動停止になっています) 私はラグビー部の監督をやっていますが、あくまでもボランティア活動です。見返りなどはありません。ラグビーが好きで、現役学生の顔を見て、その学生のプレーが成長したり、彼らと一緒にいて、話して、時にはパスを一緒に練習したりすることが楽しいのです。 休部だったラグビー部が今夏には、菅平に行き、東京理科大や駿河台大、学習院大、東北学院大の学生らと合同練習や試合などが出来た幸せを、今、噛みしめています。 7年前は部員0人で何も出来なかったチームが、現在は17名になりました。来年は20名以上のチームに成れるように頑張って行きます。(職員の堂内コーチと共に) 現在のチームの雰囲気は最高です。1年生で4月から未経験者で入部し、ラグビーのプレーが成長した学生をみると凄く嬉しいです。僕は、部員たちに話します。「ラグビーはキツイ、辛い、痛いスポーツだけど、苦しい中での楽しさを見つけよう」とこれからもチームモットーのエンジョイラグビーを実践して行き、これからもラグビー部を盛り上げていきたいと考えています。(勿論、楽しむことと同時に試合での勝利と大会結果も追求します) 東京国際大学ラグビー部の応援をよろしくお願いします。通常、こちらの投稿欄はOBやOGの皆様が携わっているビジネスに関しての記載が多いかと思いますが、私は部活の再建についての記事を中心に書かせて戴きました。こんなOBもいるのだなと知って戴ければ幸いです。若い現役学生と交わりラグビー部に携わる事は気持ちの部分でも若返ります。また青春時代を2度経験している様な気持ちになります。それが私の遣り甲斐に繋がっているかと思います。これから10月・11月に公式戦もありますので、試合に勝利出来る様にチーム一丸となり頑張って行きたいと思います。ここまで読んで戴き有難うございました。 是非、機会があれば東京国際大ラグビー部を是非、応援して下さい。部の情報(部員・試合予定等)はホームページにアップしています。 東京国際大学ラグビー部ホームページ https://club-rugbytokyo.com/ (塩原裕之さんプロフィール) 1971年群馬県生まれ 1989年目黒高校(現・目黒学院卒業) 1994年東京国際大学 商学部商学科卒業 三村ゼミ 卒業後は人材ビジネス企業の営業を複数経験して、現在は外国人人材紹介会社の日越貿易㈱で営業マンとして勤務しています。 日越貿易株式会社ホームページ https://nipbe.com/jp/about-us.html 追伸、先日の2025年10月26日(日)の公式戦の7人制大会が八王子の創価大学グランドで開催され優勝を飾る事が出来ました。 一回戦は合同チームでしたが、棄権による不戦勝、2回戦は、山場となった埼玉大チームと対戦して、後半の後半で逆転をして19対14で勝利をし、決勝戦で横浜市立大と対戦して26対0で完封勝利を上げました。 学生たちには、やれば出来ると感じてくれたと思いますし、この経験は必ずや彼らの人生の糧になると思います。一つの結果が出てくれて本当に嬉しかったです。皆に感謝です。 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
塩原裕之さん(1994年卒業 商学部商学科 三村ゼミ ラグビー部)2025年11月1日ラグビー部の再建に向けて 私は1994年に商学部商学科を卒業した塩原裕之と申します。これを読んでいるOB・OGの皆さん、皆さんが学生時代に所属したクラブやサークルが現在の大学でも活動をしているか否かご存じでしょうか?私は体育会ラグビー部に所属していたので、10年ほど前にはラグビー部が休部しているという事を大学関係者から聞き、非常に寂しい思いを持っておりました。 皆様がご存じの通り昨今、大学は箱根駅伝など駅伝部、サッカー、ウエイトリフティング、野球(他スポーツ部も複数有り)などの強化部に関しては部員の確保や支援などでサポートがありますが、ラグビー部は対象外でした。母校の大学でのラグビー部がない状況で何とか復活を出来ないものかを考える日々でした。当たり前ですが、一度休部した部活を復活させるには、一から部員を集めなければなりませんでした。 大学職員で川越のクラブチームでラグビーをやっている方にメールを送り、ラグビー部を再建させたい旨の連絡もしました。何かラグビーに興味を持った学生がいたら紹介して欲しいと…。 必ず、学生の中にはラグビーをやりたい者がいるはずだという思いからでした。そうして時が経って、暫くすると興味がある学生(経験者)がいると大学関係者から聞き、大学まで出向き、是非、ラグビー部を再建して欲しいことを学生たちに伝えて、ラグビー経験者が4名くらいで再スタートを切りました。皆さんが知っているラグビーは15人で行う競技だと思いますが、幸いな事に7人制ラグビーという人数が少ない場合でも出来る競技があります。こちらはオリンピック競技にも採用されている競技で、先ずはこちらからの活動を目指しました。 並行して、ラグビー部のホームページの作成も自費で手配しました。何も発信していないと、大学にラグビー部があること自体、認識されません。情報化社会やSNSの時代でもありますので、ホームページの整備も選手の写真をアップしたり、私が出来るだけの準備をしてきました。新入生への対策です。一から作り出す喜びも遣り甲斐になってきました。 2019年の5月から練習を始めて、人数も助っ人も加わり、ぎりぎりの7名が集まり10月の7人制の公式戦を行うことが出来ました。そして麻布大と横浜市立大、横浜商科大と対戦し、点差は僅差でしたが3勝して大会の結果はなんと優勝でした。トロフィーも協会から頂きました。 一応、優勝と言う形でチームに弾みが付き、その年は日本でのラグビーワールドカップが開催され、日本チームも強豪チームを撃破しベスト8進出となり、忘れもしない翌年の1月にOBを集めて優勝報告会を開催しラグビー部は追い風に乗って、4月のラグビー部員が何名入るか楽しみだね~と学生やOB同士で話した数日後に横浜港の大型客船のコロナのニュースが入ってきました。2020年からのコロナ禍の始まりでした。 その後は皆さまの承知の通り、その年の新入生たちは、部活動はもとより、学校自体に登校しなくなりました。その年は活動が出来ませんでした。再び、再活動を始めたのは2021年でした。その時の成績は残念ながら、公式戦は2敗となりました。 強豪の目黒高校でラグビーに出会い、東京国際大学ラグビー部へ途中ですが、私の自己紹介とラグビーとの出会いのことについて語りたいと思います。 私自身、ラグビーは高校時代から始めました。同世代の方々なら分かるかと思いますが、当時は「スクールウォーズ」という高校ラグビー部の弱小チームが数年後に全国大会で優勝を遂げる人気ドラマが放送されており、当時、強豪高校と言われた目黒高校に入学しました。 中学生までは野球、水泳、柔道をやっておりましたが、高校はラグビーをやりたいと思った訳です。楕円のボールへの憧れや思いっ切り相手を倒すタックルに興味を持っていました。 当時の目黒高校は俗にいうスパルタでした。朝練、昼連、授業後の多摩川河川敷での長時間の練習があり、1年間の休みは数えるほどで、しかも高校1年時の後半からは寮生活でした。高校生活の全てがラグビー中心となり、厳しい練習に耐え、練習時間や試合数などでは他校には負けない自信もありました。特にタックルが評価され1年時の後半からFWでのFLやNO8でレギュラーにもなりました。(しかしながら後にタックルでの脳震盪の回数が多く、自分では高校でラグビーを一区切りと考えていました。)高校3年の花園予選では、準々決勝で国学院久我山に敗れ高校生活は終わりました。進路は当時の自己推薦で商学部商学科に入学し大学でも4年間続け、4年時には主将も務めました。 現在はラグビー部の監督(ボランティア)と通常時の仕事は外国人人材紹介の営業マンをやっています。主に週末の土曜日に川越のグランドや8月には夏合宿の菅平へも行きました。 ラグビーは人生に例えることがあります。楕円球はどこに弾むかは分かりません。右に行くのか、左に行くのか?跳ね返ってくるのか?でも、そのチャンスは全力でプレーしていれば掴めるチャンスが高まります。また、苦しい時には相手との我慢比べです。必ず試合では全力を出すことの大切さ、自己犠牲の精神の大切さも学びます。自分のタックルで相手がボールを落として、味方がそのボールを持ちトライのためにゴールに走ります。 辛いことも沢山ありますが、私が大学時代に体得したのは目黒高校時代のスパルタでもない真逆のラグビーでした。ラグビー好きな部員が集まり、楽しむという「本来あるべきスポーツをやる目的」を実践する部活でした。ちなみに現在の東京国際大のラグビー部のモットーは「エンジョイラグビー」です。選手たちもラグビーを伸び伸びとやっています。 ラグビー部の活動の経緯 話をラグビー部の活動の経緯に戻します。それ以降も活動を重ねて継続しました。 コロナ禍以降、少しずつ地道に活動して行き、2023年の新入生でラグビー経験者が4名入り、嬉しい誤算もあり、着々とラグビー部が賑やかになってきました。 同時に中途採用で大学職員になったラグビー経験者の堂内コーチの手助けもあり、やっとラグビー部が形になってきました。ラグビー部が強化部に選ばれなかった事で、私はメリットもあると思っています。強化部に指定されれば、リクルートで入部するのは、経験者のみですが、東京国際大ラグビー部には、大学から初めてラグビーを始める者もおります。様々なスポーツの要素がラグビーにも活かせる訳です。そして、未経験者歓迎を打ち出し、積極的に一般学生を勧誘出来るのは大きなメリットであり、一から始められる部活なのです。事実、大学から未経験でラグビーを始めた部員は現在6名もいます。 また、留学生が入部出来る部活でもあり、今迄に南アフリカなど様々な学生でワンチームを目指せる訳です。今、現状では、ラグビー部員は17名(MGを含み)になりました。 この秋には7人制の公式戦の大会と15人制(3大学合同・東国大・創価大・埼玉大)の試合の日程も決まり。勝利に向けて日々、練習しております。先日も合同練習に参加しましたが、他大学の学生と一緒に試合をして苦楽を共にし、勝利を目指す仲間になる事で大学を超えた交友関係も拡がり必ずや人生に於いても貴重な良い経験になると思います。 創部60周年記念祝賀会を開催しました2025年6月28日には池袋キャンパスで創部60周年の記念祝賀会兼懇親会が開かれ、1期生から現役学生までの約60名の方々にご参加を戴きました。1期生の方は80歳でした。やはり、現役学生がいるのと、いないのでは大きく異なります。一旦、休部を経験して、ラグビー部の活動が0になった事を知る側からすれば、地道にラグビー部のメンバーを集めて、現在、活動していることはOB・OGからすれば嬉しい訳で、寄付も戴くことができました。今後は二度と休部に成らない様に皆で力を合わせて精進して参りたいと思います。 エンジョイラグビーを実践して、ラグビー部を盛り上げていきたい私が皆さんに伝えたい事は、是非、たまには大学に目を向けて欲しいと言うことです。秋霞祭の名称がインターナショナルフェスティバルに変わり、大学構内には様々な国の留学生も見掛ける様になりました。キャンパスも池袋キャンパスも新設され、部員が分かれて練習するときもあります。色々と大学の環境も変わってきました。是非、皆さん、学生時代に自分が所属した部活やサークルがどうなっているかも調べてみて下さい。貴方の手助けを求めているかも知れません。(私の現役学生時代に比べ様々な部が活動停止になっています) 私はラグビー部の監督をやっていますが、あくまでもボランティア活動です。見返りなどはありません。ラグビーが好きで、現役学生の顔を見て、その学生のプレーが成長したり、彼らと一緒にいて、話して、時にはパスを一緒に練習したりすることが楽しいのです。 休部だったラグビー部が今夏には、菅平に行き、東京理科大や駿河台大、学習院大、東北学院大の学生らと合同練習や試合などが出来た幸せを、今、噛みしめています。 7年前は部員0人で何も出来なかったチームが、現在は17名になりました。来年は20名以上のチームに成れるように頑張って行きます。(職員の堂内コーチと共に) 現在のチームの雰囲気は最高です。1年生で4月から未経験者で入部し、ラグビーのプレーが成長した学生をみると凄く嬉しいです。僕は、部員たちに話します。「ラグビーはキツイ、辛い、痛いスポーツだけど、苦しい中での楽しさを見つけよう」とこれからもチームモットーのエンジョイラグビーを実践して行き、これからもラグビー部を盛り上げていきたいと考えています。(勿論、楽しむことと同時に試合での勝利と大会結果も追求します) 東京国際大学ラグビー部の応援をよろしくお願いします。通常、こちらの投稿欄はOBやOGの皆様が携わっているビジネスに関しての記載が多いかと思いますが、私は部活の再建についての記事を中心に書かせて戴きました。こんなOBもいるのだなと知って戴ければ幸いです。若い現役学生と交わりラグビー部に携わる事は気持ちの部分でも若返ります。また青春時代を2度経験している様な気持ちになります。それが私の遣り甲斐に繋がっているかと思います。これから10月・11月に公式戦もありますので、試合に勝利出来る様にチーム一丸となり頑張って行きたいと思います。ここまで読んで戴き有難うございました。 是非、機会があれば東京国際大ラグビー部を是非、応援して下さい。部の情報(部員・試合予定等)はホームページにアップしています。 東京国際大学ラグビー部ホームページ https://club-rugbytokyo.com/ (塩原裕之さんプロフィール) 1971年群馬県生まれ 1989年目黒高校(現・目黒学院卒業) 1994年東京国際大学 商学部商学科卒業 三村ゼミ 卒業後は人材ビジネス企業の営業を複数経験して、現在は外国人人材紹介会社の日越貿易㈱で営業マンとして勤務しています。 日越貿易株式会社ホームページ https://nipbe.com/jp/about-us.html 追伸、先日の2025年10月26日(日)の公式戦の7人制大会が八王子の創価大学グランドで開催され優勝を飾る事が出来ました。 一回戦は合同チームでしたが、棄権による不戦勝、2回戦は、山場となった埼玉大チームと対戦して、後半の後半で逆転をして19対14で勝利をし、決勝戦で横浜市立大と対戦して26対0で完封勝利を上げました。 学生たちには、やれば出来ると感じてくれたと思いますし、この経験は必ずや彼らの人生の糧になると思います。一つの結果が出てくれて本当に嬉しかったです。皆に感謝です。 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
イスタンブールの絨毯から、気象ビジネス、そして上場へ
池田洋人さん(1997年3月卒業 商学部経営情報学科 芝野耕司ゼミ)2025年10月1日学生時代——旅と仲間と、学食の指定席 TIU商学部経営情報学科に在籍していた頃、私は芝野耕司先生のゼミを選びました。コンピュータやインターネットを学びたいという真面目な理由はあったのですが、実際にはゼミよりも友人関係に力を注いでいたように思います。今になって振り返ると「もっと勉強しておけばよかった」と思う反面、ゼミ室で交わした雑談の時間は、自分にとっての財産だったと感じます。 当時は、アウトドアサークル(ホーキンズ)を立ち上げ、青春18きっぷを握りしめて沖縄・宮古島まで野宿の旅に挑戦したりもしました。野宿といっても実態はただの「勢いとノリ」だったので、帰り道の資金計算に真剣になったのは今となっては笑い話です。 学食では、仲間たちと「指定席」を陣取り、日が暮れるまでくだらない話で盛り上がっていました。今思えば、あの頃ほどお互いのことを深く知り合った時間は、もう二度とないように思います。青春のかなりの時間を、あの食堂の椅子で過ごした気がします。 初めての海外旅行では、トルコやエジプトをバックパックで放浪しました。特にトルコ・イスタンブールでは、絨毯屋の店主と仲良くなり、数日間「住み込み販売員」をさせてもらうという珍体験も。日本から来た大学生が観光客相手に絨毯を売ろうとする姿は、きっと胡散臭さ満点だったに違いありませんが、それも含めて「飛び込んでみると案外なんとかなる」ことを学びました。 その店主からかけられた言葉が、今も心に残っています。 「ワーカーになるな、ビジネスマンになれ」 お金のためだけに働くのではなく、社会に出たら社会に貢献できるビジネスマンになれ——と私は解釈しました。この一言は、その後の自分の働き方や会社経営の原点になっている気がします。 エジプト:ルクソールをレンタル自転車にて 気象の世界へ——偶然と縁が導いたキャリア 就職活動は「氷河期」という重みを感じた時代でした。手書きの応募はがきを数多く送り続け、ようやく拾っていただいたのが株式会社ハレックスという気象情報会社です。 当時、気象業務法が改正され、気象庁以外にも民間企業が気象ビジネスに参入できるようになったばかり。芝野先生に報告すると「なかなか面白い会社に行くじゃない」と声をかけていただきました。単純な私は、その一言で「よし、この道で頑張ろう」とスイッチが入りました。 在学中に猛勉強し、気象予報士試験の一部科目に合格できたのも、いい追い風でした。入社後は、新田尚元気象庁長官や土屋喬先生といった重鎮に直に学ぶ機会を得ました。お昼休みにスーパーで買った惣菜パンを分け合いながら気象や防災について議論した日々は、若手時代の貴重な財産です。 ヤフーで走り切る その後ヤフーに転職し、プロデューサーとして「Yahoo!天気」の全面リニューアルを行いました。毎日が修羅場でしたが、その分やり切った達成感も大きく、四半期ごとに選ばれる社内表彰「スーパースター」にも選出されました。 ただ「スーパースター」と言われても、芸能人のようにファンが待っているわけでもなく、給料が爆上がりするわけでもなく。結局は「よく頑張ったで賞」みたいなものです。でも、それが一区切りになって、「ここまで走り切った」と胸を張って退職できました。 ヤフー:スーツ出社はめずらしい 起業、そして最小人数での上場 独立後は、気象とITを掛け合わせたビジネスを模索し、株式会社ALiNKインターネットを設立。「tenki.jp」を通じて社会の防災や生活の利便性を支えることを目指しました。 そして2019年、当社は東証マザーズ(現:グロース市場)に上場。わずか9名という最小人数での上場だったため、通常は限られる東証でのセレモニーも「全員参加OK」に。さらに、子どもを持つ社員は子連れ参加も認められるという、異例の取り計らいをいただきました。 私は両親を招待し、社員とその家族、そして赤ちゃんの泣き声と一緒に鐘を鳴らしました。担当者の方が「赤ちゃんの声が聞こえるセレモニーは初めてです」と笑顔で言ってくださり、あの日の温かい雰囲気は今でも忘れられません。華やかというよりは、家族と仲間が一緒に迎えた「手作りのお祝い」だったと思います。 上場日:家族そろって記念写真 在校生へのメッセージ 在校生のみなさんに伝えたいのは、「勢いで飛び込む経験を大切に」ということです。 宮古島までの無謀な野宿旅や、イスタンブールの絨毯屋での住み込み販売は、履歴書には書けませんが、今の自分の芯にはしっかり残っています。 社会に出ると、どうしても効率や合理性ばかりが求められます。でも実際は、寄り道のような時間の方が、あとになって役に立つことが多い気がします。 それと、「人との縁を大事にすること」。先生のひとこと、学食での無駄話、東証での泣き声すらも、今の自分を支える大事な場面になっています。 最近では、当社にもTIU出身の社員がいます。黒田さんというのですが、流行りのAIを活用しながら新規事業に取り組んでくれています。先日、その新規事業の一部にシステム障害が発生したのですが、黒田さんは落ち着いて仕切り、最後は数枚の報告書にまとめてくれました。おそらく上司はだいぶ助かったはずです。時には直球の意見をぶつけてきて、私自身もハッとさせられることがあります。TIU出身者は誠実で素直な人が多いな、と実感しています。 みなさんも、予定調和といかないような経験に、ちょっと無理してでも飛び込んで、そして楽しんでみてください。そのときは大変でも、後になって「あれが効いたんだな」と思える瞬間が、きっと訪れると思います。 (池田洋人さんプロフィール) 1974年 埼玉県生まれ。県立熊谷商業高等学校から東京国際大学商学部に入学。 卒業後の1997年に民間気象会社のハレックスに入社。 03年にヤフー株式会社の天気情報プロデューサーになり、「Yahoo!天気情報(現Yahoo!天気・災害)」のフルリニューアルを行う。 05年に独立し08年から日本気象協会との共同事業「tenki.jp」の運営に携わっている。 13年にALiNKインターネット(ありんくインターネット)を創業し代表取締役CEOに就任。 19年に東証マザーズに株式上場を果たした。 著書に「ずっと受けたかった お天気の授業」「たのしく学ぼう お天気の学校 12ヶ月」(共に東京堂出版)。 ALiNKインターネット[https://www.alink.ne.jp/] TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
池田洋人さん(1997年3月卒業 商学部経営情報学科 芝野耕司ゼミ)2025年10月1日学生時代——旅と仲間と、学食の指定席 TIU商学部経営情報学科に在籍していた頃、私は芝野耕司先生のゼミを選びました。コンピュータやインターネットを学びたいという真面目な理由はあったのですが、実際にはゼミよりも友人関係に力を注いでいたように思います。今になって振り返ると「もっと勉強しておけばよかった」と思う反面、ゼミ室で交わした雑談の時間は、自分にとっての財産だったと感じます。 当時は、アウトドアサークル(ホーキンズ)を立ち上げ、青春18きっぷを握りしめて沖縄・宮古島まで野宿の旅に挑戦したりもしました。野宿といっても実態はただの「勢いとノリ」だったので、帰り道の資金計算に真剣になったのは今となっては笑い話です。 学食では、仲間たちと「指定席」を陣取り、日が暮れるまでくだらない話で盛り上がっていました。今思えば、あの頃ほどお互いのことを深く知り合った時間は、もう二度とないように思います。青春のかなりの時間を、あの食堂の椅子で過ごした気がします。 初めての海外旅行では、トルコやエジプトをバックパックで放浪しました。特にトルコ・イスタンブールでは、絨毯屋の店主と仲良くなり、数日間「住み込み販売員」をさせてもらうという珍体験も。日本から来た大学生が観光客相手に絨毯を売ろうとする姿は、きっと胡散臭さ満点だったに違いありませんが、それも含めて「飛び込んでみると案外なんとかなる」ことを学びました。 その店主からかけられた言葉が、今も心に残っています。 「ワーカーになるな、ビジネスマンになれ」 お金のためだけに働くのではなく、社会に出たら社会に貢献できるビジネスマンになれ——と私は解釈しました。この一言は、その後の自分の働き方や会社経営の原点になっている気がします。 エジプト:ルクソールをレンタル自転車にて 気象の世界へ——偶然と縁が導いたキャリア 就職活動は「氷河期」という重みを感じた時代でした。手書きの応募はがきを数多く送り続け、ようやく拾っていただいたのが株式会社ハレックスという気象情報会社です。 当時、気象業務法が改正され、気象庁以外にも民間企業が気象ビジネスに参入できるようになったばかり。芝野先生に報告すると「なかなか面白い会社に行くじゃない」と声をかけていただきました。単純な私は、その一言で「よし、この道で頑張ろう」とスイッチが入りました。 在学中に猛勉強し、気象予報士試験の一部科目に合格できたのも、いい追い風でした。入社後は、新田尚元気象庁長官や土屋喬先生といった重鎮に直に学ぶ機会を得ました。お昼休みにスーパーで買った惣菜パンを分け合いながら気象や防災について議論した日々は、若手時代の貴重な財産です。 ヤフーで走り切る その後ヤフーに転職し、プロデューサーとして「Yahoo!天気」の全面リニューアルを行いました。毎日が修羅場でしたが、その分やり切った達成感も大きく、四半期ごとに選ばれる社内表彰「スーパースター」にも選出されました。 ただ「スーパースター」と言われても、芸能人のようにファンが待っているわけでもなく、給料が爆上がりするわけでもなく。結局は「よく頑張ったで賞」みたいなものです。でも、それが一区切りになって、「ここまで走り切った」と胸を張って退職できました。 ヤフー:スーツ出社はめずらしい 起業、そして最小人数での上場 独立後は、気象とITを掛け合わせたビジネスを模索し、株式会社ALiNKインターネットを設立。「tenki.jp」を通じて社会の防災や生活の利便性を支えることを目指しました。 そして2019年、当社は東証マザーズ(現:グロース市場)に上場。わずか9名という最小人数での上場だったため、通常は限られる東証でのセレモニーも「全員参加OK」に。さらに、子どもを持つ社員は子連れ参加も認められるという、異例の取り計らいをいただきました。 私は両親を招待し、社員とその家族、そして赤ちゃんの泣き声と一緒に鐘を鳴らしました。担当者の方が「赤ちゃんの声が聞こえるセレモニーは初めてです」と笑顔で言ってくださり、あの日の温かい雰囲気は今でも忘れられません。華やかというよりは、家族と仲間が一緒に迎えた「手作りのお祝い」だったと思います。 上場日:家族そろって記念写真 在校生へのメッセージ 在校生のみなさんに伝えたいのは、「勢いで飛び込む経験を大切に」ということです。 宮古島までの無謀な野宿旅や、イスタンブールの絨毯屋での住み込み販売は、履歴書には書けませんが、今の自分の芯にはしっかり残っています。 社会に出ると、どうしても効率や合理性ばかりが求められます。でも実際は、寄り道のような時間の方が、あとになって役に立つことが多い気がします。 それと、「人との縁を大事にすること」。先生のひとこと、学食での無駄話、東証での泣き声すらも、今の自分を支える大事な場面になっています。 最近では、当社にもTIU出身の社員がいます。黒田さんというのですが、流行りのAIを活用しながら新規事業に取り組んでくれています。先日、その新規事業の一部にシステム障害が発生したのですが、黒田さんは落ち着いて仕切り、最後は数枚の報告書にまとめてくれました。おそらく上司はだいぶ助かったはずです。時には直球の意見をぶつけてきて、私自身もハッとさせられることがあります。TIU出身者は誠実で素直な人が多いな、と実感しています。 みなさんも、予定調和といかないような経験に、ちょっと無理してでも飛び込んで、そして楽しんでみてください。そのときは大変でも、後になって「あれが効いたんだな」と思える瞬間が、きっと訪れると思います。 (池田洋人さんプロフィール) 1974年 埼玉県生まれ。県立熊谷商業高等学校から東京国際大学商学部に入学。 卒業後の1997年に民間気象会社のハレックスに入社。 03年にヤフー株式会社の天気情報プロデューサーになり、「Yahoo!天気情報(現Yahoo!天気・災害)」のフルリニューアルを行う。 05年に独立し08年から日本気象協会との共同事業「tenki.jp」の運営に携わっている。 13年にALiNKインターネット(ありんくインターネット)を創業し代表取締役CEOに就任。 19年に東証マザーズに株式上場を果たした。 著書に「ずっと受けたかった お天気の授業」「たのしく学ぼう お天気の学校 12ヶ月」(共に東京堂出版)。 ALiNKインターネット[https://www.alink.ne.jp/] TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
留学を通して培った困難でもやり抜く力。キャリアもプライベートもあきらめないこれからの未来のために。
舩形史美(旧姓)さん 国際関係学部2008年卒 / 小室ゼミ TIUA 2003年生 南オレゴン大学(Southern Oregon University) リベラルアーツ社会学 2007年卒2025年9月1日勉強にも遊びにも精一杯だった2度の留学時代 TIUA(ASPプログラム)に参加することは、留学はおろか海外旅行もしたことがなかった私にとって勇気のある決断でしたが、両親の後押しもあり10か月という長期のプログラムに参加しました。 私にとって音楽や映画を通して知るアメリカは憧れの国でした。だからこそ意味がある留学にしなければいけないと、TIUAプログラムでは必死で、精一杯な日々だったように思います。 夏休みなど長期休暇では、独りバックパック一つで、カルフォルニアを縦断したり、ニューヨークに数週間滞在するなど、アメリカで行きたかった場所を巡り、滞在することができとても嬉しかったです。 一人でアメリカ内を行動したことで、結果的に英語力はもちろん、コミュニケーション力や交渉する力が身についたと思います。そういった経験の中でアメリカという国の良い面もそうでない面も知り、単なる憧れではなく現実としてもっと深く知りたいと思うようになり、プログラム終了後にアメリカに編入留学することを目指すようになりました。 私がTIUAのプログラムに参加している間も、すでにTIUからWillamette大学へ編入し切磋琢磨している先輩の姿を見て、その思いは一層強くなっていったように思います。 (TIUA時代 お揃いのTシャツで寮の仲間と/14年後の再訪問) 10か月のプログラムを経てもなお英語力が全く足りず、一度帰国し猛勉強し、編入試験を受け南オレゴン大学(SOU)へ編入することとなりました。 社会学を専攻したのですが、かなり本を読まないといけない学部で、しかも3年生からの編入ということもあり勉強面では大変苦労しました。担任の先生に相談し、毎週個別の質問時間をもらい、学内にある学習サポートを駆使するなど、色々なサポートを得てなんとか勉強についていったように思います。苦労のかいもあり、卒業時には成績優秀者のリストに載り、卒業後数年後教授に偶然会った際には「優秀な生徒だったことをよく覚えている」と言ってもらったのは良い思い出です。 2度の留学を通して、アメリカはもちろん、ヨーロッパやタイや台湾、ハワイなど世界中に友人ができたことは大きな財産です。卒業後も海外旅行を兼ねて友人を訪ね、日本を訪れた海外からの友人と再会し、交友を続けています。また、同じ日本から留学した友人も海外で活躍したり、事業を成功させるなど自ら道をきりひらいている仲間が多く、刺激を受けています。 (南オレゴン大学卒業式に両親と) 遠回りの道のりこそが自分の将来を切り開く鍵 南オレゴン大学では社会学を専攻し、同時にコンピューターサイエンスを副専攻として卒業しました。当時ITの世界に将来性を感じていたことから、日本に帰国し通信系IT企業に就職し、プログラミングやシステム導入のプロジェクトに携わりました。 専攻だった社会学に関連する職業でもなく、留学したのに英語を全く使わない就職先でしたが、将来的に英語ができるIT経験者は人材価値が高まるのではないかという目論見があってのことでした。また、家庭を持っても働き続けることができる企業風土の就職先を選びました。そのIT企業では産休育休をはさみ9年ほど在籍し、ITの基礎の基礎からプロジェクト運営、クライアントと直接コミュニケーションをとる営業を経験した後、大手外資のコンサル会社のテクノロジー部門に転職しました。 外資のコンサル会社は日本企業にはないスピード感、風通しのよさがあり、さらに個々人が存在価値を発揮し、結果を出すことにコミットすることが当たり前で、それまでの日本企業とは真逆の文化でした。そのため、自分のマインドセットや行動の癖をアジャストすることにかなり苦労しました。最初に関わったプロジェクトではほとんど価値を発揮せずに終わってしまったものの、周囲に恵まれ、かなり丁寧に教えてもらい、鍛えてもらったことが大きな財産となり、現在までタフな仕事でも通用できていると感じます。 多くのグローバルプロジェクトに携わり、日本からヨーロッパやシンガポール、インドやアメリカなどと共同して進める場面では留学時代に培った語学力が活かされています。考え方や文化の違うメンバーが多数の中、仕事の進め方の違いや、協働することの難しさもありますが、それ乗り越えてプロジェクトが成功した時の達成感は何にも代えがたいものがあります。 規模の大きなグローバルプロジェクトも多く、自分の携わったプロジェクトがニュースや経済誌に載ることもあり、微力ながらも世界や日本の経済にインパクトを与える仕事ができていることに誇りを感じます。 遠回りしたようにも感じますが、結果的に留学を通して経験したことや社会人になってから鍛えたスキル全てが今の自分のキャリアに到達するには必要なことだったと感じています。 働く女性としてのキャリア、これからの未来のために IT企業時代、社会人5年目の頃に第1子を出産しています。ようやく女性も出産後働き続ける人が増えてきた頃でしたが、まだ働き続けることはできてもキャリアアップは望まない(望めない)のが多くの働く女性の現実でした。今でこそ働く女性、特に子供のいる女性のキャリアを阻む障害が“マミートラック”や“ガラスの天井”と言われ、問題視されていますが、当時は当たり前の価値観でした。例に漏れず、私も当時は子供を持ちながらの大きなキャリアアップは難しいと考えざるを得ない状況でした。 一方で、同じ南オレゴン大学出身の夫はキャリアアップ転職に成功し、やりがいのある仕事に就き、子供も産まれ、公私共に充実していました。 同じ大学出身なのに、順調にキャリアを積んでいく夫に対して、出産を機にキャリアを諦め停滞する自分。私も学生時代頑張ってきたのに、それは意味がなかったと社会に突きつけられているようでした。 転機となったのは、それから数年後、オレゴンを家族旅行で訪れTIUAと南オレゴン大学を訪ねたことでした。当時のTIUAのスタッフの皆さんにお会いし、Willamette大学や南オレゴン大学を訪問することで、留学当時の思いや切磋琢磨した日々を思い出し、 「あんなに頑張って人生を切り開いていったのに、このままで良いわけがない。」と強く思うに至りました。 帰国後、夫の後押しもあり、転職活動の結果、現在の外資系コンサル会社への転職というキャリアアップの機会に恵まれました。転職後も苦難の連続でしたが、管理職になり、その後もさらにキャリアを積めているのは、留学時代に養った目標に向かって行動しやり抜く力が活かされたこと、そして娘を持つ母になったことが大きいです。いずれ社会に出る娘たちに、女性であることで本来の自分と異なる”あるべき姿”に縛られたり、何かをあきらめたりすることがないような未来を用意すること、それが私の夢であり大きな目標です。 (2017年TIUA、Willamette大学、南オレゴン大学への訪問) 目の前にチャンスが巡ってきたときに、そのチャンスをつかめるように 大学卒業時、自分の専攻も英語力も関係のないITの世界に飛び込みました。ITの世界では英語ができる人が少なく、将来的に英語力とITスキルを両方兼ね備えることが自分の強みになると考えたからです。結果的に外資系コンサル企業でグローバルプロジェクトに携わり、両方のスキルを活かせています。 現在の私は、昨年(2024年)11年ぶりの出産をして1年以上夫婦で育児休業を取得し、思う存分子供と向き合うことができる生活ができています。 これは、共働きでも女性が家庭や子育てのほぼ全てを担うのが当たり前だった11年前の第1子の出産時にはしたくてもできなかったことです。 キャリアもプライベートも、目の前にチャンスが巡ってきたときに、そのチャンスがつかめるよう、経験を積みスキルアップをして準備しておくことが大事です。 大きな夢ではなくても、どのように生きたいか、なりたい自分をぼんやりと描いたら、5年後、10年後の世の中はどうなっているか、その時に自分の武器になりえるものは何か、自分は今から何が準備できるか、想像力を働かせてみると良いと思います。 そして変化に対応するだけではなく、自分が世の中を良い方向に変えていく存在であることを忘れないで欲しいです。 (舩形史美(旧姓)さんプロフィール) 福島県いわき市生まれ、宮城県仙台市出身 2002年東京国際大学入学 2003年TIUAプログラムに参加 2005年オレゴン州立南オレゴン大学入学 2007年オレゴン州立南オレゴン大学卒業 リベラルアーツ卒社会学専攻/コンピューターサイエンス副専攻 2008年東京国際大学国際関係学部卒業 2008年ドコモ・システムズ株式会社入社 2013年第1子出産 2017年アクセンチュア株式会社へ転職 2024年第2子出産 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
舩形史美(旧姓)さん 国際関係学部2008年卒 / 小室ゼミ TIUA 2003年生 南オレゴン大学(Southern Oregon University) リベラルアーツ社会学 2007年卒2025年9月1日勉強にも遊びにも精一杯だった2度の留学時代 TIUA(ASPプログラム)に参加することは、留学はおろか海外旅行もしたことがなかった私にとって勇気のある決断でしたが、両親の後押しもあり10か月という長期のプログラムに参加しました。 私にとって音楽や映画を通して知るアメリカは憧れの国でした。だからこそ意味がある留学にしなければいけないと、TIUAプログラムでは必死で、精一杯な日々だったように思います。 夏休みなど長期休暇では、独りバックパック一つで、カルフォルニアを縦断したり、ニューヨークに数週間滞在するなど、アメリカで行きたかった場所を巡り、滞在することができとても嬉しかったです。 一人でアメリカ内を行動したことで、結果的に英語力はもちろん、コミュニケーション力や交渉する力が身についたと思います。そういった経験の中でアメリカという国の良い面もそうでない面も知り、単なる憧れではなく現実としてもっと深く知りたいと思うようになり、プログラム終了後にアメリカに編入留学することを目指すようになりました。 私がTIUAのプログラムに参加している間も、すでにTIUからWillamette大学へ編入し切磋琢磨している先輩の姿を見て、その思いは一層強くなっていったように思います。 (TIUA時代 お揃いのTシャツで寮の仲間と/14年後の再訪問) 10か月のプログラムを経てもなお英語力が全く足りず、一度帰国し猛勉強し、編入試験を受け南オレゴン大学(SOU)へ編入することとなりました。 社会学を専攻したのですが、かなり本を読まないといけない学部で、しかも3年生からの編入ということもあり勉強面では大変苦労しました。担任の先生に相談し、毎週個別の質問時間をもらい、学内にある学習サポートを駆使するなど、色々なサポートを得てなんとか勉強についていったように思います。苦労のかいもあり、卒業時には成績優秀者のリストに載り、卒業後数年後教授に偶然会った際には「優秀な生徒だったことをよく覚えている」と言ってもらったのは良い思い出です。 2度の留学を通して、アメリカはもちろん、ヨーロッパやタイや台湾、ハワイなど世界中に友人ができたことは大きな財産です。卒業後も海外旅行を兼ねて友人を訪ね、日本を訪れた海外からの友人と再会し、交友を続けています。また、同じ日本から留学した友人も海外で活躍したり、事業を成功させるなど自ら道をきりひらいている仲間が多く、刺激を受けています。 (南オレゴン大学卒業式に両親と) 遠回りの道のりこそが自分の将来を切り開く鍵 南オレゴン大学では社会学を専攻し、同時にコンピューターサイエンスを副専攻として卒業しました。当時ITの世界に将来性を感じていたことから、日本に帰国し通信系IT企業に就職し、プログラミングやシステム導入のプロジェクトに携わりました。 専攻だった社会学に関連する職業でもなく、留学したのに英語を全く使わない就職先でしたが、将来的に英語ができるIT経験者は人材価値が高まるのではないかという目論見があってのことでした。また、家庭を持っても働き続けることができる企業風土の就職先を選びました。そのIT企業では産休育休をはさみ9年ほど在籍し、ITの基礎の基礎からプロジェクト運営、クライアントと直接コミュニケーションをとる営業を経験した後、大手外資のコンサル会社のテクノロジー部門に転職しました。 外資のコンサル会社は日本企業にはないスピード感、風通しのよさがあり、さらに個々人が存在価値を発揮し、結果を出すことにコミットすることが当たり前で、それまでの日本企業とは真逆の文化でした。そのため、自分のマインドセットや行動の癖をアジャストすることにかなり苦労しました。最初に関わったプロジェクトではほとんど価値を発揮せずに終わってしまったものの、周囲に恵まれ、かなり丁寧に教えてもらい、鍛えてもらったことが大きな財産となり、現在までタフな仕事でも通用できていると感じます。 多くのグローバルプロジェクトに携わり、日本からヨーロッパやシンガポール、インドやアメリカなどと共同して進める場面では留学時代に培った語学力が活かされています。考え方や文化の違うメンバーが多数の中、仕事の進め方の違いや、協働することの難しさもありますが、それ乗り越えてプロジェクトが成功した時の達成感は何にも代えがたいものがあります。 規模の大きなグローバルプロジェクトも多く、自分の携わったプロジェクトがニュースや経済誌に載ることもあり、微力ながらも世界や日本の経済にインパクトを与える仕事ができていることに誇りを感じます。 遠回りしたようにも感じますが、結果的に留学を通して経験したことや社会人になってから鍛えたスキル全てが今の自分のキャリアに到達するには必要なことだったと感じています。 働く女性としてのキャリア、これからの未来のために IT企業時代、社会人5年目の頃に第1子を出産しています。ようやく女性も出産後働き続ける人が増えてきた頃でしたが、まだ働き続けることはできてもキャリアアップは望まない(望めない)のが多くの働く女性の現実でした。今でこそ働く女性、特に子供のいる女性のキャリアを阻む障害が“マミートラック”や“ガラスの天井”と言われ、問題視されていますが、当時は当たり前の価値観でした。例に漏れず、私も当時は子供を持ちながらの大きなキャリアアップは難しいと考えざるを得ない状況でした。 一方で、同じ南オレゴン大学出身の夫はキャリアアップ転職に成功し、やりがいのある仕事に就き、子供も産まれ、公私共に充実していました。 同じ大学出身なのに、順調にキャリアを積んでいく夫に対して、出産を機にキャリアを諦め停滞する自分。私も学生時代頑張ってきたのに、それは意味がなかったと社会に突きつけられているようでした。 転機となったのは、それから数年後、オレゴンを家族旅行で訪れTIUAと南オレゴン大学を訪ねたことでした。当時のTIUAのスタッフの皆さんにお会いし、Willamette大学や南オレゴン大学を訪問することで、留学当時の思いや切磋琢磨した日々を思い出し、 「あんなに頑張って人生を切り開いていったのに、このままで良いわけがない。」と強く思うに至りました。 帰国後、夫の後押しもあり、転職活動の結果、現在の外資系コンサル会社への転職というキャリアアップの機会に恵まれました。転職後も苦難の連続でしたが、管理職になり、その後もさらにキャリアを積めているのは、留学時代に養った目標に向かって行動しやり抜く力が活かされたこと、そして娘を持つ母になったことが大きいです。いずれ社会に出る娘たちに、女性であることで本来の自分と異なる”あるべき姿”に縛られたり、何かをあきらめたりすることがないような未来を用意すること、それが私の夢であり大きな目標です。 (2017年TIUA、Willamette大学、南オレゴン大学への訪問) 目の前にチャンスが巡ってきたときに、そのチャンスをつかめるように 大学卒業時、自分の専攻も英語力も関係のないITの世界に飛び込みました。ITの世界では英語ができる人が少なく、将来的に英語力とITスキルを両方兼ね備えることが自分の強みになると考えたからです。結果的に外資系コンサル企業でグローバルプロジェクトに携わり、両方のスキルを活かせています。 現在の私は、昨年(2024年)11年ぶりの出産をして1年以上夫婦で育児休業を取得し、思う存分子供と向き合うことができる生活ができています。 これは、共働きでも女性が家庭や子育てのほぼ全てを担うのが当たり前だった11年前の第1子の出産時にはしたくてもできなかったことです。 キャリアもプライベートも、目の前にチャンスが巡ってきたときに、そのチャンスがつかめるよう、経験を積みスキルアップをして準備しておくことが大事です。 大きな夢ではなくても、どのように生きたいか、なりたい自分をぼんやりと描いたら、5年後、10年後の世の中はどうなっているか、その時に自分の武器になりえるものは何か、自分は今から何が準備できるか、想像力を働かせてみると良いと思います。 そして変化に対応するだけではなく、自分が世の中を良い方向に変えていく存在であることを忘れないで欲しいです。 (舩形史美(旧姓)さんプロフィール) 福島県いわき市生まれ、宮城県仙台市出身 2002年東京国際大学入学 2003年TIUAプログラムに参加 2005年オレゴン州立南オレゴン大学入学 2007年オレゴン州立南オレゴン大学卒業 リベラルアーツ卒社会学専攻/コンピューターサイエンス副専攻 2008年東京国際大学国際関係学部卒業 2008年ドコモ・システムズ株式会社入社 2013年第1子出産 2017年アクセンチュア株式会社へ転職 2024年第2子出産 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
あるTIU卒業生の人生の軌跡
髙宮純一さん(1992年24期卒業 教養学部国際学科 左治木吾郎ゼミ(1~2年生時)、小林多加士ゼミ(3~5年生時))2025年5月1日大学時代の資料探し この原稿を執筆するにあたり、久しぶりに大学時代の資料、書類、卒業アルバム、書籍などをあちこち探してみました。確か、大学時代の成績表を大学院進学の際に取り寄せた記憶があり、コピーしてどこかにしまっておいたはずですが、結果として見つけることができませんでした。今年で大学を卒業してから33年目になりますが、これまで国内外を12回ほど引っ越しました。引越しのたびに家族も増え、荷物を最小限に減らさざるを得ませんでした。学生時代に読んで感動し、名著として選定した書籍は、どこでも再読できるように全ての引越先に運搬していました。最近の引越しまで、大学時代のお気に入りの授業の講義ノートを捨てられず保管していましたが、昨年11月の引越しの際に荷物を減らすために講義ノートを捨ててしまい、後悔しています。 学問への情熱 これまでは時折、当時感動した先生方の講義ノートや教科書、講義で紹介された名著を読み返すことで、新たな学問、アカデミズムに触れ、学生時代の気持ちを思い出していました。私は頭が良くなく、成績もあまり良くないのですが、小さい頃から新しいことを学ぶことが好きで、決して勉強することは嫌ではありませんでした。大学TIUに進学し、素晴らしい先生方からアカデミズムという新たな学問の世界に導いていただいたことは、私にとって非常に刺激的で、学問の楽しさをさらに深く理解する機会となりました。学生時代に感じたあの時の感動を忘れることができず、社会人になっても当時の気持ちを思い出したくなります。 TIUを知るきっかけ 私がTIUを知ったきっかけは、高校時代の英語教師からの紹介でした。その教師はTIUを視察してきたらしく、「埼玉県の川越にありながら東京国際大学という名であるが、今後の日本の国際人を養成する素晴らしい大学がある。米国オレゴン州のウィラメット大学という大学に留学できる制度もあるお薦めの大学である」との触れ込みでした。 高校時代の留学経験 高校時代に米国に留学したことで、日本の高校を1年間休学し、4年間かけて高校を卒業しました。そのため、浪人することなく確実に入学できる大学に進学したいと考えていました。大学入試の受験料を節約するため、大学受験はTIU一本に絞り、もしTIUに受からなかった場合は大学には進学せず、働くつもりでした。できれば運よく給付生となり、学費免除を受けて在学中に米国の大学に留学したいと思っていましたが、そんなに世の中は甘くありませんでした。 ※スティルウォーター・シニア・ハイスクール:歴史的背景、主な特徴、著名な卒業生 スティルウォーターはミネソタ州で最初の学区であり、スティルウォーター・ハイスクールは1873年に設立された長い歴史を持つ学校です。スティルウォーター・ハイスクールは、オリンピックのクロスカントリースキー金メダリストであるジェシー・ディギンズや、元ホワイトハウス首席補佐官で現米国退役軍人長官のデニス・マクドノーなど、多岐にわたる分野で著名な卒業生を輩出しています。これらの卒業生の存在は、同校が高い教育水準と多様な才能を育む環境を有していることを示しています。 全米トップクラスの聖歌隊に参加(NYでのコンサート) 上述のとおり、私は高校2年生の夏から約1年間、米国に留学する機会に恵まれました。留学先は、ミネソタ州の対岸に位置するウィスコンシン州との州境にあるスティルウォーター市のStillwater Senior High Schoolでした。日本では2年生でしたが、留学先では3年生に編入しました。この高校時代の米国留学が私の人生に大きな影響を与えたことは間違いありません。 何も知らずに選択したChoir(聖歌隊)の授業は、実は全米トップクラスの優れたプログラムでした。我が校は幸運にも全米の高校の中から選抜され、ニューヨーク(NY)のセント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂(Cathedral of St. John the Divine)で開催される全米高校Choirのコンサートに招待されました。運良く私はこのNYでのコンサートのメンバーに選ばれました。NYでのコンサートやリハーサルの前後には、マンハッタンの摩天楼を散策したり、ブロードウェイ・ミュージカル(コーラスライン)を観劇したりしました。NYの各通りから見上げるビル群の壮大さには圧倒されました。 宿泊先近くのペン・ステーションで朝に見かけたトレンチコートをまといアタッシュケースを携え颯爽と歩く日本人ビジネスマンは、とてもクールでスマートな格好良さ、洗練さを感じました。当時、9.11でなくなった今は無きWTC(ワールド・トレード・センター)のツインタワーを見上げながら、将来このNYのマンハッタンで仕事をする自分を思い描き、ここで働いて挑戦したいと切望したのを覚えています。当時のNYは私に大きな夢やチャレンジ精神を与えてくれました。(実際にはそうした人生にはならなかったが。) 今後の人生に影響を与えたメキシコ訪問 さらに私の人生に影響を与え、それからの人生の方向性を決める出来事がありました。それは、NYで開催されたコンサートから戻った後に体験したメキシコ訪問でした。ホストファミリーは毎週末欠かさず教会に通う敬虔な長老派教会(Presbyterian Church)の信者でした。私の宗教は神道でしたが、留学中は米国の家族と一緒に教会に通い、青年部(Youth Club)に参加していました。そこで、教会活動の一環として、高校生によるメキシコでの教会建設を手伝うボランティア活動に参加することになりました。(この活動費は、教会の信者の方々からの寄付により賄われました。) 米国・ミネソタ州スティルウォーターからメキシコ・チワワ州の小さな村(村名は忘れました)まで、牧師さん2人が交代でスクールバスを運転し、国境を越えるという米国をほぼ縦断する旅でした。ボランティアの拠点・キャンプとなった米国側テキサス州エルパソまでは、スクールバスの中で2泊してたどり着きました。ミネソタ州スティルウォーターからの距離は最短でも1,399マイル(約2,251㎞)で、日本で言うと札幌市から福岡市までの距離に相当します。その後、エルパソから国境のリオ・グランデ川を渡り、メキシコ国境都市のシウダード・ファレスに入り、チワワ州の小さな村の教会建設現場に通いました。 陸路で国境を渡ったのは初めての経験でした。目には見えない国境を米国からメキシコに渡った瞬間、その雰囲気や空気感が一変したことに衝撃を受けました。同時に、対岸のメキシコ側の国境にはフェンスが敷かれており、米国への入国を待つ多くの人々がごった返している様子を見て、米国とメキシコの格差を目の当たりにしました。豊かな米国社会と貧しいメキシコとの格差に違和感を越えた怒りを感じたのを今でも鮮明に覚えています。この状況を何とか良い方向に改善したいと本心から感じました。当時はまだ17歳の高校生で、とても純粋だったようです。この体験は今でも鮮明に蘇り、その後の私の人生や仕事にとって重要な意味を持っています。 もはやNYの摩天楼でビジネスパーソンとして世界経済の中心で仕事をする自分の姿はすでに吹き飛び、先進国以外の途上国の地域や国々に関わって暮らし、仕事をすることが自分にとってやりたいこと、自分の人生の役割、天職ではないかと思うようになりました。この時の思いが、私の今後の人生のこだわりとなり、良くも悪くも大きく影響しています。 高校時代の思い出 日米で4年間過ごした高校時代、私のもっぱらの関心はギリシャ哲学にあり、ソクラテスやプラトンに傾倒していました。特に、絶対的な真理や善の存在を追求し、プラトンの『国家』を何度も繰り返し読みふけり、イデア論や国家論を理解しようと必死でした。当時の私は、受験勉強から逃避していただけかもしれませんが、素直になれず、ひねくれていたと思います。 そんな私を見かねて、東京教育大学の哲学科出身である恩師の村田先生が放課後に哲学好きな私の関心を満たし、ご指導してくださいました。今でも記憶に残る村田先生との一番の思い出は、先生が学生時代に研究していた英国の政治哲学者トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』の原書を先生の解説を受けながら読んだことです。とても難解な著作でしたが、先生に教えてもらいながら、自然状態、自然権、自然法といった言葉の定義を英語と日本語で理解し、先生と一緒にじっくり読み込んでいく学習でした。村田先生には、学ぶことの楽しさ、特に原書から読み解く学びの楽しさを教えてもらいました。 楽しかったTIUでの学び こうした経緯を経て、TIUに入学しました。TIUでは、私の知的好奇心を満たしてくれました。もっと知りたい、学びたいという姿勢で先生方にアプローチすると、ほぼ全ての先生方が対応してくださいました。TIUには、学問追求に熱心で、教育者としても素晴らしい先生方が多く、私は良い恩師に恵まれたと思っています。TIU時代は、学内では学ぶこと、研究することに集中し、学外ではインカレサークルに所属して、全国の学生や世界の学生たちと交流することに専念した充実した学生生活でした。後述しますが、研究熱心だったため、1年留年して5年間の大学生活を過ごしました。 1~2年生時のゼミは、左治木吾郎先生のゼミに所属し、川田侃先生の著書『国際政治経済学をめざして』を教材として、国際政治経済学を学ぶための米ソ冷戦構造や南北問題などの基礎を教えてもらいました。ソ連のゴルバチョフ政権下のペレストロイカやグラスノスチとともに政治改革が進められた時期、その後の東欧革命、天安門事件、ベルリンの壁の崩壊、ソ連崩壊につながる社会主義諸国の激動の時代でした。左治木先生はロシア経済や社会主義経済などもご専門だったため、その当時に起こる様々な事象について多くの質問をしたり、時間が足りない場合は先生の研究室に押しかけたりして、いろいろとご指導、ご教授いただきました。さらに左治木先生には、上級生のゼミや合宿にも誘っていただき、私の知りたい、学びたいという好奇心を大いに満たしていただきました。 3~5年生時のゼミは、小林多加士先生の中国研究演習のゼミに所属し、ご指導いただきました。小林ゼミは中国の地域研究を学ぶゼミでしたが、私の関心は当時揺れ動いていた社会主義体制の全般的な危機をこれまでの歴史社会理論上どう捉えるかということでした。小林先生は中国研究のみならず、世界システム論や比較文明論なども研究されていました。私は小林先生の指導の下、社会主義体制に影響を与えてきたマルクス歴史社会理論、アルチュセールの構造主義的社会主義、アンドレ・グンダー・フランクの従属理論、サミール・アミンの新従属理論、ロベール・ボワイエなどのレギュラシオン学派、イマニュエル・ウォーラーステインの世界システム論、田中明彦の『新しい中世 相互依存の世界システム』などの著作物を読み漁り、卒論を執筆する準備をしました。当時のワープロで執筆したので、メモリー機能がなく卒論は残っていませんが、確かテーマは「社会主義の全般的危機と歴史社会理論の再検討」だったと思います。小林ゼミでは、ゼミの合宿に参加しましたが、大学院生のゼミにも参加させてもらい、とても知的好奇心を刺激してもらいました。何となくこのまま大学院に進学する感じでした。 ゼミ以外に感銘を受けたTIUの先生方の講義 ゼミのみならず、感銘を受けた講義は以下のとおりです。 太田秀通先生の歴史学 西洋史学者である太田先生からは、世界史認識の思想と方法をはじめ、歴史を学ぶ楽しさを教えていただきました。紀元前のギリシャやクレタ島で使用されていた線文字Bの解読に関する歴史ロマンに感銘を受けました。アジア的生産様式の解釈などの講義も最高でした。アカデミズムの素晴らしさ、楽しさを教えてもらいました。 伊東博先生の教育学 援助する教育という理論に感銘を受け、その重要性を学ぶことができました。講義後は何度も先生の研究室を訪ね、さらに深い講義を受けました。教育も援助することと一緒であるとの考えには共鳴し、その後の途上国勤務にも活かしました。 大越康夫先生の憲法論 憲法9条を中心に憲法についてしっかり教えてもらいました。 引田隆也先生の政治思想史 とてもわかりやすく、ギリシャから現代までの思想史を網羅的に教えてもらい感銘を受けました。 下羽友衛先生の国際関係論 国際関係分析の方法論を教えてもらいましたが、紛争解決の研究者はその紛争地帯の現場に行って活動しながら分析することが重要であると熱弁していたことが印象的でした。 枇杷木賢生先生の国際経済学 一般教養の講義で基本的なことを教えていただきました。いつもジーンズでブーツを履いていた姿に憧れました。最近、米国テキサス州に出張して、念願のテキサス仕込みのブーツを購入することができました。 原彬久先生の国際政治学 モーゲンソー研究で有名で、政治的リアリズムについて教えてもらいました。学生時代にはカントのような理想的な国際政治学があるのではないかと疑問を持ちながら講義を受けていましたが、社会人になり中東アフリカ地域に関わることで、原先生が語っていた政治的リアリズムの重要性をより実感することができました。 杣正夫先生の日本選挙制度史 当時はあまり興味がなかったが、この講義を履修したことで、選挙を通じて日本政治史を理解することができました。このアプローチは新鮮でした。 富塚俊夫先生のアラビア語 2年間第二外国語としてアラビア語を教わりました。社会人となり中東地域に関わるきっかけとなったようです。 白井洋子先生のアメリカ史 ラス・カサス著の『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を読んでレポートを提出しましたが、植民地主義の時代を擁護するような頓珍漢なレポートを提出してしまったことを今でも後悔しています。 学生生活(インカレサークルISA活動、アジア訪問) 学内にいる時は、一生懸命勉強していた記憶が残っています。勉強は好きでしたが、頭が良くないので成績はそれほど良くなかった気がします。学外では、日本国際学生協会(ISA:International Student Association of Japan)という、当時全国に700名ほどの学生が所属する協会の東京支部に所属していました。TIUの先輩に誘われてISAに入会し、学生時代は学内では勉強、学外では海外の学生との交流や国際会議開催などの活動に費やしていました。TIUで講義を受けていない時は、四谷にあった東京支部の事務所に通い、都内の学生たちと勉強会を開催し、国際会議や海外の学生との交流会の企画・準備をしていました。 学生時代は、休みの期間は短期バイトをして10万円程度稼ぐと、そのたびにタイに出かけていました。タイのバンコクをベースに、ネパール、パキスタン、アフガニスタン、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピンなどを訪問し、各国の学生たちと交流していました。本当はもっと遠くに行きたかったのですが、あまり稼げず、学生時代はアジアまでしか行けませんでした。 1989年2月から4月にかけて、タイ、ネパール、パキスタン、アフガニスタンを訪問する機会に恵まれました。これは、私がISAの団長として、ネパールとパキスタンの学生団体と交流会を開催するイベントでした。ネパールでは、トリブバン大学(Tribhuvan University, TU)との交流会で、地方の現状を視察しようということで、地方都市のポカラに移動し、車両が入れない山岳地帯を3日間歩いて、各農村の農家に泊まりながら現地の村の有力者、小学校や病院などを視察しました。 パキスタンでは、カラチ大学とペシャワール大学の学生たちとの交流会を実施しました。パキスタンでは現地の家庭にホームステイし、イスラム社会やその文化に触れることができました。同時に、ペシャワールでは、まだ当時ソ連のアフガニスタン侵攻が解決していなかった時代で、ペシャワールのアフガニスタン人の難民キャンプから難民兵士が武器を持って国境のカイバル峠に行く姿、銃声、爆音が聞こえるところまで視察することができた貴重な体験をしました。 腸チフス感染による留年を経験 この旅行から帰国後、高熱が続き、幼少時から面倒を見てもらっているかかりつけ医の治療もお手上げとなり、地元の自治医科大学病院に行ったところ、病名はわからないが即入院となりました。同大学病院でも1週間ほど病名を診断できず、病状が悪化しないように処置がなされました。その後、培養結果が出て、腸チフスと診断され、法定伝染病に指定されている病気ということで、隔離施設のある病院に移送されることになりました。隔離病棟に入ったら即絶食となり、胸から管を入れられ、長期入院の治療が始まりました。40日ほど入院して退院後、体力も大幅に落ち、歩くことすらできない状況で、大学に通うのも困難な時期が続きました。学校側とも交渉しましたが、前期試験を受けられなければ留年せざるを得ないとのことで、1年間休学することにしました。 実は、学生時代には知識がなかったため対処できなかったが、法定伝染病に罹患し隔離されたことを根拠に学校側としっかり交渉すれば、1年留年することはなかったのではないかと少々悔やんでいます。ある教授に相談したら、「あなたを救う方法はない」ときっぱりと言われ、それ以上粘ることができませんでした。無知であることの哀れさを感じる出来事でした。 大家さんとの良き思い出 1年留年したことで、両親とは多少ギクシャクしながらも、サポートはしてくれていました。しかし、自分から家を出ることにして、4年生から5年生の就職が決まるまでは、大学近くの鶴ヶ島に四畳半トイレ・風呂・洗濯機使用共同で1か月1万円(共同の水道・光熱費は5千円)のアパートを見つけて住むことにしました。今はもう取り壊されてなくなってしまった古いアパートで、伯谷荘と言い、地元の酒屋さんのお婆様が大家さんをしているところでした。家賃は、そのお婆様の大家さんに直接払いに行くシステムでした。その際に、大家さんといろいろな世間話を30分くらい、長い時には1時間くらい話して家賃を払って帰ります。だんだん親しくなってくると、家賃を払いに行ったのに、お土産やお小遣いをもらって帰ることが多くなりました。この伯谷荘の大家さんには本当に助けてもらい、今でも感謝している忘れられない思い出の1つです。 就職活動の現実 こんな素晴らしい大家さんに支えてもらいながら、高校4年間、大学5年間通う学生を受け入れてくれる職場があるのかと怯えながら、インカレサークルISAの他大学の学生の仲間たちから情報を得ながら、就活を始めました。就活しながら、大学院への進学も真剣に考え準備もしていました。両親は、栃木の田舎に戻り、教員や役場、県庁、警察や消防署、父と同じ郵便局員などに務める公務員を希望していたようです。この就活の機会に、いろいろな業種の職業を見てみようとの気持ちで活動しましたが、現実はかなり厳しいものでした。 当時は、電話や手紙で説明会に申し込むのが一般的でした。一流と言われる大学の仲間たちからどこの企業は説明会が始まったとの情報を得て、電話をすると、出身大学名が伝わると説明会は開催しないとの回答が何社からもありました。実際に別の大学の友人たちはその企業の説明会に参加しているのに、参加させてもらえない、参加する権利さえないと現実の厳しさを実感しました。また、中学時代にとても優秀だった同級生が務める有名商社を訪ねたところ、「髙宮の大学ではうちの会社には入れない」とはっきり言われてしまいました。あるシンクタンクの説明会に参加したところ、「あなたのような人材は当社はいらない」とはっきり言われたこともありました。 一方、企業やNGOでも、とても丁寧で親切に対応してくれたところもありました。超大手企業は青田買いで先輩が出身大学の学生を確保している姿も身近に感じました。正式に試験を受けても、そう簡単には入れるところは少なそうだと感じていました。 JETROへの就職 民間企業に比べ就活の時期が遅い公務員や政府系機関の就職も視野に入れ、試験は誰でも受けさせてくれる職場を選んで就活することにしました。公務員の上級職を受けましたが、全くダメでした。外務省の専門職と上級職の受験票を取りながら、政府系機関のJETRO、JICA、OEFC、JNTO、日本銀行、中小企業事業団(現在は中小機構)などに連絡して、若手職員との面談をさせていただきました。通常であれば、出身大学の先輩職員が対応するのですが、TIU出身の先輩がいないところも多く、私の場合は別の出身大学の職員やインカレサークルの先輩を頼って各機関を訪問し、お話を聞かせていただきました。 アフリカに行ける職場は限られていましたが、「学生時代はアジアを訪問して途上国を知ったが、将来はアフリカで仕事をしたい」とJETROで言ったところ、当時のJETROは先進国志向の職員が多く、途上国、ましてやアフリカに行きたいという職員は聞いたことがない。JETROに入ったらすぐにアフリカに行けるのでは」と話が盛り上がりました。JETROとは縁があったのでしょう。その後、内々定をもらい、もう他に就活する必要もなく、残っている外務省の試験も受ける必要はない、JETROを信用してくださいと言われ、結果としてJETRO職員となることを決めました。その後、いくつかの政府機関や企業からお声がかかりましたが、JETROに就職するとお伝えしてお断りしました。 TIUのゼミの小林先生に大学院に行くか、JETROに行くか相談したところ、JETROに行くべきであると言われ、就職した後に大学院に来たければ勉強しにくれば良いと言われました。したがって、JETROに就職することにしました。TIUの就職課にJETRO内定を報告したところ、JETROを知らなかったようでした。とても残念な気持ちになりました。 社会の現実の厳しさを知る就活を体験しつつも、自分のやりたい、その後天職であると思える職場に就職できたことはとても運の良い人間だと思いました。就活中に言われたことは、良いことも悪いことも、就活でお付き合いした企業や機関は一生忘れることはありません。 TIU卒業後の人生の主な歩み 現在、岡山県倉敷市水島に本社のある萩原工業株式会社で経営企画室 社長特命担当部長を務めています。以前はJETRO岡山貿易情報センターの所長を務め、26年間JETROに勤務していました。 国際貿易・投資への献身:日本貿易振興機構(JETRO)でのキャリアJETROの日本の貿易・投資促進における役割と活動 1992年に日本貿易振興会(現在の日本貿易振興機構、JETRO)に入会し、2018年4月に退職するまでの26年間、国際貿易と投資の促進に尽力しました。JETROは、日本と世界各国との間の貿易と投資を促進することを目的とした政府系の独立行政法人です。当初は輸出振興に重点を置いていましたが、近年では輸入促進、対日投資誘致、中小企業の海外展開支援など、幅広い活動を行っています。現在、JETROは、56カ国76事務所と、日本国内に48の事務所を展開し、グローバルなネットワークを活かして活動を行っています。 海外事務所長としてのリーダーシップ ダルエスサラーム事務所長(タンザニア)での主な活動 JETRO在籍中にダルエスサラーム事務所長を1994年11月から1998年3月まで務めました。アフリカ駐在を希望して就職し、3年目でタンザニアに駐在、しかも若輩の20代ながらも事務所代表の所長として赴任することができました。タンザニアは、日本企業の投資関心が高まっている国の一つであり、JETROは日本とタンザニアの経済関係強化に努めています。ダルエスサラーム国際見本市への日本パビリオンの出展などを通じて、日本製品やサービスの紹介、日本企業による市場調査支援などが行われていました。また、アフリカ投資促進フォーラム(AIPF)の枠組みの中で、日本企業の投資促進を支援していました。 私の事務所長としての主な活動は、日本企業のタンザニア市場への参入支援、タンザニアからの対日輸出促進、両国間の経済協力関係の強化などでした。 テヘラン事務所長(イラン)での主な活動 続いて、私は1999年6月から2004年1月までテヘラン事務所長を務めました。タンザニアの駐在から東京本部に戻り、半年後には誰も行きたがらないとのことで、人事からお声がかかりました。また、所長であるということで即答しました。JETROは、イランとの貿易・投資促進を通じて、日本の経済発展に貢献することを目的として活動を行っています。テヘラン事務所では、市場調査、日本企業のイラン市場への進出支援、イランからの対日輸出促進、テヘラン国際見本市の日本館運営と日本企業向け展示会への参加支援を行いました。 また、当時は日本がアザデガン油田の権益を確保するため、イラン側に対して非石油分野での支援を活発化した時期でもありました。JETROにはイランの非石油分野への支援をする指示があり、イラン側が日本政府に求めた自動車産業及び部品産業の支援、薬品分野の産業支援、イランのWTO加入促進支援などを強化しました。イランは政治的に複雑な状況にある国であり、私の在任中には、日本とイランの経済関係を維持・発展させるために、慎重な対応と深い市場理解が求められました。 カイロ事務所長(エジプト)での主な活動 2010年3月から2014年11月まで、カイロ事務所長を務めました。エジプトは、アフリカ地域においてJETROが1955年から活動を展開している重要な拠点の一つです。カイロ事務所では、日本企業の対エジプト投資促進、エジプトからの対日輸出促進、技術協力、ビジネスミッションの実施など、多岐にわたる活動が行われています。 私の在任中には、アラブの春の事件が勃発し、政治・経済情勢の変化に対応しながら、日本とエジプトの経済関係を強化するため、カイロ国際見本市において日本館を出展・運営する活動なども展開しました。当時の上司からは「なぜ現地にいてアラブの春の発生を事前に予知できなかったのか?」と責められたことを思い出しました。2014年3月には、ロンドンで開催されたチャタムハウス(Chatham House:王立国際問題研究所)とアジア経済研究所の研究会合に出席し、「アラブの春」後の中東情勢について議論に参加するなど、地域情勢へ深く関与しました。 @マルサ・マトルーフの海岸 @エジプトの西部砂漠(サハラ砂漠の一部) @シーワオアシス 地域イニシアチブの主導:JETRO岡山貿易情報センター所長としての活動 JETROでは地方事務所勤務を経験していませんでしたが、2015年7月から2018年4月まで、JETRO岡山貿易情報センター所長を務め、地域経済の振興、国際交流、地元企業の支援に尽力しました。東京本部の役員からは、しっかり地方を学び、地方創生に貢献してくるよう指示されました。岡山県庁や県内の各市町村の企業の海外進出について知事、市長、町長、村長たちと意見交換を行ったり、岡山県高等学校教育研究協議会委員や岡山操山高校のスーパーグローバルハイスクール(SGH)運営指導委員会委員として、高校生のグローバルな視点育成に貢献したりするなど、地域社会との連携を積極的に行いました。 また、岡山県内の若者のグローバル意識を高めることを目的とし、地元の大学生や高校生、小中学生にも講師として長年関わり、自身の国際経験を共有してきました。これらの活動は、JETROのネットワークと自身の経験を活かして、地域経済のグローバル化を推進しようとしたものでした。 地方創生に貢献することを学ぶため岡山大学大学院にて公共政策学修士号を取得 2016年4月からJETRO岡山貿易情報センター所長を務めながら、夜や週末は岡山大学大学院の社会文化科学研究科博士前期課程の公共政策学専攻に通いました。ここでは、地域社会の発展と自立性を重視した公共政策について学び、念願かなって修士号も取得することができました。具体的には以下の内容を学びました。 政策分析能力: 法学、政治学、経済学、経営学などの学際的アプローチを通じて、政策の企画・立案・評価を行う能力を養いました。 公共組織経営: 公的組織の経営に関する知識とスキルを身に付けました。 地域公共政策: 中四国地域を対象に、地域の政策課題を発見し、解決する能力を育成しました。 在学中の2016年8月~9月にかけて、都市計画や地域開発の研究で有名な米国のPortland State Universityの研修に参加しました。このプログラムは「Okayama University Public Administration Short-Term Training, Citizen-Centered Governance – Cases from Portland, Oregon」というもので、この研修を修了することもできました。研修内容は以下のとおりです。 市民中心のガバナンス: 市民参加の重要性、市民の意見を政策決定に反映させる方法や、市民との協働を促進するための戦略を学びました。コミュニティ・エンゲージメント: 地域社会との関わり方や、コミュニティのニーズを理解し、対応する方法を探りました。 ポートランドの事例研究: ポートランド市が実施した市民中心の政策やプロジェクトの具体例を通じて、実践的な知識を得ました。政策の実施と評価: ポートランド市の政策がどのように実施され、評価されているかを学びました。 公共政策の理論と実践: 行政倫理と価値観、公共政策における倫理的な問題や価値観についての理解を深めました。政策分析と実施: 政策の分析方法や実施のプロセスを学びました。 リーダーシップと管理: 公共機関や非営利組織でのリーダーシップのスキルを養いました。財務管理と予算編成: 公共機関の財務管理や予算編成の方法を学びました。 地域資源の管理: 地域の自然資源を保護し、持続可能な方法で管理するための政策を学びました。非営利組織の管理: 非営利組織の運営や管理に関する知識を深めました。 このプログラムは、ポートランド州立大学の専門家や実務家から直接学ぶ機会を提供し、理論と実践を融合させた学びを通じて、公共政策における市民中心のガバナンスの理解を深めることができました。久しぶりの米国での学びは、とても良い機会、刺激となりました。 修士論文について 修士論文では「地方創生における地域経済活性化に効果をもたらす輸出産業の考察」をテーマに執筆しました。その概要は以下のとおりです。 研究目的: 日本の人口減少とそれに伴う国内経済の縮小に対し、地域経済を活性化させるために輸出産業の役割を探ることを目的としています。 研究方法: 貿易統計の分析: 財務省のデータを使用して、日本全体および岡山県の貿易動向を分析。産業連関表の利用: 地域産業連関表を用いて、各地域の輸出産業の特化係数や比較優位性を評価。 研究結果: 生産効果モデル: 輸出産業が地域経済に与える生産効果を分析し、主要な輸出産業を特定。輸出特化係数と比較優位モデル: 各産業の輸出特化係数と比較優位性を評価し、地域ごとの輸出産業の強みを明らかに。 研究考察: 輸出産業の重要性: 輸出産業が地域経済の成長を促進し、国内市場の縮小を補う役割を果たすことを強調。 政策提言: 地域ごとの輸出戦略を策定し、経済成長を維持するための具体的な施策を提案。 結論: 輸出戦略の重要性: 国内需要の減少に対処するため、輸出を通じて新たな需要を創出し、地域経済を活性化させることが必要。 詳細な分析: 全国産業連関表(2011年): 日本全体の輸出構造を分析し、輸出が国内生産に占める割合を明示。主要な輸出産業25部門を特定。 地域別分析: 47都道府県の地域産業連関表: 各地域の輸出データと産業分類を分析し、地域ごとの輸出産業の特徴を明らかに。 この論文は、地域経済の活性化における輸出産業の重要性を強調し、具体的な政策提言を行っています。詳細な統計分析や地域別の事例研究を通じて、輸出戦略の策定と実施の必要性を示しています。 JETROでの26年間で得たもの JETROでの26年間、そのうち13年間を海外駐在に費やした私は、国際市場、貿易規制、異文化間のビジネス慣行、そしてグローバルな経済動向に関する深い理解を培ってきました。この経験は、民間企業の実践的な戦略的方向性とグローバルな取り組みを形成する上で非常に貴重です。岡山大学大学院で2018年3月に取得した公共政策修士(MPP)の学位を含む私の学歴は、国際ビジネスにおける実践的な経験を補完し、グローバルな文脈における戦略的意思決定のための理論的枠組みを提供しています。MPPプログラムは、経済学、政策分析、組織管理などの分野の知識を与え、これらはグローバルな文脈における戦略策定に直接応用できるものです。 製造業への転身:萩原工業株式会社萩原工業:会社概要、事業内容、グローバル展開 岡山でのJETRO所長時代に創業家の経営者から誘われ、「人生後悔させない」と言われ最終的にJETROを離れる決意をしました。2018年5月に岡山県倉敷市水島に本社がある萩原工業株式会社に転職し、現在、経営企画室社長特命担当部長を務めています。萩原工業は、ポリエチレン・ポリプロピレンを主原料とした合成樹脂繊維「フラットヤーン」を用いた関連製品および産業機械の製造・販売を行う企業です。ブルーシートの国内トップメーカーであり、その他、人工芝、食品包装材、家電部材など、幅広い分野で製品を展開しています。当社は、海外14カ国に生産・販売拠点を持ち、グローバルに事業を展開しており、東京証券取引所プライム市場の上場企業でもあります。 萩原工業における役割:国際部長から経営企画室長へ 私は萩原工業入社後、経営戦略室長、合成樹脂事業部門国際部長及び経営企画室長を経て、現在は社長特命担当部長として、同社のグローバル展開を推進することを担っています。JETROでの豊富な国際経験と、海外市場に関する深い知識は、当社のグローバル戦略を推進する上でとても役に立っています。 私の萩原工業での活動の一例を紹介します。つい最近、外務省が作成したパンフレット「日本と中南米をつなぐ日系人」のインタビュー記事を通じて私の活動が紹介されました。 www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/pub/pamph/japan_latinamerica.html 私がこれまで訪問した国88か国(そのうち居住した国5か国)について 私がこれまで訪問し、住んだ国は、以下の地図のとおりです。 I have been to 88 (35%) countries / territories of the #World! #countriesbeen グローバル展開による経営力強化:講演テーマ分析 私はこれまで、「経営力強化のためのグローバル展開について」というテーマで様々なセミナーや講演会で講演を行ってきました。グローバル展開は、企業が成長機会を求め、競争力を強化するための重要な戦略の一つです。海外市場への参入、グローバルサプライチェーンの構築、海外企業との提携など、多様なアプローチが存在します。私の講演は、JETROでの経験に基づいた実践的な視点と、萩原工業におけるグローバル戦略の推進経験を踏まえた、示唆に富む内容であると評価されることがあります。 【髙宮純一(タカミヤ ジュンイチ)さんプロフィール】 1967年 5月19日生(東京都渋谷区) 学歴: 1974年3月 卒園 戸田東幼稚園(埼玉県戸田市) 1980年3月 卒業 野木町立友沼小学校(栃木県下都賀郡) 1983年3月 卒業 野木町立野木中学校(栃木県下都賀郡) 1985年6月 卒業 Stillwater Senior High School(米国ミネソタ州スティルウォーター市) 1987年3月 卒業 茨城県立古河第三高等学校普通科(茨城県古河市) 1992年3月 卒業 国際学士 東京国際大学教養学部国際学科(埼玉県川越市) 2016年9月 研修修了 Okayama University Public Administration Short-Term Training, Citizen-Centered Governance – Cases from the Portland, Oregon. Center for Public Service, Mark O. Harfield School of Government, Portland State University.(米国オレゴン州ポートランド市) 2018年3月 修士課程修了 公共政策学修士(Master of Public Policy) 学位記番号:第22946号(Degree Number : 22946)岡山大学社会文化研究科博士前期課程公共政策学専攻(岡山県岡山市) 資格: 防災士(Disaster Prevention Expert Certification in Japan) 日本防災士機構(特定非営利活動法人)(Japan Bousaisi Organization) 認定番号: No.019874 居住地の東京都世田谷区の支援を受け取得。 職歴: 1992年4月1日日本貿易振興会(JETRO:現在の日本貿易振興機構、東京都港区虎ノ門)採用 総務部人事課付 1992年4月20日 国内異動 経理部経理課(採用後配属先、経理・会計・財務業務) 1994年11月26日 海外異動 ダルエスサラーム事務所 所長 タンザニア ダルエスサラーム:1994年11月 – 1998年3月(3年5ヶ月) ダルエスサラーム日本人会 役員 1998年3月28日 国内異動 海外事業部事業調整課(海外事務所運営業務) 1998年7月1日 国内異動 事業統括部海外事業課(海外事務所運営業務) 1999年6月11日 海外異動 テヘラン事務所 所長 イラン テヘラン:1999年6月 – 2004年1月(4年8ヶ月) テヘラン日本人会 理事 2004年1月27日 国内異動 企画部企画課 課長代理(経営企画、予算総括業務) 2007年5月1日 国内異動 海外調査部調査企画課 課長代理(海外調査部全体の管理運営、調査企画業務) 2007年5月19日 国内異動 海外調査部 総括課長代理(海外調査部全体の管理運営、調査企画業務) 2008年10月10日 国内異動 総務部 主査(法務、契約、情報公開、コンプライアンス、内部統制等業務) 2009年7月1日 国内異動 総務部 主幹(法務、契約、情報公開、コンプライアンス、内部統制等業務) 2010年3月23日 海外異動 カイロ事務所 所長 エジプト カイロ:2010年3月 – 2014年11月(4年9ヶ月) エジプト日本商工会 副会長 カイロ日本人学校 PTA会長(学校運営委員会メンバー) 2014年3月27日 ロンドンにて Chatham House(英国王立国際問題研究所)とアジア経済研究所の研究会合に出席 「アラブの春」後の中東 ~東西の視点の邂逅(かいこう)~MENA in Post – “Arab Spring” Era Shared Perspectives on the Middle East and North Africa 2014年11月20日 国内異動 企画部主査 2015年2月1日 国内異動 事業推進主幹(中東アフリカ地域戦略) 2015年4月1日 国内異動 海外地域戦略主幹(中東アフリカ地域戦略) 2015年7月1日 国内異動 企画部付(入院) 2015年7月15日 国内異動 岡山貿易情報センター 所長 日本 岡山県:2015年7月 – 2018年4月(2年10ヶ月) 主な公職: 岡山商工会議所 参与 岡山・ミャンマー友好推進会議 顧問 岡山県・南オーストラリア州友好協会 理事及び監事 岡山県高等学校教育研究協議会 委員 岡山県高等学校教育研究協議会専門委員会(第二専門委員会)委員 岡山県高等学校教育研究協議会 起草委員会 岡山県土木部指定管理者候補選定委員会 委員 岡山県企業誘致推進協議会 企業誘致アドバイザー 岡山・産学官連携推進会議 委員 岡山空港国際物流促進協議会 顧問 岡山市経済政策審議会 委員 岡山市国際交流協議会 監事 (公財)岡山県産業振興財団 評議員 (公財)岡山県産業振興財団 評議員 選定委員会 委員 (一社)岡山県国際経済交流協会 理事 (一財)岡山県国際交流協会 評議員 (一財)岡山県国際交流協会 運営委員会 アドバイザー 岡山日蘭協会 特別顧問 岡山県立瀬戸南高等学校地域共育審議会 委員 岡山操山高校スーパーグローバルハイスクール運営指導委員会 指導委員 2018年4月30日 退職 日本貿易振興機構(東京都港区赤坂)を退職(26年1か月間) 2018年5月1日 転職 萩原工業株式会社(岡山県倉敷市)に入社 2018年5月1日 経営戦略室 室長(2年6か月) 2020年11月1日 合成樹脂事業部門 国際部 部長(1年間) 2021年11月1日 経営企画室 室長(3年間) 2024年11月1日~現在 経営企画室 社長特命担当部長 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
髙宮純一さん(1992年24期卒業 教養学部国際学科 左治木吾郎ゼミ(1~2年生時)、小林多加士ゼミ(3~5年生時))2025年5月1日大学時代の資料探し この原稿を執筆するにあたり、久しぶりに大学時代の資料、書類、卒業アルバム、書籍などをあちこち探してみました。確か、大学時代の成績表を大学院進学の際に取り寄せた記憶があり、コピーしてどこかにしまっておいたはずですが、結果として見つけることができませんでした。今年で大学を卒業してから33年目になりますが、これまで国内外を12回ほど引っ越しました。引越しのたびに家族も増え、荷物を最小限に減らさざるを得ませんでした。学生時代に読んで感動し、名著として選定した書籍は、どこでも再読できるように全ての引越先に運搬していました。最近の引越しまで、大学時代のお気に入りの授業の講義ノートを捨てられず保管していましたが、昨年11月の引越しの際に荷物を減らすために講義ノートを捨ててしまい、後悔しています。 学問への情熱 これまでは時折、当時感動した先生方の講義ノートや教科書、講義で紹介された名著を読み返すことで、新たな学問、アカデミズムに触れ、学生時代の気持ちを思い出していました。私は頭が良くなく、成績もあまり良くないのですが、小さい頃から新しいことを学ぶことが好きで、決して勉強することは嫌ではありませんでした。大学TIUに進学し、素晴らしい先生方からアカデミズムという新たな学問の世界に導いていただいたことは、私にとって非常に刺激的で、学問の楽しさをさらに深く理解する機会となりました。学生時代に感じたあの時の感動を忘れることができず、社会人になっても当時の気持ちを思い出したくなります。 TIUを知るきっかけ 私がTIUを知ったきっかけは、高校時代の英語教師からの紹介でした。その教師はTIUを視察してきたらしく、「埼玉県の川越にありながら東京国際大学という名であるが、今後の日本の国際人を養成する素晴らしい大学がある。米国オレゴン州のウィラメット大学という大学に留学できる制度もあるお薦めの大学である」との触れ込みでした。 高校時代の留学経験 高校時代に米国に留学したことで、日本の高校を1年間休学し、4年間かけて高校を卒業しました。そのため、浪人することなく確実に入学できる大学に進学したいと考えていました。大学入試の受験料を節約するため、大学受験はTIU一本に絞り、もしTIUに受からなかった場合は大学には進学せず、働くつもりでした。できれば運よく給付生となり、学費免除を受けて在学中に米国の大学に留学したいと思っていましたが、そんなに世の中は甘くありませんでした。 ※スティルウォーター・シニア・ハイスクール:歴史的背景、主な特徴、著名な卒業生 スティルウォーターはミネソタ州で最初の学区であり、スティルウォーター・ハイスクールは1873年に設立された長い歴史を持つ学校です。スティルウォーター・ハイスクールは、オリンピックのクロスカントリースキー金メダリストであるジェシー・ディギンズや、元ホワイトハウス首席補佐官で現米国退役軍人長官のデニス・マクドノーなど、多岐にわたる分野で著名な卒業生を輩出しています。これらの卒業生の存在は、同校が高い教育水準と多様な才能を育む環境を有していることを示しています。 全米トップクラスの聖歌隊に参加(NYでのコンサート) 上述のとおり、私は高校2年生の夏から約1年間、米国に留学する機会に恵まれました。留学先は、ミネソタ州の対岸に位置するウィスコンシン州との州境にあるスティルウォーター市のStillwater Senior High Schoolでした。日本では2年生でしたが、留学先では3年生に編入しました。この高校時代の米国留学が私の人生に大きな影響を与えたことは間違いありません。 何も知らずに選択したChoir(聖歌隊)の授業は、実は全米トップクラスの優れたプログラムでした。我が校は幸運にも全米の高校の中から選抜され、ニューヨーク(NY)のセント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂(Cathedral of St. John the Divine)で開催される全米高校Choirのコンサートに招待されました。運良く私はこのNYでのコンサートのメンバーに選ばれました。NYでのコンサートやリハーサルの前後には、マンハッタンの摩天楼を散策したり、ブロードウェイ・ミュージカル(コーラスライン)を観劇したりしました。NYの各通りから見上げるビル群の壮大さには圧倒されました。 宿泊先近くのペン・ステーションで朝に見かけたトレンチコートをまといアタッシュケースを携え颯爽と歩く日本人ビジネスマンは、とてもクールでスマートな格好良さ、洗練さを感じました。当時、9.11でなくなった今は無きWTC(ワールド・トレード・センター)のツインタワーを見上げながら、将来このNYのマンハッタンで仕事をする自分を思い描き、ここで働いて挑戦したいと切望したのを覚えています。当時のNYは私に大きな夢やチャレンジ精神を与えてくれました。(実際にはそうした人生にはならなかったが。) 今後の人生に影響を与えたメキシコ訪問 さらに私の人生に影響を与え、それからの人生の方向性を決める出来事がありました。それは、NYで開催されたコンサートから戻った後に体験したメキシコ訪問でした。ホストファミリーは毎週末欠かさず教会に通う敬虔な長老派教会(Presbyterian Church)の信者でした。私の宗教は神道でしたが、留学中は米国の家族と一緒に教会に通い、青年部(Youth Club)に参加していました。そこで、教会活動の一環として、高校生によるメキシコでの教会建設を手伝うボランティア活動に参加することになりました。(この活動費は、教会の信者の方々からの寄付により賄われました。) 米国・ミネソタ州スティルウォーターからメキシコ・チワワ州の小さな村(村名は忘れました)まで、牧師さん2人が交代でスクールバスを運転し、国境を越えるという米国をほぼ縦断する旅でした。ボランティアの拠点・キャンプとなった米国側テキサス州エルパソまでは、スクールバスの中で2泊してたどり着きました。ミネソタ州スティルウォーターからの距離は最短でも1,399マイル(約2,251㎞)で、日本で言うと札幌市から福岡市までの距離に相当します。その後、エルパソから国境のリオ・グランデ川を渡り、メキシコ国境都市のシウダード・ファレスに入り、チワワ州の小さな村の教会建設現場に通いました。 陸路で国境を渡ったのは初めての経験でした。目には見えない国境を米国からメキシコに渡った瞬間、その雰囲気や空気感が一変したことに衝撃を受けました。同時に、対岸のメキシコ側の国境にはフェンスが敷かれており、米国への入国を待つ多くの人々がごった返している様子を見て、米国とメキシコの格差を目の当たりにしました。豊かな米国社会と貧しいメキシコとの格差に違和感を越えた怒りを感じたのを今でも鮮明に覚えています。この状況を何とか良い方向に改善したいと本心から感じました。当時はまだ17歳の高校生で、とても純粋だったようです。この体験は今でも鮮明に蘇り、その後の私の人生や仕事にとって重要な意味を持っています。 もはやNYの摩天楼でビジネスパーソンとして世界経済の中心で仕事をする自分の姿はすでに吹き飛び、先進国以外の途上国の地域や国々に関わって暮らし、仕事をすることが自分にとってやりたいこと、自分の人生の役割、天職ではないかと思うようになりました。この時の思いが、私の今後の人生のこだわりとなり、良くも悪くも大きく影響しています。 高校時代の思い出 日米で4年間過ごした高校時代、私のもっぱらの関心はギリシャ哲学にあり、ソクラテスやプラトンに傾倒していました。特に、絶対的な真理や善の存在を追求し、プラトンの『国家』を何度も繰り返し読みふけり、イデア論や国家論を理解しようと必死でした。当時の私は、受験勉強から逃避していただけかもしれませんが、素直になれず、ひねくれていたと思います。 そんな私を見かねて、東京教育大学の哲学科出身である恩師の村田先生が放課後に哲学好きな私の関心を満たし、ご指導してくださいました。今でも記憶に残る村田先生との一番の思い出は、先生が学生時代に研究していた英国の政治哲学者トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』の原書を先生の解説を受けながら読んだことです。とても難解な著作でしたが、先生に教えてもらいながら、自然状態、自然権、自然法といった言葉の定義を英語と日本語で理解し、先生と一緒にじっくり読み込んでいく学習でした。村田先生には、学ぶことの楽しさ、特に原書から読み解く学びの楽しさを教えてもらいました。 楽しかったTIUでの学び こうした経緯を経て、TIUに入学しました。TIUでは、私の知的好奇心を満たしてくれました。もっと知りたい、学びたいという姿勢で先生方にアプローチすると、ほぼ全ての先生方が対応してくださいました。TIUには、学問追求に熱心で、教育者としても素晴らしい先生方が多く、私は良い恩師に恵まれたと思っています。TIU時代は、学内では学ぶこと、研究することに集中し、学外ではインカレサークルに所属して、全国の学生や世界の学生たちと交流することに専念した充実した学生生活でした。後述しますが、研究熱心だったため、1年留年して5年間の大学生活を過ごしました。 1~2年生時のゼミは、左治木吾郎先生のゼミに所属し、川田侃先生の著書『国際政治経済学をめざして』を教材として、国際政治経済学を学ぶための米ソ冷戦構造や南北問題などの基礎を教えてもらいました。ソ連のゴルバチョフ政権下のペレストロイカやグラスノスチとともに政治改革が進められた時期、その後の東欧革命、天安門事件、ベルリンの壁の崩壊、ソ連崩壊につながる社会主義諸国の激動の時代でした。左治木先生はロシア経済や社会主義経済などもご専門だったため、その当時に起こる様々な事象について多くの質問をしたり、時間が足りない場合は先生の研究室に押しかけたりして、いろいろとご指導、ご教授いただきました。さらに左治木先生には、上級生のゼミや合宿にも誘っていただき、私の知りたい、学びたいという好奇心を大いに満たしていただきました。 3~5年生時のゼミは、小林多加士先生の中国研究演習のゼミに所属し、ご指導いただきました。小林ゼミは中国の地域研究を学ぶゼミでしたが、私の関心は当時揺れ動いていた社会主義体制の全般的な危機をこれまでの歴史社会理論上どう捉えるかということでした。小林先生は中国研究のみならず、世界システム論や比較文明論なども研究されていました。私は小林先生の指導の下、社会主義体制に影響を与えてきたマルクス歴史社会理論、アルチュセールの構造主義的社会主義、アンドレ・グンダー・フランクの従属理論、サミール・アミンの新従属理論、ロベール・ボワイエなどのレギュラシオン学派、イマニュエル・ウォーラーステインの世界システム論、田中明彦の『新しい中世 相互依存の世界システム』などの著作物を読み漁り、卒論を執筆する準備をしました。当時のワープロで執筆したので、メモリー機能がなく卒論は残っていませんが、確かテーマは「社会主義の全般的危機と歴史社会理論の再検討」だったと思います。小林ゼミでは、ゼミの合宿に参加しましたが、大学院生のゼミにも参加させてもらい、とても知的好奇心を刺激してもらいました。何となくこのまま大学院に進学する感じでした。 ゼミ以外に感銘を受けたTIUの先生方の講義 ゼミのみならず、感銘を受けた講義は以下のとおりです。 太田秀通先生の歴史学 西洋史学者である太田先生からは、世界史認識の思想と方法をはじめ、歴史を学ぶ楽しさを教えていただきました。紀元前のギリシャやクレタ島で使用されていた線文字Bの解読に関する歴史ロマンに感銘を受けました。アジア的生産様式の解釈などの講義も最高でした。アカデミズムの素晴らしさ、楽しさを教えてもらいました。 伊東博先生の教育学 援助する教育という理論に感銘を受け、その重要性を学ぶことができました。講義後は何度も先生の研究室を訪ね、さらに深い講義を受けました。教育も援助することと一緒であるとの考えには共鳴し、その後の途上国勤務にも活かしました。 大越康夫先生の憲法論 憲法9条を中心に憲法についてしっかり教えてもらいました。 引田隆也先生の政治思想史 とてもわかりやすく、ギリシャから現代までの思想史を網羅的に教えてもらい感銘を受けました。 下羽友衛先生の国際関係論 国際関係分析の方法論を教えてもらいましたが、紛争解決の研究者はその紛争地帯の現場に行って活動しながら分析することが重要であると熱弁していたことが印象的でした。 枇杷木賢生先生の国際経済学 一般教養の講義で基本的なことを教えていただきました。いつもジーンズでブーツを履いていた姿に憧れました。最近、米国テキサス州に出張して、念願のテキサス仕込みのブーツを購入することができました。 原彬久先生の国際政治学 モーゲンソー研究で有名で、政治的リアリズムについて教えてもらいました。学生時代にはカントのような理想的な国際政治学があるのではないかと疑問を持ちながら講義を受けていましたが、社会人になり中東アフリカ地域に関わることで、原先生が語っていた政治的リアリズムの重要性をより実感することができました。 杣正夫先生の日本選挙制度史 当時はあまり興味がなかったが、この講義を履修したことで、選挙を通じて日本政治史を理解することができました。このアプローチは新鮮でした。 富塚俊夫先生のアラビア語 2年間第二外国語としてアラビア語を教わりました。社会人となり中東地域に関わるきっかけとなったようです。 白井洋子先生のアメリカ史 ラス・カサス著の『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を読んでレポートを提出しましたが、植民地主義の時代を擁護するような頓珍漢なレポートを提出してしまったことを今でも後悔しています。 学生生活(インカレサークルISA活動、アジア訪問) 学内にいる時は、一生懸命勉強していた記憶が残っています。勉強は好きでしたが、頭が良くないので成績はそれほど良くなかった気がします。学外では、日本国際学生協会(ISA:International Student Association of Japan)という、当時全国に700名ほどの学生が所属する協会の東京支部に所属していました。TIUの先輩に誘われてISAに入会し、学生時代は学内では勉強、学外では海外の学生との交流や国際会議開催などの活動に費やしていました。TIUで講義を受けていない時は、四谷にあった東京支部の事務所に通い、都内の学生たちと勉強会を開催し、国際会議や海外の学生との交流会の企画・準備をしていました。 学生時代は、休みの期間は短期バイトをして10万円程度稼ぐと、そのたびにタイに出かけていました。タイのバンコクをベースに、ネパール、パキスタン、アフガニスタン、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピンなどを訪問し、各国の学生たちと交流していました。本当はもっと遠くに行きたかったのですが、あまり稼げず、学生時代はアジアまでしか行けませんでした。 1989年2月から4月にかけて、タイ、ネパール、パキスタン、アフガニスタンを訪問する機会に恵まれました。これは、私がISAの団長として、ネパールとパキスタンの学生団体と交流会を開催するイベントでした。ネパールでは、トリブバン大学(Tribhuvan University, TU)との交流会で、地方の現状を視察しようということで、地方都市のポカラに移動し、車両が入れない山岳地帯を3日間歩いて、各農村の農家に泊まりながら現地の村の有力者、小学校や病院などを視察しました。 パキスタンでは、カラチ大学とペシャワール大学の学生たちとの交流会を実施しました。パキスタンでは現地の家庭にホームステイし、イスラム社会やその文化に触れることができました。同時に、ペシャワールでは、まだ当時ソ連のアフガニスタン侵攻が解決していなかった時代で、ペシャワールのアフガニスタン人の難民キャンプから難民兵士が武器を持って国境のカイバル峠に行く姿、銃声、爆音が聞こえるところまで視察することができた貴重な体験をしました。 腸チフス感染による留年を経験 この旅行から帰国後、高熱が続き、幼少時から面倒を見てもらっているかかりつけ医の治療もお手上げとなり、地元の自治医科大学病院に行ったところ、病名はわからないが即入院となりました。同大学病院でも1週間ほど病名を診断できず、病状が悪化しないように処置がなされました。その後、培養結果が出て、腸チフスと診断され、法定伝染病に指定されている病気ということで、隔離施設のある病院に移送されることになりました。隔離病棟に入ったら即絶食となり、胸から管を入れられ、長期入院の治療が始まりました。40日ほど入院して退院後、体力も大幅に落ち、歩くことすらできない状況で、大学に通うのも困難な時期が続きました。学校側とも交渉しましたが、前期試験を受けられなければ留年せざるを得ないとのことで、1年間休学することにしました。 実は、学生時代には知識がなかったため対処できなかったが、法定伝染病に罹患し隔離されたことを根拠に学校側としっかり交渉すれば、1年留年することはなかったのではないかと少々悔やんでいます。ある教授に相談したら、「あなたを救う方法はない」ときっぱりと言われ、それ以上粘ることができませんでした。無知であることの哀れさを感じる出来事でした。 大家さんとの良き思い出 1年留年したことで、両親とは多少ギクシャクしながらも、サポートはしてくれていました。しかし、自分から家を出ることにして、4年生から5年生の就職が決まるまでは、大学近くの鶴ヶ島に四畳半トイレ・風呂・洗濯機使用共同で1か月1万円(共同の水道・光熱費は5千円)のアパートを見つけて住むことにしました。今はもう取り壊されてなくなってしまった古いアパートで、伯谷荘と言い、地元の酒屋さんのお婆様が大家さんをしているところでした。家賃は、そのお婆様の大家さんに直接払いに行くシステムでした。その際に、大家さんといろいろな世間話を30分くらい、長い時には1時間くらい話して家賃を払って帰ります。だんだん親しくなってくると、家賃を払いに行ったのに、お土産やお小遣いをもらって帰ることが多くなりました。この伯谷荘の大家さんには本当に助けてもらい、今でも感謝している忘れられない思い出の1つです。 就職活動の現実 こんな素晴らしい大家さんに支えてもらいながら、高校4年間、大学5年間通う学生を受け入れてくれる職場があるのかと怯えながら、インカレサークルISAの他大学の学生の仲間たちから情報を得ながら、就活を始めました。就活しながら、大学院への進学も真剣に考え準備もしていました。両親は、栃木の田舎に戻り、教員や役場、県庁、警察や消防署、父と同じ郵便局員などに務める公務員を希望していたようです。この就活の機会に、いろいろな業種の職業を見てみようとの気持ちで活動しましたが、現実はかなり厳しいものでした。 当時は、電話や手紙で説明会に申し込むのが一般的でした。一流と言われる大学の仲間たちからどこの企業は説明会が始まったとの情報を得て、電話をすると、出身大学名が伝わると説明会は開催しないとの回答が何社からもありました。実際に別の大学の友人たちはその企業の説明会に参加しているのに、参加させてもらえない、参加する権利さえないと現実の厳しさを実感しました。また、中学時代にとても優秀だった同級生が務める有名商社を訪ねたところ、「髙宮の大学ではうちの会社には入れない」とはっきり言われてしまいました。あるシンクタンクの説明会に参加したところ、「あなたのような人材は当社はいらない」とはっきり言われたこともありました。 一方、企業やNGOでも、とても丁寧で親切に対応してくれたところもありました。超大手企業は青田買いで先輩が出身大学の学生を確保している姿も身近に感じました。正式に試験を受けても、そう簡単には入れるところは少なそうだと感じていました。 JETROへの就職 民間企業に比べ就活の時期が遅い公務員や政府系機関の就職も視野に入れ、試験は誰でも受けさせてくれる職場を選んで就活することにしました。公務員の上級職を受けましたが、全くダメでした。外務省の専門職と上級職の受験票を取りながら、政府系機関のJETRO、JICA、OEFC、JNTO、日本銀行、中小企業事業団(現在は中小機構)などに連絡して、若手職員との面談をさせていただきました。通常であれば、出身大学の先輩職員が対応するのですが、TIU出身の先輩がいないところも多く、私の場合は別の出身大学の職員やインカレサークルの先輩を頼って各機関を訪問し、お話を聞かせていただきました。 アフリカに行ける職場は限られていましたが、「学生時代はアジアを訪問して途上国を知ったが、将来はアフリカで仕事をしたい」とJETROで言ったところ、当時のJETROは先進国志向の職員が多く、途上国、ましてやアフリカに行きたいという職員は聞いたことがない。JETROに入ったらすぐにアフリカに行けるのでは」と話が盛り上がりました。JETROとは縁があったのでしょう。その後、内々定をもらい、もう他に就活する必要もなく、残っている外務省の試験も受ける必要はない、JETROを信用してくださいと言われ、結果としてJETRO職員となることを決めました。その後、いくつかの政府機関や企業からお声がかかりましたが、JETROに就職するとお伝えしてお断りしました。 TIUのゼミの小林先生に大学院に行くか、JETROに行くか相談したところ、JETROに行くべきであると言われ、就職した後に大学院に来たければ勉強しにくれば良いと言われました。したがって、JETROに就職することにしました。TIUの就職課にJETRO内定を報告したところ、JETROを知らなかったようでした。とても残念な気持ちになりました。 社会の現実の厳しさを知る就活を体験しつつも、自分のやりたい、その後天職であると思える職場に就職できたことはとても運の良い人間だと思いました。就活中に言われたことは、良いことも悪いことも、就活でお付き合いした企業や機関は一生忘れることはありません。 TIU卒業後の人生の主な歩み 現在、岡山県倉敷市水島に本社のある萩原工業株式会社で経営企画室 社長特命担当部長を務めています。以前はJETRO岡山貿易情報センターの所長を務め、26年間JETROに勤務していました。 国際貿易・投資への献身:日本貿易振興機構(JETRO)でのキャリアJETROの日本の貿易・投資促進における役割と活動 1992年に日本貿易振興会(現在の日本貿易振興機構、JETRO)に入会し、2018年4月に退職するまでの26年間、国際貿易と投資の促進に尽力しました。JETROは、日本と世界各国との間の貿易と投資を促進することを目的とした政府系の独立行政法人です。当初は輸出振興に重点を置いていましたが、近年では輸入促進、対日投資誘致、中小企業の海外展開支援など、幅広い活動を行っています。現在、JETROは、56カ国76事務所と、日本国内に48の事務所を展開し、グローバルなネットワークを活かして活動を行っています。 海外事務所長としてのリーダーシップ ダルエスサラーム事務所長(タンザニア)での主な活動 JETRO在籍中にダルエスサラーム事務所長を1994年11月から1998年3月まで務めました。アフリカ駐在を希望して就職し、3年目でタンザニアに駐在、しかも若輩の20代ながらも事務所代表の所長として赴任することができました。タンザニアは、日本企業の投資関心が高まっている国の一つであり、JETROは日本とタンザニアの経済関係強化に努めています。ダルエスサラーム国際見本市への日本パビリオンの出展などを通じて、日本製品やサービスの紹介、日本企業による市場調査支援などが行われていました。また、アフリカ投資促進フォーラム(AIPF)の枠組みの中で、日本企業の投資促進を支援していました。 私の事務所長としての主な活動は、日本企業のタンザニア市場への参入支援、タンザニアからの対日輸出促進、両国間の経済協力関係の強化などでした。 テヘラン事務所長(イラン)での主な活動 続いて、私は1999年6月から2004年1月までテヘラン事務所長を務めました。タンザニアの駐在から東京本部に戻り、半年後には誰も行きたがらないとのことで、人事からお声がかかりました。また、所長であるということで即答しました。JETROは、イランとの貿易・投資促進を通じて、日本の経済発展に貢献することを目的として活動を行っています。テヘラン事務所では、市場調査、日本企業のイラン市場への進出支援、イランからの対日輸出促進、テヘラン国際見本市の日本館運営と日本企業向け展示会への参加支援を行いました。 また、当時は日本がアザデガン油田の権益を確保するため、イラン側に対して非石油分野での支援を活発化した時期でもありました。JETROにはイランの非石油分野への支援をする指示があり、イラン側が日本政府に求めた自動車産業及び部品産業の支援、薬品分野の産業支援、イランのWTO加入促進支援などを強化しました。イランは政治的に複雑な状況にある国であり、私の在任中には、日本とイランの経済関係を維持・発展させるために、慎重な対応と深い市場理解が求められました。 カイロ事務所長(エジプト)での主な活動 2010年3月から2014年11月まで、カイロ事務所長を務めました。エジプトは、アフリカ地域においてJETROが1955年から活動を展開している重要な拠点の一つです。カイロ事務所では、日本企業の対エジプト投資促進、エジプトからの対日輸出促進、技術協力、ビジネスミッションの実施など、多岐にわたる活動が行われています。 私の在任中には、アラブの春の事件が勃発し、政治・経済情勢の変化に対応しながら、日本とエジプトの経済関係を強化するため、カイロ国際見本市において日本館を出展・運営する活動なども展開しました。当時の上司からは「なぜ現地にいてアラブの春の発生を事前に予知できなかったのか?」と責められたことを思い出しました。2014年3月には、ロンドンで開催されたチャタムハウス(Chatham House:王立国際問題研究所)とアジア経済研究所の研究会合に出席し、「アラブの春」後の中東情勢について議論に参加するなど、地域情勢へ深く関与しました。 @マルサ・マトルーフの海岸 @エジプトの西部砂漠(サハラ砂漠の一部) @シーワオアシス 地域イニシアチブの主導:JETRO岡山貿易情報センター所長としての活動 JETROでは地方事務所勤務を経験していませんでしたが、2015年7月から2018年4月まで、JETRO岡山貿易情報センター所長を務め、地域経済の振興、国際交流、地元企業の支援に尽力しました。東京本部の役員からは、しっかり地方を学び、地方創生に貢献してくるよう指示されました。岡山県庁や県内の各市町村の企業の海外進出について知事、市長、町長、村長たちと意見交換を行ったり、岡山県高等学校教育研究協議会委員や岡山操山高校のスーパーグローバルハイスクール(SGH)運営指導委員会委員として、高校生のグローバルな視点育成に貢献したりするなど、地域社会との連携を積極的に行いました。 また、岡山県内の若者のグローバル意識を高めることを目的とし、地元の大学生や高校生、小中学生にも講師として長年関わり、自身の国際経験を共有してきました。これらの活動は、JETROのネットワークと自身の経験を活かして、地域経済のグローバル化を推進しようとしたものでした。 地方創生に貢献することを学ぶため岡山大学大学院にて公共政策学修士号を取得 2016年4月からJETRO岡山貿易情報センター所長を務めながら、夜や週末は岡山大学大学院の社会文化科学研究科博士前期課程の公共政策学専攻に通いました。ここでは、地域社会の発展と自立性を重視した公共政策について学び、念願かなって修士号も取得することができました。具体的には以下の内容を学びました。 政策分析能力: 法学、政治学、経済学、経営学などの学際的アプローチを通じて、政策の企画・立案・評価を行う能力を養いました。 公共組織経営: 公的組織の経営に関する知識とスキルを身に付けました。 地域公共政策: 中四国地域を対象に、地域の政策課題を発見し、解決する能力を育成しました。 在学中の2016年8月~9月にかけて、都市計画や地域開発の研究で有名な米国のPortland State Universityの研修に参加しました。このプログラムは「Okayama University Public Administration Short-Term Training, Citizen-Centered Governance – Cases from Portland, Oregon」というもので、この研修を修了することもできました。研修内容は以下のとおりです。 市民中心のガバナンス: 市民参加の重要性、市民の意見を政策決定に反映させる方法や、市民との協働を促進するための戦略を学びました。コミュニティ・エンゲージメント: 地域社会との関わり方や、コミュニティのニーズを理解し、対応する方法を探りました。 ポートランドの事例研究: ポートランド市が実施した市民中心の政策やプロジェクトの具体例を通じて、実践的な知識を得ました。政策の実施と評価: ポートランド市の政策がどのように実施され、評価されているかを学びました。 公共政策の理論と実践: 行政倫理と価値観、公共政策における倫理的な問題や価値観についての理解を深めました。政策分析と実施: 政策の分析方法や実施のプロセスを学びました。 リーダーシップと管理: 公共機関や非営利組織でのリーダーシップのスキルを養いました。財務管理と予算編成: 公共機関の財務管理や予算編成の方法を学びました。 地域資源の管理: 地域の自然資源を保護し、持続可能な方法で管理するための政策を学びました。非営利組織の管理: 非営利組織の運営や管理に関する知識を深めました。 このプログラムは、ポートランド州立大学の専門家や実務家から直接学ぶ機会を提供し、理論と実践を融合させた学びを通じて、公共政策における市民中心のガバナンスの理解を深めることができました。久しぶりの米国での学びは、とても良い機会、刺激となりました。 修士論文について 修士論文では「地方創生における地域経済活性化に効果をもたらす輸出産業の考察」をテーマに執筆しました。その概要は以下のとおりです。 研究目的: 日本の人口減少とそれに伴う国内経済の縮小に対し、地域経済を活性化させるために輸出産業の役割を探ることを目的としています。 研究方法: 貿易統計の分析: 財務省のデータを使用して、日本全体および岡山県の貿易動向を分析。産業連関表の利用: 地域産業連関表を用いて、各地域の輸出産業の特化係数や比較優位性を評価。 研究結果: 生産効果モデル: 輸出産業が地域経済に与える生産効果を分析し、主要な輸出産業を特定。輸出特化係数と比較優位モデル: 各産業の輸出特化係数と比較優位性を評価し、地域ごとの輸出産業の強みを明らかに。 研究考察: 輸出産業の重要性: 輸出産業が地域経済の成長を促進し、国内市場の縮小を補う役割を果たすことを強調。 政策提言: 地域ごとの輸出戦略を策定し、経済成長を維持するための具体的な施策を提案。 結論: 輸出戦略の重要性: 国内需要の減少に対処するため、輸出を通じて新たな需要を創出し、地域経済を活性化させることが必要。 詳細な分析: 全国産業連関表(2011年): 日本全体の輸出構造を分析し、輸出が国内生産に占める割合を明示。主要な輸出産業25部門を特定。 地域別分析: 47都道府県の地域産業連関表: 各地域の輸出データと産業分類を分析し、地域ごとの輸出産業の特徴を明らかに。 この論文は、地域経済の活性化における輸出産業の重要性を強調し、具体的な政策提言を行っています。詳細な統計分析や地域別の事例研究を通じて、輸出戦略の策定と実施の必要性を示しています。 JETROでの26年間で得たもの JETROでの26年間、そのうち13年間を海外駐在に費やした私は、国際市場、貿易規制、異文化間のビジネス慣行、そしてグローバルな経済動向に関する深い理解を培ってきました。この経験は、民間企業の実践的な戦略的方向性とグローバルな取り組みを形成する上で非常に貴重です。岡山大学大学院で2018年3月に取得した公共政策修士(MPP)の学位を含む私の学歴は、国際ビジネスにおける実践的な経験を補完し、グローバルな文脈における戦略的意思決定のための理論的枠組みを提供しています。MPPプログラムは、経済学、政策分析、組織管理などの分野の知識を与え、これらはグローバルな文脈における戦略策定に直接応用できるものです。 製造業への転身:萩原工業株式会社萩原工業:会社概要、事業内容、グローバル展開 岡山でのJETRO所長時代に創業家の経営者から誘われ、「人生後悔させない」と言われ最終的にJETROを離れる決意をしました。2018年5月に岡山県倉敷市水島に本社がある萩原工業株式会社に転職し、現在、経営企画室社長特命担当部長を務めています。萩原工業は、ポリエチレン・ポリプロピレンを主原料とした合成樹脂繊維「フラットヤーン」を用いた関連製品および産業機械の製造・販売を行う企業です。ブルーシートの国内トップメーカーであり、その他、人工芝、食品包装材、家電部材など、幅広い分野で製品を展開しています。当社は、海外14カ国に生産・販売拠点を持ち、グローバルに事業を展開しており、東京証券取引所プライム市場の上場企業でもあります。 萩原工業における役割:国際部長から経営企画室長へ 私は萩原工業入社後、経営戦略室長、合成樹脂事業部門国際部長及び経営企画室長を経て、現在は社長特命担当部長として、同社のグローバル展開を推進することを担っています。JETROでの豊富な国際経験と、海外市場に関する深い知識は、当社のグローバル戦略を推進する上でとても役に立っています。 私の萩原工業での活動の一例を紹介します。つい最近、外務省が作成したパンフレット「日本と中南米をつなぐ日系人」のインタビュー記事を通じて私の活動が紹介されました。 www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/pub/pamph/japan_latinamerica.html 私がこれまで訪問した国88か国(そのうち居住した国5か国)について 私がこれまで訪問し、住んだ国は、以下の地図のとおりです。 I have been to 88 (35%) countries / territories of the #World! #countriesbeen グローバル展開による経営力強化:講演テーマ分析 私はこれまで、「経営力強化のためのグローバル展開について」というテーマで様々なセミナーや講演会で講演を行ってきました。グローバル展開は、企業が成長機会を求め、競争力を強化するための重要な戦略の一つです。海外市場への参入、グローバルサプライチェーンの構築、海外企業との提携など、多様なアプローチが存在します。私の講演は、JETROでの経験に基づいた実践的な視点と、萩原工業におけるグローバル戦略の推進経験を踏まえた、示唆に富む内容であると評価されることがあります。 【髙宮純一(タカミヤ ジュンイチ)さんプロフィール】 1967年 5月19日生(東京都渋谷区) 学歴: 1974年3月 卒園 戸田東幼稚園(埼玉県戸田市) 1980年3月 卒業 野木町立友沼小学校(栃木県下都賀郡) 1983年3月 卒業 野木町立野木中学校(栃木県下都賀郡) 1985年6月 卒業 Stillwater Senior High School(米国ミネソタ州スティルウォーター市) 1987年3月 卒業 茨城県立古河第三高等学校普通科(茨城県古河市) 1992年3月 卒業 国際学士 東京国際大学教養学部国際学科(埼玉県川越市) 2016年9月 研修修了 Okayama University Public Administration Short-Term Training, Citizen-Centered Governance – Cases from the Portland, Oregon. Center for Public Service, Mark O. Harfield School of Government, Portland State University.(米国オレゴン州ポートランド市) 2018年3月 修士課程修了 公共政策学修士(Master of Public Policy) 学位記番号:第22946号(Degree Number : 22946)岡山大学社会文化研究科博士前期課程公共政策学専攻(岡山県岡山市) 資格: 防災士(Disaster Prevention Expert Certification in Japan) 日本防災士機構(特定非営利活動法人)(Japan Bousaisi Organization) 認定番号: No.019874 居住地の東京都世田谷区の支援を受け取得。 職歴: 1992年4月1日日本貿易振興会(JETRO:現在の日本貿易振興機構、東京都港区虎ノ門)採用 総務部人事課付 1992年4月20日 国内異動 経理部経理課(採用後配属先、経理・会計・財務業務) 1994年11月26日 海外異動 ダルエスサラーム事務所 所長 タンザニア ダルエスサラーム:1994年11月 – 1998年3月(3年5ヶ月) ダルエスサラーム日本人会 役員 1998年3月28日 国内異動 海外事業部事業調整課(海外事務所運営業務) 1998年7月1日 国内異動 事業統括部海外事業課(海外事務所運営業務) 1999年6月11日 海外異動 テヘラン事務所 所長 イラン テヘラン:1999年6月 – 2004年1月(4年8ヶ月) テヘラン日本人会 理事 2004年1月27日 国内異動 企画部企画課 課長代理(経営企画、予算総括業務) 2007年5月1日 国内異動 海外調査部調査企画課 課長代理(海外調査部全体の管理運営、調査企画業務) 2007年5月19日 国内異動 海外調査部 総括課長代理(海外調査部全体の管理運営、調査企画業務) 2008年10月10日 国内異動 総務部 主査(法務、契約、情報公開、コンプライアンス、内部統制等業務) 2009年7月1日 国内異動 総務部 主幹(法務、契約、情報公開、コンプライアンス、内部統制等業務) 2010年3月23日 海外異動 カイロ事務所 所長 エジプト カイロ:2010年3月 – 2014年11月(4年9ヶ月) エジプト日本商工会 副会長 カイロ日本人学校 PTA会長(学校運営委員会メンバー) 2014年3月27日 ロンドンにて Chatham House(英国王立国際問題研究所)とアジア経済研究所の研究会合に出席 「アラブの春」後の中東 ~東西の視点の邂逅(かいこう)~MENA in Post – “Arab Spring” Era Shared Perspectives on the Middle East and North Africa 2014年11月20日 国内異動 企画部主査 2015年2月1日 国内異動 事業推進主幹(中東アフリカ地域戦略) 2015年4月1日 国内異動 海外地域戦略主幹(中東アフリカ地域戦略) 2015年7月1日 国内異動 企画部付(入院) 2015年7月15日 国内異動 岡山貿易情報センター 所長 日本 岡山県:2015年7月 – 2018年4月(2年10ヶ月) 主な公職: 岡山商工会議所 参与 岡山・ミャンマー友好推進会議 顧問 岡山県・南オーストラリア州友好協会 理事及び監事 岡山県高等学校教育研究協議会 委員 岡山県高等学校教育研究協議会専門委員会(第二専門委員会)委員 岡山県高等学校教育研究協議会 起草委員会 岡山県土木部指定管理者候補選定委員会 委員 岡山県企業誘致推進協議会 企業誘致アドバイザー 岡山・産学官連携推進会議 委員 岡山空港国際物流促進協議会 顧問 岡山市経済政策審議会 委員 岡山市国際交流協議会 監事 (公財)岡山県産業振興財団 評議員 (公財)岡山県産業振興財団 評議員 選定委員会 委員 (一社)岡山県国際経済交流協会 理事 (一財)岡山県国際交流協会 評議員 (一財)岡山県国際交流協会 運営委員会 アドバイザー 岡山日蘭協会 特別顧問 岡山県立瀬戸南高等学校地域共育審議会 委員 岡山操山高校スーパーグローバルハイスクール運営指導委員会 指導委員 2018年4月30日 退職 日本貿易振興機構(東京都港区赤坂)を退職(26年1か月間) 2018年5月1日 転職 萩原工業株式会社(岡山県倉敷市)に入社 2018年5月1日 経営戦略室 室長(2年6か月) 2020年11月1日 合成樹脂事業部門 国際部 部長(1年間) 2021年11月1日 経営企画室 室長(3年間) 2024年11月1日~現在 経営企画室 社長特命担当部長 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
TIUの精神「真の国際人」を目指し、挫折から文武両道で世界に再度挑む!
大橋正芳さん(2003年卒業 経済学部経済学科 渡邉ゼミ 体育会躰道部)
2025年3月1日【はじめに】 初めまして!1998年TIU入学、経済学部経済学科、第34期躰道部出身の大橋正芳と申します。素晴らしい卒業生の皆様、そして現役生のご活躍、TIU出身として大変誇らしく思うと同時に、ここにこうして私は寄稿させていただくこと、ただただ恐縮ではあります。しかし、振り返ってみるとTIUという素晴らしい環境で得た経験や出会いが非常に私の人生形成に大きな意味やターニングポイントをくだったことは確かです。なので、何か一つでも卒業生の皆様や現役生の方へ感じていただけることがあればと思い文をまとめて参ります。どうか最後までお付き合いくだされば幸いです。 ↑海外挑戦時代 子供達と武道と教育と。 【TIUでは躰道部で部活一筋、体育賞受賞!】 1998年に入学し、当時は大変な活躍をしていた体育会躰道部に入部しました。当時はなんとなく海外に繋がっていけばいいのかなくらいの入学の志望動機でしたが、躰道という武道にすっかりハマってしまい、朝から晩まで毎日毎日日本一を目指して稽古という日々を過ごしておりました、授業よりもほぼほぼ道場で過ごす日々でした(笑)。 そして2002年、大学4年生の時、運良く私とOBの先輩で組んだTIUチームで世界大会(沖縄開催)で団体戦優勝し体育賞受賞を頂戴いたしました。そこまでは躰道一色線でひたすら没頭しておりました。ただ、TIUでよかったなと思う点はTIUAを経験した先輩や海外で勝負している卒業生の方が多く、感性的に知らず知らずに「世界で勝負する」ことがかっこいいと思っておりました。 そして、その世界大会で衝撃的な出会いがありました。TIU卒の4期生、内田先輩。アトランタで躰道道場を大成功させており、多くの門下生を引き連れて那覇に来られておりました。「日本の文化武道を海外に普及させて凱旋する」、これがめちゃめちゃかっこよくて、この人を目指そう!と決意し部活を引退しました。 【4期の大先輩が創設したアトランタ道場へ】 部活の引退後、いざアトランタでご活躍されている内田先生の道場に飛び込みました。初めてのアメリカ、衝撃でした。TIU卒業生の先輩が単身で乗り込み大成功させたアトランタ道場、日本よりも日本の文化が根付いておりました。押忍の精神と礼儀、稽古への姿勢と熱意、武道生の追及、哲学的な発想や練磨錬成の思考、、、ぶったまげました。これは日本よりも日本だ!アトランタに武道よりも武道がある!と。 そして、何より感銘を受けたのは内田先輩は優秀なビジネスマンでした。躰道の普及には経済的基盤も重要で、最もすごいと感じたのはそもそもアトランタでビジネスを成功させていたことです。異国の地でビジネスも成功させ、武道道場で日本以上の日本文化を具現化し、多くの生徒や関係者に囲まれ尊敬され期待されている。20代前半で衝撃的なシーンで今(45歳)でもモデルケースとして背中を追いかける、そんな出会いでした。TIUに入学していなければあり得ない出会いでした。 帰国前に、内田先輩にお伺いしました。 「内田先輩!自分、先輩みたいになりたいんですがどうしたらいいですか!?」と。 答えは英語を学べとかビジネスをとかかなと思いましたが意外なものでした。 「大橋くん、世界に挑戦したいならまずは日本人として日本をしっかり学びなさい、それが真の国際人、日本人だ。」と。 その言葉を胸に、日本に帰りました。 ↑3期の内田先輩が創設したアトランタ躰道協会の稽古 【晴れて日本一獲得!2006年全日本躰道選手権優勝。資金準備していざ挑戦!】 日本に戻り、「海外進出して自分の道場を!」が目標になりました。アトランタの先輩のように世界一の道場を海外で、これがTIUという土壌で学び育った私の目標でした。 当初の目的地は豪州シドニー。そのために二つの目標を作りました。 1、まず個人で日本一を獲得すること。やはり世界に打って出るブランディングでは「日本一」は欠かせないかなと。2、資金。最低でもビザが切れるまで1年は暮らせるようにと。最短で実現できるよう昼は仕事、夜は稽古の生活が始まりました。どんなに仕事で遅くても深夜まで走り、公園で怪しまれながらも武道の練習をし、休日は延々と道場に籠って練磨錬成。間違いなく日本一稽古したと自負しています。 そして約3年後の2006年、血の滲むような稽古と運もあり、晴れて全日本躰道選手権で優勝、日本一獲得!順調に1年以上は暮らせる資金も貯まり、お声をかけていただいたシドニーに意気揚々と乗り込んだのが2007年でした。会社も辞め、住所も移し、成功するまで2度と日本に帰らないと心に決めて挑む、27歳の春でした。 ↑シドニーへ海外派遣指導員として挑戦 【挫折から考えらせられた「真の国際人」とは】 シドニーでは最初は好調でした。やはり、「躰道日本一の選手」の威光は強く、当初はリスペクトをもって受け入れていただいておりました。平日はシドニーでトップクラスのNSW大学の部活動で指導し、休日はどこか道場を設立できる場所探しを行う。ただ、今思えば戦略性がなく短絡的な考え、「武道が上手だから成功できるハズ」と勢いそのままでとにかく演武や稽古会を行うのみでした。なにせ日本一の選手が武道後進国の南半球に来たのです。成功できると確信していた、そんな愚かな私でした。 しかし、そんな愚か者に天罰?がくだります。唯一の武器である身体能力を掻き消す、両足が痺れて動かなくなるヘルニアでした。慣れない環境のせいなのかみるみる悪化し、歩くのすらままならない状態に3ヶ月でなりました。当時、自費の医療費は大変高く、しかも両足の痺れというなかなか原因や運動障害が証明しにくい受傷だったので莫大な医療費の割になかなか保険対応が進まず、ただただ軍資金が消えていく日々でした。 そして、大した理念や信念をもたない私の生活は荒廃していきました。契約していた家も破棄になり、ただただホームレスのように昼から公園を彷徨う、地獄のような夢を失った状態でした。 その時のことは一生忘れないと思います、日々自問自答して「武道とは?」「躰道の役目とは?」「世界から求められているものは?」そして、「真の国際人とは」。 日本に帰るという選択肢は全くありませんでした。いつか治って、いつか復帰できて、いつか成功できる、そんな治療だけに専念をする生活でした。 【帰国、そして日本で道場と会社設立から10年】 そんな状態でしたが、日本にいる先輩から「手術と入院を用意できる」とお声をかけていただき、リハビリを約半年、復帰まで1年かけて治療しました。その期間、振り返りの中心にあったのは「真の国際人」であれという、TIUの先輩、アトランタの内田先輩のお言葉でした。 まず、日本で日本人として信念を持って成功しよう、そしてそこから世界に再挑戦しよう。 日本で確固たる信念を錬成し、本当の価値ある国際人として再出発したい、そんな思いでした。 最初に東京に躰道道場を作りました。日本一の道場を目指し今年で10年目。昨年は東京道場では初となる全国大会総合準優勝まで破竹の勢いで上り詰め、日本一まであと一歩というところまで来ました。次に起業しました。日本の経営者を対象にしたブランディングやコンサルティングを行い、こちらも今年10期目となり多くの経営者様にお世話になっております。 そして、この10年を機に私も改めて世界にと決意を固めております。 ↑東京に戻り創った道場、昨年は全国大会で総合準優勝! 【2社目設立、いざ!遥かなる海外再挑戦へ】 道場、起業したビジネスが安定し、次は2023年にハワイに新しく会社を作りました。日本から世界進出に挑戦する経営者向けのコンサルサービスです。ここではハワイ、アメリカ進出のみならずアジア市場展開のお手伝いもしております。日本企業の志ある経営者様が「真の国際人」を目指し世界展開する、そんな情熱をご支援する企業です。 ここでは現在、日本の食品をハラル市場に市場投下するビジネスや、日本文化である懐石料理のNY進出、焼肉屋のハワイ進出などをご支援しております。まだまだ拡大していく予定です。 【2024年に40歳以上のキックボクシング王者獲得!】 この10年は自身の道場、そして起業したビジネスを波に乗せることに時間を使いましたが、そんな折でも自己錬磨は忘れておりません。いつまでも挑戦したいという思いから「アンチエイジングファイト」という年齢を超えた戦いの場、40歳以上の日本最強を決めるシニア(マスターズ)キックボクシングにおいて8連勝し、チャンピオンにもなりました。世界進出のためのビジネス経営を展開しなはら道場運営、そして2度目の日本一。 時は来ました。 ↑40歳以上のキックボクシング王者獲得! これを機にある挑戦の決断をしております。 もちろん「真の国際人」として世界進出、です。 世界一の武道道場を、世界と繋ぐビジネスを、かつての挫折を糧に再度挑戦します。 運命を、理想を与えてくれたTIUの学び場で得た夢を実現すべく45歳ですがまだまだ挑戦して参ります。長文駄文になりましたが最後に、この記事を読んでくださっているTIUの卒業生の皆様、在学生の皆様、いつか世界で人生が重なれば最高です! 【大橋正芳さんプロフィール】 1979年 埼玉生まれ 2003年3月東京国際大学卒業 経済学部経済学科 渡邉ゼミ 体育会躰道部 卒業後、20代は東京国際大学の部活動での経験を生かし、日本武芸(躰道)の海外派遣指導員としても世界普及のため活動を行う。 その後、東京でITコンサル会社の法人営業部長として上場企業の経営層向けにコンプライアンスをテーマに1000社以上へ講演。 2017年からはアジア最大のPR会社にジョインした米国(Hawaii)企業所属、2019年にはその(株)ベクトルグループ3000人から最優秀セールス賞(MVP)受賞。 現在は起業し、経営コンサル会社を東京、米国ハワイにて2社経営。 また、ビジネス以外の活動では沖縄エリアの一般社団法人の代表理事として貧困層向け教育拡大プロジュエクトを遂行中。また東京ではNPO法人日本武芸躰道協会の師範として小中高生の門下生60名に指導/次世代育成も手掛ける。 主な受賞歴:2006年全日本躰道選手権優勝、 2019年(株)ベクトルグループ最優秀セールス(MVP)受賞、 2024年キックボクシング王者(40歳以上の部)獲得 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
大橋正芳さん(2003年卒業 経済学部経済学科 渡邉ゼミ 体育会躰道部)
2025年3月1日【はじめに】 初めまして!1998年TIU入学、経済学部経済学科、第34期躰道部出身の大橋正芳と申します。素晴らしい卒業生の皆様、そして現役生のご活躍、TIU出身として大変誇らしく思うと同時に、ここにこうして私は寄稿させていただくこと、ただただ恐縮ではあります。しかし、振り返ってみるとTIUという素晴らしい環境で得た経験や出会いが非常に私の人生形成に大きな意味やターニングポイントをくだったことは確かです。なので、何か一つでも卒業生の皆様や現役生の方へ感じていただけることがあればと思い文をまとめて参ります。どうか最後までお付き合いくだされば幸いです。 ↑海外挑戦時代 子供達と武道と教育と。 【TIUでは躰道部で部活一筋、体育賞受賞!】 1998年に入学し、当時は大変な活躍をしていた体育会躰道部に入部しました。当時はなんとなく海外に繋がっていけばいいのかなくらいの入学の志望動機でしたが、躰道という武道にすっかりハマってしまい、朝から晩まで毎日毎日日本一を目指して稽古という日々を過ごしておりました、授業よりもほぼほぼ道場で過ごす日々でした(笑)。 そして2002年、大学4年生の時、運良く私とOBの先輩で組んだTIUチームで世界大会(沖縄開催)で団体戦優勝し体育賞受賞を頂戴いたしました。そこまでは躰道一色線でひたすら没頭しておりました。ただ、TIUでよかったなと思う点はTIUAを経験した先輩や海外で勝負している卒業生の方が多く、感性的に知らず知らずに「世界で勝負する」ことがかっこいいと思っておりました。 そして、その世界大会で衝撃的な出会いがありました。TIU卒の4期生、内田先輩。アトランタで躰道道場を大成功させており、多くの門下生を引き連れて那覇に来られておりました。「日本の文化武道を海外に普及させて凱旋する」、これがめちゃめちゃかっこよくて、この人を目指そう!と決意し部活を引退しました。 【4期の大先輩が創設したアトランタ道場へ】 部活の引退後、いざアトランタでご活躍されている内田先生の道場に飛び込みました。初めてのアメリカ、衝撃でした。TIU卒業生の先輩が単身で乗り込み大成功させたアトランタ道場、日本よりも日本の文化が根付いておりました。押忍の精神と礼儀、稽古への姿勢と熱意、武道生の追及、哲学的な発想や練磨錬成の思考、、、ぶったまげました。これは日本よりも日本だ!アトランタに武道よりも武道がある!と。 そして、何より感銘を受けたのは内田先輩は優秀なビジネスマンでした。躰道の普及には経済的基盤も重要で、最もすごいと感じたのはそもそもアトランタでビジネスを成功させていたことです。異国の地でビジネスも成功させ、武道道場で日本以上の日本文化を具現化し、多くの生徒や関係者に囲まれ尊敬され期待されている。20代前半で衝撃的なシーンで今(45歳)でもモデルケースとして背中を追いかける、そんな出会いでした。TIUに入学していなければあり得ない出会いでした。 帰国前に、内田先輩にお伺いしました。 「内田先輩!自分、先輩みたいになりたいんですがどうしたらいいですか!?」と。 答えは英語を学べとかビジネスをとかかなと思いましたが意外なものでした。 「大橋くん、世界に挑戦したいならまずは日本人として日本をしっかり学びなさい、それが真の国際人、日本人だ。」と。 その言葉を胸に、日本に帰りました。 ↑3期の内田先輩が創設したアトランタ躰道協会の稽古 【晴れて日本一獲得!2006年全日本躰道選手権優勝。資金準備していざ挑戦!】 日本に戻り、「海外進出して自分の道場を!」が目標になりました。アトランタの先輩のように世界一の道場を海外で、これがTIUという土壌で学び育った私の目標でした。 当初の目的地は豪州シドニー。そのために二つの目標を作りました。 1、まず個人で日本一を獲得すること。やはり世界に打って出るブランディングでは「日本一」は欠かせないかなと。2、資金。最低でもビザが切れるまで1年は暮らせるようにと。最短で実現できるよう昼は仕事、夜は稽古の生活が始まりました。どんなに仕事で遅くても深夜まで走り、公園で怪しまれながらも武道の練習をし、休日は延々と道場に籠って練磨錬成。間違いなく日本一稽古したと自負しています。 そして約3年後の2006年、血の滲むような稽古と運もあり、晴れて全日本躰道選手権で優勝、日本一獲得!順調に1年以上は暮らせる資金も貯まり、お声をかけていただいたシドニーに意気揚々と乗り込んだのが2007年でした。会社も辞め、住所も移し、成功するまで2度と日本に帰らないと心に決めて挑む、27歳の春でした。 ↑シドニーへ海外派遣指導員として挑戦 【挫折から考えらせられた「真の国際人」とは】 シドニーでは最初は好調でした。やはり、「躰道日本一の選手」の威光は強く、当初はリスペクトをもって受け入れていただいておりました。平日はシドニーでトップクラスのNSW大学の部活動で指導し、休日はどこか道場を設立できる場所探しを行う。ただ、今思えば戦略性がなく短絡的な考え、「武道が上手だから成功できるハズ」と勢いそのままでとにかく演武や稽古会を行うのみでした。なにせ日本一の選手が武道後進国の南半球に来たのです。成功できると確信していた、そんな愚かな私でした。 しかし、そんな愚か者に天罰?がくだります。唯一の武器である身体能力を掻き消す、両足が痺れて動かなくなるヘルニアでした。慣れない環境のせいなのかみるみる悪化し、歩くのすらままならない状態に3ヶ月でなりました。当時、自費の医療費は大変高く、しかも両足の痺れというなかなか原因や運動障害が証明しにくい受傷だったので莫大な医療費の割になかなか保険対応が進まず、ただただ軍資金が消えていく日々でした。 そして、大した理念や信念をもたない私の生活は荒廃していきました。契約していた家も破棄になり、ただただホームレスのように昼から公園を彷徨う、地獄のような夢を失った状態でした。 その時のことは一生忘れないと思います、日々自問自答して「武道とは?」「躰道の役目とは?」「世界から求められているものは?」そして、「真の国際人とは」。 日本に帰るという選択肢は全くありませんでした。いつか治って、いつか復帰できて、いつか成功できる、そんな治療だけに専念をする生活でした。 【帰国、そして日本で道場と会社設立から10年】 そんな状態でしたが、日本にいる先輩から「手術と入院を用意できる」とお声をかけていただき、リハビリを約半年、復帰まで1年かけて治療しました。その期間、振り返りの中心にあったのは「真の国際人」であれという、TIUの先輩、アトランタの内田先輩のお言葉でした。 まず、日本で日本人として信念を持って成功しよう、そしてそこから世界に再挑戦しよう。 日本で確固たる信念を錬成し、本当の価値ある国際人として再出発したい、そんな思いでした。 最初に東京に躰道道場を作りました。日本一の道場を目指し今年で10年目。昨年は東京道場では初となる全国大会総合準優勝まで破竹の勢いで上り詰め、日本一まであと一歩というところまで来ました。次に起業しました。日本の経営者を対象にしたブランディングやコンサルティングを行い、こちらも今年10期目となり多くの経営者様にお世話になっております。 そして、この10年を機に私も改めて世界にと決意を固めております。 ↑東京に戻り創った道場、昨年は全国大会で総合準優勝! 【2社目設立、いざ!遥かなる海外再挑戦へ】 道場、起業したビジネスが安定し、次は2023年にハワイに新しく会社を作りました。日本から世界進出に挑戦する経営者向けのコンサルサービスです。ここではハワイ、アメリカ進出のみならずアジア市場展開のお手伝いもしております。日本企業の志ある経営者様が「真の国際人」を目指し世界展開する、そんな情熱をご支援する企業です。 ここでは現在、日本の食品をハラル市場に市場投下するビジネスや、日本文化である懐石料理のNY進出、焼肉屋のハワイ進出などをご支援しております。まだまだ拡大していく予定です。 【2024年に40歳以上のキックボクシング王者獲得!】 この10年は自身の道場、そして起業したビジネスを波に乗せることに時間を使いましたが、そんな折でも自己錬磨は忘れておりません。いつまでも挑戦したいという思いから「アンチエイジングファイト」という年齢を超えた戦いの場、40歳以上の日本最強を決めるシニア(マスターズ)キックボクシングにおいて8連勝し、チャンピオンにもなりました。世界進出のためのビジネス経営を展開しなはら道場運営、そして2度目の日本一。 時は来ました。 ↑40歳以上のキックボクシング王者獲得! これを機にある挑戦の決断をしております。 もちろん「真の国際人」として世界進出、です。 世界一の武道道場を、世界と繋ぐビジネスを、かつての挫折を糧に再度挑戦します。 運命を、理想を与えてくれたTIUの学び場で得た夢を実現すべく45歳ですがまだまだ挑戦して参ります。長文駄文になりましたが最後に、この記事を読んでくださっているTIUの卒業生の皆様、在学生の皆様、いつか世界で人生が重なれば最高です! 【大橋正芳さんプロフィール】 1979年 埼玉生まれ 2003年3月東京国際大学卒業 経済学部経済学科 渡邉ゼミ 体育会躰道部 卒業後、20代は東京国際大学の部活動での経験を生かし、日本武芸(躰道)の海外派遣指導員としても世界普及のため活動を行う。 その後、東京でITコンサル会社の法人営業部長として上場企業の経営層向けにコンプライアンスをテーマに1000社以上へ講演。 2017年からはアジア最大のPR会社にジョインした米国(Hawaii)企業所属、2019年にはその(株)ベクトルグループ3000人から最優秀セールス賞(MVP)受賞。 現在は起業し、経営コンサル会社を東京、米国ハワイにて2社経営。 また、ビジネス以外の活動では沖縄エリアの一般社団法人の代表理事として貧困層向け教育拡大プロジュエクトを遂行中。また東京ではNPO法人日本武芸躰道協会の師範として小中高生の門下生60名に指導/次世代育成も手掛ける。 主な受賞歴:2006年全日本躰道選手権優勝、 2019年(株)ベクトルグループ最優秀セールス(MVP)受賞、 2024年キックボクシング王者(40歳以上の部)獲得 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
TIUで学んだ人間ネットワークの大切さと組織の連携プレー。そして札幌で居酒屋拓郎 30年
小林祐嗣さん(1982年/14期卒業 商学部商学科 井上準之助ゼミ 軽音楽部 Tiny Love 社交ダンス研究会 第13期文化連合会)2025年2月1日幼少からフォーク・ロックに傾倒し、高校では剣道とバンド活動に没頭1959年12月、東京都北区王子生まれ。幼少の頃東久留米市に引っ越して33歳まで過ごしました。小学校3年の頃には音楽に目覚め、ラジオを媒体としてジャンルを問わず聞きあさる小学生でした。特にフォーク・ロック系に傾倒し、シンガーソングライター吉田拓郎氏の出現に衝撃を受け、これが私の人生に多大なる影響を与えることとなるのでした。 中学に上がると当時大流行の剣道部を舞台にした青春学園ドラマ「俺は男だ!」に感化され剣道部に入部。同時に小遣いを貯め質屋で中古ギターを購入。ギターにもハマり出します。一方北海道に旅行する機会があり、公害が酷かった東京と比べ別の国の様に美しい大自然に驚愕し、北海道にもハマるのでした。 高校に上がると剣道とバンド活動に没頭します。専属コーチ不在の都立高校の割には、西東京大会でベスト8、全東京大会でベスト16とそこそこの成績を残しました。 バンド活動は校内の学園祭ではあきたらず、他校の学園祭にゲスト出演したり、公民館を借りて自主コンサートの開催と、一体いつ勉強していたのだろうという高校時代でした。 海外にも憧れ、国際人養成のTIUへ入学1978年に国際商科大学(現東京国際大学)入学。剣道部か軽音楽部か悩んだ末、軽音楽部Tiny Loveに入部。一年弱経過したところで活動を外のライブハウス等に求め、バンド全員で退部。そんな時ある教授から「社交ダンスのサークルがあるのだが、男子が少ないので参加してくれないか?」とお誘いがありました。女子の手を合法的に握れるという不純な動機からバンドメンバーと参加するのですが、この軽薄な行動がその後のキャンパスライフに大きな影響を与えるとは予想も出来ませんでした。 大学未公認のダンスサークルの中に公認正式部活動昇進を目論む女子先輩がおられ、その情熱に賛同した私達は新組織設立に邁進する日々に突入するのでした。公認団体・社交ダンス研究会の発足活動開始です。外のライブハウスでコンサートどころではありません。 文化連合会本部に新団体設立の申請書を提出し監査が開始されました。 文化連合会での活動の経験が、今までの社会生活に役立っています日常の活動方法のノウハウを学ぶ為、頻繁な他大学との交流、技術習得のため外部ダンススクールへの参加、夏合宿春合宿の実施、秋霞祭への正式参加、新入生勧誘及び歓迎行事と未知のイベントを数々こなしながら一年が経過し、文化連合会本部から大学公認団体認定を頂き、私は初代委員長就任となるのでした。 四年生になると運営を後進に譲り、勢いで文化連合会執行部の総務局長として新たな活動が始まりました。文化系部活動の統括本部としての多忙な日常業務、秋霞祭の時期には秋霞祭実行委員会、体育会本部との連携プレーと、組織・人間ネットワークの大切さ難しさを存分に味わう日々を送るのでした。 学業の話題が出ておりませんが、四年間の大学での活動の経験はその後の社会生活に大いに役立つものとなっていくのでした。現在、残念ながら「社会ダンス研究会」はありません。 (第13期文化連合会執行部メンバー) 卒業後は音響・計測機器メーカーのティアック(TEAC)へ就職1982年、無事卒業して音響機器計測機器メーカー・ティアック株式会社(TEAC)に就職しました。業務用ビデオ機器の海外事業部に配属され、アジアマーケット担当となり中国を中心としてシンガポールやタイなどのアジア諸国を出張で飛び回る営業マンとなりました。 1990年代に入る頃、日本国内はパソコン時代に突入となり、私はパソコン周辺機器の国内事業部へ配置転換となりました。パソコン市場は業界自体が若いので若いヤツを全国の営業所長として配置するというプロジェクトが起こり、私は若干33歳で札幌営業所長に就任の人事命令が下るのでした。成長期の市場でもあり、昼夜営業活動に没頭して売り上げを倍増することができました。次に福岡や広島への移動の打診がありましたが、断ることになります。 憧れの札幌で、ライブ居酒屋『居酒屋拓郎』を開業前述の通り、私は北海道フリークでもあり漠然といつかは北海道に住んでみたいと思っていました。会社のお金で憧れの札幌に移住できたのだからと、サッサと脱サラ・独立を目論むのでした。組織から脱け出し一匹狼になるのですから、徹底的に好きな事を仕事にしてやろうと甘い野望を描き、最も衝撃を受けたアーティスト吉田拓郎氏に特化しこだわったライブ居酒屋「居酒屋拓郎」を大歓楽街ススキノに開業することとなりました。1995年のことで全国で唯一無二の店です。 店内にはステージが常設されお客様が弾き語りやセッションを自由に行えます。もちろん演奏曲は吉田拓郎氏の作品に特化しています。お客様が自由に演奏できるというシステムは、2000年代に入るとフォーク酒場というジャンルとなり、全国的に大ブームとなります。当店はフォーク酒場の草分的存在と業界では言われています。 店の経営の傍らお客様とバンドを結成して、年に数回全国にライブツアーに出ています。期せずしてプロミュージシャン気取りの活動になっています。二年前からバンドに参加しているピアノ・シンセサイザー担当は、ロック系軽音楽部BMAに所属されていた二級先輩の水落和也さんです。在学中は見知らぬ同士が卒業後40年以上経った今、一緒にバンド活動をしています。御縁とは不思議なものですが、繋がるべくして繋がったと感じます。 時々プロ歌手のバックでギターを弾いたりもしています。 2024年11月30日に鳥取県米子市で行われた『岡本おさみ音楽記念碑完成記念式典』が日本海テレビのニュースなどで放映されました。居酒屋拓郎マスターの、旅の宿🎵斉唱がチョロっと映ってます!吉田拓郎や南こうせつなど数々のアーティストに詞を提供し、多くのヒット曲を世に送り出した米子市出身の作詞家・岡本おさみさん。その功績をたたえる音楽記念碑の完成のお露目でした。 居酒屋拓郎マスター・小林祐嗣の『今日までそして明日から』 エフエムWithFM83.0MHzで毎週日曜日21時~22時 放送しています。 札幌にお越しの際は、『居酒屋拓郎』にぜひお立ち寄りください。今では全国から吉田拓郎ファンか集まる、拓郎ファンの聖地と言われ店が独り歩きしており、今年30周年を迎えます。こんなマニアックな店が激戦区ススキノで30年も続いたのは奇跡だとススキノ観光協会関係者から言われています。余計なお世話です。 当店が今だに存続しているのは、大学時代の組織作りの経験、人間ネットワークの大切さを学んだ賜物と確信しています。 札幌にお越しの際は、ぜひお立ち寄り頂けたら幸いです。 (小林祐嗣さんプロフィール) 1982年3月国際商科大学(現東京国際大学)商学部商学科卒業 第14期生 井上準之助ゼミ 軽音楽部Tiny Love一年間在籍 社交ダンス研究会創設期委員長 第13期文化連合会執行部総務局長 1982年4月音響機器計測機器メーカー・ティアック株式会社(TEAC)に就職 業務用ビデオ機器の海外事業部に配属され、アジアマーケット担当 パソコン周辺機器の国内事業部へ 1993年11月国内事業部札幌営業所長1995年12月札幌ススキノでライブ居酒屋「居酒屋拓郎」を開業 『居酒屋拓郎』064-0806 札幌市中央区南6条西3丁目-6-11Tel: 011‐531‐6676 豊水すすきの駅から220mFacebook:居酒屋拓郎 色んなイベントを開催していますので、札幌にお越しの際は、是非お立ち寄りください。 (Facebook:居酒屋拓郎)からコンタクトしてください。 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
小林祐嗣さん(1982年/14期卒業 商学部商学科 井上準之助ゼミ 軽音楽部 Tiny Love 社交ダンス研究会 第13期文化連合会)2025年2月1日幼少からフォーク・ロックに傾倒し、高校では剣道とバンド活動に没頭1959年12月、東京都北区王子生まれ。幼少の頃東久留米市に引っ越して33歳まで過ごしました。小学校3年の頃には音楽に目覚め、ラジオを媒体としてジャンルを問わず聞きあさる小学生でした。特にフォーク・ロック系に傾倒し、シンガーソングライター吉田拓郎氏の出現に衝撃を受け、これが私の人生に多大なる影響を与えることとなるのでした。 中学に上がると当時大流行の剣道部を舞台にした青春学園ドラマ「俺は男だ!」に感化され剣道部に入部。同時に小遣いを貯め質屋で中古ギターを購入。ギターにもハマり出します。一方北海道に旅行する機会があり、公害が酷かった東京と比べ別の国の様に美しい大自然に驚愕し、北海道にもハマるのでした。 高校に上がると剣道とバンド活動に没頭します。専属コーチ不在の都立高校の割には、西東京大会でベスト8、全東京大会でベスト16とそこそこの成績を残しました。 バンド活動は校内の学園祭ではあきたらず、他校の学園祭にゲスト出演したり、公民館を借りて自主コンサートの開催と、一体いつ勉強していたのだろうという高校時代でした。 海外にも憧れ、国際人養成のTIUへ入学1978年に国際商科大学(現東京国際大学)入学。剣道部か軽音楽部か悩んだ末、軽音楽部Tiny Loveに入部。一年弱経過したところで活動を外のライブハウス等に求め、バンド全員で退部。そんな時ある教授から「社交ダンスのサークルがあるのだが、男子が少ないので参加してくれないか?」とお誘いがありました。女子の手を合法的に握れるという不純な動機からバンドメンバーと参加するのですが、この軽薄な行動がその後のキャンパスライフに大きな影響を与えるとは予想も出来ませんでした。 大学未公認のダンスサークルの中に公認正式部活動昇進を目論む女子先輩がおられ、その情熱に賛同した私達は新組織設立に邁進する日々に突入するのでした。公認団体・社交ダンス研究会の発足活動開始です。外のライブハウスでコンサートどころではありません。 文化連合会本部に新団体設立の申請書を提出し監査が開始されました。 文化連合会での活動の経験が、今までの社会生活に役立っています日常の活動方法のノウハウを学ぶ為、頻繁な他大学との交流、技術習得のため外部ダンススクールへの参加、夏合宿春合宿の実施、秋霞祭への正式参加、新入生勧誘及び歓迎行事と未知のイベントを数々こなしながら一年が経過し、文化連合会本部から大学公認団体認定を頂き、私は初代委員長就任となるのでした。 四年生になると運営を後進に譲り、勢いで文化連合会執行部の総務局長として新たな活動が始まりました。文化系部活動の統括本部としての多忙な日常業務、秋霞祭の時期には秋霞祭実行委員会、体育会本部との連携プレーと、組織・人間ネットワークの大切さ難しさを存分に味わう日々を送るのでした。 学業の話題が出ておりませんが、四年間の大学での活動の経験はその後の社会生活に大いに役立つものとなっていくのでした。現在、残念ながら「社会ダンス研究会」はありません。 (第13期文化連合会執行部メンバー) 卒業後は音響・計測機器メーカーのティアック(TEAC)へ就職1982年、無事卒業して音響機器計測機器メーカー・ティアック株式会社(TEAC)に就職しました。業務用ビデオ機器の海外事業部に配属され、アジアマーケット担当となり中国を中心としてシンガポールやタイなどのアジア諸国を出張で飛び回る営業マンとなりました。 1990年代に入る頃、日本国内はパソコン時代に突入となり、私はパソコン周辺機器の国内事業部へ配置転換となりました。パソコン市場は業界自体が若いので若いヤツを全国の営業所長として配置するというプロジェクトが起こり、私は若干33歳で札幌営業所長に就任の人事命令が下るのでした。成長期の市場でもあり、昼夜営業活動に没頭して売り上げを倍増することができました。次に福岡や広島への移動の打診がありましたが、断ることになります。 憧れの札幌で、ライブ居酒屋『居酒屋拓郎』を開業前述の通り、私は北海道フリークでもあり漠然といつかは北海道に住んでみたいと思っていました。会社のお金で憧れの札幌に移住できたのだからと、サッサと脱サラ・独立を目論むのでした。組織から脱け出し一匹狼になるのですから、徹底的に好きな事を仕事にしてやろうと甘い野望を描き、最も衝撃を受けたアーティスト吉田拓郎氏に特化しこだわったライブ居酒屋「居酒屋拓郎」を大歓楽街ススキノに開業することとなりました。1995年のことで全国で唯一無二の店です。 店内にはステージが常設されお客様が弾き語りやセッションを自由に行えます。もちろん演奏曲は吉田拓郎氏の作品に特化しています。お客様が自由に演奏できるというシステムは、2000年代に入るとフォーク酒場というジャンルとなり、全国的に大ブームとなります。当店はフォーク酒場の草分的存在と業界では言われています。 店の経営の傍らお客様とバンドを結成して、年に数回全国にライブツアーに出ています。期せずしてプロミュージシャン気取りの活動になっています。二年前からバンドに参加しているピアノ・シンセサイザー担当は、ロック系軽音楽部BMAに所属されていた二級先輩の水落和也さんです。在学中は見知らぬ同士が卒業後40年以上経った今、一緒にバンド活動をしています。御縁とは不思議なものですが、繋がるべくして繋がったと感じます。 時々プロ歌手のバックでギターを弾いたりもしています。 2024年11月30日に鳥取県米子市で行われた『岡本おさみ音楽記念碑完成記念式典』が日本海テレビのニュースなどで放映されました。居酒屋拓郎マスターの、旅の宿🎵斉唱がチョロっと映ってます!吉田拓郎や南こうせつなど数々のアーティストに詞を提供し、多くのヒット曲を世に送り出した米子市出身の作詞家・岡本おさみさん。その功績をたたえる音楽記念碑の完成のお露目でした。 居酒屋拓郎マスター・小林祐嗣の『今日までそして明日から』 エフエムWithFM83.0MHzで毎週日曜日21時~22時 放送しています。 札幌にお越しの際は、『居酒屋拓郎』にぜひお立ち寄りください。今では全国から吉田拓郎ファンか集まる、拓郎ファンの聖地と言われ店が独り歩きしており、今年30周年を迎えます。こんなマニアックな店が激戦区ススキノで30年も続いたのは奇跡だとススキノ観光協会関係者から言われています。余計なお世話です。 当店が今だに存続しているのは、大学時代の組織作りの経験、人間ネットワークの大切さを学んだ賜物と確信しています。 札幌にお越しの際は、ぜひお立ち寄り頂けたら幸いです。 (小林祐嗣さんプロフィール) 1982年3月国際商科大学(現東京国際大学)商学部商学科卒業 第14期生 井上準之助ゼミ 軽音楽部Tiny Love一年間在籍 社交ダンス研究会創設期委員長 第13期文化連合会執行部総務局長 1982年4月音響機器計測機器メーカー・ティアック株式会社(TEAC)に就職 業務用ビデオ機器の海外事業部に配属され、アジアマーケット担当 パソコン周辺機器の国内事業部へ 1993年11月国内事業部札幌営業所長1995年12月札幌ススキノでライブ居酒屋「居酒屋拓郎」を開業 『居酒屋拓郎』064-0806 札幌市中央区南6条西3丁目-6-11Tel: 011‐531‐6676 豊水すすきの駅から220mFacebook:居酒屋拓郎 色んなイベントを開催していますので、札幌にお越しの際は、是非お立ち寄りください。 (Facebook:居酒屋拓郎)からコンタクトしてください。 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
人生は夢の学校、-大学はインキュベーター-
川島佳子さん(1982年卒業 教養学部国際関係学科 原彬久ゼミ ELI)2025年1月1日1.はじめに 「789●△×◎」東京国際大学(当時は国際商科大学教養学部)在籍時の学籍番号、今でも鮮明に覚えています。 私は、現在、芸術文化を核とした国際交流や教育、福祉など、社会貢献事業の企画プロデュースをメインに、地域活性化や企業のプロモーションを提案しています。地域の文化施設の活性化と芸術文化教育事業、国際交流事業等による商圏の拡大、新規顧客の呼び込み、地域の次世代の育成、地域からの発信等を通し、文化と経済の融合を目指す地域活性化事業等を企画しています。 海外から演奏家やバレエダンサーを招へいし、大使館や大使公邸でのコンサートの他、青少年や若手プロに同じステージで共演する機会を提供し、彼らの夢の後押しをする教育事業が、実に驚くほどの成果をあげています。これまで参加された小学生~高校生は、現在、世界中のバレエ団で活躍し、中には、映画女優となって、日本アカデミー賞新人賞を獲得したり、ミスワールド日本代表になった人も、10万人のフォロワーをもつYOUTUBERになったりと夫々が多方面で、実に生き生きと挑戦を続けています。 彼らは、まだ始まったばかりの「夢の学校」という人生で、より多くを経験し、学び、チャレンジし、頑張れば、夢は実現するという事を身をもって学んでいるのです。 2.大学までの道 私は、群馬県館林市の出身で、小学校に入る前から、ヤマハの音楽教室に通ったり、洋舞踊を習ったり、活発で、好奇心旺盛なこども時代を過ごしました。 幼少期は、母の影響を多く受けました。母は、東京から群馬に疎開して来た人で、音楽や芸術に造詣が深く、その影響もあって、私も小学校入学前から、オルガン、ピアノを習いました。練習が嫌でサボり癖のある私に、母はスパルタで厳かったのですが、今では大変感謝しています。楽器は、練習しないと絶対に弾けないので、努力体質が身につきます。「やる」という意味は、単に時間を過ごすだけでなく、「できるようになるまで」が、「やる」という意味だと身をもって学べるのです。 また、洋舞踊は、思い切り身体を使って表現するのが楽しく、中学では体操部に入り、県大会に出場するほど頑張りました。この経験も、今、ロシアのバレエダンサー、イリーナ・ペレンとマラト・シェミウノフのプロデュースやバレエの教育事業を企画するのに、大変役立っています。 ピアノの先生のお父さんは、日本キリスト教団の牧師さんでもあり、日曜学校にも通いました。毎週聖書を読み、賛美歌を歌い、クリスマスには、劇をやったり、色々な家を回って、玄関先でクリスマスキャロルを歌ったり、夏はキャンプなどもしました。そんな経験から、先生のご家族と大変親しくしておりました。 ピアノの先生は、私が小学校4年生の時に、布教活動などの為に、カナダに移住することになりました。それから、先生との文通が始まりました。日本では、おとなしく、控えめな先生で、けっして社交的とは言い難かったのですが、その先生が、友人たちと車で、カナダを横断したり、バンクーバーの夕日の中をクルージングしている写真などが送られてきて、異国の生活文化に接し、大変刺激的で、外国へのあこがれを強くしました。 先生の父である、牧師さんは、英語の塾もされており、私が、小学校5年生になると、その英語塾へ入会のご案内が送られてきたので、何の疑問もなく、入塾しました。行ってみると、私以外の参加者は、皆6年生でした。中学から始まる英語の予習として、6年生にのみ、案内したようですが、私も6年生だと、牧師さんが勘違いしてしまったようでした。 6年生の先輩の中で、ただ一人の5年生でした。とにかく、私は、ピアノの先生との文通で芽生えた海外へのあこがれから、その為に、英語が不可欠であり、英語を学ぶことが楽しくて仕方なかったのです。そして、その結果、自分で言うのは何ですが、年下の私が、一番できてしまって、嬉しい反面、先輩方に悪い気がして、課題のペーパーができた順に提出して帰るという時は、出来上がっていても、一番最後に提出したりと、こどもながらに気を使っていました。 翌年も、今度は、同期の6年生たちと一緒にまた、同じコースを受けました。中学入学前に2年英語をやっていたので、中学での授業は、楽々すいすいでした。 ピアノの先生との文通も続き、カナダの美しい自然や、ホームパーティーなどの楽しそうな写真や絵ハガキは、私の外国へ行ってみたいという思いを年々強くさせました。1969年、アポロ11号月面着陸のテレビ中継以来、通訳という仕事が脚光を浴びていました。サイマルアカデミーの西山千さん、國広正雄さん、村松増美さん、鳥飼久美子さん、TBSのニュースキャスターを務めた浅野輔さんなどに、あこがれるようになりました。 母は、「女は、勉強なんかできなくても良い。学校なんて、どこでも同じ。」と公言しており、中学の先生は、隣の県の高校への進学を進めましたが、家から自転車で通えるところ、ということで、群馬県立館林女子高等学校に進みました。相変わらず、英語は好きで、得意でした。英語と数学が得意でした。クラブは、マンドリンギター部に所属し、指揮者として、多くのコンサートに出演しました。ちょうど、中学生の頃、館林市文化会館が建設され、開館当時は、連日、群馬交響楽団の演奏会や、劇団四季のミュージカルなど、文化会館に行くのが楽しみでした。そして、その同じ舞台で、自分も発表会でピアノを演奏したり、踊ったり、指揮をする機会に恵まれました。 旺文社のヨーロッパ英語研修ツアーの情報を見つけ、過去の参加者の感想などを読んでいるうちに、私も行きたくなり、無理だろうなと思いながらも、その思いがだんだん募って、ついに、母に相談しました。高校2年の時でした。 夏休みに、約3週間、イギリスのラムスゲートで、ホームスティしながら、外国人向けの英語学校に通い、その後、フランス、スイス、イタリアへの旅行がついているツアーでした。蛍雪時代や辞書などの出版社として、当時は、最大手だった旺文社が、中学生、高校生を中心対象として企画している語学研修ツアーで、親の心配を軽減するために、4人から6人のグループに、大人が一人つくという。旺文社が株主になっている、TV朝日の中堅社員のサバティカルか、海外のTV局の視察などもかねて、こどものリーダーとして、ついてくれるという体制で、本人も親も安心して、海外に出してもらえることになりました。 当時は、まだ外国へ行くのは珍しく、特に、私が住む群馬県館林市では、ましてや家族が同行せずに、高校生が一人で約1か月を一人海外へ行くというのは、大きな冒険でしたし、心配もされました。 担任の先生は、英語の先生だったので、よくわかってもらえるかと思いましたが、そうでもなく、校長先生と教頭先生とも面談をし、まるで、青山光子が、クーデンホーフ伯爵との結婚の為、ヨーロッパに渡る際、皇后陛下に謁見し、「海外にあっても、日本女子としての誇りと自覚を胸に、行動するように」とのお言葉を頂いたように、私も、校長先生から、「海外に行っても、館女生としての、自覚をもって、品行方正に勤めるように」というような言葉を賜りました。真面目な私は、イギリス到着後から、毎週、校長先生宛に、絵葉書を送りました。 高校時代には、QUEENなどロックグループのファンクラブに入ったり、武道館でのコンサートに行ったり、ロックマガジンなどを購読したりしました。またその頃、加藤タキさんが、コーディネーターという職業として、脚光を浴びており、私も、英語を使って、ロックグループの取材やコーディネートなどをする仕事につきたいとも思うようになりました。 そんな高校時代を過ごし、いよいよ、高校2年の冬頃から、進路を考えるようになりました。ピアノの先生や音楽の先生は、音大に行くことを進めてくれましたし、洋舞踊も習っていたので、ダンスの方面に進むか、また、数学も結構得意だったので、担任の先生などは、全科目受験の公立大学の教育学部などに行って、教師になるのが良いのではないかとか。。。 しかし、私の中では、通訳者、あるいは、コーディネーターになりたいという思いもあって、浅野輔先生と國広正雄先生のいる国際商科大学教養学部を受験しようと思いました。英検2級をもっていたので、推薦入学を受けました。そして、その他、ミッション系の大学も受験しました。 残念ながら、ミッション系の大学には、受からなかったのですが、その別の大学で見かけたファッショナブルな方を、国際商科大学の入学式で見かけ、声を上げそうに、嬉しくなりました。しかも同じクラス。とても仲良くなり、彼女の新婚旅行に同行するくらいの親友になりました。 大学時代は、通訳を目指していたくらいですから、英語のクラブに入りました。英語のクラブは、2つありましたが、英語で話す中身も学ぶというELI(English Language Institute)に入りました。毎日昼休みには、NHKのラジオ講座を先輩と予習復習し、放課後には、政治や経済の本などを読み、その内容を英語でディスカッションやディベートをするための論理的な思考を、英語と共に学びました。厳しく、かつユニークな先輩方に恵まれ、刺激的で、楽しく充実した日々でした。週末にも、KUEL関東学生英語会連盟等の大会(ディベートの試合等)などのイベントも多く、アルバイトなどする時間は、ありませんでした。 3年になって、国際関係学科を選び、ゼミは、国際政治、国際関係論の原彬久先生にご指導頂きました。これまたこのゼミの同期及び先輩方が、大変ユニークな方々で、しかし、とてつもなく優秀で、家族的な雰囲気の中、自主的なサブゼミ、本ゼミでも、多くの本を読み、自分の頭で考え、自分の意見を言う訓練をさせてもらった時期でした。恐れず、ひるまず、自分の考えをまとめ、発表する。問題提起をして、議論をする。そんな日々でした。しかし、秋霞祭などでは、ジャガイモのお店を出したり、皆で、色々な体験を共有しました。今思えば、本当に多くを経験し、鍛えられ、協力し、また、卒業できないかもしれない仲間を助けようと色々な応援や手伝いをいしたことなど、今も鮮明に会話の一つ一つが思い出されるほどです。私は、その男子からは、当時「親分」と呼ばれてました。下宿にノートを借りに来るだけでなく、風邪ひいたと言っては、ティッシュやみかんなど何でももらいに来ました。私は、その頃は、2階建ての一軒家に、最初の下宿で一緒だった同期の女性と2人で暮らしていたので、いつも、ことあるごとに色々な意味で頼られていました。 卒論は、「日本の外交政策決定過程における文化的要因―日本外交の文化人類学的考察―」だったかと思います。大学4年の夏頃から、ゼミの他の方々の就職が決まってきて、私もそろそろ卒業後の進路を考えなければならないと焦りました。当時、高度成長の波にのり、スポーツや余暇産業が良いのではと、YONEXを受けることにしました。就職課に色々と相談に行きましたが、イメージ的に良いなと思った大企業などは、親元からの通勤1時間以内の条件や、縁故採用だけだとか、当時は、女子の就職にまだまだ制約がある時代でした。そんな中、条件のないオープンに応募を募っているYONEXに焦点を絞りました。しかし、10月からの採用試験というので、他のゼミ生が、8月、9月に早々と就職を決め、卒論に集中している中、焦りのようなものも感じ、他にも、外資系の製薬会社、船舶会社、大手通信会社など、受けることにしました。しかし、私が希望した会社は、ほとんどが、「就職協定を守るので、11月から」というような感じでした。そんな中、YONEXは、10月から、書類選考、筆記試験、ディスカッション(モスクワオリンピックのボイコットを題材に、政治とスポーツに関するテーマ)などの試験がありました。ディスカッションは、ELIで仕込まれたので、得意分野でした。しかも英語でなく、日本語でいいのですから、水を得た魚のように、本領発揮!そして、次には、一次面接、役員面接、と勝ち進んでいき、やっと、採用となりました。 最初に出た採用内定はYONEXでしたが、11月の段階で、まだ、他に数社が筆記、一次が合格しており、更に、まだ先に面接試験が待っておりましたが、原先生の「一つ受かれば、もう良いじゃないか」という言葉に従って、YONEXに決めました。何度も試験の度に、会社に行っていたので、なんとなく既に愛着のような感情も芽生えていました。また、試験の度に会場で一緒になる他の受験者と顔見知りになっており、言葉を交わしたりしていたので、入社式の時には、既に3人ほどと友達になっておりました。そんな風に始まった社会人。社会人として1社目は、YONEXでした。 3.人生での良き出会いに導かれて (1)メンター:村松増美先生 私の最大のメンターは、月面着陸やサミットでも有名な同時通訳者で、サイマルアカデミーの校長、村松増美先生です。10歳の頃、TVでドキドキしながら見た、月面着陸の同時通訳者、あこがれていた先生と、大変親しくさせて頂くという幸運を得ました。 湯島にあるYONEXの東京本社には、群馬から約2時間かけて通いました。冬は、朝、まだ星が出ているうちに、家を出るような感じで、夜も結構残業が多かったので、8時くらいに退社するような日々でした。同期入社、大卒女子は、7人でしたが、皆仲良しでした。会社は新潟が本社で、スポーツ用品という先の成長性が見込める会社でしたが、自分にはあわないとすぐに感じました。しかし、石の上にも3年というので、3年は、我慢しようと思いました。結果、3年7か月をここで学びました。学校は、黙っていても、3年、4年で卒業になります。これまで、クラブ活動などでも、入ったら、途中でやめるのは、なんとなく、我慢のできないダメ人間のようで、途中でやめることはなかったのですが、しかし、会社は、卒業という節目が回ってこないので、自分で卒業するしかないと言い聞かせました。辞めるということに関して、罪悪感を感じ、ものすごく悩んでしまったからです。 YONEXにいる時から、通訳になりたいという夢に向かって、サイマルアカデミーに通っていました。YONEXを辞めてからは、更に、上級のクラスに通いました。そして、サイマルアカデミー主催のオーストラリア英語研修ツアーに参加しました。その頃、サイマルアカデミーに掲示されていた「オランダ博のコーディネーター募集」を見た年配のクラスメイトが、「あら、こういうの、あなたにむいてるんじゃないの」と進めてくれて、願書を出してみました。 数日後、衆議院議員中山太郎事務所から電話がありました。「オランダ博のコーディネーターにご応募ありがとうございました。こちらの職は、すでに決定してしまったのですが、良かったら、秘書兼コーディネーターとして、働きませんか。」つまり、中山太郎先生の国会事務所で、秘書として働かないかというオファーでした。 通称MM、村松増美先生のモットーは「よく学びよく遊べ」。英語の他、国際人としての心得やマナー、学ぶ姿勢、好奇心、人との付き合い方など、本当に多くを学びました。また、スキー仲間として、一緒に滑ったオーストラリア、ニュージーランド、踊りまくったディスコなど、忘れられない思い出がたくさんあります。ビジネスやアカデミアの一線で、国際的に活躍する著名な大先輩方、各国大使もご紹介下さって、これらの方方からも多くを学びました。 衆議院議員中山太郎先生の秘書として、国会事務所に勤務することに関し、少し戸惑っていた私は、丁度、オーストラリア研修旅行の帰りの飛行機の中で、MMに相談しました。「私の知る限り、中山先生は、クリーンで立派な方だから、やってみなさい」との助言を頂き、迷いなく挑戦することにしたのでした。中山太郎先生の秘書、コーディネーターとしては、脳死臓器移植法案ができるまでの過程を経験させて頂き、その他、昭和天皇崩御の時などは、大変貴重な経験をさせて頂きました。同時に忍耐も学びました。 その後、サイマルの先輩の紹介で、作曲家の都倉俊一氏が会長を務める企画会社、「クローバー21」に勤務することになりました。当時、都倉氏が、投資家を集め、長崎原爆をテーマにしたミュージカルを、ロンドンで制作する為に作った会社でしたが、なかなか制作に時間がかかり、その間、私は、文化事業の企画プロデュースを担当することになりました。この時の経験が今の私の仕事の根幹を作っていると言えます。 1991年、ソ連のミハイル・ゴルバチョフ大統領の来日を記念して開催された、ワールド・チルドレンズ・フェスティバルの制作スタッフとして、財団法人国際児童交流財団ウエーブ2千に出向することになりました。 このイベントは、当時のソビエト連邦から100人、米国から60人、東西ドイツから30人のこどもたちを其々招き、世界平和を願い、芸術文化で交流する趣旨で、海部首相はじめ、財団の会長、長嶋茂雄、副会長、岡本綾子、カール・ルイス、ブルック・シールズ、ペレ他、国内外から様々な著名人が出演したバブル期ならではの祭典でした。こどもサミットでは、ミハイル・ゴルバチョフ大統領と海部俊樹内閣総理大臣が、平和の指きりをするという演出で、これはTVでも大変話題になりました。この大規模なイベントを約2週間で準備し、徹夜続きの日々で、私は完全に燃え尽きてしまいました。その後、この財団から、新しく始まる事業を担当してもらえないかとお声がかかり、財団職員となりました。それは、「夢の学校」という事業でした。 実は、最初にこの事務所に打ち合わせで出向いた時に、「私もこういうところで、仕事がしたいな。どういう人が、こういうところで働けるのだろうか。」と事務所を出る時に、働いている人を横目で見ながら、心でつぶやいたのですが、 何気に心に思っただけで、それに関して、就職活動をしたり、お願いしたり、アピールしたことも、何もしなかったのですが、願ったことが上から降ってきたような感じでした。 (2)夢の学校 長嶋茂雄が会長を務める国際児童交流財団ウエーブ2千は、「こどもたちに夢と希望を与える活動を行う」文部省所管の財団で、私は、「夢の学校」の事業主事となりました。 これは、長嶋茂雄、カール・ルイス、宇宙飛行士テレシコーワ、音楽家や俳優など、夢を成し遂げた人と一緒に小学校に行き、児童と講師となる著名人が互いに夢について語り合う交流授業で、1年間に、全都道府県84校の小学校で開催しました。なるべく、そういう経験を得難いと思われる離島や、全校生徒5人の山の中の学校とか、色々な学校を回りました。講師の選定、交渉、現場での仕切り、学校の選定、交渉、ロケハン、ロードマネジメント、アテンド、メディア対応、スポンサー対応と、想像を絶する忙しさで、年がら年中、旅をしているような感じでしたが、この経験も、現在私の仕事に大変役立っています。 私は、これらの講師が、こどもたちに語る熱い言葉を毎回聞いていました。例えば、カール・ルイスは、「こどもの頃、家族皆走るのが速かったのに、自分だけ遅かった。けれども走るの大好きだったので、いつかは速く走れるようになりたいと思い続けた。Never Give Up」と話す訳です。長嶋さんは、「貧しかったので、野球のボールが買えず、母が、夜中に、手を針で刺して血だらけにしながら、ボールを縫って作ってくれた。だから、頑張った。」と。これらの話に、私自身も大変勇気づけられ、大切はことをたくさん学ばせてもらいました。 ところが、残念なことに、この財団は1年後には潰れてしまい、それで仕方なく独立したのです。ある日突然仕事場が無くなってしまったので、途方にくれました。それまでに頂いた名刺を整理し、「独立したので、宜しくお願いします。」とお願いに行くのですが、お願いしないと誰にもわからないし、独立したと言ってしまうと後には引けないし、とても怖くて孤独で不安な時期でしたが、何とか生き延びました。 (3)K & Associates Internationalとして独立 そうして作ったのが、K&Aです。自分一人では、何もできないけれど、皆さんに助けて頂いて何とかできるという思いからK&アソシエイツにしました。 最初の仕事は、「24時間TV愛は地球を救う」で、歌手のマルシアさんの初恋の相手を探して、ブラジルから日本に来てもらうコーディネートでした。いくら請求して良いのかもわからず、「安すぎる」と言われ、そのような仕事の料金の相場も、仕事先に教えてもらうような船出でした。 その後は、地方の文化施設の企画やコンサルティングの仕事の機会を得ました。「夢の学校」の経験が評価されての依頼でした。神奈川県の「地球市民かながわプラザ」が最初の案件でした。この仕事の延長戦上で、NPO法人 ちきゅう市民クラブを設立しました。 また、この頃は、地域活性化のコンサル、市民大学講座の企画など地方自治体の仕事を中心に、商工団体のコンサルなど、地方の仕事が多い時期でした。これら行政の仕事をし、単年度の予算の組み方、事業の在り方など多くの疑問を感じ、改めてそれらのことを学び、考えてみたいと思い、立教大学大学院文学研究科比較文明学専攻博士前期課程に入学します。「文部科学省研究費助成研究」に参加し、地域と文化、公共のマーケティングなどを研究し、引き続きソフトパワーを活用した地域活性化のコンサルの仕事をしていました。 「地球市民かながわプラザ」の仕事で多くの留学生を紹介してくれた友人である工学博士チョウドリ モーミンウッディンさんが独立する際、会社設立を手伝い、株式会社チョウドリ ソフトウエア サービスのマーケティングを担当することになりました。文化と化学工学は、全く違う分野であり、そこに関わる人も仕事の仕方も違うので、大変刺激的で、一からの勉強でしたが、視野が広がりました。クライアントのエンジニアは、私の専門が化学工学だと思っており、最初に出版社から出た出版物に、執筆者として私の名前が出たのは、化学工学の専門書でした。大学院の学位、比較文明学修士が取得できたのも、チョウドリさんの応援と助言のお陰で、大変感謝しています。 (4)ピッコロ・ヴァイオリン研究会 2006年、ピッコロ・ヴァイオリン奏者、グレゴリー・セドフとの出会いにより、自費で音楽家を海外から招き、コンサートツアーを主催するという無謀な事業を始めることになってしまいました。それは、私が信頼する電気通信大学教授早川正士先生からの紹介でしたが、私自身、セドフさんの奏でる美しい音楽と、更に、この楽器を制作した音響学者カーリン・ハッチンス博士の偉業に感動して、この楽器を広めたい、セドフさんのことを多くの人に知ってもらいたいという使命感に燃えてしまったからでした。 私が感動したように、多くの方の共感を得られると思っていたのですが、実際は、クラシック音楽界の保守的な高い壁に阻まれ、苦労の連続でした。困難な状況であればあるほど燃えてしまい、「社会の受容能力を高めたい。新しいことに挑戦する人を応援したい。」との思いを強くし、「ピッコロ・ヴァイオリン研究会」を立ち上げ、以後、毎年、自費でセドフさんを日本に招き演奏会を主催するようになりました。 この頃、NHK教育TV趣味悠々「かっこよく弾く簡単ピアノ講座」などピアニスト、斎藤雅広さんのマネジメントや、企業の周年事業企画の仕事もしていましたが、とにかく、セドフさんの自主公演と招へいにお金がかかり、すっかり貧乏になりました。この苦労はしばらく続きました。とにかく必死に、できることは何でもやりました。文系ですが、東京大学で開催された日本音響学会で発表したり、学会誌に投稿したり、ラジオやTVにも出ました。そして、2010年には、当時の皇后陛下美智子様が、演奏会にお越し下さるという夢のようなことが実現したのです。 これも、色々なご縁が重なってのことでした。これで、多くの方に知って頂き、次の年には、苦労なくツアーを開催できると期待したのですが、神様は、更なる試練を下さいました。 2011年3月、東日本大震災に見舞われました。その年は、6月にセドフさんのツアーを予定しておりました。 (2010年皇后陛下美智子様がお出まし下さったグレゴリー・セドフの演奏会) (演奏会には、東京国際大学理事長、学長、同窓会の皆様がお越しくださいました。) (5)もう一人のメンター:下村満子さん ジャーナリストの下村満子さんとの最初の出会いは、私が、自治体の市民大学講座などの講演会の企画をしていた際に、講演をお願いしたのが最初です。ちょっと色々あって、一旦決まった仕事だったのですが、ある誤解により、その後お断りされてしまったのです。困った私は、どうしようかと思いながらも、その時の気持ちや状況など、誤解が解けるよう、手紙を書いて送りました。その後、ご理解頂き、一度いらっしゃいということで、お目通りし、直に色々お話させて頂き、その後、親しくさせて頂くようになりました。 当時、下村さんは、医療法人の理事長をされており、VIP向けの健康サロンとして、岩月明シェフの「360Kカロリー、塩分2.2グラムのフルコースフランス料理」を紹介し、この料理を食べる会を開催して頂きました。その後は、ロイヤルパークホテルで、春夏秋冬の食材を活かし、年に4回、3年間一緒に開催しました。セドフさんの演奏も聴いて頂き、色々な方にご紹介下さいました。そして、2011年に下村さんの実家のある福島では、「下村満子生き方塾」が4月に開講予定で、その応援団に、私もセドフさんも加えて頂きました。 開塾を迎える準備をしていた3月、未曽有の大惨事が勃発しました。東日本大震災、津波、続く原発事故の3重苦が福島を襲ったのでした。下村さんは、事故直後、4トントラックに自らが乗り込み、食料や医療物資を届けるなどの活動をすぐさま始めました。 同時に、生き方塾はどうするのか。中止にするのか、延期にするのか。生き方塾の6月の会では、私が招聘する、また、同じく下村満子生き方塾の応援団にも加えて頂いているグレゴリー・セドフの演奏会も予定されていました。そもそも、そんな時に招聘できるのか。放射能を恐れて、海外に帰国する外交官や、来日をキャンセルする外来音楽家などが多い中、はたして、セドフさんは、日本に来てくれるのか。私が主催する東京公演も、芸大の学長他との共演の内容でしたが、キャンセルするか、実施するか、決断が迫られました。 とても厳しく悩ましく辛い時でした。省エネ、時差停電も敢行される中、夜の演奏会は、電力の消費というような批判もあり、また、多くの方は、外出を控えるようになった為、演奏会を開催しても、誰も来てくれないのでは、というような状況でした。 下村さんの生き方塾は、受講予定の福島の皆様が、「こんな時こそ、生き方塾が必要。なにか、心の支えがないと、生きていけない。前を向いて、進むために、是非開講して欲しい」と声を上げました。 その声に押され、下村満子生き方塾は、4月16日、余震が続く中開塾し、私も東京から参加致しました。その時、塾生の入塾の決意表明を聞き、更に私の母の「やれ~!」という言葉に背中を押され、また、グレゴリー・セドフがいち早く、「こんな時こそ、日本へ。皆さんの力になりたい」とのメッセージを寄せてくれ、招聘及びツアーを敢行することを決意しました。 福島での生き方塾での演奏会では、「ふるさと」や「会津磐梯山」などもレパートリーに加え、福島の皆様を元気づけました。会場では、すすり泣く声が聞こえました。この年は、埼玉に避難している双葉町の皆さんのところにも慰問演奏に行きました。その時、皆さんの失意の中での静かな葛藤、心の強さに、私もセドフさんも大変感銘を受けました。 前年に、ヤマハホールでの皇后陛下美智子様がお越し下さった演奏会に東京国際大学の理事長はじめ学長や同窓会役員の皆様がお越し下さったご縁で、2011年は、東京国際大学のオーディトリアムにて、オープンキャンパスの一環で、セドフの演奏会を開催して頂きました。コンサート後には、倉田信靖理事長とセドフの対談も行われ、私は、その司会進行及び通訳を務めました。 そして、この席上、グレゴリー・セドフは、これまでの日露交流活動や福島被災地支援などの功績をご憲章頂き、東京国際大学特命教授に任命頂きました。 (2012年6月東京国際大学オーディトリアムでの倉田理事長とグレゴリーセドフの対談 通訳川島佳子) TIUでのグレゴリーセドフ演奏会 最前列写真左は、倉田理事長、司会説明:川島 その後も、東京国際大学でのグレゴリー・セドフの演奏会は、2013年と2016年に開催されました。 下村さんの生き方塾との関わりもあって、私とセドフさんの福島を応援する活動は、2011年から現在まで続いています。実は、ロシアでも、3月に、「福島の為に祈る」というコンサートを行っており、2020年は、また、夢のようなことでしたが、この演奏会のオープニングに、上皇后陛下美智子様が詩の朗読をされている映像でご参加下さり、大変特別な演奏会となりました。これも、Something Greatなお導きとしか言いようがありません。 また、下村満子様には、色々な機会を与えて頂きました。その最たるものは、「ダライラマ法王14世と科学者との対話」の総合司会に、私を推薦して下さったことです。360Kカロリーのイベントでは、経費削減の為、企画から司会までも私が担当していたので、それを聞いていて推薦して下さったのでした。その結果、TV局のアナウンサーも差し置いて、何と、私がその大役を務めることになりました。2012年と2013年、2度仰せつかり、その都度、法王より、お経を織り込んだシルクの白いスカーフ、祈りの「カタ」を頂きました。これも、真に夢のような出来事でしたが、下村満子さんのお蔭と心より感謝申し上げます。 (左から2つ目のスクリーンの下に赤い着物を着て司会をしているのが川島) 4.人生は夢の学校-大学はインキュベーター- 人は何の為に生きるのでしょうか。誰もが人生でぶち当たる問いです。 私は、自分の人生を振り返り、人生の方向性は、小学生の時代にほぼ出来上がったように思います。その後の希望や思いも、その為に、例えば大谷翔平さんのように、人生設計ノートを書いたわけでもなく、掲げた目標に向かって、他のことを犠牲にして突き進むほどの努力をしてきた訳ではありませんが、なんとなく、思った方向へ導かれた気がします。おそらく、それは、私だけでなく、ほとんどの人がそうなんじゃないかと思います。 カール・ルイスが語った通り、思えば叶う。もちろん、人生は、良いことばかりでなく、むしろ、嫌なこと、避けたいこと、そして、ショッキングで立ち上がれないほどの苦しみの方が多いのだと実感します。しかし、人生は、その都度がレッスンであり、トレーニングであり、チャレンジだとも思うのです。 大学時代、多くのユニークな先輩や同輩に恵まれ、様々な経験をしました。厳しいゼミでは、多くの本を読み、本に読まれることなく、自分の頭で考え、他の人と違っても、自分の意見を言う訓練をさせられました。自分の信念や感受性に関しての自信があります。それは、音楽や洋舞踊を習った経験からも培われたものです。 世界同時パンデミックという未曽有の事態を、人類は体験しました。全てが初めてのことではありましたが、私は、2020年の2月頃から、なんとなく、変だなという違和感を抱いていました。世界が同時に同じことを行う。それに違和感を覚えました。ちょうど、3月11日、グレゴリー・セドフの「福島の為に祈る」というコンサートを行うために、ロシアへ行く前のことでした。私がロシアに入国した時、モスクワでも、サンクトペテルブルグでもマスクをしている人はほとんどいませんでした。私たちの演奏会、美智子様がビデオでご参加下さった演奏会も無事に終了し、イリーナ・ペレンとマラト・シェミウノフのバレエレッスンツア―に参加された小学生の関連の事業も、また、私どもが在サンクトペテルブルグ総領事館の職員をお招きしたバレエの公演も、無事に終了して、明後日帰国するという時に、ロシアでも、全ての劇場が閉鎖となり、日本からの入国もできなくなりました。私どもの予定が、無事に終了したとたんに、閉鎖です。危機一髪、ラッキーでした。日本への帰国もどうなるかと思いましたが、帰りの便では、マスクの使用が強制となりました。 帰国後のロックダウン、その間、私は、世界がどのように成り立っているのか、色々調べる時間をもらったように思いました。そして、その後の2022年のロシアのウクライナ侵攻。私は、ゴルバチョフの時代からロシア、当時はソ連でしたが、仕事で、多くかかわる機会を得ました。根室の北方四島交流施設ニホロの企画に参画し、ビザなし交流で島から来るロシア人の取材、また、元島民で返還運動に従事する日本人、根室、釧路の漁師の方々からもお話を伺いました。 また、ロシアのダイヤモンド会社アルロサの仕事にも関わり、その後は、ロシアの音楽家、バレエダンサーなどと家族のように付き合っています。2015年からは、毎年ロシアを訪れていました。最初に行く際には、日本では、ロシアは危険だとか、治安が悪いとか、モノが足りないとか、暗いとか、いろいろ言われていましたが、行ってみると、その差が大きすぎて夢のパラダイスのようでした。特に、音楽やバレエや美術が好きな私には、サンクトペテルブルグは、町中が美術館のようで、楽しくて感動にあふれ、宝くじが当たったら、ここに住みたいと思うほどでした。そして、観光国で、大勢の観光客が世界中から来ており、道行く人は、ほとんどがアイフォンを持っており、道を尋ねると、英語がわからない人でも、親切に調べて教えてくれます。日本の昭和の時代のような人情があります。 そして、毎年行くたびに、空港内は、高級なお土産物屋が増え、人々の暮らし、着るものも、高級デザートなど、高度成長している様に驚きました。ロシアにいる日本人を多く知っているので、彼らから色々聴いていることと、日本での報道が、全く違います。 そもそも、“プロジェクトフラ”を知っている人は、日本にどれくらいいるのでしょうか。日本では、偏ったことしか報道されず、大事なことが報道されないことが、わかってきました。 また、私は。2014年から、ロシアのバレエダンサーを招聘し、日本の若手プロ、青少年と共演する教育的事業を企画主催しており、2022年は、大変厳しい環境でしたが、ウクライナから避難してきたダンサーにも出演してもらいました。この時に感じたことは、ウクライナ人でも何人でもダンサーである限りは、踊る機会に踊りたいという事です。しかし、問題は、周りの人です、ロシア人が出る舞台で踊るのはいかがなものかとの非難がありました。また、観客も、本当は、多くの方は、芸術文化交流はどんな時でも大事であり、継続することで、平和に貢献できると思っていても、他人から、ロシアの見方をしていると見られたら困るというように、世間体ばかりを気にしている人が多いのです。 私は、原ゼミで、どんな時でも、自分が学び考えたことから、自分の意見が誰と違っても、そもそも全く同じであるはずはないのですが、はっきりと主張できることの重要性を学びました。権力も力も発言権もある人が、なぜか、それをする勇気がないのかという事を今回強く感じました。大学というアカデミアにあっても、多くの大学が、逃げ腰であることに失望致しました。大学こそ、どんな時でも、世論がいかようであっても、権力に負けず、自分の考えを持ち、事の大事さ、それを発言できる勇気を持った人材を育てるべきだと思いますし、大学は、率先して、そのような発信ができたはずです。 イラク侵攻後、イギリス首相が、イラク侵攻は間違いだったと発言した時、同盟国として、そのような発言は、いかがなものかと批判を受けましたが、同盟国だからこそ、間違いを正すべきなのではないでしょうか。 会社内で起こっている不正に関して、報告する人を保護する方向になっていますが、会社でも、内部告発を重要視し、保護するのであれば、国も同盟国の間違いを正すよう促進保護するべきだと思います。 そうしないと、世界は、良くなりません。 今は、金が権力になり、金が正義になってしまっています。本来の正義とはなんなのでしょうか。 私は、現在は、政治家の秘書でもありませんし、直接政治には関わっておりませんが、芸術文化を通して、国際理解や平和に貢献しているつもりです。実際、外国では、芸術文化は、上位の分野にカテゴライズされており、国家元首や、地位の高い方々にお目にかかれる機会も多いのです。たまに、日本の政治家から、それらの件で、意見を求められたりすることもあります。 2024年9月、私はロシア政府より招待を受け、サンクトペテブルグルで開催された“ユーラシア ウイメンズ フォーラム”に参加してきました。サンクトペテルブルグは、コロナ前と同様、世界中から観光客が訪れ、夜11時まで本屋も、ブティックも開いており、にぎわっていました。ヨーロッパのブランド品も売られており、物も豊富で、人々の暮らし向きも上昇しているように思いました。 フォーラムには、126か国から900人が招待されました。プーチン大統領もスピーチされ、元副首相、現国家院議長のヴァレンティナ・マトビエンコ閣下主催の晩さん会は、会場への入場前から延々と3時間以上、オーケストラの生演奏、ソリストたちのクラシック音楽、ジャス、ポップス、オペラ、民族音楽、舞踊、テクノとエンターテイメントのてんこ盛りで、豪華なフルコースの食事も、食べる暇もないくらい、魅力的で圧倒的でした。やはり、芸術文化による感動共有が、人々を結び付け、勇気や元気を与え、問題解決に向かわし得る大きな力があると実感致しました。私の仕事も、ものすごく大変で、毎回、もう辞めよう、続けられないと思うのですが、この貴重な体験を通じて、命ある限り、芸術文化交流・教育・福祉事業を継続していくことを決意できました。 サンクトペテルブルグでは、日本国総領事からも、公邸での昼食に、ご招待頂き、これまでずっと、どんな時も日露文化交流を継続してきたことに対しての、労いと感謝と敬意までものお言葉を賜り、今後への励ましも頂きました。更に、フォーラムに全日着物を着用して参加し、日本の魅力を伝えてくれたことにも感謝しますとのメールを頂きました。ロシアでの滞在で感じたことも、帰国後の日本でのこと、機会がありましたら、別途、詳細を報告したいと思います。 マトヴィエンコ閣下と、SPに囲まれてSPが撮影してくれました。 5.結びに 若い世代の方へのメッセージ ここには、ショックな出来事や自殺しようとさえ思った経験については、もちろん書いておりませんが、誰もが、そんな辛い経験をしていることと思います。 でも、例えば10回中9回その大変な状況を何とか頑張って乗り越えれば、ものすごいご褒美のような夢のような出来事が1回くらい巡って来るものです。ひどい出来事で、もう生きていけないと思った時、私が色々考えて自分なりに結論づけたのは、「神様は、全ての人に、その人にあった最高の人生を用意してくれている」ということです。それを生かすも殺すも、その人次第。そう思って、受け入れて、それが自分の為になることと思えば、何とかやり過ごせます。 母校館林女子高校の創立90周年記念の式典で、在校生への講演の機会を得た際、これからを生きる若い世代に届けたメッセージを、まとめにしたいと思います。確か、TIUニュースで取材して頂いた際にもお話したことですが、 第一に、出会いを大切にしようということです。それは、人も機会も含まれます。大変なことも縁があれば引き受けましょう。大変なことは、誰だって嫌です。それでも、それを経験することで必ず成長できます。今までできなかったこと、不可能だと思ってたことが可能になるのです。大変なことを乗り越えられた、その成功体験を重ねることで、自分のキャパシティーをどんどん大きくすることができるのです。 ピッコロ・ヴァイオリン奏者のセドフさんを自費で招いてツアーをするということは、ほとんど不可能と思われることでしたが、今では、1年の間に、セドフさんに加え、ロシアのバレエダンサー、イリーナ・ペレンとマラト・シェミウノフ、メキシコのピアニスト、アレハンドロ・ベラ、オーストリアのヴァイオリニスト、ヨハネス・フライシュマン、ドイツのチェリスト、ユリウス・ベルガー、ピアニスト、オリバー・ケルンを招へいし、其々のツアーを行っています。 第二に、若い方に強く言いたいのは、失敗を恐れるなということです。考えてみて下さい。野球で3割打者って凄いんですよね。3割って事は、10回に7回は失敗してるんです。それでも、それってすごいことなんです。そう思うと、元気が出てきませんか。勇気が湧いてきませんか。人生は、夢を見つける、あるいは、追い求めて実現する学校なのですから、学校では、いくらでもトライ&エラーが許されるのです。特に、学生時代は、失敗を恐れずに色々なことにチェレンジして欲しいと思います。大学時代は、何でも挑戦して経験して欲しいと思います。その時の嬉しいことも、楽しいことも、苦しみも悲しみも、全てが成長のバネになります。 そして、私の好きな言葉を贈ります。「できないのは途中で止めてしまうから。」ピアノを習ったおかげで、「できるまでやることがやること」だと学びました。つまり、やり続ければ、必ずいつかできるようになるのです。カール・ルイスの言葉、「思い続ければ、いつか必ず叶う。Never give up 」です。「楽しんで、やり続ける。思い続ける」。其々の、ペースで、やればいいのです。 人との出会い、この広い宇宙にあって、天文学的な確率で、人生で出会う人たち。必然なのか、偶然なのかはわかりませんが、何らかの意味があると思います。もとを辿れば、人類は皆、兄弟であり親戚です。それぞれの人生に、環境に、出会いに感謝しつつ、この夢の学校で学び、トライ&エラーを楽しくやっていきましょう。 より良い種を生み出すために。無限の可能性に向かって、共に人生という学校で学び続け、夢の実現、更新の為に、挑戦し続けようではありませんか。 川島企画プロデュースバレエ芸術文化交流・教育事業(2014年より継続) 川島企画プロデュース、国際芸術交流・教育・福祉事業 グレゴリー・セドフ「Arts for All2024誰も輝くカラフルコンサートーピッコロヴァイオリンが歌い・踊る」終演後の集合写真 目の不自由な演奏家との共演のプロジェクト K&Associates International https://k-and-a-intl.com/ https://www.facebook.com/KeikoKawashima.KandAssociates.International 川島佳子 (KAWASHIMA,Keiko) kkawashima@cssimc.com (川島佳子さんのプロフィール) 群馬県館林市出身 1982年3月東京国際大学卒業 教養学部国際関係学科 原彬久ゼミ ELI K & Associates International代表 株式会社チョウドリ ソフトウエア サービス取締役 特定非営利活動法人ちきゅう市民クラブ 事務局長他 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
川島佳子さん(1982年卒業 教養学部国際関係学科 原彬久ゼミ ELI)2025年1月1日1.はじめに 「789●△×◎」東京国際大学(当時は国際商科大学教養学部)在籍時の学籍番号、今でも鮮明に覚えています。 私は、現在、芸術文化を核とした国際交流や教育、福祉など、社会貢献事業の企画プロデュースをメインに、地域活性化や企業のプロモーションを提案しています。地域の文化施設の活性化と芸術文化教育事業、国際交流事業等による商圏の拡大、新規顧客の呼び込み、地域の次世代の育成、地域からの発信等を通し、文化と経済の融合を目指す地域活性化事業等を企画しています。 海外から演奏家やバレエダンサーを招へいし、大使館や大使公邸でのコンサートの他、青少年や若手プロに同じステージで共演する機会を提供し、彼らの夢の後押しをする教育事業が、実に驚くほどの成果をあげています。これまで参加された小学生~高校生は、現在、世界中のバレエ団で活躍し、中には、映画女優となって、日本アカデミー賞新人賞を獲得したり、ミスワールド日本代表になった人も、10万人のフォロワーをもつYOUTUBERになったりと夫々が多方面で、実に生き生きと挑戦を続けています。 彼らは、まだ始まったばかりの「夢の学校」という人生で、より多くを経験し、学び、チャレンジし、頑張れば、夢は実現するという事を身をもって学んでいるのです。 2.大学までの道 私は、群馬県館林市の出身で、小学校に入る前から、ヤマハの音楽教室に通ったり、洋舞踊を習ったり、活発で、好奇心旺盛なこども時代を過ごしました。 幼少期は、母の影響を多く受けました。母は、東京から群馬に疎開して来た人で、音楽や芸術に造詣が深く、その影響もあって、私も小学校入学前から、オルガン、ピアノを習いました。練習が嫌でサボり癖のある私に、母はスパルタで厳かったのですが、今では大変感謝しています。楽器は、練習しないと絶対に弾けないので、努力体質が身につきます。「やる」という意味は、単に時間を過ごすだけでなく、「できるようになるまで」が、「やる」という意味だと身をもって学べるのです。 また、洋舞踊は、思い切り身体を使って表現するのが楽しく、中学では体操部に入り、県大会に出場するほど頑張りました。この経験も、今、ロシアのバレエダンサー、イリーナ・ペレンとマラト・シェミウノフのプロデュースやバレエの教育事業を企画するのに、大変役立っています。 ピアノの先生のお父さんは、日本キリスト教団の牧師さんでもあり、日曜学校にも通いました。毎週聖書を読み、賛美歌を歌い、クリスマスには、劇をやったり、色々な家を回って、玄関先でクリスマスキャロルを歌ったり、夏はキャンプなどもしました。そんな経験から、先生のご家族と大変親しくしておりました。 ピアノの先生は、私が小学校4年生の時に、布教活動などの為に、カナダに移住することになりました。それから、先生との文通が始まりました。日本では、おとなしく、控えめな先生で、けっして社交的とは言い難かったのですが、その先生が、友人たちと車で、カナダを横断したり、バンクーバーの夕日の中をクルージングしている写真などが送られてきて、異国の生活文化に接し、大変刺激的で、外国へのあこがれを強くしました。 先生の父である、牧師さんは、英語の塾もされており、私が、小学校5年生になると、その英語塾へ入会のご案内が送られてきたので、何の疑問もなく、入塾しました。行ってみると、私以外の参加者は、皆6年生でした。中学から始まる英語の予習として、6年生にのみ、案内したようですが、私も6年生だと、牧師さんが勘違いしてしまったようでした。 6年生の先輩の中で、ただ一人の5年生でした。とにかく、私は、ピアノの先生との文通で芽生えた海外へのあこがれから、その為に、英語が不可欠であり、英語を学ぶことが楽しくて仕方なかったのです。そして、その結果、自分で言うのは何ですが、年下の私が、一番できてしまって、嬉しい反面、先輩方に悪い気がして、課題のペーパーができた順に提出して帰るという時は、出来上がっていても、一番最後に提出したりと、こどもながらに気を使っていました。 翌年も、今度は、同期の6年生たちと一緒にまた、同じコースを受けました。中学入学前に2年英語をやっていたので、中学での授業は、楽々すいすいでした。 ピアノの先生との文通も続き、カナダの美しい自然や、ホームパーティーなどの楽しそうな写真や絵ハガキは、私の外国へ行ってみたいという思いを年々強くさせました。1969年、アポロ11号月面着陸のテレビ中継以来、通訳という仕事が脚光を浴びていました。サイマルアカデミーの西山千さん、國広正雄さん、村松増美さん、鳥飼久美子さん、TBSのニュースキャスターを務めた浅野輔さんなどに、あこがれるようになりました。 母は、「女は、勉強なんかできなくても良い。学校なんて、どこでも同じ。」と公言しており、中学の先生は、隣の県の高校への進学を進めましたが、家から自転車で通えるところ、ということで、群馬県立館林女子高等学校に進みました。相変わらず、英語は好きで、得意でした。英語と数学が得意でした。クラブは、マンドリンギター部に所属し、指揮者として、多くのコンサートに出演しました。ちょうど、中学生の頃、館林市文化会館が建設され、開館当時は、連日、群馬交響楽団の演奏会や、劇団四季のミュージカルなど、文化会館に行くのが楽しみでした。そして、その同じ舞台で、自分も発表会でピアノを演奏したり、踊ったり、指揮をする機会に恵まれました。 旺文社のヨーロッパ英語研修ツアーの情報を見つけ、過去の参加者の感想などを読んでいるうちに、私も行きたくなり、無理だろうなと思いながらも、その思いがだんだん募って、ついに、母に相談しました。高校2年の時でした。 夏休みに、約3週間、イギリスのラムスゲートで、ホームスティしながら、外国人向けの英語学校に通い、その後、フランス、スイス、イタリアへの旅行がついているツアーでした。蛍雪時代や辞書などの出版社として、当時は、最大手だった旺文社が、中学生、高校生を中心対象として企画している語学研修ツアーで、親の心配を軽減するために、4人から6人のグループに、大人が一人つくという。旺文社が株主になっている、TV朝日の中堅社員のサバティカルか、海外のTV局の視察などもかねて、こどものリーダーとして、ついてくれるという体制で、本人も親も安心して、海外に出してもらえることになりました。 当時は、まだ外国へ行くのは珍しく、特に、私が住む群馬県館林市では、ましてや家族が同行せずに、高校生が一人で約1か月を一人海外へ行くというのは、大きな冒険でしたし、心配もされました。 担任の先生は、英語の先生だったので、よくわかってもらえるかと思いましたが、そうでもなく、校長先生と教頭先生とも面談をし、まるで、青山光子が、クーデンホーフ伯爵との結婚の為、ヨーロッパに渡る際、皇后陛下に謁見し、「海外にあっても、日本女子としての誇りと自覚を胸に、行動するように」とのお言葉を頂いたように、私も、校長先生から、「海外に行っても、館女生としての、自覚をもって、品行方正に勤めるように」というような言葉を賜りました。真面目な私は、イギリス到着後から、毎週、校長先生宛に、絵葉書を送りました。 高校時代には、QUEENなどロックグループのファンクラブに入ったり、武道館でのコンサートに行ったり、ロックマガジンなどを購読したりしました。またその頃、加藤タキさんが、コーディネーターという職業として、脚光を浴びており、私も、英語を使って、ロックグループの取材やコーディネートなどをする仕事につきたいとも思うようになりました。 そんな高校時代を過ごし、いよいよ、高校2年の冬頃から、進路を考えるようになりました。ピアノの先生や音楽の先生は、音大に行くことを進めてくれましたし、洋舞踊も習っていたので、ダンスの方面に進むか、また、数学も結構得意だったので、担任の先生などは、全科目受験の公立大学の教育学部などに行って、教師になるのが良いのではないかとか。。。 しかし、私の中では、通訳者、あるいは、コーディネーターになりたいという思いもあって、浅野輔先生と國広正雄先生のいる国際商科大学教養学部を受験しようと思いました。英検2級をもっていたので、推薦入学を受けました。そして、その他、ミッション系の大学も受験しました。 残念ながら、ミッション系の大学には、受からなかったのですが、その別の大学で見かけたファッショナブルな方を、国際商科大学の入学式で見かけ、声を上げそうに、嬉しくなりました。しかも同じクラス。とても仲良くなり、彼女の新婚旅行に同行するくらいの親友になりました。 大学時代は、通訳を目指していたくらいですから、英語のクラブに入りました。英語のクラブは、2つありましたが、英語で話す中身も学ぶというELI(English Language Institute)に入りました。毎日昼休みには、NHKのラジオ講座を先輩と予習復習し、放課後には、政治や経済の本などを読み、その内容を英語でディスカッションやディベートをするための論理的な思考を、英語と共に学びました。厳しく、かつユニークな先輩方に恵まれ、刺激的で、楽しく充実した日々でした。週末にも、KUEL関東学生英語会連盟等の大会(ディベートの試合等)などのイベントも多く、アルバイトなどする時間は、ありませんでした。 3年になって、国際関係学科を選び、ゼミは、国際政治、国際関係論の原彬久先生にご指導頂きました。これまたこのゼミの同期及び先輩方が、大変ユニークな方々で、しかし、とてつもなく優秀で、家族的な雰囲気の中、自主的なサブゼミ、本ゼミでも、多くの本を読み、自分の頭で考え、自分の意見を言う訓練をさせてもらった時期でした。恐れず、ひるまず、自分の考えをまとめ、発表する。問題提起をして、議論をする。そんな日々でした。しかし、秋霞祭などでは、ジャガイモのお店を出したり、皆で、色々な体験を共有しました。今思えば、本当に多くを経験し、鍛えられ、協力し、また、卒業できないかもしれない仲間を助けようと色々な応援や手伝いをいしたことなど、今も鮮明に会話の一つ一つが思い出されるほどです。私は、その男子からは、当時「親分」と呼ばれてました。下宿にノートを借りに来るだけでなく、風邪ひいたと言っては、ティッシュやみかんなど何でももらいに来ました。私は、その頃は、2階建ての一軒家に、最初の下宿で一緒だった同期の女性と2人で暮らしていたので、いつも、ことあるごとに色々な意味で頼られていました。 卒論は、「日本の外交政策決定過程における文化的要因―日本外交の文化人類学的考察―」だったかと思います。大学4年の夏頃から、ゼミの他の方々の就職が決まってきて、私もそろそろ卒業後の進路を考えなければならないと焦りました。当時、高度成長の波にのり、スポーツや余暇産業が良いのではと、YONEXを受けることにしました。就職課に色々と相談に行きましたが、イメージ的に良いなと思った大企業などは、親元からの通勤1時間以内の条件や、縁故採用だけだとか、当時は、女子の就職にまだまだ制約がある時代でした。そんな中、条件のないオープンに応募を募っているYONEXに焦点を絞りました。しかし、10月からの採用試験というので、他のゼミ生が、8月、9月に早々と就職を決め、卒論に集中している中、焦りのようなものも感じ、他にも、外資系の製薬会社、船舶会社、大手通信会社など、受けることにしました。しかし、私が希望した会社は、ほとんどが、「就職協定を守るので、11月から」というような感じでした。そんな中、YONEXは、10月から、書類選考、筆記試験、ディスカッション(モスクワオリンピックのボイコットを題材に、政治とスポーツに関するテーマ)などの試験がありました。ディスカッションは、ELIで仕込まれたので、得意分野でした。しかも英語でなく、日本語でいいのですから、水を得た魚のように、本領発揮!そして、次には、一次面接、役員面接、と勝ち進んでいき、やっと、採用となりました。 最初に出た採用内定はYONEXでしたが、11月の段階で、まだ、他に数社が筆記、一次が合格しており、更に、まだ先に面接試験が待っておりましたが、原先生の「一つ受かれば、もう良いじゃないか」という言葉に従って、YONEXに決めました。何度も試験の度に、会社に行っていたので、なんとなく既に愛着のような感情も芽生えていました。また、試験の度に会場で一緒になる他の受験者と顔見知りになっており、言葉を交わしたりしていたので、入社式の時には、既に3人ほどと友達になっておりました。そんな風に始まった社会人。社会人として1社目は、YONEXでした。 3.人生での良き出会いに導かれて (1)メンター:村松増美先生 私の最大のメンターは、月面着陸やサミットでも有名な同時通訳者で、サイマルアカデミーの校長、村松増美先生です。10歳の頃、TVでドキドキしながら見た、月面着陸の同時通訳者、あこがれていた先生と、大変親しくさせて頂くという幸運を得ました。 湯島にあるYONEXの東京本社には、群馬から約2時間かけて通いました。冬は、朝、まだ星が出ているうちに、家を出るような感じで、夜も結構残業が多かったので、8時くらいに退社するような日々でした。同期入社、大卒女子は、7人でしたが、皆仲良しでした。会社は新潟が本社で、スポーツ用品という先の成長性が見込める会社でしたが、自分にはあわないとすぐに感じました。しかし、石の上にも3年というので、3年は、我慢しようと思いました。結果、3年7か月をここで学びました。学校は、黙っていても、3年、4年で卒業になります。これまで、クラブ活動などでも、入ったら、途中でやめるのは、なんとなく、我慢のできないダメ人間のようで、途中でやめることはなかったのですが、しかし、会社は、卒業という節目が回ってこないので、自分で卒業するしかないと言い聞かせました。辞めるということに関して、罪悪感を感じ、ものすごく悩んでしまったからです。 YONEXにいる時から、通訳になりたいという夢に向かって、サイマルアカデミーに通っていました。YONEXを辞めてからは、更に、上級のクラスに通いました。そして、サイマルアカデミー主催のオーストラリア英語研修ツアーに参加しました。その頃、サイマルアカデミーに掲示されていた「オランダ博のコーディネーター募集」を見た年配のクラスメイトが、「あら、こういうの、あなたにむいてるんじゃないの」と進めてくれて、願書を出してみました。 数日後、衆議院議員中山太郎事務所から電話がありました。「オランダ博のコーディネーターにご応募ありがとうございました。こちらの職は、すでに決定してしまったのですが、良かったら、秘書兼コーディネーターとして、働きませんか。」つまり、中山太郎先生の国会事務所で、秘書として働かないかというオファーでした。 通称MM、村松増美先生のモットーは「よく学びよく遊べ」。英語の他、国際人としての心得やマナー、学ぶ姿勢、好奇心、人との付き合い方など、本当に多くを学びました。また、スキー仲間として、一緒に滑ったオーストラリア、ニュージーランド、踊りまくったディスコなど、忘れられない思い出がたくさんあります。ビジネスやアカデミアの一線で、国際的に活躍する著名な大先輩方、各国大使もご紹介下さって、これらの方方からも多くを学びました。 衆議院議員中山太郎先生の秘書として、国会事務所に勤務することに関し、少し戸惑っていた私は、丁度、オーストラリア研修旅行の帰りの飛行機の中で、MMに相談しました。「私の知る限り、中山先生は、クリーンで立派な方だから、やってみなさい」との助言を頂き、迷いなく挑戦することにしたのでした。中山太郎先生の秘書、コーディネーターとしては、脳死臓器移植法案ができるまでの過程を経験させて頂き、その他、昭和天皇崩御の時などは、大変貴重な経験をさせて頂きました。同時に忍耐も学びました。 その後、サイマルの先輩の紹介で、作曲家の都倉俊一氏が会長を務める企画会社、「クローバー21」に勤務することになりました。当時、都倉氏が、投資家を集め、長崎原爆をテーマにしたミュージカルを、ロンドンで制作する為に作った会社でしたが、なかなか制作に時間がかかり、その間、私は、文化事業の企画プロデュースを担当することになりました。この時の経験が今の私の仕事の根幹を作っていると言えます。 1991年、ソ連のミハイル・ゴルバチョフ大統領の来日を記念して開催された、ワールド・チルドレンズ・フェスティバルの制作スタッフとして、財団法人国際児童交流財団ウエーブ2千に出向することになりました。 このイベントは、当時のソビエト連邦から100人、米国から60人、東西ドイツから30人のこどもたちを其々招き、世界平和を願い、芸術文化で交流する趣旨で、海部首相はじめ、財団の会長、長嶋茂雄、副会長、岡本綾子、カール・ルイス、ブルック・シールズ、ペレ他、国内外から様々な著名人が出演したバブル期ならではの祭典でした。こどもサミットでは、ミハイル・ゴルバチョフ大統領と海部俊樹内閣総理大臣が、平和の指きりをするという演出で、これはTVでも大変話題になりました。この大規模なイベントを約2週間で準備し、徹夜続きの日々で、私は完全に燃え尽きてしまいました。その後、この財団から、新しく始まる事業を担当してもらえないかとお声がかかり、財団職員となりました。それは、「夢の学校」という事業でした。 実は、最初にこの事務所に打ち合わせで出向いた時に、「私もこういうところで、仕事がしたいな。どういう人が、こういうところで働けるのだろうか。」と事務所を出る時に、働いている人を横目で見ながら、心でつぶやいたのですが、 何気に心に思っただけで、それに関して、就職活動をしたり、お願いしたり、アピールしたことも、何もしなかったのですが、願ったことが上から降ってきたような感じでした。 (2)夢の学校 長嶋茂雄が会長を務める国際児童交流財団ウエーブ2千は、「こどもたちに夢と希望を与える活動を行う」文部省所管の財団で、私は、「夢の学校」の事業主事となりました。 これは、長嶋茂雄、カール・ルイス、宇宙飛行士テレシコーワ、音楽家や俳優など、夢を成し遂げた人と一緒に小学校に行き、児童と講師となる著名人が互いに夢について語り合う交流授業で、1年間に、全都道府県84校の小学校で開催しました。なるべく、そういう経験を得難いと思われる離島や、全校生徒5人の山の中の学校とか、色々な学校を回りました。講師の選定、交渉、現場での仕切り、学校の選定、交渉、ロケハン、ロードマネジメント、アテンド、メディア対応、スポンサー対応と、想像を絶する忙しさで、年がら年中、旅をしているような感じでしたが、この経験も、現在私の仕事に大変役立っています。 私は、これらの講師が、こどもたちに語る熱い言葉を毎回聞いていました。例えば、カール・ルイスは、「こどもの頃、家族皆走るのが速かったのに、自分だけ遅かった。けれども走るの大好きだったので、いつかは速く走れるようになりたいと思い続けた。Never Give Up」と話す訳です。長嶋さんは、「貧しかったので、野球のボールが買えず、母が、夜中に、手を針で刺して血だらけにしながら、ボールを縫って作ってくれた。だから、頑張った。」と。これらの話に、私自身も大変勇気づけられ、大切はことをたくさん学ばせてもらいました。 ところが、残念なことに、この財団は1年後には潰れてしまい、それで仕方なく独立したのです。ある日突然仕事場が無くなってしまったので、途方にくれました。それまでに頂いた名刺を整理し、「独立したので、宜しくお願いします。」とお願いに行くのですが、お願いしないと誰にもわからないし、独立したと言ってしまうと後には引けないし、とても怖くて孤独で不安な時期でしたが、何とか生き延びました。 (3)K & Associates Internationalとして独立 そうして作ったのが、K&Aです。自分一人では、何もできないけれど、皆さんに助けて頂いて何とかできるという思いからK&アソシエイツにしました。 最初の仕事は、「24時間TV愛は地球を救う」で、歌手のマルシアさんの初恋の相手を探して、ブラジルから日本に来てもらうコーディネートでした。いくら請求して良いのかもわからず、「安すぎる」と言われ、そのような仕事の料金の相場も、仕事先に教えてもらうような船出でした。 その後は、地方の文化施設の企画やコンサルティングの仕事の機会を得ました。「夢の学校」の経験が評価されての依頼でした。神奈川県の「地球市民かながわプラザ」が最初の案件でした。この仕事の延長戦上で、NPO法人 ちきゅう市民クラブを設立しました。 また、この頃は、地域活性化のコンサル、市民大学講座の企画など地方自治体の仕事を中心に、商工団体のコンサルなど、地方の仕事が多い時期でした。これら行政の仕事をし、単年度の予算の組み方、事業の在り方など多くの疑問を感じ、改めてそれらのことを学び、考えてみたいと思い、立教大学大学院文学研究科比較文明学専攻博士前期課程に入学します。「文部科学省研究費助成研究」に参加し、地域と文化、公共のマーケティングなどを研究し、引き続きソフトパワーを活用した地域活性化のコンサルの仕事をしていました。 「地球市民かながわプラザ」の仕事で多くの留学生を紹介してくれた友人である工学博士チョウドリ モーミンウッディンさんが独立する際、会社設立を手伝い、株式会社チョウドリ ソフトウエア サービスのマーケティングを担当することになりました。文化と化学工学は、全く違う分野であり、そこに関わる人も仕事の仕方も違うので、大変刺激的で、一からの勉強でしたが、視野が広がりました。クライアントのエンジニアは、私の専門が化学工学だと思っており、最初に出版社から出た出版物に、執筆者として私の名前が出たのは、化学工学の専門書でした。大学院の学位、比較文明学修士が取得できたのも、チョウドリさんの応援と助言のお陰で、大変感謝しています。 (4)ピッコロ・ヴァイオリン研究会 2006年、ピッコロ・ヴァイオリン奏者、グレゴリー・セドフとの出会いにより、自費で音楽家を海外から招き、コンサートツアーを主催するという無謀な事業を始めることになってしまいました。それは、私が信頼する電気通信大学教授早川正士先生からの紹介でしたが、私自身、セドフさんの奏でる美しい音楽と、更に、この楽器を制作した音響学者カーリン・ハッチンス博士の偉業に感動して、この楽器を広めたい、セドフさんのことを多くの人に知ってもらいたいという使命感に燃えてしまったからでした。 私が感動したように、多くの方の共感を得られると思っていたのですが、実際は、クラシック音楽界の保守的な高い壁に阻まれ、苦労の連続でした。困難な状況であればあるほど燃えてしまい、「社会の受容能力を高めたい。新しいことに挑戦する人を応援したい。」との思いを強くし、「ピッコロ・ヴァイオリン研究会」を立ち上げ、以後、毎年、自費でセドフさんを日本に招き演奏会を主催するようになりました。 この頃、NHK教育TV趣味悠々「かっこよく弾く簡単ピアノ講座」などピアニスト、斎藤雅広さんのマネジメントや、企業の周年事業企画の仕事もしていましたが、とにかく、セドフさんの自主公演と招へいにお金がかかり、すっかり貧乏になりました。この苦労はしばらく続きました。とにかく必死に、できることは何でもやりました。文系ですが、東京大学で開催された日本音響学会で発表したり、学会誌に投稿したり、ラジオやTVにも出ました。そして、2010年には、当時の皇后陛下美智子様が、演奏会にお越し下さるという夢のようなことが実現したのです。 これも、色々なご縁が重なってのことでした。これで、多くの方に知って頂き、次の年には、苦労なくツアーを開催できると期待したのですが、神様は、更なる試練を下さいました。 2011年3月、東日本大震災に見舞われました。その年は、6月にセドフさんのツアーを予定しておりました。 (2010年皇后陛下美智子様がお出まし下さったグレゴリー・セドフの演奏会) (演奏会には、東京国際大学理事長、学長、同窓会の皆様がお越しくださいました。) (5)もう一人のメンター:下村満子さん ジャーナリストの下村満子さんとの最初の出会いは、私が、自治体の市民大学講座などの講演会の企画をしていた際に、講演をお願いしたのが最初です。ちょっと色々あって、一旦決まった仕事だったのですが、ある誤解により、その後お断りされてしまったのです。困った私は、どうしようかと思いながらも、その時の気持ちや状況など、誤解が解けるよう、手紙を書いて送りました。その後、ご理解頂き、一度いらっしゃいということで、お目通りし、直に色々お話させて頂き、その後、親しくさせて頂くようになりました。 当時、下村さんは、医療法人の理事長をされており、VIP向けの健康サロンとして、岩月明シェフの「360Kカロリー、塩分2.2グラムのフルコースフランス料理」を紹介し、この料理を食べる会を開催して頂きました。その後は、ロイヤルパークホテルで、春夏秋冬の食材を活かし、年に4回、3年間一緒に開催しました。セドフさんの演奏も聴いて頂き、色々な方にご紹介下さいました。そして、2011年に下村さんの実家のある福島では、「下村満子生き方塾」が4月に開講予定で、その応援団に、私もセドフさんも加えて頂きました。 開塾を迎える準備をしていた3月、未曽有の大惨事が勃発しました。東日本大震災、津波、続く原発事故の3重苦が福島を襲ったのでした。下村さんは、事故直後、4トントラックに自らが乗り込み、食料や医療物資を届けるなどの活動をすぐさま始めました。 同時に、生き方塾はどうするのか。中止にするのか、延期にするのか。生き方塾の6月の会では、私が招聘する、また、同じく下村満子生き方塾の応援団にも加えて頂いているグレゴリー・セドフの演奏会も予定されていました。そもそも、そんな時に招聘できるのか。放射能を恐れて、海外に帰国する外交官や、来日をキャンセルする外来音楽家などが多い中、はたして、セドフさんは、日本に来てくれるのか。私が主催する東京公演も、芸大の学長他との共演の内容でしたが、キャンセルするか、実施するか、決断が迫られました。 とても厳しく悩ましく辛い時でした。省エネ、時差停電も敢行される中、夜の演奏会は、電力の消費というような批判もあり、また、多くの方は、外出を控えるようになった為、演奏会を開催しても、誰も来てくれないのでは、というような状況でした。 下村さんの生き方塾は、受講予定の福島の皆様が、「こんな時こそ、生き方塾が必要。なにか、心の支えがないと、生きていけない。前を向いて、進むために、是非開講して欲しい」と声を上げました。 その声に押され、下村満子生き方塾は、4月16日、余震が続く中開塾し、私も東京から参加致しました。その時、塾生の入塾の決意表明を聞き、更に私の母の「やれ~!」という言葉に背中を押され、また、グレゴリー・セドフがいち早く、「こんな時こそ、日本へ。皆さんの力になりたい」とのメッセージを寄せてくれ、招聘及びツアーを敢行することを決意しました。 福島での生き方塾での演奏会では、「ふるさと」や「会津磐梯山」などもレパートリーに加え、福島の皆様を元気づけました。会場では、すすり泣く声が聞こえました。この年は、埼玉に避難している双葉町の皆さんのところにも慰問演奏に行きました。その時、皆さんの失意の中での静かな葛藤、心の強さに、私もセドフさんも大変感銘を受けました。 前年に、ヤマハホールでの皇后陛下美智子様がお越し下さった演奏会に東京国際大学の理事長はじめ学長や同窓会役員の皆様がお越し下さったご縁で、2011年は、東京国際大学のオーディトリアムにて、オープンキャンパスの一環で、セドフの演奏会を開催して頂きました。コンサート後には、倉田信靖理事長とセドフの対談も行われ、私は、その司会進行及び通訳を務めました。 そして、この席上、グレゴリー・セドフは、これまでの日露交流活動や福島被災地支援などの功績をご憲章頂き、東京国際大学特命教授に任命頂きました。 (2012年6月東京国際大学オーディトリアムでの倉田理事長とグレゴリーセドフの対談 通訳川島佳子) TIUでのグレゴリーセドフ演奏会 最前列写真左は、倉田理事長、司会説明:川島 その後も、東京国際大学でのグレゴリー・セドフの演奏会は、2013年と2016年に開催されました。 下村さんの生き方塾との関わりもあって、私とセドフさんの福島を応援する活動は、2011年から現在まで続いています。実は、ロシアでも、3月に、「福島の為に祈る」というコンサートを行っており、2020年は、また、夢のようなことでしたが、この演奏会のオープニングに、上皇后陛下美智子様が詩の朗読をされている映像でご参加下さり、大変特別な演奏会となりました。これも、Something Greatなお導きとしか言いようがありません。 また、下村満子様には、色々な機会を与えて頂きました。その最たるものは、「ダライラマ法王14世と科学者との対話」の総合司会に、私を推薦して下さったことです。360Kカロリーのイベントでは、経費削減の為、企画から司会までも私が担当していたので、それを聞いていて推薦して下さったのでした。その結果、TV局のアナウンサーも差し置いて、何と、私がその大役を務めることになりました。2012年と2013年、2度仰せつかり、その都度、法王より、お経を織り込んだシルクの白いスカーフ、祈りの「カタ」を頂きました。これも、真に夢のような出来事でしたが、下村満子さんのお蔭と心より感謝申し上げます。 (左から2つ目のスクリーンの下に赤い着物を着て司会をしているのが川島) 4.人生は夢の学校-大学はインキュベーター- 人は何の為に生きるのでしょうか。誰もが人生でぶち当たる問いです。 私は、自分の人生を振り返り、人生の方向性は、小学生の時代にほぼ出来上がったように思います。その後の希望や思いも、その為に、例えば大谷翔平さんのように、人生設計ノートを書いたわけでもなく、掲げた目標に向かって、他のことを犠牲にして突き進むほどの努力をしてきた訳ではありませんが、なんとなく、思った方向へ導かれた気がします。おそらく、それは、私だけでなく、ほとんどの人がそうなんじゃないかと思います。 カール・ルイスが語った通り、思えば叶う。もちろん、人生は、良いことばかりでなく、むしろ、嫌なこと、避けたいこと、そして、ショッキングで立ち上がれないほどの苦しみの方が多いのだと実感します。しかし、人生は、その都度がレッスンであり、トレーニングであり、チャレンジだとも思うのです。 大学時代、多くのユニークな先輩や同輩に恵まれ、様々な経験をしました。厳しいゼミでは、多くの本を読み、本に読まれることなく、自分の頭で考え、他の人と違っても、自分の意見を言う訓練をさせられました。自分の信念や感受性に関しての自信があります。それは、音楽や洋舞踊を習った経験からも培われたものです。 世界同時パンデミックという未曽有の事態を、人類は体験しました。全てが初めてのことではありましたが、私は、2020年の2月頃から、なんとなく、変だなという違和感を抱いていました。世界が同時に同じことを行う。それに違和感を覚えました。ちょうど、3月11日、グレゴリー・セドフの「福島の為に祈る」というコンサートを行うために、ロシアへ行く前のことでした。私がロシアに入国した時、モスクワでも、サンクトペテルブルグでもマスクをしている人はほとんどいませんでした。私たちの演奏会、美智子様がビデオでご参加下さった演奏会も無事に終了し、イリーナ・ペレンとマラト・シェミウノフのバレエレッスンツア―に参加された小学生の関連の事業も、また、私どもが在サンクトペテルブルグ総領事館の職員をお招きしたバレエの公演も、無事に終了して、明後日帰国するという時に、ロシアでも、全ての劇場が閉鎖となり、日本からの入国もできなくなりました。私どもの予定が、無事に終了したとたんに、閉鎖です。危機一髪、ラッキーでした。日本への帰国もどうなるかと思いましたが、帰りの便では、マスクの使用が強制となりました。 帰国後のロックダウン、その間、私は、世界がどのように成り立っているのか、色々調べる時間をもらったように思いました。そして、その後の2022年のロシアのウクライナ侵攻。私は、ゴルバチョフの時代からロシア、当時はソ連でしたが、仕事で、多くかかわる機会を得ました。根室の北方四島交流施設ニホロの企画に参画し、ビザなし交流で島から来るロシア人の取材、また、元島民で返還運動に従事する日本人、根室、釧路の漁師の方々からもお話を伺いました。 また、ロシアのダイヤモンド会社アルロサの仕事にも関わり、その後は、ロシアの音楽家、バレエダンサーなどと家族のように付き合っています。2015年からは、毎年ロシアを訪れていました。最初に行く際には、日本では、ロシアは危険だとか、治安が悪いとか、モノが足りないとか、暗いとか、いろいろ言われていましたが、行ってみると、その差が大きすぎて夢のパラダイスのようでした。特に、音楽やバレエや美術が好きな私には、サンクトペテルブルグは、町中が美術館のようで、楽しくて感動にあふれ、宝くじが当たったら、ここに住みたいと思うほどでした。そして、観光国で、大勢の観光客が世界中から来ており、道行く人は、ほとんどがアイフォンを持っており、道を尋ねると、英語がわからない人でも、親切に調べて教えてくれます。日本の昭和の時代のような人情があります。 そして、毎年行くたびに、空港内は、高級なお土産物屋が増え、人々の暮らし、着るものも、高級デザートなど、高度成長している様に驚きました。ロシアにいる日本人を多く知っているので、彼らから色々聴いていることと、日本での報道が、全く違います。 そもそも、“プロジェクトフラ”を知っている人は、日本にどれくらいいるのでしょうか。日本では、偏ったことしか報道されず、大事なことが報道されないことが、わかってきました。 また、私は。2014年から、ロシアのバレエダンサーを招聘し、日本の若手プロ、青少年と共演する教育的事業を企画主催しており、2022年は、大変厳しい環境でしたが、ウクライナから避難してきたダンサーにも出演してもらいました。この時に感じたことは、ウクライナ人でも何人でもダンサーである限りは、踊る機会に踊りたいという事です。しかし、問題は、周りの人です、ロシア人が出る舞台で踊るのはいかがなものかとの非難がありました。また、観客も、本当は、多くの方は、芸術文化交流はどんな時でも大事であり、継続することで、平和に貢献できると思っていても、他人から、ロシアの見方をしていると見られたら困るというように、世間体ばかりを気にしている人が多いのです。 私は、原ゼミで、どんな時でも、自分が学び考えたことから、自分の意見が誰と違っても、そもそも全く同じであるはずはないのですが、はっきりと主張できることの重要性を学びました。権力も力も発言権もある人が、なぜか、それをする勇気がないのかという事を今回強く感じました。大学というアカデミアにあっても、多くの大学が、逃げ腰であることに失望致しました。大学こそ、どんな時でも、世論がいかようであっても、権力に負けず、自分の考えを持ち、事の大事さ、それを発言できる勇気を持った人材を育てるべきだと思いますし、大学は、率先して、そのような発信ができたはずです。 イラク侵攻後、イギリス首相が、イラク侵攻は間違いだったと発言した時、同盟国として、そのような発言は、いかがなものかと批判を受けましたが、同盟国だからこそ、間違いを正すべきなのではないでしょうか。 会社内で起こっている不正に関して、報告する人を保護する方向になっていますが、会社でも、内部告発を重要視し、保護するのであれば、国も同盟国の間違いを正すよう促進保護するべきだと思います。 そうしないと、世界は、良くなりません。 今は、金が権力になり、金が正義になってしまっています。本来の正義とはなんなのでしょうか。 私は、現在は、政治家の秘書でもありませんし、直接政治には関わっておりませんが、芸術文化を通して、国際理解や平和に貢献しているつもりです。実際、外国では、芸術文化は、上位の分野にカテゴライズされており、国家元首や、地位の高い方々にお目にかかれる機会も多いのです。たまに、日本の政治家から、それらの件で、意見を求められたりすることもあります。 2024年9月、私はロシア政府より招待を受け、サンクトペテブルグルで開催された“ユーラシア ウイメンズ フォーラム”に参加してきました。サンクトペテルブルグは、コロナ前と同様、世界中から観光客が訪れ、夜11時まで本屋も、ブティックも開いており、にぎわっていました。ヨーロッパのブランド品も売られており、物も豊富で、人々の暮らし向きも上昇しているように思いました。 フォーラムには、126か国から900人が招待されました。プーチン大統領もスピーチされ、元副首相、現国家院議長のヴァレンティナ・マトビエンコ閣下主催の晩さん会は、会場への入場前から延々と3時間以上、オーケストラの生演奏、ソリストたちのクラシック音楽、ジャス、ポップス、オペラ、民族音楽、舞踊、テクノとエンターテイメントのてんこ盛りで、豪華なフルコースの食事も、食べる暇もないくらい、魅力的で圧倒的でした。やはり、芸術文化による感動共有が、人々を結び付け、勇気や元気を与え、問題解決に向かわし得る大きな力があると実感致しました。私の仕事も、ものすごく大変で、毎回、もう辞めよう、続けられないと思うのですが、この貴重な体験を通じて、命ある限り、芸術文化交流・教育・福祉事業を継続していくことを決意できました。 サンクトペテルブルグでは、日本国総領事からも、公邸での昼食に、ご招待頂き、これまでずっと、どんな時も日露文化交流を継続してきたことに対しての、労いと感謝と敬意までものお言葉を賜り、今後への励ましも頂きました。更に、フォーラムに全日着物を着用して参加し、日本の魅力を伝えてくれたことにも感謝しますとのメールを頂きました。ロシアでの滞在で感じたことも、帰国後の日本でのこと、機会がありましたら、別途、詳細を報告したいと思います。 マトヴィエンコ閣下と、SPに囲まれてSPが撮影してくれました。 5.結びに 若い世代の方へのメッセージ ここには、ショックな出来事や自殺しようとさえ思った経験については、もちろん書いておりませんが、誰もが、そんな辛い経験をしていることと思います。 でも、例えば10回中9回その大変な状況を何とか頑張って乗り越えれば、ものすごいご褒美のような夢のような出来事が1回くらい巡って来るものです。ひどい出来事で、もう生きていけないと思った時、私が色々考えて自分なりに結論づけたのは、「神様は、全ての人に、その人にあった最高の人生を用意してくれている」ということです。それを生かすも殺すも、その人次第。そう思って、受け入れて、それが自分の為になることと思えば、何とかやり過ごせます。 母校館林女子高校の創立90周年記念の式典で、在校生への講演の機会を得た際、これからを生きる若い世代に届けたメッセージを、まとめにしたいと思います。確か、TIUニュースで取材して頂いた際にもお話したことですが、 第一に、出会いを大切にしようということです。それは、人も機会も含まれます。大変なことも縁があれば引き受けましょう。大変なことは、誰だって嫌です。それでも、それを経験することで必ず成長できます。今までできなかったこと、不可能だと思ってたことが可能になるのです。大変なことを乗り越えられた、その成功体験を重ねることで、自分のキャパシティーをどんどん大きくすることができるのです。 ピッコロ・ヴァイオリン奏者のセドフさんを自費で招いてツアーをするということは、ほとんど不可能と思われることでしたが、今では、1年の間に、セドフさんに加え、ロシアのバレエダンサー、イリーナ・ペレンとマラト・シェミウノフ、メキシコのピアニスト、アレハンドロ・ベラ、オーストリアのヴァイオリニスト、ヨハネス・フライシュマン、ドイツのチェリスト、ユリウス・ベルガー、ピアニスト、オリバー・ケルンを招へいし、其々のツアーを行っています。 第二に、若い方に強く言いたいのは、失敗を恐れるなということです。考えてみて下さい。野球で3割打者って凄いんですよね。3割って事は、10回に7回は失敗してるんです。それでも、それってすごいことなんです。そう思うと、元気が出てきませんか。勇気が湧いてきませんか。人生は、夢を見つける、あるいは、追い求めて実現する学校なのですから、学校では、いくらでもトライ&エラーが許されるのです。特に、学生時代は、失敗を恐れずに色々なことにチェレンジして欲しいと思います。大学時代は、何でも挑戦して経験して欲しいと思います。その時の嬉しいことも、楽しいことも、苦しみも悲しみも、全てが成長のバネになります。 そして、私の好きな言葉を贈ります。「できないのは途中で止めてしまうから。」ピアノを習ったおかげで、「できるまでやることがやること」だと学びました。つまり、やり続ければ、必ずいつかできるようになるのです。カール・ルイスの言葉、「思い続ければ、いつか必ず叶う。Never give up 」です。「楽しんで、やり続ける。思い続ける」。其々の、ペースで、やればいいのです。 人との出会い、この広い宇宙にあって、天文学的な確率で、人生で出会う人たち。必然なのか、偶然なのかはわかりませんが、何らかの意味があると思います。もとを辿れば、人類は皆、兄弟であり親戚です。それぞれの人生に、環境に、出会いに感謝しつつ、この夢の学校で学び、トライ&エラーを楽しくやっていきましょう。 より良い種を生み出すために。無限の可能性に向かって、共に人生という学校で学び続け、夢の実現、更新の為に、挑戦し続けようではありませんか。 川島企画プロデュースバレエ芸術文化交流・教育事業(2014年より継続) 川島企画プロデュース、国際芸術交流・教育・福祉事業 グレゴリー・セドフ「Arts for All2024誰も輝くカラフルコンサートーピッコロヴァイオリンが歌い・踊る」終演後の集合写真 目の不自由な演奏家との共演のプロジェクト K&Associates International https://k-and-a-intl.com/ https://www.facebook.com/KeikoKawashima.KandAssociates.International 川島佳子 (KAWASHIMA,Keiko) kkawashima@cssimc.com (川島佳子さんのプロフィール) 群馬県館林市出身 1982年3月東京国際大学卒業 教養学部国際関係学科 原彬久ゼミ ELI K & Associates International代表 株式会社チョウドリ ソフトウエア サービス取締役 特定非営利活動法人ちきゅう市民クラブ 事務局長他 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
「人生に無駄な経験は無い」
原田 晴之さん (1992年卒業 教養学部国際学科/大越ゼミ 1991年Willamette Univ.卒業/BA政治学専攻)2024年10月1日【プロローグ】 私が海外に興味を持ち始めたのは幼稚園での出会いがきっかけでした。カトリック系幼稚園で良くして頂いた神父、先生(シスター)方、そして聖書の挿絵に登場する聖人達は皆、外国人でした。園庭で先生と一緒に遊んでいた時に、花壇のチューリップが果たして自分と同じ様に見えているのだろうかと考えていた記憶が、ぼんやりと残っています。(幼稚園から頂いた聖書) 【高校留学】 カリフォルニア州のメキシコ系アメリカ人家庭にホームステイをしながら、地元の公立高校 (Bloomington High School) に1年間通いました。激しい環境の変化に身を投じた事で、いきなり人生の転換期を迎えました。勉強不足による知識の無さや思考力の弱さを痛感し、帰国後に何を為すべきか大いに悩んだ時期でした。 ■ 自律性を養う 私のホストファミリーは、モービルホーム (トラックで牽引出来る家) に住む共働き家庭(3人家族+犬1匹& 猫1匹)でした。食事は冷蔵庫にある食材を各自が勝手に料理して取ることが基本で、家事はホストブラザーと分担していました。ところが、滞在3か月を過ぎた頃から、冷蔵庫が空になることが増え、家事の分担も私に偏り始めました。 普段はのんびり屋の私でしたが、「空腹」が「飢え」に変わったところで突然「スイッチ」が入り、自分でも驚く程の行動力を発揮したのです。近隣の家や友人宅を訪ねて、「芝刈り」「庭木の剪定」「掃除」「洗車」「ベビーシッター」「犬の散歩」「プールの清掃」等の仕事を次々と取り、家事で身に付けたスキルを総動員して、一気に問題を解決してしまったのです。(その勢いは止まらず、学校の昼食を無料にして貰うことにも成功しました。) その後、高校卒業に必須のクラス「American History」の前期分を、留学初期の英語力不足が原因で履修漏れが判明し、留学中最大の危機に直面しました。しかし、幸いにもその時ちょうど「スイッチ」が入って「エンジン全開」の状態だった為、この難局をうまく切り抜けられました。日本の高校で履修済みの世界史の教科書を手に、カウンセラーの先生や社会科の教諭、教頭先生に必死で掛け合いました。そして、補習クラスの履修を条件に「前期分」に相当する単位の置換を認めて貰うことに漕ぎつけたのです。 「自分の問題は自分で解決する」「自ら考え行動する」という自律性を養うことが、高校留学で得た最大の収穫でした。 (高校のクラス) ■ 英語の多様性とTPO 若者の英語、大人の英語、綺麗な英語、汚い英語、白人の英語、黒人の英語、メキシコ人の英語、インド人の英語、中華系の英語、西海岸の英語、LAヴァリーガール (Valley Girl) の英語、サーファーの英語等、多種多様な英語が日常生活でパワフルに話されており、米国デビューを果たした私の前に大きな壁として立ちはだかりました。私は小さなメモ帳を常に携行し、聞き取れた言葉をカタカナでメモし、帰宅後には鏡の前でネイティブスピーカーになったつもりで、カッコよく身振り手振り付きで発声練習を行いました。翌日には学校の友達にそれを披露してアルファベットに変換して貰い、帰宅後に辞書で調べて正確な意味を理解するというルーティンを徹底的に繰り返しました。その結果、3カ月後には確かな進歩を感じ、それが自信につながりました。 ところが、日々私が書き溜めて練習し、身に付けた英語が、米国の一般社会では決して受け入れられないギャング英語(メキシコ系のChicano Englishがベース)だった為に、それまで私を応援してくれた大切な友人が少しずつ私から離れて行きました。私はTPOをわきまえ、学校生活の中では標準的な英語を使うことを心掛けました。一方で、興味のあったインド、スペイン語、中国語訛りの英語については密かに練習を続けました。標準的な英語とそれ以外の切り分けにはかなり苦労しましたが、これも一つの学びでした。 ■ 人種差別 ほぼ単一民族の日本で育った私にとって、自分が「有色人種」である事を強烈に意識させられ、自覚させられたのが米国での生活でした。留学当初、私は「Jap」「Nip」「Gook」「Chink」「Pigtail」「WOG」「Napalm」その他多くの差別語で呼ばれ、学校の内外で不当な扱いを受ける事がありました。ある日、真っ黒に日焼けした自分の手の甲を見た瞬間、「汚い!」と感じた自分に大きなショックを受けました。無意識の内に、東洋人であることに劣等感を抱いていたと気付き、驚いたのです。 滞在期間の後半には友人も増え、それは和らいで行きましたが、学校の授業で見せられた 「A Class Divided」 というドキュメンタリー番組 (※)を通じて、改めて自分が抱いていた「劣等感」の正体を考えさせられました。そして、白人以外の人種に対して抱いていたかもしれない「優越感」がいかに虚しいものであったかを痛切に感じました。 ※ 1968年アイオワ州の小学校で実施された人種差別についての実験授業 YouTubeで日本語版を見つけたのでご紹介します。(NHK特集1988年4月29日放送) 「青い目 茶色い目 ~教室は目の色で分けられた~ (ウイリアム・ピータース著 / NHK出版) (高校の仲間)(高校の仲間) 【東京国際大学】 校名が「国際商科大学 (ICC)」から「東京国際大学 (TIU)」に改称された年(1986年)に入学しました。「高校留学での体験を思い出として終わらせず、深堀りする事で経験値として落とし込みたい。更に勉学を重ねる事で進むべき将来の道を明らかにしたい。」との一心で門を叩きました。 ■ スランプからの脱出 高い志と情熱を持って臨んだ「下羽ゼミ」(国際政治学)で私を待ち構えていたのは、日本全国から集まった個性豊かなクラスメート(曲者)達でした。私とは次元の違う高レベルの論客揃いで、自ら収集した情報(Fact)を分析(Study)し知識 (Knowledge) として吸い上げて行く「大学生の勉強方法」を当たり前の様に実践していました。私も必死で食らいつきましたが、元来の怠け癖と誘惑に弱い性格が邪魔をして空回りし、大学1~2年時は焦燥感に苛まれる事が多かったです。 3年に進級すると「大越ゼミ」(アメリカ研究論)を選択しました。下羽ゼミの仲間達が「厳格な修行僧」、「哲学者」の如く真理を追究する一体集団だとすれば、大越ゼミの仲間達は「まとまりの無い我儘な自由人」、「枠にとらわれない斬新的なクリエイター」の集まりといった印象でした。 一見、全く異なる二つのゼミでしたが、そこで学んだことは共通していました。知識の積み重ねや思考力の鍛錬は他人に代わって貰うことは出来ないこと、焦って背伸びをしても一足飛びに先には進めないこと、地道に継続することの重要性、そして勉強は苦しいだけでなく、取組み方次第では自由で楽しいものだということを教えられました。これは、至極当たり前のことかもしれませんが、私にとって大きな気付きでした。 スランプから脱出して改めて周りを見渡すと、それまで見過ごしていた周りのものが鮮明に見えるようになりました。大学が提供する豊富な選択授業や、新しい図書館や視聴覚室の英語教材の存在に気が付き、それらを積極的に活用することにしました。また、一度は諦めていた留学についても、挑戦したいという気持ちが湧いて来ました。親の支援で一度留学させて貰っていた為、再度の留学は経済的に難しいと感じていましたが、奨学金制度を活用することで再び挑戦出来るのではと考えました。そして、春・夏の海外セミナー(春:ウィラメット大学、夏:南オレゴン州立大学)や長期留学(ウィラメット大学)に全て応募し、大学からの支援を得られました。 ■ 教育実習 将来の進路の一つとして教育関連の仕事を考えており、教職課程を履修しました。大学の紹介により、埼玉県の私立男子高校の2年生クラスで英語の教育実習を行いました。事前準備をしっかりして、気合を入れて挑んだ初授業でしたが、英語以前に生徒のやる気をいかに引き出すかが喫緊の課題であることが分かりました。授業中に簡単な問題を出して何人かの生徒を当てたところ、皆一様に立ち上がらず、中腰で「分かりません」と言って着席してしまいます。 私は、着席した生徒を再度しっかり立ち上がらせ、「分からなくても良いから、分かろうとしよう」と説得しました。そして、答えが出るまでヒントを出し続け、場合によっては答えを黒板に書いて声に出して読ませる等、兎に角最後まで諦めないで挑戦するように指導しました。 また、机の中に教科書ガイドを忍ばせている生徒達には、「英語なんて数学みたいに考えてもしょうがないから、教科書ガイドの積極利用は大歓迎!」と、机上に置いて堂々と使用するように奨めました。教科書の練習問題も面白い文章に全て書き換えて、少しでも楽しめるように工夫しました。 最初はやる気の無い生徒が多かったのですが、中学校で習った辞書の引き方から、必要と思われる基礎的な構文については丁寧に何度も教えたところ、徐々に授業に参加する生徒が増えて行きました。極めつけは、少しずるいやり方とも思いましたが、どのクラスにも必ずいるおしゃべりで明るい生徒をうまく乗せて、授業が楽しくなるようなムードメーカーの役割を担わせることでクラス全体がひとつになりとても充実した授業運営が出来る様になりました。 しかし、私の授業を見学した先生方の評価は、年配のベテラン教師と若い教師とで真っ二つに分かれました。あるベテラン教師は、「原田先生は元気があって声も大きく、発音だけは良いけれど、中学で教わった構文を、わざわざ高校の授業でまた教える必要はないでしょう?」と否定的なコメントを残して教室を出て行かれました。一方で、若い指導教諭は他の若い先生方と一緒になって「原田先生、気にしないで!生徒が分からないから、分かるまで教えるのは当然のことです。中学校で教わっていようがいまいが、関係ありません!」と、私の教授方法を全面的に支持して頂けました。 担当していたクラスには、当時では珍しい米国からの交換留学生が在籍していました。彼と共にハイスクールで実際に話されている会話をスキット形式で授業中に紹介すると、「生きた英会話」に関心を持つ生徒が何人も現れ、教えることのやりがいを大いに感じました (※)。ある日、彼から深刻な二つの悩みを打ち明けられ、それを解消する為に奮闘することになりました。一つ目は、日本語補習の個人レッスンの機会を与えるよう学校と調整したこと、二つ目は、関係がうまくいかないホストファミリーから新しいホストファミリーへの変更をサポートしたことです。実習生の立場で出過ぎた行動だったかもしれませんが、自らの高校留学でお世話になった方々への恩返しのつもりで思わず突っ走ってしまったのだと思います。 ※ それでも教科書英語で基礎を固める事は大切です。 初日から積極的に取組んだ教育実習はあっという間に終了し、仲良くなった生徒達や意気投合した若い先生方に温かく送り出して頂きました。実習校からは大学卒業後に是非来て欲しいという有難いお言葉を頂きましたが(もしかすると社交辞令だったかもしれません)、私は企業就職を選びました。実習期間中に出会った企業経験者の先生の柔軟な視点や考え方、そしてその言葉に感じた重みから、教師という職業には専門教科の知識だけでなく、幅広い社会経験が必要だと強く感じたのです。(これはあくまでも、私の自分自身への評価に基づく判断であり、大学卒業後直ぐに教職に就かれる方を否定するものではありません。) (生徒からの寄書き) 【ウィラメット大学】 再びアメリカへ行くチャンスを得た2年間の奨学金プログラムでは、前回の高校留学時とは異なり、生活に適応するだけでなく、大学生活全体を通して様々な経験を積むことが出来ました。この留学期間は、私の学生時代で最も成長した時期であり、大いに学び、大いに悩み、そして大いに楽しむことで、現在の私の土台を築きました。(ウィラメット大学) ■ 寮生活:フラットハウス ウィラメット大学は、1842年に創立された西海岸で最も古い大学です。オレゴン州会議事堂に隣接する美しいキャンパス内の学生寮で2年間を過ごしました。キャンパスにある学生寮は、個室の寮もありますが、ルームメートとシェアする二人部屋が基本です。私が編入した当時は寮が満室でしたが、大学が交渉して会員制のフラタニティーハウスの一室を仮住まいさせて貰うことで留学生活をスタートしました。 「フラタニティー」(fraternity)とは辞書によると、「米国の男子学生の社交クラブ、友愛会」と定義されており、その歴史はアメリカの建国の歴史からそれ程遠くない1800年代初頭に、学生達が理想の学生生活を求めて結成したグループに遡ります。当時のアメリカは自由の国として建国されましたが、教育界は保守的で学生の行動には厳しい制約があり、その為学生の活動は地下に潜り、秘密結社的な形態をとりました。やがて、フラタニティーは全米に広がり、現在では多様なグループが設立され、共通の趣味や価値観を持つ学生が集う伝統的な学生組織として認知されました。私が仮住まいしたフラタニティーは、「ΣΑΕ:Sigma Alpha Epsilon」(略称 エス・エイ・イー)という全米に支部を持つグループでした。フラタニティーは「Greek Society」とも呼ばれ、ギリシャ語2~3文字の略称が一般的です。 (ΣΑΕハウス) (ΣΑΕの仲間達と) その後、第一希望の寮であるWISH (Willamette International Studies House) に空きが出ず、止む無く移った個室のYork Houseでは、隣室の学生からタイプライターの音がうるさいとの苦情が出て、夜間の使用を禁止され、困っていました。そんな時、ΣΑΕから新会員候補としての招待(Bid)を受けました。私はフラタニティーという謎めいたグループに興味があり、招待を受けた後、正式なプロセスを経てメンバーとなりました。 フラタニティーのメンバーになる為には、「Rush」と呼ばれる募集期間中に希望するフラタニティーのイベントに参加し、メンバー達と交流します。そこで選ばれた者は招待状を受け取り、次に「Pledge」という新会員候補または見習いとして一定期間の試練や課題(Initiation)を乗り越えることで、正式会員となります。各フラタニティーには伝統的な儀式 (Ritual) やイベントがあり、その内容の多くは秘密です。会員となった後、秘密の合言葉や挨拶の仕方が伝授され、フラタニティーのギリシャ文字が入ったトレーナーやTシャツの着用が許されます。また、本部からはスーツのジャケットにつけるピンバッジ(記章)と証書が贈られます。 フラタニティーは、派手なパーティーを開催することがあり (※)、ハウスの地下室にはバーカウンターやビールサーバーが完備されています。パーティーの日には、キャンパス中から着飾った生徒が集まり大変な賑わいを見せます。クラスの課題に追われる私は、図書館横の24H Study Roomで勉強を終えた後、深夜遅くハウスに戻るのですが、パーティーが終わっているわけもなく、そのまま巻き込まれ酔っぱらって気絶することが何度かありました。アメリカの大学生活をフルに体験し、満喫する為には避けては通れない修行の場でもありました。(楽しい思い出です。) ※ フラタニティ―は、パーティーで大騒ぎするイメージばかりが先行していますが、ボランティア活動等の社会奉仕も盛んに行っています。 ■ 授業 アメリカの授業は進行が早く、私が専攻していた政治学(Political Science)は、授業に出る前提となっている読書課題(Reading Assignment)の量が特に多い学科でした。成績は以下の4項目で評価され、ネイティブの学生ですら毎日必死で勉強に励んでいました。 ①Attendance(出席) ②Participation(授業への参加、貢献) ③Exam(試験) ④Paper / Assignment(提出レポート・課題) 新入生は、最初の半年間(1st Semester)でしっかり勉強の習慣と最適な勉強法を身につけないと、学校が指定した成績に到達出来ず、学業保護観察処分(Academic Probation)を受けることになります。これにより、学校のイベントや部活動等への参加が禁止され、次の試験で成績が改善されない場合は退学(Academic Dismissal)の厳しい措置が取られてしまいます。 2度目の留学とはいえ、英語のハンディキャップが大きく、初年度の前期クラスでは、アドバイザーのセオドア・シェイ教授(政治学 博士)の助言を受けて、新入生クラス(100番台)で英語の基礎を固めると共に成績(GPA)の確保に努めました。その中で、「Public Speaking」のクラスは、毎回スピーチ原稿を準備し、クラスメートとビデオカメラの前でスピーチするという、とてもストレスフルなものでしたが、そこで学んだことは、後の授業だけでなく、就職後の仕事にも大変役立っています。 また、政治学の初級クラスでの初回レポートでは、政治哲学(The Role of The Individual and Political Order)について書きました。脳みそが千切れる程に考え抜き、何度も書き直し、連日の徹夜で仕上げましたが、既に提出締切日の授業が終わるタイミングであると気付きました。慌ててキャンパスを走り、教授のオフィスドアを激しくノックしました。何事かと出て来たシェイ教授は、開口一番「教師生活30年、寝巻き姿で飛び込んで来た生徒は君が初めてだ!」とあきれ返っていました。言われてはっと気付くと、確かに髪はぼさぼさ、無精髭、Tシャツに短パン、素足にスニーカー姿で、タイプライターで打ち終えたばかりのレポートを持って訪ねた私は、尋常でない迫力を感じさせたのかもしれません。本来受理されなかったかもしれないレポートでしたが、しっかり採点され、後日返却して頂きました。 実家から当時のレポートが出て来て、表紙に書かれたシェイ教授の温かいコメント(※)が、あの頃の私をどれほど励まし、支えとなっていたかを思い出しました。教授にとっては何気無い一言だったかもしれませんが、私には大きな力となりました。長い年月が経った今、改めて感謝の気持ちで一杯です。本当にありがとうございました! ※ シェイ教授のコメント This is an excellent paper. Very thoughtful and full of interesting insights. Well done in all respects. It is an A paper which has to become an A- because it was late. Again, excellent essay! これは素晴らしい論文だ。非常に思慮深く、興味深い洞察に満ちている。全ての点で良く出来ている。遅れた為 A- となったが、A論文である。もう一度言うが、素晴らしいエッセイだ! ■ 忘れられない貴重な体験の数々 夏休みの造園業や冬休みの牧場でのアルバイト、スクールマスコット(Barney the Bearcat)としての全米チアリーディング合宿参加や学校対抗のスポーツイベントでの活動、更に留学生会(WISA:Willamette International Student Association)やボランティア活動等、まるで見えない手に背中を押されるかのように、様々なことに挑戦し、貴重な体験を重ねました。これにより、自分の日本人としてのアイデンティティと価値観を確認し、現在のマインドセットの礎を築くことが出来ました。今、ひとつひとつの体験が記憶として蘇りますが、拙稿がネバーエンディングとなってしまいますので、ここでは割愛し、先に進ませて頂きます。 授業について行くのが精一杯だった私が、全ての活動をどうやってマネージメント出来たのか、今でも分かりません。しかし、私が留学生活を全う出来たのは、間違いなくウィラメット大学の教授陣とクラスメートの皆さんの支えがあったからです。また、海の向こうの日本から励ましの手紙を送ってくれたTIUの仲間達、両親、そして天のご加護にも感謝します。そして忘れてはならないのは、TIUAのDeanを務められていた川嶋教授のご厚意でご自宅にお招き頂き、ご馳走になった奥様の温かい家庭料理、かわいいワンちゃんのおもてなしが、ともすれば崩れそうだった私の心を癒し、励まして頂けたことです。この場をお借りして心から御礼申し上げます。 卒業式は屋外のスタジアムで盛大に開催されました。当時、湾岸戦争へ予備役(Reserve Force)として中東に派兵されたクラスメート達は、皆落第となってしまいました。当日はまだ帰還していなかった彼らの名前が読み上げられ、「名誉ある落第」として称えられました。観客席からは大きな歓声と拍手が沸き起こり、よく晴れた高い空にこだましました。 (学校新聞1面に掲載される) (卒業証書授与) 【就職】 資源に乏しい我が国が、高い技術力と品質でモノづくりをし、世界に輸出することで発展して来たことに、私は先人達への深い敬意を抱いていました。文系の私としては、直接モノづくりに関われないまでも、日本の優れた製品を世界中の人々に紹介し、使って貰うことで貢献したいと考えました。大袈裟かもしれませんが、日本と世界各国との経済交流を深めることで、日本の安全保障はもちろん、世界平和の維持に少しでも寄与したいという思いから、メーカーへの就職を決意しました。その後、2社目、3社目でIT・ゲーム業界を経験しましたが、初心に立ち返り4社目のメーカーに転職しました。ここで27年間勤め、来年には定年退職を迎えます。2社目、3社目での経験を通じて、製造業がハードウェア中心の開発からデジタル技術を介してインターネットやソフトウェアとの融合を考慮した開発へと進化していく流れを肌で感じられました。 ■ 1社目:放送機器メーカー 池上通信機株式会社(以下、池上)は、放送用・業務用機器の分野で世界的に高い評価を受けている放送機器メーカーです。それ以外にも、監視カメラ、医療用カメラ、錠剤検査装置等も手掛けています。主力製品の放送用カメラは、世界中の放送局や映像プロダクションで使用されており、その高い性能と信頼性で、現場のプロフェッショナルから絶大な支持を得ています。テレビで大型スポーツイベントやコンサート、そしてニュース報道の現場で使用されるカメラが一瞬映像に映る事がありますが、「Ikegami」のロゴを見るたびに胸が躍ります。 私が入社した当時 (1992年)の主流はアナログ方式であり、世界的な大手総合家電メーカーが開発した放送用カメラが束になっても、池上の製品には及びませんでした (※)。その後、1990年代後半からデジタル技術の導入が活発化し、デジタル方式への移行が加速しました。池上は競合他社との熾烈な競争を繰り広げながらも、積極的な技術革新を続け、業界での確固たる地位を守り抜きました。池上を離れた今でも、私は変わらず 「Ikegami Fan」であり続けています。 ※競争入札等で、競合他社のカメラと池上のカメラを並べて同じ対象物を撮影し、性能や操作性を比較することがありました。これにより、放送用カメラで最も重要な解像度や色再現性が一目瞭然に判別出来ました。特に色再現性については、競合他社のカメラは一般家電用技術を基にしている為、実物よりも鮮やかに映る傾向(誰が撮っても綺麗に映る補正回路?)がありましたが、池上のカメラは本物の色味を忠実に再現します。その為、放送業界のプロフェッショナルの厳しい要求や期待に応える製品であることが何度も証明されました。海外広告では、「The Professional Cameras dedicated to the Dedicated Professionals」というキャッチコピー(正確には覚えていませんが)が使われており、池上の特長を的確に表していると感じ、とても誇らしく思っていました。 ● 海外業務の習得 池上は、人を育てることに長けた会社であり、私が在籍した4年間という短い期間の中で、海外セールスに必要な基本的スキルセットをほぼ全て学ぶことが出来ました。海外販売子会社、海外代理店、海外販売店、国内大手商社との取引を通じて輸出入の知識や見積書作成、受発注納期管理、代金回収、技術翻訳、顧客アテンド等、多岐にわたる業務を経験させて頂きました。 担当地域は、インドネシア、インド、パキスタン、オーストラリア、ニュージーランド、そして最後は北米でした。一番の思い出は、あるODA案件で、スタジオシステムと大型中継車(OB Van)の入札、落札、納入初期まで、上司と先輩社員の指導の下、懸命に進めたことです。途中で異動となり、最後まで関与することは出来ませんでしたが、この経験を通じて多くのことを学びました。特に、プロジェクトの初期段階での情報収集や綿密な計画、営業と工場関係者との緊密な連携が成功の決め手であることを深く実感しました。 ● 恩義ある会社との別れ 池上では、尊敬できる上司、先輩、同僚に恵まれ、会社の外でもスポーツやBBQを楽しむ等、非常に親密なお付き合いをさせて頂きました。直属の上司であり兄貴分と慕っていたTさんに退職の意を伝えた時、最初は慰留されましたが、最終的には「会社にとって原田に残って貰うのは良いことだと思う。しかし、原田のこれからの人生が悔いの残らないものになるかどうかまでは保証出来ない。だから、原田が選んだこの決断を尊重し、応援する」と言って送り出して頂けました。今の会社で私が管理職となり、若い部下が辞める度にまさか同じ言葉で送り出すことになるとは、カルマを感じずにはいられません。 ■ 2社目:ITベンチャービジネス 日本でのインターネット利用者が殆どいなかった1990年代初頭、サイバーテクノロジーズ・インターナショナル株式会社(以下、サイバー)が創業されました。創業メンバーは全員アメリカ人で、既にインターネットが爆発的に普及し始めていた米国ではなく、これから普及が見込まれる日本に進出してビジネスチャンスを掴もうとしました。彼らは企業や一般ユーザー向けのインターネット接続、サーバーレンタル、ウェブページ作成・更新メンテナンス、ソフトウェア・プログラム開発等のサービスを積極的に展開し、日本のインターネット黎明期を支える重要な役割を果たしました。 ● インターネットとの出会い 創業メンバーの社長を含む4人はウィラメット大学の卒業生で、日本進出の手始めとしてインターネット導入に前向きな外資系企業から確実にビジネスを獲得し、その勢いで日本企業への展開を本格化しているところでした。ウィラメット大学の友人として食事に誘われ、集合場所として立ち寄った彼らのオフィスで、当時最先端のインターネット技術を次々と披露され、大変驚かされました。 一方で、そんな煌びやかなプレゼンテーションの後で私の心を捉えて離さなかったのは、今では当たり前となった電子メールでした。大変地味なアプリケーションでしたが、今後これが世界中で普及し、国境を越え遠くにいる人達と容易に繋がることが出来ると確信しました。私はこの新しいコミュニケーションツールの可能性に心を躍らせ、未来の広がりを感じずにはいられませんでした。 後に友人から、食事の真の目的が私の勧誘であることを明かされました。それまで私を育ててくれた池上への恩義があり、まだ大した貢献もしないうちに転職することに大変悩みましたが、これから急激な発展を遂げるであろうインターネット業界に身を投じて、世の中の動きを直に感じてみたいという思いが強くなり、新たな道に進むことを決意しました。 ● インターネット・ビジネス 当時日本の大企業は次々とWebサイト(ホームページ)を立ち上げ、大口の仕事の依頼が寄せられました。大手総合家電メーカー、大手自動車メーカー、大手商社、大手不動産会社、外資系大手通信会社、駐日外国大使館等、多くの優良顧客との取引きが成立しました。 それまで安定した収入源のひとつであった個人向けダイアルアップ(電話線)やISDNによるインターネット接続サービス業務からは撤退し、設立当初から会社が目指していたIT技術による企業向け「ビジネス・ソリューション」の展開にシフトして行きました。サイバーが構築・運営サポートをしていた企業向けWebサイトには、今でこそ盛んに利用されているWebマーケティング機能が既に搭載されていました。ユーザーがどのようにWebサイトまでたどり着いたのか、Webサイト内のページアクセス・ログ(閲覧履歴)、再訪問率等を分析して顧客企業に提供していました。 ● 時代の寵児 私が関わった仕事の中でエキサイティングだったのが、顧客であり提携パートナーでもあった株式会社ハイパーネットとの協業です。同社は、ウェブブラウザーに広告表示することでインターネット接続料金を無料にするシステムを開発し一世風靡したベンチャービジネスの雄でした。残念ながら急速な事業拡大をした直後に銀行融資が縮小され市場環境の変化(ITバブル崩壊)もあり倒産してしまいました。この企業の上層部は皆私と同世代で、社長を筆頭に物凄いカリスマとオーラを発していました。副社長のN野氏はハイパーネットを退職後、NTTドコモでi-modeを立ち上げ、現在KADOKAWAの代表取締役社長としてご活躍されています。ハイパーネットの倒産については「社長失格」(板倉雄一郎著 / 日経BP社)という本となり、後にTVドラマとして放映されました。同書に登場する人物は実名で書かれており、当時窓口としてお付き合いしていた事業部長のN山氏が突然退職された理由が分かり、心が痛みました。(板倉雄一郎著 / 日経BP社) ● 夢破れる 大きな夢を抱いて入社したサイバーですが、小規模のベンチャービジネスが成長を続ける為には、卓越したアイデアだけでなく、資金面のバックアップや「運とタイミング」も必要です。当時、インターネットは日々目覚ましい発展を遂げていましたが、「インターネット」という言葉やイメージばかりが先行し、実際に何が出来るのか、どう活用するのかはまだ手探りの状態でした。魅力的なWebコンテンツやアプリケーションも殆ど無く、市場は未成熟で利益を創出するのは厳しい環境でした。サイバーの財務状況が悪化し始めた頃、私は親しくなった技術部長に誘われ、米系大手ゲームメーカーへ転職しました。現在サイバーは在りませんが、それぞれ別の道を歩んでいる友人達とは今でもインターネットで繋がっています。先日、カナダに移住した元社長と二十数年振りに再会し、友情を再確認出来たことが非常に感慨深かったです。学生時代に始まり、短いながらもサイバーで共に苦楽を味わった仲間との絆は、時を経ても変わらず、私にとって大切な宝です。 ■ 3社目:米国ゲームメーカー日本支社 アクティビジョン・ジャパン株式会社(以下、アクティビジョン)は、世界最大手のゲームソフトメーカーであるActivision, Inc.(現:Activision Blizzard, Inc.)の日本法人でした。主な業務内容は、パソコンや家庭用ゲーム機向けのゲームソフトおよびライセンスの販売であり、米国本社で開発されたゲームを日本市場に合わせてローカライズ (日本語化) する機能も担っていました。バイリンガルのエンジニアが、日本語に翻訳された音声やテキストをゲーム内に組み込む作業を行っていました。アクティビジョンは「洋ゲー(洋物ゲーム)」として知られ、特定の「洋ゲーマニア」から強い支持を受けていました。 1990年代後半、ゲーム業界では大きな技術革新の波が起こりました。アクティビジョンはロボット対戦、カーチェイス、戦闘機対戦等のゲームにインターネット対戦機能や3Dポリゴン技術を導入し、リアルな質感のある画像でのオンラインマルチプレイ (※) を実現しました。更に、AI機能をいち早く採用することで、特定の洋ゲーマニアだけでなく、一般ユーザーも魅了しました。 ※ インターネット上で複数のユーザーが同時にプレイすること ● ゲーム業界に身を投じて ゲーム業界には、「PC系」と呼ばれるパソコン向けのゲームソフトと、「コンシューマー系」と呼ばれる家庭用ゲーム機向けのゲームソフトがあります。前者はWindowsやAppleのOSを使用するパソコン向け、後者は任天堂、ソニー、セガが製造する専用ゲーム機(ファミコン、プレイステーション、セガサターン)向けです。私は、PC系ゲームソフトを営業活動のメインとし、北海道から九州までのパソコン量販店、ゲームソフト専門店、家電量販店、書店、玩具店を一人で回っていました。上司命令で、どこにいても最低でも週に1回は主戦場である秋葉原の得意先に顔を出すようにしていました。また、週末にはゲーム大会を企画・開催し、休む間もなく働いていました。 当時は、大きな量販店であっても購入を決める担当者の多くは、ゲームソフトに精通した若手社員やアルバイト学生でした。彼らは気さくに話を聞いてくれ、自社ゲームの反響や競合他社の情報、パッケージの改善点等を教えてくれました。私は毎晩帰宅後に自社ゲームと競合他社のゲームをプレイしながら知識を深め、次第に洋ゲーの独特な世界観に心を奪われるようになりました。日本のゲームが色鮮やかでBGMや効果音が派手で楽しいのに対し、洋ゲーの少しくすんだ色使いや幻想的なBGM、効果音には奥深い魅力がありました。 一度興味を持ち始めると、全国のゲーム調達担当者とのコミュニケーションが充実し、大手卸業者(問屋)から得た仕入情報の分析(顧客毎に違う売れ筋、売れないタイトルの傾向、地域毎の顧客動向他)が少しずつ出来るようになりました。当初は、やみくもに飛び込み営業を繰り返していたのですが、上司の熱血指導のお蔭で(毎日こっぴどく叱られていました )、体を使った営業だけでなく、頭を使った営業の重要性を認識し、営業スタイルの改善に努めました。そして問屋からの情報を基に、訪問先を絞り込み、顧客毎の個別アプローチを展開した結果、ポスター掲示や販促品の自由な配置、更にはアクティビジョン専用の特設コーナーの設置を許可される等、店舗でのプロモーション活動が活発化しました。その結果、アクティビジョンのゲームが店頭に増え、目立つ場所に置かれる機会も増えて行きました。 ● 体力勝負だった広報活動 ゲーム業界での営業に慣れて来た頃、広報担当者の退職に伴い、掛け持ちで広報の仕事を担当することになりました。雑誌社を訪問して新作ゲームのデモを行い、記事掲載をして貰うことでその認知度を高める取組みを実施しました。広告よりも特集記事等に掲載される方が、広告効果が高く、費用対効果も抜群でした。当時はまだ最新ゲームを滑らかに動かせられる高性能なノートブックPCが少なかった為、大きなブラウン管モニター、ステレオスピーカーとデスクトップパソコン一式を抱えて会社から出て、道端で捉まえたタクシーに積んで雑誌社へ持ち込んでいました。今振り返ると体力と気力に満ち溢れていた若い自分だからこそ出来たのだと懐かしく思い出されます。 ● 新たなる成長へ向けて アクティビジョン・ジャパンは12〜13名の小さな会社でした。このような小さな会社が競争を勝ち抜く為には、綿密な戦略と作戦が必要であり、その実行過程では常に修正を加えながら前進していくことを学びました。特に、マーケティング理論「ランチェスターの弱者の戦略」を営業戦略に取り入れていたことは興味深く、勉強になりました。猪突猛進で頑張っているだけでは成果が上がらないことを、全国のお客様を訪問する営業活動やキャンペーン、広報活動を通じて理解しました。アクティビジョン・ジャパンでの経験は、仕事に対する考え方やアプローチを少しずつ変える契機となりました。(30代まで続けたGymトレーニング) (老舗洋ゲー専門店で自社ポスターと) ■ 4社目:電子機器・部品メーカー 日本航空電子工業株式会社(以下、航空電子)は、「コネクタ事業(コネクタ)」、「インターフェース・ソリューション事業(タッチパネル、タッチパネルモニタ)」、「航機事業(航空・宇宙電子機器・部品)」の3事業ラインからなる電子機器・部品製造メーカーです。1953年の創業時に、将来日本に必ず訪れる航空・宇宙産業時代にエレクトロニクス技術で社会貢献をしたいという思いが社名に込められています。 一大決心して大恩ある池上を飛び出し、サイバーで夢破れ、ゲーム業界で忙しい日々を過ごしていましたが、心の奥底では、日本の高度な技術や製品を世界に紹介して行きたいという気持ちが再び強くなっていました。そんな折、週末に予定していた顧客とのアポイントがキャンセルとなり、ふと手に取った求人雑誌で『国際派転職フェア』の広告が目に留まりました。丁度スーツを着ていたこともあり、思い切ってその転職フェアを訪れてみると、そこには航空電子がブースを構えていました。航空電子は、池上の製品に使われていたコネクタを製造しており、その縁もあって興味を引かれました。しかし、再度転職することには少し躊躇しており、その場での決断は出来ませんでした。それでも、航空電子から何度も熱心にお誘いを頂いたことで、次第に決心が固まり、この会社で新たな挑戦をすることを決意しました。 ● 航機事業ライン 最初に配属された航機営業本部では、技術翻訳から始まり、産業機器向けアプリケーションに使用される加速度計、光ジャイロ、リニアモータの営業に幅広く携わりました。具体的には、油田掘削時におけるドリル先端の位置・方向把握に使用される加速度計やセンサーパッケージ、製造機器のXYステージを駆動させるリニアモータ、トンネル内の壁面検査ロボットの位置・姿勢測定用センサーユニット、構造物の揺れを低減するアクティブ制振用センサーユニット等、様々なアプリケーションに関わりました。 配属初期の修行 私は航空電子が新卒以外で初めて雇った文系出身の営業マンでした。その為、技術用語が飛び交う営業フロアでは、日本語でさえ理解が難しい状況でした。そこで、会社にお願いし、最初の1ヵ月間は工場の設計部門で若いエンジニアの隣に席を設けてもらい、加速度計や光ジャイロの原理や応用について学ぶ機会を得ました。その結果、社内で話されている大まかな内容について把握出来るようになりました。当時、会社の営業フロアには、日本初の国産H-IIロケットの姿勢制御を司る慣性誘導装置の開発を担当し、NHK番組「プロジェクトX」に出演した技師長や、米国の技術系一流大学出身で油田ビジネスを開拓した猛烈営業部長(私の最初の上司)等、優秀な方々で溢れていました。彼らと共に働く中で、多くのご指導を頂き、新しい環境に慣れていくことが出来ました。 余談ですが、この技師長がH-IIロケット用の慣性誘導装置を開発中、ジェットコースターにその装置を載せて何度も試験を繰り返したという逸話を最近になって知り、私もテレビ番組のロケで、読売ランドのジェットコースターに加速度計ユニットを持ち込み、背中向きに乗って加速度を測定したことを思い出しました。先輩の開発時の逸話には遥かに及びませんが、私もほんの少しだけテレビに映ることが出来たこの経験には、ささやかながらもロマンを感じています。 閑話休題、工場勤務から営業部署に戻ると直ぐに、上司と技術部長と共に、英国を皮切りに米国テキサス州を中心とした石油掘削関連の顧客を次々と訪問しました。加速度計や光ジャイロの拡販においては、単に製品性能を示すだけでなく、顧客のアプリケーションやニーズに応じた技術提案が求められます。顧客の態度や反応から、航空電子がこれまで着実に顧客の要望に応え、その結果として深い信頼関係が築かれていることが分かりました。これをしっかり受け継ぎ、更に発展させていく責任が自分に課せられていると感じ、身が引き締まる思いがしました。(定年退職が迫る上司の背中から発せられる強烈なプレッシャーと期待が、ひしひしと伝わって来ました。) 毎晩ホテルに戻ると、上司と技術部長の指導の下で打合せ議事録を作成し、本社にFAXで報告した後、ようやく食事にありつけました。しかし、その食事も顧客接待を想定したレストラン開拓を兼ねており、寝るまで気を抜くことが出来ませんでした。厳しい旅でしたが、この経験は最高のOJTであり、普段忙しい上司と技術部長から直接学べた時間は贅沢で貴重なものでした。 予期せぬ異動 私は当初、米国の販売子会社に出向している方の交代要員として雇われていましたが、その話は諸事情により無くなってしまいました。そして2年後、会社の主力ビジネスであるコネクタ事業ラインの海外営業本部に異動することになりました。人生最後の転職として覚悟を決め、難しい技術知識の習得や営業活動に取組み、更には商社へ出向して営業スキルを磨いていた私にとって、この異動は大きなショックでした。社内とはいえ、全く異なる業種への異動は転職と同じようなインパクトを感じていました。 記憶に残る仕事 2年間の航機営業で特に印象深かった仕事の一つに、1998年にテキサス州ヒューストンのアストロドームで開催された海底油田関連の展示会(Offshore Technology Conference)への出展があります。当時、航空電子は世界最小サイズ (直径19mm) の耐環境・高温対応 (~175℃) の加速度計を開発し、小さなブースで発表しました。海底油田掘削関連の展示会ということもあり、他のブースはヘリコプターや商用潜水艦、ボート、掘削ドリル等大規模な展示を行っていましたが、我々のブースはお手製の20cm程のシーソーに加速度計を取り付け、それを上げ下ろしする際に出力される電気信号を波形モニターに映し出すという、非常にシンプルなデモを行いました。 派手な展示が多い中、航空電子の小さく地味なブースに展示開始と同時に多くの人が押し寄せ、大変驚きました。競合他社も同等仕様の加速度計を発表していましたが、偵察したところ、それは外観だけで中身の無い「どんがら(モックアップ)」でした。開発が間に合わなかったのです。この瞬間、私は心の中で「やった!」と叫びました。航空電子の開発が競争に勝った瞬間でした。 油田掘削は年々深く掘り進む傾向にあり、それに伴いドリルの先端はますます細くなっています。さらに掘削が進むにつれて地中温度は150℃を超える高温となる為、小型で耐熱、耐衝撃、且つ高精度な加速度計が業界で求められています。当時、この要件に応えられる会社は航空電子と競合他社の2社だけでした。(米国テキサス州:Offshore Technology Conference) もう一つ印象深い仕事としては、ある欧州メーカーへの拡販取組みがあります。当時、国内の主要産業機器メーカーとは既に取引があったものの、海外市場への進出はまだ限定的でした。そこで、私は半年以内に訪問することを目標に設定し、先ず幕張メッセで開催された国際展示会でその企業の展示ブースを訪ねました。アクティブ制振のアイデアを口頭で説明し、名刺を渡したところ、数週間後にはあっさりと招待を受けてしまいました。 会社内は大騒ぎとなり、私は、土日は自己啓発として関数電卓を片手に三角関数を復習し、平日は工場の技術データを集めながら、プレゼン資料の作成に努めました。1か月後、同年代の若手エンジニアと共に欧州へ飛び、そのメーカーでプレゼンを行いました。応対して頂いたのは博士号を持つ6人のエンジニアの方々で、文系出身の私にとっては緊張の連続でした。しかし、同行エンジニアと協力しながら、アクティブ制振の提案と試作品による試験結果の説明、質疑応答を行い、更に航空電子の航機関連主要製品の説明とデモンストレーションを実施しました。 結果的に多くの課題を持ち帰ることになりましたが、この出張では、航機事業ライン(工場・営業)の諸先輩から教えられ、託された全てを出し切り、初めて大きな達成感を味わうことが出来ました。そして、この達成感は、次の異動先へと向かう私にとって、一つの区切りを意味するものでした。 ● コネクタ事業ライン コネクタは、航空電子の総売上の8割以上を占める主力製品で、プリント基板や電子機器同士の電力や電気信号を接続・切断する為の重要な部品です。人工衛星や飛行機、電車、自動車、家電製品、パソコン、スマートフォン等、広範な分野で多種多様なコネクタが大量に使用されています。コネクタは、電力や電気信号を伝える金属製のコンタクトと、それらを絶縁するプラスチック(インシュレータ)で構成されており、電気的性能と機械的性能の両方を満たさなければならず、その開発には高度な専門知識とノウハウを要します。 営業マンはお客様に育てられる 私のコネクタ事業ラインでの業務は今年で25年目を迎えます。この間、多くの貴重な経験をさせて頂きました。中でも特に心に残っているのは、13年間担当を務めた、欧州のグローバル企業とのビジネスです。当時、GAM(Global Account Manager)として欧州、北米、アジアのR&Dや生産拠点に何度も訪れ、多くの開発案件に携わりました。そして、量産立上げ後に避けては通れない品質問題や納期問題、価格交渉等にも会社同僚と一丸となって積極的に取組み、その結果、No.1サプライヤーとして高く評価して頂きました。 (フィンランド:夏) (フィンランド:冬) この経験から、メーカー営業マンは社内で得た知識やスキルを基盤にしながらも、最終的には顧客によって育てられることを強く実感しました。私自身、社内で基礎を固めた後、顧客と向き合い、彼らの要求に応える過程で成長して来ました。 先ず、社内での基礎作りとして、現場での実践経験に力を入れました。携帯電話やPDA、STB(セットトップボックス)等の電子機器を片っ端から分解し、基板の形状や実装部品の配列、高さ、投影面積等を丹念に調査して、アプリケーション毎の筐体形状や内部構造、実装技術について学びました。また、工場の技術フロアでは、試作品の組立てや評価試験にアシスタントとして参加し、その結果を英文レポートに纏めることで、コネクタ製品に関する理解を深めました。 次に、顧客と直接向き合い、彼らの要求に応える中で、営業マンとしての成長が促されたと思います。例えば、品質問題が発生した際には、通常は立入ることの出来ない顧客の生産ラインに特別に入れて貰い、技術評価試験に立会う機会がありました。品質問題はサプライヤーにとって避けたい事態ですが、これをチャンスと捉え、問題解決に取組むことで顧客の信頼を得られました。 その上で、品質問題とは別に、顧客の生産ラインで使用されている製造設備を把握し、その後、その設備メーカーを訪問して、次の製品作りに生かすヒントを得ることに努めました。これらのヒントを製品に反映し、品質や使い勝手を向上させることで、顧客の満足度を高めることが出来ました。 モノづくりの舞台裏 ここで少し、メーカーにおいてよく見受けられる工場部門間の関係性について触れたいと思います。それは、開発途上で、設計担当者と生産技術・製造部門のエンジニアとの間で立場の違いからしばしば緊張や対立が生じることです。設計者が斬新なアイデアやテクノロジーを投入して尖った製品開発に挑む一方で、生産技術や製造部門のエンジニア達は、その実現の為に多大な努力を強いられます。しかし、ひとたび新製品が市場に投入され、成功を収めると、全員がその達成感を共有し、固い絆で結ばれ、それが開発を続ける中で更に深まって行きます。こうしたモノづくりの舞台裏を知っていると、初めて訪問した顧客のプリント基板を見せて頂いた際に、生産技術や製造部門が設計にどのように影響を受けているかを指摘出来ることがあります。すると、窓口の設計者がその場で関連エンジニアを呼び出してくれることがあり、その結果、打合せは自然と笑いのある明るい雰囲気になることがよくあります。このような経験の積み重ねが、同じモノづくりに携わる顧客との関係構築に大いに役立ちました。 (北京:陳式太極拳「単鞭」のポーズ) (サンディエゴ) 信頼とバランスの構築 ビジネスの世界では、「Win-Win」という理想がよく語られますが、現実では、顧客がWinし、私達が少しLoseすることも少なからずあります。これは、顧客との力関係によるもので、ある程度は避けられないことです。私は常に顧客の立場を最大限に尊重しつつも、自社の利益を守る為に、適切なバランスを見つけるよう心掛けて来ました。その為、時には難しい話もしっかりと議論出来る関係構築が重要だと考えています。 (中国河南省:太極拳国際試合 相手は後にAlibaba創業者 Jack Ma氏のボディーガードに) ● 英国販売子会社出向 JAE Europe, Limited (以下、JAE EU)は、航空電子の販売子会社で、英国に本社を構え、ドイツ、フランス、イタリア、スウェーデンにもオフィスを展開し、欧州全域のビジネスをカバーしています。欧州市場は、特に自動車産業、産業用ロボット市場、医療機器市場において、世界の技術革新をリードする多くのテクノロジーリーダーが存在する重要な市場です。JAE EUは、この市場で欧州の先進企業と共に未来の技術革新に貢献することを目指しています。 入社当時に立ち消えた海外赴任の話が、18年後に突然舞い戻って来たかと思うと、急速に具体化し、家族(妻、長男: 中2、次男: 小6)を伴って英国に赴任することになりました。2016年から2020年まで英国ロンドンで生活し、その間にBrexitや新型コロナウイルスの蔓延といった大きな変化が起こる中で、仕事面でも家庭面でも得られることが多かったです。 新しい職場環境 JAE EUでの勤務が始まると、現地社員は英国、ドイツ、フランス、イタリア、スウェーデン等多国籍で構成され、顧客も30か国以上に跨っていることが分かりました。「欧州」と一言で括るにはあまりに大雑把過ぎる地域であり、国毎の人々や文化、習慣の違いを考慮した対応が必要なのは言うまでもありません。 私は一時期、営業に加えてマーケティングや技術チームの責任者も兼任していました。英国本社での勤務と並行して、ドイツのミュンヘンオフィスとの連携を強化する為に、頻繁に現地を訪れていました。現地社員との業務遂行においては、ドイツの労働法規や労務管理に細心の注意を払い、職務明細書(Job Description)に基づいた明確な業務指示を行い、ファクトとエビデンスに基づいた公正な業績評価を心掛けていました。また、拡販方針や戦略については納得がいくまで議論を重ねることで、チーム全体の目標と方向性を揃えました。 ドイツのメンバー達は、普段は家族生活を優先し、プライベートな時間を大切にしていましたが、いざという時は自ら進んで長時間の業務に取組んでくれました。私が別の仕事でドイツに行けなかった際には、急遽英国まで駆けつけ、ピザ1枚で深夜まで一緒に作業してくれることもありました。この経験は、ワークライフバランスを徹底して重視するドイツ人に対する固定観念を完全に払拭するものでした。彼らの献身的な姿勢と協力には、今でも感謝しています。 日常生活 ①:家族生活の変化 日本での生活と比較して、英国での生活では家族との関わり方に大きな変化がありました。日本で暮らしていた頃は、仕事のことばかりを考えていましたが、海外では家族の生活に積極的に関わり、生活環境を整えたり、日常生活のサポート(学校、病院、買い物、余暇)にも力を入れるようになりました。学校選びについては、私自身の留学経験から現地校を勧めましたが、息子達から「お父さんは自分の意志でアメリカに留学したんでしょ?僕らはお父さんの転勤で外国に来たんで自分の意志じゃないんだ!」と反論され、彼らの気持ちを尊重して日本人学校に通わせることにしました。(立派な主張だと感心しました。) 今では日本人学校に通わせたことが正しい選択だったと思っています。日本人としてのアイデンティティを確立する過程での良い教育を受けられました。ロンドン日本人学校には優秀な教師と生徒が集まり、非常に高い教育レベルが提供されていました。また、欧州を訪れる日本の要人(宇宙飛行士、スポーツ選手、芸術家、ミュージシャン、学者、政治家等)の多くがロンドン日本人学校に立ち寄り、貴重なお話を子供達に聞かせてくれる機会があり、大変恵まれた学習環境にありました。 日常生活 ②:ロンドンの暮らし ロンドンでの生活は、歴史的な街並みや博物館、美術館、そしてミュージカル等、文化に容易に触れることが出来ました。気候は北海道より北に位置する為冬はやや寒いものの、年間を通じて非常に快適でした。また、都会でありながら自然が豊かで、緑あふれる公園が数多くあります。自宅の裏庭には、狐、リス、野鳥が頻繁に訪れ、心を癒してくれました。賢い狐は、生ごみを入れるコンテナのロックを外して荒らしていくこともあり、彼らとの知恵比べも日常の出来事でした。ロンドン中心街の観光スポットは、私達にとっては生活圏の一部であり、散髪や息子達のスポーツ用品、日本食材等の買い出しをしていました。日本食材は日本価格の何と3倍で、購入する品物によって一番安い店を選ぶ等節約に努めました。 日常生活 ③:自動車通勤 通勤については、赴任当初は大きな試練でした。オフィスは自宅から南西に60kmの距離にあり、朝の通勤時には頻繁に事故渋滞に巻き込まれました。英国では、警察が事故現場の調査を終えるまで道路を閉鎖する為、高速道路内で閉じ込められ、トイレに行けず苦しい思いをしたこともあります。閉鎖が解けた後、急いで高速道路を降り、ヒースロー空港で用を足したことも。たった10分の駐車でしたが、これまでで一番高くついたトイレでした。帰りが遅くなると、高速道路が閉鎖されて入れなかったり、途中で閉鎖となり止む無く最寄りの出口から出て行かなければならず、何度も道に迷いながら真っ暗な山道のような場所を走りました。その過程で、帰宅ルートが自然と増え、道に詳しくなりました。一度慣れてしまうと、自動車通勤は一人になれる特別な時間となり、iPhoneに入れた70~80年代の歌謡曲を大声で歌いながら眠気を覚まして帰る日々を楽しみました。 日常生活 ④:ハプニング 息子の剣道教室に参加した際、アキレス腱を断裂し、ロンドンの救急病院(A&E: Accident and Emergency)で全身麻酔の日帰り手術を受けることになりました。そこではクロスファンクショナルチーム(機能横断型チーム:CFT)による対応が行われており、大変興味深いものでした。 窓口での受付を済ませた私は、病室を行き来すること無く、直ぐに移動式のベッドに乗せられました。そのまま手術着に着替え、手術室前で待機する他の患者達の長いベッドの列に加わりました。手術が流れ作業のように次々と行われ、ベッドの列が動きながら手術室に近づいていく様子を見て、自分がまるで工場の生産ラインに投入された材料のような感覚を覚えました。 病院スタッフは役割毎に色分けされた制服を着用し、それぞれの専門分野に基づいてテキパキと対応してくれました。私のベッドには、手術前から退院までの全ての手順が記された私専用のノート(※)が置かれており、スタッフはそのノートに従って入れ替わり立ち代わり私の前に現れては、チェックボックスを埋めながら正確に漏れなく処置を進めていました。このオペレーションは、病院の人手不足を補い、患者の精神的・身体的負担を軽減するもので、大いに感銘を受けました。 (病院スタッフの制服:役割別色分け) (日帰り手術用ノート) 尚、私は外国人でしたが、NHS(National Health Service:国民保健サービス)に加入していた為、薬代を除き医療費は無料でした。一般的に日本人駐在者は会社で加入する海外旅行保険を適用し、高額なプライベート医療サービスを利用することが多いですが、私はNHSの病院で奇跡的に手術日を確保出来た為、また冒険心にも駆られて手術を受けることにしました。因みに、奇遇にも同じ剣道場で数週間後にアキレス腱を断裂したポーランド系の方は、NHSの手術待ちが3カ月だった為、ポーランドで手術を受けたそうです。英国の医療現場が慢性的に混雑し、極めて厳しい状況にあることは事前に知っていましたが、道場で私の為に呼んで頂いた救急車が2時間待ち(後にキャンセル)だったことから、その現実を身をもって痛感させられました。 ※ノートには、手術前の準備(体温、脈拍、血圧、血液チェック、退院後の松葉杖の使い方指導等)から、術後の体力回復処置、退院許可迄のプロセスがページ毎に記載されていました。 その後、ギブスを装着してのドイツ出張では、イミグレーションの審査が驚くほどスムーズに進み、健常者としての移動よりも楽で早かったという貴重な体験もありました。イミグレーションでは電気自動車に乗せられ、そのまま空港出口まで送って貰えたことも印象に残っています。 英国赴任を終えて 振り返ると、英国での赴任は、仕事、異文化での暮らし、そして家族との時間という三つの面で、多くの学びと成長がありました。仕事や異文化での経験はこれまでも積み重ねてきましたが、家族の存在を何より大切にし、共に過ごす時間を最優先するようになったのは、この英国での生活がきっかけでした。子供達が成長し、家族で一緒に過ごす時間が減ってしまった今、コロナ禍のロックダウン中に家族水入らずで過ごした時間が特別な思い出となっています。ロンドンの青空の下、自宅裏庭で楽しんだBBQは、かけがえのない記憶です。 (ジブラルタル海峡:ここから顧客のいるモロッコへ船で渡りました)(ストーンヘンジ:ロンドンの自宅からたったの130km) (アイスランド:家族旅行) ● 現在:コネクタ事業ライン 海外赴任から帰国後、特定顧客の営業チームの責任者を務めた後、営業ラインを離れ、海外契約書のリーガルチェックという新たな職務に就きました。この業務では、海外の取引先や今後取引を予定している会社から提示された契約書に含まれる法的問題や自社に不利益な条項が無いかを精査します。また、取引内容に適合しているかを確認し、必要に応じて修正案を提示します。契約締結プロセスは、最終交渉の場であり、トラブルを未然に防ぎ、健全な関係を築くことが重要です。 法務バックグラウンドはありませんが、営業経験を通じて基本的な契約書の知識は持っていました。しかし、それを専門職として扱うのは全くの初心者であり、当初は手探りの状態でした。その為、法務部門のアドバイスや支援を受けながら、外部セミナーを受講し、情報収集を重ねて来ました。現在、業務を始めてから1年以上が経過し、100件以上の契約書をチェックし、150件以上の文献を読み、少しずつ知見が積み上がって来たと感じています。 この仕事において、私が特に重視しているのは、営業バックグラウンドを活かしたリスク評価です。同じ条文でも、相手方がどのような会社で、どのようなビジネスを進めようとしているのかによって、評価が異なります。長年の海外ビジネス経験を基にした分析・判断力を発揮し、日々新たな業務に全力で取組んでいます。(ロンドン: タワーブリッジを一望しながらのアフタヌーンティ) 【エピローグ】 これまでのキャリアを通じて学んだのは、「人生に無駄な経験は無い」ということです。転職や新たな挑戦を重ねる中で、失敗と成功を繰り返して来ましたが、その全てが今の私を形成する大切な要素となっています。若い世代の方々が自分の夢を追いかけ、理想に向かって進む為の力と勇気に少しでもなればという思いを込めて、この体験記を書き進めました。 「外国人と日本人は、同じものを見た時に同じように見えるのだろうか?」幼い頃に抱いたこの疑問に対する答えが、年月を経て少しずつ見えて来たように思います。私達の世界の見え方は、目の色等の生まれ持った特徴や、育った環境、経験によって異なるものです。同じ日本人同士でも、年齢や生活環境によって物の見え方には違いがあることを日々感じています。 交通機関の発展による人的交流に加え、インターネット技術の革新による国境を越えた情報交換の活発化が、本格的なグローバル社会の到来をもたらしました。今や世界中の人々との共生が日常となり、日本でも様々な背景を持つ人々が増えています。グローバルスタンダードや普遍的価値観の追求が進む中で、この流れに対して懸念も感じています。均一化による公平性は大切ですが、それによって多様性が失われることは避けなければなりません。また、多様性を認める為にマイノリティーを優先することが、時に不条理を生むこともあります。私達は、非常に難しい時代の局面に立たされています。 私は、より良い未来を築く為に、日々の小さな一歩を大切にしながら、自分らしく出来ることを続けて行きたいと思っています。この体験記が、読んで下さった方にとって、少しでも前向きな気持ちや、新たな一歩を踏み出すきっかけになれば幸いです。 (原田 晴之さんプロフィール) 群馬県出身 1984年3月 東京都立板橋高等学校 卒業 1985年6月 米国カリフォルニア州Bloomington High School 卒業 1986年4月 東京国際大学教養学部国際学科 入学 (下羽ゼミ) 1989年9月 米国オレゴン州Willamette University入学 (3学年編入) 1991年5月 米国オレゴン州Willamette University 卒業 (BA政治学専攻) 1992年3月 東京国際大学教養学部国際学科 卒業 (大越ゼミ) 1992年4月 池上通信機株式会社 入社 1996年3月 池上通信機株式会社 退社 1996年4月 Cyber Technologies International株式会社 入社 (ITベンチャービジネス) 1996年10月 Cyber Technologies International株式会社 退社 1996年11月 Activision Japan 株式会社 入社 (米国ゲームメーカー日本支社) 1997年6月 Activision Japan 株式会社 退社 1997年7月 日本航空電子工業株式会社 入社 (電子機器・部品メーカー) 2016年3月 JAE Europe, Limited 出向(英国販売子会社) 2020年10月 日本航空電子工業株式会社 帰任、現在に至る (航空電子スポンサーのボブルヘッド人形) (シアトル:イチロー選手) TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
原田 晴之さん (1992年卒業 教養学部国際学科/大越ゼミ 1991年Willamette Univ.卒業/BA政治学専攻)2024年10月1日【プロローグ】 私が海外に興味を持ち始めたのは幼稚園での出会いがきっかけでした。カトリック系幼稚園で良くして頂いた神父、先生(シスター)方、そして聖書の挿絵に登場する聖人達は皆、外国人でした。園庭で先生と一緒に遊んでいた時に、花壇のチューリップが果たして自分と同じ様に見えているのだろうかと考えていた記憶が、ぼんやりと残っています。(幼稚園から頂いた聖書) 【高校留学】 カリフォルニア州のメキシコ系アメリカ人家庭にホームステイをしながら、地元の公立高校 (Bloomington High School) に1年間通いました。激しい環境の変化に身を投じた事で、いきなり人生の転換期を迎えました。勉強不足による知識の無さや思考力の弱さを痛感し、帰国後に何を為すべきか大いに悩んだ時期でした。 ■ 自律性を養う 私のホストファミリーは、モービルホーム (トラックで牽引出来る家) に住む共働き家庭(3人家族+犬1匹& 猫1匹)でした。食事は冷蔵庫にある食材を各自が勝手に料理して取ることが基本で、家事はホストブラザーと分担していました。ところが、滞在3か月を過ぎた頃から、冷蔵庫が空になることが増え、家事の分担も私に偏り始めました。 普段はのんびり屋の私でしたが、「空腹」が「飢え」に変わったところで突然「スイッチ」が入り、自分でも驚く程の行動力を発揮したのです。近隣の家や友人宅を訪ねて、「芝刈り」「庭木の剪定」「掃除」「洗車」「ベビーシッター」「犬の散歩」「プールの清掃」等の仕事を次々と取り、家事で身に付けたスキルを総動員して、一気に問題を解決してしまったのです。(その勢いは止まらず、学校の昼食を無料にして貰うことにも成功しました。) その後、高校卒業に必須のクラス「American History」の前期分を、留学初期の英語力不足が原因で履修漏れが判明し、留学中最大の危機に直面しました。しかし、幸いにもその時ちょうど「スイッチ」が入って「エンジン全開」の状態だった為、この難局をうまく切り抜けられました。日本の高校で履修済みの世界史の教科書を手に、カウンセラーの先生や社会科の教諭、教頭先生に必死で掛け合いました。そして、補習クラスの履修を条件に「前期分」に相当する単位の置換を認めて貰うことに漕ぎつけたのです。 「自分の問題は自分で解決する」「自ら考え行動する」という自律性を養うことが、高校留学で得た最大の収穫でした。 (高校のクラス) ■ 英語の多様性とTPO 若者の英語、大人の英語、綺麗な英語、汚い英語、白人の英語、黒人の英語、メキシコ人の英語、インド人の英語、中華系の英語、西海岸の英語、LAヴァリーガール (Valley Girl) の英語、サーファーの英語等、多種多様な英語が日常生活でパワフルに話されており、米国デビューを果たした私の前に大きな壁として立ちはだかりました。私は小さなメモ帳を常に携行し、聞き取れた言葉をカタカナでメモし、帰宅後には鏡の前でネイティブスピーカーになったつもりで、カッコよく身振り手振り付きで発声練習を行いました。翌日には学校の友達にそれを披露してアルファベットに変換して貰い、帰宅後に辞書で調べて正確な意味を理解するというルーティンを徹底的に繰り返しました。その結果、3カ月後には確かな進歩を感じ、それが自信につながりました。 ところが、日々私が書き溜めて練習し、身に付けた英語が、米国の一般社会では決して受け入れられないギャング英語(メキシコ系のChicano Englishがベース)だった為に、それまで私を応援してくれた大切な友人が少しずつ私から離れて行きました。私はTPOをわきまえ、学校生活の中では標準的な英語を使うことを心掛けました。一方で、興味のあったインド、スペイン語、中国語訛りの英語については密かに練習を続けました。標準的な英語とそれ以外の切り分けにはかなり苦労しましたが、これも一つの学びでした。 ■ 人種差別 ほぼ単一民族の日本で育った私にとって、自分が「有色人種」である事を強烈に意識させられ、自覚させられたのが米国での生活でした。留学当初、私は「Jap」「Nip」「Gook」「Chink」「Pigtail」「WOG」「Napalm」その他多くの差別語で呼ばれ、学校の内外で不当な扱いを受ける事がありました。ある日、真っ黒に日焼けした自分の手の甲を見た瞬間、「汚い!」と感じた自分に大きなショックを受けました。無意識の内に、東洋人であることに劣等感を抱いていたと気付き、驚いたのです。 滞在期間の後半には友人も増え、それは和らいで行きましたが、学校の授業で見せられた 「A Class Divided」 というドキュメンタリー番組 (※)を通じて、改めて自分が抱いていた「劣等感」の正体を考えさせられました。そして、白人以外の人種に対して抱いていたかもしれない「優越感」がいかに虚しいものであったかを痛切に感じました。 ※ 1968年アイオワ州の小学校で実施された人種差別についての実験授業 YouTubeで日本語版を見つけたのでご紹介します。(NHK特集1988年4月29日放送) 「青い目 茶色い目 ~教室は目の色で分けられた~ (ウイリアム・ピータース著 / NHK出版) (高校の仲間)(高校の仲間) 【東京国際大学】 校名が「国際商科大学 (ICC)」から「東京国際大学 (TIU)」に改称された年(1986年)に入学しました。「高校留学での体験を思い出として終わらせず、深堀りする事で経験値として落とし込みたい。更に勉学を重ねる事で進むべき将来の道を明らかにしたい。」との一心で門を叩きました。 ■ スランプからの脱出 高い志と情熱を持って臨んだ「下羽ゼミ」(国際政治学)で私を待ち構えていたのは、日本全国から集まった個性豊かなクラスメート(曲者)達でした。私とは次元の違う高レベルの論客揃いで、自ら収集した情報(Fact)を分析(Study)し知識 (Knowledge) として吸い上げて行く「大学生の勉強方法」を当たり前の様に実践していました。私も必死で食らいつきましたが、元来の怠け癖と誘惑に弱い性格が邪魔をして空回りし、大学1~2年時は焦燥感に苛まれる事が多かったです。 3年に進級すると「大越ゼミ」(アメリカ研究論)を選択しました。下羽ゼミの仲間達が「厳格な修行僧」、「哲学者」の如く真理を追究する一体集団だとすれば、大越ゼミの仲間達は「まとまりの無い我儘な自由人」、「枠にとらわれない斬新的なクリエイター」の集まりといった印象でした。 一見、全く異なる二つのゼミでしたが、そこで学んだことは共通していました。知識の積み重ねや思考力の鍛錬は他人に代わって貰うことは出来ないこと、焦って背伸びをしても一足飛びに先には進めないこと、地道に継続することの重要性、そして勉強は苦しいだけでなく、取組み方次第では自由で楽しいものだということを教えられました。これは、至極当たり前のことかもしれませんが、私にとって大きな気付きでした。 スランプから脱出して改めて周りを見渡すと、それまで見過ごしていた周りのものが鮮明に見えるようになりました。大学が提供する豊富な選択授業や、新しい図書館や視聴覚室の英語教材の存在に気が付き、それらを積極的に活用することにしました。また、一度は諦めていた留学についても、挑戦したいという気持ちが湧いて来ました。親の支援で一度留学させて貰っていた為、再度の留学は経済的に難しいと感じていましたが、奨学金制度を活用することで再び挑戦出来るのではと考えました。そして、春・夏の海外セミナー(春:ウィラメット大学、夏:南オレゴン州立大学)や長期留学(ウィラメット大学)に全て応募し、大学からの支援を得られました。 ■ 教育実習 将来の進路の一つとして教育関連の仕事を考えており、教職課程を履修しました。大学の紹介により、埼玉県の私立男子高校の2年生クラスで英語の教育実習を行いました。事前準備をしっかりして、気合を入れて挑んだ初授業でしたが、英語以前に生徒のやる気をいかに引き出すかが喫緊の課題であることが分かりました。授業中に簡単な問題を出して何人かの生徒を当てたところ、皆一様に立ち上がらず、中腰で「分かりません」と言って着席してしまいます。 私は、着席した生徒を再度しっかり立ち上がらせ、「分からなくても良いから、分かろうとしよう」と説得しました。そして、答えが出るまでヒントを出し続け、場合によっては答えを黒板に書いて声に出して読ませる等、兎に角最後まで諦めないで挑戦するように指導しました。 また、机の中に教科書ガイドを忍ばせている生徒達には、「英語なんて数学みたいに考えてもしょうがないから、教科書ガイドの積極利用は大歓迎!」と、机上に置いて堂々と使用するように奨めました。教科書の練習問題も面白い文章に全て書き換えて、少しでも楽しめるように工夫しました。 最初はやる気の無い生徒が多かったのですが、中学校で習った辞書の引き方から、必要と思われる基礎的な構文については丁寧に何度も教えたところ、徐々に授業に参加する生徒が増えて行きました。極めつけは、少しずるいやり方とも思いましたが、どのクラスにも必ずいるおしゃべりで明るい生徒をうまく乗せて、授業が楽しくなるようなムードメーカーの役割を担わせることでクラス全体がひとつになりとても充実した授業運営が出来る様になりました。 しかし、私の授業を見学した先生方の評価は、年配のベテラン教師と若い教師とで真っ二つに分かれました。あるベテラン教師は、「原田先生は元気があって声も大きく、発音だけは良いけれど、中学で教わった構文を、わざわざ高校の授業でまた教える必要はないでしょう?」と否定的なコメントを残して教室を出て行かれました。一方で、若い指導教諭は他の若い先生方と一緒になって「原田先生、気にしないで!生徒が分からないから、分かるまで教えるのは当然のことです。中学校で教わっていようがいまいが、関係ありません!」と、私の教授方法を全面的に支持して頂けました。 担当していたクラスには、当時では珍しい米国からの交換留学生が在籍していました。彼と共にハイスクールで実際に話されている会話をスキット形式で授業中に紹介すると、「生きた英会話」に関心を持つ生徒が何人も現れ、教えることのやりがいを大いに感じました (※)。ある日、彼から深刻な二つの悩みを打ち明けられ、それを解消する為に奮闘することになりました。一つ目は、日本語補習の個人レッスンの機会を与えるよう学校と調整したこと、二つ目は、関係がうまくいかないホストファミリーから新しいホストファミリーへの変更をサポートしたことです。実習生の立場で出過ぎた行動だったかもしれませんが、自らの高校留学でお世話になった方々への恩返しのつもりで思わず突っ走ってしまったのだと思います。 ※ それでも教科書英語で基礎を固める事は大切です。 初日から積極的に取組んだ教育実習はあっという間に終了し、仲良くなった生徒達や意気投合した若い先生方に温かく送り出して頂きました。実習校からは大学卒業後に是非来て欲しいという有難いお言葉を頂きましたが(もしかすると社交辞令だったかもしれません)、私は企業就職を選びました。実習期間中に出会った企業経験者の先生の柔軟な視点や考え方、そしてその言葉に感じた重みから、教師という職業には専門教科の知識だけでなく、幅広い社会経験が必要だと強く感じたのです。(これはあくまでも、私の自分自身への評価に基づく判断であり、大学卒業後直ぐに教職に就かれる方を否定するものではありません。) (生徒からの寄書き) 【ウィラメット大学】 再びアメリカへ行くチャンスを得た2年間の奨学金プログラムでは、前回の高校留学時とは異なり、生活に適応するだけでなく、大学生活全体を通して様々な経験を積むことが出来ました。この留学期間は、私の学生時代で最も成長した時期であり、大いに学び、大いに悩み、そして大いに楽しむことで、現在の私の土台を築きました。(ウィラメット大学) ■ 寮生活:フラットハウス ウィラメット大学は、1842年に創立された西海岸で最も古い大学です。オレゴン州会議事堂に隣接する美しいキャンパス内の学生寮で2年間を過ごしました。キャンパスにある学生寮は、個室の寮もありますが、ルームメートとシェアする二人部屋が基本です。私が編入した当時は寮が満室でしたが、大学が交渉して会員制のフラタニティーハウスの一室を仮住まいさせて貰うことで留学生活をスタートしました。 「フラタニティー」(fraternity)とは辞書によると、「米国の男子学生の社交クラブ、友愛会」と定義されており、その歴史はアメリカの建国の歴史からそれ程遠くない1800年代初頭に、学生達が理想の学生生活を求めて結成したグループに遡ります。当時のアメリカは自由の国として建国されましたが、教育界は保守的で学生の行動には厳しい制約があり、その為学生の活動は地下に潜り、秘密結社的な形態をとりました。やがて、フラタニティーは全米に広がり、現在では多様なグループが設立され、共通の趣味や価値観を持つ学生が集う伝統的な学生組織として認知されました。私が仮住まいしたフラタニティーは、「ΣΑΕ:Sigma Alpha Epsilon」(略称 エス・エイ・イー)という全米に支部を持つグループでした。フラタニティーは「Greek Society」とも呼ばれ、ギリシャ語2~3文字の略称が一般的です。 (ΣΑΕハウス) (ΣΑΕの仲間達と) その後、第一希望の寮であるWISH (Willamette International Studies House) に空きが出ず、止む無く移った個室のYork Houseでは、隣室の学生からタイプライターの音がうるさいとの苦情が出て、夜間の使用を禁止され、困っていました。そんな時、ΣΑΕから新会員候補としての招待(Bid)を受けました。私はフラタニティーという謎めいたグループに興味があり、招待を受けた後、正式なプロセスを経てメンバーとなりました。 フラタニティーのメンバーになる為には、「Rush」と呼ばれる募集期間中に希望するフラタニティーのイベントに参加し、メンバー達と交流します。そこで選ばれた者は招待状を受け取り、次に「Pledge」という新会員候補または見習いとして一定期間の試練や課題(Initiation)を乗り越えることで、正式会員となります。各フラタニティーには伝統的な儀式 (Ritual) やイベントがあり、その内容の多くは秘密です。会員となった後、秘密の合言葉や挨拶の仕方が伝授され、フラタニティーのギリシャ文字が入ったトレーナーやTシャツの着用が許されます。また、本部からはスーツのジャケットにつけるピンバッジ(記章)と証書が贈られます。 フラタニティーは、派手なパーティーを開催することがあり (※)、ハウスの地下室にはバーカウンターやビールサーバーが完備されています。パーティーの日には、キャンパス中から着飾った生徒が集まり大変な賑わいを見せます。クラスの課題に追われる私は、図書館横の24H Study Roomで勉強を終えた後、深夜遅くハウスに戻るのですが、パーティーが終わっているわけもなく、そのまま巻き込まれ酔っぱらって気絶することが何度かありました。アメリカの大学生活をフルに体験し、満喫する為には避けては通れない修行の場でもありました。(楽しい思い出です。) ※ フラタニティ―は、パーティーで大騒ぎするイメージばかりが先行していますが、ボランティア活動等の社会奉仕も盛んに行っています。 ■ 授業 アメリカの授業は進行が早く、私が専攻していた政治学(Political Science)は、授業に出る前提となっている読書課題(Reading Assignment)の量が特に多い学科でした。成績は以下の4項目で評価され、ネイティブの学生ですら毎日必死で勉強に励んでいました。 ①Attendance(出席) ②Participation(授業への参加、貢献) ③Exam(試験) ④Paper / Assignment(提出レポート・課題) 新入生は、最初の半年間(1st Semester)でしっかり勉強の習慣と最適な勉強法を身につけないと、学校が指定した成績に到達出来ず、学業保護観察処分(Academic Probation)を受けることになります。これにより、学校のイベントや部活動等への参加が禁止され、次の試験で成績が改善されない場合は退学(Academic Dismissal)の厳しい措置が取られてしまいます。 2度目の留学とはいえ、英語のハンディキャップが大きく、初年度の前期クラスでは、アドバイザーのセオドア・シェイ教授(政治学 博士)の助言を受けて、新入生クラス(100番台)で英語の基礎を固めると共に成績(GPA)の確保に努めました。その中で、「Public Speaking」のクラスは、毎回スピーチ原稿を準備し、クラスメートとビデオカメラの前でスピーチするという、とてもストレスフルなものでしたが、そこで学んだことは、後の授業だけでなく、就職後の仕事にも大変役立っています。 また、政治学の初級クラスでの初回レポートでは、政治哲学(The Role of The Individual and Political Order)について書きました。脳みそが千切れる程に考え抜き、何度も書き直し、連日の徹夜で仕上げましたが、既に提出締切日の授業が終わるタイミングであると気付きました。慌ててキャンパスを走り、教授のオフィスドアを激しくノックしました。何事かと出て来たシェイ教授は、開口一番「教師生活30年、寝巻き姿で飛び込んで来た生徒は君が初めてだ!」とあきれ返っていました。言われてはっと気付くと、確かに髪はぼさぼさ、無精髭、Tシャツに短パン、素足にスニーカー姿で、タイプライターで打ち終えたばかりのレポートを持って訪ねた私は、尋常でない迫力を感じさせたのかもしれません。本来受理されなかったかもしれないレポートでしたが、しっかり採点され、後日返却して頂きました。 実家から当時のレポートが出て来て、表紙に書かれたシェイ教授の温かいコメント(※)が、あの頃の私をどれほど励まし、支えとなっていたかを思い出しました。教授にとっては何気無い一言だったかもしれませんが、私には大きな力となりました。長い年月が経った今、改めて感謝の気持ちで一杯です。本当にありがとうございました! ※ シェイ教授のコメント This is an excellent paper. Very thoughtful and full of interesting insights. Well done in all respects. It is an A paper which has to become an A- because it was late. Again, excellent essay! これは素晴らしい論文だ。非常に思慮深く、興味深い洞察に満ちている。全ての点で良く出来ている。遅れた為 A- となったが、A論文である。もう一度言うが、素晴らしいエッセイだ! ■ 忘れられない貴重な体験の数々 夏休みの造園業や冬休みの牧場でのアルバイト、スクールマスコット(Barney the Bearcat)としての全米チアリーディング合宿参加や学校対抗のスポーツイベントでの活動、更に留学生会(WISA:Willamette International Student Association)やボランティア活動等、まるで見えない手に背中を押されるかのように、様々なことに挑戦し、貴重な体験を重ねました。これにより、自分の日本人としてのアイデンティティと価値観を確認し、現在のマインドセットの礎を築くことが出来ました。今、ひとつひとつの体験が記憶として蘇りますが、拙稿がネバーエンディングとなってしまいますので、ここでは割愛し、先に進ませて頂きます。 授業について行くのが精一杯だった私が、全ての活動をどうやってマネージメント出来たのか、今でも分かりません。しかし、私が留学生活を全う出来たのは、間違いなくウィラメット大学の教授陣とクラスメートの皆さんの支えがあったからです。また、海の向こうの日本から励ましの手紙を送ってくれたTIUの仲間達、両親、そして天のご加護にも感謝します。そして忘れてはならないのは、TIUAのDeanを務められていた川嶋教授のご厚意でご自宅にお招き頂き、ご馳走になった奥様の温かい家庭料理、かわいいワンちゃんのおもてなしが、ともすれば崩れそうだった私の心を癒し、励まして頂けたことです。この場をお借りして心から御礼申し上げます。 卒業式は屋外のスタジアムで盛大に開催されました。当時、湾岸戦争へ予備役(Reserve Force)として中東に派兵されたクラスメート達は、皆落第となってしまいました。当日はまだ帰還していなかった彼らの名前が読み上げられ、「名誉ある落第」として称えられました。観客席からは大きな歓声と拍手が沸き起こり、よく晴れた高い空にこだましました。 (学校新聞1面に掲載される) (卒業証書授与) 【就職】 資源に乏しい我が国が、高い技術力と品質でモノづくりをし、世界に輸出することで発展して来たことに、私は先人達への深い敬意を抱いていました。文系の私としては、直接モノづくりに関われないまでも、日本の優れた製品を世界中の人々に紹介し、使って貰うことで貢献したいと考えました。大袈裟かもしれませんが、日本と世界各国との経済交流を深めることで、日本の安全保障はもちろん、世界平和の維持に少しでも寄与したいという思いから、メーカーへの就職を決意しました。その後、2社目、3社目でIT・ゲーム業界を経験しましたが、初心に立ち返り4社目のメーカーに転職しました。ここで27年間勤め、来年には定年退職を迎えます。2社目、3社目での経験を通じて、製造業がハードウェア中心の開発からデジタル技術を介してインターネットやソフトウェアとの融合を考慮した開発へと進化していく流れを肌で感じられました。 ■ 1社目:放送機器メーカー 池上通信機株式会社(以下、池上)は、放送用・業務用機器の分野で世界的に高い評価を受けている放送機器メーカーです。それ以外にも、監視カメラ、医療用カメラ、錠剤検査装置等も手掛けています。主力製品の放送用カメラは、世界中の放送局や映像プロダクションで使用されており、その高い性能と信頼性で、現場のプロフェッショナルから絶大な支持を得ています。テレビで大型スポーツイベントやコンサート、そしてニュース報道の現場で使用されるカメラが一瞬映像に映る事がありますが、「Ikegami」のロゴを見るたびに胸が躍ります。 私が入社した当時 (1992年)の主流はアナログ方式であり、世界的な大手総合家電メーカーが開発した放送用カメラが束になっても、池上の製品には及びませんでした (※)。その後、1990年代後半からデジタル技術の導入が活発化し、デジタル方式への移行が加速しました。池上は競合他社との熾烈な競争を繰り広げながらも、積極的な技術革新を続け、業界での確固たる地位を守り抜きました。池上を離れた今でも、私は変わらず 「Ikegami Fan」であり続けています。 ※競争入札等で、競合他社のカメラと池上のカメラを並べて同じ対象物を撮影し、性能や操作性を比較することがありました。これにより、放送用カメラで最も重要な解像度や色再現性が一目瞭然に判別出来ました。特に色再現性については、競合他社のカメラは一般家電用技術を基にしている為、実物よりも鮮やかに映る傾向(誰が撮っても綺麗に映る補正回路?)がありましたが、池上のカメラは本物の色味を忠実に再現します。その為、放送業界のプロフェッショナルの厳しい要求や期待に応える製品であることが何度も証明されました。海外広告では、「The Professional Cameras dedicated to the Dedicated Professionals」というキャッチコピー(正確には覚えていませんが)が使われており、池上の特長を的確に表していると感じ、とても誇らしく思っていました。 ● 海外業務の習得 池上は、人を育てることに長けた会社であり、私が在籍した4年間という短い期間の中で、海外セールスに必要な基本的スキルセットをほぼ全て学ぶことが出来ました。海外販売子会社、海外代理店、海外販売店、国内大手商社との取引を通じて輸出入の知識や見積書作成、受発注納期管理、代金回収、技術翻訳、顧客アテンド等、多岐にわたる業務を経験させて頂きました。 担当地域は、インドネシア、インド、パキスタン、オーストラリア、ニュージーランド、そして最後は北米でした。一番の思い出は、あるODA案件で、スタジオシステムと大型中継車(OB Van)の入札、落札、納入初期まで、上司と先輩社員の指導の下、懸命に進めたことです。途中で異動となり、最後まで関与することは出来ませんでしたが、この経験を通じて多くのことを学びました。特に、プロジェクトの初期段階での情報収集や綿密な計画、営業と工場関係者との緊密な連携が成功の決め手であることを深く実感しました。 ● 恩義ある会社との別れ 池上では、尊敬できる上司、先輩、同僚に恵まれ、会社の外でもスポーツやBBQを楽しむ等、非常に親密なお付き合いをさせて頂きました。直属の上司であり兄貴分と慕っていたTさんに退職の意を伝えた時、最初は慰留されましたが、最終的には「会社にとって原田に残って貰うのは良いことだと思う。しかし、原田のこれからの人生が悔いの残らないものになるかどうかまでは保証出来ない。だから、原田が選んだこの決断を尊重し、応援する」と言って送り出して頂けました。今の会社で私が管理職となり、若い部下が辞める度にまさか同じ言葉で送り出すことになるとは、カルマを感じずにはいられません。 ■ 2社目:ITベンチャービジネス 日本でのインターネット利用者が殆どいなかった1990年代初頭、サイバーテクノロジーズ・インターナショナル株式会社(以下、サイバー)が創業されました。創業メンバーは全員アメリカ人で、既にインターネットが爆発的に普及し始めていた米国ではなく、これから普及が見込まれる日本に進出してビジネスチャンスを掴もうとしました。彼らは企業や一般ユーザー向けのインターネット接続、サーバーレンタル、ウェブページ作成・更新メンテナンス、ソフトウェア・プログラム開発等のサービスを積極的に展開し、日本のインターネット黎明期を支える重要な役割を果たしました。 ● インターネットとの出会い 創業メンバーの社長を含む4人はウィラメット大学の卒業生で、日本進出の手始めとしてインターネット導入に前向きな外資系企業から確実にビジネスを獲得し、その勢いで日本企業への展開を本格化しているところでした。ウィラメット大学の友人として食事に誘われ、集合場所として立ち寄った彼らのオフィスで、当時最先端のインターネット技術を次々と披露され、大変驚かされました。 一方で、そんな煌びやかなプレゼンテーションの後で私の心を捉えて離さなかったのは、今では当たり前となった電子メールでした。大変地味なアプリケーションでしたが、今後これが世界中で普及し、国境を越え遠くにいる人達と容易に繋がることが出来ると確信しました。私はこの新しいコミュニケーションツールの可能性に心を躍らせ、未来の広がりを感じずにはいられませんでした。 後に友人から、食事の真の目的が私の勧誘であることを明かされました。それまで私を育ててくれた池上への恩義があり、まだ大した貢献もしないうちに転職することに大変悩みましたが、これから急激な発展を遂げるであろうインターネット業界に身を投じて、世の中の動きを直に感じてみたいという思いが強くなり、新たな道に進むことを決意しました。 ● インターネット・ビジネス 当時日本の大企業は次々とWebサイト(ホームページ)を立ち上げ、大口の仕事の依頼が寄せられました。大手総合家電メーカー、大手自動車メーカー、大手商社、大手不動産会社、外資系大手通信会社、駐日外国大使館等、多くの優良顧客との取引きが成立しました。 それまで安定した収入源のひとつであった個人向けダイアルアップ(電話線)やISDNによるインターネット接続サービス業務からは撤退し、設立当初から会社が目指していたIT技術による企業向け「ビジネス・ソリューション」の展開にシフトして行きました。サイバーが構築・運営サポートをしていた企業向けWebサイトには、今でこそ盛んに利用されているWebマーケティング機能が既に搭載されていました。ユーザーがどのようにWebサイトまでたどり着いたのか、Webサイト内のページアクセス・ログ(閲覧履歴)、再訪問率等を分析して顧客企業に提供していました。 ● 時代の寵児 私が関わった仕事の中でエキサイティングだったのが、顧客であり提携パートナーでもあった株式会社ハイパーネットとの協業です。同社は、ウェブブラウザーに広告表示することでインターネット接続料金を無料にするシステムを開発し一世風靡したベンチャービジネスの雄でした。残念ながら急速な事業拡大をした直後に銀行融資が縮小され市場環境の変化(ITバブル崩壊)もあり倒産してしまいました。この企業の上層部は皆私と同世代で、社長を筆頭に物凄いカリスマとオーラを発していました。副社長のN野氏はハイパーネットを退職後、NTTドコモでi-modeを立ち上げ、現在KADOKAWAの代表取締役社長としてご活躍されています。ハイパーネットの倒産については「社長失格」(板倉雄一郎著 / 日経BP社)という本となり、後にTVドラマとして放映されました。同書に登場する人物は実名で書かれており、当時窓口としてお付き合いしていた事業部長のN山氏が突然退職された理由が分かり、心が痛みました。(板倉雄一郎著 / 日経BP社) ● 夢破れる 大きな夢を抱いて入社したサイバーですが、小規模のベンチャービジネスが成長を続ける為には、卓越したアイデアだけでなく、資金面のバックアップや「運とタイミング」も必要です。当時、インターネットは日々目覚ましい発展を遂げていましたが、「インターネット」という言葉やイメージばかりが先行し、実際に何が出来るのか、どう活用するのかはまだ手探りの状態でした。魅力的なWebコンテンツやアプリケーションも殆ど無く、市場は未成熟で利益を創出するのは厳しい環境でした。サイバーの財務状況が悪化し始めた頃、私は親しくなった技術部長に誘われ、米系大手ゲームメーカーへ転職しました。現在サイバーは在りませんが、それぞれ別の道を歩んでいる友人達とは今でもインターネットで繋がっています。先日、カナダに移住した元社長と二十数年振りに再会し、友情を再確認出来たことが非常に感慨深かったです。学生時代に始まり、短いながらもサイバーで共に苦楽を味わった仲間との絆は、時を経ても変わらず、私にとって大切な宝です。 ■ 3社目:米国ゲームメーカー日本支社 アクティビジョン・ジャパン株式会社(以下、アクティビジョン)は、世界最大手のゲームソフトメーカーであるActivision, Inc.(現:Activision Blizzard, Inc.)の日本法人でした。主な業務内容は、パソコンや家庭用ゲーム機向けのゲームソフトおよびライセンスの販売であり、米国本社で開発されたゲームを日本市場に合わせてローカライズ (日本語化) する機能も担っていました。バイリンガルのエンジニアが、日本語に翻訳された音声やテキストをゲーム内に組み込む作業を行っていました。アクティビジョンは「洋ゲー(洋物ゲーム)」として知られ、特定の「洋ゲーマニア」から強い支持を受けていました。 1990年代後半、ゲーム業界では大きな技術革新の波が起こりました。アクティビジョンはロボット対戦、カーチェイス、戦闘機対戦等のゲームにインターネット対戦機能や3Dポリゴン技術を導入し、リアルな質感のある画像でのオンラインマルチプレイ (※) を実現しました。更に、AI機能をいち早く採用することで、特定の洋ゲーマニアだけでなく、一般ユーザーも魅了しました。 ※ インターネット上で複数のユーザーが同時にプレイすること ● ゲーム業界に身を投じて ゲーム業界には、「PC系」と呼ばれるパソコン向けのゲームソフトと、「コンシューマー系」と呼ばれる家庭用ゲーム機向けのゲームソフトがあります。前者はWindowsやAppleのOSを使用するパソコン向け、後者は任天堂、ソニー、セガが製造する専用ゲーム機(ファミコン、プレイステーション、セガサターン)向けです。私は、PC系ゲームソフトを営業活動のメインとし、北海道から九州までのパソコン量販店、ゲームソフト専門店、家電量販店、書店、玩具店を一人で回っていました。上司命令で、どこにいても最低でも週に1回は主戦場である秋葉原の得意先に顔を出すようにしていました。また、週末にはゲーム大会を企画・開催し、休む間もなく働いていました。 当時は、大きな量販店であっても購入を決める担当者の多くは、ゲームソフトに精通した若手社員やアルバイト学生でした。彼らは気さくに話を聞いてくれ、自社ゲームの反響や競合他社の情報、パッケージの改善点等を教えてくれました。私は毎晩帰宅後に自社ゲームと競合他社のゲームをプレイしながら知識を深め、次第に洋ゲーの独特な世界観に心を奪われるようになりました。日本のゲームが色鮮やかでBGMや効果音が派手で楽しいのに対し、洋ゲーの少しくすんだ色使いや幻想的なBGM、効果音には奥深い魅力がありました。 一度興味を持ち始めると、全国のゲーム調達担当者とのコミュニケーションが充実し、大手卸業者(問屋)から得た仕入情報の分析(顧客毎に違う売れ筋、売れないタイトルの傾向、地域毎の顧客動向他)が少しずつ出来るようになりました。当初は、やみくもに飛び込み営業を繰り返していたのですが、上司の熱血指導のお蔭で(毎日こっぴどく叱られていました )、体を使った営業だけでなく、頭を使った営業の重要性を認識し、営業スタイルの改善に努めました。そして問屋からの情報を基に、訪問先を絞り込み、顧客毎の個別アプローチを展開した結果、ポスター掲示や販促品の自由な配置、更にはアクティビジョン専用の特設コーナーの設置を許可される等、店舗でのプロモーション活動が活発化しました。その結果、アクティビジョンのゲームが店頭に増え、目立つ場所に置かれる機会も増えて行きました。 ● 体力勝負だった広報活動 ゲーム業界での営業に慣れて来た頃、広報担当者の退職に伴い、掛け持ちで広報の仕事を担当することになりました。雑誌社を訪問して新作ゲームのデモを行い、記事掲載をして貰うことでその認知度を高める取組みを実施しました。広告よりも特集記事等に掲載される方が、広告効果が高く、費用対効果も抜群でした。当時はまだ最新ゲームを滑らかに動かせられる高性能なノートブックPCが少なかった為、大きなブラウン管モニター、ステレオスピーカーとデスクトップパソコン一式を抱えて会社から出て、道端で捉まえたタクシーに積んで雑誌社へ持ち込んでいました。今振り返ると体力と気力に満ち溢れていた若い自分だからこそ出来たのだと懐かしく思い出されます。 ● 新たなる成長へ向けて アクティビジョン・ジャパンは12〜13名の小さな会社でした。このような小さな会社が競争を勝ち抜く為には、綿密な戦略と作戦が必要であり、その実行過程では常に修正を加えながら前進していくことを学びました。特に、マーケティング理論「ランチェスターの弱者の戦略」を営業戦略に取り入れていたことは興味深く、勉強になりました。猪突猛進で頑張っているだけでは成果が上がらないことを、全国のお客様を訪問する営業活動やキャンペーン、広報活動を通じて理解しました。アクティビジョン・ジャパンでの経験は、仕事に対する考え方やアプローチを少しずつ変える契機となりました。(30代まで続けたGymトレーニング) (老舗洋ゲー専門店で自社ポスターと) ■ 4社目:電子機器・部品メーカー 日本航空電子工業株式会社(以下、航空電子)は、「コネクタ事業(コネクタ)」、「インターフェース・ソリューション事業(タッチパネル、タッチパネルモニタ)」、「航機事業(航空・宇宙電子機器・部品)」の3事業ラインからなる電子機器・部品製造メーカーです。1953年の創業時に、将来日本に必ず訪れる航空・宇宙産業時代にエレクトロニクス技術で社会貢献をしたいという思いが社名に込められています。 一大決心して大恩ある池上を飛び出し、サイバーで夢破れ、ゲーム業界で忙しい日々を過ごしていましたが、心の奥底では、日本の高度な技術や製品を世界に紹介して行きたいという気持ちが再び強くなっていました。そんな折、週末に予定していた顧客とのアポイントがキャンセルとなり、ふと手に取った求人雑誌で『国際派転職フェア』の広告が目に留まりました。丁度スーツを着ていたこともあり、思い切ってその転職フェアを訪れてみると、そこには航空電子がブースを構えていました。航空電子は、池上の製品に使われていたコネクタを製造しており、その縁もあって興味を引かれました。しかし、再度転職することには少し躊躇しており、その場での決断は出来ませんでした。それでも、航空電子から何度も熱心にお誘いを頂いたことで、次第に決心が固まり、この会社で新たな挑戦をすることを決意しました。 ● 航機事業ライン 最初に配属された航機営業本部では、技術翻訳から始まり、産業機器向けアプリケーションに使用される加速度計、光ジャイロ、リニアモータの営業に幅広く携わりました。具体的には、油田掘削時におけるドリル先端の位置・方向把握に使用される加速度計やセンサーパッケージ、製造機器のXYステージを駆動させるリニアモータ、トンネル内の壁面検査ロボットの位置・姿勢測定用センサーユニット、構造物の揺れを低減するアクティブ制振用センサーユニット等、様々なアプリケーションに関わりました。 配属初期の修行 私は航空電子が新卒以外で初めて雇った文系出身の営業マンでした。その為、技術用語が飛び交う営業フロアでは、日本語でさえ理解が難しい状況でした。そこで、会社にお願いし、最初の1ヵ月間は工場の設計部門で若いエンジニアの隣に席を設けてもらい、加速度計や光ジャイロの原理や応用について学ぶ機会を得ました。その結果、社内で話されている大まかな内容について把握出来るようになりました。当時、会社の営業フロアには、日本初の国産H-IIロケットの姿勢制御を司る慣性誘導装置の開発を担当し、NHK番組「プロジェクトX」に出演した技師長や、米国の技術系一流大学出身で油田ビジネスを開拓した猛烈営業部長(私の最初の上司)等、優秀な方々で溢れていました。彼らと共に働く中で、多くのご指導を頂き、新しい環境に慣れていくことが出来ました。 余談ですが、この技師長がH-IIロケット用の慣性誘導装置を開発中、ジェットコースターにその装置を載せて何度も試験を繰り返したという逸話を最近になって知り、私もテレビ番組のロケで、読売ランドのジェットコースターに加速度計ユニットを持ち込み、背中向きに乗って加速度を測定したことを思い出しました。先輩の開発時の逸話には遥かに及びませんが、私もほんの少しだけテレビに映ることが出来たこの経験には、ささやかながらもロマンを感じています。 閑話休題、工場勤務から営業部署に戻ると直ぐに、上司と技術部長と共に、英国を皮切りに米国テキサス州を中心とした石油掘削関連の顧客を次々と訪問しました。加速度計や光ジャイロの拡販においては、単に製品性能を示すだけでなく、顧客のアプリケーションやニーズに応じた技術提案が求められます。顧客の態度や反応から、航空電子がこれまで着実に顧客の要望に応え、その結果として深い信頼関係が築かれていることが分かりました。これをしっかり受け継ぎ、更に発展させていく責任が自分に課せられていると感じ、身が引き締まる思いがしました。(定年退職が迫る上司の背中から発せられる強烈なプレッシャーと期待が、ひしひしと伝わって来ました。) 毎晩ホテルに戻ると、上司と技術部長の指導の下で打合せ議事録を作成し、本社にFAXで報告した後、ようやく食事にありつけました。しかし、その食事も顧客接待を想定したレストラン開拓を兼ねており、寝るまで気を抜くことが出来ませんでした。厳しい旅でしたが、この経験は最高のOJTであり、普段忙しい上司と技術部長から直接学べた時間は贅沢で貴重なものでした。 予期せぬ異動 私は当初、米国の販売子会社に出向している方の交代要員として雇われていましたが、その話は諸事情により無くなってしまいました。そして2年後、会社の主力ビジネスであるコネクタ事業ラインの海外営業本部に異動することになりました。人生最後の転職として覚悟を決め、難しい技術知識の習得や営業活動に取組み、更には商社へ出向して営業スキルを磨いていた私にとって、この異動は大きなショックでした。社内とはいえ、全く異なる業種への異動は転職と同じようなインパクトを感じていました。 記憶に残る仕事 2年間の航機営業で特に印象深かった仕事の一つに、1998年にテキサス州ヒューストンのアストロドームで開催された海底油田関連の展示会(Offshore Technology Conference)への出展があります。当時、航空電子は世界最小サイズ (直径19mm) の耐環境・高温対応 (~175℃) の加速度計を開発し、小さなブースで発表しました。海底油田掘削関連の展示会ということもあり、他のブースはヘリコプターや商用潜水艦、ボート、掘削ドリル等大規模な展示を行っていましたが、我々のブースはお手製の20cm程のシーソーに加速度計を取り付け、それを上げ下ろしする際に出力される電気信号を波形モニターに映し出すという、非常にシンプルなデモを行いました。 派手な展示が多い中、航空電子の小さく地味なブースに展示開始と同時に多くの人が押し寄せ、大変驚きました。競合他社も同等仕様の加速度計を発表していましたが、偵察したところ、それは外観だけで中身の無い「どんがら(モックアップ)」でした。開発が間に合わなかったのです。この瞬間、私は心の中で「やった!」と叫びました。航空電子の開発が競争に勝った瞬間でした。 油田掘削は年々深く掘り進む傾向にあり、それに伴いドリルの先端はますます細くなっています。さらに掘削が進むにつれて地中温度は150℃を超える高温となる為、小型で耐熱、耐衝撃、且つ高精度な加速度計が業界で求められています。当時、この要件に応えられる会社は航空電子と競合他社の2社だけでした。(米国テキサス州:Offshore Technology Conference) もう一つ印象深い仕事としては、ある欧州メーカーへの拡販取組みがあります。当時、国内の主要産業機器メーカーとは既に取引があったものの、海外市場への進出はまだ限定的でした。そこで、私は半年以内に訪問することを目標に設定し、先ず幕張メッセで開催された国際展示会でその企業の展示ブースを訪ねました。アクティブ制振のアイデアを口頭で説明し、名刺を渡したところ、数週間後にはあっさりと招待を受けてしまいました。 会社内は大騒ぎとなり、私は、土日は自己啓発として関数電卓を片手に三角関数を復習し、平日は工場の技術データを集めながら、プレゼン資料の作成に努めました。1か月後、同年代の若手エンジニアと共に欧州へ飛び、そのメーカーでプレゼンを行いました。応対して頂いたのは博士号を持つ6人のエンジニアの方々で、文系出身の私にとっては緊張の連続でした。しかし、同行エンジニアと協力しながら、アクティブ制振の提案と試作品による試験結果の説明、質疑応答を行い、更に航空電子の航機関連主要製品の説明とデモンストレーションを実施しました。 結果的に多くの課題を持ち帰ることになりましたが、この出張では、航機事業ライン(工場・営業)の諸先輩から教えられ、託された全てを出し切り、初めて大きな達成感を味わうことが出来ました。そして、この達成感は、次の異動先へと向かう私にとって、一つの区切りを意味するものでした。 ● コネクタ事業ライン コネクタは、航空電子の総売上の8割以上を占める主力製品で、プリント基板や電子機器同士の電力や電気信号を接続・切断する為の重要な部品です。人工衛星や飛行機、電車、自動車、家電製品、パソコン、スマートフォン等、広範な分野で多種多様なコネクタが大量に使用されています。コネクタは、電力や電気信号を伝える金属製のコンタクトと、それらを絶縁するプラスチック(インシュレータ)で構成されており、電気的性能と機械的性能の両方を満たさなければならず、その開発には高度な専門知識とノウハウを要します。 営業マンはお客様に育てられる 私のコネクタ事業ラインでの業務は今年で25年目を迎えます。この間、多くの貴重な経験をさせて頂きました。中でも特に心に残っているのは、13年間担当を務めた、欧州のグローバル企業とのビジネスです。当時、GAM(Global Account Manager)として欧州、北米、アジアのR&Dや生産拠点に何度も訪れ、多くの開発案件に携わりました。そして、量産立上げ後に避けては通れない品質問題や納期問題、価格交渉等にも会社同僚と一丸となって積極的に取組み、その結果、No.1サプライヤーとして高く評価して頂きました。 (フィンランド:夏) (フィンランド:冬) この経験から、メーカー営業マンは社内で得た知識やスキルを基盤にしながらも、最終的には顧客によって育てられることを強く実感しました。私自身、社内で基礎を固めた後、顧客と向き合い、彼らの要求に応える過程で成長して来ました。 先ず、社内での基礎作りとして、現場での実践経験に力を入れました。携帯電話やPDA、STB(セットトップボックス)等の電子機器を片っ端から分解し、基板の形状や実装部品の配列、高さ、投影面積等を丹念に調査して、アプリケーション毎の筐体形状や内部構造、実装技術について学びました。また、工場の技術フロアでは、試作品の組立てや評価試験にアシスタントとして参加し、その結果を英文レポートに纏めることで、コネクタ製品に関する理解を深めました。 次に、顧客と直接向き合い、彼らの要求に応える中で、営業マンとしての成長が促されたと思います。例えば、品質問題が発生した際には、通常は立入ることの出来ない顧客の生産ラインに特別に入れて貰い、技術評価試験に立会う機会がありました。品質問題はサプライヤーにとって避けたい事態ですが、これをチャンスと捉え、問題解決に取組むことで顧客の信頼を得られました。 その上で、品質問題とは別に、顧客の生産ラインで使用されている製造設備を把握し、その後、その設備メーカーを訪問して、次の製品作りに生かすヒントを得ることに努めました。これらのヒントを製品に反映し、品質や使い勝手を向上させることで、顧客の満足度を高めることが出来ました。 モノづくりの舞台裏 ここで少し、メーカーにおいてよく見受けられる工場部門間の関係性について触れたいと思います。それは、開発途上で、設計担当者と生産技術・製造部門のエンジニアとの間で立場の違いからしばしば緊張や対立が生じることです。設計者が斬新なアイデアやテクノロジーを投入して尖った製品開発に挑む一方で、生産技術や製造部門のエンジニア達は、その実現の為に多大な努力を強いられます。しかし、ひとたび新製品が市場に投入され、成功を収めると、全員がその達成感を共有し、固い絆で結ばれ、それが開発を続ける中で更に深まって行きます。こうしたモノづくりの舞台裏を知っていると、初めて訪問した顧客のプリント基板を見せて頂いた際に、生産技術や製造部門が設計にどのように影響を受けているかを指摘出来ることがあります。すると、窓口の設計者がその場で関連エンジニアを呼び出してくれることがあり、その結果、打合せは自然と笑いのある明るい雰囲気になることがよくあります。このような経験の積み重ねが、同じモノづくりに携わる顧客との関係構築に大いに役立ちました。 (北京:陳式太極拳「単鞭」のポーズ) (サンディエゴ) 信頼とバランスの構築 ビジネスの世界では、「Win-Win」という理想がよく語られますが、現実では、顧客がWinし、私達が少しLoseすることも少なからずあります。これは、顧客との力関係によるもので、ある程度は避けられないことです。私は常に顧客の立場を最大限に尊重しつつも、自社の利益を守る為に、適切なバランスを見つけるよう心掛けて来ました。その為、時には難しい話もしっかりと議論出来る関係構築が重要だと考えています。 (中国河南省:太極拳国際試合 相手は後にAlibaba創業者 Jack Ma氏のボディーガードに) ● 英国販売子会社出向 JAE Europe, Limited (以下、JAE EU)は、航空電子の販売子会社で、英国に本社を構え、ドイツ、フランス、イタリア、スウェーデンにもオフィスを展開し、欧州全域のビジネスをカバーしています。欧州市場は、特に自動車産業、産業用ロボット市場、医療機器市場において、世界の技術革新をリードする多くのテクノロジーリーダーが存在する重要な市場です。JAE EUは、この市場で欧州の先進企業と共に未来の技術革新に貢献することを目指しています。 入社当時に立ち消えた海外赴任の話が、18年後に突然舞い戻って来たかと思うと、急速に具体化し、家族(妻、長男: 中2、次男: 小6)を伴って英国に赴任することになりました。2016年から2020年まで英国ロンドンで生活し、その間にBrexitや新型コロナウイルスの蔓延といった大きな変化が起こる中で、仕事面でも家庭面でも得られることが多かったです。 新しい職場環境 JAE EUでの勤務が始まると、現地社員は英国、ドイツ、フランス、イタリア、スウェーデン等多国籍で構成され、顧客も30か国以上に跨っていることが分かりました。「欧州」と一言で括るにはあまりに大雑把過ぎる地域であり、国毎の人々や文化、習慣の違いを考慮した対応が必要なのは言うまでもありません。 私は一時期、営業に加えてマーケティングや技術チームの責任者も兼任していました。英国本社での勤務と並行して、ドイツのミュンヘンオフィスとの連携を強化する為に、頻繁に現地を訪れていました。現地社員との業務遂行においては、ドイツの労働法規や労務管理に細心の注意を払い、職務明細書(Job Description)に基づいた明確な業務指示を行い、ファクトとエビデンスに基づいた公正な業績評価を心掛けていました。また、拡販方針や戦略については納得がいくまで議論を重ねることで、チーム全体の目標と方向性を揃えました。 ドイツのメンバー達は、普段は家族生活を優先し、プライベートな時間を大切にしていましたが、いざという時は自ら進んで長時間の業務に取組んでくれました。私が別の仕事でドイツに行けなかった際には、急遽英国まで駆けつけ、ピザ1枚で深夜まで一緒に作業してくれることもありました。この経験は、ワークライフバランスを徹底して重視するドイツ人に対する固定観念を完全に払拭するものでした。彼らの献身的な姿勢と協力には、今でも感謝しています。 日常生活 ①:家族生活の変化 日本での生活と比較して、英国での生活では家族との関わり方に大きな変化がありました。日本で暮らしていた頃は、仕事のことばかりを考えていましたが、海外では家族の生活に積極的に関わり、生活環境を整えたり、日常生活のサポート(学校、病院、買い物、余暇)にも力を入れるようになりました。学校選びについては、私自身の留学経験から現地校を勧めましたが、息子達から「お父さんは自分の意志でアメリカに留学したんでしょ?僕らはお父さんの転勤で外国に来たんで自分の意志じゃないんだ!」と反論され、彼らの気持ちを尊重して日本人学校に通わせることにしました。(立派な主張だと感心しました。) 今では日本人学校に通わせたことが正しい選択だったと思っています。日本人としてのアイデンティティを確立する過程での良い教育を受けられました。ロンドン日本人学校には優秀な教師と生徒が集まり、非常に高い教育レベルが提供されていました。また、欧州を訪れる日本の要人(宇宙飛行士、スポーツ選手、芸術家、ミュージシャン、学者、政治家等)の多くがロンドン日本人学校に立ち寄り、貴重なお話を子供達に聞かせてくれる機会があり、大変恵まれた学習環境にありました。 日常生活 ②:ロンドンの暮らし ロンドンでの生活は、歴史的な街並みや博物館、美術館、そしてミュージカル等、文化に容易に触れることが出来ました。気候は北海道より北に位置する為冬はやや寒いものの、年間を通じて非常に快適でした。また、都会でありながら自然が豊かで、緑あふれる公園が数多くあります。自宅の裏庭には、狐、リス、野鳥が頻繁に訪れ、心を癒してくれました。賢い狐は、生ごみを入れるコンテナのロックを外して荒らしていくこともあり、彼らとの知恵比べも日常の出来事でした。ロンドン中心街の観光スポットは、私達にとっては生活圏の一部であり、散髪や息子達のスポーツ用品、日本食材等の買い出しをしていました。日本食材は日本価格の何と3倍で、購入する品物によって一番安い店を選ぶ等節約に努めました。 日常生活 ③:自動車通勤 通勤については、赴任当初は大きな試練でした。オフィスは自宅から南西に60kmの距離にあり、朝の通勤時には頻繁に事故渋滞に巻き込まれました。英国では、警察が事故現場の調査を終えるまで道路を閉鎖する為、高速道路内で閉じ込められ、トイレに行けず苦しい思いをしたこともあります。閉鎖が解けた後、急いで高速道路を降り、ヒースロー空港で用を足したことも。たった10分の駐車でしたが、これまでで一番高くついたトイレでした。帰りが遅くなると、高速道路が閉鎖されて入れなかったり、途中で閉鎖となり止む無く最寄りの出口から出て行かなければならず、何度も道に迷いながら真っ暗な山道のような場所を走りました。その過程で、帰宅ルートが自然と増え、道に詳しくなりました。一度慣れてしまうと、自動車通勤は一人になれる特別な時間となり、iPhoneに入れた70~80年代の歌謡曲を大声で歌いながら眠気を覚まして帰る日々を楽しみました。 日常生活 ④:ハプニング 息子の剣道教室に参加した際、アキレス腱を断裂し、ロンドンの救急病院(A&E: Accident and Emergency)で全身麻酔の日帰り手術を受けることになりました。そこではクロスファンクショナルチーム(機能横断型チーム:CFT)による対応が行われており、大変興味深いものでした。 窓口での受付を済ませた私は、病室を行き来すること無く、直ぐに移動式のベッドに乗せられました。そのまま手術着に着替え、手術室前で待機する他の患者達の長いベッドの列に加わりました。手術が流れ作業のように次々と行われ、ベッドの列が動きながら手術室に近づいていく様子を見て、自分がまるで工場の生産ラインに投入された材料のような感覚を覚えました。 病院スタッフは役割毎に色分けされた制服を着用し、それぞれの専門分野に基づいてテキパキと対応してくれました。私のベッドには、手術前から退院までの全ての手順が記された私専用のノート(※)が置かれており、スタッフはそのノートに従って入れ替わり立ち代わり私の前に現れては、チェックボックスを埋めながら正確に漏れなく処置を進めていました。このオペレーションは、病院の人手不足を補い、患者の精神的・身体的負担を軽減するもので、大いに感銘を受けました。 (病院スタッフの制服:役割別色分け) (日帰り手術用ノート) 尚、私は外国人でしたが、NHS(National Health Service:国民保健サービス)に加入していた為、薬代を除き医療費は無料でした。一般的に日本人駐在者は会社で加入する海外旅行保険を適用し、高額なプライベート医療サービスを利用することが多いですが、私はNHSの病院で奇跡的に手術日を確保出来た為、また冒険心にも駆られて手術を受けることにしました。因みに、奇遇にも同じ剣道場で数週間後にアキレス腱を断裂したポーランド系の方は、NHSの手術待ちが3カ月だった為、ポーランドで手術を受けたそうです。英国の医療現場が慢性的に混雑し、極めて厳しい状況にあることは事前に知っていましたが、道場で私の為に呼んで頂いた救急車が2時間待ち(後にキャンセル)だったことから、その現実を身をもって痛感させられました。 ※ノートには、手術前の準備(体温、脈拍、血圧、血液チェック、退院後の松葉杖の使い方指導等)から、術後の体力回復処置、退院許可迄のプロセスがページ毎に記載されていました。 その後、ギブスを装着してのドイツ出張では、イミグレーションの審査が驚くほどスムーズに進み、健常者としての移動よりも楽で早かったという貴重な体験もありました。イミグレーションでは電気自動車に乗せられ、そのまま空港出口まで送って貰えたことも印象に残っています。 英国赴任を終えて 振り返ると、英国での赴任は、仕事、異文化での暮らし、そして家族との時間という三つの面で、多くの学びと成長がありました。仕事や異文化での経験はこれまでも積み重ねてきましたが、家族の存在を何より大切にし、共に過ごす時間を最優先するようになったのは、この英国での生活がきっかけでした。子供達が成長し、家族で一緒に過ごす時間が減ってしまった今、コロナ禍のロックダウン中に家族水入らずで過ごした時間が特別な思い出となっています。ロンドンの青空の下、自宅裏庭で楽しんだBBQは、かけがえのない記憶です。 (ジブラルタル海峡:ここから顧客のいるモロッコへ船で渡りました)(ストーンヘンジ:ロンドンの自宅からたったの130km) (アイスランド:家族旅行) ● 現在:コネクタ事業ライン 海外赴任から帰国後、特定顧客の営業チームの責任者を務めた後、営業ラインを離れ、海外契約書のリーガルチェックという新たな職務に就きました。この業務では、海外の取引先や今後取引を予定している会社から提示された契約書に含まれる法的問題や自社に不利益な条項が無いかを精査します。また、取引内容に適合しているかを確認し、必要に応じて修正案を提示します。契約締結プロセスは、最終交渉の場であり、トラブルを未然に防ぎ、健全な関係を築くことが重要です。 法務バックグラウンドはありませんが、営業経験を通じて基本的な契約書の知識は持っていました。しかし、それを専門職として扱うのは全くの初心者であり、当初は手探りの状態でした。その為、法務部門のアドバイスや支援を受けながら、外部セミナーを受講し、情報収集を重ねて来ました。現在、業務を始めてから1年以上が経過し、100件以上の契約書をチェックし、150件以上の文献を読み、少しずつ知見が積み上がって来たと感じています。 この仕事において、私が特に重視しているのは、営業バックグラウンドを活かしたリスク評価です。同じ条文でも、相手方がどのような会社で、どのようなビジネスを進めようとしているのかによって、評価が異なります。長年の海外ビジネス経験を基にした分析・判断力を発揮し、日々新たな業務に全力で取組んでいます。(ロンドン: タワーブリッジを一望しながらのアフタヌーンティ) 【エピローグ】 これまでのキャリアを通じて学んだのは、「人生に無駄な経験は無い」ということです。転職や新たな挑戦を重ねる中で、失敗と成功を繰り返して来ましたが、その全てが今の私を形成する大切な要素となっています。若い世代の方々が自分の夢を追いかけ、理想に向かって進む為の力と勇気に少しでもなればという思いを込めて、この体験記を書き進めました。 「外国人と日本人は、同じものを見た時に同じように見えるのだろうか?」幼い頃に抱いたこの疑問に対する答えが、年月を経て少しずつ見えて来たように思います。私達の世界の見え方は、目の色等の生まれ持った特徴や、育った環境、経験によって異なるものです。同じ日本人同士でも、年齢や生活環境によって物の見え方には違いがあることを日々感じています。 交通機関の発展による人的交流に加え、インターネット技術の革新による国境を越えた情報交換の活発化が、本格的なグローバル社会の到来をもたらしました。今や世界中の人々との共生が日常となり、日本でも様々な背景を持つ人々が増えています。グローバルスタンダードや普遍的価値観の追求が進む中で、この流れに対して懸念も感じています。均一化による公平性は大切ですが、それによって多様性が失われることは避けなければなりません。また、多様性を認める為にマイノリティーを優先することが、時に不条理を生むこともあります。私達は、非常に難しい時代の局面に立たされています。 私は、より良い未来を築く為に、日々の小さな一歩を大切にしながら、自分らしく出来ることを続けて行きたいと思っています。この体験記が、読んで下さった方にとって、少しでも前向きな気持ちや、新たな一歩を踏み出すきっかけになれば幸いです。 (原田 晴之さんプロフィール) 群馬県出身 1984年3月 東京都立板橋高等学校 卒業 1985年6月 米国カリフォルニア州Bloomington High School 卒業 1986年4月 東京国際大学教養学部国際学科 入学 (下羽ゼミ) 1989年9月 米国オレゴン州Willamette University入学 (3学年編入) 1991年5月 米国オレゴン州Willamette University 卒業 (BA政治学専攻) 1992年3月 東京国際大学教養学部国際学科 卒業 (大越ゼミ) 1992年4月 池上通信機株式会社 入社 1996年3月 池上通信機株式会社 退社 1996年4月 Cyber Technologies International株式会社 入社 (ITベンチャービジネス) 1996年10月 Cyber Technologies International株式会社 退社 1996年11月 Activision Japan 株式会社 入社 (米国ゲームメーカー日本支社) 1997年6月 Activision Japan 株式会社 退社 1997年7月 日本航空電子工業株式会社 入社 (電子機器・部品メーカー) 2016年3月 JAE Europe, Limited 出向(英国販売子会社) 2020年10月 日本航空電子工業株式会社 帰任、現在に至る (航空電子スポンサーのボブルヘッド人形) (シアトル:イチロー選手) TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
世界の平和を願いながら人生を送ってほしい
TOKU/馬場督之さん(1996年 商学部 経営情報学科卒業 TIUA 臼井ゼミ タイニーラヴ/軽音楽)2024年8月1日・TIU 入学 高校3年になる前の春休みに、母が講師をしている公文式が主催するアメリカでの10日間のホームステイ・プログラムに、妹とともに参加した。今思えば、この時の体験が僕の人生を大いに左右することになったのだと思う。 初めての海外で母国語ではない言葉で実際にコミュニケーションがとれるおもしろさを知ってしまった僕は、自分の高校に教えに来ていたアメリカ人の先生と積極的に交流するようになり、英語を話す機会を増やし、いつしかまた海外に行きたいという願望を抱くようになった。 東京国際大学の名前を知ったのは浪人生になってしまった年だった。この大学には、当時のどの国公私立の大学よりも飛び抜けて贅沢な語学留学プログラムがあるというのをその当時に知った。期間は1年で、アメリカ人のルームメイトと過ごせるなんて、もう受験しないわけにはいかなかった。他の大学も受験したが、本当にここにしか合格しなかった。もう絶対にこの語学留学プログラムに参加しろという神の思し召しなのかと思い、1年生の秋に2段階の試験を受けて合格し、晴れて留学が決まった。何が待ち受けているのか、僕の心は期待でいっぱいだった。 ・音楽遍歴 僕は今ミュージシャンとして生きている。 それ以外の人生は全くもって想像がつかない。 音楽は僕の存在理由そのもの。生きる意味。 でも小さい頃からの夢というわけではなかった。 父親の影響で物心つく頃から音楽を聴くのを好きになり、どこに出かけるにも、寝る時にも、音楽がないとダメだった。音楽はいつも側にいた。 父親は趣味でいろんな楽器を演奏する人で、週末になるとうちに父親のブルーグラス・バンドのメンバーを集めては夜通し演奏していた。他にも様々な音楽を僕に教えてくれた。 小学生の時に父親が地元で初めてのレンタルスタジオを始めて、昼夜ひっきりなしに音楽を志す人が出入りするのを見ながら過ごしていたが、サッカー少年だった僕は楽器を演奏することに興味はなかった。 中学校に進んでその状況が変わる。なんと、進んだ中学校にはサッカー部がなく、仕方がないので他のスポーツ系ではなく、好きな音楽系の部活動をしようと思い吹奏楽部を覗きに行き、コルネットというトランペットに一番近い楽器を始めることになる。 とはいえ真面目にはやらず、譜面も読まず、持ち前の音感で隣の人の吹く音を覚えてしまい、あとは自由に吹いていただけだった。 なので、高校生になると高校が遠かったのもありコルネットを吹くのを止めてしまう。 そして、高校の仲間とバンドを始め、ドラムをプレイし始める。ほぼ同時にベースを始め、そして浪人生の時にはギターを始めた。 ロック、ポップ、フォークにはまり、TIUに入ってから最初に在籍したのは軽音のサークルだった。そのサークルから紹介されたバイト先のCD屋さんで、わけもわからずマイルス・デイビス (ジャズの帝王と言われたトランペッター)のCDを買い、その中の1曲を気に入り、耳で聞いて同じように吹けるように練習し、誘われるままに行ったジャズの生演奏をやっていたお店で言われるがままに飛び入りして練習したことを吹き、実はそれはマイルスがアドリブ(即興)で演奏したものだと初めて知り、それ以来ジャズに取りつかれて今に至る。 実は、小学生の時に僕の地元にやってきたマイルス・デイビスのコンサートに連れて行ってもらったことが大きく影響していると思う。最初で最後だったが、大のマイルスのファンの父親が「こんな機会は二度とあるかわからない!」と家族を連れて行ってくれた。その時に感じた会場の熱気を今でも覚えている。 ・TIUA さて、留学に話を戻したいと思う。 そんなわけで、留学が決まったときには僕はすっかりジャズに取りつかれていて、個人データに”音楽” “ジャズ” と書きまくり、TIUAに着いた日に出会ったのがジャズピアノをバリバリ弾く僕のルームメイト、Julian Snow だった。 ジャズにハマってすぐに購入し、もちろん一緒にアメリカに持っていったトランペットのケースを見つけた彼は、時差ぼけでフラフラの僕を練習室に連れて行った。そして2人でしばし演奏し、次の週にはベーシストを加えて練習し、さらにサックス・プレイヤーが加わり、僕らはウィラメット大学のキャンパスにある Bistro というカフェで毎週木曜日にライヴをするようになる。 あの時はジャズを始めたばかりで決して上手くない、むしろド下手なトランペッターで吹ける曲もわずかしかなかったのに、よくも僕をバンドに入れたものだと思う。今もってしても謎だ。 でも英語を勉強しに行ったのに、音楽も同時にやることができるなんて夢のようだった。 週末にはキャンパス内の屋外でギターを弾いて歌い、そのうち一緒に歌う仲間もできた。 ウィラメット大学にあるロザンヌという男女共同寮に住み、朝食はパンケーキとミルク、午後授業が終わるとウィラメットのキャンパスの芝生で宿題、夕食を終えたら仲間とバスケットボールを楽しみ、シャワーを浴びてトランペットと譜面を持って音楽練習室に向かい夜遅くまで練習した。Julian のバンドに付いて行くのは大変だった。片っ端から曲を知り、演奏(アドリブ)できるようにならなければならなかった。でもその大変な作業が楽しくて仕方なかった。 Bistro でのライヴはとにかく毎回が刺激そのものだった。 Julian 始めメンバーは皆達者なので置いてきぼりになることもしばしばだったけど、必死について行った。 ライヴ中はいろんな人が行き来していた。それを見ているのも楽しかった。そこで出会った友達と今でも交流は続いている。 時々開催されたフィールドトリップでオレゴンの他の土地に行けるのもとても刺激だった。見るもの全てが新しいって素晴らしいと思った。オレゴンの大自然はとにかく広い。オレゴン・コーストや Mt.Hood で経験したスノーボード、馬に乗ったのも覚えている。そして都市に行くとCDショップに行けるのが本当に嬉しかった。聞きたいジャズの名曲はまだ山ほどあった。それは今でもそう。 夏休みについても書かなければ! 7月の下旬からほぼ一ヶ月をかけてアメリカを見て回った。 飛行機ではなく、アムトラックという汽車でアメリカ大陸の大きさを肌で感じながらの旅。 セーラムを出発して、 まずはサンフランシスコまで汽車の中で1泊、 2泊ほどして サンフランシスコからロスは朝から晩までまる1日を汽車の中で、 ロスで3泊ほどして ロスからニューオリンズまでは汽車の中で2泊! ニューオリンズで3泊くらいして、 ニューオリンズからニューヨークまでは汽車で1泊、 ニューヨークで3泊ほどして ニューヨークからシカゴまでは汽車で1泊、 シカゴで2泊ほどして シカゴからシアトルまでは汽車で2泊、 シアトルで2泊ほどして シアトルからセーラムに。 行程はざっとかんな感じ。 1ヶ月以内ならば何度も途中下車できる切符を購入し、寝台車ではなく普通のコーチシートで全行程を移動した。日本人にとっては広くて、リクライニングさせると寝心地のいいソファになった。若さゆえに可能だった。 砂漠のど真ん中を走ってる時に、ここでエンジンが故障したらどうなるんだろうと思ったり、夜中に目が覚めて外を見ると、たまに田舎の街灯が流れていく真っ暗が続く景色だったり、汽車でしか味わえない経験をたくさんした。 当時はポータブルのカセットテープ・プレイヤーが音を出してくれる一番小さい機械、旅の間に何度テープをひっくり返したことか。 初めて訪れたジャズの街ニューオリンズ、そしてニューヨークではジャズのレジェンドの生の演奏に触れることができた。 ニューヨークで演奏を聞いた、とても印象に残るトランペッターがいた。その彼と、およそ7年後の自分がメジャー・デビューしたころに出会うとは夢にも思わなかった。そのニューヨークでのライヴの話をしたら、なんと彼はその時のことを覚えていた。2度目に会った時だったかな、お互いの誕生日が同じ日だということがわかり、以来彼が数年前に突然逝ってしまうまで、ずっと仲のいい友達になった。最後にやり取りしたメッセージは、お互いに「I love you」だった。 ちょっと話がずれてしまったけど、 TIUAに留学していた1993年という年は、今までの人生で一番充実していたと思う。それだけTIUAは僕に濃密な経験をさせてくれた。 そして、この時の体験、身につけた語学力は現在の僕のキャリアに大きく大きく関わっている。東京にやってくる海外からのミュージシャンと知り合い、その後も付き合いが続くのは語学力により相手を理解し友情を深めることができるということがとても大きいと強く感じる。 初めて日本に来るミュージシャン達を案内したり、日本のことを説明したりすることができるのは、同時に彼らの文化を理解することにも繋がり、その後の付き合いが深くなっていく。このお互いの理解、受け入れるという気持ちは、TIUAへの留学でいろんなものを見て知った経験があったから身についたのだと思う。 もちろんそれには、全てではなくとも相手をすぐに受け入れるオープンなマインドを持つということがとても重要だと思う。僕の場合は根っからの好奇心旺盛な性格も手伝って自然と身についたところもあるが、TIUの自由な校風から始まり、TIUAで経験した全てのことは僕をさらにオープンマインドの持ち主にしてくれたことは言うまでもない。 世界には様々な人種が存在する。そして、今現在は良くも悪くも日々多様な出来事があり、目まぐるしいくらいに時代が回っている。世界の動きを見ると、ポジティブなこともあるけど本当に苦しくなるような理解できないほどのネガティブなことも起こっている。人類がこれからどう生きていくのか、そして何より自分がどう生きていけばいいのか、常に敏感に物事を察知し、様々な情報を整理していかなければならない。 そんな時代でも、僕は全ての人間は同じく人間であり、単純に生まれや育ちが違うだけで肌の色で差別したりする心は一切持っていなくて、むしろ違うことに興味を抱く人間であれることに幸せを感じる。そしてそう思えるのは、TIUAでの生活を通じてアメリカでいろいろな人間と出会ったことが大きく影響していると思う。人種は違えど、愛を捧ぐ心は皆持っているということを強く学んだ。 ・近況 今、僕はパリにも拠点を置き、ヨーロッパで自分のキャリアを広げようとチャレンジしている。2017年からパリに住む友人のプロジェクトに参加することで毎年2度パリに来てはそこを拠点にヨーロッパをツアーするようになり、その友人の勧めもあり彼のレーベルからヨーロッパ向けの自分のアルバムが2020年の1月に日本より先にフランスでリリースされ、2月にリリース・ツアーを行ったところで新型コロナウイルスによるパンデミックで、3年半もの間ヨーロッパに来ることが出来なくなった。 ようやく落ち着いたところで来られなかった月日を取り戻したい、チャレンジしたいという気持ちが、僕を言葉もわからない新たな土地・パリに住まわせることになった。逆にパンデミックがなければこういう気持ちにならなかったのかもしれない。 まだまだ種蒔きの段階だけど、数年のうちに何かに到達したいと思っている。それはヨーロッパ内のあらゆるところからオファーを受け始めることだと思っている。 ・1人の人間として Life is one time. 人生は一度きり。 50年という年月を生きてより強くそれを感じる。なぜ自分はこの世に生を享けたのか、生きているうちに何ができるか、この貴重な時間を有意義に過ごすことを考えながら生きていきたい。 そして、これから大学生活を送る若人達に、自身が心から生きる喜びを感じられるものを見つけてほしいと心から願う。 そして真実を見つめ、家族を大切にし、心通う友に感謝し、世界の平和を願いながら実りある、意味ある人生を楽しみ、送ってほしいと切に希望します。 TOKU (TOKU/馬場督之のプロフィール) 新潟県三条市出身 新潟明訓高校卒業 1996年3月 東京国際大学 商学部経営情報学科卒業 TIUA留学 臼井ゼミ タイニーラヴ(軽音楽) 日本唯一のヴォーカリスト&フリューゲルホーンプレーヤー 父親の影響でノンジャンルで音楽に親しみ、中学時代にブラスバンドで初めての楽器コルネットを手にする。 2000年1月アルバム“Everything She Said”でソニー・ミュージックよりデビュー。 デビュー当初から注目を集め、その年の8月には早くもブルーノート東京に出演。 アルバムはアジア各国でもリリースされ、積極的に海外での公演も行っている。 昨今、ジャズの枠を超えた幅広い音楽性から、m-flo、平井堅、Skoop On Somebody、 今井美樹、大黒摩季、などのアルバムにプレイヤーとして参加。 2008年に発売したアルバム「Love Again」は初のDuet SongをExileのATSUSHI氏を迎えて収録。 2011年3月の東日本大震災の直後に行われた、シンディー・ローパーの国内ツアーにも 参加し、話題となる。 2011年4月27日、本人がずっと温めていた企画「TOKU sings & plays STEVIE WONDER- JAZZ TRIBUTE FROM ATLANTA」を発売。 2015年5月、フランクシナトラの生誕100周年を記念して全曲シナトラのカバーアルバムを発売。そのレベルの高さに各所で大絶賛を浴びている。 2017年6月、ジャンルを超えTOKUが今まで出会った様々なミュージシャン達とコラボレートしたアルバム「SHAKE」をリリース。 2019年2月、今まで書いていたオリジナル曲からTOKU自身が厳選し、未発表曲、未発表テイクも含めたオリジナル曲のみによるコンピレーション「Original Songbook」をリリース。 2020年4月、フランスを代表するミュージシャン達とレーコーディングした初のヨーロッパ録音「TOKU In Paris」をリリース。フランスで先行発売され、ヨーロッパでのアルバムリリース・ツアーは各地でソールドアウト、好評を得る。 (TOKU Inc.®︎) TOKU Inc. オフィシャルサイト https://www.tokujazz.com TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
TOKU/馬場督之さん(1996年 商学部 経営情報学科卒業 TIUA 臼井ゼミ タイニーラヴ/軽音楽)2024年8月1日・TIU 入学 高校3年になる前の春休みに、母が講師をしている公文式が主催するアメリカでの10日間のホームステイ・プログラムに、妹とともに参加した。今思えば、この時の体験が僕の人生を大いに左右することになったのだと思う。 初めての海外で母国語ではない言葉で実際にコミュニケーションがとれるおもしろさを知ってしまった僕は、自分の高校に教えに来ていたアメリカ人の先生と積極的に交流するようになり、英語を話す機会を増やし、いつしかまた海外に行きたいという願望を抱くようになった。 東京国際大学の名前を知ったのは浪人生になってしまった年だった。この大学には、当時のどの国公私立の大学よりも飛び抜けて贅沢な語学留学プログラムがあるというのをその当時に知った。期間は1年で、アメリカ人のルームメイトと過ごせるなんて、もう受験しないわけにはいかなかった。他の大学も受験したが、本当にここにしか合格しなかった。もう絶対にこの語学留学プログラムに参加しろという神の思し召しなのかと思い、1年生の秋に2段階の試験を受けて合格し、晴れて留学が決まった。何が待ち受けているのか、僕の心は期待でいっぱいだった。 ・音楽遍歴 僕は今ミュージシャンとして生きている。 それ以外の人生は全くもって想像がつかない。 音楽は僕の存在理由そのもの。生きる意味。 でも小さい頃からの夢というわけではなかった。 父親の影響で物心つく頃から音楽を聴くのを好きになり、どこに出かけるにも、寝る時にも、音楽がないとダメだった。音楽はいつも側にいた。 父親は趣味でいろんな楽器を演奏する人で、週末になるとうちに父親のブルーグラス・バンドのメンバーを集めては夜通し演奏していた。他にも様々な音楽を僕に教えてくれた。 小学生の時に父親が地元で初めてのレンタルスタジオを始めて、昼夜ひっきりなしに音楽を志す人が出入りするのを見ながら過ごしていたが、サッカー少年だった僕は楽器を演奏することに興味はなかった。 中学校に進んでその状況が変わる。なんと、進んだ中学校にはサッカー部がなく、仕方がないので他のスポーツ系ではなく、好きな音楽系の部活動をしようと思い吹奏楽部を覗きに行き、コルネットというトランペットに一番近い楽器を始めることになる。 とはいえ真面目にはやらず、譜面も読まず、持ち前の音感で隣の人の吹く音を覚えてしまい、あとは自由に吹いていただけだった。 なので、高校生になると高校が遠かったのもありコルネットを吹くのを止めてしまう。 そして、高校の仲間とバンドを始め、ドラムをプレイし始める。ほぼ同時にベースを始め、そして浪人生の時にはギターを始めた。 ロック、ポップ、フォークにはまり、TIUに入ってから最初に在籍したのは軽音のサークルだった。そのサークルから紹介されたバイト先のCD屋さんで、わけもわからずマイルス・デイビス (ジャズの帝王と言われたトランペッター)のCDを買い、その中の1曲を気に入り、耳で聞いて同じように吹けるように練習し、誘われるままに行ったジャズの生演奏をやっていたお店で言われるがままに飛び入りして練習したことを吹き、実はそれはマイルスがアドリブ(即興)で演奏したものだと初めて知り、それ以来ジャズに取りつかれて今に至る。 実は、小学生の時に僕の地元にやってきたマイルス・デイビスのコンサートに連れて行ってもらったことが大きく影響していると思う。最初で最後だったが、大のマイルスのファンの父親が「こんな機会は二度とあるかわからない!」と家族を連れて行ってくれた。その時に感じた会場の熱気を今でも覚えている。 ・TIUA さて、留学に話を戻したいと思う。 そんなわけで、留学が決まったときには僕はすっかりジャズに取りつかれていて、個人データに”音楽” “ジャズ” と書きまくり、TIUAに着いた日に出会ったのがジャズピアノをバリバリ弾く僕のルームメイト、Julian Snow だった。 ジャズにハマってすぐに購入し、もちろん一緒にアメリカに持っていったトランペットのケースを見つけた彼は、時差ぼけでフラフラの僕を練習室に連れて行った。そして2人でしばし演奏し、次の週にはベーシストを加えて練習し、さらにサックス・プレイヤーが加わり、僕らはウィラメット大学のキャンパスにある Bistro というカフェで毎週木曜日にライヴをするようになる。 あの時はジャズを始めたばかりで決して上手くない、むしろド下手なトランペッターで吹ける曲もわずかしかなかったのに、よくも僕をバンドに入れたものだと思う。今もってしても謎だ。 でも英語を勉強しに行ったのに、音楽も同時にやることができるなんて夢のようだった。 週末にはキャンパス内の屋外でギターを弾いて歌い、そのうち一緒に歌う仲間もできた。 ウィラメット大学にあるロザンヌという男女共同寮に住み、朝食はパンケーキとミルク、午後授業が終わるとウィラメットのキャンパスの芝生で宿題、夕食を終えたら仲間とバスケットボールを楽しみ、シャワーを浴びてトランペットと譜面を持って音楽練習室に向かい夜遅くまで練習した。Julian のバンドに付いて行くのは大変だった。片っ端から曲を知り、演奏(アドリブ)できるようにならなければならなかった。でもその大変な作業が楽しくて仕方なかった。 Bistro でのライヴはとにかく毎回が刺激そのものだった。 Julian 始めメンバーは皆達者なので置いてきぼりになることもしばしばだったけど、必死について行った。 ライヴ中はいろんな人が行き来していた。それを見ているのも楽しかった。そこで出会った友達と今でも交流は続いている。 時々開催されたフィールドトリップでオレゴンの他の土地に行けるのもとても刺激だった。見るもの全てが新しいって素晴らしいと思った。オレゴンの大自然はとにかく広い。オレゴン・コーストや Mt.Hood で経験したスノーボード、馬に乗ったのも覚えている。そして都市に行くとCDショップに行けるのが本当に嬉しかった。聞きたいジャズの名曲はまだ山ほどあった。それは今でもそう。 夏休みについても書かなければ! 7月の下旬からほぼ一ヶ月をかけてアメリカを見て回った。 飛行機ではなく、アムトラックという汽車でアメリカ大陸の大きさを肌で感じながらの旅。 セーラムを出発して、 まずはサンフランシスコまで汽車の中で1泊、 2泊ほどして サンフランシスコからロスは朝から晩までまる1日を汽車の中で、 ロスで3泊ほどして ロスからニューオリンズまでは汽車の中で2泊! ニューオリンズで3泊くらいして、 ニューオリンズからニューヨークまでは汽車で1泊、 ニューヨークで3泊ほどして ニューヨークからシカゴまでは汽車で1泊、 シカゴで2泊ほどして シカゴからシアトルまでは汽車で2泊、 シアトルで2泊ほどして シアトルからセーラムに。 行程はざっとかんな感じ。 1ヶ月以内ならば何度も途中下車できる切符を購入し、寝台車ではなく普通のコーチシートで全行程を移動した。日本人にとっては広くて、リクライニングさせると寝心地のいいソファになった。若さゆえに可能だった。 砂漠のど真ん中を走ってる時に、ここでエンジンが故障したらどうなるんだろうと思ったり、夜中に目が覚めて外を見ると、たまに田舎の街灯が流れていく真っ暗が続く景色だったり、汽車でしか味わえない経験をたくさんした。 当時はポータブルのカセットテープ・プレイヤーが音を出してくれる一番小さい機械、旅の間に何度テープをひっくり返したことか。 初めて訪れたジャズの街ニューオリンズ、そしてニューヨークではジャズのレジェンドの生の演奏に触れることができた。 ニューヨークで演奏を聞いた、とても印象に残るトランペッターがいた。その彼と、およそ7年後の自分がメジャー・デビューしたころに出会うとは夢にも思わなかった。そのニューヨークでのライヴの話をしたら、なんと彼はその時のことを覚えていた。2度目に会った時だったかな、お互いの誕生日が同じ日だということがわかり、以来彼が数年前に突然逝ってしまうまで、ずっと仲のいい友達になった。最後にやり取りしたメッセージは、お互いに「I love you」だった。 ちょっと話がずれてしまったけど、 TIUAに留学していた1993年という年は、今までの人生で一番充実していたと思う。それだけTIUAは僕に濃密な経験をさせてくれた。 そして、この時の体験、身につけた語学力は現在の僕のキャリアに大きく大きく関わっている。東京にやってくる海外からのミュージシャンと知り合い、その後も付き合いが続くのは語学力により相手を理解し友情を深めることができるということがとても大きいと強く感じる。 初めて日本に来るミュージシャン達を案内したり、日本のことを説明したりすることができるのは、同時に彼らの文化を理解することにも繋がり、その後の付き合いが深くなっていく。このお互いの理解、受け入れるという気持ちは、TIUAへの留学でいろんなものを見て知った経験があったから身についたのだと思う。 もちろんそれには、全てではなくとも相手をすぐに受け入れるオープンなマインドを持つということがとても重要だと思う。僕の場合は根っからの好奇心旺盛な性格も手伝って自然と身についたところもあるが、TIUの自由な校風から始まり、TIUAで経験した全てのことは僕をさらにオープンマインドの持ち主にしてくれたことは言うまでもない。 世界には様々な人種が存在する。そして、今現在は良くも悪くも日々多様な出来事があり、目まぐるしいくらいに時代が回っている。世界の動きを見ると、ポジティブなこともあるけど本当に苦しくなるような理解できないほどのネガティブなことも起こっている。人類がこれからどう生きていくのか、そして何より自分がどう生きていけばいいのか、常に敏感に物事を察知し、様々な情報を整理していかなければならない。 そんな時代でも、僕は全ての人間は同じく人間であり、単純に生まれや育ちが違うだけで肌の色で差別したりする心は一切持っていなくて、むしろ違うことに興味を抱く人間であれることに幸せを感じる。そしてそう思えるのは、TIUAでの生活を通じてアメリカでいろいろな人間と出会ったことが大きく影響していると思う。人種は違えど、愛を捧ぐ心は皆持っているということを強く学んだ。 ・近況 今、僕はパリにも拠点を置き、ヨーロッパで自分のキャリアを広げようとチャレンジしている。2017年からパリに住む友人のプロジェクトに参加することで毎年2度パリに来てはそこを拠点にヨーロッパをツアーするようになり、その友人の勧めもあり彼のレーベルからヨーロッパ向けの自分のアルバムが2020年の1月に日本より先にフランスでリリースされ、2月にリリース・ツアーを行ったところで新型コロナウイルスによるパンデミックで、3年半もの間ヨーロッパに来ることが出来なくなった。 ようやく落ち着いたところで来られなかった月日を取り戻したい、チャレンジしたいという気持ちが、僕を言葉もわからない新たな土地・パリに住まわせることになった。逆にパンデミックがなければこういう気持ちにならなかったのかもしれない。 まだまだ種蒔きの段階だけど、数年のうちに何かに到達したいと思っている。それはヨーロッパ内のあらゆるところからオファーを受け始めることだと思っている。 ・1人の人間として Life is one time. 人生は一度きり。 50年という年月を生きてより強くそれを感じる。なぜ自分はこの世に生を享けたのか、生きているうちに何ができるか、この貴重な時間を有意義に過ごすことを考えながら生きていきたい。 そして、これから大学生活を送る若人達に、自身が心から生きる喜びを感じられるものを見つけてほしいと心から願う。 そして真実を見つめ、家族を大切にし、心通う友に感謝し、世界の平和を願いながら実りある、意味ある人生を楽しみ、送ってほしいと切に希望します。 TOKU (TOKU/馬場督之のプロフィール) 新潟県三条市出身 新潟明訓高校卒業 1996年3月 東京国際大学 商学部経営情報学科卒業 TIUA留学 臼井ゼミ タイニーラヴ(軽音楽) 日本唯一のヴォーカリスト&フリューゲルホーンプレーヤー 父親の影響でノンジャンルで音楽に親しみ、中学時代にブラスバンドで初めての楽器コルネットを手にする。 2000年1月アルバム“Everything She Said”でソニー・ミュージックよりデビュー。 デビュー当初から注目を集め、その年の8月には早くもブルーノート東京に出演。 アルバムはアジア各国でもリリースされ、積極的に海外での公演も行っている。 昨今、ジャズの枠を超えた幅広い音楽性から、m-flo、平井堅、Skoop On Somebody、 今井美樹、大黒摩季、などのアルバムにプレイヤーとして参加。 2008年に発売したアルバム「Love Again」は初のDuet SongをExileのATSUSHI氏を迎えて収録。 2011年3月の東日本大震災の直後に行われた、シンディー・ローパーの国内ツアーにも 参加し、話題となる。 2011年4月27日、本人がずっと温めていた企画「TOKU sings & plays STEVIE WONDER- JAZZ TRIBUTE FROM ATLANTA」を発売。 2015年5月、フランクシナトラの生誕100周年を記念して全曲シナトラのカバーアルバムを発売。そのレベルの高さに各所で大絶賛を浴びている。 2017年6月、ジャンルを超えTOKUが今まで出会った様々なミュージシャン達とコラボレートしたアルバム「SHAKE」をリリース。 2019年2月、今まで書いていたオリジナル曲からTOKU自身が厳選し、未発表曲、未発表テイクも含めたオリジナル曲のみによるコンピレーション「Original Songbook」をリリース。 2020年4月、フランスを代表するミュージシャン達とレーコーディングした初のヨーロッパ録音「TOKU In Paris」をリリース。フランスで先行発売され、ヨーロッパでのアルバムリリース・ツアーは各地でソールドアウト、好評を得る。 (TOKU Inc.®︎) TOKU Inc. オフィシャルサイト https://www.tokujazz.com TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
昨日の夢を今日の理想とし、明日の現実とする。
長谷川毅さん(1983年卒業 商学部 藤原ゼミ ゴルフ部)2024年7月1日1983年国際商科大学(現東京国際大学)商学部卒業 藤原ゼミ ゴルフ部に所属しておりました。長谷川 毅(はせがわつよし)と申します。学生時代は両親の恩恵を受け何の不自由もなく育てて頂きましたが、卒業後には思いがけない試練が待っていました。その試練は今でも思い出したくないとても辛い思い出です。 でもその試練を乗り越えたおかげで自分自身も強くなり、人を見る目も出来ました。 現在63歳となりましたが、今では家族と孫達に恵まれ幸せに暮らしています。感謝感謝です! 東京都駒込の順天堂大学病院にて昭和35年7月29日生まれました。幼稚園から鎌倉市に家族で移住し、小学校6年生から茅ヶ崎市に移住。地元は神奈川県の鎌倉・茅ヶ崎・辻堂・藤沢といった湘南地区になります。建設会社を経営する父と医者の娘で元宝塚であった母との間に生まれて両親の恩恵を受け、幼少期時代は本当に大事に育てて貰いました。 ところが父の会社が大きくなるにつれ、両親が少しずつ不仲になり始めます。家族が東京に移る事となり、私だけが高校1年生(15歳)より鎌倉にて一人暮らしを始める事となるわけです。父親からは高校3年間で色々な経験(遊びや女性や良い事も悪い事も)をしろと言われ、そんな事を言われた15歳の少年が一人で暮らし始めれば良いも悪いも結果はお分かりの通り、どうしようもない生活が始まるわけです。 高校1年・2年その2年間はほとんど学校に行かなくなり、私の部屋は当時居場所のない先輩や後輩、同期男女の集まり場所となっていくわけです。どうしようもない乱れ切った生活の中では、本当に言葉に出来ないとんでもない経験がたくさんありました。自由が故に何でも出来てしまう止まらない暴走の中では、楽しい事や辛い事寂しい事色々な経験をさせて頂きました。 趣味はゴルフ(大好きです)・ピアノ・ギター・作詞作曲(最近は時間の余裕がなく全く楽器から離れています)。17歳の時に作った「「別離」もう」という曲はなかなかの自信作です。YouTubeでは長谷川毅「かあさんへ」とか、長谷川毅「眠れぬ思い とか、長谷川毅「純~愛する者たちへ」を探索して頂くと私の下手な歌がYouTubeから聞こえてきます。15歳から19歳当時は30曲以上の持ち歌が有り、17歳の時のライブでは藤沢市のヤマハホールを立見席が出るほど満杯にした事もありました。 もう一つは、今の不動産と言う仕事です。(不動産に関すること全般・・土地を見たり住宅を見たり、又街を見る事が大好きです) (私が18歳 初めてのショット)体が先に行ってますね(^^;)(チャリティーゴルフコンペで石川遼選手と) (はなわチャンネルにご一緒しました) (孫達も一緒に出演させて頂きました)(彼が経営する稽古場のお弁当を弊社で一緒に!) (宮里優作プロと家内)(アントニオ古賀先生にはいつもお世話になっています。びっくりしたのは東京国際大学で客員教授をされていました) 1回目の転機 大学に入れる機会をくれた恩人 荒れ果てた私を救ってくれた方 大手会社の社長になられた方でした。その方がとにかくうちに来なさいと当時目に涙を浮かべながら私に言ってくれた言葉があります。「我慢」と言う言葉です。 ヤンチャだった高校2年生の私に1年間、学生なんだから必死で勉強しなさい。君にとっても将来それは絶対に無駄にはならないからと言葉をかけてくれた方がいます。そして、その方と一つの約束をするのです!今考えると大した内容ではないのですが、他人の大人の方に真剣な目で自分の事に関して言われたのが初めてでしたので、何か私もグッと来てしまいました。その約束とは「喧嘩をするな!我慢しろ! 約束通り膝下までの学ランそして58cmの太いズボン(ドカン)をやめ、普通の学ランで通学した何日目かの高校2年の7月、運が悪いのか良かったのかいつも対抗していた学生達と大船駅で遭遇し、15人に囲まれてぐしゃぐしゃにされました。 「我慢・我慢・我慢を三回」仕返しをしようとする仲間達にももういいからとその方との恩義を17歳の少年は感じ、男同士の約束を守ったわけです。直ぐにその方のご自宅に居候させて頂く事になり、家庭教師の先生も付けて頂きました。540人中500番位だった成績も今でも忘れませんが何と100位以内の98番になり何と4つの大学に合格することになります。以後その方とは私が結婚をするまで年に2度ほどお会いさせて頂き、そのご恩は自分なりにちゃんとお返しさせて頂きました。 私が入学する事になったその大学こそ「国際商科大学(現在)東京国際大学」になるのです。埼玉県の川越市という場所が私にとっては第2の故郷として懐かしい場所になりました。そこでも昔お世話になった先輩と偶然にお会いしてその先輩のお誘いで私はなんとゴルフ部に入部してしまいます。体育会のコンパでは、ここでは書けない他クラブとの騒動があり大変なことになってしまいましたが、その時自分自身が初めて連帯責任というものを感じ真に勉強になりました。 1981年米国ウィラメット大学に短期留学(オレゴン州セーラム)は、44年前の初めて見るアメリカの文化に圧倒されました。特にあのディズニーランドのパレードには、本当にびっくりしたのを覚えています・・ その2か月間はとても良い経験になりました。 (大学のキャンパスでなぜか白いスーツの18歳・・素晴らしい環境でした!) (日本からの留学生達と記念写真) (最初のホストファミリーがお出迎え)(2件目のホストファミリー、奥様は大学教授) 入学当時下宿先を探していると、父がゴルフの帰りに川越でマンションを買って来たぞ~・・そんな父でした。そんなわけで4年後売却するからそれまでここに住めと新築のマンションに学生の身分で過ごし始めます。70㎡近くの学生には贅沢すぎるマンションでした。そんな学生生活を始めて束の間、父親がおまえは女難の層があるから新宿でクラブをやってみないかと私の学生生活の事など全く考えないで、今度は目黒にマンションを買ったからそこに住んで通えば良いと勝手過ぎる話です。もちろん部活は行かなくなるわけです(^-^; 新宿のクラブは当時私の知っている有名店では不夜城、Lee等で、華やか極まりない時代でした。弊店にも多くの財界人、高級官僚、政治家、芸能人、角界のトップの方達が集まる場所でありました。 その景色を19歳から21歳まで2年半の間見る事になるわけです。当時マクドナルドの時給がまだ460円の時代に女性のアルバイト料を1500円~2000円で募集をかけましたら百人以上の問い合わせが有り、その面接を19歳の少年がやるわけですから本当に無茶苦茶でした。23人その中から採用し夜の世界を何も知らない19歳の少年が水商売に入っていきます。15卓のお店は1テーブルで4万円から5万円程度で当時毎日満席状態!一日最低でも約70万円、良いボトルが入れば100万円程度の売り上げがありました。月に約2000万円位の売り上げで経費が80%位として当時のお金で毎月300万円から400万円のお金が19歳の少年に入ってくる様になると、またまた高校生時代のあの荒んだ生活の様にだんだんおかしくなっていきます。大学に行かなくなってしまいます(^^;) 当時では珍しいリースの仕事もし始めました。女性陣の中ではお子様がいる方もいらっしゃったので夜ではなく昼間の仕事として綺麗なお姉様3人にチームを組ませ、ブランド品のスーツを着させ、士業の先生をターゲットに絵のリース業を始めます。「先生~この絵2か月無料で飾らせて頂いていいでしょ♡気に入られたら3か月目からリースをお願い~♡」と絵を置いてくれれば100%契約になったのも同然です。2か月後に伺い絵を外せば・・そうです、当時は皆様タバコを吸っていたので後がクロスに残ってしまうんです。 当時50万円位の絵を最初20枚を20万円で購入し、それを月1万5千円から2万円でリースをかけて行くと約1年でその絵は無料になります。彼女たちは頑張り、1年間で色々な絵を100か所以上の士業の先生方の事務所に飾る事になります。年3回は違う絵と交換をしに行き、それが営業のフォローになる訳です。12か月目からは100枚としても毎月150万円~200万円のお金が入る仕組みです。 本当に20歳の少年が普通ならば絶対に行けないお店をそのお金を持って色々伺わせて頂きました。銀座では徳大寺、アナトリア、クラブ純等又赤坂ではあの山本社長がやられていたニューラテンクォーター(ここは父のお迎えに来た程度ですが)、このお店は15周年記念の時にはトムジョーンズを何と2時間のステージで10億ドル日本円にして3400万円(一夜のギャランティでは過去最高とギネスブックにも出ています)。そして20周年にはダイアナ・ロス、25周年にはサミー・ディヴィスJr・・昭和一番のナイトクラブでした。 そしてもう一つはあの六本木の帝王と呼ばれている杉良治社長がやられていたナイトクラブのペペロモコ・・、当時はリキビルにありとんでもない位流行っていました。たしか日本で最初のキャバクラも作った方です。ポップコーンという名前のお店だったと思います。こういった洒落た場所にお客様や同業者に連れられ毎日毎晩・・、今となっては墓場まで持って行くお話はたくさんある様な気がします。 あとスーパーマーケットをやりましたが、その事業は全く儲かりませんでした。ただPOSSシステムを初めて当時導入して社員教育マニュアルも作成した事が、後々考えれば良い経験になりました。 (私が前の会社を解散し桜新町で小さい事務所を開いた時にニューラテンクォーターの山本社長が事務所に寄って頂き感動でした) 第2の転機 就職活動 そんな学生時代はあっという間に過ぎ、その事業全てを叔父夫婦に譲る事になり、本来の学生としての私の就職活動が始まります。女性をたくさん使ってきた私は男性に無い女性の気配り又コマメなところ、人に対しての対応力の素晴らしさを営業の世界で生かしたら接客業で生かしたら凄いなあと思い、商学部であった私は本来ならば商学概論、又は経済学概論をテーマとした卒業論文でなければいけないのですが、女性論(商売に繋がると考えました)という論文を提出しました。もちろん当時のゼミの教授は最初目を丸くしていました。 42年前に女性を管理職に又女性であっても社長にした方が良いと考えていた学生は私一人だったと思います。その卒業論文を見てくれた学生課の先生が就職活動の際応援してくれまして、知名度の低い大学としては珍しく、さとう製薬・フランスベット・アマダ、富士ゼロックス等の企業に内定を早々頂きました。私の父がトヨタ出身という事もあり、営業を学ぶために横浜トヨペットに入社することになりました。 今考えれば勿体ない企業ばかりをお断りして横浜トヨペットに入社するわけですが、そこでは社会人として又営業と言う根本的な事を教えられました。毎日100件訪問を繰り返しネクタイの先迄汗が染みるほど、とにかく頑張りました。その結果、その年の11月の展示会には私の御客様だけでその展示場が一杯になり、月に26台の販売登録をかける事が出来新人賞も頂きました。給料はと言うと固定給が16万円程度で、たくさん販売できたとしても25万円前後、確かあの当時1台車を売ると7000円位貰えたと思います。今考えるとトヨタの看板が有り楽に仕事が出来ました。 順調にトヨタマンで過ごしているとここで、又父の登場です。建設業の後を継げ・・・結婚を間近にしていた私はどうしようかと真剣に考えましたが、兄弟がいない私にとってはこれが宿命なのかなあと嫌々跡を継ぐ事になります。私の結婚式もそんなわけで跡継紹介兼結婚式みたいな感じの式になりました。当時としては200人近いとても立派な式を挙げて頂きました。しかし、そんな喜びもつかの間父の会社が倒産するのです。 結婚したばかりの私は職も失い、トヨタにいた時に父の会社の連帯保証人にもなっていて、その返済等では本当に大変な思いと経験をしました。一瞬で何もかも無くなり25歳の私にとっては悪夢のような出来事でした。 当時私の家内のお腹には今の長男がいて、とにかく直ぐに家内とこれから生れて来る子供たちの為に仕事を探さないと思っていた時期に面白い出会いがまたあるのです。その当時、競売にかかった横浜の自宅を見に来た不動産屋のおじさんとおばさんに(自由が丘の不動産屋さんの社長達)に、あなた不動産に向いているから不動産業者さんを紹介してあげるから一度東京に出て来なさいと言われ、当時の不動産業はダーティーなイメージがあり社会的認知も低い職種でしたが、藁をも掴む気持ちだった私は抱えている事情を全部話した上で世田谷区桜新町の不動産業者さんに勤務することになる訳です。これが私と不動産業との出会いでした。 私がこの不動産業を天職と思い今に至るまで、そしてこれからも続けていきたい仕事と会えた事は、実はそのお二人のお蔭なんです。最初は何千万円のものが本当に売れるのだろうかと言う不安ありました。反響営業ですので飛び込み営業をしてお客様を発掘する車の営業と比べれば、最初からお客様が購買意欲を持って話して頂ける本当にありがたい状態からスタートできる仕事でした。 ミルク代ミルク代と頑張った甲斐が有り、初年度から4年半で仲介手数料収入16億円を稼がせて頂き、全店のトップセールスで頑張り8年間務め3店舗の責任者を得たうえで独立する事になります。その時の給料歩合は売上手数料の10%ですからかなり当時としては良い収入でした。会社にとっても私は本当に良い社員だったと思います。 第3の転機 生き方が変わる そして独立のきっかけ 不動産会社に入り長男も無事誕生あとは自分が頑張ればこれからの見通しが見えて来たぞと一年経ち収入も安定してきた頃に、何と万1歳の長男が網膜細胞芽種という5万人に一人の目の裏にがん細胞が出来る小児癌になってしまいます。真面目に父は倒産するし家は無くなってしまう、せっかく授かった長男(私達夫婦の宝)までもと流石の私もペシャンコになりました。 お客様のご家庭は皆幸せで家を探しに来る中、私の長男は生きるか死ぬかで国立がんセンターの小児病棟にいるこのギャップを埋める為、車の中でバックミラーに自分の顔を写し、何度も何度も笑顔の練習をしました。 お客様を案内しているとお前の部屋はあそこだよ・・君の部屋はここにしよう等、本当に幸せそうな家族を見ながらのお客様のご案内は26~27歳の男には辛い修行でしたし、あの頃良く頑張ってたなあと当時の自分を褒めてあげたいと思います。 国立がんセンターの小児病棟は、今この時間でも小さな命が失われ涙にあふれている場所です。私自身もその場所に初めて行った時には、毎日毎日涙が止まりませんでした。他のお子様が私に対し「おじちゃん明日退院なんだ」と言って喜んでいたお子さんが、次の日に行くとシーツになっているんです。私の家内はショックで3か月の間まるっきり声が出なくなってしまいました。 若い夫婦にとって人に言えない又言っても分かって貰えないどん底の気持の中、毎日如何したら良いのかこれからどうなってしまうのか毎日が不安の連続でした。とにかく必ず助かるという希望を持ち続け、最後の神頼みではないですが必死に手を合わせました。私はと言うと昔の「手当て」を信じて7年間どんなに遅く帰っても息子の寝ている前に行き、その目に「絶対再発するな!」と1時間彼の目に手を当て必死に祈り続けました。(自分の気功で絶対にがん細胞を消してやると信じ込んでやっていました) 今考えると兄弟がいない私たち夫婦は、会社の先輩や色々な方から精神的に助けられました。そのおかげで長男は片目の視力は失いましたが、現在38歳になり鍼灸接骨院を開業させて頂き、車の免許も取得する事も出来ました。片方だけの目でも見えるだけお前は幸せなんだと言い聞かせ育てて来ました。随分親としてはひどい言動と行動をとった事もあります。そんな中で育った彼は本当に素晴らしい優しい青年に成長してくれ、私も家内も本当に心から嬉しいと思っています。 お世話になった病院には、毎年2回チャリティーコンペを開かせて頂いた募金の中から(当時150人以上のコンペ参加者でした)ダンボール何箱かのクリスマスプレゼントの購入費に当てさせて頂き、そのプレゼントを10年以上続けていました。小児病棟にはお正月も家に帰れないお子さんがいて、特に無菌室のお子さんは何も出来ないので流行りのビデオを見る位しか出来ません。 それからしばらく経って、公的な病院はおもちゃ等外部からの物は受け取ってくれなくなり、それからはそのチャリティー募金を世田谷区を通して区長室でチャリティーを行い、色んな施設に寄付させて頂いていました。 息子が6歳になり小学校入学の時に何でも買ってやるから何がいいんだと言ったところ、「パパもう一つのめめが見えるようになりたい」と言われ、私はその時男泣きをしました。こんな小さな子供がこんな思いをしているんであれば、自分で独立をして人の為に自分自身何か出来る社長になりたい。そこで独立を決意し、今から28年前の32歳の3月お世話になった会社を辞める事となります。 (当時のコンペ組合せ表、150名以上の参加者でした) 独立と倒産 今から35年前に駒澤大学の駅の上で120坪以上の店舗を借り、不動産業を始めます。城南地区に商圏を限定し最初は不動産仲介業、しばらくして渋谷店に賃貸事業部を、そして千駄ヶ谷に広告代理店、それからはビルオーナー業や建売事業をと、最終的には社員も60人近くになり取扱高120億位迄の法人を作り上げ、データーバンクでも不動産業者としては珍しい程の評価を頂きました。売り上げも大きくなる分銀行の借り入れもどんどん増えていき、気付くと35億位迄の金額になっていました。そんな時に10現場以上(50棟近かったと思います)任せていた工務店の倒産があり、とんでもない事態になりました。 城南地区の高額帯のお客様をターゲットとし営業をしていた弊社のお客様は新規でのお客様は殆ど無く、ご自身のご自宅を売却してその売却代金を購入物件に充当してプラスローンを組まれるいわゆる買替層の方々が多く、そのお客様自身の売却したご自宅の引き渡しも合わせてのセット営業でしたので、その工務店の倒産により工事の延期そしてその完成迄の間の住まいの提供、そして次の工務店の選出(住宅性能保証等の関係上50%出来ている建物を全て壊さないと次の工務店は請け負ってくれません)。お客様一人一人に対して毎朝毎晩そのフォロー業務を行いました。 大変だったのは私自身が工事費用を殆どその工務店に支払ってしまっていた事も有り、会社所有の持っていたビル他不動産(当時早期売却金額で約21億位になりました)を全部売却し、そのお金をその建物資金に充て建物をしっかりと完成させ、お客様に引渡を終えたうえで前の会社の幕が下りる事になります。リスケは6行の支店長は皆OKしてくれ上手く行っていたように見えたのですが、メインバンクのしかも本部から来たばかりの若い支店長が私は甘くありませんよの一言でした。 びっくりしましたのは未完成である物件を完成させる為に持っていた不動産を全て売却し、そのお金を建築代金として新規工務店に支払おうとしていた時に、お客様の建物に充当しないで銀行に返してくれとその支店長言った言葉です。正直リスケが上手く行けば残金は問題なく返せたのですが・・・。正直まさか法人と同時に個人口座をと思いましたが、通帳はすべて清算済。まるで空から爆弾が降って来たようでした・・! それから私自身の口座は全部清算となり、22年前にまたまた0からのスタートとなる訳です。自殺するのではと周りから言われましたが、今迄の大変だった事を考えればその試練は簡単に乗り越えられました。私自身がそういう状態であったにもかかわらずお客様や業者さんは誠意を分かって頂き、今現在も仲良くお付き合いさせて頂いています。本当にあっという間でした。 上場の話があったと思えば簡単に無担保で3億のお金を銀行が貸してくれたり、又毎年100人以上の忘年会、 そして海外へ社員旅行本当に素晴らしい輝かしいキラキラしていた日々でした。 ゴルフコンペや忘年会でお付き合いのあった同業者又今まで仲良かったと信じてた友人の散る早さをその時 初めて目の前見て、本当に寂しい気持ちで一杯になりました。片手位の方しか残りませんでした(^-^;。良い時も悪い時も一緒にいられる友人・・そんなにはいないものですね。 新たな出発 桜新町に出店 そして今 新会社TOWN-NETを等々力から2014年春に世田谷区の桜新町駅前に、本店を移転させて頂きました。お祝いのお花も小さい店舗に入りきれない程のたくさん頂戴し、改めてふんどしを引き締め頑張らないとなあと思っております。人に好かれようと又100人に通用する営業をしてきた自分ですが、これからの人生は99人から嫌われても1人の人と仲良くなってこれからの人生生きてゆこうと思ったわけですが、最近弊社に若い社員が入って来ましてその社員の為にもこれからは愛想良くしないとなあと思ってきた今日この頃です。 新会社を立ち上げるとお付き合いのあった地主さんは、20億の土地を専属専任で任してくれました。(手数料3%でも6000万円になりましたので本当にありがたかったです)逆にジャマもたくさんされました。祖師谷の地主さんには競合していた業者に契約数日前に私が倒産した事を言われ、農協相手の地主さんは私を選んではくれませんでした。その事をゴルフ友達の神宮前のビルオーナーにお話をするとじゃあこれ売って良いよとビル売却の専任を頂いたり(この物件も11億でした)、捨てる神あれば拾う神もいると本当に思いました。 当時私が売却して来た何社かの工務店の社長は20棟位長谷川社長に任せるからと社員がいない私に専属専任をくれたり(5000万円台から8000万円台でも一棟業者付でも150万円から240万円)の手数料になり、その売上等で今のTOWN-NETの基盤を作り立ち上げました。現在も桜新町の駅前で毎日毎日バタバタと一生懸命頑張っております。60人いて6000万円以上の経費がかかっていた頃は確かに会社も大きく見た目には良かったですが、今の4人の小さな会社もなかなか居心地が良いものです。だからこの会社を大事にしていこうと思っています。自分の力でどうにでも出来ますし、若い社員も入ってきたので会社を繋げていきたいと最近本気で思います。 現在は年間35億から40億の物件の売却・購入の仲介をメインに、都心そして城南地域を商圏とし頑張っています!また一昨年には全国ネットで不動産バトルどっちの家を買いますかという番組に出演させて頂き、とても良い経験になりました。 (東急田園都市線「桜新町」駅前TOWN-NET) 昨日の夢を今日の理想とし、明日の現実とする 仕事ではいつか家を持ちたいなあ~「夢」を物件をご案内して資金計算等をして私でも購入できるけど「理想」としてご契約頂きその物件をマイホームとして住んで頂くいわゆる明日の「現実」となるわけです。 同窓生の皆様、諸先輩の皆様、今後とも公私共に御指導頂きます様、何卒宜しくお願い致します。何か不動産に於いてご相談ごとがございましたら、いつでもお気軽にご連絡頂ければ幸いです。いつも楽しくいつも笑ってしあわせ しあわせ そしてツイテルツイテルの精神で頑張っています! 私に「宝の言葉」をかけて頂いたお二人をご紹介致します。お一人は元内閣総理大臣田中角栄先生の秘書軍団を率いていた「角栄のお庭番」朝賀昭先生です。 25歳の私が父の倒産により一文無しになり不動産業界に入社したその日桜新町にある八丁軒という小さなラーメン屋に入っていた時の話です。ラーメン屋さんの店主に私が「親父の会社が倒産してしまい今から死に物狂いで働いて稼がなくてならなくその為この近くの不動産会社に勤めることになったので宜しくお願いします。 という話をしてお金を払おうとするとここにいた親父さんが払っていったよと言われお店を出て 「すみません。見ず知らずの私にありがとうございました」とお礼とご挨拶をすると「今の話聞いてたぞ。君はいい目をしているから頑張れば大丈夫だ!」と仰っていただき全く知らない土地で今からどうしようと思っている私にとってこの言葉は「宝の言葉」になりました。「私が会社を設立した際には顧問になってください!」と訳のわからないお願いをしたのを今では本当に朝賀先生は弊社の顧問をして頂いています。感謝感謝です。 もう一人のかたは私が姉のように慕わせて頂いていますデヴィ夫人です。 21年前何十億というお金を騙され私があの芸人のはなわ君と六本木のバーで飲んでいた時の話です。バーのオーナーが長谷川さん会社駄目にしちゃったみたいだと夫人にお話ししたようで暫くすると席にドンペリを夫人からと出して頂きました。席までありがとうございますとお礼に行くと「あなたまだ若いでしょ。まだまだ頑張れば大丈夫ですよ」と仰って頂いたのです。私にとって二つ目の宝の言葉です。 私は昔からデヴィ夫人に憧れ直接お話ししたいなあという「夢」がありもしお目にかかれたら美味しい料理をご一緒したいなあという「理想」を持ち、今では月に数回ご一緒させて頂く「現実」となりました。夫人は厳しい方ですが、傍にいるとホッとする方です。そして夫人には色々教えて頂く事がたくさんあり、本当に勉強になります。人生の中でこの様な素敵な方とご一緒できる環境に、心から感謝しています。 スカルノ大統領夫人のデヴィ夫人にはいつも大変お世話になっています。2023年12月24日のクリスマスイブに可愛いチワワの赤ちゃんを孫の為にとお譲りして頂きました。そして夫人主催のハロウィンパーティーでのワンショットそしてインドネシアにご一緒させて戴いた時のホワイトパーティーの写真です。とても素敵で優しく大好きな方です! 私が営業時代は子供の運動会すらなかなか参加出来ず一、緒にいられる時間がありませんでした(^-^; 孫達とはなるべく一緒にと思っている中、このコロナ騒動で東京で働いている私はバイキンマン扱いで、なかなか娘宅に遊びに行っても抱っこすらさせて貰えません。(還暦を迎えた時がコロナのど真ん中でしたので) 人生まだまだ頑張って、この子達が結婚するまで元気でいたいものです。こんな風に思える自分自身の環境に心から感謝します。 (2023年8月)は家内の還暦祝いを息子と3人でさせて頂きました。) 何より大事なのは人生を楽しむ事!そしてその幸せは一人では決して味わえない!家族が皆健康で元気で笑顔一杯の暮らしがいつまでも続くことが私の心の願いです。しあわせしあわせ(^^♪ ついてるついてる(^^♪ (長谷川毅さんのプロフィール) 神奈川県出身県立茅ヶ崎高校卒業 1983年3月東京国際大学(旧国際商科大学)商学部卒業藤原ゼミ、ゴルフ部、ウイラメット大学に短期留学(1980年) 1983年4月卒業後、横浜トヨペットへ入社。その後、家業を継ぐが倒産。不動産会社に長年勤務後、独立。1993年4月会社設立(120億の売上を達成するが・・・) 2011年7月会社設立(昭和54年9月)2021年不動産業として開業 現在世田谷区桜新町1-13-10 三田ビル1F・2Fにて不動産業として頑張っています。 TOWN-NET会社ホームページ https://www.town-net.biz 城南の正直不動産(TOWN-NET) https://jonan-baikyaku.jp 公益社団法人全日本不動産協会東京都本部 本部相談委員 公益社団法人全日本不動産協会東京都世田谷支部 副支部長 厚生委員長 国際ロータリー第2750地区東京赤坂ロータリークラブ会員 2017~2018年度 親睦活動委員長 2018~2019年度 プログラム委員長 2023~2024年度 理事 2024~2025年度 幹事 平成30年度 東久邇宮記念賞受賞 東久邇宮文化褒章受章 鍼灸接骨院 (長男大輔が開業) Cure Natura 南林間店 〒242.0006 神奈川県大和市南林間1-4-5 TEL 046-244-3433 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
長谷川毅さん(1983年卒業 商学部 藤原ゼミ ゴルフ部)2024年7月1日1983年国際商科大学(現東京国際大学)商学部卒業 藤原ゼミ ゴルフ部に所属しておりました。長谷川 毅(はせがわつよし)と申します。学生時代は両親の恩恵を受け何の不自由もなく育てて頂きましたが、卒業後には思いがけない試練が待っていました。その試練は今でも思い出したくないとても辛い思い出です。 でもその試練を乗り越えたおかげで自分自身も強くなり、人を見る目も出来ました。 現在63歳となりましたが、今では家族と孫達に恵まれ幸せに暮らしています。感謝感謝です! 東京都駒込の順天堂大学病院にて昭和35年7月29日生まれました。幼稚園から鎌倉市に家族で移住し、小学校6年生から茅ヶ崎市に移住。地元は神奈川県の鎌倉・茅ヶ崎・辻堂・藤沢といった湘南地区になります。建設会社を経営する父と医者の娘で元宝塚であった母との間に生まれて両親の恩恵を受け、幼少期時代は本当に大事に育てて貰いました。 ところが父の会社が大きくなるにつれ、両親が少しずつ不仲になり始めます。家族が東京に移る事となり、私だけが高校1年生(15歳)より鎌倉にて一人暮らしを始める事となるわけです。父親からは高校3年間で色々な経験(遊びや女性や良い事も悪い事も)をしろと言われ、そんな事を言われた15歳の少年が一人で暮らし始めれば良いも悪いも結果はお分かりの通り、どうしようもない生活が始まるわけです。 高校1年・2年その2年間はほとんど学校に行かなくなり、私の部屋は当時居場所のない先輩や後輩、同期男女の集まり場所となっていくわけです。どうしようもない乱れ切った生活の中では、本当に言葉に出来ないとんでもない経験がたくさんありました。自由が故に何でも出来てしまう止まらない暴走の中では、楽しい事や辛い事寂しい事色々な経験をさせて頂きました。 趣味はゴルフ(大好きです)・ピアノ・ギター・作詞作曲(最近は時間の余裕がなく全く楽器から離れています)。17歳の時に作った「「別離」もう」という曲はなかなかの自信作です。YouTubeでは長谷川毅「かあさんへ」とか、長谷川毅「眠れぬ思い とか、長谷川毅「純~愛する者たちへ」を探索して頂くと私の下手な歌がYouTubeから聞こえてきます。15歳から19歳当時は30曲以上の持ち歌が有り、17歳の時のライブでは藤沢市のヤマハホールを立見席が出るほど満杯にした事もありました。 もう一つは、今の不動産と言う仕事です。(不動産に関すること全般・・土地を見たり住宅を見たり、又街を見る事が大好きです) (私が18歳 初めてのショット)体が先に行ってますね(^^;)(チャリティーゴルフコンペで石川遼選手と) (はなわチャンネルにご一緒しました) (孫達も一緒に出演させて頂きました)(彼が経営する稽古場のお弁当を弊社で一緒に!) (宮里優作プロと家内)(アントニオ古賀先生にはいつもお世話になっています。びっくりしたのは東京国際大学で客員教授をされていました) 1回目の転機 大学に入れる機会をくれた恩人 荒れ果てた私を救ってくれた方 大手会社の社長になられた方でした。その方がとにかくうちに来なさいと当時目に涙を浮かべながら私に言ってくれた言葉があります。「我慢」と言う言葉です。 ヤンチャだった高校2年生の私に1年間、学生なんだから必死で勉強しなさい。君にとっても将来それは絶対に無駄にはならないからと言葉をかけてくれた方がいます。そして、その方と一つの約束をするのです!今考えると大した内容ではないのですが、他人の大人の方に真剣な目で自分の事に関して言われたのが初めてでしたので、何か私もグッと来てしまいました。その約束とは「喧嘩をするな!我慢しろ! 約束通り膝下までの学ランそして58cmの太いズボン(ドカン)をやめ、普通の学ランで通学した何日目かの高校2年の7月、運が悪いのか良かったのかいつも対抗していた学生達と大船駅で遭遇し、15人に囲まれてぐしゃぐしゃにされました。 「我慢・我慢・我慢を三回」仕返しをしようとする仲間達にももういいからとその方との恩義を17歳の少年は感じ、男同士の約束を守ったわけです。直ぐにその方のご自宅に居候させて頂く事になり、家庭教師の先生も付けて頂きました。540人中500番位だった成績も今でも忘れませんが何と100位以内の98番になり何と4つの大学に合格することになります。以後その方とは私が結婚をするまで年に2度ほどお会いさせて頂き、そのご恩は自分なりにちゃんとお返しさせて頂きました。 私が入学する事になったその大学こそ「国際商科大学(現在)東京国際大学」になるのです。埼玉県の川越市という場所が私にとっては第2の故郷として懐かしい場所になりました。そこでも昔お世話になった先輩と偶然にお会いしてその先輩のお誘いで私はなんとゴルフ部に入部してしまいます。体育会のコンパでは、ここでは書けない他クラブとの騒動があり大変なことになってしまいましたが、その時自分自身が初めて連帯責任というものを感じ真に勉強になりました。 1981年米国ウィラメット大学に短期留学(オレゴン州セーラム)は、44年前の初めて見るアメリカの文化に圧倒されました。特にあのディズニーランドのパレードには、本当にびっくりしたのを覚えています・・ その2か月間はとても良い経験になりました。 (大学のキャンパスでなぜか白いスーツの18歳・・素晴らしい環境でした!) (日本からの留学生達と記念写真) (最初のホストファミリーがお出迎え)(2件目のホストファミリー、奥様は大学教授) 入学当時下宿先を探していると、父がゴルフの帰りに川越でマンションを買って来たぞ~・・そんな父でした。そんなわけで4年後売却するからそれまでここに住めと新築のマンションに学生の身分で過ごし始めます。70㎡近くの学生には贅沢すぎるマンションでした。そんな学生生活を始めて束の間、父親がおまえは女難の層があるから新宿でクラブをやってみないかと私の学生生活の事など全く考えないで、今度は目黒にマンションを買ったからそこに住んで通えば良いと勝手過ぎる話です。もちろん部活は行かなくなるわけです(^-^; 新宿のクラブは当時私の知っている有名店では不夜城、Lee等で、華やか極まりない時代でした。弊店にも多くの財界人、高級官僚、政治家、芸能人、角界のトップの方達が集まる場所でありました。 その景色を19歳から21歳まで2年半の間見る事になるわけです。当時マクドナルドの時給がまだ460円の時代に女性のアルバイト料を1500円~2000円で募集をかけましたら百人以上の問い合わせが有り、その面接を19歳の少年がやるわけですから本当に無茶苦茶でした。23人その中から採用し夜の世界を何も知らない19歳の少年が水商売に入っていきます。15卓のお店は1テーブルで4万円から5万円程度で当時毎日満席状態!一日最低でも約70万円、良いボトルが入れば100万円程度の売り上げがありました。月に約2000万円位の売り上げで経費が80%位として当時のお金で毎月300万円から400万円のお金が19歳の少年に入ってくる様になると、またまた高校生時代のあの荒んだ生活の様にだんだんおかしくなっていきます。大学に行かなくなってしまいます(^^;) 当時では珍しいリースの仕事もし始めました。女性陣の中ではお子様がいる方もいらっしゃったので夜ではなく昼間の仕事として綺麗なお姉様3人にチームを組ませ、ブランド品のスーツを着させ、士業の先生をターゲットに絵のリース業を始めます。「先生~この絵2か月無料で飾らせて頂いていいでしょ♡気に入られたら3か月目からリースをお願い~♡」と絵を置いてくれれば100%契約になったのも同然です。2か月後に伺い絵を外せば・・そうです、当時は皆様タバコを吸っていたので後がクロスに残ってしまうんです。 当時50万円位の絵を最初20枚を20万円で購入し、それを月1万5千円から2万円でリースをかけて行くと約1年でその絵は無料になります。彼女たちは頑張り、1年間で色々な絵を100か所以上の士業の先生方の事務所に飾る事になります。年3回は違う絵と交換をしに行き、それが営業のフォローになる訳です。12か月目からは100枚としても毎月150万円~200万円のお金が入る仕組みです。 本当に20歳の少年が普通ならば絶対に行けないお店をそのお金を持って色々伺わせて頂きました。銀座では徳大寺、アナトリア、クラブ純等又赤坂ではあの山本社長がやられていたニューラテンクォーター(ここは父のお迎えに来た程度ですが)、このお店は15周年記念の時にはトムジョーンズを何と2時間のステージで10億ドル日本円にして3400万円(一夜のギャランティでは過去最高とギネスブックにも出ています)。そして20周年にはダイアナ・ロス、25周年にはサミー・ディヴィスJr・・昭和一番のナイトクラブでした。 そしてもう一つはあの六本木の帝王と呼ばれている杉良治社長がやられていたナイトクラブのペペロモコ・・、当時はリキビルにありとんでもない位流行っていました。たしか日本で最初のキャバクラも作った方です。ポップコーンという名前のお店だったと思います。こういった洒落た場所にお客様や同業者に連れられ毎日毎晩・・、今となっては墓場まで持って行くお話はたくさんある様な気がします。 あとスーパーマーケットをやりましたが、その事業は全く儲かりませんでした。ただPOSSシステムを初めて当時導入して社員教育マニュアルも作成した事が、後々考えれば良い経験になりました。 (私が前の会社を解散し桜新町で小さい事務所を開いた時にニューラテンクォーターの山本社長が事務所に寄って頂き感動でした) 第2の転機 就職活動 そんな学生時代はあっという間に過ぎ、その事業全てを叔父夫婦に譲る事になり、本来の学生としての私の就職活動が始まります。女性をたくさん使ってきた私は男性に無い女性の気配り又コマメなところ、人に対しての対応力の素晴らしさを営業の世界で生かしたら接客業で生かしたら凄いなあと思い、商学部であった私は本来ならば商学概論、又は経済学概論をテーマとした卒業論文でなければいけないのですが、女性論(商売に繋がると考えました)という論文を提出しました。もちろん当時のゼミの教授は最初目を丸くしていました。 42年前に女性を管理職に又女性であっても社長にした方が良いと考えていた学生は私一人だったと思います。その卒業論文を見てくれた学生課の先生が就職活動の際応援してくれまして、知名度の低い大学としては珍しく、さとう製薬・フランスベット・アマダ、富士ゼロックス等の企業に内定を早々頂きました。私の父がトヨタ出身という事もあり、営業を学ぶために横浜トヨペットに入社することになりました。 今考えれば勿体ない企業ばかりをお断りして横浜トヨペットに入社するわけですが、そこでは社会人として又営業と言う根本的な事を教えられました。毎日100件訪問を繰り返しネクタイの先迄汗が染みるほど、とにかく頑張りました。その結果、その年の11月の展示会には私の御客様だけでその展示場が一杯になり、月に26台の販売登録をかける事が出来新人賞も頂きました。給料はと言うと固定給が16万円程度で、たくさん販売できたとしても25万円前後、確かあの当時1台車を売ると7000円位貰えたと思います。今考えるとトヨタの看板が有り楽に仕事が出来ました。 順調にトヨタマンで過ごしているとここで、又父の登場です。建設業の後を継げ・・・結婚を間近にしていた私はどうしようかと真剣に考えましたが、兄弟がいない私にとってはこれが宿命なのかなあと嫌々跡を継ぐ事になります。私の結婚式もそんなわけで跡継紹介兼結婚式みたいな感じの式になりました。当時としては200人近いとても立派な式を挙げて頂きました。しかし、そんな喜びもつかの間父の会社が倒産するのです。 結婚したばかりの私は職も失い、トヨタにいた時に父の会社の連帯保証人にもなっていて、その返済等では本当に大変な思いと経験をしました。一瞬で何もかも無くなり25歳の私にとっては悪夢のような出来事でした。 当時私の家内のお腹には今の長男がいて、とにかく直ぐに家内とこれから生れて来る子供たちの為に仕事を探さないと思っていた時期に面白い出会いがまたあるのです。その当時、競売にかかった横浜の自宅を見に来た不動産屋のおじさんとおばさんに(自由が丘の不動産屋さんの社長達)に、あなた不動産に向いているから不動産業者さんを紹介してあげるから一度東京に出て来なさいと言われ、当時の不動産業はダーティーなイメージがあり社会的認知も低い職種でしたが、藁をも掴む気持ちだった私は抱えている事情を全部話した上で世田谷区桜新町の不動産業者さんに勤務することになる訳です。これが私と不動産業との出会いでした。 私がこの不動産業を天職と思い今に至るまで、そしてこれからも続けていきたい仕事と会えた事は、実はそのお二人のお蔭なんです。最初は何千万円のものが本当に売れるのだろうかと言う不安ありました。反響営業ですので飛び込み営業をしてお客様を発掘する車の営業と比べれば、最初からお客様が購買意欲を持って話して頂ける本当にありがたい状態からスタートできる仕事でした。 ミルク代ミルク代と頑張った甲斐が有り、初年度から4年半で仲介手数料収入16億円を稼がせて頂き、全店のトップセールスで頑張り8年間務め3店舗の責任者を得たうえで独立する事になります。その時の給料歩合は売上手数料の10%ですからかなり当時としては良い収入でした。会社にとっても私は本当に良い社員だったと思います。 第3の転機 生き方が変わる そして独立のきっかけ 不動産会社に入り長男も無事誕生あとは自分が頑張ればこれからの見通しが見えて来たぞと一年経ち収入も安定してきた頃に、何と万1歳の長男が網膜細胞芽種という5万人に一人の目の裏にがん細胞が出来る小児癌になってしまいます。真面目に父は倒産するし家は無くなってしまう、せっかく授かった長男(私達夫婦の宝)までもと流石の私もペシャンコになりました。 お客様のご家庭は皆幸せで家を探しに来る中、私の長男は生きるか死ぬかで国立がんセンターの小児病棟にいるこのギャップを埋める為、車の中でバックミラーに自分の顔を写し、何度も何度も笑顔の練習をしました。 お客様を案内しているとお前の部屋はあそこだよ・・君の部屋はここにしよう等、本当に幸せそうな家族を見ながらのお客様のご案内は26~27歳の男には辛い修行でしたし、あの頃良く頑張ってたなあと当時の自分を褒めてあげたいと思います。 国立がんセンターの小児病棟は、今この時間でも小さな命が失われ涙にあふれている場所です。私自身もその場所に初めて行った時には、毎日毎日涙が止まりませんでした。他のお子様が私に対し「おじちゃん明日退院なんだ」と言って喜んでいたお子さんが、次の日に行くとシーツになっているんです。私の家内はショックで3か月の間まるっきり声が出なくなってしまいました。 若い夫婦にとって人に言えない又言っても分かって貰えないどん底の気持の中、毎日如何したら良いのかこれからどうなってしまうのか毎日が不安の連続でした。とにかく必ず助かるという希望を持ち続け、最後の神頼みではないですが必死に手を合わせました。私はと言うと昔の「手当て」を信じて7年間どんなに遅く帰っても息子の寝ている前に行き、その目に「絶対再発するな!」と1時間彼の目に手を当て必死に祈り続けました。(自分の気功で絶対にがん細胞を消してやると信じ込んでやっていました) 今考えると兄弟がいない私たち夫婦は、会社の先輩や色々な方から精神的に助けられました。そのおかげで長男は片目の視力は失いましたが、現在38歳になり鍼灸接骨院を開業させて頂き、車の免許も取得する事も出来ました。片方だけの目でも見えるだけお前は幸せなんだと言い聞かせ育てて来ました。随分親としてはひどい言動と行動をとった事もあります。そんな中で育った彼は本当に素晴らしい優しい青年に成長してくれ、私も家内も本当に心から嬉しいと思っています。 お世話になった病院には、毎年2回チャリティーコンペを開かせて頂いた募金の中から(当時150人以上のコンペ参加者でした)ダンボール何箱かのクリスマスプレゼントの購入費に当てさせて頂き、そのプレゼントを10年以上続けていました。小児病棟にはお正月も家に帰れないお子さんがいて、特に無菌室のお子さんは何も出来ないので流行りのビデオを見る位しか出来ません。 それからしばらく経って、公的な病院はおもちゃ等外部からの物は受け取ってくれなくなり、それからはそのチャリティー募金を世田谷区を通して区長室でチャリティーを行い、色んな施設に寄付させて頂いていました。 息子が6歳になり小学校入学の時に何でも買ってやるから何がいいんだと言ったところ、「パパもう一つのめめが見えるようになりたい」と言われ、私はその時男泣きをしました。こんな小さな子供がこんな思いをしているんであれば、自分で独立をして人の為に自分自身何か出来る社長になりたい。そこで独立を決意し、今から28年前の32歳の3月お世話になった会社を辞める事となります。 (当時のコンペ組合せ表、150名以上の参加者でした) 独立と倒産 今から35年前に駒澤大学の駅の上で120坪以上の店舗を借り、不動産業を始めます。城南地区に商圏を限定し最初は不動産仲介業、しばらくして渋谷店に賃貸事業部を、そして千駄ヶ谷に広告代理店、それからはビルオーナー業や建売事業をと、最終的には社員も60人近くになり取扱高120億位迄の法人を作り上げ、データーバンクでも不動産業者としては珍しい程の評価を頂きました。売り上げも大きくなる分銀行の借り入れもどんどん増えていき、気付くと35億位迄の金額になっていました。そんな時に10現場以上(50棟近かったと思います)任せていた工務店の倒産があり、とんでもない事態になりました。 城南地区の高額帯のお客様をターゲットとし営業をしていた弊社のお客様は新規でのお客様は殆ど無く、ご自身のご自宅を売却してその売却代金を購入物件に充当してプラスローンを組まれるいわゆる買替層の方々が多く、そのお客様自身の売却したご自宅の引き渡しも合わせてのセット営業でしたので、その工務店の倒産により工事の延期そしてその完成迄の間の住まいの提供、そして次の工務店の選出(住宅性能保証等の関係上50%出来ている建物を全て壊さないと次の工務店は請け負ってくれません)。お客様一人一人に対して毎朝毎晩そのフォロー業務を行いました。 大変だったのは私自身が工事費用を殆どその工務店に支払ってしまっていた事も有り、会社所有の持っていたビル他不動産(当時早期売却金額で約21億位になりました)を全部売却し、そのお金をその建物資金に充て建物をしっかりと完成させ、お客様に引渡を終えたうえで前の会社の幕が下りる事になります。リスケは6行の支店長は皆OKしてくれ上手く行っていたように見えたのですが、メインバンクのしかも本部から来たばかりの若い支店長が私は甘くありませんよの一言でした。 びっくりしましたのは未完成である物件を完成させる為に持っていた不動産を全て売却し、そのお金を建築代金として新規工務店に支払おうとしていた時に、お客様の建物に充当しないで銀行に返してくれとその支店長言った言葉です。正直リスケが上手く行けば残金は問題なく返せたのですが・・・。正直まさか法人と同時に個人口座をと思いましたが、通帳はすべて清算済。まるで空から爆弾が降って来たようでした・・! それから私自身の口座は全部清算となり、22年前にまたまた0からのスタートとなる訳です。自殺するのではと周りから言われましたが、今迄の大変だった事を考えればその試練は簡単に乗り越えられました。私自身がそういう状態であったにもかかわらずお客様や業者さんは誠意を分かって頂き、今現在も仲良くお付き合いさせて頂いています。本当にあっという間でした。 上場の話があったと思えば簡単に無担保で3億のお金を銀行が貸してくれたり、又毎年100人以上の忘年会、 そして海外へ社員旅行本当に素晴らしい輝かしいキラキラしていた日々でした。 ゴルフコンペや忘年会でお付き合いのあった同業者又今まで仲良かったと信じてた友人の散る早さをその時 初めて目の前見て、本当に寂しい気持ちで一杯になりました。片手位の方しか残りませんでした(^-^;。良い時も悪い時も一緒にいられる友人・・そんなにはいないものですね。 新たな出発 桜新町に出店 そして今 新会社TOWN-NETを等々力から2014年春に世田谷区の桜新町駅前に、本店を移転させて頂きました。お祝いのお花も小さい店舗に入りきれない程のたくさん頂戴し、改めてふんどしを引き締め頑張らないとなあと思っております。人に好かれようと又100人に通用する営業をしてきた自分ですが、これからの人生は99人から嫌われても1人の人と仲良くなってこれからの人生生きてゆこうと思ったわけですが、最近弊社に若い社員が入って来ましてその社員の為にもこれからは愛想良くしないとなあと思ってきた今日この頃です。 新会社を立ち上げるとお付き合いのあった地主さんは、20億の土地を専属専任で任してくれました。(手数料3%でも6000万円になりましたので本当にありがたかったです)逆にジャマもたくさんされました。祖師谷の地主さんには競合していた業者に契約数日前に私が倒産した事を言われ、農協相手の地主さんは私を選んではくれませんでした。その事をゴルフ友達の神宮前のビルオーナーにお話をするとじゃあこれ売って良いよとビル売却の専任を頂いたり(この物件も11億でした)、捨てる神あれば拾う神もいると本当に思いました。 当時私が売却して来た何社かの工務店の社長は20棟位長谷川社長に任せるからと社員がいない私に専属専任をくれたり(5000万円台から8000万円台でも一棟業者付でも150万円から240万円)の手数料になり、その売上等で今のTOWN-NETの基盤を作り立ち上げました。現在も桜新町の駅前で毎日毎日バタバタと一生懸命頑張っております。60人いて6000万円以上の経費がかかっていた頃は確かに会社も大きく見た目には良かったですが、今の4人の小さな会社もなかなか居心地が良いものです。だからこの会社を大事にしていこうと思っています。自分の力でどうにでも出来ますし、若い社員も入ってきたので会社を繋げていきたいと最近本気で思います。 現在は年間35億から40億の物件の売却・購入の仲介をメインに、都心そして城南地域を商圏とし頑張っています!また一昨年には全国ネットで不動産バトルどっちの家を買いますかという番組に出演させて頂き、とても良い経験になりました。 (東急田園都市線「桜新町」駅前TOWN-NET) 昨日の夢を今日の理想とし、明日の現実とする 仕事ではいつか家を持ちたいなあ~「夢」を物件をご案内して資金計算等をして私でも購入できるけど「理想」としてご契約頂きその物件をマイホームとして住んで頂くいわゆる明日の「現実」となるわけです。 同窓生の皆様、諸先輩の皆様、今後とも公私共に御指導頂きます様、何卒宜しくお願い致します。何か不動産に於いてご相談ごとがございましたら、いつでもお気軽にご連絡頂ければ幸いです。いつも楽しくいつも笑ってしあわせ しあわせ そしてツイテルツイテルの精神で頑張っています! 私に「宝の言葉」をかけて頂いたお二人をご紹介致します。お一人は元内閣総理大臣田中角栄先生の秘書軍団を率いていた「角栄のお庭番」朝賀昭先生です。 25歳の私が父の倒産により一文無しになり不動産業界に入社したその日桜新町にある八丁軒という小さなラーメン屋に入っていた時の話です。ラーメン屋さんの店主に私が「親父の会社が倒産してしまい今から死に物狂いで働いて稼がなくてならなくその為この近くの不動産会社に勤めることになったので宜しくお願いします。 という話をしてお金を払おうとするとここにいた親父さんが払っていったよと言われお店を出て 「すみません。見ず知らずの私にありがとうございました」とお礼とご挨拶をすると「今の話聞いてたぞ。君はいい目をしているから頑張れば大丈夫だ!」と仰っていただき全く知らない土地で今からどうしようと思っている私にとってこの言葉は「宝の言葉」になりました。「私が会社を設立した際には顧問になってください!」と訳のわからないお願いをしたのを今では本当に朝賀先生は弊社の顧問をして頂いています。感謝感謝です。 もう一人のかたは私が姉のように慕わせて頂いていますデヴィ夫人です。 21年前何十億というお金を騙され私があの芸人のはなわ君と六本木のバーで飲んでいた時の話です。バーのオーナーが長谷川さん会社駄目にしちゃったみたいだと夫人にお話ししたようで暫くすると席にドンペリを夫人からと出して頂きました。席までありがとうございますとお礼に行くと「あなたまだ若いでしょ。まだまだ頑張れば大丈夫ですよ」と仰って頂いたのです。私にとって二つ目の宝の言葉です。 私は昔からデヴィ夫人に憧れ直接お話ししたいなあという「夢」がありもしお目にかかれたら美味しい料理をご一緒したいなあという「理想」を持ち、今では月に数回ご一緒させて頂く「現実」となりました。夫人は厳しい方ですが、傍にいるとホッとする方です。そして夫人には色々教えて頂く事がたくさんあり、本当に勉強になります。人生の中でこの様な素敵な方とご一緒できる環境に、心から感謝しています。 スカルノ大統領夫人のデヴィ夫人にはいつも大変お世話になっています。2023年12月24日のクリスマスイブに可愛いチワワの赤ちゃんを孫の為にとお譲りして頂きました。そして夫人主催のハロウィンパーティーでのワンショットそしてインドネシアにご一緒させて戴いた時のホワイトパーティーの写真です。とても素敵で優しく大好きな方です! 私が営業時代は子供の運動会すらなかなか参加出来ず一、緒にいられる時間がありませんでした(^-^; 孫達とはなるべく一緒にと思っている中、このコロナ騒動で東京で働いている私はバイキンマン扱いで、なかなか娘宅に遊びに行っても抱っこすらさせて貰えません。(還暦を迎えた時がコロナのど真ん中でしたので) 人生まだまだ頑張って、この子達が結婚するまで元気でいたいものです。こんな風に思える自分自身の環境に心から感謝します。 (2023年8月)は家内の還暦祝いを息子と3人でさせて頂きました。) 何より大事なのは人生を楽しむ事!そしてその幸せは一人では決して味わえない!家族が皆健康で元気で笑顔一杯の暮らしがいつまでも続くことが私の心の願いです。しあわせしあわせ(^^♪ ついてるついてる(^^♪ (長谷川毅さんのプロフィール) 神奈川県出身県立茅ヶ崎高校卒業 1983年3月東京国際大学(旧国際商科大学)商学部卒業藤原ゼミ、ゴルフ部、ウイラメット大学に短期留学(1980年) 1983年4月卒業後、横浜トヨペットへ入社。その後、家業を継ぐが倒産。不動産会社に長年勤務後、独立。1993年4月会社設立(120億の売上を達成するが・・・) 2011年7月会社設立(昭和54年9月)2021年不動産業として開業 現在世田谷区桜新町1-13-10 三田ビル1F・2Fにて不動産業として頑張っています。 TOWN-NET会社ホームページ https://www.town-net.biz 城南の正直不動産(TOWN-NET) https://jonan-baikyaku.jp 公益社団法人全日本不動産協会東京都本部 本部相談委員 公益社団法人全日本不動産協会東京都世田谷支部 副支部長 厚生委員長 国際ロータリー第2750地区東京赤坂ロータリークラブ会員 2017~2018年度 親睦活動委員長 2018~2019年度 プログラム委員長 2023~2024年度 理事 2024~2025年度 幹事 平成30年度 東久邇宮記念賞受賞 東久邇宮文化褒章受章 鍼灸接骨院 (長男大輔が開業) Cure Natura 南林間店 〒242.0006 神奈川県大和市南林間1-4-5 TEL 046-244-3433 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
TIU卒業生の方々にも国際連合・国際機関の職員を目指してもらいたい
高松雄一さん(1997年卒業 教養学部国際関係学科/TIUA下羽ゼミ1995年Willamette Univ.卒業 2001年シラキュース大学マックスウェル公共政策大学院修了)2024年6月1日高校生の時から国際連合で働きたいと決心 国際連合の職員になりたいと決心したのは高校生の時、教科書に載っていた日本の国際社会に対する貢献に関連した記事や平和維持活動に参加している世界各国からの青いヘルメットをかぶった兵士達の写真を見て国際連合とはいったい何なんだろうと関心を持ったことがきっかけです。国連のことを知れば知るほどそこで働きたくなり、自分もその組織で世界に何らかの形で貢献したいと思い、国連が自分の将来の勤務先だと目標を設定しまいました。今から考えると全然リスクを考えていなかったような…。 より国際性を持った大学に入ることを目指して、ほぼ決まっていた地元の大学の推薦入学まで辞退してしまいました。こんな唐突なそして無謀にも見えることを、よくも自分の両親は快く了解してくれたと今ではとても感謝しています。 海外留学、国際的視野育成がしっかりとしている東京国際大学に入学 東京国際大学をターゲットとした理由はやはり国際留学、国際的視野育成にかなり力をいれているところで、実質的サポートシステムがしっかりと整っている面に魅了されました。ほかの大学にはないアットホームな雰囲気にも惹かれました。とにかく学生と教授、そして大学職員との方々との距離がとても近く雰囲気が良いと以前から聞いていました。 大学時代に力を入れたことはとにかく様々な機会を利用して知識や語学を習得したことです。正式にとった講義だけではなく、教授たちの了解を得て他の学部や大学院の講義にも参加させてもらったことを思い出します。とにかく無我夢中で知識を習得し、自分の競争力を高めたいとしていたような気がします。 TIUA、Willamette大学、Drew大学へ留学し、国連事務局などでインターンシップに従事 二年時には当時のTIUアメリカ校へ留学, Willamette大学やニュージャージー州にあるDrew大学の国連プログラムでの留学・卒業も経験してまた東京国際大学に戻ってきました。在学中には日本とアメリカにおいてオレゴン州政府や国連事務局、国連難民高等弁務官事務所等でインターンシップに従事しました。 在学中に国際政治ゼミナールの故下羽友衛先生に勧められて参加した尾崎行雄記念財団主催の論文コンクールで国際関係に関する論文で文部大臣奨励賞を受賞し、アメリカに研修派遣されて、ノーベル平和財団が主催したシンポジウムに参加したことも大きな励みになりました。 国際連合ニューヨーク本部で働き始めて20年、現在は人事戦略関係の仕事に従事 国連には再度渡米しシラキュース大学マックスウェル公共政策大学院 (Syracuse University, Maxwell School of Citizenship and Public Affairs)を修了した後に広報局に入所し、国連ガイドなどの経験をしたその後はコフィアナン前国連事務総長のオフイス、平和維持局、本部人事部等で働きました。ニューヨーク本部だけではなくコンゴ民主共和国、タイ国バンコク、カナダモントリオールなどで様々な国連機関の職員達と仕事をしたりと良い経験になりました。コフィアナン元国連事務総長とお話したことも忘れ難い思い出になりました。 国連に就職してから20年以上時がたった現在は人事戦略関係の仕事をしています。具体的には国連職員を採用するためのアウトリーチ活動や職員の多様性を目指すことをしていて、大学や政府代表部を訪れ、国連就職の説明会なども行いました。いかに国連職員を増やすか等、各国の政府の方々と協議したりもします。 (故安倍晋三首相と国連本部で働いている邦人の同僚たちと)(国連本部国連総会にて) TIU卒業生の方々にも国際連合・国際機関の職員を目指してもらいたい 東京国際大学の学生たちには大きい夢を持って、是非ともそれに向かって辛抱強く挑戦してほしいです。短期的でかつ具体的な目標設定をして、遠回りでもいいから常に前向きに好奇心をもって戦略的に進んでいくことが大切だと思います。東京国際大学出身の国連職員が将来増えることを信じ、是非とも多くの学生に応募してもらい国際機関で働いてほしいです。 (詳しくは国連採用ウエブページ https://careers.un.org/home?language=en を参照) これからの国連は1)データ能力、2)イノベーション、3)行動科学、4)デジタルツール、そして5)先を見て戦略的に考える、というスキルを職員に必要としています。現在の学生だけではなく既に様々な専門分野で活躍されている東京国際大学の卒業生の方々にも、是非とも国連・国際機関の職員を目指してもらいたいと願っています。 国連は巨大な国際官僚組織です。皆さんがニュースや記事を読んでいて既に知っていると思いますが、この組織は様々な問題を抱えているのも現実です。それと同時に国連しかできないという仕事が山ほどあり、そのようなことはあまり報道されないのも辛いところ。国連が本当に何を達成しようとしているのかを理解して一緒にそれに向かっていきたいという職員を常に探しています。 東京国際大学の卒業生の輪がさらに広がっていくことを楽しみにしています。お互いに健康を第一にして頑張りましょう! (国際連合本部ビル) (高松雄一さんのプロフィール) 埼玉県出身東北学院榴ヶ岡高等学校卒業 1997年3月東京国際大学教養学部国際関係学科卒業 下羽友衛ゼミ TIUA留学 1995年 Willamette University 教養学部卒業 2001年シラキュース大学マックスウェル公共政策大学院(Syracuse University, Maxwell School of Citizenship and Public Affairs)修了 2000年国際連合広報局に入所 コフィアナン前国連事務総長のオフイス、平和維持局、本部人事部等で働く。 ニューヨーク本部だけではなくコンゴ民主共和国、タイ国バンコク、カナダモントリオールなどで様々な国連機関の職員達と仕事をする。 現在、国際連合ニューヨーク本部、経営戦略、ポリシー局人事戦略オフイス勤務 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
高松雄一さん(1997年卒業 教養学部国際関係学科/TIUA下羽ゼミ1995年Willamette Univ.卒業 2001年シラキュース大学マックスウェル公共政策大学院修了)2024年6月1日高校生の時から国際連合で働きたいと決心 国際連合の職員になりたいと決心したのは高校生の時、教科書に載っていた日本の国際社会に対する貢献に関連した記事や平和維持活動に参加している世界各国からの青いヘルメットをかぶった兵士達の写真を見て国際連合とはいったい何なんだろうと関心を持ったことがきっかけです。国連のことを知れば知るほどそこで働きたくなり、自分もその組織で世界に何らかの形で貢献したいと思い、国連が自分の将来の勤務先だと目標を設定しまいました。今から考えると全然リスクを考えていなかったような…。 より国際性を持った大学に入ることを目指して、ほぼ決まっていた地元の大学の推薦入学まで辞退してしまいました。こんな唐突なそして無謀にも見えることを、よくも自分の両親は快く了解してくれたと今ではとても感謝しています。 海外留学、国際的視野育成がしっかりとしている東京国際大学に入学 東京国際大学をターゲットとした理由はやはり国際留学、国際的視野育成にかなり力をいれているところで、実質的サポートシステムがしっかりと整っている面に魅了されました。ほかの大学にはないアットホームな雰囲気にも惹かれました。とにかく学生と教授、そして大学職員との方々との距離がとても近く雰囲気が良いと以前から聞いていました。 大学時代に力を入れたことはとにかく様々な機会を利用して知識や語学を習得したことです。正式にとった講義だけではなく、教授たちの了解を得て他の学部や大学院の講義にも参加させてもらったことを思い出します。とにかく無我夢中で知識を習得し、自分の競争力を高めたいとしていたような気がします。 TIUA、Willamette大学、Drew大学へ留学し、国連事務局などでインターンシップに従事 二年時には当時のTIUアメリカ校へ留学, Willamette大学やニュージャージー州にあるDrew大学の国連プログラムでの留学・卒業も経験してまた東京国際大学に戻ってきました。在学中には日本とアメリカにおいてオレゴン州政府や国連事務局、国連難民高等弁務官事務所等でインターンシップに従事しました。 在学中に国際政治ゼミナールの故下羽友衛先生に勧められて参加した尾崎行雄記念財団主催の論文コンクールで国際関係に関する論文で文部大臣奨励賞を受賞し、アメリカに研修派遣されて、ノーベル平和財団が主催したシンポジウムに参加したことも大きな励みになりました。 国際連合ニューヨーク本部で働き始めて20年、現在は人事戦略関係の仕事に従事 国連には再度渡米しシラキュース大学マックスウェル公共政策大学院 (Syracuse University, Maxwell School of Citizenship and Public Affairs)を修了した後に広報局に入所し、国連ガイドなどの経験をしたその後はコフィアナン前国連事務総長のオフイス、平和維持局、本部人事部等で働きました。ニューヨーク本部だけではなくコンゴ民主共和国、タイ国バンコク、カナダモントリオールなどで様々な国連機関の職員達と仕事をしたりと良い経験になりました。コフィアナン元国連事務総長とお話したことも忘れ難い思い出になりました。 国連に就職してから20年以上時がたった現在は人事戦略関係の仕事をしています。具体的には国連職員を採用するためのアウトリーチ活動や職員の多様性を目指すことをしていて、大学や政府代表部を訪れ、国連就職の説明会なども行いました。いかに国連職員を増やすか等、各国の政府の方々と協議したりもします。 (故安倍晋三首相と国連本部で働いている邦人の同僚たちと)(国連本部国連総会にて) TIU卒業生の方々にも国際連合・国際機関の職員を目指してもらいたい 東京国際大学の学生たちには大きい夢を持って、是非ともそれに向かって辛抱強く挑戦してほしいです。短期的でかつ具体的な目標設定をして、遠回りでもいいから常に前向きに好奇心をもって戦略的に進んでいくことが大切だと思います。東京国際大学出身の国連職員が将来増えることを信じ、是非とも多くの学生に応募してもらい国際機関で働いてほしいです。 (詳しくは国連採用ウエブページ https://careers.un.org/home?language=en を参照) これからの国連は1)データ能力、2)イノベーション、3)行動科学、4)デジタルツール、そして5)先を見て戦略的に考える、というスキルを職員に必要としています。現在の学生だけではなく既に様々な専門分野で活躍されている東京国際大学の卒業生の方々にも、是非とも国連・国際機関の職員を目指してもらいたいと願っています。 国連は巨大な国際官僚組織です。皆さんがニュースや記事を読んでいて既に知っていると思いますが、この組織は様々な問題を抱えているのも現実です。それと同時に国連しかできないという仕事が山ほどあり、そのようなことはあまり報道されないのも辛いところ。国連が本当に何を達成しようとしているのかを理解して一緒にそれに向かっていきたいという職員を常に探しています。 東京国際大学の卒業生の輪がさらに広がっていくことを楽しみにしています。お互いに健康を第一にして頑張りましょう! (国際連合本部ビル) (高松雄一さんのプロフィール) 埼玉県出身東北学院榴ヶ岡高等学校卒業 1997年3月東京国際大学教養学部国際関係学科卒業 下羽友衛ゼミ TIUA留学 1995年 Willamette University 教養学部卒業 2001年シラキュース大学マックスウェル公共政策大学院(Syracuse University, Maxwell School of Citizenship and Public Affairs)修了 2000年国際連合広報局に入所 コフィアナン前国連事務総長のオフイス、平和維持局、本部人事部等で働く。 ニューヨーク本部だけではなくコンゴ民主共和国、タイ国バンコク、カナダモントリオールなどで様々な国連機関の職員達と仕事をする。 現在、国際連合ニューヨーク本部、経営戦略、ポリシー局人事戦略オフイス勤務 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
香港で、香港の仲間と共に30年
西村かをりさん(1989年教養学部国際学科卒業 枇杷木賢生ゼミ)2024年2月1日香港在住29年の西村かをり、と申します。現在勤務している会社のシンガポールオフィスに一昨年入社した日本人営業の方が、霞会シンガポール支部の落合さんと家族ぐるみのお付き合いをされており、東京国際大学(TIU)同窓生として今回寄稿させて頂くご縁を頂きました。 香港の現状 現在日本の『宝印刷(株)』の海外関連会社である『Elite Asia (HK) Pte Ltd.』という通訳・翻訳手配会社でCEOを担当しております。ニュース等で皆さんもご存じの通り、香港はここ数年色々な状況を経験して来ました。人口自然減と流入減、そして海外への流出を差し引いた純流出は2023年2月現在で6万人となりました(『日本経済新聞』2023年2月16日記事より)。 海外移住する人数が大幅に増加した訳では無く、元々香港は海外への移住に抵抗が少なく、且つ旧宗主国であるイギリスが香港市民14万4500人を受け入れるとし、英国海外市民(BNO)パスポートを持つ香港人に就労を認め、将来的には永住権の取得を可能にすることを発表。カナダ、オーストラリア、シンガポール等の国々がそれに続きました。しかしながら海外移住には、それなりに費用も掛かることから、香港の就業人口の内、Manager等役職者クラスの、企業にとって要となる年代が、子供の教育について懸念を覚えての移住が増えていると言われています。 <2019年民主派デモ> <現在の国際金融センター> ただ私が勤務している企業でも2023年スタッフ退社による後任採用を実施致しましたが、20代の候補者はそれなりの人数が面接に参加してくれましたので、ここ香港で頑張っていこうという若い世代もしっかりと残っているとも感じています。 香港政府統計処によると「香港域外企業が香港に設置している拠点数は、2022年6月時点で合計8,978社と、前年(9,049社)比で0.8%減少したが、日本企業が香港に設置している拠点数は、1,388社と前年から変動はなかった。日系企業が香港に拠点を置く理由には、簡素な税制や低税率、フリーポートとしての位置づけ、地域統括あるいはキャッシュマネジメントの拠点としての機能が挙げられる。また、シンガポールなどの都市にはない大きな魅力として、中国本土へのアクセシビリティーが挙がる」と香港の経済的魅力を述べられています。 TIUとの繋がりと中国語 1984年教養学部国際学科に入学、1987~88年に北京へ留学、89年に1年遅れて卒業致しました。TIUと私の繋がりは中国語を抜きにしては語れません。欧米各国語の授業が200名レベルの登録人数だったのを見て、母が育った環境の影響で中国に関心を持っていた私は、35名という少人数であった中国語のクラスに履修登録し、そこで台湾からの留学生達と親しくなりました。 今から考えると台湾人の友人も多かったので、台湾への留学も検討すべきだったなとも思いますが、1980年代はまだ留学情報はあまり多く無く、TIUが山西(さんせい)省の山西大学と交換留学制度を実施していたことから、中国本土への留学を中心に検討致しました。ただ山西大学の交換留学から戻って来られた先輩が、訛りの強い中国語になっていた事にかなりショックを覚え、訛りの無い中国語を話したいと思い、自費で北京語言大学(当時は学院)に留学致しました。 中国との関りを持つ企業への就職と香港への転職 1988年に留学を終え4年生に復学、就職活動を始めました。丁度中国も開放政策を取っており、日本企業が中国へ進出も増えていった時期でもありました。 その中で『正栄食品工業(株)』に新卒として採用頂きましたが、雇用機会均等法2年目でもあり、女性を海外出張や駐在に出すことは、まだ一般的では無かった頃で、ファックスで中国とやり取りの担当や、お客様が中国、台湾から来られるとアテンドのサポートをさせて頂く業務が中心でした。 その中でもう少し中国語を使った仕事をしたいと1992年『(株)三幸』へ転職。中国食品を輸入する企業で、香港企業と提携し、しいたけやきくらげ等をグレード別に仕分け、日本で販売している企業でした。入社3年後、その提携先の香港企業の社長に「中国語を話して仕事がしたい」と相談し、香港会社へ転職させて頂き、1995年香港へ参りました。しかし程なくしてその香港会社の経営状況が思わしくなくなり、香港へ呼んだ責任上、会社からは日本へ帰って欲しいと言われましたが、この短期間で帰国するのも、と思い、1996年ジーンズ製造・販売の日系企業を経て、1998年『香港日本商工会議所』(以下、商工会議所)へ転職致しました。 香港日本商工会議所で約20年間、香港日系企業へのサポート 当初香港へ来た頃は中国大陸で話されている北京語しか話せず、社長の通訳を担当していたことから、「普通話が崩れるので、広東語(香港地場で話されている方言)は覚えるな」と言われておりました。しかしジーンズ製造・販売の日系企業では広東語での通訳が任務となり、香港人の同僚や友人と会話する中で、広東語を少しずつ話しながら習得していきました。『商工会議所』に採用された際の決め手は広東語が話せることだったと、採用後に事務局長に言われ、苦労して身に着けたことは、全て自分を助けるのだと感じました。 『商工会議所』は、戦後香港へ進出していた大企業である99社が中心となり、急激な日系企業の増加により、組織を整備し会員の要望に応える必要と、地元のビジネス団体とも組織として連携を行い、香港と日本の間で経済的な連携を促進する為に上記の目的達成の為設立された団体です。長年勤務されていた事務局長が交代され、組織変革をされる中で採用頂きました。 1998年8月から2017年3月という香港にとっても、また香港の日系企業にとっても大きな変革の時に、日系企業の変遷、香港の各組織の状況を目の当たりにし、多くの企業様を自分なりにサポートさせて頂けたことは、非常に得難い多くの経験をさせて頂きました。 それまでは香港へ進出する企業は、主に大企業が多かったようですが、私が『商工会議所』に所属していた時代は、段々と中小企業が進出していく流れとなっていました。 その流れに沿う様に「中小企業部会という業界毎の分類ではなく、業界横断型の新たな部会が作られました。『中小企業庁』による企業サイズの定義からすると、『商工会議所』の所属会員企業は大企業に属する企業が大半でしたので、目の前に居られない中小企業を、どう探して如何にサポートするか、という中々ハードルの高い活動を迫られていました。ただ毎年香港で開催される「Food Expo」というイベントに、日本から多くの中小企業が参加されていたので、その方々に最終日に商工会議所へお越し頂き、バイヤーである香港企業とのマッチングを行いました。 例に挙げますと、あるシウマイを製造販売されている企業へ、香港企業の方が「こんなにサイズが大きく無くても良い。パッケージももっとシンプルにして単価を下げられるのなら、飲茶レストランを運営する企業に紹介出来る」と言われたのを傍で伺い、日本で良いと言われるものも、別の市場へ売り込む際には、やはり現地の方のアドバイスは不可欠だなぁと実感致しました。企業の海外進出の目的に沿い、如何にサポートさせて頂くかという視点を身に着ける絶好の機会となりました。 またその後転職した現職の通訳・翻訳の会社に転職後も、多くの会員の方がお心に掛けて下さり、転職後2年で約200社の在港日系企業を訪問の機会とお仕事も頂きました。上司にもその多くの企業に同行してもらい「香港で頑張って、皆さんと繋がって来たんだね」と認識して貰うことにもつながりました。 <香港フードエキスポでの商談の様子><商工会議所視察による香港国際空港で、航空貨物の実機を見学> Elite Asia(HK)で通訳・翻訳業界への新たな挑戦 2017年『商工会議所』の組織変更により、これまで担当していた会員企業へのサービス提供業務から、役員を中心としたサポート業務への担当変更が決まりました。そのまま継続して勤務するスキームの提示もありましたが、現在の勤務先の合併元である『Takara International (HK) Ltd.』(以下Takara HK)にご縁を頂き、転職を決意しました。Takara HKは 元々『宝印刷(株)』という上場企業様の和文有価証券報告書を作成する企業が、初めて香港に作った海外拠点です。 現在日本政府は、日本企業の価値を更に高めるべく、有価証券報告書を日本語のみでなく、一部英語での作成を推進し始めております。和文報告書を本社が受注し、それを弊社で翻訳まで一気通貫でサービスを提供する為、弊社も世界中に点在する優秀な翻訳者と共に、精度の高い報告書の翻訳の提供を目指し、組織構築を行っております。 <オフィスの外観> <翻訳に関する打合せ中> またHolding Companyである『(株)タカラアンドカンパニー』は積極的にM&Aを行っており、通訳・翻訳業界での地位を高めるべく、2018年シンガポール・マレーシア・香港拠点企業の通訳・翻訳会社『Translasia Holdings Pte. Ltd.』、その傘下の『Elite Asia (HK) Pte Ltd.』、2019年翻訳事業会社 『(株)十印』、2020年日本最大手の通訳・翻訳事業会社『(株)サイマル・インターナショナル』を子会社化して参りました。 現在私は『Elite Asia (HK) Pte. Ltd.』のCEOとして、日本の上場企業様の有価証券報告書の英文及び中文翻訳業務を中心として、香港現地の日系・非日系企業の通訳・翻訳事業拡大に尽力しております。これまで長年香港のみに拠点を持つ非営利企業で企業様のサポートを主業務として行ってまいりましたが、現職では各国関連会社との連携、スムーズでより精度高く、業務対応量の拡大の出来る体制の構築、新規顧客の開拓・展開等、慣れないこと、学ばねばならないことの連続です。 今の目標は、香港で頑張っていこうとしている香港人の若いスタッフと共に、様々な業務の背景や目的を共有しながら、事業の発展、現地への貢献を目指しております。その思いに立てるのも、TIUで各国からの留学生との交流、ゼミナールや授業でのやり取りを通して、培わせて頂いたものと感謝の思いで一杯です。 こうして卒業後の長い時間を経て、TIUの皆様とご縁を頂き有難く存じます。会社としても、個人としても、何かお役に立てることがございましたら、遠慮なくご連絡頂ければ幸いです。 今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。 (西村かをりさんプロフィール) 東京都出身、埼玉県立志木高等学校卒業 1984年4月東京国際大学教養学部国際学科入学下羽 友衛ゼミ(1、2年次)、枇杷木賢生ゼミ(3、4年次) 1987年~1988年北京語言大学へ留学 1989年3月東京国際大学教養学部国際学科卒業 1989年4月~ 卒業後、正栄食品工業(株)、(株)三幸などに勤務 1998年8月~2017年3月香港日本商工会議所に勤務 2017年4月~Elite Asia (HK) Pte Ltd. CEOとして現在に至る*Elite Asiaは宝印刷(株)の海外関連会社 Elite Asia (HK) Pte Ltd. website: https://www.takara-international.com/(2023年4月にシンガポール傘下の香港拠点と合併した為、旧社名のサイトとなっております) Elite Asia (SG) Pte Ltd. website: https://www.eliteasia.co Email address: k_nishimura@gs.takara-print.co.jp TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
西村かをりさん(1989年教養学部国際学科卒業 枇杷木賢生ゼミ)2024年2月1日香港在住29年の西村かをり、と申します。現在勤務している会社のシンガポールオフィスに一昨年入社した日本人営業の方が、霞会シンガポール支部の落合さんと家族ぐるみのお付き合いをされており、東京国際大学(TIU)同窓生として今回寄稿させて頂くご縁を頂きました。 香港の現状 現在日本の『宝印刷(株)』の海外関連会社である『Elite Asia (HK) Pte Ltd.』という通訳・翻訳手配会社でCEOを担当しております。ニュース等で皆さんもご存じの通り、香港はここ数年色々な状況を経験して来ました。人口自然減と流入減、そして海外への流出を差し引いた純流出は2023年2月現在で6万人となりました(『日本経済新聞』2023年2月16日記事より)。 海外移住する人数が大幅に増加した訳では無く、元々香港は海外への移住に抵抗が少なく、且つ旧宗主国であるイギリスが香港市民14万4500人を受け入れるとし、英国海外市民(BNO)パスポートを持つ香港人に就労を認め、将来的には永住権の取得を可能にすることを発表。カナダ、オーストラリア、シンガポール等の国々がそれに続きました。しかしながら海外移住には、それなりに費用も掛かることから、香港の就業人口の内、Manager等役職者クラスの、企業にとって要となる年代が、子供の教育について懸念を覚えての移住が増えていると言われています。 <2019年民主派デモ> <現在の国際金融センター> ただ私が勤務している企業でも2023年スタッフ退社による後任採用を実施致しましたが、20代の候補者はそれなりの人数が面接に参加してくれましたので、ここ香港で頑張っていこうという若い世代もしっかりと残っているとも感じています。 香港政府統計処によると「香港域外企業が香港に設置している拠点数は、2022年6月時点で合計8,978社と、前年(9,049社)比で0.8%減少したが、日本企業が香港に設置している拠点数は、1,388社と前年から変動はなかった。日系企業が香港に拠点を置く理由には、簡素な税制や低税率、フリーポートとしての位置づけ、地域統括あるいはキャッシュマネジメントの拠点としての機能が挙げられる。また、シンガポールなどの都市にはない大きな魅力として、中国本土へのアクセシビリティーが挙がる」と香港の経済的魅力を述べられています。 TIUとの繋がりと中国語 1984年教養学部国際学科に入学、1987~88年に北京へ留学、89年に1年遅れて卒業致しました。TIUと私の繋がりは中国語を抜きにしては語れません。欧米各国語の授業が200名レベルの登録人数だったのを見て、母が育った環境の影響で中国に関心を持っていた私は、35名という少人数であった中国語のクラスに履修登録し、そこで台湾からの留学生達と親しくなりました。 今から考えると台湾人の友人も多かったので、台湾への留学も検討すべきだったなとも思いますが、1980年代はまだ留学情報はあまり多く無く、TIUが山西(さんせい)省の山西大学と交換留学制度を実施していたことから、中国本土への留学を中心に検討致しました。ただ山西大学の交換留学から戻って来られた先輩が、訛りの強い中国語になっていた事にかなりショックを覚え、訛りの無い中国語を話したいと思い、自費で北京語言大学(当時は学院)に留学致しました。 中国との関りを持つ企業への就職と香港への転職 1988年に留学を終え4年生に復学、就職活動を始めました。丁度中国も開放政策を取っており、日本企業が中国へ進出も増えていった時期でもありました。 その中で『正栄食品工業(株)』に新卒として採用頂きましたが、雇用機会均等法2年目でもあり、女性を海外出張や駐在に出すことは、まだ一般的では無かった頃で、ファックスで中国とやり取りの担当や、お客様が中国、台湾から来られるとアテンドのサポートをさせて頂く業務が中心でした。 その中でもう少し中国語を使った仕事をしたいと1992年『(株)三幸』へ転職。中国食品を輸入する企業で、香港企業と提携し、しいたけやきくらげ等をグレード別に仕分け、日本で販売している企業でした。入社3年後、その提携先の香港企業の社長に「中国語を話して仕事がしたい」と相談し、香港会社へ転職させて頂き、1995年香港へ参りました。しかし程なくしてその香港会社の経営状況が思わしくなくなり、香港へ呼んだ責任上、会社からは日本へ帰って欲しいと言われましたが、この短期間で帰国するのも、と思い、1996年ジーンズ製造・販売の日系企業を経て、1998年『香港日本商工会議所』(以下、商工会議所)へ転職致しました。 香港日本商工会議所で約20年間、香港日系企業へのサポート 当初香港へ来た頃は中国大陸で話されている北京語しか話せず、社長の通訳を担当していたことから、「普通話が崩れるので、広東語(香港地場で話されている方言)は覚えるな」と言われておりました。しかしジーンズ製造・販売の日系企業では広東語での通訳が任務となり、香港人の同僚や友人と会話する中で、広東語を少しずつ話しながら習得していきました。『商工会議所』に採用された際の決め手は広東語が話せることだったと、採用後に事務局長に言われ、苦労して身に着けたことは、全て自分を助けるのだと感じました。 『商工会議所』は、戦後香港へ進出していた大企業である99社が中心となり、急激な日系企業の増加により、組織を整備し会員の要望に応える必要と、地元のビジネス団体とも組織として連携を行い、香港と日本の間で経済的な連携を促進する為に上記の目的達成の為設立された団体です。長年勤務されていた事務局長が交代され、組織変革をされる中で採用頂きました。 1998年8月から2017年3月という香港にとっても、また香港の日系企業にとっても大きな変革の時に、日系企業の変遷、香港の各組織の状況を目の当たりにし、多くの企業様を自分なりにサポートさせて頂けたことは、非常に得難い多くの経験をさせて頂きました。 それまでは香港へ進出する企業は、主に大企業が多かったようですが、私が『商工会議所』に所属していた時代は、段々と中小企業が進出していく流れとなっていました。 その流れに沿う様に「中小企業部会という業界毎の分類ではなく、業界横断型の新たな部会が作られました。『中小企業庁』による企業サイズの定義からすると、『商工会議所』の所属会員企業は大企業に属する企業が大半でしたので、目の前に居られない中小企業を、どう探して如何にサポートするか、という中々ハードルの高い活動を迫られていました。ただ毎年香港で開催される「Food Expo」というイベントに、日本から多くの中小企業が参加されていたので、その方々に最終日に商工会議所へお越し頂き、バイヤーである香港企業とのマッチングを行いました。 例に挙げますと、あるシウマイを製造販売されている企業へ、香港企業の方が「こんなにサイズが大きく無くても良い。パッケージももっとシンプルにして単価を下げられるのなら、飲茶レストランを運営する企業に紹介出来る」と言われたのを傍で伺い、日本で良いと言われるものも、別の市場へ売り込む際には、やはり現地の方のアドバイスは不可欠だなぁと実感致しました。企業の海外進出の目的に沿い、如何にサポートさせて頂くかという視点を身に着ける絶好の機会となりました。 またその後転職した現職の通訳・翻訳の会社に転職後も、多くの会員の方がお心に掛けて下さり、転職後2年で約200社の在港日系企業を訪問の機会とお仕事も頂きました。上司にもその多くの企業に同行してもらい「香港で頑張って、皆さんと繋がって来たんだね」と認識して貰うことにもつながりました。 <香港フードエキスポでの商談の様子><商工会議所視察による香港国際空港で、航空貨物の実機を見学> Elite Asia(HK)で通訳・翻訳業界への新たな挑戦 2017年『商工会議所』の組織変更により、これまで担当していた会員企業へのサービス提供業務から、役員を中心としたサポート業務への担当変更が決まりました。そのまま継続して勤務するスキームの提示もありましたが、現在の勤務先の合併元である『Takara International (HK) Ltd.』(以下Takara HK)にご縁を頂き、転職を決意しました。Takara HKは 元々『宝印刷(株)』という上場企業様の和文有価証券報告書を作成する企業が、初めて香港に作った海外拠点です。 現在日本政府は、日本企業の価値を更に高めるべく、有価証券報告書を日本語のみでなく、一部英語での作成を推進し始めております。和文報告書を本社が受注し、それを弊社で翻訳まで一気通貫でサービスを提供する為、弊社も世界中に点在する優秀な翻訳者と共に、精度の高い報告書の翻訳の提供を目指し、組織構築を行っております。 <オフィスの外観> <翻訳に関する打合せ中> またHolding Companyである『(株)タカラアンドカンパニー』は積極的にM&Aを行っており、通訳・翻訳業界での地位を高めるべく、2018年シンガポール・マレーシア・香港拠点企業の通訳・翻訳会社『Translasia Holdings Pte. Ltd.』、その傘下の『Elite Asia (HK) Pte Ltd.』、2019年翻訳事業会社 『(株)十印』、2020年日本最大手の通訳・翻訳事業会社『(株)サイマル・インターナショナル』を子会社化して参りました。 現在私は『Elite Asia (HK) Pte. Ltd.』のCEOとして、日本の上場企業様の有価証券報告書の英文及び中文翻訳業務を中心として、香港現地の日系・非日系企業の通訳・翻訳事業拡大に尽力しております。これまで長年香港のみに拠点を持つ非営利企業で企業様のサポートを主業務として行ってまいりましたが、現職では各国関連会社との連携、スムーズでより精度高く、業務対応量の拡大の出来る体制の構築、新規顧客の開拓・展開等、慣れないこと、学ばねばならないことの連続です。 今の目標は、香港で頑張っていこうとしている香港人の若いスタッフと共に、様々な業務の背景や目的を共有しながら、事業の発展、現地への貢献を目指しております。その思いに立てるのも、TIUで各国からの留学生との交流、ゼミナールや授業でのやり取りを通して、培わせて頂いたものと感謝の思いで一杯です。 こうして卒業後の長い時間を経て、TIUの皆様とご縁を頂き有難く存じます。会社としても、個人としても、何かお役に立てることがございましたら、遠慮なくご連絡頂ければ幸いです。 今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。 (西村かをりさんプロフィール) 東京都出身、埼玉県立志木高等学校卒業 1984年4月東京国際大学教養学部国際学科入学下羽 友衛ゼミ(1、2年次)、枇杷木賢生ゼミ(3、4年次) 1987年~1988年北京語言大学へ留学 1989年3月東京国際大学教養学部国際学科卒業 1989年4月~ 卒業後、正栄食品工業(株)、(株)三幸などに勤務 1998年8月~2017年3月香港日本商工会議所に勤務 2017年4月~Elite Asia (HK) Pte Ltd. CEOとして現在に至る*Elite Asiaは宝印刷(株)の海外関連会社 Elite Asia (HK) Pte Ltd. website: https://www.takara-international.com/(2023年4月にシンガポール傘下の香港拠点と合併した為、旧社名のサイトとなっております) Elite Asia (SG) Pte Ltd. website: https://www.eliteasia.co Email address: k_nishimura@gs.takara-print.co.jp TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
将来に夢を持ち、TIUの一員として世界でご活躍されることを願っています。
松尾謙一さん (1982年商学部卒業 小峰ゼミ ESS~ELI)2023年12月1日特に自分が九州から出てきた時の大学に対する想いと憧れ=「国際化」を思い出し、若い学生さんたちに将来に夢を持ち、TIUの一員として世界でご活躍を!!との思いで記させて頂きました。以下英語にて失礼します!! 【Mr,Kenichi Matsuo‘s Profile】 Born June 1958 in Kagoshima City, Kumamoto City until high school, then moved to Tokyo to become a member of ICC. Entered ICC (TIU) in April 1978. Komine Seminar (Foreign Exchange, International Finance) ESS~ELI (English Conversation Acquisition Debate Section Chief) I wanted to work in the trading department of a manufacturing company in the future, so I studied English Club, Foreign Exchange, and International Finance. April 1982: Joined Ichikawa Co.,LTD September 1987: Studied abroad in the U.S. (Monterey CA, Houston TX, Atlanta GA) March 1988: Returned to Japan and was assigned to the Overseas Trade Department (thereafter, sales in 24 countries for 20 years until March 2007) After 20 years as a salaried employee, consulted with a board member to challenge an unknown job. April 2008: Assigned to the Internal Audit Department (Appointed as General Manager of the Internal Audit Department in April 2004) Compliance training under management, audits of overseas sales companies, etc. April 2018 While at Ichikawa, established the joint venture Matsu and hosted various events~. Organized various events and study groups in other industries, including a gathering of legendary executive producer Akira Imai, who created 196 Project X on NHK, vice president of the supporters’ association of legendary boxer Hiroyuki Sakamoto, and hosted a recital of a Japanese dancer and other events and study groups in other industries. September 2021: Retired from Ichikawa Corporation and joined Security Service Co. Former NHK executive producer Akira Imai hosts seminars and shares many inspiring experiences with his colleagues. おまけです。最近の活動です。 今後は国際的なイベントに参加することはもちろん、国際的に活躍する人を応援いたします。70歳までは働きたいと思います。 元プロボクサー 坂本博之氏 日本舞踊家 若柳尚雄里(なおゆり)氏 日本舞踊家 若柳尚雄里(なおゆり)氏 大蔵流狂言師善竹十郎氏 ※元プロボクサー坂本氏の後援会副会長、恵まれない子供たちへのボランティア ※日本舞踊家若柳尚雄里氏の日本文化を世界に!の企画・プロデュース ※大蔵流狂言師 善竹十郎 狂言を身近に感じるためのセミナー主催 (松尾謙一さんプロフィール) 1958年6月 鹿児島市生まれ、高校まで熊本市、大学から上京ICCの一員となる。 1978年4月 ICC(現TIU )入学 商学部14期生 小峰ゼミ(外国為替、国際金融論男子20名) ESS~ELI(英会話習得~Debate Section Chief) 1982年4月 市川毛織株式会社入社(現イチカワ株式会社)国内営業部配属 1987年9月 社内米国語学留学(モントレーCA、ヒューストンTX、アトランタGA) 1988年3月 帰国後海外営業部配属(以後2007年3月迄20年間、24か国で営業)リーマン生活20年経て未知の仕事にチャレンジしたく役員に相談し 2008年4月 内部監査室配属(2004年4月から内部監査室長)経営者の下コンプライアンス教育、監査法人と海外販社監査等実施 2018年4月 イチカワ在籍中に合同会社マツを設立し各種イベント主催~。NHKでプロジェクトXを196本作った伝説のエグゼクティブ・プロデューサー今井彰氏の集い、伝説のボクサー坂本博之後援会副会長、日本舞踊家のリサイタル等他業種のイベント・勉強会主催等など主催 2021年9月 イチカワ株式会社後、警備保障勤務兼イベント主催を実施中 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
松尾謙一さん (1982年商学部卒業 小峰ゼミ ESS~ELI)2023年12月1日特に自分が九州から出てきた時の大学に対する想いと憧れ=「国際化」を思い出し、若い学生さんたちに将来に夢を持ち、TIUの一員として世界でご活躍を!!との思いで記させて頂きました。以下英語にて失礼します!! 【Mr,Kenichi Matsuo‘s Profile】 Born June 1958 in Kagoshima City, Kumamoto City until high school, then moved to Tokyo to become a member of ICC. Entered ICC (TIU) in April 1978. Komine Seminar (Foreign Exchange, International Finance) ESS~ELI (English Conversation Acquisition Debate Section Chief) I wanted to work in the trading department of a manufacturing company in the future, so I studied English Club, Foreign Exchange, and International Finance. April 1982: Joined Ichikawa Co.,LTD September 1987: Studied abroad in the U.S. (Monterey CA, Houston TX, Atlanta GA) March 1988: Returned to Japan and was assigned to the Overseas Trade Department (thereafter, sales in 24 countries for 20 years until March 2007) After 20 years as a salaried employee, consulted with a board member to challenge an unknown job. April 2008: Assigned to the Internal Audit Department (Appointed as General Manager of the Internal Audit Department in April 2004) Compliance training under management, audits of overseas sales companies, etc. April 2018 While at Ichikawa, established the joint venture Matsu and hosted various events~. Organized various events and study groups in other industries, including a gathering of legendary executive producer Akira Imai, who created 196 Project X on NHK, vice president of the supporters’ association of legendary boxer Hiroyuki Sakamoto, and hosted a recital of a Japanese dancer and other events and study groups in other industries. September 2021: Retired from Ichikawa Corporation and joined Security Service Co. Former NHK executive producer Akira Imai hosts seminars and shares many inspiring experiences with his colleagues. おまけです。最近の活動です。 今後は国際的なイベントに参加することはもちろん、国際的に活躍する人を応援いたします。70歳までは働きたいと思います。 元プロボクサー 坂本博之氏 日本舞踊家 若柳尚雄里(なおゆり)氏 日本舞踊家 若柳尚雄里(なおゆり)氏 大蔵流狂言師善竹十郎氏 ※元プロボクサー坂本氏の後援会副会長、恵まれない子供たちへのボランティア ※日本舞踊家若柳尚雄里氏の日本文化を世界に!の企画・プロデュース ※大蔵流狂言師 善竹十郎 狂言を身近に感じるためのセミナー主催 (松尾謙一さんプロフィール) 1958年6月 鹿児島市生まれ、高校まで熊本市、大学から上京ICCの一員となる。 1978年4月 ICC(現TIU )入学 商学部14期生 小峰ゼミ(外国為替、国際金融論男子20名) ESS~ELI(英会話習得~Debate Section Chief) 1982年4月 市川毛織株式会社入社(現イチカワ株式会社)国内営業部配属 1987年9月 社内米国語学留学(モントレーCA、ヒューストンTX、アトランタGA) 1988年3月 帰国後海外営業部配属(以後2007年3月迄20年間、24か国で営業)リーマン生活20年経て未知の仕事にチャレンジしたく役員に相談し 2008年4月 内部監査室配属(2004年4月から内部監査室長)経営者の下コンプライアンス教育、監査法人と海外販社監査等実施 2018年4月 イチカワ在籍中に合同会社マツを設立し各種イベント主催~。NHKでプロジェクトXを196本作った伝説のエグゼクティブ・プロデューサー今井彰氏の集い、伝説のボクサー坂本博之後援会副会長、日本舞踊家のリサイタル等他業種のイベント・勉強会主催等など主催 2021年9月 イチカワ株式会社後、警備保障勤務兼イベント主催を実施中 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
40年間の同窓会活動を通して多くの方々との交流に感謝!
遠藤 浩一さん(1982年/14期卒 教養学部(3期)国際関係学科 高橋勇治ゼミ)2023年10月1日1982年教養学部卒の遠藤浩一さんは、卒業後札幌のホテルへ就職されましたが、盛田昭夫さんが掲げた創業精神に惹かれソニー生命へ転職を決断。それ以来、入社20年を経過し50歳で営業職から管理職に転向し、2020年に60歳定年を迎え現在(嘱託社員)に至っていらっしゃいます。同窓会活動にも長年尽力され、霞会北海道支部の幹事や支部長、霞会の代議員、支部連合会の役員として約300名以上の同窓生の方々との出会いがあったそうです。今年2023年9月に「設立40周年同窓会」を開催。『例年にない盛会で、このような場面を見る度に長年幹事として支部長として同窓生の皆さんの再会の橋渡しができていることのへの喜びと自分自身の役割の重みを感じる次第です』と述べられています。 「中国研究ゼミ」で自身初めての海外旅行大学3年生の時に中国の広大な国土と悠久の歴史が織りなす文化に心惹かれ、中国研究ゼミに所属しました。その12月に研修旅行と称して10日間にわたり北京、杭州、上海を旅行しましたが、当時の中国は個人旅行が認められておらず、日中友好協会の推薦による「○○訪中団」と言う名目でしか入国ができませんでした。北京空港に降り立った時は何やら重い空気を感じ、入国審査では何らかのトラブルで数時間も足止めをくらい、拘束されるのではないかとの不安と緊張があったのを覚えています。 北京では「北京大学」の日本語学科の学生と交流し、その中で「日本の女性は結婚後なぜ仕事をしないのですか?」との質問に返事を窮しましたが、日本女性は結婚すると家庭に入り専業主婦になるとの当時の日本の観念が“国民は皆仕事に就くことが当たり前”の中国人には理解できなかったようです。 この旅行は私自身にとって初めての海外旅行であり、国際人を目指したいという希望を抱いてこの大学に入学し、それを具現化する第一歩となる貴重な体験でした(旅行費用は約40万円と当時としては高額で金策に苦労しました)。ゼミでは主にエドガースノー『中国の赤い星』に著されている毛沢東時代の近代中国を学び卒論のテーマは「中国4つの近代化への道」でした。 (北京大学の正門) (日本語学科の学生と私) ソニー生命への転職が人生の転機大学卒業後、札幌駅前のセンチュリーロイヤルホテルに就職し主にフロント業務に携わっていましたが、外国人観光客の応対においては英検2級の資格は全く用をなさず、その語学力は大変乏しく拙いものでした。在学中に英語力をもっと身に付けておくべきだったと後悔したものです。 その後1990年(30歳時)に人生の転機となる1本の電話がありした。それは「SONYが新規事業を始めることになりその仕事への転職のお誘いです」という内容でその仕事とはフルコミッションの生命保険営業でした。また、私の個人情報は大学卒業名簿から入手していたと入社後に判明しました。 当時のソニー生命の新聞広告は「今日から生命保険が変わる!ソニー生命が変える!」であり、「SONYは人のやらない新しいことにチャレンジする」と言う「盛田昭夫」さんが掲げた創業精神に惹かれ転職を決断しました。フルコミッションに対する収入不安からなかなか転職するか否かを決めきれず、最後はコインで決めました(笑) 入社当時の生命保険業界は画一的なパッケージ商品を主にセースルレディが職場に赴き営業するという手法でしたが、ソニー生命は顧客のライフプランと経済状況に合わせたオーダーメイドの合理的な保険を販売するという当時としては斬新な手法を採用しました。それが社会的な評価を得て会社も私個人も順調に業績を伸ばすことができ、2008年には成績上位者によるハワイコンベンションに妻と参加し表彰を受けたことが最高の栄誉でした。 入社20年を経過し50歳で営業職から管理職に転向し、2020年に60歳定年を迎え現在(嘱託社員)に至っています。今まで顧客への死亡保険金支払いは約30件に達しましたが、その保険金で顧客のその後の生活が守られことを考えるとこの仕事の重みと責任を痛感し、生命保険の本質と役割をもっとより多くの人に理解してもらうことが大切でそれが私たちの責務であると感じています。 (ハワイでのコンベンション表彰式に妻と入場の場面) シンガポール支部と北海道支部の交流会北海道支部設立25周年記念事業として2008年2月にシンガポール支部に赴き交流を開催しました。その時の様子をまとめた当時の同窓会報への寄稿文を下記に掲載します。 去る、1月31日北海道支部は武智支部長をはじめとした総勢6名で来星(シンガポールを訪れること)しました。この来星の目的は北海道支部設立25周年記念行事として、シンガポール支部と交流会を開催することでした。昨年5月の同窓会で一番北の支部と一番南の支部が交流し、同窓会活動の活性化を図ろうというこの企画が発表されてから8ヵ月後の待ちに待った来星でした。 北海道の千歳空港出発時の気温はマイナス10度でシンガポールチャンギ空港の到着時はプラス30度という気温差がなんと40度もあり、防寒具から薄着への着替えに苦労をしました。シンガポールは街並みが美しく整備され、アジアのいろいろな人種が集い大変エネルギッシュで魅力的な街でした。また国際ビジネスの拠点としても大変活性化していて「アジアの力」が集結しているという印象を受けました。 交流会は2月1日に落合前支部長の計らいでビジネス街の中心にある高層ビルの63階「Tower Club」という素晴らしい眺望の中華レストランで開催されました。眺望もさることながら料理も最高級で私たちを最高の「おもてなし」で歓迎していただきました。 シンガポール支部からは落合さん、加藤支部長、孫玲さんをはじめ総勢11名もの方が出席していただきましたが、皆さん国際的なお仕事をされている精力的な方々ばかりでビジネスや文化の違いなどいろいろなお話を聞かせていただき、大変良い刺激を受けました。 また、シンガポール支部は卒業生の総数が少ないにもかかわらず、活動ニュースの発行など会員間のコミュニケーションの取り方が上手で見習うべき点が多々ありました。北海道支部も設立から25年が経ち支部活動もマンネリ化が否めない時期でしたが、この交流会を契機にシンガポール支部の斬新な活動の取組みを参考に新たな一歩を踏み出したいと思います。 最後になりましたが、この交流会を快く引き受けていただき私たちを暖かく迎えていただいたシンガポール支部の皆様に心よりお礼を申し上げます。また、今回の交流会が全国の同窓会活動の活性化の一助となれば幸いと思います。 (シンガポール支部との交流会 2008年2月) 北海道支部設立40周年を迎えて大学卒業の翌年(1983年)、北海道支部同窓会の設立総会に参加してから早40年が経ちました。その間、長年にわたり幹事として又は支部長として同窓会活動に関わってきましたがコロナ期間を除き毎年欠かさず同窓会を開催してきたことは大きな意義を感じています。今まで北海道支部の幹事又は支部長、霞会の代議員、支部連合会の役員として約300名以上の同窓生の方々との出会いがありました。その中でも多くの先輩方との出会いから人生訓を得たり、仕事への指導や協力をしていただいたり私の人生に大きな良い影響を受けて今があると思っています。それだけ私にとっての同窓会活動は有意義で価値のあるものでした。 そして、今年2023年9月に4年ぶりに「設立40周年同窓会」を開催することができました。北海道外からもお祝いに駆け付けくれた支部長や卒業以来の再会の初参加の同期の方もいて、例年にない総勢22名もの出席者が共に語り合い、お酒を交わし、次回の再会を約束し散会となりました。このような場面を見る度に長年幹事として支部長として同窓生の皆さんの再会の橋渡しができていることのへの喜びと自分自身の役割の重みを感じる次第です。これからは今後も北海道支部を存続し発展させるべく後輩の育成に努めて参ります。 (霞会北海道支部 設立40周年同窓会 2023年9月) (遠 藤 浩 一さんプロフィール)北海道岩内町出身 岩内高校卒業 札幌市在住 1982年/14期卒 教養学部(3期)国際関係学科 高橋勇治ゼミ 1990年よりソニー生命保険株式会社に勤務 1983年の北海道支部設立より40年間にわたり幹事又は支部長として活動 <趣味> ゴルフ、登山、野鳥撮影(Instagramアカウント“kdkqp145”) TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
遠藤 浩一さん(1982年/14期卒 教養学部(3期)国際関係学科 高橋勇治ゼミ)2023年10月1日1982年教養学部卒の遠藤浩一さんは、卒業後札幌のホテルへ就職されましたが、盛田昭夫さんが掲げた創業精神に惹かれソニー生命へ転職を決断。それ以来、入社20年を経過し50歳で営業職から管理職に転向し、2020年に60歳定年を迎え現在(嘱託社員)に至っていらっしゃいます。同窓会活動にも長年尽力され、霞会北海道支部の幹事や支部長、霞会の代議員、支部連合会の役員として約300名以上の同窓生の方々との出会いがあったそうです。今年2023年9月に「設立40周年同窓会」を開催。『例年にない盛会で、このような場面を見る度に長年幹事として支部長として同窓生の皆さんの再会の橋渡しができていることのへの喜びと自分自身の役割の重みを感じる次第です』と述べられています。 「中国研究ゼミ」で自身初めての海外旅行大学3年生の時に中国の広大な国土と悠久の歴史が織りなす文化に心惹かれ、中国研究ゼミに所属しました。その12月に研修旅行と称して10日間にわたり北京、杭州、上海を旅行しましたが、当時の中国は個人旅行が認められておらず、日中友好協会の推薦による「○○訪中団」と言う名目でしか入国ができませんでした。北京空港に降り立った時は何やら重い空気を感じ、入国審査では何らかのトラブルで数時間も足止めをくらい、拘束されるのではないかとの不安と緊張があったのを覚えています。 北京では「北京大学」の日本語学科の学生と交流し、その中で「日本の女性は結婚後なぜ仕事をしないのですか?」との質問に返事を窮しましたが、日本女性は結婚すると家庭に入り専業主婦になるとの当時の日本の観念が“国民は皆仕事に就くことが当たり前”の中国人には理解できなかったようです。 この旅行は私自身にとって初めての海外旅行であり、国際人を目指したいという希望を抱いてこの大学に入学し、それを具現化する第一歩となる貴重な体験でした(旅行費用は約40万円と当時としては高額で金策に苦労しました)。ゼミでは主にエドガースノー『中国の赤い星』に著されている毛沢東時代の近代中国を学び卒論のテーマは「中国4つの近代化への道」でした。 (北京大学の正門) (日本語学科の学生と私) ソニー生命への転職が人生の転機大学卒業後、札幌駅前のセンチュリーロイヤルホテルに就職し主にフロント業務に携わっていましたが、外国人観光客の応対においては英検2級の資格は全く用をなさず、その語学力は大変乏しく拙いものでした。在学中に英語力をもっと身に付けておくべきだったと後悔したものです。 その後1990年(30歳時)に人生の転機となる1本の電話がありした。それは「SONYが新規事業を始めることになりその仕事への転職のお誘いです」という内容でその仕事とはフルコミッションの生命保険営業でした。また、私の個人情報は大学卒業名簿から入手していたと入社後に判明しました。 当時のソニー生命の新聞広告は「今日から生命保険が変わる!ソニー生命が変える!」であり、「SONYは人のやらない新しいことにチャレンジする」と言う「盛田昭夫」さんが掲げた創業精神に惹かれ転職を決断しました。フルコミッションに対する収入不安からなかなか転職するか否かを決めきれず、最後はコインで決めました(笑) 入社当時の生命保険業界は画一的なパッケージ商品を主にセースルレディが職場に赴き営業するという手法でしたが、ソニー生命は顧客のライフプランと経済状況に合わせたオーダーメイドの合理的な保険を販売するという当時としては斬新な手法を採用しました。それが社会的な評価を得て会社も私個人も順調に業績を伸ばすことができ、2008年には成績上位者によるハワイコンベンションに妻と参加し表彰を受けたことが最高の栄誉でした。 入社20年を経過し50歳で営業職から管理職に転向し、2020年に60歳定年を迎え現在(嘱託社員)に至っています。今まで顧客への死亡保険金支払いは約30件に達しましたが、その保険金で顧客のその後の生活が守られことを考えるとこの仕事の重みと責任を痛感し、生命保険の本質と役割をもっとより多くの人に理解してもらうことが大切でそれが私たちの責務であると感じています。 (ハワイでのコンベンション表彰式に妻と入場の場面) シンガポール支部と北海道支部の交流会北海道支部設立25周年記念事業として2008年2月にシンガポール支部に赴き交流を開催しました。その時の様子をまとめた当時の同窓会報への寄稿文を下記に掲載します。 去る、1月31日北海道支部は武智支部長をはじめとした総勢6名で来星(シンガポールを訪れること)しました。この来星の目的は北海道支部設立25周年記念行事として、シンガポール支部と交流会を開催することでした。昨年5月の同窓会で一番北の支部と一番南の支部が交流し、同窓会活動の活性化を図ろうというこの企画が発表されてから8ヵ月後の待ちに待った来星でした。 北海道の千歳空港出発時の気温はマイナス10度でシンガポールチャンギ空港の到着時はプラス30度という気温差がなんと40度もあり、防寒具から薄着への着替えに苦労をしました。シンガポールは街並みが美しく整備され、アジアのいろいろな人種が集い大変エネルギッシュで魅力的な街でした。また国際ビジネスの拠点としても大変活性化していて「アジアの力」が集結しているという印象を受けました。 交流会は2月1日に落合前支部長の計らいでビジネス街の中心にある高層ビルの63階「Tower Club」という素晴らしい眺望の中華レストランで開催されました。眺望もさることながら料理も最高級で私たちを最高の「おもてなし」で歓迎していただきました。 シンガポール支部からは落合さん、加藤支部長、孫玲さんをはじめ総勢11名もの方が出席していただきましたが、皆さん国際的なお仕事をされている精力的な方々ばかりでビジネスや文化の違いなどいろいろなお話を聞かせていただき、大変良い刺激を受けました。 また、シンガポール支部は卒業生の総数が少ないにもかかわらず、活動ニュースの発行など会員間のコミュニケーションの取り方が上手で見習うべき点が多々ありました。北海道支部も設立から25年が経ち支部活動もマンネリ化が否めない時期でしたが、この交流会を契機にシンガポール支部の斬新な活動の取組みを参考に新たな一歩を踏み出したいと思います。 最後になりましたが、この交流会を快く引き受けていただき私たちを暖かく迎えていただいたシンガポール支部の皆様に心よりお礼を申し上げます。また、今回の交流会が全国の同窓会活動の活性化の一助となれば幸いと思います。 (シンガポール支部との交流会 2008年2月) 北海道支部設立40周年を迎えて大学卒業の翌年(1983年)、北海道支部同窓会の設立総会に参加してから早40年が経ちました。その間、長年にわたり幹事として又は支部長として同窓会活動に関わってきましたがコロナ期間を除き毎年欠かさず同窓会を開催してきたことは大きな意義を感じています。今まで北海道支部の幹事又は支部長、霞会の代議員、支部連合会の役員として約300名以上の同窓生の方々との出会いがありました。その中でも多くの先輩方との出会いから人生訓を得たり、仕事への指導や協力をしていただいたり私の人生に大きな良い影響を受けて今があると思っています。それだけ私にとっての同窓会活動は有意義で価値のあるものでした。 そして、今年2023年9月に4年ぶりに「設立40周年同窓会」を開催することができました。北海道外からもお祝いに駆け付けくれた支部長や卒業以来の再会の初参加の同期の方もいて、例年にない総勢22名もの出席者が共に語り合い、お酒を交わし、次回の再会を約束し散会となりました。このような場面を見る度に長年幹事として支部長として同窓生の皆さんの再会の橋渡しができていることのへの喜びと自分自身の役割の重みを感じる次第です。これからは今後も北海道支部を存続し発展させるべく後輩の育成に努めて参ります。 (霞会北海道支部 設立40周年同窓会 2023年9月) (遠 藤 浩 一さんプロフィール)北海道岩内町出身 岩内高校卒業 札幌市在住 1982年/14期卒 教養学部(3期)国際関係学科 高橋勇治ゼミ 1990年よりソニー生命保険株式会社に勤務 1983年の北海道支部設立より40年間にわたり幹事又は支部長として活動 <趣味> ゴルフ、登山、野鳥撮影(Instagramアカウント“kdkqp145”) TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
「大学、教授先生方、そして同窓会に感謝を込めて!」
大川和男さん (1978年商学部卒 泉暹ゼミ 少林寺拳法部)2023年9月1日大川和男さんは1978年に東京国際大学商学部を卒業。現在は税理士法人大川会計の代表税理士として活躍されています。学生時代に恩師泉暹教授との出会いがきっかけで職業会計人を目指されましたが、勉強と少林寺拳法部クラブの両立はかなり厳しかったと語られています。また同窓会霞会にも積極的に参加され、常任幹事、副会長なども歴任されました。これまでお世話になった大学、恩師の教授先生方をはじめ、同窓生の皆さんにはいつも感謝の気持ちを持たれて活動されています。 霞会(東京国際大学同窓会)シンガポール支部の皆様、初めまして、またはお久しぶりです! 私は、10期生(1978年卒、商学部商学科、泉ゼミ、少林寺拳法部)の大川和男でございます。 福岡県北九州市小倉北区の出身です。仕事は、「税理士法人 大川会計(東京池袋・北九州戸畑オフィス)」の代表税理士をしております。この度、霞会シンガポール支部より、会報「TIU Sparks」への寄稿依頼を承りました。 私自身は、あまりグローバルでもなく、拙い文章でもあり、特に「教養学部(1976年設置。1995年に、「国際関係学部」と「人間社会学部」に改組転換)」で、第2キャンパス(1982年開設。以下、「2キャン」)に通学されていた方は、よくわからないかもしれませんが、「懐かしいな」、「そんな事があったのか」などのご感想をお持ちいただけたなら、とても幸甚でございます。 入学当時は商学部商学科だけの大学でした 私が入学した当時(1974年、昭和49年。オイルショックの年。)は、まだ「国際商科大学(ICC =International College of Commerce and economics)」という名称の4年制単科大学で、「商学部商学科」しかありませんでした。また、キャンパスも、現在の第1キャンパス(以下、「1キャン」)のみでした。米国ウィラメット大学との姉妹校関係は、すでに締結(1969年)されておりました。 元々は、高田馬場の「一橋予備校」を運営しておられた金子泰蔵先生が、「これからは、4年制大学だ。」との思いで、一橋大学(旧東京商科大学)出身の有志らと共に創学(1965年)されたと聞いたことがあります。「わが大学は、一橋大学と兄弟校である」との言葉の所以です。 学生を集めるために、一流名門大学を目指していた「一橋予備校」の生徒達に、「うちの大学に来ないか?」と、金子泰蔵先生ご自身が声をかけられたとも聞いております。そのせいか、私の印象として、1期生から初期生の先輩方は優秀な方々が多いように感じます。 入学当初、校舎は少なく、2~3階建ての小さな建物が多かったです。中庭や運動場などもあり、「なんだかスペースが広いな」と感じました。 学生生活スタート時はワクワクと。でも勉強とクラブ両立の大学生活は厳しいものでした 私の下宿は、畑の中にポツンとある「学生の家」でした。下宿はアパートではなく、平屋が3棟建っており、1棟に4~5名の学生達が住んでいました。大家のおばさんに大学の事をお聞きしたら、「お坊ちゃん、お嬢ちゃんが多くて、おっとりとした大学ですよ」との事でした。 正門を入ると、広場に噴水があり、さらに真っすぐ行くと、古い建物「カレッジセンター(通称、カレセン)」があり、そこが唯一の学食でした。「この大学で、どのような学生生活が始まるのか?」とワクワクしておりました。 恩師、故泉暹(いずみ・すすむ)教授と出会い、職業会計人を目指す 入学当初、多くの授業科目(必修科目や選択科目)の中から、進学するための最低単位以上の科目を選ぶ必要がありました。下宿の先輩方に、いろいろ相談に乗っていただきました。 「僕は高校時代、グラフィックデザイナーを目指していましたが、父に説得され、家業の税理士事務所を継ぐことに決心しました。」と話すと、先輩が「それなら、絶対に泉教授の授業を選択したほうが良いよ。泉ゼミから、何人も税理士、公認会計士を輩出してるんだよ。厳しい先生だけど、大学の事をすごく愛している先生だよ」と、教えてくださいました。私は迷わず、泉先生の「簿記論」を選択しました。 「簿記論」の初めての授業。「やけに恰幅の良い先生だな」との印象を持ちました。そして授業が始まりましたが、「売掛金」「買掛金」やら、普通高校出身で、まだ一度も簿記の勉強をした事がなかった私は、最初から最後まで、チンプンカンプンでした。最初から、内容的に商業高校出身者レベルの授業でした。 「これはまずい!」と思った私は、授業後、教授室に戻るため廊下を歩く泉教授を追いかけ、「先生、僕は父の跡を継ぐため、職業会計人(税理士、公認会計士)を目指していますが、先生の授業がさっぱりわかりませんでした。どうすればいいんでしょうか?」と尋ねました。 泉教授は、「はははは!」と笑いながら、「君ね、本屋さんに行ったら、簿記検定試験用の『明解簿記』『簿記検定』という本が、3級から1級まで売っているから、それを買って、まず3級から自分で勉強しなさい」との事でした。 私は、その日の授業がすべて終わると、その足で本屋さんに直行しました。この日から、私の簿記の勉強がスタートしました。とにかく毎日勉強を続けていると、だんだん理解できるようになってきました。前期試験と後期試験では、泉教授の「簿記論」については、いずれも100点満点でした。そして1年生の秋に、「簿記検定試験3級(日本商工会議所主催)」を受験したところ、合格いたしました。2年生となった私は、引き続き、泉教授の「簿記原理」を受講しました。「簿記原理」についても、前期・後期試験とも100点満点でした。また、「簿記検定試験2級」にも合格することができました。本当に、泉教授のおかげと、感謝いたしました。 ある日、「簿記原理」の授業を、一番前の席で聞いていると(泉教授の授業だけは、いつも一番前の席に座りました。)、突然、マイク片手に「大川君という学生がいる」と言い出しました。私は、「急に私の名前を出して、何を言い出すんだろう」と聞いていました。 「普通高校出身でありながら、商業高校出身の学生達を追い越したすごい学生がいる。それが、大川君だ」と話されたのです。それを聞いていた私は、嬉しいやら、恥ずかしいやら。 3年生になると、ゼミの選択が必修科目(単位)となりました。掲示板に、泉ゼミの「募集条件」が張り出されておりました。内容はほとんど忘れましたが、一つだけ覚えているのは、一番最初に、「酒が飲めること」と書かれていたことです。 選考に落ちた学生も居たようですが、私は何とか泉ゼミに入ることができました。卒業まで、最も厳しい泉ゼミに居られた事は、私の大きな優越感となりました。ゼミ合宿にも、必ず参加いたしました。なぜなら、ゼミ合宿不参加の時点で落第、留年が決定するからです。結局、1年生から4年生まで、泉教授の前期・後期試験は、すべて100点満点でした。 4年生の12月のある日、自宅アパート(引越し後)のポストに、「東京国税局」と書かれた茶封筒が入っていました。「学生で、税金払う必要ないのに何だろう?」と、大学に向かう路上で見ました。なんと、入っていたのは、「税理士試験・簿記論」(国家試験)の「合格通知」(1/5科目め)した。僕は、歩く道の上で「やった!」と、本当に飛び上がって喜びました。 少し、泉教授の事について書かせていただきます。泉教授(簿記会計)は、米山教授(簿記会計)加藤教授(商法)と並んで、「一橋大学の三羽烏」と称されていました。3人は、一橋大学時代の同級生でありました。泉教授は酒豪で、学生達の間で、「霞ヶ関駅周辺の飲食店で、行ったことのない店はない。」と噂されていました。 現在、1キャンの正門を入ると、左側に留学生の母国である「万国旗ポール」がありますが、これは泉教授のご提案によります。 また、正門の入り口には、「枝垂桜」が植えられており、入学・卒業時の記念撮影場所となっていますが、これも泉教授が寄贈されたものです。 泉教授の言葉で、心に残っているのは、 「これからは、どこの大学に行ったかではない。大学で、何を、どれ位学んだかが重要だ。」 「僕の授業は、一橋大学と同じレベルだ。僕のゼミを卒業した者は、一橋大学を卒業したのと同 じだ。」 「学んだ事を、図示できなければ、本当に理解したことにならない。」など。 私が卒業直前に、正門前の小料理屋でばったり泉教授にお会いした時、僕の背中をポンポンとたたきながら「大川君、よく頑張ったな。体育会のクラブに所属しながら、国家試験に1科目でも合格したのは、創学以来、大川君が初めてだ」と言ってくださいました。 少林寺拳法部に入部 私が入学当初、キャンパス内は、各クラブの新入部員勧誘が盛んでした。 私が下宿していた「学生の家」の自室に居ると、突然、ノックの音がして、同じ下宿の先輩が2人入ってきました。少林寺拳法部の2年生の先輩たちでした。 「俺たち、少林寺拳法部なんだけど」「あ、そうですか。僕は高校時代、空手の道場に通っていました。1級で茶帯です。空手部に入って、黒帯を取りたいんです」1人の先輩が「少林寺の技を教えてやるよ」と、私の手首をひねりました。これが、私と少林寺拳法の出会いでした。 入部してみると、実際はまだ「愛好会」で、部員も新入生を除いて、10人程度の小さなクラブでした。道場など無く、練習は毎日、中庭の芝生の上でした。冬は、裸足で、霜柱をサクサクと踏みながらの練習でした。私たち新入生が10人ほど入部し、ようやくクラブらしくなりました。 近所の居酒屋で、「新入部員歓迎コンパ」が行われ、新入生は全員、先輩方からしこたま飲まされました。現在では考えられない事です。 今や「秋霞祭」などでも、キャンパス内での飲酒は、完全に禁止です。1~2年生は、ほとんどがまだ未成年だからです。 私が2年生になった時、全員、初段(黒帯)になりました。キャンパス内に体育館が出来、「少林寺拳法部」道場(2F)も造っていただきました。少林寺拳法部では、休みの日に、急きょ招集をかけられる事もあり、「勉強との両立は、思ったより厳しい」ものでした。 税理士試験制度について 少し、税理士試験制度について、概要を説明しておきます。税理士試験科目は5科目に合格する必要があり、会計科目である「簿記論」と「財務諸表論」が必修科目、「法人税法」か「所得税法」が選択修科目で、残りの2科目を、任意科目として「相続税法」、「消費税法」や、地方税の「固定資産税」、「住民税」、「酒税」などから選択することになります。 科目合格制で、1科目でも合格すれば、その科目は生涯有効となります。各科目60点以上で合格、合格率は各科目10%~20%で、最終資格取得者は受験者の5%程度と言われています。 私の頃は、「法人税法」「所得税法」「相続税法」を「(主要)国税3法」と呼び、勉強のボリュームも大きいものでした。実務的には、「所得税より法人税の方が報酬が高い。相続税を知らなければ、儲からない。」。 また、「税理士試験」には「試験免除制度」があります。 ①経済学系の大学院(2年)を卒業することにより、会計2科目免除、法律系の大学院(2年)を卒業することにより税法3科目も免除されます。すなわち、2つの大学院を合わせて4年間卒業(修士又は博士学位を取得)すれば、税理士資格を取得できます。これを「ダブルマスター組」と呼んでいましたが、現在では、「シングルマスター」のみが条件となっています。 ➁10年又は15年以上の国税従事者(税務署など)は、税法科目が免除されます。さらに、23年又は28年以上勤務し、指定研修を修了した者は、会計科目が免除されます。 すなわち、定年退職まで、税務署などに勤務した者は退職後、「税理士会」に登録するだけで、税理士になれます。「税務署OB組」などと呼びます。 私の場合は、必修の会計2科目と、「法人税法」、「相続税法」、「消費税法」の3科目に合格した「試験合格組」となります。 税理士受験から税理士事務所開業まで 大学卒業後、なかなか「税理士試験」に合格できませんでした。大学4年生時に、「簿記論」を受かっただけで、あと4科目(必須科目、選択必須科目他)に合格する必要がありました。 そこで、東京高田馬場にある「税経学院(出版社)」が運営している「税経寮」に入って、受験勉強に専念する事にしました。すでに婚約していた家内とは、「遠距離恋愛」になってしまいましたが、「(財務諸表論に合格するまで)待ちます」と言ってくれました。私は、一大決心をしました。 「税経寮」には、北海道から沖縄まで、全国から税理士を目指している人達が集まっていました。入寮してからは、食べてる時と、寝ている時以外は、すべて勉強のために費やしました。 皆、専門学校にも通っていました。睡眠時間も、3~4時間でした。 上京してから、試験日までの半年の間に、「受験ノイローゼ者」が6人出ました。彼らは、それぞれの実家に帰って行きました。僕は、「少林寺拳法部のおかげで、いつのまにか精神力が鍛えられていたんだな」と実感しました。 8月初旬の税理士試験の2か月前ぐらいになると、毎月の「月例テスト(計算問題)」では、100点満点を取れるようになり、クラスで1番になりました。税理士試験後も、念のため受講を続け、12月の合格発表まで、100点満点の1番を続けました。苦手だった必須科目「財務諸表論」に、ようやく合格しました。(2/5科目め) 婚約している事もあり、翌年、会計事務所に就職し、「税経寮」を退室しました。現在、「東京スカイツリー」が建っている地下鉄「押上駅」で安いアパート(2K)を見つけ、家内を北九州から呼び出し、新婚生活が始まりました。 受験生である僕の状況を理解している家内は、勉強の手伝いもしてくれました。私が就職した会計事務所は、日本のバブルの影響で、あっという間に拡大していきました。(現在では、日本一のスケールを誇る会計事務所になりました。)その会計事務所に勤務している間に、「相続税法」に合格しました。(3/5科目め) しかしながら、仕事がどんどん忙しくなっていき、専門学校にも通えなくなってしまいました。 「父の事務所を継ぐ(資格取得)」事が第一命題であった私は、その会計事務所に4年半ほど勤務した後、縁あって、千代田区神田練塀町(秋葉原駅近く)にある一般企業(青果物等卸売及び貿易業)に転職しました。 その会社では、経理部長となり、日々の通常の「経理・入力業務」だけでなく、「銀行折衝」、「貿易実務」、「販売管理・会計システム構築」、「税務署対応」などにも従事しました。 「決算・申告業務」なども私がすべて行いましたので、税理士を頼まず、申告書などには、「税理士署名押印」は無しのままでした。 その会社に勤務している間に、「法人税法」(4/5科目め)と「消費税法」(5/5科目め)に合格し、同じビル内の別室で開業することになりました。 その会社と、取引のあったグループ会社4社、合わせて5社が、最初の顧問先になりました。 これはとてもラッキーな事で、税理士事務所を開業しただけで、関与先が増えるわけではありません。開業して、最初に行ったのは、事務所の「基本理念づくり」です。「何故、開業したのか?他の会計事務所に勤務税理士として勤める、一般企業に勤める。実家に帰り、父親とともに働く。」いくつか選択肢はありました。 一つには、すでに顧問先ができたために、実家には帰れない。(跡を継ぐ事ができない。) 実務経験も、会計事務所、一般企業ともあるので、開業してもやっていけるはずだ。当時の社長は、「東京で食えない奴が、地方で食えるわけがない。」という信条をお持ちでした。 いろんな企業の「社是社訓」「経営理念」「モットー」などを、勉強しました。結局、米国DHL社の経営理念に近いものになりました。関与先様も、少しずつではありますが、増えていきました。 霞会の同窓会活動に参加 私が同窓会活動に参加するようになりましたのは、税理士事務所を開業してからでした。その当時の同窓会組織は、まだしっかりしたものとは言えないものでした。 現在のような「一般社団法人」という制度はなく、法律的にはPTAなどと同じく、「人格のない社団等」という組織でした。日本全国の学校の同窓会は、すべてこの「人格のない社団等」でした。 当時の同窓会組織は、「幹事会」「常任幹事会」「総会」の3つでした。当時の会長は故三宅ヨシロウ先輩(1期生、野球部創部)、事務局長は池内和彦先輩(1期生、躰道部創部)でした。同窓会に参加するようになってから、いろんな先輩、後輩方とも知り合い、「幹事」に任命されました。そして、同窓会の会計監査を担当させていただきました。決算が近づくと、池内事務局長が資料を持って、私の事務所に来られました。 当時は、同窓会本会だけでなく、少しの地方支部会(当初は任意で、補助金なし。)、藍旗会(体育会系OB会の集合組織)、オーナーズクラブ(経営者、企業の中枢関係者の、勉強会・交流会。その後、自然消滅。)がありました。 同窓会に参加しているうちに、「常任幹事」に任命されました。役員会議・交流会の後、帰りの電車の中、三宅会長が「大川、今からうちに来て、泊まれ。」奥様、お嬢様をご紹介くださり、同窓会の話ではなく、「今度、東京マラソンに参加するのよ」とか、そんな話ばかりで、ご出身である土佐の鰹節を削って、ご馳走してくださいました。 池内事務局長とも、個人的に親しくなり、「新国劇」に誘われてすっかりハマり、何度も一緒に観 劇いたしました。役者さん達とも親しくなり、なかなかできない経験をさせていただきました。 同窓会の組織も、徐々に変わり、「幹事会」「会長」「副会長」「総会」になりました。そして、会長も、三宅先輩から東村真先輩(3期生、アメリカンフットボール部創部)に替わりました。 実は、東村先輩とは、同窓会で知り合い、以前から個人的にもお付き合いさせていただいておりました。ご自分の所属するダーツチームに誘われ、私もメンバーになりました。週に一度は、一緒に飲むことになり、よく「大川、今日うちに泊まれ。」と何度もお世話になりました。 東村先輩が「会長」に就任された時、東村先輩のご指名により、私も「副会長」の一人になりました。「会議は踊る」とは、よく言ったもので、「会長・副会長会議」でもなかなかコンセンサスが取れず、長時間にわたる事もままありました。 東村先輩が「会長」を辞任する決意をされた時、私は東村先輩のご自宅におりました。「えっ、次の会長はどうされるのですか?」、「君野君に頼もうと思う」現会長である君野信太郎先輩(4期生、躰道部)の事です。 その時に、私も「副会長」を辞任する決意をしました。(君野先輩とも親しくさせていただいておりましたが、指名してくださった東村先輩が辞任されるのに、私だけ残るわけにはいかないと) 税理士法人大川会計について 現在の、私の「税理士法人大川会計」について、少し書きます。事務所としては、「主たる事務所」である「東京オフィス(豊島区池袋)」と、「従たる事務所」である「北九州オフィス(北九州市戸畑区)」の二つです。 税理士法人大川会計北九州オフィス 東京&北九州オフィス合同顔合わせ(両親を囲んで) 個人事務所を「法人化」したのは、父の生前中に、二人で「税理士会」に相談に行き、「税理士法人にした方がよい。」と勧められたからでした。これにより、自分の東京事務所と高齢化した父の北九州事務所の両方の仕事を、堂々と出来るようになりました。(税理士法上、「税理士は、事務所を一つしか持ってはいけない」事になっています) 「東京オフィス」では、7、8年前から行政書士の紹介により、「中国人経営者」の関与先様が増え始めました。いわゆる「投資系ビザ」というもので、日本で500万円以上の投資をすればビザが取れるのです。その投資には、自分で資本金500万円以上の会社を設立することも含まれます。 また、そのビザを毎年更新するのに、いくつかの条件があり、そのうちのいくつかの書類は、税理士事務所が作成するものです。ビザ更新のためのご指導もしています。 日本国内における中国人達のネットワークというのは凄いものがあり、次から次に紹介が始まりました。 また、これらの経営者たちは、本国の金持ちの子供達が多く、日本のビルを、「安いよ~!」とポンと1棟買いしたりするので、驚かされます。最近では、日本に会社を持つ香港の経営者や、韓国人の経営者までご紹介されました。 大変、有り難いことではありますが、業務の品質を落とすわけにはいきません。そのへんが、会計事務所経営の難しい部分であります。「スタッフを増やそうか、どうしようか?」 最後になりますが、同窓生の皆様方のご活躍を応援しておりますとともに、更なる発展されますことを、心より祈念いたしております。 我が母校「TIU」の創学当時からの精神(理念とは別)である、「V (Vision=大志)、I (Intelligence=知性)、C (Courage=勇気)」を心に刻んで、頑張りましょう! (大川和男さんプロフィール)福岡県北九州市小倉北区出身 1978年3月 国際商科大学(現東京国際大学)商学部商学科卒業 泉暹ゼミ 少林寺拳法部。 卒業後、公認会計士・税理士事務所にて会計実務、税務業務、相続対策、会社設立、企業買収、企業評価および営業譲渡等の実務経験を積む。 その後、一般企業に経理部長として勤務。経理システム構築、事務合理化対策、資金の調達・運用および貿易実務等に携わる。 TKC全国会会員、認定経営革新等支援機関、商工会など主催セミナー講師なども行う。 1991年4月、大川和男税理士事務所を創業。 2014年5月、税理士法人大川会計を設立、代表社員として現在に至る。【東京オフィス】 〒171-0021 東京都豊島区西池袋2-36-1 ソフトタウン池袋203号 TEL:03-3984-2275 FAX:03-3984-2274 【北九州オフィス】 〒804-0073 福岡県北九州市戸畑区明治町10-2 TEL:093-884-0311 FAX:093-884-0315 (税理士法人大川会計ホームページ) https://www.okawa-kaikei.jp/ TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
大川和男さん (1978年商学部卒 泉暹ゼミ 少林寺拳法部)2023年9月1日大川和男さんは1978年に東京国際大学商学部を卒業。現在は税理士法人大川会計の代表税理士として活躍されています。学生時代に恩師泉暹教授との出会いがきっかけで職業会計人を目指されましたが、勉強と少林寺拳法部クラブの両立はかなり厳しかったと語られています。また同窓会霞会にも積極的に参加され、常任幹事、副会長なども歴任されました。これまでお世話になった大学、恩師の教授先生方をはじめ、同窓生の皆さんにはいつも感謝の気持ちを持たれて活動されています。 霞会(東京国際大学同窓会)シンガポール支部の皆様、初めまして、またはお久しぶりです! 私は、10期生(1978年卒、商学部商学科、泉ゼミ、少林寺拳法部)の大川和男でございます。 福岡県北九州市小倉北区の出身です。仕事は、「税理士法人 大川会計(東京池袋・北九州戸畑オフィス)」の代表税理士をしております。この度、霞会シンガポール支部より、会報「TIU Sparks」への寄稿依頼を承りました。 私自身は、あまりグローバルでもなく、拙い文章でもあり、特に「教養学部(1976年設置。1995年に、「国際関係学部」と「人間社会学部」に改組転換)」で、第2キャンパス(1982年開設。以下、「2キャン」)に通学されていた方は、よくわからないかもしれませんが、「懐かしいな」、「そんな事があったのか」などのご感想をお持ちいただけたなら、とても幸甚でございます。 入学当時は商学部商学科だけの大学でした 私が入学した当時(1974年、昭和49年。オイルショックの年。)は、まだ「国際商科大学(ICC =International College of Commerce and economics)」という名称の4年制単科大学で、「商学部商学科」しかありませんでした。また、キャンパスも、現在の第1キャンパス(以下、「1キャン」)のみでした。米国ウィラメット大学との姉妹校関係は、すでに締結(1969年)されておりました。 元々は、高田馬場の「一橋予備校」を運営しておられた金子泰蔵先生が、「これからは、4年制大学だ。」との思いで、一橋大学(旧東京商科大学)出身の有志らと共に創学(1965年)されたと聞いたことがあります。「わが大学は、一橋大学と兄弟校である」との言葉の所以です。 学生を集めるために、一流名門大学を目指していた「一橋予備校」の生徒達に、「うちの大学に来ないか?」と、金子泰蔵先生ご自身が声をかけられたとも聞いております。そのせいか、私の印象として、1期生から初期生の先輩方は優秀な方々が多いように感じます。 入学当初、校舎は少なく、2~3階建ての小さな建物が多かったです。中庭や運動場などもあり、「なんだかスペースが広いな」と感じました。 学生生活スタート時はワクワクと。でも勉強とクラブ両立の大学生活は厳しいものでした 私の下宿は、畑の中にポツンとある「学生の家」でした。下宿はアパートではなく、平屋が3棟建っており、1棟に4~5名の学生達が住んでいました。大家のおばさんに大学の事をお聞きしたら、「お坊ちゃん、お嬢ちゃんが多くて、おっとりとした大学ですよ」との事でした。 正門を入ると、広場に噴水があり、さらに真っすぐ行くと、古い建物「カレッジセンター(通称、カレセン)」があり、そこが唯一の学食でした。「この大学で、どのような学生生活が始まるのか?」とワクワクしておりました。 恩師、故泉暹(いずみ・すすむ)教授と出会い、職業会計人を目指す 入学当初、多くの授業科目(必修科目や選択科目)の中から、進学するための最低単位以上の科目を選ぶ必要がありました。下宿の先輩方に、いろいろ相談に乗っていただきました。 「僕は高校時代、グラフィックデザイナーを目指していましたが、父に説得され、家業の税理士事務所を継ぐことに決心しました。」と話すと、先輩が「それなら、絶対に泉教授の授業を選択したほうが良いよ。泉ゼミから、何人も税理士、公認会計士を輩出してるんだよ。厳しい先生だけど、大学の事をすごく愛している先生だよ」と、教えてくださいました。私は迷わず、泉先生の「簿記論」を選択しました。 「簿記論」の初めての授業。「やけに恰幅の良い先生だな」との印象を持ちました。そして授業が始まりましたが、「売掛金」「買掛金」やら、普通高校出身で、まだ一度も簿記の勉強をした事がなかった私は、最初から最後まで、チンプンカンプンでした。最初から、内容的に商業高校出身者レベルの授業でした。 「これはまずい!」と思った私は、授業後、教授室に戻るため廊下を歩く泉教授を追いかけ、「先生、僕は父の跡を継ぐため、職業会計人(税理士、公認会計士)を目指していますが、先生の授業がさっぱりわかりませんでした。どうすればいいんでしょうか?」と尋ねました。 泉教授は、「はははは!」と笑いながら、「君ね、本屋さんに行ったら、簿記検定試験用の『明解簿記』『簿記検定』という本が、3級から1級まで売っているから、それを買って、まず3級から自分で勉強しなさい」との事でした。 私は、その日の授業がすべて終わると、その足で本屋さんに直行しました。この日から、私の簿記の勉強がスタートしました。とにかく毎日勉強を続けていると、だんだん理解できるようになってきました。前期試験と後期試験では、泉教授の「簿記論」については、いずれも100点満点でした。そして1年生の秋に、「簿記検定試験3級(日本商工会議所主催)」を受験したところ、合格いたしました。2年生となった私は、引き続き、泉教授の「簿記原理」を受講しました。「簿記原理」についても、前期・後期試験とも100点満点でした。また、「簿記検定試験2級」にも合格することができました。本当に、泉教授のおかげと、感謝いたしました。 ある日、「簿記原理」の授業を、一番前の席で聞いていると(泉教授の授業だけは、いつも一番前の席に座りました。)、突然、マイク片手に「大川君という学生がいる」と言い出しました。私は、「急に私の名前を出して、何を言い出すんだろう」と聞いていました。 「普通高校出身でありながら、商業高校出身の学生達を追い越したすごい学生がいる。それが、大川君だ」と話されたのです。それを聞いていた私は、嬉しいやら、恥ずかしいやら。 3年生になると、ゼミの選択が必修科目(単位)となりました。掲示板に、泉ゼミの「募集条件」が張り出されておりました。内容はほとんど忘れましたが、一つだけ覚えているのは、一番最初に、「酒が飲めること」と書かれていたことです。 選考に落ちた学生も居たようですが、私は何とか泉ゼミに入ることができました。卒業まで、最も厳しい泉ゼミに居られた事は、私の大きな優越感となりました。ゼミ合宿にも、必ず参加いたしました。なぜなら、ゼミ合宿不参加の時点で落第、留年が決定するからです。結局、1年生から4年生まで、泉教授の前期・後期試験は、すべて100点満点でした。 4年生の12月のある日、自宅アパート(引越し後)のポストに、「東京国税局」と書かれた茶封筒が入っていました。「学生で、税金払う必要ないのに何だろう?」と、大学に向かう路上で見ました。なんと、入っていたのは、「税理士試験・簿記論」(国家試験)の「合格通知」(1/5科目め)した。僕は、歩く道の上で「やった!」と、本当に飛び上がって喜びました。 少し、泉教授の事について書かせていただきます。泉教授(簿記会計)は、米山教授(簿記会計)加藤教授(商法)と並んで、「一橋大学の三羽烏」と称されていました。3人は、一橋大学時代の同級生でありました。泉教授は酒豪で、学生達の間で、「霞ヶ関駅周辺の飲食店で、行ったことのない店はない。」と噂されていました。 現在、1キャンの正門を入ると、左側に留学生の母国である「万国旗ポール」がありますが、これは泉教授のご提案によります。 また、正門の入り口には、「枝垂桜」が植えられており、入学・卒業時の記念撮影場所となっていますが、これも泉教授が寄贈されたものです。 泉教授の言葉で、心に残っているのは、 「これからは、どこの大学に行ったかではない。大学で、何を、どれ位学んだかが重要だ。」 「僕の授業は、一橋大学と同じレベルだ。僕のゼミを卒業した者は、一橋大学を卒業したのと同 じだ。」 「学んだ事を、図示できなければ、本当に理解したことにならない。」など。 私が卒業直前に、正門前の小料理屋でばったり泉教授にお会いした時、僕の背中をポンポンとたたきながら「大川君、よく頑張ったな。体育会のクラブに所属しながら、国家試験に1科目でも合格したのは、創学以来、大川君が初めてだ」と言ってくださいました。 少林寺拳法部に入部 私が入学当初、キャンパス内は、各クラブの新入部員勧誘が盛んでした。 私が下宿していた「学生の家」の自室に居ると、突然、ノックの音がして、同じ下宿の先輩が2人入ってきました。少林寺拳法部の2年生の先輩たちでした。 「俺たち、少林寺拳法部なんだけど」「あ、そうですか。僕は高校時代、空手の道場に通っていました。1級で茶帯です。空手部に入って、黒帯を取りたいんです」1人の先輩が「少林寺の技を教えてやるよ」と、私の手首をひねりました。これが、私と少林寺拳法の出会いでした。 入部してみると、実際はまだ「愛好会」で、部員も新入生を除いて、10人程度の小さなクラブでした。道場など無く、練習は毎日、中庭の芝生の上でした。冬は、裸足で、霜柱をサクサクと踏みながらの練習でした。私たち新入生が10人ほど入部し、ようやくクラブらしくなりました。 近所の居酒屋で、「新入部員歓迎コンパ」が行われ、新入生は全員、先輩方からしこたま飲まされました。現在では考えられない事です。 今や「秋霞祭」などでも、キャンパス内での飲酒は、完全に禁止です。1~2年生は、ほとんどがまだ未成年だからです。 私が2年生になった時、全員、初段(黒帯)になりました。キャンパス内に体育館が出来、「少林寺拳法部」道場(2F)も造っていただきました。少林寺拳法部では、休みの日に、急きょ招集をかけられる事もあり、「勉強との両立は、思ったより厳しい」ものでした。 税理士試験制度について 少し、税理士試験制度について、概要を説明しておきます。税理士試験科目は5科目に合格する必要があり、会計科目である「簿記論」と「財務諸表論」が必修科目、「法人税法」か「所得税法」が選択修科目で、残りの2科目を、任意科目として「相続税法」、「消費税法」や、地方税の「固定資産税」、「住民税」、「酒税」などから選択することになります。 科目合格制で、1科目でも合格すれば、その科目は生涯有効となります。各科目60点以上で合格、合格率は各科目10%~20%で、最終資格取得者は受験者の5%程度と言われています。 私の頃は、「法人税法」「所得税法」「相続税法」を「(主要)国税3法」と呼び、勉強のボリュームも大きいものでした。実務的には、「所得税より法人税の方が報酬が高い。相続税を知らなければ、儲からない。」。 また、「税理士試験」には「試験免除制度」があります。 ①経済学系の大学院(2年)を卒業することにより、会計2科目免除、法律系の大学院(2年)を卒業することにより税法3科目も免除されます。すなわち、2つの大学院を合わせて4年間卒業(修士又は博士学位を取得)すれば、税理士資格を取得できます。これを「ダブルマスター組」と呼んでいましたが、現在では、「シングルマスター」のみが条件となっています。 ➁10年又は15年以上の国税従事者(税務署など)は、税法科目が免除されます。さらに、23年又は28年以上勤務し、指定研修を修了した者は、会計科目が免除されます。 すなわち、定年退職まで、税務署などに勤務した者は退職後、「税理士会」に登録するだけで、税理士になれます。「税務署OB組」などと呼びます。 私の場合は、必修の会計2科目と、「法人税法」、「相続税法」、「消費税法」の3科目に合格した「試験合格組」となります。 税理士受験から税理士事務所開業まで 大学卒業後、なかなか「税理士試験」に合格できませんでした。大学4年生時に、「簿記論」を受かっただけで、あと4科目(必須科目、選択必須科目他)に合格する必要がありました。 そこで、東京高田馬場にある「税経学院(出版社)」が運営している「税経寮」に入って、受験勉強に専念する事にしました。すでに婚約していた家内とは、「遠距離恋愛」になってしまいましたが、「(財務諸表論に合格するまで)待ちます」と言ってくれました。私は、一大決心をしました。 「税経寮」には、北海道から沖縄まで、全国から税理士を目指している人達が集まっていました。入寮してからは、食べてる時と、寝ている時以外は、すべて勉強のために費やしました。 皆、専門学校にも通っていました。睡眠時間も、3~4時間でした。 上京してから、試験日までの半年の間に、「受験ノイローゼ者」が6人出ました。彼らは、それぞれの実家に帰って行きました。僕は、「少林寺拳法部のおかげで、いつのまにか精神力が鍛えられていたんだな」と実感しました。 8月初旬の税理士試験の2か月前ぐらいになると、毎月の「月例テスト(計算問題)」では、100点満点を取れるようになり、クラスで1番になりました。税理士試験後も、念のため受講を続け、12月の合格発表まで、100点満点の1番を続けました。苦手だった必須科目「財務諸表論」に、ようやく合格しました。(2/5科目め) 婚約している事もあり、翌年、会計事務所に就職し、「税経寮」を退室しました。現在、「東京スカイツリー」が建っている地下鉄「押上駅」で安いアパート(2K)を見つけ、家内を北九州から呼び出し、新婚生活が始まりました。 受験生である僕の状況を理解している家内は、勉強の手伝いもしてくれました。私が就職した会計事務所は、日本のバブルの影響で、あっという間に拡大していきました。(現在では、日本一のスケールを誇る会計事務所になりました。)その会計事務所に勤務している間に、「相続税法」に合格しました。(3/5科目め) しかしながら、仕事がどんどん忙しくなっていき、専門学校にも通えなくなってしまいました。 「父の事務所を継ぐ(資格取得)」事が第一命題であった私は、その会計事務所に4年半ほど勤務した後、縁あって、千代田区神田練塀町(秋葉原駅近く)にある一般企業(青果物等卸売及び貿易業)に転職しました。 その会社では、経理部長となり、日々の通常の「経理・入力業務」だけでなく、「銀行折衝」、「貿易実務」、「販売管理・会計システム構築」、「税務署対応」などにも従事しました。 「決算・申告業務」なども私がすべて行いましたので、税理士を頼まず、申告書などには、「税理士署名押印」は無しのままでした。 その会社に勤務している間に、「法人税法」(4/5科目め)と「消費税法」(5/5科目め)に合格し、同じビル内の別室で開業することになりました。 その会社と、取引のあったグループ会社4社、合わせて5社が、最初の顧問先になりました。 これはとてもラッキーな事で、税理士事務所を開業しただけで、関与先が増えるわけではありません。開業して、最初に行ったのは、事務所の「基本理念づくり」です。「何故、開業したのか?他の会計事務所に勤務税理士として勤める、一般企業に勤める。実家に帰り、父親とともに働く。」いくつか選択肢はありました。 一つには、すでに顧問先ができたために、実家には帰れない。(跡を継ぐ事ができない。) 実務経験も、会計事務所、一般企業ともあるので、開業してもやっていけるはずだ。当時の社長は、「東京で食えない奴が、地方で食えるわけがない。」という信条をお持ちでした。 いろんな企業の「社是社訓」「経営理念」「モットー」などを、勉強しました。結局、米国DHL社の経営理念に近いものになりました。関与先様も、少しずつではありますが、増えていきました。 霞会の同窓会活動に参加 私が同窓会活動に参加するようになりましたのは、税理士事務所を開業してからでした。その当時の同窓会組織は、まだしっかりしたものとは言えないものでした。 現在のような「一般社団法人」という制度はなく、法律的にはPTAなどと同じく、「人格のない社団等」という組織でした。日本全国の学校の同窓会は、すべてこの「人格のない社団等」でした。 当時の同窓会組織は、「幹事会」「常任幹事会」「総会」の3つでした。当時の会長は故三宅ヨシロウ先輩(1期生、野球部創部)、事務局長は池内和彦先輩(1期生、躰道部創部)でした。同窓会に参加するようになってから、いろんな先輩、後輩方とも知り合い、「幹事」に任命されました。そして、同窓会の会計監査を担当させていただきました。決算が近づくと、池内事務局長が資料を持って、私の事務所に来られました。 当時は、同窓会本会だけでなく、少しの地方支部会(当初は任意で、補助金なし。)、藍旗会(体育会系OB会の集合組織)、オーナーズクラブ(経営者、企業の中枢関係者の、勉強会・交流会。その後、自然消滅。)がありました。 同窓会に参加しているうちに、「常任幹事」に任命されました。役員会議・交流会の後、帰りの電車の中、三宅会長が「大川、今からうちに来て、泊まれ。」奥様、お嬢様をご紹介くださり、同窓会の話ではなく、「今度、東京マラソンに参加するのよ」とか、そんな話ばかりで、ご出身である土佐の鰹節を削って、ご馳走してくださいました。 池内事務局長とも、個人的に親しくなり、「新国劇」に誘われてすっかりハマり、何度も一緒に観 劇いたしました。役者さん達とも親しくなり、なかなかできない経験をさせていただきました。 同窓会の組織も、徐々に変わり、「幹事会」「会長」「副会長」「総会」になりました。そして、会長も、三宅先輩から東村真先輩(3期生、アメリカンフットボール部創部)に替わりました。 実は、東村先輩とは、同窓会で知り合い、以前から個人的にもお付き合いさせていただいておりました。ご自分の所属するダーツチームに誘われ、私もメンバーになりました。週に一度は、一緒に飲むことになり、よく「大川、今日うちに泊まれ。」と何度もお世話になりました。 東村先輩が「会長」に就任された時、東村先輩のご指名により、私も「副会長」の一人になりました。「会議は踊る」とは、よく言ったもので、「会長・副会長会議」でもなかなかコンセンサスが取れず、長時間にわたる事もままありました。 東村先輩が「会長」を辞任する決意をされた時、私は東村先輩のご自宅におりました。「えっ、次の会長はどうされるのですか?」、「君野君に頼もうと思う」現会長である君野信太郎先輩(4期生、躰道部)の事です。 その時に、私も「副会長」を辞任する決意をしました。(君野先輩とも親しくさせていただいておりましたが、指名してくださった東村先輩が辞任されるのに、私だけ残るわけにはいかないと) 税理士法人大川会計について 現在の、私の「税理士法人大川会計」について、少し書きます。事務所としては、「主たる事務所」である「東京オフィス(豊島区池袋)」と、「従たる事務所」である「北九州オフィス(北九州市戸畑区)」の二つです。 税理士法人大川会計北九州オフィス 東京&北九州オフィス合同顔合わせ(両親を囲んで) 個人事務所を「法人化」したのは、父の生前中に、二人で「税理士会」に相談に行き、「税理士法人にした方がよい。」と勧められたからでした。これにより、自分の東京事務所と高齢化した父の北九州事務所の両方の仕事を、堂々と出来るようになりました。(税理士法上、「税理士は、事務所を一つしか持ってはいけない」事になっています) 「東京オフィス」では、7、8年前から行政書士の紹介により、「中国人経営者」の関与先様が増え始めました。いわゆる「投資系ビザ」というもので、日本で500万円以上の投資をすればビザが取れるのです。その投資には、自分で資本金500万円以上の会社を設立することも含まれます。 また、そのビザを毎年更新するのに、いくつかの条件があり、そのうちのいくつかの書類は、税理士事務所が作成するものです。ビザ更新のためのご指導もしています。 日本国内における中国人達のネットワークというのは凄いものがあり、次から次に紹介が始まりました。 また、これらの経営者たちは、本国の金持ちの子供達が多く、日本のビルを、「安いよ~!」とポンと1棟買いしたりするので、驚かされます。最近では、日本に会社を持つ香港の経営者や、韓国人の経営者までご紹介されました。 大変、有り難いことではありますが、業務の品質を落とすわけにはいきません。そのへんが、会計事務所経営の難しい部分であります。「スタッフを増やそうか、どうしようか?」 最後になりますが、同窓生の皆様方のご活躍を応援しておりますとともに、更なる発展されますことを、心より祈念いたしております。 我が母校「TIU」の創学当時からの精神(理念とは別)である、「V (Vision=大志)、I (Intelligence=知性)、C (Courage=勇気)」を心に刻んで、頑張りましょう! (大川和男さんプロフィール)福岡県北九州市小倉北区出身 1978年3月 国際商科大学(現東京国際大学)商学部商学科卒業 泉暹ゼミ 少林寺拳法部。 卒業後、公認会計士・税理士事務所にて会計実務、税務業務、相続対策、会社設立、企業買収、企業評価および営業譲渡等の実務経験を積む。 その後、一般企業に経理部長として勤務。経理システム構築、事務合理化対策、資金の調達・運用および貿易実務等に携わる。 TKC全国会会員、認定経営革新等支援機関、商工会など主催セミナー講師なども行う。 1991年4月、大川和男税理士事務所を創業。 2014年5月、税理士法人大川会計を設立、代表社員として現在に至る。【東京オフィス】 〒171-0021 東京都豊島区西池袋2-36-1 ソフトタウン池袋203号 TEL:03-3984-2275 FAX:03-3984-2274 【北九州オフィス】 〒804-0073 福岡県北九州市戸畑区明治町10-2 TEL:093-884-0311 FAX:093-884-0315 (税理士法人大川会計ホームページ) https://www.okawa-kaikei.jp/ TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
約半世紀かけたグローバルビジネス。いまだ珍道中!
保井 和毅さん(1982年商学部卒業 小峯ゼミ ELI(English Language Institute)2023年7月1日TIUとウイラメット大学1978年4月に国際商科大学(TIU)に入学しました。当時は、外国の歴史、国際関係の理解深堀と必要な語学力を高めグローバル人になりたい思いが漠然とありましたが、特に専門の学行などに行くこともなくマイペースな独学で英語など勉強していました。 2年時の夏休みにアルバイトで貯めたお金でリンガフォンと言う英語教材を購入し、ややスイッチが入った感がありました。3年時からは小峯ゼミで国際金融論を専攻しました。当時の欧州通貨制度関連の文書を読まされましたが、現在の共通通貨ユーロへの生みの苦しみなどの流れが概念的に理解出来ました。 それと、並行し中学から始めた陸上競技(短距離)を継続していました。残念ながら、当時のTIUには陸上競技部がなく、近くの入間川グランドでの自主トレからの出発です。 幸いに、英語はELI(English Language Institute)、陸上は小川町のチームからお誘いがありようやくメンバとしての活動が叶いました。 1980年夏のウ大のスカラシップを受験したのですが、確か最後の3名まで残り、自分以外の2名が公費留学生に採用されました。その2名の中の1名が同郷の兵庫県立芦屋高校出身の和田昇君で、就職後現在も付き合いが続いています。当方も、御慰めで夏季セミナーの奨学金を頂く事出来たのでが、当然参加させていただきました。 (ウ大でカウンセラーをしていただいたJudyさんと。小柄でチャーミングでテニスが上手な方でした。英語の発音をバッチリと叩き込まれました。英会話は、かなり自信がつきました。) 就職活動1982年の就職戦線は、TIU全体でも好調だったと思います。小峯ゼミでは、東京海上、三菱商事、三菱銀行など大手超一流企業の内定者が続出しました。当方も、運よく日本電気、キャノン、City Bankなど複数社で内定を頂きました。悩んだ末、当時理系・文系男子人気ナンバーワンの日本電気に入社する事にしました。日本電気には、1名だけTIUのOBの方がおられ、自分以降も続いて欲しいなと感じていましたし、入社後数年間は毎年数名の在学生がOB訪問として当方へ来られていました。1名の方が入社されたのは記憶がありますが、残念ながら途中で退職されています。 今は、当時とは大分事情が違うと思いますが、入社したらどこの大学出身とか関係ないと思います。すべて、ゼロスタートで個人の成長に委ねる事が非常に大きいと感じています。 咋今の学歴フィルータは、受け入れ企業側が効率を優先(応募の数を絞る)するには仕方がない方法ですが、実力のあるB,Cランク大学の学生に取り残念な手段だと思います。ただ、今は個人の情報発信がかなり自由に出来るので、いい意味で目立つ活動を在学中にされたらいいと思います。パフォーマンスは処世術として姑息な手段とも取れますが、会社に入っても重要となります。 日本電気入社前半は半導体ビジネス:1982年に入社後、すぐに半導体事業グループの当時の最先端半導体の工場の管理部門に配属されました。希望していた海外営業でなく暫くふて腐れていましたが、モノ作り側なので表面的ですが技術あるいは供給側のサプライチェーンなどの理解に役立ちました。 当時NECは半導体世界ナンバーワンで、毎年海外の工場の大型投資を進めており、その仕事に関われたこともモチベーションの向上に繋がりました。当時は、海外ビジネスに携われる人材が不足しており、入社2-3年の当方も数億円の投資企画書の作成を自ら作成せざるを得ない状況でした。地球儀を俯瞰しながら、グローバルサプライチェーンの最適を上司・仲間と検討する日々でした。 入社当時のNEC相模原事業場です。当時最先端の6インチウエハーの工場でした。この様な工場が、日本のみならず、北米、欧州、シンガポール等で複数稼働していました) 最初の転機は、結婚後の1988年です。上司から、UKの工場の管理部門に行かないかとの打診がありました。ただ、マーケットに向かい合いたい希望が擽っていたので営業部門への異動を希望し、北米向けの半導体営業への異動が実現しました。ASICと言うカスタム(顧客用途別)LSIの担当となり、米国法人の営業と連携しIBM、AT&Tなど大手ICT顧客からDesign win獲得のため出張などを重ねながらビジネスの拡大を進めました。当時は、係長でしたが年商50億円+の予算が与えられていました。営業は顧客が優先ですが、モノ作り部門出身というサプライサイドでの経験は大いに役たちました。 ビジネスは、Market in であつてProduct outではだめだ(主にB2Bですが)とよく言われますが、十分な供給側のマーケティング、高い技術力のある分野では後者も通じると思います。素材、部品など一部の日本企業はproducts outパターンでも対応出来ますが、それ以外の分野は厳しくなりました。 その後、北米の半導体販売会社への駐在の話などもありましたが、今度は海外営業グループの企画・新規ビジネス関連部門への異動が命ぜられました。バブル後に、会社として海外含めて売る新製品が不足する大変な時期でした。カラー液晶の海外営業組織が立ちあがり、営業での再登板となりました。この製品も、やはり日系の大手企業が複数参入してきました。当初から、いずれ台湾・韓国勢に追い抜かれると言う半導体事業と同じ構図がグローバルでも描かれていました。 営業アプローチは、シンプルで従来のCRT(ブラウン管)モニタを使用している業種・顧客への売り込みです。主に、PC、Work station、POCレジなどのメーカであるApple, Compaq, Dell, Sun Micro,台湾系PC OEM,NCRと測定器などのTechtronics, Agirentなどが主要顧客です。現地営業の日々の営業活動と日本からの新規技術紹介などを連動させ事業拡大を進めました。 ただ、IBMはPCビジネスのHQが神奈川県大和市にあり、そこの開発購買へのアプローチが重要です。日本での直販は初めてでしたが、これがまた楽しく社会人人生後半へ生かすことが出来たと(今から振り返って)感じます。本来、海外市場で営業活動するのがグローバルと捉えていたのが、日本も含めての活動がグローバルとの概念へと軌道修正した瞬間でした。確か、世の中も「海外、国際」から「グローバル」と言う言葉が使用された時期でした。 (三田にあるNEC本社ビル。本社スタッフ、営業部門が集結しています。) 後半はICTビジネス1990年代後半から、米国のパソコンメーカ、Microsoftなどが一気に日本へ参入して来て、IT、情報化と言う言葉が広く使用されだしました。日本の半導体メーカの凋落が始まった時期でした。転職なども考え、Intel社まどから内定がもらえましたが、最終的には社内公募制度で情報システム部門へ異動しました。これは、専業企業では転職そのもので、すべて一からの出直しを覚悟し臨みました。 組織デザインも全然別で、全ての損益責任はフロントの営業が持つ仕組みです。ご存知の通リ日本のIT企業の多くは自社製品単品のビジネスモデルでなく、仕入れ製品、SE(System Engineer)のシステム開発費用、アフターサービス等含めたSystem integrationモデルです。これは、日本独特のモデルで、後々グローバル化が上手く進まないと言う事に気ずく事になります。大変なとこに来たなと感じました。 異動先の事業部長と相談し、最初は勉強も兼ねSE部門のプリセールスとしてERP(Enterprise Resource Planning)ソフトおよびSystem Integrationの拡販を進めました。ERPソフトは従来の汎用機(大型コンピュータ)上ですべて個別開発していたシステムに代わる業務パッケージソフトです。基本的な業務プロセスは、Pre Packageされているので開発工数の低減と早期導入が可能と言うのがうたい文句です。ただ、お客様の生産管理、販売管理などの理解がないと追加開発領域が多くなるので、業務コンサル的なサービスが必要となります。 当方が、異動出来たのは半導体中心ですが、生産、販売、グローバルの経験があり、それなりにお客様先で語れるのが大きな理由だったと思います。担当は、日本の大手製造業でしたので、当然システムもグローバル展開が条件となります。ここで、ようやく得意と感じていたグローバルが出てくるわけです。 ただ、お客様が製造業と言う事もあり、東南アジア、中国の工場システム案件が多く一度は欧米から離れる事になります。海外出張でお客様の情報システムの方に会うと、その方の同期の東京の何処の誰だれはどうしているか・・。など宴席で聞かれながら商談をしたことが多々あります。日本人全般ですが、海外にいると本社情報が少なくなり気になるのでしょう。お客様本体との間柄を上手くブリッジするのも営業の役目です。本当に、Domesticなグローバルビジネスでした。 新事業を担当した時期もありました。RFID(Radio Frequency Identification)ソリューションの立ち上げの際には、米国のWal Mart様に大胆にも出向きました。彼らの商品の入出庫、倉庫業務の効率化システムの提案を行うのが目的です。何度もアーカンサスにある本社に足を運びました。結局、現地体制が上手く出来ず受注には至らずでした。しかし、世界ナンバーワンの企業と仕事が出来たのは自分含めてメンバにもいい経験だったと思います。 ドイツ企業とのアライアンスと駐在:その後、社内でもIT部門のグローバル化の推進と外資大手企業とのアライアンス推進の動きが加速し始めました。双方のマーケット(顧客)を連携して深掘する戦略です。綺麗な絵ですが、現場の営業レベルに落ちるとドロドロした事となります。そのような状況の中で、2008年の春頃に上司の事業本部長から突然ドイツのSAP社とアライアンスと市場開拓の目的でドイツに行くよう命じられました。 理由は、「欧米でIT関連の仕事を任せられるのはお前しかいない」との事でした。エレベータ内のやり取りで周りの連中も聞いていました。あえて、その場を利用したのでしょう。すでに、現地組織の立上げスケジュールも確定し、メンバもほぼ確定していた様でしたが、マネジメント、対外折衝、営業活動など雑用役として白羽の矢が立ちました。 時間が無い中で、組織の役割、企画案など作成し関連部門と調整しコメントを貰おうとしましたが、誰も経験が無いのでいい回答が得られませんでした。不満と不安が募り、辞令を拝命した例の上司に話したところ、目の覚めるような返事が返ってきました。「気持ちは分かるが、お前が不安になれば皆が不安になる・・・・」。これは、上司との信頼関係が構築されており、すべて思った通リにやれと言う内容として励みになりました。駐在は、いろいろ家族とも話し合いましたが子供の教育などもあり単身で行くことになりました。 (40歳後半で単身赴任前の家族での送別会です。もう少し、時期が早ければとも思いましたが・・。) 2008年7月14日に現地に到着し、ドイツ南西部Baden-Württemberg州のマンハイムと言う町に住む事にしました。人口40万の中堅都市でしたが、職場、フランクフルトなどへのアクセスもよく快適な暮らしができました。 (マンハイムのダウンタウンの入り口の公園です。季節の色とりどりの花が美しく クリスマス・マーケッとも開催されます。) 業務は、事務所立上げから始まり現地法人内での組織、ITシステムの適用、エンジニア用のコンピュータルーム、IT機器・事務機など調達、ドイツ人秘書の採用など一からです。次は、日本から帯同したエンジニアの仕事の内容を本社、他地域のメンバと調整しながら進めました。SAPと言うグローバル業務ソフトにNECのソリューションを連携しグローバルで売れるようにする仕組み作りです。当然、SAP本社、関連するITパートナへの連携も重要です。ほとんど、部下とパートナなどのモチベーション向上の仕掛け作りが仕事です。 一方、自分としては、やはり営業ですので日系のお客様が中心になりますが現地での市場開拓に邁進しました。10人弱の組織で対外的に如何に影響力を持たせるかが重要な役割です。営業も、SAPのような大きなシステムは東京本社含めたお客様コンタクト無ではそうは売れるわけではないので、適時東京に戻り東京の営業との顧客訪問などを行いました。ドイツ顧客に対しては、手離れがいい商材を本社から持ち込みドイツ企業などへアプローチをかけました。先日も、当時のドイツのお客様の社長とコンタクトしたりして、ネッとワークは今でも役立っています。 また、欧州のIT企業への出資などの戦略も本社側で検討していた時期で、何社かの評価など本社の企画部門の方と進めました。ご存じの方も多いかと思いますが、日系IT企業が得意としているのは単品の販売ではなくSystem Integrationです。お客様の、戦略ならびに業務を理解しITで課題解決を提案する内容です。その為、各地域、国のお客様自身のビジネスが理解出来ているIT会社を買収するのが手っ取り早くなります。競争力のあるハードウェア製品を保有している企業に比べ、グローバル化の難易度が一段と上がります。ただ、現地でしか出来ない経験が出来たのは、僅かな成功体験よりよかったと思います。 また、余暇の話は腐るほどあるのですが割愛させていただきますが、一点前述の和田昇君もPanasonicの社員としてドイツのハンブルグに同時期に駐在されており偶にフランクフルトで合流しました。現在も交流が続いています。 2012年の春に帰任する事になりますが、ドイツ駐在で得た経験、人脈がその後役立つ事になります。帰国後は、中華圏APAC営業本部で大洋州・シンガポール地域の営業とITソリューション軸で本部責任を担う事になりました。 方針はシンプルで、シンガポールにSAP, MicrosoftのERP要員がいましたので、彼らの体制強化と他のAPAC地域へのビジネス展開です。上記のERP製品は他社製品ですのでプラスで自社製品、例えばPOS端末などと連携した流通業向けSystem integrationメニューの強化などを行いました。欧米に比べ、アジアは多少日本と近いITビジネスモデルがあるのとNECの企業バリューが高いので、数字は上がりました。 2014年には、国際情報化協力センタ(CICC:Center of the International Corporation of Computerization)を兼務しました。ここは、元経済産業省の外郭団体で日本の大手IT企業の参画をベースに東南アジアを中心にICTの協力、企業側としてはODAなど国際協力資金を活用したビジネスの拡大を推進する組織です。すでに、55歳になっていたのでNECでの最後の楽しみ場所と考え、好きな様にさせてもらいました。海外の政府機関との折衝などは初めての経験で勉強になりました。CICCの名目でNECの災害、防衛、サイバーセキュリティなどの提案を行い、実証なども行いました。内戦前のミャンマーとかバングラディシュ、カンボジアなどの警察・軍関係の方々面会出来たのは貴重な経験でした。 NEC卒業後と現在最終的には、2019年にNECを予定通り退職しましたが、帰任後も、ドイツ関連の方々とのネットワークを大切にしてきたので、その腐れ縁が思いもよらぬ方向へ進みました。 現在は、駐在中に名刺交換をさせていただいたドイツの人材会社のご紹介もありELATEC GmbHの日本代表(と言つても小所帯ですが)をさせて頂いています。日本市場の立ち上げに日本企業の本社とのアライアンス、新規市場開拓です。コロナ下で、なかなか本社のミュンヘンには行けませんでしたが、昨年の10月のお客様セミナ+Oktober Festでの打ち上げに入社前面接以来久々に行く事が出来ました。 (現会社のお客様向けセミナおよびイベントに参加、2022年10月) 長々と、お付き合いいただきありがとうございました。最後になりますが、振り返り自分の歩いたグローバルビジネスは、遠回りしながらも多数の方々に支えられて来たのだと思います。 何十年も外国でご活躍されている優秀な方とは違い、日本国内の営業も経験出来たのが現職の外資系企業では評価されたのかも知れません。特に、これから社会人になられる方は人生長丁場となります。数年で成果が出ず悩んだ時は、焦らずに一呼吸おいて自問しながら再スタートを切って下さい。 (保井和毅さんプロフィール) 1977年3月兵庫県西宮高等学校卒業 1978年4月国際商科大学商学部入学(小峯ゼミ/ELI: English Language Institute) 1982年3月同校卒業 1982年4月日本電気株式会社入社 第一LSI事業部計画部配属 1986年6月半導体企画室海外推進部異動 1990年6月北米電子デバイス部異動 1999年6月製造装置ソリューション事業部(ITシステム営業)移動 2008年6月NEC Europe Ltd. NEC SAP Solution Center(ドイツ)駐在 2012年6月APAC営業本部へ帰任(ITソリューション全体統括) 2016年4月財団法人 国際情報化協力センタ(CICC)兼務 2019年4月日本電気株式会社退職 2019年5月~2020年5月日欧ビジネス開拓コンサル 2020年6月ELATEC GmbH日本代表就任 2022年9月ドイツECOSコンサルティング 特別顧問就任(副業) TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
保井 和毅さん(1982年商学部卒業 小峯ゼミ ELI(English Language Institute)2023年7月1日TIUとウイラメット大学1978年4月に国際商科大学(TIU)に入学しました。当時は、外国の歴史、国際関係の理解深堀と必要な語学力を高めグローバル人になりたい思いが漠然とありましたが、特に専門の学行などに行くこともなくマイペースな独学で英語など勉強していました。 2年時の夏休みにアルバイトで貯めたお金でリンガフォンと言う英語教材を購入し、ややスイッチが入った感がありました。3年時からは小峯ゼミで国際金融論を専攻しました。当時の欧州通貨制度関連の文書を読まされましたが、現在の共通通貨ユーロへの生みの苦しみなどの流れが概念的に理解出来ました。 それと、並行し中学から始めた陸上競技(短距離)を継続していました。残念ながら、当時のTIUには陸上競技部がなく、近くの入間川グランドでの自主トレからの出発です。 幸いに、英語はELI(English Language Institute)、陸上は小川町のチームからお誘いがありようやくメンバとしての活動が叶いました。 1980年夏のウ大のスカラシップを受験したのですが、確か最後の3名まで残り、自分以外の2名が公費留学生に採用されました。その2名の中の1名が同郷の兵庫県立芦屋高校出身の和田昇君で、就職後現在も付き合いが続いています。当方も、御慰めで夏季セミナーの奨学金を頂く事出来たのでが、当然参加させていただきました。 (ウ大でカウンセラーをしていただいたJudyさんと。小柄でチャーミングでテニスが上手な方でした。英語の発音をバッチリと叩き込まれました。英会話は、かなり自信がつきました。) 就職活動1982年の就職戦線は、TIU全体でも好調だったと思います。小峯ゼミでは、東京海上、三菱商事、三菱銀行など大手超一流企業の内定者が続出しました。当方も、運よく日本電気、キャノン、City Bankなど複数社で内定を頂きました。悩んだ末、当時理系・文系男子人気ナンバーワンの日本電気に入社する事にしました。日本電気には、1名だけTIUのOBの方がおられ、自分以降も続いて欲しいなと感じていましたし、入社後数年間は毎年数名の在学生がOB訪問として当方へ来られていました。1名の方が入社されたのは記憶がありますが、残念ながら途中で退職されています。 今は、当時とは大分事情が違うと思いますが、入社したらどこの大学出身とか関係ないと思います。すべて、ゼロスタートで個人の成長に委ねる事が非常に大きいと感じています。 咋今の学歴フィルータは、受け入れ企業側が効率を優先(応募の数を絞る)するには仕方がない方法ですが、実力のあるB,Cランク大学の学生に取り残念な手段だと思います。ただ、今は個人の情報発信がかなり自由に出来るので、いい意味で目立つ活動を在学中にされたらいいと思います。パフォーマンスは処世術として姑息な手段とも取れますが、会社に入っても重要となります。 日本電気入社前半は半導体ビジネス:1982年に入社後、すぐに半導体事業グループの当時の最先端半導体の工場の管理部門に配属されました。希望していた海外営業でなく暫くふて腐れていましたが、モノ作り側なので表面的ですが技術あるいは供給側のサプライチェーンなどの理解に役立ちました。 当時NECは半導体世界ナンバーワンで、毎年海外の工場の大型投資を進めており、その仕事に関われたこともモチベーションの向上に繋がりました。当時は、海外ビジネスに携われる人材が不足しており、入社2-3年の当方も数億円の投資企画書の作成を自ら作成せざるを得ない状況でした。地球儀を俯瞰しながら、グローバルサプライチェーンの最適を上司・仲間と検討する日々でした。 入社当時のNEC相模原事業場です。当時最先端の6インチウエハーの工場でした。この様な工場が、日本のみならず、北米、欧州、シンガポール等で複数稼働していました) 最初の転機は、結婚後の1988年です。上司から、UKの工場の管理部門に行かないかとの打診がありました。ただ、マーケットに向かい合いたい希望が擽っていたので営業部門への異動を希望し、北米向けの半導体営業への異動が実現しました。ASICと言うカスタム(顧客用途別)LSIの担当となり、米国法人の営業と連携しIBM、AT&Tなど大手ICT顧客からDesign win獲得のため出張などを重ねながらビジネスの拡大を進めました。当時は、係長でしたが年商50億円+の予算が与えられていました。営業は顧客が優先ですが、モノ作り部門出身というサプライサイドでの経験は大いに役たちました。 ビジネスは、Market in であつてProduct outではだめだ(主にB2Bですが)とよく言われますが、十分な供給側のマーケティング、高い技術力のある分野では後者も通じると思います。素材、部品など一部の日本企業はproducts outパターンでも対応出来ますが、それ以外の分野は厳しくなりました。 その後、北米の半導体販売会社への駐在の話などもありましたが、今度は海外営業グループの企画・新規ビジネス関連部門への異動が命ぜられました。バブル後に、会社として海外含めて売る新製品が不足する大変な時期でした。カラー液晶の海外営業組織が立ちあがり、営業での再登板となりました。この製品も、やはり日系の大手企業が複数参入してきました。当初から、いずれ台湾・韓国勢に追い抜かれると言う半導体事業と同じ構図がグローバルでも描かれていました。 営業アプローチは、シンプルで従来のCRT(ブラウン管)モニタを使用している業種・顧客への売り込みです。主に、PC、Work station、POCレジなどのメーカであるApple, Compaq, Dell, Sun Micro,台湾系PC OEM,NCRと測定器などのTechtronics, Agirentなどが主要顧客です。現地営業の日々の営業活動と日本からの新規技術紹介などを連動させ事業拡大を進めました。 ただ、IBMはPCビジネスのHQが神奈川県大和市にあり、そこの開発購買へのアプローチが重要です。日本での直販は初めてでしたが、これがまた楽しく社会人人生後半へ生かすことが出来たと(今から振り返って)感じます。本来、海外市場で営業活動するのがグローバルと捉えていたのが、日本も含めての活動がグローバルとの概念へと軌道修正した瞬間でした。確か、世の中も「海外、国際」から「グローバル」と言う言葉が使用された時期でした。 (三田にあるNEC本社ビル。本社スタッフ、営業部門が集結しています。) 後半はICTビジネス1990年代後半から、米国のパソコンメーカ、Microsoftなどが一気に日本へ参入して来て、IT、情報化と言う言葉が広く使用されだしました。日本の半導体メーカの凋落が始まった時期でした。転職なども考え、Intel社まどから内定がもらえましたが、最終的には社内公募制度で情報システム部門へ異動しました。これは、専業企業では転職そのもので、すべて一からの出直しを覚悟し臨みました。 組織デザインも全然別で、全ての損益責任はフロントの営業が持つ仕組みです。ご存知の通リ日本のIT企業の多くは自社製品単品のビジネスモデルでなく、仕入れ製品、SE(System Engineer)のシステム開発費用、アフターサービス等含めたSystem integrationモデルです。これは、日本独特のモデルで、後々グローバル化が上手く進まないと言う事に気ずく事になります。大変なとこに来たなと感じました。 異動先の事業部長と相談し、最初は勉強も兼ねSE部門のプリセールスとしてERP(Enterprise Resource Planning)ソフトおよびSystem Integrationの拡販を進めました。ERPソフトは従来の汎用機(大型コンピュータ)上ですべて個別開発していたシステムに代わる業務パッケージソフトです。基本的な業務プロセスは、Pre Packageされているので開発工数の低減と早期導入が可能と言うのがうたい文句です。ただ、お客様の生産管理、販売管理などの理解がないと追加開発領域が多くなるので、業務コンサル的なサービスが必要となります。 当方が、異動出来たのは半導体中心ですが、生産、販売、グローバルの経験があり、それなりにお客様先で語れるのが大きな理由だったと思います。担当は、日本の大手製造業でしたので、当然システムもグローバル展開が条件となります。ここで、ようやく得意と感じていたグローバルが出てくるわけです。 ただ、お客様が製造業と言う事もあり、東南アジア、中国の工場システム案件が多く一度は欧米から離れる事になります。海外出張でお客様の情報システムの方に会うと、その方の同期の東京の何処の誰だれはどうしているか・・。など宴席で聞かれながら商談をしたことが多々あります。日本人全般ですが、海外にいると本社情報が少なくなり気になるのでしょう。お客様本体との間柄を上手くブリッジするのも営業の役目です。本当に、Domesticなグローバルビジネスでした。 新事業を担当した時期もありました。RFID(Radio Frequency Identification)ソリューションの立ち上げの際には、米国のWal Mart様に大胆にも出向きました。彼らの商品の入出庫、倉庫業務の効率化システムの提案を行うのが目的です。何度もアーカンサスにある本社に足を運びました。結局、現地体制が上手く出来ず受注には至らずでした。しかし、世界ナンバーワンの企業と仕事が出来たのは自分含めてメンバにもいい経験だったと思います。 ドイツ企業とのアライアンスと駐在:その後、社内でもIT部門のグローバル化の推進と外資大手企業とのアライアンス推進の動きが加速し始めました。双方のマーケット(顧客)を連携して深掘する戦略です。綺麗な絵ですが、現場の営業レベルに落ちるとドロドロした事となります。そのような状況の中で、2008年の春頃に上司の事業本部長から突然ドイツのSAP社とアライアンスと市場開拓の目的でドイツに行くよう命じられました。 理由は、「欧米でIT関連の仕事を任せられるのはお前しかいない」との事でした。エレベータ内のやり取りで周りの連中も聞いていました。あえて、その場を利用したのでしょう。すでに、現地組織の立上げスケジュールも確定し、メンバもほぼ確定していた様でしたが、マネジメント、対外折衝、営業活動など雑用役として白羽の矢が立ちました。 時間が無い中で、組織の役割、企画案など作成し関連部門と調整しコメントを貰おうとしましたが、誰も経験が無いのでいい回答が得られませんでした。不満と不安が募り、辞令を拝命した例の上司に話したところ、目の覚めるような返事が返ってきました。「気持ちは分かるが、お前が不安になれば皆が不安になる・・・・」。これは、上司との信頼関係が構築されており、すべて思った通リにやれと言う内容として励みになりました。駐在は、いろいろ家族とも話し合いましたが子供の教育などもあり単身で行くことになりました。 (40歳後半で単身赴任前の家族での送別会です。もう少し、時期が早ければとも思いましたが・・。) 2008年7月14日に現地に到着し、ドイツ南西部Baden-Württemberg州のマンハイムと言う町に住む事にしました。人口40万の中堅都市でしたが、職場、フランクフルトなどへのアクセスもよく快適な暮らしができました。 (マンハイムのダウンタウンの入り口の公園です。季節の色とりどりの花が美しく クリスマス・マーケッとも開催されます。) 業務は、事務所立上げから始まり現地法人内での組織、ITシステムの適用、エンジニア用のコンピュータルーム、IT機器・事務機など調達、ドイツ人秘書の採用など一からです。次は、日本から帯同したエンジニアの仕事の内容を本社、他地域のメンバと調整しながら進めました。SAPと言うグローバル業務ソフトにNECのソリューションを連携しグローバルで売れるようにする仕組み作りです。当然、SAP本社、関連するITパートナへの連携も重要です。ほとんど、部下とパートナなどのモチベーション向上の仕掛け作りが仕事です。 一方、自分としては、やはり営業ですので日系のお客様が中心になりますが現地での市場開拓に邁進しました。10人弱の組織で対外的に如何に影響力を持たせるかが重要な役割です。営業も、SAPのような大きなシステムは東京本社含めたお客様コンタクト無ではそうは売れるわけではないので、適時東京に戻り東京の営業との顧客訪問などを行いました。ドイツ顧客に対しては、手離れがいい商材を本社から持ち込みドイツ企業などへアプローチをかけました。先日も、当時のドイツのお客様の社長とコンタクトしたりして、ネッとワークは今でも役立っています。 また、欧州のIT企業への出資などの戦略も本社側で検討していた時期で、何社かの評価など本社の企画部門の方と進めました。ご存じの方も多いかと思いますが、日系IT企業が得意としているのは単品の販売ではなくSystem Integrationです。お客様の、戦略ならびに業務を理解しITで課題解決を提案する内容です。その為、各地域、国のお客様自身のビジネスが理解出来ているIT会社を買収するのが手っ取り早くなります。競争力のあるハードウェア製品を保有している企業に比べ、グローバル化の難易度が一段と上がります。ただ、現地でしか出来ない経験が出来たのは、僅かな成功体験よりよかったと思います。 また、余暇の話は腐るほどあるのですが割愛させていただきますが、一点前述の和田昇君もPanasonicの社員としてドイツのハンブルグに同時期に駐在されており偶にフランクフルトで合流しました。現在も交流が続いています。 2012年の春に帰任する事になりますが、ドイツ駐在で得た経験、人脈がその後役立つ事になります。帰国後は、中華圏APAC営業本部で大洋州・シンガポール地域の営業とITソリューション軸で本部責任を担う事になりました。 方針はシンプルで、シンガポールにSAP, MicrosoftのERP要員がいましたので、彼らの体制強化と他のAPAC地域へのビジネス展開です。上記のERP製品は他社製品ですのでプラスで自社製品、例えばPOS端末などと連携した流通業向けSystem integrationメニューの強化などを行いました。欧米に比べ、アジアは多少日本と近いITビジネスモデルがあるのとNECの企業バリューが高いので、数字は上がりました。 2014年には、国際情報化協力センタ(CICC:Center of the International Corporation of Computerization)を兼務しました。ここは、元経済産業省の外郭団体で日本の大手IT企業の参画をベースに東南アジアを中心にICTの協力、企業側としてはODAなど国際協力資金を活用したビジネスの拡大を推進する組織です。すでに、55歳になっていたのでNECでの最後の楽しみ場所と考え、好きな様にさせてもらいました。海外の政府機関との折衝などは初めての経験で勉強になりました。CICCの名目でNECの災害、防衛、サイバーセキュリティなどの提案を行い、実証なども行いました。内戦前のミャンマーとかバングラディシュ、カンボジアなどの警察・軍関係の方々面会出来たのは貴重な経験でした。 NEC卒業後と現在最終的には、2019年にNECを予定通り退職しましたが、帰任後も、ドイツ関連の方々とのネットワークを大切にしてきたので、その腐れ縁が思いもよらぬ方向へ進みました。 現在は、駐在中に名刺交換をさせていただいたドイツの人材会社のご紹介もありELATEC GmbHの日本代表(と言つても小所帯ですが)をさせて頂いています。日本市場の立ち上げに日本企業の本社とのアライアンス、新規市場開拓です。コロナ下で、なかなか本社のミュンヘンには行けませんでしたが、昨年の10月のお客様セミナ+Oktober Festでの打ち上げに入社前面接以来久々に行く事が出来ました。 (現会社のお客様向けセミナおよびイベントに参加、2022年10月) 長々と、お付き合いいただきありがとうございました。最後になりますが、振り返り自分の歩いたグローバルビジネスは、遠回りしながらも多数の方々に支えられて来たのだと思います。 何十年も外国でご活躍されている優秀な方とは違い、日本国内の営業も経験出来たのが現職の外資系企業では評価されたのかも知れません。特に、これから社会人になられる方は人生長丁場となります。数年で成果が出ず悩んだ時は、焦らずに一呼吸おいて自問しながら再スタートを切って下さい。 (保井和毅さんプロフィール) 1977年3月兵庫県西宮高等学校卒業 1978年4月国際商科大学商学部入学(小峯ゼミ/ELI: English Language Institute) 1982年3月同校卒業 1982年4月日本電気株式会社入社 第一LSI事業部計画部配属 1986年6月半導体企画室海外推進部異動 1990年6月北米電子デバイス部異動 1999年6月製造装置ソリューション事業部(ITシステム営業)移動 2008年6月NEC Europe Ltd. NEC SAP Solution Center(ドイツ)駐在 2012年6月APAC営業本部へ帰任(ITソリューション全体統括) 2016年4月財団法人 国際情報化協力センタ(CICC)兼務 2019年4月日本電気株式会社退職 2019年5月~2020年5月日欧ビジネス開拓コンサル 2020年6月ELATEC GmbH日本代表就任 2022年9月ドイツECOSコンサルティング 特別顧問就任(副業) TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
貧乏学生と旅の経験が今ある私の根源
齋藤竜一さん(2002年国際関係学部卒業 枇杷木賢生ゼミ、2004年大学院 国際関係学研究科卒業 枇杷木賢生研究室)2023年4月1日寄り道ばかりの人生でした。遠回りをして紆余曲折し、立ち止まったり、時には全力で走ってみたりと、私は人よりも時間をかけて大人になったような気がします。 浪人~大学2年の貧乏期 当初、とりあえず大学に入ることのみを目標として受験勉強をしておりましたが、大学受験直後にやりたい方向性(夢)を見つけました。1浪してようやく合格した大学の学部が将来進みたい進路と違うことから、入学金の支払を済ませた後にもかかわらず、入学を辞退してしまいました。そんな私のわがままに母は泣き、父は口をつぐみました。2浪時の予備校費用、大学受験代、大学入学金と大学1年の前期分の授業料、合計150~200万円くらいでしたでしょうか、それを全て自分で支払うことを約束し、2浪生活に突入しました。やりたいことが定まり、自分のお金で勉強をし、2浪という背水の陣から、更に勉強に熱が入りました。しかし受験シーズン真っ只中に熱を出し、ヘロヘロになりながら入試を受け、ようやく2期試験にて東京国際大学へ入学。長い長い暗黒時代からやっと抜け出せ、とても晴れ晴れした気持ちになったのを覚えています。 しかし、ホッとしたのも束の間、せっかくやりたい学問を学べるのに、お金の返済でバイト漬け生活が始まりました。お金は極力切り詰め、毎日家からおにぎりを持っていき、食堂でかけそばをおかずにおにぎりを頬張っておりました。平日は大学とバイト、土日は朝から夜までバイト、夏休みや年末年始は休みなく働きました。稼いだお金は全て返済へ。唯一バイトの給料日だけは、食堂でかけそばではなく、好きな定食を食べられるというルールを作り、月1回の(私にとっては)豪華なランチが私のご褒美でした。また、1年次のゼミ合宿が沖縄で現地集合現地解散で行われることになった際も、ゼミの仲間が飛行機で向かう中、私は1人安い船便(3等の雑魚寝部屋)で向かっていました。当然TIUAなんかには行けるはずもなく、留学を夢見ていた私には、憧れでした。TIUAから成長し帰国する友人らが一回り大きく、眩しく、そして羨ましく見えました。 この時期に体験したことは、私の忍耐力を大きく育ててくれました。これは、この後旅をするようになった私にとても貢献しました。 大学2年~4年旅行期 忘れもしない大学2年生の11月、やっと全ての返済が終わりました。翌月いつものように給料日がきて、預金口座を見ると当たり前のようにお金が振り込まれています。今まではこのお金はごっそり無くなっていましたが、今月からは全て自分の物です。何に使っても良いお金。今まで何も考えずに、ひたすら返済のために我武者羅に働いてきていましたので、完済後のことなど何も考えていませんでした。正直、突然やってきた自由なお金に戸惑いました。いったい何に使ったらいいのだろうと。 そんな時に偶然出会ったのが、「遣唐使」と言う中国短期留学プログラムです。名前の通り船で大陸に渡り1ヶ月くらい現地の大学で学ぶというものでした。そこでは色々な背景の人間と寝食を共にし、とても刺激を受けました。何より2000年の上海は今と全く異なっており、見る物全てにカルチャーショックを受けました。街中にニーハオ(ドア無し)トイレがあったり、舗装されていないデコボコの道やその上でゴザを敷いて物を売っていたりと、当時の日本と比べるとまだまだ未開発の都市でした。私は逆にそういう未開の中国を訪れることに興味を持ち、それから秘境と呼ばれる地を旅行して回わることになります。普段は大学生活とバイトを両立させ、夏休みや春休みのまとまった休みになると、貯めたお金で1~2ヵ月くらいの旅行に出ていきました。 最初は、中国の知識が無かったので、とりあえず上海まで船で行き、そこで買った中国地図を的にしてダーツの旅をしました。当時はまだTVでダーツの旅はやってなかったので、その先駆けでしたでしょうか(笑。最初に当たったのは、中国南部にある雲南省でした。長距離列車に5日間揺られ省内中心都市「昆明」に着きました。風呂もシャワーも無い夏の車内で、5日間を過ごせたのも今まで培った忍耐力のおかげかもしれません。雲南省は少数民族が多く暮らす地域で、日本では見ることにできない独特の衣装や文化、習慣がありました。そういった出会いが私の好奇心を大きく刺激し、日本人が行ったことの無い場所を求め、更に秘境へ秘境へと足を進めて行きました。 やはり中国は沿岸部より西部はまだ発展していない町が多く、蘭州や敦煌、新疆ウイグル自治区の烏魯木斉(ウルムチ)、博楽(ボルタラ)等未開の地を探し、西へ西へと向かっていきました。タクラマカン砂漠を長距離バスで抜けていた時に、長時間景色の変わらない一面砂しか見えない場所で、他のバスが横転していました。そのバスの日陰に乗客たちが体育座りをしていた光景を今でも覚えています。あの方たちは助かったのでしょうか。今でも砂漠の映像を見ると思い出されます。 雲南省の少数民族ナシ族の人たちと 上海から昆明への列車(中央が本人)中国とカザフスタンの国境近くにある町「博楽(ボルタラ)」の花崗斑岩怪石群風景 内モンゴルで乗馬 大学院入学金問題で再び貧乏期 色々な国々を巡って環境問題や貧困を解決したいと更に強く思うようになりました。そこで国際協力の仕事に携わりたいという明確な夢を抱き、その中でもUNDPで働く国際公務員に憧れました。国際公務員になるには最低でも修士号が必要と言う条件から、大学院に進学することを決めました。当然家にはお金が無く、自分で学費を払うことで親から入学の許可を得ました。既に2浪している為、ここから修士課程となると更に2年間社会に出るのが遅くなります。 大学院に合格すればすぐに奨学金(当時の育英会)が借りられ、入学金や授業料の問題は無いと安易に考えておりました。しかし、なんと奨学金は4月の入学後に申請をして、6月から適用になるというものでした。東京国際大学大学院国際関係学研究科(枇杷木教授の国際経済学の研究室)に入学することになったのですが、合格しておきながら入学金がありません。授業料も払えません。大学側に6月の奨学金まで待ってほしいと掛け合うも。3月31日までに支払いが無ければ合格は破棄されると言われてしまいました。 そこで人生最初で最後の利用となるであろう市中の消費者金融にてお金を借りました。また再び貧乏生活に逆戻りです。利息がとても高いことから早期に返済したく、高収入の仕事を探しました。そこで見つけたのがCATVの営業です。「月50万も夢じゃない!」という広告を見てすぐにTELをしてました。獲得した契約件数による歩合で給料が決まるシステムです。そこで、私は研修を受け現場に配属となるのですが、その研修の内容がとても素晴らしく、毎日ワクワクして受けておりました。 ここで学んだことは、その後の私の営業スタイルに大きく影響しております。現場では営業エリアとしてアパートを2~3棟を与えられ、そのアパートの一軒一軒を訪ねてCATVの勧誘をして契約を獲得していきます。最初に当てがわれた物件が、「八千代荘」というボロアパートでした。まず各ドアに呼び鈴が無く、ドアをノックするのですが、木製のドアが雨に打たれ、それが乾き、また雨に打たれと繰り返しているのか、ドアの表面は波をうっており、中身は素材がボロボロで空洞になっており、ノックしてもコンコンではなく、カスカスと音がします。出てきたご老人は耳が遠くテレビを見ていないと言います。他の部屋も回りますが、「年金生活でカツカツだからCATVなんて払えない」とか「そもそもTVを持っていない」「ラジオを使っている。」といった状況です。 最初はとても苦戦しましたが、研修で習ったこと忠実に真似、実践していくと契約が取れるようになってきました。契約が取れてくると、ボロアパートだけでなく、普通のアパートやマンション等も担当させてもらえるようになりました。マンションに住む方はボロアパートと客層が全く異なり、契約の獲得率が大幅に上がりました。大学卒業前の2月頃から契約社員として働き始め、大学院入学後の4月末までフルに働き、最終的にその地域のCATV局の営業成績がトップになりました。そのおかげで入学後最初の1ヵ月は全く授業に出席できず無駄にしてしまいましたが、何とか2ヵ月半で120万円を稼ぐことができ無事完済できました。4月の給料は、あの広告の50万の夢を超えることができ、あの広告もまんざらでもないと思いました。 ニュージーランドへ語学留学・ドイツへの旅 大学院に通いながら英語の必要性を痛感します。今まで英語から逃げ中国語を勉強してきた私は、自分の夢のためにも中国語だけでは駄目だと考え、ニュージーランドに語学留学に行きました。お金の無い私は、日本で企業の用意する留学のパッケージを利用するのはコストがかかると考え、まず飛行機のチケットだけ購入し、現地ではドミトリー(バックパッカー)に滞在し、語学学校を探しました。全て自分で手配することで余計なコストを排除し、格安で学校に通うことができました。更にドミトリーで同じ部屋になったアイルランド人との出会いです。彼らは私のことを毎晩のようにアイリッシュパブに連れて行ってくれました。海やBBQ、パーティーに誘ってくれました。私以外は全てアイルランド人でしたので、少々癖のあるなまりがありましたが学校より遥かに英語の勉強になりました。 アイルランドの友人達とセントパトリックデーのパーティー 『西遊記』にも登場するタクラマカン砂漠の火焔山(かえんざん) 大学院2年生の時、学生最後の長い旅を計画しました。私はビールが好きで、昔から本場ドイツのビールを飲んでみたいと思っておりました。ただ飛行機でドイツまで行き、ビールで乾杯して戻ってくるといったありきたりの旅行では面白くないと考え、秘境好きな私は飛行機を使わずにドイツまで行こうと計画しました。 まず、東京から大阪まで電車に乗り、大阪から上海まで船で移動、その後は電車、バス、乗合タクシー等を使ってドイツに到着しました。本当ならシルクロードの南ルート(中国―パキスタンーイランーイラクートルコ)を使おうと思っていたのですが、その当時インドとパキスタンが緊張関係にあり、国境を通過できないという話がありました。よって、急遽ルートを北に変更し、中国―カザフスタンーロシアーバルト三国―ポーランドードイツへと移動していきました。こうすると、訪れた各地の地ビールを飲むことができ、ドイツまで様々なビールを楽しんで巡ることができました。とても駆け足でしたが、何とか夏休みの2ヵ月間でドイツまでたどり着けました。授業の関係で、ドイツでの滞在日数はベルリンに2日間だけでした。ミュンヘンのビール祭りに参加できなかったのが今でも後悔しております。 中国-カザフスタンのボーダー カザフスタンのアルマトイにある永久氷河カザフスタンからロシアへの国際列車で一緒になった人々 ポーランド・ワルシャワの並木道大学院卒業式 ようやく社会人 東京計器入社後、韓国、中国、東南アジア市場を経て 大学院の卒業後、2年の派遣社員期間を経て東京計器株式会社に入社しました。舶用機器の海外営業部に配属となりました。取扱う製品は大型船に搭載されるレーダや自動航行システム(オートパイロット)、ジャイロコンパス(磁石より高精度で方位を検出する精密機器)といったもので、文系の私にはとても勉強が大変でした。CATVの売り込みとは全く内容が異なり、初めてまじまじと見る機器の図面、わけのわからない記号や表記にこんなものを自分が売っていけるのかとても心配でした。 時には「小学生の理科の教科書からやり直せ」と指導を受けたこともありました。会社や仕事は私の学力など待ってくれません。最初はひたすら流れてくる仕事をこなしていくだけで、毎日自分が何をやっているのかわけがわからなくなる事もありました。いちいち家に帰る時間が惜しく、寝る時間を確保するために漫画喫茶やカプセルホテルに泊まることもありました。会社の通勤途中、追い込まれすぎて歩きながら涙が出てくることもありました。 入社した2006年~2009年まで担当した韓国市場はそんな状況でした。今まで鍛え上げられた忍耐力があったからこそ辞めずに続けられてきたのだと思います。2009年に担当する市場が中国に変わりました。学生時代によく渡航した中国を担当でき嬉しくてモチベーションが上がりました。中国を担当した3年間で、自分一人で営業活動をこなせるようになり、やりがいと達成感を感じられるようになりました。 その後2012~2017年まで香港/オセアニアを担当し、2017年~2021年までシンガポール支店に赴任しました。特に2016~2017年は私にとって激動の時期でした。2016年にマンションを購入し、すぐにシンガポール赴任が言い渡され、1年も住むことなくマンションを売りに出しました。またちょうどその時に長女が生まれました。生活基盤を作ったり、現地の仕事を把握をするために、先に半年間単身でシンガポールに渡り生活をし、その後家族を呼び寄せることになりました。里帰り出産にて2月に生まれ、私は3月に出国だったので、長女に会えたのはほんの数回のみでした。妻には大きな負担をかけてしまったこと、生まれた長女にほとんど会えなかったことに、申し訳なくそして残念な気持ちでいっぱいでした。 人生の大きなイベントであるマンションの購入、売却、出産、転勤がその一年のうちに全てやってきました。心身ともに疲れ切って悲鳴を上げている中、シンガポール生活が始まりました。支店に配属と言っても、実際に支店にいるのは私だけです。現地代理店のオフィスの一部屋を間借りして、活動しておりました。赴任当時は誰も知り合いがいなく、現地のローカルスタッフに助けてもらい家具を揃え、電気ガス水道、携帯電話、インターネット等のインフラ環境を整えていきました。半年後に無事に家族を迎え入れ、仕事や生活に慣れてきた頃、いよいよシンガポールでの仕事を拡大していきます。 シンガポール支店ではシンガポールだけでなく周辺の東南アジア諸国も担当します。マレーシア、インドネシア、タイ、ベトナム、ミャンマーを行き来する生活が始まり、更にやりがいを感じました。売上げを増やすために、市場を開拓していきます。新しい販売代理店やアフターサービスの代行店を探し、販路を拡大していきます。シンガポールで出会った人との関係を大切にし、そのコネクションでインドネシアやマレーシアの代理代行店候補となる企業を紹介していただいたりと、精力的に活動しました。その頃には当初の国際公務員という夢は、なくなっておりました。家庭を持ち子供たちを一人前に育てていくことを考えると途上国(最貧国)での勤務は、現実的ではなくなったからです。何より今の仕事にやりがいを感じておりました。 そんな矢先に訪れたのが、コロナウィルスの感染問題です。シンガポールではロックダウンが厳しく、生活必需品の購入以外は一切外出が許されません。今まで順調に進んでいた市場開拓もここで全てストップです。1年間ほぼ毎日在宅勤務の日々が続きました。何もできず悶々とした中、ついに帰任の通達が出ます。志し半ばで帰国となり、大変残念でした。帰国後もコロナウィルスの影響は続き、市場開拓の成果を見ることなく、東南アジア担当を後にします。2023年から新しく中国/韓国担当へと変わりました。昔担当していた市場なので勝手はわかっています。しかし、当社としては既にできあがっている成熟した市場ですので、正直面白みがありません。また、いつか未成熟の市場に飛び出し、自ら進んで開拓していきたいと思います。 ベトナムでの会議の様子(右から2番目が本人) マレーシアセミナーでのプレゼンの様子①マレーシアセミナーでのプレゼンの様子② 最後に 本来、大学をストレートに卒業した人は22歳頃に新卒で就職し、立派な社会人として働き始めます。しかし、私は学校を卒業し正社員になるまでに6年間(2浪+大学院2年+派遣社員2年)も遠回りをしてしまいました。しかし、この遠回りは決して無駄ではありませんでした。将来のことを真剣に考える時間であったり、自分の将来を変える出会いがあったり、その間に学んだこと・経験したことが後々役に立ったりと、全てのこと一つ一つが今を生きる自分の大事な構成要素となっているのです。ストレートに最短で社会人になる人もいますが、人生一度だけ、私みたいに少し回り道をしても面白いのでは。 (齋藤竜一さんプロフィール) 東京都出身 1996年私立正則高校卒業 1998年 東京国際大学 国際関係学部 国際関係学科 入学 2002年大学卒業 2002年東京国際大学大学院 国際関係学研究科 入学 2004年大学院修士課程 修了 2006年東京計器株式会社 入社 2006~2009年韓国市場を担当 2009~2012年中国市場を担当 2012~2017年香港/オセアニア市場を担当 2017~2021年シンガポールに赴任 東南アジア市場を担当 2022年~ 韓国/中国市場を担当 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
齋藤竜一さん(2002年国際関係学部卒業 枇杷木賢生ゼミ、2004年大学院 国際関係学研究科卒業 枇杷木賢生研究室)2023年4月1日寄り道ばかりの人生でした。遠回りをして紆余曲折し、立ち止まったり、時には全力で走ってみたりと、私は人よりも時間をかけて大人になったような気がします。 浪人~大学2年の貧乏期 当初、とりあえず大学に入ることのみを目標として受験勉強をしておりましたが、大学受験直後にやりたい方向性(夢)を見つけました。1浪してようやく合格した大学の学部が将来進みたい進路と違うことから、入学金の支払を済ませた後にもかかわらず、入学を辞退してしまいました。そんな私のわがままに母は泣き、父は口をつぐみました。2浪時の予備校費用、大学受験代、大学入学金と大学1年の前期分の授業料、合計150~200万円くらいでしたでしょうか、それを全て自分で支払うことを約束し、2浪生活に突入しました。やりたいことが定まり、自分のお金で勉強をし、2浪という背水の陣から、更に勉強に熱が入りました。しかし受験シーズン真っ只中に熱を出し、ヘロヘロになりながら入試を受け、ようやく2期試験にて東京国際大学へ入学。長い長い暗黒時代からやっと抜け出せ、とても晴れ晴れした気持ちになったのを覚えています。 しかし、ホッとしたのも束の間、せっかくやりたい学問を学べるのに、お金の返済でバイト漬け生活が始まりました。お金は極力切り詰め、毎日家からおにぎりを持っていき、食堂でかけそばをおかずにおにぎりを頬張っておりました。平日は大学とバイト、土日は朝から夜までバイト、夏休みや年末年始は休みなく働きました。稼いだお金は全て返済へ。唯一バイトの給料日だけは、食堂でかけそばではなく、好きな定食を食べられるというルールを作り、月1回の(私にとっては)豪華なランチが私のご褒美でした。また、1年次のゼミ合宿が沖縄で現地集合現地解散で行われることになった際も、ゼミの仲間が飛行機で向かう中、私は1人安い船便(3等の雑魚寝部屋)で向かっていました。当然TIUAなんかには行けるはずもなく、留学を夢見ていた私には、憧れでした。TIUAから成長し帰国する友人らが一回り大きく、眩しく、そして羨ましく見えました。 この時期に体験したことは、私の忍耐力を大きく育ててくれました。これは、この後旅をするようになった私にとても貢献しました。 大学2年~4年旅行期 忘れもしない大学2年生の11月、やっと全ての返済が終わりました。翌月いつものように給料日がきて、預金口座を見ると当たり前のようにお金が振り込まれています。今まではこのお金はごっそり無くなっていましたが、今月からは全て自分の物です。何に使っても良いお金。今まで何も考えずに、ひたすら返済のために我武者羅に働いてきていましたので、完済後のことなど何も考えていませんでした。正直、突然やってきた自由なお金に戸惑いました。いったい何に使ったらいいのだろうと。 そんな時に偶然出会ったのが、「遣唐使」と言う中国短期留学プログラムです。名前の通り船で大陸に渡り1ヶ月くらい現地の大学で学ぶというものでした。そこでは色々な背景の人間と寝食を共にし、とても刺激を受けました。何より2000年の上海は今と全く異なっており、見る物全てにカルチャーショックを受けました。街中にニーハオ(ドア無し)トイレがあったり、舗装されていないデコボコの道やその上でゴザを敷いて物を売っていたりと、当時の日本と比べるとまだまだ未開発の都市でした。私は逆にそういう未開の中国を訪れることに興味を持ち、それから秘境と呼ばれる地を旅行して回わることになります。普段は大学生活とバイトを両立させ、夏休みや春休みのまとまった休みになると、貯めたお金で1~2ヵ月くらいの旅行に出ていきました。 最初は、中国の知識が無かったので、とりあえず上海まで船で行き、そこで買った中国地図を的にしてダーツの旅をしました。当時はまだTVでダーツの旅はやってなかったので、その先駆けでしたでしょうか(笑。最初に当たったのは、中国南部にある雲南省でした。長距離列車に5日間揺られ省内中心都市「昆明」に着きました。風呂もシャワーも無い夏の車内で、5日間を過ごせたのも今まで培った忍耐力のおかげかもしれません。雲南省は少数民族が多く暮らす地域で、日本では見ることにできない独特の衣装や文化、習慣がありました。そういった出会いが私の好奇心を大きく刺激し、日本人が行ったことの無い場所を求め、更に秘境へ秘境へと足を進めて行きました。 やはり中国は沿岸部より西部はまだ発展していない町が多く、蘭州や敦煌、新疆ウイグル自治区の烏魯木斉(ウルムチ)、博楽(ボルタラ)等未開の地を探し、西へ西へと向かっていきました。タクラマカン砂漠を長距離バスで抜けていた時に、長時間景色の変わらない一面砂しか見えない場所で、他のバスが横転していました。そのバスの日陰に乗客たちが体育座りをしていた光景を今でも覚えています。あの方たちは助かったのでしょうか。今でも砂漠の映像を見ると思い出されます。 雲南省の少数民族ナシ族の人たちと 上海から昆明への列車(中央が本人)中国とカザフスタンの国境近くにある町「博楽(ボルタラ)」の花崗斑岩怪石群風景 内モンゴルで乗馬 大学院入学金問題で再び貧乏期 色々な国々を巡って環境問題や貧困を解決したいと更に強く思うようになりました。そこで国際協力の仕事に携わりたいという明確な夢を抱き、その中でもUNDPで働く国際公務員に憧れました。国際公務員になるには最低でも修士号が必要と言う条件から、大学院に進学することを決めました。当然家にはお金が無く、自分で学費を払うことで親から入学の許可を得ました。既に2浪している為、ここから修士課程となると更に2年間社会に出るのが遅くなります。 大学院に合格すればすぐに奨学金(当時の育英会)が借りられ、入学金や授業料の問題は無いと安易に考えておりました。しかし、なんと奨学金は4月の入学後に申請をして、6月から適用になるというものでした。東京国際大学大学院国際関係学研究科(枇杷木教授の国際経済学の研究室)に入学することになったのですが、合格しておきながら入学金がありません。授業料も払えません。大学側に6月の奨学金まで待ってほしいと掛け合うも。3月31日までに支払いが無ければ合格は破棄されると言われてしまいました。 そこで人生最初で最後の利用となるであろう市中の消費者金融にてお金を借りました。また再び貧乏生活に逆戻りです。利息がとても高いことから早期に返済したく、高収入の仕事を探しました。そこで見つけたのがCATVの営業です。「月50万も夢じゃない!」という広告を見てすぐにTELをしてました。獲得した契約件数による歩合で給料が決まるシステムです。そこで、私は研修を受け現場に配属となるのですが、その研修の内容がとても素晴らしく、毎日ワクワクして受けておりました。 ここで学んだことは、その後の私の営業スタイルに大きく影響しております。現場では営業エリアとしてアパートを2~3棟を与えられ、そのアパートの一軒一軒を訪ねてCATVの勧誘をして契約を獲得していきます。最初に当てがわれた物件が、「八千代荘」というボロアパートでした。まず各ドアに呼び鈴が無く、ドアをノックするのですが、木製のドアが雨に打たれ、それが乾き、また雨に打たれと繰り返しているのか、ドアの表面は波をうっており、中身は素材がボロボロで空洞になっており、ノックしてもコンコンではなく、カスカスと音がします。出てきたご老人は耳が遠くテレビを見ていないと言います。他の部屋も回りますが、「年金生活でカツカツだからCATVなんて払えない」とか「そもそもTVを持っていない」「ラジオを使っている。」といった状況です。 最初はとても苦戦しましたが、研修で習ったこと忠実に真似、実践していくと契約が取れるようになってきました。契約が取れてくると、ボロアパートだけでなく、普通のアパートやマンション等も担当させてもらえるようになりました。マンションに住む方はボロアパートと客層が全く異なり、契約の獲得率が大幅に上がりました。大学卒業前の2月頃から契約社員として働き始め、大学院入学後の4月末までフルに働き、最終的にその地域のCATV局の営業成績がトップになりました。そのおかげで入学後最初の1ヵ月は全く授業に出席できず無駄にしてしまいましたが、何とか2ヵ月半で120万円を稼ぐことができ無事完済できました。4月の給料は、あの広告の50万の夢を超えることができ、あの広告もまんざらでもないと思いました。 ニュージーランドへ語学留学・ドイツへの旅 大学院に通いながら英語の必要性を痛感します。今まで英語から逃げ中国語を勉強してきた私は、自分の夢のためにも中国語だけでは駄目だと考え、ニュージーランドに語学留学に行きました。お金の無い私は、日本で企業の用意する留学のパッケージを利用するのはコストがかかると考え、まず飛行機のチケットだけ購入し、現地ではドミトリー(バックパッカー)に滞在し、語学学校を探しました。全て自分で手配することで余計なコストを排除し、格安で学校に通うことができました。更にドミトリーで同じ部屋になったアイルランド人との出会いです。彼らは私のことを毎晩のようにアイリッシュパブに連れて行ってくれました。海やBBQ、パーティーに誘ってくれました。私以外は全てアイルランド人でしたので、少々癖のあるなまりがありましたが学校より遥かに英語の勉強になりました。 アイルランドの友人達とセントパトリックデーのパーティー 『西遊記』にも登場するタクラマカン砂漠の火焔山(かえんざん) 大学院2年生の時、学生最後の長い旅を計画しました。私はビールが好きで、昔から本場ドイツのビールを飲んでみたいと思っておりました。ただ飛行機でドイツまで行き、ビールで乾杯して戻ってくるといったありきたりの旅行では面白くないと考え、秘境好きな私は飛行機を使わずにドイツまで行こうと計画しました。 まず、東京から大阪まで電車に乗り、大阪から上海まで船で移動、その後は電車、バス、乗合タクシー等を使ってドイツに到着しました。本当ならシルクロードの南ルート(中国―パキスタンーイランーイラクートルコ)を使おうと思っていたのですが、その当時インドとパキスタンが緊張関係にあり、国境を通過できないという話がありました。よって、急遽ルートを北に変更し、中国―カザフスタンーロシアーバルト三国―ポーランドードイツへと移動していきました。こうすると、訪れた各地の地ビールを飲むことができ、ドイツまで様々なビールを楽しんで巡ることができました。とても駆け足でしたが、何とか夏休みの2ヵ月間でドイツまでたどり着けました。授業の関係で、ドイツでの滞在日数はベルリンに2日間だけでした。ミュンヘンのビール祭りに参加できなかったのが今でも後悔しております。 中国-カザフスタンのボーダー カザフスタンのアルマトイにある永久氷河カザフスタンからロシアへの国際列車で一緒になった人々 ポーランド・ワルシャワの並木道大学院卒業式 ようやく社会人 東京計器入社後、韓国、中国、東南アジア市場を経て 大学院の卒業後、2年の派遣社員期間を経て東京計器株式会社に入社しました。舶用機器の海外営業部に配属となりました。取扱う製品は大型船に搭載されるレーダや自動航行システム(オートパイロット)、ジャイロコンパス(磁石より高精度で方位を検出する精密機器)といったもので、文系の私にはとても勉強が大変でした。CATVの売り込みとは全く内容が異なり、初めてまじまじと見る機器の図面、わけのわからない記号や表記にこんなものを自分が売っていけるのかとても心配でした。 時には「小学生の理科の教科書からやり直せ」と指導を受けたこともありました。会社や仕事は私の学力など待ってくれません。最初はひたすら流れてくる仕事をこなしていくだけで、毎日自分が何をやっているのかわけがわからなくなる事もありました。いちいち家に帰る時間が惜しく、寝る時間を確保するために漫画喫茶やカプセルホテルに泊まることもありました。会社の通勤途中、追い込まれすぎて歩きながら涙が出てくることもありました。 入社した2006年~2009年まで担当した韓国市場はそんな状況でした。今まで鍛え上げられた忍耐力があったからこそ辞めずに続けられてきたのだと思います。2009年に担当する市場が中国に変わりました。学生時代によく渡航した中国を担当でき嬉しくてモチベーションが上がりました。中国を担当した3年間で、自分一人で営業活動をこなせるようになり、やりがいと達成感を感じられるようになりました。 その後2012~2017年まで香港/オセアニアを担当し、2017年~2021年までシンガポール支店に赴任しました。特に2016~2017年は私にとって激動の時期でした。2016年にマンションを購入し、すぐにシンガポール赴任が言い渡され、1年も住むことなくマンションを売りに出しました。またちょうどその時に長女が生まれました。生活基盤を作ったり、現地の仕事を把握をするために、先に半年間単身でシンガポールに渡り生活をし、その後家族を呼び寄せることになりました。里帰り出産にて2月に生まれ、私は3月に出国だったので、長女に会えたのはほんの数回のみでした。妻には大きな負担をかけてしまったこと、生まれた長女にほとんど会えなかったことに、申し訳なくそして残念な気持ちでいっぱいでした。 人生の大きなイベントであるマンションの購入、売却、出産、転勤がその一年のうちに全てやってきました。心身ともに疲れ切って悲鳴を上げている中、シンガポール生活が始まりました。支店に配属と言っても、実際に支店にいるのは私だけです。現地代理店のオフィスの一部屋を間借りして、活動しておりました。赴任当時は誰も知り合いがいなく、現地のローカルスタッフに助けてもらい家具を揃え、電気ガス水道、携帯電話、インターネット等のインフラ環境を整えていきました。半年後に無事に家族を迎え入れ、仕事や生活に慣れてきた頃、いよいよシンガポールでの仕事を拡大していきます。 シンガポール支店ではシンガポールだけでなく周辺の東南アジア諸国も担当します。マレーシア、インドネシア、タイ、ベトナム、ミャンマーを行き来する生活が始まり、更にやりがいを感じました。売上げを増やすために、市場を開拓していきます。新しい販売代理店やアフターサービスの代行店を探し、販路を拡大していきます。シンガポールで出会った人との関係を大切にし、そのコネクションでインドネシアやマレーシアの代理代行店候補となる企業を紹介していただいたりと、精力的に活動しました。その頃には当初の国際公務員という夢は、なくなっておりました。家庭を持ち子供たちを一人前に育てていくことを考えると途上国(最貧国)での勤務は、現実的ではなくなったからです。何より今の仕事にやりがいを感じておりました。 そんな矢先に訪れたのが、コロナウィルスの感染問題です。シンガポールではロックダウンが厳しく、生活必需品の購入以外は一切外出が許されません。今まで順調に進んでいた市場開拓もここで全てストップです。1年間ほぼ毎日在宅勤務の日々が続きました。何もできず悶々とした中、ついに帰任の通達が出ます。志し半ばで帰国となり、大変残念でした。帰国後もコロナウィルスの影響は続き、市場開拓の成果を見ることなく、東南アジア担当を後にします。2023年から新しく中国/韓国担当へと変わりました。昔担当していた市場なので勝手はわかっています。しかし、当社としては既にできあがっている成熟した市場ですので、正直面白みがありません。また、いつか未成熟の市場に飛び出し、自ら進んで開拓していきたいと思います。 ベトナムでの会議の様子(右から2番目が本人) マレーシアセミナーでのプレゼンの様子①マレーシアセミナーでのプレゼンの様子② 最後に 本来、大学をストレートに卒業した人は22歳頃に新卒で就職し、立派な社会人として働き始めます。しかし、私は学校を卒業し正社員になるまでに6年間(2浪+大学院2年+派遣社員2年)も遠回りをしてしまいました。しかし、この遠回りは決して無駄ではありませんでした。将来のことを真剣に考える時間であったり、自分の将来を変える出会いがあったり、その間に学んだこと・経験したことが後々役に立ったりと、全てのこと一つ一つが今を生きる自分の大事な構成要素となっているのです。ストレートに最短で社会人になる人もいますが、人生一度だけ、私みたいに少し回り道をしても面白いのでは。 (齋藤竜一さんプロフィール) 東京都出身 1996年私立正則高校卒業 1998年 東京国際大学 国際関係学部 国際関係学科 入学 2002年大学卒業 2002年東京国際大学大学院 国際関係学研究科 入学 2004年大学院修士課程 修了 2006年東京計器株式会社 入社 2006~2009年韓国市場を担当 2009~2012年中国市場を担当 2012~2017年香港/オセアニア市場を担当 2017~2021年シンガポールに赴任 東南アジア市場を担当 2022年~ 韓国/中国市場を担当 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
ワシントン州から旅館「薩摩の里」の女将へ
石脇りおら(旧姓リオラ・スチュワート)さん (1985年卒業 教養学部 祇園時信彦ゼミ ゴルフ部)2023年1月1日アメリカ・ワシントン州出身の石脇りおらさんは1985年3月に教養学部を卒業後、ブリタニカ、ドールジャパンに勤務。ご結婚後に旦那様の郷里・鹿児島で旅館「薩摩の里」を手伝うことになり、現在は女将として旅館経営をされています。 「旅館「薩摩の里」は鹿児島空港近郊の市比野温泉街から少し離れた里山にある温泉宿です。自然に包まれ、季節を感じ、温泉で体を癒す、田舎の穏やかな時間が流れる場所です。鹿児島にお越しの際は、私どもの旅館「薩摩の里」にお泊りいただけると、大変嬉しいです」と述べられています。 10歳でシアトルから単身日本へ 東京国際大学教養学部17期卒の石脇りおら(旧姓リオラ・スチュワート)と申します。 アメリカ・ワシントン州シアトル郊外の小さな町Port Townsend出身で、アメリカ人の父と日本人の母、姉と弟との5人家族で10歳まで暮らしました。 父には「日本の教育レベルは高い。せっかく優秀な日本人の血が流れているのだから日本の教育を受けさせたい」という考えがありました。母方の伯母がよくアメリカに遊びに来ていて伯母になついていたし、伯母には子供もおりませんでしたので、私を自分の子供のように育ててくれました。 日本に来て驚きと戸惑いの連続で、日本語は全く話せなかったので、日本の教育に慣れるまで苦しかったですね。 「世界に目を向けなければ」という伯母の薦めで東京国際大学に入学 茨城県の土浦日大高等学校を卒業して、獣医になりたくて日本大学へ進みましたが、「これからは世界に目を向けなければ」という伯母の薦めもあって、獣医学部を途中で断念しました。 東京国際大学に入学したのですが、茨城県牛久の叔母の家から2時間半かけて通学。加えて門限が9時でしたので、毎日時間との戦いで忙しかったですね。でもゴルフ部、ゼミでの研究、そしてアルバイトと精一杯大学生活をエンジョイしました。アルバイトは、今はもうありませんが、銀座の日本堂というお店で時計の販売を担当しました。外国人旅行客の接客を2~3年勤めました。 卒業後、ゴルフ部の仲間からの力添えでブリタニカに入社し、北海道で英語教師として8年間勤めました。そして上司の紹介でドールジャパンへ8年、東京で勤務。副社長の秘書でしたが、ボスがバナナパインを担当していたことから商品部の仕事にも携わりました。 夫との出会いから鹿児島へ、旅館「薩摩の里」を手伝うことに ドールジャパンを辞めてのんびりしているときに、夫と出会いました。私の変わった性格、つまり日本人的だけどアメリカ人的な自分を理解してくれる人は少なく、彼はその中の一人でした。そして結婚。それから「帰郷して仕事を手伝ってほしい」という夫の兄の要請で、夫の郷里・鹿児島で旅館「薩摩の里」を手伝うことになったのです。 九州は初めてでしたが、日本に来た時と状況は同じ、何とかなると思ったのです。でも現実は大きく違っていました。まずは言葉、方言には悩まされました。そして味、鹿児島独特の甘さです。ちょっと苦手でしたが、今は慣れてしまいました。 日本的な部分とアメリカ的な部分を融合して、女将業に専念しています 見た目が日本人ではないので、皆が心配して表の仕事はさせてくれませんでした。でも私の好奇心・チャレンジ精神が芽を出し、いつのまにか表の仕事もこなすようになり、女将として働いています。私は旅館の表の顔「女将」、夫は裏方の社長として二人三脚で頑張っています。 私の中には日本的な部分とアメリカ的な部分があります。お花を生けるとき心が落ち着くし、日本の美・和の心に惹かれます。でも「日本人の本音とたてまえ」を理解するのは難しい。また、自己主張という面ではアメリカ的なのでしょうね。両親の2つのDNAを融合させて、自分らしく生きていきたいと思っています。 時間の流れが変わる宿「薩摩の里」は里山にある温泉宿です。 是非とも、皆様方に昔ながらの温泉宿にお越しいただきたく、私どもの旅館「薩摩の里」の紹介をさせていただきます。 鹿児島県薩摩川内市の市比野温泉は江戸時代から湯治場として栄えた歴史ある名湯で、泉質の良さは有名で、今でも遠方から多くのお客様がお越しになります。旅館「薩摩の里」は鹿児島空港近郊の市比野温泉街から少し離れた里山にある温泉宿です。鹿児島空港や鹿児島駅からは、車で約一時間の距離です。 自然に包まれ、季節を感じ、温泉で体を癒す、田舎の穏やかな時間が流れる場所です。 100%のトロッとした温泉「美人の湯」 薩摩の里の温泉は、触れてすぐ実感できるトロっとした感触とあがった後のお肌のしっとりスベスベ感という特徴から、「美人の湯」と呼ばれるようになっています。 循環ではない源泉掛け流し、加水・加温なしの100%天然温泉をごゆっくりとお楽しみください。 地元の料理と山海の幸をどうぞ。 鹿児島は海と山の幸に恵まれた地、美味しいもの、美味しい食べ方をお客様にたのしんでいただけるよう鹿児島の郷土料理、旬の素材を使った会席料理、地元の新鮮な魚、地鶏の刺身などをご用意しております。 (旅館の前は緑の絨毯がとても綺麗です) (庭園を眺める1階和室) (地元の料理と山海の幸をどうぞ) あるものは昔ながらの里山の風景、ないものは気取ったもの、現代的なもの。お客様にはしばし街中の喧騒を忘れて静けさを味わってもらいたいと思います。源泉かけ流しの天然温泉、美人の湯と美味しい郷土料理なども楽しんでいただけると有難いです。 日本全国から、海外からも泊ってみたい温泉旅館に薦められるように常に質とサービスのレベルアップを目指していきますので、鹿児島にお越しの際は、私どもの旅館「薩摩の里」にお泊りいただけると、大変嬉しいです。 (石脇りおら(旧姓リオラ・スチュワート)さんプロフィール) アメリカ・シアトル郊外で10歳まで過ごす。 その後、茨城県牛久の伯母の家に住む。 : 土浦日本大学高等学校卒 1985年3月 東京国際大学教養学部17期卒 祇園時信彦ゼミ ゴルフ部 卒業後、ブリタニカ入社、北海道で8年間英語教師 ドールジャパン(東京)で8年間勤務。副社長秘書、商品部 2000年から 旅館「薩摩の里」を手伝う。現在は女将に専念しています。 鹿児島県市比野温泉 旅館「薩摩の里」 鹿児島県薩摩川内市樋脇町市比野4134 TEL:0996-38-1012 FAX:0996-38-2061 旅館 薩摩の里ホームページ https://satsumanosato.jp/ 旅館 薩摩の里Facebook https://www.facebook.com/satsumanosato TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
石脇りおら(旧姓リオラ・スチュワート)さん (1985年卒業 教養学部 祇園時信彦ゼミ ゴルフ部)2023年1月1日アメリカ・ワシントン州出身の石脇りおらさんは1985年3月に教養学部を卒業後、ブリタニカ、ドールジャパンに勤務。ご結婚後に旦那様の郷里・鹿児島で旅館「薩摩の里」を手伝うことになり、現在は女将として旅館経営をされています。 「旅館「薩摩の里」は鹿児島空港近郊の市比野温泉街から少し離れた里山にある温泉宿です。自然に包まれ、季節を感じ、温泉で体を癒す、田舎の穏やかな時間が流れる場所です。鹿児島にお越しの際は、私どもの旅館「薩摩の里」にお泊りいただけると、大変嬉しいです」と述べられています。 10歳でシアトルから単身日本へ 東京国際大学教養学部17期卒の石脇りおら(旧姓リオラ・スチュワート)と申します。 アメリカ・ワシントン州シアトル郊外の小さな町Port Townsend出身で、アメリカ人の父と日本人の母、姉と弟との5人家族で10歳まで暮らしました。 父には「日本の教育レベルは高い。せっかく優秀な日本人の血が流れているのだから日本の教育を受けさせたい」という考えがありました。母方の伯母がよくアメリカに遊びに来ていて伯母になついていたし、伯母には子供もおりませんでしたので、私を自分の子供のように育ててくれました。 日本に来て驚きと戸惑いの連続で、日本語は全く話せなかったので、日本の教育に慣れるまで苦しかったですね。 「世界に目を向けなければ」という伯母の薦めで東京国際大学に入学 茨城県の土浦日大高等学校を卒業して、獣医になりたくて日本大学へ進みましたが、「これからは世界に目を向けなければ」という伯母の薦めもあって、獣医学部を途中で断念しました。 東京国際大学に入学したのですが、茨城県牛久の叔母の家から2時間半かけて通学。加えて門限が9時でしたので、毎日時間との戦いで忙しかったですね。でもゴルフ部、ゼミでの研究、そしてアルバイトと精一杯大学生活をエンジョイしました。アルバイトは、今はもうありませんが、銀座の日本堂というお店で時計の販売を担当しました。外国人旅行客の接客を2~3年勤めました。 卒業後、ゴルフ部の仲間からの力添えでブリタニカに入社し、北海道で英語教師として8年間勤めました。そして上司の紹介でドールジャパンへ8年、東京で勤務。副社長の秘書でしたが、ボスがバナナパインを担当していたことから商品部の仕事にも携わりました。 夫との出会いから鹿児島へ、旅館「薩摩の里」を手伝うことに ドールジャパンを辞めてのんびりしているときに、夫と出会いました。私の変わった性格、つまり日本人的だけどアメリカ人的な自分を理解してくれる人は少なく、彼はその中の一人でした。そして結婚。それから「帰郷して仕事を手伝ってほしい」という夫の兄の要請で、夫の郷里・鹿児島で旅館「薩摩の里」を手伝うことになったのです。 九州は初めてでしたが、日本に来た時と状況は同じ、何とかなると思ったのです。でも現実は大きく違っていました。まずは言葉、方言には悩まされました。そして味、鹿児島独特の甘さです。ちょっと苦手でしたが、今は慣れてしまいました。 日本的な部分とアメリカ的な部分を融合して、女将業に専念しています 見た目が日本人ではないので、皆が心配して表の仕事はさせてくれませんでした。でも私の好奇心・チャレンジ精神が芽を出し、いつのまにか表の仕事もこなすようになり、女将として働いています。私は旅館の表の顔「女将」、夫は裏方の社長として二人三脚で頑張っています。 私の中には日本的な部分とアメリカ的な部分があります。お花を生けるとき心が落ち着くし、日本の美・和の心に惹かれます。でも「日本人の本音とたてまえ」を理解するのは難しい。また、自己主張という面ではアメリカ的なのでしょうね。両親の2つのDNAを融合させて、自分らしく生きていきたいと思っています。 時間の流れが変わる宿「薩摩の里」は里山にある温泉宿です。 是非とも、皆様方に昔ながらの温泉宿にお越しいただきたく、私どもの旅館「薩摩の里」の紹介をさせていただきます。 鹿児島県薩摩川内市の市比野温泉は江戸時代から湯治場として栄えた歴史ある名湯で、泉質の良さは有名で、今でも遠方から多くのお客様がお越しになります。旅館「薩摩の里」は鹿児島空港近郊の市比野温泉街から少し離れた里山にある温泉宿です。鹿児島空港や鹿児島駅からは、車で約一時間の距離です。 自然に包まれ、季節を感じ、温泉で体を癒す、田舎の穏やかな時間が流れる場所です。 100%のトロッとした温泉「美人の湯」 薩摩の里の温泉は、触れてすぐ実感できるトロっとした感触とあがった後のお肌のしっとりスベスベ感という特徴から、「美人の湯」と呼ばれるようになっています。 循環ではない源泉掛け流し、加水・加温なしの100%天然温泉をごゆっくりとお楽しみください。 地元の料理と山海の幸をどうぞ。 鹿児島は海と山の幸に恵まれた地、美味しいもの、美味しい食べ方をお客様にたのしんでいただけるよう鹿児島の郷土料理、旬の素材を使った会席料理、地元の新鮮な魚、地鶏の刺身などをご用意しております。 (旅館の前は緑の絨毯がとても綺麗です) (庭園を眺める1階和室) (地元の料理と山海の幸をどうぞ) あるものは昔ながらの里山の風景、ないものは気取ったもの、現代的なもの。お客様にはしばし街中の喧騒を忘れて静けさを味わってもらいたいと思います。源泉かけ流しの天然温泉、美人の湯と美味しい郷土料理なども楽しんでいただけると有難いです。 日本全国から、海外からも泊ってみたい温泉旅館に薦められるように常に質とサービスのレベルアップを目指していきますので、鹿児島にお越しの際は、私どもの旅館「薩摩の里」にお泊りいただけると、大変嬉しいです。 (石脇りおら(旧姓リオラ・スチュワート)さんプロフィール) アメリカ・シアトル郊外で10歳まで過ごす。 その後、茨城県牛久の伯母の家に住む。 : 土浦日本大学高等学校卒 1985年3月 東京国際大学教養学部17期卒 祇園時信彦ゼミ ゴルフ部 卒業後、ブリタニカ入社、北海道で8年間英語教師 ドールジャパン(東京)で8年間勤務。副社長秘書、商品部 2000年から 旅館「薩摩の里」を手伝う。現在は女将に専念しています。 鹿児島県市比野温泉 旅館「薩摩の里」 鹿児島県薩摩川内市樋脇町市比野4134 TEL:0996-38-1012 FAX:0996-38-2061 旅館 薩摩の里ホームページ https://satsumanosato.jp/ 旅館 薩摩の里Facebook https://www.facebook.com/satsumanosato TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
たたかう!ランドスケープアーキテクト
鈴木マキエさん(1995年 国際関係学部入学、長谷ゼミ 1996年TIUA、2000年ウィラメット大学卒業:BA in Art & Sociology)2022年12月1日1996年TIUA生、2000年ウィラメット大学卒業生の鈴木マキエです。 現在はシアトルを拠点とするランドスケープアーキテクチャー会社「GGN」の一員として世界各国の都市・地域開発やデザインプロジェクトに参加させていただいています。 獅子白兎のTIUA・ウィラメット留学生活 フィリピンやブラジル出身のご近所さんが多い地区で育った私は、子供の頃から「広い世界が見たい」と漠然と留学を思い描いていました。が、しかし、その夢とは裏腹に、英語も含めテスト直前に詰め込み乗り切る「横着者」にグングン育った結果、進路決定時に正規留学は難しく、幅広い英語レベルの生徒を受け入れているTIUAプログラムに惹かれTIUに入学。ろくに英語ができないままオレゴンへ行くことに! そこで学んだのが、私の英語力では宿題を適当にやって無難な成績を取ることは不可能ということ!要領で流すことは通用せず、人生初めて真正面から勉強に取り組まなければいけなくなってしまいました。これを機に一生懸命勉強することが楽しくなったのは私の人生を変えた大きな出来事でした。 寮でも日本・アメリカ・海外からの留学生問わず一生懸命友達作りに励みました。当初、無口で小柄な私に対するアメリカ人の第一印象は典型的なおとなしい日本人。単に英語が話せなかっただけなんですが。。。 笑) 面白い冗談が言えないのはまだしも、かなり面白い冗談で笑わ(え)ない私を、「面白好きなヤツ」と理解してもらうのに当初はかなり苦戦しました。が、出川哲郎流さんも推奨の「魂で話すアプローチ」で交流し、少しずつ友達の輪を広げていきました。友達を作るのに人生で一番努力したのはこの時だった、と感じます。 Willamette University International Dinner 国際留学生の皆と。 努力の成果もあり、寮を追い出される夏休みはアメリカ人の友達数人の家に寄せてもらい貴重な経験をしてきました。中でも印象的なのは、制限速度のないモンタナで友人が仮免中だった私に運転練習させてくれた際、日本ではありえない古さのバンのギア変更が難しく、急な山道の下り坂カーブでスピードが出すぎ同乗者全員(2021年の投稿者飯島さん含む)が「殺す気かー!」と恐怖に陥った件、ワイオミングの友人の牧場で映画「The Horse Whisperer」のモデルになった馬小屋に寝泊まりしたワイルドな日々、牧場到着と同時にオーストラリア出身のカウボーイ達に向こう訛りで「%$x0&*#パレード行くか?」と聞かれ、「Yes]と答えたら馬車にポーンと乗せられ、見物に向かうと思いきや沿道に現れた大勢の人々に手を振られ、パレード登場を果たしていたドッキリ!事件、日本人の名前が覚えられない友人の伯母さんに「ジュリアロバーツ」というニックネーム(?)で呼ばれ、田舎街で名前を耳にした人々を「えっ、どこにいるの?!?!」とキョロキョロさせた件などなど、今でも集まれば話題に上る武勇伝がたくさん誕生しました。 TIUAやウィラメット時代を振り返ると宿題一つから友人関係、日常生活に至るまで何においても一生懸命、獅子白兎で立ち向かった日々だったと感じます。ここで培った頑張る精神は後の過酷な建築系大学院の時代を乗り切る基礎にもなったと思われます。 ワイオミングでのカウボーイライフ。 発見!ランドスケープアーキテクチャー ウ大卒業後は憧れの街サンフランシスコへ。直接仕事に繋がる専攻でなかったこともあり、就職難に直面。そこで公園を通じて地域向上を目指すNPOで研修生をしながら社会に役立つ専門分野で大学院に進むことを考え始めました。NPOで担当した土地利用調査や市民参加型公園計画の企画、公聴会への参加などがきっかけで、都市計画に興味を持ち、大学院進学を念頭にカリフォルニア大学バークレー校のキャリアフェアに参加。申し込みの際2つの学科のセッションが選べるんですが、都市計画の他にもう一つ「なんだろ、この学科?」レベルで選んでみたのがランドスケープアーキテクチャーでした。軽い興味で受けたセッションでしたが。。。 実は社会学や環境のみならずアートも絡んだ面白い分野であることが発覚!早速心変わりし、大学院はランドスケープアーキテクチャーに決定! 翌年、都市での環境デザイン、コミュニティーデザインが強いシアトルのワシントン大学に進学。大学院ではイタリア、中国、台湾などに短期留学。神戸でも震災復興後のまちづくりに参加するなど、多忙でしたが様々な風土、文化、そしてデザインプロジェクトを体験できました。最終的にはランドスケープの修士号に加え、都市計画学科とコラボのアーバンデザインサーティフィケイトも取得し卒業しました。 日本語ではランドスケープアーキテクチャーという分野を包括する言葉がなく、緑化、造園、園芸などと部分的な面で訳されてしまいますが、庭や外構だけでなく、色々な分野と連携を図り都市や地方、コミュニティと一緒に地域のビジョンを打ち立てていくという大規模なスケールや公共空間、グリーンインフラに関わるプロとしても活躍している分野です。 キャリアで学ぶ SASAKIサンフランシスコでは、実戦でスキルを磨く 卒業と同時にサンフランシスコに舞い戻り、SASAKIという建築、土木、インテリア、エコロジストなど多分野が存在する総合設計オフィスに就職。関係分野の専門家と身近にやり取りしながらプロとして必要な知識やスキルを学びました。最初に取り組んだプロジェクトの一つ、アメリカ最大級の港、LA港の工業地区に大きな公園や遊歩道を作ったプロジェクトでは長年工業地帯に住んでいる人々の住環境の向上に貢献できたことに加え、多数の賞などをいただき、キャリア初期から有意義で面白いプロジェクトに恵まれ幸運でした。 しばらくするとバージニア大学に移った大学院時代の恩師から常勤講師をしてみないかと声をかけていただき、挑戦を決意。1年半程働いたオフィスから半年間の休職許可をもらい、大学のあるシャーロッツビルへ引っ越しました。 バージニア大学で初めての教鞭を取る アジア人、女性、英語が訛っている、(他の先生と比べて)若い、小さい。。。 私という人物は登場した瞬間に「立派な先生だ」という印象を与える要素は皆無です。想像通り指導者としてのリスペクトを得るのが最初のハードルとなりました。多くの助言や応援の中で、特に響いたのが「全てを知っている必要はない。教える相手より一歩先を行っていれば、その一歩について教えることができるから」というものでした。リスペクトを得るために無理に先生らしく振舞ったり、本来の自分より大きく見せたりする必要はない、自分の貢献できる形で自分らしく頑張ればいい、と思えた言葉です。 結局、当初半年だった予定は2回の延長により2年近くになり、徐々に自分の教えるスタイル的なものが見えてきました。豊富な現場経験のある指導者が少ないのが弱みだと学生時代から感じていた私は、現場の知識や経験を共有できる先生になりたかったので、もっと実践経験が必要と考えていました。そんな時、徐々にリーマンショックの波及を受け教員志望者が急増。それを機に現場復帰を決断。不景気真っただ中で元のオフィスは苦戦中だったので、元上司が移動した先のボストン本社で再就職となりました。 バージニアでは試行錯誤の日々でしたが、ご指導いただいた先生方や今では友達・同僚になっている生徒達のおかげで充実した日々を送ることができ、いい思い出となっています。この経験は現在客員教授をさせてもらっているワシントン大学でも生かされています。 バージニア大学の生徒たちと。 SASAKIボストンでは、中東やアジア各国の大規模開発、街や各地域のビジョン形成や骨組みのデザインなどに取り組む 現場復帰したボストン本社ではアジアと中東を中心に都市デザインや大きなスケールのマスタープランなどを担当しました。アーバンデザイン、建築、土木、エコロジーの専門家と一緒に中東やアジア各国の大規模開発、街や地域のビジョン・枠組み形成や空間デザインなどに取り組みました。 ヨルダン側の死海、4000haのマスタープランは中でも思いで深いプロジェクトです。世界一標高が低い「死海」はそのユニークな成分で体が浮くことや貴重なバスソルトとして有名ですが、その珍しさは水自体だけではなく、ワディと呼ばれる渓谷や、希少種達が利用する広大なタマリスク(低木)の森などの周辺環境にも及びます。農業発展による水源ヨルダン川の水量低下に伴う死海の水位低下は年に1mにも及び、毎年ビーチがリゾートから遠ざかってしまう問題、テロ防止策で立体/地下駐車場設置が困難で歩行者環境が厳しい点やセキュリティ管理が水際を私有地化している問題、必要な真水と汚水の再利用のバランスが取れた開発スピードの調整などなど、社会的課題も特殊でした。 中東のマーケティングの専門家や環境エンジニアも交えた専門家チーム全員で環境、政治、経済、テクノロジーなど全ての面に渡り、どうしたら現在の問題に答えながらも、より良い未来の可能性を守っていく持続可能なデザインができるか検討し、死海という場所にしかない良さを基軸に、真珠のネックレスのように小さめの開発を要所に展開し繋いでいくストラテジーを考案。ヨルダン初の環境アセスや住人公聴会も開き、地元民やリゾート従業員のための機能的で活気ある本物の街づくりも提案しました。 初めてリード的なポジションで、自分の力不足を痛感したプロジェクトでしたが、とても多くの学びがあり、個人的に大きく成長できたプロジェクトでした。 Dead Sea Development Zone Detailed Master Plan(提供:SASAKI Associates) GGNシアトルで、数か国の興味深いプロジェクトに携わる 多数のマスタープランプロジェクトを経て、実際の建設経験を求めて、コンセプトから建設まで丁寧に手掛けることで有名な現在の会社GGNに入社。シアトルに戻り早10年、時折ワシントン大学で教えながら、アメリカ全土や数か国に渡り大学やハイテク企業のキャンパスや複合開発、会社の無償活動を利用したNPOによるホームレスの住居プロジェクトまで幅広く興味深いプロジェクトに携わらせていただいています。2018年のコンペ時から参加している大阪の「うめきた2期」もその一つです。 うめきた2期。GGNチームはプロジェクト全体のランドスケープビジョンからコンセプトレベルのデザイン、都市公園区画は詳細までリードデザインとして担当 うめきた2期開発は2024年先行オープン、2027年完成予定の複合開発で関空と大阪駅をつなぐJRの新しい駅の真横に位置している計9haのプロジェクトです。敷地の中心に位置する4.5haの都市公園の他、商業やインキュベーション施設、コンベンションセンター、3つのホテルに2つの住宅棟なども含めた街区となる予定です。 詳しくはオフィシャルウェブページもあるので是非ご覧ください:https://umekita2.jp/ 私達GGNはプロジェクト全体のランドスケープビジョンからコンセプトデザイン、都市公園区画は詳細までリードデザインとして担当。クライアントとなる事業者9社をはじめ、複数の建築事務所を含む日本のデザインチームと共にデザインに取り組んでいます。 GGNの特徴としては与件や機能面のみならず、独自のデザインプロセスによりその土地の普遍的な本質を探り出し、模倣やコピペではない、その土地にしかない・その場所で一番輝ける本物のデザインを提案していく点です。 歴史・文化、社会環境、生物多様性など色々調べると「何もない」とか「価値のない」場所などなく、どこでも興味深いストーリーや地元の人が自分の街を感じる瞬間が存在しています。それをどう可視化し、機能・与件、自然環境やコスト、そして様々な人々の意見などとのバランスを取って表現していくか、プロジェクト一つずつ丁寧に検討していきます。 もちろん、うめきた2期でも色々な調査・分析を重ね、淀川と深い関りがある豊かで潤った大地の記憶や橋の街大阪をインスピレーションに、海外に誇れる日本らしさも現代的にデザインに織り交ぜていきました。 初めての日本のプロジェクトなので日本特有な事を学ぶ機会が満載です。高度な技術や完成度など世界に誇れる点も多い中、縦割りや保守的なアプローチが主流であること、専門的なデータ分析より経験則を重んじる傾向、事例主義など、公共空間の向上には多くの課題やハードルも多そうです。個人的に最初の事例自体がどうできたのかは「卵が先か鶏が先か」並みのミステリーだと感じています。 お店などは雰囲気をとても大事にするのに公共空間は機能さえしていれば安っぽくても仕方ない、とあきらめているのが日本人の感覚と感じることがありますが、公共空間の質を付加価値としてではなく街のバイタリティのベース・インフラとして捉えていくことにより、地域や街、日々の暮らしの豊かさの向上に繋がっていくのでは、と思っています。コロナの影響もあり、世界中で屋外や公共空間価の値感が見直されてきている今、日本でも新しい公共空間や地域のあり方に取り組む機会が増えることを願っています。 うめきた2期ではGGN 創立者の一人、世界的にも巨匠的存在であるキャサリンと深く協働することができ、共にプロジェクトに貢献できたことや、日本チームも含め様々な方々から学べた事に感謝しています。都市公園はこの春工事が開始されましたが、これからも気を抜かず、最後まで日本チームと一緒に頑張っていきたいと思っています。 うめきた2期開発-鳥瞰イメージ(提供:うめきた2期開発事業者) 「たたかう、ランドスケープアーキテクト」として、試行錯誤しながら自分らしくチャレンジして行きたい 最後に「たたかう、ランドスケープアーキテクト」のタイトルですが、去年行った日建設計講演の際、友人に「私らしい」と提案されたタイトルです。TIUA時代の「負けない」精神が反映されているのでは、と感じます。ここ数年パンデミックや治安・政情の悪化など、世界中暗いニュースが多く凹みがちな日もありますが、私が「たたかって」いけるのも様々な方々のサポートあってと再痛感させられた機会でもあります。 日本での公共空間向上やランドスケープアーキテクチャーの普及を考えると、どう「たたかって」いくべきか(まだ)分かりませんが、また試行錯誤しながら自分らしくチャレンジしていけたらなと思っています! 何か「たたかうランドスケープアーキテクト」がお役に立てそうなことがあればご一報をいただければ、と思います! (鈴木マキエさんプロフィール) 名古屋出身 愛知県立千種高校卒業。 1995年TIU国際関係学部入学、長谷ゼミ。 1996年TIUA、2000年ウィラメット大学卒業:BA in Art & Sociology。2012年 GGN Ltd入社 現在の役職はPrincipal。 GGN: https://www.ggnltd.com/ 米国シアトルを拠点にするランドスケープアーキテクト。TIUAの後、ウィラメット大学へ編入、Bachelor of Arts(アートと社会学)で卒業。ワシントン大学でMLA(ランドスケープアーキテクチャー修士号)とアーバンデザインサーティフィケートを取得。ランドスケープデザイン・建築オフィスやバージニア大学建築学部講師などを経た後、現在勤務しているGGNに2012年に入社。 40平方キロメートル以上の大規模な地域マスタープランからホームレスのための極小ハウスプロジェクトまで幅広いスケールやタイプのプロジェクトを手掛ける。過去に携わったプロジェクトは世界10か国以上。現在は大阪のうめきた2期地区開発も担当。ワシントン大学にて客員教授も兼任中。 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
鈴木マキエさん(1995年 国際関係学部入学、長谷ゼミ 1996年TIUA、2000年ウィラメット大学卒業:BA in Art & Sociology)2022年12月1日1996年TIUA生、2000年ウィラメット大学卒業生の鈴木マキエです。 現在はシアトルを拠点とするランドスケープアーキテクチャー会社「GGN」の一員として世界各国の都市・地域開発やデザインプロジェクトに参加させていただいています。 獅子白兎のTIUA・ウィラメット留学生活 フィリピンやブラジル出身のご近所さんが多い地区で育った私は、子供の頃から「広い世界が見たい」と漠然と留学を思い描いていました。が、しかし、その夢とは裏腹に、英語も含めテスト直前に詰め込み乗り切る「横着者」にグングン育った結果、進路決定時に正規留学は難しく、幅広い英語レベルの生徒を受け入れているTIUAプログラムに惹かれTIUに入学。ろくに英語ができないままオレゴンへ行くことに! そこで学んだのが、私の英語力では宿題を適当にやって無難な成績を取ることは不可能ということ!要領で流すことは通用せず、人生初めて真正面から勉強に取り組まなければいけなくなってしまいました。これを機に一生懸命勉強することが楽しくなったのは私の人生を変えた大きな出来事でした。 寮でも日本・アメリカ・海外からの留学生問わず一生懸命友達作りに励みました。当初、無口で小柄な私に対するアメリカ人の第一印象は典型的なおとなしい日本人。単に英語が話せなかっただけなんですが。。。 笑) 面白い冗談が言えないのはまだしも、かなり面白い冗談で笑わ(え)ない私を、「面白好きなヤツ」と理解してもらうのに当初はかなり苦戦しました。が、出川哲郎流さんも推奨の「魂で話すアプローチ」で交流し、少しずつ友達の輪を広げていきました。友達を作るのに人生で一番努力したのはこの時だった、と感じます。 Willamette University International Dinner 国際留学生の皆と。 努力の成果もあり、寮を追い出される夏休みはアメリカ人の友達数人の家に寄せてもらい貴重な経験をしてきました。中でも印象的なのは、制限速度のないモンタナで友人が仮免中だった私に運転練習させてくれた際、日本ではありえない古さのバンのギア変更が難しく、急な山道の下り坂カーブでスピードが出すぎ同乗者全員(2021年の投稿者飯島さん含む)が「殺す気かー!」と恐怖に陥った件、ワイオミングの友人の牧場で映画「The Horse Whisperer」のモデルになった馬小屋に寝泊まりしたワイルドな日々、牧場到着と同時にオーストラリア出身のカウボーイ達に向こう訛りで「%$x0&*#パレード行くか?」と聞かれ、「Yes]と答えたら馬車にポーンと乗せられ、見物に向かうと思いきや沿道に現れた大勢の人々に手を振られ、パレード登場を果たしていたドッキリ!事件、日本人の名前が覚えられない友人の伯母さんに「ジュリアロバーツ」というニックネーム(?)で呼ばれ、田舎街で名前を耳にした人々を「えっ、どこにいるの?!?!」とキョロキョロさせた件などなど、今でも集まれば話題に上る武勇伝がたくさん誕生しました。 TIUAやウィラメット時代を振り返ると宿題一つから友人関係、日常生活に至るまで何においても一生懸命、獅子白兎で立ち向かった日々だったと感じます。ここで培った頑張る精神は後の過酷な建築系大学院の時代を乗り切る基礎にもなったと思われます。 ワイオミングでのカウボーイライフ。 発見!ランドスケープアーキテクチャー ウ大卒業後は憧れの街サンフランシスコへ。直接仕事に繋がる専攻でなかったこともあり、就職難に直面。そこで公園を通じて地域向上を目指すNPOで研修生をしながら社会に役立つ専門分野で大学院に進むことを考え始めました。NPOで担当した土地利用調査や市民参加型公園計画の企画、公聴会への参加などがきっかけで、都市計画に興味を持ち、大学院進学を念頭にカリフォルニア大学バークレー校のキャリアフェアに参加。申し込みの際2つの学科のセッションが選べるんですが、都市計画の他にもう一つ「なんだろ、この学科?」レベルで選んでみたのがランドスケープアーキテクチャーでした。軽い興味で受けたセッションでしたが。。。 実は社会学や環境のみならずアートも絡んだ面白い分野であることが発覚!早速心変わりし、大学院はランドスケープアーキテクチャーに決定! 翌年、都市での環境デザイン、コミュニティーデザインが強いシアトルのワシントン大学に進学。大学院ではイタリア、中国、台湾などに短期留学。神戸でも震災復興後のまちづくりに参加するなど、多忙でしたが様々な風土、文化、そしてデザインプロジェクトを体験できました。最終的にはランドスケープの修士号に加え、都市計画学科とコラボのアーバンデザインサーティフィケイトも取得し卒業しました。 日本語ではランドスケープアーキテクチャーという分野を包括する言葉がなく、緑化、造園、園芸などと部分的な面で訳されてしまいますが、庭や外構だけでなく、色々な分野と連携を図り都市や地方、コミュニティと一緒に地域のビジョンを打ち立てていくという大規模なスケールや公共空間、グリーンインフラに関わるプロとしても活躍している分野です。 キャリアで学ぶ SASAKIサンフランシスコでは、実戦でスキルを磨く 卒業と同時にサンフランシスコに舞い戻り、SASAKIという建築、土木、インテリア、エコロジストなど多分野が存在する総合設計オフィスに就職。関係分野の専門家と身近にやり取りしながらプロとして必要な知識やスキルを学びました。最初に取り組んだプロジェクトの一つ、アメリカ最大級の港、LA港の工業地区に大きな公園や遊歩道を作ったプロジェクトでは長年工業地帯に住んでいる人々の住環境の向上に貢献できたことに加え、多数の賞などをいただき、キャリア初期から有意義で面白いプロジェクトに恵まれ幸運でした。 しばらくするとバージニア大学に移った大学院時代の恩師から常勤講師をしてみないかと声をかけていただき、挑戦を決意。1年半程働いたオフィスから半年間の休職許可をもらい、大学のあるシャーロッツビルへ引っ越しました。 バージニア大学で初めての教鞭を取る アジア人、女性、英語が訛っている、(他の先生と比べて)若い、小さい。。。 私という人物は登場した瞬間に「立派な先生だ」という印象を与える要素は皆無です。想像通り指導者としてのリスペクトを得るのが最初のハードルとなりました。多くの助言や応援の中で、特に響いたのが「全てを知っている必要はない。教える相手より一歩先を行っていれば、その一歩について教えることができるから」というものでした。リスペクトを得るために無理に先生らしく振舞ったり、本来の自分より大きく見せたりする必要はない、自分の貢献できる形で自分らしく頑張ればいい、と思えた言葉です。 結局、当初半年だった予定は2回の延長により2年近くになり、徐々に自分の教えるスタイル的なものが見えてきました。豊富な現場経験のある指導者が少ないのが弱みだと学生時代から感じていた私は、現場の知識や経験を共有できる先生になりたかったので、もっと実践経験が必要と考えていました。そんな時、徐々にリーマンショックの波及を受け教員志望者が急増。それを機に現場復帰を決断。不景気真っただ中で元のオフィスは苦戦中だったので、元上司が移動した先のボストン本社で再就職となりました。 バージニアでは試行錯誤の日々でしたが、ご指導いただいた先生方や今では友達・同僚になっている生徒達のおかげで充実した日々を送ることができ、いい思い出となっています。この経験は現在客員教授をさせてもらっているワシントン大学でも生かされています。 バージニア大学の生徒たちと。 SASAKIボストンでは、中東やアジア各国の大規模開発、街や各地域のビジョン形成や骨組みのデザインなどに取り組む 現場復帰したボストン本社ではアジアと中東を中心に都市デザインや大きなスケールのマスタープランなどを担当しました。アーバンデザイン、建築、土木、エコロジーの専門家と一緒に中東やアジア各国の大規模開発、街や地域のビジョン・枠組み形成や空間デザインなどに取り組みました。 ヨルダン側の死海、4000haのマスタープランは中でも思いで深いプロジェクトです。世界一標高が低い「死海」はそのユニークな成分で体が浮くことや貴重なバスソルトとして有名ですが、その珍しさは水自体だけではなく、ワディと呼ばれる渓谷や、希少種達が利用する広大なタマリスク(低木)の森などの周辺環境にも及びます。農業発展による水源ヨルダン川の水量低下に伴う死海の水位低下は年に1mにも及び、毎年ビーチがリゾートから遠ざかってしまう問題、テロ防止策で立体/地下駐車場設置が困難で歩行者環境が厳しい点やセキュリティ管理が水際を私有地化している問題、必要な真水と汚水の再利用のバランスが取れた開発スピードの調整などなど、社会的課題も特殊でした。 中東のマーケティングの専門家や環境エンジニアも交えた専門家チーム全員で環境、政治、経済、テクノロジーなど全ての面に渡り、どうしたら現在の問題に答えながらも、より良い未来の可能性を守っていく持続可能なデザインができるか検討し、死海という場所にしかない良さを基軸に、真珠のネックレスのように小さめの開発を要所に展開し繋いでいくストラテジーを考案。ヨルダン初の環境アセスや住人公聴会も開き、地元民やリゾート従業員のための機能的で活気ある本物の街づくりも提案しました。 初めてリード的なポジションで、自分の力不足を痛感したプロジェクトでしたが、とても多くの学びがあり、個人的に大きく成長できたプロジェクトでした。 Dead Sea Development Zone Detailed Master Plan(提供:SASAKI Associates) GGNシアトルで、数か国の興味深いプロジェクトに携わる 多数のマスタープランプロジェクトを経て、実際の建設経験を求めて、コンセプトから建設まで丁寧に手掛けることで有名な現在の会社GGNに入社。シアトルに戻り早10年、時折ワシントン大学で教えながら、アメリカ全土や数か国に渡り大学やハイテク企業のキャンパスや複合開発、会社の無償活動を利用したNPOによるホームレスの住居プロジェクトまで幅広く興味深いプロジェクトに携わらせていただいています。2018年のコンペ時から参加している大阪の「うめきた2期」もその一つです。 うめきた2期。GGNチームはプロジェクト全体のランドスケープビジョンからコンセプトレベルのデザイン、都市公園区画は詳細までリードデザインとして担当 うめきた2期開発は2024年先行オープン、2027年完成予定の複合開発で関空と大阪駅をつなぐJRの新しい駅の真横に位置している計9haのプロジェクトです。敷地の中心に位置する4.5haの都市公園の他、商業やインキュベーション施設、コンベンションセンター、3つのホテルに2つの住宅棟なども含めた街区となる予定です。 詳しくはオフィシャルウェブページもあるので是非ご覧ください:https://umekita2.jp/ 私達GGNはプロジェクト全体のランドスケープビジョンからコンセプトデザイン、都市公園区画は詳細までリードデザインとして担当。クライアントとなる事業者9社をはじめ、複数の建築事務所を含む日本のデザインチームと共にデザインに取り組んでいます。 GGNの特徴としては与件や機能面のみならず、独自のデザインプロセスによりその土地の普遍的な本質を探り出し、模倣やコピペではない、その土地にしかない・その場所で一番輝ける本物のデザインを提案していく点です。 歴史・文化、社会環境、生物多様性など色々調べると「何もない」とか「価値のない」場所などなく、どこでも興味深いストーリーや地元の人が自分の街を感じる瞬間が存在しています。それをどう可視化し、機能・与件、自然環境やコスト、そして様々な人々の意見などとのバランスを取って表現していくか、プロジェクト一つずつ丁寧に検討していきます。 もちろん、うめきた2期でも色々な調査・分析を重ね、淀川と深い関りがある豊かで潤った大地の記憶や橋の街大阪をインスピレーションに、海外に誇れる日本らしさも現代的にデザインに織り交ぜていきました。 初めての日本のプロジェクトなので日本特有な事を学ぶ機会が満載です。高度な技術や完成度など世界に誇れる点も多い中、縦割りや保守的なアプローチが主流であること、専門的なデータ分析より経験則を重んじる傾向、事例主義など、公共空間の向上には多くの課題やハードルも多そうです。個人的に最初の事例自体がどうできたのかは「卵が先か鶏が先か」並みのミステリーだと感じています。 お店などは雰囲気をとても大事にするのに公共空間は機能さえしていれば安っぽくても仕方ない、とあきらめているのが日本人の感覚と感じることがありますが、公共空間の質を付加価値としてではなく街のバイタリティのベース・インフラとして捉えていくことにより、地域や街、日々の暮らしの豊かさの向上に繋がっていくのでは、と思っています。コロナの影響もあり、世界中で屋外や公共空間価の値感が見直されてきている今、日本でも新しい公共空間や地域のあり方に取り組む機会が増えることを願っています。 うめきた2期ではGGN 創立者の一人、世界的にも巨匠的存在であるキャサリンと深く協働することができ、共にプロジェクトに貢献できたことや、日本チームも含め様々な方々から学べた事に感謝しています。都市公園はこの春工事が開始されましたが、これからも気を抜かず、最後まで日本チームと一緒に頑張っていきたいと思っています。 うめきた2期開発-鳥瞰イメージ(提供:うめきた2期開発事業者) 「たたかう、ランドスケープアーキテクト」として、試行錯誤しながら自分らしくチャレンジして行きたい 最後に「たたかう、ランドスケープアーキテクト」のタイトルですが、去年行った日建設計講演の際、友人に「私らしい」と提案されたタイトルです。TIUA時代の「負けない」精神が反映されているのでは、と感じます。ここ数年パンデミックや治安・政情の悪化など、世界中暗いニュースが多く凹みがちな日もありますが、私が「たたかって」いけるのも様々な方々のサポートあってと再痛感させられた機会でもあります。 日本での公共空間向上やランドスケープアーキテクチャーの普及を考えると、どう「たたかって」いくべきか(まだ)分かりませんが、また試行錯誤しながら自分らしくチャレンジしていけたらなと思っています! 何か「たたかうランドスケープアーキテクト」がお役に立てそうなことがあればご一報をいただければ、と思います! (鈴木マキエさんプロフィール) 名古屋出身 愛知県立千種高校卒業。 1995年TIU国際関係学部入学、長谷ゼミ。 1996年TIUA、2000年ウィラメット大学卒業:BA in Art & Sociology。2012年 GGN Ltd入社 現在の役職はPrincipal。 GGN: https://www.ggnltd.com/ 米国シアトルを拠点にするランドスケープアーキテクト。TIUAの後、ウィラメット大学へ編入、Bachelor of Arts(アートと社会学)で卒業。ワシントン大学でMLA(ランドスケープアーキテクチャー修士号)とアーバンデザインサーティフィケートを取得。ランドスケープデザイン・建築オフィスやバージニア大学建築学部講師などを経た後、現在勤務しているGGNに2012年に入社。 40平方キロメートル以上の大規模な地域マスタープランからホームレスのための極小ハウスプロジェクトまで幅広いスケールやタイプのプロジェクトを手掛ける。過去に携わったプロジェクトは世界10か国以上。現在は大阪のうめきた2期地区開発も担当。ワシントン大学にて客員教授も兼任中。 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
東南アジア6カ国駐在をして思うことは、Fairnessな立ち振る舞いをする事の重要さです。
阿久津晴彦さん(1986年卒 商学部 川島ゼミサーフィン同好会)2022年11月1日東京国際大学を卒業後、東洋インキに入社、1992年からアジア6か国に赴任1986年4月に東洋インキ製造株式会社に入社。6年間朝日新聞社を担当し、90年からは並行して丸1年間九州全域新聞社新規開拓を担当。それ迄の「新聞社担当」というどっぷりドメスティック営業から92年いきなり半年間の海外要員養成コースに半ば強制で参加させられ、香港にトレーニー兼華南地区新聞事業マーケティング担当として着任。此処から私の海外駐在生活が始まりました。 思えば当時国際部長の「お前みたいな活きのいいのが海外向いてんだよ」というエレベーターホールでの何気ない一言で「ああ、俺は海外向きなんだ」と貿易実務も無知英語も朝の挨拶位しか出来ない「気合と活きだけ」の若造が海外に飛び出して行く事になりました。(後日談:部長はそんな事言ったっけかなと覚えてませんでしたが) 1992年にトレーニーとして初の海外駐在生活を香港でスタート。(1992年11月~1993年4月 Toyo Ink Hong Kongトレーニー時代)初ボーナスで買った憧れのゼロハリバートンのシャンパンゴールドアタッシュケースを手に当時の啓徳(カイタック)空港に降り立ちました。今でもスターフェリーに乗り路面電車を利用しての通勤は忘れることができません。トレーニーでありながらまるで旅行者気分の「非日常」を楽しみながらの初海外生活をスタートさせました。 当時の香港マカオ・深圳地区は成長に向け一直線の熱気と裏町のカオスで猥雑な状態が混然とし常に映画のワンシーンに自分が置かれている様な毎日が興奮状態でした。コミュニケーションはそれこそ「絵を交えた筆談&気合のボディーランゲージ」です。それまでの人生で経験した恥と冷や汗の二乗分位をかきつつも実務経験を積み何とか皆の期待に応えるような新規開発を成し遂げ沢山の事を最前線フロントラインで経験した事により、日本国内では得る事のできないスピード感、ダイナミックさに魅了され「やっぱり俺は海外だ」と思いを定めたのでした。 そして実績が評価され半年の海外研修を打ち上げ、翌年93年5月から当時手つかずの台湾市場新聞社開拓という役割で台湾東洋油墨有限公司に正式駐在となります。 台湾駐在中の宴席で『習得した技』が、後々中国本土ビジネスに活かされて来るとはその時は思いもよりませんでした。(1993年5月~1994年7月 台湾東洋油墨有限公司時代)「営業統括 Sales GM」という当時の名刺が残っています。年上ばかりの販売部隊を統括する立場です。香港時代とは一変「のんびり家族的」人の気質は最高ですが、時間にルーズな事に加えて過去の歴史的背景・生活習慣の違い等気を遣う事や戸惑う事も多い日々も何事にもポジティブに職務に励んでいました。主要スタッフが日本語を堪能に操る事等から仕事はすっかり日本語での指示出し報連相と今から思えば貴方は何様ですか?という感じでしたし、若さに任せて毎晩の宴席、飲み屋での中途半端な中国語(普通話)と無茶な酒の飲み方で飲みニケーションはマスター領域に達しましたが、今から思えばもっと謙虚な姿勢で職務に当たり、中国語を真剣に勉強しておくべきだったと反省しています。 一方宴席で『習得した技』が、後々中国本土ビジネスに活かされて来るとはその時は思いもよりませんでした。皆良く言うことを聞いてくれるし、宴会に次ぐ宴会、何か自分が偉くなったような錯覚に襲われていました。当時の上司である社長(総経理)とぶつかる事が多くなりました。売り上げ増と言う実績を残しつつも、本社は組織運営・統率の面から私を台湾から外す決定をしたのでした。 タイ駐在は、起死回生・捲土重来の思いで必死に職務に当たりました。(1994年9月~2001年3月 Toyo Ink Thailand)不本意な形で「よこよこ」で台湾からタイへ駐在となりました。此処でのポジションはMarketing GMです。台湾での反省・会社の意思決定の現実を思い知らされた私は、起死回生・捲土重来の思いで必死に職務に当たりました。初日にいきなり英語で自己紹介を幹部社員の前でさせられホワイトボードに自分の名前位しか書けなかった自分を恥じ、その日のうちに日本人会で英語の家庭教師(カナダ人)を紹介してもらい、どんなに夜遅くまで飲んで帰っても毎朝6時から1時間の個人レッスンを毎日休まず続けました。するとどうでしょう、3か月程経ったある晩なんと英語で夢を見たのです。すると信じられない事に相手が話している言葉がどんどんキャッチアップできて直ぐに文脈から意味が理解できるようになり、ボキャブラリーが増えて話す事が楽しくなってきました。駐在を終えるころには会計士や弁護士等とも可成り込み入った話ができる位のレベルに迄コミュニケーション能力が上達しました。しかし嬉しい経験ばかりではありませんでした。 97年6月末に起こった「通貨危機」です。一体何が起きたのか理解出来ないうちに会社はみるみる赤字に転落。お客様も倒産の嵐、回収不能不良債権の山、寝むれない日が続き体調不良で挙句に円形脱毛症になり地獄を見た思いでした。しかし皆と一緒に「明日は必ず良くなる」と信じて誠心誠意職務にあたり、1年半後には再び黒字会社として累損も一掃し復活したのでした。この時一人も解雇することなくボーナスは出せませんでしたが、給与も滞らせることはなく支給したことにより会社への帰属意識が高まり定着率が改善し、その時の核人材が後々この会社の主要幹部・役員となって事業を健全・強力に牽引してくれていて今でも彼らとやり取りが続いていることは私の財産です。 その後2001年3月に本社国際本部に戻り4年間を主に欧州北米・中国本土の新規事業系推進と言う役割を経て、再び海外勤務の命を受けてマレーシアに駐在となります。 マレーシアは「多様性を受け入れる社会」、マレー系、中華系、インド系と混然一体調和しお互いを尊重して生活している様子は新鮮でした。(2005年3月~2011年7月 Toyochem Specialty Chemical Sdn Bhd )Chairman & Managing Directorとして初の現地トップとしての赴任です。今で言う「多様性を受け入れる社会」マレー系、中華系、インド系と混然一体調和しお互いを尊重して生活している様子は新鮮でした。当時この会社はKL株式市場に株を上場している東南アジアグループ会社の中でも優良企業でしたが、赴任の最重要ミッションはなんと「非上場化」でした。年一回の株主総会でもそんな事は言える筈もなく、株主集団訴訟に怯えつつ最大限注意を払って密かに計画を推進しました。 此方は初期計画通りに事が進み無事ミッションコンプリートとなったのですが、矢張り忘れられない出来事は2008年の所謂「リーマンショック」です。一瞬にして不況真っただ中という状況に立たされましたが、タイでの通貨危機の経験があったおかげで落ち着いて適切に諸事対処することが出来、被害を最小限に食い止めることが出来ました。そしてタイ時代同様一人も解雇せず給与をカットすることなく、ナショナルスタッフと共に職場・生活の糧を守ったのです。この時の皆を信頼して任せて責任から逃げない姿勢が後の職務に役立つのです。 又同時期グループ会社であるベトナムの立て直し再構築、インドネシアの新規事業立ち上げにも携わり、会社経営のダイナミズムと社員に対する責任の重さを日々実感していました。 (2009年頃に当時のアブドラ・アマド・バダウィ首相に、世界初工業化用途で当時開発に成功したパームオイルの印刷インキの説明に首相府に伺った際の写真) インドネシア赴任時は「労務問題・組合問題」で嵐が吹き荒れており、膠着状態(2011年10月~2016年12月 PT Toyo Ink Indonesia 駐在時代)今回も「よこよこ」でPresident & CEOの肩書での赴任です。大きく成長を期待されている会社に十分な経験を積み意気込んで乗り込んできたつもりでしたが、何か勝手が違います。当時は「労務問題・組合問題」で嵐が吹き荒れており、全く理屈の通らないようなプロセス、論理で工場封鎖、社員監禁、業務妨害と打つ手がありませんでした。相互理解に努めようも箸にも棒にもかからない。「労使」ではなく「日本人vsインドネシア人」といったナショナリズムが先鋭的にぶつかり合う構図でした。 目前のビジネスチャンスを逸したくない機会損失を避けたいとの思いが焦りを生み、日々悩み相談する相手も何処かで繋がっていて情報漏洩しているのではないかといった様な不信感の中での職務でしたが、膠着状態の中で一筋の光が見えました。それは矢張り相手をRespectし相手の言葉で理解しようとする姿勢です。皆金持ちになりたいのではなく「今より少しだけ豊かに幸せな生活を送りたい」と願っている事を理解したのです。ですから壁を取り払い私から積極的に会話の機会を設けました。そして一緒に「より良い職場を作って行こうよ」と呼びかけました。 このきっかけは対話の中で拾った言葉「ゴトンロヨン(インドネシア語で相互互助の精神)」の実践です。たったこれだけの事で信じられない事に職場の雰囲気が一変し協力者がどんどん増殖、「わからんちん」言っていた組合幹部が同僚スタッフから窘められるという様な状況変化となりました。此処で経験し肝に落ちた事は「乗り込んできた」ではなく「軒先を借りて商売させて頂きに来た」からお互いを尊重し共に進んでいきましょうという極めて当たり前の基本に立ち返った精神・所作だったのです。 数々の思い出を後に再び本社国際本部に戻り、北中南米の関係会社事業のフォローを主なミッションとして2年間を過ごし、そしてなんと今度はインドへの赴任です。 6か国目の赴任はインドへ、コロナ過で突然のロックダウンで飢え死の恐怖を実感(2019年1月~2022年3月 Toyo Ink India 駐在時代)Chairman & CEOという役職で6か国目の赴任です。長らく海外業務に携わっていながら最も疎遠としていた国です。赴任命令が出たときは一瞬たじろぎましたが「本社以外だったら何処でも希望地」と直ぐに覚悟を決めて着任しましたが、三か月後に「どうして俺はもっと早くインドに来なかったんだろう!」と悔しい思いをする事になるとは思いもよらない事でした。何しろ将来性や市場の大きさ厚みが今迄の何処よりも桁違いにある。そんな国でトップとして働けることの幸せを感じて着任二年目で赤字会社を脱却し、黒字化に目途を付け「よっしゃー」と思っていた矢先の「コロナ禍」です。 突然のロックダウン、情報遮断、閉じ込められたアパートで2週間程過ぎた頃にみるみる食糧・飲料水が底をついて来る現実に直面し、初めて飢え死の恐怖を実感しました。しかし人間は逞しいものでこの頃になるとデリーのど真ん中にロバに引かれたリヤカーで新鮮な野菜を積んで物売りが来るようになり、却って健康的な生活を送る意識が芽生えたお陰で10kgの減量に成功入社当時と同じ体重・サイズと言った健康状態に戻る事が出来、後日産業医の先生から驚かれる事となりました。 一方仕事の方は、全てが未体験ゾーンです。会社の安全管理、社員の健康管理、事業継続の為の役所対応とリモートでの対応でもどかしく思い通りに事が進まないことも多くありましたが、矢張りここでもスタッフを信じ任せ責任は俺がとるという姿勢を貫く事で力強く復活をする事になるのです。今やグループでも Top5 に入る優良企業となっています。そして濃く熱いスタッフと共に過ごした 3年間の思い出を後に、何と2度目のマレーシア駐在を命ぜられます。 2度目のマレーシア赴任。今迄の海外での経験を通じて強く思うことは、常に『Fairness/公明正大』 な立ち振る舞いをする事の重要さ (2022年4月~ Toyochem Specialty Chemical Sdn Bhd 駐在)2度目の同じ役職での赴任です。前回は家族帯同今回はKLチョンガーです。勝手知ったるマレーシアでの2度目の駐在生活はゴルフばかりでなく、文化面でも趣味面でも新たな経験を沢山したいとわくわくしています。さて、仕事の方ですが以前からの秘書が居てくれたりドライバーさんも変わっていなかったり中堅だった幹部が MD になっていたり夫々事業責任者になっていたりと着任当日からほぼ違和感なく職務に当たることが出来ましたが、大きく変わっていたのは業績悪化で業態変化をしなければいけないという切羽詰まった状況である事です。 何故こうなってしまったのか過去10年間をあれこれ言っても詮無き事。気持ちを切り替え明日へ向かって進むだけです。それに皆から頼りにされている、安心感を持って受け入れられていると感じていますので此れに十分応えない訳にはいきません。今迄の経験、知識、思いと少しのテクニックを縦横無尽に駆使し恩返しではありませんが皆のために一働きするつもりです。 有難い事に過去苦楽を共にしたタイ、ベトナム、インドネシア、インドのメンバーも積極的に応援の手を差し伸べてくれています。相互互助、Respect、謙虚さ、其れに常にポジティブで明日はもっと良くなるさ!と信じて行動に移す事の大切さを改めて噛締めて実感し日々新たな気持ちで過ごしています。 今迄の海外での経験を通じて強く思うことは常に『Fairness/公明正大』 な立ち振る舞いをする事の重要さです。これは幾多の困難な経験辛い決断をしてきた中で芽生えてきたものです。又日本人としてアイデンティティを保ち民間外交の一翼を担っているとの自負自覚も必要かと。こちらは若気の至り、山ほどの恥の経験等を通じて一層思いを強くしています。 (阿久津晴彦さんプロフィール) 1986年3月東京国際大学商学部卒 川島ゼミ サーフィン同好会 1986年4月~1992年10月東洋インキ製造株式会社に入社 新聞社担当 1992年11月~1993年4月Toyo Ink Hong Kongトレーニー兼華南地区新聞事業 マーケティング担当 1993年5月~1994年7月台湾東洋油墨有限公司 営業統括 Sales GM 1994年9月~2001年3月Toyo Ink Thailand, Marketing GM 2001年3月~2005年3月本社国際本部 欧州北米・中国本土の新規事業系推進 2005年3月~2011年7月Toyochem Specialty Chemical Sdn Bhd, Chairman & Managing Director 2011年10月~2016年12月PT Toyo Ink Indonesia,President & CEO 2017年1月~2019年12月本社国際本部 北中南米の関係会社事業のフォロー 2019年1月~2022年3月Toyo Ink India, Chairman & CEO 2022年4月~ Toyochem Specialty Chemical Sdn Bhd, Chairman & Managing Director TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
阿久津晴彦さん(1986年卒 商学部 川島ゼミサーフィン同好会)2022年11月1日東京国際大学を卒業後、東洋インキに入社、1992年からアジア6か国に赴任1986年4月に東洋インキ製造株式会社に入社。6年間朝日新聞社を担当し、90年からは並行して丸1年間九州全域新聞社新規開拓を担当。それ迄の「新聞社担当」というどっぷりドメスティック営業から92年いきなり半年間の海外要員養成コースに半ば強制で参加させられ、香港にトレーニー兼華南地区新聞事業マーケティング担当として着任。此処から私の海外駐在生活が始まりました。 思えば当時国際部長の「お前みたいな活きのいいのが海外向いてんだよ」というエレベーターホールでの何気ない一言で「ああ、俺は海外向きなんだ」と貿易実務も無知英語も朝の挨拶位しか出来ない「気合と活きだけ」の若造が海外に飛び出して行く事になりました。(後日談:部長はそんな事言ったっけかなと覚えてませんでしたが) 1992年にトレーニーとして初の海外駐在生活を香港でスタート。(1992年11月~1993年4月 Toyo Ink Hong Kongトレーニー時代)初ボーナスで買った憧れのゼロハリバートンのシャンパンゴールドアタッシュケースを手に当時の啓徳(カイタック)空港に降り立ちました。今でもスターフェリーに乗り路面電車を利用しての通勤は忘れることができません。トレーニーでありながらまるで旅行者気分の「非日常」を楽しみながらの初海外生活をスタートさせました。 当時の香港マカオ・深圳地区は成長に向け一直線の熱気と裏町のカオスで猥雑な状態が混然とし常に映画のワンシーンに自分が置かれている様な毎日が興奮状態でした。コミュニケーションはそれこそ「絵を交えた筆談&気合のボディーランゲージ」です。それまでの人生で経験した恥と冷や汗の二乗分位をかきつつも実務経験を積み何とか皆の期待に応えるような新規開発を成し遂げ沢山の事を最前線フロントラインで経験した事により、日本国内では得る事のできないスピード感、ダイナミックさに魅了され「やっぱり俺は海外だ」と思いを定めたのでした。 そして実績が評価され半年の海外研修を打ち上げ、翌年93年5月から当時手つかずの台湾市場新聞社開拓という役割で台湾東洋油墨有限公司に正式駐在となります。 台湾駐在中の宴席で『習得した技』が、後々中国本土ビジネスに活かされて来るとはその時は思いもよりませんでした。(1993年5月~1994年7月 台湾東洋油墨有限公司時代)「営業統括 Sales GM」という当時の名刺が残っています。年上ばかりの販売部隊を統括する立場です。香港時代とは一変「のんびり家族的」人の気質は最高ですが、時間にルーズな事に加えて過去の歴史的背景・生活習慣の違い等気を遣う事や戸惑う事も多い日々も何事にもポジティブに職務に励んでいました。主要スタッフが日本語を堪能に操る事等から仕事はすっかり日本語での指示出し報連相と今から思えば貴方は何様ですか?という感じでしたし、若さに任せて毎晩の宴席、飲み屋での中途半端な中国語(普通話)と無茶な酒の飲み方で飲みニケーションはマスター領域に達しましたが、今から思えばもっと謙虚な姿勢で職務に当たり、中国語を真剣に勉強しておくべきだったと反省しています。 一方宴席で『習得した技』が、後々中国本土ビジネスに活かされて来るとはその時は思いもよりませんでした。皆良く言うことを聞いてくれるし、宴会に次ぐ宴会、何か自分が偉くなったような錯覚に襲われていました。当時の上司である社長(総経理)とぶつかる事が多くなりました。売り上げ増と言う実績を残しつつも、本社は組織運営・統率の面から私を台湾から外す決定をしたのでした。 タイ駐在は、起死回生・捲土重来の思いで必死に職務に当たりました。(1994年9月~2001年3月 Toyo Ink Thailand)不本意な形で「よこよこ」で台湾からタイへ駐在となりました。此処でのポジションはMarketing GMです。台湾での反省・会社の意思決定の現実を思い知らされた私は、起死回生・捲土重来の思いで必死に職務に当たりました。初日にいきなり英語で自己紹介を幹部社員の前でさせられホワイトボードに自分の名前位しか書けなかった自分を恥じ、その日のうちに日本人会で英語の家庭教師(カナダ人)を紹介してもらい、どんなに夜遅くまで飲んで帰っても毎朝6時から1時間の個人レッスンを毎日休まず続けました。するとどうでしょう、3か月程経ったある晩なんと英語で夢を見たのです。すると信じられない事に相手が話している言葉がどんどんキャッチアップできて直ぐに文脈から意味が理解できるようになり、ボキャブラリーが増えて話す事が楽しくなってきました。駐在を終えるころには会計士や弁護士等とも可成り込み入った話ができる位のレベルに迄コミュニケーション能力が上達しました。しかし嬉しい経験ばかりではありませんでした。 97年6月末に起こった「通貨危機」です。一体何が起きたのか理解出来ないうちに会社はみるみる赤字に転落。お客様も倒産の嵐、回収不能不良債権の山、寝むれない日が続き体調不良で挙句に円形脱毛症になり地獄を見た思いでした。しかし皆と一緒に「明日は必ず良くなる」と信じて誠心誠意職務にあたり、1年半後には再び黒字会社として累損も一掃し復活したのでした。この時一人も解雇することなくボーナスは出せませんでしたが、給与も滞らせることはなく支給したことにより会社への帰属意識が高まり定着率が改善し、その時の核人材が後々この会社の主要幹部・役員となって事業を健全・強力に牽引してくれていて今でも彼らとやり取りが続いていることは私の財産です。 その後2001年3月に本社国際本部に戻り4年間を主に欧州北米・中国本土の新規事業系推進と言う役割を経て、再び海外勤務の命を受けてマレーシアに駐在となります。 マレーシアは「多様性を受け入れる社会」、マレー系、中華系、インド系と混然一体調和しお互いを尊重して生活している様子は新鮮でした。(2005年3月~2011年7月 Toyochem Specialty Chemical Sdn Bhd )Chairman & Managing Directorとして初の現地トップとしての赴任です。今で言う「多様性を受け入れる社会」マレー系、中華系、インド系と混然一体調和しお互いを尊重して生活している様子は新鮮でした。当時この会社はKL株式市場に株を上場している東南アジアグループ会社の中でも優良企業でしたが、赴任の最重要ミッションはなんと「非上場化」でした。年一回の株主総会でもそんな事は言える筈もなく、株主集団訴訟に怯えつつ最大限注意を払って密かに計画を推進しました。 此方は初期計画通りに事が進み無事ミッションコンプリートとなったのですが、矢張り忘れられない出来事は2008年の所謂「リーマンショック」です。一瞬にして不況真っただ中という状況に立たされましたが、タイでの通貨危機の経験があったおかげで落ち着いて適切に諸事対処することが出来、被害を最小限に食い止めることが出来ました。そしてタイ時代同様一人も解雇せず給与をカットすることなく、ナショナルスタッフと共に職場・生活の糧を守ったのです。この時の皆を信頼して任せて責任から逃げない姿勢が後の職務に役立つのです。 又同時期グループ会社であるベトナムの立て直し再構築、インドネシアの新規事業立ち上げにも携わり、会社経営のダイナミズムと社員に対する責任の重さを日々実感していました。 (2009年頃に当時のアブドラ・アマド・バダウィ首相に、世界初工業化用途で当時開発に成功したパームオイルの印刷インキの説明に首相府に伺った際の写真) インドネシア赴任時は「労務問題・組合問題」で嵐が吹き荒れており、膠着状態(2011年10月~2016年12月 PT Toyo Ink Indonesia 駐在時代)今回も「よこよこ」でPresident & CEOの肩書での赴任です。大きく成長を期待されている会社に十分な経験を積み意気込んで乗り込んできたつもりでしたが、何か勝手が違います。当時は「労務問題・組合問題」で嵐が吹き荒れており、全く理屈の通らないようなプロセス、論理で工場封鎖、社員監禁、業務妨害と打つ手がありませんでした。相互理解に努めようも箸にも棒にもかからない。「労使」ではなく「日本人vsインドネシア人」といったナショナリズムが先鋭的にぶつかり合う構図でした。 目前のビジネスチャンスを逸したくない機会損失を避けたいとの思いが焦りを生み、日々悩み相談する相手も何処かで繋がっていて情報漏洩しているのではないかといった様な不信感の中での職務でしたが、膠着状態の中で一筋の光が見えました。それは矢張り相手をRespectし相手の言葉で理解しようとする姿勢です。皆金持ちになりたいのではなく「今より少しだけ豊かに幸せな生活を送りたい」と願っている事を理解したのです。ですから壁を取り払い私から積極的に会話の機会を設けました。そして一緒に「より良い職場を作って行こうよ」と呼びかけました。 このきっかけは対話の中で拾った言葉「ゴトンロヨン(インドネシア語で相互互助の精神)」の実践です。たったこれだけの事で信じられない事に職場の雰囲気が一変し協力者がどんどん増殖、「わからんちん」言っていた組合幹部が同僚スタッフから窘められるという様な状況変化となりました。此処で経験し肝に落ちた事は「乗り込んできた」ではなく「軒先を借りて商売させて頂きに来た」からお互いを尊重し共に進んでいきましょうという極めて当たり前の基本に立ち返った精神・所作だったのです。 数々の思い出を後に再び本社国際本部に戻り、北中南米の関係会社事業のフォローを主なミッションとして2年間を過ごし、そしてなんと今度はインドへの赴任です。 6か国目の赴任はインドへ、コロナ過で突然のロックダウンで飢え死の恐怖を実感(2019年1月~2022年3月 Toyo Ink India 駐在時代)Chairman & CEOという役職で6か国目の赴任です。長らく海外業務に携わっていながら最も疎遠としていた国です。赴任命令が出たときは一瞬たじろぎましたが「本社以外だったら何処でも希望地」と直ぐに覚悟を決めて着任しましたが、三か月後に「どうして俺はもっと早くインドに来なかったんだろう!」と悔しい思いをする事になるとは思いもよらない事でした。何しろ将来性や市場の大きさ厚みが今迄の何処よりも桁違いにある。そんな国でトップとして働けることの幸せを感じて着任二年目で赤字会社を脱却し、黒字化に目途を付け「よっしゃー」と思っていた矢先の「コロナ禍」です。 突然のロックダウン、情報遮断、閉じ込められたアパートで2週間程過ぎた頃にみるみる食糧・飲料水が底をついて来る現実に直面し、初めて飢え死の恐怖を実感しました。しかし人間は逞しいものでこの頃になるとデリーのど真ん中にロバに引かれたリヤカーで新鮮な野菜を積んで物売りが来るようになり、却って健康的な生活を送る意識が芽生えたお陰で10kgの減量に成功入社当時と同じ体重・サイズと言った健康状態に戻る事が出来、後日産業医の先生から驚かれる事となりました。 一方仕事の方は、全てが未体験ゾーンです。会社の安全管理、社員の健康管理、事業継続の為の役所対応とリモートでの対応でもどかしく思い通りに事が進まないことも多くありましたが、矢張りここでもスタッフを信じ任せ責任は俺がとるという姿勢を貫く事で力強く復活をする事になるのです。今やグループでも Top5 に入る優良企業となっています。そして濃く熱いスタッフと共に過ごした 3年間の思い出を後に、何と2度目のマレーシア駐在を命ぜられます。 2度目のマレーシア赴任。今迄の海外での経験を通じて強く思うことは、常に『Fairness/公明正大』 な立ち振る舞いをする事の重要さ (2022年4月~ Toyochem Specialty Chemical Sdn Bhd 駐在)2度目の同じ役職での赴任です。前回は家族帯同今回はKLチョンガーです。勝手知ったるマレーシアでの2度目の駐在生活はゴルフばかりでなく、文化面でも趣味面でも新たな経験を沢山したいとわくわくしています。さて、仕事の方ですが以前からの秘書が居てくれたりドライバーさんも変わっていなかったり中堅だった幹部が MD になっていたり夫々事業責任者になっていたりと着任当日からほぼ違和感なく職務に当たることが出来ましたが、大きく変わっていたのは業績悪化で業態変化をしなければいけないという切羽詰まった状況である事です。 何故こうなってしまったのか過去10年間をあれこれ言っても詮無き事。気持ちを切り替え明日へ向かって進むだけです。それに皆から頼りにされている、安心感を持って受け入れられていると感じていますので此れに十分応えない訳にはいきません。今迄の経験、知識、思いと少しのテクニックを縦横無尽に駆使し恩返しではありませんが皆のために一働きするつもりです。 有難い事に過去苦楽を共にしたタイ、ベトナム、インドネシア、インドのメンバーも積極的に応援の手を差し伸べてくれています。相互互助、Respect、謙虚さ、其れに常にポジティブで明日はもっと良くなるさ!と信じて行動に移す事の大切さを改めて噛締めて実感し日々新たな気持ちで過ごしています。 今迄の海外での経験を通じて強く思うことは常に『Fairness/公明正大』 な立ち振る舞いをする事の重要さです。これは幾多の困難な経験辛い決断をしてきた中で芽生えてきたものです。又日本人としてアイデンティティを保ち民間外交の一翼を担っているとの自負自覚も必要かと。こちらは若気の至り、山ほどの恥の経験等を通じて一層思いを強くしています。 (阿久津晴彦さんプロフィール) 1986年3月東京国際大学商学部卒 川島ゼミ サーフィン同好会 1986年4月~1992年10月東洋インキ製造株式会社に入社 新聞社担当 1992年11月~1993年4月Toyo Ink Hong Kongトレーニー兼華南地区新聞事業 マーケティング担当 1993年5月~1994年7月台湾東洋油墨有限公司 営業統括 Sales GM 1994年9月~2001年3月Toyo Ink Thailand, Marketing GM 2001年3月~2005年3月本社国際本部 欧州北米・中国本土の新規事業系推進 2005年3月~2011年7月Toyochem Specialty Chemical Sdn Bhd, Chairman & Managing Director 2011年10月~2016年12月PT Toyo Ink Indonesia,President & CEO 2017年1月~2019年12月本社国際本部 北中南米の関係会社事業のフォロー 2019年1月~2022年3月Toyo Ink India, Chairman & CEO 2022年4月~ Toyochem Specialty Chemical Sdn Bhd, Chairman & Managing Director TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
日本と世界。その双方の中小企業のIT化を日本の技術と力で活性化させたい!
木原一夫さん(1993年卒業 商学部経営情報学科 芝野耕司ゼミ)2022年10月1日はじめに 私は,商学部経営情報学科を1993年に卒業した木原一夫と申します。通常であれば,日本とシンガポールを行き来しながら生活をしているのですが,コロナによるパンデミックのおかげで日本に3年近く,縛り付けられていました。 私は,日本とシンガポールの双方で,企業内で利用するソフトウェアの受注開発や情報技術を活用した経営コンサルタント,コンピュータソフトウェアや機器の販売,および情報システムサポートを行なっている会社を経営しております。また,SAJ公認正指導員であることから,冬は,白馬八方尾根スキー場を拠点として,毎週末,スキーインストラクターとして活動しています。 こんな私が,どのように現在に至っているのかをご紹介させていただければと思い、今回、筆を執らせていただきました。 コンピュータの魅力に取りつかれた時代から社会人へ 私自身,小学生のころからコンピュータに対する魅力に取りつかれ,英語も分からない中でプログラミングに打ち込んでいました。当時は,パソコンと呼ばれるコンピュータが台頭し始める直前であり,電卓に毛が生えた程度の性能しかないコンピュータであっても10万円(現在の価格で20万円程度)もする時代でした。 中学に入り,お年玉貯金を全額つぎ込んでコンピュータを購入し,更にプログラミング熱は加速していきました。 そして,専門的にコンピュータについて学ぶべく,情報処理施設のある千葉県立一宮商業高校に進学しました。そして,高校卒業後は,最先端技術を取り入れるべく新設した,東京国際大学商学部経営情報学科に進学し,経営情報学科の最初の卒業生となりました。 ゼミでは,現東京外語大学教授の芝野耕司先生,また,既に退任されておりますが佐藤英人先生に師事し,多くの最新IT技術を学ばせて頂きました。しかし,この経営情報学科が現在ではなくなってしまい,個人的には,少し悲しく思っています。 私が東京国際大学を卒業した1993年といえば,日本のバブル経済が崩壊したとされる1991年から1993年の真っただ中でした。 そのため,学生にとって本来は売り手市場であったIT業界の景気は一気に冷え込み,内定を頂いた中堅企業は倒産,もしくは内定取り消しとなる事態が頻発しました。実際に,私の周りの友人の半数は就職活動に翻弄されたにも関わらず,結局,就職が出来ない事態までが発生していました。 そのような時期であったにも関わらず,幸いにして,私は,中堅のシステムインテグレータである株式会社システムコンサルタントに,入社することが出来ました.とはいえ,いきなり3ヶ月の自宅待機命令には,度肝を抜かれたものです。 日本の景気が冷え込み続ける中ではありますが,次々と新しいIT技術が台頭しては消えていく,技術革新が急速に進む時代であった当時,私が従事していた業務は,新しいIT技術を用いたソフトウェア開発手法の開発や技術研究,およびお客様と共に新たなソフトウェア開発を試みることでした。 それらの新たな技術に関する情報は,当時はインターネットも発達していない時代ですから取得するには書籍を頼るしかなく,しかも,それらの書籍は,日本国内において流通していないものでしたから,海外から書籍を購入し,それらの書籍に埋もれ悪戦苦闘する日々でした。 起業し独立後の苦難 その後もバブル経済崩壊の影響は続き,また,海外のIT技術に多く触れていたことから,日本の中小企業のIT化に対する環境について,様々な疑問意識を抱くようになりました。 そして,日本の中小企業のIT化を促進することを使命として,1999年に株式会社アルテックを設立しました。しかし,私は,IT技術には精通していたものの企業経営は素人でした.そのため,当時,話題となり始めていたMBAに着目し,2000年に産能大学大学院経営情報学研究科へ入学しました。 しかし,その直後,共同経営者が殺害される事件に巻き込まれて会社が倒産してしまい,借金を抱えることとなりました。このような状況で,従業員とともに2001年に新たに株式会社リアルフューチャーズを設立し,翌年である2002年に修士(経営情報学)を取得しました。 その後,事業拡大,および東南アジアのIT化の促進を命題にし,2007年にシンガポール法人であるReal Futures Pte. Ltd.を設立しました。しかし、この設立と同時に我々を襲ったリーマンショックの煽りを受け,いきなり苦境に立たされました。 ソフトウェア開発案件が激減し,更にシステム開発単価は急落したことで,会社経営が危ぶまれる中,日本よりもいち早く景気が立ち上がったシンガポールでの事業展開により,多くの企業が倒産するさなか,様々な方からの支援も頂き,今日まで事業を継続することができています。 (シンガポール高層ビル) (弊社社員と浅草にて) シンガポールにおける事業展開 シンガポールにおけるビジネスモデルは,シンガポールで展開する外資系企業,ローカル企業の双方に対して日本品質の情報システムの提供を行なうことでした。 よって,シンガポール法人は,もちろん,様々なユーザサポートも行いますが,原則として純粋な営業部隊として位置づけ,全てのシステム開発を日本国内で行うこととしました。今では、1シンガポールドルが100円程度となっていますが,私がシンガポールへ進出した当時は,1シンガポールドルが68円の時代でした。 そのため,通常の日本国内におけるIT企業は,安価な人件費である東南アジアへシステム開発を委託するオフショア開発が主流でしたが,私たちは,その逆となる「逆オフショア」を実践しようとしたわけですから,私の周りの社長達からは批判の声が多く寄せられたことを覚えています。 しかし,ベンチャー企業として,不可能を可能にしてこそベンチャーであり,この不可能と思われる事業形態を可能とするためのビジネスモデルを開発し,実際に,シンガポールに乗り込んだわけです。 そもそも,中小企業のIT化を促進するために,日本におけるソフトウェア開発の標準工数の半分で,同等のソフトウェアを開発することを可能とするソリューションの開発を行なっていた訳ですから,物価水準の低い東南アジアでも勝負できた訳です。 研究者への転身 コロナウィルスが日本国内で猛威を振るう前の2017年に東京都立大学システムデザイン研究科において、博士の学位を取得すべく,博士課程後期に入学しました。 システムソフトウェア開発の現場では,未だにソフトウェアの品質担保に苦慮し,また,ソフトウェアを発注するユーザは,そのソフトウェアのテストに多大な労力とコストを要している現状があります。 このような現状において,今まで主流であった品質,コスト,期間であるQCDにかかわる情報からの品質予測ではなく,ソフトウェア開発にかかわる人たちの感性に関するデータからのソフトウェアの品質予測に関する研究を完成させるために,博士課程後期に入学したわけです。 そもそも、ソフトウェア開発プロジェクトに関する情報収集は,各ユーザやSIerのコンプライアンスの観点から非常に困難な状況でした.その中で,少ない情報であっても精度高くソフトウェア品質を予測するAIエンジンを開発することができ,2022年に5年の歳月をかけて無事に博士(工学)の学位を取得しました。 そして,現在は,東京都立大学学都市環境学部において非常勤講師を行ない,更には,RFsC情報科学研究所を設立し,情報システム品質予測に関する研究,および少量データによるAIエンジンの開発と研究を行なっています。 (博士後期課程の学位記授与式にて) (都市環境学部において非常勤講師) 結び 東京国際大学を卒業し,既に30年という月日が流れています.多くの諸先輩方が世界を舞台に活躍されている背中を追い続けてここまで来ました。 いつかは追い抜く!そんな気持ちでありますが,諸先輩方も私のような若輩者に追いつかれるどころか、更に加速して前を走り続けており,私自身も,後輩たちにそのような姿を見せられるように,日々、前に向かって走り続けております。 日本と東南アジアのIT化の促進のために、私たちが持つIT技術を駆使して,お客様が利用される企業システムの構築,サポート,コンサルテーションを尽力していきたく考えています。 (木原一夫さんプロフィール)(経歴) (1970年)千葉県茂原市出身 (1989年)千葉県立一宮商業高等学校 卒業 (1993年)東京国際大学 商学部 経営情報学科(芝野耕司ゼミ) 卒業 (1993年)株式会社システムコンサルタント 入社 (1999年)株式会社システムコンサルタント 退職 (1999年)株式会社アルテック 設立 (2001年)株式会社リアルフューチャーズ 設立 (2007年)Real Futures Pte. Ltd. 設立 (2002年)産能大学大学院 経営情報学研究科 修士(経営情報学) 修了 (2022年)東京都立大学大学院 システムデザイン研究科 博士(工学)修了 (2022年)RFsC情報科学研究所 設立 (2022年)東京都立大学都市環境学部 非常勤講師 株式会社リアルフューチャーズ/Real Futures Pte. Ltd.ホームページ http://www.rfsc.co.jp/ http://www.rfsc.com.sg/ (著書・業績) ソフトウェア開発プロジェクトにおけるシステムエンジニアの不安とソフトウェア品質に関する研究, 博士論文, 東京都立大学大学院, 2022 SEが持つ感覚的評価から非障害案件の程度を各ソフト設計工程で確率的に予測する試み[DOI: 10.5057/jjske.TJSKE-D-21-00001], 日本感性工学会論文誌, Vol. 20, No. 3, pp. 301-309, 2021 ラフ集合分析によるSEが持つ感覚的評価からの非障害案件予測[DOI: 10.5057/jjske.TJSKE-D-20-00043] 日本感性工学会論文誌, Vol. 19, No. 4, pp. 395-403, 2020 SEが持つソフトウェア設計書に対する不安要因と非障害案件の関係性分析, 日本設備管理学会誌, Vol. 32, No. 1, pp. 1-7, 2020 Research of computer system quality transition process based on quality sense values by system engineers, The Asia Pacific Industrial Engineering & Management Systems Conference 2018, 2018 標準化デジタルドキュメントにおける情報認識および情報活用の研究, 修士論文, 産能大学大学院, 2002 (学会会員) 情報処理学会正会員 日本経営工学会正会員 日本感性工学会正会員 (学位) 東京国際大学 学士(経営情報学) 産能大学大学院 修士(経営情報学) 東京都立大学大学院 博士(工学) TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
木原一夫さん(1993年卒業 商学部経営情報学科 芝野耕司ゼミ)2022年10月1日はじめに 私は,商学部経営情報学科を1993年に卒業した木原一夫と申します。通常であれば,日本とシンガポールを行き来しながら生活をしているのですが,コロナによるパンデミックのおかげで日本に3年近く,縛り付けられていました。 私は,日本とシンガポールの双方で,企業内で利用するソフトウェアの受注開発や情報技術を活用した経営コンサルタント,コンピュータソフトウェアや機器の販売,および情報システムサポートを行なっている会社を経営しております。また,SAJ公認正指導員であることから,冬は,白馬八方尾根スキー場を拠点として,毎週末,スキーインストラクターとして活動しています。 こんな私が,どのように現在に至っているのかをご紹介させていただければと思い、今回、筆を執らせていただきました。 コンピュータの魅力に取りつかれた時代から社会人へ 私自身,小学生のころからコンピュータに対する魅力に取りつかれ,英語も分からない中でプログラミングに打ち込んでいました。当時は,パソコンと呼ばれるコンピュータが台頭し始める直前であり,電卓に毛が生えた程度の性能しかないコンピュータであっても10万円(現在の価格で20万円程度)もする時代でした。 中学に入り,お年玉貯金を全額つぎ込んでコンピュータを購入し,更にプログラミング熱は加速していきました。 そして,専門的にコンピュータについて学ぶべく,情報処理施設のある千葉県立一宮商業高校に進学しました。そして,高校卒業後は,最先端技術を取り入れるべく新設した,東京国際大学商学部経営情報学科に進学し,経営情報学科の最初の卒業生となりました。 ゼミでは,現東京外語大学教授の芝野耕司先生,また,既に退任されておりますが佐藤英人先生に師事し,多くの最新IT技術を学ばせて頂きました。しかし,この経営情報学科が現在ではなくなってしまい,個人的には,少し悲しく思っています。 私が東京国際大学を卒業した1993年といえば,日本のバブル経済が崩壊したとされる1991年から1993年の真っただ中でした。 そのため,学生にとって本来は売り手市場であったIT業界の景気は一気に冷え込み,内定を頂いた中堅企業は倒産,もしくは内定取り消しとなる事態が頻発しました。実際に,私の周りの友人の半数は就職活動に翻弄されたにも関わらず,結局,就職が出来ない事態までが発生していました。 そのような時期であったにも関わらず,幸いにして,私は,中堅のシステムインテグレータである株式会社システムコンサルタントに,入社することが出来ました.とはいえ,いきなり3ヶ月の自宅待機命令には,度肝を抜かれたものです。 日本の景気が冷え込み続ける中ではありますが,次々と新しいIT技術が台頭しては消えていく,技術革新が急速に進む時代であった当時,私が従事していた業務は,新しいIT技術を用いたソフトウェア開発手法の開発や技術研究,およびお客様と共に新たなソフトウェア開発を試みることでした。 それらの新たな技術に関する情報は,当時はインターネットも発達していない時代ですから取得するには書籍を頼るしかなく,しかも,それらの書籍は,日本国内において流通していないものでしたから,海外から書籍を購入し,それらの書籍に埋もれ悪戦苦闘する日々でした。 起業し独立後の苦難 その後もバブル経済崩壊の影響は続き,また,海外のIT技術に多く触れていたことから,日本の中小企業のIT化に対する環境について,様々な疑問意識を抱くようになりました。 そして,日本の中小企業のIT化を促進することを使命として,1999年に株式会社アルテックを設立しました。しかし,私は,IT技術には精通していたものの企業経営は素人でした.そのため,当時,話題となり始めていたMBAに着目し,2000年に産能大学大学院経営情報学研究科へ入学しました。 しかし,その直後,共同経営者が殺害される事件に巻き込まれて会社が倒産してしまい,借金を抱えることとなりました。このような状況で,従業員とともに2001年に新たに株式会社リアルフューチャーズを設立し,翌年である2002年に修士(経営情報学)を取得しました。 その後,事業拡大,および東南アジアのIT化の促進を命題にし,2007年にシンガポール法人であるReal Futures Pte. Ltd.を設立しました。しかし、この設立と同時に我々を襲ったリーマンショックの煽りを受け,いきなり苦境に立たされました。 ソフトウェア開発案件が激減し,更にシステム開発単価は急落したことで,会社経営が危ぶまれる中,日本よりもいち早く景気が立ち上がったシンガポールでの事業展開により,多くの企業が倒産するさなか,様々な方からの支援も頂き,今日まで事業を継続することができています。 (シンガポール高層ビル) (弊社社員と浅草にて) シンガポールにおける事業展開 シンガポールにおけるビジネスモデルは,シンガポールで展開する外資系企業,ローカル企業の双方に対して日本品質の情報システムの提供を行なうことでした。 よって,シンガポール法人は,もちろん,様々なユーザサポートも行いますが,原則として純粋な営業部隊として位置づけ,全てのシステム開発を日本国内で行うこととしました。今では、1シンガポールドルが100円程度となっていますが,私がシンガポールへ進出した当時は,1シンガポールドルが68円の時代でした。 そのため,通常の日本国内におけるIT企業は,安価な人件費である東南アジアへシステム開発を委託するオフショア開発が主流でしたが,私たちは,その逆となる「逆オフショア」を実践しようとしたわけですから,私の周りの社長達からは批判の声が多く寄せられたことを覚えています。 しかし,ベンチャー企業として,不可能を可能にしてこそベンチャーであり,この不可能と思われる事業形態を可能とするためのビジネスモデルを開発し,実際に,シンガポールに乗り込んだわけです。 そもそも,中小企業のIT化を促進するために,日本におけるソフトウェア開発の標準工数の半分で,同等のソフトウェアを開発することを可能とするソリューションの開発を行なっていた訳ですから,物価水準の低い東南アジアでも勝負できた訳です。 研究者への転身 コロナウィルスが日本国内で猛威を振るう前の2017年に東京都立大学システムデザイン研究科において、博士の学位を取得すべく,博士課程後期に入学しました。 システムソフトウェア開発の現場では,未だにソフトウェアの品質担保に苦慮し,また,ソフトウェアを発注するユーザは,そのソフトウェアのテストに多大な労力とコストを要している現状があります。 このような現状において,今まで主流であった品質,コスト,期間であるQCDにかかわる情報からの品質予測ではなく,ソフトウェア開発にかかわる人たちの感性に関するデータからのソフトウェアの品質予測に関する研究を完成させるために,博士課程後期に入学したわけです。 そもそも、ソフトウェア開発プロジェクトに関する情報収集は,各ユーザやSIerのコンプライアンスの観点から非常に困難な状況でした.その中で,少ない情報であっても精度高くソフトウェア品質を予測するAIエンジンを開発することができ,2022年に5年の歳月をかけて無事に博士(工学)の学位を取得しました。 そして,現在は,東京都立大学学都市環境学部において非常勤講師を行ない,更には,RFsC情報科学研究所を設立し,情報システム品質予測に関する研究,および少量データによるAIエンジンの開発と研究を行なっています。 (博士後期課程の学位記授与式にて) (都市環境学部において非常勤講師) 結び 東京国際大学を卒業し,既に30年という月日が流れています.多くの諸先輩方が世界を舞台に活躍されている背中を追い続けてここまで来ました。 いつかは追い抜く!そんな気持ちでありますが,諸先輩方も私のような若輩者に追いつかれるどころか、更に加速して前を走り続けており,私自身も,後輩たちにそのような姿を見せられるように,日々、前に向かって走り続けております。 日本と東南アジアのIT化の促進のために、私たちが持つIT技術を駆使して,お客様が利用される企業システムの構築,サポート,コンサルテーションを尽力していきたく考えています。 (木原一夫さんプロフィール)(経歴) (1970年)千葉県茂原市出身 (1989年)千葉県立一宮商業高等学校 卒業 (1993年)東京国際大学 商学部 経営情報学科(芝野耕司ゼミ) 卒業 (1993年)株式会社システムコンサルタント 入社 (1999年)株式会社システムコンサルタント 退職 (1999年)株式会社アルテック 設立 (2001年)株式会社リアルフューチャーズ 設立 (2007年)Real Futures Pte. Ltd. 設立 (2002年)産能大学大学院 経営情報学研究科 修士(経営情報学) 修了 (2022年)東京都立大学大学院 システムデザイン研究科 博士(工学)修了 (2022年)RFsC情報科学研究所 設立 (2022年)東京都立大学都市環境学部 非常勤講師 株式会社リアルフューチャーズ/Real Futures Pte. Ltd.ホームページ http://www.rfsc.co.jp/ http://www.rfsc.com.sg/ (著書・業績) ソフトウェア開発プロジェクトにおけるシステムエンジニアの不安とソフトウェア品質に関する研究, 博士論文, 東京都立大学大学院, 2022 SEが持つ感覚的評価から非障害案件の程度を各ソフト設計工程で確率的に予測する試み[DOI: 10.5057/jjske.TJSKE-D-21-00001], 日本感性工学会論文誌, Vol. 20, No. 3, pp. 301-309, 2021 ラフ集合分析によるSEが持つ感覚的評価からの非障害案件予測[DOI: 10.5057/jjske.TJSKE-D-20-00043] 日本感性工学会論文誌, Vol. 19, No. 4, pp. 395-403, 2020 SEが持つソフトウェア設計書に対する不安要因と非障害案件の関係性分析, 日本設備管理学会誌, Vol. 32, No. 1, pp. 1-7, 2020 Research of computer system quality transition process based on quality sense values by system engineers, The Asia Pacific Industrial Engineering & Management Systems Conference 2018, 2018 標準化デジタルドキュメントにおける情報認識および情報活用の研究, 修士論文, 産能大学大学院, 2002 (学会会員) 情報処理学会正会員 日本経営工学会正会員 日本感性工学会正会員 (学位) 東京国際大学 学士(経営情報学) 産能大学大学院 修士(経営情報学) 東京都立大学大学院 博士(工学) TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
「人生という旅に出て60年。……ファティマという名前をもらったサハラ砂漠で現地の民と暮らした経験が私の転機だったと想う」
空羽(くう)ファティマ(関口恵子)さん(1986年卒業 国際関係学部 テニス部)2022年8月1日はじめまして。絵本作家の空羽(くう)ファティマ(関口恵子)と申します。群馬県前橋在住です。2022年現在15作出版している自作の絵本〈主に大人の為の朗読CD付き絵本【愛と命と希望がテーマのキャメルン シリーズ】〉などの作者で、その世界観を立体的に表現しようと、物語に寄り添うオリジナルの音楽と,切り絵の映像と、ダンスをつけて、学校や舞台などで、その“朗読コンサート”を,医療者,教育者のメンバーと共に〈命の大切さと日々の尊さ〉を伝える活動(震災支援活動や、子育て支援、イジメ予防など)を14年間続けております。 私は当時の「国際商科大学(現東京国際大学)」を卒業後、世界35ヵ国を海外版寅さんの如く飛び回り、サハラ砂漠で現地の民と電気も水道もトイレもない生活をした際に付けてもらった「ファティマ」と言うニックネームを、その時学んだ“生きていく上で大切なこと」を忘れないようにと今もペンネームとして使っております。41歳で初めての出産後、自分の命より大事な存在に出会えたことで命の輝きを散りばめた【キャメルン シリーズ】というラクダを主人公にした物語を書いたのは、砂漠でラクダの価値を実感したことと、人間ではないキャラクターを使った方が“人生における深いメッセージ”も、ストレートに真っ直ぐに心に伝わると考えました。 アメリカ留学が目的で、東京国際大学に入学さてさて。在学中は国際商科大学という名称で、オレゴンに編入できる制度を使いたくて国際関係学科に入ったのですが、厳しい体育会のテニス部に入り、76人だった新入部員が14人に減り、後輩もできたことでクラブを続け女子部主将なぞをやり、結局留学は卒業後にしました。 1年間朝から夜中まで必死にバイトして溜めたお金で,オレゴン州のサザンオレゴンステイトカレッジ大学附属の英語学校。フロリダは職業訓練所学校に通い、日本で生花をやっていた私はフラワーアレンジを学びました。オレゴンは大学内の池にワニがいた寮の暮らしをして、フロリダは何箇所もホームステイを経験し アメリカ家庭の中に入ったことで、生のアメリカの暮らしを肌で体験。虐待ママから子供を守りながら暮らした家。鳥が放し飼いになっていてご飯の時はフンを避けながら食べたおばあちゃんの一人暮らしの家。貧しいながらも毎晩のテーブルセッティングがとても素敵なカップルの温かな家。などなどいろんな家庭を体験。 中でも面白かったのはある子供の絵を見た私はその色彩の豊かさと自由さに感動して「どういう育て方をしたらこんな絵が描けるようになるの?」と聞くと、「サンフラワースクール」という私立の自由な小学校に行ってるというので,見学させてもらうと子供たちはその日に受けたい授業を自分で選び、寝転びながら授業を受けたりしてるのに、日本みたいに受け身ではなく政治的なことも性教育もオープンに小さい子がバンバン発言していて,驚いたのでした。 本当に楽しい自由な学校で、ワニのいる川?湖?に日本ではありえないくらいに先生も生徒と一緒に泥だらけになりながらのピクニックに行ったりするとにかくスゴい、ワイルドな自由な学校だった。 それで,楽しくなりここで学びたいと思った私は「生徒としてぜひ通わせてほしい」と校長に頼むと,「大人は無理」と初めは言われたが、子供たちにあやとりや、折り紙を教えて「こんなふうに日本文化も生徒たちに伝えるからお願いします!」と再度頼むと、私に懐いた子どもたちも先生にお願いしてくれて,晴れて小学生になれたのでした。めでたしめでたし!♡╰(*´︶`*)╯♡ しかも,一度納得した後は、その校長先生はなんと授業料も無料にしてくださり、自分の家にタダで住んで良いと言ってくれたのだった!ひゃあ!びっくり、なんてありがたし!校長先生の夫はセントピーターズバーグの新聞社の社長さんで、リッチなお家での暮らしが始まったのでした。庭にはアライグマが来てて可愛かったが,サンドフリーという砂浜にいるノミに食われて物凄く,痒い日々で(>__ [...] Read more...
空羽(くう)ファティマ(関口恵子)さん(1986年卒業 国際関係学部 テニス部)2022年8月1日はじめまして。絵本作家の空羽(くう)ファティマ(関口恵子)と申します。群馬県前橋在住です。2022年現在15作出版している自作の絵本〈主に大人の為の朗読CD付き絵本【愛と命と希望がテーマのキャメルン シリーズ】〉などの作者で、その世界観を立体的に表現しようと、物語に寄り添うオリジナルの音楽と,切り絵の映像と、ダンスをつけて、学校や舞台などで、その“朗読コンサート”を,医療者,教育者のメンバーと共に〈命の大切さと日々の尊さ〉を伝える活動(震災支援活動や、子育て支援、イジメ予防など)を14年間続けております。 私は当時の「国際商科大学(現東京国際大学)」を卒業後、世界35ヵ国を海外版寅さんの如く飛び回り、サハラ砂漠で現地の民と電気も水道もトイレもない生活をした際に付けてもらった「ファティマ」と言うニックネームを、その時学んだ“生きていく上で大切なこと」を忘れないようにと今もペンネームとして使っております。41歳で初めての出産後、自分の命より大事な存在に出会えたことで命の輝きを散りばめた【キャメルン シリーズ】というラクダを主人公にした物語を書いたのは、砂漠でラクダの価値を実感したことと、人間ではないキャラクターを使った方が“人生における深いメッセージ”も、ストレートに真っ直ぐに心に伝わると考えました。 アメリカ留学が目的で、東京国際大学に入学さてさて。在学中は国際商科大学という名称で、オレゴンに編入できる制度を使いたくて国際関係学科に入ったのですが、厳しい体育会のテニス部に入り、76人だった新入部員が14人に減り、後輩もできたことでクラブを続け女子部主将なぞをやり、結局留学は卒業後にしました。 1年間朝から夜中まで必死にバイトして溜めたお金で,オレゴン州のサザンオレゴンステイトカレッジ大学附属の英語学校。フロリダは職業訓練所学校に通い、日本で生花をやっていた私はフラワーアレンジを学びました。オレゴンは大学内の池にワニがいた寮の暮らしをして、フロリダは何箇所もホームステイを経験し アメリカ家庭の中に入ったことで、生のアメリカの暮らしを肌で体験。虐待ママから子供を守りながら暮らした家。鳥が放し飼いになっていてご飯の時はフンを避けながら食べたおばあちゃんの一人暮らしの家。貧しいながらも毎晩のテーブルセッティングがとても素敵なカップルの温かな家。などなどいろんな家庭を体験。 中でも面白かったのはある子供の絵を見た私はその色彩の豊かさと自由さに感動して「どういう育て方をしたらこんな絵が描けるようになるの?」と聞くと、「サンフラワースクール」という私立の自由な小学校に行ってるというので,見学させてもらうと子供たちはその日に受けたい授業を自分で選び、寝転びながら授業を受けたりしてるのに、日本みたいに受け身ではなく政治的なことも性教育もオープンに小さい子がバンバン発言していて,驚いたのでした。 本当に楽しい自由な学校で、ワニのいる川?湖?に日本ではありえないくらいに先生も生徒と一緒に泥だらけになりながらのピクニックに行ったりするとにかくスゴい、ワイルドな自由な学校だった。 それで,楽しくなりここで学びたいと思った私は「生徒としてぜひ通わせてほしい」と校長に頼むと,「大人は無理」と初めは言われたが、子供たちにあやとりや、折り紙を教えて「こんなふうに日本文化も生徒たちに伝えるからお願いします!」と再度頼むと、私に懐いた子どもたちも先生にお願いしてくれて,晴れて小学生になれたのでした。めでたしめでたし!♡╰(*´︶`*)╯♡ しかも,一度納得した後は、その校長先生はなんと授業料も無料にしてくださり、自分の家にタダで住んで良いと言ってくれたのだった!ひゃあ!びっくり、なんてありがたし!校長先生の夫はセントピーターズバーグの新聞社の社長さんで、リッチなお家での暮らしが始まったのでした。庭にはアライグマが来てて可愛かったが,サンドフリーという砂浜にいるノミに食われて物凄く,痒い日々で(>__ [...] Read more...
シンガポールと日本、フランスの将来の架け橋となり、それぞれの文化やビジネス関係に貢献します。
Rahul Guptaさん (2020年卒業 国際関係学部、2018年Sciences Po France 交換留学生)2022年7月1日Mr. Rahul Gupta‘s Professional Career: (Rahul Gupta さんプロフィール) 2017 April: Transferred into E Track Program, Tokyo International University 2018 January : On exchange at Sciences Po France 2019 April: Continue at TIU and Starts Internship at Japanese Trading Company in Mie 2020 March: Graduates from TIU (International Relations Department) At present : Talent Sourcer, Unity Technologies in Singapore. ( https://unity.com/ ) Please do connect with me on my LinkedIn. I would be happy to answer all your questions, especially current TIU students who want to work for global companies and what it takes. Rahul Gupta|LinkedIn 2017年4月 東京国際大学Eトラックプログラム(英語コース)に編入 2018年1月 フランスSciences Poにて交換留学 2019年4月 東京国際大学に在学中、三重の日系商社でインターンシップを開始 2020年3月 東京国際大学国際関係学部卒業 現在 Unity Technologies(シンガポール), タレントソーサー (Unityホームページ: https://unity.com/) 私のLinkedInにコネクトしてください。特にグローバル企業で働きたいTIU在校生、何が必要なのか、あらゆる質問にお答えしたいと思います。 Rahul Gupta|LinkedIn TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
Rahul Guptaさん (2020年卒業 国際関係学部、2018年Sciences Po France 交換留学生)2022年7月1日Mr. Rahul Gupta‘s Professional Career: (Rahul Gupta さんプロフィール) 2017 April: Transferred into E Track Program, Tokyo International University 2018 January : On exchange at Sciences Po France 2019 April: Continue at TIU and Starts Internship at Japanese Trading Company in Mie 2020 March: Graduates from TIU (International Relations Department) At present : Talent Sourcer, Unity Technologies in Singapore. ( https://unity.com/ ) Please do connect with me on my LinkedIn. I would be happy to answer all your questions, especially current TIU students who want to work for global companies and what it takes. Rahul Gupta|LinkedIn 2017年4月 東京国際大学Eトラックプログラム(英語コース)に編入 2018年1月 フランスSciences Poにて交換留学 2019年4月 東京国際大学に在学中、三重の日系商社でインターンシップを開始 2020年3月 東京国際大学国際関係学部卒業 現在 Unity Technologies(シンガポール), タレントソーサー (Unityホームページ: https://unity.com/) 私のLinkedInにコネクトしてください。特にグローバル企業で働きたいTIU在校生、何が必要なのか、あらゆる質問にお答えしたいと思います。 Rahul Gupta|LinkedIn TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
激浪の人生 ‐ 人生は変えていける
勝木弘幸(旧姓田中)さん (1969年卒業 商学部/1期 平ゼミ 躰道部)2022年5月12日勝木弘幸〔旧姓田中〕さんは、国際商科大学(現・東京国際大学)開校時の商学部1期生です。卒業後は、大昭和製紙、キヤノンマーケティングで活躍され、その後レッズジャパン(後にコスタトレーディング)などを経営されています。2016年にはご自身の70歳を期に、これまでの人生を振り返り、冊子『激浪の人生‐人生は変えていける』に書き纏められました。「死ぬまでビジネスで挑戦し続けて社会貢献に尽くしたい」と、その波乱万丈の人生のお話を聞かせて頂きました。 「苦節と逆転の人生だが、大学時代に勉学に励み、躰道部では体と精神を鍛えたことが、今も元気で頑張れる秘訣です。これからも常に少年のような純粋な気持ちで「挑」み「戦」い続けたい と述べられていました。 大学、会社員時代から独立まで 大学時代は苦学生で、勉学と躰道に勤しむ 国際商科大学(現・東京国際大学))を選んだのは、兄が一橋予備校の金子泰藏さん(大学創設者・学長)を知っていて、(国際商科大学を)うけたらどうだ?」と紹介されたのです。はじめは「霞が関にある」と聞いて「あれ、一等地にあるんだ!」って思っていたら、行ってみるととんでもない田舎でした。1965年当時は大学設立時で荒れた土地ばかりで凄かったんですよ。 中学2年の時に地元大分を襲った大洪水で砂鉄採集の施設・機械がすべて流失し、親父の事業は壊滅、一転して貧乏生活に陥りました。これが「人生の転機」の一回目です。大学時代は姉から毎月1万円の仕送り、月3千円の奨学金とアルバイトで稼いだお金で、学費から下宿代、飲食から部活費用などすべてを賄っていた苦学生でした。この時姉から受けた恩義は将来自分が「社会貢献」することによって返していこうと決意しました。 大学では躰道部を創設しました。創設メンバー7名のうちの一人です。当時まだ40代だった躰道の創設者・祝嶺正献先生が直接指導に来てくださって、その薫陶を受けました。「躰道の理念は、最終的には社会貢献だ」と仰っていて、その言葉が今も私の中に生きています。 躰道の稽古はきつく、部員は普通あんまり勉強しないのですけど(笑)、私は全部授業に出ていましたよ。ゼミは経営学でしたが、就職先を決めることになり、指導教官の西山先生から「同級生が大昭和製紙の専務をしているから受けてみなさい」と推薦され、大昭和製紙に就職することになりました。 (大学躰道部時代の合宿にて) (躰道の創設者・祝嶺正献先生と) 紙の売り上げを年商100億円にまで拡大 大昭和製紙は1969年の入社当時、資本金56億円の大会社で、オーナー経営者の下で急成長を遂げている会社でした。私も出版社ほか紙業界に顧客・知己を広げた時代でした。1977年当時は既にバブル状態で、毎晩銀座で2-3軒飲みに行ってました。 1980年、脱カメラとして複写機を中心とするオフィス機器の販売に活路を求めていたキヤノンから大昭和に「紙の専門家」を提供してほしいとの要請があり、どういう訳か私に白羽の矢が立ったんです。 当時のキヤノン販売の滝川精一社長の最終面接を受けて、私の採用が決まりました。私が34歳の時でした。ここでマーケティング・企画部門に在籍して、紙の売り上げをバンバン増やしました。当時のキヤノン販売は面白い会社で、意思決定を下に任せるところがありました。 素早く意思決定ができるので、業績がグングン伸びていったんです。私も思い切り仕事をしました。その結果、入社当時1980年、年商3千万円程度の売り上げだったコピー紙の商売を役職定年直前の2001年には年商100億円にまでに伸ばすことができました。 業績を伸ばせた理由としては、1)再生紙など時代の動向・ニーズをタイムリーに捉えた商品投入、2)全国に紙の専任販売担当者を配置、3)紙メーカーとの協調体制、4)紙メーカーの代理店網を利用したVAN直納システムの構築、などがあげられます。そして55歳で役職定年となり、営業の第一線から退くことになったので、独立を考え始めました。 独立後するも赤字体質、そしてあの 3・11 が襲ってきました 2003年、大昭和時代からの取引先・レッツジャパンの増田社長から「自分は歳だし仕事を引き継いでくれないか?」と声を掛けられ、会社を引き継ぐことにしました。これが現在のコスタトレーディングの始まりなんです。 会社は家庭用紙の問屋で、私が引き継いだころは月商300万程度の赤字会社でした。社員 1~2人の日本橋の零細企業もいいところでした。コピー用紙を中心に2011年3月までには、月商3000万円にまで売り上げを伸ばしました。でも紙の商売は粗利が薄く、月商3000万円でも赤字体質で、キヤノンの退職金を切り崩して経営していました。そこに、あの 3・11 が襲ってきたのです。 極限の三重苦、そして奇跡の逆転劇 売り上げゼロになるんですよ。給料も払えない つらくて厳しい時期はその前から始まっていました。2010年9月に、一年半に及ぶ闘病の末、最愛の妻が亡くなりました。妻の発病・入院から3~4年が、金銭的にも心身の面でも、人生で最もつらい日々でした。 2011年に3月11日の東日本大地震により、コピー用紙の仕入れ先である三菱製紙八戸工場が壊滅し、コスタトレーディング(当時この名前に商号変更していました)は売上ゼロになるんですよ。従業員と顧問にも給料も払えないので、何名かリストラせざるを得なくなりました。2012年まで売り上げゼロで、やくざみたいな借金取りも来ました。商品(紙)の仕入れで借金もあり、赤字経営の累損で6千万円ぐらいの借金になっていました。相手は高田馬場にある会社で、そこから紙を仕入れてたのです。その会社の社長が「どうするんだ!」「今月いくら払えるか?」って、毎月私を呼びつけて、報告させ。催促するんですよ。 もう心身ともボロボロでした。 ちょうどそのころ、元キヤノン販売の技術本部長だった金野信次さんから偶然電話があったのです。彼とはお互いキヤノンを辞めてからずっと音信不通だったんです。近況を聞いてみると「船に乗って居る」というのです。東神奈川の彼の船に行ったら、バイオ事業の会社をやっていて、海の浄化作業を行う船を所有しており、その船に事務所を構えていたのです。 そのころ私は地獄の借金取り立て攻撃を受け、心身はボロボロ。「もう会社を畳もうかな、いまの事務所の家賃も払えないし」と状況を話したら、彼が「じゃ、この船広いし、ウチに来れば?」ということで船にオフィスを置かせてもらうことにしたのです。 そうそう、高須義男顧問はキヤノン本体の開発部門に居た人で、キヤノンのコピー機用のトナーをゼロから創り上げた人なんです。キャノンを定年退職後、縁あってコスタトレーディングに入って頂き、以来苦節を共にした盟友で、その知識と経験を生かして、商品開発・技術開発を受け持ってもらっています。フイルム開発も高須さんが手がけたものなんです。 競争相手は世界的化学メーカーでしたが、我々が勝ったのです 船上オフィスの頃、高須さんと2人で色んな企業から開発案件を請け負い、追っかけていました。その中の1社が、柴野恒夫社長のATT株式会社です。2012年3月に柴野社長から、かねてからワーク中だった韓国の世界的電子メーカー向けにスマホ液晶画面用フイルムの商談が成立し、受注が決定したとの電話を受けました。 我々の開発したポレウレタン・フイルムがマッチしたのです。R(アール:弧)を描いた画面を持つスマホに柔らかくてぴったりだったのです。競争相手は世界的化学メーカーでしたが、我々が勝ったのです。 船のオーナーの関係者などに融資をお願いし、300万円の融資からスタートした液晶画面用フィルムに事業は、韓国メーカーのスマホビジネスの伸長とともに拡大を続け、今や韓国メーカーのみならず、中国・台湾のメーカーへの輸出ビジネスが倍々ゲームで増進中で、すべてのタッチパネルユーザーやメーカーに売込中です。このフイルム・ビジネスはATTと共同で展開しています。おかげで、東京信用金庫から優良企業として表彰されたりもしました。 (社員旅行、ハワイにて) 今、これからの挑戦。 一番大切なことは「信用」だと言い切れますね 逆転のきっかけは、「人との縁」が運命を変える大きな働きをしてきたのだなぁという気はしますね。でも、私は、ビジネスマン・人間として一番大切なことは「信用」だと言い切ることが出来ますね。「約束を守る」「言ったことを守る」こと。単純なんだけど、これを一度でも破ると、もう相手は信用してくれませんね。信用のない人に誰もお金を貸してくれませんよ。 白鵬関に「地獄の苦しみを知った人」にしか備わらない人間性に共感を覚えました白鵬関とは元横綱・輪島さんに紹介されて、初めて会ったのは関取が関脇の時でした。会った途端、その人の人格・人柄の良さ・やさしさ・育ちの良さに魅了されました。「地獄の苦しみを知った人」にしか備わらない人間性に共感を覚えたのです。 事実、関取は来日した時、62キロしか体重がなく、「これじゃすぐ辞めるだろう」とみんなに思われていたらしいのです。それを地獄の思いで稽古し、死ぬほど食べることにより、努力に努力を重ねて、今の身体と横綱の地位を獲得し、それを維持し、さらに上を極めようとしているのです。 白鵬関とは、ご家族ぐるみでお付き合いをさせて頂いており、モンゴル・ウランバートルのログハウス(大分県の日田杉造り)建設に協力したり、白鵬関へ刀匠・松田次泰先生作の太刀を贈呈するなど、今の私にできる範囲の応援をさせてもらっています。 ビジネス上では2016年に銀座にちゃんこ屋「鵬」を共同で開店しました。ゆくゆくは白鵬関と一緒に、モンゴルで大きな事業をやりたいですね。 (太刀を前に白鵬関とプロゴルファー片山晋呉氏と) (輪島関と台湾旅行での一枚) (2014年5月場所優勝パレードで白鵬関とオープンカーに) (白鵬関の優勝記念祝賀会にて) 常に少年のように純粋な気持ちで前を向いていくしかない あまりカッコイイ言葉では言えませんけど、敢えて座右の銘というなら「Do your Best !」ですね。「あきらめない。やるしかない。やり通す」ことです。人間、ベストを尽くすしかないですよ。それには、努力・忍耐力が必要です。己で解決しなければ他人は助けてくれませんからね。 また、ビジネスとは「挑戦」でしょうね。私は若いころから起業の意識が強かったですね。「生涯挑戦続ける!」ですね。死ぬまで挑戦しかないですね。だから、「ゆっくりしてどこか旅行でも」なんて気は全くないですね(笑)、ほんとに。常に少年のような純粋な気持ちで前を向いていくしかない。ビジネスは挑戦する、死ぬまで辞めない。まだもうちょっとやれるでしょう。 会社のモットーとして「エコロジーを尊重したエコノミー(eco-mmunity)づくりを掲げていますが、レッズジャパンを引き継いだころからの社提です。先にお話ししましたように、学生時代に姉の仕送りを受けていたという恩義を「社会貢献」という形で社会に返したいと決意しました。その決意から、「持続可能な社会づくり」に貢献する仕事を通じて「社会貢献」を形にしていく姿勢を表した言葉として(eco-mmunity)という造語を考え出したわけです。 これからも新しい事業に挑戦し続けること、それが夢なんです。誰かのため、人のためです 将来の夢は、死ぬまで、ビジネスを辞めない。動けなくなったらしようがないけど。それまでに自分の入る老人ホームを作りたいのです(笑)。自分でホームを作り、仲間を入れたいんです。入りたいって言う人がたくさんいるから、月5万円程度に費用にすることができたら、庶民でも入れるじゃないですか。国民年金受給者でも入れる施設を作らなきゃだめですよ。あと、最後に、これからも新しい事業に挑戦し続けることですね。繰り返しますが、死ぬまで挑戦ですよ。いつまでも前を向いてポジティブに。 モンゴルでのビジネスもそうですが、他にも今まさに始めたばかりの事業が何個かあります。健康・環境・福祉・安全、さらにファッションまで、幅広く手掛け始めています。もうお金じゃないんですよ。名誉でも地位でもなくて、ただ、いままで支えてくれた人たち、周りにいる人たち、皆に幸せを作ることが出来ればそれでいいんです。最後は世の中への社会貢献ですよ。そのためにビジネスで挑戦し続けていること、それが夢なんです。誰かのため、人のためにですよ。純粋に。 *上記掲載内容は、2016年3月発行の『激浪の人生』冊子から纏めています。 (勝木弘幸〈旧姓田中〉さんプロフィール) 大分県杵築市出身 大分県立杵紫高等学校卒業 1969年3月国際商科大学(現・東京国際大学)商学部卒業 平ゼミ 躰道部 1969年4月大昭和製紙(株)入社 1980年8月大昭和製紙(株)退社 1980年9月キヤノン販売(株)入社〈現・キヤノンマーケティングジャパン(株)〉 2003年5月キヤノン販売(株)退社 2003年6月レッツ・ジャパン(株) 取締役社長に就任 〈コスタトレーディング〔株〕に名称変更〉 現在、別会社を立ち上げて、Eco-mmunityビジネスを推進中、 (業務内容) * タッチパネルの高性能フイルムの開発・製造・販売 * サービス高齢者住宅の検討 * 介護用品の販売 * モンゴル関連ビジネスや健康・環境・福祉・安全、さらにファッションまで幅広く手掛けている TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
勝木弘幸(旧姓田中)さん (1969年卒業 商学部/1期 平ゼミ 躰道部)2022年5月12日勝木弘幸〔旧姓田中〕さんは、国際商科大学(現・東京国際大学)開校時の商学部1期生です。卒業後は、大昭和製紙、キヤノンマーケティングで活躍され、その後レッズジャパン(後にコスタトレーディング)などを経営されています。2016年にはご自身の70歳を期に、これまでの人生を振り返り、冊子『激浪の人生‐人生は変えていける』に書き纏められました。「死ぬまでビジネスで挑戦し続けて社会貢献に尽くしたい」と、その波乱万丈の人生のお話を聞かせて頂きました。 「苦節と逆転の人生だが、大学時代に勉学に励み、躰道部では体と精神を鍛えたことが、今も元気で頑張れる秘訣です。これからも常に少年のような純粋な気持ちで「挑」み「戦」い続けたい と述べられていました。 大学、会社員時代から独立まで 大学時代は苦学生で、勉学と躰道に勤しむ 国際商科大学(現・東京国際大学))を選んだのは、兄が一橋予備校の金子泰藏さん(大学創設者・学長)を知っていて、(国際商科大学を)うけたらどうだ?」と紹介されたのです。はじめは「霞が関にある」と聞いて「あれ、一等地にあるんだ!」って思っていたら、行ってみるととんでもない田舎でした。1965年当時は大学設立時で荒れた土地ばかりで凄かったんですよ。 中学2年の時に地元大分を襲った大洪水で砂鉄採集の施設・機械がすべて流失し、親父の事業は壊滅、一転して貧乏生活に陥りました。これが「人生の転機」の一回目です。大学時代は姉から毎月1万円の仕送り、月3千円の奨学金とアルバイトで稼いだお金で、学費から下宿代、飲食から部活費用などすべてを賄っていた苦学生でした。この時姉から受けた恩義は将来自分が「社会貢献」することによって返していこうと決意しました。 大学では躰道部を創設しました。創設メンバー7名のうちの一人です。当時まだ40代だった躰道の創設者・祝嶺正献先生が直接指導に来てくださって、その薫陶を受けました。「躰道の理念は、最終的には社会貢献だ」と仰っていて、その言葉が今も私の中に生きています。 躰道の稽古はきつく、部員は普通あんまり勉強しないのですけど(笑)、私は全部授業に出ていましたよ。ゼミは経営学でしたが、就職先を決めることになり、指導教官の西山先生から「同級生が大昭和製紙の専務をしているから受けてみなさい」と推薦され、大昭和製紙に就職することになりました。 (大学躰道部時代の合宿にて) (躰道の創設者・祝嶺正献先生と) 紙の売り上げを年商100億円にまで拡大 大昭和製紙は1969年の入社当時、資本金56億円の大会社で、オーナー経営者の下で急成長を遂げている会社でした。私も出版社ほか紙業界に顧客・知己を広げた時代でした。1977年当時は既にバブル状態で、毎晩銀座で2-3軒飲みに行ってました。 1980年、脱カメラとして複写機を中心とするオフィス機器の販売に活路を求めていたキヤノンから大昭和に「紙の専門家」を提供してほしいとの要請があり、どういう訳か私に白羽の矢が立ったんです。 当時のキヤノン販売の滝川精一社長の最終面接を受けて、私の採用が決まりました。私が34歳の時でした。ここでマーケティング・企画部門に在籍して、紙の売り上げをバンバン増やしました。当時のキヤノン販売は面白い会社で、意思決定を下に任せるところがありました。 素早く意思決定ができるので、業績がグングン伸びていったんです。私も思い切り仕事をしました。その結果、入社当時1980年、年商3千万円程度の売り上げだったコピー紙の商売を役職定年直前の2001年には年商100億円にまでに伸ばすことができました。 業績を伸ばせた理由としては、1)再生紙など時代の動向・ニーズをタイムリーに捉えた商品投入、2)全国に紙の専任販売担当者を配置、3)紙メーカーとの協調体制、4)紙メーカーの代理店網を利用したVAN直納システムの構築、などがあげられます。そして55歳で役職定年となり、営業の第一線から退くことになったので、独立を考え始めました。 独立後するも赤字体質、そしてあの 3・11 が襲ってきました 2003年、大昭和時代からの取引先・レッツジャパンの増田社長から「自分は歳だし仕事を引き継いでくれないか?」と声を掛けられ、会社を引き継ぐことにしました。これが現在のコスタトレーディングの始まりなんです。 会社は家庭用紙の問屋で、私が引き継いだころは月商300万程度の赤字会社でした。社員 1~2人の日本橋の零細企業もいいところでした。コピー用紙を中心に2011年3月までには、月商3000万円にまで売り上げを伸ばしました。でも紙の商売は粗利が薄く、月商3000万円でも赤字体質で、キヤノンの退職金を切り崩して経営していました。そこに、あの 3・11 が襲ってきたのです。 極限の三重苦、そして奇跡の逆転劇 売り上げゼロになるんですよ。給料も払えない つらくて厳しい時期はその前から始まっていました。2010年9月に、一年半に及ぶ闘病の末、最愛の妻が亡くなりました。妻の発病・入院から3~4年が、金銭的にも心身の面でも、人生で最もつらい日々でした。 2011年に3月11日の東日本大地震により、コピー用紙の仕入れ先である三菱製紙八戸工場が壊滅し、コスタトレーディング(当時この名前に商号変更していました)は売上ゼロになるんですよ。従業員と顧問にも給料も払えないので、何名かリストラせざるを得なくなりました。2012年まで売り上げゼロで、やくざみたいな借金取りも来ました。商品(紙)の仕入れで借金もあり、赤字経営の累損で6千万円ぐらいの借金になっていました。相手は高田馬場にある会社で、そこから紙を仕入れてたのです。その会社の社長が「どうするんだ!」「今月いくら払えるか?」って、毎月私を呼びつけて、報告させ。催促するんですよ。 もう心身ともボロボロでした。 ちょうどそのころ、元キヤノン販売の技術本部長だった金野信次さんから偶然電話があったのです。彼とはお互いキヤノンを辞めてからずっと音信不通だったんです。近況を聞いてみると「船に乗って居る」というのです。東神奈川の彼の船に行ったら、バイオ事業の会社をやっていて、海の浄化作業を行う船を所有しており、その船に事務所を構えていたのです。 そのころ私は地獄の借金取り立て攻撃を受け、心身はボロボロ。「もう会社を畳もうかな、いまの事務所の家賃も払えないし」と状況を話したら、彼が「じゃ、この船広いし、ウチに来れば?」ということで船にオフィスを置かせてもらうことにしたのです。 そうそう、高須義男顧問はキヤノン本体の開発部門に居た人で、キヤノンのコピー機用のトナーをゼロから創り上げた人なんです。キャノンを定年退職後、縁あってコスタトレーディングに入って頂き、以来苦節を共にした盟友で、その知識と経験を生かして、商品開発・技術開発を受け持ってもらっています。フイルム開発も高須さんが手がけたものなんです。 競争相手は世界的化学メーカーでしたが、我々が勝ったのです 船上オフィスの頃、高須さんと2人で色んな企業から開発案件を請け負い、追っかけていました。その中の1社が、柴野恒夫社長のATT株式会社です。2012年3月に柴野社長から、かねてからワーク中だった韓国の世界的電子メーカー向けにスマホ液晶画面用フイルムの商談が成立し、受注が決定したとの電話を受けました。 我々の開発したポレウレタン・フイルムがマッチしたのです。R(アール:弧)を描いた画面を持つスマホに柔らかくてぴったりだったのです。競争相手は世界的化学メーカーでしたが、我々が勝ったのです。 船のオーナーの関係者などに融資をお願いし、300万円の融資からスタートした液晶画面用フィルムに事業は、韓国メーカーのスマホビジネスの伸長とともに拡大を続け、今や韓国メーカーのみならず、中国・台湾のメーカーへの輸出ビジネスが倍々ゲームで増進中で、すべてのタッチパネルユーザーやメーカーに売込中です。このフイルム・ビジネスはATTと共同で展開しています。おかげで、東京信用金庫から優良企業として表彰されたりもしました。 (社員旅行、ハワイにて) 今、これからの挑戦。 一番大切なことは「信用」だと言い切れますね 逆転のきっかけは、「人との縁」が運命を変える大きな働きをしてきたのだなぁという気はしますね。でも、私は、ビジネスマン・人間として一番大切なことは「信用」だと言い切ることが出来ますね。「約束を守る」「言ったことを守る」こと。単純なんだけど、これを一度でも破ると、もう相手は信用してくれませんね。信用のない人に誰もお金を貸してくれませんよ。 白鵬関に「地獄の苦しみを知った人」にしか備わらない人間性に共感を覚えました白鵬関とは元横綱・輪島さんに紹介されて、初めて会ったのは関取が関脇の時でした。会った途端、その人の人格・人柄の良さ・やさしさ・育ちの良さに魅了されました。「地獄の苦しみを知った人」にしか備わらない人間性に共感を覚えたのです。 事実、関取は来日した時、62キロしか体重がなく、「これじゃすぐ辞めるだろう」とみんなに思われていたらしいのです。それを地獄の思いで稽古し、死ぬほど食べることにより、努力に努力を重ねて、今の身体と横綱の地位を獲得し、それを維持し、さらに上を極めようとしているのです。 白鵬関とは、ご家族ぐるみでお付き合いをさせて頂いており、モンゴル・ウランバートルのログハウス(大分県の日田杉造り)建設に協力したり、白鵬関へ刀匠・松田次泰先生作の太刀を贈呈するなど、今の私にできる範囲の応援をさせてもらっています。 ビジネス上では2016年に銀座にちゃんこ屋「鵬」を共同で開店しました。ゆくゆくは白鵬関と一緒に、モンゴルで大きな事業をやりたいですね。 (太刀を前に白鵬関とプロゴルファー片山晋呉氏と) (輪島関と台湾旅行での一枚) (2014年5月場所優勝パレードで白鵬関とオープンカーに) (白鵬関の優勝記念祝賀会にて) 常に少年のように純粋な気持ちで前を向いていくしかない あまりカッコイイ言葉では言えませんけど、敢えて座右の銘というなら「Do your Best !」ですね。「あきらめない。やるしかない。やり通す」ことです。人間、ベストを尽くすしかないですよ。それには、努力・忍耐力が必要です。己で解決しなければ他人は助けてくれませんからね。 また、ビジネスとは「挑戦」でしょうね。私は若いころから起業の意識が強かったですね。「生涯挑戦続ける!」ですね。死ぬまで挑戦しかないですね。だから、「ゆっくりしてどこか旅行でも」なんて気は全くないですね(笑)、ほんとに。常に少年のような純粋な気持ちで前を向いていくしかない。ビジネスは挑戦する、死ぬまで辞めない。まだもうちょっとやれるでしょう。 会社のモットーとして「エコロジーを尊重したエコノミー(eco-mmunity)づくりを掲げていますが、レッズジャパンを引き継いだころからの社提です。先にお話ししましたように、学生時代に姉の仕送りを受けていたという恩義を「社会貢献」という形で社会に返したいと決意しました。その決意から、「持続可能な社会づくり」に貢献する仕事を通じて「社会貢献」を形にしていく姿勢を表した言葉として(eco-mmunity)という造語を考え出したわけです。 これからも新しい事業に挑戦し続けること、それが夢なんです。誰かのため、人のためです 将来の夢は、死ぬまで、ビジネスを辞めない。動けなくなったらしようがないけど。それまでに自分の入る老人ホームを作りたいのです(笑)。自分でホームを作り、仲間を入れたいんです。入りたいって言う人がたくさんいるから、月5万円程度に費用にすることができたら、庶民でも入れるじゃないですか。国民年金受給者でも入れる施設を作らなきゃだめですよ。あと、最後に、これからも新しい事業に挑戦し続けることですね。繰り返しますが、死ぬまで挑戦ですよ。いつまでも前を向いてポジティブに。 モンゴルでのビジネスもそうですが、他にも今まさに始めたばかりの事業が何個かあります。健康・環境・福祉・安全、さらにファッションまで、幅広く手掛け始めています。もうお金じゃないんですよ。名誉でも地位でもなくて、ただ、いままで支えてくれた人たち、周りにいる人たち、皆に幸せを作ることが出来ればそれでいいんです。最後は世の中への社会貢献ですよ。そのためにビジネスで挑戦し続けていること、それが夢なんです。誰かのため、人のためにですよ。純粋に。 *上記掲載内容は、2016年3月発行の『激浪の人生』冊子から纏めています。 (勝木弘幸〈旧姓田中〉さんプロフィール) 大分県杵築市出身 大分県立杵紫高等学校卒業 1969年3月国際商科大学(現・東京国際大学)商学部卒業 平ゼミ 躰道部 1969年4月大昭和製紙(株)入社 1980年8月大昭和製紙(株)退社 1980年9月キヤノン販売(株)入社〈現・キヤノンマーケティングジャパン(株)〉 2003年5月キヤノン販売(株)退社 2003年6月レッツ・ジャパン(株) 取締役社長に就任 〈コスタトレーディング〔株〕に名称変更〉 現在、別会社を立ち上げて、Eco-mmunityビジネスを推進中、 (業務内容) * タッチパネルの高性能フイルムの開発・製造・販売 * サービス高齢者住宅の検討 * 介護用品の販売 * モンゴル関連ビジネスや健康・環境・福祉・安全、さらにファッションまで幅広く手掛けている TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
全ては繋がっている。四半世紀を超えて続く友情。
藤原直美さん(1997年 商学部経営情報学科卒業 1992年TIUA留学 1996年ウィラメット大学経済学部卒業)2022年3月11日神奈川県の湘南に生まれ、毎年お正月は沿道に出て箱根駅伝を見て育ち、子供の頃から「箱根駅伝に出ている大学に行きたい」と思っていました。卒業して何年も経って母校が箱根駅伝に出ることになるとは嬉しい驚きでした。 女性の就職は難しい、現役でないとダメ、実家からじゃないと就職できない… 今ではコンプライアンスに引っかかるような女性の就職難そんな時代だったので、卒業を遅らせることなく留学できるプログラムのある東京国際大学に入学しました。 まさか自分が米国の大学に行けるなんて!Willamette大学の奨学金プログラムに合格したときは私を含めて誰もがそう思ったに違いありません。 1992年TIUA(現ASP)プログラムが人生で生まれて初めての海外渡航でした。 TIUAでは真ん中のレベルのクラス、英語の成績がすごく良かったわけでもありませんでした。ただ思い返してみれば、小さな頃から日本を出たいと思っていました。思い続けていれば夢が叶うものですね。 親に4年間で卒業するという約束でアメリカにいかせてもらいましたので、卒業が2年遅れる長期留学は親には反対され、お金は一切出さないとも言われました。 幸運にも当時の奨学金は渡航費も出たので、両親に伝えたのは出発の二週間前。反対される時間もなかったです(笑) 反対を押し切って渡米したものの生活費を含めてサポートしてくれた両親に感謝しています。 人生初の海外渡航がTIUA。国際色豊かな理想の環境でした 入った寮は今では無くなってしまったのですが、WISH (Willamette University International Studies House)でした。 各国からの留学生がアメリカ人と暮らす寮で、白人率の非常に高い学内で、アジア各国、中東、ヨーロッパからの学生、各言語のTeaching Assistantがいたりと国際色豊かで、私には理想の環境でした。当時は、寮で食事が出ていたので、各国の学生が自分の国料理を振る舞う日があったり、いつも賑やかな寮でした。 悪天候で飛行機が大幅に遅れて到着した初日、ターバンを巻いたインド人の寮長がカレーを作って待っていてくれたのは今でも良い思い出です。 ルームメイトはJunior(3年生)のブルガリア人留学生で自分が苦労した経験から、私が日本語を話すことを極力減らすために毎日ランチはWISHの食堂で一緒にご飯を食べようと言ってくれ、KANEKOの食堂で談笑しながら日本語でランチを食べる同級生を見ながら、通称スカイブリッジを渡る毎日でした。WISHに戻ってのランチも、はじめの頃は会話に入っていけず「Naomiっておとなしいのねー」なんて言われて、「本当は全然おとなしくないんだけど…」と、いつかみんなの会話に入りたいと思って過ごしました。 WISHは様々な国の生徒が一緒に暮らしていました。国同士の対立のことが議論になったり、アジア人に対する差別も経験しました。日本人は、英語がわからないと思われていたようで、あからさまに悪口を言っている生徒もいました。でも、その悪口がわかるようになっている自分が嬉しくもあり、いつか「聞こえてるよ」って英語で言い返してやろうと思っていました。 当時戦争状態だった、イランとイラクの生徒が同じ部屋で暮らしていたり、各国の語学アシスタントの方が暮らしていたり、世界とつながることができる寮でした。当時はバブルがはじけて間もない頃で、日本人に対する差別もありましたが、ほとんどの学生は、とてもフレンドリーで日本のことを聞いてくれたり、宿題を見てくれたり、大学の中に世界があるような素晴らしい環境で過ごすことができたことはその後の私に大きな影響を与えました。 プログラムも終わりに近づいた頃、小さい頃から患っていたアトピーと喘息が良くなっていることに気がつき、もっと長くアメリカに居たいと、長期留学を考えるようになりました。 TIUAでTOEFLの点数が上がったとはいえ、レベルは真ん中、長期留学にチャレンジするのはトップレベルの生徒ばかりで自分にはとてもハードルが高く思えました。また、親との1年で帰る、4年で大学を卒業するという約束もあり帰国することになりました。 先生方からのサポートで乗り越えられたWillamette大学日本に帰国し、TIUAのDeanでいらした川嶋先生が「お前は、アメリカの方が合っているから、挑戦してみるといい。」 そのひと言がきっかけでした。もしかするとはっきりと「日本は合ってない」とおっしゃっていたかもしれません(笑)。先生のお見立ては正しかったと今でも思います。 プログラムのディレクターをしていらしたGunnar Gundersen 先生が「Naomiは耳がいい。」と言ってくださったことが励みになり、留学に挑戦しようという思いを新たにしました。アメリカにいたのはトータルで4年弱ですが、発音については「こっち(アメリカ)で生まれたの?」って聞かれるくらいです。本当のネイティブはそれも聞かれないだろうなとも思いますけどね(笑) 専攻は経済学部。心理学なども興味がありましたが、英語がギリギリだった私はなるべく単位が移行できること、そして漠然とビジネスに興味があったので、Business Economicsを専攻しました。 勉強の大変さはTIUAの比ではありませんでした。噂では聞いていましたが、魔の三角地帯、いわゆる寮の部屋、教室、図書館…本当にこの3点だけで生活する日々でした。経済学部は統計学など数学が必須で、数学が不得意だった私は、毎度クラスの後に“Come see me” と呼び出されていました。先生は怒っているわけではなく、クラスについていけているか、何かサポートが必要ではないかをチェックしてくれました。このような、サポートがあることは小さな大学であるWillametteの素晴らしいところだと思います。それでも寮のロビーのソファで倒れ込んだまま寝てしまい、慌ててクラスに出てクイズ(小テストのようなもの)を受けたことが何度あったかわからないくらいです。 クリスマスブレイクを利用して、里帰りをしているWISHの生徒を訪ねながらヨーロッパを回りました。当時はインターネットはまだ出始めの頃で、トーマスクックという紙の時刻表と地球の歩き方を片手に、ユーロパスを利用しての電車の旅。時にユースホステルに泊まりながら、寝台列車を宿にしながらの旅でした。旅のスタートがベルリンでまだ崩壊から間もないベルリンの壁、東西ドイツの違い、世界が変わったのを目の当たりにしました。その後ブルガリアを陸路で訪ねようとしたのですが、ビザの取得に領事館に行ってみたところ、当時紛争中だったボスニアヘルツェゴビナを通らなくてはならないから、やめなさいと言われ諦めなければならなりませんでした。 12月31日電車の遅れで極寒の真冬のスイスで泊まる宿がなくなり途方に暮れていたところ、同じように途方に暮れている日本人のご家族がいらして、一緒に雪の中観光協会まで行って宿を探すお手伝いをしたところ、一緒にディーナーをご馳走になった上に、宿代まで出していただいたのは良い思いです。 スイスでジュネーブに向かう電車でご一緒したスイスの方に「レストランではチーズフォンデュが1人では食べられなかった」と話していたら「うちに来なさい!」と招待され、チーズフォンデュをご馳走になった上に、泊めていただいただき、今でもフォンデュを食べる時に、この時教わったチーズは8の字で混ぜるを実践しています。今では考えられないことですが、駅で眠ったり、知り合った方に泊めていただいたり、大冒険の旅でした。 Senior (4年生)になると、勉強法も要領を得るようになり、相変わらず大変ではありましたが、授業が楽しくなってきました。実際に社会で活躍している方が講師として授業を行なったり、オレゴン州経済開発局でインターンも経験し、Travel Oregon(https://traveloregon.com/)の冊子の編纂を担当しました。 キャンパス外に住む生徒が多い中、卒業するまでWISHに暮らしました。残念ながら現在は無くなってしまったようですが、私にとって家のような、大切な場所になっています。 卒業後は通信会社へ。3年目から全米各地を廻る機会が増えましたアメリカの大学の卒業は5月、氷河期と言われる就職活動には遅すぎる時期でした。米国での就職も試みましたが、なかなかうまくいかず、とにかく勉強が大変だったので、一度日本に帰りたいとも思っていました。2、3年働いて、お金をためてMBAで戻ってこようと思っていたのです。ラッキーにも、これから世界に拠点を展開しようとしていた大手通信事業者に就職が決まりました。 最初の配属先が、群馬県で、英語とは全く縁のない社会人生活のスタートでした。通勤と営業での車の運転、初めての仕事、英語とは無縁の生活に、もうこれ以上ここで働くのは無理かもしれないなーと思っていました。 ところが、見てくれている方はいるもので入社から3年目で、米国勤務から帰国した上司の元で働くチャンスが来ました。 東京に異動になり、海外の会社との提携を進める上司のお供として、アメリカに行く機会が増えました。ここで頑張れば、海外勤務のチャンスがあるかもしれないと思い。自分より上のマネージャー陣を飛ばして部長と一緒に全米各地を回っていたので、メンバーの中では英語ができる方だという自覚もありましたし、トップクラスの方との打ち合わせにも同席させてもらっていたので、少々天狗になっていたところもあると思います。 今でも忘れられないのですが、出張中のカリフォルニア州のパロアルトのバーで「藤原さんさぁ、英語ができるのはいいんだけど、学生みたいな話し方やめてくれる?」と部長から言われました。 カジュアルな雰囲気のシリコンバレーの企業、自分もカジュアルでフレンドリーな英語で話していたのだと思います。正直なところ、カジュアルな英語と洗練されたビジネス英語の区別もあまりついていなかったと思います。お会いしているのはシリコンバレーの企業のトップ、本当に反省しましたし、悔しかったです。でも、これを言ってくれた部長には今でも大変感謝しています。 それからも、海外出張は何度も行きましたが、フレンドリーにペラペラ話すことなく、話を振られた時にだけ答えるようにし、ビジネスのプロの会話を聞くことを徹底しました。この経験がその後の世界各国の方々と仕事をしていくのにとても役立ちました。 再びアメリカへ。リモートワークとワークライフバランスは当たり前でしたWillametteを卒業して10年、いつかはアメリカへ戻りたい、海外で働きたいと思っていましたが、駐在員になるのは家族持ちの男性ばかり。待っているだけでは自分にチャンスは回ってこないと思い、海外オフィスで募集しているポジションに直接応募する制度にチャレンジしました。すべてを会社が手配してくれる駐在員とは違い、待遇も現地社員と同等、家探し、車の購入まで、すべてを自分でやる必要がありました。 アメリカ人VPのもとで、私はカリフォルニアで日本本社とのリエゾン役、上司とエンジニアがいるITチームはテキサス、プロダクトチームはニューヨークという体制でのリモートワークが2006年の時点ですでに当たり前になっていました。カリフォルニアの夜間に先に明けるニューヨーク、ダラスのチームが仕事を上げ、それを日本のオープンに合わせて私が本社にプレゼンをするという時差をうまく利用した働き方は眼から鱗でした。 ワークライフバランスもしっかりしており、7時過ぎにはもうオフィスには誰もいません。ゆとりができた時間を利用して、ヨガの指導者資格も取得しました。 アメリカでの担当業務はIT部門、お客さまや、社内のユーザのリクエストを聞きながらITシステムを企画設計し、開発部門とつなぐ仕事を担当しました。世界中から集まったプライドも技術も高い優秀なエンジニアたちからは、「そんなリクエスト必要だとは思えない、無駄な開発はしたくない」と。そんな時は、現場にいればランチに行って話をしたり、ミーティングとは別に個人的に話して人間関係を築いて乗り切ってきました。日本と海外の間に入って色々苦労はしましたが、いつのまにか、これが私の役割、強みになっていました。 リーマンショックで帰国。東南アジアでは当たって砕けろ精神でトップと会えました2度目のアメリカ生活も落ち着いてきた頃、いわゆるリーマンショックが起こりました。私がアメリカに残れるようにサポートしてくれていた上司も含め、お客さまも、社内も激震でした。アメリカオフィスは規模を縮小し、コストのかかる日本人は最小限にして、私も帰国することになりました。やっと、念願のアメリカ勤務が叶った矢先の出来事で大きなショックを受けましたが、一緒に働いてきたアメリカのメンバーの雇用を守るためだと納得させ、日本に帰国することになりました。 帰国後は、アジア各国の通信会社への営業や協業の業務につきました。これまではアメリカ、ヨーロッパの社内メンバーとの業務から、アジアの通信事業者との業務になりました。各国の営業部隊と協力して、お客さまを周りシンガポール、インドネシア、マレーシア、インド…アジアの発展は目覚しく、もうすっかり日本を追い越したなーという勢いを肌で感じました。アジアでの通信事業は、財閥系の企業が担っていることも多く、いわゆる大富豪の方々にもお会いすることもあったのですが、アメリカの大学時代に培った当たって砕けろ精神と、懐に飛び込める性格が功をそうしたのか、比較的すぐにトップの方に会うことができ、しかも女性一人で日本から来たというのが珍しいのか、商談中にご飯をとっていただいてご馳走になったり(商談中のオフィスで、です!)色々面白い体験をしました。 各国で開催されている通信事業者が集まる国際イベントがあるのですが、「あなたどこかであったよね、覚えているよー」と声をかけていただいたことも度々あります。人に覚えていただけるというのは、Willamette時代から、出会った人とはご縁を大切にと、次々話しかける度胸のおかげだと思っています。 インドネシア、インドではバティックやサリーなどの伝統衣装を着て出勤する日があるのですが、サリーを着せてもらいオフィスで撮った写真をインドの同僚がSNSに乗せたのを見て「出張中なのに…」のようなことを言われることがありました。 いつの間にか海外出張をSNSに載せないようにというお達しが出るようになりました。この日本独特の閉塞感、みんなが監視し合うような雰囲気(もちろん、そういうことばかりではないのですが)をどうにかできないか、自分にできることがあるのではないかと思うようになりました。 四半世紀を超えた友情 Willametteでのルームメイトは、高校卒業後、日本留学から帰ってきたオハイオ出身のアメリカ人でした。彼女との友情はを四半世紀経った今でも続いています。 実は、私の卒業間近に大喧嘩し、彼女はボーイフレンドと部屋を出ていき、卒業式にはきてくれたものの、ほとんど口を聞かないままお別れすることになりました。そのまま数年音信不通になっていたのですが、とあるReunionでMarci(ルームメイト)が「Naomiを探しているから連絡先を教えても良いか」と聞かれ、即答で ”YES!!!”。 当時は出張で頻繁にカリフォルニアに行っていたので、Palo Altoの出張先のホテルに飛んできてくれました。そこから7年の空白を埋めるように、毎年、年に1回は会っています。 2013年、彼女の旦那様が急逝されました。 原因は今でもはっきりとわからないのですが、過労だったと思います。入院したと連絡が来てから、わずか6時間のことでした。飛行機に飛び乗りお葬式に駆けつけました。大学時代にお世話になった彼女の家族や親戚にも再会しました。この時、彼女のお父様が私に言ったことばが今でも忘れられません。”Naomi, you are not living, just existing. Life can be very short, Live your life.” ちょうどこの頃、自分の仕事に疑問を感じ始めていました。日本の本社の業務を海外に展開する仕事を担当していたのですが、働き方や時間、業務の進め方、日本のやり方を進めようとするほど、海外のオフィスのやり方が効率が良く、お客さまや時代のニーズに合っているということを肌で実感し始めていたからです。 それに伴ってだんだん、仕事や働き方を考えるようになりました。これを機に、仕事とは別に10年以上続けていたヨガに加え、マインドフルネスや瞑想を学びはじめ、人として豊かに生きる、働くバランスを考えるようになりました。 会社に副業申請を出し、ヨガを本格的に教え始めたところ、仕事で疲れてしまった方や、何かにつまづいて苦しくなっている方が集まってくるようになりました。 「初めてのヨガが直美先生で良かった。」と言っていただいたり、私のレッスンを受けたことがきっかけで、インストラクターにまでなった生徒さんもいます。 英語と日本語でのレッスンも開催することもあり、本当に色々な方に来ていただき、私自身もみなさんから元気をもらいました。 再び海外を目指す。何度でもチャレンジしたい。2019年長年温めていた「2人の真ん中のハワイで女子旅をする」を実現しました。仕事で岐路に立っていた私に、彼女は泣きながら「私の旦那のようにならないで、もう大切なひとをなくしたくない。」と言われ、ハワイの海で2人で大泣きしました。 そして改めて自分が疲れきっていることに気づきました。そして2020年彼女との約束を実現するため、ずっと夢だった、ハワイ島での長期滞在を実現しました。 予定を立てず、朝起きて自分がしたいことをする。気がつくと、毎日、毎日海でイルカと泳いで過ごしました。 これまでも毎年ハワイに来ていましたが、この時の滞在は特別でした。いつのまにか、日々の仕事や立場を気にするあまり、自分に正直でいることが難しくなっていたことに気が付きました。 ハワイの長期滞在を通じて、もう一度海外で暮らすことを目指す決意をしました。海外で人を探しているという卒業生の方や、お知り合いがいらっしゃったらぜひご連絡ください。 どんなときも私を支え続けてくれたのは、アメリカ生活で培った英語、コミュニケーション力でした。いくつになっても、何度でもチャレンジできる、それを教えてくれたのも、アメリカでの生活があったからだと思っています。 もしも今、コロナや色々な事情でやりたいことを諦めそうになっている方がいらっしゃったら、希望を持ちづけて欲しいと思います。これからまた、海外への扉も再び開かれていくはずです。私自身も、これから自分には何ができるか、一人でも多くのかたが豊かに自分らしく生きていくためのお手伝いをライフワークにしていきたいと考えています。 TIUはとてもユニークな大学です。ASPプログラムをはじめ、早い段階から海外で学位を取得できる制度があり、自分さえやりたいと思えば色々なことに挑戦できる大学です。卒業生も色々なところで活躍していらっしゃいます。卒業後四半世紀が過ぎた今でも、仕事やプライベートを通じて知り合った方が偶然TIUやWillamette大学の卒業生だったことが何度もありました。長い間この制度を支え続けてくださった先生方や、職員の皆さんに感謝いたします。また、今回このような機会をいただいた大先輩の島田さん、落合さん、自分の半生を振り返る大変貴重な機会となりました、ありがとうございました。 (藤原直美さんプロフィール) 神奈川県出身 1991年東京国際大学 商学部経営情報学科 入学 1992年TIUA (現ASP)(アメリカ・オレゴン州)1年間留学 1996年ウィラメット大学 経済学部卒業 1997年通信会社 入社 2006年同アメリカ カリフォルニア州 サンノゼオフィス勤務 2008年帰国 2008年同東京本社 インドネシア、マレーシア、シンガポール担当 2017年より インド担当 2022年東京在住 (資格等) 全米ヨガアライアンス 200 RYTヨガインストラクター資格 リストラティブヨガ 指導者資格 ヨガと精神疾患 マインドフルネスワークショップ、マインドフルネスキャリア YouTube ハワイと御蔵島のイルカの映像 https://www.youtube.com/channel/UCkJZlag_smi2-aDiSrsjMyQ TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
藤原直美さん(1997年 商学部経営情報学科卒業 1992年TIUA留学 1996年ウィラメット大学経済学部卒業)2022年3月11日神奈川県の湘南に生まれ、毎年お正月は沿道に出て箱根駅伝を見て育ち、子供の頃から「箱根駅伝に出ている大学に行きたい」と思っていました。卒業して何年も経って母校が箱根駅伝に出ることになるとは嬉しい驚きでした。 女性の就職は難しい、現役でないとダメ、実家からじゃないと就職できない… 今ではコンプライアンスに引っかかるような女性の就職難そんな時代だったので、卒業を遅らせることなく留学できるプログラムのある東京国際大学に入学しました。 まさか自分が米国の大学に行けるなんて!Willamette大学の奨学金プログラムに合格したときは私を含めて誰もがそう思ったに違いありません。 1992年TIUA(現ASP)プログラムが人生で生まれて初めての海外渡航でした。 TIUAでは真ん中のレベルのクラス、英語の成績がすごく良かったわけでもありませんでした。ただ思い返してみれば、小さな頃から日本を出たいと思っていました。思い続けていれば夢が叶うものですね。 親に4年間で卒業するという約束でアメリカにいかせてもらいましたので、卒業が2年遅れる長期留学は親には反対され、お金は一切出さないとも言われました。 幸運にも当時の奨学金は渡航費も出たので、両親に伝えたのは出発の二週間前。反対される時間もなかったです(笑) 反対を押し切って渡米したものの生活費を含めてサポートしてくれた両親に感謝しています。 人生初の海外渡航がTIUA。国際色豊かな理想の環境でした 入った寮は今では無くなってしまったのですが、WISH (Willamette University International Studies House)でした。 各国からの留学生がアメリカ人と暮らす寮で、白人率の非常に高い学内で、アジア各国、中東、ヨーロッパからの学生、各言語のTeaching Assistantがいたりと国際色豊かで、私には理想の環境でした。当時は、寮で食事が出ていたので、各国の学生が自分の国料理を振る舞う日があったり、いつも賑やかな寮でした。 悪天候で飛行機が大幅に遅れて到着した初日、ターバンを巻いたインド人の寮長がカレーを作って待っていてくれたのは今でも良い思い出です。 ルームメイトはJunior(3年生)のブルガリア人留学生で自分が苦労した経験から、私が日本語を話すことを極力減らすために毎日ランチはWISHの食堂で一緒にご飯を食べようと言ってくれ、KANEKOの食堂で談笑しながら日本語でランチを食べる同級生を見ながら、通称スカイブリッジを渡る毎日でした。WISHに戻ってのランチも、はじめの頃は会話に入っていけず「Naomiっておとなしいのねー」なんて言われて、「本当は全然おとなしくないんだけど…」と、いつかみんなの会話に入りたいと思って過ごしました。 WISHは様々な国の生徒が一緒に暮らしていました。国同士の対立のことが議論になったり、アジア人に対する差別も経験しました。日本人は、英語がわからないと思われていたようで、あからさまに悪口を言っている生徒もいました。でも、その悪口がわかるようになっている自分が嬉しくもあり、いつか「聞こえてるよ」って英語で言い返してやろうと思っていました。 当時戦争状態だった、イランとイラクの生徒が同じ部屋で暮らしていたり、各国の語学アシスタントの方が暮らしていたり、世界とつながることができる寮でした。当時はバブルがはじけて間もない頃で、日本人に対する差別もありましたが、ほとんどの学生は、とてもフレンドリーで日本のことを聞いてくれたり、宿題を見てくれたり、大学の中に世界があるような素晴らしい環境で過ごすことができたことはその後の私に大きな影響を与えました。 プログラムも終わりに近づいた頃、小さい頃から患っていたアトピーと喘息が良くなっていることに気がつき、もっと長くアメリカに居たいと、長期留学を考えるようになりました。 TIUAでTOEFLの点数が上がったとはいえ、レベルは真ん中、長期留学にチャレンジするのはトップレベルの生徒ばかりで自分にはとてもハードルが高く思えました。また、親との1年で帰る、4年で大学を卒業するという約束もあり帰国することになりました。 先生方からのサポートで乗り越えられたWillamette大学日本に帰国し、TIUAのDeanでいらした川嶋先生が「お前は、アメリカの方が合っているから、挑戦してみるといい。」 そのひと言がきっかけでした。もしかするとはっきりと「日本は合ってない」とおっしゃっていたかもしれません(笑)。先生のお見立ては正しかったと今でも思います。 プログラムのディレクターをしていらしたGunnar Gundersen 先生が「Naomiは耳がいい。」と言ってくださったことが励みになり、留学に挑戦しようという思いを新たにしました。アメリカにいたのはトータルで4年弱ですが、発音については「こっち(アメリカ)で生まれたの?」って聞かれるくらいです。本当のネイティブはそれも聞かれないだろうなとも思いますけどね(笑) 専攻は経済学部。心理学なども興味がありましたが、英語がギリギリだった私はなるべく単位が移行できること、そして漠然とビジネスに興味があったので、Business Economicsを専攻しました。 勉強の大変さはTIUAの比ではありませんでした。噂では聞いていましたが、魔の三角地帯、いわゆる寮の部屋、教室、図書館…本当にこの3点だけで生活する日々でした。経済学部は統計学など数学が必須で、数学が不得意だった私は、毎度クラスの後に“Come see me” と呼び出されていました。先生は怒っているわけではなく、クラスについていけているか、何かサポートが必要ではないかをチェックしてくれました。このような、サポートがあることは小さな大学であるWillametteの素晴らしいところだと思います。それでも寮のロビーのソファで倒れ込んだまま寝てしまい、慌ててクラスに出てクイズ(小テストのようなもの)を受けたことが何度あったかわからないくらいです。 クリスマスブレイクを利用して、里帰りをしているWISHの生徒を訪ねながらヨーロッパを回りました。当時はインターネットはまだ出始めの頃で、トーマスクックという紙の時刻表と地球の歩き方を片手に、ユーロパスを利用しての電車の旅。時にユースホステルに泊まりながら、寝台列車を宿にしながらの旅でした。旅のスタートがベルリンでまだ崩壊から間もないベルリンの壁、東西ドイツの違い、世界が変わったのを目の当たりにしました。その後ブルガリアを陸路で訪ねようとしたのですが、ビザの取得に領事館に行ってみたところ、当時紛争中だったボスニアヘルツェゴビナを通らなくてはならないから、やめなさいと言われ諦めなければならなりませんでした。 12月31日電車の遅れで極寒の真冬のスイスで泊まる宿がなくなり途方に暮れていたところ、同じように途方に暮れている日本人のご家族がいらして、一緒に雪の中観光協会まで行って宿を探すお手伝いをしたところ、一緒にディーナーをご馳走になった上に、宿代まで出していただいたのは良い思いです。 スイスでジュネーブに向かう電車でご一緒したスイスの方に「レストランではチーズフォンデュが1人では食べられなかった」と話していたら「うちに来なさい!」と招待され、チーズフォンデュをご馳走になった上に、泊めていただいただき、今でもフォンデュを食べる時に、この時教わったチーズは8の字で混ぜるを実践しています。今では考えられないことですが、駅で眠ったり、知り合った方に泊めていただいたり、大冒険の旅でした。 Senior (4年生)になると、勉強法も要領を得るようになり、相変わらず大変ではありましたが、授業が楽しくなってきました。実際に社会で活躍している方が講師として授業を行なったり、オレゴン州経済開発局でインターンも経験し、Travel Oregon(https://traveloregon.com/)の冊子の編纂を担当しました。 キャンパス外に住む生徒が多い中、卒業するまでWISHに暮らしました。残念ながら現在は無くなってしまったようですが、私にとって家のような、大切な場所になっています。 卒業後は通信会社へ。3年目から全米各地を廻る機会が増えましたアメリカの大学の卒業は5月、氷河期と言われる就職活動には遅すぎる時期でした。米国での就職も試みましたが、なかなかうまくいかず、とにかく勉強が大変だったので、一度日本に帰りたいとも思っていました。2、3年働いて、お金をためてMBAで戻ってこようと思っていたのです。ラッキーにも、これから世界に拠点を展開しようとしていた大手通信事業者に就職が決まりました。 最初の配属先が、群馬県で、英語とは全く縁のない社会人生活のスタートでした。通勤と営業での車の運転、初めての仕事、英語とは無縁の生活に、もうこれ以上ここで働くのは無理かもしれないなーと思っていました。 ところが、見てくれている方はいるもので入社から3年目で、米国勤務から帰国した上司の元で働くチャンスが来ました。 東京に異動になり、海外の会社との提携を進める上司のお供として、アメリカに行く機会が増えました。ここで頑張れば、海外勤務のチャンスがあるかもしれないと思い。自分より上のマネージャー陣を飛ばして部長と一緒に全米各地を回っていたので、メンバーの中では英語ができる方だという自覚もありましたし、トップクラスの方との打ち合わせにも同席させてもらっていたので、少々天狗になっていたところもあると思います。 今でも忘れられないのですが、出張中のカリフォルニア州のパロアルトのバーで「藤原さんさぁ、英語ができるのはいいんだけど、学生みたいな話し方やめてくれる?」と部長から言われました。 カジュアルな雰囲気のシリコンバレーの企業、自分もカジュアルでフレンドリーな英語で話していたのだと思います。正直なところ、カジュアルな英語と洗練されたビジネス英語の区別もあまりついていなかったと思います。お会いしているのはシリコンバレーの企業のトップ、本当に反省しましたし、悔しかったです。でも、これを言ってくれた部長には今でも大変感謝しています。 それからも、海外出張は何度も行きましたが、フレンドリーにペラペラ話すことなく、話を振られた時にだけ答えるようにし、ビジネスのプロの会話を聞くことを徹底しました。この経験がその後の世界各国の方々と仕事をしていくのにとても役立ちました。 再びアメリカへ。リモートワークとワークライフバランスは当たり前でしたWillametteを卒業して10年、いつかはアメリカへ戻りたい、海外で働きたいと思っていましたが、駐在員になるのは家族持ちの男性ばかり。待っているだけでは自分にチャンスは回ってこないと思い、海外オフィスで募集しているポジションに直接応募する制度にチャレンジしました。すべてを会社が手配してくれる駐在員とは違い、待遇も現地社員と同等、家探し、車の購入まで、すべてを自分でやる必要がありました。 アメリカ人VPのもとで、私はカリフォルニアで日本本社とのリエゾン役、上司とエンジニアがいるITチームはテキサス、プロダクトチームはニューヨークという体制でのリモートワークが2006年の時点ですでに当たり前になっていました。カリフォルニアの夜間に先に明けるニューヨーク、ダラスのチームが仕事を上げ、それを日本のオープンに合わせて私が本社にプレゼンをするという時差をうまく利用した働き方は眼から鱗でした。 ワークライフバランスもしっかりしており、7時過ぎにはもうオフィスには誰もいません。ゆとりができた時間を利用して、ヨガの指導者資格も取得しました。 アメリカでの担当業務はIT部門、お客さまや、社内のユーザのリクエストを聞きながらITシステムを企画設計し、開発部門とつなぐ仕事を担当しました。世界中から集まったプライドも技術も高い優秀なエンジニアたちからは、「そんなリクエスト必要だとは思えない、無駄な開発はしたくない」と。そんな時は、現場にいればランチに行って話をしたり、ミーティングとは別に個人的に話して人間関係を築いて乗り切ってきました。日本と海外の間に入って色々苦労はしましたが、いつのまにか、これが私の役割、強みになっていました。 リーマンショックで帰国。東南アジアでは当たって砕けろ精神でトップと会えました2度目のアメリカ生活も落ち着いてきた頃、いわゆるリーマンショックが起こりました。私がアメリカに残れるようにサポートしてくれていた上司も含め、お客さまも、社内も激震でした。アメリカオフィスは規模を縮小し、コストのかかる日本人は最小限にして、私も帰国することになりました。やっと、念願のアメリカ勤務が叶った矢先の出来事で大きなショックを受けましたが、一緒に働いてきたアメリカのメンバーの雇用を守るためだと納得させ、日本に帰国することになりました。 帰国後は、アジア各国の通信会社への営業や協業の業務につきました。これまではアメリカ、ヨーロッパの社内メンバーとの業務から、アジアの通信事業者との業務になりました。各国の営業部隊と協力して、お客さまを周りシンガポール、インドネシア、マレーシア、インド…アジアの発展は目覚しく、もうすっかり日本を追い越したなーという勢いを肌で感じました。アジアでの通信事業は、財閥系の企業が担っていることも多く、いわゆる大富豪の方々にもお会いすることもあったのですが、アメリカの大学時代に培った当たって砕けろ精神と、懐に飛び込める性格が功をそうしたのか、比較的すぐにトップの方に会うことができ、しかも女性一人で日本から来たというのが珍しいのか、商談中にご飯をとっていただいてご馳走になったり(商談中のオフィスで、です!)色々面白い体験をしました。 各国で開催されている通信事業者が集まる国際イベントがあるのですが、「あなたどこかであったよね、覚えているよー」と声をかけていただいたことも度々あります。人に覚えていただけるというのは、Willamette時代から、出会った人とはご縁を大切にと、次々話しかける度胸のおかげだと思っています。 インドネシア、インドではバティックやサリーなどの伝統衣装を着て出勤する日があるのですが、サリーを着せてもらいオフィスで撮った写真をインドの同僚がSNSに乗せたのを見て「出張中なのに…」のようなことを言われることがありました。 いつの間にか海外出張をSNSに載せないようにというお達しが出るようになりました。この日本独特の閉塞感、みんなが監視し合うような雰囲気(もちろん、そういうことばかりではないのですが)をどうにかできないか、自分にできることがあるのではないかと思うようになりました。 四半世紀を超えた友情 Willametteでのルームメイトは、高校卒業後、日本留学から帰ってきたオハイオ出身のアメリカ人でした。彼女との友情はを四半世紀経った今でも続いています。 実は、私の卒業間近に大喧嘩し、彼女はボーイフレンドと部屋を出ていき、卒業式にはきてくれたものの、ほとんど口を聞かないままお別れすることになりました。そのまま数年音信不通になっていたのですが、とあるReunionでMarci(ルームメイト)が「Naomiを探しているから連絡先を教えても良いか」と聞かれ、即答で ”YES!!!”。 当時は出張で頻繁にカリフォルニアに行っていたので、Palo Altoの出張先のホテルに飛んできてくれました。そこから7年の空白を埋めるように、毎年、年に1回は会っています。 2013年、彼女の旦那様が急逝されました。 原因は今でもはっきりとわからないのですが、過労だったと思います。入院したと連絡が来てから、わずか6時間のことでした。飛行機に飛び乗りお葬式に駆けつけました。大学時代にお世話になった彼女の家族や親戚にも再会しました。この時、彼女のお父様が私に言ったことばが今でも忘れられません。”Naomi, you are not living, just existing. Life can be very short, Live your life.” ちょうどこの頃、自分の仕事に疑問を感じ始めていました。日本の本社の業務を海外に展開する仕事を担当していたのですが、働き方や時間、業務の進め方、日本のやり方を進めようとするほど、海外のオフィスのやり方が効率が良く、お客さまや時代のニーズに合っているということを肌で実感し始めていたからです。 それに伴ってだんだん、仕事や働き方を考えるようになりました。これを機に、仕事とは別に10年以上続けていたヨガに加え、マインドフルネスや瞑想を学びはじめ、人として豊かに生きる、働くバランスを考えるようになりました。 会社に副業申請を出し、ヨガを本格的に教え始めたところ、仕事で疲れてしまった方や、何かにつまづいて苦しくなっている方が集まってくるようになりました。 「初めてのヨガが直美先生で良かった。」と言っていただいたり、私のレッスンを受けたことがきっかけで、インストラクターにまでなった生徒さんもいます。 英語と日本語でのレッスンも開催することもあり、本当に色々な方に来ていただき、私自身もみなさんから元気をもらいました。 再び海外を目指す。何度でもチャレンジしたい。2019年長年温めていた「2人の真ん中のハワイで女子旅をする」を実現しました。仕事で岐路に立っていた私に、彼女は泣きながら「私の旦那のようにならないで、もう大切なひとをなくしたくない。」と言われ、ハワイの海で2人で大泣きしました。 そして改めて自分が疲れきっていることに気づきました。そして2020年彼女との約束を実現するため、ずっと夢だった、ハワイ島での長期滞在を実現しました。 予定を立てず、朝起きて自分がしたいことをする。気がつくと、毎日、毎日海でイルカと泳いで過ごしました。 これまでも毎年ハワイに来ていましたが、この時の滞在は特別でした。いつのまにか、日々の仕事や立場を気にするあまり、自分に正直でいることが難しくなっていたことに気が付きました。 ハワイの長期滞在を通じて、もう一度海外で暮らすことを目指す決意をしました。海外で人を探しているという卒業生の方や、お知り合いがいらっしゃったらぜひご連絡ください。 どんなときも私を支え続けてくれたのは、アメリカ生活で培った英語、コミュニケーション力でした。いくつになっても、何度でもチャレンジできる、それを教えてくれたのも、アメリカでの生活があったからだと思っています。 もしも今、コロナや色々な事情でやりたいことを諦めそうになっている方がいらっしゃったら、希望を持ちづけて欲しいと思います。これからまた、海外への扉も再び開かれていくはずです。私自身も、これから自分には何ができるか、一人でも多くのかたが豊かに自分らしく生きていくためのお手伝いをライフワークにしていきたいと考えています。 TIUはとてもユニークな大学です。ASPプログラムをはじめ、早い段階から海外で学位を取得できる制度があり、自分さえやりたいと思えば色々なことに挑戦できる大学です。卒業生も色々なところで活躍していらっしゃいます。卒業後四半世紀が過ぎた今でも、仕事やプライベートを通じて知り合った方が偶然TIUやWillamette大学の卒業生だったことが何度もありました。長い間この制度を支え続けてくださった先生方や、職員の皆さんに感謝いたします。また、今回このような機会をいただいた大先輩の島田さん、落合さん、自分の半生を振り返る大変貴重な機会となりました、ありがとうございました。 (藤原直美さんプロフィール) 神奈川県出身 1991年東京国際大学 商学部経営情報学科 入学 1992年TIUA (現ASP)(アメリカ・オレゴン州)1年間留学 1996年ウィラメット大学 経済学部卒業 1997年通信会社 入社 2006年同アメリカ カリフォルニア州 サンノゼオフィス勤務 2008年帰国 2008年同東京本社 インドネシア、マレーシア、シンガポール担当 2017年より インド担当 2022年東京在住 (資格等) 全米ヨガアライアンス 200 RYTヨガインストラクター資格 リストラティブヨガ 指導者資格 ヨガと精神疾患 マインドフルネスワークショップ、マインドフルネスキャリア YouTube ハワイと御蔵島のイルカの映像 https://www.youtube.com/channel/UCkJZlag_smi2-aDiSrsjMyQ TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
日本人初の熱気球世界チャンピオン、再び大空へ
藤田昌彦さん(1978年卒業 商学部10期 米田ゼミ)2022年1月21日藤田昌彦さんは国際商科大学(現東京国際大学)3年の時に熱気球を手作りされ、熱気球競技では1989年、2000年と2回の日本選手権優勝、熱気球ホンダグランプリ3連覇、熱気球ワールドホンダグランプリ優勝、日本人初のワールドエアゲームス金メダルなどの成績を上げられ、日本熱気球界で「世界の藤田」と呼ばれる存在となられています。 また冒険飛行にも挑戦され、1992年には日本人初・世界初の熱気球によるベーリング海峡横断飛行に成功。2011年にはキリマンジャロ横断フライトに世界で初めて成功。2013年にはアルプス山脈を約400キロにわたって横断するロングフライトも果たされています。 現在は、熱気球競技選手、冒険家。熱気球の販売・レンタル及び熱気球を用いた広告宣伝の企画運営等を行う有限会社バルーンカンパニーの代表取締役。 やるからには”熱気球で世界の頂点に立つ、世界チャンピオンになる” 草野球が大リーグに勝つようなものだ、そんなの出来るわけがない、バカげた挑戦だ。誰もがそう思った。 “グオウーゴウー”夜明けの静寂を引き裂くようなバーナーの轟音が響き渡る。もう一焚きで僕らは空中へ解き放たれる。どこへ行くかって?野暮なことを聞くな。風に吹かれてどこ行くが分かりゃしない。だから、どっち行ってもいいように、広ーい広い場所の真ん中から飛ぶ、そしてどこかへ降りる。国際商科大学(現東京国際大学)3年の約1年間をかけて、他大学の仲間とチームを組み自分達で熱気球を手作りした。自分達で作った気球で大空を飛ぶ。こんなエキサイティングなことは大学時代にしか出来ない。 約1年間を費やし、球皮(気球本体)、ゴンドラ、バーナーが完成した。見よう見まねのフライトは毎回が冒険だった。毎回命がけだった。現在のように、風を測り、高度による方向の違う風を利用して自分の行きたい場所へ行くなど、考えも及ばぬことだった。どこ行くか分からないが風まかせにただ飛んでどこかへ降りる、それが楽しくてしょうがなかった。就職活動もせずのめり込んだ。 卒業後は実家の仕事の手伝いとバイトで金をため、憧れのアメリカへ修行を目的に渡った。アメリカは世界一の熱気球大国だ。肌で感じるアメリカの革新的な熱気球事情は若かった私に強烈なインパクトを与えた。1年ほどして、その自作した気球をもって後輩達が卒業旅行へ来ることになった。カルフォルニアで飛んだあと、世界一の熱気球大会があるアルバカーキへ行くためダッジバンを借り機材を積み込み、駐車し、部屋に戻り準備をしているわずかな時間にそれは起きた。バンを見に行った友人が血相を変えてもどった。「バンがない」そんな馬鹿な!そこには割れたガラスの破片が散らばっているだけだった。あんなに苦労して作った気球が跡形もなく消え去った。打ちのめされた。アメリカという国の贖えない洗礼を受け、完全に叩き潰された。後輩の中に、僕をなぐさめてくれた女性がいた。それが今の女房となる。 アメリカから帰国後、結婚してバルーンカンパニーを設立 帰国後、結婚してバルーンカンパニーを起こした。イベント会社に自作気球を数機販売した。1年で300万円を貯め、仕事を整理し、女房の夢であった世界旅行へ旅立った。中国からシベリア鉄道でモスクワ、東ヨーロッパ、トルコ、ギリシャ、エジプト、ドイツを起点にヨーロッパを周り、イギリスからアメリカへ。アメリカで妊娠が分かり約1年の旅を終えて帰国。30歳。 ヨーロッパの気球の歴史は長い。多くの気球乗り達に会い刺激を受けた。親子4代気球乗りには大いに感銘を受けた。スペインの立ち上げたばかりの気球メーカーとも出くわした。この出会いが後に人生の大きな礎となる。帰国後、日本の総代理店契約を結び、これが世界第1号だった。今や世界トップの熱気球メーカーと成長した。 このころから、日本にも気球競技が少しずつ浸透し始めてきた。気球大会も北海道以外、佐賀やその他の地域でも開催されるようになって来た。日本選手権も毎年開催されるようになって来た。世界選手権にも日本の代表を派遣し始めた。結果は散々だった。 日本のレべルは、当然まだまだ世界と戦えるレベルではなかった。日本のトップでもフライト時間は100時間程度、かたや、1000時間を超すツワモノ揃いの欧米勢に太刀打ちできるわけがなかった。経験値が違い過ぎた。それでも、同じ人間がやること、敵は怪物ではない、俺にだってできるはずだ。やるからには世界チャンピオンになる。周りからはたわ言に捉えられた。出来る訳がない、草野球レベルが大リーグに勝てるとでも思ってるのか?めげなかった。世界との溝を埋めるには、日本で飛んでてもだめだ、世界に出て世界レベルと戦う力を付けなければ勝てない。それには資金がいる。スポンサーを真剣に探した。簡単には見つからない。自分の分身のような子供が生まれ、何としても家族を幸せにする。それがモティベーションを強くした。ラッキーが訪れた。 自己鍛錬、企業教育等のプログラムを販売する、モティベーションを日本に広めたPJMジャパンとスポンサー契約が成立したのだ。有田代表がマイナーな熱気球の世界チャンピオンになる夢を応援してくれたのだ。それからは年に2回世界の大会に参戦した。出来る限り濃い練習をした。通常の1時間を、その3倍の内容で練習した。 33歳、初出場の日本選手権で優勝した。2年後の世界選手権出場初出場の権利を得た。翌年のプレ大会2位となり舞い上がった、世界チャンピオンはもう直ぐと過信した。甘かった。本戦はミスが重なり100機中の50位台。この悔しさをバネにした。 日本では世界標準の競技を取り入れた、年間5戦を日本各地で戦い、総合成績で王者を決めるグランプリ戦がスタートした。いきなり3連覇した。あまりに勝ちすぎるのでハンディーを付けられた。 ハンディーなど関係なく優勝した。グランプリ戦は日本の競技レベルを世界へ近づけていった。グランプリ戦は今年で30回を迎えた。その内の20回の優勝を2人のパイロットが成し遂げた。私と息子である。私は競技の第一線は引退したが、息子はまだまだ勝ち続けるだろう。 2001年に念願の世界チャンピオンになった。 2000年、競技人生でピークを迎えた。日本選手権、日本グランプはもちろん、世界グランプリで日本人初優勝、日本グランプリ最終戦佐賀インターナショナルバルーンフェスタ優勝、世界グランプリ(アメリカ、ヨーロッパ、日本で3戦)最終戦茂木優勝。世界歴代1位の賞金王になった。 そして遂に、2001年念願の世界チャンピオンになった。スペインのワールドエアゲーム(航空スポーツのオリンピック)で気球部門金メダルを獲得した。 「世界の藤田」と呼ばれる存在となる。 1989年、2000年と2回の日本選手権優勝、熱気球ホンダグランプリ3連覇、熱気球ワールドホンダグランプリ優勝、日本人初のワールドエアゲームス金メダルなどの成績を上げ、日本熱気球界で「世界の藤田」と呼ばれる存在となる。飛行経験のある国は35か国に上る。 また競技と並行して冒険飛行にも挑戦し、1992年には日本初の宇宙飛行経験者である秋山豊寛さんを同乗させて世界初の熱気球によるベーリング海峡横断飛行に成功。2011年には複数機の熱気球によるキリマンジャロ横断フライトに世界で初めて成功した。2013年にはアルプス山脈を約400キロにわたって横断するロングフライトも果たしている。 (2013年、イタリア、オーストリア、スイスとアルプス山脈を約400キロにわたって 横断するロングフライトを果たす) 競技分野で2001年財団法人日本航空協会「航空スポーツ賞」、日本気球連盟「イカロス賞」を受賞。冒険家として2015年にファウスト冒険家賞を息子雄大と共に受賞しました。 (私の主な大会記録) 日本選手権優勝2回(1989、2000) 日本ホンダグランプリ総合優勝8回(1993~1995、1997、1998、2000、2001、2005) ワールドエアゲームス熱気球部門金メダル(2001) 1988年 オーストリア建国100周年大会3位 1992年 スペイングランプリ部門優勝、中国インターナショナル部門優勝 1994年 スイス・シャトーデー(アルプス越え) 部門優勝 1995年 フィリピンインターナショナル3連覇(~97年) 1997年 韓国インターナショナル優勝 2000年 ホンダワールドグランプリ優勝 2004年 熱気球世界選手権(オーストラリア)5位入賞 2006年 熱気球世界選手権(日本)9位入賞 息子の藤田雄大が日本選手権を史上最年少の21歳で制するなど優勝7回。さらに2014年の世界選手権では、アジア人パイロットとして初優勝を飾った。 世界の大会に参加するたびに息子もクルーとして、学校を休んで連れて行った。バーナーに背が届くようになった中学生から操縦を覚えさせた。その甲斐あり、海外大会で外人相手でも物おじしない、堂々と戦えるようになった。2014年ブラジルの世界選手権で2世パイロットとして世界初の優勝をした。 『翔べ、フジタ 熱気球世界チャンピオン 再び大空へ』が放映される “番組は、競技者の一人・藤田雄大選手(34)に9カ月間に及ぶ独占密着取材を敢行した。熱気球競技界のレジェンドを父に持つ藤田は「母親のお腹の中にいるときから気球に乗っていた」まさに“気球の申し子”。日本選手権を史上最年少の21歳で制するなど優勝7回。さらに2014年の世界選手権では、アジア人パイロットとして初優勝を飾った熱気球競技の世界的アイコンだ。”(テレQホームページより) 私は12年のブランク後、2021年最高齢パイロット65歳としてグランプリ戦に復活 20年間の競技人生で、世界の大会で数々の優勝をしてきました。第一線を退いた後は息子のチーフクルーとしてサポートし世界チャンピオンに育てました。息子は結婚を機に独立し、私は12年のブランク後、最高年齢パイロットでグランプリ戦に復活しました。年間ランキング6位入賞。 ブランク明けにしては上出来。シード権を得たので今年度もあまり気張らず参戦します。現在は、熱気球競技選手、冒険家。熱気球の販売・レンタル及び熱気球を用いた広告宣伝の企画運営等を行う有限会社バルーンカンパニーの代表取締役を務めています。 (熱気球を用いたイベント運営) (2005年竜虎万博にて)イベント 愛知万博オープニングイベント 龍虎型熱気球をショーとして演出。 スペインイベリア万博、日本館オープニングイベントで龍虎バルーンを会場に舞い降ろした。 山本寛斎元気プロジェクトで、東京ドームで初めて巨大なクジラ船バルーンを掲揚した。 今年は東京オリンピックのイベントで、東京のど真ん中で巨大な顔を出現させた。 (熱気球体験フライト) (係留フライト) (藤田昌彦さんのプロフィール) 東京都出身 東京都立松原高等学校卒 1978年3月 国際商科大学(現東京国際大学)卒業 商学部/10期 米田ゼミ 大学卒業後は熱気球競技の盛んなアメリカに一年間渡り、技術を磨く。 1989年、2000年と2回の日本選手権優勝、熱気球ホンダグランプリ3連覇、熱気球ワールドホンダグランプリ優勝、日本人初のワールドエアゲームス金メダルなどの成績を上げ日本熱気球界で「世界の藤田」と呼ばれる存在となる。 冒険飛行にも挑戦し、1992年に日本初・世界初の熱気球によるベーリング海峡横断飛行に成功。2011年にキリマンジャロ横断フライトに世界で初めて成功。2013年にはアルプス山脈を約400キロにわたって横断するロングフライトも果たす。 現在は熱気球競技選手、冒険家。熱気球の販売・レンタル及び熱気球を用いた広告宣伝の企画運営等を行う有限会社バルーンカンパニーの代表取締役。 有限会社 バルーンカンパニー 住所:〒329-0101 栃木県下都賀郡野木町友沼5488-11 電話:0280-55-1238 FAX :0280-55-1525 設立:1988年3月 ホームページ:https://www.balcomjp.com Facebook:熱気球の会社Balloon Company TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
藤田昌彦さん(1978年卒業 商学部10期 米田ゼミ)2022年1月21日藤田昌彦さんは国際商科大学(現東京国際大学)3年の時に熱気球を手作りされ、熱気球競技では1989年、2000年と2回の日本選手権優勝、熱気球ホンダグランプリ3連覇、熱気球ワールドホンダグランプリ優勝、日本人初のワールドエアゲームス金メダルなどの成績を上げられ、日本熱気球界で「世界の藤田」と呼ばれる存在となられています。 また冒険飛行にも挑戦され、1992年には日本人初・世界初の熱気球によるベーリング海峡横断飛行に成功。2011年にはキリマンジャロ横断フライトに世界で初めて成功。2013年にはアルプス山脈を約400キロにわたって横断するロングフライトも果たされています。 現在は、熱気球競技選手、冒険家。熱気球の販売・レンタル及び熱気球を用いた広告宣伝の企画運営等を行う有限会社バルーンカンパニーの代表取締役。 やるからには”熱気球で世界の頂点に立つ、世界チャンピオンになる” 草野球が大リーグに勝つようなものだ、そんなの出来るわけがない、バカげた挑戦だ。誰もがそう思った。 “グオウーゴウー”夜明けの静寂を引き裂くようなバーナーの轟音が響き渡る。もう一焚きで僕らは空中へ解き放たれる。どこへ行くかって?野暮なことを聞くな。風に吹かれてどこ行くが分かりゃしない。だから、どっち行ってもいいように、広ーい広い場所の真ん中から飛ぶ、そしてどこかへ降りる。国際商科大学(現東京国際大学)3年の約1年間をかけて、他大学の仲間とチームを組み自分達で熱気球を手作りした。自分達で作った気球で大空を飛ぶ。こんなエキサイティングなことは大学時代にしか出来ない。 約1年間を費やし、球皮(気球本体)、ゴンドラ、バーナーが完成した。見よう見まねのフライトは毎回が冒険だった。毎回命がけだった。現在のように、風を測り、高度による方向の違う風を利用して自分の行きたい場所へ行くなど、考えも及ばぬことだった。どこ行くか分からないが風まかせにただ飛んでどこかへ降りる、それが楽しくてしょうがなかった。就職活動もせずのめり込んだ。 卒業後は実家の仕事の手伝いとバイトで金をため、憧れのアメリカへ修行を目的に渡った。アメリカは世界一の熱気球大国だ。肌で感じるアメリカの革新的な熱気球事情は若かった私に強烈なインパクトを与えた。1年ほどして、その自作した気球をもって後輩達が卒業旅行へ来ることになった。カルフォルニアで飛んだあと、世界一の熱気球大会があるアルバカーキへ行くためダッジバンを借り機材を積み込み、駐車し、部屋に戻り準備をしているわずかな時間にそれは起きた。バンを見に行った友人が血相を変えてもどった。「バンがない」そんな馬鹿な!そこには割れたガラスの破片が散らばっているだけだった。あんなに苦労して作った気球が跡形もなく消え去った。打ちのめされた。アメリカという国の贖えない洗礼を受け、完全に叩き潰された。後輩の中に、僕をなぐさめてくれた女性がいた。それが今の女房となる。 アメリカから帰国後、結婚してバルーンカンパニーを設立 帰国後、結婚してバルーンカンパニーを起こした。イベント会社に自作気球を数機販売した。1年で300万円を貯め、仕事を整理し、女房の夢であった世界旅行へ旅立った。中国からシベリア鉄道でモスクワ、東ヨーロッパ、トルコ、ギリシャ、エジプト、ドイツを起点にヨーロッパを周り、イギリスからアメリカへ。アメリカで妊娠が分かり約1年の旅を終えて帰国。30歳。 ヨーロッパの気球の歴史は長い。多くの気球乗り達に会い刺激を受けた。親子4代気球乗りには大いに感銘を受けた。スペインの立ち上げたばかりの気球メーカーとも出くわした。この出会いが後に人生の大きな礎となる。帰国後、日本の総代理店契約を結び、これが世界第1号だった。今や世界トップの熱気球メーカーと成長した。 このころから、日本にも気球競技が少しずつ浸透し始めてきた。気球大会も北海道以外、佐賀やその他の地域でも開催されるようになって来た。日本選手権も毎年開催されるようになって来た。世界選手権にも日本の代表を派遣し始めた。結果は散々だった。 日本のレべルは、当然まだまだ世界と戦えるレベルではなかった。日本のトップでもフライト時間は100時間程度、かたや、1000時間を超すツワモノ揃いの欧米勢に太刀打ちできるわけがなかった。経験値が違い過ぎた。それでも、同じ人間がやること、敵は怪物ではない、俺にだってできるはずだ。やるからには世界チャンピオンになる。周りからはたわ言に捉えられた。出来る訳がない、草野球レベルが大リーグに勝てるとでも思ってるのか?めげなかった。世界との溝を埋めるには、日本で飛んでてもだめだ、世界に出て世界レベルと戦う力を付けなければ勝てない。それには資金がいる。スポンサーを真剣に探した。簡単には見つからない。自分の分身のような子供が生まれ、何としても家族を幸せにする。それがモティベーションを強くした。ラッキーが訪れた。 自己鍛錬、企業教育等のプログラムを販売する、モティベーションを日本に広めたPJMジャパンとスポンサー契約が成立したのだ。有田代表がマイナーな熱気球の世界チャンピオンになる夢を応援してくれたのだ。それからは年に2回世界の大会に参戦した。出来る限り濃い練習をした。通常の1時間を、その3倍の内容で練習した。 33歳、初出場の日本選手権で優勝した。2年後の世界選手権出場初出場の権利を得た。翌年のプレ大会2位となり舞い上がった、世界チャンピオンはもう直ぐと過信した。甘かった。本戦はミスが重なり100機中の50位台。この悔しさをバネにした。 日本では世界標準の競技を取り入れた、年間5戦を日本各地で戦い、総合成績で王者を決めるグランプリ戦がスタートした。いきなり3連覇した。あまりに勝ちすぎるのでハンディーを付けられた。 ハンディーなど関係なく優勝した。グランプリ戦は日本の競技レベルを世界へ近づけていった。グランプリ戦は今年で30回を迎えた。その内の20回の優勝を2人のパイロットが成し遂げた。私と息子である。私は競技の第一線は引退したが、息子はまだまだ勝ち続けるだろう。 2001年に念願の世界チャンピオンになった。 2000年、競技人生でピークを迎えた。日本選手権、日本グランプはもちろん、世界グランプリで日本人初優勝、日本グランプリ最終戦佐賀インターナショナルバルーンフェスタ優勝、世界グランプリ(アメリカ、ヨーロッパ、日本で3戦)最終戦茂木優勝。世界歴代1位の賞金王になった。 そして遂に、2001年念願の世界チャンピオンになった。スペインのワールドエアゲーム(航空スポーツのオリンピック)で気球部門金メダルを獲得した。 「世界の藤田」と呼ばれる存在となる。 1989年、2000年と2回の日本選手権優勝、熱気球ホンダグランプリ3連覇、熱気球ワールドホンダグランプリ優勝、日本人初のワールドエアゲームス金メダルなどの成績を上げ、日本熱気球界で「世界の藤田」と呼ばれる存在となる。飛行経験のある国は35か国に上る。 また競技と並行して冒険飛行にも挑戦し、1992年には日本初の宇宙飛行経験者である秋山豊寛さんを同乗させて世界初の熱気球によるベーリング海峡横断飛行に成功。2011年には複数機の熱気球によるキリマンジャロ横断フライトに世界で初めて成功した。2013年にはアルプス山脈を約400キロにわたって横断するロングフライトも果たしている。 (2013年、イタリア、オーストリア、スイスとアルプス山脈を約400キロにわたって 横断するロングフライトを果たす) 競技分野で2001年財団法人日本航空協会「航空スポーツ賞」、日本気球連盟「イカロス賞」を受賞。冒険家として2015年にファウスト冒険家賞を息子雄大と共に受賞しました。 (私の主な大会記録) 日本選手権優勝2回(1989、2000) 日本ホンダグランプリ総合優勝8回(1993~1995、1997、1998、2000、2001、2005) ワールドエアゲームス熱気球部門金メダル(2001) 1988年 オーストリア建国100周年大会3位 1992年 スペイングランプリ部門優勝、中国インターナショナル部門優勝 1994年 スイス・シャトーデー(アルプス越え) 部門優勝 1995年 フィリピンインターナショナル3連覇(~97年) 1997年 韓国インターナショナル優勝 2000年 ホンダワールドグランプリ優勝 2004年 熱気球世界選手権(オーストラリア)5位入賞 2006年 熱気球世界選手権(日本)9位入賞 息子の藤田雄大が日本選手権を史上最年少の21歳で制するなど優勝7回。さらに2014年の世界選手権では、アジア人パイロットとして初優勝を飾った。 世界の大会に参加するたびに息子もクルーとして、学校を休んで連れて行った。バーナーに背が届くようになった中学生から操縦を覚えさせた。その甲斐あり、海外大会で外人相手でも物おじしない、堂々と戦えるようになった。2014年ブラジルの世界選手権で2世パイロットとして世界初の優勝をした。 『翔べ、フジタ 熱気球世界チャンピオン 再び大空へ』が放映される “番組は、競技者の一人・藤田雄大選手(34)に9カ月間に及ぶ独占密着取材を敢行した。熱気球競技界のレジェンドを父に持つ藤田は「母親のお腹の中にいるときから気球に乗っていた」まさに“気球の申し子”。日本選手権を史上最年少の21歳で制するなど優勝7回。さらに2014年の世界選手権では、アジア人パイロットとして初優勝を飾った熱気球競技の世界的アイコンだ。”(テレQホームページより) 私は12年のブランク後、2021年最高齢パイロット65歳としてグランプリ戦に復活 20年間の競技人生で、世界の大会で数々の優勝をしてきました。第一線を退いた後は息子のチーフクルーとしてサポートし世界チャンピオンに育てました。息子は結婚を機に独立し、私は12年のブランク後、最高年齢パイロットでグランプリ戦に復活しました。年間ランキング6位入賞。 ブランク明けにしては上出来。シード権を得たので今年度もあまり気張らず参戦します。現在は、熱気球競技選手、冒険家。熱気球の販売・レンタル及び熱気球を用いた広告宣伝の企画運営等を行う有限会社バルーンカンパニーの代表取締役を務めています。 (熱気球を用いたイベント運営) (2005年竜虎万博にて)イベント 愛知万博オープニングイベント 龍虎型熱気球をショーとして演出。 スペインイベリア万博、日本館オープニングイベントで龍虎バルーンを会場に舞い降ろした。 山本寛斎元気プロジェクトで、東京ドームで初めて巨大なクジラ船バルーンを掲揚した。 今年は東京オリンピックのイベントで、東京のど真ん中で巨大な顔を出現させた。 (熱気球体験フライト) (係留フライト) (藤田昌彦さんのプロフィール) 東京都出身 東京都立松原高等学校卒 1978年3月 国際商科大学(現東京国際大学)卒業 商学部/10期 米田ゼミ 大学卒業後は熱気球競技の盛んなアメリカに一年間渡り、技術を磨く。 1989年、2000年と2回の日本選手権優勝、熱気球ホンダグランプリ3連覇、熱気球ワールドホンダグランプリ優勝、日本人初のワールドエアゲームス金メダルなどの成績を上げ日本熱気球界で「世界の藤田」と呼ばれる存在となる。 冒険飛行にも挑戦し、1992年に日本初・世界初の熱気球によるベーリング海峡横断飛行に成功。2011年にキリマンジャロ横断フライトに世界で初めて成功。2013年にはアルプス山脈を約400キロにわたって横断するロングフライトも果たす。 現在は熱気球競技選手、冒険家。熱気球の販売・レンタル及び熱気球を用いた広告宣伝の企画運営等を行う有限会社バルーンカンパニーの代表取締役。 有限会社 バルーンカンパニー 住所:〒329-0101 栃木県下都賀郡野木町友沼5488-11 電話:0280-55-1238 FAX :0280-55-1525 設立:1988年3月 ホームページ:https://www.balcomjp.com Facebook:熱気球の会社Balloon Company TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
点と点が線となり
Haruka Shoji /旧姓高橋晴香さん(2016年経済学部卒業 上林ゼミ 2015年Willamette University卒業)2026年1月1日TIU経済学部在学中にWillamette Univ.に編入・卒業しました。 ハワイ在住で2016年TIU卒業のHaruka Shoji(旧姓:高橋晴香)です。 2011年にTIU経済学部に入学した後、2012年2月から10ヶ月TIUAの留学を経験しました。滞在中にWUへの編入試験に受かり、翌年から正規生として2年通い2015年に卒業しました。WU在学中に取得した単位と卒論で日本には戻ることなくTIUを2016年春に卒業しました。WU卒業後にハワイへ移住し、翌月から縁があった広告代理店で働き始めました。2年弱後、希望していた銀行で就職し、投資部で働き始めました。現在はWealth Advisorとして活躍しています。 Willamette Universityは、リベラルな学校ならではの環境でした。卒業後はWUのハワイ在住の同級生もいて、情報交換などで度々会います。 リベラルアーツのWillametteで自分の学部以外の教科をビギナーレベルで学べたり、いろんなクラブやボランティアの機会があったりしてとても為になりました。オレゴンは白人人口が多くアジア人は少ないので自然と人種差別は向こうが意図してなくても起きていたと思いますが、Willametteのキャンパス内では人種どうこうよりも話の内容にフォーカスを置いてみな扱ってくれました。リベラルな学校ならではの環境だったと思います。 ハワイの銀行投資部でWealth Advisorとしてお客様のお手伝いをしています。卒業後はハワイへ移住し広告営業を2年弱経験。その後2018年に現在の銀行セントラル・パシフィック・バンクへ入行し、投資部へ進みました。必要なライセンス(生命・健康保険、Series 7, Series 66) を取得し、アシスタントやJunior Advisorの経験を経て、CFPを2024年に取得し、現在はWealth Advisorとして活躍しています。ハワイという場所柄、英語圏と日本語圏の顧客の両方をお手伝いしています。 セントラル・パシフィック・バンク( Central Pacific Bank)は、アメリカ合衆国ハワイ州ホノルルに本社を置く銀行で、ハワイ州第3位の銀行です。1954年に日系人らが中心となり創業し、現在はニューヨーク証券取引所上場企業であるセントラル・パシフィック・ファイナンシャル・コーポレーション(Central Pacific Financial Corporation)の子会社組織になっています。 https://www.cpb.bank/wealth-management/central-pacific-investment-services/contact-us#FindYourAdvisor 日々の努力が点と点が線となり、自分の将来を導いてくれると思います。日々のレベルで見ると昨日や今日の努力が将来に繋がって無いように思えることもありますが、今努力をした分は必ず自分に返ってきます。したい事があるなら自分を信じてやり続けること。無いのなら、自分のスキルが上がることに打ち込むこと。点と点はどこかで必ず繋がり線となって自分の将来を導いてくれると思います。 (Haruka Shoji/旧姓高橋晴香さんプロフィール) 埼玉県所沢市出身 日本橋女学館高校卒業 2011年4月東京国際大学経済学部に入学 2012年2月~ 10ヶ月TIUAへ留学。滞在中にWUへの編入試験に受かる。 2015年Willamette University 経済学部卒業 2016年3月東京国際大学経済学部卒業 上林ゼミ 2016年4月ハワイへ移住、広告代理店で勤務 2018年3月Central Pacific Bank, Hawaii投資部Vice President and Wealth Advisor https://jp.cpb.bank/ linkedin.com TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
Haruka Shoji /旧姓高橋晴香さん(2016年経済学部卒業 上林ゼミ 2015年Willamette University卒業)2026年1月1日TIU経済学部在学中にWillamette Univ.に編入・卒業しました。 ハワイ在住で2016年TIU卒業のHaruka Shoji(旧姓:高橋晴香)です。 2011年にTIU経済学部に入学した後、2012年2月から10ヶ月TIUAの留学を経験しました。滞在中にWUへの編入試験に受かり、翌年から正規生として2年通い2015年に卒業しました。WU在学中に取得した単位と卒論で日本には戻ることなくTIUを2016年春に卒業しました。WU卒業後にハワイへ移住し、翌月から縁があった広告代理店で働き始めました。2年弱後、希望していた銀行で就職し、投資部で働き始めました。現在はWealth Advisorとして活躍しています。 Willamette Universityは、リベラルな学校ならではの環境でした。卒業後はWUのハワイ在住の同級生もいて、情報交換などで度々会います。 リベラルアーツのWillametteで自分の学部以外の教科をビギナーレベルで学べたり、いろんなクラブやボランティアの機会があったりしてとても為になりました。オレゴンは白人人口が多くアジア人は少ないので自然と人種差別は向こうが意図してなくても起きていたと思いますが、Willametteのキャンパス内では人種どうこうよりも話の内容にフォーカスを置いてみな扱ってくれました。リベラルな学校ならではの環境だったと思います。 ハワイの銀行投資部でWealth Advisorとしてお客様のお手伝いをしています。卒業後はハワイへ移住し広告営業を2年弱経験。その後2018年に現在の銀行セントラル・パシフィック・バンクへ入行し、投資部へ進みました。必要なライセンス(生命・健康保険、Series 7, Series 66) を取得し、アシスタントやJunior Advisorの経験を経て、CFPを2024年に取得し、現在はWealth Advisorとして活躍しています。ハワイという場所柄、英語圏と日本語圏の顧客の両方をお手伝いしています。 セントラル・パシフィック・バンク( Central Pacific Bank)は、アメリカ合衆国ハワイ州ホノルルに本社を置く銀行で、ハワイ州第3位の銀行です。1954年に日系人らが中心となり創業し、現在はニューヨーク証券取引所上場企業であるセントラル・パシフィック・ファイナンシャル・コーポレーション(Central Pacific Financial Corporation)の子会社組織になっています。 https://www.cpb.bank/wealth-management/central-pacific-investment-services/contact-us#FindYourAdvisor 日々の努力が点と点が線となり、自分の将来を導いてくれると思います。日々のレベルで見ると昨日や今日の努力が将来に繋がって無いように思えることもありますが、今努力をした分は必ず自分に返ってきます。したい事があるなら自分を信じてやり続けること。無いのなら、自分のスキルが上がることに打ち込むこと。点と点はどこかで必ず繋がり線となって自分の将来を導いてくれると思います。 (Haruka Shoji/旧姓高橋晴香さんプロフィール) 埼玉県所沢市出身 日本橋女学館高校卒業 2011年4月東京国際大学経済学部に入学 2012年2月~ 10ヶ月TIUAへ留学。滞在中にWUへの編入試験に受かる。 2015年Willamette University 経済学部卒業 2016年3月東京国際大学経済学部卒業 上林ゼミ 2016年4月ハワイへ移住、広告代理店で勤務 2018年3月Central Pacific Bank, Hawaii投資部Vice President and Wealth Advisor https://jp.cpb.bank/ linkedin.com TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
留学を通して培った困難でもやり抜く力。キャリアもプライベートもあきらめないこれからの未来のために。
舩形史美(旧姓)さん 国際関係学部2008年卒 / 小室ゼミ TIUA 2003年生 南オレゴン大学(Southern Oregon University) リベラルアーツ社会学 2007年卒2025年9月1日勉強にも遊びにも精一杯だった2度の留学時代 TIUA(ASPプログラム)に参加することは、留学はおろか海外旅行もしたことがなかった私にとって勇気のある決断でしたが、両親の後押しもあり10か月という長期のプログラムに参加しました。 私にとって音楽や映画を通して知るアメリカは憧れの国でした。だからこそ意味がある留学にしなければいけないと、TIUAプログラムでは必死で、精一杯な日々だったように思います。 夏休みなど長期休暇では、独りバックパック一つで、カルフォルニアを縦断したり、ニューヨークに数週間滞在するなど、アメリカで行きたかった場所を巡り、滞在することができとても嬉しかったです。 一人でアメリカ内を行動したことで、結果的に英語力はもちろん、コミュニケーション力や交渉する力が身についたと思います。そういった経験の中でアメリカという国の良い面もそうでない面も知り、単なる憧れではなく現実としてもっと深く知りたいと思うようになり、プログラム終了後にアメリカに編入留学することを目指すようになりました。 私がTIUAのプログラムに参加している間も、すでにTIUからWillamette大学へ編入し切磋琢磨している先輩の姿を見て、その思いは一層強くなっていったように思います。 (TIUA時代 お揃いのTシャツで寮の仲間と/14年後の再訪問) 10か月のプログラムを経てもなお英語力が全く足りず、一度帰国し猛勉強し、編入試験を受け南オレゴン大学(SOU)へ編入することとなりました。 社会学を専攻したのですが、かなり本を読まないといけない学部で、しかも3年生からの編入ということもあり勉強面では大変苦労しました。担任の先生に相談し、毎週個別の質問時間をもらい、学内にある学習サポートを駆使するなど、色々なサポートを得てなんとか勉強についていったように思います。苦労のかいもあり、卒業時には成績優秀者のリストに載り、卒業後数年後教授に偶然会った際には「優秀な生徒だったことをよく覚えている」と言ってもらったのは良い思い出です。 2度の留学を通して、アメリカはもちろん、ヨーロッパやタイや台湾、ハワイなど世界中に友人ができたことは大きな財産です。卒業後も海外旅行を兼ねて友人を訪ね、日本を訪れた海外からの友人と再会し、交友を続けています。また、同じ日本から留学した友人も海外で活躍したり、事業を成功させるなど自ら道をきりひらいている仲間が多く、刺激を受けています。 (南オレゴン大学卒業式に両親と) 遠回りの道のりこそが自分の将来を切り開く鍵 南オレゴン大学では社会学を専攻し、同時にコンピューターサイエンスを副専攻として卒業しました。当時ITの世界に将来性を感じていたことから、日本に帰国し通信系IT企業に就職し、プログラミングやシステム導入のプロジェクトに携わりました。 専攻だった社会学に関連する職業でもなく、留学したのに英語を全く使わない就職先でしたが、将来的に英語ができるIT経験者は人材価値が高まるのではないかという目論見があってのことでした。また、家庭を持っても働き続けることができる企業風土の就職先を選びました。そのIT企業では産休育休をはさみ9年ほど在籍し、ITの基礎の基礎からプロジェクト運営、クライアントと直接コミュニケーションをとる営業を経験した後、大手外資のコンサル会社のテクノロジー部門に転職しました。 外資のコンサル会社は日本企業にはないスピード感、風通しのよさがあり、さらに個々人が存在価値を発揮し、結果を出すことにコミットすることが当たり前で、それまでの日本企業とは真逆の文化でした。そのため、自分のマインドセットや行動の癖をアジャストすることにかなり苦労しました。最初に関わったプロジェクトではほとんど価値を発揮せずに終わってしまったものの、周囲に恵まれ、かなり丁寧に教えてもらい、鍛えてもらったことが大きな財産となり、現在までタフな仕事でも通用できていると感じます。 多くのグローバルプロジェクトに携わり、日本からヨーロッパやシンガポール、インドやアメリカなどと共同して進める場面では留学時代に培った語学力が活かされています。考え方や文化の違うメンバーが多数の中、仕事の進め方の違いや、協働することの難しさもありますが、それ乗り越えてプロジェクトが成功した時の達成感は何にも代えがたいものがあります。 規模の大きなグローバルプロジェクトも多く、自分の携わったプロジェクトがニュースや経済誌に載ることもあり、微力ながらも世界や日本の経済にインパクトを与える仕事ができていることに誇りを感じます。 遠回りしたようにも感じますが、結果的に留学を通して経験したことや社会人になってから鍛えたスキル全てが今の自分のキャリアに到達するには必要なことだったと感じています。 働く女性としてのキャリア、これからの未来のために IT企業時代、社会人5年目の頃に第1子を出産しています。ようやく女性も出産後働き続ける人が増えてきた頃でしたが、まだ働き続けることはできてもキャリアアップは望まない(望めない)のが多くの働く女性の現実でした。今でこそ働く女性、特に子供のいる女性のキャリアを阻む障害が“マミートラック”や“ガラスの天井”と言われ、問題視されていますが、当時は当たり前の価値観でした。例に漏れず、私も当時は子供を持ちながらの大きなキャリアアップは難しいと考えざるを得ない状況でした。 一方で、同じ南オレゴン大学出身の夫はキャリアアップ転職に成功し、やりがいのある仕事に就き、子供も産まれ、公私共に充実していました。 同じ大学出身なのに、順調にキャリアを積んでいく夫に対して、出産を機にキャリアを諦め停滞する自分。私も学生時代頑張ってきたのに、それは意味がなかったと社会に突きつけられているようでした。 転機となったのは、それから数年後、オレゴンを家族旅行で訪れTIUAと南オレゴン大学を訪ねたことでした。当時のTIUAのスタッフの皆さんにお会いし、Willamette大学や南オレゴン大学を訪問することで、留学当時の思いや切磋琢磨した日々を思い出し、 「あんなに頑張って人生を切り開いていったのに、このままで良いわけがない。」と強く思うに至りました。 帰国後、夫の後押しもあり、転職活動の結果、現在の外資系コンサル会社への転職というキャリアアップの機会に恵まれました。転職後も苦難の連続でしたが、管理職になり、その後もさらにキャリアを積めているのは、留学時代に養った目標に向かって行動しやり抜く力が活かされたこと、そして娘を持つ母になったことが大きいです。いずれ社会に出る娘たちに、女性であることで本来の自分と異なる”あるべき姿”に縛られたり、何かをあきらめたりすることがないような未来を用意すること、それが私の夢であり大きな目標です。 (2017年TIUA、Willamette大学、南オレゴン大学への訪問) 目の前にチャンスが巡ってきたときに、そのチャンスをつかめるように 大学卒業時、自分の専攻も英語力も関係のないITの世界に飛び込みました。ITの世界では英語ができる人が少なく、将来的に英語力とITスキルを両方兼ね備えることが自分の強みになると考えたからです。結果的に外資系コンサル企業でグローバルプロジェクトに携わり、両方のスキルを活かせています。 現在の私は、昨年(2024年)11年ぶりの出産をして1年以上夫婦で育児休業を取得し、思う存分子供と向き合うことができる生活ができています。 これは、共働きでも女性が家庭や子育てのほぼ全てを担うのが当たり前だった11年前の第1子の出産時にはしたくてもできなかったことです。 キャリアもプライベートも、目の前にチャンスが巡ってきたときに、そのチャンスがつかめるよう、経験を積みスキルアップをして準備しておくことが大事です。 大きな夢ではなくても、どのように生きたいか、なりたい自分をぼんやりと描いたら、5年後、10年後の世の中はどうなっているか、その時に自分の武器になりえるものは何か、自分は今から何が準備できるか、想像力を働かせてみると良いと思います。 そして変化に対応するだけではなく、自分が世の中を良い方向に変えていく存在であることを忘れないで欲しいです。 (舩形史美(旧姓)さんプロフィール) 福島県いわき市生まれ、宮城県仙台市出身 2002年東京国際大学入学 2003年TIUAプログラムに参加 2005年オレゴン州立南オレゴン大学入学 2007年オレゴン州立南オレゴン大学卒業 リベラルアーツ卒社会学専攻/コンピューターサイエンス副専攻 2008年東京国際大学国際関係学部卒業 2008年ドコモ・システムズ株式会社入社 2013年第1子出産 2017年アクセンチュア株式会社へ転職 2024年第2子出産 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
舩形史美(旧姓)さん 国際関係学部2008年卒 / 小室ゼミ TIUA 2003年生 南オレゴン大学(Southern Oregon University) リベラルアーツ社会学 2007年卒2025年9月1日勉強にも遊びにも精一杯だった2度の留学時代 TIUA(ASPプログラム)に参加することは、留学はおろか海外旅行もしたことがなかった私にとって勇気のある決断でしたが、両親の後押しもあり10か月という長期のプログラムに参加しました。 私にとって音楽や映画を通して知るアメリカは憧れの国でした。だからこそ意味がある留学にしなければいけないと、TIUAプログラムでは必死で、精一杯な日々だったように思います。 夏休みなど長期休暇では、独りバックパック一つで、カルフォルニアを縦断したり、ニューヨークに数週間滞在するなど、アメリカで行きたかった場所を巡り、滞在することができとても嬉しかったです。 一人でアメリカ内を行動したことで、結果的に英語力はもちろん、コミュニケーション力や交渉する力が身についたと思います。そういった経験の中でアメリカという国の良い面もそうでない面も知り、単なる憧れではなく現実としてもっと深く知りたいと思うようになり、プログラム終了後にアメリカに編入留学することを目指すようになりました。 私がTIUAのプログラムに参加している間も、すでにTIUからWillamette大学へ編入し切磋琢磨している先輩の姿を見て、その思いは一層強くなっていったように思います。 (TIUA時代 お揃いのTシャツで寮の仲間と/14年後の再訪問) 10か月のプログラムを経てもなお英語力が全く足りず、一度帰国し猛勉強し、編入試験を受け南オレゴン大学(SOU)へ編入することとなりました。 社会学を専攻したのですが、かなり本を読まないといけない学部で、しかも3年生からの編入ということもあり勉強面では大変苦労しました。担任の先生に相談し、毎週個別の質問時間をもらい、学内にある学習サポートを駆使するなど、色々なサポートを得てなんとか勉強についていったように思います。苦労のかいもあり、卒業時には成績優秀者のリストに載り、卒業後数年後教授に偶然会った際には「優秀な生徒だったことをよく覚えている」と言ってもらったのは良い思い出です。 2度の留学を通して、アメリカはもちろん、ヨーロッパやタイや台湾、ハワイなど世界中に友人ができたことは大きな財産です。卒業後も海外旅行を兼ねて友人を訪ね、日本を訪れた海外からの友人と再会し、交友を続けています。また、同じ日本から留学した友人も海外で活躍したり、事業を成功させるなど自ら道をきりひらいている仲間が多く、刺激を受けています。 (南オレゴン大学卒業式に両親と) 遠回りの道のりこそが自分の将来を切り開く鍵 南オレゴン大学では社会学を専攻し、同時にコンピューターサイエンスを副専攻として卒業しました。当時ITの世界に将来性を感じていたことから、日本に帰国し通信系IT企業に就職し、プログラミングやシステム導入のプロジェクトに携わりました。 専攻だった社会学に関連する職業でもなく、留学したのに英語を全く使わない就職先でしたが、将来的に英語ができるIT経験者は人材価値が高まるのではないかという目論見があってのことでした。また、家庭を持っても働き続けることができる企業風土の就職先を選びました。そのIT企業では産休育休をはさみ9年ほど在籍し、ITの基礎の基礎からプロジェクト運営、クライアントと直接コミュニケーションをとる営業を経験した後、大手外資のコンサル会社のテクノロジー部門に転職しました。 外資のコンサル会社は日本企業にはないスピード感、風通しのよさがあり、さらに個々人が存在価値を発揮し、結果を出すことにコミットすることが当たり前で、それまでの日本企業とは真逆の文化でした。そのため、自分のマインドセットや行動の癖をアジャストすることにかなり苦労しました。最初に関わったプロジェクトではほとんど価値を発揮せずに終わってしまったものの、周囲に恵まれ、かなり丁寧に教えてもらい、鍛えてもらったことが大きな財産となり、現在までタフな仕事でも通用できていると感じます。 多くのグローバルプロジェクトに携わり、日本からヨーロッパやシンガポール、インドやアメリカなどと共同して進める場面では留学時代に培った語学力が活かされています。考え方や文化の違うメンバーが多数の中、仕事の進め方の違いや、協働することの難しさもありますが、それ乗り越えてプロジェクトが成功した時の達成感は何にも代えがたいものがあります。 規模の大きなグローバルプロジェクトも多く、自分の携わったプロジェクトがニュースや経済誌に載ることもあり、微力ながらも世界や日本の経済にインパクトを与える仕事ができていることに誇りを感じます。 遠回りしたようにも感じますが、結果的に留学を通して経験したことや社会人になってから鍛えたスキル全てが今の自分のキャリアに到達するには必要なことだったと感じています。 働く女性としてのキャリア、これからの未来のために IT企業時代、社会人5年目の頃に第1子を出産しています。ようやく女性も出産後働き続ける人が増えてきた頃でしたが、まだ働き続けることはできてもキャリアアップは望まない(望めない)のが多くの働く女性の現実でした。今でこそ働く女性、特に子供のいる女性のキャリアを阻む障害が“マミートラック”や“ガラスの天井”と言われ、問題視されていますが、当時は当たり前の価値観でした。例に漏れず、私も当時は子供を持ちながらの大きなキャリアアップは難しいと考えざるを得ない状況でした。 一方で、同じ南オレゴン大学出身の夫はキャリアアップ転職に成功し、やりがいのある仕事に就き、子供も産まれ、公私共に充実していました。 同じ大学出身なのに、順調にキャリアを積んでいく夫に対して、出産を機にキャリアを諦め停滞する自分。私も学生時代頑張ってきたのに、それは意味がなかったと社会に突きつけられているようでした。 転機となったのは、それから数年後、オレゴンを家族旅行で訪れTIUAと南オレゴン大学を訪ねたことでした。当時のTIUAのスタッフの皆さんにお会いし、Willamette大学や南オレゴン大学を訪問することで、留学当時の思いや切磋琢磨した日々を思い出し、 「あんなに頑張って人生を切り開いていったのに、このままで良いわけがない。」と強く思うに至りました。 帰国後、夫の後押しもあり、転職活動の結果、現在の外資系コンサル会社への転職というキャリアアップの機会に恵まれました。転職後も苦難の連続でしたが、管理職になり、その後もさらにキャリアを積めているのは、留学時代に養った目標に向かって行動しやり抜く力が活かされたこと、そして娘を持つ母になったことが大きいです。いずれ社会に出る娘たちに、女性であることで本来の自分と異なる”あるべき姿”に縛られたり、何かをあきらめたりすることがないような未来を用意すること、それが私の夢であり大きな目標です。 (2017年TIUA、Willamette大学、南オレゴン大学への訪問) 目の前にチャンスが巡ってきたときに、そのチャンスをつかめるように 大学卒業時、自分の専攻も英語力も関係のないITの世界に飛び込みました。ITの世界では英語ができる人が少なく、将来的に英語力とITスキルを両方兼ね備えることが自分の強みになると考えたからです。結果的に外資系コンサル企業でグローバルプロジェクトに携わり、両方のスキルを活かせています。 現在の私は、昨年(2024年)11年ぶりの出産をして1年以上夫婦で育児休業を取得し、思う存分子供と向き合うことができる生活ができています。 これは、共働きでも女性が家庭や子育てのほぼ全てを担うのが当たり前だった11年前の第1子の出産時にはしたくてもできなかったことです。 キャリアもプライベートも、目の前にチャンスが巡ってきたときに、そのチャンスがつかめるよう、経験を積みスキルアップをして準備しておくことが大事です。 大きな夢ではなくても、どのように生きたいか、なりたい自分をぼんやりと描いたら、5年後、10年後の世の中はどうなっているか、その時に自分の武器になりえるものは何か、自分は今から何が準備できるか、想像力を働かせてみると良いと思います。 そして変化に対応するだけではなく、自分が世の中を良い方向に変えていく存在であることを忘れないで欲しいです。 (舩形史美(旧姓)さんプロフィール) 福島県いわき市生まれ、宮城県仙台市出身 2002年東京国際大学入学 2003年TIUAプログラムに参加 2005年オレゴン州立南オレゴン大学入学 2007年オレゴン州立南オレゴン大学卒業 リベラルアーツ卒社会学専攻/コンピューターサイエンス副専攻 2008年東京国際大学国際関係学部卒業 2008年ドコモ・システムズ株式会社入社 2013年第1子出産 2017年アクセンチュア株式会社へ転職 2024年第2子出産 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
あるTIU卒業生の人生の軌跡
髙宮純一さん(1992年24期卒業 教養学部国際学科 左治木吾郎ゼミ(1~2年生時)、小林多加士ゼミ(3~5年生時))2025年5月1日大学時代の資料探し この原稿を執筆するにあたり、久しぶりに大学時代の資料、書類、卒業アルバム、書籍などをあちこち探してみました。確か、大学時代の成績表を大学院進学の際に取り寄せた記憶があり、コピーしてどこかにしまっておいたはずですが、結果として見つけることができませんでした。今年で大学を卒業してから33年目になりますが、これまで国内外を12回ほど引っ越しました。引越しのたびに家族も増え、荷物を最小限に減らさざるを得ませんでした。学生時代に読んで感動し、名著として選定した書籍は、どこでも再読できるように全ての引越先に運搬していました。最近の引越しまで、大学時代のお気に入りの授業の講義ノートを捨てられず保管していましたが、昨年11月の引越しの際に荷物を減らすために講義ノートを捨ててしまい、後悔しています。 学問への情熱 これまでは時折、当時感動した先生方の講義ノートや教科書、講義で紹介された名著を読み返すことで、新たな学問、アカデミズムに触れ、学生時代の気持ちを思い出していました。私は頭が良くなく、成績もあまり良くないのですが、小さい頃から新しいことを学ぶことが好きで、決して勉強することは嫌ではありませんでした。大学TIUに進学し、素晴らしい先生方からアカデミズムという新たな学問の世界に導いていただいたことは、私にとって非常に刺激的で、学問の楽しさをさらに深く理解する機会となりました。学生時代に感じたあの時の感動を忘れることができず、社会人になっても当時の気持ちを思い出したくなります。 TIUを知るきっかけ 私がTIUを知ったきっかけは、高校時代の英語教師からの紹介でした。その教師はTIUを視察してきたらしく、「埼玉県の川越にありながら東京国際大学という名であるが、今後の日本の国際人を養成する素晴らしい大学がある。米国オレゴン州のウィラメット大学という大学に留学できる制度もあるお薦めの大学である」との触れ込みでした。 高校時代の留学経験 高校時代に米国に留学したことで、日本の高校を1年間休学し、4年間かけて高校を卒業しました。そのため、浪人することなく確実に入学できる大学に進学したいと考えていました。大学入試の受験料を節約するため、大学受験はTIU一本に絞り、もしTIUに受からなかった場合は大学には進学せず、働くつもりでした。できれば運よく給付生となり、学費免除を受けて在学中に米国の大学に留学したいと思っていましたが、そんなに世の中は甘くありませんでした。 ※スティルウォーター・シニア・ハイスクール:歴史的背景、主な特徴、著名な卒業生 スティルウォーターはミネソタ州で最初の学区であり、スティルウォーター・ハイスクールは1873年に設立された長い歴史を持つ学校です。スティルウォーター・ハイスクールは、オリンピックのクロスカントリースキー金メダリストであるジェシー・ディギンズや、元ホワイトハウス首席補佐官で現米国退役軍人長官のデニス・マクドノーなど、多岐にわたる分野で著名な卒業生を輩出しています。これらの卒業生の存在は、同校が高い教育水準と多様な才能を育む環境を有していることを示しています。 全米トップクラスの聖歌隊に参加(NYでのコンサート) 上述のとおり、私は高校2年生の夏から約1年間、米国に留学する機会に恵まれました。留学先は、ミネソタ州の対岸に位置するウィスコンシン州との州境にあるスティルウォーター市のStillwater Senior High Schoolでした。日本では2年生でしたが、留学先では3年生に編入しました。この高校時代の米国留学が私の人生に大きな影響を与えたことは間違いありません。 何も知らずに選択したChoir(聖歌隊)の授業は、実は全米トップクラスの優れたプログラムでした。我が校は幸運にも全米の高校の中から選抜され、ニューヨーク(NY)のセント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂(Cathedral of St. John the Divine)で開催される全米高校Choirのコンサートに招待されました。運良く私はこのNYでのコンサートのメンバーに選ばれました。NYでのコンサートやリハーサルの前後には、マンハッタンの摩天楼を散策したり、ブロードウェイ・ミュージカル(コーラスライン)を観劇したりしました。NYの各通りから見上げるビル群の壮大さには圧倒されました。 宿泊先近くのペン・ステーションで朝に見かけたトレンチコートをまといアタッシュケースを携え颯爽と歩く日本人ビジネスマンは、とてもクールでスマートな格好良さ、洗練さを感じました。当時、9.11でなくなった今は無きWTC(ワールド・トレード・センター)のツインタワーを見上げながら、将来このNYのマンハッタンで仕事をする自分を思い描き、ここで働いて挑戦したいと切望したのを覚えています。当時のNYは私に大きな夢やチャレンジ精神を与えてくれました。(実際にはそうした人生にはならなかったが。) 今後の人生に影響を与えたメキシコ訪問 さらに私の人生に影響を与え、それからの人生の方向性を決める出来事がありました。それは、NYで開催されたコンサートから戻った後に体験したメキシコ訪問でした。ホストファミリーは毎週末欠かさず教会に通う敬虔な長老派教会(Presbyterian Church)の信者でした。私の宗教は神道でしたが、留学中は米国の家族と一緒に教会に通い、青年部(Youth Club)に参加していました。そこで、教会活動の一環として、高校生によるメキシコでの教会建設を手伝うボランティア活動に参加することになりました。(この活動費は、教会の信者の方々からの寄付により賄われました。) 米国・ミネソタ州スティルウォーターからメキシコ・チワワ州の小さな村(村名は忘れました)まで、牧師さん2人が交代でスクールバスを運転し、国境を越えるという米国をほぼ縦断する旅でした。ボランティアの拠点・キャンプとなった米国側テキサス州エルパソまでは、スクールバスの中で2泊してたどり着きました。ミネソタ州スティルウォーターからの距離は最短でも1,399マイル(約2,251㎞)で、日本で言うと札幌市から福岡市までの距離に相当します。その後、エルパソから国境のリオ・グランデ川を渡り、メキシコ国境都市のシウダード・ファレスに入り、チワワ州の小さな村の教会建設現場に通いました。 陸路で国境を渡ったのは初めての経験でした。目には見えない国境を米国からメキシコに渡った瞬間、その雰囲気や空気感が一変したことに衝撃を受けました。同時に、対岸のメキシコ側の国境にはフェンスが敷かれており、米国への入国を待つ多くの人々がごった返している様子を見て、米国とメキシコの格差を目の当たりにしました。豊かな米国社会と貧しいメキシコとの格差に違和感を越えた怒りを感じたのを今でも鮮明に覚えています。この状況を何とか良い方向に改善したいと本心から感じました。当時はまだ17歳の高校生で、とても純粋だったようです。この体験は今でも鮮明に蘇り、その後の私の人生や仕事にとって重要な意味を持っています。 もはやNYの摩天楼でビジネスパーソンとして世界経済の中心で仕事をする自分の姿はすでに吹き飛び、先進国以外の途上国の地域や国々に関わって暮らし、仕事をすることが自分にとってやりたいこと、自分の人生の役割、天職ではないかと思うようになりました。この時の思いが、私の今後の人生のこだわりとなり、良くも悪くも大きく影響しています。 高校時代の思い出 日米で4年間過ごした高校時代、私のもっぱらの関心はギリシャ哲学にあり、ソクラテスやプラトンに傾倒していました。特に、絶対的な真理や善の存在を追求し、プラトンの『国家』を何度も繰り返し読みふけり、イデア論や国家論を理解しようと必死でした。当時の私は、受験勉強から逃避していただけかもしれませんが、素直になれず、ひねくれていたと思います。 そんな私を見かねて、東京教育大学の哲学科出身である恩師の村田先生が放課後に哲学好きな私の関心を満たし、ご指導してくださいました。今でも記憶に残る村田先生との一番の思い出は、先生が学生時代に研究していた英国の政治哲学者トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』の原書を先生の解説を受けながら読んだことです。とても難解な著作でしたが、先生に教えてもらいながら、自然状態、自然権、自然法といった言葉の定義を英語と日本語で理解し、先生と一緒にじっくり読み込んでいく学習でした。村田先生には、学ぶことの楽しさ、特に原書から読み解く学びの楽しさを教えてもらいました。 楽しかったTIUでの学び こうした経緯を経て、TIUに入学しました。TIUでは、私の知的好奇心を満たしてくれました。もっと知りたい、学びたいという姿勢で先生方にアプローチすると、ほぼ全ての先生方が対応してくださいました。TIUには、学問追求に熱心で、教育者としても素晴らしい先生方が多く、私は良い恩師に恵まれたと思っています。TIU時代は、学内では学ぶこと、研究することに集中し、学外ではインカレサークルに所属して、全国の学生や世界の学生たちと交流することに専念した充実した学生生活でした。後述しますが、研究熱心だったため、1年留年して5年間の大学生活を過ごしました。 1~2年生時のゼミは、左治木吾郎先生のゼミに所属し、川田侃先生の著書『国際政治経済学をめざして』を教材として、国際政治経済学を学ぶための米ソ冷戦構造や南北問題などの基礎を教えてもらいました。ソ連のゴルバチョフ政権下のペレストロイカやグラスノスチとともに政治改革が進められた時期、その後の東欧革命、天安門事件、ベルリンの壁の崩壊、ソ連崩壊につながる社会主義諸国の激動の時代でした。左治木先生はロシア経済や社会主義経済などもご専門だったため、その当時に起こる様々な事象について多くの質問をしたり、時間が足りない場合は先生の研究室に押しかけたりして、いろいろとご指導、ご教授いただきました。さらに左治木先生には、上級生のゼミや合宿にも誘っていただき、私の知りたい、学びたいという好奇心を大いに満たしていただきました。 3~5年生時のゼミは、小林多加士先生の中国研究演習のゼミに所属し、ご指導いただきました。小林ゼミは中国の地域研究を学ぶゼミでしたが、私の関心は当時揺れ動いていた社会主義体制の全般的な危機をこれまでの歴史社会理論上どう捉えるかということでした。小林先生は中国研究のみならず、世界システム論や比較文明論なども研究されていました。私は小林先生の指導の下、社会主義体制に影響を与えてきたマルクス歴史社会理論、アルチュセールの構造主義的社会主義、アンドレ・グンダー・フランクの従属理論、サミール・アミンの新従属理論、ロベール・ボワイエなどのレギュラシオン学派、イマニュエル・ウォーラーステインの世界システム論、田中明彦の『新しい中世 相互依存の世界システム』などの著作物を読み漁り、卒論を執筆する準備をしました。当時のワープロで執筆したので、メモリー機能がなく卒論は残っていませんが、確かテーマは「社会主義の全般的危機と歴史社会理論の再検討」だったと思います。小林ゼミでは、ゼミの合宿に参加しましたが、大学院生のゼミにも参加させてもらい、とても知的好奇心を刺激してもらいました。何となくこのまま大学院に進学する感じでした。 ゼミ以外に感銘を受けたTIUの先生方の講義 ゼミのみならず、感銘を受けた講義は以下のとおりです。 太田秀通先生の歴史学 西洋史学者である太田先生からは、世界史認識の思想と方法をはじめ、歴史を学ぶ楽しさを教えていただきました。紀元前のギリシャやクレタ島で使用されていた線文字Bの解読に関する歴史ロマンに感銘を受けました。アジア的生産様式の解釈などの講義も最高でした。アカデミズムの素晴らしさ、楽しさを教えてもらいました。 伊東博先生の教育学 援助する教育という理論に感銘を受け、その重要性を学ぶことができました。講義後は何度も先生の研究室を訪ね、さらに深い講義を受けました。教育も援助することと一緒であるとの考えには共鳴し、その後の途上国勤務にも活かしました。 大越康夫先生の憲法論 憲法9条を中心に憲法についてしっかり教えてもらいました。 引田隆也先生の政治思想史 とてもわかりやすく、ギリシャから現代までの思想史を網羅的に教えてもらい感銘を受けました。 下羽友衛先生の国際関係論 国際関係分析の方法論を教えてもらいましたが、紛争解決の研究者はその紛争地帯の現場に行って活動しながら分析することが重要であると熱弁していたことが印象的でした。 枇杷木賢生先生の国際経済学 一般教養の講義で基本的なことを教えていただきました。いつもジーンズでブーツを履いていた姿に憧れました。最近、米国テキサス州に出張して、念願のテキサス仕込みのブーツを購入することができました。 原彬久先生の国際政治学 モーゲンソー研究で有名で、政治的リアリズムについて教えてもらいました。学生時代にはカントのような理想的な国際政治学があるのではないかと疑問を持ちながら講義を受けていましたが、社会人になり中東アフリカ地域に関わることで、原先生が語っていた政治的リアリズムの重要性をより実感することができました。 杣正夫先生の日本選挙制度史 当時はあまり興味がなかったが、この講義を履修したことで、選挙を通じて日本政治史を理解することができました。このアプローチは新鮮でした。 富塚俊夫先生のアラビア語 2年間第二外国語としてアラビア語を教わりました。社会人となり中東地域に関わるきっかけとなったようです。 白井洋子先生のアメリカ史 ラス・カサス著の『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を読んでレポートを提出しましたが、植民地主義の時代を擁護するような頓珍漢なレポートを提出してしまったことを今でも後悔しています。 学生生活(インカレサークルISA活動、アジア訪問) 学内にいる時は、一生懸命勉強していた記憶が残っています。勉強は好きでしたが、頭が良くないので成績はそれほど良くなかった気がします。学外では、日本国際学生協会(ISA:International Student Association of Japan)という、当時全国に700名ほどの学生が所属する協会の東京支部に所属していました。TIUの先輩に誘われてISAに入会し、学生時代は学内では勉強、学外では海外の学生との交流や国際会議開催などの活動に費やしていました。TIUで講義を受けていない時は、四谷にあった東京支部の事務所に通い、都内の学生たちと勉強会を開催し、国際会議や海外の学生との交流会の企画・準備をしていました。 学生時代は、休みの期間は短期バイトをして10万円程度稼ぐと、そのたびにタイに出かけていました。タイのバンコクをベースに、ネパール、パキスタン、アフガニスタン、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピンなどを訪問し、各国の学生たちと交流していました。本当はもっと遠くに行きたかったのですが、あまり稼げず、学生時代はアジアまでしか行けませんでした。 1989年2月から4月にかけて、タイ、ネパール、パキスタン、アフガニスタンを訪問する機会に恵まれました。これは、私がISAの団長として、ネパールとパキスタンの学生団体と交流会を開催するイベントでした。ネパールでは、トリブバン大学(Tribhuvan University, TU)との交流会で、地方の現状を視察しようということで、地方都市のポカラに移動し、車両が入れない山岳地帯を3日間歩いて、各農村の農家に泊まりながら現地の村の有力者、小学校や病院などを視察しました。 パキスタンでは、カラチ大学とペシャワール大学の学生たちとの交流会を実施しました。パキスタンでは現地の家庭にホームステイし、イスラム社会やその文化に触れることができました。同時に、ペシャワールでは、まだ当時ソ連のアフガニスタン侵攻が解決していなかった時代で、ペシャワールのアフガニスタン人の難民キャンプから難民兵士が武器を持って国境のカイバル峠に行く姿、銃声、爆音が聞こえるところまで視察することができた貴重な体験をしました。 腸チフス感染による留年を経験 この旅行から帰国後、高熱が続き、幼少時から面倒を見てもらっているかかりつけ医の治療もお手上げとなり、地元の自治医科大学病院に行ったところ、病名はわからないが即入院となりました。同大学病院でも1週間ほど病名を診断できず、病状が悪化しないように処置がなされました。その後、培養結果が出て、腸チフスと診断され、法定伝染病に指定されている病気ということで、隔離施設のある病院に移送されることになりました。隔離病棟に入ったら即絶食となり、胸から管を入れられ、長期入院の治療が始まりました。40日ほど入院して退院後、体力も大幅に落ち、歩くことすらできない状況で、大学に通うのも困難な時期が続きました。学校側とも交渉しましたが、前期試験を受けられなければ留年せざるを得ないとのことで、1年間休学することにしました。 実は、学生時代には知識がなかったため対処できなかったが、法定伝染病に罹患し隔離されたことを根拠に学校側としっかり交渉すれば、1年留年することはなかったのではないかと少々悔やんでいます。ある教授に相談したら、「あなたを救う方法はない」ときっぱりと言われ、それ以上粘ることができませんでした。無知であることの哀れさを感じる出来事でした。 大家さんとの良き思い出 1年留年したことで、両親とは多少ギクシャクしながらも、サポートはしてくれていました。しかし、自分から家を出ることにして、4年生から5年生の就職が決まるまでは、大学近くの鶴ヶ島に四畳半トイレ・風呂・洗濯機使用共同で1か月1万円(共同の水道・光熱費は5千円)のアパートを見つけて住むことにしました。今はもう取り壊されてなくなってしまった古いアパートで、伯谷荘と言い、地元の酒屋さんのお婆様が大家さんをしているところでした。家賃は、そのお婆様の大家さんに直接払いに行くシステムでした。その際に、大家さんといろいろな世間話を30分くらい、長い時には1時間くらい話して家賃を払って帰ります。だんだん親しくなってくると、家賃を払いに行ったのに、お土産やお小遣いをもらって帰ることが多くなりました。この伯谷荘の大家さんには本当に助けてもらい、今でも感謝している忘れられない思い出の1つです。 就職活動の現実 こんな素晴らしい大家さんに支えてもらいながら、高校4年間、大学5年間通う学生を受け入れてくれる職場があるのかと怯えながら、インカレサークルISAの他大学の学生の仲間たちから情報を得ながら、就活を始めました。就活しながら、大学院への進学も真剣に考え準備もしていました。両親は、栃木の田舎に戻り、教員や役場、県庁、警察や消防署、父と同じ郵便局員などに務める公務員を希望していたようです。この就活の機会に、いろいろな業種の職業を見てみようとの気持ちで活動しましたが、現実はかなり厳しいものでした。 当時は、電話や手紙で説明会に申し込むのが一般的でした。一流と言われる大学の仲間たちからどこの企業は説明会が始まったとの情報を得て、電話をすると、出身大学名が伝わると説明会は開催しないとの回答が何社からもありました。実際に別の大学の友人たちはその企業の説明会に参加しているのに、参加させてもらえない、参加する権利さえないと現実の厳しさを実感しました。また、中学時代にとても優秀だった同級生が務める有名商社を訪ねたところ、「髙宮の大学ではうちの会社には入れない」とはっきり言われてしまいました。あるシンクタンクの説明会に参加したところ、「あなたのような人材は当社はいらない」とはっきり言われたこともありました。 一方、企業やNGOでも、とても丁寧で親切に対応してくれたところもありました。超大手企業は青田買いで先輩が出身大学の学生を確保している姿も身近に感じました。正式に試験を受けても、そう簡単には入れるところは少なそうだと感じていました。 JETROへの就職 民間企業に比べ就活の時期が遅い公務員や政府系機関の就職も視野に入れ、試験は誰でも受けさせてくれる職場を選んで就活することにしました。公務員の上級職を受けましたが、全くダメでした。外務省の専門職と上級職の受験票を取りながら、政府系機関のJETRO、JICA、OEFC、JNTO、日本銀行、中小企業事業団(現在は中小機構)などに連絡して、若手職員との面談をさせていただきました。通常であれば、出身大学の先輩職員が対応するのですが、TIU出身の先輩がいないところも多く、私の場合は別の出身大学の職員やインカレサークルの先輩を頼って各機関を訪問し、お話を聞かせていただきました。 アフリカに行ける職場は限られていましたが、「学生時代はアジアを訪問して途上国を知ったが、将来はアフリカで仕事をしたい」とJETROで言ったところ、当時のJETROは先進国志向の職員が多く、途上国、ましてやアフリカに行きたいという職員は聞いたことがない。JETROに入ったらすぐにアフリカに行けるのでは」と話が盛り上がりました。JETROとは縁があったのでしょう。その後、内々定をもらい、もう他に就活する必要もなく、残っている外務省の試験も受ける必要はない、JETROを信用してくださいと言われ、結果としてJETRO職員となることを決めました。その後、いくつかの政府機関や企業からお声がかかりましたが、JETROに就職するとお伝えしてお断りしました。 TIUのゼミの小林先生に大学院に行くか、JETROに行くか相談したところ、JETROに行くべきであると言われ、就職した後に大学院に来たければ勉強しにくれば良いと言われました。したがって、JETROに就職することにしました。TIUの就職課にJETRO内定を報告したところ、JETROを知らなかったようでした。とても残念な気持ちになりました。 社会の現実の厳しさを知る就活を体験しつつも、自分のやりたい、その後天職であると思える職場に就職できたことはとても運の良い人間だと思いました。就活中に言われたことは、良いことも悪いことも、就活でお付き合いした企業や機関は一生忘れることはありません。 TIU卒業後の人生の主な歩み 現在、岡山県倉敷市水島に本社のある萩原工業株式会社で経営企画室 社長特命担当部長を務めています。以前はJETRO岡山貿易情報センターの所長を務め、26年間JETROに勤務していました。 国際貿易・投資への献身:日本貿易振興機構(JETRO)でのキャリアJETROの日本の貿易・投資促進における役割と活動 1992年に日本貿易振興会(現在の日本貿易振興機構、JETRO)に入会し、2018年4月に退職するまでの26年間、国際貿易と投資の促進に尽力しました。JETROは、日本と世界各国との間の貿易と投資を促進することを目的とした政府系の独立行政法人です。当初は輸出振興に重点を置いていましたが、近年では輸入促進、対日投資誘致、中小企業の海外展開支援など、幅広い活動を行っています。現在、JETROは、56カ国76事務所と、日本国内に48の事務所を展開し、グローバルなネットワークを活かして活動を行っています。 海外事務所長としてのリーダーシップ ダルエスサラーム事務所長(タンザニア)での主な活動 JETRO在籍中にダルエスサラーム事務所長を1994年11月から1998年3月まで務めました。アフリカ駐在を希望して就職し、3年目でタンザニアに駐在、しかも若輩の20代ながらも事務所代表の所長として赴任することができました。タンザニアは、日本企業の投資関心が高まっている国の一つであり、JETROは日本とタンザニアの経済関係強化に努めています。ダルエスサラーム国際見本市への日本パビリオンの出展などを通じて、日本製品やサービスの紹介、日本企業による市場調査支援などが行われていました。また、アフリカ投資促進フォーラム(AIPF)の枠組みの中で、日本企業の投資促進を支援していました。 私の事務所長としての主な活動は、日本企業のタンザニア市場への参入支援、タンザニアからの対日輸出促進、両国間の経済協力関係の強化などでした。 テヘラン事務所長(イラン)での主な活動 続いて、私は1999年6月から2004年1月までテヘラン事務所長を務めました。タンザニアの駐在から東京本部に戻り、半年後には誰も行きたがらないとのことで、人事からお声がかかりました。また、所長であるということで即答しました。JETROは、イランとの貿易・投資促進を通じて、日本の経済発展に貢献することを目的として活動を行っています。テヘラン事務所では、市場調査、日本企業のイラン市場への進出支援、イランからの対日輸出促進、テヘラン国際見本市の日本館運営と日本企業向け展示会への参加支援を行いました。 また、当時は日本がアザデガン油田の権益を確保するため、イラン側に対して非石油分野での支援を活発化した時期でもありました。JETROにはイランの非石油分野への支援をする指示があり、イラン側が日本政府に求めた自動車産業及び部品産業の支援、薬品分野の産業支援、イランのWTO加入促進支援などを強化しました。イランは政治的に複雑な状況にある国であり、私の在任中には、日本とイランの経済関係を維持・発展させるために、慎重な対応と深い市場理解が求められました。 カイロ事務所長(エジプト)での主な活動 2010年3月から2014年11月まで、カイロ事務所長を務めました。エジプトは、アフリカ地域においてJETROが1955年から活動を展開している重要な拠点の一つです。カイロ事務所では、日本企業の対エジプト投資促進、エジプトからの対日輸出促進、技術協力、ビジネスミッションの実施など、多岐にわたる活動が行われています。 私の在任中には、アラブの春の事件が勃発し、政治・経済情勢の変化に対応しながら、日本とエジプトの経済関係を強化するため、カイロ国際見本市において日本館を出展・運営する活動なども展開しました。当時の上司からは「なぜ現地にいてアラブの春の発生を事前に予知できなかったのか?」と責められたことを思い出しました。2014年3月には、ロンドンで開催されたチャタムハウス(Chatham House:王立国際問題研究所)とアジア経済研究所の研究会合に出席し、「アラブの春」後の中東情勢について議論に参加するなど、地域情勢へ深く関与しました。 @マルサ・マトルーフの海岸 @エジプトの西部砂漠(サハラ砂漠の一部) @シーワオアシス 地域イニシアチブの主導:JETRO岡山貿易情報センター所長としての活動 JETROでは地方事務所勤務を経験していませんでしたが、2015年7月から2018年4月まで、JETRO岡山貿易情報センター所長を務め、地域経済の振興、国際交流、地元企業の支援に尽力しました。東京本部の役員からは、しっかり地方を学び、地方創生に貢献してくるよう指示されました。岡山県庁や県内の各市町村の企業の海外進出について知事、市長、町長、村長たちと意見交換を行ったり、岡山県高等学校教育研究協議会委員や岡山操山高校のスーパーグローバルハイスクール(SGH)運営指導委員会委員として、高校生のグローバルな視点育成に貢献したりするなど、地域社会との連携を積極的に行いました。 また、岡山県内の若者のグローバル意識を高めることを目的とし、地元の大学生や高校生、小中学生にも講師として長年関わり、自身の国際経験を共有してきました。これらの活動は、JETROのネットワークと自身の経験を活かして、地域経済のグローバル化を推進しようとしたものでした。 地方創生に貢献することを学ぶため岡山大学大学院にて公共政策学修士号を取得 2016年4月からJETRO岡山貿易情報センター所長を務めながら、夜や週末は岡山大学大学院の社会文化科学研究科博士前期課程の公共政策学専攻に通いました。ここでは、地域社会の発展と自立性を重視した公共政策について学び、念願かなって修士号も取得することができました。具体的には以下の内容を学びました。 政策分析能力: 法学、政治学、経済学、経営学などの学際的アプローチを通じて、政策の企画・立案・評価を行う能力を養いました。 公共組織経営: 公的組織の経営に関する知識とスキルを身に付けました。 地域公共政策: 中四国地域を対象に、地域の政策課題を発見し、解決する能力を育成しました。 在学中の2016年8月~9月にかけて、都市計画や地域開発の研究で有名な米国のPortland State Universityの研修に参加しました。このプログラムは「Okayama University Public Administration Short-Term Training, Citizen-Centered Governance – Cases from Portland, Oregon」というもので、この研修を修了することもできました。研修内容は以下のとおりです。 市民中心のガバナンス: 市民参加の重要性、市民の意見を政策決定に反映させる方法や、市民との協働を促進するための戦略を学びました。コミュニティ・エンゲージメント: 地域社会との関わり方や、コミュニティのニーズを理解し、対応する方法を探りました。 ポートランドの事例研究: ポートランド市が実施した市民中心の政策やプロジェクトの具体例を通じて、実践的な知識を得ました。政策の実施と評価: ポートランド市の政策がどのように実施され、評価されているかを学びました。 公共政策の理論と実践: 行政倫理と価値観、公共政策における倫理的な問題や価値観についての理解を深めました。政策分析と実施: 政策の分析方法や実施のプロセスを学びました。 リーダーシップと管理: 公共機関や非営利組織でのリーダーシップのスキルを養いました。財務管理と予算編成: 公共機関の財務管理や予算編成の方法を学びました。 地域資源の管理: 地域の自然資源を保護し、持続可能な方法で管理するための政策を学びました。非営利組織の管理: 非営利組織の運営や管理に関する知識を深めました。 このプログラムは、ポートランド州立大学の専門家や実務家から直接学ぶ機会を提供し、理論と実践を融合させた学びを通じて、公共政策における市民中心のガバナンスの理解を深めることができました。久しぶりの米国での学びは、とても良い機会、刺激となりました。 修士論文について 修士論文では「地方創生における地域経済活性化に効果をもたらす輸出産業の考察」をテーマに執筆しました。その概要は以下のとおりです。 研究目的: 日本の人口減少とそれに伴う国内経済の縮小に対し、地域経済を活性化させるために輸出産業の役割を探ることを目的としています。 研究方法: 貿易統計の分析: 財務省のデータを使用して、日本全体および岡山県の貿易動向を分析。産業連関表の利用: 地域産業連関表を用いて、各地域の輸出産業の特化係数や比較優位性を評価。 研究結果: 生産効果モデル: 輸出産業が地域経済に与える生産効果を分析し、主要な輸出産業を特定。輸出特化係数と比較優位モデル: 各産業の輸出特化係数と比較優位性を評価し、地域ごとの輸出産業の強みを明らかに。 研究考察: 輸出産業の重要性: 輸出産業が地域経済の成長を促進し、国内市場の縮小を補う役割を果たすことを強調。 政策提言: 地域ごとの輸出戦略を策定し、経済成長を維持するための具体的な施策を提案。 結論: 輸出戦略の重要性: 国内需要の減少に対処するため、輸出を通じて新たな需要を創出し、地域経済を活性化させることが必要。 詳細な分析: 全国産業連関表(2011年): 日本全体の輸出構造を分析し、輸出が国内生産に占める割合を明示。主要な輸出産業25部門を特定。 地域別分析: 47都道府県の地域産業連関表: 各地域の輸出データと産業分類を分析し、地域ごとの輸出産業の特徴を明らかに。 この論文は、地域経済の活性化における輸出産業の重要性を強調し、具体的な政策提言を行っています。詳細な統計分析や地域別の事例研究を通じて、輸出戦略の策定と実施の必要性を示しています。 JETROでの26年間で得たもの JETROでの26年間、そのうち13年間を海外駐在に費やした私は、国際市場、貿易規制、異文化間のビジネス慣行、そしてグローバルな経済動向に関する深い理解を培ってきました。この経験は、民間企業の実践的な戦略的方向性とグローバルな取り組みを形成する上で非常に貴重です。岡山大学大学院で2018年3月に取得した公共政策修士(MPP)の学位を含む私の学歴は、国際ビジネスにおける実践的な経験を補完し、グローバルな文脈における戦略的意思決定のための理論的枠組みを提供しています。MPPプログラムは、経済学、政策分析、組織管理などの分野の知識を与え、これらはグローバルな文脈における戦略策定に直接応用できるものです。 製造業への転身:萩原工業株式会社萩原工業:会社概要、事業内容、グローバル展開 岡山でのJETRO所長時代に創業家の経営者から誘われ、「人生後悔させない」と言われ最終的にJETROを離れる決意をしました。2018年5月に岡山県倉敷市水島に本社がある萩原工業株式会社に転職し、現在、経営企画室社長特命担当部長を務めています。萩原工業は、ポリエチレン・ポリプロピレンを主原料とした合成樹脂繊維「フラットヤーン」を用いた関連製品および産業機械の製造・販売を行う企業です。ブルーシートの国内トップメーカーであり、その他、人工芝、食品包装材、家電部材など、幅広い分野で製品を展開しています。当社は、海外14カ国に生産・販売拠点を持ち、グローバルに事業を展開しており、東京証券取引所プライム市場の上場企業でもあります。 萩原工業における役割:国際部長から経営企画室長へ 私は萩原工業入社後、経営戦略室長、合成樹脂事業部門国際部長及び経営企画室長を経て、現在は社長特命担当部長として、同社のグローバル展開を推進することを担っています。JETROでの豊富な国際経験と、海外市場に関する深い知識は、当社のグローバル戦略を推進する上でとても役に立っています。 私の萩原工業での活動の一例を紹介します。つい最近、外務省が作成したパンフレット「日本と中南米をつなぐ日系人」のインタビュー記事を通じて私の活動が紹介されました。 www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/pub/pamph/japan_latinamerica.html 私がこれまで訪問した国88か国(そのうち居住した国5か国)について 私がこれまで訪問し、住んだ国は、以下の地図のとおりです。 I have been to 88 (35%) countries / territories of the #World! #countriesbeen グローバル展開による経営力強化:講演テーマ分析 私はこれまで、「経営力強化のためのグローバル展開について」というテーマで様々なセミナーや講演会で講演を行ってきました。グローバル展開は、企業が成長機会を求め、競争力を強化するための重要な戦略の一つです。海外市場への参入、グローバルサプライチェーンの構築、海外企業との提携など、多様なアプローチが存在します。私の講演は、JETROでの経験に基づいた実践的な視点と、萩原工業におけるグローバル戦略の推進経験を踏まえた、示唆に富む内容であると評価されることがあります。 【髙宮純一(タカミヤ ジュンイチ)さんプロフィール】 1967年 5月19日生(東京都渋谷区) 学歴: 1974年3月 卒園 戸田東幼稚園(埼玉県戸田市) 1980年3月 卒業 野木町立友沼小学校(栃木県下都賀郡) 1983年3月 卒業 野木町立野木中学校(栃木県下都賀郡) 1985年6月 卒業 Stillwater Senior High School(米国ミネソタ州スティルウォーター市) 1987年3月 卒業 茨城県立古河第三高等学校普通科(茨城県古河市) 1992年3月 卒業 国際学士 東京国際大学教養学部国際学科(埼玉県川越市) 2016年9月 研修修了 Okayama University Public Administration Short-Term Training, Citizen-Centered Governance – Cases from the Portland, Oregon. Center for Public Service, Mark O. Harfield School of Government, Portland State University.(米国オレゴン州ポートランド市) 2018年3月 修士課程修了 公共政策学修士(Master of Public Policy) 学位記番号:第22946号(Degree Number : 22946)岡山大学社会文化研究科博士前期課程公共政策学専攻(岡山県岡山市) 資格: 防災士(Disaster Prevention Expert Certification in Japan) 日本防災士機構(特定非営利活動法人)(Japan Bousaisi Organization) 認定番号: No.019874 居住地の東京都世田谷区の支援を受け取得。 職歴: 1992年4月1日日本貿易振興会(JETRO:現在の日本貿易振興機構、東京都港区虎ノ門)採用 総務部人事課付 1992年4月20日 国内異動 経理部経理課(採用後配属先、経理・会計・財務業務) 1994年11月26日 海外異動 ダルエスサラーム事務所 所長 タンザニア ダルエスサラーム:1994年11月 – 1998年3月(3年5ヶ月) ダルエスサラーム日本人会 役員 1998年3月28日 国内異動 海外事業部事業調整課(海外事務所運営業務) 1998年7月1日 国内異動 事業統括部海外事業課(海外事務所運営業務) 1999年6月11日 海外異動 テヘラン事務所 所長 イラン テヘラン:1999年6月 – 2004年1月(4年8ヶ月) テヘラン日本人会 理事 2004年1月27日 国内異動 企画部企画課 課長代理(経営企画、予算総括業務) 2007年5月1日 国内異動 海外調査部調査企画課 課長代理(海外調査部全体の管理運営、調査企画業務) 2007年5月19日 国内異動 海外調査部 総括課長代理(海外調査部全体の管理運営、調査企画業務) 2008年10月10日 国内異動 総務部 主査(法務、契約、情報公開、コンプライアンス、内部統制等業務) 2009年7月1日 国内異動 総務部 主幹(法務、契約、情報公開、コンプライアンス、内部統制等業務) 2010年3月23日 海外異動 カイロ事務所 所長 エジプト カイロ:2010年3月 – 2014年11月(4年9ヶ月) エジプト日本商工会 副会長 カイロ日本人学校 PTA会長(学校運営委員会メンバー) 2014年3月27日 ロンドンにて Chatham House(英国王立国際問題研究所)とアジア経済研究所の研究会合に出席 「アラブの春」後の中東 ~東西の視点の邂逅(かいこう)~MENA in Post – “Arab Spring” Era Shared Perspectives on the Middle East and North Africa 2014年11月20日 国内異動 企画部主査 2015年2月1日 国内異動 事業推進主幹(中東アフリカ地域戦略) 2015年4月1日 国内異動 海外地域戦略主幹(中東アフリカ地域戦略) 2015年7月1日 国内異動 企画部付(入院) 2015年7月15日 国内異動 岡山貿易情報センター 所長 日本 岡山県:2015年7月 – 2018年4月(2年10ヶ月) 主な公職: 岡山商工会議所 参与 岡山・ミャンマー友好推進会議 顧問 岡山県・南オーストラリア州友好協会 理事及び監事 岡山県高等学校教育研究協議会 委員 岡山県高等学校教育研究協議会専門委員会(第二専門委員会)委員 岡山県高等学校教育研究協議会 起草委員会 岡山県土木部指定管理者候補選定委員会 委員 岡山県企業誘致推進協議会 企業誘致アドバイザー 岡山・産学官連携推進会議 委員 岡山空港国際物流促進協議会 顧問 岡山市経済政策審議会 委員 岡山市国際交流協議会 監事 (公財)岡山県産業振興財団 評議員 (公財)岡山県産業振興財団 評議員 選定委員会 委員 (一社)岡山県国際経済交流協会 理事 (一財)岡山県国際交流協会 評議員 (一財)岡山県国際交流協会 運営委員会 アドバイザー 岡山日蘭協会 特別顧問 岡山県立瀬戸南高等学校地域共育審議会 委員 岡山操山高校スーパーグローバルハイスクール運営指導委員会 指導委員 2018年4月30日 退職 日本貿易振興機構(東京都港区赤坂)を退職(26年1か月間) 2018年5月1日 転職 萩原工業株式会社(岡山県倉敷市)に入社 2018年5月1日 経営戦略室 室長(2年6か月) 2020年11月1日 合成樹脂事業部門 国際部 部長(1年間) 2021年11月1日 経営企画室 室長(3年間) 2024年11月1日~現在 経営企画室 社長特命担当部長 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
髙宮純一さん(1992年24期卒業 教養学部国際学科 左治木吾郎ゼミ(1~2年生時)、小林多加士ゼミ(3~5年生時))2025年5月1日大学時代の資料探し この原稿を執筆するにあたり、久しぶりに大学時代の資料、書類、卒業アルバム、書籍などをあちこち探してみました。確か、大学時代の成績表を大学院進学の際に取り寄せた記憶があり、コピーしてどこかにしまっておいたはずですが、結果として見つけることができませんでした。今年で大学を卒業してから33年目になりますが、これまで国内外を12回ほど引っ越しました。引越しのたびに家族も増え、荷物を最小限に減らさざるを得ませんでした。学生時代に読んで感動し、名著として選定した書籍は、どこでも再読できるように全ての引越先に運搬していました。最近の引越しまで、大学時代のお気に入りの授業の講義ノートを捨てられず保管していましたが、昨年11月の引越しの際に荷物を減らすために講義ノートを捨ててしまい、後悔しています。 学問への情熱 これまでは時折、当時感動した先生方の講義ノートや教科書、講義で紹介された名著を読み返すことで、新たな学問、アカデミズムに触れ、学生時代の気持ちを思い出していました。私は頭が良くなく、成績もあまり良くないのですが、小さい頃から新しいことを学ぶことが好きで、決して勉強することは嫌ではありませんでした。大学TIUに進学し、素晴らしい先生方からアカデミズムという新たな学問の世界に導いていただいたことは、私にとって非常に刺激的で、学問の楽しさをさらに深く理解する機会となりました。学生時代に感じたあの時の感動を忘れることができず、社会人になっても当時の気持ちを思い出したくなります。 TIUを知るきっかけ 私がTIUを知ったきっかけは、高校時代の英語教師からの紹介でした。その教師はTIUを視察してきたらしく、「埼玉県の川越にありながら東京国際大学という名であるが、今後の日本の国際人を養成する素晴らしい大学がある。米国オレゴン州のウィラメット大学という大学に留学できる制度もあるお薦めの大学である」との触れ込みでした。 高校時代の留学経験 高校時代に米国に留学したことで、日本の高校を1年間休学し、4年間かけて高校を卒業しました。そのため、浪人することなく確実に入学できる大学に進学したいと考えていました。大学入試の受験料を節約するため、大学受験はTIU一本に絞り、もしTIUに受からなかった場合は大学には進学せず、働くつもりでした。できれば運よく給付生となり、学費免除を受けて在学中に米国の大学に留学したいと思っていましたが、そんなに世の中は甘くありませんでした。 ※スティルウォーター・シニア・ハイスクール:歴史的背景、主な特徴、著名な卒業生 スティルウォーターはミネソタ州で最初の学区であり、スティルウォーター・ハイスクールは1873年に設立された長い歴史を持つ学校です。スティルウォーター・ハイスクールは、オリンピックのクロスカントリースキー金メダリストであるジェシー・ディギンズや、元ホワイトハウス首席補佐官で現米国退役軍人長官のデニス・マクドノーなど、多岐にわたる分野で著名な卒業生を輩出しています。これらの卒業生の存在は、同校が高い教育水準と多様な才能を育む環境を有していることを示しています。 全米トップクラスの聖歌隊に参加(NYでのコンサート) 上述のとおり、私は高校2年生の夏から約1年間、米国に留学する機会に恵まれました。留学先は、ミネソタ州の対岸に位置するウィスコンシン州との州境にあるスティルウォーター市のStillwater Senior High Schoolでした。日本では2年生でしたが、留学先では3年生に編入しました。この高校時代の米国留学が私の人生に大きな影響を与えたことは間違いありません。 何も知らずに選択したChoir(聖歌隊)の授業は、実は全米トップクラスの優れたプログラムでした。我が校は幸運にも全米の高校の中から選抜され、ニューヨーク(NY)のセント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂(Cathedral of St. John the Divine)で開催される全米高校Choirのコンサートに招待されました。運良く私はこのNYでのコンサートのメンバーに選ばれました。NYでのコンサートやリハーサルの前後には、マンハッタンの摩天楼を散策したり、ブロードウェイ・ミュージカル(コーラスライン)を観劇したりしました。NYの各通りから見上げるビル群の壮大さには圧倒されました。 宿泊先近くのペン・ステーションで朝に見かけたトレンチコートをまといアタッシュケースを携え颯爽と歩く日本人ビジネスマンは、とてもクールでスマートな格好良さ、洗練さを感じました。当時、9.11でなくなった今は無きWTC(ワールド・トレード・センター)のツインタワーを見上げながら、将来このNYのマンハッタンで仕事をする自分を思い描き、ここで働いて挑戦したいと切望したのを覚えています。当時のNYは私に大きな夢やチャレンジ精神を与えてくれました。(実際にはそうした人生にはならなかったが。) 今後の人生に影響を与えたメキシコ訪問 さらに私の人生に影響を与え、それからの人生の方向性を決める出来事がありました。それは、NYで開催されたコンサートから戻った後に体験したメキシコ訪問でした。ホストファミリーは毎週末欠かさず教会に通う敬虔な長老派教会(Presbyterian Church)の信者でした。私の宗教は神道でしたが、留学中は米国の家族と一緒に教会に通い、青年部(Youth Club)に参加していました。そこで、教会活動の一環として、高校生によるメキシコでの教会建設を手伝うボランティア活動に参加することになりました。(この活動費は、教会の信者の方々からの寄付により賄われました。) 米国・ミネソタ州スティルウォーターからメキシコ・チワワ州の小さな村(村名は忘れました)まで、牧師さん2人が交代でスクールバスを運転し、国境を越えるという米国をほぼ縦断する旅でした。ボランティアの拠点・キャンプとなった米国側テキサス州エルパソまでは、スクールバスの中で2泊してたどり着きました。ミネソタ州スティルウォーターからの距離は最短でも1,399マイル(約2,251㎞)で、日本で言うと札幌市から福岡市までの距離に相当します。その後、エルパソから国境のリオ・グランデ川を渡り、メキシコ国境都市のシウダード・ファレスに入り、チワワ州の小さな村の教会建設現場に通いました。 陸路で国境を渡ったのは初めての経験でした。目には見えない国境を米国からメキシコに渡った瞬間、その雰囲気や空気感が一変したことに衝撃を受けました。同時に、対岸のメキシコ側の国境にはフェンスが敷かれており、米国への入国を待つ多くの人々がごった返している様子を見て、米国とメキシコの格差を目の当たりにしました。豊かな米国社会と貧しいメキシコとの格差に違和感を越えた怒りを感じたのを今でも鮮明に覚えています。この状況を何とか良い方向に改善したいと本心から感じました。当時はまだ17歳の高校生で、とても純粋だったようです。この体験は今でも鮮明に蘇り、その後の私の人生や仕事にとって重要な意味を持っています。 もはやNYの摩天楼でビジネスパーソンとして世界経済の中心で仕事をする自分の姿はすでに吹き飛び、先進国以外の途上国の地域や国々に関わって暮らし、仕事をすることが自分にとってやりたいこと、自分の人生の役割、天職ではないかと思うようになりました。この時の思いが、私の今後の人生のこだわりとなり、良くも悪くも大きく影響しています。 高校時代の思い出 日米で4年間過ごした高校時代、私のもっぱらの関心はギリシャ哲学にあり、ソクラテスやプラトンに傾倒していました。特に、絶対的な真理や善の存在を追求し、プラトンの『国家』を何度も繰り返し読みふけり、イデア論や国家論を理解しようと必死でした。当時の私は、受験勉強から逃避していただけかもしれませんが、素直になれず、ひねくれていたと思います。 そんな私を見かねて、東京教育大学の哲学科出身である恩師の村田先生が放課後に哲学好きな私の関心を満たし、ご指導してくださいました。今でも記憶に残る村田先生との一番の思い出は、先生が学生時代に研究していた英国の政治哲学者トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』の原書を先生の解説を受けながら読んだことです。とても難解な著作でしたが、先生に教えてもらいながら、自然状態、自然権、自然法といった言葉の定義を英語と日本語で理解し、先生と一緒にじっくり読み込んでいく学習でした。村田先生には、学ぶことの楽しさ、特に原書から読み解く学びの楽しさを教えてもらいました。 楽しかったTIUでの学び こうした経緯を経て、TIUに入学しました。TIUでは、私の知的好奇心を満たしてくれました。もっと知りたい、学びたいという姿勢で先生方にアプローチすると、ほぼ全ての先生方が対応してくださいました。TIUには、学問追求に熱心で、教育者としても素晴らしい先生方が多く、私は良い恩師に恵まれたと思っています。TIU時代は、学内では学ぶこと、研究することに集中し、学外ではインカレサークルに所属して、全国の学生や世界の学生たちと交流することに専念した充実した学生生活でした。後述しますが、研究熱心だったため、1年留年して5年間の大学生活を過ごしました。 1~2年生時のゼミは、左治木吾郎先生のゼミに所属し、川田侃先生の著書『国際政治経済学をめざして』を教材として、国際政治経済学を学ぶための米ソ冷戦構造や南北問題などの基礎を教えてもらいました。ソ連のゴルバチョフ政権下のペレストロイカやグラスノスチとともに政治改革が進められた時期、その後の東欧革命、天安門事件、ベルリンの壁の崩壊、ソ連崩壊につながる社会主義諸国の激動の時代でした。左治木先生はロシア経済や社会主義経済などもご専門だったため、その当時に起こる様々な事象について多くの質問をしたり、時間が足りない場合は先生の研究室に押しかけたりして、いろいろとご指導、ご教授いただきました。さらに左治木先生には、上級生のゼミや合宿にも誘っていただき、私の知りたい、学びたいという好奇心を大いに満たしていただきました。 3~5年生時のゼミは、小林多加士先生の中国研究演習のゼミに所属し、ご指導いただきました。小林ゼミは中国の地域研究を学ぶゼミでしたが、私の関心は当時揺れ動いていた社会主義体制の全般的な危機をこれまでの歴史社会理論上どう捉えるかということでした。小林先生は中国研究のみならず、世界システム論や比較文明論なども研究されていました。私は小林先生の指導の下、社会主義体制に影響を与えてきたマルクス歴史社会理論、アルチュセールの構造主義的社会主義、アンドレ・グンダー・フランクの従属理論、サミール・アミンの新従属理論、ロベール・ボワイエなどのレギュラシオン学派、イマニュエル・ウォーラーステインの世界システム論、田中明彦の『新しい中世 相互依存の世界システム』などの著作物を読み漁り、卒論を執筆する準備をしました。当時のワープロで執筆したので、メモリー機能がなく卒論は残っていませんが、確かテーマは「社会主義の全般的危機と歴史社会理論の再検討」だったと思います。小林ゼミでは、ゼミの合宿に参加しましたが、大学院生のゼミにも参加させてもらい、とても知的好奇心を刺激してもらいました。何となくこのまま大学院に進学する感じでした。 ゼミ以外に感銘を受けたTIUの先生方の講義 ゼミのみならず、感銘を受けた講義は以下のとおりです。 太田秀通先生の歴史学 西洋史学者である太田先生からは、世界史認識の思想と方法をはじめ、歴史を学ぶ楽しさを教えていただきました。紀元前のギリシャやクレタ島で使用されていた線文字Bの解読に関する歴史ロマンに感銘を受けました。アジア的生産様式の解釈などの講義も最高でした。アカデミズムの素晴らしさ、楽しさを教えてもらいました。 伊東博先生の教育学 援助する教育という理論に感銘を受け、その重要性を学ぶことができました。講義後は何度も先生の研究室を訪ね、さらに深い講義を受けました。教育も援助することと一緒であるとの考えには共鳴し、その後の途上国勤務にも活かしました。 大越康夫先生の憲法論 憲法9条を中心に憲法についてしっかり教えてもらいました。 引田隆也先生の政治思想史 とてもわかりやすく、ギリシャから現代までの思想史を網羅的に教えてもらい感銘を受けました。 下羽友衛先生の国際関係論 国際関係分析の方法論を教えてもらいましたが、紛争解決の研究者はその紛争地帯の現場に行って活動しながら分析することが重要であると熱弁していたことが印象的でした。 枇杷木賢生先生の国際経済学 一般教養の講義で基本的なことを教えていただきました。いつもジーンズでブーツを履いていた姿に憧れました。最近、米国テキサス州に出張して、念願のテキサス仕込みのブーツを購入することができました。 原彬久先生の国際政治学 モーゲンソー研究で有名で、政治的リアリズムについて教えてもらいました。学生時代にはカントのような理想的な国際政治学があるのではないかと疑問を持ちながら講義を受けていましたが、社会人になり中東アフリカ地域に関わることで、原先生が語っていた政治的リアリズムの重要性をより実感することができました。 杣正夫先生の日本選挙制度史 当時はあまり興味がなかったが、この講義を履修したことで、選挙を通じて日本政治史を理解することができました。このアプローチは新鮮でした。 富塚俊夫先生のアラビア語 2年間第二外国語としてアラビア語を教わりました。社会人となり中東地域に関わるきっかけとなったようです。 白井洋子先生のアメリカ史 ラス・カサス著の『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を読んでレポートを提出しましたが、植民地主義の時代を擁護するような頓珍漢なレポートを提出してしまったことを今でも後悔しています。 学生生活(インカレサークルISA活動、アジア訪問) 学内にいる時は、一生懸命勉強していた記憶が残っています。勉強は好きでしたが、頭が良くないので成績はそれほど良くなかった気がします。学外では、日本国際学生協会(ISA:International Student Association of Japan)という、当時全国に700名ほどの学生が所属する協会の東京支部に所属していました。TIUの先輩に誘われてISAに入会し、学生時代は学内では勉強、学外では海外の学生との交流や国際会議開催などの活動に費やしていました。TIUで講義を受けていない時は、四谷にあった東京支部の事務所に通い、都内の学生たちと勉強会を開催し、国際会議や海外の学生との交流会の企画・準備をしていました。 学生時代は、休みの期間は短期バイトをして10万円程度稼ぐと、そのたびにタイに出かけていました。タイのバンコクをベースに、ネパール、パキスタン、アフガニスタン、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピンなどを訪問し、各国の学生たちと交流していました。本当はもっと遠くに行きたかったのですが、あまり稼げず、学生時代はアジアまでしか行けませんでした。 1989年2月から4月にかけて、タイ、ネパール、パキスタン、アフガニスタンを訪問する機会に恵まれました。これは、私がISAの団長として、ネパールとパキスタンの学生団体と交流会を開催するイベントでした。ネパールでは、トリブバン大学(Tribhuvan University, TU)との交流会で、地方の現状を視察しようということで、地方都市のポカラに移動し、車両が入れない山岳地帯を3日間歩いて、各農村の農家に泊まりながら現地の村の有力者、小学校や病院などを視察しました。 パキスタンでは、カラチ大学とペシャワール大学の学生たちとの交流会を実施しました。パキスタンでは現地の家庭にホームステイし、イスラム社会やその文化に触れることができました。同時に、ペシャワールでは、まだ当時ソ連のアフガニスタン侵攻が解決していなかった時代で、ペシャワールのアフガニスタン人の難民キャンプから難民兵士が武器を持って国境のカイバル峠に行く姿、銃声、爆音が聞こえるところまで視察することができた貴重な体験をしました。 腸チフス感染による留年を経験 この旅行から帰国後、高熱が続き、幼少時から面倒を見てもらっているかかりつけ医の治療もお手上げとなり、地元の自治医科大学病院に行ったところ、病名はわからないが即入院となりました。同大学病院でも1週間ほど病名を診断できず、病状が悪化しないように処置がなされました。その後、培養結果が出て、腸チフスと診断され、法定伝染病に指定されている病気ということで、隔離施設のある病院に移送されることになりました。隔離病棟に入ったら即絶食となり、胸から管を入れられ、長期入院の治療が始まりました。40日ほど入院して退院後、体力も大幅に落ち、歩くことすらできない状況で、大学に通うのも困難な時期が続きました。学校側とも交渉しましたが、前期試験を受けられなければ留年せざるを得ないとのことで、1年間休学することにしました。 実は、学生時代には知識がなかったため対処できなかったが、法定伝染病に罹患し隔離されたことを根拠に学校側としっかり交渉すれば、1年留年することはなかったのではないかと少々悔やんでいます。ある教授に相談したら、「あなたを救う方法はない」ときっぱりと言われ、それ以上粘ることができませんでした。無知であることの哀れさを感じる出来事でした。 大家さんとの良き思い出 1年留年したことで、両親とは多少ギクシャクしながらも、サポートはしてくれていました。しかし、自分から家を出ることにして、4年生から5年生の就職が決まるまでは、大学近くの鶴ヶ島に四畳半トイレ・風呂・洗濯機使用共同で1か月1万円(共同の水道・光熱費は5千円)のアパートを見つけて住むことにしました。今はもう取り壊されてなくなってしまった古いアパートで、伯谷荘と言い、地元の酒屋さんのお婆様が大家さんをしているところでした。家賃は、そのお婆様の大家さんに直接払いに行くシステムでした。その際に、大家さんといろいろな世間話を30分くらい、長い時には1時間くらい話して家賃を払って帰ります。だんだん親しくなってくると、家賃を払いに行ったのに、お土産やお小遣いをもらって帰ることが多くなりました。この伯谷荘の大家さんには本当に助けてもらい、今でも感謝している忘れられない思い出の1つです。 就職活動の現実 こんな素晴らしい大家さんに支えてもらいながら、高校4年間、大学5年間通う学生を受け入れてくれる職場があるのかと怯えながら、インカレサークルISAの他大学の学生の仲間たちから情報を得ながら、就活を始めました。就活しながら、大学院への進学も真剣に考え準備もしていました。両親は、栃木の田舎に戻り、教員や役場、県庁、警察や消防署、父と同じ郵便局員などに務める公務員を希望していたようです。この就活の機会に、いろいろな業種の職業を見てみようとの気持ちで活動しましたが、現実はかなり厳しいものでした。 当時は、電話や手紙で説明会に申し込むのが一般的でした。一流と言われる大学の仲間たちからどこの企業は説明会が始まったとの情報を得て、電話をすると、出身大学名が伝わると説明会は開催しないとの回答が何社からもありました。実際に別の大学の友人たちはその企業の説明会に参加しているのに、参加させてもらえない、参加する権利さえないと現実の厳しさを実感しました。また、中学時代にとても優秀だった同級生が務める有名商社を訪ねたところ、「髙宮の大学ではうちの会社には入れない」とはっきり言われてしまいました。あるシンクタンクの説明会に参加したところ、「あなたのような人材は当社はいらない」とはっきり言われたこともありました。 一方、企業やNGOでも、とても丁寧で親切に対応してくれたところもありました。超大手企業は青田買いで先輩が出身大学の学生を確保している姿も身近に感じました。正式に試験を受けても、そう簡単には入れるところは少なそうだと感じていました。 JETROへの就職 民間企業に比べ就活の時期が遅い公務員や政府系機関の就職も視野に入れ、試験は誰でも受けさせてくれる職場を選んで就活することにしました。公務員の上級職を受けましたが、全くダメでした。外務省の専門職と上級職の受験票を取りながら、政府系機関のJETRO、JICA、OEFC、JNTO、日本銀行、中小企業事業団(現在は中小機構)などに連絡して、若手職員との面談をさせていただきました。通常であれば、出身大学の先輩職員が対応するのですが、TIU出身の先輩がいないところも多く、私の場合は別の出身大学の職員やインカレサークルの先輩を頼って各機関を訪問し、お話を聞かせていただきました。 アフリカに行ける職場は限られていましたが、「学生時代はアジアを訪問して途上国を知ったが、将来はアフリカで仕事をしたい」とJETROで言ったところ、当時のJETROは先進国志向の職員が多く、途上国、ましてやアフリカに行きたいという職員は聞いたことがない。JETROに入ったらすぐにアフリカに行けるのでは」と話が盛り上がりました。JETROとは縁があったのでしょう。その後、内々定をもらい、もう他に就活する必要もなく、残っている外務省の試験も受ける必要はない、JETROを信用してくださいと言われ、結果としてJETRO職員となることを決めました。その後、いくつかの政府機関や企業からお声がかかりましたが、JETROに就職するとお伝えしてお断りしました。 TIUのゼミの小林先生に大学院に行くか、JETROに行くか相談したところ、JETROに行くべきであると言われ、就職した後に大学院に来たければ勉強しにくれば良いと言われました。したがって、JETROに就職することにしました。TIUの就職課にJETRO内定を報告したところ、JETROを知らなかったようでした。とても残念な気持ちになりました。 社会の現実の厳しさを知る就活を体験しつつも、自分のやりたい、その後天職であると思える職場に就職できたことはとても運の良い人間だと思いました。就活中に言われたことは、良いことも悪いことも、就活でお付き合いした企業や機関は一生忘れることはありません。 TIU卒業後の人生の主な歩み 現在、岡山県倉敷市水島に本社のある萩原工業株式会社で経営企画室 社長特命担当部長を務めています。以前はJETRO岡山貿易情報センターの所長を務め、26年間JETROに勤務していました。 国際貿易・投資への献身:日本貿易振興機構(JETRO)でのキャリアJETROの日本の貿易・投資促進における役割と活動 1992年に日本貿易振興会(現在の日本貿易振興機構、JETRO)に入会し、2018年4月に退職するまでの26年間、国際貿易と投資の促進に尽力しました。JETROは、日本と世界各国との間の貿易と投資を促進することを目的とした政府系の独立行政法人です。当初は輸出振興に重点を置いていましたが、近年では輸入促進、対日投資誘致、中小企業の海外展開支援など、幅広い活動を行っています。現在、JETROは、56カ国76事務所と、日本国内に48の事務所を展開し、グローバルなネットワークを活かして活動を行っています。 海外事務所長としてのリーダーシップ ダルエスサラーム事務所長(タンザニア)での主な活動 JETRO在籍中にダルエスサラーム事務所長を1994年11月から1998年3月まで務めました。アフリカ駐在を希望して就職し、3年目でタンザニアに駐在、しかも若輩の20代ながらも事務所代表の所長として赴任することができました。タンザニアは、日本企業の投資関心が高まっている国の一つであり、JETROは日本とタンザニアの経済関係強化に努めています。ダルエスサラーム国際見本市への日本パビリオンの出展などを通じて、日本製品やサービスの紹介、日本企業による市場調査支援などが行われていました。また、アフリカ投資促進フォーラム(AIPF)の枠組みの中で、日本企業の投資促進を支援していました。 私の事務所長としての主な活動は、日本企業のタンザニア市場への参入支援、タンザニアからの対日輸出促進、両国間の経済協力関係の強化などでした。 テヘラン事務所長(イラン)での主な活動 続いて、私は1999年6月から2004年1月までテヘラン事務所長を務めました。タンザニアの駐在から東京本部に戻り、半年後には誰も行きたがらないとのことで、人事からお声がかかりました。また、所長であるということで即答しました。JETROは、イランとの貿易・投資促進を通じて、日本の経済発展に貢献することを目的として活動を行っています。テヘラン事務所では、市場調査、日本企業のイラン市場への進出支援、イランからの対日輸出促進、テヘラン国際見本市の日本館運営と日本企業向け展示会への参加支援を行いました。 また、当時は日本がアザデガン油田の権益を確保するため、イラン側に対して非石油分野での支援を活発化した時期でもありました。JETROにはイランの非石油分野への支援をする指示があり、イラン側が日本政府に求めた自動車産業及び部品産業の支援、薬品分野の産業支援、イランのWTO加入促進支援などを強化しました。イランは政治的に複雑な状況にある国であり、私の在任中には、日本とイランの経済関係を維持・発展させるために、慎重な対応と深い市場理解が求められました。 カイロ事務所長(エジプト)での主な活動 2010年3月から2014年11月まで、カイロ事務所長を務めました。エジプトは、アフリカ地域においてJETROが1955年から活動を展開している重要な拠点の一つです。カイロ事務所では、日本企業の対エジプト投資促進、エジプトからの対日輸出促進、技術協力、ビジネスミッションの実施など、多岐にわたる活動が行われています。 私の在任中には、アラブの春の事件が勃発し、政治・経済情勢の変化に対応しながら、日本とエジプトの経済関係を強化するため、カイロ国際見本市において日本館を出展・運営する活動なども展開しました。当時の上司からは「なぜ現地にいてアラブの春の発生を事前に予知できなかったのか?」と責められたことを思い出しました。2014年3月には、ロンドンで開催されたチャタムハウス(Chatham House:王立国際問題研究所)とアジア経済研究所の研究会合に出席し、「アラブの春」後の中東情勢について議論に参加するなど、地域情勢へ深く関与しました。 @マルサ・マトルーフの海岸 @エジプトの西部砂漠(サハラ砂漠の一部) @シーワオアシス 地域イニシアチブの主導:JETRO岡山貿易情報センター所長としての活動 JETROでは地方事務所勤務を経験していませんでしたが、2015年7月から2018年4月まで、JETRO岡山貿易情報センター所長を務め、地域経済の振興、国際交流、地元企業の支援に尽力しました。東京本部の役員からは、しっかり地方を学び、地方創生に貢献してくるよう指示されました。岡山県庁や県内の各市町村の企業の海外進出について知事、市長、町長、村長たちと意見交換を行ったり、岡山県高等学校教育研究協議会委員や岡山操山高校のスーパーグローバルハイスクール(SGH)運営指導委員会委員として、高校生のグローバルな視点育成に貢献したりするなど、地域社会との連携を積極的に行いました。 また、岡山県内の若者のグローバル意識を高めることを目的とし、地元の大学生や高校生、小中学生にも講師として長年関わり、自身の国際経験を共有してきました。これらの活動は、JETROのネットワークと自身の経験を活かして、地域経済のグローバル化を推進しようとしたものでした。 地方創生に貢献することを学ぶため岡山大学大学院にて公共政策学修士号を取得 2016年4月からJETRO岡山貿易情報センター所長を務めながら、夜や週末は岡山大学大学院の社会文化科学研究科博士前期課程の公共政策学専攻に通いました。ここでは、地域社会の発展と自立性を重視した公共政策について学び、念願かなって修士号も取得することができました。具体的には以下の内容を学びました。 政策分析能力: 法学、政治学、経済学、経営学などの学際的アプローチを通じて、政策の企画・立案・評価を行う能力を養いました。 公共組織経営: 公的組織の経営に関する知識とスキルを身に付けました。 地域公共政策: 中四国地域を対象に、地域の政策課題を発見し、解決する能力を育成しました。 在学中の2016年8月~9月にかけて、都市計画や地域開発の研究で有名な米国のPortland State Universityの研修に参加しました。このプログラムは「Okayama University Public Administration Short-Term Training, Citizen-Centered Governance – Cases from Portland, Oregon」というもので、この研修を修了することもできました。研修内容は以下のとおりです。 市民中心のガバナンス: 市民参加の重要性、市民の意見を政策決定に反映させる方法や、市民との協働を促進するための戦略を学びました。コミュニティ・エンゲージメント: 地域社会との関わり方や、コミュニティのニーズを理解し、対応する方法を探りました。 ポートランドの事例研究: ポートランド市が実施した市民中心の政策やプロジェクトの具体例を通じて、実践的な知識を得ました。政策の実施と評価: ポートランド市の政策がどのように実施され、評価されているかを学びました。 公共政策の理論と実践: 行政倫理と価値観、公共政策における倫理的な問題や価値観についての理解を深めました。政策分析と実施: 政策の分析方法や実施のプロセスを学びました。 リーダーシップと管理: 公共機関や非営利組織でのリーダーシップのスキルを養いました。財務管理と予算編成: 公共機関の財務管理や予算編成の方法を学びました。 地域資源の管理: 地域の自然資源を保護し、持続可能な方法で管理するための政策を学びました。非営利組織の管理: 非営利組織の運営や管理に関する知識を深めました。 このプログラムは、ポートランド州立大学の専門家や実務家から直接学ぶ機会を提供し、理論と実践を融合させた学びを通じて、公共政策における市民中心のガバナンスの理解を深めることができました。久しぶりの米国での学びは、とても良い機会、刺激となりました。 修士論文について 修士論文では「地方創生における地域経済活性化に効果をもたらす輸出産業の考察」をテーマに執筆しました。その概要は以下のとおりです。 研究目的: 日本の人口減少とそれに伴う国内経済の縮小に対し、地域経済を活性化させるために輸出産業の役割を探ることを目的としています。 研究方法: 貿易統計の分析: 財務省のデータを使用して、日本全体および岡山県の貿易動向を分析。産業連関表の利用: 地域産業連関表を用いて、各地域の輸出産業の特化係数や比較優位性を評価。 研究結果: 生産効果モデル: 輸出産業が地域経済に与える生産効果を分析し、主要な輸出産業を特定。輸出特化係数と比較優位モデル: 各産業の輸出特化係数と比較優位性を評価し、地域ごとの輸出産業の強みを明らかに。 研究考察: 輸出産業の重要性: 輸出産業が地域経済の成長を促進し、国内市場の縮小を補う役割を果たすことを強調。 政策提言: 地域ごとの輸出戦略を策定し、経済成長を維持するための具体的な施策を提案。 結論: 輸出戦略の重要性: 国内需要の減少に対処するため、輸出を通じて新たな需要を創出し、地域経済を活性化させることが必要。 詳細な分析: 全国産業連関表(2011年): 日本全体の輸出構造を分析し、輸出が国内生産に占める割合を明示。主要な輸出産業25部門を特定。 地域別分析: 47都道府県の地域産業連関表: 各地域の輸出データと産業分類を分析し、地域ごとの輸出産業の特徴を明らかに。 この論文は、地域経済の活性化における輸出産業の重要性を強調し、具体的な政策提言を行っています。詳細な統計分析や地域別の事例研究を通じて、輸出戦略の策定と実施の必要性を示しています。 JETROでの26年間で得たもの JETROでの26年間、そのうち13年間を海外駐在に費やした私は、国際市場、貿易規制、異文化間のビジネス慣行、そしてグローバルな経済動向に関する深い理解を培ってきました。この経験は、民間企業の実践的な戦略的方向性とグローバルな取り組みを形成する上で非常に貴重です。岡山大学大学院で2018年3月に取得した公共政策修士(MPP)の学位を含む私の学歴は、国際ビジネスにおける実践的な経験を補完し、グローバルな文脈における戦略的意思決定のための理論的枠組みを提供しています。MPPプログラムは、経済学、政策分析、組織管理などの分野の知識を与え、これらはグローバルな文脈における戦略策定に直接応用できるものです。 製造業への転身:萩原工業株式会社萩原工業:会社概要、事業内容、グローバル展開 岡山でのJETRO所長時代に創業家の経営者から誘われ、「人生後悔させない」と言われ最終的にJETROを離れる決意をしました。2018年5月に岡山県倉敷市水島に本社がある萩原工業株式会社に転職し、現在、経営企画室社長特命担当部長を務めています。萩原工業は、ポリエチレン・ポリプロピレンを主原料とした合成樹脂繊維「フラットヤーン」を用いた関連製品および産業機械の製造・販売を行う企業です。ブルーシートの国内トップメーカーであり、その他、人工芝、食品包装材、家電部材など、幅広い分野で製品を展開しています。当社は、海外14カ国に生産・販売拠点を持ち、グローバルに事業を展開しており、東京証券取引所プライム市場の上場企業でもあります。 萩原工業における役割:国際部長から経営企画室長へ 私は萩原工業入社後、経営戦略室長、合成樹脂事業部門国際部長及び経営企画室長を経て、現在は社長特命担当部長として、同社のグローバル展開を推進することを担っています。JETROでの豊富な国際経験と、海外市場に関する深い知識は、当社のグローバル戦略を推進する上でとても役に立っています。 私の萩原工業での活動の一例を紹介します。つい最近、外務省が作成したパンフレット「日本と中南米をつなぐ日系人」のインタビュー記事を通じて私の活動が紹介されました。 www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/pub/pamph/japan_latinamerica.html 私がこれまで訪問した国88か国(そのうち居住した国5か国)について 私がこれまで訪問し、住んだ国は、以下の地図のとおりです。 I have been to 88 (35%) countries / territories of the #World! #countriesbeen グローバル展開による経営力強化:講演テーマ分析 私はこれまで、「経営力強化のためのグローバル展開について」というテーマで様々なセミナーや講演会で講演を行ってきました。グローバル展開は、企業が成長機会を求め、競争力を強化するための重要な戦略の一つです。海外市場への参入、グローバルサプライチェーンの構築、海外企業との提携など、多様なアプローチが存在します。私の講演は、JETROでの経験に基づいた実践的な視点と、萩原工業におけるグローバル戦略の推進経験を踏まえた、示唆に富む内容であると評価されることがあります。 【髙宮純一(タカミヤ ジュンイチ)さんプロフィール】 1967年 5月19日生(東京都渋谷区) 学歴: 1974年3月 卒園 戸田東幼稚園(埼玉県戸田市) 1980年3月 卒業 野木町立友沼小学校(栃木県下都賀郡) 1983年3月 卒業 野木町立野木中学校(栃木県下都賀郡) 1985年6月 卒業 Stillwater Senior High School(米国ミネソタ州スティルウォーター市) 1987年3月 卒業 茨城県立古河第三高等学校普通科(茨城県古河市) 1992年3月 卒業 国際学士 東京国際大学教養学部国際学科(埼玉県川越市) 2016年9月 研修修了 Okayama University Public Administration Short-Term Training, Citizen-Centered Governance – Cases from the Portland, Oregon. Center for Public Service, Mark O. Harfield School of Government, Portland State University.(米国オレゴン州ポートランド市) 2018年3月 修士課程修了 公共政策学修士(Master of Public Policy) 学位記番号:第22946号(Degree Number : 22946)岡山大学社会文化研究科博士前期課程公共政策学専攻(岡山県岡山市) 資格: 防災士(Disaster Prevention Expert Certification in Japan) 日本防災士機構(特定非営利活動法人)(Japan Bousaisi Organization) 認定番号: No.019874 居住地の東京都世田谷区の支援を受け取得。 職歴: 1992年4月1日日本貿易振興会(JETRO:現在の日本貿易振興機構、東京都港区虎ノ門)採用 総務部人事課付 1992年4月20日 国内異動 経理部経理課(採用後配属先、経理・会計・財務業務) 1994年11月26日 海外異動 ダルエスサラーム事務所 所長 タンザニア ダルエスサラーム:1994年11月 – 1998年3月(3年5ヶ月) ダルエスサラーム日本人会 役員 1998年3月28日 国内異動 海外事業部事業調整課(海外事務所運営業務) 1998年7月1日 国内異動 事業統括部海外事業課(海外事務所運営業務) 1999年6月11日 海外異動 テヘラン事務所 所長 イラン テヘラン:1999年6月 – 2004年1月(4年8ヶ月) テヘラン日本人会 理事 2004年1月27日 国内異動 企画部企画課 課長代理(経営企画、予算総括業務) 2007年5月1日 国内異動 海外調査部調査企画課 課長代理(海外調査部全体の管理運営、調査企画業務) 2007年5月19日 国内異動 海外調査部 総括課長代理(海外調査部全体の管理運営、調査企画業務) 2008年10月10日 国内異動 総務部 主査(法務、契約、情報公開、コンプライアンス、内部統制等業務) 2009年7月1日 国内異動 総務部 主幹(法務、契約、情報公開、コンプライアンス、内部統制等業務) 2010年3月23日 海外異動 カイロ事務所 所長 エジプト カイロ:2010年3月 – 2014年11月(4年9ヶ月) エジプト日本商工会 副会長 カイロ日本人学校 PTA会長(学校運営委員会メンバー) 2014年3月27日 ロンドンにて Chatham House(英国王立国際問題研究所)とアジア経済研究所の研究会合に出席 「アラブの春」後の中東 ~東西の視点の邂逅(かいこう)~MENA in Post – “Arab Spring” Era Shared Perspectives on the Middle East and North Africa 2014年11月20日 国内異動 企画部主査 2015年2月1日 国内異動 事業推進主幹(中東アフリカ地域戦略) 2015年4月1日 国内異動 海外地域戦略主幹(中東アフリカ地域戦略) 2015年7月1日 国内異動 企画部付(入院) 2015年7月15日 国内異動 岡山貿易情報センター 所長 日本 岡山県:2015年7月 – 2018年4月(2年10ヶ月) 主な公職: 岡山商工会議所 参与 岡山・ミャンマー友好推進会議 顧問 岡山県・南オーストラリア州友好協会 理事及び監事 岡山県高等学校教育研究協議会 委員 岡山県高等学校教育研究協議会専門委員会(第二専門委員会)委員 岡山県高等学校教育研究協議会 起草委員会 岡山県土木部指定管理者候補選定委員会 委員 岡山県企業誘致推進協議会 企業誘致アドバイザー 岡山・産学官連携推進会議 委員 岡山空港国際物流促進協議会 顧問 岡山市経済政策審議会 委員 岡山市国際交流協議会 監事 (公財)岡山県産業振興財団 評議員 (公財)岡山県産業振興財団 評議員 選定委員会 委員 (一社)岡山県国際経済交流協会 理事 (一財)岡山県国際交流協会 評議員 (一財)岡山県国際交流協会 運営委員会 アドバイザー 岡山日蘭協会 特別顧問 岡山県立瀬戸南高等学校地域共育審議会 委員 岡山操山高校スーパーグローバルハイスクール運営指導委員会 指導委員 2018年4月30日 退職 日本貿易振興機構(東京都港区赤坂)を退職(26年1か月間) 2018年5月1日 転職 萩原工業株式会社(岡山県倉敷市)に入社 2018年5月1日 経営戦略室 室長(2年6か月) 2020年11月1日 合成樹脂事業部門 国際部 部長(1年間) 2021年11月1日 経営企画室 室長(3年間) 2024年11月1日~現在 経営企画室 社長特命担当部長 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
TIUの精神「真の国際人」を目指し、挫折から文武両道で世界に再度挑む!
大橋正芳さん(2003年卒業 経済学部経済学科 渡邉ゼミ 体育会躰道部)
2025年3月1日【はじめに】 初めまして!1998年TIU入学、経済学部経済学科、第34期躰道部出身の大橋正芳と申します。素晴らしい卒業生の皆様、そして現役生のご活躍、TIU出身として大変誇らしく思うと同時に、ここにこうして私は寄稿させていただくこと、ただただ恐縮ではあります。しかし、振り返ってみるとTIUという素晴らしい環境で得た経験や出会いが非常に私の人生形成に大きな意味やターニングポイントをくだったことは確かです。なので、何か一つでも卒業生の皆様や現役生の方へ感じていただけることがあればと思い文をまとめて参ります。どうか最後までお付き合いくだされば幸いです。 ↑海外挑戦時代 子供達と武道と教育と。 【TIUでは躰道部で部活一筋、体育賞受賞!】 1998年に入学し、当時は大変な活躍をしていた体育会躰道部に入部しました。当時はなんとなく海外に繋がっていけばいいのかなくらいの入学の志望動機でしたが、躰道という武道にすっかりハマってしまい、朝から晩まで毎日毎日日本一を目指して稽古という日々を過ごしておりました、授業よりもほぼほぼ道場で過ごす日々でした(笑)。 そして2002年、大学4年生の時、運良く私とOBの先輩で組んだTIUチームで世界大会(沖縄開催)で団体戦優勝し体育賞受賞を頂戴いたしました。そこまでは躰道一色線でひたすら没頭しておりました。ただ、TIUでよかったなと思う点はTIUAを経験した先輩や海外で勝負している卒業生の方が多く、感性的に知らず知らずに「世界で勝負する」ことがかっこいいと思っておりました。 そして、その世界大会で衝撃的な出会いがありました。TIU卒の4期生、内田先輩。アトランタで躰道道場を大成功させており、多くの門下生を引き連れて那覇に来られておりました。「日本の文化武道を海外に普及させて凱旋する」、これがめちゃめちゃかっこよくて、この人を目指そう!と決意し部活を引退しました。 【4期の大先輩が創設したアトランタ道場へ】 部活の引退後、いざアトランタでご活躍されている内田先生の道場に飛び込みました。初めてのアメリカ、衝撃でした。TIU卒業生の先輩が単身で乗り込み大成功させたアトランタ道場、日本よりも日本の文化が根付いておりました。押忍の精神と礼儀、稽古への姿勢と熱意、武道生の追及、哲学的な発想や練磨錬成の思考、、、ぶったまげました。これは日本よりも日本だ!アトランタに武道よりも武道がある!と。 そして、何より感銘を受けたのは内田先輩は優秀なビジネスマンでした。躰道の普及には経済的基盤も重要で、最もすごいと感じたのはそもそもアトランタでビジネスを成功させていたことです。異国の地でビジネスも成功させ、武道道場で日本以上の日本文化を具現化し、多くの生徒や関係者に囲まれ尊敬され期待されている。20代前半で衝撃的なシーンで今(45歳)でもモデルケースとして背中を追いかける、そんな出会いでした。TIUに入学していなければあり得ない出会いでした。 帰国前に、内田先輩にお伺いしました。 「内田先輩!自分、先輩みたいになりたいんですがどうしたらいいですか!?」と。 答えは英語を学べとかビジネスをとかかなと思いましたが意外なものでした。 「大橋くん、世界に挑戦したいならまずは日本人として日本をしっかり学びなさい、それが真の国際人、日本人だ。」と。 その言葉を胸に、日本に帰りました。 ↑3期の内田先輩が創設したアトランタ躰道協会の稽古 【晴れて日本一獲得!2006年全日本躰道選手権優勝。資金準備していざ挑戦!】 日本に戻り、「海外進出して自分の道場を!」が目標になりました。アトランタの先輩のように世界一の道場を海外で、これがTIUという土壌で学び育った私の目標でした。 当初の目的地は豪州シドニー。そのために二つの目標を作りました。 1、まず個人で日本一を獲得すること。やはり世界に打って出るブランディングでは「日本一」は欠かせないかなと。2、資金。最低でもビザが切れるまで1年は暮らせるようにと。最短で実現できるよう昼は仕事、夜は稽古の生活が始まりました。どんなに仕事で遅くても深夜まで走り、公園で怪しまれながらも武道の練習をし、休日は延々と道場に籠って練磨錬成。間違いなく日本一稽古したと自負しています。 そして約3年後の2006年、血の滲むような稽古と運もあり、晴れて全日本躰道選手権で優勝、日本一獲得!順調に1年以上は暮らせる資金も貯まり、お声をかけていただいたシドニーに意気揚々と乗り込んだのが2007年でした。会社も辞め、住所も移し、成功するまで2度と日本に帰らないと心に決めて挑む、27歳の春でした。 ↑シドニーへ海外派遣指導員として挑戦 【挫折から考えらせられた「真の国際人」とは】 シドニーでは最初は好調でした。やはり、「躰道日本一の選手」の威光は強く、当初はリスペクトをもって受け入れていただいておりました。平日はシドニーでトップクラスのNSW大学の部活動で指導し、休日はどこか道場を設立できる場所探しを行う。ただ、今思えば戦略性がなく短絡的な考え、「武道が上手だから成功できるハズ」と勢いそのままでとにかく演武や稽古会を行うのみでした。なにせ日本一の選手が武道後進国の南半球に来たのです。成功できると確信していた、そんな愚かな私でした。 しかし、そんな愚か者に天罰?がくだります。唯一の武器である身体能力を掻き消す、両足が痺れて動かなくなるヘルニアでした。慣れない環境のせいなのかみるみる悪化し、歩くのすらままならない状態に3ヶ月でなりました。当時、自費の医療費は大変高く、しかも両足の痺れというなかなか原因や運動障害が証明しにくい受傷だったので莫大な医療費の割になかなか保険対応が進まず、ただただ軍資金が消えていく日々でした。 そして、大した理念や信念をもたない私の生活は荒廃していきました。契約していた家も破棄になり、ただただホームレスのように昼から公園を彷徨う、地獄のような夢を失った状態でした。 その時のことは一生忘れないと思います、日々自問自答して「武道とは?」「躰道の役目とは?」「世界から求められているものは?」そして、「真の国際人とは」。 日本に帰るという選択肢は全くありませんでした。いつか治って、いつか復帰できて、いつか成功できる、そんな治療だけに専念をする生活でした。 【帰国、そして日本で道場と会社設立から10年】 そんな状態でしたが、日本にいる先輩から「手術と入院を用意できる」とお声をかけていただき、リハビリを約半年、復帰まで1年かけて治療しました。その期間、振り返りの中心にあったのは「真の国際人」であれという、TIUの先輩、アトランタの内田先輩のお言葉でした。 まず、日本で日本人として信念を持って成功しよう、そしてそこから世界に再挑戦しよう。 日本で確固たる信念を錬成し、本当の価値ある国際人として再出発したい、そんな思いでした。 最初に東京に躰道道場を作りました。日本一の道場を目指し今年で10年目。昨年は東京道場では初となる全国大会総合準優勝まで破竹の勢いで上り詰め、日本一まであと一歩というところまで来ました。次に起業しました。日本の経営者を対象にしたブランディングやコンサルティングを行い、こちらも今年10期目となり多くの経営者様にお世話になっております。 そして、この10年を機に私も改めて世界にと決意を固めております。 ↑東京に戻り創った道場、昨年は全国大会で総合準優勝! 【2社目設立、いざ!遥かなる海外再挑戦へ】 道場、起業したビジネスが安定し、次は2023年にハワイに新しく会社を作りました。日本から世界進出に挑戦する経営者向けのコンサルサービスです。ここではハワイ、アメリカ進出のみならずアジア市場展開のお手伝いもしております。日本企業の志ある経営者様が「真の国際人」を目指し世界展開する、そんな情熱をご支援する企業です。 ここでは現在、日本の食品をハラル市場に市場投下するビジネスや、日本文化である懐石料理のNY進出、焼肉屋のハワイ進出などをご支援しております。まだまだ拡大していく予定です。 【2024年に40歳以上のキックボクシング王者獲得!】 この10年は自身の道場、そして起業したビジネスを波に乗せることに時間を使いましたが、そんな折でも自己錬磨は忘れておりません。いつまでも挑戦したいという思いから「アンチエイジングファイト」という年齢を超えた戦いの場、40歳以上の日本最強を決めるシニア(マスターズ)キックボクシングにおいて8連勝し、チャンピオンにもなりました。世界進出のためのビジネス経営を展開しなはら道場運営、そして2度目の日本一。 時は来ました。 ↑40歳以上のキックボクシング王者獲得! これを機にある挑戦の決断をしております。 もちろん「真の国際人」として世界進出、です。 世界一の武道道場を、世界と繋ぐビジネスを、かつての挫折を糧に再度挑戦します。 運命を、理想を与えてくれたTIUの学び場で得た夢を実現すべく45歳ですがまだまだ挑戦して参ります。長文駄文になりましたが最後に、この記事を読んでくださっているTIUの卒業生の皆様、在学生の皆様、いつか世界で人生が重なれば最高です! 【大橋正芳さんプロフィール】 1979年 埼玉生まれ 2003年3月東京国際大学卒業 経済学部経済学科 渡邉ゼミ 体育会躰道部 卒業後、20代は東京国際大学の部活動での経験を生かし、日本武芸(躰道)の海外派遣指導員としても世界普及のため活動を行う。 その後、東京でITコンサル会社の法人営業部長として上場企業の経営層向けにコンプライアンスをテーマに1000社以上へ講演。 2017年からはアジア最大のPR会社にジョインした米国(Hawaii)企業所属、2019年にはその(株)ベクトルグループ3000人から最優秀セールス賞(MVP)受賞。 現在は起業し、経営コンサル会社を東京、米国ハワイにて2社経営。 また、ビジネス以外の活動では沖縄エリアの一般社団法人の代表理事として貧困層向け教育拡大プロジュエクトを遂行中。また東京ではNPO法人日本武芸躰道協会の師範として小中高生の門下生60名に指導/次世代育成も手掛ける。 主な受賞歴:2006年全日本躰道選手権優勝、 2019年(株)ベクトルグループ最優秀セールス(MVP)受賞、 2024年キックボクシング王者(40歳以上の部)獲得 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
大橋正芳さん(2003年卒業 経済学部経済学科 渡邉ゼミ 体育会躰道部)
2025年3月1日【はじめに】 初めまして!1998年TIU入学、経済学部経済学科、第34期躰道部出身の大橋正芳と申します。素晴らしい卒業生の皆様、そして現役生のご活躍、TIU出身として大変誇らしく思うと同時に、ここにこうして私は寄稿させていただくこと、ただただ恐縮ではあります。しかし、振り返ってみるとTIUという素晴らしい環境で得た経験や出会いが非常に私の人生形成に大きな意味やターニングポイントをくだったことは確かです。なので、何か一つでも卒業生の皆様や現役生の方へ感じていただけることがあればと思い文をまとめて参ります。どうか最後までお付き合いくだされば幸いです。 ↑海外挑戦時代 子供達と武道と教育と。 【TIUでは躰道部で部活一筋、体育賞受賞!】 1998年に入学し、当時は大変な活躍をしていた体育会躰道部に入部しました。当時はなんとなく海外に繋がっていけばいいのかなくらいの入学の志望動機でしたが、躰道という武道にすっかりハマってしまい、朝から晩まで毎日毎日日本一を目指して稽古という日々を過ごしておりました、授業よりもほぼほぼ道場で過ごす日々でした(笑)。 そして2002年、大学4年生の時、運良く私とOBの先輩で組んだTIUチームで世界大会(沖縄開催)で団体戦優勝し体育賞受賞を頂戴いたしました。そこまでは躰道一色線でひたすら没頭しておりました。ただ、TIUでよかったなと思う点はTIUAを経験した先輩や海外で勝負している卒業生の方が多く、感性的に知らず知らずに「世界で勝負する」ことがかっこいいと思っておりました。 そして、その世界大会で衝撃的な出会いがありました。TIU卒の4期生、内田先輩。アトランタで躰道道場を大成功させており、多くの門下生を引き連れて那覇に来られておりました。「日本の文化武道を海外に普及させて凱旋する」、これがめちゃめちゃかっこよくて、この人を目指そう!と決意し部活を引退しました。 【4期の大先輩が創設したアトランタ道場へ】 部活の引退後、いざアトランタでご活躍されている内田先生の道場に飛び込みました。初めてのアメリカ、衝撃でした。TIU卒業生の先輩が単身で乗り込み大成功させたアトランタ道場、日本よりも日本の文化が根付いておりました。押忍の精神と礼儀、稽古への姿勢と熱意、武道生の追及、哲学的な発想や練磨錬成の思考、、、ぶったまげました。これは日本よりも日本だ!アトランタに武道よりも武道がある!と。 そして、何より感銘を受けたのは内田先輩は優秀なビジネスマンでした。躰道の普及には経済的基盤も重要で、最もすごいと感じたのはそもそもアトランタでビジネスを成功させていたことです。異国の地でビジネスも成功させ、武道道場で日本以上の日本文化を具現化し、多くの生徒や関係者に囲まれ尊敬され期待されている。20代前半で衝撃的なシーンで今(45歳)でもモデルケースとして背中を追いかける、そんな出会いでした。TIUに入学していなければあり得ない出会いでした。 帰国前に、内田先輩にお伺いしました。 「内田先輩!自分、先輩みたいになりたいんですがどうしたらいいですか!?」と。 答えは英語を学べとかビジネスをとかかなと思いましたが意外なものでした。 「大橋くん、世界に挑戦したいならまずは日本人として日本をしっかり学びなさい、それが真の国際人、日本人だ。」と。 その言葉を胸に、日本に帰りました。 ↑3期の内田先輩が創設したアトランタ躰道協会の稽古 【晴れて日本一獲得!2006年全日本躰道選手権優勝。資金準備していざ挑戦!】 日本に戻り、「海外進出して自分の道場を!」が目標になりました。アトランタの先輩のように世界一の道場を海外で、これがTIUという土壌で学び育った私の目標でした。 当初の目的地は豪州シドニー。そのために二つの目標を作りました。 1、まず個人で日本一を獲得すること。やはり世界に打って出るブランディングでは「日本一」は欠かせないかなと。2、資金。最低でもビザが切れるまで1年は暮らせるようにと。最短で実現できるよう昼は仕事、夜は稽古の生活が始まりました。どんなに仕事で遅くても深夜まで走り、公園で怪しまれながらも武道の練習をし、休日は延々と道場に籠って練磨錬成。間違いなく日本一稽古したと自負しています。 そして約3年後の2006年、血の滲むような稽古と運もあり、晴れて全日本躰道選手権で優勝、日本一獲得!順調に1年以上は暮らせる資金も貯まり、お声をかけていただいたシドニーに意気揚々と乗り込んだのが2007年でした。会社も辞め、住所も移し、成功するまで2度と日本に帰らないと心に決めて挑む、27歳の春でした。 ↑シドニーへ海外派遣指導員として挑戦 【挫折から考えらせられた「真の国際人」とは】 シドニーでは最初は好調でした。やはり、「躰道日本一の選手」の威光は強く、当初はリスペクトをもって受け入れていただいておりました。平日はシドニーでトップクラスのNSW大学の部活動で指導し、休日はどこか道場を設立できる場所探しを行う。ただ、今思えば戦略性がなく短絡的な考え、「武道が上手だから成功できるハズ」と勢いそのままでとにかく演武や稽古会を行うのみでした。なにせ日本一の選手が武道後進国の南半球に来たのです。成功できると確信していた、そんな愚かな私でした。 しかし、そんな愚か者に天罰?がくだります。唯一の武器である身体能力を掻き消す、両足が痺れて動かなくなるヘルニアでした。慣れない環境のせいなのかみるみる悪化し、歩くのすらままならない状態に3ヶ月でなりました。当時、自費の医療費は大変高く、しかも両足の痺れというなかなか原因や運動障害が証明しにくい受傷だったので莫大な医療費の割になかなか保険対応が進まず、ただただ軍資金が消えていく日々でした。 そして、大した理念や信念をもたない私の生活は荒廃していきました。契約していた家も破棄になり、ただただホームレスのように昼から公園を彷徨う、地獄のような夢を失った状態でした。 その時のことは一生忘れないと思います、日々自問自答して「武道とは?」「躰道の役目とは?」「世界から求められているものは?」そして、「真の国際人とは」。 日本に帰るという選択肢は全くありませんでした。いつか治って、いつか復帰できて、いつか成功できる、そんな治療だけに専念をする生活でした。 【帰国、そして日本で道場と会社設立から10年】 そんな状態でしたが、日本にいる先輩から「手術と入院を用意できる」とお声をかけていただき、リハビリを約半年、復帰まで1年かけて治療しました。その期間、振り返りの中心にあったのは「真の国際人」であれという、TIUの先輩、アトランタの内田先輩のお言葉でした。 まず、日本で日本人として信念を持って成功しよう、そしてそこから世界に再挑戦しよう。 日本で確固たる信念を錬成し、本当の価値ある国際人として再出発したい、そんな思いでした。 最初に東京に躰道道場を作りました。日本一の道場を目指し今年で10年目。昨年は東京道場では初となる全国大会総合準優勝まで破竹の勢いで上り詰め、日本一まであと一歩というところまで来ました。次に起業しました。日本の経営者を対象にしたブランディングやコンサルティングを行い、こちらも今年10期目となり多くの経営者様にお世話になっております。 そして、この10年を機に私も改めて世界にと決意を固めております。 ↑東京に戻り創った道場、昨年は全国大会で総合準優勝! 【2社目設立、いざ!遥かなる海外再挑戦へ】 道場、起業したビジネスが安定し、次は2023年にハワイに新しく会社を作りました。日本から世界進出に挑戦する経営者向けのコンサルサービスです。ここではハワイ、アメリカ進出のみならずアジア市場展開のお手伝いもしております。日本企業の志ある経営者様が「真の国際人」を目指し世界展開する、そんな情熱をご支援する企業です。 ここでは現在、日本の食品をハラル市場に市場投下するビジネスや、日本文化である懐石料理のNY進出、焼肉屋のハワイ進出などをご支援しております。まだまだ拡大していく予定です。 【2024年に40歳以上のキックボクシング王者獲得!】 この10年は自身の道場、そして起業したビジネスを波に乗せることに時間を使いましたが、そんな折でも自己錬磨は忘れておりません。いつまでも挑戦したいという思いから「アンチエイジングファイト」という年齢を超えた戦いの場、40歳以上の日本最強を決めるシニア(マスターズ)キックボクシングにおいて8連勝し、チャンピオンにもなりました。世界進出のためのビジネス経営を展開しなはら道場運営、そして2度目の日本一。 時は来ました。 ↑40歳以上のキックボクシング王者獲得! これを機にある挑戦の決断をしております。 もちろん「真の国際人」として世界進出、です。 世界一の武道道場を、世界と繋ぐビジネスを、かつての挫折を糧に再度挑戦します。 運命を、理想を与えてくれたTIUの学び場で得た夢を実現すべく45歳ですがまだまだ挑戦して参ります。長文駄文になりましたが最後に、この記事を読んでくださっているTIUの卒業生の皆様、在学生の皆様、いつか世界で人生が重なれば最高です! 【大橋正芳さんプロフィール】 1979年 埼玉生まれ 2003年3月東京国際大学卒業 経済学部経済学科 渡邉ゼミ 体育会躰道部 卒業後、20代は東京国際大学の部活動での経験を生かし、日本武芸(躰道)の海外派遣指導員としても世界普及のため活動を行う。 その後、東京でITコンサル会社の法人営業部長として上場企業の経営層向けにコンプライアンスをテーマに1000社以上へ講演。 2017年からはアジア最大のPR会社にジョインした米国(Hawaii)企業所属、2019年にはその(株)ベクトルグループ3000人から最優秀セールス賞(MVP)受賞。 現在は起業し、経営コンサル会社を東京、米国ハワイにて2社経営。 また、ビジネス以外の活動では沖縄エリアの一般社団法人の代表理事として貧困層向け教育拡大プロジュエクトを遂行中。また東京ではNPO法人日本武芸躰道協会の師範として小中高生の門下生60名に指導/次世代育成も手掛ける。 主な受賞歴:2006年全日本躰道選手権優勝、 2019年(株)ベクトルグループ最優秀セールス(MVP)受賞、 2024年キックボクシング王者(40歳以上の部)獲得 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
TIU同窓会北米支部立ち上げへの思い
星野優太さん(2001年卒業 国際関係学部国際関係学科 坂本ゼミ 2006年トロイ大学経営学部卒業) 2024年12月1日初めまして、2001年に国際関係学部国際関係学科卒業の星野優太と申します。 現在ケンタッキー州で自動車関係(電着塗装)の会社に勤務しております。 TIU在学時代に国際感覚を養う 在学中はゼミや短期留学を通じて今でも連絡を取り合える多くの友人に恵まれました。 中学や高校と違い日本全国どころかアジアを中心に多くの留学生が在籍しているのを目の当たりにし、いい意味でのカルチャーショックを受けたのを今でも覚えています。この経験が国際感覚を養うという意味で今でも生きていると思います。 1年次の1998年にアリゾナ大学ゼミナールに参加し広大なキャンパスと大自然に感動したことを今でも覚えています。 (TIU在学時、第2キャンパスにて) (1年次にアリゾナ大学ゼミナール参加) アメリカ留学時代はすべてが手探り状態でした アリゾナ大学ゼミナールに感化され以前からの夢であったアメリカ正規留学を実現したく、卒業後の同年8月にアラバマ州のトロイ大学に留学しました。 アリゾナ大学ゼミナール以外にも10歳から12歳までカナダとニューヨーク州に住んでいましたし、高校の修学旅行は西海岸だった為、既に3度アメリカを経験している自分はアメリカのほぼ全てを熟知していると勘違いしていました。 今でこそ多少は開かれていますが、2001年当時のアラバマは物凄く外国人どころか州外の人に閉鎖的で日系企業や日本人人口も他の州に比べ少なく、さらに南部訛りがすごいので同じAmerican Englishとは思えないくらい理解に苦しみました。 入学時の日本人学生は僅か5人で全員が同期入学だった為、もちろん日本人学生会もなければ生活や学業の情報入手先の先輩もいないため、すべてが手探り状態でした。 (TIU卒業後、アラバマ州のトロイ大学に留学) 卒業後のアメリカ就職は就労ビザで苦労 卒業後も就労ビザを取得してアメリカで就職した先輩がいなかったため、日本人留学生がアメリカで就職するためのノウハウを知らず自己流で就職活動をしましたが、就労ビザのスポンサー企業が見つからず。不本意ながら日本に帰国せざる終えない期日の一月前に何とか就労ビザをサポートしてもらえる企業が見つかり、その後、リストラや転職を繰り返し2016年から現在に至ります。 (現在の会社の同僚とは野球とサッカーの話題が) TIU同窓会北米支部設立への思い TIU卒業後単身渡米し、20年以上に及ぶ苦労の連続のアメリカ生活においていかに異国の地で一人で生きていくことが大変だということを嫌というほど経験しました。今後北米に移住する卒業生への少しでも助けになるよう卒業生の北米支部を立ち上げたいと思うようになりました。 立ち上げに当たり、卒業時のゼミの先生、先生にご紹介いただいた職員及び事務局の方、多くの賛同者を紹介して頂いた元TIUAの職員の方、及び立ち上げに賛同して頂いた方々にこの場をお借りして御礼申し上げます。 霞会北米支部立ち上げメンバーを募集中です 来年2025年北米支部立ち上げに向け現在、賛同してくれる方を募集しています。 北米在住の卒業生の方々と是非、情報共有や交流の場を持ちたいと思います。 ご興味のある方は是非私までご連絡下さい。 (星野優太さんプロフィール) 福島県福島市出身 2001年 東京国際大学国際関係学部国際関係学科卒業 長谷ゼミ(1,2年次)坂本ゼミ(3,4年次) 2006年 トロイ大学経営学部卒業卒業後は米国内の日系企業数社に勤め 2016年 Itsuwa KY LLCに転職し現在に至る (連絡先)メールアドレス yutahoshino@yahoo.com Line ID yutah420 (私の住んでいるケンタッキー州Bardstownのダウンタウンです。バーズタウンの代名詞はWorld capital of Bourbon と言われるほどバーボンのメッカです。機会があれば一度お越し下さい。) TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
星野優太さん(2001年卒業 国際関係学部国際関係学科 坂本ゼミ 2006年トロイ大学経営学部卒業) 2024年12月1日初めまして、2001年に国際関係学部国際関係学科卒業の星野優太と申します。 現在ケンタッキー州で自動車関係(電着塗装)の会社に勤務しております。 TIU在学時代に国際感覚を養う 在学中はゼミや短期留学を通じて今でも連絡を取り合える多くの友人に恵まれました。 中学や高校と違い日本全国どころかアジアを中心に多くの留学生が在籍しているのを目の当たりにし、いい意味でのカルチャーショックを受けたのを今でも覚えています。この経験が国際感覚を養うという意味で今でも生きていると思います。 1年次の1998年にアリゾナ大学ゼミナールに参加し広大なキャンパスと大自然に感動したことを今でも覚えています。 (TIU在学時、第2キャンパスにて) (1年次にアリゾナ大学ゼミナール参加) アメリカ留学時代はすべてが手探り状態でした アリゾナ大学ゼミナールに感化され以前からの夢であったアメリカ正規留学を実現したく、卒業後の同年8月にアラバマ州のトロイ大学に留学しました。 アリゾナ大学ゼミナール以外にも10歳から12歳までカナダとニューヨーク州に住んでいましたし、高校の修学旅行は西海岸だった為、既に3度アメリカを経験している自分はアメリカのほぼ全てを熟知していると勘違いしていました。 今でこそ多少は開かれていますが、2001年当時のアラバマは物凄く外国人どころか州外の人に閉鎖的で日系企業や日本人人口も他の州に比べ少なく、さらに南部訛りがすごいので同じAmerican Englishとは思えないくらい理解に苦しみました。 入学時の日本人学生は僅か5人で全員が同期入学だった為、もちろん日本人学生会もなければ生活や学業の情報入手先の先輩もいないため、すべてが手探り状態でした。 (TIU卒業後、アラバマ州のトロイ大学に留学) 卒業後のアメリカ就職は就労ビザで苦労 卒業後も就労ビザを取得してアメリカで就職した先輩がいなかったため、日本人留学生がアメリカで就職するためのノウハウを知らず自己流で就職活動をしましたが、就労ビザのスポンサー企業が見つからず。不本意ながら日本に帰国せざる終えない期日の一月前に何とか就労ビザをサポートしてもらえる企業が見つかり、その後、リストラや転職を繰り返し2016年から現在に至ります。 (現在の会社の同僚とは野球とサッカーの話題が) TIU同窓会北米支部設立への思い TIU卒業後単身渡米し、20年以上に及ぶ苦労の連続のアメリカ生活においていかに異国の地で一人で生きていくことが大変だということを嫌というほど経験しました。今後北米に移住する卒業生への少しでも助けになるよう卒業生の北米支部を立ち上げたいと思うようになりました。 立ち上げに当たり、卒業時のゼミの先生、先生にご紹介いただいた職員及び事務局の方、多くの賛同者を紹介して頂いた元TIUAの職員の方、及び立ち上げに賛同して頂いた方々にこの場をお借りして御礼申し上げます。 霞会北米支部立ち上げメンバーを募集中です 来年2025年北米支部立ち上げに向け現在、賛同してくれる方を募集しています。 北米在住の卒業生の方々と是非、情報共有や交流の場を持ちたいと思います。 ご興味のある方は是非私までご連絡下さい。 (星野優太さんプロフィール) 福島県福島市出身 2001年 東京国際大学国際関係学部国際関係学科卒業 長谷ゼミ(1,2年次)坂本ゼミ(3,4年次) 2006年 トロイ大学経営学部卒業卒業後は米国内の日系企業数社に勤め 2016年 Itsuwa KY LLCに転職し現在に至る (連絡先)メールアドレス yutahoshino@yahoo.com Line ID yutah420 (私の住んでいるケンタッキー州Bardstownのダウンタウンです。バーズタウンの代名詞はWorld capital of Bourbon と言われるほどバーボンのメッカです。機会があれば一度お越し下さい。) TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
「人生に無駄な経験は無い」
原田 晴之さん (1992年卒業 教養学部国際学科/大越ゼミ 1991年Willamette Univ.卒業/BA政治学専攻)2024年10月1日【プロローグ】 私が海外に興味を持ち始めたのは幼稚園での出会いがきっかけでした。カトリック系幼稚園で良くして頂いた神父、先生(シスター)方、そして聖書の挿絵に登場する聖人達は皆、外国人でした。園庭で先生と一緒に遊んでいた時に、花壇のチューリップが果たして自分と同じ様に見えているのだろうかと考えていた記憶が、ぼんやりと残っています。(幼稚園から頂いた聖書) 【高校留学】 カリフォルニア州のメキシコ系アメリカ人家庭にホームステイをしながら、地元の公立高校 (Bloomington High School) に1年間通いました。激しい環境の変化に身を投じた事で、いきなり人生の転換期を迎えました。勉強不足による知識の無さや思考力の弱さを痛感し、帰国後に何を為すべきか大いに悩んだ時期でした。 ■ 自律性を養う 私のホストファミリーは、モービルホーム (トラックで牽引出来る家) に住む共働き家庭(3人家族+犬1匹& 猫1匹)でした。食事は冷蔵庫にある食材を各自が勝手に料理して取ることが基本で、家事はホストブラザーと分担していました。ところが、滞在3か月を過ぎた頃から、冷蔵庫が空になることが増え、家事の分担も私に偏り始めました。 普段はのんびり屋の私でしたが、「空腹」が「飢え」に変わったところで突然「スイッチ」が入り、自分でも驚く程の行動力を発揮したのです。近隣の家や友人宅を訪ねて、「芝刈り」「庭木の剪定」「掃除」「洗車」「ベビーシッター」「犬の散歩」「プールの清掃」等の仕事を次々と取り、家事で身に付けたスキルを総動員して、一気に問題を解決してしまったのです。(その勢いは止まらず、学校の昼食を無料にして貰うことにも成功しました。) その後、高校卒業に必須のクラス「American History」の前期分を、留学初期の英語力不足が原因で履修漏れが判明し、留学中最大の危機に直面しました。しかし、幸いにもその時ちょうど「スイッチ」が入って「エンジン全開」の状態だった為、この難局をうまく切り抜けられました。日本の高校で履修済みの世界史の教科書を手に、カウンセラーの先生や社会科の教諭、教頭先生に必死で掛け合いました。そして、補習クラスの履修を条件に「前期分」に相当する単位の置換を認めて貰うことに漕ぎつけたのです。 「自分の問題は自分で解決する」「自ら考え行動する」という自律性を養うことが、高校留学で得た最大の収穫でした。 (高校のクラス) ■ 英語の多様性とTPO 若者の英語、大人の英語、綺麗な英語、汚い英語、白人の英語、黒人の英語、メキシコ人の英語、インド人の英語、中華系の英語、西海岸の英語、LAヴァリーガール (Valley Girl) の英語、サーファーの英語等、多種多様な英語が日常生活でパワフルに話されており、米国デビューを果たした私の前に大きな壁として立ちはだかりました。私は小さなメモ帳を常に携行し、聞き取れた言葉をカタカナでメモし、帰宅後には鏡の前でネイティブスピーカーになったつもりで、カッコよく身振り手振り付きで発声練習を行いました。翌日には学校の友達にそれを披露してアルファベットに変換して貰い、帰宅後に辞書で調べて正確な意味を理解するというルーティンを徹底的に繰り返しました。その結果、3カ月後には確かな進歩を感じ、それが自信につながりました。 ところが、日々私が書き溜めて練習し、身に付けた英語が、米国の一般社会では決して受け入れられないギャング英語(メキシコ系のChicano Englishがベース)だった為に、それまで私を応援してくれた大切な友人が少しずつ私から離れて行きました。私はTPOをわきまえ、学校生活の中では標準的な英語を使うことを心掛けました。一方で、興味のあったインド、スペイン語、中国語訛りの英語については密かに練習を続けました。標準的な英語とそれ以外の切り分けにはかなり苦労しましたが、これも一つの学びでした。 ■ 人種差別 ほぼ単一民族の日本で育った私にとって、自分が「有色人種」である事を強烈に意識させられ、自覚させられたのが米国での生活でした。留学当初、私は「Jap」「Nip」「Gook」「Chink」「Pigtail」「WOG」「Napalm」その他多くの差別語で呼ばれ、学校の内外で不当な扱いを受ける事がありました。ある日、真っ黒に日焼けした自分の手の甲を見た瞬間、「汚い!」と感じた自分に大きなショックを受けました。無意識の内に、東洋人であることに劣等感を抱いていたと気付き、驚いたのです。 滞在期間の後半には友人も増え、それは和らいで行きましたが、学校の授業で見せられた 「A Class Divided」 というドキュメンタリー番組 (※)を通じて、改めて自分が抱いていた「劣等感」の正体を考えさせられました。そして、白人以外の人種に対して抱いていたかもしれない「優越感」がいかに虚しいものであったかを痛切に感じました。 ※ 1968年アイオワ州の小学校で実施された人種差別についての実験授業 YouTubeで日本語版を見つけたのでご紹介します。(NHK特集1988年4月29日放送) 「青い目 茶色い目 ~教室は目の色で分けられた~ (ウイリアム・ピータース著 / NHK出版) (高校の仲間)(高校の仲間) 【東京国際大学】 校名が「国際商科大学 (ICC)」から「東京国際大学 (TIU)」に改称された年(1986年)に入学しました。「高校留学での体験を思い出として終わらせず、深堀りする事で経験値として落とし込みたい。更に勉学を重ねる事で進むべき将来の道を明らかにしたい。」との一心で門を叩きました。 ■ スランプからの脱出 高い志と情熱を持って臨んだ「下羽ゼミ」(国際政治学)で私を待ち構えていたのは、日本全国から集まった個性豊かなクラスメート(曲者)達でした。私とは次元の違う高レベルの論客揃いで、自ら収集した情報(Fact)を分析(Study)し知識 (Knowledge) として吸い上げて行く「大学生の勉強方法」を当たり前の様に実践していました。私も必死で食らいつきましたが、元来の怠け癖と誘惑に弱い性格が邪魔をして空回りし、大学1~2年時は焦燥感に苛まれる事が多かったです。 3年に進級すると「大越ゼミ」(アメリカ研究論)を選択しました。下羽ゼミの仲間達が「厳格な修行僧」、「哲学者」の如く真理を追究する一体集団だとすれば、大越ゼミの仲間達は「まとまりの無い我儘な自由人」、「枠にとらわれない斬新的なクリエイター」の集まりといった印象でした。 一見、全く異なる二つのゼミでしたが、そこで学んだことは共通していました。知識の積み重ねや思考力の鍛錬は他人に代わって貰うことは出来ないこと、焦って背伸びをしても一足飛びに先には進めないこと、地道に継続することの重要性、そして勉強は苦しいだけでなく、取組み方次第では自由で楽しいものだということを教えられました。これは、至極当たり前のことかもしれませんが、私にとって大きな気付きでした。 スランプから脱出して改めて周りを見渡すと、それまで見過ごしていた周りのものが鮮明に見えるようになりました。大学が提供する豊富な選択授業や、新しい図書館や視聴覚室の英語教材の存在に気が付き、それらを積極的に活用することにしました。また、一度は諦めていた留学についても、挑戦したいという気持ちが湧いて来ました。親の支援で一度留学させて貰っていた為、再度の留学は経済的に難しいと感じていましたが、奨学金制度を活用することで再び挑戦出来るのではと考えました。そして、春・夏の海外セミナー(春:ウィラメット大学、夏:南オレゴン州立大学)や長期留学(ウィラメット大学)に全て応募し、大学からの支援を得られました。 ■ 教育実習 将来の進路の一つとして教育関連の仕事を考えており、教職課程を履修しました。大学の紹介により、埼玉県の私立男子高校の2年生クラスで英語の教育実習を行いました。事前準備をしっかりして、気合を入れて挑んだ初授業でしたが、英語以前に生徒のやる気をいかに引き出すかが喫緊の課題であることが分かりました。授業中に簡単な問題を出して何人かの生徒を当てたところ、皆一様に立ち上がらず、中腰で「分かりません」と言って着席してしまいます。 私は、着席した生徒を再度しっかり立ち上がらせ、「分からなくても良いから、分かろうとしよう」と説得しました。そして、答えが出るまでヒントを出し続け、場合によっては答えを黒板に書いて声に出して読ませる等、兎に角最後まで諦めないで挑戦するように指導しました。 また、机の中に教科書ガイドを忍ばせている生徒達には、「英語なんて数学みたいに考えてもしょうがないから、教科書ガイドの積極利用は大歓迎!」と、机上に置いて堂々と使用するように奨めました。教科書の練習問題も面白い文章に全て書き換えて、少しでも楽しめるように工夫しました。 最初はやる気の無い生徒が多かったのですが、中学校で習った辞書の引き方から、必要と思われる基礎的な構文については丁寧に何度も教えたところ、徐々に授業に参加する生徒が増えて行きました。極めつけは、少しずるいやり方とも思いましたが、どのクラスにも必ずいるおしゃべりで明るい生徒をうまく乗せて、授業が楽しくなるようなムードメーカーの役割を担わせることでクラス全体がひとつになりとても充実した授業運営が出来る様になりました。 しかし、私の授業を見学した先生方の評価は、年配のベテラン教師と若い教師とで真っ二つに分かれました。あるベテラン教師は、「原田先生は元気があって声も大きく、発音だけは良いけれど、中学で教わった構文を、わざわざ高校の授業でまた教える必要はないでしょう?」と否定的なコメントを残して教室を出て行かれました。一方で、若い指導教諭は他の若い先生方と一緒になって「原田先生、気にしないで!生徒が分からないから、分かるまで教えるのは当然のことです。中学校で教わっていようがいまいが、関係ありません!」と、私の教授方法を全面的に支持して頂けました。 担当していたクラスには、当時では珍しい米国からの交換留学生が在籍していました。彼と共にハイスクールで実際に話されている会話をスキット形式で授業中に紹介すると、「生きた英会話」に関心を持つ生徒が何人も現れ、教えることのやりがいを大いに感じました (※)。ある日、彼から深刻な二つの悩みを打ち明けられ、それを解消する為に奮闘することになりました。一つ目は、日本語補習の個人レッスンの機会を与えるよう学校と調整したこと、二つ目は、関係がうまくいかないホストファミリーから新しいホストファミリーへの変更をサポートしたことです。実習生の立場で出過ぎた行動だったかもしれませんが、自らの高校留学でお世話になった方々への恩返しのつもりで思わず突っ走ってしまったのだと思います。 ※ それでも教科書英語で基礎を固める事は大切です。 初日から積極的に取組んだ教育実習はあっという間に終了し、仲良くなった生徒達や意気投合した若い先生方に温かく送り出して頂きました。実習校からは大学卒業後に是非来て欲しいという有難いお言葉を頂きましたが(もしかすると社交辞令だったかもしれません)、私は企業就職を選びました。実習期間中に出会った企業経験者の先生の柔軟な視点や考え方、そしてその言葉に感じた重みから、教師という職業には専門教科の知識だけでなく、幅広い社会経験が必要だと強く感じたのです。(これはあくまでも、私の自分自身への評価に基づく判断であり、大学卒業後直ぐに教職に就かれる方を否定するものではありません。) (生徒からの寄書き) 【ウィラメット大学】 再びアメリカへ行くチャンスを得た2年間の奨学金プログラムでは、前回の高校留学時とは異なり、生活に適応するだけでなく、大学生活全体を通して様々な経験を積むことが出来ました。この留学期間は、私の学生時代で最も成長した時期であり、大いに学び、大いに悩み、そして大いに楽しむことで、現在の私の土台を築きました。(ウィラメット大学) ■ 寮生活:フラットハウス ウィラメット大学は、1842年に創立された西海岸で最も古い大学です。オレゴン州会議事堂に隣接する美しいキャンパス内の学生寮で2年間を過ごしました。キャンパスにある学生寮は、個室の寮もありますが、ルームメートとシェアする二人部屋が基本です。私が編入した当時は寮が満室でしたが、大学が交渉して会員制のフラタニティーハウスの一室を仮住まいさせて貰うことで留学生活をスタートしました。 「フラタニティー」(fraternity)とは辞書によると、「米国の男子学生の社交クラブ、友愛会」と定義されており、その歴史はアメリカの建国の歴史からそれ程遠くない1800年代初頭に、学生達が理想の学生生活を求めて結成したグループに遡ります。当時のアメリカは自由の国として建国されましたが、教育界は保守的で学生の行動には厳しい制約があり、その為学生の活動は地下に潜り、秘密結社的な形態をとりました。やがて、フラタニティーは全米に広がり、現在では多様なグループが設立され、共通の趣味や価値観を持つ学生が集う伝統的な学生組織として認知されました。私が仮住まいしたフラタニティーは、「ΣΑΕ:Sigma Alpha Epsilon」(略称 エス・エイ・イー)という全米に支部を持つグループでした。フラタニティーは「Greek Society」とも呼ばれ、ギリシャ語2~3文字の略称が一般的です。 (ΣΑΕハウス) (ΣΑΕの仲間達と) その後、第一希望の寮であるWISH (Willamette International Studies House) に空きが出ず、止む無く移った個室のYork Houseでは、隣室の学生からタイプライターの音がうるさいとの苦情が出て、夜間の使用を禁止され、困っていました。そんな時、ΣΑΕから新会員候補としての招待(Bid)を受けました。私はフラタニティーという謎めいたグループに興味があり、招待を受けた後、正式なプロセスを経てメンバーとなりました。 フラタニティーのメンバーになる為には、「Rush」と呼ばれる募集期間中に希望するフラタニティーのイベントに参加し、メンバー達と交流します。そこで選ばれた者は招待状を受け取り、次に「Pledge」という新会員候補または見習いとして一定期間の試練や課題(Initiation)を乗り越えることで、正式会員となります。各フラタニティーには伝統的な儀式 (Ritual) やイベントがあり、その内容の多くは秘密です。会員となった後、秘密の合言葉や挨拶の仕方が伝授され、フラタニティーのギリシャ文字が入ったトレーナーやTシャツの着用が許されます。また、本部からはスーツのジャケットにつけるピンバッジ(記章)と証書が贈られます。 フラタニティーは、派手なパーティーを開催することがあり (※)、ハウスの地下室にはバーカウンターやビールサーバーが完備されています。パーティーの日には、キャンパス中から着飾った生徒が集まり大変な賑わいを見せます。クラスの課題に追われる私は、図書館横の24H Study Roomで勉強を終えた後、深夜遅くハウスに戻るのですが、パーティーが終わっているわけもなく、そのまま巻き込まれ酔っぱらって気絶することが何度かありました。アメリカの大学生活をフルに体験し、満喫する為には避けては通れない修行の場でもありました。(楽しい思い出です。) ※ フラタニティ―は、パーティーで大騒ぎするイメージばかりが先行していますが、ボランティア活動等の社会奉仕も盛んに行っています。 ■ 授業 アメリカの授業は進行が早く、私が専攻していた政治学(Political Science)は、授業に出る前提となっている読書課題(Reading Assignment)の量が特に多い学科でした。成績は以下の4項目で評価され、ネイティブの学生ですら毎日必死で勉強に励んでいました。 ①Attendance(出席) ②Participation(授業への参加、貢献) ③Exam(試験) ④Paper / Assignment(提出レポート・課題) 新入生は、最初の半年間(1st Semester)でしっかり勉強の習慣と最適な勉強法を身につけないと、学校が指定した成績に到達出来ず、学業保護観察処分(Academic Probation)を受けることになります。これにより、学校のイベントや部活動等への参加が禁止され、次の試験で成績が改善されない場合は退学(Academic Dismissal)の厳しい措置が取られてしまいます。 2度目の留学とはいえ、英語のハンディキャップが大きく、初年度の前期クラスでは、アドバイザーのセオドア・シェイ教授(政治学 博士)の助言を受けて、新入生クラス(100番台)で英語の基礎を固めると共に成績(GPA)の確保に努めました。その中で、「Public Speaking」のクラスは、毎回スピーチ原稿を準備し、クラスメートとビデオカメラの前でスピーチするという、とてもストレスフルなものでしたが、そこで学んだことは、後の授業だけでなく、就職後の仕事にも大変役立っています。 また、政治学の初級クラスでの初回レポートでは、政治哲学(The Role of The Individual and Political Order)について書きました。脳みそが千切れる程に考え抜き、何度も書き直し、連日の徹夜で仕上げましたが、既に提出締切日の授業が終わるタイミングであると気付きました。慌ててキャンパスを走り、教授のオフィスドアを激しくノックしました。何事かと出て来たシェイ教授は、開口一番「教師生活30年、寝巻き姿で飛び込んで来た生徒は君が初めてだ!」とあきれ返っていました。言われてはっと気付くと、確かに髪はぼさぼさ、無精髭、Tシャツに短パン、素足にスニーカー姿で、タイプライターで打ち終えたばかりのレポートを持って訪ねた私は、尋常でない迫力を感じさせたのかもしれません。本来受理されなかったかもしれないレポートでしたが、しっかり採点され、後日返却して頂きました。 実家から当時のレポートが出て来て、表紙に書かれたシェイ教授の温かいコメント(※)が、あの頃の私をどれほど励まし、支えとなっていたかを思い出しました。教授にとっては何気無い一言だったかもしれませんが、私には大きな力となりました。長い年月が経った今、改めて感謝の気持ちで一杯です。本当にありがとうございました! ※ シェイ教授のコメント This is an excellent paper. Very thoughtful and full of interesting insights. Well done in all respects. It is an A paper which has to become an A- because it was late. Again, excellent essay! これは素晴らしい論文だ。非常に思慮深く、興味深い洞察に満ちている。全ての点で良く出来ている。遅れた為 A- となったが、A論文である。もう一度言うが、素晴らしいエッセイだ! ■ 忘れられない貴重な体験の数々 夏休みの造園業や冬休みの牧場でのアルバイト、スクールマスコット(Barney the Bearcat)としての全米チアリーディング合宿参加や学校対抗のスポーツイベントでの活動、更に留学生会(WISA:Willamette International Student Association)やボランティア活動等、まるで見えない手に背中を押されるかのように、様々なことに挑戦し、貴重な体験を重ねました。これにより、自分の日本人としてのアイデンティティと価値観を確認し、現在のマインドセットの礎を築くことが出来ました。今、ひとつひとつの体験が記憶として蘇りますが、拙稿がネバーエンディングとなってしまいますので、ここでは割愛し、先に進ませて頂きます。 授業について行くのが精一杯だった私が、全ての活動をどうやってマネージメント出来たのか、今でも分かりません。しかし、私が留学生活を全う出来たのは、間違いなくウィラメット大学の教授陣とクラスメートの皆さんの支えがあったからです。また、海の向こうの日本から励ましの手紙を送ってくれたTIUの仲間達、両親、そして天のご加護にも感謝します。そして忘れてはならないのは、TIUAのDeanを務められていた川嶋教授のご厚意でご自宅にお招き頂き、ご馳走になった奥様の温かい家庭料理、かわいいワンちゃんのおもてなしが、ともすれば崩れそうだった私の心を癒し、励まして頂けたことです。この場をお借りして心から御礼申し上げます。 卒業式は屋外のスタジアムで盛大に開催されました。当時、湾岸戦争へ予備役(Reserve Force)として中東に派兵されたクラスメート達は、皆落第となってしまいました。当日はまだ帰還していなかった彼らの名前が読み上げられ、「名誉ある落第」として称えられました。観客席からは大きな歓声と拍手が沸き起こり、よく晴れた高い空にこだましました。 (学校新聞1面に掲載される) (卒業証書授与) 【就職】 資源に乏しい我が国が、高い技術力と品質でモノづくりをし、世界に輸出することで発展して来たことに、私は先人達への深い敬意を抱いていました。文系の私としては、直接モノづくりに関われないまでも、日本の優れた製品を世界中の人々に紹介し、使って貰うことで貢献したいと考えました。大袈裟かもしれませんが、日本と世界各国との経済交流を深めることで、日本の安全保障はもちろん、世界平和の維持に少しでも寄与したいという思いから、メーカーへの就職を決意しました。その後、2社目、3社目でIT・ゲーム業界を経験しましたが、初心に立ち返り4社目のメーカーに転職しました。ここで27年間勤め、来年には定年退職を迎えます。2社目、3社目での経験を通じて、製造業がハードウェア中心の開発からデジタル技術を介してインターネットやソフトウェアとの融合を考慮した開発へと進化していく流れを肌で感じられました。 ■ 1社目:放送機器メーカー 池上通信機株式会社(以下、池上)は、放送用・業務用機器の分野で世界的に高い評価を受けている放送機器メーカーです。それ以外にも、監視カメラ、医療用カメラ、錠剤検査装置等も手掛けています。主力製品の放送用カメラは、世界中の放送局や映像プロダクションで使用されており、その高い性能と信頼性で、現場のプロフェッショナルから絶大な支持を得ています。テレビで大型スポーツイベントやコンサート、そしてニュース報道の現場で使用されるカメラが一瞬映像に映る事がありますが、「Ikegami」のロゴを見るたびに胸が躍ります。 私が入社した当時 (1992年)の主流はアナログ方式であり、世界的な大手総合家電メーカーが開発した放送用カメラが束になっても、池上の製品には及びませんでした (※)。その後、1990年代後半からデジタル技術の導入が活発化し、デジタル方式への移行が加速しました。池上は競合他社との熾烈な競争を繰り広げながらも、積極的な技術革新を続け、業界での確固たる地位を守り抜きました。池上を離れた今でも、私は変わらず 「Ikegami Fan」であり続けています。 ※競争入札等で、競合他社のカメラと池上のカメラを並べて同じ対象物を撮影し、性能や操作性を比較することがありました。これにより、放送用カメラで最も重要な解像度や色再現性が一目瞭然に判別出来ました。特に色再現性については、競合他社のカメラは一般家電用技術を基にしている為、実物よりも鮮やかに映る傾向(誰が撮っても綺麗に映る補正回路?)がありましたが、池上のカメラは本物の色味を忠実に再現します。その為、放送業界のプロフェッショナルの厳しい要求や期待に応える製品であることが何度も証明されました。海外広告では、「The Professional Cameras dedicated to the Dedicated Professionals」というキャッチコピー(正確には覚えていませんが)が使われており、池上の特長を的確に表していると感じ、とても誇らしく思っていました。 ● 海外業務の習得 池上は、人を育てることに長けた会社であり、私が在籍した4年間という短い期間の中で、海外セールスに必要な基本的スキルセットをほぼ全て学ぶことが出来ました。海外販売子会社、海外代理店、海外販売店、国内大手商社との取引を通じて輸出入の知識や見積書作成、受発注納期管理、代金回収、技術翻訳、顧客アテンド等、多岐にわたる業務を経験させて頂きました。 担当地域は、インドネシア、インド、パキスタン、オーストラリア、ニュージーランド、そして最後は北米でした。一番の思い出は、あるODA案件で、スタジオシステムと大型中継車(OB Van)の入札、落札、納入初期まで、上司と先輩社員の指導の下、懸命に進めたことです。途中で異動となり、最後まで関与することは出来ませんでしたが、この経験を通じて多くのことを学びました。特に、プロジェクトの初期段階での情報収集や綿密な計画、営業と工場関係者との緊密な連携が成功の決め手であることを深く実感しました。 ● 恩義ある会社との別れ 池上では、尊敬できる上司、先輩、同僚に恵まれ、会社の外でもスポーツやBBQを楽しむ等、非常に親密なお付き合いをさせて頂きました。直属の上司であり兄貴分と慕っていたTさんに退職の意を伝えた時、最初は慰留されましたが、最終的には「会社にとって原田に残って貰うのは良いことだと思う。しかし、原田のこれからの人生が悔いの残らないものになるかどうかまでは保証出来ない。だから、原田が選んだこの決断を尊重し、応援する」と言って送り出して頂けました。今の会社で私が管理職となり、若い部下が辞める度にまさか同じ言葉で送り出すことになるとは、カルマを感じずにはいられません。 ■ 2社目:ITベンチャービジネス 日本でのインターネット利用者が殆どいなかった1990年代初頭、サイバーテクノロジーズ・インターナショナル株式会社(以下、サイバー)が創業されました。創業メンバーは全員アメリカ人で、既にインターネットが爆発的に普及し始めていた米国ではなく、これから普及が見込まれる日本に進出してビジネスチャンスを掴もうとしました。彼らは企業や一般ユーザー向けのインターネット接続、サーバーレンタル、ウェブページ作成・更新メンテナンス、ソフトウェア・プログラム開発等のサービスを積極的に展開し、日本のインターネット黎明期を支える重要な役割を果たしました。 ● インターネットとの出会い 創業メンバーの社長を含む4人はウィラメット大学の卒業生で、日本進出の手始めとしてインターネット導入に前向きな外資系企業から確実にビジネスを獲得し、その勢いで日本企業への展開を本格化しているところでした。ウィラメット大学の友人として食事に誘われ、集合場所として立ち寄った彼らのオフィスで、当時最先端のインターネット技術を次々と披露され、大変驚かされました。 一方で、そんな煌びやかなプレゼンテーションの後で私の心を捉えて離さなかったのは、今では当たり前となった電子メールでした。大変地味なアプリケーションでしたが、今後これが世界中で普及し、国境を越え遠くにいる人達と容易に繋がることが出来ると確信しました。私はこの新しいコミュニケーションツールの可能性に心を躍らせ、未来の広がりを感じずにはいられませんでした。 後に友人から、食事の真の目的が私の勧誘であることを明かされました。それまで私を育ててくれた池上への恩義があり、まだ大した貢献もしないうちに転職することに大変悩みましたが、これから急激な発展を遂げるであろうインターネット業界に身を投じて、世の中の動きを直に感じてみたいという思いが強くなり、新たな道に進むことを決意しました。 ● インターネット・ビジネス 当時日本の大企業は次々とWebサイト(ホームページ)を立ち上げ、大口の仕事の依頼が寄せられました。大手総合家電メーカー、大手自動車メーカー、大手商社、大手不動産会社、外資系大手通信会社、駐日外国大使館等、多くの優良顧客との取引きが成立しました。 それまで安定した収入源のひとつであった個人向けダイアルアップ(電話線)やISDNによるインターネット接続サービス業務からは撤退し、設立当初から会社が目指していたIT技術による企業向け「ビジネス・ソリューション」の展開にシフトして行きました。サイバーが構築・運営サポートをしていた企業向けWebサイトには、今でこそ盛んに利用されているWebマーケティング機能が既に搭載されていました。ユーザーがどのようにWebサイトまでたどり着いたのか、Webサイト内のページアクセス・ログ(閲覧履歴)、再訪問率等を分析して顧客企業に提供していました。 ● 時代の寵児 私が関わった仕事の中でエキサイティングだったのが、顧客であり提携パートナーでもあった株式会社ハイパーネットとの協業です。同社は、ウェブブラウザーに広告表示することでインターネット接続料金を無料にするシステムを開発し一世風靡したベンチャービジネスの雄でした。残念ながら急速な事業拡大をした直後に銀行融資が縮小され市場環境の変化(ITバブル崩壊)もあり倒産してしまいました。この企業の上層部は皆私と同世代で、社長を筆頭に物凄いカリスマとオーラを発していました。副社長のN野氏はハイパーネットを退職後、NTTドコモでi-modeを立ち上げ、現在KADOKAWAの代表取締役社長としてご活躍されています。ハイパーネットの倒産については「社長失格」(板倉雄一郎著 / 日経BP社)という本となり、後にTVドラマとして放映されました。同書に登場する人物は実名で書かれており、当時窓口としてお付き合いしていた事業部長のN山氏が突然退職された理由が分かり、心が痛みました。(板倉雄一郎著 / 日経BP社) ● 夢破れる 大きな夢を抱いて入社したサイバーですが、小規模のベンチャービジネスが成長を続ける為には、卓越したアイデアだけでなく、資金面のバックアップや「運とタイミング」も必要です。当時、インターネットは日々目覚ましい発展を遂げていましたが、「インターネット」という言葉やイメージばかりが先行し、実際に何が出来るのか、どう活用するのかはまだ手探りの状態でした。魅力的なWebコンテンツやアプリケーションも殆ど無く、市場は未成熟で利益を創出するのは厳しい環境でした。サイバーの財務状況が悪化し始めた頃、私は親しくなった技術部長に誘われ、米系大手ゲームメーカーへ転職しました。現在サイバーは在りませんが、それぞれ別の道を歩んでいる友人達とは今でもインターネットで繋がっています。先日、カナダに移住した元社長と二十数年振りに再会し、友情を再確認出来たことが非常に感慨深かったです。学生時代に始まり、短いながらもサイバーで共に苦楽を味わった仲間との絆は、時を経ても変わらず、私にとって大切な宝です。 ■ 3社目:米国ゲームメーカー日本支社 アクティビジョン・ジャパン株式会社(以下、アクティビジョン)は、世界最大手のゲームソフトメーカーであるActivision, Inc.(現:Activision Blizzard, Inc.)の日本法人でした。主な業務内容は、パソコンや家庭用ゲーム機向けのゲームソフトおよびライセンスの販売であり、米国本社で開発されたゲームを日本市場に合わせてローカライズ (日本語化) する機能も担っていました。バイリンガルのエンジニアが、日本語に翻訳された音声やテキストをゲーム内に組み込む作業を行っていました。アクティビジョンは「洋ゲー(洋物ゲーム)」として知られ、特定の「洋ゲーマニア」から強い支持を受けていました。 1990年代後半、ゲーム業界では大きな技術革新の波が起こりました。アクティビジョンはロボット対戦、カーチェイス、戦闘機対戦等のゲームにインターネット対戦機能や3Dポリゴン技術を導入し、リアルな質感のある画像でのオンラインマルチプレイ (※) を実現しました。更に、AI機能をいち早く採用することで、特定の洋ゲーマニアだけでなく、一般ユーザーも魅了しました。 ※ インターネット上で複数のユーザーが同時にプレイすること ● ゲーム業界に身を投じて ゲーム業界には、「PC系」と呼ばれるパソコン向けのゲームソフトと、「コンシューマー系」と呼ばれる家庭用ゲーム機向けのゲームソフトがあります。前者はWindowsやAppleのOSを使用するパソコン向け、後者は任天堂、ソニー、セガが製造する専用ゲーム機(ファミコン、プレイステーション、セガサターン)向けです。私は、PC系ゲームソフトを営業活動のメインとし、北海道から九州までのパソコン量販店、ゲームソフト専門店、家電量販店、書店、玩具店を一人で回っていました。上司命令で、どこにいても最低でも週に1回は主戦場である秋葉原の得意先に顔を出すようにしていました。また、週末にはゲーム大会を企画・開催し、休む間もなく働いていました。 当時は、大きな量販店であっても購入を決める担当者の多くは、ゲームソフトに精通した若手社員やアルバイト学生でした。彼らは気さくに話を聞いてくれ、自社ゲームの反響や競合他社の情報、パッケージの改善点等を教えてくれました。私は毎晩帰宅後に自社ゲームと競合他社のゲームをプレイしながら知識を深め、次第に洋ゲーの独特な世界観に心を奪われるようになりました。日本のゲームが色鮮やかでBGMや効果音が派手で楽しいのに対し、洋ゲーの少しくすんだ色使いや幻想的なBGM、効果音には奥深い魅力がありました。 一度興味を持ち始めると、全国のゲーム調達担当者とのコミュニケーションが充実し、大手卸業者(問屋)から得た仕入情報の分析(顧客毎に違う売れ筋、売れないタイトルの傾向、地域毎の顧客動向他)が少しずつ出来るようになりました。当初は、やみくもに飛び込み営業を繰り返していたのですが、上司の熱血指導のお蔭で(毎日こっぴどく叱られていました )、体を使った営業だけでなく、頭を使った営業の重要性を認識し、営業スタイルの改善に努めました。そして問屋からの情報を基に、訪問先を絞り込み、顧客毎の個別アプローチを展開した結果、ポスター掲示や販促品の自由な配置、更にはアクティビジョン専用の特設コーナーの設置を許可される等、店舗でのプロモーション活動が活発化しました。その結果、アクティビジョンのゲームが店頭に増え、目立つ場所に置かれる機会も増えて行きました。 ● 体力勝負だった広報活動 ゲーム業界での営業に慣れて来た頃、広報担当者の退職に伴い、掛け持ちで広報の仕事を担当することになりました。雑誌社を訪問して新作ゲームのデモを行い、記事掲載をして貰うことでその認知度を高める取組みを実施しました。広告よりも特集記事等に掲載される方が、広告効果が高く、費用対効果も抜群でした。当時はまだ最新ゲームを滑らかに動かせられる高性能なノートブックPCが少なかった為、大きなブラウン管モニター、ステレオスピーカーとデスクトップパソコン一式を抱えて会社から出て、道端で捉まえたタクシーに積んで雑誌社へ持ち込んでいました。今振り返ると体力と気力に満ち溢れていた若い自分だからこそ出来たのだと懐かしく思い出されます。 ● 新たなる成長へ向けて アクティビジョン・ジャパンは12〜13名の小さな会社でした。このような小さな会社が競争を勝ち抜く為には、綿密な戦略と作戦が必要であり、その実行過程では常に修正を加えながら前進していくことを学びました。特に、マーケティング理論「ランチェスターの弱者の戦略」を営業戦略に取り入れていたことは興味深く、勉強になりました。猪突猛進で頑張っているだけでは成果が上がらないことを、全国のお客様を訪問する営業活動やキャンペーン、広報活動を通じて理解しました。アクティビジョン・ジャパンでの経験は、仕事に対する考え方やアプローチを少しずつ変える契機となりました。(30代まで続けたGymトレーニング) (老舗洋ゲー専門店で自社ポスターと) ■ 4社目:電子機器・部品メーカー 日本航空電子工業株式会社(以下、航空電子)は、「コネクタ事業(コネクタ)」、「インターフェース・ソリューション事業(タッチパネル、タッチパネルモニタ)」、「航機事業(航空・宇宙電子機器・部品)」の3事業ラインからなる電子機器・部品製造メーカーです。1953年の創業時に、将来日本に必ず訪れる航空・宇宙産業時代にエレクトロニクス技術で社会貢献をしたいという思いが社名に込められています。 一大決心して大恩ある池上を飛び出し、サイバーで夢破れ、ゲーム業界で忙しい日々を過ごしていましたが、心の奥底では、日本の高度な技術や製品を世界に紹介して行きたいという気持ちが再び強くなっていました。そんな折、週末に予定していた顧客とのアポイントがキャンセルとなり、ふと手に取った求人雑誌で『国際派転職フェア』の広告が目に留まりました。丁度スーツを着ていたこともあり、思い切ってその転職フェアを訪れてみると、そこには航空電子がブースを構えていました。航空電子は、池上の製品に使われていたコネクタを製造しており、その縁もあって興味を引かれました。しかし、再度転職することには少し躊躇しており、その場での決断は出来ませんでした。それでも、航空電子から何度も熱心にお誘いを頂いたことで、次第に決心が固まり、この会社で新たな挑戦をすることを決意しました。 ● 航機事業ライン 最初に配属された航機営業本部では、技術翻訳から始まり、産業機器向けアプリケーションに使用される加速度計、光ジャイロ、リニアモータの営業に幅広く携わりました。具体的には、油田掘削時におけるドリル先端の位置・方向把握に使用される加速度計やセンサーパッケージ、製造機器のXYステージを駆動させるリニアモータ、トンネル内の壁面検査ロボットの位置・姿勢測定用センサーユニット、構造物の揺れを低減するアクティブ制振用センサーユニット等、様々なアプリケーションに関わりました。 配属初期の修行 私は航空電子が新卒以外で初めて雇った文系出身の営業マンでした。その為、技術用語が飛び交う営業フロアでは、日本語でさえ理解が難しい状況でした。そこで、会社にお願いし、最初の1ヵ月間は工場の設計部門で若いエンジニアの隣に席を設けてもらい、加速度計や光ジャイロの原理や応用について学ぶ機会を得ました。その結果、社内で話されている大まかな内容について把握出来るようになりました。当時、会社の営業フロアには、日本初の国産H-IIロケットの姿勢制御を司る慣性誘導装置の開発を担当し、NHK番組「プロジェクトX」に出演した技師長や、米国の技術系一流大学出身で油田ビジネスを開拓した猛烈営業部長(私の最初の上司)等、優秀な方々で溢れていました。彼らと共に働く中で、多くのご指導を頂き、新しい環境に慣れていくことが出来ました。 余談ですが、この技師長がH-IIロケット用の慣性誘導装置を開発中、ジェットコースターにその装置を載せて何度も試験を繰り返したという逸話を最近になって知り、私もテレビ番組のロケで、読売ランドのジェットコースターに加速度計ユニットを持ち込み、背中向きに乗って加速度を測定したことを思い出しました。先輩の開発時の逸話には遥かに及びませんが、私もほんの少しだけテレビに映ることが出来たこの経験には、ささやかながらもロマンを感じています。 閑話休題、工場勤務から営業部署に戻ると直ぐに、上司と技術部長と共に、英国を皮切りに米国テキサス州を中心とした石油掘削関連の顧客を次々と訪問しました。加速度計や光ジャイロの拡販においては、単に製品性能を示すだけでなく、顧客のアプリケーションやニーズに応じた技術提案が求められます。顧客の態度や反応から、航空電子がこれまで着実に顧客の要望に応え、その結果として深い信頼関係が築かれていることが分かりました。これをしっかり受け継ぎ、更に発展させていく責任が自分に課せられていると感じ、身が引き締まる思いがしました。(定年退職が迫る上司の背中から発せられる強烈なプレッシャーと期待が、ひしひしと伝わって来ました。) 毎晩ホテルに戻ると、上司と技術部長の指導の下で打合せ議事録を作成し、本社にFAXで報告した後、ようやく食事にありつけました。しかし、その食事も顧客接待を想定したレストラン開拓を兼ねており、寝るまで気を抜くことが出来ませんでした。厳しい旅でしたが、この経験は最高のOJTであり、普段忙しい上司と技術部長から直接学べた時間は贅沢で貴重なものでした。 予期せぬ異動 私は当初、米国の販売子会社に出向している方の交代要員として雇われていましたが、その話は諸事情により無くなってしまいました。そして2年後、会社の主力ビジネスであるコネクタ事業ラインの海外営業本部に異動することになりました。人生最後の転職として覚悟を決め、難しい技術知識の習得や営業活動に取組み、更には商社へ出向して営業スキルを磨いていた私にとって、この異動は大きなショックでした。社内とはいえ、全く異なる業種への異動は転職と同じようなインパクトを感じていました。 記憶に残る仕事 2年間の航機営業で特に印象深かった仕事の一つに、1998年にテキサス州ヒューストンのアストロドームで開催された海底油田関連の展示会(Offshore Technology Conference)への出展があります。当時、航空電子は世界最小サイズ (直径19mm) の耐環境・高温対応 (~175℃) の加速度計を開発し、小さなブースで発表しました。海底油田掘削関連の展示会ということもあり、他のブースはヘリコプターや商用潜水艦、ボート、掘削ドリル等大規模な展示を行っていましたが、我々のブースはお手製の20cm程のシーソーに加速度計を取り付け、それを上げ下ろしする際に出力される電気信号を波形モニターに映し出すという、非常にシンプルなデモを行いました。 派手な展示が多い中、航空電子の小さく地味なブースに展示開始と同時に多くの人が押し寄せ、大変驚きました。競合他社も同等仕様の加速度計を発表していましたが、偵察したところ、それは外観だけで中身の無い「どんがら(モックアップ)」でした。開発が間に合わなかったのです。この瞬間、私は心の中で「やった!」と叫びました。航空電子の開発が競争に勝った瞬間でした。 油田掘削は年々深く掘り進む傾向にあり、それに伴いドリルの先端はますます細くなっています。さらに掘削が進むにつれて地中温度は150℃を超える高温となる為、小型で耐熱、耐衝撃、且つ高精度な加速度計が業界で求められています。当時、この要件に応えられる会社は航空電子と競合他社の2社だけでした。(米国テキサス州:Offshore Technology Conference) もう一つ印象深い仕事としては、ある欧州メーカーへの拡販取組みがあります。当時、国内の主要産業機器メーカーとは既に取引があったものの、海外市場への進出はまだ限定的でした。そこで、私は半年以内に訪問することを目標に設定し、先ず幕張メッセで開催された国際展示会でその企業の展示ブースを訪ねました。アクティブ制振のアイデアを口頭で説明し、名刺を渡したところ、数週間後にはあっさりと招待を受けてしまいました。 会社内は大騒ぎとなり、私は、土日は自己啓発として関数電卓を片手に三角関数を復習し、平日は工場の技術データを集めながら、プレゼン資料の作成に努めました。1か月後、同年代の若手エンジニアと共に欧州へ飛び、そのメーカーでプレゼンを行いました。応対して頂いたのは博士号を持つ6人のエンジニアの方々で、文系出身の私にとっては緊張の連続でした。しかし、同行エンジニアと協力しながら、アクティブ制振の提案と試作品による試験結果の説明、質疑応答を行い、更に航空電子の航機関連主要製品の説明とデモンストレーションを実施しました。 結果的に多くの課題を持ち帰ることになりましたが、この出張では、航機事業ライン(工場・営業)の諸先輩から教えられ、託された全てを出し切り、初めて大きな達成感を味わうことが出来ました。そして、この達成感は、次の異動先へと向かう私にとって、一つの区切りを意味するものでした。 ● コネクタ事業ライン コネクタは、航空電子の総売上の8割以上を占める主力製品で、プリント基板や電子機器同士の電力や電気信号を接続・切断する為の重要な部品です。人工衛星や飛行機、電車、自動車、家電製品、パソコン、スマートフォン等、広範な分野で多種多様なコネクタが大量に使用されています。コネクタは、電力や電気信号を伝える金属製のコンタクトと、それらを絶縁するプラスチック(インシュレータ)で構成されており、電気的性能と機械的性能の両方を満たさなければならず、その開発には高度な専門知識とノウハウを要します。 営業マンはお客様に育てられる 私のコネクタ事業ラインでの業務は今年で25年目を迎えます。この間、多くの貴重な経験をさせて頂きました。中でも特に心に残っているのは、13年間担当を務めた、欧州のグローバル企業とのビジネスです。当時、GAM(Global Account Manager)として欧州、北米、アジアのR&Dや生産拠点に何度も訪れ、多くの開発案件に携わりました。そして、量産立上げ後に避けては通れない品質問題や納期問題、価格交渉等にも会社同僚と一丸となって積極的に取組み、その結果、No.1サプライヤーとして高く評価して頂きました。 (フィンランド:夏) (フィンランド:冬) この経験から、メーカー営業マンは社内で得た知識やスキルを基盤にしながらも、最終的には顧客によって育てられることを強く実感しました。私自身、社内で基礎を固めた後、顧客と向き合い、彼らの要求に応える過程で成長して来ました。 先ず、社内での基礎作りとして、現場での実践経験に力を入れました。携帯電話やPDA、STB(セットトップボックス)等の電子機器を片っ端から分解し、基板の形状や実装部品の配列、高さ、投影面積等を丹念に調査して、アプリケーション毎の筐体形状や内部構造、実装技術について学びました。また、工場の技術フロアでは、試作品の組立てや評価試験にアシスタントとして参加し、その結果を英文レポートに纏めることで、コネクタ製品に関する理解を深めました。 次に、顧客と直接向き合い、彼らの要求に応える中で、営業マンとしての成長が促されたと思います。例えば、品質問題が発生した際には、通常は立入ることの出来ない顧客の生産ラインに特別に入れて貰い、技術評価試験に立会う機会がありました。品質問題はサプライヤーにとって避けたい事態ですが、これをチャンスと捉え、問題解決に取組むことで顧客の信頼を得られました。 その上で、品質問題とは別に、顧客の生産ラインで使用されている製造設備を把握し、その後、その設備メーカーを訪問して、次の製品作りに生かすヒントを得ることに努めました。これらのヒントを製品に反映し、品質や使い勝手を向上させることで、顧客の満足度を高めることが出来ました。 モノづくりの舞台裏 ここで少し、メーカーにおいてよく見受けられる工場部門間の関係性について触れたいと思います。それは、開発途上で、設計担当者と生産技術・製造部門のエンジニアとの間で立場の違いからしばしば緊張や対立が生じることです。設計者が斬新なアイデアやテクノロジーを投入して尖った製品開発に挑む一方で、生産技術や製造部門のエンジニア達は、その実現の為に多大な努力を強いられます。しかし、ひとたび新製品が市場に投入され、成功を収めると、全員がその達成感を共有し、固い絆で結ばれ、それが開発を続ける中で更に深まって行きます。こうしたモノづくりの舞台裏を知っていると、初めて訪問した顧客のプリント基板を見せて頂いた際に、生産技術や製造部門が設計にどのように影響を受けているかを指摘出来ることがあります。すると、窓口の設計者がその場で関連エンジニアを呼び出してくれることがあり、その結果、打合せは自然と笑いのある明るい雰囲気になることがよくあります。このような経験の積み重ねが、同じモノづくりに携わる顧客との関係構築に大いに役立ちました。 (北京:陳式太極拳「単鞭」のポーズ) (サンディエゴ) 信頼とバランスの構築 ビジネスの世界では、「Win-Win」という理想がよく語られますが、現実では、顧客がWinし、私達が少しLoseすることも少なからずあります。これは、顧客との力関係によるもので、ある程度は避けられないことです。私は常に顧客の立場を最大限に尊重しつつも、自社の利益を守る為に、適切なバランスを見つけるよう心掛けて来ました。その為、時には難しい話もしっかりと議論出来る関係構築が重要だと考えています。 (中国河南省:太極拳国際試合 相手は後にAlibaba創業者 Jack Ma氏のボディーガードに) ● 英国販売子会社出向 JAE Europe, Limited (以下、JAE EU)は、航空電子の販売子会社で、英国に本社を構え、ドイツ、フランス、イタリア、スウェーデンにもオフィスを展開し、欧州全域のビジネスをカバーしています。欧州市場は、特に自動車産業、産業用ロボット市場、医療機器市場において、世界の技術革新をリードする多くのテクノロジーリーダーが存在する重要な市場です。JAE EUは、この市場で欧州の先進企業と共に未来の技術革新に貢献することを目指しています。 入社当時に立ち消えた海外赴任の話が、18年後に突然舞い戻って来たかと思うと、急速に具体化し、家族(妻、長男: 中2、次男: 小6)を伴って英国に赴任することになりました。2016年から2020年まで英国ロンドンで生活し、その間にBrexitや新型コロナウイルスの蔓延といった大きな変化が起こる中で、仕事面でも家庭面でも得られることが多かったです。 新しい職場環境 JAE EUでの勤務が始まると、現地社員は英国、ドイツ、フランス、イタリア、スウェーデン等多国籍で構成され、顧客も30か国以上に跨っていることが分かりました。「欧州」と一言で括るにはあまりに大雑把過ぎる地域であり、国毎の人々や文化、習慣の違いを考慮した対応が必要なのは言うまでもありません。 私は一時期、営業に加えてマーケティングや技術チームの責任者も兼任していました。英国本社での勤務と並行して、ドイツのミュンヘンオフィスとの連携を強化する為に、頻繁に現地を訪れていました。現地社員との業務遂行においては、ドイツの労働法規や労務管理に細心の注意を払い、職務明細書(Job Description)に基づいた明確な業務指示を行い、ファクトとエビデンスに基づいた公正な業績評価を心掛けていました。また、拡販方針や戦略については納得がいくまで議論を重ねることで、チーム全体の目標と方向性を揃えました。 ドイツのメンバー達は、普段は家族生活を優先し、プライベートな時間を大切にしていましたが、いざという時は自ら進んで長時間の業務に取組んでくれました。私が別の仕事でドイツに行けなかった際には、急遽英国まで駆けつけ、ピザ1枚で深夜まで一緒に作業してくれることもありました。この経験は、ワークライフバランスを徹底して重視するドイツ人に対する固定観念を完全に払拭するものでした。彼らの献身的な姿勢と協力には、今でも感謝しています。 日常生活 ①:家族生活の変化 日本での生活と比較して、英国での生活では家族との関わり方に大きな変化がありました。日本で暮らしていた頃は、仕事のことばかりを考えていましたが、海外では家族の生活に積極的に関わり、生活環境を整えたり、日常生活のサポート(学校、病院、買い物、余暇)にも力を入れるようになりました。学校選びについては、私自身の留学経験から現地校を勧めましたが、息子達から「お父さんは自分の意志でアメリカに留学したんでしょ?僕らはお父さんの転勤で外国に来たんで自分の意志じゃないんだ!」と反論され、彼らの気持ちを尊重して日本人学校に通わせることにしました。(立派な主張だと感心しました。) 今では日本人学校に通わせたことが正しい選択だったと思っています。日本人としてのアイデンティティを確立する過程での良い教育を受けられました。ロンドン日本人学校には優秀な教師と生徒が集まり、非常に高い教育レベルが提供されていました。また、欧州を訪れる日本の要人(宇宙飛行士、スポーツ選手、芸術家、ミュージシャン、学者、政治家等)の多くがロンドン日本人学校に立ち寄り、貴重なお話を子供達に聞かせてくれる機会があり、大変恵まれた学習環境にありました。 日常生活 ②:ロンドンの暮らし ロンドンでの生活は、歴史的な街並みや博物館、美術館、そしてミュージカル等、文化に容易に触れることが出来ました。気候は北海道より北に位置する為冬はやや寒いものの、年間を通じて非常に快適でした。また、都会でありながら自然が豊かで、緑あふれる公園が数多くあります。自宅の裏庭には、狐、リス、野鳥が頻繁に訪れ、心を癒してくれました。賢い狐は、生ごみを入れるコンテナのロックを外して荒らしていくこともあり、彼らとの知恵比べも日常の出来事でした。ロンドン中心街の観光スポットは、私達にとっては生活圏の一部であり、散髪や息子達のスポーツ用品、日本食材等の買い出しをしていました。日本食材は日本価格の何と3倍で、購入する品物によって一番安い店を選ぶ等節約に努めました。 日常生活 ③:自動車通勤 通勤については、赴任当初は大きな試練でした。オフィスは自宅から南西に60kmの距離にあり、朝の通勤時には頻繁に事故渋滞に巻き込まれました。英国では、警察が事故現場の調査を終えるまで道路を閉鎖する為、高速道路内で閉じ込められ、トイレに行けず苦しい思いをしたこともあります。閉鎖が解けた後、急いで高速道路を降り、ヒースロー空港で用を足したことも。たった10分の駐車でしたが、これまでで一番高くついたトイレでした。帰りが遅くなると、高速道路が閉鎖されて入れなかったり、途中で閉鎖となり止む無く最寄りの出口から出て行かなければならず、何度も道に迷いながら真っ暗な山道のような場所を走りました。その過程で、帰宅ルートが自然と増え、道に詳しくなりました。一度慣れてしまうと、自動車通勤は一人になれる特別な時間となり、iPhoneに入れた70~80年代の歌謡曲を大声で歌いながら眠気を覚まして帰る日々を楽しみました。 日常生活 ④:ハプニング 息子の剣道教室に参加した際、アキレス腱を断裂し、ロンドンの救急病院(A&E: Accident and Emergency)で全身麻酔の日帰り手術を受けることになりました。そこではクロスファンクショナルチーム(機能横断型チーム:CFT)による対応が行われており、大変興味深いものでした。 窓口での受付を済ませた私は、病室を行き来すること無く、直ぐに移動式のベッドに乗せられました。そのまま手術着に着替え、手術室前で待機する他の患者達の長いベッドの列に加わりました。手術が流れ作業のように次々と行われ、ベッドの列が動きながら手術室に近づいていく様子を見て、自分がまるで工場の生産ラインに投入された材料のような感覚を覚えました。 病院スタッフは役割毎に色分けされた制服を着用し、それぞれの専門分野に基づいてテキパキと対応してくれました。私のベッドには、手術前から退院までの全ての手順が記された私専用のノート(※)が置かれており、スタッフはそのノートに従って入れ替わり立ち代わり私の前に現れては、チェックボックスを埋めながら正確に漏れなく処置を進めていました。このオペレーションは、病院の人手不足を補い、患者の精神的・身体的負担を軽減するもので、大いに感銘を受けました。 (病院スタッフの制服:役割別色分け) (日帰り手術用ノート) 尚、私は外国人でしたが、NHS(National Health Service:国民保健サービス)に加入していた為、薬代を除き医療費は無料でした。一般的に日本人駐在者は会社で加入する海外旅行保険を適用し、高額なプライベート医療サービスを利用することが多いですが、私はNHSの病院で奇跡的に手術日を確保出来た為、また冒険心にも駆られて手術を受けることにしました。因みに、奇遇にも同じ剣道場で数週間後にアキレス腱を断裂したポーランド系の方は、NHSの手術待ちが3カ月だった為、ポーランドで手術を受けたそうです。英国の医療現場が慢性的に混雑し、極めて厳しい状況にあることは事前に知っていましたが、道場で私の為に呼んで頂いた救急車が2時間待ち(後にキャンセル)だったことから、その現実を身をもって痛感させられました。 ※ノートには、手術前の準備(体温、脈拍、血圧、血液チェック、退院後の松葉杖の使い方指導等)から、術後の体力回復処置、退院許可迄のプロセスがページ毎に記載されていました。 その後、ギブスを装着してのドイツ出張では、イミグレーションの審査が驚くほどスムーズに進み、健常者としての移動よりも楽で早かったという貴重な体験もありました。イミグレーションでは電気自動車に乗せられ、そのまま空港出口まで送って貰えたことも印象に残っています。 英国赴任を終えて 振り返ると、英国での赴任は、仕事、異文化での暮らし、そして家族との時間という三つの面で、多くの学びと成長がありました。仕事や異文化での経験はこれまでも積み重ねてきましたが、家族の存在を何より大切にし、共に過ごす時間を最優先するようになったのは、この英国での生活がきっかけでした。子供達が成長し、家族で一緒に過ごす時間が減ってしまった今、コロナ禍のロックダウン中に家族水入らずで過ごした時間が特別な思い出となっています。ロンドンの青空の下、自宅裏庭で楽しんだBBQは、かけがえのない記憶です。 (ジブラルタル海峡:ここから顧客のいるモロッコへ船で渡りました)(ストーンヘンジ:ロンドンの自宅からたったの130km) (アイスランド:家族旅行) ● 現在:コネクタ事業ライン 海外赴任から帰国後、特定顧客の営業チームの責任者を務めた後、営業ラインを離れ、海外契約書のリーガルチェックという新たな職務に就きました。この業務では、海外の取引先や今後取引を予定している会社から提示された契約書に含まれる法的問題や自社に不利益な条項が無いかを精査します。また、取引内容に適合しているかを確認し、必要に応じて修正案を提示します。契約締結プロセスは、最終交渉の場であり、トラブルを未然に防ぎ、健全な関係を築くことが重要です。 法務バックグラウンドはありませんが、営業経験を通じて基本的な契約書の知識は持っていました。しかし、それを専門職として扱うのは全くの初心者であり、当初は手探りの状態でした。その為、法務部門のアドバイスや支援を受けながら、外部セミナーを受講し、情報収集を重ねて来ました。現在、業務を始めてから1年以上が経過し、100件以上の契約書をチェックし、150件以上の文献を読み、少しずつ知見が積み上がって来たと感じています。 この仕事において、私が特に重視しているのは、営業バックグラウンドを活かしたリスク評価です。同じ条文でも、相手方がどのような会社で、どのようなビジネスを進めようとしているのかによって、評価が異なります。長年の海外ビジネス経験を基にした分析・判断力を発揮し、日々新たな業務に全力で取組んでいます。(ロンドン: タワーブリッジを一望しながらのアフタヌーンティ) 【エピローグ】 これまでのキャリアを通じて学んだのは、「人生に無駄な経験は無い」ということです。転職や新たな挑戦を重ねる中で、失敗と成功を繰り返して来ましたが、その全てが今の私を形成する大切な要素となっています。若い世代の方々が自分の夢を追いかけ、理想に向かって進む為の力と勇気に少しでもなればという思いを込めて、この体験記を書き進めました。 「外国人と日本人は、同じものを見た時に同じように見えるのだろうか?」幼い頃に抱いたこの疑問に対する答えが、年月を経て少しずつ見えて来たように思います。私達の世界の見え方は、目の色等の生まれ持った特徴や、育った環境、経験によって異なるものです。同じ日本人同士でも、年齢や生活環境によって物の見え方には違いがあることを日々感じています。 交通機関の発展による人的交流に加え、インターネット技術の革新による国境を越えた情報交換の活発化が、本格的なグローバル社会の到来をもたらしました。今や世界中の人々との共生が日常となり、日本でも様々な背景を持つ人々が増えています。グローバルスタンダードや普遍的価値観の追求が進む中で、この流れに対して懸念も感じています。均一化による公平性は大切ですが、それによって多様性が失われることは避けなければなりません。また、多様性を認める為にマイノリティーを優先することが、時に不条理を生むこともあります。私達は、非常に難しい時代の局面に立たされています。 私は、より良い未来を築く為に、日々の小さな一歩を大切にしながら、自分らしく出来ることを続けて行きたいと思っています。この体験記が、読んで下さった方にとって、少しでも前向きな気持ちや、新たな一歩を踏み出すきっかけになれば幸いです。 (原田 晴之さんプロフィール) 群馬県出身 1984年3月 東京都立板橋高等学校 卒業 1985年6月 米国カリフォルニア州Bloomington High School 卒業 1986年4月 東京国際大学教養学部国際学科 入学 (下羽ゼミ) 1989年9月 米国オレゴン州Willamette University入学 (3学年編入) 1991年5月 米国オレゴン州Willamette University 卒業 (BA政治学専攻) 1992年3月 東京国際大学教養学部国際学科 卒業 (大越ゼミ) 1992年4月 池上通信機株式会社 入社 1996年3月 池上通信機株式会社 退社 1996年4月 Cyber Technologies International株式会社 入社 (ITベンチャービジネス) 1996年10月 Cyber Technologies International株式会社 退社 1996年11月 Activision Japan 株式会社 入社 (米国ゲームメーカー日本支社) 1997年6月 Activision Japan 株式会社 退社 1997年7月 日本航空電子工業株式会社 入社 (電子機器・部品メーカー) 2016年3月 JAE Europe, Limited 出向(英国販売子会社) 2020年10月 日本航空電子工業株式会社 帰任、現在に至る (航空電子スポンサーのボブルヘッド人形) (シアトル:イチロー選手) TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
原田 晴之さん (1992年卒業 教養学部国際学科/大越ゼミ 1991年Willamette Univ.卒業/BA政治学専攻)2024年10月1日【プロローグ】 私が海外に興味を持ち始めたのは幼稚園での出会いがきっかけでした。カトリック系幼稚園で良くして頂いた神父、先生(シスター)方、そして聖書の挿絵に登場する聖人達は皆、外国人でした。園庭で先生と一緒に遊んでいた時に、花壇のチューリップが果たして自分と同じ様に見えているのだろうかと考えていた記憶が、ぼんやりと残っています。(幼稚園から頂いた聖書) 【高校留学】 カリフォルニア州のメキシコ系アメリカ人家庭にホームステイをしながら、地元の公立高校 (Bloomington High School) に1年間通いました。激しい環境の変化に身を投じた事で、いきなり人生の転換期を迎えました。勉強不足による知識の無さや思考力の弱さを痛感し、帰国後に何を為すべきか大いに悩んだ時期でした。 ■ 自律性を養う 私のホストファミリーは、モービルホーム (トラックで牽引出来る家) に住む共働き家庭(3人家族+犬1匹& 猫1匹)でした。食事は冷蔵庫にある食材を各自が勝手に料理して取ることが基本で、家事はホストブラザーと分担していました。ところが、滞在3か月を過ぎた頃から、冷蔵庫が空になることが増え、家事の分担も私に偏り始めました。 普段はのんびり屋の私でしたが、「空腹」が「飢え」に変わったところで突然「スイッチ」が入り、自分でも驚く程の行動力を発揮したのです。近隣の家や友人宅を訪ねて、「芝刈り」「庭木の剪定」「掃除」「洗車」「ベビーシッター」「犬の散歩」「プールの清掃」等の仕事を次々と取り、家事で身に付けたスキルを総動員して、一気に問題を解決してしまったのです。(その勢いは止まらず、学校の昼食を無料にして貰うことにも成功しました。) その後、高校卒業に必須のクラス「American History」の前期分を、留学初期の英語力不足が原因で履修漏れが判明し、留学中最大の危機に直面しました。しかし、幸いにもその時ちょうど「スイッチ」が入って「エンジン全開」の状態だった為、この難局をうまく切り抜けられました。日本の高校で履修済みの世界史の教科書を手に、カウンセラーの先生や社会科の教諭、教頭先生に必死で掛け合いました。そして、補習クラスの履修を条件に「前期分」に相当する単位の置換を認めて貰うことに漕ぎつけたのです。 「自分の問題は自分で解決する」「自ら考え行動する」という自律性を養うことが、高校留学で得た最大の収穫でした。 (高校のクラス) ■ 英語の多様性とTPO 若者の英語、大人の英語、綺麗な英語、汚い英語、白人の英語、黒人の英語、メキシコ人の英語、インド人の英語、中華系の英語、西海岸の英語、LAヴァリーガール (Valley Girl) の英語、サーファーの英語等、多種多様な英語が日常生活でパワフルに話されており、米国デビューを果たした私の前に大きな壁として立ちはだかりました。私は小さなメモ帳を常に携行し、聞き取れた言葉をカタカナでメモし、帰宅後には鏡の前でネイティブスピーカーになったつもりで、カッコよく身振り手振り付きで発声練習を行いました。翌日には学校の友達にそれを披露してアルファベットに変換して貰い、帰宅後に辞書で調べて正確な意味を理解するというルーティンを徹底的に繰り返しました。その結果、3カ月後には確かな進歩を感じ、それが自信につながりました。 ところが、日々私が書き溜めて練習し、身に付けた英語が、米国の一般社会では決して受け入れられないギャング英語(メキシコ系のChicano Englishがベース)だった為に、それまで私を応援してくれた大切な友人が少しずつ私から離れて行きました。私はTPOをわきまえ、学校生活の中では標準的な英語を使うことを心掛けました。一方で、興味のあったインド、スペイン語、中国語訛りの英語については密かに練習を続けました。標準的な英語とそれ以外の切り分けにはかなり苦労しましたが、これも一つの学びでした。 ■ 人種差別 ほぼ単一民族の日本で育った私にとって、自分が「有色人種」である事を強烈に意識させられ、自覚させられたのが米国での生活でした。留学当初、私は「Jap」「Nip」「Gook」「Chink」「Pigtail」「WOG」「Napalm」その他多くの差別語で呼ばれ、学校の内外で不当な扱いを受ける事がありました。ある日、真っ黒に日焼けした自分の手の甲を見た瞬間、「汚い!」と感じた自分に大きなショックを受けました。無意識の内に、東洋人であることに劣等感を抱いていたと気付き、驚いたのです。 滞在期間の後半には友人も増え、それは和らいで行きましたが、学校の授業で見せられた 「A Class Divided」 というドキュメンタリー番組 (※)を通じて、改めて自分が抱いていた「劣等感」の正体を考えさせられました。そして、白人以外の人種に対して抱いていたかもしれない「優越感」がいかに虚しいものであったかを痛切に感じました。 ※ 1968年アイオワ州の小学校で実施された人種差別についての実験授業 YouTubeで日本語版を見つけたのでご紹介します。(NHK特集1988年4月29日放送) 「青い目 茶色い目 ~教室は目の色で分けられた~ (ウイリアム・ピータース著 / NHK出版) (高校の仲間)(高校の仲間) 【東京国際大学】 校名が「国際商科大学 (ICC)」から「東京国際大学 (TIU)」に改称された年(1986年)に入学しました。「高校留学での体験を思い出として終わらせず、深堀りする事で経験値として落とし込みたい。更に勉学を重ねる事で進むべき将来の道を明らかにしたい。」との一心で門を叩きました。 ■ スランプからの脱出 高い志と情熱を持って臨んだ「下羽ゼミ」(国際政治学)で私を待ち構えていたのは、日本全国から集まった個性豊かなクラスメート(曲者)達でした。私とは次元の違う高レベルの論客揃いで、自ら収集した情報(Fact)を分析(Study)し知識 (Knowledge) として吸い上げて行く「大学生の勉強方法」を当たり前の様に実践していました。私も必死で食らいつきましたが、元来の怠け癖と誘惑に弱い性格が邪魔をして空回りし、大学1~2年時は焦燥感に苛まれる事が多かったです。 3年に進級すると「大越ゼミ」(アメリカ研究論)を選択しました。下羽ゼミの仲間達が「厳格な修行僧」、「哲学者」の如く真理を追究する一体集団だとすれば、大越ゼミの仲間達は「まとまりの無い我儘な自由人」、「枠にとらわれない斬新的なクリエイター」の集まりといった印象でした。 一見、全く異なる二つのゼミでしたが、そこで学んだことは共通していました。知識の積み重ねや思考力の鍛錬は他人に代わって貰うことは出来ないこと、焦って背伸びをしても一足飛びに先には進めないこと、地道に継続することの重要性、そして勉強は苦しいだけでなく、取組み方次第では自由で楽しいものだということを教えられました。これは、至極当たり前のことかもしれませんが、私にとって大きな気付きでした。 スランプから脱出して改めて周りを見渡すと、それまで見過ごしていた周りのものが鮮明に見えるようになりました。大学が提供する豊富な選択授業や、新しい図書館や視聴覚室の英語教材の存在に気が付き、それらを積極的に活用することにしました。また、一度は諦めていた留学についても、挑戦したいという気持ちが湧いて来ました。親の支援で一度留学させて貰っていた為、再度の留学は経済的に難しいと感じていましたが、奨学金制度を活用することで再び挑戦出来るのではと考えました。そして、春・夏の海外セミナー(春:ウィラメット大学、夏:南オレゴン州立大学)や長期留学(ウィラメット大学)に全て応募し、大学からの支援を得られました。 ■ 教育実習 将来の進路の一つとして教育関連の仕事を考えており、教職課程を履修しました。大学の紹介により、埼玉県の私立男子高校の2年生クラスで英語の教育実習を行いました。事前準備をしっかりして、気合を入れて挑んだ初授業でしたが、英語以前に生徒のやる気をいかに引き出すかが喫緊の課題であることが分かりました。授業中に簡単な問題を出して何人かの生徒を当てたところ、皆一様に立ち上がらず、中腰で「分かりません」と言って着席してしまいます。 私は、着席した生徒を再度しっかり立ち上がらせ、「分からなくても良いから、分かろうとしよう」と説得しました。そして、答えが出るまでヒントを出し続け、場合によっては答えを黒板に書いて声に出して読ませる等、兎に角最後まで諦めないで挑戦するように指導しました。 また、机の中に教科書ガイドを忍ばせている生徒達には、「英語なんて数学みたいに考えてもしょうがないから、教科書ガイドの積極利用は大歓迎!」と、机上に置いて堂々と使用するように奨めました。教科書の練習問題も面白い文章に全て書き換えて、少しでも楽しめるように工夫しました。 最初はやる気の無い生徒が多かったのですが、中学校で習った辞書の引き方から、必要と思われる基礎的な構文については丁寧に何度も教えたところ、徐々に授業に参加する生徒が増えて行きました。極めつけは、少しずるいやり方とも思いましたが、どのクラスにも必ずいるおしゃべりで明るい生徒をうまく乗せて、授業が楽しくなるようなムードメーカーの役割を担わせることでクラス全体がひとつになりとても充実した授業運営が出来る様になりました。 しかし、私の授業を見学した先生方の評価は、年配のベテラン教師と若い教師とで真っ二つに分かれました。あるベテラン教師は、「原田先生は元気があって声も大きく、発音だけは良いけれど、中学で教わった構文を、わざわざ高校の授業でまた教える必要はないでしょう?」と否定的なコメントを残して教室を出て行かれました。一方で、若い指導教諭は他の若い先生方と一緒になって「原田先生、気にしないで!生徒が分からないから、分かるまで教えるのは当然のことです。中学校で教わっていようがいまいが、関係ありません!」と、私の教授方法を全面的に支持して頂けました。 担当していたクラスには、当時では珍しい米国からの交換留学生が在籍していました。彼と共にハイスクールで実際に話されている会話をスキット形式で授業中に紹介すると、「生きた英会話」に関心を持つ生徒が何人も現れ、教えることのやりがいを大いに感じました (※)。ある日、彼から深刻な二つの悩みを打ち明けられ、それを解消する為に奮闘することになりました。一つ目は、日本語補習の個人レッスンの機会を与えるよう学校と調整したこと、二つ目は、関係がうまくいかないホストファミリーから新しいホストファミリーへの変更をサポートしたことです。実習生の立場で出過ぎた行動だったかもしれませんが、自らの高校留学でお世話になった方々への恩返しのつもりで思わず突っ走ってしまったのだと思います。 ※ それでも教科書英語で基礎を固める事は大切です。 初日から積極的に取組んだ教育実習はあっという間に終了し、仲良くなった生徒達や意気投合した若い先生方に温かく送り出して頂きました。実習校からは大学卒業後に是非来て欲しいという有難いお言葉を頂きましたが(もしかすると社交辞令だったかもしれません)、私は企業就職を選びました。実習期間中に出会った企業経験者の先生の柔軟な視点や考え方、そしてその言葉に感じた重みから、教師という職業には専門教科の知識だけでなく、幅広い社会経験が必要だと強く感じたのです。(これはあくまでも、私の自分自身への評価に基づく判断であり、大学卒業後直ぐに教職に就かれる方を否定するものではありません。) (生徒からの寄書き) 【ウィラメット大学】 再びアメリカへ行くチャンスを得た2年間の奨学金プログラムでは、前回の高校留学時とは異なり、生活に適応するだけでなく、大学生活全体を通して様々な経験を積むことが出来ました。この留学期間は、私の学生時代で最も成長した時期であり、大いに学び、大いに悩み、そして大いに楽しむことで、現在の私の土台を築きました。(ウィラメット大学) ■ 寮生活:フラットハウス ウィラメット大学は、1842年に創立された西海岸で最も古い大学です。オレゴン州会議事堂に隣接する美しいキャンパス内の学生寮で2年間を過ごしました。キャンパスにある学生寮は、個室の寮もありますが、ルームメートとシェアする二人部屋が基本です。私が編入した当時は寮が満室でしたが、大学が交渉して会員制のフラタニティーハウスの一室を仮住まいさせて貰うことで留学生活をスタートしました。 「フラタニティー」(fraternity)とは辞書によると、「米国の男子学生の社交クラブ、友愛会」と定義されており、その歴史はアメリカの建国の歴史からそれ程遠くない1800年代初頭に、学生達が理想の学生生活を求めて結成したグループに遡ります。当時のアメリカは自由の国として建国されましたが、教育界は保守的で学生の行動には厳しい制約があり、その為学生の活動は地下に潜り、秘密結社的な形態をとりました。やがて、フラタニティーは全米に広がり、現在では多様なグループが設立され、共通の趣味や価値観を持つ学生が集う伝統的な学生組織として認知されました。私が仮住まいしたフラタニティーは、「ΣΑΕ:Sigma Alpha Epsilon」(略称 エス・エイ・イー)という全米に支部を持つグループでした。フラタニティーは「Greek Society」とも呼ばれ、ギリシャ語2~3文字の略称が一般的です。 (ΣΑΕハウス) (ΣΑΕの仲間達と) その後、第一希望の寮であるWISH (Willamette International Studies House) に空きが出ず、止む無く移った個室のYork Houseでは、隣室の学生からタイプライターの音がうるさいとの苦情が出て、夜間の使用を禁止され、困っていました。そんな時、ΣΑΕから新会員候補としての招待(Bid)を受けました。私はフラタニティーという謎めいたグループに興味があり、招待を受けた後、正式なプロセスを経てメンバーとなりました。 フラタニティーのメンバーになる為には、「Rush」と呼ばれる募集期間中に希望するフラタニティーのイベントに参加し、メンバー達と交流します。そこで選ばれた者は招待状を受け取り、次に「Pledge」という新会員候補または見習いとして一定期間の試練や課題(Initiation)を乗り越えることで、正式会員となります。各フラタニティーには伝統的な儀式 (Ritual) やイベントがあり、その内容の多くは秘密です。会員となった後、秘密の合言葉や挨拶の仕方が伝授され、フラタニティーのギリシャ文字が入ったトレーナーやTシャツの着用が許されます。また、本部からはスーツのジャケットにつけるピンバッジ(記章)と証書が贈られます。 フラタニティーは、派手なパーティーを開催することがあり (※)、ハウスの地下室にはバーカウンターやビールサーバーが完備されています。パーティーの日には、キャンパス中から着飾った生徒が集まり大変な賑わいを見せます。クラスの課題に追われる私は、図書館横の24H Study Roomで勉強を終えた後、深夜遅くハウスに戻るのですが、パーティーが終わっているわけもなく、そのまま巻き込まれ酔っぱらって気絶することが何度かありました。アメリカの大学生活をフルに体験し、満喫する為には避けては通れない修行の場でもありました。(楽しい思い出です。) ※ フラタニティ―は、パーティーで大騒ぎするイメージばかりが先行していますが、ボランティア活動等の社会奉仕も盛んに行っています。 ■ 授業 アメリカの授業は進行が早く、私が専攻していた政治学(Political Science)は、授業に出る前提となっている読書課題(Reading Assignment)の量が特に多い学科でした。成績は以下の4項目で評価され、ネイティブの学生ですら毎日必死で勉強に励んでいました。 ①Attendance(出席) ②Participation(授業への参加、貢献) ③Exam(試験) ④Paper / Assignment(提出レポート・課題) 新入生は、最初の半年間(1st Semester)でしっかり勉強の習慣と最適な勉強法を身につけないと、学校が指定した成績に到達出来ず、学業保護観察処分(Academic Probation)を受けることになります。これにより、学校のイベントや部活動等への参加が禁止され、次の試験で成績が改善されない場合は退学(Academic Dismissal)の厳しい措置が取られてしまいます。 2度目の留学とはいえ、英語のハンディキャップが大きく、初年度の前期クラスでは、アドバイザーのセオドア・シェイ教授(政治学 博士)の助言を受けて、新入生クラス(100番台)で英語の基礎を固めると共に成績(GPA)の確保に努めました。その中で、「Public Speaking」のクラスは、毎回スピーチ原稿を準備し、クラスメートとビデオカメラの前でスピーチするという、とてもストレスフルなものでしたが、そこで学んだことは、後の授業だけでなく、就職後の仕事にも大変役立っています。 また、政治学の初級クラスでの初回レポートでは、政治哲学(The Role of The Individual and Political Order)について書きました。脳みそが千切れる程に考え抜き、何度も書き直し、連日の徹夜で仕上げましたが、既に提出締切日の授業が終わるタイミングであると気付きました。慌ててキャンパスを走り、教授のオフィスドアを激しくノックしました。何事かと出て来たシェイ教授は、開口一番「教師生活30年、寝巻き姿で飛び込んで来た生徒は君が初めてだ!」とあきれ返っていました。言われてはっと気付くと、確かに髪はぼさぼさ、無精髭、Tシャツに短パン、素足にスニーカー姿で、タイプライターで打ち終えたばかりのレポートを持って訪ねた私は、尋常でない迫力を感じさせたのかもしれません。本来受理されなかったかもしれないレポートでしたが、しっかり採点され、後日返却して頂きました。 実家から当時のレポートが出て来て、表紙に書かれたシェイ教授の温かいコメント(※)が、あの頃の私をどれほど励まし、支えとなっていたかを思い出しました。教授にとっては何気無い一言だったかもしれませんが、私には大きな力となりました。長い年月が経った今、改めて感謝の気持ちで一杯です。本当にありがとうございました! ※ シェイ教授のコメント This is an excellent paper. Very thoughtful and full of interesting insights. Well done in all respects. It is an A paper which has to become an A- because it was late. Again, excellent essay! これは素晴らしい論文だ。非常に思慮深く、興味深い洞察に満ちている。全ての点で良く出来ている。遅れた為 A- となったが、A論文である。もう一度言うが、素晴らしいエッセイだ! ■ 忘れられない貴重な体験の数々 夏休みの造園業や冬休みの牧場でのアルバイト、スクールマスコット(Barney the Bearcat)としての全米チアリーディング合宿参加や学校対抗のスポーツイベントでの活動、更に留学生会(WISA:Willamette International Student Association)やボランティア活動等、まるで見えない手に背中を押されるかのように、様々なことに挑戦し、貴重な体験を重ねました。これにより、自分の日本人としてのアイデンティティと価値観を確認し、現在のマインドセットの礎を築くことが出来ました。今、ひとつひとつの体験が記憶として蘇りますが、拙稿がネバーエンディングとなってしまいますので、ここでは割愛し、先に進ませて頂きます。 授業について行くのが精一杯だった私が、全ての活動をどうやってマネージメント出来たのか、今でも分かりません。しかし、私が留学生活を全う出来たのは、間違いなくウィラメット大学の教授陣とクラスメートの皆さんの支えがあったからです。また、海の向こうの日本から励ましの手紙を送ってくれたTIUの仲間達、両親、そして天のご加護にも感謝します。そして忘れてはならないのは、TIUAのDeanを務められていた川嶋教授のご厚意でご自宅にお招き頂き、ご馳走になった奥様の温かい家庭料理、かわいいワンちゃんのおもてなしが、ともすれば崩れそうだった私の心を癒し、励まして頂けたことです。この場をお借りして心から御礼申し上げます。 卒業式は屋外のスタジアムで盛大に開催されました。当時、湾岸戦争へ予備役(Reserve Force)として中東に派兵されたクラスメート達は、皆落第となってしまいました。当日はまだ帰還していなかった彼らの名前が読み上げられ、「名誉ある落第」として称えられました。観客席からは大きな歓声と拍手が沸き起こり、よく晴れた高い空にこだましました。 (学校新聞1面に掲載される) (卒業証書授与) 【就職】 資源に乏しい我が国が、高い技術力と品質でモノづくりをし、世界に輸出することで発展して来たことに、私は先人達への深い敬意を抱いていました。文系の私としては、直接モノづくりに関われないまでも、日本の優れた製品を世界中の人々に紹介し、使って貰うことで貢献したいと考えました。大袈裟かもしれませんが、日本と世界各国との経済交流を深めることで、日本の安全保障はもちろん、世界平和の維持に少しでも寄与したいという思いから、メーカーへの就職を決意しました。その後、2社目、3社目でIT・ゲーム業界を経験しましたが、初心に立ち返り4社目のメーカーに転職しました。ここで27年間勤め、来年には定年退職を迎えます。2社目、3社目での経験を通じて、製造業がハードウェア中心の開発からデジタル技術を介してインターネットやソフトウェアとの融合を考慮した開発へと進化していく流れを肌で感じられました。 ■ 1社目:放送機器メーカー 池上通信機株式会社(以下、池上)は、放送用・業務用機器の分野で世界的に高い評価を受けている放送機器メーカーです。それ以外にも、監視カメラ、医療用カメラ、錠剤検査装置等も手掛けています。主力製品の放送用カメラは、世界中の放送局や映像プロダクションで使用されており、その高い性能と信頼性で、現場のプロフェッショナルから絶大な支持を得ています。テレビで大型スポーツイベントやコンサート、そしてニュース報道の現場で使用されるカメラが一瞬映像に映る事がありますが、「Ikegami」のロゴを見るたびに胸が躍ります。 私が入社した当時 (1992年)の主流はアナログ方式であり、世界的な大手総合家電メーカーが開発した放送用カメラが束になっても、池上の製品には及びませんでした (※)。その後、1990年代後半からデジタル技術の導入が活発化し、デジタル方式への移行が加速しました。池上は競合他社との熾烈な競争を繰り広げながらも、積極的な技術革新を続け、業界での確固たる地位を守り抜きました。池上を離れた今でも、私は変わらず 「Ikegami Fan」であり続けています。 ※競争入札等で、競合他社のカメラと池上のカメラを並べて同じ対象物を撮影し、性能や操作性を比較することがありました。これにより、放送用カメラで最も重要な解像度や色再現性が一目瞭然に判別出来ました。特に色再現性については、競合他社のカメラは一般家電用技術を基にしている為、実物よりも鮮やかに映る傾向(誰が撮っても綺麗に映る補正回路?)がありましたが、池上のカメラは本物の色味を忠実に再現します。その為、放送業界のプロフェッショナルの厳しい要求や期待に応える製品であることが何度も証明されました。海外広告では、「The Professional Cameras dedicated to the Dedicated Professionals」というキャッチコピー(正確には覚えていませんが)が使われており、池上の特長を的確に表していると感じ、とても誇らしく思っていました。 ● 海外業務の習得 池上は、人を育てることに長けた会社であり、私が在籍した4年間という短い期間の中で、海外セールスに必要な基本的スキルセットをほぼ全て学ぶことが出来ました。海外販売子会社、海外代理店、海外販売店、国内大手商社との取引を通じて輸出入の知識や見積書作成、受発注納期管理、代金回収、技術翻訳、顧客アテンド等、多岐にわたる業務を経験させて頂きました。 担当地域は、インドネシア、インド、パキスタン、オーストラリア、ニュージーランド、そして最後は北米でした。一番の思い出は、あるODA案件で、スタジオシステムと大型中継車(OB Van)の入札、落札、納入初期まで、上司と先輩社員の指導の下、懸命に進めたことです。途中で異動となり、最後まで関与することは出来ませんでしたが、この経験を通じて多くのことを学びました。特に、プロジェクトの初期段階での情報収集や綿密な計画、営業と工場関係者との緊密な連携が成功の決め手であることを深く実感しました。 ● 恩義ある会社との別れ 池上では、尊敬できる上司、先輩、同僚に恵まれ、会社の外でもスポーツやBBQを楽しむ等、非常に親密なお付き合いをさせて頂きました。直属の上司であり兄貴分と慕っていたTさんに退職の意を伝えた時、最初は慰留されましたが、最終的には「会社にとって原田に残って貰うのは良いことだと思う。しかし、原田のこれからの人生が悔いの残らないものになるかどうかまでは保証出来ない。だから、原田が選んだこの決断を尊重し、応援する」と言って送り出して頂けました。今の会社で私が管理職となり、若い部下が辞める度にまさか同じ言葉で送り出すことになるとは、カルマを感じずにはいられません。 ■ 2社目:ITベンチャービジネス 日本でのインターネット利用者が殆どいなかった1990年代初頭、サイバーテクノロジーズ・インターナショナル株式会社(以下、サイバー)が創業されました。創業メンバーは全員アメリカ人で、既にインターネットが爆発的に普及し始めていた米国ではなく、これから普及が見込まれる日本に進出してビジネスチャンスを掴もうとしました。彼らは企業や一般ユーザー向けのインターネット接続、サーバーレンタル、ウェブページ作成・更新メンテナンス、ソフトウェア・プログラム開発等のサービスを積極的に展開し、日本のインターネット黎明期を支える重要な役割を果たしました。 ● インターネットとの出会い 創業メンバーの社長を含む4人はウィラメット大学の卒業生で、日本進出の手始めとしてインターネット導入に前向きな外資系企業から確実にビジネスを獲得し、その勢いで日本企業への展開を本格化しているところでした。ウィラメット大学の友人として食事に誘われ、集合場所として立ち寄った彼らのオフィスで、当時最先端のインターネット技術を次々と披露され、大変驚かされました。 一方で、そんな煌びやかなプレゼンテーションの後で私の心を捉えて離さなかったのは、今では当たり前となった電子メールでした。大変地味なアプリケーションでしたが、今後これが世界中で普及し、国境を越え遠くにいる人達と容易に繋がることが出来ると確信しました。私はこの新しいコミュニケーションツールの可能性に心を躍らせ、未来の広がりを感じずにはいられませんでした。 後に友人から、食事の真の目的が私の勧誘であることを明かされました。それまで私を育ててくれた池上への恩義があり、まだ大した貢献もしないうちに転職することに大変悩みましたが、これから急激な発展を遂げるであろうインターネット業界に身を投じて、世の中の動きを直に感じてみたいという思いが強くなり、新たな道に進むことを決意しました。 ● インターネット・ビジネス 当時日本の大企業は次々とWebサイト(ホームページ)を立ち上げ、大口の仕事の依頼が寄せられました。大手総合家電メーカー、大手自動車メーカー、大手商社、大手不動産会社、外資系大手通信会社、駐日外国大使館等、多くの優良顧客との取引きが成立しました。 それまで安定した収入源のひとつであった個人向けダイアルアップ(電話線)やISDNによるインターネット接続サービス業務からは撤退し、設立当初から会社が目指していたIT技術による企業向け「ビジネス・ソリューション」の展開にシフトして行きました。サイバーが構築・運営サポートをしていた企業向けWebサイトには、今でこそ盛んに利用されているWebマーケティング機能が既に搭載されていました。ユーザーがどのようにWebサイトまでたどり着いたのか、Webサイト内のページアクセス・ログ(閲覧履歴)、再訪問率等を分析して顧客企業に提供していました。 ● 時代の寵児 私が関わった仕事の中でエキサイティングだったのが、顧客であり提携パートナーでもあった株式会社ハイパーネットとの協業です。同社は、ウェブブラウザーに広告表示することでインターネット接続料金を無料にするシステムを開発し一世風靡したベンチャービジネスの雄でした。残念ながら急速な事業拡大をした直後に銀行融資が縮小され市場環境の変化(ITバブル崩壊)もあり倒産してしまいました。この企業の上層部は皆私と同世代で、社長を筆頭に物凄いカリスマとオーラを発していました。副社長のN野氏はハイパーネットを退職後、NTTドコモでi-modeを立ち上げ、現在KADOKAWAの代表取締役社長としてご活躍されています。ハイパーネットの倒産については「社長失格」(板倉雄一郎著 / 日経BP社)という本となり、後にTVドラマとして放映されました。同書に登場する人物は実名で書かれており、当時窓口としてお付き合いしていた事業部長のN山氏が突然退職された理由が分かり、心が痛みました。(板倉雄一郎著 / 日経BP社) ● 夢破れる 大きな夢を抱いて入社したサイバーですが、小規模のベンチャービジネスが成長を続ける為には、卓越したアイデアだけでなく、資金面のバックアップや「運とタイミング」も必要です。当時、インターネットは日々目覚ましい発展を遂げていましたが、「インターネット」という言葉やイメージばかりが先行し、実際に何が出来るのか、どう活用するのかはまだ手探りの状態でした。魅力的なWebコンテンツやアプリケーションも殆ど無く、市場は未成熟で利益を創出するのは厳しい環境でした。サイバーの財務状況が悪化し始めた頃、私は親しくなった技術部長に誘われ、米系大手ゲームメーカーへ転職しました。現在サイバーは在りませんが、それぞれ別の道を歩んでいる友人達とは今でもインターネットで繋がっています。先日、カナダに移住した元社長と二十数年振りに再会し、友情を再確認出来たことが非常に感慨深かったです。学生時代に始まり、短いながらもサイバーで共に苦楽を味わった仲間との絆は、時を経ても変わらず、私にとって大切な宝です。 ■ 3社目:米国ゲームメーカー日本支社 アクティビジョン・ジャパン株式会社(以下、アクティビジョン)は、世界最大手のゲームソフトメーカーであるActivision, Inc.(現:Activision Blizzard, Inc.)の日本法人でした。主な業務内容は、パソコンや家庭用ゲーム機向けのゲームソフトおよびライセンスの販売であり、米国本社で開発されたゲームを日本市場に合わせてローカライズ (日本語化) する機能も担っていました。バイリンガルのエンジニアが、日本語に翻訳された音声やテキストをゲーム内に組み込む作業を行っていました。アクティビジョンは「洋ゲー(洋物ゲーム)」として知られ、特定の「洋ゲーマニア」から強い支持を受けていました。 1990年代後半、ゲーム業界では大きな技術革新の波が起こりました。アクティビジョンはロボット対戦、カーチェイス、戦闘機対戦等のゲームにインターネット対戦機能や3Dポリゴン技術を導入し、リアルな質感のある画像でのオンラインマルチプレイ (※) を実現しました。更に、AI機能をいち早く採用することで、特定の洋ゲーマニアだけでなく、一般ユーザーも魅了しました。 ※ インターネット上で複数のユーザーが同時にプレイすること ● ゲーム業界に身を投じて ゲーム業界には、「PC系」と呼ばれるパソコン向けのゲームソフトと、「コンシューマー系」と呼ばれる家庭用ゲーム機向けのゲームソフトがあります。前者はWindowsやAppleのOSを使用するパソコン向け、後者は任天堂、ソニー、セガが製造する専用ゲーム機(ファミコン、プレイステーション、セガサターン)向けです。私は、PC系ゲームソフトを営業活動のメインとし、北海道から九州までのパソコン量販店、ゲームソフト専門店、家電量販店、書店、玩具店を一人で回っていました。上司命令で、どこにいても最低でも週に1回は主戦場である秋葉原の得意先に顔を出すようにしていました。また、週末にはゲーム大会を企画・開催し、休む間もなく働いていました。 当時は、大きな量販店であっても購入を決める担当者の多くは、ゲームソフトに精通した若手社員やアルバイト学生でした。彼らは気さくに話を聞いてくれ、自社ゲームの反響や競合他社の情報、パッケージの改善点等を教えてくれました。私は毎晩帰宅後に自社ゲームと競合他社のゲームをプレイしながら知識を深め、次第に洋ゲーの独特な世界観に心を奪われるようになりました。日本のゲームが色鮮やかでBGMや効果音が派手で楽しいのに対し、洋ゲーの少しくすんだ色使いや幻想的なBGM、効果音には奥深い魅力がありました。 一度興味を持ち始めると、全国のゲーム調達担当者とのコミュニケーションが充実し、大手卸業者(問屋)から得た仕入情報の分析(顧客毎に違う売れ筋、売れないタイトルの傾向、地域毎の顧客動向他)が少しずつ出来るようになりました。当初は、やみくもに飛び込み営業を繰り返していたのですが、上司の熱血指導のお蔭で(毎日こっぴどく叱られていました )、体を使った営業だけでなく、頭を使った営業の重要性を認識し、営業スタイルの改善に努めました。そして問屋からの情報を基に、訪問先を絞り込み、顧客毎の個別アプローチを展開した結果、ポスター掲示や販促品の自由な配置、更にはアクティビジョン専用の特設コーナーの設置を許可される等、店舗でのプロモーション活動が活発化しました。その結果、アクティビジョンのゲームが店頭に増え、目立つ場所に置かれる機会も増えて行きました。 ● 体力勝負だった広報活動 ゲーム業界での営業に慣れて来た頃、広報担当者の退職に伴い、掛け持ちで広報の仕事を担当することになりました。雑誌社を訪問して新作ゲームのデモを行い、記事掲載をして貰うことでその認知度を高める取組みを実施しました。広告よりも特集記事等に掲載される方が、広告効果が高く、費用対効果も抜群でした。当時はまだ最新ゲームを滑らかに動かせられる高性能なノートブックPCが少なかった為、大きなブラウン管モニター、ステレオスピーカーとデスクトップパソコン一式を抱えて会社から出て、道端で捉まえたタクシーに積んで雑誌社へ持ち込んでいました。今振り返ると体力と気力に満ち溢れていた若い自分だからこそ出来たのだと懐かしく思い出されます。 ● 新たなる成長へ向けて アクティビジョン・ジャパンは12〜13名の小さな会社でした。このような小さな会社が競争を勝ち抜く為には、綿密な戦略と作戦が必要であり、その実行過程では常に修正を加えながら前進していくことを学びました。特に、マーケティング理論「ランチェスターの弱者の戦略」を営業戦略に取り入れていたことは興味深く、勉強になりました。猪突猛進で頑張っているだけでは成果が上がらないことを、全国のお客様を訪問する営業活動やキャンペーン、広報活動を通じて理解しました。アクティビジョン・ジャパンでの経験は、仕事に対する考え方やアプローチを少しずつ変える契機となりました。(30代まで続けたGymトレーニング) (老舗洋ゲー専門店で自社ポスターと) ■ 4社目:電子機器・部品メーカー 日本航空電子工業株式会社(以下、航空電子)は、「コネクタ事業(コネクタ)」、「インターフェース・ソリューション事業(タッチパネル、タッチパネルモニタ)」、「航機事業(航空・宇宙電子機器・部品)」の3事業ラインからなる電子機器・部品製造メーカーです。1953年の創業時に、将来日本に必ず訪れる航空・宇宙産業時代にエレクトロニクス技術で社会貢献をしたいという思いが社名に込められています。 一大決心して大恩ある池上を飛び出し、サイバーで夢破れ、ゲーム業界で忙しい日々を過ごしていましたが、心の奥底では、日本の高度な技術や製品を世界に紹介して行きたいという気持ちが再び強くなっていました。そんな折、週末に予定していた顧客とのアポイントがキャンセルとなり、ふと手に取った求人雑誌で『国際派転職フェア』の広告が目に留まりました。丁度スーツを着ていたこともあり、思い切ってその転職フェアを訪れてみると、そこには航空電子がブースを構えていました。航空電子は、池上の製品に使われていたコネクタを製造しており、その縁もあって興味を引かれました。しかし、再度転職することには少し躊躇しており、その場での決断は出来ませんでした。それでも、航空電子から何度も熱心にお誘いを頂いたことで、次第に決心が固まり、この会社で新たな挑戦をすることを決意しました。 ● 航機事業ライン 最初に配属された航機営業本部では、技術翻訳から始まり、産業機器向けアプリケーションに使用される加速度計、光ジャイロ、リニアモータの営業に幅広く携わりました。具体的には、油田掘削時におけるドリル先端の位置・方向把握に使用される加速度計やセンサーパッケージ、製造機器のXYステージを駆動させるリニアモータ、トンネル内の壁面検査ロボットの位置・姿勢測定用センサーユニット、構造物の揺れを低減するアクティブ制振用センサーユニット等、様々なアプリケーションに関わりました。 配属初期の修行 私は航空電子が新卒以外で初めて雇った文系出身の営業マンでした。その為、技術用語が飛び交う営業フロアでは、日本語でさえ理解が難しい状況でした。そこで、会社にお願いし、最初の1ヵ月間は工場の設計部門で若いエンジニアの隣に席を設けてもらい、加速度計や光ジャイロの原理や応用について学ぶ機会を得ました。その結果、社内で話されている大まかな内容について把握出来るようになりました。当時、会社の営業フロアには、日本初の国産H-IIロケットの姿勢制御を司る慣性誘導装置の開発を担当し、NHK番組「プロジェクトX」に出演した技師長や、米国の技術系一流大学出身で油田ビジネスを開拓した猛烈営業部長(私の最初の上司)等、優秀な方々で溢れていました。彼らと共に働く中で、多くのご指導を頂き、新しい環境に慣れていくことが出来ました。 余談ですが、この技師長がH-IIロケット用の慣性誘導装置を開発中、ジェットコースターにその装置を載せて何度も試験を繰り返したという逸話を最近になって知り、私もテレビ番組のロケで、読売ランドのジェットコースターに加速度計ユニットを持ち込み、背中向きに乗って加速度を測定したことを思い出しました。先輩の開発時の逸話には遥かに及びませんが、私もほんの少しだけテレビに映ることが出来たこの経験には、ささやかながらもロマンを感じています。 閑話休題、工場勤務から営業部署に戻ると直ぐに、上司と技術部長と共に、英国を皮切りに米国テキサス州を中心とした石油掘削関連の顧客を次々と訪問しました。加速度計や光ジャイロの拡販においては、単に製品性能を示すだけでなく、顧客のアプリケーションやニーズに応じた技術提案が求められます。顧客の態度や反応から、航空電子がこれまで着実に顧客の要望に応え、その結果として深い信頼関係が築かれていることが分かりました。これをしっかり受け継ぎ、更に発展させていく責任が自分に課せられていると感じ、身が引き締まる思いがしました。(定年退職が迫る上司の背中から発せられる強烈なプレッシャーと期待が、ひしひしと伝わって来ました。) 毎晩ホテルに戻ると、上司と技術部長の指導の下で打合せ議事録を作成し、本社にFAXで報告した後、ようやく食事にありつけました。しかし、その食事も顧客接待を想定したレストラン開拓を兼ねており、寝るまで気を抜くことが出来ませんでした。厳しい旅でしたが、この経験は最高のOJTであり、普段忙しい上司と技術部長から直接学べた時間は贅沢で貴重なものでした。 予期せぬ異動 私は当初、米国の販売子会社に出向している方の交代要員として雇われていましたが、その話は諸事情により無くなってしまいました。そして2年後、会社の主力ビジネスであるコネクタ事業ラインの海外営業本部に異動することになりました。人生最後の転職として覚悟を決め、難しい技術知識の習得や営業活動に取組み、更には商社へ出向して営業スキルを磨いていた私にとって、この異動は大きなショックでした。社内とはいえ、全く異なる業種への異動は転職と同じようなインパクトを感じていました。 記憶に残る仕事 2年間の航機営業で特に印象深かった仕事の一つに、1998年にテキサス州ヒューストンのアストロドームで開催された海底油田関連の展示会(Offshore Technology Conference)への出展があります。当時、航空電子は世界最小サイズ (直径19mm) の耐環境・高温対応 (~175℃) の加速度計を開発し、小さなブースで発表しました。海底油田掘削関連の展示会ということもあり、他のブースはヘリコプターや商用潜水艦、ボート、掘削ドリル等大規模な展示を行っていましたが、我々のブースはお手製の20cm程のシーソーに加速度計を取り付け、それを上げ下ろしする際に出力される電気信号を波形モニターに映し出すという、非常にシンプルなデモを行いました。 派手な展示が多い中、航空電子の小さく地味なブースに展示開始と同時に多くの人が押し寄せ、大変驚きました。競合他社も同等仕様の加速度計を発表していましたが、偵察したところ、それは外観だけで中身の無い「どんがら(モックアップ)」でした。開発が間に合わなかったのです。この瞬間、私は心の中で「やった!」と叫びました。航空電子の開発が競争に勝った瞬間でした。 油田掘削は年々深く掘り進む傾向にあり、それに伴いドリルの先端はますます細くなっています。さらに掘削が進むにつれて地中温度は150℃を超える高温となる為、小型で耐熱、耐衝撃、且つ高精度な加速度計が業界で求められています。当時、この要件に応えられる会社は航空電子と競合他社の2社だけでした。(米国テキサス州:Offshore Technology Conference) もう一つ印象深い仕事としては、ある欧州メーカーへの拡販取組みがあります。当時、国内の主要産業機器メーカーとは既に取引があったものの、海外市場への進出はまだ限定的でした。そこで、私は半年以内に訪問することを目標に設定し、先ず幕張メッセで開催された国際展示会でその企業の展示ブースを訪ねました。アクティブ制振のアイデアを口頭で説明し、名刺を渡したところ、数週間後にはあっさりと招待を受けてしまいました。 会社内は大騒ぎとなり、私は、土日は自己啓発として関数電卓を片手に三角関数を復習し、平日は工場の技術データを集めながら、プレゼン資料の作成に努めました。1か月後、同年代の若手エンジニアと共に欧州へ飛び、そのメーカーでプレゼンを行いました。応対して頂いたのは博士号を持つ6人のエンジニアの方々で、文系出身の私にとっては緊張の連続でした。しかし、同行エンジニアと協力しながら、アクティブ制振の提案と試作品による試験結果の説明、質疑応答を行い、更に航空電子の航機関連主要製品の説明とデモンストレーションを実施しました。 結果的に多くの課題を持ち帰ることになりましたが、この出張では、航機事業ライン(工場・営業)の諸先輩から教えられ、託された全てを出し切り、初めて大きな達成感を味わうことが出来ました。そして、この達成感は、次の異動先へと向かう私にとって、一つの区切りを意味するものでした。 ● コネクタ事業ライン コネクタは、航空電子の総売上の8割以上を占める主力製品で、プリント基板や電子機器同士の電力や電気信号を接続・切断する為の重要な部品です。人工衛星や飛行機、電車、自動車、家電製品、パソコン、スマートフォン等、広範な分野で多種多様なコネクタが大量に使用されています。コネクタは、電力や電気信号を伝える金属製のコンタクトと、それらを絶縁するプラスチック(インシュレータ)で構成されており、電気的性能と機械的性能の両方を満たさなければならず、その開発には高度な専門知識とノウハウを要します。 営業マンはお客様に育てられる 私のコネクタ事業ラインでの業務は今年で25年目を迎えます。この間、多くの貴重な経験をさせて頂きました。中でも特に心に残っているのは、13年間担当を務めた、欧州のグローバル企業とのビジネスです。当時、GAM(Global Account Manager)として欧州、北米、アジアのR&Dや生産拠点に何度も訪れ、多くの開発案件に携わりました。そして、量産立上げ後に避けては通れない品質問題や納期問題、価格交渉等にも会社同僚と一丸となって積極的に取組み、その結果、No.1サプライヤーとして高く評価して頂きました。 (フィンランド:夏) (フィンランド:冬) この経験から、メーカー営業マンは社内で得た知識やスキルを基盤にしながらも、最終的には顧客によって育てられることを強く実感しました。私自身、社内で基礎を固めた後、顧客と向き合い、彼らの要求に応える過程で成長して来ました。 先ず、社内での基礎作りとして、現場での実践経験に力を入れました。携帯電話やPDA、STB(セットトップボックス)等の電子機器を片っ端から分解し、基板の形状や実装部品の配列、高さ、投影面積等を丹念に調査して、アプリケーション毎の筐体形状や内部構造、実装技術について学びました。また、工場の技術フロアでは、試作品の組立てや評価試験にアシスタントとして参加し、その結果を英文レポートに纏めることで、コネクタ製品に関する理解を深めました。 次に、顧客と直接向き合い、彼らの要求に応える中で、営業マンとしての成長が促されたと思います。例えば、品質問題が発生した際には、通常は立入ることの出来ない顧客の生産ラインに特別に入れて貰い、技術評価試験に立会う機会がありました。品質問題はサプライヤーにとって避けたい事態ですが、これをチャンスと捉え、問題解決に取組むことで顧客の信頼を得られました。 その上で、品質問題とは別に、顧客の生産ラインで使用されている製造設備を把握し、その後、その設備メーカーを訪問して、次の製品作りに生かすヒントを得ることに努めました。これらのヒントを製品に反映し、品質や使い勝手を向上させることで、顧客の満足度を高めることが出来ました。 モノづくりの舞台裏 ここで少し、メーカーにおいてよく見受けられる工場部門間の関係性について触れたいと思います。それは、開発途上で、設計担当者と生産技術・製造部門のエンジニアとの間で立場の違いからしばしば緊張や対立が生じることです。設計者が斬新なアイデアやテクノロジーを投入して尖った製品開発に挑む一方で、生産技術や製造部門のエンジニア達は、その実現の為に多大な努力を強いられます。しかし、ひとたび新製品が市場に投入され、成功を収めると、全員がその達成感を共有し、固い絆で結ばれ、それが開発を続ける中で更に深まって行きます。こうしたモノづくりの舞台裏を知っていると、初めて訪問した顧客のプリント基板を見せて頂いた際に、生産技術や製造部門が設計にどのように影響を受けているかを指摘出来ることがあります。すると、窓口の設計者がその場で関連エンジニアを呼び出してくれることがあり、その結果、打合せは自然と笑いのある明るい雰囲気になることがよくあります。このような経験の積み重ねが、同じモノづくりに携わる顧客との関係構築に大いに役立ちました。 (北京:陳式太極拳「単鞭」のポーズ) (サンディエゴ) 信頼とバランスの構築 ビジネスの世界では、「Win-Win」という理想がよく語られますが、現実では、顧客がWinし、私達が少しLoseすることも少なからずあります。これは、顧客との力関係によるもので、ある程度は避けられないことです。私は常に顧客の立場を最大限に尊重しつつも、自社の利益を守る為に、適切なバランスを見つけるよう心掛けて来ました。その為、時には難しい話もしっかりと議論出来る関係構築が重要だと考えています。 (中国河南省:太極拳国際試合 相手は後にAlibaba創業者 Jack Ma氏のボディーガードに) ● 英国販売子会社出向 JAE Europe, Limited (以下、JAE EU)は、航空電子の販売子会社で、英国に本社を構え、ドイツ、フランス、イタリア、スウェーデンにもオフィスを展開し、欧州全域のビジネスをカバーしています。欧州市場は、特に自動車産業、産業用ロボット市場、医療機器市場において、世界の技術革新をリードする多くのテクノロジーリーダーが存在する重要な市場です。JAE EUは、この市場で欧州の先進企業と共に未来の技術革新に貢献することを目指しています。 入社当時に立ち消えた海外赴任の話が、18年後に突然舞い戻って来たかと思うと、急速に具体化し、家族(妻、長男: 中2、次男: 小6)を伴って英国に赴任することになりました。2016年から2020年まで英国ロンドンで生活し、その間にBrexitや新型コロナウイルスの蔓延といった大きな変化が起こる中で、仕事面でも家庭面でも得られることが多かったです。 新しい職場環境 JAE EUでの勤務が始まると、現地社員は英国、ドイツ、フランス、イタリア、スウェーデン等多国籍で構成され、顧客も30か国以上に跨っていることが分かりました。「欧州」と一言で括るにはあまりに大雑把過ぎる地域であり、国毎の人々や文化、習慣の違いを考慮した対応が必要なのは言うまでもありません。 私は一時期、営業に加えてマーケティングや技術チームの責任者も兼任していました。英国本社での勤務と並行して、ドイツのミュンヘンオフィスとの連携を強化する為に、頻繁に現地を訪れていました。現地社員との業務遂行においては、ドイツの労働法規や労務管理に細心の注意を払い、職務明細書(Job Description)に基づいた明確な業務指示を行い、ファクトとエビデンスに基づいた公正な業績評価を心掛けていました。また、拡販方針や戦略については納得がいくまで議論を重ねることで、チーム全体の目標と方向性を揃えました。 ドイツのメンバー達は、普段は家族生活を優先し、プライベートな時間を大切にしていましたが、いざという時は自ら進んで長時間の業務に取組んでくれました。私が別の仕事でドイツに行けなかった際には、急遽英国まで駆けつけ、ピザ1枚で深夜まで一緒に作業してくれることもありました。この経験は、ワークライフバランスを徹底して重視するドイツ人に対する固定観念を完全に払拭するものでした。彼らの献身的な姿勢と協力には、今でも感謝しています。 日常生活 ①:家族生活の変化 日本での生活と比較して、英国での生活では家族との関わり方に大きな変化がありました。日本で暮らしていた頃は、仕事のことばかりを考えていましたが、海外では家族の生活に積極的に関わり、生活環境を整えたり、日常生活のサポート(学校、病院、買い物、余暇)にも力を入れるようになりました。学校選びについては、私自身の留学経験から現地校を勧めましたが、息子達から「お父さんは自分の意志でアメリカに留学したんでしょ?僕らはお父さんの転勤で外国に来たんで自分の意志じゃないんだ!」と反論され、彼らの気持ちを尊重して日本人学校に通わせることにしました。(立派な主張だと感心しました。) 今では日本人学校に通わせたことが正しい選択だったと思っています。日本人としてのアイデンティティを確立する過程での良い教育を受けられました。ロンドン日本人学校には優秀な教師と生徒が集まり、非常に高い教育レベルが提供されていました。また、欧州を訪れる日本の要人(宇宙飛行士、スポーツ選手、芸術家、ミュージシャン、学者、政治家等)の多くがロンドン日本人学校に立ち寄り、貴重なお話を子供達に聞かせてくれる機会があり、大変恵まれた学習環境にありました。 日常生活 ②:ロンドンの暮らし ロンドンでの生活は、歴史的な街並みや博物館、美術館、そしてミュージカル等、文化に容易に触れることが出来ました。気候は北海道より北に位置する為冬はやや寒いものの、年間を通じて非常に快適でした。また、都会でありながら自然が豊かで、緑あふれる公園が数多くあります。自宅の裏庭には、狐、リス、野鳥が頻繁に訪れ、心を癒してくれました。賢い狐は、生ごみを入れるコンテナのロックを外して荒らしていくこともあり、彼らとの知恵比べも日常の出来事でした。ロンドン中心街の観光スポットは、私達にとっては生活圏の一部であり、散髪や息子達のスポーツ用品、日本食材等の買い出しをしていました。日本食材は日本価格の何と3倍で、購入する品物によって一番安い店を選ぶ等節約に努めました。 日常生活 ③:自動車通勤 通勤については、赴任当初は大きな試練でした。オフィスは自宅から南西に60kmの距離にあり、朝の通勤時には頻繁に事故渋滞に巻き込まれました。英国では、警察が事故現場の調査を終えるまで道路を閉鎖する為、高速道路内で閉じ込められ、トイレに行けず苦しい思いをしたこともあります。閉鎖が解けた後、急いで高速道路を降り、ヒースロー空港で用を足したことも。たった10分の駐車でしたが、これまでで一番高くついたトイレでした。帰りが遅くなると、高速道路が閉鎖されて入れなかったり、途中で閉鎖となり止む無く最寄りの出口から出て行かなければならず、何度も道に迷いながら真っ暗な山道のような場所を走りました。その過程で、帰宅ルートが自然と増え、道に詳しくなりました。一度慣れてしまうと、自動車通勤は一人になれる特別な時間となり、iPhoneに入れた70~80年代の歌謡曲を大声で歌いながら眠気を覚まして帰る日々を楽しみました。 日常生活 ④:ハプニング 息子の剣道教室に参加した際、アキレス腱を断裂し、ロンドンの救急病院(A&E: Accident and Emergency)で全身麻酔の日帰り手術を受けることになりました。そこではクロスファンクショナルチーム(機能横断型チーム:CFT)による対応が行われており、大変興味深いものでした。 窓口での受付を済ませた私は、病室を行き来すること無く、直ぐに移動式のベッドに乗せられました。そのまま手術着に着替え、手術室前で待機する他の患者達の長いベッドの列に加わりました。手術が流れ作業のように次々と行われ、ベッドの列が動きながら手術室に近づいていく様子を見て、自分がまるで工場の生産ラインに投入された材料のような感覚を覚えました。 病院スタッフは役割毎に色分けされた制服を着用し、それぞれの専門分野に基づいてテキパキと対応してくれました。私のベッドには、手術前から退院までの全ての手順が記された私専用のノート(※)が置かれており、スタッフはそのノートに従って入れ替わり立ち代わり私の前に現れては、チェックボックスを埋めながら正確に漏れなく処置を進めていました。このオペレーションは、病院の人手不足を補い、患者の精神的・身体的負担を軽減するもので、大いに感銘を受けました。 (病院スタッフの制服:役割別色分け) (日帰り手術用ノート) 尚、私は外国人でしたが、NHS(National Health Service:国民保健サービス)に加入していた為、薬代を除き医療費は無料でした。一般的に日本人駐在者は会社で加入する海外旅行保険を適用し、高額なプライベート医療サービスを利用することが多いですが、私はNHSの病院で奇跡的に手術日を確保出来た為、また冒険心にも駆られて手術を受けることにしました。因みに、奇遇にも同じ剣道場で数週間後にアキレス腱を断裂したポーランド系の方は、NHSの手術待ちが3カ月だった為、ポーランドで手術を受けたそうです。英国の医療現場が慢性的に混雑し、極めて厳しい状況にあることは事前に知っていましたが、道場で私の為に呼んで頂いた救急車が2時間待ち(後にキャンセル)だったことから、その現実を身をもって痛感させられました。 ※ノートには、手術前の準備(体温、脈拍、血圧、血液チェック、退院後の松葉杖の使い方指導等)から、術後の体力回復処置、退院許可迄のプロセスがページ毎に記載されていました。 その後、ギブスを装着してのドイツ出張では、イミグレーションの審査が驚くほどスムーズに進み、健常者としての移動よりも楽で早かったという貴重な体験もありました。イミグレーションでは電気自動車に乗せられ、そのまま空港出口まで送って貰えたことも印象に残っています。 英国赴任を終えて 振り返ると、英国での赴任は、仕事、異文化での暮らし、そして家族との時間という三つの面で、多くの学びと成長がありました。仕事や異文化での経験はこれまでも積み重ねてきましたが、家族の存在を何より大切にし、共に過ごす時間を最優先するようになったのは、この英国での生活がきっかけでした。子供達が成長し、家族で一緒に過ごす時間が減ってしまった今、コロナ禍のロックダウン中に家族水入らずで過ごした時間が特別な思い出となっています。ロンドンの青空の下、自宅裏庭で楽しんだBBQは、かけがえのない記憶です。 (ジブラルタル海峡:ここから顧客のいるモロッコへ船で渡りました)(ストーンヘンジ:ロンドンの自宅からたったの130km) (アイスランド:家族旅行) ● 現在:コネクタ事業ライン 海外赴任から帰国後、特定顧客の営業チームの責任者を務めた後、営業ラインを離れ、海外契約書のリーガルチェックという新たな職務に就きました。この業務では、海外の取引先や今後取引を予定している会社から提示された契約書に含まれる法的問題や自社に不利益な条項が無いかを精査します。また、取引内容に適合しているかを確認し、必要に応じて修正案を提示します。契約締結プロセスは、最終交渉の場であり、トラブルを未然に防ぎ、健全な関係を築くことが重要です。 法務バックグラウンドはありませんが、営業経験を通じて基本的な契約書の知識は持っていました。しかし、それを専門職として扱うのは全くの初心者であり、当初は手探りの状態でした。その為、法務部門のアドバイスや支援を受けながら、外部セミナーを受講し、情報収集を重ねて来ました。現在、業務を始めてから1年以上が経過し、100件以上の契約書をチェックし、150件以上の文献を読み、少しずつ知見が積み上がって来たと感じています。 この仕事において、私が特に重視しているのは、営業バックグラウンドを活かしたリスク評価です。同じ条文でも、相手方がどのような会社で、どのようなビジネスを進めようとしているのかによって、評価が異なります。長年の海外ビジネス経験を基にした分析・判断力を発揮し、日々新たな業務に全力で取組んでいます。(ロンドン: タワーブリッジを一望しながらのアフタヌーンティ) 【エピローグ】 これまでのキャリアを通じて学んだのは、「人生に無駄な経験は無い」ということです。転職や新たな挑戦を重ねる中で、失敗と成功を繰り返して来ましたが、その全てが今の私を形成する大切な要素となっています。若い世代の方々が自分の夢を追いかけ、理想に向かって進む為の力と勇気に少しでもなればという思いを込めて、この体験記を書き進めました。 「外国人と日本人は、同じものを見た時に同じように見えるのだろうか?」幼い頃に抱いたこの疑問に対する答えが、年月を経て少しずつ見えて来たように思います。私達の世界の見え方は、目の色等の生まれ持った特徴や、育った環境、経験によって異なるものです。同じ日本人同士でも、年齢や生活環境によって物の見え方には違いがあることを日々感じています。 交通機関の発展による人的交流に加え、インターネット技術の革新による国境を越えた情報交換の活発化が、本格的なグローバル社会の到来をもたらしました。今や世界中の人々との共生が日常となり、日本でも様々な背景を持つ人々が増えています。グローバルスタンダードや普遍的価値観の追求が進む中で、この流れに対して懸念も感じています。均一化による公平性は大切ですが、それによって多様性が失われることは避けなければなりません。また、多様性を認める為にマイノリティーを優先することが、時に不条理を生むこともあります。私達は、非常に難しい時代の局面に立たされています。 私は、より良い未来を築く為に、日々の小さな一歩を大切にしながら、自分らしく出来ることを続けて行きたいと思っています。この体験記が、読んで下さった方にとって、少しでも前向きな気持ちや、新たな一歩を踏み出すきっかけになれば幸いです。 (原田 晴之さんプロフィール) 群馬県出身 1984年3月 東京都立板橋高等学校 卒業 1985年6月 米国カリフォルニア州Bloomington High School 卒業 1986年4月 東京国際大学教養学部国際学科 入学 (下羽ゼミ) 1989年9月 米国オレゴン州Willamette University入学 (3学年編入) 1991年5月 米国オレゴン州Willamette University 卒業 (BA政治学専攻) 1992年3月 東京国際大学教養学部国際学科 卒業 (大越ゼミ) 1992年4月 池上通信機株式会社 入社 1996年3月 池上通信機株式会社 退社 1996年4月 Cyber Technologies International株式会社 入社 (ITベンチャービジネス) 1996年10月 Cyber Technologies International株式会社 退社 1996年11月 Activision Japan 株式会社 入社 (米国ゲームメーカー日本支社) 1997年6月 Activision Japan 株式会社 退社 1997年7月 日本航空電子工業株式会社 入社 (電子機器・部品メーカー) 2016年3月 JAE Europe, Limited 出向(英国販売子会社) 2020年10月 日本航空電子工業株式会社 帰任、現在に至る (航空電子スポンサーのボブルヘッド人形) (シアトル:イチロー選手) TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
世界の平和を願いながら人生を送ってほしい
TOKU/馬場督之さん(1996年 商学部 経営情報学科卒業 TIUA 臼井ゼミ タイニーラヴ/軽音楽)2024年8月1日・TIU 入学 高校3年になる前の春休みに、母が講師をしている公文式が主催するアメリカでの10日間のホームステイ・プログラムに、妹とともに参加した。今思えば、この時の体験が僕の人生を大いに左右することになったのだと思う。 初めての海外で母国語ではない言葉で実際にコミュニケーションがとれるおもしろさを知ってしまった僕は、自分の高校に教えに来ていたアメリカ人の先生と積極的に交流するようになり、英語を話す機会を増やし、いつしかまた海外に行きたいという願望を抱くようになった。 東京国際大学の名前を知ったのは浪人生になってしまった年だった。この大学には、当時のどの国公私立の大学よりも飛び抜けて贅沢な語学留学プログラムがあるというのをその当時に知った。期間は1年で、アメリカ人のルームメイトと過ごせるなんて、もう受験しないわけにはいかなかった。他の大学も受験したが、本当にここにしか合格しなかった。もう絶対にこの語学留学プログラムに参加しろという神の思し召しなのかと思い、1年生の秋に2段階の試験を受けて合格し、晴れて留学が決まった。何が待ち受けているのか、僕の心は期待でいっぱいだった。 ・音楽遍歴 僕は今ミュージシャンとして生きている。 それ以外の人生は全くもって想像がつかない。 音楽は僕の存在理由そのもの。生きる意味。 でも小さい頃からの夢というわけではなかった。 父親の影響で物心つく頃から音楽を聴くのを好きになり、どこに出かけるにも、寝る時にも、音楽がないとダメだった。音楽はいつも側にいた。 父親は趣味でいろんな楽器を演奏する人で、週末になるとうちに父親のブルーグラス・バンドのメンバーを集めては夜通し演奏していた。他にも様々な音楽を僕に教えてくれた。 小学生の時に父親が地元で初めてのレンタルスタジオを始めて、昼夜ひっきりなしに音楽を志す人が出入りするのを見ながら過ごしていたが、サッカー少年だった僕は楽器を演奏することに興味はなかった。 中学校に進んでその状況が変わる。なんと、進んだ中学校にはサッカー部がなく、仕方がないので他のスポーツ系ではなく、好きな音楽系の部活動をしようと思い吹奏楽部を覗きに行き、コルネットというトランペットに一番近い楽器を始めることになる。 とはいえ真面目にはやらず、譜面も読まず、持ち前の音感で隣の人の吹く音を覚えてしまい、あとは自由に吹いていただけだった。 なので、高校生になると高校が遠かったのもありコルネットを吹くのを止めてしまう。 そして、高校の仲間とバンドを始め、ドラムをプレイし始める。ほぼ同時にベースを始め、そして浪人生の時にはギターを始めた。 ロック、ポップ、フォークにはまり、TIUに入ってから最初に在籍したのは軽音のサークルだった。そのサークルから紹介されたバイト先のCD屋さんで、わけもわからずマイルス・デイビス (ジャズの帝王と言われたトランペッター)のCDを買い、その中の1曲を気に入り、耳で聞いて同じように吹けるように練習し、誘われるままに行ったジャズの生演奏をやっていたお店で言われるがままに飛び入りして練習したことを吹き、実はそれはマイルスがアドリブ(即興)で演奏したものだと初めて知り、それ以来ジャズに取りつかれて今に至る。 実は、小学生の時に僕の地元にやってきたマイルス・デイビスのコンサートに連れて行ってもらったことが大きく影響していると思う。最初で最後だったが、大のマイルスのファンの父親が「こんな機会は二度とあるかわからない!」と家族を連れて行ってくれた。その時に感じた会場の熱気を今でも覚えている。 ・TIUA さて、留学に話を戻したいと思う。 そんなわけで、留学が決まったときには僕はすっかりジャズに取りつかれていて、個人データに”音楽” “ジャズ” と書きまくり、TIUAに着いた日に出会ったのがジャズピアノをバリバリ弾く僕のルームメイト、Julian Snow だった。 ジャズにハマってすぐに購入し、もちろん一緒にアメリカに持っていったトランペットのケースを見つけた彼は、時差ぼけでフラフラの僕を練習室に連れて行った。そして2人でしばし演奏し、次の週にはベーシストを加えて練習し、さらにサックス・プレイヤーが加わり、僕らはウィラメット大学のキャンパスにある Bistro というカフェで毎週木曜日にライヴをするようになる。 あの時はジャズを始めたばかりで決して上手くない、むしろド下手なトランペッターで吹ける曲もわずかしかなかったのに、よくも僕をバンドに入れたものだと思う。今もってしても謎だ。 でも英語を勉強しに行ったのに、音楽も同時にやることができるなんて夢のようだった。 週末にはキャンパス内の屋外でギターを弾いて歌い、そのうち一緒に歌う仲間もできた。 ウィラメット大学にあるロザンヌという男女共同寮に住み、朝食はパンケーキとミルク、午後授業が終わるとウィラメットのキャンパスの芝生で宿題、夕食を終えたら仲間とバスケットボールを楽しみ、シャワーを浴びてトランペットと譜面を持って音楽練習室に向かい夜遅くまで練習した。Julian のバンドに付いて行くのは大変だった。片っ端から曲を知り、演奏(アドリブ)できるようにならなければならなかった。でもその大変な作業が楽しくて仕方なかった。 Bistro でのライヴはとにかく毎回が刺激そのものだった。 Julian 始めメンバーは皆達者なので置いてきぼりになることもしばしばだったけど、必死について行った。 ライヴ中はいろんな人が行き来していた。それを見ているのも楽しかった。そこで出会った友達と今でも交流は続いている。 時々開催されたフィールドトリップでオレゴンの他の土地に行けるのもとても刺激だった。見るもの全てが新しいって素晴らしいと思った。オレゴンの大自然はとにかく広い。オレゴン・コーストや Mt.Hood で経験したスノーボード、馬に乗ったのも覚えている。そして都市に行くとCDショップに行けるのが本当に嬉しかった。聞きたいジャズの名曲はまだ山ほどあった。それは今でもそう。 夏休みについても書かなければ! 7月の下旬からほぼ一ヶ月をかけてアメリカを見て回った。 飛行機ではなく、アムトラックという汽車でアメリカ大陸の大きさを肌で感じながらの旅。 セーラムを出発して、 まずはサンフランシスコまで汽車の中で1泊、 2泊ほどして サンフランシスコからロスは朝から晩までまる1日を汽車の中で、 ロスで3泊ほどして ロスからニューオリンズまでは汽車の中で2泊! ニューオリンズで3泊くらいして、 ニューオリンズからニューヨークまでは汽車で1泊、 ニューヨークで3泊ほどして ニューヨークからシカゴまでは汽車で1泊、 シカゴで2泊ほどして シカゴからシアトルまでは汽車で2泊、 シアトルで2泊ほどして シアトルからセーラムに。 行程はざっとかんな感じ。 1ヶ月以内ならば何度も途中下車できる切符を購入し、寝台車ではなく普通のコーチシートで全行程を移動した。日本人にとっては広くて、リクライニングさせると寝心地のいいソファになった。若さゆえに可能だった。 砂漠のど真ん中を走ってる時に、ここでエンジンが故障したらどうなるんだろうと思ったり、夜中に目が覚めて外を見ると、たまに田舎の街灯が流れていく真っ暗が続く景色だったり、汽車でしか味わえない経験をたくさんした。 当時はポータブルのカセットテープ・プレイヤーが音を出してくれる一番小さい機械、旅の間に何度テープをひっくり返したことか。 初めて訪れたジャズの街ニューオリンズ、そしてニューヨークではジャズのレジェンドの生の演奏に触れることができた。 ニューヨークで演奏を聞いた、とても印象に残るトランペッターがいた。その彼と、およそ7年後の自分がメジャー・デビューしたころに出会うとは夢にも思わなかった。そのニューヨークでのライヴの話をしたら、なんと彼はその時のことを覚えていた。2度目に会った時だったかな、お互いの誕生日が同じ日だということがわかり、以来彼が数年前に突然逝ってしまうまで、ずっと仲のいい友達になった。最後にやり取りしたメッセージは、お互いに「I love you」だった。 ちょっと話がずれてしまったけど、 TIUAに留学していた1993年という年は、今までの人生で一番充実していたと思う。それだけTIUAは僕に濃密な経験をさせてくれた。 そして、この時の体験、身につけた語学力は現在の僕のキャリアに大きく大きく関わっている。東京にやってくる海外からのミュージシャンと知り合い、その後も付き合いが続くのは語学力により相手を理解し友情を深めることができるということがとても大きいと強く感じる。 初めて日本に来るミュージシャン達を案内したり、日本のことを説明したりすることができるのは、同時に彼らの文化を理解することにも繋がり、その後の付き合いが深くなっていく。このお互いの理解、受け入れるという気持ちは、TIUAへの留学でいろんなものを見て知った経験があったから身についたのだと思う。 もちろんそれには、全てではなくとも相手をすぐに受け入れるオープンなマインドを持つということがとても重要だと思う。僕の場合は根っからの好奇心旺盛な性格も手伝って自然と身についたところもあるが、TIUの自由な校風から始まり、TIUAで経験した全てのことは僕をさらにオープンマインドの持ち主にしてくれたことは言うまでもない。 世界には様々な人種が存在する。そして、今現在は良くも悪くも日々多様な出来事があり、目まぐるしいくらいに時代が回っている。世界の動きを見ると、ポジティブなこともあるけど本当に苦しくなるような理解できないほどのネガティブなことも起こっている。人類がこれからどう生きていくのか、そして何より自分がどう生きていけばいいのか、常に敏感に物事を察知し、様々な情報を整理していかなければならない。 そんな時代でも、僕は全ての人間は同じく人間であり、単純に生まれや育ちが違うだけで肌の色で差別したりする心は一切持っていなくて、むしろ違うことに興味を抱く人間であれることに幸せを感じる。そしてそう思えるのは、TIUAでの生活を通じてアメリカでいろいろな人間と出会ったことが大きく影響していると思う。人種は違えど、愛を捧ぐ心は皆持っているということを強く学んだ。 ・近況 今、僕はパリにも拠点を置き、ヨーロッパで自分のキャリアを広げようとチャレンジしている。2017年からパリに住む友人のプロジェクトに参加することで毎年2度パリに来てはそこを拠点にヨーロッパをツアーするようになり、その友人の勧めもあり彼のレーベルからヨーロッパ向けの自分のアルバムが2020年の1月に日本より先にフランスでリリースされ、2月にリリース・ツアーを行ったところで新型コロナウイルスによるパンデミックで、3年半もの間ヨーロッパに来ることが出来なくなった。 ようやく落ち着いたところで来られなかった月日を取り戻したい、チャレンジしたいという気持ちが、僕を言葉もわからない新たな土地・パリに住まわせることになった。逆にパンデミックがなければこういう気持ちにならなかったのかもしれない。 まだまだ種蒔きの段階だけど、数年のうちに何かに到達したいと思っている。それはヨーロッパ内のあらゆるところからオファーを受け始めることだと思っている。 ・1人の人間として Life is one time. 人生は一度きり。 50年という年月を生きてより強くそれを感じる。なぜ自分はこの世に生を享けたのか、生きているうちに何ができるか、この貴重な時間を有意義に過ごすことを考えながら生きていきたい。 そして、これから大学生活を送る若人達に、自身が心から生きる喜びを感じられるものを見つけてほしいと心から願う。 そして真実を見つめ、家族を大切にし、心通う友に感謝し、世界の平和を願いながら実りある、意味ある人生を楽しみ、送ってほしいと切に希望します。 TOKU (TOKU/馬場督之のプロフィール) 新潟県三条市出身 新潟明訓高校卒業 1996年3月 東京国際大学 商学部経営情報学科卒業 TIUA留学 臼井ゼミ タイニーラヴ(軽音楽) 日本唯一のヴォーカリスト&フリューゲルホーンプレーヤー 父親の影響でノンジャンルで音楽に親しみ、中学時代にブラスバンドで初めての楽器コルネットを手にする。 2000年1月アルバム“Everything She Said”でソニー・ミュージックよりデビュー。 デビュー当初から注目を集め、その年の8月には早くもブルーノート東京に出演。 アルバムはアジア各国でもリリースされ、積極的に海外での公演も行っている。 昨今、ジャズの枠を超えた幅広い音楽性から、m-flo、平井堅、Skoop On Somebody、 今井美樹、大黒摩季、などのアルバムにプレイヤーとして参加。 2008年に発売したアルバム「Love Again」は初のDuet SongをExileのATSUSHI氏を迎えて収録。 2011年3月の東日本大震災の直後に行われた、シンディー・ローパーの国内ツアーにも 参加し、話題となる。 2011年4月27日、本人がずっと温めていた企画「TOKU sings & plays STEVIE WONDER- JAZZ TRIBUTE FROM ATLANTA」を発売。 2015年5月、フランクシナトラの生誕100周年を記念して全曲シナトラのカバーアルバムを発売。そのレベルの高さに各所で大絶賛を浴びている。 2017年6月、ジャンルを超えTOKUが今まで出会った様々なミュージシャン達とコラボレートしたアルバム「SHAKE」をリリース。 2019年2月、今まで書いていたオリジナル曲からTOKU自身が厳選し、未発表曲、未発表テイクも含めたオリジナル曲のみによるコンピレーション「Original Songbook」をリリース。 2020年4月、フランスを代表するミュージシャン達とレーコーディングした初のヨーロッパ録音「TOKU In Paris」をリリース。フランスで先行発売され、ヨーロッパでのアルバムリリース・ツアーは各地でソールドアウト、好評を得る。 (TOKU Inc.®︎) TOKU Inc. オフィシャルサイト https://www.tokujazz.com TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
TOKU/馬場督之さん(1996年 商学部 経営情報学科卒業 TIUA 臼井ゼミ タイニーラヴ/軽音楽)2024年8月1日・TIU 入学 高校3年になる前の春休みに、母が講師をしている公文式が主催するアメリカでの10日間のホームステイ・プログラムに、妹とともに参加した。今思えば、この時の体験が僕の人生を大いに左右することになったのだと思う。 初めての海外で母国語ではない言葉で実際にコミュニケーションがとれるおもしろさを知ってしまった僕は、自分の高校に教えに来ていたアメリカ人の先生と積極的に交流するようになり、英語を話す機会を増やし、いつしかまた海外に行きたいという願望を抱くようになった。 東京国際大学の名前を知ったのは浪人生になってしまった年だった。この大学には、当時のどの国公私立の大学よりも飛び抜けて贅沢な語学留学プログラムがあるというのをその当時に知った。期間は1年で、アメリカ人のルームメイトと過ごせるなんて、もう受験しないわけにはいかなかった。他の大学も受験したが、本当にここにしか合格しなかった。もう絶対にこの語学留学プログラムに参加しろという神の思し召しなのかと思い、1年生の秋に2段階の試験を受けて合格し、晴れて留学が決まった。何が待ち受けているのか、僕の心は期待でいっぱいだった。 ・音楽遍歴 僕は今ミュージシャンとして生きている。 それ以外の人生は全くもって想像がつかない。 音楽は僕の存在理由そのもの。生きる意味。 でも小さい頃からの夢というわけではなかった。 父親の影響で物心つく頃から音楽を聴くのを好きになり、どこに出かけるにも、寝る時にも、音楽がないとダメだった。音楽はいつも側にいた。 父親は趣味でいろんな楽器を演奏する人で、週末になるとうちに父親のブルーグラス・バンドのメンバーを集めては夜通し演奏していた。他にも様々な音楽を僕に教えてくれた。 小学生の時に父親が地元で初めてのレンタルスタジオを始めて、昼夜ひっきりなしに音楽を志す人が出入りするのを見ながら過ごしていたが、サッカー少年だった僕は楽器を演奏することに興味はなかった。 中学校に進んでその状況が変わる。なんと、進んだ中学校にはサッカー部がなく、仕方がないので他のスポーツ系ではなく、好きな音楽系の部活動をしようと思い吹奏楽部を覗きに行き、コルネットというトランペットに一番近い楽器を始めることになる。 とはいえ真面目にはやらず、譜面も読まず、持ち前の音感で隣の人の吹く音を覚えてしまい、あとは自由に吹いていただけだった。 なので、高校生になると高校が遠かったのもありコルネットを吹くのを止めてしまう。 そして、高校の仲間とバンドを始め、ドラムをプレイし始める。ほぼ同時にベースを始め、そして浪人生の時にはギターを始めた。 ロック、ポップ、フォークにはまり、TIUに入ってから最初に在籍したのは軽音のサークルだった。そのサークルから紹介されたバイト先のCD屋さんで、わけもわからずマイルス・デイビス (ジャズの帝王と言われたトランペッター)のCDを買い、その中の1曲を気に入り、耳で聞いて同じように吹けるように練習し、誘われるままに行ったジャズの生演奏をやっていたお店で言われるがままに飛び入りして練習したことを吹き、実はそれはマイルスがアドリブ(即興)で演奏したものだと初めて知り、それ以来ジャズに取りつかれて今に至る。 実は、小学生の時に僕の地元にやってきたマイルス・デイビスのコンサートに連れて行ってもらったことが大きく影響していると思う。最初で最後だったが、大のマイルスのファンの父親が「こんな機会は二度とあるかわからない!」と家族を連れて行ってくれた。その時に感じた会場の熱気を今でも覚えている。 ・TIUA さて、留学に話を戻したいと思う。 そんなわけで、留学が決まったときには僕はすっかりジャズに取りつかれていて、個人データに”音楽” “ジャズ” と書きまくり、TIUAに着いた日に出会ったのがジャズピアノをバリバリ弾く僕のルームメイト、Julian Snow だった。 ジャズにハマってすぐに購入し、もちろん一緒にアメリカに持っていったトランペットのケースを見つけた彼は、時差ぼけでフラフラの僕を練習室に連れて行った。そして2人でしばし演奏し、次の週にはベーシストを加えて練習し、さらにサックス・プレイヤーが加わり、僕らはウィラメット大学のキャンパスにある Bistro というカフェで毎週木曜日にライヴをするようになる。 あの時はジャズを始めたばかりで決して上手くない、むしろド下手なトランペッターで吹ける曲もわずかしかなかったのに、よくも僕をバンドに入れたものだと思う。今もってしても謎だ。 でも英語を勉強しに行ったのに、音楽も同時にやることができるなんて夢のようだった。 週末にはキャンパス内の屋外でギターを弾いて歌い、そのうち一緒に歌う仲間もできた。 ウィラメット大学にあるロザンヌという男女共同寮に住み、朝食はパンケーキとミルク、午後授業が終わるとウィラメットのキャンパスの芝生で宿題、夕食を終えたら仲間とバスケットボールを楽しみ、シャワーを浴びてトランペットと譜面を持って音楽練習室に向かい夜遅くまで練習した。Julian のバンドに付いて行くのは大変だった。片っ端から曲を知り、演奏(アドリブ)できるようにならなければならなかった。でもその大変な作業が楽しくて仕方なかった。 Bistro でのライヴはとにかく毎回が刺激そのものだった。 Julian 始めメンバーは皆達者なので置いてきぼりになることもしばしばだったけど、必死について行った。 ライヴ中はいろんな人が行き来していた。それを見ているのも楽しかった。そこで出会った友達と今でも交流は続いている。 時々開催されたフィールドトリップでオレゴンの他の土地に行けるのもとても刺激だった。見るもの全てが新しいって素晴らしいと思った。オレゴンの大自然はとにかく広い。オレゴン・コーストや Mt.Hood で経験したスノーボード、馬に乗ったのも覚えている。そして都市に行くとCDショップに行けるのが本当に嬉しかった。聞きたいジャズの名曲はまだ山ほどあった。それは今でもそう。 夏休みについても書かなければ! 7月の下旬からほぼ一ヶ月をかけてアメリカを見て回った。 飛行機ではなく、アムトラックという汽車でアメリカ大陸の大きさを肌で感じながらの旅。 セーラムを出発して、 まずはサンフランシスコまで汽車の中で1泊、 2泊ほどして サンフランシスコからロスは朝から晩までまる1日を汽車の中で、 ロスで3泊ほどして ロスからニューオリンズまでは汽車の中で2泊! ニューオリンズで3泊くらいして、 ニューオリンズからニューヨークまでは汽車で1泊、 ニューヨークで3泊ほどして ニューヨークからシカゴまでは汽車で1泊、 シカゴで2泊ほどして シカゴからシアトルまでは汽車で2泊、 シアトルで2泊ほどして シアトルからセーラムに。 行程はざっとかんな感じ。 1ヶ月以内ならば何度も途中下車できる切符を購入し、寝台車ではなく普通のコーチシートで全行程を移動した。日本人にとっては広くて、リクライニングさせると寝心地のいいソファになった。若さゆえに可能だった。 砂漠のど真ん中を走ってる時に、ここでエンジンが故障したらどうなるんだろうと思ったり、夜中に目が覚めて外を見ると、たまに田舎の街灯が流れていく真っ暗が続く景色だったり、汽車でしか味わえない経験をたくさんした。 当時はポータブルのカセットテープ・プレイヤーが音を出してくれる一番小さい機械、旅の間に何度テープをひっくり返したことか。 初めて訪れたジャズの街ニューオリンズ、そしてニューヨークではジャズのレジェンドの生の演奏に触れることができた。 ニューヨークで演奏を聞いた、とても印象に残るトランペッターがいた。その彼と、およそ7年後の自分がメジャー・デビューしたころに出会うとは夢にも思わなかった。そのニューヨークでのライヴの話をしたら、なんと彼はその時のことを覚えていた。2度目に会った時だったかな、お互いの誕生日が同じ日だということがわかり、以来彼が数年前に突然逝ってしまうまで、ずっと仲のいい友達になった。最後にやり取りしたメッセージは、お互いに「I love you」だった。 ちょっと話がずれてしまったけど、 TIUAに留学していた1993年という年は、今までの人生で一番充実していたと思う。それだけTIUAは僕に濃密な経験をさせてくれた。 そして、この時の体験、身につけた語学力は現在の僕のキャリアに大きく大きく関わっている。東京にやってくる海外からのミュージシャンと知り合い、その後も付き合いが続くのは語学力により相手を理解し友情を深めることができるということがとても大きいと強く感じる。 初めて日本に来るミュージシャン達を案内したり、日本のことを説明したりすることができるのは、同時に彼らの文化を理解することにも繋がり、その後の付き合いが深くなっていく。このお互いの理解、受け入れるという気持ちは、TIUAへの留学でいろんなものを見て知った経験があったから身についたのだと思う。 もちろんそれには、全てではなくとも相手をすぐに受け入れるオープンなマインドを持つということがとても重要だと思う。僕の場合は根っからの好奇心旺盛な性格も手伝って自然と身についたところもあるが、TIUの自由な校風から始まり、TIUAで経験した全てのことは僕をさらにオープンマインドの持ち主にしてくれたことは言うまでもない。 世界には様々な人種が存在する。そして、今現在は良くも悪くも日々多様な出来事があり、目まぐるしいくらいに時代が回っている。世界の動きを見ると、ポジティブなこともあるけど本当に苦しくなるような理解できないほどのネガティブなことも起こっている。人類がこれからどう生きていくのか、そして何より自分がどう生きていけばいいのか、常に敏感に物事を察知し、様々な情報を整理していかなければならない。 そんな時代でも、僕は全ての人間は同じく人間であり、単純に生まれや育ちが違うだけで肌の色で差別したりする心は一切持っていなくて、むしろ違うことに興味を抱く人間であれることに幸せを感じる。そしてそう思えるのは、TIUAでの生活を通じてアメリカでいろいろな人間と出会ったことが大きく影響していると思う。人種は違えど、愛を捧ぐ心は皆持っているということを強く学んだ。 ・近況 今、僕はパリにも拠点を置き、ヨーロッパで自分のキャリアを広げようとチャレンジしている。2017年からパリに住む友人のプロジェクトに参加することで毎年2度パリに来てはそこを拠点にヨーロッパをツアーするようになり、その友人の勧めもあり彼のレーベルからヨーロッパ向けの自分のアルバムが2020年の1月に日本より先にフランスでリリースされ、2月にリリース・ツアーを行ったところで新型コロナウイルスによるパンデミックで、3年半もの間ヨーロッパに来ることが出来なくなった。 ようやく落ち着いたところで来られなかった月日を取り戻したい、チャレンジしたいという気持ちが、僕を言葉もわからない新たな土地・パリに住まわせることになった。逆にパンデミックがなければこういう気持ちにならなかったのかもしれない。 まだまだ種蒔きの段階だけど、数年のうちに何かに到達したいと思っている。それはヨーロッパ内のあらゆるところからオファーを受け始めることだと思っている。 ・1人の人間として Life is one time. 人生は一度きり。 50年という年月を生きてより強くそれを感じる。なぜ自分はこの世に生を享けたのか、生きているうちに何ができるか、この貴重な時間を有意義に過ごすことを考えながら生きていきたい。 そして、これから大学生活を送る若人達に、自身が心から生きる喜びを感じられるものを見つけてほしいと心から願う。 そして真実を見つめ、家族を大切にし、心通う友に感謝し、世界の平和を願いながら実りある、意味ある人生を楽しみ、送ってほしいと切に希望します。 TOKU (TOKU/馬場督之のプロフィール) 新潟県三条市出身 新潟明訓高校卒業 1996年3月 東京国際大学 商学部経営情報学科卒業 TIUA留学 臼井ゼミ タイニーラヴ(軽音楽) 日本唯一のヴォーカリスト&フリューゲルホーンプレーヤー 父親の影響でノンジャンルで音楽に親しみ、中学時代にブラスバンドで初めての楽器コルネットを手にする。 2000年1月アルバム“Everything She Said”でソニー・ミュージックよりデビュー。 デビュー当初から注目を集め、その年の8月には早くもブルーノート東京に出演。 アルバムはアジア各国でもリリースされ、積極的に海外での公演も行っている。 昨今、ジャズの枠を超えた幅広い音楽性から、m-flo、平井堅、Skoop On Somebody、 今井美樹、大黒摩季、などのアルバムにプレイヤーとして参加。 2008年に発売したアルバム「Love Again」は初のDuet SongをExileのATSUSHI氏を迎えて収録。 2011年3月の東日本大震災の直後に行われた、シンディー・ローパーの国内ツアーにも 参加し、話題となる。 2011年4月27日、本人がずっと温めていた企画「TOKU sings & plays STEVIE WONDER- JAZZ TRIBUTE FROM ATLANTA」を発売。 2015年5月、フランクシナトラの生誕100周年を記念して全曲シナトラのカバーアルバムを発売。そのレベルの高さに各所で大絶賛を浴びている。 2017年6月、ジャンルを超えTOKUが今まで出会った様々なミュージシャン達とコラボレートしたアルバム「SHAKE」をリリース。 2019年2月、今まで書いていたオリジナル曲からTOKU自身が厳選し、未発表曲、未発表テイクも含めたオリジナル曲のみによるコンピレーション「Original Songbook」をリリース。 2020年4月、フランスを代表するミュージシャン達とレーコーディングした初のヨーロッパ録音「TOKU In Paris」をリリース。フランスで先行発売され、ヨーロッパでのアルバムリリース・ツアーは各地でソールドアウト、好評を得る。 (TOKU Inc.®︎) TOKU Inc. オフィシャルサイト https://www.tokujazz.com TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
TIU卒業生の方々にも国際連合・国際機関の職員を目指してもらいたい
高松雄一さん(1997年卒業 教養学部国際関係学科/TIUA下羽ゼミ1995年Willamette Univ.卒業 2001年シラキュース大学マックスウェル公共政策大学院修了)2024年6月1日高校生の時から国際連合で働きたいと決心 国際連合の職員になりたいと決心したのは高校生の時、教科書に載っていた日本の国際社会に対する貢献に関連した記事や平和維持活動に参加している世界各国からの青いヘルメットをかぶった兵士達の写真を見て国際連合とはいったい何なんだろうと関心を持ったことがきっかけです。国連のことを知れば知るほどそこで働きたくなり、自分もその組織で世界に何らかの形で貢献したいと思い、国連が自分の将来の勤務先だと目標を設定しまいました。今から考えると全然リスクを考えていなかったような…。 より国際性を持った大学に入ることを目指して、ほぼ決まっていた地元の大学の推薦入学まで辞退してしまいました。こんな唐突なそして無謀にも見えることを、よくも自分の両親は快く了解してくれたと今ではとても感謝しています。 海外留学、国際的視野育成がしっかりとしている東京国際大学に入学 東京国際大学をターゲットとした理由はやはり国際留学、国際的視野育成にかなり力をいれているところで、実質的サポートシステムがしっかりと整っている面に魅了されました。ほかの大学にはないアットホームな雰囲気にも惹かれました。とにかく学生と教授、そして大学職員との方々との距離がとても近く雰囲気が良いと以前から聞いていました。 大学時代に力を入れたことはとにかく様々な機会を利用して知識や語学を習得したことです。正式にとった講義だけではなく、教授たちの了解を得て他の学部や大学院の講義にも参加させてもらったことを思い出します。とにかく無我夢中で知識を習得し、自分の競争力を高めたいとしていたような気がします。 TIUA、Willamette大学、Drew大学へ留学し、国連事務局などでインターンシップに従事 二年時には当時のTIUアメリカ校へ留学, Willamette大学やニュージャージー州にあるDrew大学の国連プログラムでの留学・卒業も経験してまた東京国際大学に戻ってきました。在学中には日本とアメリカにおいてオレゴン州政府や国連事務局、国連難民高等弁務官事務所等でインターンシップに従事しました。 在学中に国際政治ゼミナールの故下羽友衛先生に勧められて参加した尾崎行雄記念財団主催の論文コンクールで国際関係に関する論文で文部大臣奨励賞を受賞し、アメリカに研修派遣されて、ノーベル平和財団が主催したシンポジウムに参加したことも大きな励みになりました。 国際連合ニューヨーク本部で働き始めて20年、現在は人事戦略関係の仕事に従事 国連には再度渡米しシラキュース大学マックスウェル公共政策大学院 (Syracuse University, Maxwell School of Citizenship and Public Affairs)を修了した後に広報局に入所し、国連ガイドなどの経験をしたその後はコフィアナン前国連事務総長のオフイス、平和維持局、本部人事部等で働きました。ニューヨーク本部だけではなくコンゴ民主共和国、タイ国バンコク、カナダモントリオールなどで様々な国連機関の職員達と仕事をしたりと良い経験になりました。コフィアナン元国連事務総長とお話したことも忘れ難い思い出になりました。 国連に就職してから20年以上時がたった現在は人事戦略関係の仕事をしています。具体的には国連職員を採用するためのアウトリーチ活動や職員の多様性を目指すことをしていて、大学や政府代表部を訪れ、国連就職の説明会なども行いました。いかに国連職員を増やすか等、各国の政府の方々と協議したりもします。 (故安倍晋三首相と国連本部で働いている邦人の同僚たちと)(国連本部国連総会にて) TIU卒業生の方々にも国際連合・国際機関の職員を目指してもらいたい 東京国際大学の学生たちには大きい夢を持って、是非ともそれに向かって辛抱強く挑戦してほしいです。短期的でかつ具体的な目標設定をして、遠回りでもいいから常に前向きに好奇心をもって戦略的に進んでいくことが大切だと思います。東京国際大学出身の国連職員が将来増えることを信じ、是非とも多くの学生に応募してもらい国際機関で働いてほしいです。 (詳しくは国連採用ウエブページ https://careers.un.org/home?language=en を参照) これからの国連は1)データ能力、2)イノベーション、3)行動科学、4)デジタルツール、そして5)先を見て戦略的に考える、というスキルを職員に必要としています。現在の学生だけではなく既に様々な専門分野で活躍されている東京国際大学の卒業生の方々にも、是非とも国連・国際機関の職員を目指してもらいたいと願っています。 国連は巨大な国際官僚組織です。皆さんがニュースや記事を読んでいて既に知っていると思いますが、この組織は様々な問題を抱えているのも現実です。それと同時に国連しかできないという仕事が山ほどあり、そのようなことはあまり報道されないのも辛いところ。国連が本当に何を達成しようとしているのかを理解して一緒にそれに向かっていきたいという職員を常に探しています。 東京国際大学の卒業生の輪がさらに広がっていくことを楽しみにしています。お互いに健康を第一にして頑張りましょう! (国際連合本部ビル) (高松雄一さんのプロフィール) 埼玉県出身東北学院榴ヶ岡高等学校卒業 1997年3月東京国際大学教養学部国際関係学科卒業 下羽友衛ゼミ TIUA留学 1995年 Willamette University 教養学部卒業 2001年シラキュース大学マックスウェル公共政策大学院(Syracuse University, Maxwell School of Citizenship and Public Affairs)修了 2000年国際連合広報局に入所 コフィアナン前国連事務総長のオフイス、平和維持局、本部人事部等で働く。 ニューヨーク本部だけではなくコンゴ民主共和国、タイ国バンコク、カナダモントリオールなどで様々な国連機関の職員達と仕事をする。 現在、国際連合ニューヨーク本部、経営戦略、ポリシー局人事戦略オフイス勤務 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
高松雄一さん(1997年卒業 教養学部国際関係学科/TIUA下羽ゼミ1995年Willamette Univ.卒業 2001年シラキュース大学マックスウェル公共政策大学院修了)2024年6月1日高校生の時から国際連合で働きたいと決心 国際連合の職員になりたいと決心したのは高校生の時、教科書に載っていた日本の国際社会に対する貢献に関連した記事や平和維持活動に参加している世界各国からの青いヘルメットをかぶった兵士達の写真を見て国際連合とはいったい何なんだろうと関心を持ったことがきっかけです。国連のことを知れば知るほどそこで働きたくなり、自分もその組織で世界に何らかの形で貢献したいと思い、国連が自分の将来の勤務先だと目標を設定しまいました。今から考えると全然リスクを考えていなかったような…。 より国際性を持った大学に入ることを目指して、ほぼ決まっていた地元の大学の推薦入学まで辞退してしまいました。こんな唐突なそして無謀にも見えることを、よくも自分の両親は快く了解してくれたと今ではとても感謝しています。 海外留学、国際的視野育成がしっかりとしている東京国際大学に入学 東京国際大学をターゲットとした理由はやはり国際留学、国際的視野育成にかなり力をいれているところで、実質的サポートシステムがしっかりと整っている面に魅了されました。ほかの大学にはないアットホームな雰囲気にも惹かれました。とにかく学生と教授、そして大学職員との方々との距離がとても近く雰囲気が良いと以前から聞いていました。 大学時代に力を入れたことはとにかく様々な機会を利用して知識や語学を習得したことです。正式にとった講義だけではなく、教授たちの了解を得て他の学部や大学院の講義にも参加させてもらったことを思い出します。とにかく無我夢中で知識を習得し、自分の競争力を高めたいとしていたような気がします。 TIUA、Willamette大学、Drew大学へ留学し、国連事務局などでインターンシップに従事 二年時には当時のTIUアメリカ校へ留学, Willamette大学やニュージャージー州にあるDrew大学の国連プログラムでの留学・卒業も経験してまた東京国際大学に戻ってきました。在学中には日本とアメリカにおいてオレゴン州政府や国連事務局、国連難民高等弁務官事務所等でインターンシップに従事しました。 在学中に国際政治ゼミナールの故下羽友衛先生に勧められて参加した尾崎行雄記念財団主催の論文コンクールで国際関係に関する論文で文部大臣奨励賞を受賞し、アメリカに研修派遣されて、ノーベル平和財団が主催したシンポジウムに参加したことも大きな励みになりました。 国際連合ニューヨーク本部で働き始めて20年、現在は人事戦略関係の仕事に従事 国連には再度渡米しシラキュース大学マックスウェル公共政策大学院 (Syracuse University, Maxwell School of Citizenship and Public Affairs)を修了した後に広報局に入所し、国連ガイドなどの経験をしたその後はコフィアナン前国連事務総長のオフイス、平和維持局、本部人事部等で働きました。ニューヨーク本部だけではなくコンゴ民主共和国、タイ国バンコク、カナダモントリオールなどで様々な国連機関の職員達と仕事をしたりと良い経験になりました。コフィアナン元国連事務総長とお話したことも忘れ難い思い出になりました。 国連に就職してから20年以上時がたった現在は人事戦略関係の仕事をしています。具体的には国連職員を採用するためのアウトリーチ活動や職員の多様性を目指すことをしていて、大学や政府代表部を訪れ、国連就職の説明会なども行いました。いかに国連職員を増やすか等、各国の政府の方々と協議したりもします。 (故安倍晋三首相と国連本部で働いている邦人の同僚たちと)(国連本部国連総会にて) TIU卒業生の方々にも国際連合・国際機関の職員を目指してもらいたい 東京国際大学の学生たちには大きい夢を持って、是非ともそれに向かって辛抱強く挑戦してほしいです。短期的でかつ具体的な目標設定をして、遠回りでもいいから常に前向きに好奇心をもって戦略的に進んでいくことが大切だと思います。東京国際大学出身の国連職員が将来増えることを信じ、是非とも多くの学生に応募してもらい国際機関で働いてほしいです。 (詳しくは国連採用ウエブページ https://careers.un.org/home?language=en を参照) これからの国連は1)データ能力、2)イノベーション、3)行動科学、4)デジタルツール、そして5)先を見て戦略的に考える、というスキルを職員に必要としています。現在の学生だけではなく既に様々な専門分野で活躍されている東京国際大学の卒業生の方々にも、是非とも国連・国際機関の職員を目指してもらいたいと願っています。 国連は巨大な国際官僚組織です。皆さんがニュースや記事を読んでいて既に知っていると思いますが、この組織は様々な問題を抱えているのも現実です。それと同時に国連しかできないという仕事が山ほどあり、そのようなことはあまり報道されないのも辛いところ。国連が本当に何を達成しようとしているのかを理解して一緒にそれに向かっていきたいという職員を常に探しています。 東京国際大学の卒業生の輪がさらに広がっていくことを楽しみにしています。お互いに健康を第一にして頑張りましょう! (国際連合本部ビル) (高松雄一さんのプロフィール) 埼玉県出身東北学院榴ヶ岡高等学校卒業 1997年3月東京国際大学教養学部国際関係学科卒業 下羽友衛ゼミ TIUA留学 1995年 Willamette University 教養学部卒業 2001年シラキュース大学マックスウェル公共政策大学院(Syracuse University, Maxwell School of Citizenship and Public Affairs)修了 2000年国際連合広報局に入所 コフィアナン前国連事務総長のオフイス、平和維持局、本部人事部等で働く。 ニューヨーク本部だけではなくコンゴ民主共和国、タイ国バンコク、カナダモントリオールなどで様々な国連機関の職員達と仕事をする。 現在、国際連合ニューヨーク本部、経営戦略、ポリシー局人事戦略オフイス勤務 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
恩人への感謝と最後までやり抜く想い
土谷 恵太郎さん(1996年 商学部卒業)2024年5月1日現在、住商エアロシステム㈱という商社において防衛関連のビジネスを行っています。海外の動向を探り、今日本に必要もしくは中長期的に必要となるであろう技術の導入に向け客先へ紹介、斡旋を行っています。最終の客先は防衛省となりますが、国内メーカー経由での提案や納入も行っています。現職のビジネス概要はあまり深くを語れないかもしれませんが、卒業後今まで2社を経験し、大先輩との出会い含め今に至るまでの私の体験談が少しでも皆さまのご参考になればと考え、僭越ながら寄稿させていただきます。東京国際大学在学時は交友関係に重きを置くあまり、あまり勉強をする学生ではありませんでしたが、2年次の1993年にTIUAに行かせていただいたことが一番勉強をした時期であり、全くやったことが無かったバスケットボールをWillamette大の体育の授業で選択したことが始めるきっかけにもなりました。また、今も同じ呼び名か分かりませんが、TOMODACHIファミリーのMr. Walter Jonesと30年経った今でも交流があります。奥様のMrs. Glenda Jonesは数年前に亡くなってしまいましたが、彼らの交友関係はとても広く、覚えられないぐらい沢山の方を紹介いただいたことが記憶に残っています。基本週末は彼らと一緒に行動していたのですが、友人のお葬式にも参列するぐらい色々な経験をさせていただきました。卒業後は、丁度就職氷河期で敗戦が多かったものの、大阪に本社を持つ上松商事㈱に採用され、配属が大阪となり、初めて大阪の地に足を踏み入れました。買ったものは忘れましたが、最初に新大阪のキヨスクのおばちゃんに「おおきに」と元気に言われたことが本場、本物の関西弁を初めて聞いた言葉で、今日の出張で新大阪を使う際も昨日の日のように思い出されます。 上松商事㈱ (1社目) 大阪岸和田に本社を置く木材商社となり、インドネシアと関係が強い会社でした。当時はスハルト大統領でしたが、その政権と関係のあるインドネシア合板協会との合弁企業である対日独占輸入業を担うニッピンド㈱へ出向となり、そこで今ではあまり使われないLC等の貿易実務業務の日々を送りました。勤務地は心斎橋でカナダ村に位置していました。余談ですが、カナダ村は今となっては大阪の方も知らない方が多いですが、多少おしゃれなエリアながらアメ村の北側にあるということで、カナダ村と呼ばれていましたので何かの折に話のネタにされてみて下さい。さて、実際の業務ですが、インドネシアから毎月数多くの在来船を貸し切り船舶動静を管理しつつ、様々な種類の合板を大量に輸入し、主に大手総合商社および社内関連製造・加工工場向けに販売していました。我々の卸値価格が毎週月曜の日経新聞に掲載され実質日本の合板価格動向の指標になっていました。合板とはベニヤ板ですが、家の構造用や家具含め多岐に渡り使用されているもので、一見、木の板や製材がそのまま使われているようでも、ほぼ80%以上はベニヤ板が使われています。ちなみに高速道路もコンクリートパネルという型枠合板で作られているので、住宅着工戸数や高速道路建設といった需給により市況が変わっていく商品となります。最終的には1990年代後半にインドネシアで発生した資本収支危機により、International Monetary Fund (IMF)の支援を得るにあたり、IMFからの勧告内容に合板カルテルの廃止という項目が含まれ独占販売権を失うことになりました。商社の根幹とも言える商権を失ったことにより会社が傾くこととなり、最終的には関連会社の製造・加工部門を残し倒産となってしまいました。一方、大阪での生活は業務が早めに終わっていたこともあり、バスケを通して会社以外でも交友関係を広げていき、今も多くの方と交友関係が継続しており、大阪は自分になぜか合っている場所でもあり、また本当に住みたいとも思っています。 住商エアロシステム㈱ (2社目) 1社目の状況により会社を離れ、数か月TOMODACHIファミリーを訪問した際、旧友含め様々な方々と再会できました。そこで英気を養いつつ、今まで経験した貿易実務を前面に押し出し転職活動を行い、面接官と一番フィーリングが合った住商エアロシステム㈱に2000年2月よりお世話になることになりました。今は自社名義で防衛装備品向け商社No.1を狙える立場まで会社規模が大きくなりましたが、当時は親会社である住友商事㈱の業務委託でできる業務の範囲も限られていました。規模が大きくなっていく最中、私は陸上自衛隊 (陸自)向けビジネスを住友商事から住商エアロシステムへ移管するために入社直後住友商事へ出向することになりました。移管後は陸自ビジネスを行いつつ、航空機エンジンのビジネスを行い、その後、航空自衛隊向けと海上自衛隊向けのビジネスを経験し、今に至りますが、前期で陸自ビジネスに関与していた際、2008年より2年強、欧州住友商事会社(ロンドン)へ転勤する機会を得ることができました。現在は入社時に担っていた陸上自衛隊ビジネスに戻り業務拡大に努めていますが、直前には管理部門の総務部で給与チーム長として給与含む社会労務関連を担うとともに、人事や採用も行うことで別視点から会社を見ることができました。防衛業界について少し触れますが、防衛省自衛隊は陸海空に分かれ、最近は統合幕僚監部なる組織もできましたが、それぞれの組織は統合されて運用されるにはまだまだ時間がかかると言っても過言ではありません。陸海空にはそれぞれの文化や哲学があり、私は語ることはできませんが、海自と空自は艦船や航空機といったAssetベースでの運用に対して、陸自が人ベースでの運用となっています。人が主体の陸自へ最新の装備品が全てに行きわたっていることはなく、殆どの部隊が日々古い装備で訓練を行い、有事に対し120%の準備を行い備えています。最近では国会で防衛予算が元々GDP1%だったものを2%にする方針が決まりましたが、かかる周辺諸国との状況を鑑みると防衛のためにマストとして必要になるものであり、我々はその部分において、防衛省や防衛業界へ貢献するというマインドを以って支援していくこと常としています。ビジネスとしてやっていることもあり、利益を追求しがちになりますが、どんなビジネスにも言えるのですが、必要以上に利益を追求することは業界全体の底上げには繋がらず長続きはしませんので、国内メーカー含めた関係各社と長期に渡りWin-Winの関係性構築ができるよう最善のスキーム作りに努めています。ご参考まで、日々の業務は部署にもよりますが、直接見なければならない直属のチーム員が15名いた際は自分の仕事の時間が取れるのが22時以降であったため、毎日終電でしたが、コロナもあり、在宅勤務に必要な備品も備わっていることから、良いかどうか分かりませんが、事務所以外でも事務所同様の仕事ができる環境になったことで、効率的にはなりました。商社は激務と言いますが、そうかもしれません。しかし、その分得ることが多いことも事実ですし、皆いくつか持たれているであろう夢の実現には近づきやすい部分もあると思いますが、健康あってのことだなと最近は多少気遣うようになりました。 (英Airshowにて) ロンドン駐在時代 担当範囲は欧州であり、現地スタッフとなる部員が独デュッセルドルフにいたため、ほぼ毎週出張をしていました。担う業務は欧州側から日本への日々の輸入業務支援以外に日本からの来訪者や海外メーカーとの面談やアテンドといった業務が主でありますが、冒頭で述べた海外の動向を探り、日本に今必要もしくは中長期的に必要となるであろう技術の情報収集を行っていました。多くは語れないことが残念ですが、駐在時代以外に限らず西側諸国で必要なものが得られない場合は当時中欧と呼ばれたチェコやブルガリアにも訪問しその国経由で各種調整が完了するまで帰国できないということもありました。ロンドンでの生活は当時家内と2人だけだったため、家賃の自腹部分が多くなっても交通が便利かつ安全なエリアを選択しました。場所はゴルゴ13に良く出てくることは知らなかったのですがNew Scotland YardがあるSt. James ParkエリアのFlatを選択しました。家内は一人でいることが多かったため、お金は十分でなくてもせめて中心部まで徒歩圏内の飽きない場所を選択しました。その結果、なんだかんだで、帰国までに食器や家具などがかなり増えましたが、二人でお店のみならず、ほぼ無料の美術館・博物館でデザイン性が良いものを見たりすることで、自然と目が肥えつつ、それを日本からの来訪者が求める場所やお店に連れていき、帰国後に来訪者や来訪者から受け取った彼らの家族が喜んでいたと連絡をいただくことは相互に嬉しいことであり、大したことが無いようにも思えますが、かなり重要な部分の一つでもあり、相互にとって長きに渡り良い思い出になり、今もその方々とお会いすると当時の話で盛り上がっていただけることは嬉しく思います。 (ロンドンでの住まい) 嶌末 真さんとの出会い 防衛業界において先輩や後輩と会う機会は数年前に他商社におられた同級生の1回限りでしたが、一昨年度の2022年にワシントンDCで開催される米陸軍協会の年次総会・展示会となるAUSAへ参加する際、社団法人である日本防衛装備工業会 (JADI)が会員の国内メーカーを集いツアーを企画され、当社もそちらを支援することとなりました。防衛関連ビジネスでは情報管理が厳格な業界ですが、個人情報や経歴等を提出する機会が多く、JADI支援に向けやりとりを行ったところ、JADIの窓口が調査部長である嶌末 真さんでした。1985年卒 (教養学部)ということで同窓かつ大先輩であることが判明しました。嶌末さんは元陸上自衛官であり、パキスタンの防衛駐在官も歴任された方です。自衛官には職種というものがあり、陸自に16種類ある職種で通信となり、その分野では陸自内で非常に有名な方であることを知りました。嶌末先輩と呼ばせていただきますが、お互い同業界で大学の先輩・後輩といった経験が多くない中、狭い業界で一緒に仕事をする機会があったことは何かのご縁と考え、お互いに機会を作り頻繁に会うようになりました。そこで様々な情報交換をさせていただいたことは自身の財産となり、この関係は後輩である私から是非とも継続させていただきたいと考えています。嶌末先輩情報について私がこれ以上勝手に述べることはできませんが、卓球において有名な方であるため、ご興味のある方は卓球経由で嶌末先輩との交流も図っていただければと思います (ちなみに私は卓球ほぼできません)。 (米AUSA2022にて) TIU受験生/在校生へのメッセージ 表題で「恩人への感謝と最後までやり抜く想い」と記載しましたが、それぞれ関係しないようですが繋がりがあるものと思っています。「恩人への感謝」は、その都度お世話になる方へ感謝することですが、その後もその方を忘れることなど一度もありませんし、時折様子を確認させていただいています。「最後までやり抜く想い」とは、たまにあのタイミングで転職していていたらどうなっていたかなと思いますが、一度世話になり育てていただいた所属先を自ら裏切るようなことにはならずに済んでいますが、継続は力なりというモットーでやってきました。確かに、自身にとってより評価してくれる転職先を都度のタイミングで選択される方もおり、それを全く否定するものではありませんが、私自身、生き方が上手くない部分もあることは理解しつつもそれも人生だと思うので、私は一つ一つのことに最大限の力を注ぐようにしています。人間誰しも隣の芝は青く見えたり、今の自分に不満がある部分はあり、難しいですが人と比較しないマインドを持ちつつも、今与えられた仕事や環境に対し、一生懸命向かい様々なことを吸収していくのが若い内は一番だと思いますので、頑張っていって下さい。結びとなりますが、皆様の今後向かわれる分野において成功され、ご家族含め発展されますとともに、東京国際大学の名を世界に広めていかれることを心より祈念しております。 (土谷 恵太郎さんのプロフィール) 1992年浦和学院卒業 1992年東京国際大学 商学部入学 1993年TIUA 1996年東京国際大学 商学部卒業 1996年上松商事㈱入社と同時にニッピンド株式会社へ出向 2000年住商エアロシステム㈱へ転職 2008年欧州住友商事会社(ロンドン)へ転勤 2010年住商エアロシステム㈱へ転勤 2024年各営業部や人事総務部給与チーム長を経験し同社ディフェンスシステム事業第一部 陸上チーム長にて現在に至る TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
土谷 恵太郎さん(1996年 商学部卒業)2024年5月1日現在、住商エアロシステム㈱という商社において防衛関連のビジネスを行っています。海外の動向を探り、今日本に必要もしくは中長期的に必要となるであろう技術の導入に向け客先へ紹介、斡旋を行っています。最終の客先は防衛省となりますが、国内メーカー経由での提案や納入も行っています。現職のビジネス概要はあまり深くを語れないかもしれませんが、卒業後今まで2社を経験し、大先輩との出会い含め今に至るまでの私の体験談が少しでも皆さまのご参考になればと考え、僭越ながら寄稿させていただきます。東京国際大学在学時は交友関係に重きを置くあまり、あまり勉強をする学生ではありませんでしたが、2年次の1993年にTIUAに行かせていただいたことが一番勉強をした時期であり、全くやったことが無かったバスケットボールをWillamette大の体育の授業で選択したことが始めるきっかけにもなりました。また、今も同じ呼び名か分かりませんが、TOMODACHIファミリーのMr. Walter Jonesと30年経った今でも交流があります。奥様のMrs. Glenda Jonesは数年前に亡くなってしまいましたが、彼らの交友関係はとても広く、覚えられないぐらい沢山の方を紹介いただいたことが記憶に残っています。基本週末は彼らと一緒に行動していたのですが、友人のお葬式にも参列するぐらい色々な経験をさせていただきました。卒業後は、丁度就職氷河期で敗戦が多かったものの、大阪に本社を持つ上松商事㈱に採用され、配属が大阪となり、初めて大阪の地に足を踏み入れました。買ったものは忘れましたが、最初に新大阪のキヨスクのおばちゃんに「おおきに」と元気に言われたことが本場、本物の関西弁を初めて聞いた言葉で、今日の出張で新大阪を使う際も昨日の日のように思い出されます。 上松商事㈱ (1社目) 大阪岸和田に本社を置く木材商社となり、インドネシアと関係が強い会社でした。当時はスハルト大統領でしたが、その政権と関係のあるインドネシア合板協会との合弁企業である対日独占輸入業を担うニッピンド㈱へ出向となり、そこで今ではあまり使われないLC等の貿易実務業務の日々を送りました。勤務地は心斎橋でカナダ村に位置していました。余談ですが、カナダ村は今となっては大阪の方も知らない方が多いですが、多少おしゃれなエリアながらアメ村の北側にあるということで、カナダ村と呼ばれていましたので何かの折に話のネタにされてみて下さい。さて、実際の業務ですが、インドネシアから毎月数多くの在来船を貸し切り船舶動静を管理しつつ、様々な種類の合板を大量に輸入し、主に大手総合商社および社内関連製造・加工工場向けに販売していました。我々の卸値価格が毎週月曜の日経新聞に掲載され実質日本の合板価格動向の指標になっていました。合板とはベニヤ板ですが、家の構造用や家具含め多岐に渡り使用されているもので、一見、木の板や製材がそのまま使われているようでも、ほぼ80%以上はベニヤ板が使われています。ちなみに高速道路もコンクリートパネルという型枠合板で作られているので、住宅着工戸数や高速道路建設といった需給により市況が変わっていく商品となります。最終的には1990年代後半にインドネシアで発生した資本収支危機により、International Monetary Fund (IMF)の支援を得るにあたり、IMFからの勧告内容に合板カルテルの廃止という項目が含まれ独占販売権を失うことになりました。商社の根幹とも言える商権を失ったことにより会社が傾くこととなり、最終的には関連会社の製造・加工部門を残し倒産となってしまいました。一方、大阪での生活は業務が早めに終わっていたこともあり、バスケを通して会社以外でも交友関係を広げていき、今も多くの方と交友関係が継続しており、大阪は自分になぜか合っている場所でもあり、また本当に住みたいとも思っています。 住商エアロシステム㈱ (2社目) 1社目の状況により会社を離れ、数か月TOMODACHIファミリーを訪問した際、旧友含め様々な方々と再会できました。そこで英気を養いつつ、今まで経験した貿易実務を前面に押し出し転職活動を行い、面接官と一番フィーリングが合った住商エアロシステム㈱に2000年2月よりお世話になることになりました。今は自社名義で防衛装備品向け商社No.1を狙える立場まで会社規模が大きくなりましたが、当時は親会社である住友商事㈱の業務委託でできる業務の範囲も限られていました。規模が大きくなっていく最中、私は陸上自衛隊 (陸自)向けビジネスを住友商事から住商エアロシステムへ移管するために入社直後住友商事へ出向することになりました。移管後は陸自ビジネスを行いつつ、航空機エンジンのビジネスを行い、その後、航空自衛隊向けと海上自衛隊向けのビジネスを経験し、今に至りますが、前期で陸自ビジネスに関与していた際、2008年より2年強、欧州住友商事会社(ロンドン)へ転勤する機会を得ることができました。現在は入社時に担っていた陸上自衛隊ビジネスに戻り業務拡大に努めていますが、直前には管理部門の総務部で給与チーム長として給与含む社会労務関連を担うとともに、人事や採用も行うことで別視点から会社を見ることができました。防衛業界について少し触れますが、防衛省自衛隊は陸海空に分かれ、最近は統合幕僚監部なる組織もできましたが、それぞれの組織は統合されて運用されるにはまだまだ時間がかかると言っても過言ではありません。陸海空にはそれぞれの文化や哲学があり、私は語ることはできませんが、海自と空自は艦船や航空機といったAssetベースでの運用に対して、陸自が人ベースでの運用となっています。人が主体の陸自へ最新の装備品が全てに行きわたっていることはなく、殆どの部隊が日々古い装備で訓練を行い、有事に対し120%の準備を行い備えています。最近では国会で防衛予算が元々GDP1%だったものを2%にする方針が決まりましたが、かかる周辺諸国との状況を鑑みると防衛のためにマストとして必要になるものであり、我々はその部分において、防衛省や防衛業界へ貢献するというマインドを以って支援していくこと常としています。ビジネスとしてやっていることもあり、利益を追求しがちになりますが、どんなビジネスにも言えるのですが、必要以上に利益を追求することは業界全体の底上げには繋がらず長続きはしませんので、国内メーカー含めた関係各社と長期に渡りWin-Winの関係性構築ができるよう最善のスキーム作りに努めています。ご参考まで、日々の業務は部署にもよりますが、直接見なければならない直属のチーム員が15名いた際は自分の仕事の時間が取れるのが22時以降であったため、毎日終電でしたが、コロナもあり、在宅勤務に必要な備品も備わっていることから、良いかどうか分かりませんが、事務所以外でも事務所同様の仕事ができる環境になったことで、効率的にはなりました。商社は激務と言いますが、そうかもしれません。しかし、その分得ることが多いことも事実ですし、皆いくつか持たれているであろう夢の実現には近づきやすい部分もあると思いますが、健康あってのことだなと最近は多少気遣うようになりました。 (英Airshowにて) ロンドン駐在時代 担当範囲は欧州であり、現地スタッフとなる部員が独デュッセルドルフにいたため、ほぼ毎週出張をしていました。担う業務は欧州側から日本への日々の輸入業務支援以外に日本からの来訪者や海外メーカーとの面談やアテンドといった業務が主でありますが、冒頭で述べた海外の動向を探り、日本に今必要もしくは中長期的に必要となるであろう技術の情報収集を行っていました。多くは語れないことが残念ですが、駐在時代以外に限らず西側諸国で必要なものが得られない場合は当時中欧と呼ばれたチェコやブルガリアにも訪問しその国経由で各種調整が完了するまで帰国できないということもありました。ロンドンでの生活は当時家内と2人だけだったため、家賃の自腹部分が多くなっても交通が便利かつ安全なエリアを選択しました。場所はゴルゴ13に良く出てくることは知らなかったのですがNew Scotland YardがあるSt. James ParkエリアのFlatを選択しました。家内は一人でいることが多かったため、お金は十分でなくてもせめて中心部まで徒歩圏内の飽きない場所を選択しました。その結果、なんだかんだで、帰国までに食器や家具などがかなり増えましたが、二人でお店のみならず、ほぼ無料の美術館・博物館でデザイン性が良いものを見たりすることで、自然と目が肥えつつ、それを日本からの来訪者が求める場所やお店に連れていき、帰国後に来訪者や来訪者から受け取った彼らの家族が喜んでいたと連絡をいただくことは相互に嬉しいことであり、大したことが無いようにも思えますが、かなり重要な部分の一つでもあり、相互にとって長きに渡り良い思い出になり、今もその方々とお会いすると当時の話で盛り上がっていただけることは嬉しく思います。 (ロンドンでの住まい) 嶌末 真さんとの出会い 防衛業界において先輩や後輩と会う機会は数年前に他商社におられた同級生の1回限りでしたが、一昨年度の2022年にワシントンDCで開催される米陸軍協会の年次総会・展示会となるAUSAへ参加する際、社団法人である日本防衛装備工業会 (JADI)が会員の国内メーカーを集いツアーを企画され、当社もそちらを支援することとなりました。防衛関連ビジネスでは情報管理が厳格な業界ですが、個人情報や経歴等を提出する機会が多く、JADI支援に向けやりとりを行ったところ、JADIの窓口が調査部長である嶌末 真さんでした。1985年卒 (教養学部)ということで同窓かつ大先輩であることが判明しました。嶌末さんは元陸上自衛官であり、パキスタンの防衛駐在官も歴任された方です。自衛官には職種というものがあり、陸自に16種類ある職種で通信となり、その分野では陸自内で非常に有名な方であることを知りました。嶌末先輩と呼ばせていただきますが、お互い同業界で大学の先輩・後輩といった経験が多くない中、狭い業界で一緒に仕事をする機会があったことは何かのご縁と考え、お互いに機会を作り頻繁に会うようになりました。そこで様々な情報交換をさせていただいたことは自身の財産となり、この関係は後輩である私から是非とも継続させていただきたいと考えています。嶌末先輩情報について私がこれ以上勝手に述べることはできませんが、卓球において有名な方であるため、ご興味のある方は卓球経由で嶌末先輩との交流も図っていただければと思います (ちなみに私は卓球ほぼできません)。 (米AUSA2022にて) TIU受験生/在校生へのメッセージ 表題で「恩人への感謝と最後までやり抜く想い」と記載しましたが、それぞれ関係しないようですが繋がりがあるものと思っています。「恩人への感謝」は、その都度お世話になる方へ感謝することですが、その後もその方を忘れることなど一度もありませんし、時折様子を確認させていただいています。「最後までやり抜く想い」とは、たまにあのタイミングで転職していていたらどうなっていたかなと思いますが、一度世話になり育てていただいた所属先を自ら裏切るようなことにはならずに済んでいますが、継続は力なりというモットーでやってきました。確かに、自身にとってより評価してくれる転職先を都度のタイミングで選択される方もおり、それを全く否定するものではありませんが、私自身、生き方が上手くない部分もあることは理解しつつもそれも人生だと思うので、私は一つ一つのことに最大限の力を注ぐようにしています。人間誰しも隣の芝は青く見えたり、今の自分に不満がある部分はあり、難しいですが人と比較しないマインドを持ちつつも、今与えられた仕事や環境に対し、一生懸命向かい様々なことを吸収していくのが若い内は一番だと思いますので、頑張っていって下さい。結びとなりますが、皆様の今後向かわれる分野において成功され、ご家族含め発展されますとともに、東京国際大学の名を世界に広めていかれることを心より祈念しております。 (土谷 恵太郎さんのプロフィール) 1992年浦和学院卒業 1992年東京国際大学 商学部入学 1993年TIUA 1996年東京国際大学 商学部卒業 1996年上松商事㈱入社と同時にニッピンド株式会社へ出向 2000年住商エアロシステム㈱へ転職 2008年欧州住友商事会社(ロンドン)へ転勤 2010年住商エアロシステム㈱へ転勤 2024年各営業部や人事総務部給与チーム長を経験し同社ディフェンスシステム事業第一部 陸上チーム長にて現在に至る TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
人脈は自分を映す鏡
草川 友輝さん(2008年 言語コミュニケーション学部卒業)2024年4月1日現在ニューヨークで会社を設立し、日本の商品をアメリカに広める事業を展開しています。やっと軌道に乗り始めたビジネスですが、平坦な道ではありませんでした。しかし、全ての経験があって今の自分があると強く感じています。私の体験談が少しでも皆さまのご参考になればと考え、僭越ながら寄稿させていただきます。 東京国際大学卒業後は、カンザス州立エンポリア大学大学院で第二言語としての英語教授法TESOLを専攻し、卒業後は経済の中心地であるニューヨークへ移りました。ローカル向けの日系新聞社に就職し、社会人1年生として営業の基礎をここで身につけました。 (エンポリア大学大学院卒業式)(Daily World Press時代)(Daily World Press退職時) ニューヨークで初めての挫折 2年ほど勤めた後に転職を決意しますが、ここで最初の苦難に直面します。転職先から就業開始1週間前に解雇を告げられました。あまりのショックに声が出なくなる症状に見舞われるなど、人生で初めてと言って程の大きな挫折感を味わいました。ビザの問題もあり、一旦は前職に戻りましたが、再度転職を試み、今度はスペイン系の食品輸入会社に採用されました。英語に加え、スペイン語でのコミュニケーションが思った以上に求められる現場で、営業にはある程度の自信があったものの、思うように成果を出せず試用期間3ヶ月で退職に至りました。立て続けに転職に2回も失敗し、自信を失い途方にくれていたタイミングで知人の人材派遣会社の社長から紹介されたのが、その後の私の人生に大きな影響を与えることとなる大手日系問屋のJFCでした。 日本食品をアメリカに JFCでは、日本の食品をアメリカ市場に広めるべく、スーパーマーケットや食料品店、レストランを周り、既存の顧客はもちろん、新規開拓を通して売り上げを伸ばす営業職に従事しました。 3度目の正直で、これ以上は失敗できないと死に物狂いで働きました。営業車に載るだけの商品を積み込み、ニューヨーク州郊外の店舗を朝から晩まで回る日々は、今思い返しても苦しい時期でしたが、当時の支店長が尊敬できる方で、私に信頼を寄せてくれたおかげで、途中で音を上げずに続けることができました。 地道な営業活動で成績を伸ばし、入社から4年後にはマンハッタン区の担当を任されることになりました。最終的には、売り上げ昨対比180%増加を達成し、営業トップの成績を収めるまでに至りました。 海外に出て、日本の良さを再認識するというのはよく聞く話ですが、私もまた、日本の食文化は世界に誇れるものだと、その価値を強く感じています。2度の転職失敗を経て、JFCに入社したことで、アメリカでの日本食市場の可能性を発見し、さらに日本食文化を広げていきたいという自分のキャリアにおける目標が明確になりました。 (JFC International時代に同僚と) 会社設立して奮闘中 以前から、いつかは自分のビジネスを立ち上げたいという漠然とした夢は抱いていたのですが、大手企業での営業経験を積んだことで、キャリアビジョンを具体的に描けるようになりました。JFCは全米最大級を誇る日本食品の卸企業で、商品数は1万品を超えます。営業成績で数字を伸ばせても、次第に満足感や達成感を得られなくなり、もっと商品数を限定し、特定の商品に注力して、売り上げをサポートしたいという思いで、現在の会社設立に至りました。 JFC時代に良好な関係を築いた西海岸に拠点を置く日本酒の輸入業者や、九州の酒造会社をクライアントに迎え、主に営業代行を行いながらビジネスを展開してきました。事業立ち上げ早々パンデミックに見舞われ、軌道に乗せる前に様々な計画が頓挫し、非常に苦しい時期もありましたが、クライアントの支援を得ながら乗り越えることができ今に至ります。今もお世話になっているクライアントに、あの時の恩返しをしたいという思いを原動力に今も奮闘しています。 現在では、ニューヨーク周辺に注力していた営業エリアをオハイオ州、インディアナ州、ケンタッキー州など、まだ日本酒の認知度が低い中西部にまで拡大し、市場の開拓に取り組んでいます。また、営業代行に加え商品の共同開発を手掛けるなど、新しいプロジェクトにも挑戦しています。 (2020年にN.Yで会社設立) (Global Sales Forceの日本顧客の方々と) 大学時代の思い出 私は幼い頃に、親の都合で2年ほどアメリカのカンザス州に住んでいました。2年と言っても0歳から2歳までの間でしたので、その頃の記憶はほとんどないのですが、英語を話せるようになっていつかはアメリカに行ってみたいという思いは常にありました。 進学の際、まずは海外出身の人たちと交流を図れる環境を整えたいと考え、交換留学生が多い東京国際大学を志望しました。言語コミュニケーション学部は新たに設置された学部ということもあり、充実したプログラムを提供しようと、教員の方々が積極的な取り組みをなされている印象を受けました。また、多くの交換留学生との交流を通して、日本にいながら様々な文化を学ぶことができ、大きな刺激をもらいました。 そこで出会った同級生たちとは今でもたまに連絡を取り合う仲で、ヨーロッパで外交官を務めるアリゾナ州出身の友達や、国連職員となったドイツ人の友達など、国際的に活躍する彼らとのつながりを築けた大学時代は大きな財産となっています。 当時の私にアドバイスするのであれば、もっとしっかり勉強して、成績を上げておいた方が良いと伝えたいです。というのも、在学中のGPAが低く、提携校であるアリゾナ大学の交換留学プログラム選考に落ちるという、ほろ苦い経験があるからです。一年後に留学を終えて帰国する同級生たちに、英語力で大きな差をつけられてしまうと思うと非常に悔しく、負けたくないという思いで、学校での勉強に加え、海外ドラマのセリフを暗記したりするなど、必死に英語力向上のために勉強をしたのを覚えています。 今となっては、その時の努力があって今の自分があると思っていますが、あの時に交換留学プログラムに参加できていたら、また違った可能性が広がっていたのかもしれません。 (TIU English Loungeにて) (TIU時代の盟友とワシントンDCで再会) TIU受験生/在校生へのメッセージ 私は、一期一会を心に置き、常に楽しく新しいことに挑戦するというモットーを胸に精進してきました。可能性を広げるためにも、勉強はもちろん大事ですが、それに加えて人との出会い、つながりを育むことも非常に大切だと思っています。人との関わりを通じて、新たな視点や発想を得たり、思わぬチャンスが舞い込んでくることさえあります。私が唯一誇れる長所と言えば、出会いを大切にし、築いてきた素晴らしいネットワーク(人脈)です。 実際、今の私のキャリアは、自分一人のスキルでは達成し得なかったものばかりです。転職に失敗しどん底にいた時に仕事を紹介してくれた知人、営業トップの成績に導いてくれた上司、会社設立当時からパンデミックによる危機的状況を支えてくれていたクライアント。私のキャリアにおける転機は、常に出会った人々がきっかけをくれ、支えてくれました。 出会いを大切にし、人と人を繋ぐ。自分が繋いだ人たちが将来の自分を助けてくれるはずです。「龍馬になれ」という私が掲げている座右の銘で、締めの言葉とさせていただきます。 (草川 友輝さんのプロフィール) 2008年3月東京国際大学言語コミュニケーション学部卒業。2009年に渡米。エンポリア州立大学院にて第二言語としての英語教授法TESOLの学位を取得し、2011年にニューヨークに渡りローカル日系新聞社のDaily World Pressに入社する。その後スペイン系の食品輸入会社Catalon Gourmetを経てキッコーマン傘下の大手日系問屋JFCに入社し、日系マーケットの営業として7年間従事する。2016年〜2018年の2年で営業売上高約180%を達成。2020年1月からGlobal Sales Force代表として本格的に始動開始に至る。 Global Sales Force, Inc.ウェブサイト https://globalsalesforceinc.com/ 2001年津高等学校卒業 2004年東京国際大学 言語コミュニケーション学部入学 2008年卒業 2009年渡米、カンザス州立エンポリア州立大学大学院入学 2011年カンザス州エンポリア州立大学大学院卒業 2011年ニューヨークへ 2011年Y’s Publishing Group 子会社 Daily World Press, Inc入社 2013年Catalan Gourmetへ転職 2013年JFC International へ転職 2020年Global Sales Force, Inc. 設立、 Founder & CEO現在に至る TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
草川 友輝さん(2008年 言語コミュニケーション学部卒業)2024年4月1日現在ニューヨークで会社を設立し、日本の商品をアメリカに広める事業を展開しています。やっと軌道に乗り始めたビジネスですが、平坦な道ではありませんでした。しかし、全ての経験があって今の自分があると強く感じています。私の体験談が少しでも皆さまのご参考になればと考え、僭越ながら寄稿させていただきます。 東京国際大学卒業後は、カンザス州立エンポリア大学大学院で第二言語としての英語教授法TESOLを専攻し、卒業後は経済の中心地であるニューヨークへ移りました。ローカル向けの日系新聞社に就職し、社会人1年生として営業の基礎をここで身につけました。 (エンポリア大学大学院卒業式)(Daily World Press時代)(Daily World Press退職時) ニューヨークで初めての挫折 2年ほど勤めた後に転職を決意しますが、ここで最初の苦難に直面します。転職先から就業開始1週間前に解雇を告げられました。あまりのショックに声が出なくなる症状に見舞われるなど、人生で初めてと言って程の大きな挫折感を味わいました。ビザの問題もあり、一旦は前職に戻りましたが、再度転職を試み、今度はスペイン系の食品輸入会社に採用されました。英語に加え、スペイン語でのコミュニケーションが思った以上に求められる現場で、営業にはある程度の自信があったものの、思うように成果を出せず試用期間3ヶ月で退職に至りました。立て続けに転職に2回も失敗し、自信を失い途方にくれていたタイミングで知人の人材派遣会社の社長から紹介されたのが、その後の私の人生に大きな影響を与えることとなる大手日系問屋のJFCでした。 日本食品をアメリカに JFCでは、日本の食品をアメリカ市場に広めるべく、スーパーマーケットや食料品店、レストランを周り、既存の顧客はもちろん、新規開拓を通して売り上げを伸ばす営業職に従事しました。 3度目の正直で、これ以上は失敗できないと死に物狂いで働きました。営業車に載るだけの商品を積み込み、ニューヨーク州郊外の店舗を朝から晩まで回る日々は、今思い返しても苦しい時期でしたが、当時の支店長が尊敬できる方で、私に信頼を寄せてくれたおかげで、途中で音を上げずに続けることができました。 地道な営業活動で成績を伸ばし、入社から4年後にはマンハッタン区の担当を任されることになりました。最終的には、売り上げ昨対比180%増加を達成し、営業トップの成績を収めるまでに至りました。 海外に出て、日本の良さを再認識するというのはよく聞く話ですが、私もまた、日本の食文化は世界に誇れるものだと、その価値を強く感じています。2度の転職失敗を経て、JFCに入社したことで、アメリカでの日本食市場の可能性を発見し、さらに日本食文化を広げていきたいという自分のキャリアにおける目標が明確になりました。 (JFC International時代に同僚と) 会社設立して奮闘中 以前から、いつかは自分のビジネスを立ち上げたいという漠然とした夢は抱いていたのですが、大手企業での営業経験を積んだことで、キャリアビジョンを具体的に描けるようになりました。JFCは全米最大級を誇る日本食品の卸企業で、商品数は1万品を超えます。営業成績で数字を伸ばせても、次第に満足感や達成感を得られなくなり、もっと商品数を限定し、特定の商品に注力して、売り上げをサポートしたいという思いで、現在の会社設立に至りました。 JFC時代に良好な関係を築いた西海岸に拠点を置く日本酒の輸入業者や、九州の酒造会社をクライアントに迎え、主に営業代行を行いながらビジネスを展開してきました。事業立ち上げ早々パンデミックに見舞われ、軌道に乗せる前に様々な計画が頓挫し、非常に苦しい時期もありましたが、クライアントの支援を得ながら乗り越えることができ今に至ります。今もお世話になっているクライアントに、あの時の恩返しをしたいという思いを原動力に今も奮闘しています。 現在では、ニューヨーク周辺に注力していた営業エリアをオハイオ州、インディアナ州、ケンタッキー州など、まだ日本酒の認知度が低い中西部にまで拡大し、市場の開拓に取り組んでいます。また、営業代行に加え商品の共同開発を手掛けるなど、新しいプロジェクトにも挑戦しています。 (2020年にN.Yで会社設立) (Global Sales Forceの日本顧客の方々と) 大学時代の思い出 私は幼い頃に、親の都合で2年ほどアメリカのカンザス州に住んでいました。2年と言っても0歳から2歳までの間でしたので、その頃の記憶はほとんどないのですが、英語を話せるようになっていつかはアメリカに行ってみたいという思いは常にありました。 進学の際、まずは海外出身の人たちと交流を図れる環境を整えたいと考え、交換留学生が多い東京国際大学を志望しました。言語コミュニケーション学部は新たに設置された学部ということもあり、充実したプログラムを提供しようと、教員の方々が積極的な取り組みをなされている印象を受けました。また、多くの交換留学生との交流を通して、日本にいながら様々な文化を学ぶことができ、大きな刺激をもらいました。 そこで出会った同級生たちとは今でもたまに連絡を取り合う仲で、ヨーロッパで外交官を務めるアリゾナ州出身の友達や、国連職員となったドイツ人の友達など、国際的に活躍する彼らとのつながりを築けた大学時代は大きな財産となっています。 当時の私にアドバイスするのであれば、もっとしっかり勉強して、成績を上げておいた方が良いと伝えたいです。というのも、在学中のGPAが低く、提携校であるアリゾナ大学の交換留学プログラム選考に落ちるという、ほろ苦い経験があるからです。一年後に留学を終えて帰国する同級生たちに、英語力で大きな差をつけられてしまうと思うと非常に悔しく、負けたくないという思いで、学校での勉強に加え、海外ドラマのセリフを暗記したりするなど、必死に英語力向上のために勉強をしたのを覚えています。 今となっては、その時の努力があって今の自分があると思っていますが、あの時に交換留学プログラムに参加できていたら、また違った可能性が広がっていたのかもしれません。 (TIU English Loungeにて) (TIU時代の盟友とワシントンDCで再会) TIU受験生/在校生へのメッセージ 私は、一期一会を心に置き、常に楽しく新しいことに挑戦するというモットーを胸に精進してきました。可能性を広げるためにも、勉強はもちろん大事ですが、それに加えて人との出会い、つながりを育むことも非常に大切だと思っています。人との関わりを通じて、新たな視点や発想を得たり、思わぬチャンスが舞い込んでくることさえあります。私が唯一誇れる長所と言えば、出会いを大切にし、築いてきた素晴らしいネットワーク(人脈)です。 実際、今の私のキャリアは、自分一人のスキルでは達成し得なかったものばかりです。転職に失敗しどん底にいた時に仕事を紹介してくれた知人、営業トップの成績に導いてくれた上司、会社設立当時からパンデミックによる危機的状況を支えてくれていたクライアント。私のキャリアにおける転機は、常に出会った人々がきっかけをくれ、支えてくれました。 出会いを大切にし、人と人を繋ぐ。自分が繋いだ人たちが将来の自分を助けてくれるはずです。「龍馬になれ」という私が掲げている座右の銘で、締めの言葉とさせていただきます。 (草川 友輝さんのプロフィール) 2008年3月東京国際大学言語コミュニケーション学部卒業。2009年に渡米。エンポリア州立大学院にて第二言語としての英語教授法TESOLの学位を取得し、2011年にニューヨークに渡りローカル日系新聞社のDaily World Pressに入社する。その後スペイン系の食品輸入会社Catalon Gourmetを経てキッコーマン傘下の大手日系問屋JFCに入社し、日系マーケットの営業として7年間従事する。2016年〜2018年の2年で営業売上高約180%を達成。2020年1月からGlobal Sales Force代表として本格的に始動開始に至る。 Global Sales Force, Inc.ウェブサイト https://globalsalesforceinc.com/ 2001年津高等学校卒業 2004年東京国際大学 言語コミュニケーション学部入学 2008年卒業 2009年渡米、カンザス州立エンポリア州立大学大学院入学 2011年カンザス州エンポリア州立大学大学院卒業 2011年ニューヨークへ 2011年Y’s Publishing Group 子会社 Daily World Press, Inc入社 2013年Catalan Gourmetへ転職 2013年JFC International へ転職 2020年Global Sales Force, Inc. 設立、 Founder & CEO現在に至る TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
TIUの自立精神を貫き、二ューヨークで不動産業を45年
山本正俊さん (1979年商学部卒業 山岡春夫ゼミ 秋霞祭)2024年3月1日日系俳優で人権活動家のジョージ・タケイ氏(映画「スタートレック」に出演)がグランドマーシャルとしてオープンカーで先頭を誘導し、続いて我々「ほくほく会」(東日本大震災被災地の東北6県と北海道の県人会)が、22人で巨大な日の丸を掲げパレードの先頭を歩きました。NY秋田県人会会長の私がこの会のリーダー役でした。私は日本の国旗に向かって左端に、娘の美喜はその隣で、巨大な国旗を引っ張って行進しました。 コロナ禍3年ぶりの開催となる「ジャパン・デー」は、その名前を第一回「ジャパン・パレード」に変更し、2022年5月14日、日系団体やグループを中心に90団体、2400人余りがセントラルパーク・ウエスト81丁目から68丁目を大行進しました。沿道に2万人ものニューヨーク市民が詰めかけ、大変な盛り上がりとなりました。 「ジャパン・パレードは1872年に、岩倉具視使節団の来米150年を記念して開催されました。ニューヨークで日本人がこれだけの大規模なパレードを開催するのは実に162年ぶり。最初のパレードは徳川幕府が1860年にワシントンDCに派遣した万延元年遣米使節団で、この時は80人の侍がNYのブロードウェイを練り歩きました。 (日系俳優で人権活動家のジョージ・タケイ氏(左)と) (パレードに参加した東北6県と北海道の県人会「ほくほく会」の皆さんと「ほくほく会」は毎年NYで過去13年間「3.11追悼式」を行ってきました) NY秋田県人会兼秋田酒クラブが利き酒会開催 我々秋田酒クラブは日本の文化と銘酒の紹介と称して、13年前からニューヨーカー並びに駐在員や在住の日本人を対象に「利き酒会を開催してきました。 2019年5月「春の利き酒会」では日本全国の銘酒56銘柄を選び、日系人会館にて参加者の皆さんに試飲をしていただきました。また、秋田名物「燻りがっこ、ちょろぎ」の漬物、「モッツァレラチーズの味噌漬け」「秋田味噌豆腐」「だし巻き卵」「地鶏の竜田揚」〆に「稲庭うどん」をお出ししました。 当日は秋田県羽後町の西馬音内に伝わり、700年以上の歴史がある第一号重要無形民俗文化財指定且つ世界遺産に登録された「西馬音内盆踊り」が披露されました。参加者も和気あいあいと踊りの輪に加わり、ほろ酔いかげんで会場を後にしました。 (2019年5月秋田酒クラブの主催者集合写真)(利き酒会) (120名が参加した大盛況の利き酒会)(流麗な西馬音内盆踊り) 大学生時代の思い出 私は大学の学生時代にアルバイトに専念していた記憶があります。試験は大抵一夜付けでした。大きな影響を受けた教授は「同時通訳の神様」と呼ばれ且つ文化人類学を教えていた国弘正雄先生と政治学の浅野輔先生です。国弘先生がアポロ11号の月面での作業の様子を同時通訳したシーンは、今でも鮮明に覚えています。また、浅野先生のニュースキャスターとしてのご活躍ぶりもテレビで時々拝見しました。 学生時代に授業で会計や簿記をしぶしぶ勉強しましたが、ニューヨーク駐在時に経理や決算まで担当させられたので、非常に役に立ちました。 卒業後は興和不動産本社に入社、同年にニューヨーク支店に転勤 1979年3月卒業後は興和不動産(日鉄興和不動産)東京本社海外事業部に入社。同年7月、現法の興和アメリカへ転勤。不動産鑑定士コース修了、ニューヨーク州公認不動産ブローカーライセンスを取得しました。 業務内容は約130件の戸建て住宅やコンドミニアム(マンション)並びに開発用地の買収(75憶円相当)。これらの物件の賃貸管理、売買を行いながら資金運用業務を担当し、最後には経験のない決算まで担当する指示を受けたお陰で、駐在3年で全ての業務を「たたき上げ」でこなせるようになりました。NY赴任初日に夕食を食べたのは夜中の1時頃で、オフィスの近所のブラッセリ―と言うフレンチの居酒屋でした。この生活が1ヶ月続きました。 興和不動産が1984年にマンハッタンのミッドタウン・イーストに35階建てのオフィスビルを購入し、私はビルの運営、管理、リーシング業務を担当しました。そして、5年後に念願のBOMA(Building Owners’ and Managers’ Association)ビルディング協会から日系企業で初の「THE 1989 OPERATING OFFICE BUILDING OF THE YEAR AWARD」を受賞しました。オフィスビルの管理運営及びテナントとの関係が最良のビルを所有している企業に与えられる賞となります。 (BOMAの賞に関する記事とビバリー・ヒルズのロディオドライブの記事) 1996年に独立して「サンポップ・インターナショナル・コーポレーション」を設立 日系企業によるマンハッタンへの不動産投資が1985年から活発化し1990年にピークを迎えました。日系企業を中心に集中豪雨のように投資した結果、売買価格が高騰し高値買いが始まりました。そして、ニューヨークの景気が1990年から悪化し1995年に底に達した頃、日本の景気も低迷しており、購入した物件は安値でないと売却できない市場へと変動していきました。 1996年に入りニューヨークの景気が徐々に回復し始めたころ、駐在16年目に、本社から帰国命令が出ました。帰国しても「浦島太郎で日本では役に立たないと説明し、形の上では円満退職となりました。 同年11月に独立しSun Pop International Corporationを立ち上げました。独立後最初に着手したのは、日本人の不動産ブローカー会社が積極的に行っていない日本からのレストランの出店のお手伝いです。これまで40社以上のレストランに開店していただきました。店舗スペースをご案内し、リース契約を締結後に、煙突、ガス、リカーライセンスを取得してから問題なく開業するまでに、様々なトラブルが頻繁に起きました。 (ニューヨークの商業不動産並びに住宅不動産の仲介斡旋、商業・住宅不動産の管理業務、資金運用などのサービスを提供) 日本クラブで、バハマ諸島紹介セミナーを開催 1998年10月14日に日本クラブで、バハマ諸島紹介セミナーを開催した時の写真と感謝状です。当時知人であった、バハマのNY 総領事、大使のDr. Doswell C. Coakley (コークレイ)から依頼を受け、当時日本の親善大使であったSir Sidney Poitier(シドニー・ポワチエ)、Ambassador to Japan (黒人で初めてアカデミー賞を受賞した映画俳優、監督)がNY在住の日本人にバハマ諸島を紹介したいとの希望があり、セミナーを開催しました。会場には約200人の日本人が集まり、夕食とセミナーを楽しみ、最後は日本往復チケットが当たるラッフルで盛り上がりました。 (当時の日本親善大使Sidneyさんのスピーチ)(抽選会、Sidneyさんと大使夫人) (写真に向かって私の右側がSidneyさん、左側が大使のCoakleyさん)(セミナー開催の感謝状) お客様に信頼頂ける「ベスト・サービス」 サンポップ・インターナショナル・コーポレーションは、1996年創設以来、ニューヨークの日本企業及び駐在員、在住日本人と投資家の皆様に不動産業務を通じてサービスを提供させて頂いております。 不動産業界で45年の豊富な経験があり、興和不動産ニューヨーク駐在時代の16年間には、商業不動産及び住宅のオーナー業務を担当し、賃貸管理並びに資産管理に従事すると共に、レストランスペース、店舗、事務所などの仲介斡旋、物件評価、税務のコンサルティング等、幅広く手掛けてまいりました。 弊社設立後も、その経験を土台に商業不動産の仲介には、事務所、店舗の賃貸、ホテルなどの収益物件売買もあります。オーナーとテナント双方の立場と考え方を熟知した上で、皆様のご要望にあった「ベスト・サービス」の提供に務め、多くの取引を成立させる事ができました。今後も日本と米国の架け橋として皆様のお役に立てるよう、最善を尽くす所存です。 「郷に入っては郷に従え」 フランス人は敢えてフランス語しか話さないし、夏休暇は2ケ月しっかりとります。階級制が確立されているため、その社会に入れないとハイエンドの不動産を購入することができません。イギリス人も同様で、プライドが高いせいか外国人に中々心を開きません。それに比べアメリカ人の本音は別でしょうが、一般に気さくで明るく対応してくれるし、いやな仕事も頼めばやってくれますが、フランス人は絶対にやろうとしません。外国で仕事をするなら、その国の人と習慣を尊重し、理解した上で善処しなければなりません。 また、海外駐在として送り込む人材は語学力より、ガッツがあり仕事ができる人材を優先することをお勧めしたいと思います。 (山本正俊/Mike Yamamotoさんのプロフィール) 秋田県出身 県立小坂高校卒 1979年3月国際商科大学(現東京国際大学)商学部卒業 山岡ゼミ 秋霞祭クラブ 1979年4月興和不動産東京本社に入社。同年興和アメリカへ転勤。不動産鑑定士コース修了、ニューヨーク州公認不動産ブローカー・ライセンス取得。 1996年独立「サンポップ・インターナショナル・コーポレーション」を設立。在米45 年。会社経営の傍ら、2001年から住宅新報社の月刊「不動産鑑定」へ寄稿すると共に同誌のニューヨーク通信欄現地企画責任者も務める。 著書「米国の不動産知識A to Z」住宅新報社刊など。 REBNY (ニューヨーク不動産協会)、HGARリアルター、CCIM協会、日本クラブ、日系人会、ジャパン・ソサエティー他会員 Sun Pop International Corporation 211 East 43rd Street, Suite 1103, New York, NY 10017 USA Tel: 212-682-4393 https://sunpopnyc.com/ E-mail: yamamoto@sunpopnyc.comCell: 917-690-6192 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
山本正俊さん (1979年商学部卒業 山岡春夫ゼミ 秋霞祭)2024年3月1日日系俳優で人権活動家のジョージ・タケイ氏(映画「スタートレック」に出演)がグランドマーシャルとしてオープンカーで先頭を誘導し、続いて我々「ほくほく会」(東日本大震災被災地の東北6県と北海道の県人会)が、22人で巨大な日の丸を掲げパレードの先頭を歩きました。NY秋田県人会会長の私がこの会のリーダー役でした。私は日本の国旗に向かって左端に、娘の美喜はその隣で、巨大な国旗を引っ張って行進しました。 コロナ禍3年ぶりの開催となる「ジャパン・デー」は、その名前を第一回「ジャパン・パレード」に変更し、2022年5月14日、日系団体やグループを中心に90団体、2400人余りがセントラルパーク・ウエスト81丁目から68丁目を大行進しました。沿道に2万人ものニューヨーク市民が詰めかけ、大変な盛り上がりとなりました。 「ジャパン・パレードは1872年に、岩倉具視使節団の来米150年を記念して開催されました。ニューヨークで日本人がこれだけの大規模なパレードを開催するのは実に162年ぶり。最初のパレードは徳川幕府が1860年にワシントンDCに派遣した万延元年遣米使節団で、この時は80人の侍がNYのブロードウェイを練り歩きました。 (日系俳優で人権活動家のジョージ・タケイ氏(左)と) (パレードに参加した東北6県と北海道の県人会「ほくほく会」の皆さんと「ほくほく会」は毎年NYで過去13年間「3.11追悼式」を行ってきました) NY秋田県人会兼秋田酒クラブが利き酒会開催 我々秋田酒クラブは日本の文化と銘酒の紹介と称して、13年前からニューヨーカー並びに駐在員や在住の日本人を対象に「利き酒会を開催してきました。 2019年5月「春の利き酒会」では日本全国の銘酒56銘柄を選び、日系人会館にて参加者の皆さんに試飲をしていただきました。また、秋田名物「燻りがっこ、ちょろぎ」の漬物、「モッツァレラチーズの味噌漬け」「秋田味噌豆腐」「だし巻き卵」「地鶏の竜田揚」〆に「稲庭うどん」をお出ししました。 当日は秋田県羽後町の西馬音内に伝わり、700年以上の歴史がある第一号重要無形民俗文化財指定且つ世界遺産に登録された「西馬音内盆踊り」が披露されました。参加者も和気あいあいと踊りの輪に加わり、ほろ酔いかげんで会場を後にしました。 (2019年5月秋田酒クラブの主催者集合写真)(利き酒会) (120名が参加した大盛況の利き酒会)(流麗な西馬音内盆踊り) 大学生時代の思い出 私は大学の学生時代にアルバイトに専念していた記憶があります。試験は大抵一夜付けでした。大きな影響を受けた教授は「同時通訳の神様」と呼ばれ且つ文化人類学を教えていた国弘正雄先生と政治学の浅野輔先生です。国弘先生がアポロ11号の月面での作業の様子を同時通訳したシーンは、今でも鮮明に覚えています。また、浅野先生のニュースキャスターとしてのご活躍ぶりもテレビで時々拝見しました。 学生時代に授業で会計や簿記をしぶしぶ勉強しましたが、ニューヨーク駐在時に経理や決算まで担当させられたので、非常に役に立ちました。 卒業後は興和不動産本社に入社、同年にニューヨーク支店に転勤 1979年3月卒業後は興和不動産(日鉄興和不動産)東京本社海外事業部に入社。同年7月、現法の興和アメリカへ転勤。不動産鑑定士コース修了、ニューヨーク州公認不動産ブローカーライセンスを取得しました。 業務内容は約130件の戸建て住宅やコンドミニアム(マンション)並びに開発用地の買収(75憶円相当)。これらの物件の賃貸管理、売買を行いながら資金運用業務を担当し、最後には経験のない決算まで担当する指示を受けたお陰で、駐在3年で全ての業務を「たたき上げ」でこなせるようになりました。NY赴任初日に夕食を食べたのは夜中の1時頃で、オフィスの近所のブラッセリ―と言うフレンチの居酒屋でした。この生活が1ヶ月続きました。 興和不動産が1984年にマンハッタンのミッドタウン・イーストに35階建てのオフィスビルを購入し、私はビルの運営、管理、リーシング業務を担当しました。そして、5年後に念願のBOMA(Building Owners’ and Managers’ Association)ビルディング協会から日系企業で初の「THE 1989 OPERATING OFFICE BUILDING OF THE YEAR AWARD」を受賞しました。オフィスビルの管理運営及びテナントとの関係が最良のビルを所有している企業に与えられる賞となります。 (BOMAの賞に関する記事とビバリー・ヒルズのロディオドライブの記事) 1996年に独立して「サンポップ・インターナショナル・コーポレーション」を設立 日系企業によるマンハッタンへの不動産投資が1985年から活発化し1990年にピークを迎えました。日系企業を中心に集中豪雨のように投資した結果、売買価格が高騰し高値買いが始まりました。そして、ニューヨークの景気が1990年から悪化し1995年に底に達した頃、日本の景気も低迷しており、購入した物件は安値でないと売却できない市場へと変動していきました。 1996年に入りニューヨークの景気が徐々に回復し始めたころ、駐在16年目に、本社から帰国命令が出ました。帰国しても「浦島太郎で日本では役に立たないと説明し、形の上では円満退職となりました。 同年11月に独立しSun Pop International Corporationを立ち上げました。独立後最初に着手したのは、日本人の不動産ブローカー会社が積極的に行っていない日本からのレストランの出店のお手伝いです。これまで40社以上のレストランに開店していただきました。店舗スペースをご案内し、リース契約を締結後に、煙突、ガス、リカーライセンスを取得してから問題なく開業するまでに、様々なトラブルが頻繁に起きました。 (ニューヨークの商業不動産並びに住宅不動産の仲介斡旋、商業・住宅不動産の管理業務、資金運用などのサービスを提供) 日本クラブで、バハマ諸島紹介セミナーを開催 1998年10月14日に日本クラブで、バハマ諸島紹介セミナーを開催した時の写真と感謝状です。当時知人であった、バハマのNY 総領事、大使のDr. Doswell C. Coakley (コークレイ)から依頼を受け、当時日本の親善大使であったSir Sidney Poitier(シドニー・ポワチエ)、Ambassador to Japan (黒人で初めてアカデミー賞を受賞した映画俳優、監督)がNY在住の日本人にバハマ諸島を紹介したいとの希望があり、セミナーを開催しました。会場には約200人の日本人が集まり、夕食とセミナーを楽しみ、最後は日本往復チケットが当たるラッフルで盛り上がりました。 (当時の日本親善大使Sidneyさんのスピーチ)(抽選会、Sidneyさんと大使夫人) (写真に向かって私の右側がSidneyさん、左側が大使のCoakleyさん)(セミナー開催の感謝状) お客様に信頼頂ける「ベスト・サービス」 サンポップ・インターナショナル・コーポレーションは、1996年創設以来、ニューヨークの日本企業及び駐在員、在住日本人と投資家の皆様に不動産業務を通じてサービスを提供させて頂いております。 不動産業界で45年の豊富な経験があり、興和不動産ニューヨーク駐在時代の16年間には、商業不動産及び住宅のオーナー業務を担当し、賃貸管理並びに資産管理に従事すると共に、レストランスペース、店舗、事務所などの仲介斡旋、物件評価、税務のコンサルティング等、幅広く手掛けてまいりました。 弊社設立後も、その経験を土台に商業不動産の仲介には、事務所、店舗の賃貸、ホテルなどの収益物件売買もあります。オーナーとテナント双方の立場と考え方を熟知した上で、皆様のご要望にあった「ベスト・サービス」の提供に務め、多くの取引を成立させる事ができました。今後も日本と米国の架け橋として皆様のお役に立てるよう、最善を尽くす所存です。 「郷に入っては郷に従え」 フランス人は敢えてフランス語しか話さないし、夏休暇は2ケ月しっかりとります。階級制が確立されているため、その社会に入れないとハイエンドの不動産を購入することができません。イギリス人も同様で、プライドが高いせいか外国人に中々心を開きません。それに比べアメリカ人の本音は別でしょうが、一般に気さくで明るく対応してくれるし、いやな仕事も頼めばやってくれますが、フランス人は絶対にやろうとしません。外国で仕事をするなら、その国の人と習慣を尊重し、理解した上で善処しなければなりません。 また、海外駐在として送り込む人材は語学力より、ガッツがあり仕事ができる人材を優先することをお勧めしたいと思います。 (山本正俊/Mike Yamamotoさんのプロフィール) 秋田県出身 県立小坂高校卒 1979年3月国際商科大学(現東京国際大学)商学部卒業 山岡ゼミ 秋霞祭クラブ 1979年4月興和不動産東京本社に入社。同年興和アメリカへ転勤。不動産鑑定士コース修了、ニューヨーク州公認不動産ブローカー・ライセンス取得。 1996年独立「サンポップ・インターナショナル・コーポレーション」を設立。在米45 年。会社経営の傍ら、2001年から住宅新報社の月刊「不動産鑑定」へ寄稿すると共に同誌のニューヨーク通信欄現地企画責任者も務める。 著書「米国の不動産知識A to Z」住宅新報社刊など。 REBNY (ニューヨーク不動産協会)、HGARリアルター、CCIM協会、日本クラブ、日系人会、ジャパン・ソサエティー他会員 Sun Pop International Corporation 211 East 43rd Street, Suite 1103, New York, NY 10017 USA Tel: 212-682-4393 https://sunpopnyc.com/ E-mail: yamamoto@sunpopnyc.comCell: 917-690-6192 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
海外ビジネスでお世話になった皆さんに感謝を込めて
小林正幸さん(1982年/14期卒業 商学部 加藤ゼミ 少林寺拳法部)2024年1月1日東京での 13 年間の単身赴任生活を終え、郷里札幌に戻ったある日、霞会東京国際大学同窓会札幌支部支部長の遠藤さんから OB 会の開催案内をいただき、はじめての参加で、41 年前の記憶との再会が、私の寄稿文の紹介に繋がります。還暦も過ぎ年金生活の年齢であるものの、好奇心旺盛な私は、北海道で通信環境の悪い地域でラストワンマイルを構築する会社に転職しました。思えば、幼い頃に父から外国語に触れる環境を作ってもらい、興味を持ち、国際商科大学の門を叩き、貿易商社に入社し、アメリカ、ヨーロッパを中心に、輸出入に携わる経験を積んできたことはかけがえのない人生経験となり現在に至っています。仕事を通して出会った素晴らしい製品はもとより、何よりも取引によって培った諸外国の方々と接したことは、私の人生の大きな糧になったことは言うまでもありません。今こうして寄稿文作成のタイプを進めているあいだも、これまでお世話になった皆さんの顔が脳裏に浮かび上がります。 国際商科大学入学地方公務員だった山梨県出身の父の仕事の関係で、ほぼ 3 年周期で私の生活環境が変わりました。母が若かった頃に、転勤先で梱包物の段ボールを開けることなく、次の赴任地に転勤したことを聞かされたことがあるほど、父は北海道で土地改良の仕事に没頭していました。札幌で生まれた私は、物心つく小学校入学まで石狩郡当別町で生活し、その後、根室と函館で小学校、岩見沢で中学校、そして紋別で高校生活を過ごし、国際商科大学へ進学しました。負けず嫌いの性格もあり、転校先の積極的なコミュニケーションによって友達関係で苦労した記憶がなく、むしろ環境の変化を楽しんだことが海外への興味へと繋がりました。 大学4年生 少林寺拳法部道場にて 北海道から国際商科大学への入学した私は、海外への扉が広がることの期待を胸に大学生活をはじめました。上京後の生活拠点は大学近くの「学生の家」でした。平屋建てで食堂があり、夕食がついている事が魅力でした。この「学生の家」への入居が私の大学生活を一変させることになります。引っ越し荷物が到着する前に先輩からの歓迎会があり、人生で初めて酒に酔った自分を知りました。お酒との付き合いは、その後卒業まで続くことになります。「学生の家」の住居人は体育会系がほぼ全て、剣道部、躰道部、バレーボール部、そして少林寺拳法部の学生が生活しており、大学の体育会運動部の怖さを知らなかった私は、少林寺拳法部入部という無謀な行動に出ます。4 年間の大学生活は、今では後悔するほど、学業二の次に少林寺拳法に打ち込むことになりました。少林寺拳法部との出会いは、私の人生に影響を与えるまでになり、大学卒業後も都内の深川道院(少林寺拳法では道場を道院といいます)に通い、初野先生にご指導をいただきながら昇段をさせていただきました。3 学年からは加藤ゼミで商法を学び、自慢できる成績は得られませんでしたが、英語学習の興味はなくならず、大学の視聴覚室でヘッドフォンから流れてくる英語に体育会の喧騒から逃れ、安堵を覚えた記憶があります。 商社入社と海外デビュー 新日本コンマース株式会社(現・味の素トレーディング(株))は就職課に紹介いただき入社しました。味の素の 100%出資の子会社で、味の素未開の地の開拓を担い、味の素製品のほか、新事業として医療機器の輸出を手掛けていました。入社後、業務部に配属になり、味の素が輸出する製品の書類作成を手掛けました。出荷伝票の作成から、輸出申告書、INVOICE、PACKING LISTを作成し、信用状に基づく買取書類の作成まで、一連の作業を手掛けました。この貿易実務を OJTで手掛けた知識は為替相場の重要性も含め、その後の私の商社マンとして大きな経験になりました。輸出業務の仕事は 3 年間担当し 4 年目から医療機輸出部門に移動となりました。この部署は私が入社以来、興味を持っていた部署でベンチャービジネス構築を行う部署です。眼科・眼鏡に特化した日本製の顕微鏡の輸出をする仕事で、海外諸国に代理店を作り面的に事業展開すること がミッションです。私はアメリカと中南米の担当となり、早速取引先とのコミュニケーションを取ることになります。その頃の海外とのコミュニケーションは、今では考えられませんが国際郵便とテレックスという電報です。まもなくファックス通信が始まり、ワードプロセッサーの登場とコンピューターの登場によってコミュニケーションのスピードが格段に上がり、時代が大きく変化したことを実感しました。 初めての海外出張はアメリカのサンフランシスコでした。オハイオ州コロンバス本社代理店のBURTON 社が出展した国際眼科学会併設の展示会へのアテンドです。展示会中は全米はもとよりヨーロッパや中南米からも代理店が渡米するため、アメリカで効率的に商談を進める事が目的です。英会話にはある程度の自信がありましたが、はじめての渡米の雰囲気に飲まれていた私は、専門用語が全く理解できず、同行した先輩社員に事細く要点を聞き直し、自分の実力のなさに悔しい思いをしたことを覚えています。その後の多くの出張を通して、北米・中南米の代理店スタッフとのプライベートの時間を通して信頼関係を築いていきました。国境を隔てて素晴らしい人間関係を築くことは海外ビジネスの醍醐味でした。 なにも不満もなく新日本コンマースで社会人生活を過ごしていた私は、10 年後に転職することになります。帰宅途中に駅の売店でたまたま目にした求人誌の表紙に書かれた「北海道で海外ビジネスを」に心を揺さぶられました。そして1992 年に北海フォードトラクター株式会社(現・日本ニューホランド株式会社:通称 HFT)に転職することになります。この会社は米国 Ford と芝本産業株式会社のジョイントベンチャーで、大型トラクターをはじめコンバインや各種作業機を直接輸入し、国内の自社店舗を通じて農業生産者の皆さんに製品を納めサービスをする事がミッションの企業です。農業従事者が減少する中、北海道をはじめ全国各地で農業基盤の拡大が進み、農作業の大型化が進みました。 HFT に入社まもなく私は、新規事業を任され商品開発を手掛けました。ネイティブレベルのコミュニケーションができる HFT 社長のビジネスマインドを通して、仕事の完成度の高さと完璧を求める重要性を学びました。様々な商品のビジネスチャンスを模索するなか、アメリカペンシルバニア州のメーカーが手掛ける「バキューホイスト(吸引力を通して重量物を搬送する機械)」の輸入を手掛けました。この製品は稲作生産者が袋詰めする 30kg のコメ袋を移動する作業に活躍しました。人間関係は面白いもので、この製品をアメリアでマネージメントしていた担当者が突然、退職し新事業を始めたと聞き、HFT社長と彼のビジネスを見に行ったことが、次の商品開発につながります。ツインパススリングという超軽量スリングで、ワイヤーロープに比べ作業効率が格段に良くなることが特徴の製品です。この製品の販売は、HFT の親会社、芝本産業株式会社が手掛け、原子力発電所や重電メーカー、電力会社、自動車メーカーで、現在も活躍しています。 2010 年から芝本産業株式会社に籍を置き、新規事業の立案とインキュベートを手掛けました。様々な媒体やインターネットを駆使しドローンと出会います。シリコンバレーのスタートアップ 3D Robotics との出会いです。社長のクリスアンダーソンは、元 Forbs の編集長で、スマートフォンの普及に伴う構成部品のコスト削減により、空飛ぶコンピューター、ドローンが様々な業界に一石を投じることを見越していました。ベイエリアの公園でデモンストレーションを見せてもらい、スマートフォンに表示される地図にフライト範囲を指でなぞるだけで、瞬く間に視界から消え、数分後に同じ場所に戻ってくるドローンに、鳥肌が立ち完全に魅了されました。 ドローン黎明期に着手したビジネスを通して、インテル創業者マイケル・ゴードンが唱える「ムーアの法則」を実感し、技術開発の速さに危機感を覚えながらドローンビジネスに没頭しました。ドローンは空飛ぶスマートフォン化することを見越してたクリスはハードウェアの生産と並行し、ドローンで収集する画像データを立体的な 3 次元の点群データをクラウド環境で自動的に構築するソフトウェア Site Scan の開発を手掛けていました。Site Scan は日本では大手ゼネコンはじめ土木現場の土量計算や測量、日々変化する現場作業の進捗管理で活躍しています。このドローンと点群データ作成ソフトウェアの技術は、人工衛星による正確な GNSS 測位技術の広がりに拍車をかけ現在に至ります。ドローンの活躍は、今では皆さもご承知の通りで、この流れを見越していた 3DR スタッフと日本市場の開拓を手掛けた経験は、ビジネス以上の関係に至りました。 東京での単身赴任生活は、気がつくと 13 年になっていました。会社では若手がマネージメントで活躍するなか、退職を決意し郷里に戻りました。タイミングよく株式会社インターネットイニシアティブ(IIJ)と出会い、同社が手掛ける IoT 事業、なかでもアグリビジネスの展開を手がけています。冒頭で触れたラストワンマイルの環境構築です。IIJ は日本ではじめて事業レベルのインターネットビジネスに着手し急成長した会社で SI や MVNO で有名な企業です。LTE 環境が主要都市では整備されているものの、電波の不感地帯は地方では多く存在します。農業の現場ではトラクターをはじめ機械の自動化が進み、GPS など人工衛星からの位置情報を受信し自動でトラクターが圃場で活躍する環境になっています。一方 GPS などの信号をトラクターで受信するためにはLTE 電波が必要なため不感地帯では最新技術を使う事ができません。IIJ では、農林水産省が力を入れている情報通信環境整備対策事業を通して、全国様々な地域で LPWA 技術を構築し、水田の水管理をはじめ、気象、獣害対策などで用いるセンサーを駆使し、LTE 環境からネットワークにつなぎクラウドで情報を管理する技術の普及を手掛けています。 いまだに海外ビジネスへの興味はなくならず、インターネットの高速化でビジネス環境が身近になったことを背景にチャンスがあれば貿易の仕事に携わりたいと考えています。 (小林正幸さんプロフィール) 1982年3月 国際商科大学 商学部商学科卒業 加藤ゼミ 少林寺拳法部 1982年4月 新日本コンマース株式会社(現味の素トレーディング)入社 貿易実務・医療機器輸出 1992年1月 日本ニューホランド株式会社 事業開発(真空吸引搬送機器・ツインパススリング輸入販売) 2010年4月 芝本産業株式会社 事業開発部 事業開発(ドローン・ソフトウェア輸入販売) 2023年5月 株式会社インターネットイニシアティブ IoT 事業部アグリ事業推進室(札幌支店) 札幌支店 情報通信環境整備事業(LPWA ラストワンマイル展開) 現在に至る TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
小林正幸さん(1982年/14期卒業 商学部 加藤ゼミ 少林寺拳法部)2024年1月1日東京での 13 年間の単身赴任生活を終え、郷里札幌に戻ったある日、霞会東京国際大学同窓会札幌支部支部長の遠藤さんから OB 会の開催案内をいただき、はじめての参加で、41 年前の記憶との再会が、私の寄稿文の紹介に繋がります。還暦も過ぎ年金生活の年齢であるものの、好奇心旺盛な私は、北海道で通信環境の悪い地域でラストワンマイルを構築する会社に転職しました。思えば、幼い頃に父から外国語に触れる環境を作ってもらい、興味を持ち、国際商科大学の門を叩き、貿易商社に入社し、アメリカ、ヨーロッパを中心に、輸出入に携わる経験を積んできたことはかけがえのない人生経験となり現在に至っています。仕事を通して出会った素晴らしい製品はもとより、何よりも取引によって培った諸外国の方々と接したことは、私の人生の大きな糧になったことは言うまでもありません。今こうして寄稿文作成のタイプを進めているあいだも、これまでお世話になった皆さんの顔が脳裏に浮かび上がります。 国際商科大学入学地方公務員だった山梨県出身の父の仕事の関係で、ほぼ 3 年周期で私の生活環境が変わりました。母が若かった頃に、転勤先で梱包物の段ボールを開けることなく、次の赴任地に転勤したことを聞かされたことがあるほど、父は北海道で土地改良の仕事に没頭していました。札幌で生まれた私は、物心つく小学校入学まで石狩郡当別町で生活し、その後、根室と函館で小学校、岩見沢で中学校、そして紋別で高校生活を過ごし、国際商科大学へ進学しました。負けず嫌いの性格もあり、転校先の積極的なコミュニケーションによって友達関係で苦労した記憶がなく、むしろ環境の変化を楽しんだことが海外への興味へと繋がりました。 大学4年生 少林寺拳法部道場にて 北海道から国際商科大学への入学した私は、海外への扉が広がることの期待を胸に大学生活をはじめました。上京後の生活拠点は大学近くの「学生の家」でした。平屋建てで食堂があり、夕食がついている事が魅力でした。この「学生の家」への入居が私の大学生活を一変させることになります。引っ越し荷物が到着する前に先輩からの歓迎会があり、人生で初めて酒に酔った自分を知りました。お酒との付き合いは、その後卒業まで続くことになります。「学生の家」の住居人は体育会系がほぼ全て、剣道部、躰道部、バレーボール部、そして少林寺拳法部の学生が生活しており、大学の体育会運動部の怖さを知らなかった私は、少林寺拳法部入部という無謀な行動に出ます。4 年間の大学生活は、今では後悔するほど、学業二の次に少林寺拳法に打ち込むことになりました。少林寺拳法部との出会いは、私の人生に影響を与えるまでになり、大学卒業後も都内の深川道院(少林寺拳法では道場を道院といいます)に通い、初野先生にご指導をいただきながら昇段をさせていただきました。3 学年からは加藤ゼミで商法を学び、自慢できる成績は得られませんでしたが、英語学習の興味はなくならず、大学の視聴覚室でヘッドフォンから流れてくる英語に体育会の喧騒から逃れ、安堵を覚えた記憶があります。 商社入社と海外デビュー 新日本コンマース株式会社(現・味の素トレーディング(株))は就職課に紹介いただき入社しました。味の素の 100%出資の子会社で、味の素未開の地の開拓を担い、味の素製品のほか、新事業として医療機器の輸出を手掛けていました。入社後、業務部に配属になり、味の素が輸出する製品の書類作成を手掛けました。出荷伝票の作成から、輸出申告書、INVOICE、PACKING LISTを作成し、信用状に基づく買取書類の作成まで、一連の作業を手掛けました。この貿易実務を OJTで手掛けた知識は為替相場の重要性も含め、その後の私の商社マンとして大きな経験になりました。輸出業務の仕事は 3 年間担当し 4 年目から医療機輸出部門に移動となりました。この部署は私が入社以来、興味を持っていた部署でベンチャービジネス構築を行う部署です。眼科・眼鏡に特化した日本製の顕微鏡の輸出をする仕事で、海外諸国に代理店を作り面的に事業展開すること がミッションです。私はアメリカと中南米の担当となり、早速取引先とのコミュニケーションを取ることになります。その頃の海外とのコミュニケーションは、今では考えられませんが国際郵便とテレックスという電報です。まもなくファックス通信が始まり、ワードプロセッサーの登場とコンピューターの登場によってコミュニケーションのスピードが格段に上がり、時代が大きく変化したことを実感しました。 初めての海外出張はアメリカのサンフランシスコでした。オハイオ州コロンバス本社代理店のBURTON 社が出展した国際眼科学会併設の展示会へのアテンドです。展示会中は全米はもとよりヨーロッパや中南米からも代理店が渡米するため、アメリカで効率的に商談を進める事が目的です。英会話にはある程度の自信がありましたが、はじめての渡米の雰囲気に飲まれていた私は、専門用語が全く理解できず、同行した先輩社員に事細く要点を聞き直し、自分の実力のなさに悔しい思いをしたことを覚えています。その後の多くの出張を通して、北米・中南米の代理店スタッフとのプライベートの時間を通して信頼関係を築いていきました。国境を隔てて素晴らしい人間関係を築くことは海外ビジネスの醍醐味でした。 なにも不満もなく新日本コンマースで社会人生活を過ごしていた私は、10 年後に転職することになります。帰宅途中に駅の売店でたまたま目にした求人誌の表紙に書かれた「北海道で海外ビジネスを」に心を揺さぶられました。そして1992 年に北海フォードトラクター株式会社(現・日本ニューホランド株式会社:通称 HFT)に転職することになります。この会社は米国 Ford と芝本産業株式会社のジョイントベンチャーで、大型トラクターをはじめコンバインや各種作業機を直接輸入し、国内の自社店舗を通じて農業生産者の皆さんに製品を納めサービスをする事がミッションの企業です。農業従事者が減少する中、北海道をはじめ全国各地で農業基盤の拡大が進み、農作業の大型化が進みました。 HFT に入社まもなく私は、新規事業を任され商品開発を手掛けました。ネイティブレベルのコミュニケーションができる HFT 社長のビジネスマインドを通して、仕事の完成度の高さと完璧を求める重要性を学びました。様々な商品のビジネスチャンスを模索するなか、アメリカペンシルバニア州のメーカーが手掛ける「バキューホイスト(吸引力を通して重量物を搬送する機械)」の輸入を手掛けました。この製品は稲作生産者が袋詰めする 30kg のコメ袋を移動する作業に活躍しました。人間関係は面白いもので、この製品をアメリアでマネージメントしていた担当者が突然、退職し新事業を始めたと聞き、HFT社長と彼のビジネスを見に行ったことが、次の商品開発につながります。ツインパススリングという超軽量スリングで、ワイヤーロープに比べ作業効率が格段に良くなることが特徴の製品です。この製品の販売は、HFT の親会社、芝本産業株式会社が手掛け、原子力発電所や重電メーカー、電力会社、自動車メーカーで、現在も活躍しています。 2010 年から芝本産業株式会社に籍を置き、新規事業の立案とインキュベートを手掛けました。様々な媒体やインターネットを駆使しドローンと出会います。シリコンバレーのスタートアップ 3D Robotics との出会いです。社長のクリスアンダーソンは、元 Forbs の編集長で、スマートフォンの普及に伴う構成部品のコスト削減により、空飛ぶコンピューター、ドローンが様々な業界に一石を投じることを見越していました。ベイエリアの公園でデモンストレーションを見せてもらい、スマートフォンに表示される地図にフライト範囲を指でなぞるだけで、瞬く間に視界から消え、数分後に同じ場所に戻ってくるドローンに、鳥肌が立ち完全に魅了されました。 ドローン黎明期に着手したビジネスを通して、インテル創業者マイケル・ゴードンが唱える「ムーアの法則」を実感し、技術開発の速さに危機感を覚えながらドローンビジネスに没頭しました。ドローンは空飛ぶスマートフォン化することを見越してたクリスはハードウェアの生産と並行し、ドローンで収集する画像データを立体的な 3 次元の点群データをクラウド環境で自動的に構築するソフトウェア Site Scan の開発を手掛けていました。Site Scan は日本では大手ゼネコンはじめ土木現場の土量計算や測量、日々変化する現場作業の進捗管理で活躍しています。このドローンと点群データ作成ソフトウェアの技術は、人工衛星による正確な GNSS 測位技術の広がりに拍車をかけ現在に至ります。ドローンの活躍は、今では皆さもご承知の通りで、この流れを見越していた 3DR スタッフと日本市場の開拓を手掛けた経験は、ビジネス以上の関係に至りました。 東京での単身赴任生活は、気がつくと 13 年になっていました。会社では若手がマネージメントで活躍するなか、退職を決意し郷里に戻りました。タイミングよく株式会社インターネットイニシアティブ(IIJ)と出会い、同社が手掛ける IoT 事業、なかでもアグリビジネスの展開を手がけています。冒頭で触れたラストワンマイルの環境構築です。IIJ は日本ではじめて事業レベルのインターネットビジネスに着手し急成長した会社で SI や MVNO で有名な企業です。LTE 環境が主要都市では整備されているものの、電波の不感地帯は地方では多く存在します。農業の現場ではトラクターをはじめ機械の自動化が進み、GPS など人工衛星からの位置情報を受信し自動でトラクターが圃場で活躍する環境になっています。一方 GPS などの信号をトラクターで受信するためにはLTE 電波が必要なため不感地帯では最新技術を使う事ができません。IIJ では、農林水産省が力を入れている情報通信環境整備対策事業を通して、全国様々な地域で LPWA 技術を構築し、水田の水管理をはじめ、気象、獣害対策などで用いるセンサーを駆使し、LTE 環境からネットワークにつなぎクラウドで情報を管理する技術の普及を手掛けています。 いまだに海外ビジネスへの興味はなくならず、インターネットの高速化でビジネス環境が身近になったことを背景にチャンスがあれば貿易の仕事に携わりたいと考えています。 (小林正幸さんプロフィール) 1982年3月 国際商科大学 商学部商学科卒業 加藤ゼミ 少林寺拳法部 1982年4月 新日本コンマース株式会社(現味の素トレーディング)入社 貿易実務・医療機器輸出 1992年1月 日本ニューホランド株式会社 事業開発(真空吸引搬送機器・ツインパススリング輸入販売) 2010年4月 芝本産業株式会社 事業開発部 事業開発(ドローン・ソフトウェア輸入販売) 2023年5月 株式会社インターネットイニシアティブ IoT 事業部アグリ事業推進室(札幌支店) 札幌支店 情報通信環境整備事業(LPWA ラストワンマイル展開) 現在に至る TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
将来に夢を持ち、TIUの一員として世界でご活躍されることを願っています。
松尾謙一さん (1982年商学部卒業 小峰ゼミ ESS~ELI)2023年12月1日特に自分が九州から出てきた時の大学に対する想いと憧れ=「国際化」を思い出し、若い学生さんたちに将来に夢を持ち、TIUの一員として世界でご活躍を!!との思いで記させて頂きました。以下英語にて失礼します!! 【Mr,Kenichi Matsuo‘s Profile】 Born June 1958 in Kagoshima City, Kumamoto City until high school, then moved to Tokyo to become a member of ICC. Entered ICC (TIU) in April 1978. Komine Seminar (Foreign Exchange, International Finance) ESS~ELI (English Conversation Acquisition Debate Section Chief) I wanted to work in the trading department of a manufacturing company in the future, so I studied English Club, Foreign Exchange, and International Finance. April 1982: Joined Ichikawa Co.,LTD September 1987: Studied abroad in the U.S. (Monterey CA, Houston TX, Atlanta GA) March 1988: Returned to Japan and was assigned to the Overseas Trade Department (thereafter, sales in 24 countries for 20 years until March 2007) After 20 years as a salaried employee, consulted with a board member to challenge an unknown job. April 2008: Assigned to the Internal Audit Department (Appointed as General Manager of the Internal Audit Department in April 2004) Compliance training under management, audits of overseas sales companies, etc. April 2018 While at Ichikawa, established the joint venture Matsu and hosted various events~. Organized various events and study groups in other industries, including a gathering of legendary executive producer Akira Imai, who created 196 Project X on NHK, vice president of the supporters’ association of legendary boxer Hiroyuki Sakamoto, and hosted a recital of a Japanese dancer and other events and study groups in other industries. September 2021: Retired from Ichikawa Corporation and joined Security Service Co. Former NHK executive producer Akira Imai hosts seminars and shares many inspiring experiences with his colleagues. おまけです。最近の活動です。 今後は国際的なイベントに参加することはもちろん、国際的に活躍する人を応援いたします。70歳までは働きたいと思います。 元プロボクサー 坂本博之氏 日本舞踊家 若柳尚雄里(なおゆり)氏 日本舞踊家 若柳尚雄里(なおゆり)氏 大蔵流狂言師善竹十郎氏 ※元プロボクサー坂本氏の後援会副会長、恵まれない子供たちへのボランティア ※日本舞踊家若柳尚雄里氏の日本文化を世界に!の企画・プロデュース ※大蔵流狂言師 善竹十郎 狂言を身近に感じるためのセミナー主催 (松尾謙一さんプロフィール) 1958年6月 鹿児島市生まれ、高校まで熊本市、大学から上京ICCの一員となる。 1978年4月 ICC(現TIU )入学 商学部14期生 小峰ゼミ(外国為替、国際金融論男子20名) ESS~ELI(英会話習得~Debate Section Chief) 1982年4月 市川毛織株式会社入社(現イチカワ株式会社)国内営業部配属 1987年9月 社内米国語学留学(モントレーCA、ヒューストンTX、アトランタGA) 1988年3月 帰国後海外営業部配属(以後2007年3月迄20年間、24か国で営業)リーマン生活20年経て未知の仕事にチャレンジしたく役員に相談し 2008年4月 内部監査室配属(2004年4月から内部監査室長)経営者の下コンプライアンス教育、監査法人と海外販社監査等実施 2018年4月 イチカワ在籍中に合同会社マツを設立し各種イベント主催~。NHKでプロジェクトXを196本作った伝説のエグゼクティブ・プロデューサー今井彰氏の集い、伝説のボクサー坂本博之後援会副会長、日本舞踊家のリサイタル等他業種のイベント・勉強会主催等など主催 2021年9月 イチカワ株式会社後、警備保障勤務兼イベント主催を実施中 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
松尾謙一さん (1982年商学部卒業 小峰ゼミ ESS~ELI)2023年12月1日特に自分が九州から出てきた時の大学に対する想いと憧れ=「国際化」を思い出し、若い学生さんたちに将来に夢を持ち、TIUの一員として世界でご活躍を!!との思いで記させて頂きました。以下英語にて失礼します!! 【Mr,Kenichi Matsuo‘s Profile】 Born June 1958 in Kagoshima City, Kumamoto City until high school, then moved to Tokyo to become a member of ICC. Entered ICC (TIU) in April 1978. Komine Seminar (Foreign Exchange, International Finance) ESS~ELI (English Conversation Acquisition Debate Section Chief) I wanted to work in the trading department of a manufacturing company in the future, so I studied English Club, Foreign Exchange, and International Finance. April 1982: Joined Ichikawa Co.,LTD September 1987: Studied abroad in the U.S. (Monterey CA, Houston TX, Atlanta GA) March 1988: Returned to Japan and was assigned to the Overseas Trade Department (thereafter, sales in 24 countries for 20 years until March 2007) After 20 years as a salaried employee, consulted with a board member to challenge an unknown job. April 2008: Assigned to the Internal Audit Department (Appointed as General Manager of the Internal Audit Department in April 2004) Compliance training under management, audits of overseas sales companies, etc. April 2018 While at Ichikawa, established the joint venture Matsu and hosted various events~. Organized various events and study groups in other industries, including a gathering of legendary executive producer Akira Imai, who created 196 Project X on NHK, vice president of the supporters’ association of legendary boxer Hiroyuki Sakamoto, and hosted a recital of a Japanese dancer and other events and study groups in other industries. September 2021: Retired from Ichikawa Corporation and joined Security Service Co. Former NHK executive producer Akira Imai hosts seminars and shares many inspiring experiences with his colleagues. おまけです。最近の活動です。 今後は国際的なイベントに参加することはもちろん、国際的に活躍する人を応援いたします。70歳までは働きたいと思います。 元プロボクサー 坂本博之氏 日本舞踊家 若柳尚雄里(なおゆり)氏 日本舞踊家 若柳尚雄里(なおゆり)氏 大蔵流狂言師善竹十郎氏 ※元プロボクサー坂本氏の後援会副会長、恵まれない子供たちへのボランティア ※日本舞踊家若柳尚雄里氏の日本文化を世界に!の企画・プロデュース ※大蔵流狂言師 善竹十郎 狂言を身近に感じるためのセミナー主催 (松尾謙一さんプロフィール) 1958年6月 鹿児島市生まれ、高校まで熊本市、大学から上京ICCの一員となる。 1978年4月 ICC(現TIU )入学 商学部14期生 小峰ゼミ(外国為替、国際金融論男子20名) ESS~ELI(英会話習得~Debate Section Chief) 1982年4月 市川毛織株式会社入社(現イチカワ株式会社)国内営業部配属 1987年9月 社内米国語学留学(モントレーCA、ヒューストンTX、アトランタGA) 1988年3月 帰国後海外営業部配属(以後2007年3月迄20年間、24か国で営業)リーマン生活20年経て未知の仕事にチャレンジしたく役員に相談し 2008年4月 内部監査室配属(2004年4月から内部監査室長)経営者の下コンプライアンス教育、監査法人と海外販社監査等実施 2018年4月 イチカワ在籍中に合同会社マツを設立し各種イベント主催~。NHKでプロジェクトXを196本作った伝説のエグゼクティブ・プロデューサー今井彰氏の集い、伝説のボクサー坂本博之後援会副会長、日本舞踊家のリサイタル等他業種のイベント・勉強会主催等など主催 2021年9月 イチカワ株式会社後、警備保障勤務兼イベント主催を実施中 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
技術者の道から写真家の道に。その中で見つけた自分にしか見えないもの。
豊吉雅昭さん(1997年3月卒業 商学部経営情報学科 芝野耕司 ゼミ)2023年8月1日 豊吉雅昭と申します。 私は緑内障に罹患している視覚障害者です。現在では左眼の視野の大半と右目の視野の3割ほどを消失しています。そのため、日常の景色は常に霞がかっており、人の顔は輪郭程度しか認識できません。横断歩道を渡る時に信号が見えないため、ヒヤリとしたことが1度や2度ではありません。色も認識できないものがあり、その為コントラスト差の少ない階段の段差などはわからずに1枚板のように見えます。ですから階段の上り下りには毎度不安を感じています。最近では手書きの文字も読めないことが多くなりました。 そんな私ですが、現在は写真作品を制作する日々を送っています。あることをきっかけに、自分の見え方が自分だけのものであると気づき、この“見えない視界“を写真作品で表現することに取り憑かれました。有難い事に最近ではコンペティションなどでの入賞も増えました。眼にハンデを抱える私がなぜ写真を撮るようになったのか。この場をお借りして少しお話させていただきます。 染まりやすい視界 2.182023年5月 第11回 躍動する現代作家展 入選作品 Staining Visibility 9.112023年4月 LONDON PHOTOGRAPHY AWARD 2022 GOLD WINNER 作品 学生時代 私は1993年に東京国際大学に入学しました。商学部経営情報学科に所属し、コンピュータに強い感心を持っていたこともあって芝野耕司先生のゼミを選びました。秋葉原にあるパソコンショップや現在の川越第1キャンパス1号館の情報処理課でアルバイトをし、パソコンルームに入り浸る。そんな学生でした。この頃は近視ではありましたが眼に問題があったわけではなく、普通に見えていました。TIUAへの留学試験に申し込んだりもしたのですが、ビビリでヘタレの私は試験すら受けませんでしたね。 芝野ゼミでは卒業論文とは別に情報処理学会での論文発表が課されており、3・4年次はこれにかかりきりでした。毎週のゼミでは論文のテーマを芝野先生にプレゼンしていましたが、研究者が持つべき倫理観や偏りのないデータ収集の難しさなど全く知りませんでしたから、思いつきのテーマを発表しては怒られる事を繰り返していましたね。なんとかかんとか、当時普及し始めたばかりのインターネット、この頃はまだまだ出始めの、しかし無数にあるホームページの情報を視覚的に表現するというテーマに辿り着き、「robotとHotsauceを用いた個人Homepage環境管理」という題で発表します。学会発表後に飲んだお酒の美味しかったこと!まあ、なぜか私は飲み過ぎた同期生の介抱をしたりしていたのですが。この時に芝野先生から言われた「発表内容はすべて把握して論文を読むことなく発表すること」が後々に役立つ事になります。 学会発表で使用したOHPスライド 当時使用していた業務ノート私はメモ魔だったのでA3サイズのノートを年に数冊使い切ってました システムエンジニアとしての道 1997年に卒業し、独立系SIerである日本システム技術株式会社に就職します。設計から開発、運用まで一通りの事を身につけ、幾つものシステム開発に携わります。モノづくりに携わりたかった私にとっては天職でした。販売管理システムを主に担当しましたが、一番大きかったのは日本野球機構のプロ野球公式データベースシステム開発を担当したことです。プロ野球の詳細データ、チームの勝敗はもとより打者がどんな球種を打ったのか、エラーの内容や数、投手の勝率や配球など詳細なデータを集計し、各種メディアが利用できるようにしたシステムです。国内で初めての技術を用いて開発したこともあり、メディアの取材を受けるまでになりました。この時は社内で行われていた年次成果発表会でも表彰を受け、学生時代の論文発表がここで活きました。また、サーバー運用などの経験もあったため、東京本社の移転にあたり、移転先での社内インフラ構築なども担当しました。 ビリヤードが好きでよくやりましたこの頃はコンタクトレンズ使用2002年2月ごろ しかし、業務に忙殺されて緑内障に罹患します。この病を甘く見ていた私は治療を怠り、気付かないうちに視野欠損が進行します。また、残業時間も過労死ラインなど遥かに超えた日々を送っていました。家に帰るのが月に3日ほどなんて時期もありましたし。ひどい時は着替えを職場の近くで買って仕事をこなし、家には手付かずの洗濯物が山のようになっていました。だんだん資料の判読に時間がかかるようになり、バグの発生頻度も上がっていきます。技術者としての上達も展望も持てない事に苛立ちを感じ、精神的にも失調をきたし始めた私は2007年に退職します。 一番辛かった時期 退職後に転職先を探しましたが、これが上手くいかない。病歴があるだけでこうも変わるものかと悲しくなりました。なんとか雑貨店でのアルバイトに採用されて数年働きます。ところが2011年。家業を亡くなった父から兄が受け継いでいたのですが、そのうちの一つ、クリーニング取次店を長年勤めていた方が倒れ、急遽私がその後を引き継ぐことになりました。しかし、です。技術畑にいた私にとってはすべてが初めてのことばかり。これブラウス?ロングコートとミドルコートの違いって?なんでこんなにスカートの種類があるの、と苦戦の連続です。何年も預かりっぱなしになっている衣類も少なくなく、でも引き取りに来た時は即渡せないとクレームになり、売り上げも下がる一方でした。家でのゴタゴタも多くなったせいか、緑内障はさらに進行して2015年ごろには汚れている部分の判別すら難しくなりました。結局、外科手技での治療が必要になり、2015年11月に閉店します。当時のクリーニング取次店 2011年8月ごろ 手術、そして絶望 緑内障とは視神経の損傷により視野の消失が進んでいく病気なのですが、残念な事に現代医学では根本治療はもとより、失った視野の回復すらできません。ですので、治療は進行を止める・遅らせる事が主目的です。点眼治療が基本で、大概はこれのみで済みます。ですが私のように進行が止まらない場合、手術治療に移リます。2015年12月上旬に初めて手術を受け、年末に退院後の検査を受けて愕然としました。術前に近い状態まで病状が戻ってしまっていたのです。少し説明すると、緑内障の手術では眼の中にある管に傷をつけ、その傷が治りにくいようにします。眼内の水分を外に流すルートを作り、目が膨れ過ぎないようにして視神経がこれ以上損傷しないようにするんです。しかし傷が治ってしまったり、目詰まりが起きたりすると再び目の圧力が上昇してしまう。手術そのものは無事に終わりましたが、この、言わば元の木阿弥になる人もいるわけです。お先真っ暗とはこの事です。自分の眼はどんどん見えなくなっていくのみ、と人生に絶望した私は引き篭もるようになります。手術直後写真は2020年9月の4度目の手術の時のもの 看護師さん作 入院中薬表 写真は2020年9月の4度目の手術の時のもの 西川悟平氏との出会い 引き篭もり生活を送っていた2016年3月。たまたま見たテレビ番組で“7本指のピアニスト“西川悟平さんの事を知ります。渡米後に指が動かなくなる難病のジストニアに罹患し、その為にピアノが弾けなくなります。しかし彼は、7年にも渡るリハビリの末に動くようになった7本の指で演奏活動を再開。再びピアニストとして世界中で演奏していました。ちなみに彼は2021年開催の東京パラリンピックでトリの演奏を見事に勤めています。彼の演奏をどうしても聴きたくなった私は、カメラを携えて日本でのコンサートに足繁く通うようになります。ありがたいことにリハーサルやコンサートでの撮影をさせてくださるようになり、段々と自分の状況を受け入れられるようになっていきました。ちなみにこの撮影は現在でも続けています。他にも、病気の患者会で同じ境遇の人と関わりを持っていたことも大きかったです。この頃から本格的に写真に傾倒するようになりました。 初めての撮影 (2018年3月撮影)2022年12月NEW YORK PHOTOGRAPHY AWARDS 2022 GOLD WINNER 作品 コンサートのポスター等に使われました。今でもコンサート撮影 2023年5月 リハーサルでないと撮れないですね、こんなの2023年5月 撮影 写真の道へ 2015年から2020年まで、4度の手術を受けつつ写真を撮り続ける中で、自分自身の見え方を前向きに受け入れるようになっていきました。多分にご自身の病気を“ギフト“と称する悟平さんの影響が大きかったですね。私の見ているもの、言わば“見えない視界“が自分だけの唯一無二のものであると捉えられるようになった私は、普段見ている光景を写真で再現するようになります。不思議なもので、自分自身を受け入れられるようになってから写真で結果を出しているんです。写真家の所幸則氏に2010年から師事を受けていますが、コンテストやコンペティションでの入賞できるようになったのはすべて手術後、西川悟平さんと出会ってからです。初めての入選作品2017年 埼玉の下水道フォトコンテスト 2017年の1月に地元、埼玉県のコンテストで初めて賞を獲った時は本当に嬉しかった。学生時代の美術や音楽の成績なんか赤点スレスレでしたから。何より、自分でもできることがあると実感を伴って経験できたのは大きかったです。方法や使う道具を工夫すればできることはあると気づいた私は、“見えない視界“を表現する写真作品を「MONOCLE VISION」と名付けて現在でも撮り続けています。本気で取り組んでいると応援してくれたり支援してくれる人も出てくるもので、写真作品の制作を通じて交流も広がりました。2022年4月には初めての個展を銀座のギャラリーで開催し、限定発売していた写真集は完売に至りました。個展開催後、多重露光という技法(簡単に言うと重ね撮り)で制作する私の写真は、撮って出しが評価される国内では現代美術、海外では写真のコンペティションへの応募にシフトします、2023年は5月までで6つの入賞という結果につながりました。とは言え、まだまだ写真だけで身を立てられているわけではありませんので、まだまだ精進の身です。 個展会場の様子2022年4月 銀座 Art Gallery M84 友人に撮影してもらったプロフィール写真 2023年2月撮影最後に 紆余曲折ありましたが、私は幸せ者です。多くの写真の撮り手が自分のテーマを見つけることに苦労する中、私は自分だけの表現に出会いました。写真評論家の飯沢耕太郎氏に個展で言われたのですが、ハンデとは表現者にとって大きなきっかけになります。別に生活や人生設計が楽になった訳ではありませんが、それは誰でも同じこと。結婚や出産、転職、親の死別など人生の困難ごとは誰にでも起こり得ます。今も芝野耕司先生にはメールで近況を報告しますが、個展開催の時にはお祝いのメッセージをいただきました。一度だけ外語大の方の研究室へ伺った後に訪れ、数時間にもわたって大説教をもらっていたんですけどね。それだけに本当に嬉しかった。本気でやっている事には、本気で答えてくれる人がいる。そんな当たり前の事に気づけた私は本当に幸せ者です。これからも写真の道を歩んでいくつもりです。もしどこかでお会いすることがありましたら、拙作を見てご意見をただければ、とても嬉しいです。 (豊吉雅昭さんプロフィール) 1975年生まれ、埼玉県出身。1997年東京国際大学卒業。在学中はコンピュータに傾倒し、卒業後は日本システム技術株式会社に入社。SEとしてシステム開発に携わる。緑内障による視野欠損が進行し、技術者としての自分に限界を感じて退職。2010年より写真家 所幸則氏に師事。その後も緑内障は進行し2015年から4度の手術を受け、現在では左目にはチューブとプレートが入っている。2022年現在、左目の視野の大半を消失。外科手術を受けるようになって以降、“見えない視界“を表現する作品として「MONOCLE VISION」シリーズの制作を開始。同時期より“7本指のピアニスト“ 西川悟平氏のリハーサルポートレートも撮り始める。主な機材はSony α7III、RICOH GRIIIを使用。2020年8月に緑内障患者/写真家としてNHK Eテレの番組に出演。2022年4月に個展「MONOCLE VISION」を開催。緑内障フレンドネットワーク正会員。 HP https://toyokiti.com Instagram https://www.instagram.com/toyokiti TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
豊吉雅昭さん(1997年3月卒業 商学部経営情報学科 芝野耕司 ゼミ)2023年8月1日 豊吉雅昭と申します。 私は緑内障に罹患している視覚障害者です。現在では左眼の視野の大半と右目の視野の3割ほどを消失しています。そのため、日常の景色は常に霞がかっており、人の顔は輪郭程度しか認識できません。横断歩道を渡る時に信号が見えないため、ヒヤリとしたことが1度や2度ではありません。色も認識できないものがあり、その為コントラスト差の少ない階段の段差などはわからずに1枚板のように見えます。ですから階段の上り下りには毎度不安を感じています。最近では手書きの文字も読めないことが多くなりました。 そんな私ですが、現在は写真作品を制作する日々を送っています。あることをきっかけに、自分の見え方が自分だけのものであると気づき、この“見えない視界“を写真作品で表現することに取り憑かれました。有難い事に最近ではコンペティションなどでの入賞も増えました。眼にハンデを抱える私がなぜ写真を撮るようになったのか。この場をお借りして少しお話させていただきます。 染まりやすい視界 2.182023年5月 第11回 躍動する現代作家展 入選作品 Staining Visibility 9.112023年4月 LONDON PHOTOGRAPHY AWARD 2022 GOLD WINNER 作品 学生時代 私は1993年に東京国際大学に入学しました。商学部経営情報学科に所属し、コンピュータに強い感心を持っていたこともあって芝野耕司先生のゼミを選びました。秋葉原にあるパソコンショップや現在の川越第1キャンパス1号館の情報処理課でアルバイトをし、パソコンルームに入り浸る。そんな学生でした。この頃は近視ではありましたが眼に問題があったわけではなく、普通に見えていました。TIUAへの留学試験に申し込んだりもしたのですが、ビビリでヘタレの私は試験すら受けませんでしたね。 芝野ゼミでは卒業論文とは別に情報処理学会での論文発表が課されており、3・4年次はこれにかかりきりでした。毎週のゼミでは論文のテーマを芝野先生にプレゼンしていましたが、研究者が持つべき倫理観や偏りのないデータ収集の難しさなど全く知りませんでしたから、思いつきのテーマを発表しては怒られる事を繰り返していましたね。なんとかかんとか、当時普及し始めたばかりのインターネット、この頃はまだまだ出始めの、しかし無数にあるホームページの情報を視覚的に表現するというテーマに辿り着き、「robotとHotsauceを用いた個人Homepage環境管理」という題で発表します。学会発表後に飲んだお酒の美味しかったこと!まあ、なぜか私は飲み過ぎた同期生の介抱をしたりしていたのですが。この時に芝野先生から言われた「発表内容はすべて把握して論文を読むことなく発表すること」が後々に役立つ事になります。 学会発表で使用したOHPスライド 当時使用していた業務ノート私はメモ魔だったのでA3サイズのノートを年に数冊使い切ってました システムエンジニアとしての道 1997年に卒業し、独立系SIerである日本システム技術株式会社に就職します。設計から開発、運用まで一通りの事を身につけ、幾つものシステム開発に携わります。モノづくりに携わりたかった私にとっては天職でした。販売管理システムを主に担当しましたが、一番大きかったのは日本野球機構のプロ野球公式データベースシステム開発を担当したことです。プロ野球の詳細データ、チームの勝敗はもとより打者がどんな球種を打ったのか、エラーの内容や数、投手の勝率や配球など詳細なデータを集計し、各種メディアが利用できるようにしたシステムです。国内で初めての技術を用いて開発したこともあり、メディアの取材を受けるまでになりました。この時は社内で行われていた年次成果発表会でも表彰を受け、学生時代の論文発表がここで活きました。また、サーバー運用などの経験もあったため、東京本社の移転にあたり、移転先での社内インフラ構築なども担当しました。 ビリヤードが好きでよくやりましたこの頃はコンタクトレンズ使用2002年2月ごろ しかし、業務に忙殺されて緑内障に罹患します。この病を甘く見ていた私は治療を怠り、気付かないうちに視野欠損が進行します。また、残業時間も過労死ラインなど遥かに超えた日々を送っていました。家に帰るのが月に3日ほどなんて時期もありましたし。ひどい時は着替えを職場の近くで買って仕事をこなし、家には手付かずの洗濯物が山のようになっていました。だんだん資料の判読に時間がかかるようになり、バグの発生頻度も上がっていきます。技術者としての上達も展望も持てない事に苛立ちを感じ、精神的にも失調をきたし始めた私は2007年に退職します。 一番辛かった時期 退職後に転職先を探しましたが、これが上手くいかない。病歴があるだけでこうも変わるものかと悲しくなりました。なんとか雑貨店でのアルバイトに採用されて数年働きます。ところが2011年。家業を亡くなった父から兄が受け継いでいたのですが、そのうちの一つ、クリーニング取次店を長年勤めていた方が倒れ、急遽私がその後を引き継ぐことになりました。しかし、です。技術畑にいた私にとってはすべてが初めてのことばかり。これブラウス?ロングコートとミドルコートの違いって?なんでこんなにスカートの種類があるの、と苦戦の連続です。何年も預かりっぱなしになっている衣類も少なくなく、でも引き取りに来た時は即渡せないとクレームになり、売り上げも下がる一方でした。家でのゴタゴタも多くなったせいか、緑内障はさらに進行して2015年ごろには汚れている部分の判別すら難しくなりました。結局、外科手技での治療が必要になり、2015年11月に閉店します。当時のクリーニング取次店 2011年8月ごろ 手術、そして絶望 緑内障とは視神経の損傷により視野の消失が進んでいく病気なのですが、残念な事に現代医学では根本治療はもとより、失った視野の回復すらできません。ですので、治療は進行を止める・遅らせる事が主目的です。点眼治療が基本で、大概はこれのみで済みます。ですが私のように進行が止まらない場合、手術治療に移リます。2015年12月上旬に初めて手術を受け、年末に退院後の検査を受けて愕然としました。術前に近い状態まで病状が戻ってしまっていたのです。少し説明すると、緑内障の手術では眼の中にある管に傷をつけ、その傷が治りにくいようにします。眼内の水分を外に流すルートを作り、目が膨れ過ぎないようにして視神経がこれ以上損傷しないようにするんです。しかし傷が治ってしまったり、目詰まりが起きたりすると再び目の圧力が上昇してしまう。手術そのものは無事に終わりましたが、この、言わば元の木阿弥になる人もいるわけです。お先真っ暗とはこの事です。自分の眼はどんどん見えなくなっていくのみ、と人生に絶望した私は引き篭もるようになります。手術直後写真は2020年9月の4度目の手術の時のもの 看護師さん作 入院中薬表 写真は2020年9月の4度目の手術の時のもの 西川悟平氏との出会い 引き篭もり生活を送っていた2016年3月。たまたま見たテレビ番組で“7本指のピアニスト“西川悟平さんの事を知ります。渡米後に指が動かなくなる難病のジストニアに罹患し、その為にピアノが弾けなくなります。しかし彼は、7年にも渡るリハビリの末に動くようになった7本の指で演奏活動を再開。再びピアニストとして世界中で演奏していました。ちなみに彼は2021年開催の東京パラリンピックでトリの演奏を見事に勤めています。彼の演奏をどうしても聴きたくなった私は、カメラを携えて日本でのコンサートに足繁く通うようになります。ありがたいことにリハーサルやコンサートでの撮影をさせてくださるようになり、段々と自分の状況を受け入れられるようになっていきました。ちなみにこの撮影は現在でも続けています。他にも、病気の患者会で同じ境遇の人と関わりを持っていたことも大きかったです。この頃から本格的に写真に傾倒するようになりました。 初めての撮影 (2018年3月撮影)2022年12月NEW YORK PHOTOGRAPHY AWARDS 2022 GOLD WINNER 作品 コンサートのポスター等に使われました。今でもコンサート撮影 2023年5月 リハーサルでないと撮れないですね、こんなの2023年5月 撮影 写真の道へ 2015年から2020年まで、4度の手術を受けつつ写真を撮り続ける中で、自分自身の見え方を前向きに受け入れるようになっていきました。多分にご自身の病気を“ギフト“と称する悟平さんの影響が大きかったですね。私の見ているもの、言わば“見えない視界“が自分だけの唯一無二のものであると捉えられるようになった私は、普段見ている光景を写真で再現するようになります。不思議なもので、自分自身を受け入れられるようになってから写真で結果を出しているんです。写真家の所幸則氏に2010年から師事を受けていますが、コンテストやコンペティションでの入賞できるようになったのはすべて手術後、西川悟平さんと出会ってからです。初めての入選作品2017年 埼玉の下水道フォトコンテスト 2017年の1月に地元、埼玉県のコンテストで初めて賞を獲った時は本当に嬉しかった。学生時代の美術や音楽の成績なんか赤点スレスレでしたから。何より、自分でもできることがあると実感を伴って経験できたのは大きかったです。方法や使う道具を工夫すればできることはあると気づいた私は、“見えない視界“を表現する写真作品を「MONOCLE VISION」と名付けて現在でも撮り続けています。本気で取り組んでいると応援してくれたり支援してくれる人も出てくるもので、写真作品の制作を通じて交流も広がりました。2022年4月には初めての個展を銀座のギャラリーで開催し、限定発売していた写真集は完売に至りました。個展開催後、多重露光という技法(簡単に言うと重ね撮り)で制作する私の写真は、撮って出しが評価される国内では現代美術、海外では写真のコンペティションへの応募にシフトします、2023年は5月までで6つの入賞という結果につながりました。とは言え、まだまだ写真だけで身を立てられているわけではありませんので、まだまだ精進の身です。 個展会場の様子2022年4月 銀座 Art Gallery M84 友人に撮影してもらったプロフィール写真 2023年2月撮影最後に 紆余曲折ありましたが、私は幸せ者です。多くの写真の撮り手が自分のテーマを見つけることに苦労する中、私は自分だけの表現に出会いました。写真評論家の飯沢耕太郎氏に個展で言われたのですが、ハンデとは表現者にとって大きなきっかけになります。別に生活や人生設計が楽になった訳ではありませんが、それは誰でも同じこと。結婚や出産、転職、親の死別など人生の困難ごとは誰にでも起こり得ます。今も芝野耕司先生にはメールで近況を報告しますが、個展開催の時にはお祝いのメッセージをいただきました。一度だけ外語大の方の研究室へ伺った後に訪れ、数時間にもわたって大説教をもらっていたんですけどね。それだけに本当に嬉しかった。本気でやっている事には、本気で答えてくれる人がいる。そんな当たり前の事に気づけた私は本当に幸せ者です。これからも写真の道を歩んでいくつもりです。もしどこかでお会いすることがありましたら、拙作を見てご意見をただければ、とても嬉しいです。 (豊吉雅昭さんプロフィール) 1975年生まれ、埼玉県出身。1997年東京国際大学卒業。在学中はコンピュータに傾倒し、卒業後は日本システム技術株式会社に入社。SEとしてシステム開発に携わる。緑内障による視野欠損が進行し、技術者としての自分に限界を感じて退職。2010年より写真家 所幸則氏に師事。その後も緑内障は進行し2015年から4度の手術を受け、現在では左目にはチューブとプレートが入っている。2022年現在、左目の視野の大半を消失。外科手術を受けるようになって以降、“見えない視界“を表現する作品として「MONOCLE VISION」シリーズの制作を開始。同時期より“7本指のピアニスト“ 西川悟平氏のリハーサルポートレートも撮り始める。主な機材はSony α7III、RICOH GRIIIを使用。2020年8月に緑内障患者/写真家としてNHK Eテレの番組に出演。2022年4月に個展「MONOCLE VISION」を開催。緑内障フレンドネットワーク正会員。 HP https://toyokiti.com Instagram https://www.instagram.com/toyokiti TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
約半世紀かけたグローバルビジネス。いまだ珍道中!
保井 和毅さん(1982年商学部卒業 小峯ゼミ ELI(English Language Institute)2023年7月1日TIUとウイラメット大学1978年4月に国際商科大学(TIU)に入学しました。当時は、外国の歴史、国際関係の理解深堀と必要な語学力を高めグローバル人になりたい思いが漠然とありましたが、特に専門の学行などに行くこともなくマイペースな独学で英語など勉強していました。 2年時の夏休みにアルバイトで貯めたお金でリンガフォンと言う英語教材を購入し、ややスイッチが入った感がありました。3年時からは小峯ゼミで国際金融論を専攻しました。当時の欧州通貨制度関連の文書を読まされましたが、現在の共通通貨ユーロへの生みの苦しみなどの流れが概念的に理解出来ました。 それと、並行し中学から始めた陸上競技(短距離)を継続していました。残念ながら、当時のTIUには陸上競技部がなく、近くの入間川グランドでの自主トレからの出発です。 幸いに、英語はELI(English Language Institute)、陸上は小川町のチームからお誘いがありようやくメンバとしての活動が叶いました。 1980年夏のウ大のスカラシップを受験したのですが、確か最後の3名まで残り、自分以外の2名が公費留学生に採用されました。その2名の中の1名が同郷の兵庫県立芦屋高校出身の和田昇君で、就職後現在も付き合いが続いています。当方も、御慰めで夏季セミナーの奨学金を頂く事出来たのでが、当然参加させていただきました。 (ウ大でカウンセラーをしていただいたJudyさんと。小柄でチャーミングでテニスが上手な方でした。英語の発音をバッチリと叩き込まれました。英会話は、かなり自信がつきました。) 就職活動1982年の就職戦線は、TIU全体でも好調だったと思います。小峯ゼミでは、東京海上、三菱商事、三菱銀行など大手超一流企業の内定者が続出しました。当方も、運よく日本電気、キャノン、City Bankなど複数社で内定を頂きました。悩んだ末、当時理系・文系男子人気ナンバーワンの日本電気に入社する事にしました。日本電気には、1名だけTIUのOBの方がおられ、自分以降も続いて欲しいなと感じていましたし、入社後数年間は毎年数名の在学生がOB訪問として当方へ来られていました。1名の方が入社されたのは記憶がありますが、残念ながら途中で退職されています。 今は、当時とは大分事情が違うと思いますが、入社したらどこの大学出身とか関係ないと思います。すべて、ゼロスタートで個人の成長に委ねる事が非常に大きいと感じています。 咋今の学歴フィルータは、受け入れ企業側が効率を優先(応募の数を絞る)するには仕方がない方法ですが、実力のあるB,Cランク大学の学生に取り残念な手段だと思います。ただ、今は個人の情報発信がかなり自由に出来るので、いい意味で目立つ活動を在学中にされたらいいと思います。パフォーマンスは処世術として姑息な手段とも取れますが、会社に入っても重要となります。 日本電気入社前半は半導体ビジネス:1982年に入社後、すぐに半導体事業グループの当時の最先端半導体の工場の管理部門に配属されました。希望していた海外営業でなく暫くふて腐れていましたが、モノ作り側なので表面的ですが技術あるいは供給側のサプライチェーンなどの理解に役立ちました。 当時NECは半導体世界ナンバーワンで、毎年海外の工場の大型投資を進めており、その仕事に関われたこともモチベーションの向上に繋がりました。当時は、海外ビジネスに携われる人材が不足しており、入社2-3年の当方も数億円の投資企画書の作成を自ら作成せざるを得ない状況でした。地球儀を俯瞰しながら、グローバルサプライチェーンの最適を上司・仲間と検討する日々でした。 入社当時のNEC相模原事業場です。当時最先端の6インチウエハーの工場でした。この様な工場が、日本のみならず、北米、欧州、シンガポール等で複数稼働していました) 最初の転機は、結婚後の1988年です。上司から、UKの工場の管理部門に行かないかとの打診がありました。ただ、マーケットに向かい合いたい希望が擽っていたので営業部門への異動を希望し、北米向けの半導体営業への異動が実現しました。ASICと言うカスタム(顧客用途別)LSIの担当となり、米国法人の営業と連携しIBM、AT&Tなど大手ICT顧客からDesign win獲得のため出張などを重ねながらビジネスの拡大を進めました。当時は、係長でしたが年商50億円+の予算が与えられていました。営業は顧客が優先ですが、モノ作り部門出身というサプライサイドでの経験は大いに役たちました。 ビジネスは、Market in であつてProduct outではだめだ(主にB2Bですが)とよく言われますが、十分な供給側のマーケティング、高い技術力のある分野では後者も通じると思います。素材、部品など一部の日本企業はproducts outパターンでも対応出来ますが、それ以外の分野は厳しくなりました。 その後、北米の半導体販売会社への駐在の話などもありましたが、今度は海外営業グループの企画・新規ビジネス関連部門への異動が命ぜられました。バブル後に、会社として海外含めて売る新製品が不足する大変な時期でした。カラー液晶の海外営業組織が立ちあがり、営業での再登板となりました。この製品も、やはり日系の大手企業が複数参入してきました。当初から、いずれ台湾・韓国勢に追い抜かれると言う半導体事業と同じ構図がグローバルでも描かれていました。 営業アプローチは、シンプルで従来のCRT(ブラウン管)モニタを使用している業種・顧客への売り込みです。主に、PC、Work station、POCレジなどのメーカであるApple, Compaq, Dell, Sun Micro,台湾系PC OEM,NCRと測定器などのTechtronics, Agirentなどが主要顧客です。現地営業の日々の営業活動と日本からの新規技術紹介などを連動させ事業拡大を進めました。 ただ、IBMはPCビジネスのHQが神奈川県大和市にあり、そこの開発購買へのアプローチが重要です。日本での直販は初めてでしたが、これがまた楽しく社会人人生後半へ生かすことが出来たと(今から振り返って)感じます。本来、海外市場で営業活動するのがグローバルと捉えていたのが、日本も含めての活動がグローバルとの概念へと軌道修正した瞬間でした。確か、世の中も「海外、国際」から「グローバル」と言う言葉が使用された時期でした。 (三田にあるNEC本社ビル。本社スタッフ、営業部門が集結しています。) 後半はICTビジネス1990年代後半から、米国のパソコンメーカ、Microsoftなどが一気に日本へ参入して来て、IT、情報化と言う言葉が広く使用されだしました。日本の半導体メーカの凋落が始まった時期でした。転職なども考え、Intel社まどから内定がもらえましたが、最終的には社内公募制度で情報システム部門へ異動しました。これは、専業企業では転職そのもので、すべて一からの出直しを覚悟し臨みました。 組織デザインも全然別で、全ての損益責任はフロントの営業が持つ仕組みです。ご存知の通リ日本のIT企業の多くは自社製品単品のビジネスモデルでなく、仕入れ製品、SE(System Engineer)のシステム開発費用、アフターサービス等含めたSystem integrationモデルです。これは、日本独特のモデルで、後々グローバル化が上手く進まないと言う事に気ずく事になります。大変なとこに来たなと感じました。 異動先の事業部長と相談し、最初は勉強も兼ねSE部門のプリセールスとしてERP(Enterprise Resource Planning)ソフトおよびSystem Integrationの拡販を進めました。ERPソフトは従来の汎用機(大型コンピュータ)上ですべて個別開発していたシステムに代わる業務パッケージソフトです。基本的な業務プロセスは、Pre Packageされているので開発工数の低減と早期導入が可能と言うのがうたい文句です。ただ、お客様の生産管理、販売管理などの理解がないと追加開発領域が多くなるので、業務コンサル的なサービスが必要となります。 当方が、異動出来たのは半導体中心ですが、生産、販売、グローバルの経験があり、それなりにお客様先で語れるのが大きな理由だったと思います。担当は、日本の大手製造業でしたので、当然システムもグローバル展開が条件となります。ここで、ようやく得意と感じていたグローバルが出てくるわけです。 ただ、お客様が製造業と言う事もあり、東南アジア、中国の工場システム案件が多く一度は欧米から離れる事になります。海外出張でお客様の情報システムの方に会うと、その方の同期の東京の何処の誰だれはどうしているか・・。など宴席で聞かれながら商談をしたことが多々あります。日本人全般ですが、海外にいると本社情報が少なくなり気になるのでしょう。お客様本体との間柄を上手くブリッジするのも営業の役目です。本当に、Domesticなグローバルビジネスでした。 新事業を担当した時期もありました。RFID(Radio Frequency Identification)ソリューションの立ち上げの際には、米国のWal Mart様に大胆にも出向きました。彼らの商品の入出庫、倉庫業務の効率化システムの提案を行うのが目的です。何度もアーカンサスにある本社に足を運びました。結局、現地体制が上手く出来ず受注には至らずでした。しかし、世界ナンバーワンの企業と仕事が出来たのは自分含めてメンバにもいい経験だったと思います。 ドイツ企業とのアライアンスと駐在:その後、社内でもIT部門のグローバル化の推進と外資大手企業とのアライアンス推進の動きが加速し始めました。双方のマーケット(顧客)を連携して深掘する戦略です。綺麗な絵ですが、現場の営業レベルに落ちるとドロドロした事となります。そのような状況の中で、2008年の春頃に上司の事業本部長から突然ドイツのSAP社とアライアンスと市場開拓の目的でドイツに行くよう命じられました。 理由は、「欧米でIT関連の仕事を任せられるのはお前しかいない」との事でした。エレベータ内のやり取りで周りの連中も聞いていました。あえて、その場を利用したのでしょう。すでに、現地組織の立上げスケジュールも確定し、メンバもほぼ確定していた様でしたが、マネジメント、対外折衝、営業活動など雑用役として白羽の矢が立ちました。 時間が無い中で、組織の役割、企画案など作成し関連部門と調整しコメントを貰おうとしましたが、誰も経験が無いのでいい回答が得られませんでした。不満と不安が募り、辞令を拝命した例の上司に話したところ、目の覚めるような返事が返ってきました。「気持ちは分かるが、お前が不安になれば皆が不安になる・・・・」。これは、上司との信頼関係が構築されており、すべて思った通リにやれと言う内容として励みになりました。駐在は、いろいろ家族とも話し合いましたが子供の教育などもあり単身で行くことになりました。 (40歳後半で単身赴任前の家族での送別会です。もう少し、時期が早ければとも思いましたが・・。) 2008年7月14日に現地に到着し、ドイツ南西部Baden-Württemberg州のマンハイムと言う町に住む事にしました。人口40万の中堅都市でしたが、職場、フランクフルトなどへのアクセスもよく快適な暮らしができました。 (マンハイムのダウンタウンの入り口の公園です。季節の色とりどりの花が美しく クリスマス・マーケッとも開催されます。) 業務は、事務所立上げから始まり現地法人内での組織、ITシステムの適用、エンジニア用のコンピュータルーム、IT機器・事務機など調達、ドイツ人秘書の採用など一からです。次は、日本から帯同したエンジニアの仕事の内容を本社、他地域のメンバと調整しながら進めました。SAPと言うグローバル業務ソフトにNECのソリューションを連携しグローバルで売れるようにする仕組み作りです。当然、SAP本社、関連するITパートナへの連携も重要です。ほとんど、部下とパートナなどのモチベーション向上の仕掛け作りが仕事です。 一方、自分としては、やはり営業ですので日系のお客様が中心になりますが現地での市場開拓に邁進しました。10人弱の組織で対外的に如何に影響力を持たせるかが重要な役割です。営業も、SAPのような大きなシステムは東京本社含めたお客様コンタクト無ではそうは売れるわけではないので、適時東京に戻り東京の営業との顧客訪問などを行いました。ドイツ顧客に対しては、手離れがいい商材を本社から持ち込みドイツ企業などへアプローチをかけました。先日も、当時のドイツのお客様の社長とコンタクトしたりして、ネッとワークは今でも役立っています。 また、欧州のIT企業への出資などの戦略も本社側で検討していた時期で、何社かの評価など本社の企画部門の方と進めました。ご存じの方も多いかと思いますが、日系IT企業が得意としているのは単品の販売ではなくSystem Integrationです。お客様の、戦略ならびに業務を理解しITで課題解決を提案する内容です。その為、各地域、国のお客様自身のビジネスが理解出来ているIT会社を買収するのが手っ取り早くなります。競争力のあるハードウェア製品を保有している企業に比べ、グローバル化の難易度が一段と上がります。ただ、現地でしか出来ない経験が出来たのは、僅かな成功体験よりよかったと思います。 また、余暇の話は腐るほどあるのですが割愛させていただきますが、一点前述の和田昇君もPanasonicの社員としてドイツのハンブルグに同時期に駐在されており偶にフランクフルトで合流しました。現在も交流が続いています。 2012年の春に帰任する事になりますが、ドイツ駐在で得た経験、人脈がその後役立つ事になります。帰国後は、中華圏APAC営業本部で大洋州・シンガポール地域の営業とITソリューション軸で本部責任を担う事になりました。 方針はシンプルで、シンガポールにSAP, MicrosoftのERP要員がいましたので、彼らの体制強化と他のAPAC地域へのビジネス展開です。上記のERP製品は他社製品ですのでプラスで自社製品、例えばPOS端末などと連携した流通業向けSystem integrationメニューの強化などを行いました。欧米に比べ、アジアは多少日本と近いITビジネスモデルがあるのとNECの企業バリューが高いので、数字は上がりました。 2014年には、国際情報化協力センタ(CICC:Center of the International Corporation of Computerization)を兼務しました。ここは、元経済産業省の外郭団体で日本の大手IT企業の参画をベースに東南アジアを中心にICTの協力、企業側としてはODAなど国際協力資金を活用したビジネスの拡大を推進する組織です。すでに、55歳になっていたのでNECでの最後の楽しみ場所と考え、好きな様にさせてもらいました。海外の政府機関との折衝などは初めての経験で勉強になりました。CICCの名目でNECの災害、防衛、サイバーセキュリティなどの提案を行い、実証なども行いました。内戦前のミャンマーとかバングラディシュ、カンボジアなどの警察・軍関係の方々面会出来たのは貴重な経験でした。 NEC卒業後と現在最終的には、2019年にNECを予定通り退職しましたが、帰任後も、ドイツ関連の方々とのネットワークを大切にしてきたので、その腐れ縁が思いもよらぬ方向へ進みました。 現在は、駐在中に名刺交換をさせていただいたドイツの人材会社のご紹介もありELATEC GmbHの日本代表(と言つても小所帯ですが)をさせて頂いています。日本市場の立ち上げに日本企業の本社とのアライアンス、新規市場開拓です。コロナ下で、なかなか本社のミュンヘンには行けませんでしたが、昨年の10月のお客様セミナ+Oktober Festでの打ち上げに入社前面接以来久々に行く事が出来ました。 (現会社のお客様向けセミナおよびイベントに参加、2022年10月) 長々と、お付き合いいただきありがとうございました。最後になりますが、振り返り自分の歩いたグローバルビジネスは、遠回りしながらも多数の方々に支えられて来たのだと思います。 何十年も外国でご活躍されている優秀な方とは違い、日本国内の営業も経験出来たのが現職の外資系企業では評価されたのかも知れません。特に、これから社会人になられる方は人生長丁場となります。数年で成果が出ず悩んだ時は、焦らずに一呼吸おいて自問しながら再スタートを切って下さい。 (保井和毅さんプロフィール) 1977年3月兵庫県西宮高等学校卒業 1978年4月国際商科大学商学部入学(小峯ゼミ/ELI: English Language Institute) 1982年3月同校卒業 1982年4月日本電気株式会社入社 第一LSI事業部計画部配属 1986年6月半導体企画室海外推進部異動 1990年6月北米電子デバイス部異動 1999年6月製造装置ソリューション事業部(ITシステム営業)移動 2008年6月NEC Europe Ltd. NEC SAP Solution Center(ドイツ)駐在 2012年6月APAC営業本部へ帰任(ITソリューション全体統括) 2016年4月財団法人 国際情報化協力センタ(CICC)兼務 2019年4月日本電気株式会社退職 2019年5月~2020年5月日欧ビジネス開拓コンサル 2020年6月ELATEC GmbH日本代表就任 2022年9月ドイツECOSコンサルティング 特別顧問就任(副業) TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
保井 和毅さん(1982年商学部卒業 小峯ゼミ ELI(English Language Institute)2023年7月1日TIUとウイラメット大学1978年4月に国際商科大学(TIU)に入学しました。当時は、外国の歴史、国際関係の理解深堀と必要な語学力を高めグローバル人になりたい思いが漠然とありましたが、特に専門の学行などに行くこともなくマイペースな独学で英語など勉強していました。 2年時の夏休みにアルバイトで貯めたお金でリンガフォンと言う英語教材を購入し、ややスイッチが入った感がありました。3年時からは小峯ゼミで国際金融論を専攻しました。当時の欧州通貨制度関連の文書を読まされましたが、現在の共通通貨ユーロへの生みの苦しみなどの流れが概念的に理解出来ました。 それと、並行し中学から始めた陸上競技(短距離)を継続していました。残念ながら、当時のTIUには陸上競技部がなく、近くの入間川グランドでの自主トレからの出発です。 幸いに、英語はELI(English Language Institute)、陸上は小川町のチームからお誘いがありようやくメンバとしての活動が叶いました。 1980年夏のウ大のスカラシップを受験したのですが、確か最後の3名まで残り、自分以外の2名が公費留学生に採用されました。その2名の中の1名が同郷の兵庫県立芦屋高校出身の和田昇君で、就職後現在も付き合いが続いています。当方も、御慰めで夏季セミナーの奨学金を頂く事出来たのでが、当然参加させていただきました。 (ウ大でカウンセラーをしていただいたJudyさんと。小柄でチャーミングでテニスが上手な方でした。英語の発音をバッチリと叩き込まれました。英会話は、かなり自信がつきました。) 就職活動1982年の就職戦線は、TIU全体でも好調だったと思います。小峯ゼミでは、東京海上、三菱商事、三菱銀行など大手超一流企業の内定者が続出しました。当方も、運よく日本電気、キャノン、City Bankなど複数社で内定を頂きました。悩んだ末、当時理系・文系男子人気ナンバーワンの日本電気に入社する事にしました。日本電気には、1名だけTIUのOBの方がおられ、自分以降も続いて欲しいなと感じていましたし、入社後数年間は毎年数名の在学生がOB訪問として当方へ来られていました。1名の方が入社されたのは記憶がありますが、残念ながら途中で退職されています。 今は、当時とは大分事情が違うと思いますが、入社したらどこの大学出身とか関係ないと思います。すべて、ゼロスタートで個人の成長に委ねる事が非常に大きいと感じています。 咋今の学歴フィルータは、受け入れ企業側が効率を優先(応募の数を絞る)するには仕方がない方法ですが、実力のあるB,Cランク大学の学生に取り残念な手段だと思います。ただ、今は個人の情報発信がかなり自由に出来るので、いい意味で目立つ活動を在学中にされたらいいと思います。パフォーマンスは処世術として姑息な手段とも取れますが、会社に入っても重要となります。 日本電気入社前半は半導体ビジネス:1982年に入社後、すぐに半導体事業グループの当時の最先端半導体の工場の管理部門に配属されました。希望していた海外営業でなく暫くふて腐れていましたが、モノ作り側なので表面的ですが技術あるいは供給側のサプライチェーンなどの理解に役立ちました。 当時NECは半導体世界ナンバーワンで、毎年海外の工場の大型投資を進めており、その仕事に関われたこともモチベーションの向上に繋がりました。当時は、海外ビジネスに携われる人材が不足しており、入社2-3年の当方も数億円の投資企画書の作成を自ら作成せざるを得ない状況でした。地球儀を俯瞰しながら、グローバルサプライチェーンの最適を上司・仲間と検討する日々でした。 入社当時のNEC相模原事業場です。当時最先端の6インチウエハーの工場でした。この様な工場が、日本のみならず、北米、欧州、シンガポール等で複数稼働していました) 最初の転機は、結婚後の1988年です。上司から、UKの工場の管理部門に行かないかとの打診がありました。ただ、マーケットに向かい合いたい希望が擽っていたので営業部門への異動を希望し、北米向けの半導体営業への異動が実現しました。ASICと言うカスタム(顧客用途別)LSIの担当となり、米国法人の営業と連携しIBM、AT&Tなど大手ICT顧客からDesign win獲得のため出張などを重ねながらビジネスの拡大を進めました。当時は、係長でしたが年商50億円+の予算が与えられていました。営業は顧客が優先ですが、モノ作り部門出身というサプライサイドでの経験は大いに役たちました。 ビジネスは、Market in であつてProduct outではだめだ(主にB2Bですが)とよく言われますが、十分な供給側のマーケティング、高い技術力のある分野では後者も通じると思います。素材、部品など一部の日本企業はproducts outパターンでも対応出来ますが、それ以外の分野は厳しくなりました。 その後、北米の半導体販売会社への駐在の話などもありましたが、今度は海外営業グループの企画・新規ビジネス関連部門への異動が命ぜられました。バブル後に、会社として海外含めて売る新製品が不足する大変な時期でした。カラー液晶の海外営業組織が立ちあがり、営業での再登板となりました。この製品も、やはり日系の大手企業が複数参入してきました。当初から、いずれ台湾・韓国勢に追い抜かれると言う半導体事業と同じ構図がグローバルでも描かれていました。 営業アプローチは、シンプルで従来のCRT(ブラウン管)モニタを使用している業種・顧客への売り込みです。主に、PC、Work station、POCレジなどのメーカであるApple, Compaq, Dell, Sun Micro,台湾系PC OEM,NCRと測定器などのTechtronics, Agirentなどが主要顧客です。現地営業の日々の営業活動と日本からの新規技術紹介などを連動させ事業拡大を進めました。 ただ、IBMはPCビジネスのHQが神奈川県大和市にあり、そこの開発購買へのアプローチが重要です。日本での直販は初めてでしたが、これがまた楽しく社会人人生後半へ生かすことが出来たと(今から振り返って)感じます。本来、海外市場で営業活動するのがグローバルと捉えていたのが、日本も含めての活動がグローバルとの概念へと軌道修正した瞬間でした。確か、世の中も「海外、国際」から「グローバル」と言う言葉が使用された時期でした。 (三田にあるNEC本社ビル。本社スタッフ、営業部門が集結しています。) 後半はICTビジネス1990年代後半から、米国のパソコンメーカ、Microsoftなどが一気に日本へ参入して来て、IT、情報化と言う言葉が広く使用されだしました。日本の半導体メーカの凋落が始まった時期でした。転職なども考え、Intel社まどから内定がもらえましたが、最終的には社内公募制度で情報システム部門へ異動しました。これは、専業企業では転職そのもので、すべて一からの出直しを覚悟し臨みました。 組織デザインも全然別で、全ての損益責任はフロントの営業が持つ仕組みです。ご存知の通リ日本のIT企業の多くは自社製品単品のビジネスモデルでなく、仕入れ製品、SE(System Engineer)のシステム開発費用、アフターサービス等含めたSystem integrationモデルです。これは、日本独特のモデルで、後々グローバル化が上手く進まないと言う事に気ずく事になります。大変なとこに来たなと感じました。 異動先の事業部長と相談し、最初は勉強も兼ねSE部門のプリセールスとしてERP(Enterprise Resource Planning)ソフトおよびSystem Integrationの拡販を進めました。ERPソフトは従来の汎用機(大型コンピュータ)上ですべて個別開発していたシステムに代わる業務パッケージソフトです。基本的な業務プロセスは、Pre Packageされているので開発工数の低減と早期導入が可能と言うのがうたい文句です。ただ、お客様の生産管理、販売管理などの理解がないと追加開発領域が多くなるので、業務コンサル的なサービスが必要となります。 当方が、異動出来たのは半導体中心ですが、生産、販売、グローバルの経験があり、それなりにお客様先で語れるのが大きな理由だったと思います。担当は、日本の大手製造業でしたので、当然システムもグローバル展開が条件となります。ここで、ようやく得意と感じていたグローバルが出てくるわけです。 ただ、お客様が製造業と言う事もあり、東南アジア、中国の工場システム案件が多く一度は欧米から離れる事になります。海外出張でお客様の情報システムの方に会うと、その方の同期の東京の何処の誰だれはどうしているか・・。など宴席で聞かれながら商談をしたことが多々あります。日本人全般ですが、海外にいると本社情報が少なくなり気になるのでしょう。お客様本体との間柄を上手くブリッジするのも営業の役目です。本当に、Domesticなグローバルビジネスでした。 新事業を担当した時期もありました。RFID(Radio Frequency Identification)ソリューションの立ち上げの際には、米国のWal Mart様に大胆にも出向きました。彼らの商品の入出庫、倉庫業務の効率化システムの提案を行うのが目的です。何度もアーカンサスにある本社に足を運びました。結局、現地体制が上手く出来ず受注には至らずでした。しかし、世界ナンバーワンの企業と仕事が出来たのは自分含めてメンバにもいい経験だったと思います。 ドイツ企業とのアライアンスと駐在:その後、社内でもIT部門のグローバル化の推進と外資大手企業とのアライアンス推進の動きが加速し始めました。双方のマーケット(顧客)を連携して深掘する戦略です。綺麗な絵ですが、現場の営業レベルに落ちるとドロドロした事となります。そのような状況の中で、2008年の春頃に上司の事業本部長から突然ドイツのSAP社とアライアンスと市場開拓の目的でドイツに行くよう命じられました。 理由は、「欧米でIT関連の仕事を任せられるのはお前しかいない」との事でした。エレベータ内のやり取りで周りの連中も聞いていました。あえて、その場を利用したのでしょう。すでに、現地組織の立上げスケジュールも確定し、メンバもほぼ確定していた様でしたが、マネジメント、対外折衝、営業活動など雑用役として白羽の矢が立ちました。 時間が無い中で、組織の役割、企画案など作成し関連部門と調整しコメントを貰おうとしましたが、誰も経験が無いのでいい回答が得られませんでした。不満と不安が募り、辞令を拝命した例の上司に話したところ、目の覚めるような返事が返ってきました。「気持ちは分かるが、お前が不安になれば皆が不安になる・・・・」。これは、上司との信頼関係が構築されており、すべて思った通リにやれと言う内容として励みになりました。駐在は、いろいろ家族とも話し合いましたが子供の教育などもあり単身で行くことになりました。 (40歳後半で単身赴任前の家族での送別会です。もう少し、時期が早ければとも思いましたが・・。) 2008年7月14日に現地に到着し、ドイツ南西部Baden-Württemberg州のマンハイムと言う町に住む事にしました。人口40万の中堅都市でしたが、職場、フランクフルトなどへのアクセスもよく快適な暮らしができました。 (マンハイムのダウンタウンの入り口の公園です。季節の色とりどりの花が美しく クリスマス・マーケッとも開催されます。) 業務は、事務所立上げから始まり現地法人内での組織、ITシステムの適用、エンジニア用のコンピュータルーム、IT機器・事務機など調達、ドイツ人秘書の採用など一からです。次は、日本から帯同したエンジニアの仕事の内容を本社、他地域のメンバと調整しながら進めました。SAPと言うグローバル業務ソフトにNECのソリューションを連携しグローバルで売れるようにする仕組み作りです。当然、SAP本社、関連するITパートナへの連携も重要です。ほとんど、部下とパートナなどのモチベーション向上の仕掛け作りが仕事です。 一方、自分としては、やはり営業ですので日系のお客様が中心になりますが現地での市場開拓に邁進しました。10人弱の組織で対外的に如何に影響力を持たせるかが重要な役割です。営業も、SAPのような大きなシステムは東京本社含めたお客様コンタクト無ではそうは売れるわけではないので、適時東京に戻り東京の営業との顧客訪問などを行いました。ドイツ顧客に対しては、手離れがいい商材を本社から持ち込みドイツ企業などへアプローチをかけました。先日も、当時のドイツのお客様の社長とコンタクトしたりして、ネッとワークは今でも役立っています。 また、欧州のIT企業への出資などの戦略も本社側で検討していた時期で、何社かの評価など本社の企画部門の方と進めました。ご存じの方も多いかと思いますが、日系IT企業が得意としているのは単品の販売ではなくSystem Integrationです。お客様の、戦略ならびに業務を理解しITで課題解決を提案する内容です。その為、各地域、国のお客様自身のビジネスが理解出来ているIT会社を買収するのが手っ取り早くなります。競争力のあるハードウェア製品を保有している企業に比べ、グローバル化の難易度が一段と上がります。ただ、現地でしか出来ない経験が出来たのは、僅かな成功体験よりよかったと思います。 また、余暇の話は腐るほどあるのですが割愛させていただきますが、一点前述の和田昇君もPanasonicの社員としてドイツのハンブルグに同時期に駐在されており偶にフランクフルトで合流しました。現在も交流が続いています。 2012年の春に帰任する事になりますが、ドイツ駐在で得た経験、人脈がその後役立つ事になります。帰国後は、中華圏APAC営業本部で大洋州・シンガポール地域の営業とITソリューション軸で本部責任を担う事になりました。 方針はシンプルで、シンガポールにSAP, MicrosoftのERP要員がいましたので、彼らの体制強化と他のAPAC地域へのビジネス展開です。上記のERP製品は他社製品ですのでプラスで自社製品、例えばPOS端末などと連携した流通業向けSystem integrationメニューの強化などを行いました。欧米に比べ、アジアは多少日本と近いITビジネスモデルがあるのとNECの企業バリューが高いので、数字は上がりました。 2014年には、国際情報化協力センタ(CICC:Center of the International Corporation of Computerization)を兼務しました。ここは、元経済産業省の外郭団体で日本の大手IT企業の参画をベースに東南アジアを中心にICTの協力、企業側としてはODAなど国際協力資金を活用したビジネスの拡大を推進する組織です。すでに、55歳になっていたのでNECでの最後の楽しみ場所と考え、好きな様にさせてもらいました。海外の政府機関との折衝などは初めての経験で勉強になりました。CICCの名目でNECの災害、防衛、サイバーセキュリティなどの提案を行い、実証なども行いました。内戦前のミャンマーとかバングラディシュ、カンボジアなどの警察・軍関係の方々面会出来たのは貴重な経験でした。 NEC卒業後と現在最終的には、2019年にNECを予定通り退職しましたが、帰任後も、ドイツ関連の方々とのネットワークを大切にしてきたので、その腐れ縁が思いもよらぬ方向へ進みました。 現在は、駐在中に名刺交換をさせていただいたドイツの人材会社のご紹介もありELATEC GmbHの日本代表(と言つても小所帯ですが)をさせて頂いています。日本市場の立ち上げに日本企業の本社とのアライアンス、新規市場開拓です。コロナ下で、なかなか本社のミュンヘンには行けませんでしたが、昨年の10月のお客様セミナ+Oktober Festでの打ち上げに入社前面接以来久々に行く事が出来ました。 (現会社のお客様向けセミナおよびイベントに参加、2022年10月) 長々と、お付き合いいただきありがとうございました。最後になりますが、振り返り自分の歩いたグローバルビジネスは、遠回りしながらも多数の方々に支えられて来たのだと思います。 何十年も外国でご活躍されている優秀な方とは違い、日本国内の営業も経験出来たのが現職の外資系企業では評価されたのかも知れません。特に、これから社会人になられる方は人生長丁場となります。数年で成果が出ず悩んだ時は、焦らずに一呼吸おいて自問しながら再スタートを切って下さい。 (保井和毅さんプロフィール) 1977年3月兵庫県西宮高等学校卒業 1978年4月国際商科大学商学部入学(小峯ゼミ/ELI: English Language Institute) 1982年3月同校卒業 1982年4月日本電気株式会社入社 第一LSI事業部計画部配属 1986年6月半導体企画室海外推進部異動 1990年6月北米電子デバイス部異動 1999年6月製造装置ソリューション事業部(ITシステム営業)移動 2008年6月NEC Europe Ltd. NEC SAP Solution Center(ドイツ)駐在 2012年6月APAC営業本部へ帰任(ITソリューション全体統括) 2016年4月財団法人 国際情報化協力センタ(CICC)兼務 2019年4月日本電気株式会社退職 2019年5月~2020年5月日欧ビジネス開拓コンサル 2020年6月ELATEC GmbH日本代表就任 2022年9月ドイツECOSコンサルティング 特別顧問就任(副業) TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
TIUとカセットテープが私の人生を変えた
吉野宏さん(1975年商学部卒業、本田実ゼミ、マンドリン愛好会)2023年5月1日2次試験のある国際商科大学(現東京国際大学)へ入学1971年の春は私にとって憂鬱な季節でした。第一志望の早稲田を落ち、第二志望の明治にも入れず浪人を考えていましたが、弟がいてそれも許されずまだ間に合う大学を探して国際商科大学(現在の東京国際大学)に入学しました。国際人になるための英語教育や少人数でのチュートリアルや専門分野ゼミがあるとのことに興味を持ちました。 高校も第一志望には入れなかったので回復力はある方でしたので、すぐに気持ちを入れ替えて学生生活をエンジョイすることにしました。クラブ活動は、マンドリン愛好会を同期の仲間と作って楽しみました。マンドリンなら女の子も入って来るだろうと期待していたのですが、一人だけ後輩が入って来ただけでした。ゼミは、本田実ゼミで商学、貿易の授業が多く先輩や同期には商社へ就職した者が多くいました。海外に行きたかったので私も自然と商社希望になりました。 1974年、4年生になった私は5月から就職活動が始まりました。当時は、まだ就職協定が比較的守られている時代で、大手企業は5月1日から会社訪問が解禁、7月1日に一斉の入社試験がありました。つまり、活動は2ヶ月間でその間に第一志望の会社を決めて、7月1日に受けるという一発勝負の試験でした。会社訪問をすると、“もう他には行かなくていいのではないのですか”というように柔らかく内示の感触をくれるところもありましたが、反対に会社によっては「国立大学、6大学、他」のように受付の机が分けられているところがあり(今だったら差別で問題になったでしょうが)こんなところに入ったら派閥や格差があって大変だろうと思って申し込みもせずに帰ったことを覚えています。 ということで、三菱商事、三井物産、丸紅の当時の3大商社は諦めて、中堅の商社に狙いを定めました。M商事、K商事、Y商事などです。大手の総合商社と違って鉄鋼や木材などの特定の分野に強い専門商社です。一次試験は何とか受かり2次、3次面接まではいくのですがそこで全て落ちました。前年からの第一次オイルショックで商社は景気が悪くなり採用人数を削減していたのも理由の一つでしたが、数年後にこの3社が苦しんでいるのを日経新聞で知った時は複雑な気持ちでした。 当時の録音テープのブランドTDK(東京電機化学工業)に内定 大学の就職課の担当者からは、銀行やメーカーでは駄目なの?と言われ、商社に拘ってもしょうがないという気持ちもあり、他の業種の会社訪問を考えました。その中で、K銀行と外資系のM石油から内示を貰えましたが、試験を受けに行ったのはTDKでした。当時は、まだ社名を東京電機化学工業という古めかしい名前でした。TDKは録音テープのブランド・商標として使われていました。東京のT、電気のD、化学工業のKの頭文字を取ったもので、その後私が入社して数年後に正式に社名をTDKに変更しました。株式欄に英文表記した日本で最初の会社です。因みに、ソニーは今でも“ソニー“です。 何故TDKを選んだかというと、私が最初に使った録音テープ、当時はまだオープンリールテープでしたが、それがTDKだったのです。その後にカセットテープになるのですがそれもTDKが最初でした。そういう意味では何か縁があったのでしょう。就職課の担当者からは、まだ大きな会社ではないが、成長性がある会社だからいいのではと言われて会社訪問に行ったのを覚えています。一部上場はしていましたが、売り上げはまだ600億円、株価は450円の会社でした。ただ利益率が良いのが目立っていて10%の60億円はありました。今年の3月の売り上げが2兆2,000億円、利益が1,900億円、株価は4,700円(株式分割前の高値は17,000円)ですから、隔世の感があります。 私は試験には縁がないのか、実力以上の高望みなのか分かりませんが、高校、大学、就職と第一志望に受かったことはありません。1回で受かったのは自動車の免許の試験だけでこれは競争率が無く基本的に落とす試験ではないので受かったのでしょう。そういう状況ですから、就職も第一志望に受からなかったことはあまり気にならず、TDKの試験を受けました。筆記試験では前の日に読んだ日経新聞の記事と同じ問題が出ましたし、英語もそれまでに受けた会社の中では一番出来たので、これで駄目ならばしょうがないという気持ちでした。 2次の役員面接では、希望の職種と勤務先を聞かれましたので、磁気テープの営業を希望し、勤務地は次男なので国内・海外のどこでも可能ですと答えました。結果的にはこれが良かったのかも知れませんがとにかく入社試験に受かりました。 テープ事業部に配属され、神戸出張所に転勤になる 同期入社が28人いたのですが、技術職を含めて電子部品部門を希望したのが26人で磁気テープ部門を希望したのは私を含めて2名でした。私はTDKはテープの会社だと思っていたのに本流は電子部品だったのです。発祥がマグネットやフェライト、コンデンサーの会社ですから。ということで、磁気テープの営業部門に配属されて最初は秋葉原の電気店の店頭で3ヶ月間テープの販売応援をやらされました。TDKという会社に入ったのに、毎日の出勤は秋葉原の代理店、それから電気店に行くという毎日で、土日も休みがありませんでしたので入社前のイメージとは違って少し嫌な気持ちになりました。(宣伝・商品企画時代に勤務していた当時の東京・日本橋の本社ビル) カセットテープはTDKが一番売れていると思っていましたが、当時はSONYが一番でTDKは2番目、マクセルがマニアの中で意外と人気なのも分かりました。コンシューマービジネスではお客さんと接することが重要なので、店頭販売は貴重な経験でした。3ヶ月の実習訓練も終わるといよいよ先輩の営業マンと一緒に営業に出るOJTが始まりました。営業は販売代理店への営業と直販店(大手の電気店やレコード店)に分けられます。 挨拶の仕方や名刺の渡し方から始まって、製品紹介、キャンペーン案内、価格交渉などと営業のイロハを先輩から教えて貰いました。私が配属された東京営業所は全国でも一番売り上げが多くて、月商で1億ぐらいだったと思いますが、このような地道な営業活動の積み重ねが大きな数字になるのだと肌で感じることが出来ました。 10月になるとOJTも終わり、営業部長から“いよいよ出番だよ“と言われ、神戸出張所に転勤になりました。生まれてからずっと関東以外を知らなかったので少し不安でしたがこれから始まる新しいことに対する期待の方が大きかったことを覚えています。この神戸行きが私のその後の人生を大きく左右するのですから、やはり人生は運と縁が大事だと思います。神戸は、大阪のように大きな営業所ではなく小世帯の出張所でした。所長と先輩の営業マンが2人、事務の女性が1人でした。(この女性が後に私の妻となります) 神戸出張所のテリトリーは兵庫県と岡山県です。先輩の一人が岡山を担当し、兵庫県をも一人の先輩と私が担当することになりました。神戸で一番賑やかな三宮から大阪よりの東の大きな市場を先輩が、西の明石、姫路方面を私が担当しました。私はTDKのテープはトップブランドなので、アタッシュケースを持ってカッコよく売りに行けると思っていましたが、現実は違っていました。コンシューマービジネスのヒエラルキーは、ユーザーが一番上で、次が小売店、それから販売代理店でメーカーは一番下です。私がイメージしていた階層と真逆です。従って、私のようなメーカーの営業マンは全てに頭を下げてお願いしなければならないことを学びました。しかし、このようにして物が売れて行くのだという仕組みを知ったことは私のその後の仕事の底辺に根付いたので良い経験になりました。 この時の営業の仕事で大変だったことがあります。代理店営業ですが販売代理店は文字通りTDKの営業マンの代わりに町の電気屋さん(当時は松下電器や東芝のお店)にテープを売ってくれるのですが、この代理店は何百種類以上の製品を扱っているのでTDKのテープだけを売ってくれるわけではありません。そこで如何にして他の製品よりもTDKのテープを売って貰えるようにするかが大変でした。それで当時やったのが“トラックセールス”という手法でした。代理店の営業部長に頼んで市場の巡回という名目で営業マンのトラックに乗せて貰い一緒にテープを売るというやり方です。代理店の営業マンも私が一緒にいるので、その日は電気屋さんにテープを売り込まないわけにはいかないのです。 これを続けていくうちに代理店の営業マンにも気に入られてTDKの製品に力を入れて売ってくれるようになりました。営業の基本“製品よりもまず自分を売れ”を身を持って体験した訳です。神戸に転勤になって2年目の春に事務をやっていた女性と結婚しました。 神戸に行かなければ、妻とは結婚しなかったのですからこれも運命・縁でしょうか。(神戸出張所のメンバーと。左端が私で右側から2人目の女性が現在の妻です) もう一つあります。大阪でエレクトロニクスショーがあり、手伝いに神戸からも人を出して欲しいと要請があり、新人の私が行きました。会場には本社から宣伝担当者が来ていました。 準備や製品紹介の合間にその宣伝担当者と話をする機会がありました。私のことを気に入ってくれたのか、今、宣伝部員を増員しようと考えているのでもし興味があれば上司に話してくれると言われました。即答はしませんでした。営業を始めてまだ3年なのでやっと営業の面白さが分かって来たところでしたから。ただ、当時全国で営業マンは50人ほどいたと思いますが、私が全国最年少営業マンでした。何故ならば、第一次オイルショックの不況で文系の新入社員は私が採用されてからは2年間採用されていなかったからです。 当時は営業所長の権限は大きかったので私も営業所長になりたいと思いましたが、上に営業マンが50人もいるのでは難しいと思い、宣伝の仕事に興味があったこともあり本社の宣伝部の誘いに手を挙げました。営業所長からまだ早いと言われましたが、最後は快く送り出してくれたので感謝しました。 本社に転勤になり、営業企画部で宣伝担当になる本社の宣伝の仕事は営業の仕事とは全く違っていて最初は戸惑いましたが、やっていくうちに面白くなり自分でいうのもおかしいですが、自分にはこれが天職かなと思えるようになり、仕事に打ち込みました。 誤算は私を誘ってくれた先輩の宣伝担当者が、私を宣伝部に誘っておきながらすぐに会社を辞めてオーディオ評論家になってしまったことです。私はそれからしばらくは一人でカセットテープの宣伝担当をやりましたが、当時のお金で年間16億円使っていました。まだ26歳の若手にそれだけのお金と仕事を任せてくれた会社に驚きと感謝ですね。ここで宣伝時代の思い出話を記します。 私が入社した1975年(昭和50年)はカセットテープ市場が拡大しようとする時でした。当時私が神戸で営業を担当していた時にテレビCMでは愛川欽也の“お宅何DK?俺TDK!”が流れていました。その後に当時のアイドルの榊原郁恵、キャンディーズを起用、TDKの知名度は一気に上がり売り上げも急増してついにSONYを抜いて業界一になりました。 しかし、出荷総数では勝ててもHiFi分野では未だSONYには勝てませんでした。 営業から宣伝に移った私は調査・分析をしてTDKとSONYの差は音楽イメージであると 確信しました。相手は、ハードとソフトを持った世界のSONY、普通のことをやっていては勝てないと思いました。 1981年音楽の基準となるテープ“ミュージック・リファレンス”をコンセプトに音楽用カセットADの新製品を発売。それを機会に大キャンペーンをやることになりました。タイトルは“アメリカン・サウンド・シーン”、クラシック、ジャズ、ポップス、ロック等、全ての音楽があるアメリカの音楽シーンを宣伝のコンセプトにしました。 その象徴として、第一弾は当時ディスコミュージックで人気のアーチスト“ビージーズ”を起用、翌年の1982年にはグラミー賞7部門を受賞したスティービー・ワンダーを起用した。NHKのプロジェクトXでも紹介された有名な言葉“TDKが私を選ぶ前に私がTDKを選んだ”。 スティービー・ワンダーのCM撮影のため、2週間の同行は感動的でした。私は彼のコンサート、CM撮影のため2週間彼と同行しました。ニューオリンズのスーパー・ドームのコンサートでは数万人の観客が彼の音楽に熱狂しました。CMの撮影は、ニューメキシコ州のサンタフェ(あの宮沢りえがヌード写真集を出した場所)近くのホワイトサンズいう砂漠。目が見えないスティービーが砂漠を走るシーン、スティービーには彼の兄が持つラジカセから流れる音の方向に走ってくれと頼みました。転んでも下は砂漠の砂で怪我はしないというと彼は走ってくれ、感動的なシーンが撮れました。(スティービー・ワンダーと二人で撮った写真があるのですが、肖像権の関係でお見せ出来ないのが残念!) スティービー・ワンダーは片時も音楽と離れずいつも音楽を聴いていました。撮影の合間でもラジカセで、もちろん横にはTDKのテープがありました。移動中も自分の耳の形に合わせた特製のイヤホーンで音楽を聴いていました。私はスティービーにインタビューを申し込んでいましたが、2日経ってもO.Kがもらえませんでした。3日目の夜中12時頃、今からならばO.Kと言われると眠い目をこすりながら彼の部屋に行くと彼はいつものように音楽を聴いていました。彼に音楽との関わりについて話して欲しいと尋ねました。 通訳は区切りながら進めるかと聞いてきましたが私は時間がもったいないので、通訳はいいから進めてくれと言いました。彼は音楽で世界中の人を幸せにして、平和にしたいということを語り始めました。この時ほど自分の英語力の無さを悔いたことはありません。その後1985年スティービーは、”We are the world” を多くのミュージシャンと一緒に歌いその夢を実現させました。 アメリカン・サウンド・シーンのキャンペーンはTDKのイメージを一気に変えてくれ、TDKは名実ともにSONYを抜きトップになりました。多くの大学生がスティービー・ワンダーのCMを見てTDKへ入社しました。現在の社長は私もその一人であるとTDKタイムズで語っています。スティービー・ワンダーは、TDKの音楽性を高めただけでなくリクルート効果も果たしてくれたようです。 商品企画課では、カセットテープの新製品企画を担当するその後私は商品企画部に移り、新製品の企画を担当することになりました。宣伝では出来上がったものをPRする仕事でしたが、今度は製品そのものを企画・造る仕事に携わることになったのです。数年はカセットテープの市場が拡大していたので企画する製品がヒットして良い時代でしたが、その後市場が成熟してカセットテープが趣味の製品からコモディテー化すると差別化が難しくなりました。それにCDコンパクトディスクの登場が拍車を掛け需要は落ち込んでいくことになりました。 そんな時、アメリカで商品企画が出来る人が欲しいということになり、私が行くことになりました。TDKには自己申告制度があり毎年自分がやりたい仕事や行きたい勤務地の希望を出せる制度です。私は大学時代から海外に行きたかったので、毎年海外赴任を希望していたのですがそれがかなわず16年が過ぎていました。 子供が中学生になっていたのでもう海外はいいなということで取り下げたのですが皮肉なことに声が掛ったのです。少しは迷いましたが、海外で仕事をするのは学生時代からの夢だったので行くことにしました。 (私が商品企画をしたカセットテープの一部) アメリカ・ニューヨークの現地法人に転勤になり商品企画を担当赴任先はニューヨークの現地法人です。アメリカにはカセットテープを製造する工場がカルフォルニアにビデオテープを製造する工場がジョージアにありましたが、商品を企画する部門はなく日本にその業務を委託していました。それを私が現地で行い日本の商品企画・デザイン・開発部門と連携して進めていくことでした。現地化の走りでした。 英語も堪能でなかったのでアメリカ人の部下とのコミュニケーションにも苦労しましたが、アメリカ市場でのTDKブランドの浸透・拡大という共通した目的を共有することが出来ればアメリカ人とでも仕事は出来るのだということが分かりました。 (TDK ELECTRONICS CORPORATION 社屋) (オフィスの部屋) 家族とアメリカ生活をエンジョイ 一緒に赴任した家族のことも心配しましたが、現地校に入った息子も最初は英語の授業に苦労していましたが、1年も経つと私よりヒアリングは上になり学校の授業にも追いていけるようになりました。子供が落ち着くと母親も安心するのか、友達とマンハッタンにミュージカルを見に行くようになり、私は毎週のゴルフと家族皆がアメリカ生活をエンジョイするようになりました。休みにはナイアガラの滝、グランド・キャニオン、イエローストーンとアメリカの自然を満喫できたこともいい想い出です。 (ニューヨークで住んでいた家) (自由の女神の前で家族と) 日本に戻り、磁気テープ営業からTDK本流の電子部品営業で心機一転 6年間の赴任後日本に戻りました。既にカセットテープやビデオテープの市場は販売価格が下がり利益が出ないビジネスとなって来ていました。新しいビジネスを模索するためにTDKのブランドと技術を使った製品の商品企画部門やパソコンを使った教育ソフトの営業企画部門の仕事をしました。そして、また大きな転機が訪れたのです。アメリカに私を推薦してくれた先輩が定年退職するので、後任に私を推薦してくれたのです。 部署は、もう一つのTDKである電子部品事業部の宣伝部門です。テープビジネスが好きで入ったのですから、テープビジネスを最後まで見届けたいという気持ちが強かったのですが、先細るビジネスに将来を見いだせなかったのと自分のキャリアを生かせる仕事をしたいと思い、先輩の誘いを受けることにしました。しかし、電子部品の宣伝はテープの宣伝とは全く異なっていました。 テープの宣伝は個人のユーザーが対象なのに対して、電子部品の宣伝は企業の購買担当者や技術者です。所謂、B to CとB to Bの違いです。製品の種類とアイテム数がテープの比ではなく技術的にも難しい製品が多いのでそれを理解するのは大変でしたが、優秀な部下が多くいたので助かりました。定年までの8年間でTDKの本流の電子部品でのビジネスを経験できたことは後で振り返ると良かったと思います。誘ってくれた先輩に感謝です。 こうして、満60歳で無事定年を迎えられました。再雇用の制度もあったのですが、今のように良い条件でなかったこともあり、同期の28人で残ったのは1人だけでした。 定年後はインターネット放送などのボランティア活動で楽しんでいます。定年後は生活のために仕事をする気はなく、現役時代にお世話になった広告協会から誘いを受けた仕事を手伝ったり(無給)、住んでいる地域で始まったFM放送のボランティアをやり、今はインターネット放送の番組でMCをやっています。私が2番目の年長者でほとんどが若い人ですが刺激を貰って楽しんでいます。 (地元のインターネット放送でMCを担当) TIU同窓会もグローバル化が高まっていくことを期待しています。TIUの同窓会へは定年する少し前の現役時代から誘われていたのですが、茨城県支部の会に参加するようになったのは定年退職してからです。4年前に順番で支部長になり現在4年目を迎えています。最初は持ち回りの2年間だけのつもりでしたが、関東ブロックの私より若い支部長たちの同窓会を良くしたいという熱意に影響を受けて支部長を続けています。 霞会の各支部同窓会活動にもっと多くの若い方々の参加が増えて、国内外の霞会ネットワークが広がると良いですね。 今年の秋には池袋キャンパスが出来て、名実と共に“東京国際大学”となります。グローバルな時代と言われて久しいですが、私が学生だった頃とは違って、ビジネスや文化、レジャーもグローバル化が当たり前の時代になっています。そうした時代に大学の後輩に臨むことは、日本人というアイデンティティを失わずに積極的に多くの大学にいる留学生とコミュニケーションを取り、そして海外に飛び出して外国の良さを吸収して真のグローバルな人材になってくれることを期待したいと思います。 (茨城県支部の総会で会員の皆さんと) (吉野宏さんプロフィール) 埼玉県川越市出身 1971年私立城北高校卒業(東京) 1975年国際商科大学(現東京国際大学)商学部卒業(7期) 本田実ゼミ マンドリン愛好会 1975年東京電機化学工業株式会社(現TDK株式会社)に入社 1975年神戸出張所に転勤 1979年東京本社に転勤 営業企画部で宣伝担当 1986年商品企画課に異動 1991年アメリカ・ニューヨークの現地法人TDK ELECTRONICS CORPORATIONに赴任 1997年日本に帰国、 磁気テープ事業部・応用商品部の商品企画部門 2004年電子部品営業事業本部 宣伝企画部に異動 2012年TDKを定年退職 2019年TIU霞会茨城県支部長に就任して現在に至る TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
吉野宏さん(1975年商学部卒業、本田実ゼミ、マンドリン愛好会)2023年5月1日2次試験のある国際商科大学(現東京国際大学)へ入学1971年の春は私にとって憂鬱な季節でした。第一志望の早稲田を落ち、第二志望の明治にも入れず浪人を考えていましたが、弟がいてそれも許されずまだ間に合う大学を探して国際商科大学(現在の東京国際大学)に入学しました。国際人になるための英語教育や少人数でのチュートリアルや専門分野ゼミがあるとのことに興味を持ちました。 高校も第一志望には入れなかったので回復力はある方でしたので、すぐに気持ちを入れ替えて学生生活をエンジョイすることにしました。クラブ活動は、マンドリン愛好会を同期の仲間と作って楽しみました。マンドリンなら女の子も入って来るだろうと期待していたのですが、一人だけ後輩が入って来ただけでした。ゼミは、本田実ゼミで商学、貿易の授業が多く先輩や同期には商社へ就職した者が多くいました。海外に行きたかったので私も自然と商社希望になりました。 1974年、4年生になった私は5月から就職活動が始まりました。当時は、まだ就職協定が比較的守られている時代で、大手企業は5月1日から会社訪問が解禁、7月1日に一斉の入社試験がありました。つまり、活動は2ヶ月間でその間に第一志望の会社を決めて、7月1日に受けるという一発勝負の試験でした。会社訪問をすると、“もう他には行かなくていいのではないのですか”というように柔らかく内示の感触をくれるところもありましたが、反対に会社によっては「国立大学、6大学、他」のように受付の机が分けられているところがあり(今だったら差別で問題になったでしょうが)こんなところに入ったら派閥や格差があって大変だろうと思って申し込みもせずに帰ったことを覚えています。 ということで、三菱商事、三井物産、丸紅の当時の3大商社は諦めて、中堅の商社に狙いを定めました。M商事、K商事、Y商事などです。大手の総合商社と違って鉄鋼や木材などの特定の分野に強い専門商社です。一次試験は何とか受かり2次、3次面接まではいくのですがそこで全て落ちました。前年からの第一次オイルショックで商社は景気が悪くなり採用人数を削減していたのも理由の一つでしたが、数年後にこの3社が苦しんでいるのを日経新聞で知った時は複雑な気持ちでした。 当時の録音テープのブランドTDK(東京電機化学工業)に内定 大学の就職課の担当者からは、銀行やメーカーでは駄目なの?と言われ、商社に拘ってもしょうがないという気持ちもあり、他の業種の会社訪問を考えました。その中で、K銀行と外資系のM石油から内示を貰えましたが、試験を受けに行ったのはTDKでした。当時は、まだ社名を東京電機化学工業という古めかしい名前でした。TDKは録音テープのブランド・商標として使われていました。東京のT、電気のD、化学工業のKの頭文字を取ったもので、その後私が入社して数年後に正式に社名をTDKに変更しました。株式欄に英文表記した日本で最初の会社です。因みに、ソニーは今でも“ソニー“です。 何故TDKを選んだかというと、私が最初に使った録音テープ、当時はまだオープンリールテープでしたが、それがTDKだったのです。その後にカセットテープになるのですがそれもTDKが最初でした。そういう意味では何か縁があったのでしょう。就職課の担当者からは、まだ大きな会社ではないが、成長性がある会社だからいいのではと言われて会社訪問に行ったのを覚えています。一部上場はしていましたが、売り上げはまだ600億円、株価は450円の会社でした。ただ利益率が良いのが目立っていて10%の60億円はありました。今年の3月の売り上げが2兆2,000億円、利益が1,900億円、株価は4,700円(株式分割前の高値は17,000円)ですから、隔世の感があります。 私は試験には縁がないのか、実力以上の高望みなのか分かりませんが、高校、大学、就職と第一志望に受かったことはありません。1回で受かったのは自動車の免許の試験だけでこれは競争率が無く基本的に落とす試験ではないので受かったのでしょう。そういう状況ですから、就職も第一志望に受からなかったことはあまり気にならず、TDKの試験を受けました。筆記試験では前の日に読んだ日経新聞の記事と同じ問題が出ましたし、英語もそれまでに受けた会社の中では一番出来たので、これで駄目ならばしょうがないという気持ちでした。 2次の役員面接では、希望の職種と勤務先を聞かれましたので、磁気テープの営業を希望し、勤務地は次男なので国内・海外のどこでも可能ですと答えました。結果的にはこれが良かったのかも知れませんがとにかく入社試験に受かりました。 テープ事業部に配属され、神戸出張所に転勤になる 同期入社が28人いたのですが、技術職を含めて電子部品部門を希望したのが26人で磁気テープ部門を希望したのは私を含めて2名でした。私はTDKはテープの会社だと思っていたのに本流は電子部品だったのです。発祥がマグネットやフェライト、コンデンサーの会社ですから。ということで、磁気テープの営業部門に配属されて最初は秋葉原の電気店の店頭で3ヶ月間テープの販売応援をやらされました。TDKという会社に入ったのに、毎日の出勤は秋葉原の代理店、それから電気店に行くという毎日で、土日も休みがありませんでしたので入社前のイメージとは違って少し嫌な気持ちになりました。(宣伝・商品企画時代に勤務していた当時の東京・日本橋の本社ビル) カセットテープはTDKが一番売れていると思っていましたが、当時はSONYが一番でTDKは2番目、マクセルがマニアの中で意外と人気なのも分かりました。コンシューマービジネスではお客さんと接することが重要なので、店頭販売は貴重な経験でした。3ヶ月の実習訓練も終わるといよいよ先輩の営業マンと一緒に営業に出るOJTが始まりました。営業は販売代理店への営業と直販店(大手の電気店やレコード店)に分けられます。 挨拶の仕方や名刺の渡し方から始まって、製品紹介、キャンペーン案内、価格交渉などと営業のイロハを先輩から教えて貰いました。私が配属された東京営業所は全国でも一番売り上げが多くて、月商で1億ぐらいだったと思いますが、このような地道な営業活動の積み重ねが大きな数字になるのだと肌で感じることが出来ました。 10月になるとOJTも終わり、営業部長から“いよいよ出番だよ“と言われ、神戸出張所に転勤になりました。生まれてからずっと関東以外を知らなかったので少し不安でしたがこれから始まる新しいことに対する期待の方が大きかったことを覚えています。この神戸行きが私のその後の人生を大きく左右するのですから、やはり人生は運と縁が大事だと思います。神戸は、大阪のように大きな営業所ではなく小世帯の出張所でした。所長と先輩の営業マンが2人、事務の女性が1人でした。(この女性が後に私の妻となります) 神戸出張所のテリトリーは兵庫県と岡山県です。先輩の一人が岡山を担当し、兵庫県をも一人の先輩と私が担当することになりました。神戸で一番賑やかな三宮から大阪よりの東の大きな市場を先輩が、西の明石、姫路方面を私が担当しました。私はTDKのテープはトップブランドなので、アタッシュケースを持ってカッコよく売りに行けると思っていましたが、現実は違っていました。コンシューマービジネスのヒエラルキーは、ユーザーが一番上で、次が小売店、それから販売代理店でメーカーは一番下です。私がイメージしていた階層と真逆です。従って、私のようなメーカーの営業マンは全てに頭を下げてお願いしなければならないことを学びました。しかし、このようにして物が売れて行くのだという仕組みを知ったことは私のその後の仕事の底辺に根付いたので良い経験になりました。 この時の営業の仕事で大変だったことがあります。代理店営業ですが販売代理店は文字通りTDKの営業マンの代わりに町の電気屋さん(当時は松下電器や東芝のお店)にテープを売ってくれるのですが、この代理店は何百種類以上の製品を扱っているのでTDKのテープだけを売ってくれるわけではありません。そこで如何にして他の製品よりもTDKのテープを売って貰えるようにするかが大変でした。それで当時やったのが“トラックセールス”という手法でした。代理店の営業部長に頼んで市場の巡回という名目で営業マンのトラックに乗せて貰い一緒にテープを売るというやり方です。代理店の営業マンも私が一緒にいるので、その日は電気屋さんにテープを売り込まないわけにはいかないのです。 これを続けていくうちに代理店の営業マンにも気に入られてTDKの製品に力を入れて売ってくれるようになりました。営業の基本“製品よりもまず自分を売れ”を身を持って体験した訳です。神戸に転勤になって2年目の春に事務をやっていた女性と結婚しました。 神戸に行かなければ、妻とは結婚しなかったのですからこれも運命・縁でしょうか。(神戸出張所のメンバーと。左端が私で右側から2人目の女性が現在の妻です) もう一つあります。大阪でエレクトロニクスショーがあり、手伝いに神戸からも人を出して欲しいと要請があり、新人の私が行きました。会場には本社から宣伝担当者が来ていました。 準備や製品紹介の合間にその宣伝担当者と話をする機会がありました。私のことを気に入ってくれたのか、今、宣伝部員を増員しようと考えているのでもし興味があれば上司に話してくれると言われました。即答はしませんでした。営業を始めてまだ3年なのでやっと営業の面白さが分かって来たところでしたから。ただ、当時全国で営業マンは50人ほどいたと思いますが、私が全国最年少営業マンでした。何故ならば、第一次オイルショックの不況で文系の新入社員は私が採用されてからは2年間採用されていなかったからです。 当時は営業所長の権限は大きかったので私も営業所長になりたいと思いましたが、上に営業マンが50人もいるのでは難しいと思い、宣伝の仕事に興味があったこともあり本社の宣伝部の誘いに手を挙げました。営業所長からまだ早いと言われましたが、最後は快く送り出してくれたので感謝しました。 本社に転勤になり、営業企画部で宣伝担当になる本社の宣伝の仕事は営業の仕事とは全く違っていて最初は戸惑いましたが、やっていくうちに面白くなり自分でいうのもおかしいですが、自分にはこれが天職かなと思えるようになり、仕事に打ち込みました。 誤算は私を誘ってくれた先輩の宣伝担当者が、私を宣伝部に誘っておきながらすぐに会社を辞めてオーディオ評論家になってしまったことです。私はそれからしばらくは一人でカセットテープの宣伝担当をやりましたが、当時のお金で年間16億円使っていました。まだ26歳の若手にそれだけのお金と仕事を任せてくれた会社に驚きと感謝ですね。ここで宣伝時代の思い出話を記します。 私が入社した1975年(昭和50年)はカセットテープ市場が拡大しようとする時でした。当時私が神戸で営業を担当していた時にテレビCMでは愛川欽也の“お宅何DK?俺TDK!”が流れていました。その後に当時のアイドルの榊原郁恵、キャンディーズを起用、TDKの知名度は一気に上がり売り上げも急増してついにSONYを抜いて業界一になりました。 しかし、出荷総数では勝ててもHiFi分野では未だSONYには勝てませんでした。 営業から宣伝に移った私は調査・分析をしてTDKとSONYの差は音楽イメージであると 確信しました。相手は、ハードとソフトを持った世界のSONY、普通のことをやっていては勝てないと思いました。 1981年音楽の基準となるテープ“ミュージック・リファレンス”をコンセプトに音楽用カセットADの新製品を発売。それを機会に大キャンペーンをやることになりました。タイトルは“アメリカン・サウンド・シーン”、クラシック、ジャズ、ポップス、ロック等、全ての音楽があるアメリカの音楽シーンを宣伝のコンセプトにしました。 その象徴として、第一弾は当時ディスコミュージックで人気のアーチスト“ビージーズ”を起用、翌年の1982年にはグラミー賞7部門を受賞したスティービー・ワンダーを起用した。NHKのプロジェクトXでも紹介された有名な言葉“TDKが私を選ぶ前に私がTDKを選んだ”。 スティービー・ワンダーのCM撮影のため、2週間の同行は感動的でした。私は彼のコンサート、CM撮影のため2週間彼と同行しました。ニューオリンズのスーパー・ドームのコンサートでは数万人の観客が彼の音楽に熱狂しました。CMの撮影は、ニューメキシコ州のサンタフェ(あの宮沢りえがヌード写真集を出した場所)近くのホワイトサンズいう砂漠。目が見えないスティービーが砂漠を走るシーン、スティービーには彼の兄が持つラジカセから流れる音の方向に走ってくれと頼みました。転んでも下は砂漠の砂で怪我はしないというと彼は走ってくれ、感動的なシーンが撮れました。(スティービー・ワンダーと二人で撮った写真があるのですが、肖像権の関係でお見せ出来ないのが残念!) スティービー・ワンダーは片時も音楽と離れずいつも音楽を聴いていました。撮影の合間でもラジカセで、もちろん横にはTDKのテープがありました。移動中も自分の耳の形に合わせた特製のイヤホーンで音楽を聴いていました。私はスティービーにインタビューを申し込んでいましたが、2日経ってもO.Kがもらえませんでした。3日目の夜中12時頃、今からならばO.Kと言われると眠い目をこすりながら彼の部屋に行くと彼はいつものように音楽を聴いていました。彼に音楽との関わりについて話して欲しいと尋ねました。 通訳は区切りながら進めるかと聞いてきましたが私は時間がもったいないので、通訳はいいから進めてくれと言いました。彼は音楽で世界中の人を幸せにして、平和にしたいということを語り始めました。この時ほど自分の英語力の無さを悔いたことはありません。その後1985年スティービーは、”We are the world” を多くのミュージシャンと一緒に歌いその夢を実現させました。 アメリカン・サウンド・シーンのキャンペーンはTDKのイメージを一気に変えてくれ、TDKは名実ともにSONYを抜きトップになりました。多くの大学生がスティービー・ワンダーのCMを見てTDKへ入社しました。現在の社長は私もその一人であるとTDKタイムズで語っています。スティービー・ワンダーは、TDKの音楽性を高めただけでなくリクルート効果も果たしてくれたようです。 商品企画課では、カセットテープの新製品企画を担当するその後私は商品企画部に移り、新製品の企画を担当することになりました。宣伝では出来上がったものをPRする仕事でしたが、今度は製品そのものを企画・造る仕事に携わることになったのです。数年はカセットテープの市場が拡大していたので企画する製品がヒットして良い時代でしたが、その後市場が成熟してカセットテープが趣味の製品からコモディテー化すると差別化が難しくなりました。それにCDコンパクトディスクの登場が拍車を掛け需要は落ち込んでいくことになりました。 そんな時、アメリカで商品企画が出来る人が欲しいということになり、私が行くことになりました。TDKには自己申告制度があり毎年自分がやりたい仕事や行きたい勤務地の希望を出せる制度です。私は大学時代から海外に行きたかったので、毎年海外赴任を希望していたのですがそれがかなわず16年が過ぎていました。 子供が中学生になっていたのでもう海外はいいなということで取り下げたのですが皮肉なことに声が掛ったのです。少しは迷いましたが、海外で仕事をするのは学生時代からの夢だったので行くことにしました。 (私が商品企画をしたカセットテープの一部) アメリカ・ニューヨークの現地法人に転勤になり商品企画を担当赴任先はニューヨークの現地法人です。アメリカにはカセットテープを製造する工場がカルフォルニアにビデオテープを製造する工場がジョージアにありましたが、商品を企画する部門はなく日本にその業務を委託していました。それを私が現地で行い日本の商品企画・デザイン・開発部門と連携して進めていくことでした。現地化の走りでした。 英語も堪能でなかったのでアメリカ人の部下とのコミュニケーションにも苦労しましたが、アメリカ市場でのTDKブランドの浸透・拡大という共通した目的を共有することが出来ればアメリカ人とでも仕事は出来るのだということが分かりました。 (TDK ELECTRONICS CORPORATION 社屋) (オフィスの部屋) 家族とアメリカ生活をエンジョイ 一緒に赴任した家族のことも心配しましたが、現地校に入った息子も最初は英語の授業に苦労していましたが、1年も経つと私よりヒアリングは上になり学校の授業にも追いていけるようになりました。子供が落ち着くと母親も安心するのか、友達とマンハッタンにミュージカルを見に行くようになり、私は毎週のゴルフと家族皆がアメリカ生活をエンジョイするようになりました。休みにはナイアガラの滝、グランド・キャニオン、イエローストーンとアメリカの自然を満喫できたこともいい想い出です。 (ニューヨークで住んでいた家) (自由の女神の前で家族と) 日本に戻り、磁気テープ営業からTDK本流の電子部品営業で心機一転 6年間の赴任後日本に戻りました。既にカセットテープやビデオテープの市場は販売価格が下がり利益が出ないビジネスとなって来ていました。新しいビジネスを模索するためにTDKのブランドと技術を使った製品の商品企画部門やパソコンを使った教育ソフトの営業企画部門の仕事をしました。そして、また大きな転機が訪れたのです。アメリカに私を推薦してくれた先輩が定年退職するので、後任に私を推薦してくれたのです。 部署は、もう一つのTDKである電子部品事業部の宣伝部門です。テープビジネスが好きで入ったのですから、テープビジネスを最後まで見届けたいという気持ちが強かったのですが、先細るビジネスに将来を見いだせなかったのと自分のキャリアを生かせる仕事をしたいと思い、先輩の誘いを受けることにしました。しかし、電子部品の宣伝はテープの宣伝とは全く異なっていました。 テープの宣伝は個人のユーザーが対象なのに対して、電子部品の宣伝は企業の購買担当者や技術者です。所謂、B to CとB to Bの違いです。製品の種類とアイテム数がテープの比ではなく技術的にも難しい製品が多いのでそれを理解するのは大変でしたが、優秀な部下が多くいたので助かりました。定年までの8年間でTDKの本流の電子部品でのビジネスを経験できたことは後で振り返ると良かったと思います。誘ってくれた先輩に感謝です。 こうして、満60歳で無事定年を迎えられました。再雇用の制度もあったのですが、今のように良い条件でなかったこともあり、同期の28人で残ったのは1人だけでした。 定年後はインターネット放送などのボランティア活動で楽しんでいます。定年後は生活のために仕事をする気はなく、現役時代にお世話になった広告協会から誘いを受けた仕事を手伝ったり(無給)、住んでいる地域で始まったFM放送のボランティアをやり、今はインターネット放送の番組でMCをやっています。私が2番目の年長者でほとんどが若い人ですが刺激を貰って楽しんでいます。 (地元のインターネット放送でMCを担当) TIU同窓会もグローバル化が高まっていくことを期待しています。TIUの同窓会へは定年する少し前の現役時代から誘われていたのですが、茨城県支部の会に参加するようになったのは定年退職してからです。4年前に順番で支部長になり現在4年目を迎えています。最初は持ち回りの2年間だけのつもりでしたが、関東ブロックの私より若い支部長たちの同窓会を良くしたいという熱意に影響を受けて支部長を続けています。 霞会の各支部同窓会活動にもっと多くの若い方々の参加が増えて、国内外の霞会ネットワークが広がると良いですね。 今年の秋には池袋キャンパスが出来て、名実と共に“東京国際大学”となります。グローバルな時代と言われて久しいですが、私が学生だった頃とは違って、ビジネスや文化、レジャーもグローバル化が当たり前の時代になっています。そうした時代に大学の後輩に臨むことは、日本人というアイデンティティを失わずに積極的に多くの大学にいる留学生とコミュニケーションを取り、そして海外に飛び出して外国の良さを吸収して真のグローバルな人材になってくれることを期待したいと思います。 (茨城県支部の総会で会員の皆さんと) (吉野宏さんプロフィール) 埼玉県川越市出身 1971年私立城北高校卒業(東京) 1975年国際商科大学(現東京国際大学)商学部卒業(7期) 本田実ゼミ マンドリン愛好会 1975年東京電機化学工業株式会社(現TDK株式会社)に入社 1975年神戸出張所に転勤 1979年東京本社に転勤 営業企画部で宣伝担当 1986年商品企画課に異動 1991年アメリカ・ニューヨークの現地法人TDK ELECTRONICS CORPORATIONに赴任 1997年日本に帰国、 磁気テープ事業部・応用商品部の商品企画部門 2004年電子部品営業事業本部 宣伝企画部に異動 2012年TDKを定年退職 2019年TIU霞会茨城県支部長に就任して現在に至る TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
ワシントン州から旅館「薩摩の里」の女将へ
石脇りおら(旧姓リオラ・スチュワート)さん (1985年卒業 教養学部 祇園時信彦ゼミ ゴルフ部)2023年1月1日アメリカ・ワシントン州出身の石脇りおらさんは1985年3月に教養学部を卒業後、ブリタニカ、ドールジャパンに勤務。ご結婚後に旦那様の郷里・鹿児島で旅館「薩摩の里」を手伝うことになり、現在は女将として旅館経営をされています。 「旅館「薩摩の里」は鹿児島空港近郊の市比野温泉街から少し離れた里山にある温泉宿です。自然に包まれ、季節を感じ、温泉で体を癒す、田舎の穏やかな時間が流れる場所です。鹿児島にお越しの際は、私どもの旅館「薩摩の里」にお泊りいただけると、大変嬉しいです」と述べられています。 10歳でシアトルから単身日本へ 東京国際大学教養学部17期卒の石脇りおら(旧姓リオラ・スチュワート)と申します。 アメリカ・ワシントン州シアトル郊外の小さな町Port Townsend出身で、アメリカ人の父と日本人の母、姉と弟との5人家族で10歳まで暮らしました。 父には「日本の教育レベルは高い。せっかく優秀な日本人の血が流れているのだから日本の教育を受けさせたい」という考えがありました。母方の伯母がよくアメリカに遊びに来ていて伯母になついていたし、伯母には子供もおりませんでしたので、私を自分の子供のように育ててくれました。 日本に来て驚きと戸惑いの連続で、日本語は全く話せなかったので、日本の教育に慣れるまで苦しかったですね。 「世界に目を向けなければ」という伯母の薦めで東京国際大学に入学 茨城県の土浦日大高等学校を卒業して、獣医になりたくて日本大学へ進みましたが、「これからは世界に目を向けなければ」という伯母の薦めもあって、獣医学部を途中で断念しました。 東京国際大学に入学したのですが、茨城県牛久の叔母の家から2時間半かけて通学。加えて門限が9時でしたので、毎日時間との戦いで忙しかったですね。でもゴルフ部、ゼミでの研究、そしてアルバイトと精一杯大学生活をエンジョイしました。アルバイトは、今はもうありませんが、銀座の日本堂というお店で時計の販売を担当しました。外国人旅行客の接客を2~3年勤めました。 卒業後、ゴルフ部の仲間からの力添えでブリタニカに入社し、北海道で英語教師として8年間勤めました。そして上司の紹介でドールジャパンへ8年、東京で勤務。副社長の秘書でしたが、ボスがバナナパインを担当していたことから商品部の仕事にも携わりました。 夫との出会いから鹿児島へ、旅館「薩摩の里」を手伝うことに ドールジャパンを辞めてのんびりしているときに、夫と出会いました。私の変わった性格、つまり日本人的だけどアメリカ人的な自分を理解してくれる人は少なく、彼はその中の一人でした。そして結婚。それから「帰郷して仕事を手伝ってほしい」という夫の兄の要請で、夫の郷里・鹿児島で旅館「薩摩の里」を手伝うことになったのです。 九州は初めてでしたが、日本に来た時と状況は同じ、何とかなると思ったのです。でも現実は大きく違っていました。まずは言葉、方言には悩まされました。そして味、鹿児島独特の甘さです。ちょっと苦手でしたが、今は慣れてしまいました。 日本的な部分とアメリカ的な部分を融合して、女将業に専念しています 見た目が日本人ではないので、皆が心配して表の仕事はさせてくれませんでした。でも私の好奇心・チャレンジ精神が芽を出し、いつのまにか表の仕事もこなすようになり、女将として働いています。私は旅館の表の顔「女将」、夫は裏方の社長として二人三脚で頑張っています。 私の中には日本的な部分とアメリカ的な部分があります。お花を生けるとき心が落ち着くし、日本の美・和の心に惹かれます。でも「日本人の本音とたてまえ」を理解するのは難しい。また、自己主張という面ではアメリカ的なのでしょうね。両親の2つのDNAを融合させて、自分らしく生きていきたいと思っています。 時間の流れが変わる宿「薩摩の里」は里山にある温泉宿です。 是非とも、皆様方に昔ながらの温泉宿にお越しいただきたく、私どもの旅館「薩摩の里」の紹介をさせていただきます。 鹿児島県薩摩川内市の市比野温泉は江戸時代から湯治場として栄えた歴史ある名湯で、泉質の良さは有名で、今でも遠方から多くのお客様がお越しになります。旅館「薩摩の里」は鹿児島空港近郊の市比野温泉街から少し離れた里山にある温泉宿です。鹿児島空港や鹿児島駅からは、車で約一時間の距離です。 自然に包まれ、季節を感じ、温泉で体を癒す、田舎の穏やかな時間が流れる場所です。 100%のトロッとした温泉「美人の湯」 薩摩の里の温泉は、触れてすぐ実感できるトロっとした感触とあがった後のお肌のしっとりスベスベ感という特徴から、「美人の湯」と呼ばれるようになっています。 循環ではない源泉掛け流し、加水・加温なしの100%天然温泉をごゆっくりとお楽しみください。 地元の料理と山海の幸をどうぞ。 鹿児島は海と山の幸に恵まれた地、美味しいもの、美味しい食べ方をお客様にたのしんでいただけるよう鹿児島の郷土料理、旬の素材を使った会席料理、地元の新鮮な魚、地鶏の刺身などをご用意しております。 (旅館の前は緑の絨毯がとても綺麗です) (庭園を眺める1階和室) (地元の料理と山海の幸をどうぞ) あるものは昔ながらの里山の風景、ないものは気取ったもの、現代的なもの。お客様にはしばし街中の喧騒を忘れて静けさを味わってもらいたいと思います。源泉かけ流しの天然温泉、美人の湯と美味しい郷土料理なども楽しんでいただけると有難いです。 日本全国から、海外からも泊ってみたい温泉旅館に薦められるように常に質とサービスのレベルアップを目指していきますので、鹿児島にお越しの際は、私どもの旅館「薩摩の里」にお泊りいただけると、大変嬉しいです。 (石脇りおら(旧姓リオラ・スチュワート)さんプロフィール) アメリカ・シアトル郊外で10歳まで過ごす。 その後、茨城県牛久の伯母の家に住む。 : 土浦日本大学高等学校卒 1985年3月 東京国際大学教養学部17期卒 祇園時信彦ゼミ ゴルフ部 卒業後、ブリタニカ入社、北海道で8年間英語教師 ドールジャパン(東京)で8年間勤務。副社長秘書、商品部 2000年から 旅館「薩摩の里」を手伝う。現在は女将に専念しています。 鹿児島県市比野温泉 旅館「薩摩の里」 鹿児島県薩摩川内市樋脇町市比野4134 TEL:0996-38-1012 FAX:0996-38-2061 旅館 薩摩の里ホームページ https://satsumanosato.jp/ 旅館 薩摩の里Facebook https://www.facebook.com/satsumanosato TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
石脇りおら(旧姓リオラ・スチュワート)さん (1985年卒業 教養学部 祇園時信彦ゼミ ゴルフ部)2023年1月1日アメリカ・ワシントン州出身の石脇りおらさんは1985年3月に教養学部を卒業後、ブリタニカ、ドールジャパンに勤務。ご結婚後に旦那様の郷里・鹿児島で旅館「薩摩の里」を手伝うことになり、現在は女将として旅館経営をされています。 「旅館「薩摩の里」は鹿児島空港近郊の市比野温泉街から少し離れた里山にある温泉宿です。自然に包まれ、季節を感じ、温泉で体を癒す、田舎の穏やかな時間が流れる場所です。鹿児島にお越しの際は、私どもの旅館「薩摩の里」にお泊りいただけると、大変嬉しいです」と述べられています。 10歳でシアトルから単身日本へ 東京国際大学教養学部17期卒の石脇りおら(旧姓リオラ・スチュワート)と申します。 アメリカ・ワシントン州シアトル郊外の小さな町Port Townsend出身で、アメリカ人の父と日本人の母、姉と弟との5人家族で10歳まで暮らしました。 父には「日本の教育レベルは高い。せっかく優秀な日本人の血が流れているのだから日本の教育を受けさせたい」という考えがありました。母方の伯母がよくアメリカに遊びに来ていて伯母になついていたし、伯母には子供もおりませんでしたので、私を自分の子供のように育ててくれました。 日本に来て驚きと戸惑いの連続で、日本語は全く話せなかったので、日本の教育に慣れるまで苦しかったですね。 「世界に目を向けなければ」という伯母の薦めで東京国際大学に入学 茨城県の土浦日大高等学校を卒業して、獣医になりたくて日本大学へ進みましたが、「これからは世界に目を向けなければ」という伯母の薦めもあって、獣医学部を途中で断念しました。 東京国際大学に入学したのですが、茨城県牛久の叔母の家から2時間半かけて通学。加えて門限が9時でしたので、毎日時間との戦いで忙しかったですね。でもゴルフ部、ゼミでの研究、そしてアルバイトと精一杯大学生活をエンジョイしました。アルバイトは、今はもうありませんが、銀座の日本堂というお店で時計の販売を担当しました。外国人旅行客の接客を2~3年勤めました。 卒業後、ゴルフ部の仲間からの力添えでブリタニカに入社し、北海道で英語教師として8年間勤めました。そして上司の紹介でドールジャパンへ8年、東京で勤務。副社長の秘書でしたが、ボスがバナナパインを担当していたことから商品部の仕事にも携わりました。 夫との出会いから鹿児島へ、旅館「薩摩の里」を手伝うことに ドールジャパンを辞めてのんびりしているときに、夫と出会いました。私の変わった性格、つまり日本人的だけどアメリカ人的な自分を理解してくれる人は少なく、彼はその中の一人でした。そして結婚。それから「帰郷して仕事を手伝ってほしい」という夫の兄の要請で、夫の郷里・鹿児島で旅館「薩摩の里」を手伝うことになったのです。 九州は初めてでしたが、日本に来た時と状況は同じ、何とかなると思ったのです。でも現実は大きく違っていました。まずは言葉、方言には悩まされました。そして味、鹿児島独特の甘さです。ちょっと苦手でしたが、今は慣れてしまいました。 日本的な部分とアメリカ的な部分を融合して、女将業に専念しています 見た目が日本人ではないので、皆が心配して表の仕事はさせてくれませんでした。でも私の好奇心・チャレンジ精神が芽を出し、いつのまにか表の仕事もこなすようになり、女将として働いています。私は旅館の表の顔「女将」、夫は裏方の社長として二人三脚で頑張っています。 私の中には日本的な部分とアメリカ的な部分があります。お花を生けるとき心が落ち着くし、日本の美・和の心に惹かれます。でも「日本人の本音とたてまえ」を理解するのは難しい。また、自己主張という面ではアメリカ的なのでしょうね。両親の2つのDNAを融合させて、自分らしく生きていきたいと思っています。 時間の流れが変わる宿「薩摩の里」は里山にある温泉宿です。 是非とも、皆様方に昔ながらの温泉宿にお越しいただきたく、私どもの旅館「薩摩の里」の紹介をさせていただきます。 鹿児島県薩摩川内市の市比野温泉は江戸時代から湯治場として栄えた歴史ある名湯で、泉質の良さは有名で、今でも遠方から多くのお客様がお越しになります。旅館「薩摩の里」は鹿児島空港近郊の市比野温泉街から少し離れた里山にある温泉宿です。鹿児島空港や鹿児島駅からは、車で約一時間の距離です。 自然に包まれ、季節を感じ、温泉で体を癒す、田舎の穏やかな時間が流れる場所です。 100%のトロッとした温泉「美人の湯」 薩摩の里の温泉は、触れてすぐ実感できるトロっとした感触とあがった後のお肌のしっとりスベスベ感という特徴から、「美人の湯」と呼ばれるようになっています。 循環ではない源泉掛け流し、加水・加温なしの100%天然温泉をごゆっくりとお楽しみください。 地元の料理と山海の幸をどうぞ。 鹿児島は海と山の幸に恵まれた地、美味しいもの、美味しい食べ方をお客様にたのしんでいただけるよう鹿児島の郷土料理、旬の素材を使った会席料理、地元の新鮮な魚、地鶏の刺身などをご用意しております。 (旅館の前は緑の絨毯がとても綺麗です) (庭園を眺める1階和室) (地元の料理と山海の幸をどうぞ) あるものは昔ながらの里山の風景、ないものは気取ったもの、現代的なもの。お客様にはしばし街中の喧騒を忘れて静けさを味わってもらいたいと思います。源泉かけ流しの天然温泉、美人の湯と美味しい郷土料理なども楽しんでいただけると有難いです。 日本全国から、海外からも泊ってみたい温泉旅館に薦められるように常に質とサービスのレベルアップを目指していきますので、鹿児島にお越しの際は、私どもの旅館「薩摩の里」にお泊りいただけると、大変嬉しいです。 (石脇りおら(旧姓リオラ・スチュワート)さんプロフィール) アメリカ・シアトル郊外で10歳まで過ごす。 その後、茨城県牛久の伯母の家に住む。 : 土浦日本大学高等学校卒 1985年3月 東京国際大学教養学部17期卒 祇園時信彦ゼミ ゴルフ部 卒業後、ブリタニカ入社、北海道で8年間英語教師 ドールジャパン(東京)で8年間勤務。副社長秘書、商品部 2000年から 旅館「薩摩の里」を手伝う。現在は女将に専念しています。 鹿児島県市比野温泉 旅館「薩摩の里」 鹿児島県薩摩川内市樋脇町市比野4134 TEL:0996-38-1012 FAX:0996-38-2061 旅館 薩摩の里ホームページ https://satsumanosato.jp/ 旅館 薩摩の里Facebook https://www.facebook.com/satsumanosato TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
たたかう!ランドスケープアーキテクト
鈴木マキエさん(1995年 国際関係学部入学、長谷ゼミ 1996年TIUA、2000年ウィラメット大学卒業:BA in Art & Sociology)2022年12月1日1996年TIUA生、2000年ウィラメット大学卒業生の鈴木マキエです。 現在はシアトルを拠点とするランドスケープアーキテクチャー会社「GGN」の一員として世界各国の都市・地域開発やデザインプロジェクトに参加させていただいています。 獅子白兎のTIUA・ウィラメット留学生活 フィリピンやブラジル出身のご近所さんが多い地区で育った私は、子供の頃から「広い世界が見たい」と漠然と留学を思い描いていました。が、しかし、その夢とは裏腹に、英語も含めテスト直前に詰め込み乗り切る「横着者」にグングン育った結果、進路決定時に正規留学は難しく、幅広い英語レベルの生徒を受け入れているTIUAプログラムに惹かれTIUに入学。ろくに英語ができないままオレゴンへ行くことに! そこで学んだのが、私の英語力では宿題を適当にやって無難な成績を取ることは不可能ということ!要領で流すことは通用せず、人生初めて真正面から勉強に取り組まなければいけなくなってしまいました。これを機に一生懸命勉強することが楽しくなったのは私の人生を変えた大きな出来事でした。 寮でも日本・アメリカ・海外からの留学生問わず一生懸命友達作りに励みました。当初、無口で小柄な私に対するアメリカ人の第一印象は典型的なおとなしい日本人。単に英語が話せなかっただけなんですが。。。 笑) 面白い冗談が言えないのはまだしも、かなり面白い冗談で笑わ(え)ない私を、「面白好きなヤツ」と理解してもらうのに当初はかなり苦戦しました。が、出川哲郎流さんも推奨の「魂で話すアプローチ」で交流し、少しずつ友達の輪を広げていきました。友達を作るのに人生で一番努力したのはこの時だった、と感じます。 Willamette University International Dinner 国際留学生の皆と。 努力の成果もあり、寮を追い出される夏休みはアメリカ人の友達数人の家に寄せてもらい貴重な経験をしてきました。中でも印象的なのは、制限速度のないモンタナで友人が仮免中だった私に運転練習させてくれた際、日本ではありえない古さのバンのギア変更が難しく、急な山道の下り坂カーブでスピードが出すぎ同乗者全員(2021年の投稿者飯島さん含む)が「殺す気かー!」と恐怖に陥った件、ワイオミングの友人の牧場で映画「The Horse Whisperer」のモデルになった馬小屋に寝泊まりしたワイルドな日々、牧場到着と同時にオーストラリア出身のカウボーイ達に向こう訛りで「%$x0&*#パレード行くか?」と聞かれ、「Yes]と答えたら馬車にポーンと乗せられ、見物に向かうと思いきや沿道に現れた大勢の人々に手を振られ、パレード登場を果たしていたドッキリ!事件、日本人の名前が覚えられない友人の伯母さんに「ジュリアロバーツ」というニックネーム(?)で呼ばれ、田舎街で名前を耳にした人々を「えっ、どこにいるの?!?!」とキョロキョロさせた件などなど、今でも集まれば話題に上る武勇伝がたくさん誕生しました。 TIUAやウィラメット時代を振り返ると宿題一つから友人関係、日常生活に至るまで何においても一生懸命、獅子白兎で立ち向かった日々だったと感じます。ここで培った頑張る精神は後の過酷な建築系大学院の時代を乗り切る基礎にもなったと思われます。 ワイオミングでのカウボーイライフ。 発見!ランドスケープアーキテクチャー ウ大卒業後は憧れの街サンフランシスコへ。直接仕事に繋がる専攻でなかったこともあり、就職難に直面。そこで公園を通じて地域向上を目指すNPOで研修生をしながら社会に役立つ専門分野で大学院に進むことを考え始めました。NPOで担当した土地利用調査や市民参加型公園計画の企画、公聴会への参加などがきっかけで、都市計画に興味を持ち、大学院進学を念頭にカリフォルニア大学バークレー校のキャリアフェアに参加。申し込みの際2つの学科のセッションが選べるんですが、都市計画の他にもう一つ「なんだろ、この学科?」レベルで選んでみたのがランドスケープアーキテクチャーでした。軽い興味で受けたセッションでしたが。。。 実は社会学や環境のみならずアートも絡んだ面白い分野であることが発覚!早速心変わりし、大学院はランドスケープアーキテクチャーに決定! 翌年、都市での環境デザイン、コミュニティーデザインが強いシアトルのワシントン大学に進学。大学院ではイタリア、中国、台湾などに短期留学。神戸でも震災復興後のまちづくりに参加するなど、多忙でしたが様々な風土、文化、そしてデザインプロジェクトを体験できました。最終的にはランドスケープの修士号に加え、都市計画学科とコラボのアーバンデザインサーティフィケイトも取得し卒業しました。 日本語ではランドスケープアーキテクチャーという分野を包括する言葉がなく、緑化、造園、園芸などと部分的な面で訳されてしまいますが、庭や外構だけでなく、色々な分野と連携を図り都市や地方、コミュニティと一緒に地域のビジョンを打ち立てていくという大規模なスケールや公共空間、グリーンインフラに関わるプロとしても活躍している分野です。 キャリアで学ぶ SASAKIサンフランシスコでは、実戦でスキルを磨く 卒業と同時にサンフランシスコに舞い戻り、SASAKIという建築、土木、インテリア、エコロジストなど多分野が存在する総合設計オフィスに就職。関係分野の専門家と身近にやり取りしながらプロとして必要な知識やスキルを学びました。最初に取り組んだプロジェクトの一つ、アメリカ最大級の港、LA港の工業地区に大きな公園や遊歩道を作ったプロジェクトでは長年工業地帯に住んでいる人々の住環境の向上に貢献できたことに加え、多数の賞などをいただき、キャリア初期から有意義で面白いプロジェクトに恵まれ幸運でした。 しばらくするとバージニア大学に移った大学院時代の恩師から常勤講師をしてみないかと声をかけていただき、挑戦を決意。1年半程働いたオフィスから半年間の休職許可をもらい、大学のあるシャーロッツビルへ引っ越しました。 バージニア大学で初めての教鞭を取る アジア人、女性、英語が訛っている、(他の先生と比べて)若い、小さい。。。 私という人物は登場した瞬間に「立派な先生だ」という印象を与える要素は皆無です。想像通り指導者としてのリスペクトを得るのが最初のハードルとなりました。多くの助言や応援の中で、特に響いたのが「全てを知っている必要はない。教える相手より一歩先を行っていれば、その一歩について教えることができるから」というものでした。リスペクトを得るために無理に先生らしく振舞ったり、本来の自分より大きく見せたりする必要はない、自分の貢献できる形で自分らしく頑張ればいい、と思えた言葉です。 結局、当初半年だった予定は2回の延長により2年近くになり、徐々に自分の教えるスタイル的なものが見えてきました。豊富な現場経験のある指導者が少ないのが弱みだと学生時代から感じていた私は、現場の知識や経験を共有できる先生になりたかったので、もっと実践経験が必要と考えていました。そんな時、徐々にリーマンショックの波及を受け教員志望者が急増。それを機に現場復帰を決断。不景気真っただ中で元のオフィスは苦戦中だったので、元上司が移動した先のボストン本社で再就職となりました。 バージニアでは試行錯誤の日々でしたが、ご指導いただいた先生方や今では友達・同僚になっている生徒達のおかげで充実した日々を送ることができ、いい思い出となっています。この経験は現在客員教授をさせてもらっているワシントン大学でも生かされています。 バージニア大学の生徒たちと。 SASAKIボストンでは、中東やアジア各国の大規模開発、街や各地域のビジョン形成や骨組みのデザインなどに取り組む 現場復帰したボストン本社ではアジアと中東を中心に都市デザインや大きなスケールのマスタープランなどを担当しました。アーバンデザイン、建築、土木、エコロジーの専門家と一緒に中東やアジア各国の大規模開発、街や地域のビジョン・枠組み形成や空間デザインなどに取り組みました。 ヨルダン側の死海、4000haのマスタープランは中でも思いで深いプロジェクトです。世界一標高が低い「死海」はそのユニークな成分で体が浮くことや貴重なバスソルトとして有名ですが、その珍しさは水自体だけではなく、ワディと呼ばれる渓谷や、希少種達が利用する広大なタマリスク(低木)の森などの周辺環境にも及びます。農業発展による水源ヨルダン川の水量低下に伴う死海の水位低下は年に1mにも及び、毎年ビーチがリゾートから遠ざかってしまう問題、テロ防止策で立体/地下駐車場設置が困難で歩行者環境が厳しい点やセキュリティ管理が水際を私有地化している問題、必要な真水と汚水の再利用のバランスが取れた開発スピードの調整などなど、社会的課題も特殊でした。 中東のマーケティングの専門家や環境エンジニアも交えた専門家チーム全員で環境、政治、経済、テクノロジーなど全ての面に渡り、どうしたら現在の問題に答えながらも、より良い未来の可能性を守っていく持続可能なデザインができるか検討し、死海という場所にしかない良さを基軸に、真珠のネックレスのように小さめの開発を要所に展開し繋いでいくストラテジーを考案。ヨルダン初の環境アセスや住人公聴会も開き、地元民やリゾート従業員のための機能的で活気ある本物の街づくりも提案しました。 初めてリード的なポジションで、自分の力不足を痛感したプロジェクトでしたが、とても多くの学びがあり、個人的に大きく成長できたプロジェクトでした。 Dead Sea Development Zone Detailed Master Plan(提供:SASAKI Associates) GGNシアトルで、数か国の興味深いプロジェクトに携わる 多数のマスタープランプロジェクトを経て、実際の建設経験を求めて、コンセプトから建設まで丁寧に手掛けることで有名な現在の会社GGNに入社。シアトルに戻り早10年、時折ワシントン大学で教えながら、アメリカ全土や数か国に渡り大学やハイテク企業のキャンパスや複合開発、会社の無償活動を利用したNPOによるホームレスの住居プロジェクトまで幅広く興味深いプロジェクトに携わらせていただいています。2018年のコンペ時から参加している大阪の「うめきた2期」もその一つです。 うめきた2期。GGNチームはプロジェクト全体のランドスケープビジョンからコンセプトレベルのデザイン、都市公園区画は詳細までリードデザインとして担当 うめきた2期開発は2024年先行オープン、2027年完成予定の複合開発で関空と大阪駅をつなぐJRの新しい駅の真横に位置している計9haのプロジェクトです。敷地の中心に位置する4.5haの都市公園の他、商業やインキュベーション施設、コンベンションセンター、3つのホテルに2つの住宅棟なども含めた街区となる予定です。 詳しくはオフィシャルウェブページもあるので是非ご覧ください:https://umekita2.jp/ 私達GGNはプロジェクト全体のランドスケープビジョンからコンセプトデザイン、都市公園区画は詳細までリードデザインとして担当。クライアントとなる事業者9社をはじめ、複数の建築事務所を含む日本のデザインチームと共にデザインに取り組んでいます。 GGNの特徴としては与件や機能面のみならず、独自のデザインプロセスによりその土地の普遍的な本質を探り出し、模倣やコピペではない、その土地にしかない・その場所で一番輝ける本物のデザインを提案していく点です。 歴史・文化、社会環境、生物多様性など色々調べると「何もない」とか「価値のない」場所などなく、どこでも興味深いストーリーや地元の人が自分の街を感じる瞬間が存在しています。それをどう可視化し、機能・与件、自然環境やコスト、そして様々な人々の意見などとのバランスを取って表現していくか、プロジェクト一つずつ丁寧に検討していきます。 もちろん、うめきた2期でも色々な調査・分析を重ね、淀川と深い関りがある豊かで潤った大地の記憶や橋の街大阪をインスピレーションに、海外に誇れる日本らしさも現代的にデザインに織り交ぜていきました。 初めての日本のプロジェクトなので日本特有な事を学ぶ機会が満載です。高度な技術や完成度など世界に誇れる点も多い中、縦割りや保守的なアプローチが主流であること、専門的なデータ分析より経験則を重んじる傾向、事例主義など、公共空間の向上には多くの課題やハードルも多そうです。個人的に最初の事例自体がどうできたのかは「卵が先か鶏が先か」並みのミステリーだと感じています。 お店などは雰囲気をとても大事にするのに公共空間は機能さえしていれば安っぽくても仕方ない、とあきらめているのが日本人の感覚と感じることがありますが、公共空間の質を付加価値としてではなく街のバイタリティのベース・インフラとして捉えていくことにより、地域や街、日々の暮らしの豊かさの向上に繋がっていくのでは、と思っています。コロナの影響もあり、世界中で屋外や公共空間価の値感が見直されてきている今、日本でも新しい公共空間や地域のあり方に取り組む機会が増えることを願っています。 うめきた2期ではGGN 創立者の一人、世界的にも巨匠的存在であるキャサリンと深く協働することができ、共にプロジェクトに貢献できたことや、日本チームも含め様々な方々から学べた事に感謝しています。都市公園はこの春工事が開始されましたが、これからも気を抜かず、最後まで日本チームと一緒に頑張っていきたいと思っています。 うめきた2期開発-鳥瞰イメージ(提供:うめきた2期開発事業者) 「たたかう、ランドスケープアーキテクト」として、試行錯誤しながら自分らしくチャレンジして行きたい 最後に「たたかう、ランドスケープアーキテクト」のタイトルですが、去年行った日建設計講演の際、友人に「私らしい」と提案されたタイトルです。TIUA時代の「負けない」精神が反映されているのでは、と感じます。ここ数年パンデミックや治安・政情の悪化など、世界中暗いニュースが多く凹みがちな日もありますが、私が「たたかって」いけるのも様々な方々のサポートあってと再痛感させられた機会でもあります。 日本での公共空間向上やランドスケープアーキテクチャーの普及を考えると、どう「たたかって」いくべきか(まだ)分かりませんが、また試行錯誤しながら自分らしくチャレンジしていけたらなと思っています! 何か「たたかうランドスケープアーキテクト」がお役に立てそうなことがあればご一報をいただければ、と思います! (鈴木マキエさんプロフィール) 名古屋出身 愛知県立千種高校卒業。 1995年TIU国際関係学部入学、長谷ゼミ。 1996年TIUA、2000年ウィラメット大学卒業:BA in Art & Sociology。2012年 GGN Ltd入社 現在の役職はPrincipal。 GGN: https://www.ggnltd.com/ 米国シアトルを拠点にするランドスケープアーキテクト。TIUAの後、ウィラメット大学へ編入、Bachelor of Arts(アートと社会学)で卒業。ワシントン大学でMLA(ランドスケープアーキテクチャー修士号)とアーバンデザインサーティフィケートを取得。ランドスケープデザイン・建築オフィスやバージニア大学建築学部講師などを経た後、現在勤務しているGGNに2012年に入社。 40平方キロメートル以上の大規模な地域マスタープランからホームレスのための極小ハウスプロジェクトまで幅広いスケールやタイプのプロジェクトを手掛ける。過去に携わったプロジェクトは世界10か国以上。現在は大阪のうめきた2期地区開発も担当。ワシントン大学にて客員教授も兼任中。 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
鈴木マキエさん(1995年 国際関係学部入学、長谷ゼミ 1996年TIUA、2000年ウィラメット大学卒業:BA in Art & Sociology)2022年12月1日1996年TIUA生、2000年ウィラメット大学卒業生の鈴木マキエです。 現在はシアトルを拠点とするランドスケープアーキテクチャー会社「GGN」の一員として世界各国の都市・地域開発やデザインプロジェクトに参加させていただいています。 獅子白兎のTIUA・ウィラメット留学生活 フィリピンやブラジル出身のご近所さんが多い地区で育った私は、子供の頃から「広い世界が見たい」と漠然と留学を思い描いていました。が、しかし、その夢とは裏腹に、英語も含めテスト直前に詰め込み乗り切る「横着者」にグングン育った結果、進路決定時に正規留学は難しく、幅広い英語レベルの生徒を受け入れているTIUAプログラムに惹かれTIUに入学。ろくに英語ができないままオレゴンへ行くことに! そこで学んだのが、私の英語力では宿題を適当にやって無難な成績を取ることは不可能ということ!要領で流すことは通用せず、人生初めて真正面から勉強に取り組まなければいけなくなってしまいました。これを機に一生懸命勉強することが楽しくなったのは私の人生を変えた大きな出来事でした。 寮でも日本・アメリカ・海外からの留学生問わず一生懸命友達作りに励みました。当初、無口で小柄な私に対するアメリカ人の第一印象は典型的なおとなしい日本人。単に英語が話せなかっただけなんですが。。。 笑) 面白い冗談が言えないのはまだしも、かなり面白い冗談で笑わ(え)ない私を、「面白好きなヤツ」と理解してもらうのに当初はかなり苦戦しました。が、出川哲郎流さんも推奨の「魂で話すアプローチ」で交流し、少しずつ友達の輪を広げていきました。友達を作るのに人生で一番努力したのはこの時だった、と感じます。 Willamette University International Dinner 国際留学生の皆と。 努力の成果もあり、寮を追い出される夏休みはアメリカ人の友達数人の家に寄せてもらい貴重な経験をしてきました。中でも印象的なのは、制限速度のないモンタナで友人が仮免中だった私に運転練習させてくれた際、日本ではありえない古さのバンのギア変更が難しく、急な山道の下り坂カーブでスピードが出すぎ同乗者全員(2021年の投稿者飯島さん含む)が「殺す気かー!」と恐怖に陥った件、ワイオミングの友人の牧場で映画「The Horse Whisperer」のモデルになった馬小屋に寝泊まりしたワイルドな日々、牧場到着と同時にオーストラリア出身のカウボーイ達に向こう訛りで「%$x0&*#パレード行くか?」と聞かれ、「Yes]と答えたら馬車にポーンと乗せられ、見物に向かうと思いきや沿道に現れた大勢の人々に手を振られ、パレード登場を果たしていたドッキリ!事件、日本人の名前が覚えられない友人の伯母さんに「ジュリアロバーツ」というニックネーム(?)で呼ばれ、田舎街で名前を耳にした人々を「えっ、どこにいるの?!?!」とキョロキョロさせた件などなど、今でも集まれば話題に上る武勇伝がたくさん誕生しました。 TIUAやウィラメット時代を振り返ると宿題一つから友人関係、日常生活に至るまで何においても一生懸命、獅子白兎で立ち向かった日々だったと感じます。ここで培った頑張る精神は後の過酷な建築系大学院の時代を乗り切る基礎にもなったと思われます。 ワイオミングでのカウボーイライフ。 発見!ランドスケープアーキテクチャー ウ大卒業後は憧れの街サンフランシスコへ。直接仕事に繋がる専攻でなかったこともあり、就職難に直面。そこで公園を通じて地域向上を目指すNPOで研修生をしながら社会に役立つ専門分野で大学院に進むことを考え始めました。NPOで担当した土地利用調査や市民参加型公園計画の企画、公聴会への参加などがきっかけで、都市計画に興味を持ち、大学院進学を念頭にカリフォルニア大学バークレー校のキャリアフェアに参加。申し込みの際2つの学科のセッションが選べるんですが、都市計画の他にもう一つ「なんだろ、この学科?」レベルで選んでみたのがランドスケープアーキテクチャーでした。軽い興味で受けたセッションでしたが。。。 実は社会学や環境のみならずアートも絡んだ面白い分野であることが発覚!早速心変わりし、大学院はランドスケープアーキテクチャーに決定! 翌年、都市での環境デザイン、コミュニティーデザインが強いシアトルのワシントン大学に進学。大学院ではイタリア、中国、台湾などに短期留学。神戸でも震災復興後のまちづくりに参加するなど、多忙でしたが様々な風土、文化、そしてデザインプロジェクトを体験できました。最終的にはランドスケープの修士号に加え、都市計画学科とコラボのアーバンデザインサーティフィケイトも取得し卒業しました。 日本語ではランドスケープアーキテクチャーという分野を包括する言葉がなく、緑化、造園、園芸などと部分的な面で訳されてしまいますが、庭や外構だけでなく、色々な分野と連携を図り都市や地方、コミュニティと一緒に地域のビジョンを打ち立てていくという大規模なスケールや公共空間、グリーンインフラに関わるプロとしても活躍している分野です。 キャリアで学ぶ SASAKIサンフランシスコでは、実戦でスキルを磨く 卒業と同時にサンフランシスコに舞い戻り、SASAKIという建築、土木、インテリア、エコロジストなど多分野が存在する総合設計オフィスに就職。関係分野の専門家と身近にやり取りしながらプロとして必要な知識やスキルを学びました。最初に取り組んだプロジェクトの一つ、アメリカ最大級の港、LA港の工業地区に大きな公園や遊歩道を作ったプロジェクトでは長年工業地帯に住んでいる人々の住環境の向上に貢献できたことに加え、多数の賞などをいただき、キャリア初期から有意義で面白いプロジェクトに恵まれ幸運でした。 しばらくするとバージニア大学に移った大学院時代の恩師から常勤講師をしてみないかと声をかけていただき、挑戦を決意。1年半程働いたオフィスから半年間の休職許可をもらい、大学のあるシャーロッツビルへ引っ越しました。 バージニア大学で初めての教鞭を取る アジア人、女性、英語が訛っている、(他の先生と比べて)若い、小さい。。。 私という人物は登場した瞬間に「立派な先生だ」という印象を与える要素は皆無です。想像通り指導者としてのリスペクトを得るのが最初のハードルとなりました。多くの助言や応援の中で、特に響いたのが「全てを知っている必要はない。教える相手より一歩先を行っていれば、その一歩について教えることができるから」というものでした。リスペクトを得るために無理に先生らしく振舞ったり、本来の自分より大きく見せたりする必要はない、自分の貢献できる形で自分らしく頑張ればいい、と思えた言葉です。 結局、当初半年だった予定は2回の延長により2年近くになり、徐々に自分の教えるスタイル的なものが見えてきました。豊富な現場経験のある指導者が少ないのが弱みだと学生時代から感じていた私は、現場の知識や経験を共有できる先生になりたかったので、もっと実践経験が必要と考えていました。そんな時、徐々にリーマンショックの波及を受け教員志望者が急増。それを機に現場復帰を決断。不景気真っただ中で元のオフィスは苦戦中だったので、元上司が移動した先のボストン本社で再就職となりました。 バージニアでは試行錯誤の日々でしたが、ご指導いただいた先生方や今では友達・同僚になっている生徒達のおかげで充実した日々を送ることができ、いい思い出となっています。この経験は現在客員教授をさせてもらっているワシントン大学でも生かされています。 バージニア大学の生徒たちと。 SASAKIボストンでは、中東やアジア各国の大規模開発、街や各地域のビジョン形成や骨組みのデザインなどに取り組む 現場復帰したボストン本社ではアジアと中東を中心に都市デザインや大きなスケールのマスタープランなどを担当しました。アーバンデザイン、建築、土木、エコロジーの専門家と一緒に中東やアジア各国の大規模開発、街や地域のビジョン・枠組み形成や空間デザインなどに取り組みました。 ヨルダン側の死海、4000haのマスタープランは中でも思いで深いプロジェクトです。世界一標高が低い「死海」はそのユニークな成分で体が浮くことや貴重なバスソルトとして有名ですが、その珍しさは水自体だけではなく、ワディと呼ばれる渓谷や、希少種達が利用する広大なタマリスク(低木)の森などの周辺環境にも及びます。農業発展による水源ヨルダン川の水量低下に伴う死海の水位低下は年に1mにも及び、毎年ビーチがリゾートから遠ざかってしまう問題、テロ防止策で立体/地下駐車場設置が困難で歩行者環境が厳しい点やセキュリティ管理が水際を私有地化している問題、必要な真水と汚水の再利用のバランスが取れた開発スピードの調整などなど、社会的課題も特殊でした。 中東のマーケティングの専門家や環境エンジニアも交えた専門家チーム全員で環境、政治、経済、テクノロジーなど全ての面に渡り、どうしたら現在の問題に答えながらも、より良い未来の可能性を守っていく持続可能なデザインができるか検討し、死海という場所にしかない良さを基軸に、真珠のネックレスのように小さめの開発を要所に展開し繋いでいくストラテジーを考案。ヨルダン初の環境アセスや住人公聴会も開き、地元民やリゾート従業員のための機能的で活気ある本物の街づくりも提案しました。 初めてリード的なポジションで、自分の力不足を痛感したプロジェクトでしたが、とても多くの学びがあり、個人的に大きく成長できたプロジェクトでした。 Dead Sea Development Zone Detailed Master Plan(提供:SASAKI Associates) GGNシアトルで、数か国の興味深いプロジェクトに携わる 多数のマスタープランプロジェクトを経て、実際の建設経験を求めて、コンセプトから建設まで丁寧に手掛けることで有名な現在の会社GGNに入社。シアトルに戻り早10年、時折ワシントン大学で教えながら、アメリカ全土や数か国に渡り大学やハイテク企業のキャンパスや複合開発、会社の無償活動を利用したNPOによるホームレスの住居プロジェクトまで幅広く興味深いプロジェクトに携わらせていただいています。2018年のコンペ時から参加している大阪の「うめきた2期」もその一つです。 うめきた2期。GGNチームはプロジェクト全体のランドスケープビジョンからコンセプトレベルのデザイン、都市公園区画は詳細までリードデザインとして担当 うめきた2期開発は2024年先行オープン、2027年完成予定の複合開発で関空と大阪駅をつなぐJRの新しい駅の真横に位置している計9haのプロジェクトです。敷地の中心に位置する4.5haの都市公園の他、商業やインキュベーション施設、コンベンションセンター、3つのホテルに2つの住宅棟なども含めた街区となる予定です。 詳しくはオフィシャルウェブページもあるので是非ご覧ください:https://umekita2.jp/ 私達GGNはプロジェクト全体のランドスケープビジョンからコンセプトデザイン、都市公園区画は詳細までリードデザインとして担当。クライアントとなる事業者9社をはじめ、複数の建築事務所を含む日本のデザインチームと共にデザインに取り組んでいます。 GGNの特徴としては与件や機能面のみならず、独自のデザインプロセスによりその土地の普遍的な本質を探り出し、模倣やコピペではない、その土地にしかない・その場所で一番輝ける本物のデザインを提案していく点です。 歴史・文化、社会環境、生物多様性など色々調べると「何もない」とか「価値のない」場所などなく、どこでも興味深いストーリーや地元の人が自分の街を感じる瞬間が存在しています。それをどう可視化し、機能・与件、自然環境やコスト、そして様々な人々の意見などとのバランスを取って表現していくか、プロジェクト一つずつ丁寧に検討していきます。 もちろん、うめきた2期でも色々な調査・分析を重ね、淀川と深い関りがある豊かで潤った大地の記憶や橋の街大阪をインスピレーションに、海外に誇れる日本らしさも現代的にデザインに織り交ぜていきました。 初めての日本のプロジェクトなので日本特有な事を学ぶ機会が満載です。高度な技術や完成度など世界に誇れる点も多い中、縦割りや保守的なアプローチが主流であること、専門的なデータ分析より経験則を重んじる傾向、事例主義など、公共空間の向上には多くの課題やハードルも多そうです。個人的に最初の事例自体がどうできたのかは「卵が先か鶏が先か」並みのミステリーだと感じています。 お店などは雰囲気をとても大事にするのに公共空間は機能さえしていれば安っぽくても仕方ない、とあきらめているのが日本人の感覚と感じることがありますが、公共空間の質を付加価値としてではなく街のバイタリティのベース・インフラとして捉えていくことにより、地域や街、日々の暮らしの豊かさの向上に繋がっていくのでは、と思っています。コロナの影響もあり、世界中で屋外や公共空間価の値感が見直されてきている今、日本でも新しい公共空間や地域のあり方に取り組む機会が増えることを願っています。 うめきた2期ではGGN 創立者の一人、世界的にも巨匠的存在であるキャサリンと深く協働することができ、共にプロジェクトに貢献できたことや、日本チームも含め様々な方々から学べた事に感謝しています。都市公園はこの春工事が開始されましたが、これからも気を抜かず、最後まで日本チームと一緒に頑張っていきたいと思っています。 うめきた2期開発-鳥瞰イメージ(提供:うめきた2期開発事業者) 「たたかう、ランドスケープアーキテクト」として、試行錯誤しながら自分らしくチャレンジして行きたい 最後に「たたかう、ランドスケープアーキテクト」のタイトルですが、去年行った日建設計講演の際、友人に「私らしい」と提案されたタイトルです。TIUA時代の「負けない」精神が反映されているのでは、と感じます。ここ数年パンデミックや治安・政情の悪化など、世界中暗いニュースが多く凹みがちな日もありますが、私が「たたかって」いけるのも様々な方々のサポートあってと再痛感させられた機会でもあります。 日本での公共空間向上やランドスケープアーキテクチャーの普及を考えると、どう「たたかって」いくべきか(まだ)分かりませんが、また試行錯誤しながら自分らしくチャレンジしていけたらなと思っています! 何か「たたかうランドスケープアーキテクト」がお役に立てそうなことがあればご一報をいただければ、と思います! (鈴木マキエさんプロフィール) 名古屋出身 愛知県立千種高校卒業。 1995年TIU国際関係学部入学、長谷ゼミ。 1996年TIUA、2000年ウィラメット大学卒業:BA in Art & Sociology。2012年 GGN Ltd入社 現在の役職はPrincipal。 GGN: https://www.ggnltd.com/ 米国シアトルを拠点にするランドスケープアーキテクト。TIUAの後、ウィラメット大学へ編入、Bachelor of Arts(アートと社会学)で卒業。ワシントン大学でMLA(ランドスケープアーキテクチャー修士号)とアーバンデザインサーティフィケートを取得。ランドスケープデザイン・建築オフィスやバージニア大学建築学部講師などを経た後、現在勤務しているGGNに2012年に入社。 40平方キロメートル以上の大規模な地域マスタープランからホームレスのための極小ハウスプロジェクトまで幅広いスケールやタイプのプロジェクトを手掛ける。過去に携わったプロジェクトは世界10か国以上。現在は大阪のうめきた2期地区開発も担当。ワシントン大学にて客員教授も兼任中。 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
点と点が線となり
Haruka Shoji /旧姓高橋晴香さん(2016年経済学部卒業 上林ゼミ 2015年Willamette University卒業)2026年1月1日TIU経済学部在学中にWillamette Univ.に編入・卒業しました。 ハワイ在住で2016年TIU卒業のHaruka Shoji(旧姓:高橋晴香)です。 2011年にTIU経済学部に入学した後、2012年2月から10ヶ月TIUAの留学を経験しました。滞在中にWUへの編入試験に受かり、翌年から正規生として2年通い2015年に卒業しました。WU在学中に取得した単位と卒論で日本には戻ることなくTIUを2016年春に卒業しました。WU卒業後にハワイへ移住し、翌月から縁があった広告代理店で働き始めました。2年弱後、希望していた銀行で就職し、投資部で働き始めました。現在はWealth Advisorとして活躍しています。 Willamette Universityは、リベラルな学校ならではの環境でした。卒業後はWUのハワイ在住の同級生もいて、情報交換などで度々会います。 リベラルアーツのWillametteで自分の学部以外の教科をビギナーレベルで学べたり、いろんなクラブやボランティアの機会があったりしてとても為になりました。オレゴンは白人人口が多くアジア人は少ないので自然と人種差別は向こうが意図してなくても起きていたと思いますが、Willametteのキャンパス内では人種どうこうよりも話の内容にフォーカスを置いてみな扱ってくれました。リベラルな学校ならではの環境だったと思います。 ハワイの銀行投資部でWealth Advisorとしてお客様のお手伝いをしています。卒業後はハワイへ移住し広告営業を2年弱経験。その後2018年に現在の銀行セントラル・パシフィック・バンクへ入行し、投資部へ進みました。必要なライセンス(生命・健康保険、Series 7, Series 66) を取得し、アシスタントやJunior Advisorの経験を経て、CFPを2024年に取得し、現在はWealth Advisorとして活躍しています。ハワイという場所柄、英語圏と日本語圏の顧客の両方をお手伝いしています。 セントラル・パシフィック・バンク( Central Pacific Bank)は、アメリカ合衆国ハワイ州ホノルルに本社を置く銀行で、ハワイ州第3位の銀行です。1954年に日系人らが中心となり創業し、現在はニューヨーク証券取引所上場企業であるセントラル・パシフィック・ファイナンシャル・コーポレーション(Central Pacific Financial Corporation)の子会社組織になっています。 https://www.cpb.bank/wealth-management/central-pacific-investment-services/contact-us#FindYourAdvisor 日々の努力が点と点が線となり、自分の将来を導いてくれると思います。日々のレベルで見ると昨日や今日の努力が将来に繋がって無いように思えることもありますが、今努力をした分は必ず自分に返ってきます。したい事があるなら自分を信じてやり続けること。無いのなら、自分のスキルが上がることに打ち込むこと。点と点はどこかで必ず繋がり線となって自分の将来を導いてくれると思います。 (Haruka Shoji/旧姓高橋晴香さんプロフィール) 埼玉県所沢市出身 日本橋女学館高校卒業 2011年4月東京国際大学経済学部に入学 2012年2月~ 10ヶ月TIUAへ留学。滞在中にWUへの編入試験に受かる。 2015年Willamette University 経済学部卒業 2016年3月東京国際大学経済学部卒業 上林ゼミ 2016年4月ハワイへ移住、広告代理店で勤務 2018年3月Central Pacific Bank, Hawaii投資部Vice President and Wealth Advisor https://jp.cpb.bank/ linkedin.com TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
Haruka Shoji /旧姓高橋晴香さん(2016年経済学部卒業 上林ゼミ 2015年Willamette University卒業)2026年1月1日TIU経済学部在学中にWillamette Univ.に編入・卒業しました。 ハワイ在住で2016年TIU卒業のHaruka Shoji(旧姓:高橋晴香)です。 2011年にTIU経済学部に入学した後、2012年2月から10ヶ月TIUAの留学を経験しました。滞在中にWUへの編入試験に受かり、翌年から正規生として2年通い2015年に卒業しました。WU在学中に取得した単位と卒論で日本には戻ることなくTIUを2016年春に卒業しました。WU卒業後にハワイへ移住し、翌月から縁があった広告代理店で働き始めました。2年弱後、希望していた銀行で就職し、投資部で働き始めました。現在はWealth Advisorとして活躍しています。 Willamette Universityは、リベラルな学校ならではの環境でした。卒業後はWUのハワイ在住の同級生もいて、情報交換などで度々会います。 リベラルアーツのWillametteで自分の学部以外の教科をビギナーレベルで学べたり、いろんなクラブやボランティアの機会があったりしてとても為になりました。オレゴンは白人人口が多くアジア人は少ないので自然と人種差別は向こうが意図してなくても起きていたと思いますが、Willametteのキャンパス内では人種どうこうよりも話の内容にフォーカスを置いてみな扱ってくれました。リベラルな学校ならではの環境だったと思います。 ハワイの銀行投資部でWealth Advisorとしてお客様のお手伝いをしています。卒業後はハワイへ移住し広告営業を2年弱経験。その後2018年に現在の銀行セントラル・パシフィック・バンクへ入行し、投資部へ進みました。必要なライセンス(生命・健康保険、Series 7, Series 66) を取得し、アシスタントやJunior Advisorの経験を経て、CFPを2024年に取得し、現在はWealth Advisorとして活躍しています。ハワイという場所柄、英語圏と日本語圏の顧客の両方をお手伝いしています。 セントラル・パシフィック・バンク( Central Pacific Bank)は、アメリカ合衆国ハワイ州ホノルルに本社を置く銀行で、ハワイ州第3位の銀行です。1954年に日系人らが中心となり創業し、現在はニューヨーク証券取引所上場企業であるセントラル・パシフィック・ファイナンシャル・コーポレーション(Central Pacific Financial Corporation)の子会社組織になっています。 https://www.cpb.bank/wealth-management/central-pacific-investment-services/contact-us#FindYourAdvisor 日々の努力が点と点が線となり、自分の将来を導いてくれると思います。日々のレベルで見ると昨日や今日の努力が将来に繋がって無いように思えることもありますが、今努力をした分は必ず自分に返ってきます。したい事があるなら自分を信じてやり続けること。無いのなら、自分のスキルが上がることに打ち込むこと。点と点はどこかで必ず繋がり線となって自分の将来を導いてくれると思います。 (Haruka Shoji/旧姓高橋晴香さんプロフィール) 埼玉県所沢市出身 日本橋女学館高校卒業 2011年4月東京国際大学経済学部に入学 2012年2月~ 10ヶ月TIUAへ留学。滞在中にWUへの編入試験に受かる。 2015年Willamette University 経済学部卒業 2016年3月東京国際大学経済学部卒業 上林ゼミ 2016年4月ハワイへ移住、広告代理店で勤務 2018年3月Central Pacific Bank, Hawaii投資部Vice President and Wealth Advisor https://jp.cpb.bank/ linkedin.com TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
留学を通して培った困難でもやり抜く力。キャリアもプライベートもあきらめないこれからの未来のために。
舩形史美(旧姓)さん 国際関係学部2008年卒 / 小室ゼミ TIUA 2003年生 南オレゴン大学(Southern Oregon University) リベラルアーツ社会学 2007年卒2025年9月1日勉強にも遊びにも精一杯だった2度の留学時代 TIUA(ASPプログラム)に参加することは、留学はおろか海外旅行もしたことがなかった私にとって勇気のある決断でしたが、両親の後押しもあり10か月という長期のプログラムに参加しました。 私にとって音楽や映画を通して知るアメリカは憧れの国でした。だからこそ意味がある留学にしなければいけないと、TIUAプログラムでは必死で、精一杯な日々だったように思います。 夏休みなど長期休暇では、独りバックパック一つで、カルフォルニアを縦断したり、ニューヨークに数週間滞在するなど、アメリカで行きたかった場所を巡り、滞在することができとても嬉しかったです。 一人でアメリカ内を行動したことで、結果的に英語力はもちろん、コミュニケーション力や交渉する力が身についたと思います。そういった経験の中でアメリカという国の良い面もそうでない面も知り、単なる憧れではなく現実としてもっと深く知りたいと思うようになり、プログラム終了後にアメリカに編入留学することを目指すようになりました。 私がTIUAのプログラムに参加している間も、すでにTIUからWillamette大学へ編入し切磋琢磨している先輩の姿を見て、その思いは一層強くなっていったように思います。 (TIUA時代 お揃いのTシャツで寮の仲間と/14年後の再訪問) 10か月のプログラムを経てもなお英語力が全く足りず、一度帰国し猛勉強し、編入試験を受け南オレゴン大学(SOU)へ編入することとなりました。 社会学を専攻したのですが、かなり本を読まないといけない学部で、しかも3年生からの編入ということもあり勉強面では大変苦労しました。担任の先生に相談し、毎週個別の質問時間をもらい、学内にある学習サポートを駆使するなど、色々なサポートを得てなんとか勉強についていったように思います。苦労のかいもあり、卒業時には成績優秀者のリストに載り、卒業後数年後教授に偶然会った際には「優秀な生徒だったことをよく覚えている」と言ってもらったのは良い思い出です。 2度の留学を通して、アメリカはもちろん、ヨーロッパやタイや台湾、ハワイなど世界中に友人ができたことは大きな財産です。卒業後も海外旅行を兼ねて友人を訪ね、日本を訪れた海外からの友人と再会し、交友を続けています。また、同じ日本から留学した友人も海外で活躍したり、事業を成功させるなど自ら道をきりひらいている仲間が多く、刺激を受けています。 (南オレゴン大学卒業式に両親と) 遠回りの道のりこそが自分の将来を切り開く鍵 南オレゴン大学では社会学を専攻し、同時にコンピューターサイエンスを副専攻として卒業しました。当時ITの世界に将来性を感じていたことから、日本に帰国し通信系IT企業に就職し、プログラミングやシステム導入のプロジェクトに携わりました。 専攻だった社会学に関連する職業でもなく、留学したのに英語を全く使わない就職先でしたが、将来的に英語ができるIT経験者は人材価値が高まるのではないかという目論見があってのことでした。また、家庭を持っても働き続けることができる企業風土の就職先を選びました。そのIT企業では産休育休をはさみ9年ほど在籍し、ITの基礎の基礎からプロジェクト運営、クライアントと直接コミュニケーションをとる営業を経験した後、大手外資のコンサル会社のテクノロジー部門に転職しました。 外資のコンサル会社は日本企業にはないスピード感、風通しのよさがあり、さらに個々人が存在価値を発揮し、結果を出すことにコミットすることが当たり前で、それまでの日本企業とは真逆の文化でした。そのため、自分のマインドセットや行動の癖をアジャストすることにかなり苦労しました。最初に関わったプロジェクトではほとんど価値を発揮せずに終わってしまったものの、周囲に恵まれ、かなり丁寧に教えてもらい、鍛えてもらったことが大きな財産となり、現在までタフな仕事でも通用できていると感じます。 多くのグローバルプロジェクトに携わり、日本からヨーロッパやシンガポール、インドやアメリカなどと共同して進める場面では留学時代に培った語学力が活かされています。考え方や文化の違うメンバーが多数の中、仕事の進め方の違いや、協働することの難しさもありますが、それ乗り越えてプロジェクトが成功した時の達成感は何にも代えがたいものがあります。 規模の大きなグローバルプロジェクトも多く、自分の携わったプロジェクトがニュースや経済誌に載ることもあり、微力ながらも世界や日本の経済にインパクトを与える仕事ができていることに誇りを感じます。 遠回りしたようにも感じますが、結果的に留学を通して経験したことや社会人になってから鍛えたスキル全てが今の自分のキャリアに到達するには必要なことだったと感じています。 働く女性としてのキャリア、これからの未来のために IT企業時代、社会人5年目の頃に第1子を出産しています。ようやく女性も出産後働き続ける人が増えてきた頃でしたが、まだ働き続けることはできてもキャリアアップは望まない(望めない)のが多くの働く女性の現実でした。今でこそ働く女性、特に子供のいる女性のキャリアを阻む障害が“マミートラック”や“ガラスの天井”と言われ、問題視されていますが、当時は当たり前の価値観でした。例に漏れず、私も当時は子供を持ちながらの大きなキャリアアップは難しいと考えざるを得ない状況でした。 一方で、同じ南オレゴン大学出身の夫はキャリアアップ転職に成功し、やりがいのある仕事に就き、子供も産まれ、公私共に充実していました。 同じ大学出身なのに、順調にキャリアを積んでいく夫に対して、出産を機にキャリアを諦め停滞する自分。私も学生時代頑張ってきたのに、それは意味がなかったと社会に突きつけられているようでした。 転機となったのは、それから数年後、オレゴンを家族旅行で訪れTIUAと南オレゴン大学を訪ねたことでした。当時のTIUAのスタッフの皆さんにお会いし、Willamette大学や南オレゴン大学を訪問することで、留学当時の思いや切磋琢磨した日々を思い出し、 「あんなに頑張って人生を切り開いていったのに、このままで良いわけがない。」と強く思うに至りました。 帰国後、夫の後押しもあり、転職活動の結果、現在の外資系コンサル会社への転職というキャリアアップの機会に恵まれました。転職後も苦難の連続でしたが、管理職になり、その後もさらにキャリアを積めているのは、留学時代に養った目標に向かって行動しやり抜く力が活かされたこと、そして娘を持つ母になったことが大きいです。いずれ社会に出る娘たちに、女性であることで本来の自分と異なる”あるべき姿”に縛られたり、何かをあきらめたりすることがないような未来を用意すること、それが私の夢であり大きな目標です。 (2017年TIUA、Willamette大学、南オレゴン大学への訪問) 目の前にチャンスが巡ってきたときに、そのチャンスをつかめるように 大学卒業時、自分の専攻も英語力も関係のないITの世界に飛び込みました。ITの世界では英語ができる人が少なく、将来的に英語力とITスキルを両方兼ね備えることが自分の強みになると考えたからです。結果的に外資系コンサル企業でグローバルプロジェクトに携わり、両方のスキルを活かせています。 現在の私は、昨年(2024年)11年ぶりの出産をして1年以上夫婦で育児休業を取得し、思う存分子供と向き合うことができる生活ができています。 これは、共働きでも女性が家庭や子育てのほぼ全てを担うのが当たり前だった11年前の第1子の出産時にはしたくてもできなかったことです。 キャリアもプライベートも、目の前にチャンスが巡ってきたときに、そのチャンスがつかめるよう、経験を積みスキルアップをして準備しておくことが大事です。 大きな夢ではなくても、どのように生きたいか、なりたい自分をぼんやりと描いたら、5年後、10年後の世の中はどうなっているか、その時に自分の武器になりえるものは何か、自分は今から何が準備できるか、想像力を働かせてみると良いと思います。 そして変化に対応するだけではなく、自分が世の中を良い方向に変えていく存在であることを忘れないで欲しいです。 (舩形史美(旧姓)さんプロフィール) 福島県いわき市生まれ、宮城県仙台市出身 2002年東京国際大学入学 2003年TIUAプログラムに参加 2005年オレゴン州立南オレゴン大学入学 2007年オレゴン州立南オレゴン大学卒業 リベラルアーツ卒社会学専攻/コンピューターサイエンス副専攻 2008年東京国際大学国際関係学部卒業 2008年ドコモ・システムズ株式会社入社 2013年第1子出産 2017年アクセンチュア株式会社へ転職 2024年第2子出産 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
舩形史美(旧姓)さん 国際関係学部2008年卒 / 小室ゼミ TIUA 2003年生 南オレゴン大学(Southern Oregon University) リベラルアーツ社会学 2007年卒2025年9月1日勉強にも遊びにも精一杯だった2度の留学時代 TIUA(ASPプログラム)に参加することは、留学はおろか海外旅行もしたことがなかった私にとって勇気のある決断でしたが、両親の後押しもあり10か月という長期のプログラムに参加しました。 私にとって音楽や映画を通して知るアメリカは憧れの国でした。だからこそ意味がある留学にしなければいけないと、TIUAプログラムでは必死で、精一杯な日々だったように思います。 夏休みなど長期休暇では、独りバックパック一つで、カルフォルニアを縦断したり、ニューヨークに数週間滞在するなど、アメリカで行きたかった場所を巡り、滞在することができとても嬉しかったです。 一人でアメリカ内を行動したことで、結果的に英語力はもちろん、コミュニケーション力や交渉する力が身についたと思います。そういった経験の中でアメリカという国の良い面もそうでない面も知り、単なる憧れではなく現実としてもっと深く知りたいと思うようになり、プログラム終了後にアメリカに編入留学することを目指すようになりました。 私がTIUAのプログラムに参加している間も、すでにTIUからWillamette大学へ編入し切磋琢磨している先輩の姿を見て、その思いは一層強くなっていったように思います。 (TIUA時代 お揃いのTシャツで寮の仲間と/14年後の再訪問) 10か月のプログラムを経てもなお英語力が全く足りず、一度帰国し猛勉強し、編入試験を受け南オレゴン大学(SOU)へ編入することとなりました。 社会学を専攻したのですが、かなり本を読まないといけない学部で、しかも3年生からの編入ということもあり勉強面では大変苦労しました。担任の先生に相談し、毎週個別の質問時間をもらい、学内にある学習サポートを駆使するなど、色々なサポートを得てなんとか勉強についていったように思います。苦労のかいもあり、卒業時には成績優秀者のリストに載り、卒業後数年後教授に偶然会った際には「優秀な生徒だったことをよく覚えている」と言ってもらったのは良い思い出です。 2度の留学を通して、アメリカはもちろん、ヨーロッパやタイや台湾、ハワイなど世界中に友人ができたことは大きな財産です。卒業後も海外旅行を兼ねて友人を訪ね、日本を訪れた海外からの友人と再会し、交友を続けています。また、同じ日本から留学した友人も海外で活躍したり、事業を成功させるなど自ら道をきりひらいている仲間が多く、刺激を受けています。 (南オレゴン大学卒業式に両親と) 遠回りの道のりこそが自分の将来を切り開く鍵 南オレゴン大学では社会学を専攻し、同時にコンピューターサイエンスを副専攻として卒業しました。当時ITの世界に将来性を感じていたことから、日本に帰国し通信系IT企業に就職し、プログラミングやシステム導入のプロジェクトに携わりました。 専攻だった社会学に関連する職業でもなく、留学したのに英語を全く使わない就職先でしたが、将来的に英語ができるIT経験者は人材価値が高まるのではないかという目論見があってのことでした。また、家庭を持っても働き続けることができる企業風土の就職先を選びました。そのIT企業では産休育休をはさみ9年ほど在籍し、ITの基礎の基礎からプロジェクト運営、クライアントと直接コミュニケーションをとる営業を経験した後、大手外資のコンサル会社のテクノロジー部門に転職しました。 外資のコンサル会社は日本企業にはないスピード感、風通しのよさがあり、さらに個々人が存在価値を発揮し、結果を出すことにコミットすることが当たり前で、それまでの日本企業とは真逆の文化でした。そのため、自分のマインドセットや行動の癖をアジャストすることにかなり苦労しました。最初に関わったプロジェクトではほとんど価値を発揮せずに終わってしまったものの、周囲に恵まれ、かなり丁寧に教えてもらい、鍛えてもらったことが大きな財産となり、現在までタフな仕事でも通用できていると感じます。 多くのグローバルプロジェクトに携わり、日本からヨーロッパやシンガポール、インドやアメリカなどと共同して進める場面では留学時代に培った語学力が活かされています。考え方や文化の違うメンバーが多数の中、仕事の進め方の違いや、協働することの難しさもありますが、それ乗り越えてプロジェクトが成功した時の達成感は何にも代えがたいものがあります。 規模の大きなグローバルプロジェクトも多く、自分の携わったプロジェクトがニュースや経済誌に載ることもあり、微力ながらも世界や日本の経済にインパクトを与える仕事ができていることに誇りを感じます。 遠回りしたようにも感じますが、結果的に留学を通して経験したことや社会人になってから鍛えたスキル全てが今の自分のキャリアに到達するには必要なことだったと感じています。 働く女性としてのキャリア、これからの未来のために IT企業時代、社会人5年目の頃に第1子を出産しています。ようやく女性も出産後働き続ける人が増えてきた頃でしたが、まだ働き続けることはできてもキャリアアップは望まない(望めない)のが多くの働く女性の現実でした。今でこそ働く女性、特に子供のいる女性のキャリアを阻む障害が“マミートラック”や“ガラスの天井”と言われ、問題視されていますが、当時は当たり前の価値観でした。例に漏れず、私も当時は子供を持ちながらの大きなキャリアアップは難しいと考えざるを得ない状況でした。 一方で、同じ南オレゴン大学出身の夫はキャリアアップ転職に成功し、やりがいのある仕事に就き、子供も産まれ、公私共に充実していました。 同じ大学出身なのに、順調にキャリアを積んでいく夫に対して、出産を機にキャリアを諦め停滞する自分。私も学生時代頑張ってきたのに、それは意味がなかったと社会に突きつけられているようでした。 転機となったのは、それから数年後、オレゴンを家族旅行で訪れTIUAと南オレゴン大学を訪ねたことでした。当時のTIUAのスタッフの皆さんにお会いし、Willamette大学や南オレゴン大学を訪問することで、留学当時の思いや切磋琢磨した日々を思い出し、 「あんなに頑張って人生を切り開いていったのに、このままで良いわけがない。」と強く思うに至りました。 帰国後、夫の後押しもあり、転職活動の結果、現在の外資系コンサル会社への転職というキャリアアップの機会に恵まれました。転職後も苦難の連続でしたが、管理職になり、その後もさらにキャリアを積めているのは、留学時代に養った目標に向かって行動しやり抜く力が活かされたこと、そして娘を持つ母になったことが大きいです。いずれ社会に出る娘たちに、女性であることで本来の自分と異なる”あるべき姿”に縛られたり、何かをあきらめたりすることがないような未来を用意すること、それが私の夢であり大きな目標です。 (2017年TIUA、Willamette大学、南オレゴン大学への訪問) 目の前にチャンスが巡ってきたときに、そのチャンスをつかめるように 大学卒業時、自分の専攻も英語力も関係のないITの世界に飛び込みました。ITの世界では英語ができる人が少なく、将来的に英語力とITスキルを両方兼ね備えることが自分の強みになると考えたからです。結果的に外資系コンサル企業でグローバルプロジェクトに携わり、両方のスキルを活かせています。 現在の私は、昨年(2024年)11年ぶりの出産をして1年以上夫婦で育児休業を取得し、思う存分子供と向き合うことができる生活ができています。 これは、共働きでも女性が家庭や子育てのほぼ全てを担うのが当たり前だった11年前の第1子の出産時にはしたくてもできなかったことです。 キャリアもプライベートも、目の前にチャンスが巡ってきたときに、そのチャンスがつかめるよう、経験を積みスキルアップをして準備しておくことが大事です。 大きな夢ではなくても、どのように生きたいか、なりたい自分をぼんやりと描いたら、5年後、10年後の世の中はどうなっているか、その時に自分の武器になりえるものは何か、自分は今から何が準備できるか、想像力を働かせてみると良いと思います。 そして変化に対応するだけではなく、自分が世の中を良い方向に変えていく存在であることを忘れないで欲しいです。 (舩形史美(旧姓)さんプロフィール) 福島県いわき市生まれ、宮城県仙台市出身 2002年東京国際大学入学 2003年TIUAプログラムに参加 2005年オレゴン州立南オレゴン大学入学 2007年オレゴン州立南オレゴン大学卒業 リベラルアーツ卒社会学専攻/コンピューターサイエンス副専攻 2008年東京国際大学国際関係学部卒業 2008年ドコモ・システムズ株式会社入社 2013年第1子出産 2017年アクセンチュア株式会社へ転職 2024年第2子出産 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
TIU同窓会北米支部立ち上げへの思い
星野優太さん(2001年卒業 国際関係学部国際関係学科 坂本ゼミ 2006年トロイ大学経営学部卒業) 2024年12月1日初めまして、2001年に国際関係学部国際関係学科卒業の星野優太と申します。 現在ケンタッキー州で自動車関係(電着塗装)の会社に勤務しております。 TIU在学時代に国際感覚を養う 在学中はゼミや短期留学を通じて今でも連絡を取り合える多くの友人に恵まれました。 中学や高校と違い日本全国どころかアジアを中心に多くの留学生が在籍しているのを目の当たりにし、いい意味でのカルチャーショックを受けたのを今でも覚えています。この経験が国際感覚を養うという意味で今でも生きていると思います。 1年次の1998年にアリゾナ大学ゼミナールに参加し広大なキャンパスと大自然に感動したことを今でも覚えています。 (TIU在学時、第2キャンパスにて) (1年次にアリゾナ大学ゼミナール参加) アメリカ留学時代はすべてが手探り状態でした アリゾナ大学ゼミナールに感化され以前からの夢であったアメリカ正規留学を実現したく、卒業後の同年8月にアラバマ州のトロイ大学に留学しました。 アリゾナ大学ゼミナール以外にも10歳から12歳までカナダとニューヨーク州に住んでいましたし、高校の修学旅行は西海岸だった為、既に3度アメリカを経験している自分はアメリカのほぼ全てを熟知していると勘違いしていました。 今でこそ多少は開かれていますが、2001年当時のアラバマは物凄く外国人どころか州外の人に閉鎖的で日系企業や日本人人口も他の州に比べ少なく、さらに南部訛りがすごいので同じAmerican Englishとは思えないくらい理解に苦しみました。 入学時の日本人学生は僅か5人で全員が同期入学だった為、もちろん日本人学生会もなければ生活や学業の情報入手先の先輩もいないため、すべてが手探り状態でした。 (TIU卒業後、アラバマ州のトロイ大学に留学) 卒業後のアメリカ就職は就労ビザで苦労 卒業後も就労ビザを取得してアメリカで就職した先輩がいなかったため、日本人留学生がアメリカで就職するためのノウハウを知らず自己流で就職活動をしましたが、就労ビザのスポンサー企業が見つからず。不本意ながら日本に帰国せざる終えない期日の一月前に何とか就労ビザをサポートしてもらえる企業が見つかり、その後、リストラや転職を繰り返し2016年から現在に至ります。 (現在の会社の同僚とは野球とサッカーの話題が) TIU同窓会北米支部設立への思い TIU卒業後単身渡米し、20年以上に及ぶ苦労の連続のアメリカ生活においていかに異国の地で一人で生きていくことが大変だということを嫌というほど経験しました。今後北米に移住する卒業生への少しでも助けになるよう卒業生の北米支部を立ち上げたいと思うようになりました。 立ち上げに当たり、卒業時のゼミの先生、先生にご紹介いただいた職員及び事務局の方、多くの賛同者を紹介して頂いた元TIUAの職員の方、及び立ち上げに賛同して頂いた方々にこの場をお借りして御礼申し上げます。 霞会北米支部立ち上げメンバーを募集中です 来年2025年北米支部立ち上げに向け現在、賛同してくれる方を募集しています。 北米在住の卒業生の方々と是非、情報共有や交流の場を持ちたいと思います。 ご興味のある方は是非私までご連絡下さい。 (星野優太さんプロフィール) 福島県福島市出身 2001年 東京国際大学国際関係学部国際関係学科卒業 長谷ゼミ(1,2年次)坂本ゼミ(3,4年次) 2006年 トロイ大学経営学部卒業卒業後は米国内の日系企業数社に勤め 2016年 Itsuwa KY LLCに転職し現在に至る (連絡先)メールアドレス yutahoshino@yahoo.com Line ID yutah420 (私の住んでいるケンタッキー州Bardstownのダウンタウンです。バーズタウンの代名詞はWorld capital of Bourbon と言われるほどバーボンのメッカです。機会があれば一度お越し下さい。) TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
星野優太さん(2001年卒業 国際関係学部国際関係学科 坂本ゼミ 2006年トロイ大学経営学部卒業) 2024年12月1日初めまして、2001年に国際関係学部国際関係学科卒業の星野優太と申します。 現在ケンタッキー州で自動車関係(電着塗装)の会社に勤務しております。 TIU在学時代に国際感覚を養う 在学中はゼミや短期留学を通じて今でも連絡を取り合える多くの友人に恵まれました。 中学や高校と違い日本全国どころかアジアを中心に多くの留学生が在籍しているのを目の当たりにし、いい意味でのカルチャーショックを受けたのを今でも覚えています。この経験が国際感覚を養うという意味で今でも生きていると思います。 1年次の1998年にアリゾナ大学ゼミナールに参加し広大なキャンパスと大自然に感動したことを今でも覚えています。 (TIU在学時、第2キャンパスにて) (1年次にアリゾナ大学ゼミナール参加) アメリカ留学時代はすべてが手探り状態でした アリゾナ大学ゼミナールに感化され以前からの夢であったアメリカ正規留学を実現したく、卒業後の同年8月にアラバマ州のトロイ大学に留学しました。 アリゾナ大学ゼミナール以外にも10歳から12歳までカナダとニューヨーク州に住んでいましたし、高校の修学旅行は西海岸だった為、既に3度アメリカを経験している自分はアメリカのほぼ全てを熟知していると勘違いしていました。 今でこそ多少は開かれていますが、2001年当時のアラバマは物凄く外国人どころか州外の人に閉鎖的で日系企業や日本人人口も他の州に比べ少なく、さらに南部訛りがすごいので同じAmerican Englishとは思えないくらい理解に苦しみました。 入学時の日本人学生は僅か5人で全員が同期入学だった為、もちろん日本人学生会もなければ生活や学業の情報入手先の先輩もいないため、すべてが手探り状態でした。 (TIU卒業後、アラバマ州のトロイ大学に留学) 卒業後のアメリカ就職は就労ビザで苦労 卒業後も就労ビザを取得してアメリカで就職した先輩がいなかったため、日本人留学生がアメリカで就職するためのノウハウを知らず自己流で就職活動をしましたが、就労ビザのスポンサー企業が見つからず。不本意ながら日本に帰国せざる終えない期日の一月前に何とか就労ビザをサポートしてもらえる企業が見つかり、その後、リストラや転職を繰り返し2016年から現在に至ります。 (現在の会社の同僚とは野球とサッカーの話題が) TIU同窓会北米支部設立への思い TIU卒業後単身渡米し、20年以上に及ぶ苦労の連続のアメリカ生活においていかに異国の地で一人で生きていくことが大変だということを嫌というほど経験しました。今後北米に移住する卒業生への少しでも助けになるよう卒業生の北米支部を立ち上げたいと思うようになりました。 立ち上げに当たり、卒業時のゼミの先生、先生にご紹介いただいた職員及び事務局の方、多くの賛同者を紹介して頂いた元TIUAの職員の方、及び立ち上げに賛同して頂いた方々にこの場をお借りして御礼申し上げます。 霞会北米支部立ち上げメンバーを募集中です 来年2025年北米支部立ち上げに向け現在、賛同してくれる方を募集しています。 北米在住の卒業生の方々と是非、情報共有や交流の場を持ちたいと思います。 ご興味のある方は是非私までご連絡下さい。 (星野優太さんプロフィール) 福島県福島市出身 2001年 東京国際大学国際関係学部国際関係学科卒業 長谷ゼミ(1,2年次)坂本ゼミ(3,4年次) 2006年 トロイ大学経営学部卒業卒業後は米国内の日系企業数社に勤め 2016年 Itsuwa KY LLCに転職し現在に至る (連絡先)メールアドレス yutahoshino@yahoo.com Line ID yutah420 (私の住んでいるケンタッキー州Bardstownのダウンタウンです。バーズタウンの代名詞はWorld capital of Bourbon と言われるほどバーボンのメッカです。機会があれば一度お越し下さい。) TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
「人生に無駄な経験は無い」
原田 晴之さん (1992年卒業 教養学部国際学科/大越ゼミ 1991年Willamette Univ.卒業/BA政治学専攻)2024年10月1日【プロローグ】 私が海外に興味を持ち始めたのは幼稚園での出会いがきっかけでした。カトリック系幼稚園で良くして頂いた神父、先生(シスター)方、そして聖書の挿絵に登場する聖人達は皆、外国人でした。園庭で先生と一緒に遊んでいた時に、花壇のチューリップが果たして自分と同じ様に見えているのだろうかと考えていた記憶が、ぼんやりと残っています。(幼稚園から頂いた聖書) 【高校留学】 カリフォルニア州のメキシコ系アメリカ人家庭にホームステイをしながら、地元の公立高校 (Bloomington High School) に1年間通いました。激しい環境の変化に身を投じた事で、いきなり人生の転換期を迎えました。勉強不足による知識の無さや思考力の弱さを痛感し、帰国後に何を為すべきか大いに悩んだ時期でした。 ■ 自律性を養う 私のホストファミリーは、モービルホーム (トラックで牽引出来る家) に住む共働き家庭(3人家族+犬1匹& 猫1匹)でした。食事は冷蔵庫にある食材を各自が勝手に料理して取ることが基本で、家事はホストブラザーと分担していました。ところが、滞在3か月を過ぎた頃から、冷蔵庫が空になることが増え、家事の分担も私に偏り始めました。 普段はのんびり屋の私でしたが、「空腹」が「飢え」に変わったところで突然「スイッチ」が入り、自分でも驚く程の行動力を発揮したのです。近隣の家や友人宅を訪ねて、「芝刈り」「庭木の剪定」「掃除」「洗車」「ベビーシッター」「犬の散歩」「プールの清掃」等の仕事を次々と取り、家事で身に付けたスキルを総動員して、一気に問題を解決してしまったのです。(その勢いは止まらず、学校の昼食を無料にして貰うことにも成功しました。) その後、高校卒業に必須のクラス「American History」の前期分を、留学初期の英語力不足が原因で履修漏れが判明し、留学中最大の危機に直面しました。しかし、幸いにもその時ちょうど「スイッチ」が入って「エンジン全開」の状態だった為、この難局をうまく切り抜けられました。日本の高校で履修済みの世界史の教科書を手に、カウンセラーの先生や社会科の教諭、教頭先生に必死で掛け合いました。そして、補習クラスの履修を条件に「前期分」に相当する単位の置換を認めて貰うことに漕ぎつけたのです。 「自分の問題は自分で解決する」「自ら考え行動する」という自律性を養うことが、高校留学で得た最大の収穫でした。 (高校のクラス) ■ 英語の多様性とTPO 若者の英語、大人の英語、綺麗な英語、汚い英語、白人の英語、黒人の英語、メキシコ人の英語、インド人の英語、中華系の英語、西海岸の英語、LAヴァリーガール (Valley Girl) の英語、サーファーの英語等、多種多様な英語が日常生活でパワフルに話されており、米国デビューを果たした私の前に大きな壁として立ちはだかりました。私は小さなメモ帳を常に携行し、聞き取れた言葉をカタカナでメモし、帰宅後には鏡の前でネイティブスピーカーになったつもりで、カッコよく身振り手振り付きで発声練習を行いました。翌日には学校の友達にそれを披露してアルファベットに変換して貰い、帰宅後に辞書で調べて正確な意味を理解するというルーティンを徹底的に繰り返しました。その結果、3カ月後には確かな進歩を感じ、それが自信につながりました。 ところが、日々私が書き溜めて練習し、身に付けた英語が、米国の一般社会では決して受け入れられないギャング英語(メキシコ系のChicano Englishがベース)だった為に、それまで私を応援してくれた大切な友人が少しずつ私から離れて行きました。私はTPOをわきまえ、学校生活の中では標準的な英語を使うことを心掛けました。一方で、興味のあったインド、スペイン語、中国語訛りの英語については密かに練習を続けました。標準的な英語とそれ以外の切り分けにはかなり苦労しましたが、これも一つの学びでした。 ■ 人種差別 ほぼ単一民族の日本で育った私にとって、自分が「有色人種」である事を強烈に意識させられ、自覚させられたのが米国での生活でした。留学当初、私は「Jap」「Nip」「Gook」「Chink」「Pigtail」「WOG」「Napalm」その他多くの差別語で呼ばれ、学校の内外で不当な扱いを受ける事がありました。ある日、真っ黒に日焼けした自分の手の甲を見た瞬間、「汚い!」と感じた自分に大きなショックを受けました。無意識の内に、東洋人であることに劣等感を抱いていたと気付き、驚いたのです。 滞在期間の後半には友人も増え、それは和らいで行きましたが、学校の授業で見せられた 「A Class Divided」 というドキュメンタリー番組 (※)を通じて、改めて自分が抱いていた「劣等感」の正体を考えさせられました。そして、白人以外の人種に対して抱いていたかもしれない「優越感」がいかに虚しいものであったかを痛切に感じました。 ※ 1968年アイオワ州の小学校で実施された人種差別についての実験授業 YouTubeで日本語版を見つけたのでご紹介します。(NHK特集1988年4月29日放送) 「青い目 茶色い目 ~教室は目の色で分けられた~ (ウイリアム・ピータース著 / NHK出版) (高校の仲間)(高校の仲間) 【東京国際大学】 校名が「国際商科大学 (ICC)」から「東京国際大学 (TIU)」に改称された年(1986年)に入学しました。「高校留学での体験を思い出として終わらせず、深堀りする事で経験値として落とし込みたい。更に勉学を重ねる事で進むべき将来の道を明らかにしたい。」との一心で門を叩きました。 ■ スランプからの脱出 高い志と情熱を持って臨んだ「下羽ゼミ」(国際政治学)で私を待ち構えていたのは、日本全国から集まった個性豊かなクラスメート(曲者)達でした。私とは次元の違う高レベルの論客揃いで、自ら収集した情報(Fact)を分析(Study)し知識 (Knowledge) として吸い上げて行く「大学生の勉強方法」を当たり前の様に実践していました。私も必死で食らいつきましたが、元来の怠け癖と誘惑に弱い性格が邪魔をして空回りし、大学1~2年時は焦燥感に苛まれる事が多かったです。 3年に進級すると「大越ゼミ」(アメリカ研究論)を選択しました。下羽ゼミの仲間達が「厳格な修行僧」、「哲学者」の如く真理を追究する一体集団だとすれば、大越ゼミの仲間達は「まとまりの無い我儘な自由人」、「枠にとらわれない斬新的なクリエイター」の集まりといった印象でした。 一見、全く異なる二つのゼミでしたが、そこで学んだことは共通していました。知識の積み重ねや思考力の鍛錬は他人に代わって貰うことは出来ないこと、焦って背伸びをしても一足飛びに先には進めないこと、地道に継続することの重要性、そして勉強は苦しいだけでなく、取組み方次第では自由で楽しいものだということを教えられました。これは、至極当たり前のことかもしれませんが、私にとって大きな気付きでした。 スランプから脱出して改めて周りを見渡すと、それまで見過ごしていた周りのものが鮮明に見えるようになりました。大学が提供する豊富な選択授業や、新しい図書館や視聴覚室の英語教材の存在に気が付き、それらを積極的に活用することにしました。また、一度は諦めていた留学についても、挑戦したいという気持ちが湧いて来ました。親の支援で一度留学させて貰っていた為、再度の留学は経済的に難しいと感じていましたが、奨学金制度を活用することで再び挑戦出来るのではと考えました。そして、春・夏の海外セミナー(春:ウィラメット大学、夏:南オレゴン州立大学)や長期留学(ウィラメット大学)に全て応募し、大学からの支援を得られました。 ■ 教育実習 将来の進路の一つとして教育関連の仕事を考えており、教職課程を履修しました。大学の紹介により、埼玉県の私立男子高校の2年生クラスで英語の教育実習を行いました。事前準備をしっかりして、気合を入れて挑んだ初授業でしたが、英語以前に生徒のやる気をいかに引き出すかが喫緊の課題であることが分かりました。授業中に簡単な問題を出して何人かの生徒を当てたところ、皆一様に立ち上がらず、中腰で「分かりません」と言って着席してしまいます。 私は、着席した生徒を再度しっかり立ち上がらせ、「分からなくても良いから、分かろうとしよう」と説得しました。そして、答えが出るまでヒントを出し続け、場合によっては答えを黒板に書いて声に出して読ませる等、兎に角最後まで諦めないで挑戦するように指導しました。 また、机の中に教科書ガイドを忍ばせている生徒達には、「英語なんて数学みたいに考えてもしょうがないから、教科書ガイドの積極利用は大歓迎!」と、机上に置いて堂々と使用するように奨めました。教科書の練習問題も面白い文章に全て書き換えて、少しでも楽しめるように工夫しました。 最初はやる気の無い生徒が多かったのですが、中学校で習った辞書の引き方から、必要と思われる基礎的な構文については丁寧に何度も教えたところ、徐々に授業に参加する生徒が増えて行きました。極めつけは、少しずるいやり方とも思いましたが、どのクラスにも必ずいるおしゃべりで明るい生徒をうまく乗せて、授業が楽しくなるようなムードメーカーの役割を担わせることでクラス全体がひとつになりとても充実した授業運営が出来る様になりました。 しかし、私の授業を見学した先生方の評価は、年配のベテラン教師と若い教師とで真っ二つに分かれました。あるベテラン教師は、「原田先生は元気があって声も大きく、発音だけは良いけれど、中学で教わった構文を、わざわざ高校の授業でまた教える必要はないでしょう?」と否定的なコメントを残して教室を出て行かれました。一方で、若い指導教諭は他の若い先生方と一緒になって「原田先生、気にしないで!生徒が分からないから、分かるまで教えるのは当然のことです。中学校で教わっていようがいまいが、関係ありません!」と、私の教授方法を全面的に支持して頂けました。 担当していたクラスには、当時では珍しい米国からの交換留学生が在籍していました。彼と共にハイスクールで実際に話されている会話をスキット形式で授業中に紹介すると、「生きた英会話」に関心を持つ生徒が何人も現れ、教えることのやりがいを大いに感じました (※)。ある日、彼から深刻な二つの悩みを打ち明けられ、それを解消する為に奮闘することになりました。一つ目は、日本語補習の個人レッスンの機会を与えるよう学校と調整したこと、二つ目は、関係がうまくいかないホストファミリーから新しいホストファミリーへの変更をサポートしたことです。実習生の立場で出過ぎた行動だったかもしれませんが、自らの高校留学でお世話になった方々への恩返しのつもりで思わず突っ走ってしまったのだと思います。 ※ それでも教科書英語で基礎を固める事は大切です。 初日から積極的に取組んだ教育実習はあっという間に終了し、仲良くなった生徒達や意気投合した若い先生方に温かく送り出して頂きました。実習校からは大学卒業後に是非来て欲しいという有難いお言葉を頂きましたが(もしかすると社交辞令だったかもしれません)、私は企業就職を選びました。実習期間中に出会った企業経験者の先生の柔軟な視点や考え方、そしてその言葉に感じた重みから、教師という職業には専門教科の知識だけでなく、幅広い社会経験が必要だと強く感じたのです。(これはあくまでも、私の自分自身への評価に基づく判断であり、大学卒業後直ぐに教職に就かれる方を否定するものではありません。) (生徒からの寄書き) 【ウィラメット大学】 再びアメリカへ行くチャンスを得た2年間の奨学金プログラムでは、前回の高校留学時とは異なり、生活に適応するだけでなく、大学生活全体を通して様々な経験を積むことが出来ました。この留学期間は、私の学生時代で最も成長した時期であり、大いに学び、大いに悩み、そして大いに楽しむことで、現在の私の土台を築きました。(ウィラメット大学) ■ 寮生活:フラットハウス ウィラメット大学は、1842年に創立された西海岸で最も古い大学です。オレゴン州会議事堂に隣接する美しいキャンパス内の学生寮で2年間を過ごしました。キャンパスにある学生寮は、個室の寮もありますが、ルームメートとシェアする二人部屋が基本です。私が編入した当時は寮が満室でしたが、大学が交渉して会員制のフラタニティーハウスの一室を仮住まいさせて貰うことで留学生活をスタートしました。 「フラタニティー」(fraternity)とは辞書によると、「米国の男子学生の社交クラブ、友愛会」と定義されており、その歴史はアメリカの建国の歴史からそれ程遠くない1800年代初頭に、学生達が理想の学生生活を求めて結成したグループに遡ります。当時のアメリカは自由の国として建国されましたが、教育界は保守的で学生の行動には厳しい制約があり、その為学生の活動は地下に潜り、秘密結社的な形態をとりました。やがて、フラタニティーは全米に広がり、現在では多様なグループが設立され、共通の趣味や価値観を持つ学生が集う伝統的な学生組織として認知されました。私が仮住まいしたフラタニティーは、「ΣΑΕ:Sigma Alpha Epsilon」(略称 エス・エイ・イー)という全米に支部を持つグループでした。フラタニティーは「Greek Society」とも呼ばれ、ギリシャ語2~3文字の略称が一般的です。 (ΣΑΕハウス) (ΣΑΕの仲間達と) その後、第一希望の寮であるWISH (Willamette International Studies House) に空きが出ず、止む無く移った個室のYork Houseでは、隣室の学生からタイプライターの音がうるさいとの苦情が出て、夜間の使用を禁止され、困っていました。そんな時、ΣΑΕから新会員候補としての招待(Bid)を受けました。私はフラタニティーという謎めいたグループに興味があり、招待を受けた後、正式なプロセスを経てメンバーとなりました。 フラタニティーのメンバーになる為には、「Rush」と呼ばれる募集期間中に希望するフラタニティーのイベントに参加し、メンバー達と交流します。そこで選ばれた者は招待状を受け取り、次に「Pledge」という新会員候補または見習いとして一定期間の試練や課題(Initiation)を乗り越えることで、正式会員となります。各フラタニティーには伝統的な儀式 (Ritual) やイベントがあり、その内容の多くは秘密です。会員となった後、秘密の合言葉や挨拶の仕方が伝授され、フラタニティーのギリシャ文字が入ったトレーナーやTシャツの着用が許されます。また、本部からはスーツのジャケットにつけるピンバッジ(記章)と証書が贈られます。 フラタニティーは、派手なパーティーを開催することがあり (※)、ハウスの地下室にはバーカウンターやビールサーバーが完備されています。パーティーの日には、キャンパス中から着飾った生徒が集まり大変な賑わいを見せます。クラスの課題に追われる私は、図書館横の24H Study Roomで勉強を終えた後、深夜遅くハウスに戻るのですが、パーティーが終わっているわけもなく、そのまま巻き込まれ酔っぱらって気絶することが何度かありました。アメリカの大学生活をフルに体験し、満喫する為には避けては通れない修行の場でもありました。(楽しい思い出です。) ※ フラタニティ―は、パーティーで大騒ぎするイメージばかりが先行していますが、ボランティア活動等の社会奉仕も盛んに行っています。 ■ 授業 アメリカの授業は進行が早く、私が専攻していた政治学(Political Science)は、授業に出る前提となっている読書課題(Reading Assignment)の量が特に多い学科でした。成績は以下の4項目で評価され、ネイティブの学生ですら毎日必死で勉強に励んでいました。 ①Attendance(出席) ②Participation(授業への参加、貢献) ③Exam(試験) ④Paper / Assignment(提出レポート・課題) 新入生は、最初の半年間(1st Semester)でしっかり勉強の習慣と最適な勉強法を身につけないと、学校が指定した成績に到達出来ず、学業保護観察処分(Academic Probation)を受けることになります。これにより、学校のイベントや部活動等への参加が禁止され、次の試験で成績が改善されない場合は退学(Academic Dismissal)の厳しい措置が取られてしまいます。 2度目の留学とはいえ、英語のハンディキャップが大きく、初年度の前期クラスでは、アドバイザーのセオドア・シェイ教授(政治学 博士)の助言を受けて、新入生クラス(100番台)で英語の基礎を固めると共に成績(GPA)の確保に努めました。その中で、「Public Speaking」のクラスは、毎回スピーチ原稿を準備し、クラスメートとビデオカメラの前でスピーチするという、とてもストレスフルなものでしたが、そこで学んだことは、後の授業だけでなく、就職後の仕事にも大変役立っています。 また、政治学の初級クラスでの初回レポートでは、政治哲学(The Role of The Individual and Political Order)について書きました。脳みそが千切れる程に考え抜き、何度も書き直し、連日の徹夜で仕上げましたが、既に提出締切日の授業が終わるタイミングであると気付きました。慌ててキャンパスを走り、教授のオフィスドアを激しくノックしました。何事かと出て来たシェイ教授は、開口一番「教師生活30年、寝巻き姿で飛び込んで来た生徒は君が初めてだ!」とあきれ返っていました。言われてはっと気付くと、確かに髪はぼさぼさ、無精髭、Tシャツに短パン、素足にスニーカー姿で、タイプライターで打ち終えたばかりのレポートを持って訪ねた私は、尋常でない迫力を感じさせたのかもしれません。本来受理されなかったかもしれないレポートでしたが、しっかり採点され、後日返却して頂きました。 実家から当時のレポートが出て来て、表紙に書かれたシェイ教授の温かいコメント(※)が、あの頃の私をどれほど励まし、支えとなっていたかを思い出しました。教授にとっては何気無い一言だったかもしれませんが、私には大きな力となりました。長い年月が経った今、改めて感謝の気持ちで一杯です。本当にありがとうございました! ※ シェイ教授のコメント This is an excellent paper. Very thoughtful and full of interesting insights. Well done in all respects. It is an A paper which has to become an A- because it was late. Again, excellent essay! これは素晴らしい論文だ。非常に思慮深く、興味深い洞察に満ちている。全ての点で良く出来ている。遅れた為 A- となったが、A論文である。もう一度言うが、素晴らしいエッセイだ! ■ 忘れられない貴重な体験の数々 夏休みの造園業や冬休みの牧場でのアルバイト、スクールマスコット(Barney the Bearcat)としての全米チアリーディング合宿参加や学校対抗のスポーツイベントでの活動、更に留学生会(WISA:Willamette International Student Association)やボランティア活動等、まるで見えない手に背中を押されるかのように、様々なことに挑戦し、貴重な体験を重ねました。これにより、自分の日本人としてのアイデンティティと価値観を確認し、現在のマインドセットの礎を築くことが出来ました。今、ひとつひとつの体験が記憶として蘇りますが、拙稿がネバーエンディングとなってしまいますので、ここでは割愛し、先に進ませて頂きます。 授業について行くのが精一杯だった私が、全ての活動をどうやってマネージメント出来たのか、今でも分かりません。しかし、私が留学生活を全う出来たのは、間違いなくウィラメット大学の教授陣とクラスメートの皆さんの支えがあったからです。また、海の向こうの日本から励ましの手紙を送ってくれたTIUの仲間達、両親、そして天のご加護にも感謝します。そして忘れてはならないのは、TIUAのDeanを務められていた川嶋教授のご厚意でご自宅にお招き頂き、ご馳走になった奥様の温かい家庭料理、かわいいワンちゃんのおもてなしが、ともすれば崩れそうだった私の心を癒し、励まして頂けたことです。この場をお借りして心から御礼申し上げます。 卒業式は屋外のスタジアムで盛大に開催されました。当時、湾岸戦争へ予備役(Reserve Force)として中東に派兵されたクラスメート達は、皆落第となってしまいました。当日はまだ帰還していなかった彼らの名前が読み上げられ、「名誉ある落第」として称えられました。観客席からは大きな歓声と拍手が沸き起こり、よく晴れた高い空にこだましました。 (学校新聞1面に掲載される) (卒業証書授与) 【就職】 資源に乏しい我が国が、高い技術力と品質でモノづくりをし、世界に輸出することで発展して来たことに、私は先人達への深い敬意を抱いていました。文系の私としては、直接モノづくりに関われないまでも、日本の優れた製品を世界中の人々に紹介し、使って貰うことで貢献したいと考えました。大袈裟かもしれませんが、日本と世界各国との経済交流を深めることで、日本の安全保障はもちろん、世界平和の維持に少しでも寄与したいという思いから、メーカーへの就職を決意しました。その後、2社目、3社目でIT・ゲーム業界を経験しましたが、初心に立ち返り4社目のメーカーに転職しました。ここで27年間勤め、来年には定年退職を迎えます。2社目、3社目での経験を通じて、製造業がハードウェア中心の開発からデジタル技術を介してインターネットやソフトウェアとの融合を考慮した開発へと進化していく流れを肌で感じられました。 ■ 1社目:放送機器メーカー 池上通信機株式会社(以下、池上)は、放送用・業務用機器の分野で世界的に高い評価を受けている放送機器メーカーです。それ以外にも、監視カメラ、医療用カメラ、錠剤検査装置等も手掛けています。主力製品の放送用カメラは、世界中の放送局や映像プロダクションで使用されており、その高い性能と信頼性で、現場のプロフェッショナルから絶大な支持を得ています。テレビで大型スポーツイベントやコンサート、そしてニュース報道の現場で使用されるカメラが一瞬映像に映る事がありますが、「Ikegami」のロゴを見るたびに胸が躍ります。 私が入社した当時 (1992年)の主流はアナログ方式であり、世界的な大手総合家電メーカーが開発した放送用カメラが束になっても、池上の製品には及びませんでした (※)。その後、1990年代後半からデジタル技術の導入が活発化し、デジタル方式への移行が加速しました。池上は競合他社との熾烈な競争を繰り広げながらも、積極的な技術革新を続け、業界での確固たる地位を守り抜きました。池上を離れた今でも、私は変わらず 「Ikegami Fan」であり続けています。 ※競争入札等で、競合他社のカメラと池上のカメラを並べて同じ対象物を撮影し、性能や操作性を比較することがありました。これにより、放送用カメラで最も重要な解像度や色再現性が一目瞭然に判別出来ました。特に色再現性については、競合他社のカメラは一般家電用技術を基にしている為、実物よりも鮮やかに映る傾向(誰が撮っても綺麗に映る補正回路?)がありましたが、池上のカメラは本物の色味を忠実に再現します。その為、放送業界のプロフェッショナルの厳しい要求や期待に応える製品であることが何度も証明されました。海外広告では、「The Professional Cameras dedicated to the Dedicated Professionals」というキャッチコピー(正確には覚えていませんが)が使われており、池上の特長を的確に表していると感じ、とても誇らしく思っていました。 ● 海外業務の習得 池上は、人を育てることに長けた会社であり、私が在籍した4年間という短い期間の中で、海外セールスに必要な基本的スキルセットをほぼ全て学ぶことが出来ました。海外販売子会社、海外代理店、海外販売店、国内大手商社との取引を通じて輸出入の知識や見積書作成、受発注納期管理、代金回収、技術翻訳、顧客アテンド等、多岐にわたる業務を経験させて頂きました。 担当地域は、インドネシア、インド、パキスタン、オーストラリア、ニュージーランド、そして最後は北米でした。一番の思い出は、あるODA案件で、スタジオシステムと大型中継車(OB Van)の入札、落札、納入初期まで、上司と先輩社員の指導の下、懸命に進めたことです。途中で異動となり、最後まで関与することは出来ませんでしたが、この経験を通じて多くのことを学びました。特に、プロジェクトの初期段階での情報収集や綿密な計画、営業と工場関係者との緊密な連携が成功の決め手であることを深く実感しました。 ● 恩義ある会社との別れ 池上では、尊敬できる上司、先輩、同僚に恵まれ、会社の外でもスポーツやBBQを楽しむ等、非常に親密なお付き合いをさせて頂きました。直属の上司であり兄貴分と慕っていたTさんに退職の意を伝えた時、最初は慰留されましたが、最終的には「会社にとって原田に残って貰うのは良いことだと思う。しかし、原田のこれからの人生が悔いの残らないものになるかどうかまでは保証出来ない。だから、原田が選んだこの決断を尊重し、応援する」と言って送り出して頂けました。今の会社で私が管理職となり、若い部下が辞める度にまさか同じ言葉で送り出すことになるとは、カルマを感じずにはいられません。 ■ 2社目:ITベンチャービジネス 日本でのインターネット利用者が殆どいなかった1990年代初頭、サイバーテクノロジーズ・インターナショナル株式会社(以下、サイバー)が創業されました。創業メンバーは全員アメリカ人で、既にインターネットが爆発的に普及し始めていた米国ではなく、これから普及が見込まれる日本に進出してビジネスチャンスを掴もうとしました。彼らは企業や一般ユーザー向けのインターネット接続、サーバーレンタル、ウェブページ作成・更新メンテナンス、ソフトウェア・プログラム開発等のサービスを積極的に展開し、日本のインターネット黎明期を支える重要な役割を果たしました。 ● インターネットとの出会い 創業メンバーの社長を含む4人はウィラメット大学の卒業生で、日本進出の手始めとしてインターネット導入に前向きな外資系企業から確実にビジネスを獲得し、その勢いで日本企業への展開を本格化しているところでした。ウィラメット大学の友人として食事に誘われ、集合場所として立ち寄った彼らのオフィスで、当時最先端のインターネット技術を次々と披露され、大変驚かされました。 一方で、そんな煌びやかなプレゼンテーションの後で私の心を捉えて離さなかったのは、今では当たり前となった電子メールでした。大変地味なアプリケーションでしたが、今後これが世界中で普及し、国境を越え遠くにいる人達と容易に繋がることが出来ると確信しました。私はこの新しいコミュニケーションツールの可能性に心を躍らせ、未来の広がりを感じずにはいられませんでした。 後に友人から、食事の真の目的が私の勧誘であることを明かされました。それまで私を育ててくれた池上への恩義があり、まだ大した貢献もしないうちに転職することに大変悩みましたが、これから急激な発展を遂げるであろうインターネット業界に身を投じて、世の中の動きを直に感じてみたいという思いが強くなり、新たな道に進むことを決意しました。 ● インターネット・ビジネス 当時日本の大企業は次々とWebサイト(ホームページ)を立ち上げ、大口の仕事の依頼が寄せられました。大手総合家電メーカー、大手自動車メーカー、大手商社、大手不動産会社、外資系大手通信会社、駐日外国大使館等、多くの優良顧客との取引きが成立しました。 それまで安定した収入源のひとつであった個人向けダイアルアップ(電話線)やISDNによるインターネット接続サービス業務からは撤退し、設立当初から会社が目指していたIT技術による企業向け「ビジネス・ソリューション」の展開にシフトして行きました。サイバーが構築・運営サポートをしていた企業向けWebサイトには、今でこそ盛んに利用されているWebマーケティング機能が既に搭載されていました。ユーザーがどのようにWebサイトまでたどり着いたのか、Webサイト内のページアクセス・ログ(閲覧履歴)、再訪問率等を分析して顧客企業に提供していました。 ● 時代の寵児 私が関わった仕事の中でエキサイティングだったのが、顧客であり提携パートナーでもあった株式会社ハイパーネットとの協業です。同社は、ウェブブラウザーに広告表示することでインターネット接続料金を無料にするシステムを開発し一世風靡したベンチャービジネスの雄でした。残念ながら急速な事業拡大をした直後に銀行融資が縮小され市場環境の変化(ITバブル崩壊)もあり倒産してしまいました。この企業の上層部は皆私と同世代で、社長を筆頭に物凄いカリスマとオーラを発していました。副社長のN野氏はハイパーネットを退職後、NTTドコモでi-modeを立ち上げ、現在KADOKAWAの代表取締役社長としてご活躍されています。ハイパーネットの倒産については「社長失格」(板倉雄一郎著 / 日経BP社)という本となり、後にTVドラマとして放映されました。同書に登場する人物は実名で書かれており、当時窓口としてお付き合いしていた事業部長のN山氏が突然退職された理由が分かり、心が痛みました。(板倉雄一郎著 / 日経BP社) ● 夢破れる 大きな夢を抱いて入社したサイバーですが、小規模のベンチャービジネスが成長を続ける為には、卓越したアイデアだけでなく、資金面のバックアップや「運とタイミング」も必要です。当時、インターネットは日々目覚ましい発展を遂げていましたが、「インターネット」という言葉やイメージばかりが先行し、実際に何が出来るのか、どう活用するのかはまだ手探りの状態でした。魅力的なWebコンテンツやアプリケーションも殆ど無く、市場は未成熟で利益を創出するのは厳しい環境でした。サイバーの財務状況が悪化し始めた頃、私は親しくなった技術部長に誘われ、米系大手ゲームメーカーへ転職しました。現在サイバーは在りませんが、それぞれ別の道を歩んでいる友人達とは今でもインターネットで繋がっています。先日、カナダに移住した元社長と二十数年振りに再会し、友情を再確認出来たことが非常に感慨深かったです。学生時代に始まり、短いながらもサイバーで共に苦楽を味わった仲間との絆は、時を経ても変わらず、私にとって大切な宝です。 ■ 3社目:米国ゲームメーカー日本支社 アクティビジョン・ジャパン株式会社(以下、アクティビジョン)は、世界最大手のゲームソフトメーカーであるActivision, Inc.(現:Activision Blizzard, Inc.)の日本法人でした。主な業務内容は、パソコンや家庭用ゲーム機向けのゲームソフトおよびライセンスの販売であり、米国本社で開発されたゲームを日本市場に合わせてローカライズ (日本語化) する機能も担っていました。バイリンガルのエンジニアが、日本語に翻訳された音声やテキストをゲーム内に組み込む作業を行っていました。アクティビジョンは「洋ゲー(洋物ゲーム)」として知られ、特定の「洋ゲーマニア」から強い支持を受けていました。 1990年代後半、ゲーム業界では大きな技術革新の波が起こりました。アクティビジョンはロボット対戦、カーチェイス、戦闘機対戦等のゲームにインターネット対戦機能や3Dポリゴン技術を導入し、リアルな質感のある画像でのオンラインマルチプレイ (※) を実現しました。更に、AI機能をいち早く採用することで、特定の洋ゲーマニアだけでなく、一般ユーザーも魅了しました。 ※ インターネット上で複数のユーザーが同時にプレイすること ● ゲーム業界に身を投じて ゲーム業界には、「PC系」と呼ばれるパソコン向けのゲームソフトと、「コンシューマー系」と呼ばれる家庭用ゲーム機向けのゲームソフトがあります。前者はWindowsやAppleのOSを使用するパソコン向け、後者は任天堂、ソニー、セガが製造する専用ゲーム機(ファミコン、プレイステーション、セガサターン)向けです。私は、PC系ゲームソフトを営業活動のメインとし、北海道から九州までのパソコン量販店、ゲームソフト専門店、家電量販店、書店、玩具店を一人で回っていました。上司命令で、どこにいても最低でも週に1回は主戦場である秋葉原の得意先に顔を出すようにしていました。また、週末にはゲーム大会を企画・開催し、休む間もなく働いていました。 当時は、大きな量販店であっても購入を決める担当者の多くは、ゲームソフトに精通した若手社員やアルバイト学生でした。彼らは気さくに話を聞いてくれ、自社ゲームの反響や競合他社の情報、パッケージの改善点等を教えてくれました。私は毎晩帰宅後に自社ゲームと競合他社のゲームをプレイしながら知識を深め、次第に洋ゲーの独特な世界観に心を奪われるようになりました。日本のゲームが色鮮やかでBGMや効果音が派手で楽しいのに対し、洋ゲーの少しくすんだ色使いや幻想的なBGM、効果音には奥深い魅力がありました。 一度興味を持ち始めると、全国のゲーム調達担当者とのコミュニケーションが充実し、大手卸業者(問屋)から得た仕入情報の分析(顧客毎に違う売れ筋、売れないタイトルの傾向、地域毎の顧客動向他)が少しずつ出来るようになりました。当初は、やみくもに飛び込み営業を繰り返していたのですが、上司の熱血指導のお蔭で(毎日こっぴどく叱られていました )、体を使った営業だけでなく、頭を使った営業の重要性を認識し、営業スタイルの改善に努めました。そして問屋からの情報を基に、訪問先を絞り込み、顧客毎の個別アプローチを展開した結果、ポスター掲示や販促品の自由な配置、更にはアクティビジョン専用の特設コーナーの設置を許可される等、店舗でのプロモーション活動が活発化しました。その結果、アクティビジョンのゲームが店頭に増え、目立つ場所に置かれる機会も増えて行きました。 ● 体力勝負だった広報活動 ゲーム業界での営業に慣れて来た頃、広報担当者の退職に伴い、掛け持ちで広報の仕事を担当することになりました。雑誌社を訪問して新作ゲームのデモを行い、記事掲載をして貰うことでその認知度を高める取組みを実施しました。広告よりも特集記事等に掲載される方が、広告効果が高く、費用対効果も抜群でした。当時はまだ最新ゲームを滑らかに動かせられる高性能なノートブックPCが少なかった為、大きなブラウン管モニター、ステレオスピーカーとデスクトップパソコン一式を抱えて会社から出て、道端で捉まえたタクシーに積んで雑誌社へ持ち込んでいました。今振り返ると体力と気力に満ち溢れていた若い自分だからこそ出来たのだと懐かしく思い出されます。 ● 新たなる成長へ向けて アクティビジョン・ジャパンは12〜13名の小さな会社でした。このような小さな会社が競争を勝ち抜く為には、綿密な戦略と作戦が必要であり、その実行過程では常に修正を加えながら前進していくことを学びました。特に、マーケティング理論「ランチェスターの弱者の戦略」を営業戦略に取り入れていたことは興味深く、勉強になりました。猪突猛進で頑張っているだけでは成果が上がらないことを、全国のお客様を訪問する営業活動やキャンペーン、広報活動を通じて理解しました。アクティビジョン・ジャパンでの経験は、仕事に対する考え方やアプローチを少しずつ変える契機となりました。(30代まで続けたGymトレーニング) (老舗洋ゲー専門店で自社ポスターと) ■ 4社目:電子機器・部品メーカー 日本航空電子工業株式会社(以下、航空電子)は、「コネクタ事業(コネクタ)」、「インターフェース・ソリューション事業(タッチパネル、タッチパネルモニタ)」、「航機事業(航空・宇宙電子機器・部品)」の3事業ラインからなる電子機器・部品製造メーカーです。1953年の創業時に、将来日本に必ず訪れる航空・宇宙産業時代にエレクトロニクス技術で社会貢献をしたいという思いが社名に込められています。 一大決心して大恩ある池上を飛び出し、サイバーで夢破れ、ゲーム業界で忙しい日々を過ごしていましたが、心の奥底では、日本の高度な技術や製品を世界に紹介して行きたいという気持ちが再び強くなっていました。そんな折、週末に予定していた顧客とのアポイントがキャンセルとなり、ふと手に取った求人雑誌で『国際派転職フェア』の広告が目に留まりました。丁度スーツを着ていたこともあり、思い切ってその転職フェアを訪れてみると、そこには航空電子がブースを構えていました。航空電子は、池上の製品に使われていたコネクタを製造しており、その縁もあって興味を引かれました。しかし、再度転職することには少し躊躇しており、その場での決断は出来ませんでした。それでも、航空電子から何度も熱心にお誘いを頂いたことで、次第に決心が固まり、この会社で新たな挑戦をすることを決意しました。 ● 航機事業ライン 最初に配属された航機営業本部では、技術翻訳から始まり、産業機器向けアプリケーションに使用される加速度計、光ジャイロ、リニアモータの営業に幅広く携わりました。具体的には、油田掘削時におけるドリル先端の位置・方向把握に使用される加速度計やセンサーパッケージ、製造機器のXYステージを駆動させるリニアモータ、トンネル内の壁面検査ロボットの位置・姿勢測定用センサーユニット、構造物の揺れを低減するアクティブ制振用センサーユニット等、様々なアプリケーションに関わりました。 配属初期の修行 私は航空電子が新卒以外で初めて雇った文系出身の営業マンでした。その為、技術用語が飛び交う営業フロアでは、日本語でさえ理解が難しい状況でした。そこで、会社にお願いし、最初の1ヵ月間は工場の設計部門で若いエンジニアの隣に席を設けてもらい、加速度計や光ジャイロの原理や応用について学ぶ機会を得ました。その結果、社内で話されている大まかな内容について把握出来るようになりました。当時、会社の営業フロアには、日本初の国産H-IIロケットの姿勢制御を司る慣性誘導装置の開発を担当し、NHK番組「プロジェクトX」に出演した技師長や、米国の技術系一流大学出身で油田ビジネスを開拓した猛烈営業部長(私の最初の上司)等、優秀な方々で溢れていました。彼らと共に働く中で、多くのご指導を頂き、新しい環境に慣れていくことが出来ました。 余談ですが、この技師長がH-IIロケット用の慣性誘導装置を開発中、ジェットコースターにその装置を載せて何度も試験を繰り返したという逸話を最近になって知り、私もテレビ番組のロケで、読売ランドのジェットコースターに加速度計ユニットを持ち込み、背中向きに乗って加速度を測定したことを思い出しました。先輩の開発時の逸話には遥かに及びませんが、私もほんの少しだけテレビに映ることが出来たこの経験には、ささやかながらもロマンを感じています。 閑話休題、工場勤務から営業部署に戻ると直ぐに、上司と技術部長と共に、英国を皮切りに米国テキサス州を中心とした石油掘削関連の顧客を次々と訪問しました。加速度計や光ジャイロの拡販においては、単に製品性能を示すだけでなく、顧客のアプリケーションやニーズに応じた技術提案が求められます。顧客の態度や反応から、航空電子がこれまで着実に顧客の要望に応え、その結果として深い信頼関係が築かれていることが分かりました。これをしっかり受け継ぎ、更に発展させていく責任が自分に課せられていると感じ、身が引き締まる思いがしました。(定年退職が迫る上司の背中から発せられる強烈なプレッシャーと期待が、ひしひしと伝わって来ました。) 毎晩ホテルに戻ると、上司と技術部長の指導の下で打合せ議事録を作成し、本社にFAXで報告した後、ようやく食事にありつけました。しかし、その食事も顧客接待を想定したレストラン開拓を兼ねており、寝るまで気を抜くことが出来ませんでした。厳しい旅でしたが、この経験は最高のOJTであり、普段忙しい上司と技術部長から直接学べた時間は贅沢で貴重なものでした。 予期せぬ異動 私は当初、米国の販売子会社に出向している方の交代要員として雇われていましたが、その話は諸事情により無くなってしまいました。そして2年後、会社の主力ビジネスであるコネクタ事業ラインの海外営業本部に異動することになりました。人生最後の転職として覚悟を決め、難しい技術知識の習得や営業活動に取組み、更には商社へ出向して営業スキルを磨いていた私にとって、この異動は大きなショックでした。社内とはいえ、全く異なる業種への異動は転職と同じようなインパクトを感じていました。 記憶に残る仕事 2年間の航機営業で特に印象深かった仕事の一つに、1998年にテキサス州ヒューストンのアストロドームで開催された海底油田関連の展示会(Offshore Technology Conference)への出展があります。当時、航空電子は世界最小サイズ (直径19mm) の耐環境・高温対応 (~175℃) の加速度計を開発し、小さなブースで発表しました。海底油田掘削関連の展示会ということもあり、他のブースはヘリコプターや商用潜水艦、ボート、掘削ドリル等大規模な展示を行っていましたが、我々のブースはお手製の20cm程のシーソーに加速度計を取り付け、それを上げ下ろしする際に出力される電気信号を波形モニターに映し出すという、非常にシンプルなデモを行いました。 派手な展示が多い中、航空電子の小さく地味なブースに展示開始と同時に多くの人が押し寄せ、大変驚きました。競合他社も同等仕様の加速度計を発表していましたが、偵察したところ、それは外観だけで中身の無い「どんがら(モックアップ)」でした。開発が間に合わなかったのです。この瞬間、私は心の中で「やった!」と叫びました。航空電子の開発が競争に勝った瞬間でした。 油田掘削は年々深く掘り進む傾向にあり、それに伴いドリルの先端はますます細くなっています。さらに掘削が進むにつれて地中温度は150℃を超える高温となる為、小型で耐熱、耐衝撃、且つ高精度な加速度計が業界で求められています。当時、この要件に応えられる会社は航空電子と競合他社の2社だけでした。(米国テキサス州:Offshore Technology Conference) もう一つ印象深い仕事としては、ある欧州メーカーへの拡販取組みがあります。当時、国内の主要産業機器メーカーとは既に取引があったものの、海外市場への進出はまだ限定的でした。そこで、私は半年以内に訪問することを目標に設定し、先ず幕張メッセで開催された国際展示会でその企業の展示ブースを訪ねました。アクティブ制振のアイデアを口頭で説明し、名刺を渡したところ、数週間後にはあっさりと招待を受けてしまいました。 会社内は大騒ぎとなり、私は、土日は自己啓発として関数電卓を片手に三角関数を復習し、平日は工場の技術データを集めながら、プレゼン資料の作成に努めました。1か月後、同年代の若手エンジニアと共に欧州へ飛び、そのメーカーでプレゼンを行いました。応対して頂いたのは博士号を持つ6人のエンジニアの方々で、文系出身の私にとっては緊張の連続でした。しかし、同行エンジニアと協力しながら、アクティブ制振の提案と試作品による試験結果の説明、質疑応答を行い、更に航空電子の航機関連主要製品の説明とデモンストレーションを実施しました。 結果的に多くの課題を持ち帰ることになりましたが、この出張では、航機事業ライン(工場・営業)の諸先輩から教えられ、託された全てを出し切り、初めて大きな達成感を味わうことが出来ました。そして、この達成感は、次の異動先へと向かう私にとって、一つの区切りを意味するものでした。 ● コネクタ事業ライン コネクタは、航空電子の総売上の8割以上を占める主力製品で、プリント基板や電子機器同士の電力や電気信号を接続・切断する為の重要な部品です。人工衛星や飛行機、電車、自動車、家電製品、パソコン、スマートフォン等、広範な分野で多種多様なコネクタが大量に使用されています。コネクタは、電力や電気信号を伝える金属製のコンタクトと、それらを絶縁するプラスチック(インシュレータ)で構成されており、電気的性能と機械的性能の両方を満たさなければならず、その開発には高度な専門知識とノウハウを要します。 営業マンはお客様に育てられる 私のコネクタ事業ラインでの業務は今年で25年目を迎えます。この間、多くの貴重な経験をさせて頂きました。中でも特に心に残っているのは、13年間担当を務めた、欧州のグローバル企業とのビジネスです。当時、GAM(Global Account Manager)として欧州、北米、アジアのR&Dや生産拠点に何度も訪れ、多くの開発案件に携わりました。そして、量産立上げ後に避けては通れない品質問題や納期問題、価格交渉等にも会社同僚と一丸となって積極的に取組み、その結果、No.1サプライヤーとして高く評価して頂きました。 (フィンランド:夏) (フィンランド:冬) この経験から、メーカー営業マンは社内で得た知識やスキルを基盤にしながらも、最終的には顧客によって育てられることを強く実感しました。私自身、社内で基礎を固めた後、顧客と向き合い、彼らの要求に応える過程で成長して来ました。 先ず、社内での基礎作りとして、現場での実践経験に力を入れました。携帯電話やPDA、STB(セットトップボックス)等の電子機器を片っ端から分解し、基板の形状や実装部品の配列、高さ、投影面積等を丹念に調査して、アプリケーション毎の筐体形状や内部構造、実装技術について学びました。また、工場の技術フロアでは、試作品の組立てや評価試験にアシスタントとして参加し、その結果を英文レポートに纏めることで、コネクタ製品に関する理解を深めました。 次に、顧客と直接向き合い、彼らの要求に応える中で、営業マンとしての成長が促されたと思います。例えば、品質問題が発生した際には、通常は立入ることの出来ない顧客の生産ラインに特別に入れて貰い、技術評価試験に立会う機会がありました。品質問題はサプライヤーにとって避けたい事態ですが、これをチャンスと捉え、問題解決に取組むことで顧客の信頼を得られました。 その上で、品質問題とは別に、顧客の生産ラインで使用されている製造設備を把握し、その後、その設備メーカーを訪問して、次の製品作りに生かすヒントを得ることに努めました。これらのヒントを製品に反映し、品質や使い勝手を向上させることで、顧客の満足度を高めることが出来ました。 モノづくりの舞台裏 ここで少し、メーカーにおいてよく見受けられる工場部門間の関係性について触れたいと思います。それは、開発途上で、設計担当者と生産技術・製造部門のエンジニアとの間で立場の違いからしばしば緊張や対立が生じることです。設計者が斬新なアイデアやテクノロジーを投入して尖った製品開発に挑む一方で、生産技術や製造部門のエンジニア達は、その実現の為に多大な努力を強いられます。しかし、ひとたび新製品が市場に投入され、成功を収めると、全員がその達成感を共有し、固い絆で結ばれ、それが開発を続ける中で更に深まって行きます。こうしたモノづくりの舞台裏を知っていると、初めて訪問した顧客のプリント基板を見せて頂いた際に、生産技術や製造部門が設計にどのように影響を受けているかを指摘出来ることがあります。すると、窓口の設計者がその場で関連エンジニアを呼び出してくれることがあり、その結果、打合せは自然と笑いのある明るい雰囲気になることがよくあります。このような経験の積み重ねが、同じモノづくりに携わる顧客との関係構築に大いに役立ちました。 (北京:陳式太極拳「単鞭」のポーズ) (サンディエゴ) 信頼とバランスの構築 ビジネスの世界では、「Win-Win」という理想がよく語られますが、現実では、顧客がWinし、私達が少しLoseすることも少なからずあります。これは、顧客との力関係によるもので、ある程度は避けられないことです。私は常に顧客の立場を最大限に尊重しつつも、自社の利益を守る為に、適切なバランスを見つけるよう心掛けて来ました。その為、時には難しい話もしっかりと議論出来る関係構築が重要だと考えています。 (中国河南省:太極拳国際試合 相手は後にAlibaba創業者 Jack Ma氏のボディーガードに) ● 英国販売子会社出向 JAE Europe, Limited (以下、JAE EU)は、航空電子の販売子会社で、英国に本社を構え、ドイツ、フランス、イタリア、スウェーデンにもオフィスを展開し、欧州全域のビジネスをカバーしています。欧州市場は、特に自動車産業、産業用ロボット市場、医療機器市場において、世界の技術革新をリードする多くのテクノロジーリーダーが存在する重要な市場です。JAE EUは、この市場で欧州の先進企業と共に未来の技術革新に貢献することを目指しています。 入社当時に立ち消えた海外赴任の話が、18年後に突然舞い戻って来たかと思うと、急速に具体化し、家族(妻、長男: 中2、次男: 小6)を伴って英国に赴任することになりました。2016年から2020年まで英国ロンドンで生活し、その間にBrexitや新型コロナウイルスの蔓延といった大きな変化が起こる中で、仕事面でも家庭面でも得られることが多かったです。 新しい職場環境 JAE EUでの勤務が始まると、現地社員は英国、ドイツ、フランス、イタリア、スウェーデン等多国籍で構成され、顧客も30か国以上に跨っていることが分かりました。「欧州」と一言で括るにはあまりに大雑把過ぎる地域であり、国毎の人々や文化、習慣の違いを考慮した対応が必要なのは言うまでもありません。 私は一時期、営業に加えてマーケティングや技術チームの責任者も兼任していました。英国本社での勤務と並行して、ドイツのミュンヘンオフィスとの連携を強化する為に、頻繁に現地を訪れていました。現地社員との業務遂行においては、ドイツの労働法規や労務管理に細心の注意を払い、職務明細書(Job Description)に基づいた明確な業務指示を行い、ファクトとエビデンスに基づいた公正な業績評価を心掛けていました。また、拡販方針や戦略については納得がいくまで議論を重ねることで、チーム全体の目標と方向性を揃えました。 ドイツのメンバー達は、普段は家族生活を優先し、プライベートな時間を大切にしていましたが、いざという時は自ら進んで長時間の業務に取組んでくれました。私が別の仕事でドイツに行けなかった際には、急遽英国まで駆けつけ、ピザ1枚で深夜まで一緒に作業してくれることもありました。この経験は、ワークライフバランスを徹底して重視するドイツ人に対する固定観念を完全に払拭するものでした。彼らの献身的な姿勢と協力には、今でも感謝しています。 日常生活 ①:家族生活の変化 日本での生活と比較して、英国での生活では家族との関わり方に大きな変化がありました。日本で暮らしていた頃は、仕事のことばかりを考えていましたが、海外では家族の生活に積極的に関わり、生活環境を整えたり、日常生活のサポート(学校、病院、買い物、余暇)にも力を入れるようになりました。学校選びについては、私自身の留学経験から現地校を勧めましたが、息子達から「お父さんは自分の意志でアメリカに留学したんでしょ?僕らはお父さんの転勤で外国に来たんで自分の意志じゃないんだ!」と反論され、彼らの気持ちを尊重して日本人学校に通わせることにしました。(立派な主張だと感心しました。) 今では日本人学校に通わせたことが正しい選択だったと思っています。日本人としてのアイデンティティを確立する過程での良い教育を受けられました。ロンドン日本人学校には優秀な教師と生徒が集まり、非常に高い教育レベルが提供されていました。また、欧州を訪れる日本の要人(宇宙飛行士、スポーツ選手、芸術家、ミュージシャン、学者、政治家等)の多くがロンドン日本人学校に立ち寄り、貴重なお話を子供達に聞かせてくれる機会があり、大変恵まれた学習環境にありました。 日常生活 ②:ロンドンの暮らし ロンドンでの生活は、歴史的な街並みや博物館、美術館、そしてミュージカル等、文化に容易に触れることが出来ました。気候は北海道より北に位置する為冬はやや寒いものの、年間を通じて非常に快適でした。また、都会でありながら自然が豊かで、緑あふれる公園が数多くあります。自宅の裏庭には、狐、リス、野鳥が頻繁に訪れ、心を癒してくれました。賢い狐は、生ごみを入れるコンテナのロックを外して荒らしていくこともあり、彼らとの知恵比べも日常の出来事でした。ロンドン中心街の観光スポットは、私達にとっては生活圏の一部であり、散髪や息子達のスポーツ用品、日本食材等の買い出しをしていました。日本食材は日本価格の何と3倍で、購入する品物によって一番安い店を選ぶ等節約に努めました。 日常生活 ③:自動車通勤 通勤については、赴任当初は大きな試練でした。オフィスは自宅から南西に60kmの距離にあり、朝の通勤時には頻繁に事故渋滞に巻き込まれました。英国では、警察が事故現場の調査を終えるまで道路を閉鎖する為、高速道路内で閉じ込められ、トイレに行けず苦しい思いをしたこともあります。閉鎖が解けた後、急いで高速道路を降り、ヒースロー空港で用を足したことも。たった10分の駐車でしたが、これまでで一番高くついたトイレでした。帰りが遅くなると、高速道路が閉鎖されて入れなかったり、途中で閉鎖となり止む無く最寄りの出口から出て行かなければならず、何度も道に迷いながら真っ暗な山道のような場所を走りました。その過程で、帰宅ルートが自然と増え、道に詳しくなりました。一度慣れてしまうと、自動車通勤は一人になれる特別な時間となり、iPhoneに入れた70~80年代の歌謡曲を大声で歌いながら眠気を覚まして帰る日々を楽しみました。 日常生活 ④:ハプニング 息子の剣道教室に参加した際、アキレス腱を断裂し、ロンドンの救急病院(A&E: Accident and Emergency)で全身麻酔の日帰り手術を受けることになりました。そこではクロスファンクショナルチーム(機能横断型チーム:CFT)による対応が行われており、大変興味深いものでした。 窓口での受付を済ませた私は、病室を行き来すること無く、直ぐに移動式のベッドに乗せられました。そのまま手術着に着替え、手術室前で待機する他の患者達の長いベッドの列に加わりました。手術が流れ作業のように次々と行われ、ベッドの列が動きながら手術室に近づいていく様子を見て、自分がまるで工場の生産ラインに投入された材料のような感覚を覚えました。 病院スタッフは役割毎に色分けされた制服を着用し、それぞれの専門分野に基づいてテキパキと対応してくれました。私のベッドには、手術前から退院までの全ての手順が記された私専用のノート(※)が置かれており、スタッフはそのノートに従って入れ替わり立ち代わり私の前に現れては、チェックボックスを埋めながら正確に漏れなく処置を進めていました。このオペレーションは、病院の人手不足を補い、患者の精神的・身体的負担を軽減するもので、大いに感銘を受けました。 (病院スタッフの制服:役割別色分け) (日帰り手術用ノート) 尚、私は外国人でしたが、NHS(National Health Service:国民保健サービス)に加入していた為、薬代を除き医療費は無料でした。一般的に日本人駐在者は会社で加入する海外旅行保険を適用し、高額なプライベート医療サービスを利用することが多いですが、私はNHSの病院で奇跡的に手術日を確保出来た為、また冒険心にも駆られて手術を受けることにしました。因みに、奇遇にも同じ剣道場で数週間後にアキレス腱を断裂したポーランド系の方は、NHSの手術待ちが3カ月だった為、ポーランドで手術を受けたそうです。英国の医療現場が慢性的に混雑し、極めて厳しい状況にあることは事前に知っていましたが、道場で私の為に呼んで頂いた救急車が2時間待ち(後にキャンセル)だったことから、その現実を身をもって痛感させられました。 ※ノートには、手術前の準備(体温、脈拍、血圧、血液チェック、退院後の松葉杖の使い方指導等)から、術後の体力回復処置、退院許可迄のプロセスがページ毎に記載されていました。 その後、ギブスを装着してのドイツ出張では、イミグレーションの審査が驚くほどスムーズに進み、健常者としての移動よりも楽で早かったという貴重な体験もありました。イミグレーションでは電気自動車に乗せられ、そのまま空港出口まで送って貰えたことも印象に残っています。 英国赴任を終えて 振り返ると、英国での赴任は、仕事、異文化での暮らし、そして家族との時間という三つの面で、多くの学びと成長がありました。仕事や異文化での経験はこれまでも積み重ねてきましたが、家族の存在を何より大切にし、共に過ごす時間を最優先するようになったのは、この英国での生活がきっかけでした。子供達が成長し、家族で一緒に過ごす時間が減ってしまった今、コロナ禍のロックダウン中に家族水入らずで過ごした時間が特別な思い出となっています。ロンドンの青空の下、自宅裏庭で楽しんだBBQは、かけがえのない記憶です。 (ジブラルタル海峡:ここから顧客のいるモロッコへ船で渡りました)(ストーンヘンジ:ロンドンの自宅からたったの130km) (アイスランド:家族旅行) ● 現在:コネクタ事業ライン 海外赴任から帰国後、特定顧客の営業チームの責任者を務めた後、営業ラインを離れ、海外契約書のリーガルチェックという新たな職務に就きました。この業務では、海外の取引先や今後取引を予定している会社から提示された契約書に含まれる法的問題や自社に不利益な条項が無いかを精査します。また、取引内容に適合しているかを確認し、必要に応じて修正案を提示します。契約締結プロセスは、最終交渉の場であり、トラブルを未然に防ぎ、健全な関係を築くことが重要です。 法務バックグラウンドはありませんが、営業経験を通じて基本的な契約書の知識は持っていました。しかし、それを専門職として扱うのは全くの初心者であり、当初は手探りの状態でした。その為、法務部門のアドバイスや支援を受けながら、外部セミナーを受講し、情報収集を重ねて来ました。現在、業務を始めてから1年以上が経過し、100件以上の契約書をチェックし、150件以上の文献を読み、少しずつ知見が積み上がって来たと感じています。 この仕事において、私が特に重視しているのは、営業バックグラウンドを活かしたリスク評価です。同じ条文でも、相手方がどのような会社で、どのようなビジネスを進めようとしているのかによって、評価が異なります。長年の海外ビジネス経験を基にした分析・判断力を発揮し、日々新たな業務に全力で取組んでいます。(ロンドン: タワーブリッジを一望しながらのアフタヌーンティ) 【エピローグ】 これまでのキャリアを通じて学んだのは、「人生に無駄な経験は無い」ということです。転職や新たな挑戦を重ねる中で、失敗と成功を繰り返して来ましたが、その全てが今の私を形成する大切な要素となっています。若い世代の方々が自分の夢を追いかけ、理想に向かって進む為の力と勇気に少しでもなればという思いを込めて、この体験記を書き進めました。 「外国人と日本人は、同じものを見た時に同じように見えるのだろうか?」幼い頃に抱いたこの疑問に対する答えが、年月を経て少しずつ見えて来たように思います。私達の世界の見え方は、目の色等の生まれ持った特徴や、育った環境、経験によって異なるものです。同じ日本人同士でも、年齢や生活環境によって物の見え方には違いがあることを日々感じています。 交通機関の発展による人的交流に加え、インターネット技術の革新による国境を越えた情報交換の活発化が、本格的なグローバル社会の到来をもたらしました。今や世界中の人々との共生が日常となり、日本でも様々な背景を持つ人々が増えています。グローバルスタンダードや普遍的価値観の追求が進む中で、この流れに対して懸念も感じています。均一化による公平性は大切ですが、それによって多様性が失われることは避けなければなりません。また、多様性を認める為にマイノリティーを優先することが、時に不条理を生むこともあります。私達は、非常に難しい時代の局面に立たされています。 私は、より良い未来を築く為に、日々の小さな一歩を大切にしながら、自分らしく出来ることを続けて行きたいと思っています。この体験記が、読んで下さった方にとって、少しでも前向きな気持ちや、新たな一歩を踏み出すきっかけになれば幸いです。 (原田 晴之さんプロフィール) 群馬県出身 1984年3月 東京都立板橋高等学校 卒業 1985年6月 米国カリフォルニア州Bloomington High School 卒業 1986年4月 東京国際大学教養学部国際学科 入学 (下羽ゼミ) 1989年9月 米国オレゴン州Willamette University入学 (3学年編入) 1991年5月 米国オレゴン州Willamette University 卒業 (BA政治学専攻) 1992年3月 東京国際大学教養学部国際学科 卒業 (大越ゼミ) 1992年4月 池上通信機株式会社 入社 1996年3月 池上通信機株式会社 退社 1996年4月 Cyber Technologies International株式会社 入社 (ITベンチャービジネス) 1996年10月 Cyber Technologies International株式会社 退社 1996年11月 Activision Japan 株式会社 入社 (米国ゲームメーカー日本支社) 1997年6月 Activision Japan 株式会社 退社 1997年7月 日本航空電子工業株式会社 入社 (電子機器・部品メーカー) 2016年3月 JAE Europe, Limited 出向(英国販売子会社) 2020年10月 日本航空電子工業株式会社 帰任、現在に至る (航空電子スポンサーのボブルヘッド人形) (シアトル:イチロー選手) TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
原田 晴之さん (1992年卒業 教養学部国際学科/大越ゼミ 1991年Willamette Univ.卒業/BA政治学専攻)2024年10月1日【プロローグ】 私が海外に興味を持ち始めたのは幼稚園での出会いがきっかけでした。カトリック系幼稚園で良くして頂いた神父、先生(シスター)方、そして聖書の挿絵に登場する聖人達は皆、外国人でした。園庭で先生と一緒に遊んでいた時に、花壇のチューリップが果たして自分と同じ様に見えているのだろうかと考えていた記憶が、ぼんやりと残っています。(幼稚園から頂いた聖書) 【高校留学】 カリフォルニア州のメキシコ系アメリカ人家庭にホームステイをしながら、地元の公立高校 (Bloomington High School) に1年間通いました。激しい環境の変化に身を投じた事で、いきなり人生の転換期を迎えました。勉強不足による知識の無さや思考力の弱さを痛感し、帰国後に何を為すべきか大いに悩んだ時期でした。 ■ 自律性を養う 私のホストファミリーは、モービルホーム (トラックで牽引出来る家) に住む共働き家庭(3人家族+犬1匹& 猫1匹)でした。食事は冷蔵庫にある食材を各自が勝手に料理して取ることが基本で、家事はホストブラザーと分担していました。ところが、滞在3か月を過ぎた頃から、冷蔵庫が空になることが増え、家事の分担も私に偏り始めました。 普段はのんびり屋の私でしたが、「空腹」が「飢え」に変わったところで突然「スイッチ」が入り、自分でも驚く程の行動力を発揮したのです。近隣の家や友人宅を訪ねて、「芝刈り」「庭木の剪定」「掃除」「洗車」「ベビーシッター」「犬の散歩」「プールの清掃」等の仕事を次々と取り、家事で身に付けたスキルを総動員して、一気に問題を解決してしまったのです。(その勢いは止まらず、学校の昼食を無料にして貰うことにも成功しました。) その後、高校卒業に必須のクラス「American History」の前期分を、留学初期の英語力不足が原因で履修漏れが判明し、留学中最大の危機に直面しました。しかし、幸いにもその時ちょうど「スイッチ」が入って「エンジン全開」の状態だった為、この難局をうまく切り抜けられました。日本の高校で履修済みの世界史の教科書を手に、カウンセラーの先生や社会科の教諭、教頭先生に必死で掛け合いました。そして、補習クラスの履修を条件に「前期分」に相当する単位の置換を認めて貰うことに漕ぎつけたのです。 「自分の問題は自分で解決する」「自ら考え行動する」という自律性を養うことが、高校留学で得た最大の収穫でした。 (高校のクラス) ■ 英語の多様性とTPO 若者の英語、大人の英語、綺麗な英語、汚い英語、白人の英語、黒人の英語、メキシコ人の英語、インド人の英語、中華系の英語、西海岸の英語、LAヴァリーガール (Valley Girl) の英語、サーファーの英語等、多種多様な英語が日常生活でパワフルに話されており、米国デビューを果たした私の前に大きな壁として立ちはだかりました。私は小さなメモ帳を常に携行し、聞き取れた言葉をカタカナでメモし、帰宅後には鏡の前でネイティブスピーカーになったつもりで、カッコよく身振り手振り付きで発声練習を行いました。翌日には学校の友達にそれを披露してアルファベットに変換して貰い、帰宅後に辞書で調べて正確な意味を理解するというルーティンを徹底的に繰り返しました。その結果、3カ月後には確かな進歩を感じ、それが自信につながりました。 ところが、日々私が書き溜めて練習し、身に付けた英語が、米国の一般社会では決して受け入れられないギャング英語(メキシコ系のChicano Englishがベース)だった為に、それまで私を応援してくれた大切な友人が少しずつ私から離れて行きました。私はTPOをわきまえ、学校生活の中では標準的な英語を使うことを心掛けました。一方で、興味のあったインド、スペイン語、中国語訛りの英語については密かに練習を続けました。標準的な英語とそれ以外の切り分けにはかなり苦労しましたが、これも一つの学びでした。 ■ 人種差別 ほぼ単一民族の日本で育った私にとって、自分が「有色人種」である事を強烈に意識させられ、自覚させられたのが米国での生活でした。留学当初、私は「Jap」「Nip」「Gook」「Chink」「Pigtail」「WOG」「Napalm」その他多くの差別語で呼ばれ、学校の内外で不当な扱いを受ける事がありました。ある日、真っ黒に日焼けした自分の手の甲を見た瞬間、「汚い!」と感じた自分に大きなショックを受けました。無意識の内に、東洋人であることに劣等感を抱いていたと気付き、驚いたのです。 滞在期間の後半には友人も増え、それは和らいで行きましたが、学校の授業で見せられた 「A Class Divided」 というドキュメンタリー番組 (※)を通じて、改めて自分が抱いていた「劣等感」の正体を考えさせられました。そして、白人以外の人種に対して抱いていたかもしれない「優越感」がいかに虚しいものであったかを痛切に感じました。 ※ 1968年アイオワ州の小学校で実施された人種差別についての実験授業 YouTubeで日本語版を見つけたのでご紹介します。(NHK特集1988年4月29日放送) 「青い目 茶色い目 ~教室は目の色で分けられた~ (ウイリアム・ピータース著 / NHK出版) (高校の仲間)(高校の仲間) 【東京国際大学】 校名が「国際商科大学 (ICC)」から「東京国際大学 (TIU)」に改称された年(1986年)に入学しました。「高校留学での体験を思い出として終わらせず、深堀りする事で経験値として落とし込みたい。更に勉学を重ねる事で進むべき将来の道を明らかにしたい。」との一心で門を叩きました。 ■ スランプからの脱出 高い志と情熱を持って臨んだ「下羽ゼミ」(国際政治学)で私を待ち構えていたのは、日本全国から集まった個性豊かなクラスメート(曲者)達でした。私とは次元の違う高レベルの論客揃いで、自ら収集した情報(Fact)を分析(Study)し知識 (Knowledge) として吸い上げて行く「大学生の勉強方法」を当たり前の様に実践していました。私も必死で食らいつきましたが、元来の怠け癖と誘惑に弱い性格が邪魔をして空回りし、大学1~2年時は焦燥感に苛まれる事が多かったです。 3年に進級すると「大越ゼミ」(アメリカ研究論)を選択しました。下羽ゼミの仲間達が「厳格な修行僧」、「哲学者」の如く真理を追究する一体集団だとすれば、大越ゼミの仲間達は「まとまりの無い我儘な自由人」、「枠にとらわれない斬新的なクリエイター」の集まりといった印象でした。 一見、全く異なる二つのゼミでしたが、そこで学んだことは共通していました。知識の積み重ねや思考力の鍛錬は他人に代わって貰うことは出来ないこと、焦って背伸びをしても一足飛びに先には進めないこと、地道に継続することの重要性、そして勉強は苦しいだけでなく、取組み方次第では自由で楽しいものだということを教えられました。これは、至極当たり前のことかもしれませんが、私にとって大きな気付きでした。 スランプから脱出して改めて周りを見渡すと、それまで見過ごしていた周りのものが鮮明に見えるようになりました。大学が提供する豊富な選択授業や、新しい図書館や視聴覚室の英語教材の存在に気が付き、それらを積極的に活用することにしました。また、一度は諦めていた留学についても、挑戦したいという気持ちが湧いて来ました。親の支援で一度留学させて貰っていた為、再度の留学は経済的に難しいと感じていましたが、奨学金制度を活用することで再び挑戦出来るのではと考えました。そして、春・夏の海外セミナー(春:ウィラメット大学、夏:南オレゴン州立大学)や長期留学(ウィラメット大学)に全て応募し、大学からの支援を得られました。 ■ 教育実習 将来の進路の一つとして教育関連の仕事を考えており、教職課程を履修しました。大学の紹介により、埼玉県の私立男子高校の2年生クラスで英語の教育実習を行いました。事前準備をしっかりして、気合を入れて挑んだ初授業でしたが、英語以前に生徒のやる気をいかに引き出すかが喫緊の課題であることが分かりました。授業中に簡単な問題を出して何人かの生徒を当てたところ、皆一様に立ち上がらず、中腰で「分かりません」と言って着席してしまいます。 私は、着席した生徒を再度しっかり立ち上がらせ、「分からなくても良いから、分かろうとしよう」と説得しました。そして、答えが出るまでヒントを出し続け、場合によっては答えを黒板に書いて声に出して読ませる等、兎に角最後まで諦めないで挑戦するように指導しました。 また、机の中に教科書ガイドを忍ばせている生徒達には、「英語なんて数学みたいに考えてもしょうがないから、教科書ガイドの積極利用は大歓迎!」と、机上に置いて堂々と使用するように奨めました。教科書の練習問題も面白い文章に全て書き換えて、少しでも楽しめるように工夫しました。 最初はやる気の無い生徒が多かったのですが、中学校で習った辞書の引き方から、必要と思われる基礎的な構文については丁寧に何度も教えたところ、徐々に授業に参加する生徒が増えて行きました。極めつけは、少しずるいやり方とも思いましたが、どのクラスにも必ずいるおしゃべりで明るい生徒をうまく乗せて、授業が楽しくなるようなムードメーカーの役割を担わせることでクラス全体がひとつになりとても充実した授業運営が出来る様になりました。 しかし、私の授業を見学した先生方の評価は、年配のベテラン教師と若い教師とで真っ二つに分かれました。あるベテラン教師は、「原田先生は元気があって声も大きく、発音だけは良いけれど、中学で教わった構文を、わざわざ高校の授業でまた教える必要はないでしょう?」と否定的なコメントを残して教室を出て行かれました。一方で、若い指導教諭は他の若い先生方と一緒になって「原田先生、気にしないで!生徒が分からないから、分かるまで教えるのは当然のことです。中学校で教わっていようがいまいが、関係ありません!」と、私の教授方法を全面的に支持して頂けました。 担当していたクラスには、当時では珍しい米国からの交換留学生が在籍していました。彼と共にハイスクールで実際に話されている会話をスキット形式で授業中に紹介すると、「生きた英会話」に関心を持つ生徒が何人も現れ、教えることのやりがいを大いに感じました (※)。ある日、彼から深刻な二つの悩みを打ち明けられ、それを解消する為に奮闘することになりました。一つ目は、日本語補習の個人レッスンの機会を与えるよう学校と調整したこと、二つ目は、関係がうまくいかないホストファミリーから新しいホストファミリーへの変更をサポートしたことです。実習生の立場で出過ぎた行動だったかもしれませんが、自らの高校留学でお世話になった方々への恩返しのつもりで思わず突っ走ってしまったのだと思います。 ※ それでも教科書英語で基礎を固める事は大切です。 初日から積極的に取組んだ教育実習はあっという間に終了し、仲良くなった生徒達や意気投合した若い先生方に温かく送り出して頂きました。実習校からは大学卒業後に是非来て欲しいという有難いお言葉を頂きましたが(もしかすると社交辞令だったかもしれません)、私は企業就職を選びました。実習期間中に出会った企業経験者の先生の柔軟な視点や考え方、そしてその言葉に感じた重みから、教師という職業には専門教科の知識だけでなく、幅広い社会経験が必要だと強く感じたのです。(これはあくまでも、私の自分自身への評価に基づく判断であり、大学卒業後直ぐに教職に就かれる方を否定するものではありません。) (生徒からの寄書き) 【ウィラメット大学】 再びアメリカへ行くチャンスを得た2年間の奨学金プログラムでは、前回の高校留学時とは異なり、生活に適応するだけでなく、大学生活全体を通して様々な経験を積むことが出来ました。この留学期間は、私の学生時代で最も成長した時期であり、大いに学び、大いに悩み、そして大いに楽しむことで、現在の私の土台を築きました。(ウィラメット大学) ■ 寮生活:フラットハウス ウィラメット大学は、1842年に創立された西海岸で最も古い大学です。オレゴン州会議事堂に隣接する美しいキャンパス内の学生寮で2年間を過ごしました。キャンパスにある学生寮は、個室の寮もありますが、ルームメートとシェアする二人部屋が基本です。私が編入した当時は寮が満室でしたが、大学が交渉して会員制のフラタニティーハウスの一室を仮住まいさせて貰うことで留学生活をスタートしました。 「フラタニティー」(fraternity)とは辞書によると、「米国の男子学生の社交クラブ、友愛会」と定義されており、その歴史はアメリカの建国の歴史からそれ程遠くない1800年代初頭に、学生達が理想の学生生活を求めて結成したグループに遡ります。当時のアメリカは自由の国として建国されましたが、教育界は保守的で学生の行動には厳しい制約があり、その為学生の活動は地下に潜り、秘密結社的な形態をとりました。やがて、フラタニティーは全米に広がり、現在では多様なグループが設立され、共通の趣味や価値観を持つ学生が集う伝統的な学生組織として認知されました。私が仮住まいしたフラタニティーは、「ΣΑΕ:Sigma Alpha Epsilon」(略称 エス・エイ・イー)という全米に支部を持つグループでした。フラタニティーは「Greek Society」とも呼ばれ、ギリシャ語2~3文字の略称が一般的です。 (ΣΑΕハウス) (ΣΑΕの仲間達と) その後、第一希望の寮であるWISH (Willamette International Studies House) に空きが出ず、止む無く移った個室のYork Houseでは、隣室の学生からタイプライターの音がうるさいとの苦情が出て、夜間の使用を禁止され、困っていました。そんな時、ΣΑΕから新会員候補としての招待(Bid)を受けました。私はフラタニティーという謎めいたグループに興味があり、招待を受けた後、正式なプロセスを経てメンバーとなりました。 フラタニティーのメンバーになる為には、「Rush」と呼ばれる募集期間中に希望するフラタニティーのイベントに参加し、メンバー達と交流します。そこで選ばれた者は招待状を受け取り、次に「Pledge」という新会員候補または見習いとして一定期間の試練や課題(Initiation)を乗り越えることで、正式会員となります。各フラタニティーには伝統的な儀式 (Ritual) やイベントがあり、その内容の多くは秘密です。会員となった後、秘密の合言葉や挨拶の仕方が伝授され、フラタニティーのギリシャ文字が入ったトレーナーやTシャツの着用が許されます。また、本部からはスーツのジャケットにつけるピンバッジ(記章)と証書が贈られます。 フラタニティーは、派手なパーティーを開催することがあり (※)、ハウスの地下室にはバーカウンターやビールサーバーが完備されています。パーティーの日には、キャンパス中から着飾った生徒が集まり大変な賑わいを見せます。クラスの課題に追われる私は、図書館横の24H Study Roomで勉強を終えた後、深夜遅くハウスに戻るのですが、パーティーが終わっているわけもなく、そのまま巻き込まれ酔っぱらって気絶することが何度かありました。アメリカの大学生活をフルに体験し、満喫する為には避けては通れない修行の場でもありました。(楽しい思い出です。) ※ フラタニティ―は、パーティーで大騒ぎするイメージばかりが先行していますが、ボランティア活動等の社会奉仕も盛んに行っています。 ■ 授業 アメリカの授業は進行が早く、私が専攻していた政治学(Political Science)は、授業に出る前提となっている読書課題(Reading Assignment)の量が特に多い学科でした。成績は以下の4項目で評価され、ネイティブの学生ですら毎日必死で勉強に励んでいました。 ①Attendance(出席) ②Participation(授業への参加、貢献) ③Exam(試験) ④Paper / Assignment(提出レポート・課題) 新入生は、最初の半年間(1st Semester)でしっかり勉強の習慣と最適な勉強法を身につけないと、学校が指定した成績に到達出来ず、学業保護観察処分(Academic Probation)を受けることになります。これにより、学校のイベントや部活動等への参加が禁止され、次の試験で成績が改善されない場合は退学(Academic Dismissal)の厳しい措置が取られてしまいます。 2度目の留学とはいえ、英語のハンディキャップが大きく、初年度の前期クラスでは、アドバイザーのセオドア・シェイ教授(政治学 博士)の助言を受けて、新入生クラス(100番台)で英語の基礎を固めると共に成績(GPA)の確保に努めました。その中で、「Public Speaking」のクラスは、毎回スピーチ原稿を準備し、クラスメートとビデオカメラの前でスピーチするという、とてもストレスフルなものでしたが、そこで学んだことは、後の授業だけでなく、就職後の仕事にも大変役立っています。 また、政治学の初級クラスでの初回レポートでは、政治哲学(The Role of The Individual and Political Order)について書きました。脳みそが千切れる程に考え抜き、何度も書き直し、連日の徹夜で仕上げましたが、既に提出締切日の授業が終わるタイミングであると気付きました。慌ててキャンパスを走り、教授のオフィスドアを激しくノックしました。何事かと出て来たシェイ教授は、開口一番「教師生活30年、寝巻き姿で飛び込んで来た生徒は君が初めてだ!」とあきれ返っていました。言われてはっと気付くと、確かに髪はぼさぼさ、無精髭、Tシャツに短パン、素足にスニーカー姿で、タイプライターで打ち終えたばかりのレポートを持って訪ねた私は、尋常でない迫力を感じさせたのかもしれません。本来受理されなかったかもしれないレポートでしたが、しっかり採点され、後日返却して頂きました。 実家から当時のレポートが出て来て、表紙に書かれたシェイ教授の温かいコメント(※)が、あの頃の私をどれほど励まし、支えとなっていたかを思い出しました。教授にとっては何気無い一言だったかもしれませんが、私には大きな力となりました。長い年月が経った今、改めて感謝の気持ちで一杯です。本当にありがとうございました! ※ シェイ教授のコメント This is an excellent paper. Very thoughtful and full of interesting insights. Well done in all respects. It is an A paper which has to become an A- because it was late. Again, excellent essay! これは素晴らしい論文だ。非常に思慮深く、興味深い洞察に満ちている。全ての点で良く出来ている。遅れた為 A- となったが、A論文である。もう一度言うが、素晴らしいエッセイだ! ■ 忘れられない貴重な体験の数々 夏休みの造園業や冬休みの牧場でのアルバイト、スクールマスコット(Barney the Bearcat)としての全米チアリーディング合宿参加や学校対抗のスポーツイベントでの活動、更に留学生会(WISA:Willamette International Student Association)やボランティア活動等、まるで見えない手に背中を押されるかのように、様々なことに挑戦し、貴重な体験を重ねました。これにより、自分の日本人としてのアイデンティティと価値観を確認し、現在のマインドセットの礎を築くことが出来ました。今、ひとつひとつの体験が記憶として蘇りますが、拙稿がネバーエンディングとなってしまいますので、ここでは割愛し、先に進ませて頂きます。 授業について行くのが精一杯だった私が、全ての活動をどうやってマネージメント出来たのか、今でも分かりません。しかし、私が留学生活を全う出来たのは、間違いなくウィラメット大学の教授陣とクラスメートの皆さんの支えがあったからです。また、海の向こうの日本から励ましの手紙を送ってくれたTIUの仲間達、両親、そして天のご加護にも感謝します。そして忘れてはならないのは、TIUAのDeanを務められていた川嶋教授のご厚意でご自宅にお招き頂き、ご馳走になった奥様の温かい家庭料理、かわいいワンちゃんのおもてなしが、ともすれば崩れそうだった私の心を癒し、励まして頂けたことです。この場をお借りして心から御礼申し上げます。 卒業式は屋外のスタジアムで盛大に開催されました。当時、湾岸戦争へ予備役(Reserve Force)として中東に派兵されたクラスメート達は、皆落第となってしまいました。当日はまだ帰還していなかった彼らの名前が読み上げられ、「名誉ある落第」として称えられました。観客席からは大きな歓声と拍手が沸き起こり、よく晴れた高い空にこだましました。 (学校新聞1面に掲載される) (卒業証書授与) 【就職】 資源に乏しい我が国が、高い技術力と品質でモノづくりをし、世界に輸出することで発展して来たことに、私は先人達への深い敬意を抱いていました。文系の私としては、直接モノづくりに関われないまでも、日本の優れた製品を世界中の人々に紹介し、使って貰うことで貢献したいと考えました。大袈裟かもしれませんが、日本と世界各国との経済交流を深めることで、日本の安全保障はもちろん、世界平和の維持に少しでも寄与したいという思いから、メーカーへの就職を決意しました。その後、2社目、3社目でIT・ゲーム業界を経験しましたが、初心に立ち返り4社目のメーカーに転職しました。ここで27年間勤め、来年には定年退職を迎えます。2社目、3社目での経験を通じて、製造業がハードウェア中心の開発からデジタル技術を介してインターネットやソフトウェアとの融合を考慮した開発へと進化していく流れを肌で感じられました。 ■ 1社目:放送機器メーカー 池上通信機株式会社(以下、池上)は、放送用・業務用機器の分野で世界的に高い評価を受けている放送機器メーカーです。それ以外にも、監視カメラ、医療用カメラ、錠剤検査装置等も手掛けています。主力製品の放送用カメラは、世界中の放送局や映像プロダクションで使用されており、その高い性能と信頼性で、現場のプロフェッショナルから絶大な支持を得ています。テレビで大型スポーツイベントやコンサート、そしてニュース報道の現場で使用されるカメラが一瞬映像に映る事がありますが、「Ikegami」のロゴを見るたびに胸が躍ります。 私が入社した当時 (1992年)の主流はアナログ方式であり、世界的な大手総合家電メーカーが開発した放送用カメラが束になっても、池上の製品には及びませんでした (※)。その後、1990年代後半からデジタル技術の導入が活発化し、デジタル方式への移行が加速しました。池上は競合他社との熾烈な競争を繰り広げながらも、積極的な技術革新を続け、業界での確固たる地位を守り抜きました。池上を離れた今でも、私は変わらず 「Ikegami Fan」であり続けています。 ※競争入札等で、競合他社のカメラと池上のカメラを並べて同じ対象物を撮影し、性能や操作性を比較することがありました。これにより、放送用カメラで最も重要な解像度や色再現性が一目瞭然に判別出来ました。特に色再現性については、競合他社のカメラは一般家電用技術を基にしている為、実物よりも鮮やかに映る傾向(誰が撮っても綺麗に映る補正回路?)がありましたが、池上のカメラは本物の色味を忠実に再現します。その為、放送業界のプロフェッショナルの厳しい要求や期待に応える製品であることが何度も証明されました。海外広告では、「The Professional Cameras dedicated to the Dedicated Professionals」というキャッチコピー(正確には覚えていませんが)が使われており、池上の特長を的確に表していると感じ、とても誇らしく思っていました。 ● 海外業務の習得 池上は、人を育てることに長けた会社であり、私が在籍した4年間という短い期間の中で、海外セールスに必要な基本的スキルセットをほぼ全て学ぶことが出来ました。海外販売子会社、海外代理店、海外販売店、国内大手商社との取引を通じて輸出入の知識や見積書作成、受発注納期管理、代金回収、技術翻訳、顧客アテンド等、多岐にわたる業務を経験させて頂きました。 担当地域は、インドネシア、インド、パキスタン、オーストラリア、ニュージーランド、そして最後は北米でした。一番の思い出は、あるODA案件で、スタジオシステムと大型中継車(OB Van)の入札、落札、納入初期まで、上司と先輩社員の指導の下、懸命に進めたことです。途中で異動となり、最後まで関与することは出来ませんでしたが、この経験を通じて多くのことを学びました。特に、プロジェクトの初期段階での情報収集や綿密な計画、営業と工場関係者との緊密な連携が成功の決め手であることを深く実感しました。 ● 恩義ある会社との別れ 池上では、尊敬できる上司、先輩、同僚に恵まれ、会社の外でもスポーツやBBQを楽しむ等、非常に親密なお付き合いをさせて頂きました。直属の上司であり兄貴分と慕っていたTさんに退職の意を伝えた時、最初は慰留されましたが、最終的には「会社にとって原田に残って貰うのは良いことだと思う。しかし、原田のこれからの人生が悔いの残らないものになるかどうかまでは保証出来ない。だから、原田が選んだこの決断を尊重し、応援する」と言って送り出して頂けました。今の会社で私が管理職となり、若い部下が辞める度にまさか同じ言葉で送り出すことになるとは、カルマを感じずにはいられません。 ■ 2社目:ITベンチャービジネス 日本でのインターネット利用者が殆どいなかった1990年代初頭、サイバーテクノロジーズ・インターナショナル株式会社(以下、サイバー)が創業されました。創業メンバーは全員アメリカ人で、既にインターネットが爆発的に普及し始めていた米国ではなく、これから普及が見込まれる日本に進出してビジネスチャンスを掴もうとしました。彼らは企業や一般ユーザー向けのインターネット接続、サーバーレンタル、ウェブページ作成・更新メンテナンス、ソフトウェア・プログラム開発等のサービスを積極的に展開し、日本のインターネット黎明期を支える重要な役割を果たしました。 ● インターネットとの出会い 創業メンバーの社長を含む4人はウィラメット大学の卒業生で、日本進出の手始めとしてインターネット導入に前向きな外資系企業から確実にビジネスを獲得し、その勢いで日本企業への展開を本格化しているところでした。ウィラメット大学の友人として食事に誘われ、集合場所として立ち寄った彼らのオフィスで、当時最先端のインターネット技術を次々と披露され、大変驚かされました。 一方で、そんな煌びやかなプレゼンテーションの後で私の心を捉えて離さなかったのは、今では当たり前となった電子メールでした。大変地味なアプリケーションでしたが、今後これが世界中で普及し、国境を越え遠くにいる人達と容易に繋がることが出来ると確信しました。私はこの新しいコミュニケーションツールの可能性に心を躍らせ、未来の広がりを感じずにはいられませんでした。 後に友人から、食事の真の目的が私の勧誘であることを明かされました。それまで私を育ててくれた池上への恩義があり、まだ大した貢献もしないうちに転職することに大変悩みましたが、これから急激な発展を遂げるであろうインターネット業界に身を投じて、世の中の動きを直に感じてみたいという思いが強くなり、新たな道に進むことを決意しました。 ● インターネット・ビジネス 当時日本の大企業は次々とWebサイト(ホームページ)を立ち上げ、大口の仕事の依頼が寄せられました。大手総合家電メーカー、大手自動車メーカー、大手商社、大手不動産会社、外資系大手通信会社、駐日外国大使館等、多くの優良顧客との取引きが成立しました。 それまで安定した収入源のひとつであった個人向けダイアルアップ(電話線)やISDNによるインターネット接続サービス業務からは撤退し、設立当初から会社が目指していたIT技術による企業向け「ビジネス・ソリューション」の展開にシフトして行きました。サイバーが構築・運営サポートをしていた企業向けWebサイトには、今でこそ盛んに利用されているWebマーケティング機能が既に搭載されていました。ユーザーがどのようにWebサイトまでたどり着いたのか、Webサイト内のページアクセス・ログ(閲覧履歴)、再訪問率等を分析して顧客企業に提供していました。 ● 時代の寵児 私が関わった仕事の中でエキサイティングだったのが、顧客であり提携パートナーでもあった株式会社ハイパーネットとの協業です。同社は、ウェブブラウザーに広告表示することでインターネット接続料金を無料にするシステムを開発し一世風靡したベンチャービジネスの雄でした。残念ながら急速な事業拡大をした直後に銀行融資が縮小され市場環境の変化(ITバブル崩壊)もあり倒産してしまいました。この企業の上層部は皆私と同世代で、社長を筆頭に物凄いカリスマとオーラを発していました。副社長のN野氏はハイパーネットを退職後、NTTドコモでi-modeを立ち上げ、現在KADOKAWAの代表取締役社長としてご活躍されています。ハイパーネットの倒産については「社長失格」(板倉雄一郎著 / 日経BP社)という本となり、後にTVドラマとして放映されました。同書に登場する人物は実名で書かれており、当時窓口としてお付き合いしていた事業部長のN山氏が突然退職された理由が分かり、心が痛みました。(板倉雄一郎著 / 日経BP社) ● 夢破れる 大きな夢を抱いて入社したサイバーですが、小規模のベンチャービジネスが成長を続ける為には、卓越したアイデアだけでなく、資金面のバックアップや「運とタイミング」も必要です。当時、インターネットは日々目覚ましい発展を遂げていましたが、「インターネット」という言葉やイメージばかりが先行し、実際に何が出来るのか、どう活用するのかはまだ手探りの状態でした。魅力的なWebコンテンツやアプリケーションも殆ど無く、市場は未成熟で利益を創出するのは厳しい環境でした。サイバーの財務状況が悪化し始めた頃、私は親しくなった技術部長に誘われ、米系大手ゲームメーカーへ転職しました。現在サイバーは在りませんが、それぞれ別の道を歩んでいる友人達とは今でもインターネットで繋がっています。先日、カナダに移住した元社長と二十数年振りに再会し、友情を再確認出来たことが非常に感慨深かったです。学生時代に始まり、短いながらもサイバーで共に苦楽を味わった仲間との絆は、時を経ても変わらず、私にとって大切な宝です。 ■ 3社目:米国ゲームメーカー日本支社 アクティビジョン・ジャパン株式会社(以下、アクティビジョン)は、世界最大手のゲームソフトメーカーであるActivision, Inc.(現:Activision Blizzard, Inc.)の日本法人でした。主な業務内容は、パソコンや家庭用ゲーム機向けのゲームソフトおよびライセンスの販売であり、米国本社で開発されたゲームを日本市場に合わせてローカライズ (日本語化) する機能も担っていました。バイリンガルのエンジニアが、日本語に翻訳された音声やテキストをゲーム内に組み込む作業を行っていました。アクティビジョンは「洋ゲー(洋物ゲーム)」として知られ、特定の「洋ゲーマニア」から強い支持を受けていました。 1990年代後半、ゲーム業界では大きな技術革新の波が起こりました。アクティビジョンはロボット対戦、カーチェイス、戦闘機対戦等のゲームにインターネット対戦機能や3Dポリゴン技術を導入し、リアルな質感のある画像でのオンラインマルチプレイ (※) を実現しました。更に、AI機能をいち早く採用することで、特定の洋ゲーマニアだけでなく、一般ユーザーも魅了しました。 ※ インターネット上で複数のユーザーが同時にプレイすること ● ゲーム業界に身を投じて ゲーム業界には、「PC系」と呼ばれるパソコン向けのゲームソフトと、「コンシューマー系」と呼ばれる家庭用ゲーム機向けのゲームソフトがあります。前者はWindowsやAppleのOSを使用するパソコン向け、後者は任天堂、ソニー、セガが製造する専用ゲーム機(ファミコン、プレイステーション、セガサターン)向けです。私は、PC系ゲームソフトを営業活動のメインとし、北海道から九州までのパソコン量販店、ゲームソフト専門店、家電量販店、書店、玩具店を一人で回っていました。上司命令で、どこにいても最低でも週に1回は主戦場である秋葉原の得意先に顔を出すようにしていました。また、週末にはゲーム大会を企画・開催し、休む間もなく働いていました。 当時は、大きな量販店であっても購入を決める担当者の多くは、ゲームソフトに精通した若手社員やアルバイト学生でした。彼らは気さくに話を聞いてくれ、自社ゲームの反響や競合他社の情報、パッケージの改善点等を教えてくれました。私は毎晩帰宅後に自社ゲームと競合他社のゲームをプレイしながら知識を深め、次第に洋ゲーの独特な世界観に心を奪われるようになりました。日本のゲームが色鮮やかでBGMや効果音が派手で楽しいのに対し、洋ゲーの少しくすんだ色使いや幻想的なBGM、効果音には奥深い魅力がありました。 一度興味を持ち始めると、全国のゲーム調達担当者とのコミュニケーションが充実し、大手卸業者(問屋)から得た仕入情報の分析(顧客毎に違う売れ筋、売れないタイトルの傾向、地域毎の顧客動向他)が少しずつ出来るようになりました。当初は、やみくもに飛び込み営業を繰り返していたのですが、上司の熱血指導のお蔭で(毎日こっぴどく叱られていました )、体を使った営業だけでなく、頭を使った営業の重要性を認識し、営業スタイルの改善に努めました。そして問屋からの情報を基に、訪問先を絞り込み、顧客毎の個別アプローチを展開した結果、ポスター掲示や販促品の自由な配置、更にはアクティビジョン専用の特設コーナーの設置を許可される等、店舗でのプロモーション活動が活発化しました。その結果、アクティビジョンのゲームが店頭に増え、目立つ場所に置かれる機会も増えて行きました。 ● 体力勝負だった広報活動 ゲーム業界での営業に慣れて来た頃、広報担当者の退職に伴い、掛け持ちで広報の仕事を担当することになりました。雑誌社を訪問して新作ゲームのデモを行い、記事掲載をして貰うことでその認知度を高める取組みを実施しました。広告よりも特集記事等に掲載される方が、広告効果が高く、費用対効果も抜群でした。当時はまだ最新ゲームを滑らかに動かせられる高性能なノートブックPCが少なかった為、大きなブラウン管モニター、ステレオスピーカーとデスクトップパソコン一式を抱えて会社から出て、道端で捉まえたタクシーに積んで雑誌社へ持ち込んでいました。今振り返ると体力と気力に満ち溢れていた若い自分だからこそ出来たのだと懐かしく思い出されます。 ● 新たなる成長へ向けて アクティビジョン・ジャパンは12〜13名の小さな会社でした。このような小さな会社が競争を勝ち抜く為には、綿密な戦略と作戦が必要であり、その実行過程では常に修正を加えながら前進していくことを学びました。特に、マーケティング理論「ランチェスターの弱者の戦略」を営業戦略に取り入れていたことは興味深く、勉強になりました。猪突猛進で頑張っているだけでは成果が上がらないことを、全国のお客様を訪問する営業活動やキャンペーン、広報活動を通じて理解しました。アクティビジョン・ジャパンでの経験は、仕事に対する考え方やアプローチを少しずつ変える契機となりました。(30代まで続けたGymトレーニング) (老舗洋ゲー専門店で自社ポスターと) ■ 4社目:電子機器・部品メーカー 日本航空電子工業株式会社(以下、航空電子)は、「コネクタ事業(コネクタ)」、「インターフェース・ソリューション事業(タッチパネル、タッチパネルモニタ)」、「航機事業(航空・宇宙電子機器・部品)」の3事業ラインからなる電子機器・部品製造メーカーです。1953年の創業時に、将来日本に必ず訪れる航空・宇宙産業時代にエレクトロニクス技術で社会貢献をしたいという思いが社名に込められています。 一大決心して大恩ある池上を飛び出し、サイバーで夢破れ、ゲーム業界で忙しい日々を過ごしていましたが、心の奥底では、日本の高度な技術や製品を世界に紹介して行きたいという気持ちが再び強くなっていました。そんな折、週末に予定していた顧客とのアポイントがキャンセルとなり、ふと手に取った求人雑誌で『国際派転職フェア』の広告が目に留まりました。丁度スーツを着ていたこともあり、思い切ってその転職フェアを訪れてみると、そこには航空電子がブースを構えていました。航空電子は、池上の製品に使われていたコネクタを製造しており、その縁もあって興味を引かれました。しかし、再度転職することには少し躊躇しており、その場での決断は出来ませんでした。それでも、航空電子から何度も熱心にお誘いを頂いたことで、次第に決心が固まり、この会社で新たな挑戦をすることを決意しました。 ● 航機事業ライン 最初に配属された航機営業本部では、技術翻訳から始まり、産業機器向けアプリケーションに使用される加速度計、光ジャイロ、リニアモータの営業に幅広く携わりました。具体的には、油田掘削時におけるドリル先端の位置・方向把握に使用される加速度計やセンサーパッケージ、製造機器のXYステージを駆動させるリニアモータ、トンネル内の壁面検査ロボットの位置・姿勢測定用センサーユニット、構造物の揺れを低減するアクティブ制振用センサーユニット等、様々なアプリケーションに関わりました。 配属初期の修行 私は航空電子が新卒以外で初めて雇った文系出身の営業マンでした。その為、技術用語が飛び交う営業フロアでは、日本語でさえ理解が難しい状況でした。そこで、会社にお願いし、最初の1ヵ月間は工場の設計部門で若いエンジニアの隣に席を設けてもらい、加速度計や光ジャイロの原理や応用について学ぶ機会を得ました。その結果、社内で話されている大まかな内容について把握出来るようになりました。当時、会社の営業フロアには、日本初の国産H-IIロケットの姿勢制御を司る慣性誘導装置の開発を担当し、NHK番組「プロジェクトX」に出演した技師長や、米国の技術系一流大学出身で油田ビジネスを開拓した猛烈営業部長(私の最初の上司)等、優秀な方々で溢れていました。彼らと共に働く中で、多くのご指導を頂き、新しい環境に慣れていくことが出来ました。 余談ですが、この技師長がH-IIロケット用の慣性誘導装置を開発中、ジェットコースターにその装置を載せて何度も試験を繰り返したという逸話を最近になって知り、私もテレビ番組のロケで、読売ランドのジェットコースターに加速度計ユニットを持ち込み、背中向きに乗って加速度を測定したことを思い出しました。先輩の開発時の逸話には遥かに及びませんが、私もほんの少しだけテレビに映ることが出来たこの経験には、ささやかながらもロマンを感じています。 閑話休題、工場勤務から営業部署に戻ると直ぐに、上司と技術部長と共に、英国を皮切りに米国テキサス州を中心とした石油掘削関連の顧客を次々と訪問しました。加速度計や光ジャイロの拡販においては、単に製品性能を示すだけでなく、顧客のアプリケーションやニーズに応じた技術提案が求められます。顧客の態度や反応から、航空電子がこれまで着実に顧客の要望に応え、その結果として深い信頼関係が築かれていることが分かりました。これをしっかり受け継ぎ、更に発展させていく責任が自分に課せられていると感じ、身が引き締まる思いがしました。(定年退職が迫る上司の背中から発せられる強烈なプレッシャーと期待が、ひしひしと伝わって来ました。) 毎晩ホテルに戻ると、上司と技術部長の指導の下で打合せ議事録を作成し、本社にFAXで報告した後、ようやく食事にありつけました。しかし、その食事も顧客接待を想定したレストラン開拓を兼ねており、寝るまで気を抜くことが出来ませんでした。厳しい旅でしたが、この経験は最高のOJTであり、普段忙しい上司と技術部長から直接学べた時間は贅沢で貴重なものでした。 予期せぬ異動 私は当初、米国の販売子会社に出向している方の交代要員として雇われていましたが、その話は諸事情により無くなってしまいました。そして2年後、会社の主力ビジネスであるコネクタ事業ラインの海外営業本部に異動することになりました。人生最後の転職として覚悟を決め、難しい技術知識の習得や営業活動に取組み、更には商社へ出向して営業スキルを磨いていた私にとって、この異動は大きなショックでした。社内とはいえ、全く異なる業種への異動は転職と同じようなインパクトを感じていました。 記憶に残る仕事 2年間の航機営業で特に印象深かった仕事の一つに、1998年にテキサス州ヒューストンのアストロドームで開催された海底油田関連の展示会(Offshore Technology Conference)への出展があります。当時、航空電子は世界最小サイズ (直径19mm) の耐環境・高温対応 (~175℃) の加速度計を開発し、小さなブースで発表しました。海底油田掘削関連の展示会ということもあり、他のブースはヘリコプターや商用潜水艦、ボート、掘削ドリル等大規模な展示を行っていましたが、我々のブースはお手製の20cm程のシーソーに加速度計を取り付け、それを上げ下ろしする際に出力される電気信号を波形モニターに映し出すという、非常にシンプルなデモを行いました。 派手な展示が多い中、航空電子の小さく地味なブースに展示開始と同時に多くの人が押し寄せ、大変驚きました。競合他社も同等仕様の加速度計を発表していましたが、偵察したところ、それは外観だけで中身の無い「どんがら(モックアップ)」でした。開発が間に合わなかったのです。この瞬間、私は心の中で「やった!」と叫びました。航空電子の開発が競争に勝った瞬間でした。 油田掘削は年々深く掘り進む傾向にあり、それに伴いドリルの先端はますます細くなっています。さらに掘削が進むにつれて地中温度は150℃を超える高温となる為、小型で耐熱、耐衝撃、且つ高精度な加速度計が業界で求められています。当時、この要件に応えられる会社は航空電子と競合他社の2社だけでした。(米国テキサス州:Offshore Technology Conference) もう一つ印象深い仕事としては、ある欧州メーカーへの拡販取組みがあります。当時、国内の主要産業機器メーカーとは既に取引があったものの、海外市場への進出はまだ限定的でした。そこで、私は半年以内に訪問することを目標に設定し、先ず幕張メッセで開催された国際展示会でその企業の展示ブースを訪ねました。アクティブ制振のアイデアを口頭で説明し、名刺を渡したところ、数週間後にはあっさりと招待を受けてしまいました。 会社内は大騒ぎとなり、私は、土日は自己啓発として関数電卓を片手に三角関数を復習し、平日は工場の技術データを集めながら、プレゼン資料の作成に努めました。1か月後、同年代の若手エンジニアと共に欧州へ飛び、そのメーカーでプレゼンを行いました。応対して頂いたのは博士号を持つ6人のエンジニアの方々で、文系出身の私にとっては緊張の連続でした。しかし、同行エンジニアと協力しながら、アクティブ制振の提案と試作品による試験結果の説明、質疑応答を行い、更に航空電子の航機関連主要製品の説明とデモンストレーションを実施しました。 結果的に多くの課題を持ち帰ることになりましたが、この出張では、航機事業ライン(工場・営業)の諸先輩から教えられ、託された全てを出し切り、初めて大きな達成感を味わうことが出来ました。そして、この達成感は、次の異動先へと向かう私にとって、一つの区切りを意味するものでした。 ● コネクタ事業ライン コネクタは、航空電子の総売上の8割以上を占める主力製品で、プリント基板や電子機器同士の電力や電気信号を接続・切断する為の重要な部品です。人工衛星や飛行機、電車、自動車、家電製品、パソコン、スマートフォン等、広範な分野で多種多様なコネクタが大量に使用されています。コネクタは、電力や電気信号を伝える金属製のコンタクトと、それらを絶縁するプラスチック(インシュレータ)で構成されており、電気的性能と機械的性能の両方を満たさなければならず、その開発には高度な専門知識とノウハウを要します。 営業マンはお客様に育てられる 私のコネクタ事業ラインでの業務は今年で25年目を迎えます。この間、多くの貴重な経験をさせて頂きました。中でも特に心に残っているのは、13年間担当を務めた、欧州のグローバル企業とのビジネスです。当時、GAM(Global Account Manager)として欧州、北米、アジアのR&Dや生産拠点に何度も訪れ、多くの開発案件に携わりました。そして、量産立上げ後に避けては通れない品質問題や納期問題、価格交渉等にも会社同僚と一丸となって積極的に取組み、その結果、No.1サプライヤーとして高く評価して頂きました。 (フィンランド:夏) (フィンランド:冬) この経験から、メーカー営業マンは社内で得た知識やスキルを基盤にしながらも、最終的には顧客によって育てられることを強く実感しました。私自身、社内で基礎を固めた後、顧客と向き合い、彼らの要求に応える過程で成長して来ました。 先ず、社内での基礎作りとして、現場での実践経験に力を入れました。携帯電話やPDA、STB(セットトップボックス)等の電子機器を片っ端から分解し、基板の形状や実装部品の配列、高さ、投影面積等を丹念に調査して、アプリケーション毎の筐体形状や内部構造、実装技術について学びました。また、工場の技術フロアでは、試作品の組立てや評価試験にアシスタントとして参加し、その結果を英文レポートに纏めることで、コネクタ製品に関する理解を深めました。 次に、顧客と直接向き合い、彼らの要求に応える中で、営業マンとしての成長が促されたと思います。例えば、品質問題が発生した際には、通常は立入ることの出来ない顧客の生産ラインに特別に入れて貰い、技術評価試験に立会う機会がありました。品質問題はサプライヤーにとって避けたい事態ですが、これをチャンスと捉え、問題解決に取組むことで顧客の信頼を得られました。 その上で、品質問題とは別に、顧客の生産ラインで使用されている製造設備を把握し、その後、その設備メーカーを訪問して、次の製品作りに生かすヒントを得ることに努めました。これらのヒントを製品に反映し、品質や使い勝手を向上させることで、顧客の満足度を高めることが出来ました。 モノづくりの舞台裏 ここで少し、メーカーにおいてよく見受けられる工場部門間の関係性について触れたいと思います。それは、開発途上で、設計担当者と生産技術・製造部門のエンジニアとの間で立場の違いからしばしば緊張や対立が生じることです。設計者が斬新なアイデアやテクノロジーを投入して尖った製品開発に挑む一方で、生産技術や製造部門のエンジニア達は、その実現の為に多大な努力を強いられます。しかし、ひとたび新製品が市場に投入され、成功を収めると、全員がその達成感を共有し、固い絆で結ばれ、それが開発を続ける中で更に深まって行きます。こうしたモノづくりの舞台裏を知っていると、初めて訪問した顧客のプリント基板を見せて頂いた際に、生産技術や製造部門が設計にどのように影響を受けているかを指摘出来ることがあります。すると、窓口の設計者がその場で関連エンジニアを呼び出してくれることがあり、その結果、打合せは自然と笑いのある明るい雰囲気になることがよくあります。このような経験の積み重ねが、同じモノづくりに携わる顧客との関係構築に大いに役立ちました。 (北京:陳式太極拳「単鞭」のポーズ) (サンディエゴ) 信頼とバランスの構築 ビジネスの世界では、「Win-Win」という理想がよく語られますが、現実では、顧客がWinし、私達が少しLoseすることも少なからずあります。これは、顧客との力関係によるもので、ある程度は避けられないことです。私は常に顧客の立場を最大限に尊重しつつも、自社の利益を守る為に、適切なバランスを見つけるよう心掛けて来ました。その為、時には難しい話もしっかりと議論出来る関係構築が重要だと考えています。 (中国河南省:太極拳国際試合 相手は後にAlibaba創業者 Jack Ma氏のボディーガードに) ● 英国販売子会社出向 JAE Europe, Limited (以下、JAE EU)は、航空電子の販売子会社で、英国に本社を構え、ドイツ、フランス、イタリア、スウェーデンにもオフィスを展開し、欧州全域のビジネスをカバーしています。欧州市場は、特に自動車産業、産業用ロボット市場、医療機器市場において、世界の技術革新をリードする多くのテクノロジーリーダーが存在する重要な市場です。JAE EUは、この市場で欧州の先進企業と共に未来の技術革新に貢献することを目指しています。 入社当時に立ち消えた海外赴任の話が、18年後に突然舞い戻って来たかと思うと、急速に具体化し、家族(妻、長男: 中2、次男: 小6)を伴って英国に赴任することになりました。2016年から2020年まで英国ロンドンで生活し、その間にBrexitや新型コロナウイルスの蔓延といった大きな変化が起こる中で、仕事面でも家庭面でも得られることが多かったです。 新しい職場環境 JAE EUでの勤務が始まると、現地社員は英国、ドイツ、フランス、イタリア、スウェーデン等多国籍で構成され、顧客も30か国以上に跨っていることが分かりました。「欧州」と一言で括るにはあまりに大雑把過ぎる地域であり、国毎の人々や文化、習慣の違いを考慮した対応が必要なのは言うまでもありません。 私は一時期、営業に加えてマーケティングや技術チームの責任者も兼任していました。英国本社での勤務と並行して、ドイツのミュンヘンオフィスとの連携を強化する為に、頻繁に現地を訪れていました。現地社員との業務遂行においては、ドイツの労働法規や労務管理に細心の注意を払い、職務明細書(Job Description)に基づいた明確な業務指示を行い、ファクトとエビデンスに基づいた公正な業績評価を心掛けていました。また、拡販方針や戦略については納得がいくまで議論を重ねることで、チーム全体の目標と方向性を揃えました。 ドイツのメンバー達は、普段は家族生活を優先し、プライベートな時間を大切にしていましたが、いざという時は自ら進んで長時間の業務に取組んでくれました。私が別の仕事でドイツに行けなかった際には、急遽英国まで駆けつけ、ピザ1枚で深夜まで一緒に作業してくれることもありました。この経験は、ワークライフバランスを徹底して重視するドイツ人に対する固定観念を完全に払拭するものでした。彼らの献身的な姿勢と協力には、今でも感謝しています。 日常生活 ①:家族生活の変化 日本での生活と比較して、英国での生活では家族との関わり方に大きな変化がありました。日本で暮らしていた頃は、仕事のことばかりを考えていましたが、海外では家族の生活に積極的に関わり、生活環境を整えたり、日常生活のサポート(学校、病院、買い物、余暇)にも力を入れるようになりました。学校選びについては、私自身の留学経験から現地校を勧めましたが、息子達から「お父さんは自分の意志でアメリカに留学したんでしょ?僕らはお父さんの転勤で外国に来たんで自分の意志じゃないんだ!」と反論され、彼らの気持ちを尊重して日本人学校に通わせることにしました。(立派な主張だと感心しました。) 今では日本人学校に通わせたことが正しい選択だったと思っています。日本人としてのアイデンティティを確立する過程での良い教育を受けられました。ロンドン日本人学校には優秀な教師と生徒が集まり、非常に高い教育レベルが提供されていました。また、欧州を訪れる日本の要人(宇宙飛行士、スポーツ選手、芸術家、ミュージシャン、学者、政治家等)の多くがロンドン日本人学校に立ち寄り、貴重なお話を子供達に聞かせてくれる機会があり、大変恵まれた学習環境にありました。 日常生活 ②:ロンドンの暮らし ロンドンでの生活は、歴史的な街並みや博物館、美術館、そしてミュージカル等、文化に容易に触れることが出来ました。気候は北海道より北に位置する為冬はやや寒いものの、年間を通じて非常に快適でした。また、都会でありながら自然が豊かで、緑あふれる公園が数多くあります。自宅の裏庭には、狐、リス、野鳥が頻繁に訪れ、心を癒してくれました。賢い狐は、生ごみを入れるコンテナのロックを外して荒らしていくこともあり、彼らとの知恵比べも日常の出来事でした。ロンドン中心街の観光スポットは、私達にとっては生活圏の一部であり、散髪や息子達のスポーツ用品、日本食材等の買い出しをしていました。日本食材は日本価格の何と3倍で、購入する品物によって一番安い店を選ぶ等節約に努めました。 日常生活 ③:自動車通勤 通勤については、赴任当初は大きな試練でした。オフィスは自宅から南西に60kmの距離にあり、朝の通勤時には頻繁に事故渋滞に巻き込まれました。英国では、警察が事故現場の調査を終えるまで道路を閉鎖する為、高速道路内で閉じ込められ、トイレに行けず苦しい思いをしたこともあります。閉鎖が解けた後、急いで高速道路を降り、ヒースロー空港で用を足したことも。たった10分の駐車でしたが、これまでで一番高くついたトイレでした。帰りが遅くなると、高速道路が閉鎖されて入れなかったり、途中で閉鎖となり止む無く最寄りの出口から出て行かなければならず、何度も道に迷いながら真っ暗な山道のような場所を走りました。その過程で、帰宅ルートが自然と増え、道に詳しくなりました。一度慣れてしまうと、自動車通勤は一人になれる特別な時間となり、iPhoneに入れた70~80年代の歌謡曲を大声で歌いながら眠気を覚まして帰る日々を楽しみました。 日常生活 ④:ハプニング 息子の剣道教室に参加した際、アキレス腱を断裂し、ロンドンの救急病院(A&E: Accident and Emergency)で全身麻酔の日帰り手術を受けることになりました。そこではクロスファンクショナルチーム(機能横断型チーム:CFT)による対応が行われており、大変興味深いものでした。 窓口での受付を済ませた私は、病室を行き来すること無く、直ぐに移動式のベッドに乗せられました。そのまま手術着に着替え、手術室前で待機する他の患者達の長いベッドの列に加わりました。手術が流れ作業のように次々と行われ、ベッドの列が動きながら手術室に近づいていく様子を見て、自分がまるで工場の生産ラインに投入された材料のような感覚を覚えました。 病院スタッフは役割毎に色分けされた制服を着用し、それぞれの専門分野に基づいてテキパキと対応してくれました。私のベッドには、手術前から退院までの全ての手順が記された私専用のノート(※)が置かれており、スタッフはそのノートに従って入れ替わり立ち代わり私の前に現れては、チェックボックスを埋めながら正確に漏れなく処置を進めていました。このオペレーションは、病院の人手不足を補い、患者の精神的・身体的負担を軽減するもので、大いに感銘を受けました。 (病院スタッフの制服:役割別色分け) (日帰り手術用ノート) 尚、私は外国人でしたが、NHS(National Health Service:国民保健サービス)に加入していた為、薬代を除き医療費は無料でした。一般的に日本人駐在者は会社で加入する海外旅行保険を適用し、高額なプライベート医療サービスを利用することが多いですが、私はNHSの病院で奇跡的に手術日を確保出来た為、また冒険心にも駆られて手術を受けることにしました。因みに、奇遇にも同じ剣道場で数週間後にアキレス腱を断裂したポーランド系の方は、NHSの手術待ちが3カ月だった為、ポーランドで手術を受けたそうです。英国の医療現場が慢性的に混雑し、極めて厳しい状況にあることは事前に知っていましたが、道場で私の為に呼んで頂いた救急車が2時間待ち(後にキャンセル)だったことから、その現実を身をもって痛感させられました。 ※ノートには、手術前の準備(体温、脈拍、血圧、血液チェック、退院後の松葉杖の使い方指導等)から、術後の体力回復処置、退院許可迄のプロセスがページ毎に記載されていました。 その後、ギブスを装着してのドイツ出張では、イミグレーションの審査が驚くほどスムーズに進み、健常者としての移動よりも楽で早かったという貴重な体験もありました。イミグレーションでは電気自動車に乗せられ、そのまま空港出口まで送って貰えたことも印象に残っています。 英国赴任を終えて 振り返ると、英国での赴任は、仕事、異文化での暮らし、そして家族との時間という三つの面で、多くの学びと成長がありました。仕事や異文化での経験はこれまでも積み重ねてきましたが、家族の存在を何より大切にし、共に過ごす時間を最優先するようになったのは、この英国での生活がきっかけでした。子供達が成長し、家族で一緒に過ごす時間が減ってしまった今、コロナ禍のロックダウン中に家族水入らずで過ごした時間が特別な思い出となっています。ロンドンの青空の下、自宅裏庭で楽しんだBBQは、かけがえのない記憶です。 (ジブラルタル海峡:ここから顧客のいるモロッコへ船で渡りました)(ストーンヘンジ:ロンドンの自宅からたったの130km) (アイスランド:家族旅行) ● 現在:コネクタ事業ライン 海外赴任から帰国後、特定顧客の営業チームの責任者を務めた後、営業ラインを離れ、海外契約書のリーガルチェックという新たな職務に就きました。この業務では、海外の取引先や今後取引を予定している会社から提示された契約書に含まれる法的問題や自社に不利益な条項が無いかを精査します。また、取引内容に適合しているかを確認し、必要に応じて修正案を提示します。契約締結プロセスは、最終交渉の場であり、トラブルを未然に防ぎ、健全な関係を築くことが重要です。 法務バックグラウンドはありませんが、営業経験を通じて基本的な契約書の知識は持っていました。しかし、それを専門職として扱うのは全くの初心者であり、当初は手探りの状態でした。その為、法務部門のアドバイスや支援を受けながら、外部セミナーを受講し、情報収集を重ねて来ました。現在、業務を始めてから1年以上が経過し、100件以上の契約書をチェックし、150件以上の文献を読み、少しずつ知見が積み上がって来たと感じています。 この仕事において、私が特に重視しているのは、営業バックグラウンドを活かしたリスク評価です。同じ条文でも、相手方がどのような会社で、どのようなビジネスを進めようとしているのかによって、評価が異なります。長年の海外ビジネス経験を基にした分析・判断力を発揮し、日々新たな業務に全力で取組んでいます。(ロンドン: タワーブリッジを一望しながらのアフタヌーンティ) 【エピローグ】 これまでのキャリアを通じて学んだのは、「人生に無駄な経験は無い」ということです。転職や新たな挑戦を重ねる中で、失敗と成功を繰り返して来ましたが、その全てが今の私を形成する大切な要素となっています。若い世代の方々が自分の夢を追いかけ、理想に向かって進む為の力と勇気に少しでもなればという思いを込めて、この体験記を書き進めました。 「外国人と日本人は、同じものを見た時に同じように見えるのだろうか?」幼い頃に抱いたこの疑問に対する答えが、年月を経て少しずつ見えて来たように思います。私達の世界の見え方は、目の色等の生まれ持った特徴や、育った環境、経験によって異なるものです。同じ日本人同士でも、年齢や生活環境によって物の見え方には違いがあることを日々感じています。 交通機関の発展による人的交流に加え、インターネット技術の革新による国境を越えた情報交換の活発化が、本格的なグローバル社会の到来をもたらしました。今や世界中の人々との共生が日常となり、日本でも様々な背景を持つ人々が増えています。グローバルスタンダードや普遍的価値観の追求が進む中で、この流れに対して懸念も感じています。均一化による公平性は大切ですが、それによって多様性が失われることは避けなければなりません。また、多様性を認める為にマイノリティーを優先することが、時に不条理を生むこともあります。私達は、非常に難しい時代の局面に立たされています。 私は、より良い未来を築く為に、日々の小さな一歩を大切にしながら、自分らしく出来ることを続けて行きたいと思っています。この体験記が、読んで下さった方にとって、少しでも前向きな気持ちや、新たな一歩を踏み出すきっかけになれば幸いです。 (原田 晴之さんプロフィール) 群馬県出身 1984年3月 東京都立板橋高等学校 卒業 1985年6月 米国カリフォルニア州Bloomington High School 卒業 1986年4月 東京国際大学教養学部国際学科 入学 (下羽ゼミ) 1989年9月 米国オレゴン州Willamette University入学 (3学年編入) 1991年5月 米国オレゴン州Willamette University 卒業 (BA政治学専攻) 1992年3月 東京国際大学教養学部国際学科 卒業 (大越ゼミ) 1992年4月 池上通信機株式会社 入社 1996年3月 池上通信機株式会社 退社 1996年4月 Cyber Technologies International株式会社 入社 (ITベンチャービジネス) 1996年10月 Cyber Technologies International株式会社 退社 1996年11月 Activision Japan 株式会社 入社 (米国ゲームメーカー日本支社) 1997年6月 Activision Japan 株式会社 退社 1997年7月 日本航空電子工業株式会社 入社 (電子機器・部品メーカー) 2016年3月 JAE Europe, Limited 出向(英国販売子会社) 2020年10月 日本航空電子工業株式会社 帰任、現在に至る (航空電子スポンサーのボブルヘッド人形) (シアトル:イチロー選手) TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
世界の平和を願いながら人生を送ってほしい
TOKU/馬場督之さん(1996年 商学部 経営情報学科卒業 TIUA 臼井ゼミ タイニーラヴ/軽音楽)2024年8月1日・TIU 入学 高校3年になる前の春休みに、母が講師をしている公文式が主催するアメリカでの10日間のホームステイ・プログラムに、妹とともに参加した。今思えば、この時の体験が僕の人生を大いに左右することになったのだと思う。 初めての海外で母国語ではない言葉で実際にコミュニケーションがとれるおもしろさを知ってしまった僕は、自分の高校に教えに来ていたアメリカ人の先生と積極的に交流するようになり、英語を話す機会を増やし、いつしかまた海外に行きたいという願望を抱くようになった。 東京国際大学の名前を知ったのは浪人生になってしまった年だった。この大学には、当時のどの国公私立の大学よりも飛び抜けて贅沢な語学留学プログラムがあるというのをその当時に知った。期間は1年で、アメリカ人のルームメイトと過ごせるなんて、もう受験しないわけにはいかなかった。他の大学も受験したが、本当にここにしか合格しなかった。もう絶対にこの語学留学プログラムに参加しろという神の思し召しなのかと思い、1年生の秋に2段階の試験を受けて合格し、晴れて留学が決まった。何が待ち受けているのか、僕の心は期待でいっぱいだった。 ・音楽遍歴 僕は今ミュージシャンとして生きている。 それ以外の人生は全くもって想像がつかない。 音楽は僕の存在理由そのもの。生きる意味。 でも小さい頃からの夢というわけではなかった。 父親の影響で物心つく頃から音楽を聴くのを好きになり、どこに出かけるにも、寝る時にも、音楽がないとダメだった。音楽はいつも側にいた。 父親は趣味でいろんな楽器を演奏する人で、週末になるとうちに父親のブルーグラス・バンドのメンバーを集めては夜通し演奏していた。他にも様々な音楽を僕に教えてくれた。 小学生の時に父親が地元で初めてのレンタルスタジオを始めて、昼夜ひっきりなしに音楽を志す人が出入りするのを見ながら過ごしていたが、サッカー少年だった僕は楽器を演奏することに興味はなかった。 中学校に進んでその状況が変わる。なんと、進んだ中学校にはサッカー部がなく、仕方がないので他のスポーツ系ではなく、好きな音楽系の部活動をしようと思い吹奏楽部を覗きに行き、コルネットというトランペットに一番近い楽器を始めることになる。 とはいえ真面目にはやらず、譜面も読まず、持ち前の音感で隣の人の吹く音を覚えてしまい、あとは自由に吹いていただけだった。 なので、高校生になると高校が遠かったのもありコルネットを吹くのを止めてしまう。 そして、高校の仲間とバンドを始め、ドラムをプレイし始める。ほぼ同時にベースを始め、そして浪人生の時にはギターを始めた。 ロック、ポップ、フォークにはまり、TIUに入ってから最初に在籍したのは軽音のサークルだった。そのサークルから紹介されたバイト先のCD屋さんで、わけもわからずマイルス・デイビス (ジャズの帝王と言われたトランペッター)のCDを買い、その中の1曲を気に入り、耳で聞いて同じように吹けるように練習し、誘われるままに行ったジャズの生演奏をやっていたお店で言われるがままに飛び入りして練習したことを吹き、実はそれはマイルスがアドリブ(即興)で演奏したものだと初めて知り、それ以来ジャズに取りつかれて今に至る。 実は、小学生の時に僕の地元にやってきたマイルス・デイビスのコンサートに連れて行ってもらったことが大きく影響していると思う。最初で最後だったが、大のマイルスのファンの父親が「こんな機会は二度とあるかわからない!」と家族を連れて行ってくれた。その時に感じた会場の熱気を今でも覚えている。 ・TIUA さて、留学に話を戻したいと思う。 そんなわけで、留学が決まったときには僕はすっかりジャズに取りつかれていて、個人データに”音楽” “ジャズ” と書きまくり、TIUAに着いた日に出会ったのがジャズピアノをバリバリ弾く僕のルームメイト、Julian Snow だった。 ジャズにハマってすぐに購入し、もちろん一緒にアメリカに持っていったトランペットのケースを見つけた彼は、時差ぼけでフラフラの僕を練習室に連れて行った。そして2人でしばし演奏し、次の週にはベーシストを加えて練習し、さらにサックス・プレイヤーが加わり、僕らはウィラメット大学のキャンパスにある Bistro というカフェで毎週木曜日にライヴをするようになる。 あの時はジャズを始めたばかりで決して上手くない、むしろド下手なトランペッターで吹ける曲もわずかしかなかったのに、よくも僕をバンドに入れたものだと思う。今もってしても謎だ。 でも英語を勉強しに行ったのに、音楽も同時にやることができるなんて夢のようだった。 週末にはキャンパス内の屋外でギターを弾いて歌い、そのうち一緒に歌う仲間もできた。 ウィラメット大学にあるロザンヌという男女共同寮に住み、朝食はパンケーキとミルク、午後授業が終わるとウィラメットのキャンパスの芝生で宿題、夕食を終えたら仲間とバスケットボールを楽しみ、シャワーを浴びてトランペットと譜面を持って音楽練習室に向かい夜遅くまで練習した。Julian のバンドに付いて行くのは大変だった。片っ端から曲を知り、演奏(アドリブ)できるようにならなければならなかった。でもその大変な作業が楽しくて仕方なかった。 Bistro でのライヴはとにかく毎回が刺激そのものだった。 Julian 始めメンバーは皆達者なので置いてきぼりになることもしばしばだったけど、必死について行った。 ライヴ中はいろんな人が行き来していた。それを見ているのも楽しかった。そこで出会った友達と今でも交流は続いている。 時々開催されたフィールドトリップでオレゴンの他の土地に行けるのもとても刺激だった。見るもの全てが新しいって素晴らしいと思った。オレゴンの大自然はとにかく広い。オレゴン・コーストや Mt.Hood で経験したスノーボード、馬に乗ったのも覚えている。そして都市に行くとCDショップに行けるのが本当に嬉しかった。聞きたいジャズの名曲はまだ山ほどあった。それは今でもそう。 夏休みについても書かなければ! 7月の下旬からほぼ一ヶ月をかけてアメリカを見て回った。 飛行機ではなく、アムトラックという汽車でアメリカ大陸の大きさを肌で感じながらの旅。 セーラムを出発して、 まずはサンフランシスコまで汽車の中で1泊、 2泊ほどして サンフランシスコからロスは朝から晩までまる1日を汽車の中で、 ロスで3泊ほどして ロスからニューオリンズまでは汽車の中で2泊! ニューオリンズで3泊くらいして、 ニューオリンズからニューヨークまでは汽車で1泊、 ニューヨークで3泊ほどして ニューヨークからシカゴまでは汽車で1泊、 シカゴで2泊ほどして シカゴからシアトルまでは汽車で2泊、 シアトルで2泊ほどして シアトルからセーラムに。 行程はざっとかんな感じ。 1ヶ月以内ならば何度も途中下車できる切符を購入し、寝台車ではなく普通のコーチシートで全行程を移動した。日本人にとっては広くて、リクライニングさせると寝心地のいいソファになった。若さゆえに可能だった。 砂漠のど真ん中を走ってる時に、ここでエンジンが故障したらどうなるんだろうと思ったり、夜中に目が覚めて外を見ると、たまに田舎の街灯が流れていく真っ暗が続く景色だったり、汽車でしか味わえない経験をたくさんした。 当時はポータブルのカセットテープ・プレイヤーが音を出してくれる一番小さい機械、旅の間に何度テープをひっくり返したことか。 初めて訪れたジャズの街ニューオリンズ、そしてニューヨークではジャズのレジェンドの生の演奏に触れることができた。 ニューヨークで演奏を聞いた、とても印象に残るトランペッターがいた。その彼と、およそ7年後の自分がメジャー・デビューしたころに出会うとは夢にも思わなかった。そのニューヨークでのライヴの話をしたら、なんと彼はその時のことを覚えていた。2度目に会った時だったかな、お互いの誕生日が同じ日だということがわかり、以来彼が数年前に突然逝ってしまうまで、ずっと仲のいい友達になった。最後にやり取りしたメッセージは、お互いに「I love you」だった。 ちょっと話がずれてしまったけど、 TIUAに留学していた1993年という年は、今までの人生で一番充実していたと思う。それだけTIUAは僕に濃密な経験をさせてくれた。 そして、この時の体験、身につけた語学力は現在の僕のキャリアに大きく大きく関わっている。東京にやってくる海外からのミュージシャンと知り合い、その後も付き合いが続くのは語学力により相手を理解し友情を深めることができるということがとても大きいと強く感じる。 初めて日本に来るミュージシャン達を案内したり、日本のことを説明したりすることができるのは、同時に彼らの文化を理解することにも繋がり、その後の付き合いが深くなっていく。このお互いの理解、受け入れるという気持ちは、TIUAへの留学でいろんなものを見て知った経験があったから身についたのだと思う。 もちろんそれには、全てではなくとも相手をすぐに受け入れるオープンなマインドを持つということがとても重要だと思う。僕の場合は根っからの好奇心旺盛な性格も手伝って自然と身についたところもあるが、TIUの自由な校風から始まり、TIUAで経験した全てのことは僕をさらにオープンマインドの持ち主にしてくれたことは言うまでもない。 世界には様々な人種が存在する。そして、今現在は良くも悪くも日々多様な出来事があり、目まぐるしいくらいに時代が回っている。世界の動きを見ると、ポジティブなこともあるけど本当に苦しくなるような理解できないほどのネガティブなことも起こっている。人類がこれからどう生きていくのか、そして何より自分がどう生きていけばいいのか、常に敏感に物事を察知し、様々な情報を整理していかなければならない。 そんな時代でも、僕は全ての人間は同じく人間であり、単純に生まれや育ちが違うだけで肌の色で差別したりする心は一切持っていなくて、むしろ違うことに興味を抱く人間であれることに幸せを感じる。そしてそう思えるのは、TIUAでの生活を通じてアメリカでいろいろな人間と出会ったことが大きく影響していると思う。人種は違えど、愛を捧ぐ心は皆持っているということを強く学んだ。 ・近況 今、僕はパリにも拠点を置き、ヨーロッパで自分のキャリアを広げようとチャレンジしている。2017年からパリに住む友人のプロジェクトに参加することで毎年2度パリに来てはそこを拠点にヨーロッパをツアーするようになり、その友人の勧めもあり彼のレーベルからヨーロッパ向けの自分のアルバムが2020年の1月に日本より先にフランスでリリースされ、2月にリリース・ツアーを行ったところで新型コロナウイルスによるパンデミックで、3年半もの間ヨーロッパに来ることが出来なくなった。 ようやく落ち着いたところで来られなかった月日を取り戻したい、チャレンジしたいという気持ちが、僕を言葉もわからない新たな土地・パリに住まわせることになった。逆にパンデミックがなければこういう気持ちにならなかったのかもしれない。 まだまだ種蒔きの段階だけど、数年のうちに何かに到達したいと思っている。それはヨーロッパ内のあらゆるところからオファーを受け始めることだと思っている。 ・1人の人間として Life is one time. 人生は一度きり。 50年という年月を生きてより強くそれを感じる。なぜ自分はこの世に生を享けたのか、生きているうちに何ができるか、この貴重な時間を有意義に過ごすことを考えながら生きていきたい。 そして、これから大学生活を送る若人達に、自身が心から生きる喜びを感じられるものを見つけてほしいと心から願う。 そして真実を見つめ、家族を大切にし、心通う友に感謝し、世界の平和を願いながら実りある、意味ある人生を楽しみ、送ってほしいと切に希望します。 TOKU (TOKU/馬場督之のプロフィール) 新潟県三条市出身 新潟明訓高校卒業 1996年3月 東京国際大学 商学部経営情報学科卒業 TIUA留学 臼井ゼミ タイニーラヴ(軽音楽) 日本唯一のヴォーカリスト&フリューゲルホーンプレーヤー 父親の影響でノンジャンルで音楽に親しみ、中学時代にブラスバンドで初めての楽器コルネットを手にする。 2000年1月アルバム“Everything She Said”でソニー・ミュージックよりデビュー。 デビュー当初から注目を集め、その年の8月には早くもブルーノート東京に出演。 アルバムはアジア各国でもリリースされ、積極的に海外での公演も行っている。 昨今、ジャズの枠を超えた幅広い音楽性から、m-flo、平井堅、Skoop On Somebody、 今井美樹、大黒摩季、などのアルバムにプレイヤーとして参加。 2008年に発売したアルバム「Love Again」は初のDuet SongをExileのATSUSHI氏を迎えて収録。 2011年3月の東日本大震災の直後に行われた、シンディー・ローパーの国内ツアーにも 参加し、話題となる。 2011年4月27日、本人がずっと温めていた企画「TOKU sings & plays STEVIE WONDER- JAZZ TRIBUTE FROM ATLANTA」を発売。 2015年5月、フランクシナトラの生誕100周年を記念して全曲シナトラのカバーアルバムを発売。そのレベルの高さに各所で大絶賛を浴びている。 2017年6月、ジャンルを超えTOKUが今まで出会った様々なミュージシャン達とコラボレートしたアルバム「SHAKE」をリリース。 2019年2月、今まで書いていたオリジナル曲からTOKU自身が厳選し、未発表曲、未発表テイクも含めたオリジナル曲のみによるコンピレーション「Original Songbook」をリリース。 2020年4月、フランスを代表するミュージシャン達とレーコーディングした初のヨーロッパ録音「TOKU In Paris」をリリース。フランスで先行発売され、ヨーロッパでのアルバムリリース・ツアーは各地でソールドアウト、好評を得る。 (TOKU Inc.®︎) TOKU Inc. オフィシャルサイト https://www.tokujazz.com TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
TOKU/馬場督之さん(1996年 商学部 経営情報学科卒業 TIUA 臼井ゼミ タイニーラヴ/軽音楽)2024年8月1日・TIU 入学 高校3年になる前の春休みに、母が講師をしている公文式が主催するアメリカでの10日間のホームステイ・プログラムに、妹とともに参加した。今思えば、この時の体験が僕の人生を大いに左右することになったのだと思う。 初めての海外で母国語ではない言葉で実際にコミュニケーションがとれるおもしろさを知ってしまった僕は、自分の高校に教えに来ていたアメリカ人の先生と積極的に交流するようになり、英語を話す機会を増やし、いつしかまた海外に行きたいという願望を抱くようになった。 東京国際大学の名前を知ったのは浪人生になってしまった年だった。この大学には、当時のどの国公私立の大学よりも飛び抜けて贅沢な語学留学プログラムがあるというのをその当時に知った。期間は1年で、アメリカ人のルームメイトと過ごせるなんて、もう受験しないわけにはいかなかった。他の大学も受験したが、本当にここにしか合格しなかった。もう絶対にこの語学留学プログラムに参加しろという神の思し召しなのかと思い、1年生の秋に2段階の試験を受けて合格し、晴れて留学が決まった。何が待ち受けているのか、僕の心は期待でいっぱいだった。 ・音楽遍歴 僕は今ミュージシャンとして生きている。 それ以外の人生は全くもって想像がつかない。 音楽は僕の存在理由そのもの。生きる意味。 でも小さい頃からの夢というわけではなかった。 父親の影響で物心つく頃から音楽を聴くのを好きになり、どこに出かけるにも、寝る時にも、音楽がないとダメだった。音楽はいつも側にいた。 父親は趣味でいろんな楽器を演奏する人で、週末になるとうちに父親のブルーグラス・バンドのメンバーを集めては夜通し演奏していた。他にも様々な音楽を僕に教えてくれた。 小学生の時に父親が地元で初めてのレンタルスタジオを始めて、昼夜ひっきりなしに音楽を志す人が出入りするのを見ながら過ごしていたが、サッカー少年だった僕は楽器を演奏することに興味はなかった。 中学校に進んでその状況が変わる。なんと、進んだ中学校にはサッカー部がなく、仕方がないので他のスポーツ系ではなく、好きな音楽系の部活動をしようと思い吹奏楽部を覗きに行き、コルネットというトランペットに一番近い楽器を始めることになる。 とはいえ真面目にはやらず、譜面も読まず、持ち前の音感で隣の人の吹く音を覚えてしまい、あとは自由に吹いていただけだった。 なので、高校生になると高校が遠かったのもありコルネットを吹くのを止めてしまう。 そして、高校の仲間とバンドを始め、ドラムをプレイし始める。ほぼ同時にベースを始め、そして浪人生の時にはギターを始めた。 ロック、ポップ、フォークにはまり、TIUに入ってから最初に在籍したのは軽音のサークルだった。そのサークルから紹介されたバイト先のCD屋さんで、わけもわからずマイルス・デイビス (ジャズの帝王と言われたトランペッター)のCDを買い、その中の1曲を気に入り、耳で聞いて同じように吹けるように練習し、誘われるままに行ったジャズの生演奏をやっていたお店で言われるがままに飛び入りして練習したことを吹き、実はそれはマイルスがアドリブ(即興)で演奏したものだと初めて知り、それ以来ジャズに取りつかれて今に至る。 実は、小学生の時に僕の地元にやってきたマイルス・デイビスのコンサートに連れて行ってもらったことが大きく影響していると思う。最初で最後だったが、大のマイルスのファンの父親が「こんな機会は二度とあるかわからない!」と家族を連れて行ってくれた。その時に感じた会場の熱気を今でも覚えている。 ・TIUA さて、留学に話を戻したいと思う。 そんなわけで、留学が決まったときには僕はすっかりジャズに取りつかれていて、個人データに”音楽” “ジャズ” と書きまくり、TIUAに着いた日に出会ったのがジャズピアノをバリバリ弾く僕のルームメイト、Julian Snow だった。 ジャズにハマってすぐに購入し、もちろん一緒にアメリカに持っていったトランペットのケースを見つけた彼は、時差ぼけでフラフラの僕を練習室に連れて行った。そして2人でしばし演奏し、次の週にはベーシストを加えて練習し、さらにサックス・プレイヤーが加わり、僕らはウィラメット大学のキャンパスにある Bistro というカフェで毎週木曜日にライヴをするようになる。 あの時はジャズを始めたばかりで決して上手くない、むしろド下手なトランペッターで吹ける曲もわずかしかなかったのに、よくも僕をバンドに入れたものだと思う。今もってしても謎だ。 でも英語を勉強しに行ったのに、音楽も同時にやることができるなんて夢のようだった。 週末にはキャンパス内の屋外でギターを弾いて歌い、そのうち一緒に歌う仲間もできた。 ウィラメット大学にあるロザンヌという男女共同寮に住み、朝食はパンケーキとミルク、午後授業が終わるとウィラメットのキャンパスの芝生で宿題、夕食を終えたら仲間とバスケットボールを楽しみ、シャワーを浴びてトランペットと譜面を持って音楽練習室に向かい夜遅くまで練習した。Julian のバンドに付いて行くのは大変だった。片っ端から曲を知り、演奏(アドリブ)できるようにならなければならなかった。でもその大変な作業が楽しくて仕方なかった。 Bistro でのライヴはとにかく毎回が刺激そのものだった。 Julian 始めメンバーは皆達者なので置いてきぼりになることもしばしばだったけど、必死について行った。 ライヴ中はいろんな人が行き来していた。それを見ているのも楽しかった。そこで出会った友達と今でも交流は続いている。 時々開催されたフィールドトリップでオレゴンの他の土地に行けるのもとても刺激だった。見るもの全てが新しいって素晴らしいと思った。オレゴンの大自然はとにかく広い。オレゴン・コーストや Mt.Hood で経験したスノーボード、馬に乗ったのも覚えている。そして都市に行くとCDショップに行けるのが本当に嬉しかった。聞きたいジャズの名曲はまだ山ほどあった。それは今でもそう。 夏休みについても書かなければ! 7月の下旬からほぼ一ヶ月をかけてアメリカを見て回った。 飛行機ではなく、アムトラックという汽車でアメリカ大陸の大きさを肌で感じながらの旅。 セーラムを出発して、 まずはサンフランシスコまで汽車の中で1泊、 2泊ほどして サンフランシスコからロスは朝から晩までまる1日を汽車の中で、 ロスで3泊ほどして ロスからニューオリンズまでは汽車の中で2泊! ニューオリンズで3泊くらいして、 ニューオリンズからニューヨークまでは汽車で1泊、 ニューヨークで3泊ほどして ニューヨークからシカゴまでは汽車で1泊、 シカゴで2泊ほどして シカゴからシアトルまでは汽車で2泊、 シアトルで2泊ほどして シアトルからセーラムに。 行程はざっとかんな感じ。 1ヶ月以内ならば何度も途中下車できる切符を購入し、寝台車ではなく普通のコーチシートで全行程を移動した。日本人にとっては広くて、リクライニングさせると寝心地のいいソファになった。若さゆえに可能だった。 砂漠のど真ん中を走ってる時に、ここでエンジンが故障したらどうなるんだろうと思ったり、夜中に目が覚めて外を見ると、たまに田舎の街灯が流れていく真っ暗が続く景色だったり、汽車でしか味わえない経験をたくさんした。 当時はポータブルのカセットテープ・プレイヤーが音を出してくれる一番小さい機械、旅の間に何度テープをひっくり返したことか。 初めて訪れたジャズの街ニューオリンズ、そしてニューヨークではジャズのレジェンドの生の演奏に触れることができた。 ニューヨークで演奏を聞いた、とても印象に残るトランペッターがいた。その彼と、およそ7年後の自分がメジャー・デビューしたころに出会うとは夢にも思わなかった。そのニューヨークでのライヴの話をしたら、なんと彼はその時のことを覚えていた。2度目に会った時だったかな、お互いの誕生日が同じ日だということがわかり、以来彼が数年前に突然逝ってしまうまで、ずっと仲のいい友達になった。最後にやり取りしたメッセージは、お互いに「I love you」だった。 ちょっと話がずれてしまったけど、 TIUAに留学していた1993年という年は、今までの人生で一番充実していたと思う。それだけTIUAは僕に濃密な経験をさせてくれた。 そして、この時の体験、身につけた語学力は現在の僕のキャリアに大きく大きく関わっている。東京にやってくる海外からのミュージシャンと知り合い、その後も付き合いが続くのは語学力により相手を理解し友情を深めることができるということがとても大きいと強く感じる。 初めて日本に来るミュージシャン達を案内したり、日本のことを説明したりすることができるのは、同時に彼らの文化を理解することにも繋がり、その後の付き合いが深くなっていく。このお互いの理解、受け入れるという気持ちは、TIUAへの留学でいろんなものを見て知った経験があったから身についたのだと思う。 もちろんそれには、全てではなくとも相手をすぐに受け入れるオープンなマインドを持つということがとても重要だと思う。僕の場合は根っからの好奇心旺盛な性格も手伝って自然と身についたところもあるが、TIUの自由な校風から始まり、TIUAで経験した全てのことは僕をさらにオープンマインドの持ち主にしてくれたことは言うまでもない。 世界には様々な人種が存在する。そして、今現在は良くも悪くも日々多様な出来事があり、目まぐるしいくらいに時代が回っている。世界の動きを見ると、ポジティブなこともあるけど本当に苦しくなるような理解できないほどのネガティブなことも起こっている。人類がこれからどう生きていくのか、そして何より自分がどう生きていけばいいのか、常に敏感に物事を察知し、様々な情報を整理していかなければならない。 そんな時代でも、僕は全ての人間は同じく人間であり、単純に生まれや育ちが違うだけで肌の色で差別したりする心は一切持っていなくて、むしろ違うことに興味を抱く人間であれることに幸せを感じる。そしてそう思えるのは、TIUAでの生活を通じてアメリカでいろいろな人間と出会ったことが大きく影響していると思う。人種は違えど、愛を捧ぐ心は皆持っているということを強く学んだ。 ・近況 今、僕はパリにも拠点を置き、ヨーロッパで自分のキャリアを広げようとチャレンジしている。2017年からパリに住む友人のプロジェクトに参加することで毎年2度パリに来てはそこを拠点にヨーロッパをツアーするようになり、その友人の勧めもあり彼のレーベルからヨーロッパ向けの自分のアルバムが2020年の1月に日本より先にフランスでリリースされ、2月にリリース・ツアーを行ったところで新型コロナウイルスによるパンデミックで、3年半もの間ヨーロッパに来ることが出来なくなった。 ようやく落ち着いたところで来られなかった月日を取り戻したい、チャレンジしたいという気持ちが、僕を言葉もわからない新たな土地・パリに住まわせることになった。逆にパンデミックがなければこういう気持ちにならなかったのかもしれない。 まだまだ種蒔きの段階だけど、数年のうちに何かに到達したいと思っている。それはヨーロッパ内のあらゆるところからオファーを受け始めることだと思っている。 ・1人の人間として Life is one time. 人生は一度きり。 50年という年月を生きてより強くそれを感じる。なぜ自分はこの世に生を享けたのか、生きているうちに何ができるか、この貴重な時間を有意義に過ごすことを考えながら生きていきたい。 そして、これから大学生活を送る若人達に、自身が心から生きる喜びを感じられるものを見つけてほしいと心から願う。 そして真実を見つめ、家族を大切にし、心通う友に感謝し、世界の平和を願いながら実りある、意味ある人生を楽しみ、送ってほしいと切に希望します。 TOKU (TOKU/馬場督之のプロフィール) 新潟県三条市出身 新潟明訓高校卒業 1996年3月 東京国際大学 商学部経営情報学科卒業 TIUA留学 臼井ゼミ タイニーラヴ(軽音楽) 日本唯一のヴォーカリスト&フリューゲルホーンプレーヤー 父親の影響でノンジャンルで音楽に親しみ、中学時代にブラスバンドで初めての楽器コルネットを手にする。 2000年1月アルバム“Everything She Said”でソニー・ミュージックよりデビュー。 デビュー当初から注目を集め、その年の8月には早くもブルーノート東京に出演。 アルバムはアジア各国でもリリースされ、積極的に海外での公演も行っている。 昨今、ジャズの枠を超えた幅広い音楽性から、m-flo、平井堅、Skoop On Somebody、 今井美樹、大黒摩季、などのアルバムにプレイヤーとして参加。 2008年に発売したアルバム「Love Again」は初のDuet SongをExileのATSUSHI氏を迎えて収録。 2011年3月の東日本大震災の直後に行われた、シンディー・ローパーの国内ツアーにも 参加し、話題となる。 2011年4月27日、本人がずっと温めていた企画「TOKU sings & plays STEVIE WONDER- JAZZ TRIBUTE FROM ATLANTA」を発売。 2015年5月、フランクシナトラの生誕100周年を記念して全曲シナトラのカバーアルバムを発売。そのレベルの高さに各所で大絶賛を浴びている。 2017年6月、ジャンルを超えTOKUが今まで出会った様々なミュージシャン達とコラボレートしたアルバム「SHAKE」をリリース。 2019年2月、今まで書いていたオリジナル曲からTOKU自身が厳選し、未発表曲、未発表テイクも含めたオリジナル曲のみによるコンピレーション「Original Songbook」をリリース。 2020年4月、フランスを代表するミュージシャン達とレーコーディングした初のヨーロッパ録音「TOKU In Paris」をリリース。フランスで先行発売され、ヨーロッパでのアルバムリリース・ツアーは各地でソールドアウト、好評を得る。 (TOKU Inc.®︎) TOKU Inc. オフィシャルサイト https://www.tokujazz.com TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
昨日の夢を今日の理想とし、明日の現実とする。
長谷川毅さん(1983年卒業 商学部 藤原ゼミ ゴルフ部)2024年7月1日1983年国際商科大学(現東京国際大学)商学部卒業 藤原ゼミ ゴルフ部に所属しておりました。長谷川 毅(はせがわつよし)と申します。学生時代は両親の恩恵を受け何の不自由もなく育てて頂きましたが、卒業後には思いがけない試練が待っていました。その試練は今でも思い出したくないとても辛い思い出です。 でもその試練を乗り越えたおかげで自分自身も強くなり、人を見る目も出来ました。 現在63歳となりましたが、今では家族と孫達に恵まれ幸せに暮らしています。感謝感謝です! 東京都駒込の順天堂大学病院にて昭和35年7月29日生まれました。幼稚園から鎌倉市に家族で移住し、小学校6年生から茅ヶ崎市に移住。地元は神奈川県の鎌倉・茅ヶ崎・辻堂・藤沢といった湘南地区になります。建設会社を経営する父と医者の娘で元宝塚であった母との間に生まれて両親の恩恵を受け、幼少期時代は本当に大事に育てて貰いました。 ところが父の会社が大きくなるにつれ、両親が少しずつ不仲になり始めます。家族が東京に移る事となり、私だけが高校1年生(15歳)より鎌倉にて一人暮らしを始める事となるわけです。父親からは高校3年間で色々な経験(遊びや女性や良い事も悪い事も)をしろと言われ、そんな事を言われた15歳の少年が一人で暮らし始めれば良いも悪いも結果はお分かりの通り、どうしようもない生活が始まるわけです。 高校1年・2年その2年間はほとんど学校に行かなくなり、私の部屋は当時居場所のない先輩や後輩、同期男女の集まり場所となっていくわけです。どうしようもない乱れ切った生活の中では、本当に言葉に出来ないとんでもない経験がたくさんありました。自由が故に何でも出来てしまう止まらない暴走の中では、楽しい事や辛い事寂しい事色々な経験をさせて頂きました。 趣味はゴルフ(大好きです)・ピアノ・ギター・作詞作曲(最近は時間の余裕がなく全く楽器から離れています)。17歳の時に作った「「別離」もう」という曲はなかなかの自信作です。YouTubeでは長谷川毅「かあさんへ」とか、長谷川毅「眠れぬ思い とか、長谷川毅「純~愛する者たちへ」を探索して頂くと私の下手な歌がYouTubeから聞こえてきます。15歳から19歳当時は30曲以上の持ち歌が有り、17歳の時のライブでは藤沢市のヤマハホールを立見席が出るほど満杯にした事もありました。 もう一つは、今の不動産と言う仕事です。(不動産に関すること全般・・土地を見たり住宅を見たり、又街を見る事が大好きです) (私が18歳 初めてのショット)体が先に行ってますね(^^;)(チャリティーゴルフコンペで石川遼選手と) (はなわチャンネルにご一緒しました) (孫達も一緒に出演させて頂きました)(彼が経営する稽古場のお弁当を弊社で一緒に!) (宮里優作プロと家内)(アントニオ古賀先生にはいつもお世話になっています。びっくりしたのは東京国際大学で客員教授をされていました) 1回目の転機 大学に入れる機会をくれた恩人 荒れ果てた私を救ってくれた方 大手会社の社長になられた方でした。その方がとにかくうちに来なさいと当時目に涙を浮かべながら私に言ってくれた言葉があります。「我慢」と言う言葉です。 ヤンチャだった高校2年生の私に1年間、学生なんだから必死で勉強しなさい。君にとっても将来それは絶対に無駄にはならないからと言葉をかけてくれた方がいます。そして、その方と一つの約束をするのです!今考えると大した内容ではないのですが、他人の大人の方に真剣な目で自分の事に関して言われたのが初めてでしたので、何か私もグッと来てしまいました。その約束とは「喧嘩をするな!我慢しろ! 約束通り膝下までの学ランそして58cmの太いズボン(ドカン)をやめ、普通の学ランで通学した何日目かの高校2年の7月、運が悪いのか良かったのかいつも対抗していた学生達と大船駅で遭遇し、15人に囲まれてぐしゃぐしゃにされました。 「我慢・我慢・我慢を三回」仕返しをしようとする仲間達にももういいからとその方との恩義を17歳の少年は感じ、男同士の約束を守ったわけです。直ぐにその方のご自宅に居候させて頂く事になり、家庭教師の先生も付けて頂きました。540人中500番位だった成績も今でも忘れませんが何と100位以内の98番になり何と4つの大学に合格することになります。以後その方とは私が結婚をするまで年に2度ほどお会いさせて頂き、そのご恩は自分なりにちゃんとお返しさせて頂きました。 私が入学する事になったその大学こそ「国際商科大学(現在)東京国際大学」になるのです。埼玉県の川越市という場所が私にとっては第2の故郷として懐かしい場所になりました。そこでも昔お世話になった先輩と偶然にお会いしてその先輩のお誘いで私はなんとゴルフ部に入部してしまいます。体育会のコンパでは、ここでは書けない他クラブとの騒動があり大変なことになってしまいましたが、その時自分自身が初めて連帯責任というものを感じ真に勉強になりました。 1981年米国ウィラメット大学に短期留学(オレゴン州セーラム)は、44年前の初めて見るアメリカの文化に圧倒されました。特にあのディズニーランドのパレードには、本当にびっくりしたのを覚えています・・ その2か月間はとても良い経験になりました。 (大学のキャンパスでなぜか白いスーツの18歳・・素晴らしい環境でした!) (日本からの留学生達と記念写真) (最初のホストファミリーがお出迎え)(2件目のホストファミリー、奥様は大学教授) 入学当時下宿先を探していると、父がゴルフの帰りに川越でマンションを買って来たぞ~・・そんな父でした。そんなわけで4年後売却するからそれまでここに住めと新築のマンションに学生の身分で過ごし始めます。70㎡近くの学生には贅沢すぎるマンションでした。そんな学生生活を始めて束の間、父親がおまえは女難の層があるから新宿でクラブをやってみないかと私の学生生活の事など全く考えないで、今度は目黒にマンションを買ったからそこに住んで通えば良いと勝手過ぎる話です。もちろん部活は行かなくなるわけです(^-^; 新宿のクラブは当時私の知っている有名店では不夜城、Lee等で、華やか極まりない時代でした。弊店にも多くの財界人、高級官僚、政治家、芸能人、角界のトップの方達が集まる場所でありました。 その景色を19歳から21歳まで2年半の間見る事になるわけです。当時マクドナルドの時給がまだ460円の時代に女性のアルバイト料を1500円~2000円で募集をかけましたら百人以上の問い合わせが有り、その面接を19歳の少年がやるわけですから本当に無茶苦茶でした。23人その中から採用し夜の世界を何も知らない19歳の少年が水商売に入っていきます。15卓のお店は1テーブルで4万円から5万円程度で当時毎日満席状態!一日最低でも約70万円、良いボトルが入れば100万円程度の売り上げがありました。月に約2000万円位の売り上げで経費が80%位として当時のお金で毎月300万円から400万円のお金が19歳の少年に入ってくる様になると、またまた高校生時代のあの荒んだ生活の様にだんだんおかしくなっていきます。大学に行かなくなってしまいます(^^;) 当時では珍しいリースの仕事もし始めました。女性陣の中ではお子様がいる方もいらっしゃったので夜ではなく昼間の仕事として綺麗なお姉様3人にチームを組ませ、ブランド品のスーツを着させ、士業の先生をターゲットに絵のリース業を始めます。「先生~この絵2か月無料で飾らせて頂いていいでしょ♡気に入られたら3か月目からリースをお願い~♡」と絵を置いてくれれば100%契約になったのも同然です。2か月後に伺い絵を外せば・・そうです、当時は皆様タバコを吸っていたので後がクロスに残ってしまうんです。 当時50万円位の絵を最初20枚を20万円で購入し、それを月1万5千円から2万円でリースをかけて行くと約1年でその絵は無料になります。彼女たちは頑張り、1年間で色々な絵を100か所以上の士業の先生方の事務所に飾る事になります。年3回は違う絵と交換をしに行き、それが営業のフォローになる訳です。12か月目からは100枚としても毎月150万円~200万円のお金が入る仕組みです。 本当に20歳の少年が普通ならば絶対に行けないお店をそのお金を持って色々伺わせて頂きました。銀座では徳大寺、アナトリア、クラブ純等又赤坂ではあの山本社長がやられていたニューラテンクォーター(ここは父のお迎えに来た程度ですが)、このお店は15周年記念の時にはトムジョーンズを何と2時間のステージで10億ドル日本円にして3400万円(一夜のギャランティでは過去最高とギネスブックにも出ています)。そして20周年にはダイアナ・ロス、25周年にはサミー・ディヴィスJr・・昭和一番のナイトクラブでした。 そしてもう一つはあの六本木の帝王と呼ばれている杉良治社長がやられていたナイトクラブのペペロモコ・・、当時はリキビルにありとんでもない位流行っていました。たしか日本で最初のキャバクラも作った方です。ポップコーンという名前のお店だったと思います。こういった洒落た場所にお客様や同業者に連れられ毎日毎晩・・、今となっては墓場まで持って行くお話はたくさんある様な気がします。 あとスーパーマーケットをやりましたが、その事業は全く儲かりませんでした。ただPOSSシステムを初めて当時導入して社員教育マニュアルも作成した事が、後々考えれば良い経験になりました。 (私が前の会社を解散し桜新町で小さい事務所を開いた時にニューラテンクォーターの山本社長が事務所に寄って頂き感動でした) 第2の転機 就職活動 そんな学生時代はあっという間に過ぎ、その事業全てを叔父夫婦に譲る事になり、本来の学生としての私の就職活動が始まります。女性をたくさん使ってきた私は男性に無い女性の気配り又コマメなところ、人に対しての対応力の素晴らしさを営業の世界で生かしたら接客業で生かしたら凄いなあと思い、商学部であった私は本来ならば商学概論、又は経済学概論をテーマとした卒業論文でなければいけないのですが、女性論(商売に繋がると考えました)という論文を提出しました。もちろん当時のゼミの教授は最初目を丸くしていました。 42年前に女性を管理職に又女性であっても社長にした方が良いと考えていた学生は私一人だったと思います。その卒業論文を見てくれた学生課の先生が就職活動の際応援してくれまして、知名度の低い大学としては珍しく、さとう製薬・フランスベット・アマダ、富士ゼロックス等の企業に内定を早々頂きました。私の父がトヨタ出身という事もあり、営業を学ぶために横浜トヨペットに入社することになりました。 今考えれば勿体ない企業ばかりをお断りして横浜トヨペットに入社するわけですが、そこでは社会人として又営業と言う根本的な事を教えられました。毎日100件訪問を繰り返しネクタイの先迄汗が染みるほど、とにかく頑張りました。その結果、その年の11月の展示会には私の御客様だけでその展示場が一杯になり、月に26台の販売登録をかける事が出来新人賞も頂きました。給料はと言うと固定給が16万円程度で、たくさん販売できたとしても25万円前後、確かあの当時1台車を売ると7000円位貰えたと思います。今考えるとトヨタの看板が有り楽に仕事が出来ました。 順調にトヨタマンで過ごしているとここで、又父の登場です。建設業の後を継げ・・・結婚を間近にしていた私はどうしようかと真剣に考えましたが、兄弟がいない私にとってはこれが宿命なのかなあと嫌々跡を継ぐ事になります。私の結婚式もそんなわけで跡継紹介兼結婚式みたいな感じの式になりました。当時としては200人近いとても立派な式を挙げて頂きました。しかし、そんな喜びもつかの間父の会社が倒産するのです。 結婚したばかりの私は職も失い、トヨタにいた時に父の会社の連帯保証人にもなっていて、その返済等では本当に大変な思いと経験をしました。一瞬で何もかも無くなり25歳の私にとっては悪夢のような出来事でした。 当時私の家内のお腹には今の長男がいて、とにかく直ぐに家内とこれから生れて来る子供たちの為に仕事を探さないと思っていた時期に面白い出会いがまたあるのです。その当時、競売にかかった横浜の自宅を見に来た不動産屋のおじさんとおばさんに(自由が丘の不動産屋さんの社長達)に、あなた不動産に向いているから不動産業者さんを紹介してあげるから一度東京に出て来なさいと言われ、当時の不動産業はダーティーなイメージがあり社会的認知も低い職種でしたが、藁をも掴む気持ちだった私は抱えている事情を全部話した上で世田谷区桜新町の不動産業者さんに勤務することになる訳です。これが私と不動産業との出会いでした。 私がこの不動産業を天職と思い今に至るまで、そしてこれからも続けていきたい仕事と会えた事は、実はそのお二人のお蔭なんです。最初は何千万円のものが本当に売れるのだろうかと言う不安ありました。反響営業ですので飛び込み営業をしてお客様を発掘する車の営業と比べれば、最初からお客様が購買意欲を持って話して頂ける本当にありがたい状態からスタートできる仕事でした。 ミルク代ミルク代と頑張った甲斐が有り、初年度から4年半で仲介手数料収入16億円を稼がせて頂き、全店のトップセールスで頑張り8年間務め3店舗の責任者を得たうえで独立する事になります。その時の給料歩合は売上手数料の10%ですからかなり当時としては良い収入でした。会社にとっても私は本当に良い社員だったと思います。 第3の転機 生き方が変わる そして独立のきっかけ 不動産会社に入り長男も無事誕生あとは自分が頑張ればこれからの見通しが見えて来たぞと一年経ち収入も安定してきた頃に、何と万1歳の長男が網膜細胞芽種という5万人に一人の目の裏にがん細胞が出来る小児癌になってしまいます。真面目に父は倒産するし家は無くなってしまう、せっかく授かった長男(私達夫婦の宝)までもと流石の私もペシャンコになりました。 お客様のご家庭は皆幸せで家を探しに来る中、私の長男は生きるか死ぬかで国立がんセンターの小児病棟にいるこのギャップを埋める為、車の中でバックミラーに自分の顔を写し、何度も何度も笑顔の練習をしました。 お客様を案内しているとお前の部屋はあそこだよ・・君の部屋はここにしよう等、本当に幸せそうな家族を見ながらのお客様のご案内は26~27歳の男には辛い修行でしたし、あの頃良く頑張ってたなあと当時の自分を褒めてあげたいと思います。 国立がんセンターの小児病棟は、今この時間でも小さな命が失われ涙にあふれている場所です。私自身もその場所に初めて行った時には、毎日毎日涙が止まりませんでした。他のお子様が私に対し「おじちゃん明日退院なんだ」と言って喜んでいたお子さんが、次の日に行くとシーツになっているんです。私の家内はショックで3か月の間まるっきり声が出なくなってしまいました。 若い夫婦にとって人に言えない又言っても分かって貰えないどん底の気持の中、毎日如何したら良いのかこれからどうなってしまうのか毎日が不安の連続でした。とにかく必ず助かるという希望を持ち続け、最後の神頼みではないですが必死に手を合わせました。私はと言うと昔の「手当て」を信じて7年間どんなに遅く帰っても息子の寝ている前に行き、その目に「絶対再発するな!」と1時間彼の目に手を当て必死に祈り続けました。(自分の気功で絶対にがん細胞を消してやると信じ込んでやっていました) 今考えると兄弟がいない私たち夫婦は、会社の先輩や色々な方から精神的に助けられました。そのおかげで長男は片目の視力は失いましたが、現在38歳になり鍼灸接骨院を開業させて頂き、車の免許も取得する事も出来ました。片方だけの目でも見えるだけお前は幸せなんだと言い聞かせ育てて来ました。随分親としてはひどい言動と行動をとった事もあります。そんな中で育った彼は本当に素晴らしい優しい青年に成長してくれ、私も家内も本当に心から嬉しいと思っています。 お世話になった病院には、毎年2回チャリティーコンペを開かせて頂いた募金の中から(当時150人以上のコンペ参加者でした)ダンボール何箱かのクリスマスプレゼントの購入費に当てさせて頂き、そのプレゼントを10年以上続けていました。小児病棟にはお正月も家に帰れないお子さんがいて、特に無菌室のお子さんは何も出来ないので流行りのビデオを見る位しか出来ません。 それからしばらく経って、公的な病院はおもちゃ等外部からの物は受け取ってくれなくなり、それからはそのチャリティー募金を世田谷区を通して区長室でチャリティーを行い、色んな施設に寄付させて頂いていました。 息子が6歳になり小学校入学の時に何でも買ってやるから何がいいんだと言ったところ、「パパもう一つのめめが見えるようになりたい」と言われ、私はその時男泣きをしました。こんな小さな子供がこんな思いをしているんであれば、自分で独立をして人の為に自分自身何か出来る社長になりたい。そこで独立を決意し、今から28年前の32歳の3月お世話になった会社を辞める事となります。 (当時のコンペ組合せ表、150名以上の参加者でした) 独立と倒産 今から35年前に駒澤大学の駅の上で120坪以上の店舗を借り、不動産業を始めます。城南地区に商圏を限定し最初は不動産仲介業、しばらくして渋谷店に賃貸事業部を、そして千駄ヶ谷に広告代理店、それからはビルオーナー業や建売事業をと、最終的には社員も60人近くになり取扱高120億位迄の法人を作り上げ、データーバンクでも不動産業者としては珍しい程の評価を頂きました。売り上げも大きくなる分銀行の借り入れもどんどん増えていき、気付くと35億位迄の金額になっていました。そんな時に10現場以上(50棟近かったと思います)任せていた工務店の倒産があり、とんでもない事態になりました。 城南地区の高額帯のお客様をターゲットとし営業をしていた弊社のお客様は新規でのお客様は殆ど無く、ご自身のご自宅を売却してその売却代金を購入物件に充当してプラスローンを組まれるいわゆる買替層の方々が多く、そのお客様自身の売却したご自宅の引き渡しも合わせてのセット営業でしたので、その工務店の倒産により工事の延期そしてその完成迄の間の住まいの提供、そして次の工務店の選出(住宅性能保証等の関係上50%出来ている建物を全て壊さないと次の工務店は請け負ってくれません)。お客様一人一人に対して毎朝毎晩そのフォロー業務を行いました。 大変だったのは私自身が工事費用を殆どその工務店に支払ってしまっていた事も有り、会社所有の持っていたビル他不動産(当時早期売却金額で約21億位になりました)を全部売却し、そのお金をその建物資金に充て建物をしっかりと完成させ、お客様に引渡を終えたうえで前の会社の幕が下りる事になります。リスケは6行の支店長は皆OKしてくれ上手く行っていたように見えたのですが、メインバンクのしかも本部から来たばかりの若い支店長が私は甘くありませんよの一言でした。 びっくりしましたのは未完成である物件を完成させる為に持っていた不動産を全て売却し、そのお金を建築代金として新規工務店に支払おうとしていた時に、お客様の建物に充当しないで銀行に返してくれとその支店長言った言葉です。正直リスケが上手く行けば残金は問題なく返せたのですが・・・。正直まさか法人と同時に個人口座をと思いましたが、通帳はすべて清算済。まるで空から爆弾が降って来たようでした・・! それから私自身の口座は全部清算となり、22年前にまたまた0からのスタートとなる訳です。自殺するのではと周りから言われましたが、今迄の大変だった事を考えればその試練は簡単に乗り越えられました。私自身がそういう状態であったにもかかわらずお客様や業者さんは誠意を分かって頂き、今現在も仲良くお付き合いさせて頂いています。本当にあっという間でした。 上場の話があったと思えば簡単に無担保で3億のお金を銀行が貸してくれたり、又毎年100人以上の忘年会、 そして海外へ社員旅行本当に素晴らしい輝かしいキラキラしていた日々でした。 ゴルフコンペや忘年会でお付き合いのあった同業者又今まで仲良かったと信じてた友人の散る早さをその時 初めて目の前見て、本当に寂しい気持ちで一杯になりました。片手位の方しか残りませんでした(^-^;。良い時も悪い時も一緒にいられる友人・・そんなにはいないものですね。 新たな出発 桜新町に出店 そして今 新会社TOWN-NETを等々力から2014年春に世田谷区の桜新町駅前に、本店を移転させて頂きました。お祝いのお花も小さい店舗に入りきれない程のたくさん頂戴し、改めてふんどしを引き締め頑張らないとなあと思っております。人に好かれようと又100人に通用する営業をしてきた自分ですが、これからの人生は99人から嫌われても1人の人と仲良くなってこれからの人生生きてゆこうと思ったわけですが、最近弊社に若い社員が入って来ましてその社員の為にもこれからは愛想良くしないとなあと思ってきた今日この頃です。 新会社を立ち上げるとお付き合いのあった地主さんは、20億の土地を専属専任で任してくれました。(手数料3%でも6000万円になりましたので本当にありがたかったです)逆にジャマもたくさんされました。祖師谷の地主さんには競合していた業者に契約数日前に私が倒産した事を言われ、農協相手の地主さんは私を選んではくれませんでした。その事をゴルフ友達の神宮前のビルオーナーにお話をするとじゃあこれ売って良いよとビル売却の専任を頂いたり(この物件も11億でした)、捨てる神あれば拾う神もいると本当に思いました。 当時私が売却して来た何社かの工務店の社長は20棟位長谷川社長に任せるからと社員がいない私に専属専任をくれたり(5000万円台から8000万円台でも一棟業者付でも150万円から240万円)の手数料になり、その売上等で今のTOWN-NETの基盤を作り立ち上げました。現在も桜新町の駅前で毎日毎日バタバタと一生懸命頑張っております。60人いて6000万円以上の経費がかかっていた頃は確かに会社も大きく見た目には良かったですが、今の4人の小さな会社もなかなか居心地が良いものです。だからこの会社を大事にしていこうと思っています。自分の力でどうにでも出来ますし、若い社員も入ってきたので会社を繋げていきたいと最近本気で思います。 現在は年間35億から40億の物件の売却・購入の仲介をメインに、都心そして城南地域を商圏とし頑張っています!また一昨年には全国ネットで不動産バトルどっちの家を買いますかという番組に出演させて頂き、とても良い経験になりました。 (東急田園都市線「桜新町」駅前TOWN-NET) 昨日の夢を今日の理想とし、明日の現実とする 仕事ではいつか家を持ちたいなあ~「夢」を物件をご案内して資金計算等をして私でも購入できるけど「理想」としてご契約頂きその物件をマイホームとして住んで頂くいわゆる明日の「現実」となるわけです。 同窓生の皆様、諸先輩の皆様、今後とも公私共に御指導頂きます様、何卒宜しくお願い致します。何か不動産に於いてご相談ごとがございましたら、いつでもお気軽にご連絡頂ければ幸いです。いつも楽しくいつも笑ってしあわせ しあわせ そしてツイテルツイテルの精神で頑張っています! 私に「宝の言葉」をかけて頂いたお二人をご紹介致します。お一人は元内閣総理大臣田中角栄先生の秘書軍団を率いていた「角栄のお庭番」朝賀昭先生です。 25歳の私が父の倒産により一文無しになり不動産業界に入社したその日桜新町にある八丁軒という小さなラーメン屋に入っていた時の話です。ラーメン屋さんの店主に私が「親父の会社が倒産してしまい今から死に物狂いで働いて稼がなくてならなくその為この近くの不動産会社に勤めることになったので宜しくお願いします。 という話をしてお金を払おうとするとここにいた親父さんが払っていったよと言われお店を出て 「すみません。見ず知らずの私にありがとうございました」とお礼とご挨拶をすると「今の話聞いてたぞ。君はいい目をしているから頑張れば大丈夫だ!」と仰っていただき全く知らない土地で今からどうしようと思っている私にとってこの言葉は「宝の言葉」になりました。「私が会社を設立した際には顧問になってください!」と訳のわからないお願いをしたのを今では本当に朝賀先生は弊社の顧問をして頂いています。感謝感謝です。 もう一人のかたは私が姉のように慕わせて頂いていますデヴィ夫人です。 21年前何十億というお金を騙され私があの芸人のはなわ君と六本木のバーで飲んでいた時の話です。バーのオーナーが長谷川さん会社駄目にしちゃったみたいだと夫人にお話ししたようで暫くすると席にドンペリを夫人からと出して頂きました。席までありがとうございますとお礼に行くと「あなたまだ若いでしょ。まだまだ頑張れば大丈夫ですよ」と仰って頂いたのです。私にとって二つ目の宝の言葉です。 私は昔からデヴィ夫人に憧れ直接お話ししたいなあという「夢」がありもしお目にかかれたら美味しい料理をご一緒したいなあという「理想」を持ち、今では月に数回ご一緒させて頂く「現実」となりました。夫人は厳しい方ですが、傍にいるとホッとする方です。そして夫人には色々教えて頂く事がたくさんあり、本当に勉強になります。人生の中でこの様な素敵な方とご一緒できる環境に、心から感謝しています。 スカルノ大統領夫人のデヴィ夫人にはいつも大変お世話になっています。2023年12月24日のクリスマスイブに可愛いチワワの赤ちゃんを孫の為にとお譲りして頂きました。そして夫人主催のハロウィンパーティーでのワンショットそしてインドネシアにご一緒させて戴いた時のホワイトパーティーの写真です。とても素敵で優しく大好きな方です! 私が営業時代は子供の運動会すらなかなか参加出来ず一、緒にいられる時間がありませんでした(^-^; 孫達とはなるべく一緒にと思っている中、このコロナ騒動で東京で働いている私はバイキンマン扱いで、なかなか娘宅に遊びに行っても抱っこすらさせて貰えません。(還暦を迎えた時がコロナのど真ん中でしたので) 人生まだまだ頑張って、この子達が結婚するまで元気でいたいものです。こんな風に思える自分自身の環境に心から感謝します。 (2023年8月)は家内の還暦祝いを息子と3人でさせて頂きました。) 何より大事なのは人生を楽しむ事!そしてその幸せは一人では決して味わえない!家族が皆健康で元気で笑顔一杯の暮らしがいつまでも続くことが私の心の願いです。しあわせしあわせ(^^♪ ついてるついてる(^^♪ (長谷川毅さんのプロフィール) 神奈川県出身県立茅ヶ崎高校卒業 1983年3月東京国際大学(旧国際商科大学)商学部卒業藤原ゼミ、ゴルフ部、ウイラメット大学に短期留学(1980年) 1983年4月卒業後、横浜トヨペットへ入社。その後、家業を継ぐが倒産。不動産会社に長年勤務後、独立。1993年4月会社設立(120億の売上を達成するが・・・) 2011年7月会社設立(昭和54年9月)2021年不動産業として開業 現在世田谷区桜新町1-13-10 三田ビル1F・2Fにて不動産業として頑張っています。 TOWN-NET会社ホームページ https://www.town-net.biz 城南の正直不動産(TOWN-NET) https://jonan-baikyaku.jp 公益社団法人全日本不動産協会東京都本部 本部相談委員 公益社団法人全日本不動産協会東京都世田谷支部 副支部長 厚生委員長 国際ロータリー第2750地区東京赤坂ロータリークラブ会員 2017~2018年度 親睦活動委員長 2018~2019年度 プログラム委員長 2023~2024年度 理事 2024~2025年度 幹事 平成30年度 東久邇宮記念賞受賞 東久邇宮文化褒章受章 鍼灸接骨院 (長男大輔が開業) Cure Natura 南林間店 〒242.0006 神奈川県大和市南林間1-4-5 TEL 046-244-3433 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
長谷川毅さん(1983年卒業 商学部 藤原ゼミ ゴルフ部)2024年7月1日1983年国際商科大学(現東京国際大学)商学部卒業 藤原ゼミ ゴルフ部に所属しておりました。長谷川 毅(はせがわつよし)と申します。学生時代は両親の恩恵を受け何の不自由もなく育てて頂きましたが、卒業後には思いがけない試練が待っていました。その試練は今でも思い出したくないとても辛い思い出です。 でもその試練を乗り越えたおかげで自分自身も強くなり、人を見る目も出来ました。 現在63歳となりましたが、今では家族と孫達に恵まれ幸せに暮らしています。感謝感謝です! 東京都駒込の順天堂大学病院にて昭和35年7月29日生まれました。幼稚園から鎌倉市に家族で移住し、小学校6年生から茅ヶ崎市に移住。地元は神奈川県の鎌倉・茅ヶ崎・辻堂・藤沢といった湘南地区になります。建設会社を経営する父と医者の娘で元宝塚であった母との間に生まれて両親の恩恵を受け、幼少期時代は本当に大事に育てて貰いました。 ところが父の会社が大きくなるにつれ、両親が少しずつ不仲になり始めます。家族が東京に移る事となり、私だけが高校1年生(15歳)より鎌倉にて一人暮らしを始める事となるわけです。父親からは高校3年間で色々な経験(遊びや女性や良い事も悪い事も)をしろと言われ、そんな事を言われた15歳の少年が一人で暮らし始めれば良いも悪いも結果はお分かりの通り、どうしようもない生活が始まるわけです。 高校1年・2年その2年間はほとんど学校に行かなくなり、私の部屋は当時居場所のない先輩や後輩、同期男女の集まり場所となっていくわけです。どうしようもない乱れ切った生活の中では、本当に言葉に出来ないとんでもない経験がたくさんありました。自由が故に何でも出来てしまう止まらない暴走の中では、楽しい事や辛い事寂しい事色々な経験をさせて頂きました。 趣味はゴルフ(大好きです)・ピアノ・ギター・作詞作曲(最近は時間の余裕がなく全く楽器から離れています)。17歳の時に作った「「別離」もう」という曲はなかなかの自信作です。YouTubeでは長谷川毅「かあさんへ」とか、長谷川毅「眠れぬ思い とか、長谷川毅「純~愛する者たちへ」を探索して頂くと私の下手な歌がYouTubeから聞こえてきます。15歳から19歳当時は30曲以上の持ち歌が有り、17歳の時のライブでは藤沢市のヤマハホールを立見席が出るほど満杯にした事もありました。 もう一つは、今の不動産と言う仕事です。(不動産に関すること全般・・土地を見たり住宅を見たり、又街を見る事が大好きです) (私が18歳 初めてのショット)体が先に行ってますね(^^;)(チャリティーゴルフコンペで石川遼選手と) (はなわチャンネルにご一緒しました) (孫達も一緒に出演させて頂きました)(彼が経営する稽古場のお弁当を弊社で一緒に!) (宮里優作プロと家内)(アントニオ古賀先生にはいつもお世話になっています。びっくりしたのは東京国際大学で客員教授をされていました) 1回目の転機 大学に入れる機会をくれた恩人 荒れ果てた私を救ってくれた方 大手会社の社長になられた方でした。その方がとにかくうちに来なさいと当時目に涙を浮かべながら私に言ってくれた言葉があります。「我慢」と言う言葉です。 ヤンチャだった高校2年生の私に1年間、学生なんだから必死で勉強しなさい。君にとっても将来それは絶対に無駄にはならないからと言葉をかけてくれた方がいます。そして、その方と一つの約束をするのです!今考えると大した内容ではないのですが、他人の大人の方に真剣な目で自分の事に関して言われたのが初めてでしたので、何か私もグッと来てしまいました。その約束とは「喧嘩をするな!我慢しろ! 約束通り膝下までの学ランそして58cmの太いズボン(ドカン)をやめ、普通の学ランで通学した何日目かの高校2年の7月、運が悪いのか良かったのかいつも対抗していた学生達と大船駅で遭遇し、15人に囲まれてぐしゃぐしゃにされました。 「我慢・我慢・我慢を三回」仕返しをしようとする仲間達にももういいからとその方との恩義を17歳の少年は感じ、男同士の約束を守ったわけです。直ぐにその方のご自宅に居候させて頂く事になり、家庭教師の先生も付けて頂きました。540人中500番位だった成績も今でも忘れませんが何と100位以内の98番になり何と4つの大学に合格することになります。以後その方とは私が結婚をするまで年に2度ほどお会いさせて頂き、そのご恩は自分なりにちゃんとお返しさせて頂きました。 私が入学する事になったその大学こそ「国際商科大学(現在)東京国際大学」になるのです。埼玉県の川越市という場所が私にとっては第2の故郷として懐かしい場所になりました。そこでも昔お世話になった先輩と偶然にお会いしてその先輩のお誘いで私はなんとゴルフ部に入部してしまいます。体育会のコンパでは、ここでは書けない他クラブとの騒動があり大変なことになってしまいましたが、その時自分自身が初めて連帯責任というものを感じ真に勉強になりました。 1981年米国ウィラメット大学に短期留学(オレゴン州セーラム)は、44年前の初めて見るアメリカの文化に圧倒されました。特にあのディズニーランドのパレードには、本当にびっくりしたのを覚えています・・ その2か月間はとても良い経験になりました。 (大学のキャンパスでなぜか白いスーツの18歳・・素晴らしい環境でした!) (日本からの留学生達と記念写真) (最初のホストファミリーがお出迎え)(2件目のホストファミリー、奥様は大学教授) 入学当時下宿先を探していると、父がゴルフの帰りに川越でマンションを買って来たぞ~・・そんな父でした。そんなわけで4年後売却するからそれまでここに住めと新築のマンションに学生の身分で過ごし始めます。70㎡近くの学生には贅沢すぎるマンションでした。そんな学生生活を始めて束の間、父親がおまえは女難の層があるから新宿でクラブをやってみないかと私の学生生活の事など全く考えないで、今度は目黒にマンションを買ったからそこに住んで通えば良いと勝手過ぎる話です。もちろん部活は行かなくなるわけです(^-^; 新宿のクラブは当時私の知っている有名店では不夜城、Lee等で、華やか極まりない時代でした。弊店にも多くの財界人、高級官僚、政治家、芸能人、角界のトップの方達が集まる場所でありました。 その景色を19歳から21歳まで2年半の間見る事になるわけです。当時マクドナルドの時給がまだ460円の時代に女性のアルバイト料を1500円~2000円で募集をかけましたら百人以上の問い合わせが有り、その面接を19歳の少年がやるわけですから本当に無茶苦茶でした。23人その中から採用し夜の世界を何も知らない19歳の少年が水商売に入っていきます。15卓のお店は1テーブルで4万円から5万円程度で当時毎日満席状態!一日最低でも約70万円、良いボトルが入れば100万円程度の売り上げがありました。月に約2000万円位の売り上げで経費が80%位として当時のお金で毎月300万円から400万円のお金が19歳の少年に入ってくる様になると、またまた高校生時代のあの荒んだ生活の様にだんだんおかしくなっていきます。大学に行かなくなってしまいます(^^;) 当時では珍しいリースの仕事もし始めました。女性陣の中ではお子様がいる方もいらっしゃったので夜ではなく昼間の仕事として綺麗なお姉様3人にチームを組ませ、ブランド品のスーツを着させ、士業の先生をターゲットに絵のリース業を始めます。「先生~この絵2か月無料で飾らせて頂いていいでしょ♡気に入られたら3か月目からリースをお願い~♡」と絵を置いてくれれば100%契約になったのも同然です。2か月後に伺い絵を外せば・・そうです、当時は皆様タバコを吸っていたので後がクロスに残ってしまうんです。 当時50万円位の絵を最初20枚を20万円で購入し、それを月1万5千円から2万円でリースをかけて行くと約1年でその絵は無料になります。彼女たちは頑張り、1年間で色々な絵を100か所以上の士業の先生方の事務所に飾る事になります。年3回は違う絵と交換をしに行き、それが営業のフォローになる訳です。12か月目からは100枚としても毎月150万円~200万円のお金が入る仕組みです。 本当に20歳の少年が普通ならば絶対に行けないお店をそのお金を持って色々伺わせて頂きました。銀座では徳大寺、アナトリア、クラブ純等又赤坂ではあの山本社長がやられていたニューラテンクォーター(ここは父のお迎えに来た程度ですが)、このお店は15周年記念の時にはトムジョーンズを何と2時間のステージで10億ドル日本円にして3400万円(一夜のギャランティでは過去最高とギネスブックにも出ています)。そして20周年にはダイアナ・ロス、25周年にはサミー・ディヴィスJr・・昭和一番のナイトクラブでした。 そしてもう一つはあの六本木の帝王と呼ばれている杉良治社長がやられていたナイトクラブのペペロモコ・・、当時はリキビルにありとんでもない位流行っていました。たしか日本で最初のキャバクラも作った方です。ポップコーンという名前のお店だったと思います。こういった洒落た場所にお客様や同業者に連れられ毎日毎晩・・、今となっては墓場まで持って行くお話はたくさんある様な気がします。 あとスーパーマーケットをやりましたが、その事業は全く儲かりませんでした。ただPOSSシステムを初めて当時導入して社員教育マニュアルも作成した事が、後々考えれば良い経験になりました。 (私が前の会社を解散し桜新町で小さい事務所を開いた時にニューラテンクォーターの山本社長が事務所に寄って頂き感動でした) 第2の転機 就職活動 そんな学生時代はあっという間に過ぎ、その事業全てを叔父夫婦に譲る事になり、本来の学生としての私の就職活動が始まります。女性をたくさん使ってきた私は男性に無い女性の気配り又コマメなところ、人に対しての対応力の素晴らしさを営業の世界で生かしたら接客業で生かしたら凄いなあと思い、商学部であった私は本来ならば商学概論、又は経済学概論をテーマとした卒業論文でなければいけないのですが、女性論(商売に繋がると考えました)という論文を提出しました。もちろん当時のゼミの教授は最初目を丸くしていました。 42年前に女性を管理職に又女性であっても社長にした方が良いと考えていた学生は私一人だったと思います。その卒業論文を見てくれた学生課の先生が就職活動の際応援してくれまして、知名度の低い大学としては珍しく、さとう製薬・フランスベット・アマダ、富士ゼロックス等の企業に内定を早々頂きました。私の父がトヨタ出身という事もあり、営業を学ぶために横浜トヨペットに入社することになりました。 今考えれば勿体ない企業ばかりをお断りして横浜トヨペットに入社するわけですが、そこでは社会人として又営業と言う根本的な事を教えられました。毎日100件訪問を繰り返しネクタイの先迄汗が染みるほど、とにかく頑張りました。その結果、その年の11月の展示会には私の御客様だけでその展示場が一杯になり、月に26台の販売登録をかける事が出来新人賞も頂きました。給料はと言うと固定給が16万円程度で、たくさん販売できたとしても25万円前後、確かあの当時1台車を売ると7000円位貰えたと思います。今考えるとトヨタの看板が有り楽に仕事が出来ました。 順調にトヨタマンで過ごしているとここで、又父の登場です。建設業の後を継げ・・・結婚を間近にしていた私はどうしようかと真剣に考えましたが、兄弟がいない私にとってはこれが宿命なのかなあと嫌々跡を継ぐ事になります。私の結婚式もそんなわけで跡継紹介兼結婚式みたいな感じの式になりました。当時としては200人近いとても立派な式を挙げて頂きました。しかし、そんな喜びもつかの間父の会社が倒産するのです。 結婚したばかりの私は職も失い、トヨタにいた時に父の会社の連帯保証人にもなっていて、その返済等では本当に大変な思いと経験をしました。一瞬で何もかも無くなり25歳の私にとっては悪夢のような出来事でした。 当時私の家内のお腹には今の長男がいて、とにかく直ぐに家内とこれから生れて来る子供たちの為に仕事を探さないと思っていた時期に面白い出会いがまたあるのです。その当時、競売にかかった横浜の自宅を見に来た不動産屋のおじさんとおばさんに(自由が丘の不動産屋さんの社長達)に、あなた不動産に向いているから不動産業者さんを紹介してあげるから一度東京に出て来なさいと言われ、当時の不動産業はダーティーなイメージがあり社会的認知も低い職種でしたが、藁をも掴む気持ちだった私は抱えている事情を全部話した上で世田谷区桜新町の不動産業者さんに勤務することになる訳です。これが私と不動産業との出会いでした。 私がこの不動産業を天職と思い今に至るまで、そしてこれからも続けていきたい仕事と会えた事は、実はそのお二人のお蔭なんです。最初は何千万円のものが本当に売れるのだろうかと言う不安ありました。反響営業ですので飛び込み営業をしてお客様を発掘する車の営業と比べれば、最初からお客様が購買意欲を持って話して頂ける本当にありがたい状態からスタートできる仕事でした。 ミルク代ミルク代と頑張った甲斐が有り、初年度から4年半で仲介手数料収入16億円を稼がせて頂き、全店のトップセールスで頑張り8年間務め3店舗の責任者を得たうえで独立する事になります。その時の給料歩合は売上手数料の10%ですからかなり当時としては良い収入でした。会社にとっても私は本当に良い社員だったと思います。 第3の転機 生き方が変わる そして独立のきっかけ 不動産会社に入り長男も無事誕生あとは自分が頑張ればこれからの見通しが見えて来たぞと一年経ち収入も安定してきた頃に、何と万1歳の長男が網膜細胞芽種という5万人に一人の目の裏にがん細胞が出来る小児癌になってしまいます。真面目に父は倒産するし家は無くなってしまう、せっかく授かった長男(私達夫婦の宝)までもと流石の私もペシャンコになりました。 お客様のご家庭は皆幸せで家を探しに来る中、私の長男は生きるか死ぬかで国立がんセンターの小児病棟にいるこのギャップを埋める為、車の中でバックミラーに自分の顔を写し、何度も何度も笑顔の練習をしました。 お客様を案内しているとお前の部屋はあそこだよ・・君の部屋はここにしよう等、本当に幸せそうな家族を見ながらのお客様のご案内は26~27歳の男には辛い修行でしたし、あの頃良く頑張ってたなあと当時の自分を褒めてあげたいと思います。 国立がんセンターの小児病棟は、今この時間でも小さな命が失われ涙にあふれている場所です。私自身もその場所に初めて行った時には、毎日毎日涙が止まりませんでした。他のお子様が私に対し「おじちゃん明日退院なんだ」と言って喜んでいたお子さんが、次の日に行くとシーツになっているんです。私の家内はショックで3か月の間まるっきり声が出なくなってしまいました。 若い夫婦にとって人に言えない又言っても分かって貰えないどん底の気持の中、毎日如何したら良いのかこれからどうなってしまうのか毎日が不安の連続でした。とにかく必ず助かるという希望を持ち続け、最後の神頼みではないですが必死に手を合わせました。私はと言うと昔の「手当て」を信じて7年間どんなに遅く帰っても息子の寝ている前に行き、その目に「絶対再発するな!」と1時間彼の目に手を当て必死に祈り続けました。(自分の気功で絶対にがん細胞を消してやると信じ込んでやっていました) 今考えると兄弟がいない私たち夫婦は、会社の先輩や色々な方から精神的に助けられました。そのおかげで長男は片目の視力は失いましたが、現在38歳になり鍼灸接骨院を開業させて頂き、車の免許も取得する事も出来ました。片方だけの目でも見えるだけお前は幸せなんだと言い聞かせ育てて来ました。随分親としてはひどい言動と行動をとった事もあります。そんな中で育った彼は本当に素晴らしい優しい青年に成長してくれ、私も家内も本当に心から嬉しいと思っています。 お世話になった病院には、毎年2回チャリティーコンペを開かせて頂いた募金の中から(当時150人以上のコンペ参加者でした)ダンボール何箱かのクリスマスプレゼントの購入費に当てさせて頂き、そのプレゼントを10年以上続けていました。小児病棟にはお正月も家に帰れないお子さんがいて、特に無菌室のお子さんは何も出来ないので流行りのビデオを見る位しか出来ません。 それからしばらく経って、公的な病院はおもちゃ等外部からの物は受け取ってくれなくなり、それからはそのチャリティー募金を世田谷区を通して区長室でチャリティーを行い、色んな施設に寄付させて頂いていました。 息子が6歳になり小学校入学の時に何でも買ってやるから何がいいんだと言ったところ、「パパもう一つのめめが見えるようになりたい」と言われ、私はその時男泣きをしました。こんな小さな子供がこんな思いをしているんであれば、自分で独立をして人の為に自分自身何か出来る社長になりたい。そこで独立を決意し、今から28年前の32歳の3月お世話になった会社を辞める事となります。 (当時のコンペ組合せ表、150名以上の参加者でした) 独立と倒産 今から35年前に駒澤大学の駅の上で120坪以上の店舗を借り、不動産業を始めます。城南地区に商圏を限定し最初は不動産仲介業、しばらくして渋谷店に賃貸事業部を、そして千駄ヶ谷に広告代理店、それからはビルオーナー業や建売事業をと、最終的には社員も60人近くになり取扱高120億位迄の法人を作り上げ、データーバンクでも不動産業者としては珍しい程の評価を頂きました。売り上げも大きくなる分銀行の借り入れもどんどん増えていき、気付くと35億位迄の金額になっていました。そんな時に10現場以上(50棟近かったと思います)任せていた工務店の倒産があり、とんでもない事態になりました。 城南地区の高額帯のお客様をターゲットとし営業をしていた弊社のお客様は新規でのお客様は殆ど無く、ご自身のご自宅を売却してその売却代金を購入物件に充当してプラスローンを組まれるいわゆる買替層の方々が多く、そのお客様自身の売却したご自宅の引き渡しも合わせてのセット営業でしたので、その工務店の倒産により工事の延期そしてその完成迄の間の住まいの提供、そして次の工務店の選出(住宅性能保証等の関係上50%出来ている建物を全て壊さないと次の工務店は請け負ってくれません)。お客様一人一人に対して毎朝毎晩そのフォロー業務を行いました。 大変だったのは私自身が工事費用を殆どその工務店に支払ってしまっていた事も有り、会社所有の持っていたビル他不動産(当時早期売却金額で約21億位になりました)を全部売却し、そのお金をその建物資金に充て建物をしっかりと完成させ、お客様に引渡を終えたうえで前の会社の幕が下りる事になります。リスケは6行の支店長は皆OKしてくれ上手く行っていたように見えたのですが、メインバンクのしかも本部から来たばかりの若い支店長が私は甘くありませんよの一言でした。 びっくりしましたのは未完成である物件を完成させる為に持っていた不動産を全て売却し、そのお金を建築代金として新規工務店に支払おうとしていた時に、お客様の建物に充当しないで銀行に返してくれとその支店長言った言葉です。正直リスケが上手く行けば残金は問題なく返せたのですが・・・。正直まさか法人と同時に個人口座をと思いましたが、通帳はすべて清算済。まるで空から爆弾が降って来たようでした・・! それから私自身の口座は全部清算となり、22年前にまたまた0からのスタートとなる訳です。自殺するのではと周りから言われましたが、今迄の大変だった事を考えればその試練は簡単に乗り越えられました。私自身がそういう状態であったにもかかわらずお客様や業者さんは誠意を分かって頂き、今現在も仲良くお付き合いさせて頂いています。本当にあっという間でした。 上場の話があったと思えば簡単に無担保で3億のお金を銀行が貸してくれたり、又毎年100人以上の忘年会、 そして海外へ社員旅行本当に素晴らしい輝かしいキラキラしていた日々でした。 ゴルフコンペや忘年会でお付き合いのあった同業者又今まで仲良かったと信じてた友人の散る早さをその時 初めて目の前見て、本当に寂しい気持ちで一杯になりました。片手位の方しか残りませんでした(^-^;。良い時も悪い時も一緒にいられる友人・・そんなにはいないものですね。 新たな出発 桜新町に出店 そして今 新会社TOWN-NETを等々力から2014年春に世田谷区の桜新町駅前に、本店を移転させて頂きました。お祝いのお花も小さい店舗に入りきれない程のたくさん頂戴し、改めてふんどしを引き締め頑張らないとなあと思っております。人に好かれようと又100人に通用する営業をしてきた自分ですが、これからの人生は99人から嫌われても1人の人と仲良くなってこれからの人生生きてゆこうと思ったわけですが、最近弊社に若い社員が入って来ましてその社員の為にもこれからは愛想良くしないとなあと思ってきた今日この頃です。 新会社を立ち上げるとお付き合いのあった地主さんは、20億の土地を専属専任で任してくれました。(手数料3%でも6000万円になりましたので本当にありがたかったです)逆にジャマもたくさんされました。祖師谷の地主さんには競合していた業者に契約数日前に私が倒産した事を言われ、農協相手の地主さんは私を選んではくれませんでした。その事をゴルフ友達の神宮前のビルオーナーにお話をするとじゃあこれ売って良いよとビル売却の専任を頂いたり(この物件も11億でした)、捨てる神あれば拾う神もいると本当に思いました。 当時私が売却して来た何社かの工務店の社長は20棟位長谷川社長に任せるからと社員がいない私に専属専任をくれたり(5000万円台から8000万円台でも一棟業者付でも150万円から240万円)の手数料になり、その売上等で今のTOWN-NETの基盤を作り立ち上げました。現在も桜新町の駅前で毎日毎日バタバタと一生懸命頑張っております。60人いて6000万円以上の経費がかかっていた頃は確かに会社も大きく見た目には良かったですが、今の4人の小さな会社もなかなか居心地が良いものです。だからこの会社を大事にしていこうと思っています。自分の力でどうにでも出来ますし、若い社員も入ってきたので会社を繋げていきたいと最近本気で思います。 現在は年間35億から40億の物件の売却・購入の仲介をメインに、都心そして城南地域を商圏とし頑張っています!また一昨年には全国ネットで不動産バトルどっちの家を買いますかという番組に出演させて頂き、とても良い経験になりました。 (東急田園都市線「桜新町」駅前TOWN-NET) 昨日の夢を今日の理想とし、明日の現実とする 仕事ではいつか家を持ちたいなあ~「夢」を物件をご案内して資金計算等をして私でも購入できるけど「理想」としてご契約頂きその物件をマイホームとして住んで頂くいわゆる明日の「現実」となるわけです。 同窓生の皆様、諸先輩の皆様、今後とも公私共に御指導頂きます様、何卒宜しくお願い致します。何か不動産に於いてご相談ごとがございましたら、いつでもお気軽にご連絡頂ければ幸いです。いつも楽しくいつも笑ってしあわせ しあわせ そしてツイテルツイテルの精神で頑張っています! 私に「宝の言葉」をかけて頂いたお二人をご紹介致します。お一人は元内閣総理大臣田中角栄先生の秘書軍団を率いていた「角栄のお庭番」朝賀昭先生です。 25歳の私が父の倒産により一文無しになり不動産業界に入社したその日桜新町にある八丁軒という小さなラーメン屋に入っていた時の話です。ラーメン屋さんの店主に私が「親父の会社が倒産してしまい今から死に物狂いで働いて稼がなくてならなくその為この近くの不動産会社に勤めることになったので宜しくお願いします。 という話をしてお金を払おうとするとここにいた親父さんが払っていったよと言われお店を出て 「すみません。見ず知らずの私にありがとうございました」とお礼とご挨拶をすると「今の話聞いてたぞ。君はいい目をしているから頑張れば大丈夫だ!」と仰っていただき全く知らない土地で今からどうしようと思っている私にとってこの言葉は「宝の言葉」になりました。「私が会社を設立した際には顧問になってください!」と訳のわからないお願いをしたのを今では本当に朝賀先生は弊社の顧問をして頂いています。感謝感謝です。 もう一人のかたは私が姉のように慕わせて頂いていますデヴィ夫人です。 21年前何十億というお金を騙され私があの芸人のはなわ君と六本木のバーで飲んでいた時の話です。バーのオーナーが長谷川さん会社駄目にしちゃったみたいだと夫人にお話ししたようで暫くすると席にドンペリを夫人からと出して頂きました。席までありがとうございますとお礼に行くと「あなたまだ若いでしょ。まだまだ頑張れば大丈夫ですよ」と仰って頂いたのです。私にとって二つ目の宝の言葉です。 私は昔からデヴィ夫人に憧れ直接お話ししたいなあという「夢」がありもしお目にかかれたら美味しい料理をご一緒したいなあという「理想」を持ち、今では月に数回ご一緒させて頂く「現実」となりました。夫人は厳しい方ですが、傍にいるとホッとする方です。そして夫人には色々教えて頂く事がたくさんあり、本当に勉強になります。人生の中でこの様な素敵な方とご一緒できる環境に、心から感謝しています。 スカルノ大統領夫人のデヴィ夫人にはいつも大変お世話になっています。2023年12月24日のクリスマスイブに可愛いチワワの赤ちゃんを孫の為にとお譲りして頂きました。そして夫人主催のハロウィンパーティーでのワンショットそしてインドネシアにご一緒させて戴いた時のホワイトパーティーの写真です。とても素敵で優しく大好きな方です! 私が営業時代は子供の運動会すらなかなか参加出来ず一、緒にいられる時間がありませんでした(^-^; 孫達とはなるべく一緒にと思っている中、このコロナ騒動で東京で働いている私はバイキンマン扱いで、なかなか娘宅に遊びに行っても抱っこすらさせて貰えません。(還暦を迎えた時がコロナのど真ん中でしたので) 人生まだまだ頑張って、この子達が結婚するまで元気でいたいものです。こんな風に思える自分自身の環境に心から感謝します。 (2023年8月)は家内の還暦祝いを息子と3人でさせて頂きました。) 何より大事なのは人生を楽しむ事!そしてその幸せは一人では決して味わえない!家族が皆健康で元気で笑顔一杯の暮らしがいつまでも続くことが私の心の願いです。しあわせしあわせ(^^♪ ついてるついてる(^^♪ (長谷川毅さんのプロフィール) 神奈川県出身県立茅ヶ崎高校卒業 1983年3月東京国際大学(旧国際商科大学)商学部卒業藤原ゼミ、ゴルフ部、ウイラメット大学に短期留学(1980年) 1983年4月卒業後、横浜トヨペットへ入社。その後、家業を継ぐが倒産。不動産会社に長年勤務後、独立。1993年4月会社設立(120億の売上を達成するが・・・) 2011年7月会社設立(昭和54年9月)2021年不動産業として開業 現在世田谷区桜新町1-13-10 三田ビル1F・2Fにて不動産業として頑張っています。 TOWN-NET会社ホームページ https://www.town-net.biz 城南の正直不動産(TOWN-NET) https://jonan-baikyaku.jp 公益社団法人全日本不動産協会東京都本部 本部相談委員 公益社団法人全日本不動産協会東京都世田谷支部 副支部長 厚生委員長 国際ロータリー第2750地区東京赤坂ロータリークラブ会員 2017~2018年度 親睦活動委員長 2018~2019年度 プログラム委員長 2023~2024年度 理事 2024~2025年度 幹事 平成30年度 東久邇宮記念賞受賞 東久邇宮文化褒章受章 鍼灸接骨院 (長男大輔が開業) Cure Natura 南林間店 〒242.0006 神奈川県大和市南林間1-4-5 TEL 046-244-3433 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
TIU卒業生の方々にも国際連合・国際機関の職員を目指してもらいたい
高松雄一さん(1997年卒業 教養学部国際関係学科/TIUA下羽ゼミ1995年Willamette Univ.卒業 2001年シラキュース大学マックスウェル公共政策大学院修了)2024年6月1日高校生の時から国際連合で働きたいと決心 国際連合の職員になりたいと決心したのは高校生の時、教科書に載っていた日本の国際社会に対する貢献に関連した記事や平和維持活動に参加している世界各国からの青いヘルメットをかぶった兵士達の写真を見て国際連合とはいったい何なんだろうと関心を持ったことがきっかけです。国連のことを知れば知るほどそこで働きたくなり、自分もその組織で世界に何らかの形で貢献したいと思い、国連が自分の将来の勤務先だと目標を設定しまいました。今から考えると全然リスクを考えていなかったような…。 より国際性を持った大学に入ることを目指して、ほぼ決まっていた地元の大学の推薦入学まで辞退してしまいました。こんな唐突なそして無謀にも見えることを、よくも自分の両親は快く了解してくれたと今ではとても感謝しています。 海外留学、国際的視野育成がしっかりとしている東京国際大学に入学 東京国際大学をターゲットとした理由はやはり国際留学、国際的視野育成にかなり力をいれているところで、実質的サポートシステムがしっかりと整っている面に魅了されました。ほかの大学にはないアットホームな雰囲気にも惹かれました。とにかく学生と教授、そして大学職員との方々との距離がとても近く雰囲気が良いと以前から聞いていました。 大学時代に力を入れたことはとにかく様々な機会を利用して知識や語学を習得したことです。正式にとった講義だけではなく、教授たちの了解を得て他の学部や大学院の講義にも参加させてもらったことを思い出します。とにかく無我夢中で知識を習得し、自分の競争力を高めたいとしていたような気がします。 TIUA、Willamette大学、Drew大学へ留学し、国連事務局などでインターンシップに従事 二年時には当時のTIUアメリカ校へ留学, Willamette大学やニュージャージー州にあるDrew大学の国連プログラムでの留学・卒業も経験してまた東京国際大学に戻ってきました。在学中には日本とアメリカにおいてオレゴン州政府や国連事務局、国連難民高等弁務官事務所等でインターンシップに従事しました。 在学中に国際政治ゼミナールの故下羽友衛先生に勧められて参加した尾崎行雄記念財団主催の論文コンクールで国際関係に関する論文で文部大臣奨励賞を受賞し、アメリカに研修派遣されて、ノーベル平和財団が主催したシンポジウムに参加したことも大きな励みになりました。 国際連合ニューヨーク本部で働き始めて20年、現在は人事戦略関係の仕事に従事 国連には再度渡米しシラキュース大学マックスウェル公共政策大学院 (Syracuse University, Maxwell School of Citizenship and Public Affairs)を修了した後に広報局に入所し、国連ガイドなどの経験をしたその後はコフィアナン前国連事務総長のオフイス、平和維持局、本部人事部等で働きました。ニューヨーク本部だけではなくコンゴ民主共和国、タイ国バンコク、カナダモントリオールなどで様々な国連機関の職員達と仕事をしたりと良い経験になりました。コフィアナン元国連事務総長とお話したことも忘れ難い思い出になりました。 国連に就職してから20年以上時がたった現在は人事戦略関係の仕事をしています。具体的には国連職員を採用するためのアウトリーチ活動や職員の多様性を目指すことをしていて、大学や政府代表部を訪れ、国連就職の説明会なども行いました。いかに国連職員を増やすか等、各国の政府の方々と協議したりもします。 (故安倍晋三首相と国連本部で働いている邦人の同僚たちと)(国連本部国連総会にて) TIU卒業生の方々にも国際連合・国際機関の職員を目指してもらいたい 東京国際大学の学生たちには大きい夢を持って、是非ともそれに向かって辛抱強く挑戦してほしいです。短期的でかつ具体的な目標設定をして、遠回りでもいいから常に前向きに好奇心をもって戦略的に進んでいくことが大切だと思います。東京国際大学出身の国連職員が将来増えることを信じ、是非とも多くの学生に応募してもらい国際機関で働いてほしいです。 (詳しくは国連採用ウエブページ https://careers.un.org/home?language=en を参照) これからの国連は1)データ能力、2)イノベーション、3)行動科学、4)デジタルツール、そして5)先を見て戦略的に考える、というスキルを職員に必要としています。現在の学生だけではなく既に様々な専門分野で活躍されている東京国際大学の卒業生の方々にも、是非とも国連・国際機関の職員を目指してもらいたいと願っています。 国連は巨大な国際官僚組織です。皆さんがニュースや記事を読んでいて既に知っていると思いますが、この組織は様々な問題を抱えているのも現実です。それと同時に国連しかできないという仕事が山ほどあり、そのようなことはあまり報道されないのも辛いところ。国連が本当に何を達成しようとしているのかを理解して一緒にそれに向かっていきたいという職員を常に探しています。 東京国際大学の卒業生の輪がさらに広がっていくことを楽しみにしています。お互いに健康を第一にして頑張りましょう! (国際連合本部ビル) (高松雄一さんのプロフィール) 埼玉県出身東北学院榴ヶ岡高等学校卒業 1997年3月東京国際大学教養学部国際関係学科卒業 下羽友衛ゼミ TIUA留学 1995年 Willamette University 教養学部卒業 2001年シラキュース大学マックスウェル公共政策大学院(Syracuse University, Maxwell School of Citizenship and Public Affairs)修了 2000年国際連合広報局に入所 コフィアナン前国連事務総長のオフイス、平和維持局、本部人事部等で働く。 ニューヨーク本部だけではなくコンゴ民主共和国、タイ国バンコク、カナダモントリオールなどで様々な国連機関の職員達と仕事をする。 現在、国際連合ニューヨーク本部、経営戦略、ポリシー局人事戦略オフイス勤務 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
高松雄一さん(1997年卒業 教養学部国際関係学科/TIUA下羽ゼミ1995年Willamette Univ.卒業 2001年シラキュース大学マックスウェル公共政策大学院修了)2024年6月1日高校生の時から国際連合で働きたいと決心 国際連合の職員になりたいと決心したのは高校生の時、教科書に載っていた日本の国際社会に対する貢献に関連した記事や平和維持活動に参加している世界各国からの青いヘルメットをかぶった兵士達の写真を見て国際連合とはいったい何なんだろうと関心を持ったことがきっかけです。国連のことを知れば知るほどそこで働きたくなり、自分もその組織で世界に何らかの形で貢献したいと思い、国連が自分の将来の勤務先だと目標を設定しまいました。今から考えると全然リスクを考えていなかったような…。 より国際性を持った大学に入ることを目指して、ほぼ決まっていた地元の大学の推薦入学まで辞退してしまいました。こんな唐突なそして無謀にも見えることを、よくも自分の両親は快く了解してくれたと今ではとても感謝しています。 海外留学、国際的視野育成がしっかりとしている東京国際大学に入学 東京国際大学をターゲットとした理由はやはり国際留学、国際的視野育成にかなり力をいれているところで、実質的サポートシステムがしっかりと整っている面に魅了されました。ほかの大学にはないアットホームな雰囲気にも惹かれました。とにかく学生と教授、そして大学職員との方々との距離がとても近く雰囲気が良いと以前から聞いていました。 大学時代に力を入れたことはとにかく様々な機会を利用して知識や語学を習得したことです。正式にとった講義だけではなく、教授たちの了解を得て他の学部や大学院の講義にも参加させてもらったことを思い出します。とにかく無我夢中で知識を習得し、自分の競争力を高めたいとしていたような気がします。 TIUA、Willamette大学、Drew大学へ留学し、国連事務局などでインターンシップに従事 二年時には当時のTIUアメリカ校へ留学, Willamette大学やニュージャージー州にあるDrew大学の国連プログラムでの留学・卒業も経験してまた東京国際大学に戻ってきました。在学中には日本とアメリカにおいてオレゴン州政府や国連事務局、国連難民高等弁務官事務所等でインターンシップに従事しました。 在学中に国際政治ゼミナールの故下羽友衛先生に勧められて参加した尾崎行雄記念財団主催の論文コンクールで国際関係に関する論文で文部大臣奨励賞を受賞し、アメリカに研修派遣されて、ノーベル平和財団が主催したシンポジウムに参加したことも大きな励みになりました。 国際連合ニューヨーク本部で働き始めて20年、現在は人事戦略関係の仕事に従事 国連には再度渡米しシラキュース大学マックスウェル公共政策大学院 (Syracuse University, Maxwell School of Citizenship and Public Affairs)を修了した後に広報局に入所し、国連ガイドなどの経験をしたその後はコフィアナン前国連事務総長のオフイス、平和維持局、本部人事部等で働きました。ニューヨーク本部だけではなくコンゴ民主共和国、タイ国バンコク、カナダモントリオールなどで様々な国連機関の職員達と仕事をしたりと良い経験になりました。コフィアナン元国連事務総長とお話したことも忘れ難い思い出になりました。 国連に就職してから20年以上時がたった現在は人事戦略関係の仕事をしています。具体的には国連職員を採用するためのアウトリーチ活動や職員の多様性を目指すことをしていて、大学や政府代表部を訪れ、国連就職の説明会なども行いました。いかに国連職員を増やすか等、各国の政府の方々と協議したりもします。 (故安倍晋三首相と国連本部で働いている邦人の同僚たちと)(国連本部国連総会にて) TIU卒業生の方々にも国際連合・国際機関の職員を目指してもらいたい 東京国際大学の学生たちには大きい夢を持って、是非ともそれに向かって辛抱強く挑戦してほしいです。短期的でかつ具体的な目標設定をして、遠回りでもいいから常に前向きに好奇心をもって戦略的に進んでいくことが大切だと思います。東京国際大学出身の国連職員が将来増えることを信じ、是非とも多くの学生に応募してもらい国際機関で働いてほしいです。 (詳しくは国連採用ウエブページ https://careers.un.org/home?language=en を参照) これからの国連は1)データ能力、2)イノベーション、3)行動科学、4)デジタルツール、そして5)先を見て戦略的に考える、というスキルを職員に必要としています。現在の学生だけではなく既に様々な専門分野で活躍されている東京国際大学の卒業生の方々にも、是非とも国連・国際機関の職員を目指してもらいたいと願っています。 国連は巨大な国際官僚組織です。皆さんがニュースや記事を読んでいて既に知っていると思いますが、この組織は様々な問題を抱えているのも現実です。それと同時に国連しかできないという仕事が山ほどあり、そのようなことはあまり報道されないのも辛いところ。国連が本当に何を達成しようとしているのかを理解して一緒にそれに向かっていきたいという職員を常に探しています。 東京国際大学の卒業生の輪がさらに広がっていくことを楽しみにしています。お互いに健康を第一にして頑張りましょう! (国際連合本部ビル) (高松雄一さんのプロフィール) 埼玉県出身東北学院榴ヶ岡高等学校卒業 1997年3月東京国際大学教養学部国際関係学科卒業 下羽友衛ゼミ TIUA留学 1995年 Willamette University 教養学部卒業 2001年シラキュース大学マックスウェル公共政策大学院(Syracuse University, Maxwell School of Citizenship and Public Affairs)修了 2000年国際連合広報局に入所 コフィアナン前国連事務総長のオフイス、平和維持局、本部人事部等で働く。 ニューヨーク本部だけではなくコンゴ民主共和国、タイ国バンコク、カナダモントリオールなどで様々な国連機関の職員達と仕事をする。 現在、国際連合ニューヨーク本部、経営戦略、ポリシー局人事戦略オフイス勤務 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
恩人への感謝と最後までやり抜く想い
土谷 恵太郎さん(1996年 商学部卒業)2024年5月1日現在、住商エアロシステム㈱という商社において防衛関連のビジネスを行っています。海外の動向を探り、今日本に必要もしくは中長期的に必要となるであろう技術の導入に向け客先へ紹介、斡旋を行っています。最終の客先は防衛省となりますが、国内メーカー経由での提案や納入も行っています。現職のビジネス概要はあまり深くを語れないかもしれませんが、卒業後今まで2社を経験し、大先輩との出会い含め今に至るまでの私の体験談が少しでも皆さまのご参考になればと考え、僭越ながら寄稿させていただきます。東京国際大学在学時は交友関係に重きを置くあまり、あまり勉強をする学生ではありませんでしたが、2年次の1993年にTIUAに行かせていただいたことが一番勉強をした時期であり、全くやったことが無かったバスケットボールをWillamette大の体育の授業で選択したことが始めるきっかけにもなりました。また、今も同じ呼び名か分かりませんが、TOMODACHIファミリーのMr. Walter Jonesと30年経った今でも交流があります。奥様のMrs. Glenda Jonesは数年前に亡くなってしまいましたが、彼らの交友関係はとても広く、覚えられないぐらい沢山の方を紹介いただいたことが記憶に残っています。基本週末は彼らと一緒に行動していたのですが、友人のお葬式にも参列するぐらい色々な経験をさせていただきました。卒業後は、丁度就職氷河期で敗戦が多かったものの、大阪に本社を持つ上松商事㈱に採用され、配属が大阪となり、初めて大阪の地に足を踏み入れました。買ったものは忘れましたが、最初に新大阪のキヨスクのおばちゃんに「おおきに」と元気に言われたことが本場、本物の関西弁を初めて聞いた言葉で、今日の出張で新大阪を使う際も昨日の日のように思い出されます。 上松商事㈱ (1社目) 大阪岸和田に本社を置く木材商社となり、インドネシアと関係が強い会社でした。当時はスハルト大統領でしたが、その政権と関係のあるインドネシア合板協会との合弁企業である対日独占輸入業を担うニッピンド㈱へ出向となり、そこで今ではあまり使われないLC等の貿易実務業務の日々を送りました。勤務地は心斎橋でカナダ村に位置していました。余談ですが、カナダ村は今となっては大阪の方も知らない方が多いですが、多少おしゃれなエリアながらアメ村の北側にあるということで、カナダ村と呼ばれていましたので何かの折に話のネタにされてみて下さい。さて、実際の業務ですが、インドネシアから毎月数多くの在来船を貸し切り船舶動静を管理しつつ、様々な種類の合板を大量に輸入し、主に大手総合商社および社内関連製造・加工工場向けに販売していました。我々の卸値価格が毎週月曜の日経新聞に掲載され実質日本の合板価格動向の指標になっていました。合板とはベニヤ板ですが、家の構造用や家具含め多岐に渡り使用されているもので、一見、木の板や製材がそのまま使われているようでも、ほぼ80%以上はベニヤ板が使われています。ちなみに高速道路もコンクリートパネルという型枠合板で作られているので、住宅着工戸数や高速道路建設といった需給により市況が変わっていく商品となります。最終的には1990年代後半にインドネシアで発生した資本収支危機により、International Monetary Fund (IMF)の支援を得るにあたり、IMFからの勧告内容に合板カルテルの廃止という項目が含まれ独占販売権を失うことになりました。商社の根幹とも言える商権を失ったことにより会社が傾くこととなり、最終的には関連会社の製造・加工部門を残し倒産となってしまいました。一方、大阪での生活は業務が早めに終わっていたこともあり、バスケを通して会社以外でも交友関係を広げていき、今も多くの方と交友関係が継続しており、大阪は自分になぜか合っている場所でもあり、また本当に住みたいとも思っています。 住商エアロシステム㈱ (2社目) 1社目の状況により会社を離れ、数か月TOMODACHIファミリーを訪問した際、旧友含め様々な方々と再会できました。そこで英気を養いつつ、今まで経験した貿易実務を前面に押し出し転職活動を行い、面接官と一番フィーリングが合った住商エアロシステム㈱に2000年2月よりお世話になることになりました。今は自社名義で防衛装備品向け商社No.1を狙える立場まで会社規模が大きくなりましたが、当時は親会社である住友商事㈱の業務委託でできる業務の範囲も限られていました。規模が大きくなっていく最中、私は陸上自衛隊 (陸自)向けビジネスを住友商事から住商エアロシステムへ移管するために入社直後住友商事へ出向することになりました。移管後は陸自ビジネスを行いつつ、航空機エンジンのビジネスを行い、その後、航空自衛隊向けと海上自衛隊向けのビジネスを経験し、今に至りますが、前期で陸自ビジネスに関与していた際、2008年より2年強、欧州住友商事会社(ロンドン)へ転勤する機会を得ることができました。現在は入社時に担っていた陸上自衛隊ビジネスに戻り業務拡大に努めていますが、直前には管理部門の総務部で給与チーム長として給与含む社会労務関連を担うとともに、人事や採用も行うことで別視点から会社を見ることができました。防衛業界について少し触れますが、防衛省自衛隊は陸海空に分かれ、最近は統合幕僚監部なる組織もできましたが、それぞれの組織は統合されて運用されるにはまだまだ時間がかかると言っても過言ではありません。陸海空にはそれぞれの文化や哲学があり、私は語ることはできませんが、海自と空自は艦船や航空機といったAssetベースでの運用に対して、陸自が人ベースでの運用となっています。人が主体の陸自へ最新の装備品が全てに行きわたっていることはなく、殆どの部隊が日々古い装備で訓練を行い、有事に対し120%の準備を行い備えています。最近では国会で防衛予算が元々GDP1%だったものを2%にする方針が決まりましたが、かかる周辺諸国との状況を鑑みると防衛のためにマストとして必要になるものであり、我々はその部分において、防衛省や防衛業界へ貢献するというマインドを以って支援していくこと常としています。ビジネスとしてやっていることもあり、利益を追求しがちになりますが、どんなビジネスにも言えるのですが、必要以上に利益を追求することは業界全体の底上げには繋がらず長続きはしませんので、国内メーカー含めた関係各社と長期に渡りWin-Winの関係性構築ができるよう最善のスキーム作りに努めています。ご参考まで、日々の業務は部署にもよりますが、直接見なければならない直属のチーム員が15名いた際は自分の仕事の時間が取れるのが22時以降であったため、毎日終電でしたが、コロナもあり、在宅勤務に必要な備品も備わっていることから、良いかどうか分かりませんが、事務所以外でも事務所同様の仕事ができる環境になったことで、効率的にはなりました。商社は激務と言いますが、そうかもしれません。しかし、その分得ることが多いことも事実ですし、皆いくつか持たれているであろう夢の実現には近づきやすい部分もあると思いますが、健康あってのことだなと最近は多少気遣うようになりました。 (英Airshowにて) ロンドン駐在時代 担当範囲は欧州であり、現地スタッフとなる部員が独デュッセルドルフにいたため、ほぼ毎週出張をしていました。担う業務は欧州側から日本への日々の輸入業務支援以外に日本からの来訪者や海外メーカーとの面談やアテンドといった業務が主でありますが、冒頭で述べた海外の動向を探り、日本に今必要もしくは中長期的に必要となるであろう技術の情報収集を行っていました。多くは語れないことが残念ですが、駐在時代以外に限らず西側諸国で必要なものが得られない場合は当時中欧と呼ばれたチェコやブルガリアにも訪問しその国経由で各種調整が完了するまで帰国できないということもありました。ロンドンでの生活は当時家内と2人だけだったため、家賃の自腹部分が多くなっても交通が便利かつ安全なエリアを選択しました。場所はゴルゴ13に良く出てくることは知らなかったのですがNew Scotland YardがあるSt. James ParkエリアのFlatを選択しました。家内は一人でいることが多かったため、お金は十分でなくてもせめて中心部まで徒歩圏内の飽きない場所を選択しました。その結果、なんだかんだで、帰国までに食器や家具などがかなり増えましたが、二人でお店のみならず、ほぼ無料の美術館・博物館でデザイン性が良いものを見たりすることで、自然と目が肥えつつ、それを日本からの来訪者が求める場所やお店に連れていき、帰国後に来訪者や来訪者から受け取った彼らの家族が喜んでいたと連絡をいただくことは相互に嬉しいことであり、大したことが無いようにも思えますが、かなり重要な部分の一つでもあり、相互にとって長きに渡り良い思い出になり、今もその方々とお会いすると当時の話で盛り上がっていただけることは嬉しく思います。 (ロンドンでの住まい) 嶌末 真さんとの出会い 防衛業界において先輩や後輩と会う機会は数年前に他商社におられた同級生の1回限りでしたが、一昨年度の2022年にワシントンDCで開催される米陸軍協会の年次総会・展示会となるAUSAへ参加する際、社団法人である日本防衛装備工業会 (JADI)が会員の国内メーカーを集いツアーを企画され、当社もそちらを支援することとなりました。防衛関連ビジネスでは情報管理が厳格な業界ですが、個人情報や経歴等を提出する機会が多く、JADI支援に向けやりとりを行ったところ、JADIの窓口が調査部長である嶌末 真さんでした。1985年卒 (教養学部)ということで同窓かつ大先輩であることが判明しました。嶌末さんは元陸上自衛官であり、パキスタンの防衛駐在官も歴任された方です。自衛官には職種というものがあり、陸自に16種類ある職種で通信となり、その分野では陸自内で非常に有名な方であることを知りました。嶌末先輩と呼ばせていただきますが、お互い同業界で大学の先輩・後輩といった経験が多くない中、狭い業界で一緒に仕事をする機会があったことは何かのご縁と考え、お互いに機会を作り頻繁に会うようになりました。そこで様々な情報交換をさせていただいたことは自身の財産となり、この関係は後輩である私から是非とも継続させていただきたいと考えています。嶌末先輩情報について私がこれ以上勝手に述べることはできませんが、卓球において有名な方であるため、ご興味のある方は卓球経由で嶌末先輩との交流も図っていただければと思います (ちなみに私は卓球ほぼできません)。 (米AUSA2022にて) TIU受験生/在校生へのメッセージ 表題で「恩人への感謝と最後までやり抜く想い」と記載しましたが、それぞれ関係しないようですが繋がりがあるものと思っています。「恩人への感謝」は、その都度お世話になる方へ感謝することですが、その後もその方を忘れることなど一度もありませんし、時折様子を確認させていただいています。「最後までやり抜く想い」とは、たまにあのタイミングで転職していていたらどうなっていたかなと思いますが、一度世話になり育てていただいた所属先を自ら裏切るようなことにはならずに済んでいますが、継続は力なりというモットーでやってきました。確かに、自身にとってより評価してくれる転職先を都度のタイミングで選択される方もおり、それを全く否定するものではありませんが、私自身、生き方が上手くない部分もあることは理解しつつもそれも人生だと思うので、私は一つ一つのことに最大限の力を注ぐようにしています。人間誰しも隣の芝は青く見えたり、今の自分に不満がある部分はあり、難しいですが人と比較しないマインドを持ちつつも、今与えられた仕事や環境に対し、一生懸命向かい様々なことを吸収していくのが若い内は一番だと思いますので、頑張っていって下さい。結びとなりますが、皆様の今後向かわれる分野において成功され、ご家族含め発展されますとともに、東京国際大学の名を世界に広めていかれることを心より祈念しております。 (土谷 恵太郎さんのプロフィール) 1992年浦和学院卒業 1992年東京国際大学 商学部入学 1993年TIUA 1996年東京国際大学 商学部卒業 1996年上松商事㈱入社と同時にニッピンド株式会社へ出向 2000年住商エアロシステム㈱へ転職 2008年欧州住友商事会社(ロンドン)へ転勤 2010年住商エアロシステム㈱へ転勤 2024年各営業部や人事総務部給与チーム長を経験し同社ディフェンスシステム事業第一部 陸上チーム長にて現在に至る TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
土谷 恵太郎さん(1996年 商学部卒業)2024年5月1日現在、住商エアロシステム㈱という商社において防衛関連のビジネスを行っています。海外の動向を探り、今日本に必要もしくは中長期的に必要となるであろう技術の導入に向け客先へ紹介、斡旋を行っています。最終の客先は防衛省となりますが、国内メーカー経由での提案や納入も行っています。現職のビジネス概要はあまり深くを語れないかもしれませんが、卒業後今まで2社を経験し、大先輩との出会い含め今に至るまでの私の体験談が少しでも皆さまのご参考になればと考え、僭越ながら寄稿させていただきます。東京国際大学在学時は交友関係に重きを置くあまり、あまり勉強をする学生ではありませんでしたが、2年次の1993年にTIUAに行かせていただいたことが一番勉強をした時期であり、全くやったことが無かったバスケットボールをWillamette大の体育の授業で選択したことが始めるきっかけにもなりました。また、今も同じ呼び名か分かりませんが、TOMODACHIファミリーのMr. Walter Jonesと30年経った今でも交流があります。奥様のMrs. Glenda Jonesは数年前に亡くなってしまいましたが、彼らの交友関係はとても広く、覚えられないぐらい沢山の方を紹介いただいたことが記憶に残っています。基本週末は彼らと一緒に行動していたのですが、友人のお葬式にも参列するぐらい色々な経験をさせていただきました。卒業後は、丁度就職氷河期で敗戦が多かったものの、大阪に本社を持つ上松商事㈱に採用され、配属が大阪となり、初めて大阪の地に足を踏み入れました。買ったものは忘れましたが、最初に新大阪のキヨスクのおばちゃんに「おおきに」と元気に言われたことが本場、本物の関西弁を初めて聞いた言葉で、今日の出張で新大阪を使う際も昨日の日のように思い出されます。 上松商事㈱ (1社目) 大阪岸和田に本社を置く木材商社となり、インドネシアと関係が強い会社でした。当時はスハルト大統領でしたが、その政権と関係のあるインドネシア合板協会との合弁企業である対日独占輸入業を担うニッピンド㈱へ出向となり、そこで今ではあまり使われないLC等の貿易実務業務の日々を送りました。勤務地は心斎橋でカナダ村に位置していました。余談ですが、カナダ村は今となっては大阪の方も知らない方が多いですが、多少おしゃれなエリアながらアメ村の北側にあるということで、カナダ村と呼ばれていましたので何かの折に話のネタにされてみて下さい。さて、実際の業務ですが、インドネシアから毎月数多くの在来船を貸し切り船舶動静を管理しつつ、様々な種類の合板を大量に輸入し、主に大手総合商社および社内関連製造・加工工場向けに販売していました。我々の卸値価格が毎週月曜の日経新聞に掲載され実質日本の合板価格動向の指標になっていました。合板とはベニヤ板ですが、家の構造用や家具含め多岐に渡り使用されているもので、一見、木の板や製材がそのまま使われているようでも、ほぼ80%以上はベニヤ板が使われています。ちなみに高速道路もコンクリートパネルという型枠合板で作られているので、住宅着工戸数や高速道路建設といった需給により市況が変わっていく商品となります。最終的には1990年代後半にインドネシアで発生した資本収支危機により、International Monetary Fund (IMF)の支援を得るにあたり、IMFからの勧告内容に合板カルテルの廃止という項目が含まれ独占販売権を失うことになりました。商社の根幹とも言える商権を失ったことにより会社が傾くこととなり、最終的には関連会社の製造・加工部門を残し倒産となってしまいました。一方、大阪での生活は業務が早めに終わっていたこともあり、バスケを通して会社以外でも交友関係を広げていき、今も多くの方と交友関係が継続しており、大阪は自分になぜか合っている場所でもあり、また本当に住みたいとも思っています。 住商エアロシステム㈱ (2社目) 1社目の状況により会社を離れ、数か月TOMODACHIファミリーを訪問した際、旧友含め様々な方々と再会できました。そこで英気を養いつつ、今まで経験した貿易実務を前面に押し出し転職活動を行い、面接官と一番フィーリングが合った住商エアロシステム㈱に2000年2月よりお世話になることになりました。今は自社名義で防衛装備品向け商社No.1を狙える立場まで会社規模が大きくなりましたが、当時は親会社である住友商事㈱の業務委託でできる業務の範囲も限られていました。規模が大きくなっていく最中、私は陸上自衛隊 (陸自)向けビジネスを住友商事から住商エアロシステムへ移管するために入社直後住友商事へ出向することになりました。移管後は陸自ビジネスを行いつつ、航空機エンジンのビジネスを行い、その後、航空自衛隊向けと海上自衛隊向けのビジネスを経験し、今に至りますが、前期で陸自ビジネスに関与していた際、2008年より2年強、欧州住友商事会社(ロンドン)へ転勤する機会を得ることができました。現在は入社時に担っていた陸上自衛隊ビジネスに戻り業務拡大に努めていますが、直前には管理部門の総務部で給与チーム長として給与含む社会労務関連を担うとともに、人事や採用も行うことで別視点から会社を見ることができました。防衛業界について少し触れますが、防衛省自衛隊は陸海空に分かれ、最近は統合幕僚監部なる組織もできましたが、それぞれの組織は統合されて運用されるにはまだまだ時間がかかると言っても過言ではありません。陸海空にはそれぞれの文化や哲学があり、私は語ることはできませんが、海自と空自は艦船や航空機といったAssetベースでの運用に対して、陸自が人ベースでの運用となっています。人が主体の陸自へ最新の装備品が全てに行きわたっていることはなく、殆どの部隊が日々古い装備で訓練を行い、有事に対し120%の準備を行い備えています。最近では国会で防衛予算が元々GDP1%だったものを2%にする方針が決まりましたが、かかる周辺諸国との状況を鑑みると防衛のためにマストとして必要になるものであり、我々はその部分において、防衛省や防衛業界へ貢献するというマインドを以って支援していくこと常としています。ビジネスとしてやっていることもあり、利益を追求しがちになりますが、どんなビジネスにも言えるのですが、必要以上に利益を追求することは業界全体の底上げには繋がらず長続きはしませんので、国内メーカー含めた関係各社と長期に渡りWin-Winの関係性構築ができるよう最善のスキーム作りに努めています。ご参考まで、日々の業務は部署にもよりますが、直接見なければならない直属のチーム員が15名いた際は自分の仕事の時間が取れるのが22時以降であったため、毎日終電でしたが、コロナもあり、在宅勤務に必要な備品も備わっていることから、良いかどうか分かりませんが、事務所以外でも事務所同様の仕事ができる環境になったことで、効率的にはなりました。商社は激務と言いますが、そうかもしれません。しかし、その分得ることが多いことも事実ですし、皆いくつか持たれているであろう夢の実現には近づきやすい部分もあると思いますが、健康あってのことだなと最近は多少気遣うようになりました。 (英Airshowにて) ロンドン駐在時代 担当範囲は欧州であり、現地スタッフとなる部員が独デュッセルドルフにいたため、ほぼ毎週出張をしていました。担う業務は欧州側から日本への日々の輸入業務支援以外に日本からの来訪者や海外メーカーとの面談やアテンドといった業務が主でありますが、冒頭で述べた海外の動向を探り、日本に今必要もしくは中長期的に必要となるであろう技術の情報収集を行っていました。多くは語れないことが残念ですが、駐在時代以外に限らず西側諸国で必要なものが得られない場合は当時中欧と呼ばれたチェコやブルガリアにも訪問しその国経由で各種調整が完了するまで帰国できないということもありました。ロンドンでの生活は当時家内と2人だけだったため、家賃の自腹部分が多くなっても交通が便利かつ安全なエリアを選択しました。場所はゴルゴ13に良く出てくることは知らなかったのですがNew Scotland YardがあるSt. James ParkエリアのFlatを選択しました。家内は一人でいることが多かったため、お金は十分でなくてもせめて中心部まで徒歩圏内の飽きない場所を選択しました。その結果、なんだかんだで、帰国までに食器や家具などがかなり増えましたが、二人でお店のみならず、ほぼ無料の美術館・博物館でデザイン性が良いものを見たりすることで、自然と目が肥えつつ、それを日本からの来訪者が求める場所やお店に連れていき、帰国後に来訪者や来訪者から受け取った彼らの家族が喜んでいたと連絡をいただくことは相互に嬉しいことであり、大したことが無いようにも思えますが、かなり重要な部分の一つでもあり、相互にとって長きに渡り良い思い出になり、今もその方々とお会いすると当時の話で盛り上がっていただけることは嬉しく思います。 (ロンドンでの住まい) 嶌末 真さんとの出会い 防衛業界において先輩や後輩と会う機会は数年前に他商社におられた同級生の1回限りでしたが、一昨年度の2022年にワシントンDCで開催される米陸軍協会の年次総会・展示会となるAUSAへ参加する際、社団法人である日本防衛装備工業会 (JADI)が会員の国内メーカーを集いツアーを企画され、当社もそちらを支援することとなりました。防衛関連ビジネスでは情報管理が厳格な業界ですが、個人情報や経歴等を提出する機会が多く、JADI支援に向けやりとりを行ったところ、JADIの窓口が調査部長である嶌末 真さんでした。1985年卒 (教養学部)ということで同窓かつ大先輩であることが判明しました。嶌末さんは元陸上自衛官であり、パキスタンの防衛駐在官も歴任された方です。自衛官には職種というものがあり、陸自に16種類ある職種で通信となり、その分野では陸自内で非常に有名な方であることを知りました。嶌末先輩と呼ばせていただきますが、お互い同業界で大学の先輩・後輩といった経験が多くない中、狭い業界で一緒に仕事をする機会があったことは何かのご縁と考え、お互いに機会を作り頻繁に会うようになりました。そこで様々な情報交換をさせていただいたことは自身の財産となり、この関係は後輩である私から是非とも継続させていただきたいと考えています。嶌末先輩情報について私がこれ以上勝手に述べることはできませんが、卓球において有名な方であるため、ご興味のある方は卓球経由で嶌末先輩との交流も図っていただければと思います (ちなみに私は卓球ほぼできません)。 (米AUSA2022にて) TIU受験生/在校生へのメッセージ 表題で「恩人への感謝と最後までやり抜く想い」と記載しましたが、それぞれ関係しないようですが繋がりがあるものと思っています。「恩人への感謝」は、その都度お世話になる方へ感謝することですが、その後もその方を忘れることなど一度もありませんし、時折様子を確認させていただいています。「最後までやり抜く想い」とは、たまにあのタイミングで転職していていたらどうなっていたかなと思いますが、一度世話になり育てていただいた所属先を自ら裏切るようなことにはならずに済んでいますが、継続は力なりというモットーでやってきました。確かに、自身にとってより評価してくれる転職先を都度のタイミングで選択される方もおり、それを全く否定するものではありませんが、私自身、生き方が上手くない部分もあることは理解しつつもそれも人生だと思うので、私は一つ一つのことに最大限の力を注ぐようにしています。人間誰しも隣の芝は青く見えたり、今の自分に不満がある部分はあり、難しいですが人と比較しないマインドを持ちつつも、今与えられた仕事や環境に対し、一生懸命向かい様々なことを吸収していくのが若い内は一番だと思いますので、頑張っていって下さい。結びとなりますが、皆様の今後向かわれる分野において成功され、ご家族含め発展されますとともに、東京国際大学の名を世界に広めていかれることを心より祈念しております。 (土谷 恵太郎さんのプロフィール) 1992年浦和学院卒業 1992年東京国際大学 商学部入学 1993年TIUA 1996年東京国際大学 商学部卒業 1996年上松商事㈱入社と同時にニッピンド株式会社へ出向 2000年住商エアロシステム㈱へ転職 2008年欧州住友商事会社(ロンドン)へ転勤 2010年住商エアロシステム㈱へ転勤 2024年各営業部や人事総務部給与チーム長を経験し同社ディフェンスシステム事業第一部 陸上チーム長にて現在に至る TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
約半世紀かけたグローバルビジネス。いまだ珍道中!
保井 和毅さん(1982年商学部卒業 小峯ゼミ ELI(English Language Institute)2023年7月1日TIUとウイラメット大学1978年4月に国際商科大学(TIU)に入学しました。当時は、外国の歴史、国際関係の理解深堀と必要な語学力を高めグローバル人になりたい思いが漠然とありましたが、特に専門の学行などに行くこともなくマイペースな独学で英語など勉強していました。 2年時の夏休みにアルバイトで貯めたお金でリンガフォンと言う英語教材を購入し、ややスイッチが入った感がありました。3年時からは小峯ゼミで国際金融論を専攻しました。当時の欧州通貨制度関連の文書を読まされましたが、現在の共通通貨ユーロへの生みの苦しみなどの流れが概念的に理解出来ました。 それと、並行し中学から始めた陸上競技(短距離)を継続していました。残念ながら、当時のTIUには陸上競技部がなく、近くの入間川グランドでの自主トレからの出発です。 幸いに、英語はELI(English Language Institute)、陸上は小川町のチームからお誘いがありようやくメンバとしての活動が叶いました。 1980年夏のウ大のスカラシップを受験したのですが、確か最後の3名まで残り、自分以外の2名が公費留学生に採用されました。その2名の中の1名が同郷の兵庫県立芦屋高校出身の和田昇君で、就職後現在も付き合いが続いています。当方も、御慰めで夏季セミナーの奨学金を頂く事出来たのでが、当然参加させていただきました。 (ウ大でカウンセラーをしていただいたJudyさんと。小柄でチャーミングでテニスが上手な方でした。英語の発音をバッチリと叩き込まれました。英会話は、かなり自信がつきました。) 就職活動1982年の就職戦線は、TIU全体でも好調だったと思います。小峯ゼミでは、東京海上、三菱商事、三菱銀行など大手超一流企業の内定者が続出しました。当方も、運よく日本電気、キャノン、City Bankなど複数社で内定を頂きました。悩んだ末、当時理系・文系男子人気ナンバーワンの日本電気に入社する事にしました。日本電気には、1名だけTIUのOBの方がおられ、自分以降も続いて欲しいなと感じていましたし、入社後数年間は毎年数名の在学生がOB訪問として当方へ来られていました。1名の方が入社されたのは記憶がありますが、残念ながら途中で退職されています。 今は、当時とは大分事情が違うと思いますが、入社したらどこの大学出身とか関係ないと思います。すべて、ゼロスタートで個人の成長に委ねる事が非常に大きいと感じています。 咋今の学歴フィルータは、受け入れ企業側が効率を優先(応募の数を絞る)するには仕方がない方法ですが、実力のあるB,Cランク大学の学生に取り残念な手段だと思います。ただ、今は個人の情報発信がかなり自由に出来るので、いい意味で目立つ活動を在学中にされたらいいと思います。パフォーマンスは処世術として姑息な手段とも取れますが、会社に入っても重要となります。 日本電気入社前半は半導体ビジネス:1982年に入社後、すぐに半導体事業グループの当時の最先端半導体の工場の管理部門に配属されました。希望していた海外営業でなく暫くふて腐れていましたが、モノ作り側なので表面的ですが技術あるいは供給側のサプライチェーンなどの理解に役立ちました。 当時NECは半導体世界ナンバーワンで、毎年海外の工場の大型投資を進めており、その仕事に関われたこともモチベーションの向上に繋がりました。当時は、海外ビジネスに携われる人材が不足しており、入社2-3年の当方も数億円の投資企画書の作成を自ら作成せざるを得ない状況でした。地球儀を俯瞰しながら、グローバルサプライチェーンの最適を上司・仲間と検討する日々でした。 入社当時のNEC相模原事業場です。当時最先端の6インチウエハーの工場でした。この様な工場が、日本のみならず、北米、欧州、シンガポール等で複数稼働していました) 最初の転機は、結婚後の1988年です。上司から、UKの工場の管理部門に行かないかとの打診がありました。ただ、マーケットに向かい合いたい希望が擽っていたので営業部門への異動を希望し、北米向けの半導体営業への異動が実現しました。ASICと言うカスタム(顧客用途別)LSIの担当となり、米国法人の営業と連携しIBM、AT&Tなど大手ICT顧客からDesign win獲得のため出張などを重ねながらビジネスの拡大を進めました。当時は、係長でしたが年商50億円+の予算が与えられていました。営業は顧客が優先ですが、モノ作り部門出身というサプライサイドでの経験は大いに役たちました。 ビジネスは、Market in であつてProduct outではだめだ(主にB2Bですが)とよく言われますが、十分な供給側のマーケティング、高い技術力のある分野では後者も通じると思います。素材、部品など一部の日本企業はproducts outパターンでも対応出来ますが、それ以外の分野は厳しくなりました。 その後、北米の半導体販売会社への駐在の話などもありましたが、今度は海外営業グループの企画・新規ビジネス関連部門への異動が命ぜられました。バブル後に、会社として海外含めて売る新製品が不足する大変な時期でした。カラー液晶の海外営業組織が立ちあがり、営業での再登板となりました。この製品も、やはり日系の大手企業が複数参入してきました。当初から、いずれ台湾・韓国勢に追い抜かれると言う半導体事業と同じ構図がグローバルでも描かれていました。 営業アプローチは、シンプルで従来のCRT(ブラウン管)モニタを使用している業種・顧客への売り込みです。主に、PC、Work station、POCレジなどのメーカであるApple, Compaq, Dell, Sun Micro,台湾系PC OEM,NCRと測定器などのTechtronics, Agirentなどが主要顧客です。現地営業の日々の営業活動と日本からの新規技術紹介などを連動させ事業拡大を進めました。 ただ、IBMはPCビジネスのHQが神奈川県大和市にあり、そこの開発購買へのアプローチが重要です。日本での直販は初めてでしたが、これがまた楽しく社会人人生後半へ生かすことが出来たと(今から振り返って)感じます。本来、海外市場で営業活動するのがグローバルと捉えていたのが、日本も含めての活動がグローバルとの概念へと軌道修正した瞬間でした。確か、世の中も「海外、国際」から「グローバル」と言う言葉が使用された時期でした。 (三田にあるNEC本社ビル。本社スタッフ、営業部門が集結しています。) 後半はICTビジネス1990年代後半から、米国のパソコンメーカ、Microsoftなどが一気に日本へ参入して来て、IT、情報化と言う言葉が広く使用されだしました。日本の半導体メーカの凋落が始まった時期でした。転職なども考え、Intel社まどから内定がもらえましたが、最終的には社内公募制度で情報システム部門へ異動しました。これは、専業企業では転職そのもので、すべて一からの出直しを覚悟し臨みました。 組織デザインも全然別で、全ての損益責任はフロントの営業が持つ仕組みです。ご存知の通リ日本のIT企業の多くは自社製品単品のビジネスモデルでなく、仕入れ製品、SE(System Engineer)のシステム開発費用、アフターサービス等含めたSystem integrationモデルです。これは、日本独特のモデルで、後々グローバル化が上手く進まないと言う事に気ずく事になります。大変なとこに来たなと感じました。 異動先の事業部長と相談し、最初は勉強も兼ねSE部門のプリセールスとしてERP(Enterprise Resource Planning)ソフトおよびSystem Integrationの拡販を進めました。ERPソフトは従来の汎用機(大型コンピュータ)上ですべて個別開発していたシステムに代わる業務パッケージソフトです。基本的な業務プロセスは、Pre Packageされているので開発工数の低減と早期導入が可能と言うのがうたい文句です。ただ、お客様の生産管理、販売管理などの理解がないと追加開発領域が多くなるので、業務コンサル的なサービスが必要となります。 当方が、異動出来たのは半導体中心ですが、生産、販売、グローバルの経験があり、それなりにお客様先で語れるのが大きな理由だったと思います。担当は、日本の大手製造業でしたので、当然システムもグローバル展開が条件となります。ここで、ようやく得意と感じていたグローバルが出てくるわけです。 ただ、お客様が製造業と言う事もあり、東南アジア、中国の工場システム案件が多く一度は欧米から離れる事になります。海外出張でお客様の情報システムの方に会うと、その方の同期の東京の何処の誰だれはどうしているか・・。など宴席で聞かれながら商談をしたことが多々あります。日本人全般ですが、海外にいると本社情報が少なくなり気になるのでしょう。お客様本体との間柄を上手くブリッジするのも営業の役目です。本当に、Domesticなグローバルビジネスでした。 新事業を担当した時期もありました。RFID(Radio Frequency Identification)ソリューションの立ち上げの際には、米国のWal Mart様に大胆にも出向きました。彼らの商品の入出庫、倉庫業務の効率化システムの提案を行うのが目的です。何度もアーカンサスにある本社に足を運びました。結局、現地体制が上手く出来ず受注には至らずでした。しかし、世界ナンバーワンの企業と仕事が出来たのは自分含めてメンバにもいい経験だったと思います。 ドイツ企業とのアライアンスと駐在:その後、社内でもIT部門のグローバル化の推進と外資大手企業とのアライアンス推進の動きが加速し始めました。双方のマーケット(顧客)を連携して深掘する戦略です。綺麗な絵ですが、現場の営業レベルに落ちるとドロドロした事となります。そのような状況の中で、2008年の春頃に上司の事業本部長から突然ドイツのSAP社とアライアンスと市場開拓の目的でドイツに行くよう命じられました。 理由は、「欧米でIT関連の仕事を任せられるのはお前しかいない」との事でした。エレベータ内のやり取りで周りの連中も聞いていました。あえて、その場を利用したのでしょう。すでに、現地組織の立上げスケジュールも確定し、メンバもほぼ確定していた様でしたが、マネジメント、対外折衝、営業活動など雑用役として白羽の矢が立ちました。 時間が無い中で、組織の役割、企画案など作成し関連部門と調整しコメントを貰おうとしましたが、誰も経験が無いのでいい回答が得られませんでした。不満と不安が募り、辞令を拝命した例の上司に話したところ、目の覚めるような返事が返ってきました。「気持ちは分かるが、お前が不安になれば皆が不安になる・・・・」。これは、上司との信頼関係が構築されており、すべて思った通リにやれと言う内容として励みになりました。駐在は、いろいろ家族とも話し合いましたが子供の教育などもあり単身で行くことになりました。 (40歳後半で単身赴任前の家族での送別会です。もう少し、時期が早ければとも思いましたが・・。) 2008年7月14日に現地に到着し、ドイツ南西部Baden-Württemberg州のマンハイムと言う町に住む事にしました。人口40万の中堅都市でしたが、職場、フランクフルトなどへのアクセスもよく快適な暮らしができました。 (マンハイムのダウンタウンの入り口の公園です。季節の色とりどりの花が美しく クリスマス・マーケッとも開催されます。) 業務は、事務所立上げから始まり現地法人内での組織、ITシステムの適用、エンジニア用のコンピュータルーム、IT機器・事務機など調達、ドイツ人秘書の採用など一からです。次は、日本から帯同したエンジニアの仕事の内容を本社、他地域のメンバと調整しながら進めました。SAPと言うグローバル業務ソフトにNECのソリューションを連携しグローバルで売れるようにする仕組み作りです。当然、SAP本社、関連するITパートナへの連携も重要です。ほとんど、部下とパートナなどのモチベーション向上の仕掛け作りが仕事です。 一方、自分としては、やはり営業ですので日系のお客様が中心になりますが現地での市場開拓に邁進しました。10人弱の組織で対外的に如何に影響力を持たせるかが重要な役割です。営業も、SAPのような大きなシステムは東京本社含めたお客様コンタクト無ではそうは売れるわけではないので、適時東京に戻り東京の営業との顧客訪問などを行いました。ドイツ顧客に対しては、手離れがいい商材を本社から持ち込みドイツ企業などへアプローチをかけました。先日も、当時のドイツのお客様の社長とコンタクトしたりして、ネッとワークは今でも役立っています。 また、欧州のIT企業への出資などの戦略も本社側で検討していた時期で、何社かの評価など本社の企画部門の方と進めました。ご存じの方も多いかと思いますが、日系IT企業が得意としているのは単品の販売ではなくSystem Integrationです。お客様の、戦略ならびに業務を理解しITで課題解決を提案する内容です。その為、各地域、国のお客様自身のビジネスが理解出来ているIT会社を買収するのが手っ取り早くなります。競争力のあるハードウェア製品を保有している企業に比べ、グローバル化の難易度が一段と上がります。ただ、現地でしか出来ない経験が出来たのは、僅かな成功体験よりよかったと思います。 また、余暇の話は腐るほどあるのですが割愛させていただきますが、一点前述の和田昇君もPanasonicの社員としてドイツのハンブルグに同時期に駐在されており偶にフランクフルトで合流しました。現在も交流が続いています。 2012年の春に帰任する事になりますが、ドイツ駐在で得た経験、人脈がその後役立つ事になります。帰国後は、中華圏APAC営業本部で大洋州・シンガポール地域の営業とITソリューション軸で本部責任を担う事になりました。 方針はシンプルで、シンガポールにSAP, MicrosoftのERP要員がいましたので、彼らの体制強化と他のAPAC地域へのビジネス展開です。上記のERP製品は他社製品ですのでプラスで自社製品、例えばPOS端末などと連携した流通業向けSystem integrationメニューの強化などを行いました。欧米に比べ、アジアは多少日本と近いITビジネスモデルがあるのとNECの企業バリューが高いので、数字は上がりました。 2014年には、国際情報化協力センタ(CICC:Center of the International Corporation of Computerization)を兼務しました。ここは、元経済産業省の外郭団体で日本の大手IT企業の参画をベースに東南アジアを中心にICTの協力、企業側としてはODAなど国際協力資金を活用したビジネスの拡大を推進する組織です。すでに、55歳になっていたのでNECでの最後の楽しみ場所と考え、好きな様にさせてもらいました。海外の政府機関との折衝などは初めての経験で勉強になりました。CICCの名目でNECの災害、防衛、サイバーセキュリティなどの提案を行い、実証なども行いました。内戦前のミャンマーとかバングラディシュ、カンボジアなどの警察・軍関係の方々面会出来たのは貴重な経験でした。 NEC卒業後と現在最終的には、2019年にNECを予定通り退職しましたが、帰任後も、ドイツ関連の方々とのネットワークを大切にしてきたので、その腐れ縁が思いもよらぬ方向へ進みました。 現在は、駐在中に名刺交換をさせていただいたドイツの人材会社のご紹介もありELATEC GmbHの日本代表(と言つても小所帯ですが)をさせて頂いています。日本市場の立ち上げに日本企業の本社とのアライアンス、新規市場開拓です。コロナ下で、なかなか本社のミュンヘンには行けませんでしたが、昨年の10月のお客様セミナ+Oktober Festでの打ち上げに入社前面接以来久々に行く事が出来ました。 (現会社のお客様向けセミナおよびイベントに参加、2022年10月) 長々と、お付き合いいただきありがとうございました。最後になりますが、振り返り自分の歩いたグローバルビジネスは、遠回りしながらも多数の方々に支えられて来たのだと思います。 何十年も外国でご活躍されている優秀な方とは違い、日本国内の営業も経験出来たのが現職の外資系企業では評価されたのかも知れません。特に、これから社会人になられる方は人生長丁場となります。数年で成果が出ず悩んだ時は、焦らずに一呼吸おいて自問しながら再スタートを切って下さい。 (保井和毅さんプロフィール) 1977年3月兵庫県西宮高等学校卒業 1978年4月国際商科大学商学部入学(小峯ゼミ/ELI: English Language Institute) 1982年3月同校卒業 1982年4月日本電気株式会社入社 第一LSI事業部計画部配属 1986年6月半導体企画室海外推進部異動 1990年6月北米電子デバイス部異動 1999年6月製造装置ソリューション事業部(ITシステム営業)移動 2008年6月NEC Europe Ltd. NEC SAP Solution Center(ドイツ)駐在 2012年6月APAC営業本部へ帰任(ITソリューション全体統括) 2016年4月財団法人 国際情報化協力センタ(CICC)兼務 2019年4月日本電気株式会社退職 2019年5月~2020年5月日欧ビジネス開拓コンサル 2020年6月ELATEC GmbH日本代表就任 2022年9月ドイツECOSコンサルティング 特別顧問就任(副業) TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
保井 和毅さん(1982年商学部卒業 小峯ゼミ ELI(English Language Institute)2023年7月1日TIUとウイラメット大学1978年4月に国際商科大学(TIU)に入学しました。当時は、外国の歴史、国際関係の理解深堀と必要な語学力を高めグローバル人になりたい思いが漠然とありましたが、特に専門の学行などに行くこともなくマイペースな独学で英語など勉強していました。 2年時の夏休みにアルバイトで貯めたお金でリンガフォンと言う英語教材を購入し、ややスイッチが入った感がありました。3年時からは小峯ゼミで国際金融論を専攻しました。当時の欧州通貨制度関連の文書を読まされましたが、現在の共通通貨ユーロへの生みの苦しみなどの流れが概念的に理解出来ました。 それと、並行し中学から始めた陸上競技(短距離)を継続していました。残念ながら、当時のTIUには陸上競技部がなく、近くの入間川グランドでの自主トレからの出発です。 幸いに、英語はELI(English Language Institute)、陸上は小川町のチームからお誘いがありようやくメンバとしての活動が叶いました。 1980年夏のウ大のスカラシップを受験したのですが、確か最後の3名まで残り、自分以外の2名が公費留学生に採用されました。その2名の中の1名が同郷の兵庫県立芦屋高校出身の和田昇君で、就職後現在も付き合いが続いています。当方も、御慰めで夏季セミナーの奨学金を頂く事出来たのでが、当然参加させていただきました。 (ウ大でカウンセラーをしていただいたJudyさんと。小柄でチャーミングでテニスが上手な方でした。英語の発音をバッチリと叩き込まれました。英会話は、かなり自信がつきました。) 就職活動1982年の就職戦線は、TIU全体でも好調だったと思います。小峯ゼミでは、東京海上、三菱商事、三菱銀行など大手超一流企業の内定者が続出しました。当方も、運よく日本電気、キャノン、City Bankなど複数社で内定を頂きました。悩んだ末、当時理系・文系男子人気ナンバーワンの日本電気に入社する事にしました。日本電気には、1名だけTIUのOBの方がおられ、自分以降も続いて欲しいなと感じていましたし、入社後数年間は毎年数名の在学生がOB訪問として当方へ来られていました。1名の方が入社されたのは記憶がありますが、残念ながら途中で退職されています。 今は、当時とは大分事情が違うと思いますが、入社したらどこの大学出身とか関係ないと思います。すべて、ゼロスタートで個人の成長に委ねる事が非常に大きいと感じています。 咋今の学歴フィルータは、受け入れ企業側が効率を優先(応募の数を絞る)するには仕方がない方法ですが、実力のあるB,Cランク大学の学生に取り残念な手段だと思います。ただ、今は個人の情報発信がかなり自由に出来るので、いい意味で目立つ活動を在学中にされたらいいと思います。パフォーマンスは処世術として姑息な手段とも取れますが、会社に入っても重要となります。 日本電気入社前半は半導体ビジネス:1982年に入社後、すぐに半導体事業グループの当時の最先端半導体の工場の管理部門に配属されました。希望していた海外営業でなく暫くふて腐れていましたが、モノ作り側なので表面的ですが技術あるいは供給側のサプライチェーンなどの理解に役立ちました。 当時NECは半導体世界ナンバーワンで、毎年海外の工場の大型投資を進めており、その仕事に関われたこともモチベーションの向上に繋がりました。当時は、海外ビジネスに携われる人材が不足しており、入社2-3年の当方も数億円の投資企画書の作成を自ら作成せざるを得ない状況でした。地球儀を俯瞰しながら、グローバルサプライチェーンの最適を上司・仲間と検討する日々でした。 入社当時のNEC相模原事業場です。当時最先端の6インチウエハーの工場でした。この様な工場が、日本のみならず、北米、欧州、シンガポール等で複数稼働していました) 最初の転機は、結婚後の1988年です。上司から、UKの工場の管理部門に行かないかとの打診がありました。ただ、マーケットに向かい合いたい希望が擽っていたので営業部門への異動を希望し、北米向けの半導体営業への異動が実現しました。ASICと言うカスタム(顧客用途別)LSIの担当となり、米国法人の営業と連携しIBM、AT&Tなど大手ICT顧客からDesign win獲得のため出張などを重ねながらビジネスの拡大を進めました。当時は、係長でしたが年商50億円+の予算が与えられていました。営業は顧客が優先ですが、モノ作り部門出身というサプライサイドでの経験は大いに役たちました。 ビジネスは、Market in であつてProduct outではだめだ(主にB2Bですが)とよく言われますが、十分な供給側のマーケティング、高い技術力のある分野では後者も通じると思います。素材、部品など一部の日本企業はproducts outパターンでも対応出来ますが、それ以外の分野は厳しくなりました。 その後、北米の半導体販売会社への駐在の話などもありましたが、今度は海外営業グループの企画・新規ビジネス関連部門への異動が命ぜられました。バブル後に、会社として海外含めて売る新製品が不足する大変な時期でした。カラー液晶の海外営業組織が立ちあがり、営業での再登板となりました。この製品も、やはり日系の大手企業が複数参入してきました。当初から、いずれ台湾・韓国勢に追い抜かれると言う半導体事業と同じ構図がグローバルでも描かれていました。 営業アプローチは、シンプルで従来のCRT(ブラウン管)モニタを使用している業種・顧客への売り込みです。主に、PC、Work station、POCレジなどのメーカであるApple, Compaq, Dell, Sun Micro,台湾系PC OEM,NCRと測定器などのTechtronics, Agirentなどが主要顧客です。現地営業の日々の営業活動と日本からの新規技術紹介などを連動させ事業拡大を進めました。 ただ、IBMはPCビジネスのHQが神奈川県大和市にあり、そこの開発購買へのアプローチが重要です。日本での直販は初めてでしたが、これがまた楽しく社会人人生後半へ生かすことが出来たと(今から振り返って)感じます。本来、海外市場で営業活動するのがグローバルと捉えていたのが、日本も含めての活動がグローバルとの概念へと軌道修正した瞬間でした。確か、世の中も「海外、国際」から「グローバル」と言う言葉が使用された時期でした。 (三田にあるNEC本社ビル。本社スタッフ、営業部門が集結しています。) 後半はICTビジネス1990年代後半から、米国のパソコンメーカ、Microsoftなどが一気に日本へ参入して来て、IT、情報化と言う言葉が広く使用されだしました。日本の半導体メーカの凋落が始まった時期でした。転職なども考え、Intel社まどから内定がもらえましたが、最終的には社内公募制度で情報システム部門へ異動しました。これは、専業企業では転職そのもので、すべて一からの出直しを覚悟し臨みました。 組織デザインも全然別で、全ての損益責任はフロントの営業が持つ仕組みです。ご存知の通リ日本のIT企業の多くは自社製品単品のビジネスモデルでなく、仕入れ製品、SE(System Engineer)のシステム開発費用、アフターサービス等含めたSystem integrationモデルです。これは、日本独特のモデルで、後々グローバル化が上手く進まないと言う事に気ずく事になります。大変なとこに来たなと感じました。 異動先の事業部長と相談し、最初は勉強も兼ねSE部門のプリセールスとしてERP(Enterprise Resource Planning)ソフトおよびSystem Integrationの拡販を進めました。ERPソフトは従来の汎用機(大型コンピュータ)上ですべて個別開発していたシステムに代わる業務パッケージソフトです。基本的な業務プロセスは、Pre Packageされているので開発工数の低減と早期導入が可能と言うのがうたい文句です。ただ、お客様の生産管理、販売管理などの理解がないと追加開発領域が多くなるので、業務コンサル的なサービスが必要となります。 当方が、異動出来たのは半導体中心ですが、生産、販売、グローバルの経験があり、それなりにお客様先で語れるのが大きな理由だったと思います。担当は、日本の大手製造業でしたので、当然システムもグローバル展開が条件となります。ここで、ようやく得意と感じていたグローバルが出てくるわけです。 ただ、お客様が製造業と言う事もあり、東南アジア、中国の工場システム案件が多く一度は欧米から離れる事になります。海外出張でお客様の情報システムの方に会うと、その方の同期の東京の何処の誰だれはどうしているか・・。など宴席で聞かれながら商談をしたことが多々あります。日本人全般ですが、海外にいると本社情報が少なくなり気になるのでしょう。お客様本体との間柄を上手くブリッジするのも営業の役目です。本当に、Domesticなグローバルビジネスでした。 新事業を担当した時期もありました。RFID(Radio Frequency Identification)ソリューションの立ち上げの際には、米国のWal Mart様に大胆にも出向きました。彼らの商品の入出庫、倉庫業務の効率化システムの提案を行うのが目的です。何度もアーカンサスにある本社に足を運びました。結局、現地体制が上手く出来ず受注には至らずでした。しかし、世界ナンバーワンの企業と仕事が出来たのは自分含めてメンバにもいい経験だったと思います。 ドイツ企業とのアライアンスと駐在:その後、社内でもIT部門のグローバル化の推進と外資大手企業とのアライアンス推進の動きが加速し始めました。双方のマーケット(顧客)を連携して深掘する戦略です。綺麗な絵ですが、現場の営業レベルに落ちるとドロドロした事となります。そのような状況の中で、2008年の春頃に上司の事業本部長から突然ドイツのSAP社とアライアンスと市場開拓の目的でドイツに行くよう命じられました。 理由は、「欧米でIT関連の仕事を任せられるのはお前しかいない」との事でした。エレベータ内のやり取りで周りの連中も聞いていました。あえて、その場を利用したのでしょう。すでに、現地組織の立上げスケジュールも確定し、メンバもほぼ確定していた様でしたが、マネジメント、対外折衝、営業活動など雑用役として白羽の矢が立ちました。 時間が無い中で、組織の役割、企画案など作成し関連部門と調整しコメントを貰おうとしましたが、誰も経験が無いのでいい回答が得られませんでした。不満と不安が募り、辞令を拝命した例の上司に話したところ、目の覚めるような返事が返ってきました。「気持ちは分かるが、お前が不安になれば皆が不安になる・・・・」。これは、上司との信頼関係が構築されており、すべて思った通リにやれと言う内容として励みになりました。駐在は、いろいろ家族とも話し合いましたが子供の教育などもあり単身で行くことになりました。 (40歳後半で単身赴任前の家族での送別会です。もう少し、時期が早ければとも思いましたが・・。) 2008年7月14日に現地に到着し、ドイツ南西部Baden-Württemberg州のマンハイムと言う町に住む事にしました。人口40万の中堅都市でしたが、職場、フランクフルトなどへのアクセスもよく快適な暮らしができました。 (マンハイムのダウンタウンの入り口の公園です。季節の色とりどりの花が美しく クリスマス・マーケッとも開催されます。) 業務は、事務所立上げから始まり現地法人内での組織、ITシステムの適用、エンジニア用のコンピュータルーム、IT機器・事務機など調達、ドイツ人秘書の採用など一からです。次は、日本から帯同したエンジニアの仕事の内容を本社、他地域のメンバと調整しながら進めました。SAPと言うグローバル業務ソフトにNECのソリューションを連携しグローバルで売れるようにする仕組み作りです。当然、SAP本社、関連するITパートナへの連携も重要です。ほとんど、部下とパートナなどのモチベーション向上の仕掛け作りが仕事です。 一方、自分としては、やはり営業ですので日系のお客様が中心になりますが現地での市場開拓に邁進しました。10人弱の組織で対外的に如何に影響力を持たせるかが重要な役割です。営業も、SAPのような大きなシステムは東京本社含めたお客様コンタクト無ではそうは売れるわけではないので、適時東京に戻り東京の営業との顧客訪問などを行いました。ドイツ顧客に対しては、手離れがいい商材を本社から持ち込みドイツ企業などへアプローチをかけました。先日も、当時のドイツのお客様の社長とコンタクトしたりして、ネッとワークは今でも役立っています。 また、欧州のIT企業への出資などの戦略も本社側で検討していた時期で、何社かの評価など本社の企画部門の方と進めました。ご存じの方も多いかと思いますが、日系IT企業が得意としているのは単品の販売ではなくSystem Integrationです。お客様の、戦略ならびに業務を理解しITで課題解決を提案する内容です。その為、各地域、国のお客様自身のビジネスが理解出来ているIT会社を買収するのが手っ取り早くなります。競争力のあるハードウェア製品を保有している企業に比べ、グローバル化の難易度が一段と上がります。ただ、現地でしか出来ない経験が出来たのは、僅かな成功体験よりよかったと思います。 また、余暇の話は腐るほどあるのですが割愛させていただきますが、一点前述の和田昇君もPanasonicの社員としてドイツのハンブルグに同時期に駐在されており偶にフランクフルトで合流しました。現在も交流が続いています。 2012年の春に帰任する事になりますが、ドイツ駐在で得た経験、人脈がその後役立つ事になります。帰国後は、中華圏APAC営業本部で大洋州・シンガポール地域の営業とITソリューション軸で本部責任を担う事になりました。 方針はシンプルで、シンガポールにSAP, MicrosoftのERP要員がいましたので、彼らの体制強化と他のAPAC地域へのビジネス展開です。上記のERP製品は他社製品ですのでプラスで自社製品、例えばPOS端末などと連携した流通業向けSystem integrationメニューの強化などを行いました。欧米に比べ、アジアは多少日本と近いITビジネスモデルがあるのとNECの企業バリューが高いので、数字は上がりました。 2014年には、国際情報化協力センタ(CICC:Center of the International Corporation of Computerization)を兼務しました。ここは、元経済産業省の外郭団体で日本の大手IT企業の参画をベースに東南アジアを中心にICTの協力、企業側としてはODAなど国際協力資金を活用したビジネスの拡大を推進する組織です。すでに、55歳になっていたのでNECでの最後の楽しみ場所と考え、好きな様にさせてもらいました。海外の政府機関との折衝などは初めての経験で勉強になりました。CICCの名目でNECの災害、防衛、サイバーセキュリティなどの提案を行い、実証なども行いました。内戦前のミャンマーとかバングラディシュ、カンボジアなどの警察・軍関係の方々面会出来たのは貴重な経験でした。 NEC卒業後と現在最終的には、2019年にNECを予定通り退職しましたが、帰任後も、ドイツ関連の方々とのネットワークを大切にしてきたので、その腐れ縁が思いもよらぬ方向へ進みました。 現在は、駐在中に名刺交換をさせていただいたドイツの人材会社のご紹介もありELATEC GmbHの日本代表(と言つても小所帯ですが)をさせて頂いています。日本市場の立ち上げに日本企業の本社とのアライアンス、新規市場開拓です。コロナ下で、なかなか本社のミュンヘンには行けませんでしたが、昨年の10月のお客様セミナ+Oktober Festでの打ち上げに入社前面接以来久々に行く事が出来ました。 (現会社のお客様向けセミナおよびイベントに参加、2022年10月) 長々と、お付き合いいただきありがとうございました。最後になりますが、振り返り自分の歩いたグローバルビジネスは、遠回りしながらも多数の方々に支えられて来たのだと思います。 何十年も外国でご活躍されている優秀な方とは違い、日本国内の営業も経験出来たのが現職の外資系企業では評価されたのかも知れません。特に、これから社会人になられる方は人生長丁場となります。数年で成果が出ず悩んだ時は、焦らずに一呼吸おいて自問しながら再スタートを切って下さい。 (保井和毅さんプロフィール) 1977年3月兵庫県西宮高等学校卒業 1978年4月国際商科大学商学部入学(小峯ゼミ/ELI: English Language Institute) 1982年3月同校卒業 1982年4月日本電気株式会社入社 第一LSI事業部計画部配属 1986年6月半導体企画室海外推進部異動 1990年6月北米電子デバイス部異動 1999年6月製造装置ソリューション事業部(ITシステム営業)移動 2008年6月NEC Europe Ltd. NEC SAP Solution Center(ドイツ)駐在 2012年6月APAC営業本部へ帰任(ITソリューション全体統括) 2016年4月財団法人 国際情報化協力センタ(CICC)兼務 2019年4月日本電気株式会社退職 2019年5月~2020年5月日欧ビジネス開拓コンサル 2020年6月ELATEC GmbH日本代表就任 2022年9月ドイツECOSコンサルティング 特別顧問就任(副業) TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
江戸庶民の味、天ぷらを今に伝える伝統の老舗「三定(さんさだ)」に、お立ち寄りください。
真田優さん(1983年卒業 商学部 野口衡ゼミ)2023年3月1日志望動機は、広々としたキャンパスと海外留学ができる大学でした 高校は千葉県市川市にある日出学園高校で、ラグビーや柔道を試みるスポーツマンでした。校長の勧めもあり、大学は都心でなく、郊外の環境の整った広々としたキャンパスのある大学を希望。もう一つの志望動機は、海外の大学へ留学できることでした。 1979年4月に国際商科大学(現東京国際大学)商学部に入学しました。入学後は、米国のウイラメット大学と英国の大学へ2回の留学研修を体験して、海外留学の希望はかなえられました。野口衡教授には1年のチュートから4年のゼミナールまで一貫して指導を受けていました。とても物静かな先生であり、今でも巡り合えてよかったと感謝しています。 大学生活では、英語のクラス仲間や先輩・後輩にも恵まれ、とても楽しかったですし、充実した時間を過ごすことができました。親しい友人として高橋時康氏、中野雅史氏、鈴木啓介氏、菅原誠氏、柳沼泰寛氏、成田成章氏らとは、よく行動を共にしました。また、米山昭一郎先生とそのゼミのメンバーとの交流も多かったです。当時、大学広報課の高島信六さんには、よく食事に連れて行ってもらい、いろいろと話をして交歓のひとときをもった良き思い出があります。 「三定」は、雷門近くにある日本で最も古い天ぷら老舗です 大学を卒業するとともに、すぐに家業の天ぷら屋を手伝うようになりました。今は江戸文化を今でも伝える浅草の雷門の横にある天ぷら屋「三定(さんさだ)」の七代目を弟と共に継いでいます。 「一に浅草、二に観音、三に三定の天ぷら」のキャッチフレースで有名な三定。地下鉄浅草駅からすぐの雷門の近くにある老舗です。三定の創業は、天保八年(1837年)。江戸時代の事でした。以来180年以上に渡り、天ぷら屋として最も古い暖簾を継承しております。 初代の定吉(さだきち)は、天保二年、同郷の先輩を頼りに三河(今の愛知県)より上京し、後に人形町の自宅前に天ぷら屋台をはり、三河屋定吉(みかわやさだきち)、即ち三定(さんさだ)となりました。明治18年に浅草寺の門前にある現在の場所に店を構えました。 (雷門通りに面した本館の入り口。お土産用天ぷらの販売も行っております。) (本館一階テーブル席) (新館大広間) 店内に飾られている三定繁昌之図には、三定が描かれています 三定店内のとある場所に飾られている、時代を感じさせる浅草寺界隈を描いた版画「東京名所之内 金龍山浅草寺真景」。江戸期ではなく明治21年に描かれたものですが、右奥に浅草寺の観音堂、中央手前には、三定と出入りするお客様が描かれています。行き交う人々や馬車、人力車などの姿から、当時の雰囲気が伝わって来ます。店内で見かけられた際は、ぜひじっくりとご覧になってください。 (浅草寺界隈を描いた版画「東京名所之内 金龍山浅草寺真景」に三定が描かれている)クリックで拡大 三定の天ぷらは江戸前天ぷらです 三定の天ぷらはいわゆる江戸前天ぷらでございます。初代定吉が売り出した、江戸近海でとれた小魚などに衣を付け、胡麻油で揚げて屋台で売り出した天ぷらは当時の人々に好評を博したと伝えられております。今日のわたしたちも胡麻油の風味豊かな天ぷらをお召し上がりいただけるよう、努力しております。胡麻油を用いる江戸前天ぷらは衣が茶色味を持ちます。当店独自の胡麻油で新鮮な素材を揚げた天ぷらは、芳醇な香りと軽い歯ごたえを持ちます。大根おろしと特製の天つゆでお召し上がりください。 名物メニューの一つに、貝柱と小海老を主とした“かき揚げ”があります。大きいものは直径30cmに厚さが5cmもあるので、お客様はびっくりされます。 定番人気メニューは上天丼、中かき丼、旬の天ぷら盛り合わせなど 【天丼】はみ出す程の海老や、芝海老と小柱をまとめ上げ、ボリュームたっぷりのかき揚げをのせた天丼は、天ぷらの盛り合わせとはまた違い、よりダイナミックで庶民的な人気メニューです。胡麻油で揚げて、伝統の天つゆをたっぷりつけた三定の天丼をぜひご賞味ください。 上天丼(小かき揚げ/海老/白身魚) 中かき丼(中かき揚げ/なめこ汁) 【天ぷら】魚介類などに小麦粉の衣を纏わせて油で揚げる、今の形の天ぷらが広まったのは、江戸時代前期のことでした。江戸庶民の食べ物として広まった天ぷらは、今なお人気の高い和食の一つです。胡麻油で揚げる伝統を今に伝える、三定の天ぷらをぜひご賞味ください。 旬の天ぷら盛り合わせ(海老/野菜/魚介) 竹定食(前菜/お刺身/天ぷら/焼物/茶碗蒸し/酢物/なめこ汁/御飯/香の物/果物) 浅草観光、観音様のお参りの際のお食事に、三定(さんさだ)にお立ち寄りください 三定は日本最古の天ぷら屋でございます。わたしたちは江戸の伝統を大切にしつつも、移り行くお客様のニーズにお応えできるように心がけてまいりました。これはひとえに、店の主人は必ず調理場に立たなければならない、という三定の掟によるものです。江戸時代の創業以来、わたしたちはこのオーナーシェフ制度を代々守ってきました。わたしたちには雷門の店があるだけですが、それは店主が店から目を離す事が無いようにするためです。 今は弟の息子である真田賢太郎も若旦那として家業を手伝ってくれています。味はファッションと同じで、時代によってお客さんの嗜好も変わってきますので、伝統の上に胡坐をかくことなく、いつの時代にもお客さんがおいしいといってくれるものを提供していきたいと思っています。守るべきは一筋通し、枝葉をアレンジするのも代々のオーナーシェフの役割です。 これからも私どもはお客様の声を大切にしながら、江戸の文化を守り続けて参ります。 浅草には年間を通じていろいろの行事があります。正月の初詣参りから始まり、5月の勇壮な三社祭り、熱気溢れるサンバカーニバル等など。祭りの日程に合わせて浅草に来てくれる人が多くなりました。浅草観光、観音様のお参りの際のお食事に、江戸庶民の味、天ぷらを今に伝える伝統の老舗・三定(さんさだ)にお立ち寄りください。特に同窓生の皆様には、ご来店の際にはお声がけをしていただけたら嬉しいです。 (真田優さんプロフィール) 1979年3月日出学園高校卒業(千葉県市川市) 1979年4月国際商科大学(現東京国際大学)商学部入学ウイラメット大学、英国大学へ留学・研修 1983年3月国際商科大学(現東京国際大学)商学部卒業 野口ゼミ大学卒業後、江戸前天ぷら「三定(さんさだ)」入店現在、家業を継いでいます。 (雷門三定ホームページ) http://www.tempura-sansada.co.jp/ 東京都台東区浅草 1-2-2 電話 : 03-3841-3200・03-3841-3400 東京メトロ(地下鉄)銀座線浅草駅 1番出口より徒歩1分 都営地下鉄 浅草線 浅草駅 A4 出口より徒歩3分 東武線 浅草駅(松屋デパート)より徒歩3分 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
真田優さん(1983年卒業 商学部 野口衡ゼミ)2023年3月1日志望動機は、広々としたキャンパスと海外留学ができる大学でした 高校は千葉県市川市にある日出学園高校で、ラグビーや柔道を試みるスポーツマンでした。校長の勧めもあり、大学は都心でなく、郊外の環境の整った広々としたキャンパスのある大学を希望。もう一つの志望動機は、海外の大学へ留学できることでした。 1979年4月に国際商科大学(現東京国際大学)商学部に入学しました。入学後は、米国のウイラメット大学と英国の大学へ2回の留学研修を体験して、海外留学の希望はかなえられました。野口衡教授には1年のチュートから4年のゼミナールまで一貫して指導を受けていました。とても物静かな先生であり、今でも巡り合えてよかったと感謝しています。 大学生活では、英語のクラス仲間や先輩・後輩にも恵まれ、とても楽しかったですし、充実した時間を過ごすことができました。親しい友人として高橋時康氏、中野雅史氏、鈴木啓介氏、菅原誠氏、柳沼泰寛氏、成田成章氏らとは、よく行動を共にしました。また、米山昭一郎先生とそのゼミのメンバーとの交流も多かったです。当時、大学広報課の高島信六さんには、よく食事に連れて行ってもらい、いろいろと話をして交歓のひとときをもった良き思い出があります。 「三定」は、雷門近くにある日本で最も古い天ぷら老舗です 大学を卒業するとともに、すぐに家業の天ぷら屋を手伝うようになりました。今は江戸文化を今でも伝える浅草の雷門の横にある天ぷら屋「三定(さんさだ)」の七代目を弟と共に継いでいます。 「一に浅草、二に観音、三に三定の天ぷら」のキャッチフレースで有名な三定。地下鉄浅草駅からすぐの雷門の近くにある老舗です。三定の創業は、天保八年(1837年)。江戸時代の事でした。以来180年以上に渡り、天ぷら屋として最も古い暖簾を継承しております。 初代の定吉(さだきち)は、天保二年、同郷の先輩を頼りに三河(今の愛知県)より上京し、後に人形町の自宅前に天ぷら屋台をはり、三河屋定吉(みかわやさだきち)、即ち三定(さんさだ)となりました。明治18年に浅草寺の門前にある現在の場所に店を構えました。 (雷門通りに面した本館の入り口。お土産用天ぷらの販売も行っております。) (本館一階テーブル席) (新館大広間) 店内に飾られている三定繁昌之図には、三定が描かれています 三定店内のとある場所に飾られている、時代を感じさせる浅草寺界隈を描いた版画「東京名所之内 金龍山浅草寺真景」。江戸期ではなく明治21年に描かれたものですが、右奥に浅草寺の観音堂、中央手前には、三定と出入りするお客様が描かれています。行き交う人々や馬車、人力車などの姿から、当時の雰囲気が伝わって来ます。店内で見かけられた際は、ぜひじっくりとご覧になってください。 (浅草寺界隈を描いた版画「東京名所之内 金龍山浅草寺真景」に三定が描かれている)クリックで拡大 三定の天ぷらは江戸前天ぷらです 三定の天ぷらはいわゆる江戸前天ぷらでございます。初代定吉が売り出した、江戸近海でとれた小魚などに衣を付け、胡麻油で揚げて屋台で売り出した天ぷらは当時の人々に好評を博したと伝えられております。今日のわたしたちも胡麻油の風味豊かな天ぷらをお召し上がりいただけるよう、努力しております。胡麻油を用いる江戸前天ぷらは衣が茶色味を持ちます。当店独自の胡麻油で新鮮な素材を揚げた天ぷらは、芳醇な香りと軽い歯ごたえを持ちます。大根おろしと特製の天つゆでお召し上がりください。 名物メニューの一つに、貝柱と小海老を主とした“かき揚げ”があります。大きいものは直径30cmに厚さが5cmもあるので、お客様はびっくりされます。 定番人気メニューは上天丼、中かき丼、旬の天ぷら盛り合わせなど 【天丼】はみ出す程の海老や、芝海老と小柱をまとめ上げ、ボリュームたっぷりのかき揚げをのせた天丼は、天ぷらの盛り合わせとはまた違い、よりダイナミックで庶民的な人気メニューです。胡麻油で揚げて、伝統の天つゆをたっぷりつけた三定の天丼をぜひご賞味ください。 上天丼(小かき揚げ/海老/白身魚) 中かき丼(中かき揚げ/なめこ汁) 【天ぷら】魚介類などに小麦粉の衣を纏わせて油で揚げる、今の形の天ぷらが広まったのは、江戸時代前期のことでした。江戸庶民の食べ物として広まった天ぷらは、今なお人気の高い和食の一つです。胡麻油で揚げる伝統を今に伝える、三定の天ぷらをぜひご賞味ください。 旬の天ぷら盛り合わせ(海老/野菜/魚介) 竹定食(前菜/お刺身/天ぷら/焼物/茶碗蒸し/酢物/なめこ汁/御飯/香の物/果物) 浅草観光、観音様のお参りの際のお食事に、三定(さんさだ)にお立ち寄りください 三定は日本最古の天ぷら屋でございます。わたしたちは江戸の伝統を大切にしつつも、移り行くお客様のニーズにお応えできるように心がけてまいりました。これはひとえに、店の主人は必ず調理場に立たなければならない、という三定の掟によるものです。江戸時代の創業以来、わたしたちはこのオーナーシェフ制度を代々守ってきました。わたしたちには雷門の店があるだけですが、それは店主が店から目を離す事が無いようにするためです。 今は弟の息子である真田賢太郎も若旦那として家業を手伝ってくれています。味はファッションと同じで、時代によってお客さんの嗜好も変わってきますので、伝統の上に胡坐をかくことなく、いつの時代にもお客さんがおいしいといってくれるものを提供していきたいと思っています。守るべきは一筋通し、枝葉をアレンジするのも代々のオーナーシェフの役割です。 これからも私どもはお客様の声を大切にしながら、江戸の文化を守り続けて参ります。 浅草には年間を通じていろいろの行事があります。正月の初詣参りから始まり、5月の勇壮な三社祭り、熱気溢れるサンバカーニバル等など。祭りの日程に合わせて浅草に来てくれる人が多くなりました。浅草観光、観音様のお参りの際のお食事に、江戸庶民の味、天ぷらを今に伝える伝統の老舗・三定(さんさだ)にお立ち寄りください。特に同窓生の皆様には、ご来店の際にはお声がけをしていただけたら嬉しいです。 (真田優さんプロフィール) 1979年3月日出学園高校卒業(千葉県市川市) 1979年4月国際商科大学(現東京国際大学)商学部入学ウイラメット大学、英国大学へ留学・研修 1983年3月国際商科大学(現東京国際大学)商学部卒業 野口ゼミ大学卒業後、江戸前天ぷら「三定(さんさだ)」入店現在、家業を継いでいます。 (雷門三定ホームページ) http://www.tempura-sansada.co.jp/ 東京都台東区浅草 1-2-2 電話 : 03-3841-3200・03-3841-3400 東京メトロ(地下鉄)銀座線浅草駅 1番出口より徒歩1分 都営地下鉄 浅草線 浅草駅 A4 出口より徒歩3分 東武線 浅草駅(松屋デパート)より徒歩3分 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
たたかう!ランドスケープアーキテクト
鈴木マキエさん(1995年 国際関係学部入学、長谷ゼミ 1996年TIUA、2000年ウィラメット大学卒業:BA in Art & Sociology)2022年12月1日1996年TIUA生、2000年ウィラメット大学卒業生の鈴木マキエです。 現在はシアトルを拠点とするランドスケープアーキテクチャー会社「GGN」の一員として世界各国の都市・地域開発やデザインプロジェクトに参加させていただいています。 獅子白兎のTIUA・ウィラメット留学生活 フィリピンやブラジル出身のご近所さんが多い地区で育った私は、子供の頃から「広い世界が見たい」と漠然と留学を思い描いていました。が、しかし、その夢とは裏腹に、英語も含めテスト直前に詰め込み乗り切る「横着者」にグングン育った結果、進路決定時に正規留学は難しく、幅広い英語レベルの生徒を受け入れているTIUAプログラムに惹かれTIUに入学。ろくに英語ができないままオレゴンへ行くことに! そこで学んだのが、私の英語力では宿題を適当にやって無難な成績を取ることは不可能ということ!要領で流すことは通用せず、人生初めて真正面から勉強に取り組まなければいけなくなってしまいました。これを機に一生懸命勉強することが楽しくなったのは私の人生を変えた大きな出来事でした。 寮でも日本・アメリカ・海外からの留学生問わず一生懸命友達作りに励みました。当初、無口で小柄な私に対するアメリカ人の第一印象は典型的なおとなしい日本人。単に英語が話せなかっただけなんですが。。。 笑) 面白い冗談が言えないのはまだしも、かなり面白い冗談で笑わ(え)ない私を、「面白好きなヤツ」と理解してもらうのに当初はかなり苦戦しました。が、出川哲郎流さんも推奨の「魂で話すアプローチ」で交流し、少しずつ友達の輪を広げていきました。友達を作るのに人生で一番努力したのはこの時だった、と感じます。 Willamette University International Dinner 国際留学生の皆と。 努力の成果もあり、寮を追い出される夏休みはアメリカ人の友達数人の家に寄せてもらい貴重な経験をしてきました。中でも印象的なのは、制限速度のないモンタナで友人が仮免中だった私に運転練習させてくれた際、日本ではありえない古さのバンのギア変更が難しく、急な山道の下り坂カーブでスピードが出すぎ同乗者全員(2021年の投稿者飯島さん含む)が「殺す気かー!」と恐怖に陥った件、ワイオミングの友人の牧場で映画「The Horse Whisperer」のモデルになった馬小屋に寝泊まりしたワイルドな日々、牧場到着と同時にオーストラリア出身のカウボーイ達に向こう訛りで「%$x0&*#パレード行くか?」と聞かれ、「Yes]と答えたら馬車にポーンと乗せられ、見物に向かうと思いきや沿道に現れた大勢の人々に手を振られ、パレード登場を果たしていたドッキリ!事件、日本人の名前が覚えられない友人の伯母さんに「ジュリアロバーツ」というニックネーム(?)で呼ばれ、田舎街で名前を耳にした人々を「えっ、どこにいるの?!?!」とキョロキョロさせた件などなど、今でも集まれば話題に上る武勇伝がたくさん誕生しました。 TIUAやウィラメット時代を振り返ると宿題一つから友人関係、日常生活に至るまで何においても一生懸命、獅子白兎で立ち向かった日々だったと感じます。ここで培った頑張る精神は後の過酷な建築系大学院の時代を乗り切る基礎にもなったと思われます。 ワイオミングでのカウボーイライフ。 発見!ランドスケープアーキテクチャー ウ大卒業後は憧れの街サンフランシスコへ。直接仕事に繋がる専攻でなかったこともあり、就職難に直面。そこで公園を通じて地域向上を目指すNPOで研修生をしながら社会に役立つ専門分野で大学院に進むことを考え始めました。NPOで担当した土地利用調査や市民参加型公園計画の企画、公聴会への参加などがきっかけで、都市計画に興味を持ち、大学院進学を念頭にカリフォルニア大学バークレー校のキャリアフェアに参加。申し込みの際2つの学科のセッションが選べるんですが、都市計画の他にもう一つ「なんだろ、この学科?」レベルで選んでみたのがランドスケープアーキテクチャーでした。軽い興味で受けたセッションでしたが。。。 実は社会学や環境のみならずアートも絡んだ面白い分野であることが発覚!早速心変わりし、大学院はランドスケープアーキテクチャーに決定! 翌年、都市での環境デザイン、コミュニティーデザインが強いシアトルのワシントン大学に進学。大学院ではイタリア、中国、台湾などに短期留学。神戸でも震災復興後のまちづくりに参加するなど、多忙でしたが様々な風土、文化、そしてデザインプロジェクトを体験できました。最終的にはランドスケープの修士号に加え、都市計画学科とコラボのアーバンデザインサーティフィケイトも取得し卒業しました。 日本語ではランドスケープアーキテクチャーという分野を包括する言葉がなく、緑化、造園、園芸などと部分的な面で訳されてしまいますが、庭や外構だけでなく、色々な分野と連携を図り都市や地方、コミュニティと一緒に地域のビジョンを打ち立てていくという大規模なスケールや公共空間、グリーンインフラに関わるプロとしても活躍している分野です。 キャリアで学ぶ SASAKIサンフランシスコでは、実戦でスキルを磨く 卒業と同時にサンフランシスコに舞い戻り、SASAKIという建築、土木、インテリア、エコロジストなど多分野が存在する総合設計オフィスに就職。関係分野の専門家と身近にやり取りしながらプロとして必要な知識やスキルを学びました。最初に取り組んだプロジェクトの一つ、アメリカ最大級の港、LA港の工業地区に大きな公園や遊歩道を作ったプロジェクトでは長年工業地帯に住んでいる人々の住環境の向上に貢献できたことに加え、多数の賞などをいただき、キャリア初期から有意義で面白いプロジェクトに恵まれ幸運でした。 しばらくするとバージニア大学に移った大学院時代の恩師から常勤講師をしてみないかと声をかけていただき、挑戦を決意。1年半程働いたオフィスから半年間の休職許可をもらい、大学のあるシャーロッツビルへ引っ越しました。 バージニア大学で初めての教鞭を取る アジア人、女性、英語が訛っている、(他の先生と比べて)若い、小さい。。。 私という人物は登場した瞬間に「立派な先生だ」という印象を与える要素は皆無です。想像通り指導者としてのリスペクトを得るのが最初のハードルとなりました。多くの助言や応援の中で、特に響いたのが「全てを知っている必要はない。教える相手より一歩先を行っていれば、その一歩について教えることができるから」というものでした。リスペクトを得るために無理に先生らしく振舞ったり、本来の自分より大きく見せたりする必要はない、自分の貢献できる形で自分らしく頑張ればいい、と思えた言葉です。 結局、当初半年だった予定は2回の延長により2年近くになり、徐々に自分の教えるスタイル的なものが見えてきました。豊富な現場経験のある指導者が少ないのが弱みだと学生時代から感じていた私は、現場の知識や経験を共有できる先生になりたかったので、もっと実践経験が必要と考えていました。そんな時、徐々にリーマンショックの波及を受け教員志望者が急増。それを機に現場復帰を決断。不景気真っただ中で元のオフィスは苦戦中だったので、元上司が移動した先のボストン本社で再就職となりました。 バージニアでは試行錯誤の日々でしたが、ご指導いただいた先生方や今では友達・同僚になっている生徒達のおかげで充実した日々を送ることができ、いい思い出となっています。この経験は現在客員教授をさせてもらっているワシントン大学でも生かされています。 バージニア大学の生徒たちと。 SASAKIボストンでは、中東やアジア各国の大規模開発、街や各地域のビジョン形成や骨組みのデザインなどに取り組む 現場復帰したボストン本社ではアジアと中東を中心に都市デザインや大きなスケールのマスタープランなどを担当しました。アーバンデザイン、建築、土木、エコロジーの専門家と一緒に中東やアジア各国の大規模開発、街や地域のビジョン・枠組み形成や空間デザインなどに取り組みました。 ヨルダン側の死海、4000haのマスタープランは中でも思いで深いプロジェクトです。世界一標高が低い「死海」はそのユニークな成分で体が浮くことや貴重なバスソルトとして有名ですが、その珍しさは水自体だけではなく、ワディと呼ばれる渓谷や、希少種達が利用する広大なタマリスク(低木)の森などの周辺環境にも及びます。農業発展による水源ヨルダン川の水量低下に伴う死海の水位低下は年に1mにも及び、毎年ビーチがリゾートから遠ざかってしまう問題、テロ防止策で立体/地下駐車場設置が困難で歩行者環境が厳しい点やセキュリティ管理が水際を私有地化している問題、必要な真水と汚水の再利用のバランスが取れた開発スピードの調整などなど、社会的課題も特殊でした。 中東のマーケティングの専門家や環境エンジニアも交えた専門家チーム全員で環境、政治、経済、テクノロジーなど全ての面に渡り、どうしたら現在の問題に答えながらも、より良い未来の可能性を守っていく持続可能なデザインができるか検討し、死海という場所にしかない良さを基軸に、真珠のネックレスのように小さめの開発を要所に展開し繋いでいくストラテジーを考案。ヨルダン初の環境アセスや住人公聴会も開き、地元民やリゾート従業員のための機能的で活気ある本物の街づくりも提案しました。 初めてリード的なポジションで、自分の力不足を痛感したプロジェクトでしたが、とても多くの学びがあり、個人的に大きく成長できたプロジェクトでした。 Dead Sea Development Zone Detailed Master Plan(提供:SASAKI Associates) GGNシアトルで、数か国の興味深いプロジェクトに携わる 多数のマスタープランプロジェクトを経て、実際の建設経験を求めて、コンセプトから建設まで丁寧に手掛けることで有名な現在の会社GGNに入社。シアトルに戻り早10年、時折ワシントン大学で教えながら、アメリカ全土や数か国に渡り大学やハイテク企業のキャンパスや複合開発、会社の無償活動を利用したNPOによるホームレスの住居プロジェクトまで幅広く興味深いプロジェクトに携わらせていただいています。2018年のコンペ時から参加している大阪の「うめきた2期」もその一つです。 うめきた2期。GGNチームはプロジェクト全体のランドスケープビジョンからコンセプトレベルのデザイン、都市公園区画は詳細までリードデザインとして担当 うめきた2期開発は2024年先行オープン、2027年完成予定の複合開発で関空と大阪駅をつなぐJRの新しい駅の真横に位置している計9haのプロジェクトです。敷地の中心に位置する4.5haの都市公園の他、商業やインキュベーション施設、コンベンションセンター、3つのホテルに2つの住宅棟なども含めた街区となる予定です。 詳しくはオフィシャルウェブページもあるので是非ご覧ください:https://umekita2.jp/ 私達GGNはプロジェクト全体のランドスケープビジョンからコンセプトデザイン、都市公園区画は詳細までリードデザインとして担当。クライアントとなる事業者9社をはじめ、複数の建築事務所を含む日本のデザインチームと共にデザインに取り組んでいます。 GGNの特徴としては与件や機能面のみならず、独自のデザインプロセスによりその土地の普遍的な本質を探り出し、模倣やコピペではない、その土地にしかない・その場所で一番輝ける本物のデザインを提案していく点です。 歴史・文化、社会環境、生物多様性など色々調べると「何もない」とか「価値のない」場所などなく、どこでも興味深いストーリーや地元の人が自分の街を感じる瞬間が存在しています。それをどう可視化し、機能・与件、自然環境やコスト、そして様々な人々の意見などとのバランスを取って表現していくか、プロジェクト一つずつ丁寧に検討していきます。 もちろん、うめきた2期でも色々な調査・分析を重ね、淀川と深い関りがある豊かで潤った大地の記憶や橋の街大阪をインスピレーションに、海外に誇れる日本らしさも現代的にデザインに織り交ぜていきました。 初めての日本のプロジェクトなので日本特有な事を学ぶ機会が満載です。高度な技術や完成度など世界に誇れる点も多い中、縦割りや保守的なアプローチが主流であること、専門的なデータ分析より経験則を重んじる傾向、事例主義など、公共空間の向上には多くの課題やハードルも多そうです。個人的に最初の事例自体がどうできたのかは「卵が先か鶏が先か」並みのミステリーだと感じています。 お店などは雰囲気をとても大事にするのに公共空間は機能さえしていれば安っぽくても仕方ない、とあきらめているのが日本人の感覚と感じることがありますが、公共空間の質を付加価値としてではなく街のバイタリティのベース・インフラとして捉えていくことにより、地域や街、日々の暮らしの豊かさの向上に繋がっていくのでは、と思っています。コロナの影響もあり、世界中で屋外や公共空間価の値感が見直されてきている今、日本でも新しい公共空間や地域のあり方に取り組む機会が増えることを願っています。 うめきた2期ではGGN 創立者の一人、世界的にも巨匠的存在であるキャサリンと深く協働することができ、共にプロジェクトに貢献できたことや、日本チームも含め様々な方々から学べた事に感謝しています。都市公園はこの春工事が開始されましたが、これからも気を抜かず、最後まで日本チームと一緒に頑張っていきたいと思っています。 うめきた2期開発-鳥瞰イメージ(提供:うめきた2期開発事業者) 「たたかう、ランドスケープアーキテクト」として、試行錯誤しながら自分らしくチャレンジして行きたい 最後に「たたかう、ランドスケープアーキテクト」のタイトルですが、去年行った日建設計講演の際、友人に「私らしい」と提案されたタイトルです。TIUA時代の「負けない」精神が反映されているのでは、と感じます。ここ数年パンデミックや治安・政情の悪化など、世界中暗いニュースが多く凹みがちな日もありますが、私が「たたかって」いけるのも様々な方々のサポートあってと再痛感させられた機会でもあります。 日本での公共空間向上やランドスケープアーキテクチャーの普及を考えると、どう「たたかって」いくべきか(まだ)分かりませんが、また試行錯誤しながら自分らしくチャレンジしていけたらなと思っています! 何か「たたかうランドスケープアーキテクト」がお役に立てそうなことがあればご一報をいただければ、と思います! (鈴木マキエさんプロフィール) 名古屋出身 愛知県立千種高校卒業。 1995年TIU国際関係学部入学、長谷ゼミ。 1996年TIUA、2000年ウィラメット大学卒業:BA in Art & Sociology。2012年 GGN Ltd入社 現在の役職はPrincipal。 GGN: https://www.ggnltd.com/ 米国シアトルを拠点にするランドスケープアーキテクト。TIUAの後、ウィラメット大学へ編入、Bachelor of Arts(アートと社会学)で卒業。ワシントン大学でMLA(ランドスケープアーキテクチャー修士号)とアーバンデザインサーティフィケートを取得。ランドスケープデザイン・建築オフィスやバージニア大学建築学部講師などを経た後、現在勤務しているGGNに2012年に入社。 40平方キロメートル以上の大規模な地域マスタープランからホームレスのための極小ハウスプロジェクトまで幅広いスケールやタイプのプロジェクトを手掛ける。過去に携わったプロジェクトは世界10か国以上。現在は大阪のうめきた2期地区開発も担当。ワシントン大学にて客員教授も兼任中。 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
鈴木マキエさん(1995年 国際関係学部入学、長谷ゼミ 1996年TIUA、2000年ウィラメット大学卒業:BA in Art & Sociology)2022年12月1日1996年TIUA生、2000年ウィラメット大学卒業生の鈴木マキエです。 現在はシアトルを拠点とするランドスケープアーキテクチャー会社「GGN」の一員として世界各国の都市・地域開発やデザインプロジェクトに参加させていただいています。 獅子白兎のTIUA・ウィラメット留学生活 フィリピンやブラジル出身のご近所さんが多い地区で育った私は、子供の頃から「広い世界が見たい」と漠然と留学を思い描いていました。が、しかし、その夢とは裏腹に、英語も含めテスト直前に詰め込み乗り切る「横着者」にグングン育った結果、進路決定時に正規留学は難しく、幅広い英語レベルの生徒を受け入れているTIUAプログラムに惹かれTIUに入学。ろくに英語ができないままオレゴンへ行くことに! そこで学んだのが、私の英語力では宿題を適当にやって無難な成績を取ることは不可能ということ!要領で流すことは通用せず、人生初めて真正面から勉強に取り組まなければいけなくなってしまいました。これを機に一生懸命勉強することが楽しくなったのは私の人生を変えた大きな出来事でした。 寮でも日本・アメリカ・海外からの留学生問わず一生懸命友達作りに励みました。当初、無口で小柄な私に対するアメリカ人の第一印象は典型的なおとなしい日本人。単に英語が話せなかっただけなんですが。。。 笑) 面白い冗談が言えないのはまだしも、かなり面白い冗談で笑わ(え)ない私を、「面白好きなヤツ」と理解してもらうのに当初はかなり苦戦しました。が、出川哲郎流さんも推奨の「魂で話すアプローチ」で交流し、少しずつ友達の輪を広げていきました。友達を作るのに人生で一番努力したのはこの時だった、と感じます。 Willamette University International Dinner 国際留学生の皆と。 努力の成果もあり、寮を追い出される夏休みはアメリカ人の友達数人の家に寄せてもらい貴重な経験をしてきました。中でも印象的なのは、制限速度のないモンタナで友人が仮免中だった私に運転練習させてくれた際、日本ではありえない古さのバンのギア変更が難しく、急な山道の下り坂カーブでスピードが出すぎ同乗者全員(2021年の投稿者飯島さん含む)が「殺す気かー!」と恐怖に陥った件、ワイオミングの友人の牧場で映画「The Horse Whisperer」のモデルになった馬小屋に寝泊まりしたワイルドな日々、牧場到着と同時にオーストラリア出身のカウボーイ達に向こう訛りで「%$x0&*#パレード行くか?」と聞かれ、「Yes]と答えたら馬車にポーンと乗せられ、見物に向かうと思いきや沿道に現れた大勢の人々に手を振られ、パレード登場を果たしていたドッキリ!事件、日本人の名前が覚えられない友人の伯母さんに「ジュリアロバーツ」というニックネーム(?)で呼ばれ、田舎街で名前を耳にした人々を「えっ、どこにいるの?!?!」とキョロキョロさせた件などなど、今でも集まれば話題に上る武勇伝がたくさん誕生しました。 TIUAやウィラメット時代を振り返ると宿題一つから友人関係、日常生活に至るまで何においても一生懸命、獅子白兎で立ち向かった日々だったと感じます。ここで培った頑張る精神は後の過酷な建築系大学院の時代を乗り切る基礎にもなったと思われます。 ワイオミングでのカウボーイライフ。 発見!ランドスケープアーキテクチャー ウ大卒業後は憧れの街サンフランシスコへ。直接仕事に繋がる専攻でなかったこともあり、就職難に直面。そこで公園を通じて地域向上を目指すNPOで研修生をしながら社会に役立つ専門分野で大学院に進むことを考え始めました。NPOで担当した土地利用調査や市民参加型公園計画の企画、公聴会への参加などがきっかけで、都市計画に興味を持ち、大学院進学を念頭にカリフォルニア大学バークレー校のキャリアフェアに参加。申し込みの際2つの学科のセッションが選べるんですが、都市計画の他にもう一つ「なんだろ、この学科?」レベルで選んでみたのがランドスケープアーキテクチャーでした。軽い興味で受けたセッションでしたが。。。 実は社会学や環境のみならずアートも絡んだ面白い分野であることが発覚!早速心変わりし、大学院はランドスケープアーキテクチャーに決定! 翌年、都市での環境デザイン、コミュニティーデザインが強いシアトルのワシントン大学に進学。大学院ではイタリア、中国、台湾などに短期留学。神戸でも震災復興後のまちづくりに参加するなど、多忙でしたが様々な風土、文化、そしてデザインプロジェクトを体験できました。最終的にはランドスケープの修士号に加え、都市計画学科とコラボのアーバンデザインサーティフィケイトも取得し卒業しました。 日本語ではランドスケープアーキテクチャーという分野を包括する言葉がなく、緑化、造園、園芸などと部分的な面で訳されてしまいますが、庭や外構だけでなく、色々な分野と連携を図り都市や地方、コミュニティと一緒に地域のビジョンを打ち立てていくという大規模なスケールや公共空間、グリーンインフラに関わるプロとしても活躍している分野です。 キャリアで学ぶ SASAKIサンフランシスコでは、実戦でスキルを磨く 卒業と同時にサンフランシスコに舞い戻り、SASAKIという建築、土木、インテリア、エコロジストなど多分野が存在する総合設計オフィスに就職。関係分野の専門家と身近にやり取りしながらプロとして必要な知識やスキルを学びました。最初に取り組んだプロジェクトの一つ、アメリカ最大級の港、LA港の工業地区に大きな公園や遊歩道を作ったプロジェクトでは長年工業地帯に住んでいる人々の住環境の向上に貢献できたことに加え、多数の賞などをいただき、キャリア初期から有意義で面白いプロジェクトに恵まれ幸運でした。 しばらくするとバージニア大学に移った大学院時代の恩師から常勤講師をしてみないかと声をかけていただき、挑戦を決意。1年半程働いたオフィスから半年間の休職許可をもらい、大学のあるシャーロッツビルへ引っ越しました。 バージニア大学で初めての教鞭を取る アジア人、女性、英語が訛っている、(他の先生と比べて)若い、小さい。。。 私という人物は登場した瞬間に「立派な先生だ」という印象を与える要素は皆無です。想像通り指導者としてのリスペクトを得るのが最初のハードルとなりました。多くの助言や応援の中で、特に響いたのが「全てを知っている必要はない。教える相手より一歩先を行っていれば、その一歩について教えることができるから」というものでした。リスペクトを得るために無理に先生らしく振舞ったり、本来の自分より大きく見せたりする必要はない、自分の貢献できる形で自分らしく頑張ればいい、と思えた言葉です。 結局、当初半年だった予定は2回の延長により2年近くになり、徐々に自分の教えるスタイル的なものが見えてきました。豊富な現場経験のある指導者が少ないのが弱みだと学生時代から感じていた私は、現場の知識や経験を共有できる先生になりたかったので、もっと実践経験が必要と考えていました。そんな時、徐々にリーマンショックの波及を受け教員志望者が急増。それを機に現場復帰を決断。不景気真っただ中で元のオフィスは苦戦中だったので、元上司が移動した先のボストン本社で再就職となりました。 バージニアでは試行錯誤の日々でしたが、ご指導いただいた先生方や今では友達・同僚になっている生徒達のおかげで充実した日々を送ることができ、いい思い出となっています。この経験は現在客員教授をさせてもらっているワシントン大学でも生かされています。 バージニア大学の生徒たちと。 SASAKIボストンでは、中東やアジア各国の大規模開発、街や各地域のビジョン形成や骨組みのデザインなどに取り組む 現場復帰したボストン本社ではアジアと中東を中心に都市デザインや大きなスケールのマスタープランなどを担当しました。アーバンデザイン、建築、土木、エコロジーの専門家と一緒に中東やアジア各国の大規模開発、街や地域のビジョン・枠組み形成や空間デザインなどに取り組みました。 ヨルダン側の死海、4000haのマスタープランは中でも思いで深いプロジェクトです。世界一標高が低い「死海」はそのユニークな成分で体が浮くことや貴重なバスソルトとして有名ですが、その珍しさは水自体だけではなく、ワディと呼ばれる渓谷や、希少種達が利用する広大なタマリスク(低木)の森などの周辺環境にも及びます。農業発展による水源ヨルダン川の水量低下に伴う死海の水位低下は年に1mにも及び、毎年ビーチがリゾートから遠ざかってしまう問題、テロ防止策で立体/地下駐車場設置が困難で歩行者環境が厳しい点やセキュリティ管理が水際を私有地化している問題、必要な真水と汚水の再利用のバランスが取れた開発スピードの調整などなど、社会的課題も特殊でした。 中東のマーケティングの専門家や環境エンジニアも交えた専門家チーム全員で環境、政治、経済、テクノロジーなど全ての面に渡り、どうしたら現在の問題に答えながらも、より良い未来の可能性を守っていく持続可能なデザインができるか検討し、死海という場所にしかない良さを基軸に、真珠のネックレスのように小さめの開発を要所に展開し繋いでいくストラテジーを考案。ヨルダン初の環境アセスや住人公聴会も開き、地元民やリゾート従業員のための機能的で活気ある本物の街づくりも提案しました。 初めてリード的なポジションで、自分の力不足を痛感したプロジェクトでしたが、とても多くの学びがあり、個人的に大きく成長できたプロジェクトでした。 Dead Sea Development Zone Detailed Master Plan(提供:SASAKI Associates) GGNシアトルで、数か国の興味深いプロジェクトに携わる 多数のマスタープランプロジェクトを経て、実際の建設経験を求めて、コンセプトから建設まで丁寧に手掛けることで有名な現在の会社GGNに入社。シアトルに戻り早10年、時折ワシントン大学で教えながら、アメリカ全土や数か国に渡り大学やハイテク企業のキャンパスや複合開発、会社の無償活動を利用したNPOによるホームレスの住居プロジェクトまで幅広く興味深いプロジェクトに携わらせていただいています。2018年のコンペ時から参加している大阪の「うめきた2期」もその一つです。 うめきた2期。GGNチームはプロジェクト全体のランドスケープビジョンからコンセプトレベルのデザイン、都市公園区画は詳細までリードデザインとして担当 うめきた2期開発は2024年先行オープン、2027年完成予定の複合開発で関空と大阪駅をつなぐJRの新しい駅の真横に位置している計9haのプロジェクトです。敷地の中心に位置する4.5haの都市公園の他、商業やインキュベーション施設、コンベンションセンター、3つのホテルに2つの住宅棟なども含めた街区となる予定です。 詳しくはオフィシャルウェブページもあるので是非ご覧ください:https://umekita2.jp/ 私達GGNはプロジェクト全体のランドスケープビジョンからコンセプトデザイン、都市公園区画は詳細までリードデザインとして担当。クライアントとなる事業者9社をはじめ、複数の建築事務所を含む日本のデザインチームと共にデザインに取り組んでいます。 GGNの特徴としては与件や機能面のみならず、独自のデザインプロセスによりその土地の普遍的な本質を探り出し、模倣やコピペではない、その土地にしかない・その場所で一番輝ける本物のデザインを提案していく点です。 歴史・文化、社会環境、生物多様性など色々調べると「何もない」とか「価値のない」場所などなく、どこでも興味深いストーリーや地元の人が自分の街を感じる瞬間が存在しています。それをどう可視化し、機能・与件、自然環境やコスト、そして様々な人々の意見などとのバランスを取って表現していくか、プロジェクト一つずつ丁寧に検討していきます。 もちろん、うめきた2期でも色々な調査・分析を重ね、淀川と深い関りがある豊かで潤った大地の記憶や橋の街大阪をインスピレーションに、海外に誇れる日本らしさも現代的にデザインに織り交ぜていきました。 初めての日本のプロジェクトなので日本特有な事を学ぶ機会が満載です。高度な技術や完成度など世界に誇れる点も多い中、縦割りや保守的なアプローチが主流であること、専門的なデータ分析より経験則を重んじる傾向、事例主義など、公共空間の向上には多くの課題やハードルも多そうです。個人的に最初の事例自体がどうできたのかは「卵が先か鶏が先か」並みのミステリーだと感じています。 お店などは雰囲気をとても大事にするのに公共空間は機能さえしていれば安っぽくても仕方ない、とあきらめているのが日本人の感覚と感じることがありますが、公共空間の質を付加価値としてではなく街のバイタリティのベース・インフラとして捉えていくことにより、地域や街、日々の暮らしの豊かさの向上に繋がっていくのでは、と思っています。コロナの影響もあり、世界中で屋外や公共空間価の値感が見直されてきている今、日本でも新しい公共空間や地域のあり方に取り組む機会が増えることを願っています。 うめきた2期ではGGN 創立者の一人、世界的にも巨匠的存在であるキャサリンと深く協働することができ、共にプロジェクトに貢献できたことや、日本チームも含め様々な方々から学べた事に感謝しています。都市公園はこの春工事が開始されましたが、これからも気を抜かず、最後まで日本チームと一緒に頑張っていきたいと思っています。 うめきた2期開発-鳥瞰イメージ(提供:うめきた2期開発事業者) 「たたかう、ランドスケープアーキテクト」として、試行錯誤しながら自分らしくチャレンジして行きたい 最後に「たたかう、ランドスケープアーキテクト」のタイトルですが、去年行った日建設計講演の際、友人に「私らしい」と提案されたタイトルです。TIUA時代の「負けない」精神が反映されているのでは、と感じます。ここ数年パンデミックや治安・政情の悪化など、世界中暗いニュースが多く凹みがちな日もありますが、私が「たたかって」いけるのも様々な方々のサポートあってと再痛感させられた機会でもあります。 日本での公共空間向上やランドスケープアーキテクチャーの普及を考えると、どう「たたかって」いくべきか(まだ)分かりませんが、また試行錯誤しながら自分らしくチャレンジしていけたらなと思っています! 何か「たたかうランドスケープアーキテクト」がお役に立てそうなことがあればご一報をいただければ、と思います! (鈴木マキエさんプロフィール) 名古屋出身 愛知県立千種高校卒業。 1995年TIU国際関係学部入学、長谷ゼミ。 1996年TIUA、2000年ウィラメット大学卒業:BA in Art & Sociology。2012年 GGN Ltd入社 現在の役職はPrincipal。 GGN: https://www.ggnltd.com/ 米国シアトルを拠点にするランドスケープアーキテクト。TIUAの後、ウィラメット大学へ編入、Bachelor of Arts(アートと社会学)で卒業。ワシントン大学でMLA(ランドスケープアーキテクチャー修士号)とアーバンデザインサーティフィケートを取得。ランドスケープデザイン・建築オフィスやバージニア大学建築学部講師などを経た後、現在勤務しているGGNに2012年に入社。 40平方キロメートル以上の大規模な地域マスタープランからホームレスのための極小ハウスプロジェクトまで幅広いスケールやタイプのプロジェクトを手掛ける。過去に携わったプロジェクトは世界10か国以上。現在は大阪のうめきた2期地区開発も担当。ワシントン大学にて客員教授も兼任中。 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
TIUに入学した事が、その後の人生を大きく左右したと思います。
井上 仁さん(1991年卒業 商学部 鐘ヶ江ゼミ/1990年南オレゴン大学 Social Science 卒業)2022年6月1日私は1986年4月に東京国際大学商学部商学科に入学、1991年3月に卒業しました(最後は鐘ヶ江先生のアジア経済ゼミでした)。途中、2年間は米国に留学しています。現在は米国在住ですが、大学時代からの海外経験を振り返り、今後、海外での活躍を希望している方の参考になればと思い、本稿を書き始めた次第です。 南オレゴン州立大学の留学時代は間違いなく、the best part of my life.私はTIU商学部2年次、学長推薦を得て、日本国際教育協会から奨学金を頂き、姉妹校関係のあった南オレゴン州立大学(現・南オレゴン大学:SOU)に2年間留学する機会に恵まれました。学内の選考には筆記テストや面接試験もあり、多くのTIU生が受験し、狭き門だったと思います。面接後は失敗を確信し、次の年にもう一度チャレンジすると、落ち込んでいたところ、合格通知を受けました。当時はスマホもパソコンもなく、事前の手紙のやり取りのみを通じて留学準備し、スーツケース一つで渡米しました。Portlandの空港から大学への行き方も知らず、今思うと、少々無茶したかと思いますが、当時、留学された方は皆同じ様な経験をされたのではないかと思います。 留学開始当初は、相当苦労した記憶があります。それでも、多くの人の助けを得ながら、充実した日々を過ごしました。2年間はあっという間に過ぎ、Summer Schoolを含む計7クオーター(7学期)在籍し、Honor Roll 3回、Dean’s List 1回頂き、1990年6月、苦労した甲斐あって優等学位で卒業する事ができました。今思えば、留学時代は間違いなく、the best part of my lifeだと思います。何時か、また米国に戻りたいと思いながら帰国した記憶があります。 学位はTIUと南オレゴン大学の両方からBachelorを取得しましたが、Double Bachelorはあまり意味がなく、2つ取得するのであれば、一方はMasterやDoctor等、Terminal Degreeを取得する方が、就職や転職には有利と思います。 (卒業式は公園(屋外)で行われました。Ashland, Oregon, June 1990) 卒業後は、大手化学メーカーに就職。海外出張で視野を広げる帰国後は即、就職活動に取り掛かり、当時はバブル崩壊直前だった事もあり、希望した会社(日本の大手化学メーカー)に就職するができました。会社では先輩や上司にも恵まれ、様々な経験を積む事ができました。入社直後は海外顧客へのセールス・マーケティングに従事し、海外出張の機会も多く、視野を広げる良い経験になりました。 シリコンバレーに役員として出向。米国特有の訴訟で大勝利したのは忘れられない経験でした2007年にはシリコンバレーにある子会社に役員として出向する機会も得られ、留学以来、初めて米国に戻る機会となりました。英語は多少覚えていましたが、大学で何とかしていたままの英語では歯が立たない事に気づき、ビジネスで使える様に、鍛え直しました。赴任中はリーマンショックで子会社経営も一時困難を極めましたが何とか乗り切りました。 途中、大きな訴訟が1件発生し、終結まで何と4年間費やしました。保険会社が保険金を払わなかったので、法的処置を取らざるを得なかったのですが、訴訟が得意でない日系企業だった事もあり、保険会社になめられていたのだと思います。最終的には全面的に主張が認められ、被告からは懲罰的なPenaltyを含む金額の和解金を得られ、大勝利となりました。今では、忘れられない経験の一つです。 シリコンバレーのある米国西海岸は豊かな自然に恵まれ、年間を通じて晴天も多く、旅行には最適でした。最も気に入っていたのは、Lake Tahoeです。湖の透明度も高く、秋には素晴らしい紅葉も楽しめます。ネバダとの州境にあるので、カジノもあり、夜も飽きません。最近の山火事で一部消失してしまったと知り、非常に残念です。 (レイクタホ(カリフォルニア州)にて) (Red Rock Canyon, Nevada, USA) (Grand Teton National Park, Wyoming, USA) 再度の駐在でシリコンバレーからノースカロナイナへ。そして転職2013年7月、シリコンバレーでの駐在は終了しましたが、その2年後、再度駐在として、買収したばかりの会社のVice Presidentとしてノースカロライナ州にある、バイオ企業での勤務を命ぜられました。翌年、ノースカロライナにある日系の大人用オムツのメーカーと縁があり、転職する事になり、現在に至っています。お陰様で高齢化社会の恩恵を受け、需要は右肩上がりになっています。最近、マスクの製造販売も開始いたしましたが、コロナの収束と共に需要は激減し、こちらは右肩下がりで、頭が痛いです。 (左から2番目(後部座席)が筆者。これが当社の新製品(マスク)です) TIU卒業生には日本国内に留まる事なく、大きく視野を広げ、国内外を問わず、社会に貢献できる逞しい社会人になって頂きたいこの様な人生を歩んでいますが、振り返るとTIUに入学した事が、その後の人生を大きく左右したと思います。入学前には英語とはほぼ無縁でしたが、友人や教授から良い影響を受け、少しづつ、先が開けてきたと思います。最近、世の中の変化が激しさを増しましたが、TIUやSOUで教わった事に加え、これまで経験してきた事が非常に役に立っています。それでも、社会人になってから本格的なインフレを経験するのは初めてだと思いますし、Pandemicやウクライナ侵攻等、思いもよらぬ障害も発生しています。社会・経済環境は激変していると思いますが、何とか幸せに暮らしています。残念ながら平和な世界はやや遠のいてしまったのかと危惧しています。チャレンジングな環境が続くかも知れませんが、TIUの卒業生には日本国内に留まる事なく、大きく視野を広げ、国内外を問わず、社会に貢献できる逞しい社会人になって頂きたいと思います。そして、是非、自ら幸せを感じられる人生にしていただきたいと願っています。 (以上、2022年5月1日、Raleigh, North Carolina, USAにて、井上 仁) (井上 仁さんプロフィール) 東京都出身 明大附中野高校卒業 1986年4月東京国際大学商学部入学 1987年9月南オレゴン州立大学(現・南オレゴン大学)入学 1990年6月南オレゴン州立大学卒業(Social Science学部, International Studies専攻) 1991年3月東京国際大学商学部卒業 鐘ヶ江ゼミ 1991年4月日系大手化学メーカーに就職 セールス・マーケティング部 2007年米国シリコンバレーにある子会社へ役員として出向 2013年米国シリコンバレーより帰国 2015年米国ノースカロライナ州にあるバイオ企業へVice Presidentとして勤務 2016年米国ノースカロライナ州にある日系オムツメーカーに転職 現在に至る TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
井上 仁さん(1991年卒業 商学部 鐘ヶ江ゼミ/1990年南オレゴン大学 Social Science 卒業)2022年6月1日私は1986年4月に東京国際大学商学部商学科に入学、1991年3月に卒業しました(最後は鐘ヶ江先生のアジア経済ゼミでした)。途中、2年間は米国に留学しています。現在は米国在住ですが、大学時代からの海外経験を振り返り、今後、海外での活躍を希望している方の参考になればと思い、本稿を書き始めた次第です。 南オレゴン州立大学の留学時代は間違いなく、the best part of my life.私はTIU商学部2年次、学長推薦を得て、日本国際教育協会から奨学金を頂き、姉妹校関係のあった南オレゴン州立大学(現・南オレゴン大学:SOU)に2年間留学する機会に恵まれました。学内の選考には筆記テストや面接試験もあり、多くのTIU生が受験し、狭き門だったと思います。面接後は失敗を確信し、次の年にもう一度チャレンジすると、落ち込んでいたところ、合格通知を受けました。当時はスマホもパソコンもなく、事前の手紙のやり取りのみを通じて留学準備し、スーツケース一つで渡米しました。Portlandの空港から大学への行き方も知らず、今思うと、少々無茶したかと思いますが、当時、留学された方は皆同じ様な経験をされたのではないかと思います。 留学開始当初は、相当苦労した記憶があります。それでも、多くの人の助けを得ながら、充実した日々を過ごしました。2年間はあっという間に過ぎ、Summer Schoolを含む計7クオーター(7学期)在籍し、Honor Roll 3回、Dean’s List 1回頂き、1990年6月、苦労した甲斐あって優等学位で卒業する事ができました。今思えば、留学時代は間違いなく、the best part of my lifeだと思います。何時か、また米国に戻りたいと思いながら帰国した記憶があります。 学位はTIUと南オレゴン大学の両方からBachelorを取得しましたが、Double Bachelorはあまり意味がなく、2つ取得するのであれば、一方はMasterやDoctor等、Terminal Degreeを取得する方が、就職や転職には有利と思います。 (卒業式は公園(屋外)で行われました。Ashland, Oregon, June 1990) 卒業後は、大手化学メーカーに就職。海外出張で視野を広げる帰国後は即、就職活動に取り掛かり、当時はバブル崩壊直前だった事もあり、希望した会社(日本の大手化学メーカー)に就職するができました。会社では先輩や上司にも恵まれ、様々な経験を積む事ができました。入社直後は海外顧客へのセールス・マーケティングに従事し、海外出張の機会も多く、視野を広げる良い経験になりました。 シリコンバレーに役員として出向。米国特有の訴訟で大勝利したのは忘れられない経験でした2007年にはシリコンバレーにある子会社に役員として出向する機会も得られ、留学以来、初めて米国に戻る機会となりました。英語は多少覚えていましたが、大学で何とかしていたままの英語では歯が立たない事に気づき、ビジネスで使える様に、鍛え直しました。赴任中はリーマンショックで子会社経営も一時困難を極めましたが何とか乗り切りました。 途中、大きな訴訟が1件発生し、終結まで何と4年間費やしました。保険会社が保険金を払わなかったので、法的処置を取らざるを得なかったのですが、訴訟が得意でない日系企業だった事もあり、保険会社になめられていたのだと思います。最終的には全面的に主張が認められ、被告からは懲罰的なPenaltyを含む金額の和解金を得られ、大勝利となりました。今では、忘れられない経験の一つです。 シリコンバレーのある米国西海岸は豊かな自然に恵まれ、年間を通じて晴天も多く、旅行には最適でした。最も気に入っていたのは、Lake Tahoeです。湖の透明度も高く、秋には素晴らしい紅葉も楽しめます。ネバダとの州境にあるので、カジノもあり、夜も飽きません。最近の山火事で一部消失してしまったと知り、非常に残念です。 (レイクタホ(カリフォルニア州)にて) (Red Rock Canyon, Nevada, USA) (Grand Teton National Park, Wyoming, USA) 再度の駐在でシリコンバレーからノースカロナイナへ。そして転職2013年7月、シリコンバレーでの駐在は終了しましたが、その2年後、再度駐在として、買収したばかりの会社のVice Presidentとしてノースカロライナ州にある、バイオ企業での勤務を命ぜられました。翌年、ノースカロライナにある日系の大人用オムツのメーカーと縁があり、転職する事になり、現在に至っています。お陰様で高齢化社会の恩恵を受け、需要は右肩上がりになっています。最近、マスクの製造販売も開始いたしましたが、コロナの収束と共に需要は激減し、こちらは右肩下がりで、頭が痛いです。 (左から2番目(後部座席)が筆者。これが当社の新製品(マスク)です) TIU卒業生には日本国内に留まる事なく、大きく視野を広げ、国内外を問わず、社会に貢献できる逞しい社会人になって頂きたいこの様な人生を歩んでいますが、振り返るとTIUに入学した事が、その後の人生を大きく左右したと思います。入学前には英語とはほぼ無縁でしたが、友人や教授から良い影響を受け、少しづつ、先が開けてきたと思います。最近、世の中の変化が激しさを増しましたが、TIUやSOUで教わった事に加え、これまで経験してきた事が非常に役に立っています。それでも、社会人になってから本格的なインフレを経験するのは初めてだと思いますし、Pandemicやウクライナ侵攻等、思いもよらぬ障害も発生しています。社会・経済環境は激変していると思いますが、何とか幸せに暮らしています。残念ながら平和な世界はやや遠のいてしまったのかと危惧しています。チャレンジングな環境が続くかも知れませんが、TIUの卒業生には日本国内に留まる事なく、大きく視野を広げ、国内外を問わず、社会に貢献できる逞しい社会人になって頂きたいと思います。そして、是非、自ら幸せを感じられる人生にしていただきたいと願っています。 (以上、2022年5月1日、Raleigh, North Carolina, USAにて、井上 仁) (井上 仁さんプロフィール) 東京都出身 明大附中野高校卒業 1986年4月東京国際大学商学部入学 1987年9月南オレゴン州立大学(現・南オレゴン大学)入学 1990年6月南オレゴン州立大学卒業(Social Science学部, International Studies専攻) 1991年3月東京国際大学商学部卒業 鐘ヶ江ゼミ 1991年4月日系大手化学メーカーに就職 セールス・マーケティング部 2007年米国シリコンバレーにある子会社へ役員として出向 2013年米国シリコンバレーより帰国 2015年米国ノースカロライナ州にあるバイオ企業へVice Presidentとして勤務 2016年米国ノースカロライナ州にある日系オムツメーカーに転職 現在に至る TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
あるTIU卒業生の人生の軌跡
髙宮純一さん(1992年24期卒業 教養学部国際学科 左治木吾郎ゼミ(1~2年生時)、小林多加士ゼミ(3~5年生時))2025年5月1日大学時代の資料探し この原稿を執筆するにあたり、久しぶりに大学時代の資料、書類、卒業アルバム、書籍などをあちこち探してみました。確か、大学時代の成績表を大学院進学の際に取り寄せた記憶があり、コピーしてどこかにしまっておいたはずですが、結果として見つけることができませんでした。今年で大学を卒業してから33年目になりますが、これまで国内外を12回ほど引っ越しました。引越しのたびに家族も増え、荷物を最小限に減らさざるを得ませんでした。学生時代に読んで感動し、名著として選定した書籍は、どこでも再読できるように全ての引越先に運搬していました。最近の引越しまで、大学時代のお気に入りの授業の講義ノートを捨てられず保管していましたが、昨年11月の引越しの際に荷物を減らすために講義ノートを捨ててしまい、後悔しています。 学問への情熱 これまでは時折、当時感動した先生方の講義ノートや教科書、講義で紹介された名著を読み返すことで、新たな学問、アカデミズムに触れ、学生時代の気持ちを思い出していました。私は頭が良くなく、成績もあまり良くないのですが、小さい頃から新しいことを学ぶことが好きで、決して勉強することは嫌ではありませんでした。大学TIUに進学し、素晴らしい先生方からアカデミズムという新たな学問の世界に導いていただいたことは、私にとって非常に刺激的で、学問の楽しさをさらに深く理解する機会となりました。学生時代に感じたあの時の感動を忘れることができず、社会人になっても当時の気持ちを思い出したくなります。 TIUを知るきっかけ 私がTIUを知ったきっかけは、高校時代の英語教師からの紹介でした。その教師はTIUを視察してきたらしく、「埼玉県の川越にありながら東京国際大学という名であるが、今後の日本の国際人を養成する素晴らしい大学がある。米国オレゴン州のウィラメット大学という大学に留学できる制度もあるお薦めの大学である」との触れ込みでした。 高校時代の留学経験 高校時代に米国に留学したことで、日本の高校を1年間休学し、4年間かけて高校を卒業しました。そのため、浪人することなく確実に入学できる大学に進学したいと考えていました。大学入試の受験料を節約するため、大学受験はTIU一本に絞り、もしTIUに受からなかった場合は大学には進学せず、働くつもりでした。できれば運よく給付生となり、学費免除を受けて在学中に米国の大学に留学したいと思っていましたが、そんなに世の中は甘くありませんでした。 ※スティルウォーター・シニア・ハイスクール:歴史的背景、主な特徴、著名な卒業生 スティルウォーターはミネソタ州で最初の学区であり、スティルウォーター・ハイスクールは1873年に設立された長い歴史を持つ学校です。スティルウォーター・ハイスクールは、オリンピックのクロスカントリースキー金メダリストであるジェシー・ディギンズや、元ホワイトハウス首席補佐官で現米国退役軍人長官のデニス・マクドノーなど、多岐にわたる分野で著名な卒業生を輩出しています。これらの卒業生の存在は、同校が高い教育水準と多様な才能を育む環境を有していることを示しています。 全米トップクラスの聖歌隊に参加(NYでのコンサート) 上述のとおり、私は高校2年生の夏から約1年間、米国に留学する機会に恵まれました。留学先は、ミネソタ州の対岸に位置するウィスコンシン州との州境にあるスティルウォーター市のStillwater Senior High Schoolでした。日本では2年生でしたが、留学先では3年生に編入しました。この高校時代の米国留学が私の人生に大きな影響を与えたことは間違いありません。 何も知らずに選択したChoir(聖歌隊)の授業は、実は全米トップクラスの優れたプログラムでした。我が校は幸運にも全米の高校の中から選抜され、ニューヨーク(NY)のセント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂(Cathedral of St. John the Divine)で開催される全米高校Choirのコンサートに招待されました。運良く私はこのNYでのコンサートのメンバーに選ばれました。NYでのコンサートやリハーサルの前後には、マンハッタンの摩天楼を散策したり、ブロードウェイ・ミュージカル(コーラスライン)を観劇したりしました。NYの各通りから見上げるビル群の壮大さには圧倒されました。 宿泊先近くのペン・ステーションで朝に見かけたトレンチコートをまといアタッシュケースを携え颯爽と歩く日本人ビジネスマンは、とてもクールでスマートな格好良さ、洗練さを感じました。当時、9.11でなくなった今は無きWTC(ワールド・トレード・センター)のツインタワーを見上げながら、将来このNYのマンハッタンで仕事をする自分を思い描き、ここで働いて挑戦したいと切望したのを覚えています。当時のNYは私に大きな夢やチャレンジ精神を与えてくれました。(実際にはそうした人生にはならなかったが。) 今後の人生に影響を与えたメキシコ訪問 さらに私の人生に影響を与え、それからの人生の方向性を決める出来事がありました。それは、NYで開催されたコンサートから戻った後に体験したメキシコ訪問でした。ホストファミリーは毎週末欠かさず教会に通う敬虔な長老派教会(Presbyterian Church)の信者でした。私の宗教は神道でしたが、留学中は米国の家族と一緒に教会に通い、青年部(Youth Club)に参加していました。そこで、教会活動の一環として、高校生によるメキシコでの教会建設を手伝うボランティア活動に参加することになりました。(この活動費は、教会の信者の方々からの寄付により賄われました。) 米国・ミネソタ州スティルウォーターからメキシコ・チワワ州の小さな村(村名は忘れました)まで、牧師さん2人が交代でスクールバスを運転し、国境を越えるという米国をほぼ縦断する旅でした。ボランティアの拠点・キャンプとなった米国側テキサス州エルパソまでは、スクールバスの中で2泊してたどり着きました。ミネソタ州スティルウォーターからの距離は最短でも1,399マイル(約2,251㎞)で、日本で言うと札幌市から福岡市までの距離に相当します。その後、エルパソから国境のリオ・グランデ川を渡り、メキシコ国境都市のシウダード・ファレスに入り、チワワ州の小さな村の教会建設現場に通いました。 陸路で国境を渡ったのは初めての経験でした。目には見えない国境を米国からメキシコに渡った瞬間、その雰囲気や空気感が一変したことに衝撃を受けました。同時に、対岸のメキシコ側の国境にはフェンスが敷かれており、米国への入国を待つ多くの人々がごった返している様子を見て、米国とメキシコの格差を目の当たりにしました。豊かな米国社会と貧しいメキシコとの格差に違和感を越えた怒りを感じたのを今でも鮮明に覚えています。この状況を何とか良い方向に改善したいと本心から感じました。当時はまだ17歳の高校生で、とても純粋だったようです。この体験は今でも鮮明に蘇り、その後の私の人生や仕事にとって重要な意味を持っています。 もはやNYの摩天楼でビジネスパーソンとして世界経済の中心で仕事をする自分の姿はすでに吹き飛び、先進国以外の途上国の地域や国々に関わって暮らし、仕事をすることが自分にとってやりたいこと、自分の人生の役割、天職ではないかと思うようになりました。この時の思いが、私の今後の人生のこだわりとなり、良くも悪くも大きく影響しています。 高校時代の思い出 日米で4年間過ごした高校時代、私のもっぱらの関心はギリシャ哲学にあり、ソクラテスやプラトンに傾倒していました。特に、絶対的な真理や善の存在を追求し、プラトンの『国家』を何度も繰り返し読みふけり、イデア論や国家論を理解しようと必死でした。当時の私は、受験勉強から逃避していただけかもしれませんが、素直になれず、ひねくれていたと思います。 そんな私を見かねて、東京教育大学の哲学科出身である恩師の村田先生が放課後に哲学好きな私の関心を満たし、ご指導してくださいました。今でも記憶に残る村田先生との一番の思い出は、先生が学生時代に研究していた英国の政治哲学者トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』の原書を先生の解説を受けながら読んだことです。とても難解な著作でしたが、先生に教えてもらいながら、自然状態、自然権、自然法といった言葉の定義を英語と日本語で理解し、先生と一緒にじっくり読み込んでいく学習でした。村田先生には、学ぶことの楽しさ、特に原書から読み解く学びの楽しさを教えてもらいました。 楽しかったTIUでの学び こうした経緯を経て、TIUに入学しました。TIUでは、私の知的好奇心を満たしてくれました。もっと知りたい、学びたいという姿勢で先生方にアプローチすると、ほぼ全ての先生方が対応してくださいました。TIUには、学問追求に熱心で、教育者としても素晴らしい先生方が多く、私は良い恩師に恵まれたと思っています。TIU時代は、学内では学ぶこと、研究することに集中し、学外ではインカレサークルに所属して、全国の学生や世界の学生たちと交流することに専念した充実した学生生活でした。後述しますが、研究熱心だったため、1年留年して5年間の大学生活を過ごしました。 1~2年生時のゼミは、左治木吾郎先生のゼミに所属し、川田侃先生の著書『国際政治経済学をめざして』を教材として、国際政治経済学を学ぶための米ソ冷戦構造や南北問題などの基礎を教えてもらいました。ソ連のゴルバチョフ政権下のペレストロイカやグラスノスチとともに政治改革が進められた時期、その後の東欧革命、天安門事件、ベルリンの壁の崩壊、ソ連崩壊につながる社会主義諸国の激動の時代でした。左治木先生はロシア経済や社会主義経済などもご専門だったため、その当時に起こる様々な事象について多くの質問をしたり、時間が足りない場合は先生の研究室に押しかけたりして、いろいろとご指導、ご教授いただきました。さらに左治木先生には、上級生のゼミや合宿にも誘っていただき、私の知りたい、学びたいという好奇心を大いに満たしていただきました。 3~5年生時のゼミは、小林多加士先生の中国研究演習のゼミに所属し、ご指導いただきました。小林ゼミは中国の地域研究を学ぶゼミでしたが、私の関心は当時揺れ動いていた社会主義体制の全般的な危機をこれまでの歴史社会理論上どう捉えるかということでした。小林先生は中国研究のみならず、世界システム論や比較文明論なども研究されていました。私は小林先生の指導の下、社会主義体制に影響を与えてきたマルクス歴史社会理論、アルチュセールの構造主義的社会主義、アンドレ・グンダー・フランクの従属理論、サミール・アミンの新従属理論、ロベール・ボワイエなどのレギュラシオン学派、イマニュエル・ウォーラーステインの世界システム論、田中明彦の『新しい中世 相互依存の世界システム』などの著作物を読み漁り、卒論を執筆する準備をしました。当時のワープロで執筆したので、メモリー機能がなく卒論は残っていませんが、確かテーマは「社会主義の全般的危機と歴史社会理論の再検討」だったと思います。小林ゼミでは、ゼミの合宿に参加しましたが、大学院生のゼミにも参加させてもらい、とても知的好奇心を刺激してもらいました。何となくこのまま大学院に進学する感じでした。 ゼミ以外に感銘を受けたTIUの先生方の講義 ゼミのみならず、感銘を受けた講義は以下のとおりです。 太田秀通先生の歴史学 西洋史学者である太田先生からは、世界史認識の思想と方法をはじめ、歴史を学ぶ楽しさを教えていただきました。紀元前のギリシャやクレタ島で使用されていた線文字Bの解読に関する歴史ロマンに感銘を受けました。アジア的生産様式の解釈などの講義も最高でした。アカデミズムの素晴らしさ、楽しさを教えてもらいました。 伊東博先生の教育学 援助する教育という理論に感銘を受け、その重要性を学ぶことができました。講義後は何度も先生の研究室を訪ね、さらに深い講義を受けました。教育も援助することと一緒であるとの考えには共鳴し、その後の途上国勤務にも活かしました。 大越康夫先生の憲法論 憲法9条を中心に憲法についてしっかり教えてもらいました。 引田隆也先生の政治思想史 とてもわかりやすく、ギリシャから現代までの思想史を網羅的に教えてもらい感銘を受けました。 下羽友衛先生の国際関係論 国際関係分析の方法論を教えてもらいましたが、紛争解決の研究者はその紛争地帯の現場に行って活動しながら分析することが重要であると熱弁していたことが印象的でした。 枇杷木賢生先生の国際経済学 一般教養の講義で基本的なことを教えていただきました。いつもジーンズでブーツを履いていた姿に憧れました。最近、米国テキサス州に出張して、念願のテキサス仕込みのブーツを購入することができました。 原彬久先生の国際政治学 モーゲンソー研究で有名で、政治的リアリズムについて教えてもらいました。学生時代にはカントのような理想的な国際政治学があるのではないかと疑問を持ちながら講義を受けていましたが、社会人になり中東アフリカ地域に関わることで、原先生が語っていた政治的リアリズムの重要性をより実感することができました。 杣正夫先生の日本選挙制度史 当時はあまり興味がなかったが、この講義を履修したことで、選挙を通じて日本政治史を理解することができました。このアプローチは新鮮でした。 富塚俊夫先生のアラビア語 2年間第二外国語としてアラビア語を教わりました。社会人となり中東地域に関わるきっかけとなったようです。 白井洋子先生のアメリカ史 ラス・カサス著の『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を読んでレポートを提出しましたが、植民地主義の時代を擁護するような頓珍漢なレポートを提出してしまったことを今でも後悔しています。 学生生活(インカレサークルISA活動、アジア訪問) 学内にいる時は、一生懸命勉強していた記憶が残っています。勉強は好きでしたが、頭が良くないので成績はそれほど良くなかった気がします。学外では、日本国際学生協会(ISA:International Student Association of Japan)という、当時全国に700名ほどの学生が所属する協会の東京支部に所属していました。TIUの先輩に誘われてISAに入会し、学生時代は学内では勉強、学外では海外の学生との交流や国際会議開催などの活動に費やしていました。TIUで講義を受けていない時は、四谷にあった東京支部の事務所に通い、都内の学生たちと勉強会を開催し、国際会議や海外の学生との交流会の企画・準備をしていました。 学生時代は、休みの期間は短期バイトをして10万円程度稼ぐと、そのたびにタイに出かけていました。タイのバンコクをベースに、ネパール、パキスタン、アフガニスタン、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピンなどを訪問し、各国の学生たちと交流していました。本当はもっと遠くに行きたかったのですが、あまり稼げず、学生時代はアジアまでしか行けませんでした。 1989年2月から4月にかけて、タイ、ネパール、パキスタン、アフガニスタンを訪問する機会に恵まれました。これは、私がISAの団長として、ネパールとパキスタンの学生団体と交流会を開催するイベントでした。ネパールでは、トリブバン大学(Tribhuvan University, TU)との交流会で、地方の現状を視察しようということで、地方都市のポカラに移動し、車両が入れない山岳地帯を3日間歩いて、各農村の農家に泊まりながら現地の村の有力者、小学校や病院などを視察しました。 パキスタンでは、カラチ大学とペシャワール大学の学生たちとの交流会を実施しました。パキスタンでは現地の家庭にホームステイし、イスラム社会やその文化に触れることができました。同時に、ペシャワールでは、まだ当時ソ連のアフガニスタン侵攻が解決していなかった時代で、ペシャワールのアフガニスタン人の難民キャンプから難民兵士が武器を持って国境のカイバル峠に行く姿、銃声、爆音が聞こえるところまで視察することができた貴重な体験をしました。 腸チフス感染による留年を経験 この旅行から帰国後、高熱が続き、幼少時から面倒を見てもらっているかかりつけ医の治療もお手上げとなり、地元の自治医科大学病院に行ったところ、病名はわからないが即入院となりました。同大学病院でも1週間ほど病名を診断できず、病状が悪化しないように処置がなされました。その後、培養結果が出て、腸チフスと診断され、法定伝染病に指定されている病気ということで、隔離施設のある病院に移送されることになりました。隔離病棟に入ったら即絶食となり、胸から管を入れられ、長期入院の治療が始まりました。40日ほど入院して退院後、体力も大幅に落ち、歩くことすらできない状況で、大学に通うのも困難な時期が続きました。学校側とも交渉しましたが、前期試験を受けられなければ留年せざるを得ないとのことで、1年間休学することにしました。 実は、学生時代には知識がなかったため対処できなかったが、法定伝染病に罹患し隔離されたことを根拠に学校側としっかり交渉すれば、1年留年することはなかったのではないかと少々悔やんでいます。ある教授に相談したら、「あなたを救う方法はない」ときっぱりと言われ、それ以上粘ることができませんでした。無知であることの哀れさを感じる出来事でした。 大家さんとの良き思い出 1年留年したことで、両親とは多少ギクシャクしながらも、サポートはしてくれていました。しかし、自分から家を出ることにして、4年生から5年生の就職が決まるまでは、大学近くの鶴ヶ島に四畳半トイレ・風呂・洗濯機使用共同で1か月1万円(共同の水道・光熱費は5千円)のアパートを見つけて住むことにしました。今はもう取り壊されてなくなってしまった古いアパートで、伯谷荘と言い、地元の酒屋さんのお婆様が大家さんをしているところでした。家賃は、そのお婆様の大家さんに直接払いに行くシステムでした。その際に、大家さんといろいろな世間話を30分くらい、長い時には1時間くらい話して家賃を払って帰ります。だんだん親しくなってくると、家賃を払いに行ったのに、お土産やお小遣いをもらって帰ることが多くなりました。この伯谷荘の大家さんには本当に助けてもらい、今でも感謝している忘れられない思い出の1つです。 就職活動の現実 こんな素晴らしい大家さんに支えてもらいながら、高校4年間、大学5年間通う学生を受け入れてくれる職場があるのかと怯えながら、インカレサークルISAの他大学の学生の仲間たちから情報を得ながら、就活を始めました。就活しながら、大学院への進学も真剣に考え準備もしていました。両親は、栃木の田舎に戻り、教員や役場、県庁、警察や消防署、父と同じ郵便局員などに務める公務員を希望していたようです。この就活の機会に、いろいろな業種の職業を見てみようとの気持ちで活動しましたが、現実はかなり厳しいものでした。 当時は、電話や手紙で説明会に申し込むのが一般的でした。一流と言われる大学の仲間たちからどこの企業は説明会が始まったとの情報を得て、電話をすると、出身大学名が伝わると説明会は開催しないとの回答が何社からもありました。実際に別の大学の友人たちはその企業の説明会に参加しているのに、参加させてもらえない、参加する権利さえないと現実の厳しさを実感しました。また、中学時代にとても優秀だった同級生が務める有名商社を訪ねたところ、「髙宮の大学ではうちの会社には入れない」とはっきり言われてしまいました。あるシンクタンクの説明会に参加したところ、「あなたのような人材は当社はいらない」とはっきり言われたこともありました。 一方、企業やNGOでも、とても丁寧で親切に対応してくれたところもありました。超大手企業は青田買いで先輩が出身大学の学生を確保している姿も身近に感じました。正式に試験を受けても、そう簡単には入れるところは少なそうだと感じていました。 JETROへの就職 民間企業に比べ就活の時期が遅い公務員や政府系機関の就職も視野に入れ、試験は誰でも受けさせてくれる職場を選んで就活することにしました。公務員の上級職を受けましたが、全くダメでした。外務省の専門職と上級職の受験票を取りながら、政府系機関のJETRO、JICA、OEFC、JNTO、日本銀行、中小企業事業団(現在は中小機構)などに連絡して、若手職員との面談をさせていただきました。通常であれば、出身大学の先輩職員が対応するのですが、TIU出身の先輩がいないところも多く、私の場合は別の出身大学の職員やインカレサークルの先輩を頼って各機関を訪問し、お話を聞かせていただきました。 アフリカに行ける職場は限られていましたが、「学生時代はアジアを訪問して途上国を知ったが、将来はアフリカで仕事をしたい」とJETROで言ったところ、当時のJETROは先進国志向の職員が多く、途上国、ましてやアフリカに行きたいという職員は聞いたことがない。JETROに入ったらすぐにアフリカに行けるのでは」と話が盛り上がりました。JETROとは縁があったのでしょう。その後、内々定をもらい、もう他に就活する必要もなく、残っている外務省の試験も受ける必要はない、JETROを信用してくださいと言われ、結果としてJETRO職員となることを決めました。その後、いくつかの政府機関や企業からお声がかかりましたが、JETROに就職するとお伝えしてお断りしました。 TIUのゼミの小林先生に大学院に行くか、JETROに行くか相談したところ、JETROに行くべきであると言われ、就職した後に大学院に来たければ勉強しにくれば良いと言われました。したがって、JETROに就職することにしました。TIUの就職課にJETRO内定を報告したところ、JETROを知らなかったようでした。とても残念な気持ちになりました。 社会の現実の厳しさを知る就活を体験しつつも、自分のやりたい、その後天職であると思える職場に就職できたことはとても運の良い人間だと思いました。就活中に言われたことは、良いことも悪いことも、就活でお付き合いした企業や機関は一生忘れることはありません。 TIU卒業後の人生の主な歩み 現在、岡山県倉敷市水島に本社のある萩原工業株式会社で経営企画室 社長特命担当部長を務めています。以前はJETRO岡山貿易情報センターの所長を務め、26年間JETROに勤務していました。 国際貿易・投資への献身:日本貿易振興機構(JETRO)でのキャリアJETROの日本の貿易・投資促進における役割と活動 1992年に日本貿易振興会(現在の日本貿易振興機構、JETRO)に入会し、2018年4月に退職するまでの26年間、国際貿易と投資の促進に尽力しました。JETROは、日本と世界各国との間の貿易と投資を促進することを目的とした政府系の独立行政法人です。当初は輸出振興に重点を置いていましたが、近年では輸入促進、対日投資誘致、中小企業の海外展開支援など、幅広い活動を行っています。現在、JETROは、56カ国76事務所と、日本国内に48の事務所を展開し、グローバルなネットワークを活かして活動を行っています。 海外事務所長としてのリーダーシップ ダルエスサラーム事務所長(タンザニア)での主な活動 JETRO在籍中にダルエスサラーム事務所長を1994年11月から1998年3月まで務めました。アフリカ駐在を希望して就職し、3年目でタンザニアに駐在、しかも若輩の20代ながらも事務所代表の所長として赴任することができました。タンザニアは、日本企業の投資関心が高まっている国の一つであり、JETROは日本とタンザニアの経済関係強化に努めています。ダルエスサラーム国際見本市への日本パビリオンの出展などを通じて、日本製品やサービスの紹介、日本企業による市場調査支援などが行われていました。また、アフリカ投資促進フォーラム(AIPF)の枠組みの中で、日本企業の投資促進を支援していました。 私の事務所長としての主な活動は、日本企業のタンザニア市場への参入支援、タンザニアからの対日輸出促進、両国間の経済協力関係の強化などでした。 テヘラン事務所長(イラン)での主な活動 続いて、私は1999年6月から2004年1月までテヘラン事務所長を務めました。タンザニアの駐在から東京本部に戻り、半年後には誰も行きたがらないとのことで、人事からお声がかかりました。また、所長であるということで即答しました。JETROは、イランとの貿易・投資促進を通じて、日本の経済発展に貢献することを目的として活動を行っています。テヘラン事務所では、市場調査、日本企業のイラン市場への進出支援、イランからの対日輸出促進、テヘラン国際見本市の日本館運営と日本企業向け展示会への参加支援を行いました。 また、当時は日本がアザデガン油田の権益を確保するため、イラン側に対して非石油分野での支援を活発化した時期でもありました。JETROにはイランの非石油分野への支援をする指示があり、イラン側が日本政府に求めた自動車産業及び部品産業の支援、薬品分野の産業支援、イランのWTO加入促進支援などを強化しました。イランは政治的に複雑な状況にある国であり、私の在任中には、日本とイランの経済関係を維持・発展させるために、慎重な対応と深い市場理解が求められました。 カイロ事務所長(エジプト)での主な活動 2010年3月から2014年11月まで、カイロ事務所長を務めました。エジプトは、アフリカ地域においてJETROが1955年から活動を展開している重要な拠点の一つです。カイロ事務所では、日本企業の対エジプト投資促進、エジプトからの対日輸出促進、技術協力、ビジネスミッションの実施など、多岐にわたる活動が行われています。 私の在任中には、アラブの春の事件が勃発し、政治・経済情勢の変化に対応しながら、日本とエジプトの経済関係を強化するため、カイロ国際見本市において日本館を出展・運営する活動なども展開しました。当時の上司からは「なぜ現地にいてアラブの春の発生を事前に予知できなかったのか?」と責められたことを思い出しました。2014年3月には、ロンドンで開催されたチャタムハウス(Chatham House:王立国際問題研究所)とアジア経済研究所の研究会合に出席し、「アラブの春」後の中東情勢について議論に参加するなど、地域情勢へ深く関与しました。 @マルサ・マトルーフの海岸 @エジプトの西部砂漠(サハラ砂漠の一部) @シーワオアシス 地域イニシアチブの主導:JETRO岡山貿易情報センター所長としての活動 JETROでは地方事務所勤務を経験していませんでしたが、2015年7月から2018年4月まで、JETRO岡山貿易情報センター所長を務め、地域経済の振興、国際交流、地元企業の支援に尽力しました。東京本部の役員からは、しっかり地方を学び、地方創生に貢献してくるよう指示されました。岡山県庁や県内の各市町村の企業の海外進出について知事、市長、町長、村長たちと意見交換を行ったり、岡山県高等学校教育研究協議会委員や岡山操山高校のスーパーグローバルハイスクール(SGH)運営指導委員会委員として、高校生のグローバルな視点育成に貢献したりするなど、地域社会との連携を積極的に行いました。 また、岡山県内の若者のグローバル意識を高めることを目的とし、地元の大学生や高校生、小中学生にも講師として長年関わり、自身の国際経験を共有してきました。これらの活動は、JETROのネットワークと自身の経験を活かして、地域経済のグローバル化を推進しようとしたものでした。 地方創生に貢献することを学ぶため岡山大学大学院にて公共政策学修士号を取得 2016年4月からJETRO岡山貿易情報センター所長を務めながら、夜や週末は岡山大学大学院の社会文化科学研究科博士前期課程の公共政策学専攻に通いました。ここでは、地域社会の発展と自立性を重視した公共政策について学び、念願かなって修士号も取得することができました。具体的には以下の内容を学びました。 政策分析能力: 法学、政治学、経済学、経営学などの学際的アプローチを通じて、政策の企画・立案・評価を行う能力を養いました。 公共組織経営: 公的組織の経営に関する知識とスキルを身に付けました。 地域公共政策: 中四国地域を対象に、地域の政策課題を発見し、解決する能力を育成しました。 在学中の2016年8月~9月にかけて、都市計画や地域開発の研究で有名な米国のPortland State Universityの研修に参加しました。このプログラムは「Okayama University Public Administration Short-Term Training, Citizen-Centered Governance – Cases from Portland, Oregon」というもので、この研修を修了することもできました。研修内容は以下のとおりです。 市民中心のガバナンス: 市民参加の重要性、市民の意見を政策決定に反映させる方法や、市民との協働を促進するための戦略を学びました。コミュニティ・エンゲージメント: 地域社会との関わり方や、コミュニティのニーズを理解し、対応する方法を探りました。 ポートランドの事例研究: ポートランド市が実施した市民中心の政策やプロジェクトの具体例を通じて、実践的な知識を得ました。政策の実施と評価: ポートランド市の政策がどのように実施され、評価されているかを学びました。 公共政策の理論と実践: 行政倫理と価値観、公共政策における倫理的な問題や価値観についての理解を深めました。政策分析と実施: 政策の分析方法や実施のプロセスを学びました。 リーダーシップと管理: 公共機関や非営利組織でのリーダーシップのスキルを養いました。財務管理と予算編成: 公共機関の財務管理や予算編成の方法を学びました。 地域資源の管理: 地域の自然資源を保護し、持続可能な方法で管理するための政策を学びました。非営利組織の管理: 非営利組織の運営や管理に関する知識を深めました。 このプログラムは、ポートランド州立大学の専門家や実務家から直接学ぶ機会を提供し、理論と実践を融合させた学びを通じて、公共政策における市民中心のガバナンスの理解を深めることができました。久しぶりの米国での学びは、とても良い機会、刺激となりました。 修士論文について 修士論文では「地方創生における地域経済活性化に効果をもたらす輸出産業の考察」をテーマに執筆しました。その概要は以下のとおりです。 研究目的: 日本の人口減少とそれに伴う国内経済の縮小に対し、地域経済を活性化させるために輸出産業の役割を探ることを目的としています。 研究方法: 貿易統計の分析: 財務省のデータを使用して、日本全体および岡山県の貿易動向を分析。産業連関表の利用: 地域産業連関表を用いて、各地域の輸出産業の特化係数や比較優位性を評価。 研究結果: 生産効果モデル: 輸出産業が地域経済に与える生産効果を分析し、主要な輸出産業を特定。輸出特化係数と比較優位モデル: 各産業の輸出特化係数と比較優位性を評価し、地域ごとの輸出産業の強みを明らかに。 研究考察: 輸出産業の重要性: 輸出産業が地域経済の成長を促進し、国内市場の縮小を補う役割を果たすことを強調。 政策提言: 地域ごとの輸出戦略を策定し、経済成長を維持するための具体的な施策を提案。 結論: 輸出戦略の重要性: 国内需要の減少に対処するため、輸出を通じて新たな需要を創出し、地域経済を活性化させることが必要。 詳細な分析: 全国産業連関表(2011年): 日本全体の輸出構造を分析し、輸出が国内生産に占める割合を明示。主要な輸出産業25部門を特定。 地域別分析: 47都道府県の地域産業連関表: 各地域の輸出データと産業分類を分析し、地域ごとの輸出産業の特徴を明らかに。 この論文は、地域経済の活性化における輸出産業の重要性を強調し、具体的な政策提言を行っています。詳細な統計分析や地域別の事例研究を通じて、輸出戦略の策定と実施の必要性を示しています。 JETROでの26年間で得たもの JETROでの26年間、そのうち13年間を海外駐在に費やした私は、国際市場、貿易規制、異文化間のビジネス慣行、そしてグローバルな経済動向に関する深い理解を培ってきました。この経験は、民間企業の実践的な戦略的方向性とグローバルな取り組みを形成する上で非常に貴重です。岡山大学大学院で2018年3月に取得した公共政策修士(MPP)の学位を含む私の学歴は、国際ビジネスにおける実践的な経験を補完し、グローバルな文脈における戦略的意思決定のための理論的枠組みを提供しています。MPPプログラムは、経済学、政策分析、組織管理などの分野の知識を与え、これらはグローバルな文脈における戦略策定に直接応用できるものです。 製造業への転身:萩原工業株式会社萩原工業:会社概要、事業内容、グローバル展開 岡山でのJETRO所長時代に創業家の経営者から誘われ、「人生後悔させない」と言われ最終的にJETROを離れる決意をしました。2018年5月に岡山県倉敷市水島に本社がある萩原工業株式会社に転職し、現在、経営企画室社長特命担当部長を務めています。萩原工業は、ポリエチレン・ポリプロピレンを主原料とした合成樹脂繊維「フラットヤーン」を用いた関連製品および産業機械の製造・販売を行う企業です。ブルーシートの国内トップメーカーであり、その他、人工芝、食品包装材、家電部材など、幅広い分野で製品を展開しています。当社は、海外14カ国に生産・販売拠点を持ち、グローバルに事業を展開しており、東京証券取引所プライム市場の上場企業でもあります。 萩原工業における役割:国際部長から経営企画室長へ 私は萩原工業入社後、経営戦略室長、合成樹脂事業部門国際部長及び経営企画室長を経て、現在は社長特命担当部長として、同社のグローバル展開を推進することを担っています。JETROでの豊富な国際経験と、海外市場に関する深い知識は、当社のグローバル戦略を推進する上でとても役に立っています。 私の萩原工業での活動の一例を紹介します。つい最近、外務省が作成したパンフレット「日本と中南米をつなぐ日系人」のインタビュー記事を通じて私の活動が紹介されました。 www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/pub/pamph/japan_latinamerica.html 私がこれまで訪問した国88か国(そのうち居住した国5か国)について 私がこれまで訪問し、住んだ国は、以下の地図のとおりです。 I have been to 88 (35%) countries / territories of the #World! #countriesbeen グローバル展開による経営力強化:講演テーマ分析 私はこれまで、「経営力強化のためのグローバル展開について」というテーマで様々なセミナーや講演会で講演を行ってきました。グローバル展開は、企業が成長機会を求め、競争力を強化するための重要な戦略の一つです。海外市場への参入、グローバルサプライチェーンの構築、海外企業との提携など、多様なアプローチが存在します。私の講演は、JETROでの経験に基づいた実践的な視点と、萩原工業におけるグローバル戦略の推進経験を踏まえた、示唆に富む内容であると評価されることがあります。 【髙宮純一(タカミヤ ジュンイチ)さんプロフィール】 1967年 5月19日生(東京都渋谷区) 学歴: 1974年3月 卒園 戸田東幼稚園(埼玉県戸田市) 1980年3月 卒業 野木町立友沼小学校(栃木県下都賀郡) 1983年3月 卒業 野木町立野木中学校(栃木県下都賀郡) 1985年6月 卒業 Stillwater Senior High School(米国ミネソタ州スティルウォーター市) 1987年3月 卒業 茨城県立古河第三高等学校普通科(茨城県古河市) 1992年3月 卒業 国際学士 東京国際大学教養学部国際学科(埼玉県川越市) 2016年9月 研修修了 Okayama University Public Administration Short-Term Training, Citizen-Centered Governance – Cases from the Portland, Oregon. Center for Public Service, Mark O. Harfield School of Government, Portland State University.(米国オレゴン州ポートランド市) 2018年3月 修士課程修了 公共政策学修士(Master of Public Policy) 学位記番号:第22946号(Degree Number : 22946)岡山大学社会文化研究科博士前期課程公共政策学専攻(岡山県岡山市) 資格: 防災士(Disaster Prevention Expert Certification in Japan) 日本防災士機構(特定非営利活動法人)(Japan Bousaisi Organization) 認定番号: No.019874 居住地の東京都世田谷区の支援を受け取得。 職歴: 1992年4月1日日本貿易振興会(JETRO:現在の日本貿易振興機構、東京都港区虎ノ門)採用 総務部人事課付 1992年4月20日 国内異動 経理部経理課(採用後配属先、経理・会計・財務業務) 1994年11月26日 海外異動 ダルエスサラーム事務所 所長 タンザニア ダルエスサラーム:1994年11月 – 1998年3月(3年5ヶ月) ダルエスサラーム日本人会 役員 1998年3月28日 国内異動 海外事業部事業調整課(海外事務所運営業務) 1998年7月1日 国内異動 事業統括部海外事業課(海外事務所運営業務) 1999年6月11日 海外異動 テヘラン事務所 所長 イラン テヘラン:1999年6月 – 2004年1月(4年8ヶ月) テヘラン日本人会 理事 2004年1月27日 国内異動 企画部企画課 課長代理(経営企画、予算総括業務) 2007年5月1日 国内異動 海外調査部調査企画課 課長代理(海外調査部全体の管理運営、調査企画業務) 2007年5月19日 国内異動 海外調査部 総括課長代理(海外調査部全体の管理運営、調査企画業務) 2008年10月10日 国内異動 総務部 主査(法務、契約、情報公開、コンプライアンス、内部統制等業務) 2009年7月1日 国内異動 総務部 主幹(法務、契約、情報公開、コンプライアンス、内部統制等業務) 2010年3月23日 海外異動 カイロ事務所 所長 エジプト カイロ:2010年3月 – 2014年11月(4年9ヶ月) エジプト日本商工会 副会長 カイロ日本人学校 PTA会長(学校運営委員会メンバー) 2014年3月27日 ロンドンにて Chatham House(英国王立国際問題研究所)とアジア経済研究所の研究会合に出席 「アラブの春」後の中東 ~東西の視点の邂逅(かいこう)~MENA in Post – “Arab Spring” Era Shared Perspectives on the Middle East and North Africa 2014年11月20日 国内異動 企画部主査 2015年2月1日 国内異動 事業推進主幹(中東アフリカ地域戦略) 2015年4月1日 国内異動 海外地域戦略主幹(中東アフリカ地域戦略) 2015年7月1日 国内異動 企画部付(入院) 2015年7月15日 国内異動 岡山貿易情報センター 所長 日本 岡山県:2015年7月 – 2018年4月(2年10ヶ月) 主な公職: 岡山商工会議所 参与 岡山・ミャンマー友好推進会議 顧問 岡山県・南オーストラリア州友好協会 理事及び監事 岡山県高等学校教育研究協議会 委員 岡山県高等学校教育研究協議会専門委員会(第二専門委員会)委員 岡山県高等学校教育研究協議会 起草委員会 岡山県土木部指定管理者候補選定委員会 委員 岡山県企業誘致推進協議会 企業誘致アドバイザー 岡山・産学官連携推進会議 委員 岡山空港国際物流促進協議会 顧問 岡山市経済政策審議会 委員 岡山市国際交流協議会 監事 (公財)岡山県産業振興財団 評議員 (公財)岡山県産業振興財団 評議員 選定委員会 委員 (一社)岡山県国際経済交流協会 理事 (一財)岡山県国際交流協会 評議員 (一財)岡山県国際交流協会 運営委員会 アドバイザー 岡山日蘭協会 特別顧問 岡山県立瀬戸南高等学校地域共育審議会 委員 岡山操山高校スーパーグローバルハイスクール運営指導委員会 指導委員 2018年4月30日 退職 日本貿易振興機構(東京都港区赤坂)を退職(26年1か月間) 2018年5月1日 転職 萩原工業株式会社(岡山県倉敷市)に入社 2018年5月1日 経営戦略室 室長(2年6か月) 2020年11月1日 合成樹脂事業部門 国際部 部長(1年間) 2021年11月1日 経営企画室 室長(3年間) 2024年11月1日~現在 経営企画室 社長特命担当部長 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
髙宮純一さん(1992年24期卒業 教養学部国際学科 左治木吾郎ゼミ(1~2年生時)、小林多加士ゼミ(3~5年生時))2025年5月1日大学時代の資料探し この原稿を執筆するにあたり、久しぶりに大学時代の資料、書類、卒業アルバム、書籍などをあちこち探してみました。確か、大学時代の成績表を大学院進学の際に取り寄せた記憶があり、コピーしてどこかにしまっておいたはずですが、結果として見つけることができませんでした。今年で大学を卒業してから33年目になりますが、これまで国内外を12回ほど引っ越しました。引越しのたびに家族も増え、荷物を最小限に減らさざるを得ませんでした。学生時代に読んで感動し、名著として選定した書籍は、どこでも再読できるように全ての引越先に運搬していました。最近の引越しまで、大学時代のお気に入りの授業の講義ノートを捨てられず保管していましたが、昨年11月の引越しの際に荷物を減らすために講義ノートを捨ててしまい、後悔しています。 学問への情熱 これまでは時折、当時感動した先生方の講義ノートや教科書、講義で紹介された名著を読み返すことで、新たな学問、アカデミズムに触れ、学生時代の気持ちを思い出していました。私は頭が良くなく、成績もあまり良くないのですが、小さい頃から新しいことを学ぶことが好きで、決して勉強することは嫌ではありませんでした。大学TIUに進学し、素晴らしい先生方からアカデミズムという新たな学問の世界に導いていただいたことは、私にとって非常に刺激的で、学問の楽しさをさらに深く理解する機会となりました。学生時代に感じたあの時の感動を忘れることができず、社会人になっても当時の気持ちを思い出したくなります。 TIUを知るきっかけ 私がTIUを知ったきっかけは、高校時代の英語教師からの紹介でした。その教師はTIUを視察してきたらしく、「埼玉県の川越にありながら東京国際大学という名であるが、今後の日本の国際人を養成する素晴らしい大学がある。米国オレゴン州のウィラメット大学という大学に留学できる制度もあるお薦めの大学である」との触れ込みでした。 高校時代の留学経験 高校時代に米国に留学したことで、日本の高校を1年間休学し、4年間かけて高校を卒業しました。そのため、浪人することなく確実に入学できる大学に進学したいと考えていました。大学入試の受験料を節約するため、大学受験はTIU一本に絞り、もしTIUに受からなかった場合は大学には進学せず、働くつもりでした。できれば運よく給付生となり、学費免除を受けて在学中に米国の大学に留学したいと思っていましたが、そんなに世の中は甘くありませんでした。 ※スティルウォーター・シニア・ハイスクール:歴史的背景、主な特徴、著名な卒業生 スティルウォーターはミネソタ州で最初の学区であり、スティルウォーター・ハイスクールは1873年に設立された長い歴史を持つ学校です。スティルウォーター・ハイスクールは、オリンピックのクロスカントリースキー金メダリストであるジェシー・ディギンズや、元ホワイトハウス首席補佐官で現米国退役軍人長官のデニス・マクドノーなど、多岐にわたる分野で著名な卒業生を輩出しています。これらの卒業生の存在は、同校が高い教育水準と多様な才能を育む環境を有していることを示しています。 全米トップクラスの聖歌隊に参加(NYでのコンサート) 上述のとおり、私は高校2年生の夏から約1年間、米国に留学する機会に恵まれました。留学先は、ミネソタ州の対岸に位置するウィスコンシン州との州境にあるスティルウォーター市のStillwater Senior High Schoolでした。日本では2年生でしたが、留学先では3年生に編入しました。この高校時代の米国留学が私の人生に大きな影響を与えたことは間違いありません。 何も知らずに選択したChoir(聖歌隊)の授業は、実は全米トップクラスの優れたプログラムでした。我が校は幸運にも全米の高校の中から選抜され、ニューヨーク(NY)のセント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂(Cathedral of St. John the Divine)で開催される全米高校Choirのコンサートに招待されました。運良く私はこのNYでのコンサートのメンバーに選ばれました。NYでのコンサートやリハーサルの前後には、マンハッタンの摩天楼を散策したり、ブロードウェイ・ミュージカル(コーラスライン)を観劇したりしました。NYの各通りから見上げるビル群の壮大さには圧倒されました。 宿泊先近くのペン・ステーションで朝に見かけたトレンチコートをまといアタッシュケースを携え颯爽と歩く日本人ビジネスマンは、とてもクールでスマートな格好良さ、洗練さを感じました。当時、9.11でなくなった今は無きWTC(ワールド・トレード・センター)のツインタワーを見上げながら、将来このNYのマンハッタンで仕事をする自分を思い描き、ここで働いて挑戦したいと切望したのを覚えています。当時のNYは私に大きな夢やチャレンジ精神を与えてくれました。(実際にはそうした人生にはならなかったが。) 今後の人生に影響を与えたメキシコ訪問 さらに私の人生に影響を与え、それからの人生の方向性を決める出来事がありました。それは、NYで開催されたコンサートから戻った後に体験したメキシコ訪問でした。ホストファミリーは毎週末欠かさず教会に通う敬虔な長老派教会(Presbyterian Church)の信者でした。私の宗教は神道でしたが、留学中は米国の家族と一緒に教会に通い、青年部(Youth Club)に参加していました。そこで、教会活動の一環として、高校生によるメキシコでの教会建設を手伝うボランティア活動に参加することになりました。(この活動費は、教会の信者の方々からの寄付により賄われました。) 米国・ミネソタ州スティルウォーターからメキシコ・チワワ州の小さな村(村名は忘れました)まで、牧師さん2人が交代でスクールバスを運転し、国境を越えるという米国をほぼ縦断する旅でした。ボランティアの拠点・キャンプとなった米国側テキサス州エルパソまでは、スクールバスの中で2泊してたどり着きました。ミネソタ州スティルウォーターからの距離は最短でも1,399マイル(約2,251㎞)で、日本で言うと札幌市から福岡市までの距離に相当します。その後、エルパソから国境のリオ・グランデ川を渡り、メキシコ国境都市のシウダード・ファレスに入り、チワワ州の小さな村の教会建設現場に通いました。 陸路で国境を渡ったのは初めての経験でした。目には見えない国境を米国からメキシコに渡った瞬間、その雰囲気や空気感が一変したことに衝撃を受けました。同時に、対岸のメキシコ側の国境にはフェンスが敷かれており、米国への入国を待つ多くの人々がごった返している様子を見て、米国とメキシコの格差を目の当たりにしました。豊かな米国社会と貧しいメキシコとの格差に違和感を越えた怒りを感じたのを今でも鮮明に覚えています。この状況を何とか良い方向に改善したいと本心から感じました。当時はまだ17歳の高校生で、とても純粋だったようです。この体験は今でも鮮明に蘇り、その後の私の人生や仕事にとって重要な意味を持っています。 もはやNYの摩天楼でビジネスパーソンとして世界経済の中心で仕事をする自分の姿はすでに吹き飛び、先進国以外の途上国の地域や国々に関わって暮らし、仕事をすることが自分にとってやりたいこと、自分の人生の役割、天職ではないかと思うようになりました。この時の思いが、私の今後の人生のこだわりとなり、良くも悪くも大きく影響しています。 高校時代の思い出 日米で4年間過ごした高校時代、私のもっぱらの関心はギリシャ哲学にあり、ソクラテスやプラトンに傾倒していました。特に、絶対的な真理や善の存在を追求し、プラトンの『国家』を何度も繰り返し読みふけり、イデア論や国家論を理解しようと必死でした。当時の私は、受験勉強から逃避していただけかもしれませんが、素直になれず、ひねくれていたと思います。 そんな私を見かねて、東京教育大学の哲学科出身である恩師の村田先生が放課後に哲学好きな私の関心を満たし、ご指導してくださいました。今でも記憶に残る村田先生との一番の思い出は、先生が学生時代に研究していた英国の政治哲学者トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』の原書を先生の解説を受けながら読んだことです。とても難解な著作でしたが、先生に教えてもらいながら、自然状態、自然権、自然法といった言葉の定義を英語と日本語で理解し、先生と一緒にじっくり読み込んでいく学習でした。村田先生には、学ぶことの楽しさ、特に原書から読み解く学びの楽しさを教えてもらいました。 楽しかったTIUでの学び こうした経緯を経て、TIUに入学しました。TIUでは、私の知的好奇心を満たしてくれました。もっと知りたい、学びたいという姿勢で先生方にアプローチすると、ほぼ全ての先生方が対応してくださいました。TIUには、学問追求に熱心で、教育者としても素晴らしい先生方が多く、私は良い恩師に恵まれたと思っています。TIU時代は、学内では学ぶこと、研究することに集中し、学外ではインカレサークルに所属して、全国の学生や世界の学生たちと交流することに専念した充実した学生生活でした。後述しますが、研究熱心だったため、1年留年して5年間の大学生活を過ごしました。 1~2年生時のゼミは、左治木吾郎先生のゼミに所属し、川田侃先生の著書『国際政治経済学をめざして』を教材として、国際政治経済学を学ぶための米ソ冷戦構造や南北問題などの基礎を教えてもらいました。ソ連のゴルバチョフ政権下のペレストロイカやグラスノスチとともに政治改革が進められた時期、その後の東欧革命、天安門事件、ベルリンの壁の崩壊、ソ連崩壊につながる社会主義諸国の激動の時代でした。左治木先生はロシア経済や社会主義経済などもご専門だったため、その当時に起こる様々な事象について多くの質問をしたり、時間が足りない場合は先生の研究室に押しかけたりして、いろいろとご指導、ご教授いただきました。さらに左治木先生には、上級生のゼミや合宿にも誘っていただき、私の知りたい、学びたいという好奇心を大いに満たしていただきました。 3~5年生時のゼミは、小林多加士先生の中国研究演習のゼミに所属し、ご指導いただきました。小林ゼミは中国の地域研究を学ぶゼミでしたが、私の関心は当時揺れ動いていた社会主義体制の全般的な危機をこれまでの歴史社会理論上どう捉えるかということでした。小林先生は中国研究のみならず、世界システム論や比較文明論なども研究されていました。私は小林先生の指導の下、社会主義体制に影響を与えてきたマルクス歴史社会理論、アルチュセールの構造主義的社会主義、アンドレ・グンダー・フランクの従属理論、サミール・アミンの新従属理論、ロベール・ボワイエなどのレギュラシオン学派、イマニュエル・ウォーラーステインの世界システム論、田中明彦の『新しい中世 相互依存の世界システム』などの著作物を読み漁り、卒論を執筆する準備をしました。当時のワープロで執筆したので、メモリー機能がなく卒論は残っていませんが、確かテーマは「社会主義の全般的危機と歴史社会理論の再検討」だったと思います。小林ゼミでは、ゼミの合宿に参加しましたが、大学院生のゼミにも参加させてもらい、とても知的好奇心を刺激してもらいました。何となくこのまま大学院に進学する感じでした。 ゼミ以外に感銘を受けたTIUの先生方の講義 ゼミのみならず、感銘を受けた講義は以下のとおりです。 太田秀通先生の歴史学 西洋史学者である太田先生からは、世界史認識の思想と方法をはじめ、歴史を学ぶ楽しさを教えていただきました。紀元前のギリシャやクレタ島で使用されていた線文字Bの解読に関する歴史ロマンに感銘を受けました。アジア的生産様式の解釈などの講義も最高でした。アカデミズムの素晴らしさ、楽しさを教えてもらいました。 伊東博先生の教育学 援助する教育という理論に感銘を受け、その重要性を学ぶことができました。講義後は何度も先生の研究室を訪ね、さらに深い講義を受けました。教育も援助することと一緒であるとの考えには共鳴し、その後の途上国勤務にも活かしました。 大越康夫先生の憲法論 憲法9条を中心に憲法についてしっかり教えてもらいました。 引田隆也先生の政治思想史 とてもわかりやすく、ギリシャから現代までの思想史を網羅的に教えてもらい感銘を受けました。 下羽友衛先生の国際関係論 国際関係分析の方法論を教えてもらいましたが、紛争解決の研究者はその紛争地帯の現場に行って活動しながら分析することが重要であると熱弁していたことが印象的でした。 枇杷木賢生先生の国際経済学 一般教養の講義で基本的なことを教えていただきました。いつもジーンズでブーツを履いていた姿に憧れました。最近、米国テキサス州に出張して、念願のテキサス仕込みのブーツを購入することができました。 原彬久先生の国際政治学 モーゲンソー研究で有名で、政治的リアリズムについて教えてもらいました。学生時代にはカントのような理想的な国際政治学があるのではないかと疑問を持ちながら講義を受けていましたが、社会人になり中東アフリカ地域に関わることで、原先生が語っていた政治的リアリズムの重要性をより実感することができました。 杣正夫先生の日本選挙制度史 当時はあまり興味がなかったが、この講義を履修したことで、選挙を通じて日本政治史を理解することができました。このアプローチは新鮮でした。 富塚俊夫先生のアラビア語 2年間第二外国語としてアラビア語を教わりました。社会人となり中東地域に関わるきっかけとなったようです。 白井洋子先生のアメリカ史 ラス・カサス著の『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を読んでレポートを提出しましたが、植民地主義の時代を擁護するような頓珍漢なレポートを提出してしまったことを今でも後悔しています。 学生生活(インカレサークルISA活動、アジア訪問) 学内にいる時は、一生懸命勉強していた記憶が残っています。勉強は好きでしたが、頭が良くないので成績はそれほど良くなかった気がします。学外では、日本国際学生協会(ISA:International Student Association of Japan)という、当時全国に700名ほどの学生が所属する協会の東京支部に所属していました。TIUの先輩に誘われてISAに入会し、学生時代は学内では勉強、学外では海外の学生との交流や国際会議開催などの活動に費やしていました。TIUで講義を受けていない時は、四谷にあった東京支部の事務所に通い、都内の学生たちと勉強会を開催し、国際会議や海外の学生との交流会の企画・準備をしていました。 学生時代は、休みの期間は短期バイトをして10万円程度稼ぐと、そのたびにタイに出かけていました。タイのバンコクをベースに、ネパール、パキスタン、アフガニスタン、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピンなどを訪問し、各国の学生たちと交流していました。本当はもっと遠くに行きたかったのですが、あまり稼げず、学生時代はアジアまでしか行けませんでした。 1989年2月から4月にかけて、タイ、ネパール、パキスタン、アフガニスタンを訪問する機会に恵まれました。これは、私がISAの団長として、ネパールとパキスタンの学生団体と交流会を開催するイベントでした。ネパールでは、トリブバン大学(Tribhuvan University, TU)との交流会で、地方の現状を視察しようということで、地方都市のポカラに移動し、車両が入れない山岳地帯を3日間歩いて、各農村の農家に泊まりながら現地の村の有力者、小学校や病院などを視察しました。 パキスタンでは、カラチ大学とペシャワール大学の学生たちとの交流会を実施しました。パキスタンでは現地の家庭にホームステイし、イスラム社会やその文化に触れることができました。同時に、ペシャワールでは、まだ当時ソ連のアフガニスタン侵攻が解決していなかった時代で、ペシャワールのアフガニスタン人の難民キャンプから難民兵士が武器を持って国境のカイバル峠に行く姿、銃声、爆音が聞こえるところまで視察することができた貴重な体験をしました。 腸チフス感染による留年を経験 この旅行から帰国後、高熱が続き、幼少時から面倒を見てもらっているかかりつけ医の治療もお手上げとなり、地元の自治医科大学病院に行ったところ、病名はわからないが即入院となりました。同大学病院でも1週間ほど病名を診断できず、病状が悪化しないように処置がなされました。その後、培養結果が出て、腸チフスと診断され、法定伝染病に指定されている病気ということで、隔離施設のある病院に移送されることになりました。隔離病棟に入ったら即絶食となり、胸から管を入れられ、長期入院の治療が始まりました。40日ほど入院して退院後、体力も大幅に落ち、歩くことすらできない状況で、大学に通うのも困難な時期が続きました。学校側とも交渉しましたが、前期試験を受けられなければ留年せざるを得ないとのことで、1年間休学することにしました。 実は、学生時代には知識がなかったため対処できなかったが、法定伝染病に罹患し隔離されたことを根拠に学校側としっかり交渉すれば、1年留年することはなかったのではないかと少々悔やんでいます。ある教授に相談したら、「あなたを救う方法はない」ときっぱりと言われ、それ以上粘ることができませんでした。無知であることの哀れさを感じる出来事でした。 大家さんとの良き思い出 1年留年したことで、両親とは多少ギクシャクしながらも、サポートはしてくれていました。しかし、自分から家を出ることにして、4年生から5年生の就職が決まるまでは、大学近くの鶴ヶ島に四畳半トイレ・風呂・洗濯機使用共同で1か月1万円(共同の水道・光熱費は5千円)のアパートを見つけて住むことにしました。今はもう取り壊されてなくなってしまった古いアパートで、伯谷荘と言い、地元の酒屋さんのお婆様が大家さんをしているところでした。家賃は、そのお婆様の大家さんに直接払いに行くシステムでした。その際に、大家さんといろいろな世間話を30分くらい、長い時には1時間くらい話して家賃を払って帰ります。だんだん親しくなってくると、家賃を払いに行ったのに、お土産やお小遣いをもらって帰ることが多くなりました。この伯谷荘の大家さんには本当に助けてもらい、今でも感謝している忘れられない思い出の1つです。 就職活動の現実 こんな素晴らしい大家さんに支えてもらいながら、高校4年間、大学5年間通う学生を受け入れてくれる職場があるのかと怯えながら、インカレサークルISAの他大学の学生の仲間たちから情報を得ながら、就活を始めました。就活しながら、大学院への進学も真剣に考え準備もしていました。両親は、栃木の田舎に戻り、教員や役場、県庁、警察や消防署、父と同じ郵便局員などに務める公務員を希望していたようです。この就活の機会に、いろいろな業種の職業を見てみようとの気持ちで活動しましたが、現実はかなり厳しいものでした。 当時は、電話や手紙で説明会に申し込むのが一般的でした。一流と言われる大学の仲間たちからどこの企業は説明会が始まったとの情報を得て、電話をすると、出身大学名が伝わると説明会は開催しないとの回答が何社からもありました。実際に別の大学の友人たちはその企業の説明会に参加しているのに、参加させてもらえない、参加する権利さえないと現実の厳しさを実感しました。また、中学時代にとても優秀だった同級生が務める有名商社を訪ねたところ、「髙宮の大学ではうちの会社には入れない」とはっきり言われてしまいました。あるシンクタンクの説明会に参加したところ、「あなたのような人材は当社はいらない」とはっきり言われたこともありました。 一方、企業やNGOでも、とても丁寧で親切に対応してくれたところもありました。超大手企業は青田買いで先輩が出身大学の学生を確保している姿も身近に感じました。正式に試験を受けても、そう簡単には入れるところは少なそうだと感じていました。 JETROへの就職 民間企業に比べ就活の時期が遅い公務員や政府系機関の就職も視野に入れ、試験は誰でも受けさせてくれる職場を選んで就活することにしました。公務員の上級職を受けましたが、全くダメでした。外務省の専門職と上級職の受験票を取りながら、政府系機関のJETRO、JICA、OEFC、JNTO、日本銀行、中小企業事業団(現在は中小機構)などに連絡して、若手職員との面談をさせていただきました。通常であれば、出身大学の先輩職員が対応するのですが、TIU出身の先輩がいないところも多く、私の場合は別の出身大学の職員やインカレサークルの先輩を頼って各機関を訪問し、お話を聞かせていただきました。 アフリカに行ける職場は限られていましたが、「学生時代はアジアを訪問して途上国を知ったが、将来はアフリカで仕事をしたい」とJETROで言ったところ、当時のJETROは先進国志向の職員が多く、途上国、ましてやアフリカに行きたいという職員は聞いたことがない。JETROに入ったらすぐにアフリカに行けるのでは」と話が盛り上がりました。JETROとは縁があったのでしょう。その後、内々定をもらい、もう他に就活する必要もなく、残っている外務省の試験も受ける必要はない、JETROを信用してくださいと言われ、結果としてJETRO職員となることを決めました。その後、いくつかの政府機関や企業からお声がかかりましたが、JETROに就職するとお伝えしてお断りしました。 TIUのゼミの小林先生に大学院に行くか、JETROに行くか相談したところ、JETROに行くべきであると言われ、就職した後に大学院に来たければ勉強しにくれば良いと言われました。したがって、JETROに就職することにしました。TIUの就職課にJETRO内定を報告したところ、JETROを知らなかったようでした。とても残念な気持ちになりました。 社会の現実の厳しさを知る就活を体験しつつも、自分のやりたい、その後天職であると思える職場に就職できたことはとても運の良い人間だと思いました。就活中に言われたことは、良いことも悪いことも、就活でお付き合いした企業や機関は一生忘れることはありません。 TIU卒業後の人生の主な歩み 現在、岡山県倉敷市水島に本社のある萩原工業株式会社で経営企画室 社長特命担当部長を務めています。以前はJETRO岡山貿易情報センターの所長を務め、26年間JETROに勤務していました。 国際貿易・投資への献身:日本貿易振興機構(JETRO)でのキャリアJETROの日本の貿易・投資促進における役割と活動 1992年に日本貿易振興会(現在の日本貿易振興機構、JETRO)に入会し、2018年4月に退職するまでの26年間、国際貿易と投資の促進に尽力しました。JETROは、日本と世界各国との間の貿易と投資を促進することを目的とした政府系の独立行政法人です。当初は輸出振興に重点を置いていましたが、近年では輸入促進、対日投資誘致、中小企業の海外展開支援など、幅広い活動を行っています。現在、JETROは、56カ国76事務所と、日本国内に48の事務所を展開し、グローバルなネットワークを活かして活動を行っています。 海外事務所長としてのリーダーシップ ダルエスサラーム事務所長(タンザニア)での主な活動 JETRO在籍中にダルエスサラーム事務所長を1994年11月から1998年3月まで務めました。アフリカ駐在を希望して就職し、3年目でタンザニアに駐在、しかも若輩の20代ながらも事務所代表の所長として赴任することができました。タンザニアは、日本企業の投資関心が高まっている国の一つであり、JETROは日本とタンザニアの経済関係強化に努めています。ダルエスサラーム国際見本市への日本パビリオンの出展などを通じて、日本製品やサービスの紹介、日本企業による市場調査支援などが行われていました。また、アフリカ投資促進フォーラム(AIPF)の枠組みの中で、日本企業の投資促進を支援していました。 私の事務所長としての主な活動は、日本企業のタンザニア市場への参入支援、タンザニアからの対日輸出促進、両国間の経済協力関係の強化などでした。 テヘラン事務所長(イラン)での主な活動 続いて、私は1999年6月から2004年1月までテヘラン事務所長を務めました。タンザニアの駐在から東京本部に戻り、半年後には誰も行きたがらないとのことで、人事からお声がかかりました。また、所長であるということで即答しました。JETROは、イランとの貿易・投資促進を通じて、日本の経済発展に貢献することを目的として活動を行っています。テヘラン事務所では、市場調査、日本企業のイラン市場への進出支援、イランからの対日輸出促進、テヘラン国際見本市の日本館運営と日本企業向け展示会への参加支援を行いました。 また、当時は日本がアザデガン油田の権益を確保するため、イラン側に対して非石油分野での支援を活発化した時期でもありました。JETROにはイランの非石油分野への支援をする指示があり、イラン側が日本政府に求めた自動車産業及び部品産業の支援、薬品分野の産業支援、イランのWTO加入促進支援などを強化しました。イランは政治的に複雑な状況にある国であり、私の在任中には、日本とイランの経済関係を維持・発展させるために、慎重な対応と深い市場理解が求められました。 カイロ事務所長(エジプト)での主な活動 2010年3月から2014年11月まで、カイロ事務所長を務めました。エジプトは、アフリカ地域においてJETROが1955年から活動を展開している重要な拠点の一つです。カイロ事務所では、日本企業の対エジプト投資促進、エジプトからの対日輸出促進、技術協力、ビジネスミッションの実施など、多岐にわたる活動が行われています。 私の在任中には、アラブの春の事件が勃発し、政治・経済情勢の変化に対応しながら、日本とエジプトの経済関係を強化するため、カイロ国際見本市において日本館を出展・運営する活動なども展開しました。当時の上司からは「なぜ現地にいてアラブの春の発生を事前に予知できなかったのか?」と責められたことを思い出しました。2014年3月には、ロンドンで開催されたチャタムハウス(Chatham House:王立国際問題研究所)とアジア経済研究所の研究会合に出席し、「アラブの春」後の中東情勢について議論に参加するなど、地域情勢へ深く関与しました。 @マルサ・マトルーフの海岸 @エジプトの西部砂漠(サハラ砂漠の一部) @シーワオアシス 地域イニシアチブの主導:JETRO岡山貿易情報センター所長としての活動 JETROでは地方事務所勤務を経験していませんでしたが、2015年7月から2018年4月まで、JETRO岡山貿易情報センター所長を務め、地域経済の振興、国際交流、地元企業の支援に尽力しました。東京本部の役員からは、しっかり地方を学び、地方創生に貢献してくるよう指示されました。岡山県庁や県内の各市町村の企業の海外進出について知事、市長、町長、村長たちと意見交換を行ったり、岡山県高等学校教育研究協議会委員や岡山操山高校のスーパーグローバルハイスクール(SGH)運営指導委員会委員として、高校生のグローバルな視点育成に貢献したりするなど、地域社会との連携を積極的に行いました。 また、岡山県内の若者のグローバル意識を高めることを目的とし、地元の大学生や高校生、小中学生にも講師として長年関わり、自身の国際経験を共有してきました。これらの活動は、JETROのネットワークと自身の経験を活かして、地域経済のグローバル化を推進しようとしたものでした。 地方創生に貢献することを学ぶため岡山大学大学院にて公共政策学修士号を取得 2016年4月からJETRO岡山貿易情報センター所長を務めながら、夜や週末は岡山大学大学院の社会文化科学研究科博士前期課程の公共政策学専攻に通いました。ここでは、地域社会の発展と自立性を重視した公共政策について学び、念願かなって修士号も取得することができました。具体的には以下の内容を学びました。 政策分析能力: 法学、政治学、経済学、経営学などの学際的アプローチを通じて、政策の企画・立案・評価を行う能力を養いました。 公共組織経営: 公的組織の経営に関する知識とスキルを身に付けました。 地域公共政策: 中四国地域を対象に、地域の政策課題を発見し、解決する能力を育成しました。 在学中の2016年8月~9月にかけて、都市計画や地域開発の研究で有名な米国のPortland State Universityの研修に参加しました。このプログラムは「Okayama University Public Administration Short-Term Training, Citizen-Centered Governance – Cases from Portland, Oregon」というもので、この研修を修了することもできました。研修内容は以下のとおりです。 市民中心のガバナンス: 市民参加の重要性、市民の意見を政策決定に反映させる方法や、市民との協働を促進するための戦略を学びました。コミュニティ・エンゲージメント: 地域社会との関わり方や、コミュニティのニーズを理解し、対応する方法を探りました。 ポートランドの事例研究: ポートランド市が実施した市民中心の政策やプロジェクトの具体例を通じて、実践的な知識を得ました。政策の実施と評価: ポートランド市の政策がどのように実施され、評価されているかを学びました。 公共政策の理論と実践: 行政倫理と価値観、公共政策における倫理的な問題や価値観についての理解を深めました。政策分析と実施: 政策の分析方法や実施のプロセスを学びました。 リーダーシップと管理: 公共機関や非営利組織でのリーダーシップのスキルを養いました。財務管理と予算編成: 公共機関の財務管理や予算編成の方法を学びました。 地域資源の管理: 地域の自然資源を保護し、持続可能な方法で管理するための政策を学びました。非営利組織の管理: 非営利組織の運営や管理に関する知識を深めました。 このプログラムは、ポートランド州立大学の専門家や実務家から直接学ぶ機会を提供し、理論と実践を融合させた学びを通じて、公共政策における市民中心のガバナンスの理解を深めることができました。久しぶりの米国での学びは、とても良い機会、刺激となりました。 修士論文について 修士論文では「地方創生における地域経済活性化に効果をもたらす輸出産業の考察」をテーマに執筆しました。その概要は以下のとおりです。 研究目的: 日本の人口減少とそれに伴う国内経済の縮小に対し、地域経済を活性化させるために輸出産業の役割を探ることを目的としています。 研究方法: 貿易統計の分析: 財務省のデータを使用して、日本全体および岡山県の貿易動向を分析。産業連関表の利用: 地域産業連関表を用いて、各地域の輸出産業の特化係数や比較優位性を評価。 研究結果: 生産効果モデル: 輸出産業が地域経済に与える生産効果を分析し、主要な輸出産業を特定。輸出特化係数と比較優位モデル: 各産業の輸出特化係数と比較優位性を評価し、地域ごとの輸出産業の強みを明らかに。 研究考察: 輸出産業の重要性: 輸出産業が地域経済の成長を促進し、国内市場の縮小を補う役割を果たすことを強調。 政策提言: 地域ごとの輸出戦略を策定し、経済成長を維持するための具体的な施策を提案。 結論: 輸出戦略の重要性: 国内需要の減少に対処するため、輸出を通じて新たな需要を創出し、地域経済を活性化させることが必要。 詳細な分析: 全国産業連関表(2011年): 日本全体の輸出構造を分析し、輸出が国内生産に占める割合を明示。主要な輸出産業25部門を特定。 地域別分析: 47都道府県の地域産業連関表: 各地域の輸出データと産業分類を分析し、地域ごとの輸出産業の特徴を明らかに。 この論文は、地域経済の活性化における輸出産業の重要性を強調し、具体的な政策提言を行っています。詳細な統計分析や地域別の事例研究を通じて、輸出戦略の策定と実施の必要性を示しています。 JETROでの26年間で得たもの JETROでの26年間、そのうち13年間を海外駐在に費やした私は、国際市場、貿易規制、異文化間のビジネス慣行、そしてグローバルな経済動向に関する深い理解を培ってきました。この経験は、民間企業の実践的な戦略的方向性とグローバルな取り組みを形成する上で非常に貴重です。岡山大学大学院で2018年3月に取得した公共政策修士(MPP)の学位を含む私の学歴は、国際ビジネスにおける実践的な経験を補完し、グローバルな文脈における戦略的意思決定のための理論的枠組みを提供しています。MPPプログラムは、経済学、政策分析、組織管理などの分野の知識を与え、これらはグローバルな文脈における戦略策定に直接応用できるものです。 製造業への転身:萩原工業株式会社萩原工業:会社概要、事業内容、グローバル展開 岡山でのJETRO所長時代に創業家の経営者から誘われ、「人生後悔させない」と言われ最終的にJETROを離れる決意をしました。2018年5月に岡山県倉敷市水島に本社がある萩原工業株式会社に転職し、現在、経営企画室社長特命担当部長を務めています。萩原工業は、ポリエチレン・ポリプロピレンを主原料とした合成樹脂繊維「フラットヤーン」を用いた関連製品および産業機械の製造・販売を行う企業です。ブルーシートの国内トップメーカーであり、その他、人工芝、食品包装材、家電部材など、幅広い分野で製品を展開しています。当社は、海外14カ国に生産・販売拠点を持ち、グローバルに事業を展開しており、東京証券取引所プライム市場の上場企業でもあります。 萩原工業における役割:国際部長から経営企画室長へ 私は萩原工業入社後、経営戦略室長、合成樹脂事業部門国際部長及び経営企画室長を経て、現在は社長特命担当部長として、同社のグローバル展開を推進することを担っています。JETROでの豊富な国際経験と、海外市場に関する深い知識は、当社のグローバル戦略を推進する上でとても役に立っています。 私の萩原工業での活動の一例を紹介します。つい最近、外務省が作成したパンフレット「日本と中南米をつなぐ日系人」のインタビュー記事を通じて私の活動が紹介されました。 www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/pub/pamph/japan_latinamerica.html 私がこれまで訪問した国88か国(そのうち居住した国5か国)について 私がこれまで訪問し、住んだ国は、以下の地図のとおりです。 I have been to 88 (35%) countries / territories of the #World! #countriesbeen グローバル展開による経営力強化:講演テーマ分析 私はこれまで、「経営力強化のためのグローバル展開について」というテーマで様々なセミナーや講演会で講演を行ってきました。グローバル展開は、企業が成長機会を求め、競争力を強化するための重要な戦略の一つです。海外市場への参入、グローバルサプライチェーンの構築、海外企業との提携など、多様なアプローチが存在します。私の講演は、JETROでの経験に基づいた実践的な視点と、萩原工業におけるグローバル戦略の推進経験を踏まえた、示唆に富む内容であると評価されることがあります。 【髙宮純一(タカミヤ ジュンイチ)さんプロフィール】 1967年 5月19日生(東京都渋谷区) 学歴: 1974年3月 卒園 戸田東幼稚園(埼玉県戸田市) 1980年3月 卒業 野木町立友沼小学校(栃木県下都賀郡) 1983年3月 卒業 野木町立野木中学校(栃木県下都賀郡) 1985年6月 卒業 Stillwater Senior High School(米国ミネソタ州スティルウォーター市) 1987年3月 卒業 茨城県立古河第三高等学校普通科(茨城県古河市) 1992年3月 卒業 国際学士 東京国際大学教養学部国際学科(埼玉県川越市) 2016年9月 研修修了 Okayama University Public Administration Short-Term Training, Citizen-Centered Governance – Cases from the Portland, Oregon. Center for Public Service, Mark O. Harfield School of Government, Portland State University.(米国オレゴン州ポートランド市) 2018年3月 修士課程修了 公共政策学修士(Master of Public Policy) 学位記番号:第22946号(Degree Number : 22946)岡山大学社会文化研究科博士前期課程公共政策学専攻(岡山県岡山市) 資格: 防災士(Disaster Prevention Expert Certification in Japan) 日本防災士機構(特定非営利活動法人)(Japan Bousaisi Organization) 認定番号: No.019874 居住地の東京都世田谷区の支援を受け取得。 職歴: 1992年4月1日日本貿易振興会(JETRO:現在の日本貿易振興機構、東京都港区虎ノ門)採用 総務部人事課付 1992年4月20日 国内異動 経理部経理課(採用後配属先、経理・会計・財務業務) 1994年11月26日 海外異動 ダルエスサラーム事務所 所長 タンザニア ダルエスサラーム:1994年11月 – 1998年3月(3年5ヶ月) ダルエスサラーム日本人会 役員 1998年3月28日 国内異動 海外事業部事業調整課(海外事務所運営業務) 1998年7月1日 国内異動 事業統括部海外事業課(海外事務所運営業務) 1999年6月11日 海外異動 テヘラン事務所 所長 イラン テヘラン:1999年6月 – 2004年1月(4年8ヶ月) テヘラン日本人会 理事 2004年1月27日 国内異動 企画部企画課 課長代理(経営企画、予算総括業務) 2007年5月1日 国内異動 海外調査部調査企画課 課長代理(海外調査部全体の管理運営、調査企画業務) 2007年5月19日 国内異動 海外調査部 総括課長代理(海外調査部全体の管理運営、調査企画業務) 2008年10月10日 国内異動 総務部 主査(法務、契約、情報公開、コンプライアンス、内部統制等業務) 2009年7月1日 国内異動 総務部 主幹(法務、契約、情報公開、コンプライアンス、内部統制等業務) 2010年3月23日 海外異動 カイロ事務所 所長 エジプト カイロ:2010年3月 – 2014年11月(4年9ヶ月) エジプト日本商工会 副会長 カイロ日本人学校 PTA会長(学校運営委員会メンバー) 2014年3月27日 ロンドンにて Chatham House(英国王立国際問題研究所)とアジア経済研究所の研究会合に出席 「アラブの春」後の中東 ~東西の視点の邂逅(かいこう)~MENA in Post – “Arab Spring” Era Shared Perspectives on the Middle East and North Africa 2014年11月20日 国内異動 企画部主査 2015年2月1日 国内異動 事業推進主幹(中東アフリカ地域戦略) 2015年4月1日 国内異動 海外地域戦略主幹(中東アフリカ地域戦略) 2015年7月1日 国内異動 企画部付(入院) 2015年7月15日 国内異動 岡山貿易情報センター 所長 日本 岡山県:2015年7月 – 2018年4月(2年10ヶ月) 主な公職: 岡山商工会議所 参与 岡山・ミャンマー友好推進会議 顧問 岡山県・南オーストラリア州友好協会 理事及び監事 岡山県高等学校教育研究協議会 委員 岡山県高等学校教育研究協議会専門委員会(第二専門委員会)委員 岡山県高等学校教育研究協議会 起草委員会 岡山県土木部指定管理者候補選定委員会 委員 岡山県企業誘致推進協議会 企業誘致アドバイザー 岡山・産学官連携推進会議 委員 岡山空港国際物流促進協議会 顧問 岡山市経済政策審議会 委員 岡山市国際交流協議会 監事 (公財)岡山県産業振興財団 評議員 (公財)岡山県産業振興財団 評議員 選定委員会 委員 (一社)岡山県国際経済交流協会 理事 (一財)岡山県国際交流協会 評議員 (一財)岡山県国際交流協会 運営委員会 アドバイザー 岡山日蘭協会 特別顧問 岡山県立瀬戸南高等学校地域共育審議会 委員 岡山操山高校スーパーグローバルハイスクール運営指導委員会 指導委員 2018年4月30日 退職 日本貿易振興機構(東京都港区赤坂)を退職(26年1か月間) 2018年5月1日 転職 萩原工業株式会社(岡山県倉敷市)に入社 2018年5月1日 経営戦略室 室長(2年6か月) 2020年11月1日 合成樹脂事業部門 国際部 部長(1年間) 2021年11月1日 経営企画室 室長(3年間) 2024年11月1日~現在 経営企画室 社長特命担当部長 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
自分を見つけに世界へ、ブラジル・サンパウロから。
吉田章則さん(1997年卒業 経済学部国際経済学科、田村ゼミ/ウィラメット大学1996年卒業)2021年5月19日ブラジル・サンパウロから 私は93年のTIUA生で、島田さんの紹介で今回投稿させていただいております。私は今ブラジルのサンパウロ市に住んでおり、南米に同窓生がいたら一緒に思い出話でもしたいです。もちろん今の時代、日本や世界のどこからでもつながることができるので、南米や国際開発関係の仕事に興味があれば気軽に連絡していただきたいです。大学のネットワークを広げ、ブラジルまで来る人がいたら大変嬉しく思います。 私は自分のやりたいことを見つけながらブラジルまで来てしまいましたが、そのきっかけとなったのは、大学時代をオレゴンで過ごし、様々な出会いと新しい発見を重ね、そして人生を変える経験ができたからだと思います。TIUAは自分にとっての初めての海外で、言葉も文化も違う世界でしたが、違う環境で生活する楽しみを見つけました。なんでも新しいことに挑戦できるチャンスの多い大学生は、まだまだ選択肢が多く、海外留学など、今できる何か違う体験をしてみてはと思っております。 ブラジルから見た日本との距離 皆さんは、ブラジルと言って何を想像しますか。日本からのブラジルは距離があるので、なかなか印象が薄いのではないでしょうか。しかし、ブラジルから見た日本は比較的近く感じることができ、ブラジル人にとって日本は憧れの存在です。大使館や総領事館のフェイスブック登録数では、ブラジルが世界で一番多いそうです。つまりブラジル人は日本に高い関心を持っており、日本料理や日本文化配信を興味深く観ています。日本は、治安も良く、町もきれいで、インフラも整備され、いろいろな面で便利で、現地の朝のニュース番組などでも日本の公共施設が模範として取り上げられることもあります。ブラジルはサッカー王国で知られ、ワールドカップ試合日には学校や仕事が休みになります。そのブラジル人にとっての日本サッカーは、ライバルではなく、選手のロッカールーム掃除、サポーターのスタジアム掃除として知られております。 日本人に対するリスペクトは、ブラジル日系移民の歴史も影響していると思います。ブラジルには世界最大の日系社会が存在し、5世6世までの子孫を合わせると約2百万人いると言われております。今は、その日系人が、ブラジルの政治、医療、教育分野などでもブラジル社会の中心人物となり活躍し、日本のプラスイメージや親近感を持たせています。若者日系人に日本人をルーツに持つことをどう思うかとのアンケートでは、ほぼ100%がそのルーツに誇りに持っていると答えるそうです。日本人の勤勉さや誠実さが、ブラジル日系人にも継承され、ブラジルで存在感を増し、ブラジルからリスペクトされています。ブラジルは、日本人にとってとても住みやすい国です。 東京国際大学との縁 しかし、小さい頃からブラジルと縁があったわけではなく、大学時代もブラジルのことはほとんど知りませんでした。ただもっと世界を知ろうと思ったのは、TIUAをきっかけに英語ができるようになってからです。高校時代は野球ばかりやっており、国語がずっと苦手で、理系への進学を考えていました。浪人中に国際関係に興味を持ち、英語を勉強し始め、6大学を目指して10大学程受験したのですが、合格したのは東京国際大学だけでした。受験戦争の厳しさと、合格した縁を感じました。 大学1年目は、体育会系のスキー部に入り、留学するかどうか迷うこともありました。しかし、せっかく留学制度のある大学を選んだのだからとTIUAで留学することに決めました。そして初めての海外経験を積んだTIUAでの生活は、自分の人生を少しずつ変えていきました。特にアメリカ以外にもっと世界に出ていきたい気持ちも更に強くなっていきました。 TIUAへの留学で学んだこと 世界で生活する自身に繋がったのは、英語を習得できたことです。TIUAは英語のプログラムがしっかりしており、仲間と学んだ授業も面白く、先生も友人も学習意欲が高く、学ぶ環境が整っていました。授業以外の時間にも、イベントに参加しながらネイティブの友達を作ったり、日本人同士でも英語でしゃべったり、英語に触れる時間を作る努力をしました。一番お世話になったのは、IPC(学生カウンセラー)やRA(寮長)の人達でした。他の人には通じない英語が彼らには理解してもらえました。時間をかけて親身に付き合ってもらい大いに励ましてくれました。IPCが旅行を計画してくれたカリフォルニア州とアリゾナ州の長距離旅行は楽しかったです。言語能力は履歴書にもずっと残りますし、今の仕事でも英語を使います。TIUAでは重要な英語のスキルを習得することができたと思います。 言語とともに習得したのは、異文化理解や外国人とのコミュニケーション能力だと思います。TIUAのミッションを作成していたガナー先生と話したことを覚えていますが、自分にとってのTIUAの魅力は、友達ファミリー、コミュニティーイベント、課外授業やウ大生との交流活動でした。まだ英語が流暢に話せない学生でも積極的に参加できる環境が整っており、コミュニケーション能力を磨くことにつながりました。読み書きだけではなく話す英語を学び、TIUAの一年でたくさんの友達を作ることができ、大きな財産になりました。日本に帰っても、視野を広げるため留学生と友好関係を持ち、世界のどんな人とも友達を作りどんな国でも生活していけると思えました。 (東京国際大学の留学生たちと) (ウ大でWISHの友達と) ウ大長期留学、ボランティア活動の経験 TIUAでの1年は早かったです。特に将来を考えていたわけでもなく、ウ大の長期留学を受け、オレゴンに戻ることができました。長期留学の2年間では、WISH(学生寮名)で知り合った他の国からの留学生や、後輩のTIUA生とも交流関係を深めることができました。授業も大変でしたが、プライベートでの友好関係を更に増やすことができたと思います。現地の大学生とのイベントやパーティーなど、日本ではできない経験ができ、楽しく充実した時間を過ごすことができました。特に自分が好きだったのは、ボランティア活動でした。近所の学校訪問、貧困エリアの子供のメンターやリフォームなど、ウ大のボランティアの募集があったら必ず参加していました。人種や地位などに関わらず受け入れてくれる感じが自分にとっても過ごしやすい環境でもあり、昔から困っている人を助けたいという気持ちとも重なり、いろんな形で貧困などの社会問題などに触れる機会が多くなりました。 ウ大時代のボランティア活動で、更なる挑戦をする自分を見つける体験をします。長期夏休み中に、大学で紹介されたニューメキシコのYouth Development Inc.というNGOに、数か月お世話になることに決めたのです。NGOは、どのような仕事をするのかを理解するためでしたが、そこでの体験は今でも忘れられず、自分を成長させてくれる経験となりました。Youth Development Inc.は、ヒスパニックやネイティブのマイノリティ中高生で社会問題を抱えている若者を保護、指導、育成するNGOでした。児童虐待、麻薬、アル中、強盗、不良、若年妊娠など、少年院に入りそうな人達と時間を過ごすことになり、そこには未知の世界がありました。日本人がそんなところで何ができるかと言っても、実際は何を変えることも、そして彼らを助けることもできなかったと思います。NGOで働く職員の信念の強さや優しさ、そしていろいろな問題に立ち向かい立ち直ろうとする青年達の生命力など、自分の経験したことのない社会に出会い多くを学んだと思います。 (ニューメキシコでNGO職員の家族と) (ウ大卒業式) ワシントンDCから中南米へ、大学院とソフトウェア企業での経験 もともと落ち着きがなく飽きやすい性格で、大学時代に経験したボランティアで更なる好奇心と行動力を育み、人とは違う人生を歩むことに興味を持ち始めます。そこで、東京国際大学卒業後は、国際開発を研究するためにワシントンDCにあるアメリカン大学大学院に進学することにしました。その際には、ヨーカム先生、ガナー先生に推薦状を書いていただき大学院に進学することができました。オレゴンでの経験を活かし、勉強以外では負けない友好関係を深め、イベントやボランティアにも積極的に参加し続けました。アメリカン大学には、日本からの留学生だけで200人程、更に世界中からも優秀な留学生が集まり、同じDC地区の他大学との交流もあり、更に国際的な視野を広げることができました。少し周りを見渡すと、世銀やIMFなどの国際機関、また各国の大使館などでインターンする友達も多くいました。本当に国際性豊かな大学で楽しかったです。アメリカン大学では、留学生をケアする事務所で働くなどして、交流関係を世界中に広げることができ、今でも世界中にいる友達とつながっています。 国際開発論では、なんでも「参加すること」の大切さを学びました。ボランティア活動に参加させるには、その活動に興味も持たせることが必要で、興味あるイベントにするには参加数や集客力が大切です。その地域のお祭りなどは、政治的な関係もあり、人々が集まることこそが大切で、日米交流協会が運営するワシントンDC桜祭りも毎年手伝っていました。イベントでもボランティアでも何か企画するのには金銭的のみならず、社会貢献など人の気持ちや興味に訴えることが大切だと思います。 大学院卒業後も日本に帰ることは考えず、ワシントンDCで国際サプライチェーンのソフトウェア企業で、データアナリストとして就職することにしました。国際的なワシントンDC滞在中に感じていたのは、留学に来るような優秀な人は英語もできますが、現地の言葉、第二外国語ができないと、そのコミュニティーに溶け込んでいくのは難しいということです。違う世界で自分のやりたいことを見つけることに興味が溢れ、中南米の友人の影響もありもっと中南米を知りたくなり、会社を辞め、アメリカを出ることにしました。スペイン語の能力が十分ではなく、最初は大学院時代の友達のところにお世話人なりながら、メキシコ、グアテマラ、エルサルバドルなどで、スペイン語学習プログラムやインターンなどをしました。そしてしばらく、自分のできることを探しながら、中南米の国々を渡り歩いていました。 (アメリカン大学の友達と) (アメリカン大学大学院卒業) 中南米からブラジルへ、食品貿易企業、鉄鋼企業、商工会議所などで経験 中南米滞在中、ブラジルに来る縁があるのですが、その時の縁をつないでくれたのはTIUA時代の同期でした。彼は、食肉商社で仕事をしていた関係で、チリやブラジルと取引があり、ブラジルの現地企業で人を探しているからと知り合いを紹介してくれました。仕事内容は、牛の屠畜場を巡り、日本向けにボイル腸を企画、生産、品質管理して、日本に輸出することでした。牛以外にも鳥や豚の屠畜場にも買い付けや品質管理の仕事も担い、ブラジル中を駆け回ったのを覚えています。TIUA同期の彼とは、馬肉と鴨肉の貿易で一緒に仕事をしましたが、大学時代には想像できない繋がりでした。 食肉の仕事の後、リオにある大手の鉄鋼企業にプロジェクトコーディネーターとして勤務しました。その時の仕事内容は、現地鉄鋼事業の調査や情報配信、特にポルトガル語の鉄鋼記事を日本語にして配信することなどでした。また、大手商社を通じ、技術営業や原料購買部などの事業支援などもしていました。ちなみにブラジルは、農業や畜産大国でもありますが、鉄鉱石などの生産・輸出もしており、世界有数の鉱物資源大国でもあります。 また、ブラジル日本商工会議所の調査員として事務局の仕事も経験しました。商工会議所では、日伯政府間の会議や政策対話の機会を通じ、ブラジルでの日系企業のビジネス環境整備の目的のもと、ブラジル政府や政府関連機関と官民合同の政策対話会合を運営しておりました。経産省からの補助金で、政策対話委員会の事務局員として雇われ、官民会合の国際会議の調整役の仕事をしていました。 (屠畜場にて、牛の腸解体前) (日本の製品、ブラジル産ボイル腸) (廃鉱となっている鉱山) (労働法改正など労働問題研究会) ブラジル味の素とブラジル埼玉県人会 そして現在は、ブラジル味の素との縁があり、コーポレート部のマネージャーとして勤務しております。ブラジル味の素は、農業大国であるブラジルにも生産拠点があり、調味料を中心にブラジル全土に販売し、現地化が進んでいる企業です。うまみやアミノ酸の働きで社会価値と経済価値を創造する取り組みを様々な分野で行っております。ブラジル工場で生産された製品を海外のグループ会社に輸出したりもしております。 味の素はグローバルで「食と健康の課題解決企業」を目指し、ブラジルにもその企業理念はきちんと根付き、会社と社員一人一人が一体となって食と健康の課題解決のため日々働いております。自分は現地の中途採用で、毎週行われている入社研修を20代の若者たちと一緒にポル語字幕の日本語の会社説明ビデオを見ました。入社時に「我々は何のために働いているのか?」など問いかけられ、会社は利益を追求しなければなりませんが、社会貢献など社会価値創造する事業にも力を入れる必要があるとの説明も受けました。経営理念がしっかりしていて、それに共感が持てる従業員が集まり、日伯の間で成長し続けていける魅力のある企業です。 (ブラジルにある味の素工場) (ブラジル味の素の同僚と) 仕事以外の時間には、いまでも自分の好きなボランティアや祭りイベントの企画をしたり、参加したりしています。その一つとして、ブラジル埼玉県人会の会長をしております。何をするかといいますと、ブラジルで埼玉県をPRしたり、日伯の交流を埼玉通じて行ったりします。20万人規模の日本祭りなどで埼玉ブースを出展し、オリンピック事前キャンプ地の新座市の紹介や県の観光地などを伝えたりしています。ブラジルには47都道府県人会があり、その中で埼玉は特徴も郷土愛も薄れがちで、日本からの支援も少なく、継続も大変なのですが、日伯交流に貢献できればと活動しています。日本に帰った際に、県庁の国際課を訪問して事業報告するなど、日伯交換留学実現にむけ埼玉大学を訪問したこともあります。 また、埼玉県人会は、初心者向けの日本語クラスも運営しています。一昔前の日系移民は、子孫に日本語教育を行っていましたが、ブラジル社会に浸透していくにつれ、日本語を話さない新しい世代の日系人が増えています。日系人は、日本人としての誇りは持っておりますが、狭い日系コロニアで使われる日本語は、ブラジル社会ではほとんど使う機会がなく、日本語離れは否めない事実となっています。現在の日本語学習者は、漫画に興味の高い非日系人もおりますが、全体的には減少傾向にあります。少しでも日本語や日本文化がブラジルで伝われば幸いです。 ブラジルは、多様性が豊かで、何かと新しい発見が転がっているのも楽しいです。自分を見つけて中南米を歩いて来ましたが、今でも新しいチャレンジが生まれています。パンデミックもその一つだと思います。大学時代を思い出しながら長々と書いてしまいましたが、最後まで読んでいただき、本当にどうもありがとうございました。 (サンパウロ日本祭り、埼玉ブース) (日本語スピーチコンテストの審査員として) (ブラジル選手事前キャンプ地新座市の市長と) (埼玉県人会で日系児童福祉施設に寄付) (吉田章則さんプロフィール) 埼玉県出身越谷北高校卒業 1992年4月東京国際大学 経済学部 国際経済学科入学(田村ゼミ、スキー部) 1993年TIUアメリカ校 留学 1996年5月ウィラメット大学 経済学部 卒業 1997年3月東京国際大学 経済学部 国際経済学科 卒業 2000年12月アメリカン大学 国際開発論修士号 卒業 同大学 MBAビジネススクール修士号 卒業 2000年~2003年ソフトウェア企業・ネクストリンクス 貿易シニアアナリスト(米国メリーランド州) 2003年~2004年スペイン語学校(メキシコ・グワナフアト市、ガテマラ・アンティグア市、ニカラグア・エステリ市)、ハザマ組(エルサルバドル・サンサルバドル市)、ジェトロサンチアゴ(チリ・サンチアゴ市) 2004年~2010年食品商社・アンデスフーズ(ブラジル・カンポグランデ市、マリンガ市、サンパウロ市) 2010年~2011年ブラジルJFEスチール プロジェクトコーディネーター(ブラジル・リオデジャネイロ市) 2012年~2013年自営業・レストラン経営 (ブラジル・サンパウロ市) 2014年~2019年ブラジル日本商工会議所 政策対話委員会調査員(ブラジル・サンパウロ市) 2019年~現在ブラジル味の素 コーポレート部マネージャー(ブラジル・サンパウロ市) TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
吉田章則さん(1997年卒業 経済学部国際経済学科、田村ゼミ/ウィラメット大学1996年卒業)2021年5月19日ブラジル・サンパウロから 私は93年のTIUA生で、島田さんの紹介で今回投稿させていただいております。私は今ブラジルのサンパウロ市に住んでおり、南米に同窓生がいたら一緒に思い出話でもしたいです。もちろん今の時代、日本や世界のどこからでもつながることができるので、南米や国際開発関係の仕事に興味があれば気軽に連絡していただきたいです。大学のネットワークを広げ、ブラジルまで来る人がいたら大変嬉しく思います。 私は自分のやりたいことを見つけながらブラジルまで来てしまいましたが、そのきっかけとなったのは、大学時代をオレゴンで過ごし、様々な出会いと新しい発見を重ね、そして人生を変える経験ができたからだと思います。TIUAは自分にとっての初めての海外で、言葉も文化も違う世界でしたが、違う環境で生活する楽しみを見つけました。なんでも新しいことに挑戦できるチャンスの多い大学生は、まだまだ選択肢が多く、海外留学など、今できる何か違う体験をしてみてはと思っております。 ブラジルから見た日本との距離 皆さんは、ブラジルと言って何を想像しますか。日本からのブラジルは距離があるので、なかなか印象が薄いのではないでしょうか。しかし、ブラジルから見た日本は比較的近く感じることができ、ブラジル人にとって日本は憧れの存在です。大使館や総領事館のフェイスブック登録数では、ブラジルが世界で一番多いそうです。つまりブラジル人は日本に高い関心を持っており、日本料理や日本文化配信を興味深く観ています。日本は、治安も良く、町もきれいで、インフラも整備され、いろいろな面で便利で、現地の朝のニュース番組などでも日本の公共施設が模範として取り上げられることもあります。ブラジルはサッカー王国で知られ、ワールドカップ試合日には学校や仕事が休みになります。そのブラジル人にとっての日本サッカーは、ライバルではなく、選手のロッカールーム掃除、サポーターのスタジアム掃除として知られております。 日本人に対するリスペクトは、ブラジル日系移民の歴史も影響していると思います。ブラジルには世界最大の日系社会が存在し、5世6世までの子孫を合わせると約2百万人いると言われております。今は、その日系人が、ブラジルの政治、医療、教育分野などでもブラジル社会の中心人物となり活躍し、日本のプラスイメージや親近感を持たせています。若者日系人に日本人をルーツに持つことをどう思うかとのアンケートでは、ほぼ100%がそのルーツに誇りに持っていると答えるそうです。日本人の勤勉さや誠実さが、ブラジル日系人にも継承され、ブラジルで存在感を増し、ブラジルからリスペクトされています。ブラジルは、日本人にとってとても住みやすい国です。 東京国際大学との縁 しかし、小さい頃からブラジルと縁があったわけではなく、大学時代もブラジルのことはほとんど知りませんでした。ただもっと世界を知ろうと思ったのは、TIUAをきっかけに英語ができるようになってからです。高校時代は野球ばかりやっており、国語がずっと苦手で、理系への進学を考えていました。浪人中に国際関係に興味を持ち、英語を勉強し始め、6大学を目指して10大学程受験したのですが、合格したのは東京国際大学だけでした。受験戦争の厳しさと、合格した縁を感じました。 大学1年目は、体育会系のスキー部に入り、留学するかどうか迷うこともありました。しかし、せっかく留学制度のある大学を選んだのだからとTIUAで留学することに決めました。そして初めての海外経験を積んだTIUAでの生活は、自分の人生を少しずつ変えていきました。特にアメリカ以外にもっと世界に出ていきたい気持ちも更に強くなっていきました。 TIUAへの留学で学んだこと 世界で生活する自身に繋がったのは、英語を習得できたことです。TIUAは英語のプログラムがしっかりしており、仲間と学んだ授業も面白く、先生も友人も学習意欲が高く、学ぶ環境が整っていました。授業以外の時間にも、イベントに参加しながらネイティブの友達を作ったり、日本人同士でも英語でしゃべったり、英語に触れる時間を作る努力をしました。一番お世話になったのは、IPC(学生カウンセラー)やRA(寮長)の人達でした。他の人には通じない英語が彼らには理解してもらえました。時間をかけて親身に付き合ってもらい大いに励ましてくれました。IPCが旅行を計画してくれたカリフォルニア州とアリゾナ州の長距離旅行は楽しかったです。言語能力は履歴書にもずっと残りますし、今の仕事でも英語を使います。TIUAでは重要な英語のスキルを習得することができたと思います。 言語とともに習得したのは、異文化理解や外国人とのコミュニケーション能力だと思います。TIUAのミッションを作成していたガナー先生と話したことを覚えていますが、自分にとってのTIUAの魅力は、友達ファミリー、コミュニティーイベント、課外授業やウ大生との交流活動でした。まだ英語が流暢に話せない学生でも積極的に参加できる環境が整っており、コミュニケーション能力を磨くことにつながりました。読み書きだけではなく話す英語を学び、TIUAの一年でたくさんの友達を作ることができ、大きな財産になりました。日本に帰っても、視野を広げるため留学生と友好関係を持ち、世界のどんな人とも友達を作りどんな国でも生活していけると思えました。 (東京国際大学の留学生たちと) (ウ大でWISHの友達と) ウ大長期留学、ボランティア活動の経験 TIUAでの1年は早かったです。特に将来を考えていたわけでもなく、ウ大の長期留学を受け、オレゴンに戻ることができました。長期留学の2年間では、WISH(学生寮名)で知り合った他の国からの留学生や、後輩のTIUA生とも交流関係を深めることができました。授業も大変でしたが、プライベートでの友好関係を更に増やすことができたと思います。現地の大学生とのイベントやパーティーなど、日本ではできない経験ができ、楽しく充実した時間を過ごすことができました。特に自分が好きだったのは、ボランティア活動でした。近所の学校訪問、貧困エリアの子供のメンターやリフォームなど、ウ大のボランティアの募集があったら必ず参加していました。人種や地位などに関わらず受け入れてくれる感じが自分にとっても過ごしやすい環境でもあり、昔から困っている人を助けたいという気持ちとも重なり、いろんな形で貧困などの社会問題などに触れる機会が多くなりました。 ウ大時代のボランティア活動で、更なる挑戦をする自分を見つける体験をします。長期夏休み中に、大学で紹介されたニューメキシコのYouth Development Inc.というNGOに、数か月お世話になることに決めたのです。NGOは、どのような仕事をするのかを理解するためでしたが、そこでの体験は今でも忘れられず、自分を成長させてくれる経験となりました。Youth Development Inc.は、ヒスパニックやネイティブのマイノリティ中高生で社会問題を抱えている若者を保護、指導、育成するNGOでした。児童虐待、麻薬、アル中、強盗、不良、若年妊娠など、少年院に入りそうな人達と時間を過ごすことになり、そこには未知の世界がありました。日本人がそんなところで何ができるかと言っても、実際は何を変えることも、そして彼らを助けることもできなかったと思います。NGOで働く職員の信念の強さや優しさ、そしていろいろな問題に立ち向かい立ち直ろうとする青年達の生命力など、自分の経験したことのない社会に出会い多くを学んだと思います。 (ニューメキシコでNGO職員の家族と) (ウ大卒業式) ワシントンDCから中南米へ、大学院とソフトウェア企業での経験 もともと落ち着きがなく飽きやすい性格で、大学時代に経験したボランティアで更なる好奇心と行動力を育み、人とは違う人生を歩むことに興味を持ち始めます。そこで、東京国際大学卒業後は、国際開発を研究するためにワシントンDCにあるアメリカン大学大学院に進学することにしました。その際には、ヨーカム先生、ガナー先生に推薦状を書いていただき大学院に進学することができました。オレゴンでの経験を活かし、勉強以外では負けない友好関係を深め、イベントやボランティアにも積極的に参加し続けました。アメリカン大学には、日本からの留学生だけで200人程、更に世界中からも優秀な留学生が集まり、同じDC地区の他大学との交流もあり、更に国際的な視野を広げることができました。少し周りを見渡すと、世銀やIMFなどの国際機関、また各国の大使館などでインターンする友達も多くいました。本当に国際性豊かな大学で楽しかったです。アメリカン大学では、留学生をケアする事務所で働くなどして、交流関係を世界中に広げることができ、今でも世界中にいる友達とつながっています。 国際開発論では、なんでも「参加すること」の大切さを学びました。ボランティア活動に参加させるには、その活動に興味も持たせることが必要で、興味あるイベントにするには参加数や集客力が大切です。その地域のお祭りなどは、政治的な関係もあり、人々が集まることこそが大切で、日米交流協会が運営するワシントンDC桜祭りも毎年手伝っていました。イベントでもボランティアでも何か企画するのには金銭的のみならず、社会貢献など人の気持ちや興味に訴えることが大切だと思います。 大学院卒業後も日本に帰ることは考えず、ワシントンDCで国際サプライチェーンのソフトウェア企業で、データアナリストとして就職することにしました。国際的なワシントンDC滞在中に感じていたのは、留学に来るような優秀な人は英語もできますが、現地の言葉、第二外国語ができないと、そのコミュニティーに溶け込んでいくのは難しいということです。違う世界で自分のやりたいことを見つけることに興味が溢れ、中南米の友人の影響もありもっと中南米を知りたくなり、会社を辞め、アメリカを出ることにしました。スペイン語の能力が十分ではなく、最初は大学院時代の友達のところにお世話人なりながら、メキシコ、グアテマラ、エルサルバドルなどで、スペイン語学習プログラムやインターンなどをしました。そしてしばらく、自分のできることを探しながら、中南米の国々を渡り歩いていました。 (アメリカン大学の友達と) (アメリカン大学大学院卒業) 中南米からブラジルへ、食品貿易企業、鉄鋼企業、商工会議所などで経験 中南米滞在中、ブラジルに来る縁があるのですが、その時の縁をつないでくれたのはTIUA時代の同期でした。彼は、食肉商社で仕事をしていた関係で、チリやブラジルと取引があり、ブラジルの現地企業で人を探しているからと知り合いを紹介してくれました。仕事内容は、牛の屠畜場を巡り、日本向けにボイル腸を企画、生産、品質管理して、日本に輸出することでした。牛以外にも鳥や豚の屠畜場にも買い付けや品質管理の仕事も担い、ブラジル中を駆け回ったのを覚えています。TIUA同期の彼とは、馬肉と鴨肉の貿易で一緒に仕事をしましたが、大学時代には想像できない繋がりでした。 食肉の仕事の後、リオにある大手の鉄鋼企業にプロジェクトコーディネーターとして勤務しました。その時の仕事内容は、現地鉄鋼事業の調査や情報配信、特にポルトガル語の鉄鋼記事を日本語にして配信することなどでした。また、大手商社を通じ、技術営業や原料購買部などの事業支援などもしていました。ちなみにブラジルは、農業や畜産大国でもありますが、鉄鉱石などの生産・輸出もしており、世界有数の鉱物資源大国でもあります。 また、ブラジル日本商工会議所の調査員として事務局の仕事も経験しました。商工会議所では、日伯政府間の会議や政策対話の機会を通じ、ブラジルでの日系企業のビジネス環境整備の目的のもと、ブラジル政府や政府関連機関と官民合同の政策対話会合を運営しておりました。経産省からの補助金で、政策対話委員会の事務局員として雇われ、官民会合の国際会議の調整役の仕事をしていました。 (屠畜場にて、牛の腸解体前) (日本の製品、ブラジル産ボイル腸) (廃鉱となっている鉱山) (労働法改正など労働問題研究会) ブラジル味の素とブラジル埼玉県人会 そして現在は、ブラジル味の素との縁があり、コーポレート部のマネージャーとして勤務しております。ブラジル味の素は、農業大国であるブラジルにも生産拠点があり、調味料を中心にブラジル全土に販売し、現地化が進んでいる企業です。うまみやアミノ酸の働きで社会価値と経済価値を創造する取り組みを様々な分野で行っております。ブラジル工場で生産された製品を海外のグループ会社に輸出したりもしております。 味の素はグローバルで「食と健康の課題解決企業」を目指し、ブラジルにもその企業理念はきちんと根付き、会社と社員一人一人が一体となって食と健康の課題解決のため日々働いております。自分は現地の中途採用で、毎週行われている入社研修を20代の若者たちと一緒にポル語字幕の日本語の会社説明ビデオを見ました。入社時に「我々は何のために働いているのか?」など問いかけられ、会社は利益を追求しなければなりませんが、社会貢献など社会価値創造する事業にも力を入れる必要があるとの説明も受けました。経営理念がしっかりしていて、それに共感が持てる従業員が集まり、日伯の間で成長し続けていける魅力のある企業です。 (ブラジルにある味の素工場) (ブラジル味の素の同僚と) 仕事以外の時間には、いまでも自分の好きなボランティアや祭りイベントの企画をしたり、参加したりしています。その一つとして、ブラジル埼玉県人会の会長をしております。何をするかといいますと、ブラジルで埼玉県をPRしたり、日伯の交流を埼玉通じて行ったりします。20万人規模の日本祭りなどで埼玉ブースを出展し、オリンピック事前キャンプ地の新座市の紹介や県の観光地などを伝えたりしています。ブラジルには47都道府県人会があり、その中で埼玉は特徴も郷土愛も薄れがちで、日本からの支援も少なく、継続も大変なのですが、日伯交流に貢献できればと活動しています。日本に帰った際に、県庁の国際課を訪問して事業報告するなど、日伯交換留学実現にむけ埼玉大学を訪問したこともあります。 また、埼玉県人会は、初心者向けの日本語クラスも運営しています。一昔前の日系移民は、子孫に日本語教育を行っていましたが、ブラジル社会に浸透していくにつれ、日本語を話さない新しい世代の日系人が増えています。日系人は、日本人としての誇りは持っておりますが、狭い日系コロニアで使われる日本語は、ブラジル社会ではほとんど使う機会がなく、日本語離れは否めない事実となっています。現在の日本語学習者は、漫画に興味の高い非日系人もおりますが、全体的には減少傾向にあります。少しでも日本語や日本文化がブラジルで伝われば幸いです。 ブラジルは、多様性が豊かで、何かと新しい発見が転がっているのも楽しいです。自分を見つけて中南米を歩いて来ましたが、今でも新しいチャレンジが生まれています。パンデミックもその一つだと思います。大学時代を思い出しながら長々と書いてしまいましたが、最後まで読んでいただき、本当にどうもありがとうございました。 (サンパウロ日本祭り、埼玉ブース) (日本語スピーチコンテストの審査員として) (ブラジル選手事前キャンプ地新座市の市長と) (埼玉県人会で日系児童福祉施設に寄付) (吉田章則さんプロフィール) 埼玉県出身越谷北高校卒業 1992年4月東京国際大学 経済学部 国際経済学科入学(田村ゼミ、スキー部) 1993年TIUアメリカ校 留学 1996年5月ウィラメット大学 経済学部 卒業 1997年3月東京国際大学 経済学部 国際経済学科 卒業 2000年12月アメリカン大学 国際開発論修士号 卒業 同大学 MBAビジネススクール修士号 卒業 2000年~2003年ソフトウェア企業・ネクストリンクス 貿易シニアアナリスト(米国メリーランド州) 2003年~2004年スペイン語学校(メキシコ・グワナフアト市、ガテマラ・アンティグア市、ニカラグア・エステリ市)、ハザマ組(エルサルバドル・サンサルバドル市)、ジェトロサンチアゴ(チリ・サンチアゴ市) 2004年~2010年食品商社・アンデスフーズ(ブラジル・カンポグランデ市、マリンガ市、サンパウロ市) 2010年~2011年ブラジルJFEスチール プロジェクトコーディネーター(ブラジル・リオデジャネイロ市) 2012年~2013年自営業・レストラン経営 (ブラジル・サンパウロ市) 2014年~2019年ブラジル日本商工会議所 政策対話委員会調査員(ブラジル・サンパウロ市) 2019年~現在ブラジル味の素 コーポレート部マネージャー(ブラジル・サンパウロ市) TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
今世界で話題のスポーツ「パデル」で、世界と戦った経験を日本にも。
沓名舞子さん(2020年卒業 人間社会学部スポーツ科学科 堀川ゼミ)2025年12月1日学生時代の挫折-新しいスポーツへの挑戦パデルとの出会い TIUに入学したのは、高校の先生になりたい夢を叶えるため。小学2年生から始めた硬式テニスのスポーツ推薦で入学しました。当時は部活に注力しながらも教員免許取得のために必須単位を取得することに明け暮れていました。大学2年生の秋に関東に集結した選手のレベルの高さに圧倒され、結果が出ず退部という選択をしました。 パデルと出会ったのはその直後です。ゼミの同級生に「バイト先にテニスに似たスポーツがあるから遊びに来てほしい」そう言われて出向いたのがパデルコートでした。 実際に体験してみると似ているものの思った以上に難しいと感じたことを記憶しています。しかし、対応できた時の喜びや達成感、テニスで忘れかけていた「できることへの楽しさ」を思い出させてくれました。 今思えば、初めてパデルを体験したときから面白さに夢中になり、選手としてのスタートを切っていたのかもしれません。TIUに入学していなければ声をかけてくれた同級生も知り合わなかったので、パデルという競技には出会えなかったかもしれません。 パデルと知り合ってからまもなく、日本で世界大会のアジア予選が開催されることを知りました。当時はYouTubeでの配信などはなかったため、Facebookのライブ配信で見た記憶があります。そこには日本代表として日の丸を背負って戦う選手の姿がありました。 テニスでは夢のまた夢だった「日本代表」私もこの舞台に立ちたい。そう感じて練習に励みました。 バセドウ病との葛藤から、パデル日本代表・アジアチャンピオンにそんな矢先、バセドウ病という病気になってしまいます。バセドウ病は、甲状腺の病気で代謝が異常に良くなります。主な症状が倦怠感や眠気、動悸など、自分では気づきにくい病気です。当時私は歩くだけで息切れ、動悸がありました。投薬治療でしたが、薬が効いて安定するまでの2ヶ月間は運動禁止でした。 運動再開してからは苦悩の連続でしたが、翌年初めて日本代表に選出されます。 その年はアジアチャンピオンになりました。 卒業式の中止、ゼミ仲間との別れここから数年間日本代表として選手活動をしていくのですが、学生時代最後に襲いかかったのは、「新型コロナウイルス」でした。ゼミの忘年会でまた来年と言葉を交わした同級生に会うことは叶わず卒業しました。2年に1回行われる世界大会も延期となりました。 初めての世界大会、決意の転職 教員免許は取得しましたが、パデル選手として活動する場合、教員では難しいと思い、一般企業に就職しました。新卒で入社した会社はオフィスビルの法人営業でした。 コロナ禍で研修もオンラインになり、リモート需要が高まる中で、業界は打撃を受けながらも社会人としてのキャリアをスタートさせていました。 社会人2年目に朗報が来ます。延期になっていた世界大会が1年越しに行われることが決定しました。夢にまで見た世界大会。絶対に出たい。そう感じました。今まで以上に練習も時間を増やしたい、トレーニングにも時間を費やしたい。もっとパデル選手としての活動に注力したい。そんな気持ちもあり、3年は頑張ろうと思っていましたが、1年半で退職し、スポーツ選手としても応援してくれる会社「バリュエンスホールディングス株式会社」に転職します。 その会社ではデュアルキャリアを応援しており、スポーツ選手のみならず、様々な分野でされている方がいらっしゃいました。ここでは、練習のために在宅勤務で試合のあとすぐに練習に行けるようにしてくださったり、大会期間中の長期休暇をいただいたりと、部署の皆様の協力もあり、選手活動の時間を優先することができました。 (Asia Pacific Padel Tourにて) 初めて海外の試合に参戦してから1年後、2024年からアジアでも賞金付きのツアーが始まりました。 満を持して迎えた世界大会 – 悔しさと可能性選手活動の体制を整え、初めての世界大会は14位でした。正直緊張が強く、試合内容はよく覚えていませんが、世界のレベルの高さを痛感したと同時に自分に可能性があることも感じました。世界大会の経験を無駄にしてはいけない。そう感じより一層練習の質にこだわったのを今でも覚えています。 初めての世界大会から充実な1年間そこから私は社会人として仕事をしながら限られた時間の中で練習を行い、世界との差を埋めるために「短い時間で質の高い練習」を意識しました。 できる限り仕事以外の時間はパデルのことを考えました。その結果、世界大会の半年後に行われた全日本選手権で悲願の初優勝。世界大会で感じた差を埋めるために練習してきたことは間違えていなかったという証明だったと思います。 また、世界大会は2年に1回開催されていますが、感染症拡大の影響で2020年の大会が2021年にずれ込んでいたため、2年連続での開催となっていました。 1年後の世界大会に向けて、個人的にスポンサーを獲得したり、より一層切磋琢磨することになりました。 2回目の世界大会 —世界の壁と屈辱 —日本一になり、迎えた世界大会は16位という結果でした。紙一重の試合をほとんど落とした結果でした。対等に戦えるパデルはこの1年間で学んだものの、勝つパデルには到底及ばなかったということです。 現在の戦術は進化し続けていますが、当時は1回目の世界大会の際に、極力ミスを減らすことが重要だと考えていました。中々決まらないからこそ、ミスを減らすことが重要だと考えたからです。ミスをしないことで対等に戦えるようになりましたが、勝つとなると更なるレベルアップが必要だったということです。 対等に戦えるようになったからこそ、見えてきた景色でした。 しかし、この攻撃的なパデルをするには、圧倒的に試合の経験値が足りませんでした。 世界のパデルは目まぐるしく変化しています。 女子は、国内の男子と練習をしてもらえればレベルの高い練習もすることはできますが、海外の独特な戦術やターニングポイントは、体感しないと難しいという判断でした。 そのために私は、当時日本人の女子では初めてとも言える海外遠征をメインに大会を回ることにしました。 ありがたいことにスポンサーもついてくださり、会社や家族の理解もあり、日本ランキングを下げることにはなりましたが、世界ランキングに焦点を当て、活動を行うことができました。当時日本人最高ランキング201位、FIPという世界ツアーの海外大会で日本人初優勝など、今は形に残らない結果を出すことができました。 その翌年には、私以外の日本人の女子選手が海外遠征を始め、日本のレベルアップに繋がっていると思います。 私は、日本人で初めての記録や実績よりも私の行動で日本全体の行動が変わったことが重要であり、お金の不安や周囲への理解も含め、難しいと言われていた海外遠征に一歩踏み出したことが1番の功績だと感じております。 (日本人初となる海外開催のツアーで優勝) (World Padel Championships QATAR 2024にて) 世界を実感 — 強くなった日本代表迎えた3回目の出場となった世界大会。日本は11位という結果を残しました。 日本は世界ランキングが100位以内の選手がいない中での戦いでした。 ほとんどの国は世界ランキングが2桁台のエースという選手がいる中でしたので、日本一になって以来、自分に「よく頑張ったな」と思える結果でした。 先ほども申し上げたように世界のレベルは目まぐるしく進化しています。 10位以内に食い込んでいくには、エース級の選手を排出する、もしくは全員が150位程度の実力になる必要があると考えています。現在の日本人最高順位は162位です。 2026年にまた世界大会があります。アジア予選を勝ち抜き、世界大会に出場、さらに10位以内に入るためには、レベルの底上げと団体戦というパワーを武器にしていく必要があります。以前に比べると海外を主戦場にしている選手も増えてきました。日本国内のコート面数も少しずつ増えております。 2026年は名古屋周辺で行われるアジア大会の正式種目にもなり、認知度も向上してきました。ただ、まだプロとしてお金を稼ぐことは難しく、協会も潤沢ではないため、それぞれが個人的にスポンサーを獲得したり、普段は仕事をしながらお金をやりくりして選手活動をしています。 将来テレビで試合が放送されるようなスポーツになるよう普及活動も行っていく所存です。ぜひ、「パデル」をネットで検索してみてください。 (沓名舞子さんプロフィール) 埼玉県春日部市出身、埼玉県立浦和東高校卒 2020年3月東京国際大学人間社会学部スポーツ学科卒業 堀川ゼミ 硬式庭球部(2年次まで) 2021年8月バリュエンスホールディングス株式会社 勤務(ホームページ)https://www.valuence.inc /business/ 2021年11月World Padel Championships QATAR 2020 14位 2022年3月第5回全日本選手権 優勝 2022年9月World Padel Championships Egypt Qualifications 優勝 2022年9月FIP RISE OWEST 準優勝 2022年11月World Padel Championships UAE 2022 16位 2023年4月1ヶ月の長期休暇をいただき、ヨーロッパ遠征を敢行 2023年11月FIP Promotion ASIA 優勝 2024年9月World Padel Championships Kuwait Qualifications 優勝 2024年10月World Padel Championships QATAR 2024 11位 *2026年はアジア選手権や世界大会と主要大会が多く開催される年です。 日本はアジア王者として、世界と戦います。 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
沓名舞子さん(2020年卒業 人間社会学部スポーツ科学科 堀川ゼミ)2025年12月1日学生時代の挫折-新しいスポーツへの挑戦パデルとの出会い TIUに入学したのは、高校の先生になりたい夢を叶えるため。小学2年生から始めた硬式テニスのスポーツ推薦で入学しました。当時は部活に注力しながらも教員免許取得のために必須単位を取得することに明け暮れていました。大学2年生の秋に関東に集結した選手のレベルの高さに圧倒され、結果が出ず退部という選択をしました。 パデルと出会ったのはその直後です。ゼミの同級生に「バイト先にテニスに似たスポーツがあるから遊びに来てほしい」そう言われて出向いたのがパデルコートでした。 実際に体験してみると似ているものの思った以上に難しいと感じたことを記憶しています。しかし、対応できた時の喜びや達成感、テニスで忘れかけていた「できることへの楽しさ」を思い出させてくれました。 今思えば、初めてパデルを体験したときから面白さに夢中になり、選手としてのスタートを切っていたのかもしれません。TIUに入学していなければ声をかけてくれた同級生も知り合わなかったので、パデルという競技には出会えなかったかもしれません。 パデルと知り合ってからまもなく、日本で世界大会のアジア予選が開催されることを知りました。当時はYouTubeでの配信などはなかったため、Facebookのライブ配信で見た記憶があります。そこには日本代表として日の丸を背負って戦う選手の姿がありました。 テニスでは夢のまた夢だった「日本代表」私もこの舞台に立ちたい。そう感じて練習に励みました。 バセドウ病との葛藤から、パデル日本代表・アジアチャンピオンにそんな矢先、バセドウ病という病気になってしまいます。バセドウ病は、甲状腺の病気で代謝が異常に良くなります。主な症状が倦怠感や眠気、動悸など、自分では気づきにくい病気です。当時私は歩くだけで息切れ、動悸がありました。投薬治療でしたが、薬が効いて安定するまでの2ヶ月間は運動禁止でした。 運動再開してからは苦悩の連続でしたが、翌年初めて日本代表に選出されます。 その年はアジアチャンピオンになりました。 卒業式の中止、ゼミ仲間との別れここから数年間日本代表として選手活動をしていくのですが、学生時代最後に襲いかかったのは、「新型コロナウイルス」でした。ゼミの忘年会でまた来年と言葉を交わした同級生に会うことは叶わず卒業しました。2年に1回行われる世界大会も延期となりました。 初めての世界大会、決意の転職 教員免許は取得しましたが、パデル選手として活動する場合、教員では難しいと思い、一般企業に就職しました。新卒で入社した会社はオフィスビルの法人営業でした。 コロナ禍で研修もオンラインになり、リモート需要が高まる中で、業界は打撃を受けながらも社会人としてのキャリアをスタートさせていました。 社会人2年目に朗報が来ます。延期になっていた世界大会が1年越しに行われることが決定しました。夢にまで見た世界大会。絶対に出たい。そう感じました。今まで以上に練習も時間を増やしたい、トレーニングにも時間を費やしたい。もっとパデル選手としての活動に注力したい。そんな気持ちもあり、3年は頑張ろうと思っていましたが、1年半で退職し、スポーツ選手としても応援してくれる会社「バリュエンスホールディングス株式会社」に転職します。 その会社ではデュアルキャリアを応援しており、スポーツ選手のみならず、様々な分野でされている方がいらっしゃいました。ここでは、練習のために在宅勤務で試合のあとすぐに練習に行けるようにしてくださったり、大会期間中の長期休暇をいただいたりと、部署の皆様の協力もあり、選手活動の時間を優先することができました。 (Asia Pacific Padel Tourにて) 初めて海外の試合に参戦してから1年後、2024年からアジアでも賞金付きのツアーが始まりました。 満を持して迎えた世界大会 – 悔しさと可能性選手活動の体制を整え、初めての世界大会は14位でした。正直緊張が強く、試合内容はよく覚えていませんが、世界のレベルの高さを痛感したと同時に自分に可能性があることも感じました。世界大会の経験を無駄にしてはいけない。そう感じより一層練習の質にこだわったのを今でも覚えています。 初めての世界大会から充実な1年間そこから私は社会人として仕事をしながら限られた時間の中で練習を行い、世界との差を埋めるために「短い時間で質の高い練習」を意識しました。 できる限り仕事以外の時間はパデルのことを考えました。その結果、世界大会の半年後に行われた全日本選手権で悲願の初優勝。世界大会で感じた差を埋めるために練習してきたことは間違えていなかったという証明だったと思います。 また、世界大会は2年に1回開催されていますが、感染症拡大の影響で2020年の大会が2021年にずれ込んでいたため、2年連続での開催となっていました。 1年後の世界大会に向けて、個人的にスポンサーを獲得したり、より一層切磋琢磨することになりました。 2回目の世界大会 —世界の壁と屈辱 —日本一になり、迎えた世界大会は16位という結果でした。紙一重の試合をほとんど落とした結果でした。対等に戦えるパデルはこの1年間で学んだものの、勝つパデルには到底及ばなかったということです。 現在の戦術は進化し続けていますが、当時は1回目の世界大会の際に、極力ミスを減らすことが重要だと考えていました。中々決まらないからこそ、ミスを減らすことが重要だと考えたからです。ミスをしないことで対等に戦えるようになりましたが、勝つとなると更なるレベルアップが必要だったということです。 対等に戦えるようになったからこそ、見えてきた景色でした。 しかし、この攻撃的なパデルをするには、圧倒的に試合の経験値が足りませんでした。 世界のパデルは目まぐるしく変化しています。 女子は、国内の男子と練習をしてもらえればレベルの高い練習もすることはできますが、海外の独特な戦術やターニングポイントは、体感しないと難しいという判断でした。 そのために私は、当時日本人の女子では初めてとも言える海外遠征をメインに大会を回ることにしました。 ありがたいことにスポンサーもついてくださり、会社や家族の理解もあり、日本ランキングを下げることにはなりましたが、世界ランキングに焦点を当て、活動を行うことができました。当時日本人最高ランキング201位、FIPという世界ツアーの海外大会で日本人初優勝など、今は形に残らない結果を出すことができました。 その翌年には、私以外の日本人の女子選手が海外遠征を始め、日本のレベルアップに繋がっていると思います。 私は、日本人で初めての記録や実績よりも私の行動で日本全体の行動が変わったことが重要であり、お金の不安や周囲への理解も含め、難しいと言われていた海外遠征に一歩踏み出したことが1番の功績だと感じております。 (日本人初となる海外開催のツアーで優勝) (World Padel Championships QATAR 2024にて) 世界を実感 — 強くなった日本代表迎えた3回目の出場となった世界大会。日本は11位という結果を残しました。 日本は世界ランキングが100位以内の選手がいない中での戦いでした。 ほとんどの国は世界ランキングが2桁台のエースという選手がいる中でしたので、日本一になって以来、自分に「よく頑張ったな」と思える結果でした。 先ほども申し上げたように世界のレベルは目まぐるしく進化しています。 10位以内に食い込んでいくには、エース級の選手を排出する、もしくは全員が150位程度の実力になる必要があると考えています。現在の日本人最高順位は162位です。 2026年にまた世界大会があります。アジア予選を勝ち抜き、世界大会に出場、さらに10位以内に入るためには、レベルの底上げと団体戦というパワーを武器にしていく必要があります。以前に比べると海外を主戦場にしている選手も増えてきました。日本国内のコート面数も少しずつ増えております。 2026年は名古屋周辺で行われるアジア大会の正式種目にもなり、認知度も向上してきました。ただ、まだプロとしてお金を稼ぐことは難しく、協会も潤沢ではないため、それぞれが個人的にスポンサーを獲得したり、普段は仕事をしながらお金をやりくりして選手活動をしています。 将来テレビで試合が放送されるようなスポーツになるよう普及活動も行っていく所存です。ぜひ、「パデル」をネットで検索してみてください。 (沓名舞子さんプロフィール) 埼玉県春日部市出身、埼玉県立浦和東高校卒 2020年3月東京国際大学人間社会学部スポーツ学科卒業 堀川ゼミ 硬式庭球部(2年次まで) 2021年8月バリュエンスホールディングス株式会社 勤務(ホームページ)https://www.valuence.inc /business/ 2021年11月World Padel Championships QATAR 2020 14位 2022年3月第5回全日本選手権 優勝 2022年9月World Padel Championships Egypt Qualifications 優勝 2022年9月FIP RISE OWEST 準優勝 2022年11月World Padel Championships UAE 2022 16位 2023年4月1ヶ月の長期休暇をいただき、ヨーロッパ遠征を敢行 2023年11月FIP Promotion ASIA 優勝 2024年9月World Padel Championships Kuwait Qualifications 優勝 2024年10月World Padel Championships QATAR 2024 11位 *2026年はアジア選手権や世界大会と主要大会が多く開催される年です。 日本はアジア王者として、世界と戦います。 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
人生は夢の学校、-大学はインキュベーター-
川島佳子さん(1982年卒業 教養学部国際関係学科 原彬久ゼミ ELI)2025年1月1日1.はじめに 「789●△×◎」東京国際大学(当時は国際商科大学教養学部)在籍時の学籍番号、今でも鮮明に覚えています。 私は、現在、芸術文化を核とした国際交流や教育、福祉など、社会貢献事業の企画プロデュースをメインに、地域活性化や企業のプロモーションを提案しています。地域の文化施設の活性化と芸術文化教育事業、国際交流事業等による商圏の拡大、新規顧客の呼び込み、地域の次世代の育成、地域からの発信等を通し、文化と経済の融合を目指す地域活性化事業等を企画しています。 海外から演奏家やバレエダンサーを招へいし、大使館や大使公邸でのコンサートの他、青少年や若手プロに同じステージで共演する機会を提供し、彼らの夢の後押しをする教育事業が、実に驚くほどの成果をあげています。これまで参加された小学生~高校生は、現在、世界中のバレエ団で活躍し、中には、映画女優となって、日本アカデミー賞新人賞を獲得したり、ミスワールド日本代表になった人も、10万人のフォロワーをもつYOUTUBERになったりと夫々が多方面で、実に生き生きと挑戦を続けています。 彼らは、まだ始まったばかりの「夢の学校」という人生で、より多くを経験し、学び、チャレンジし、頑張れば、夢は実現するという事を身をもって学んでいるのです。 2.大学までの道 私は、群馬県館林市の出身で、小学校に入る前から、ヤマハの音楽教室に通ったり、洋舞踊を習ったり、活発で、好奇心旺盛なこども時代を過ごしました。 幼少期は、母の影響を多く受けました。母は、東京から群馬に疎開して来た人で、音楽や芸術に造詣が深く、その影響もあって、私も小学校入学前から、オルガン、ピアノを習いました。練習が嫌でサボり癖のある私に、母はスパルタで厳かったのですが、今では大変感謝しています。楽器は、練習しないと絶対に弾けないので、努力体質が身につきます。「やる」という意味は、単に時間を過ごすだけでなく、「できるようになるまで」が、「やる」という意味だと身をもって学べるのです。 また、洋舞踊は、思い切り身体を使って表現するのが楽しく、中学では体操部に入り、県大会に出場するほど頑張りました。この経験も、今、ロシアのバレエダンサー、イリーナ・ペレンとマラト・シェミウノフのプロデュースやバレエの教育事業を企画するのに、大変役立っています。 ピアノの先生のお父さんは、日本キリスト教団の牧師さんでもあり、日曜学校にも通いました。毎週聖書を読み、賛美歌を歌い、クリスマスには、劇をやったり、色々な家を回って、玄関先でクリスマスキャロルを歌ったり、夏はキャンプなどもしました。そんな経験から、先生のご家族と大変親しくしておりました。 ピアノの先生は、私が小学校4年生の時に、布教活動などの為に、カナダに移住することになりました。それから、先生との文通が始まりました。日本では、おとなしく、控えめな先生で、けっして社交的とは言い難かったのですが、その先生が、友人たちと車で、カナダを横断したり、バンクーバーの夕日の中をクルージングしている写真などが送られてきて、異国の生活文化に接し、大変刺激的で、外国へのあこがれを強くしました。 先生の父である、牧師さんは、英語の塾もされており、私が、小学校5年生になると、その英語塾へ入会のご案内が送られてきたので、何の疑問もなく、入塾しました。行ってみると、私以外の参加者は、皆6年生でした。中学から始まる英語の予習として、6年生にのみ、案内したようですが、私も6年生だと、牧師さんが勘違いしてしまったようでした。 6年生の先輩の中で、ただ一人の5年生でした。とにかく、私は、ピアノの先生との文通で芽生えた海外へのあこがれから、その為に、英語が不可欠であり、英語を学ぶことが楽しくて仕方なかったのです。そして、その結果、自分で言うのは何ですが、年下の私が、一番できてしまって、嬉しい反面、先輩方に悪い気がして、課題のペーパーができた順に提出して帰るという時は、出来上がっていても、一番最後に提出したりと、こどもながらに気を使っていました。 翌年も、今度は、同期の6年生たちと一緒にまた、同じコースを受けました。中学入学前に2年英語をやっていたので、中学での授業は、楽々すいすいでした。 ピアノの先生との文通も続き、カナダの美しい自然や、ホームパーティーなどの楽しそうな写真や絵ハガキは、私の外国へ行ってみたいという思いを年々強くさせました。1969年、アポロ11号月面着陸のテレビ中継以来、通訳という仕事が脚光を浴びていました。サイマルアカデミーの西山千さん、國広正雄さん、村松増美さん、鳥飼久美子さん、TBSのニュースキャスターを務めた浅野輔さんなどに、あこがれるようになりました。 母は、「女は、勉強なんかできなくても良い。学校なんて、どこでも同じ。」と公言しており、中学の先生は、隣の県の高校への進学を進めましたが、家から自転車で通えるところ、ということで、群馬県立館林女子高等学校に進みました。相変わらず、英語は好きで、得意でした。英語と数学が得意でした。クラブは、マンドリンギター部に所属し、指揮者として、多くのコンサートに出演しました。ちょうど、中学生の頃、館林市文化会館が建設され、開館当時は、連日、群馬交響楽団の演奏会や、劇団四季のミュージカルなど、文化会館に行くのが楽しみでした。そして、その同じ舞台で、自分も発表会でピアノを演奏したり、踊ったり、指揮をする機会に恵まれました。 旺文社のヨーロッパ英語研修ツアーの情報を見つけ、過去の参加者の感想などを読んでいるうちに、私も行きたくなり、無理だろうなと思いながらも、その思いがだんだん募って、ついに、母に相談しました。高校2年の時でした。 夏休みに、約3週間、イギリスのラムスゲートで、ホームスティしながら、外国人向けの英語学校に通い、その後、フランス、スイス、イタリアへの旅行がついているツアーでした。蛍雪時代や辞書などの出版社として、当時は、最大手だった旺文社が、中学生、高校生を中心対象として企画している語学研修ツアーで、親の心配を軽減するために、4人から6人のグループに、大人が一人つくという。旺文社が株主になっている、TV朝日の中堅社員のサバティカルか、海外のTV局の視察などもかねて、こどものリーダーとして、ついてくれるという体制で、本人も親も安心して、海外に出してもらえることになりました。 当時は、まだ外国へ行くのは珍しく、特に、私が住む群馬県館林市では、ましてや家族が同行せずに、高校生が一人で約1か月を一人海外へ行くというのは、大きな冒険でしたし、心配もされました。 担任の先生は、英語の先生だったので、よくわかってもらえるかと思いましたが、そうでもなく、校長先生と教頭先生とも面談をし、まるで、青山光子が、クーデンホーフ伯爵との結婚の為、ヨーロッパに渡る際、皇后陛下に謁見し、「海外にあっても、日本女子としての誇りと自覚を胸に、行動するように」とのお言葉を頂いたように、私も、校長先生から、「海外に行っても、館女生としての、自覚をもって、品行方正に勤めるように」というような言葉を賜りました。真面目な私は、イギリス到着後から、毎週、校長先生宛に、絵葉書を送りました。 高校時代には、QUEENなどロックグループのファンクラブに入ったり、武道館でのコンサートに行ったり、ロックマガジンなどを購読したりしました。またその頃、加藤タキさんが、コーディネーターという職業として、脚光を浴びており、私も、英語を使って、ロックグループの取材やコーディネートなどをする仕事につきたいとも思うようになりました。 そんな高校時代を過ごし、いよいよ、高校2年の冬頃から、進路を考えるようになりました。ピアノの先生や音楽の先生は、音大に行くことを進めてくれましたし、洋舞踊も習っていたので、ダンスの方面に進むか、また、数学も結構得意だったので、担任の先生などは、全科目受験の公立大学の教育学部などに行って、教師になるのが良いのではないかとか。。。 しかし、私の中では、通訳者、あるいは、コーディネーターになりたいという思いもあって、浅野輔先生と國広正雄先生のいる国際商科大学教養学部を受験しようと思いました。英検2級をもっていたので、推薦入学を受けました。そして、その他、ミッション系の大学も受験しました。 残念ながら、ミッション系の大学には、受からなかったのですが、その別の大学で見かけたファッショナブルな方を、国際商科大学の入学式で見かけ、声を上げそうに、嬉しくなりました。しかも同じクラス。とても仲良くなり、彼女の新婚旅行に同行するくらいの親友になりました。 大学時代は、通訳を目指していたくらいですから、英語のクラブに入りました。英語のクラブは、2つありましたが、英語で話す中身も学ぶというELI(English Language Institute)に入りました。毎日昼休みには、NHKのラジオ講座を先輩と予習復習し、放課後には、政治や経済の本などを読み、その内容を英語でディスカッションやディベートをするための論理的な思考を、英語と共に学びました。厳しく、かつユニークな先輩方に恵まれ、刺激的で、楽しく充実した日々でした。週末にも、KUEL関東学生英語会連盟等の大会(ディベートの試合等)などのイベントも多く、アルバイトなどする時間は、ありませんでした。 3年になって、国際関係学科を選び、ゼミは、国際政治、国際関係論の原彬久先生にご指導頂きました。これまたこのゼミの同期及び先輩方が、大変ユニークな方々で、しかし、とてつもなく優秀で、家族的な雰囲気の中、自主的なサブゼミ、本ゼミでも、多くの本を読み、自分の頭で考え、自分の意見を言う訓練をさせてもらった時期でした。恐れず、ひるまず、自分の考えをまとめ、発表する。問題提起をして、議論をする。そんな日々でした。しかし、秋霞祭などでは、ジャガイモのお店を出したり、皆で、色々な体験を共有しました。今思えば、本当に多くを経験し、鍛えられ、協力し、また、卒業できないかもしれない仲間を助けようと色々な応援や手伝いをいしたことなど、今も鮮明に会話の一つ一つが思い出されるほどです。私は、その男子からは、当時「親分」と呼ばれてました。下宿にノートを借りに来るだけでなく、風邪ひいたと言っては、ティッシュやみかんなど何でももらいに来ました。私は、その頃は、2階建ての一軒家に、最初の下宿で一緒だった同期の女性と2人で暮らしていたので、いつも、ことあるごとに色々な意味で頼られていました。 卒論は、「日本の外交政策決定過程における文化的要因―日本外交の文化人類学的考察―」だったかと思います。大学4年の夏頃から、ゼミの他の方々の就職が決まってきて、私もそろそろ卒業後の進路を考えなければならないと焦りました。当時、高度成長の波にのり、スポーツや余暇産業が良いのではと、YONEXを受けることにしました。就職課に色々と相談に行きましたが、イメージ的に良いなと思った大企業などは、親元からの通勤1時間以内の条件や、縁故採用だけだとか、当時は、女子の就職にまだまだ制約がある時代でした。そんな中、条件のないオープンに応募を募っているYONEXに焦点を絞りました。しかし、10月からの採用試験というので、他のゼミ生が、8月、9月に早々と就職を決め、卒論に集中している中、焦りのようなものも感じ、他にも、外資系の製薬会社、船舶会社、大手通信会社など、受けることにしました。しかし、私が希望した会社は、ほとんどが、「就職協定を守るので、11月から」というような感じでした。そんな中、YONEXは、10月から、書類選考、筆記試験、ディスカッション(モスクワオリンピックのボイコットを題材に、政治とスポーツに関するテーマ)などの試験がありました。ディスカッションは、ELIで仕込まれたので、得意分野でした。しかも英語でなく、日本語でいいのですから、水を得た魚のように、本領発揮!そして、次には、一次面接、役員面接、と勝ち進んでいき、やっと、採用となりました。 最初に出た採用内定はYONEXでしたが、11月の段階で、まだ、他に数社が筆記、一次が合格しており、更に、まだ先に面接試験が待っておりましたが、原先生の「一つ受かれば、もう良いじゃないか」という言葉に従って、YONEXに決めました。何度も試験の度に、会社に行っていたので、なんとなく既に愛着のような感情も芽生えていました。また、試験の度に会場で一緒になる他の受験者と顔見知りになっており、言葉を交わしたりしていたので、入社式の時には、既に3人ほどと友達になっておりました。そんな風に始まった社会人。社会人として1社目は、YONEXでした。 3.人生での良き出会いに導かれて (1)メンター:村松増美先生 私の最大のメンターは、月面着陸やサミットでも有名な同時通訳者で、サイマルアカデミーの校長、村松増美先生です。10歳の頃、TVでドキドキしながら見た、月面着陸の同時通訳者、あこがれていた先生と、大変親しくさせて頂くという幸運を得ました。 湯島にあるYONEXの東京本社には、群馬から約2時間かけて通いました。冬は、朝、まだ星が出ているうちに、家を出るような感じで、夜も結構残業が多かったので、8時くらいに退社するような日々でした。同期入社、大卒女子は、7人でしたが、皆仲良しでした。会社は新潟が本社で、スポーツ用品という先の成長性が見込める会社でしたが、自分にはあわないとすぐに感じました。しかし、石の上にも3年というので、3年は、我慢しようと思いました。結果、3年7か月をここで学びました。学校は、黙っていても、3年、4年で卒業になります。これまで、クラブ活動などでも、入ったら、途中でやめるのは、なんとなく、我慢のできないダメ人間のようで、途中でやめることはなかったのですが、しかし、会社は、卒業という節目が回ってこないので、自分で卒業するしかないと言い聞かせました。辞めるということに関して、罪悪感を感じ、ものすごく悩んでしまったからです。 YONEXにいる時から、通訳になりたいという夢に向かって、サイマルアカデミーに通っていました。YONEXを辞めてからは、更に、上級のクラスに通いました。そして、サイマルアカデミー主催のオーストラリア英語研修ツアーに参加しました。その頃、サイマルアカデミーに掲示されていた「オランダ博のコーディネーター募集」を見た年配のクラスメイトが、「あら、こういうの、あなたにむいてるんじゃないの」と進めてくれて、願書を出してみました。 数日後、衆議院議員中山太郎事務所から電話がありました。「オランダ博のコーディネーターにご応募ありがとうございました。こちらの職は、すでに決定してしまったのですが、良かったら、秘書兼コーディネーターとして、働きませんか。」つまり、中山太郎先生の国会事務所で、秘書として働かないかというオファーでした。 通称MM、村松増美先生のモットーは「よく学びよく遊べ」。英語の他、国際人としての心得やマナー、学ぶ姿勢、好奇心、人との付き合い方など、本当に多くを学びました。また、スキー仲間として、一緒に滑ったオーストラリア、ニュージーランド、踊りまくったディスコなど、忘れられない思い出がたくさんあります。ビジネスやアカデミアの一線で、国際的に活躍する著名な大先輩方、各国大使もご紹介下さって、これらの方方からも多くを学びました。 衆議院議員中山太郎先生の秘書として、国会事務所に勤務することに関し、少し戸惑っていた私は、丁度、オーストラリア研修旅行の帰りの飛行機の中で、MMに相談しました。「私の知る限り、中山先生は、クリーンで立派な方だから、やってみなさい」との助言を頂き、迷いなく挑戦することにしたのでした。中山太郎先生の秘書、コーディネーターとしては、脳死臓器移植法案ができるまでの過程を経験させて頂き、その他、昭和天皇崩御の時などは、大変貴重な経験をさせて頂きました。同時に忍耐も学びました。 その後、サイマルの先輩の紹介で、作曲家の都倉俊一氏が会長を務める企画会社、「クローバー21」に勤務することになりました。当時、都倉氏が、投資家を集め、長崎原爆をテーマにしたミュージカルを、ロンドンで制作する為に作った会社でしたが、なかなか制作に時間がかかり、その間、私は、文化事業の企画プロデュースを担当することになりました。この時の経験が今の私の仕事の根幹を作っていると言えます。 1991年、ソ連のミハイル・ゴルバチョフ大統領の来日を記念して開催された、ワールド・チルドレンズ・フェスティバルの制作スタッフとして、財団法人国際児童交流財団ウエーブ2千に出向することになりました。 このイベントは、当時のソビエト連邦から100人、米国から60人、東西ドイツから30人のこどもたちを其々招き、世界平和を願い、芸術文化で交流する趣旨で、海部首相はじめ、財団の会長、長嶋茂雄、副会長、岡本綾子、カール・ルイス、ブルック・シールズ、ペレ他、国内外から様々な著名人が出演したバブル期ならではの祭典でした。こどもサミットでは、ミハイル・ゴルバチョフ大統領と海部俊樹内閣総理大臣が、平和の指きりをするという演出で、これはTVでも大変話題になりました。この大規模なイベントを約2週間で準備し、徹夜続きの日々で、私は完全に燃え尽きてしまいました。その後、この財団から、新しく始まる事業を担当してもらえないかとお声がかかり、財団職員となりました。それは、「夢の学校」という事業でした。 実は、最初にこの事務所に打ち合わせで出向いた時に、「私もこういうところで、仕事がしたいな。どういう人が、こういうところで働けるのだろうか。」と事務所を出る時に、働いている人を横目で見ながら、心でつぶやいたのですが、 何気に心に思っただけで、それに関して、就職活動をしたり、お願いしたり、アピールしたことも、何もしなかったのですが、願ったことが上から降ってきたような感じでした。 (2)夢の学校 長嶋茂雄が会長を務める国際児童交流財団ウエーブ2千は、「こどもたちに夢と希望を与える活動を行う」文部省所管の財団で、私は、「夢の学校」の事業主事となりました。 これは、長嶋茂雄、カール・ルイス、宇宙飛行士テレシコーワ、音楽家や俳優など、夢を成し遂げた人と一緒に小学校に行き、児童と講師となる著名人が互いに夢について語り合う交流授業で、1年間に、全都道府県84校の小学校で開催しました。なるべく、そういう経験を得難いと思われる離島や、全校生徒5人の山の中の学校とか、色々な学校を回りました。講師の選定、交渉、現場での仕切り、学校の選定、交渉、ロケハン、ロードマネジメント、アテンド、メディア対応、スポンサー対応と、想像を絶する忙しさで、年がら年中、旅をしているような感じでしたが、この経験も、現在私の仕事に大変役立っています。 私は、これらの講師が、こどもたちに語る熱い言葉を毎回聞いていました。例えば、カール・ルイスは、「こどもの頃、家族皆走るのが速かったのに、自分だけ遅かった。けれども走るの大好きだったので、いつかは速く走れるようになりたいと思い続けた。Never Give Up」と話す訳です。長嶋さんは、「貧しかったので、野球のボールが買えず、母が、夜中に、手を針で刺して血だらけにしながら、ボールを縫って作ってくれた。だから、頑張った。」と。これらの話に、私自身も大変勇気づけられ、大切はことをたくさん学ばせてもらいました。 ところが、残念なことに、この財団は1年後には潰れてしまい、それで仕方なく独立したのです。ある日突然仕事場が無くなってしまったので、途方にくれました。それまでに頂いた名刺を整理し、「独立したので、宜しくお願いします。」とお願いに行くのですが、お願いしないと誰にもわからないし、独立したと言ってしまうと後には引けないし、とても怖くて孤独で不安な時期でしたが、何とか生き延びました。 (3)K & Associates Internationalとして独立 そうして作ったのが、K&Aです。自分一人では、何もできないけれど、皆さんに助けて頂いて何とかできるという思いからK&アソシエイツにしました。 最初の仕事は、「24時間TV愛は地球を救う」で、歌手のマルシアさんの初恋の相手を探して、ブラジルから日本に来てもらうコーディネートでした。いくら請求して良いのかもわからず、「安すぎる」と言われ、そのような仕事の料金の相場も、仕事先に教えてもらうような船出でした。 その後は、地方の文化施設の企画やコンサルティングの仕事の機会を得ました。「夢の学校」の経験が評価されての依頼でした。神奈川県の「地球市民かながわプラザ」が最初の案件でした。この仕事の延長戦上で、NPO法人 ちきゅう市民クラブを設立しました。 また、この頃は、地域活性化のコンサル、市民大学講座の企画など地方自治体の仕事を中心に、商工団体のコンサルなど、地方の仕事が多い時期でした。これら行政の仕事をし、単年度の予算の組み方、事業の在り方など多くの疑問を感じ、改めてそれらのことを学び、考えてみたいと思い、立教大学大学院文学研究科比較文明学専攻博士前期課程に入学します。「文部科学省研究費助成研究」に参加し、地域と文化、公共のマーケティングなどを研究し、引き続きソフトパワーを活用した地域活性化のコンサルの仕事をしていました。 「地球市民かながわプラザ」の仕事で多くの留学生を紹介してくれた友人である工学博士チョウドリ モーミンウッディンさんが独立する際、会社設立を手伝い、株式会社チョウドリ ソフトウエア サービスのマーケティングを担当することになりました。文化と化学工学は、全く違う分野であり、そこに関わる人も仕事の仕方も違うので、大変刺激的で、一からの勉強でしたが、視野が広がりました。クライアントのエンジニアは、私の専門が化学工学だと思っており、最初に出版社から出た出版物に、執筆者として私の名前が出たのは、化学工学の専門書でした。大学院の学位、比較文明学修士が取得できたのも、チョウドリさんの応援と助言のお陰で、大変感謝しています。 (4)ピッコロ・ヴァイオリン研究会 2006年、ピッコロ・ヴァイオリン奏者、グレゴリー・セドフとの出会いにより、自費で音楽家を海外から招き、コンサートツアーを主催するという無謀な事業を始めることになってしまいました。それは、私が信頼する電気通信大学教授早川正士先生からの紹介でしたが、私自身、セドフさんの奏でる美しい音楽と、更に、この楽器を制作した音響学者カーリン・ハッチンス博士の偉業に感動して、この楽器を広めたい、セドフさんのことを多くの人に知ってもらいたいという使命感に燃えてしまったからでした。 私が感動したように、多くの方の共感を得られると思っていたのですが、実際は、クラシック音楽界の保守的な高い壁に阻まれ、苦労の連続でした。困難な状況であればあるほど燃えてしまい、「社会の受容能力を高めたい。新しいことに挑戦する人を応援したい。」との思いを強くし、「ピッコロ・ヴァイオリン研究会」を立ち上げ、以後、毎年、自費でセドフさんを日本に招き演奏会を主催するようになりました。 この頃、NHK教育TV趣味悠々「かっこよく弾く簡単ピアノ講座」などピアニスト、斎藤雅広さんのマネジメントや、企業の周年事業企画の仕事もしていましたが、とにかく、セドフさんの自主公演と招へいにお金がかかり、すっかり貧乏になりました。この苦労はしばらく続きました。とにかく必死に、できることは何でもやりました。文系ですが、東京大学で開催された日本音響学会で発表したり、学会誌に投稿したり、ラジオやTVにも出ました。そして、2010年には、当時の皇后陛下美智子様が、演奏会にお越し下さるという夢のようなことが実現したのです。 これも、色々なご縁が重なってのことでした。これで、多くの方に知って頂き、次の年には、苦労なくツアーを開催できると期待したのですが、神様は、更なる試練を下さいました。 2011年3月、東日本大震災に見舞われました。その年は、6月にセドフさんのツアーを予定しておりました。 (2010年皇后陛下美智子様がお出まし下さったグレゴリー・セドフの演奏会) (演奏会には、東京国際大学理事長、学長、同窓会の皆様がお越しくださいました。) (5)もう一人のメンター:下村満子さん ジャーナリストの下村満子さんとの最初の出会いは、私が、自治体の市民大学講座などの講演会の企画をしていた際に、講演をお願いしたのが最初です。ちょっと色々あって、一旦決まった仕事だったのですが、ある誤解により、その後お断りされてしまったのです。困った私は、どうしようかと思いながらも、その時の気持ちや状況など、誤解が解けるよう、手紙を書いて送りました。その後、ご理解頂き、一度いらっしゃいということで、お目通りし、直に色々お話させて頂き、その後、親しくさせて頂くようになりました。 当時、下村さんは、医療法人の理事長をされており、VIP向けの健康サロンとして、岩月明シェフの「360Kカロリー、塩分2.2グラムのフルコースフランス料理」を紹介し、この料理を食べる会を開催して頂きました。その後は、ロイヤルパークホテルで、春夏秋冬の食材を活かし、年に4回、3年間一緒に開催しました。セドフさんの演奏も聴いて頂き、色々な方にご紹介下さいました。そして、2011年に下村さんの実家のある福島では、「下村満子生き方塾」が4月に開講予定で、その応援団に、私もセドフさんも加えて頂きました。 開塾を迎える準備をしていた3月、未曽有の大惨事が勃発しました。東日本大震災、津波、続く原発事故の3重苦が福島を襲ったのでした。下村さんは、事故直後、4トントラックに自らが乗り込み、食料や医療物資を届けるなどの活動をすぐさま始めました。 同時に、生き方塾はどうするのか。中止にするのか、延期にするのか。生き方塾の6月の会では、私が招聘する、また、同じく下村満子生き方塾の応援団にも加えて頂いているグレゴリー・セドフの演奏会も予定されていました。そもそも、そんな時に招聘できるのか。放射能を恐れて、海外に帰国する外交官や、来日をキャンセルする外来音楽家などが多い中、はたして、セドフさんは、日本に来てくれるのか。私が主催する東京公演も、芸大の学長他との共演の内容でしたが、キャンセルするか、実施するか、決断が迫られました。 とても厳しく悩ましく辛い時でした。省エネ、時差停電も敢行される中、夜の演奏会は、電力の消費というような批判もあり、また、多くの方は、外出を控えるようになった為、演奏会を開催しても、誰も来てくれないのでは、というような状況でした。 下村さんの生き方塾は、受講予定の福島の皆様が、「こんな時こそ、生き方塾が必要。なにか、心の支えがないと、生きていけない。前を向いて、進むために、是非開講して欲しい」と声を上げました。 その声に押され、下村満子生き方塾は、4月16日、余震が続く中開塾し、私も東京から参加致しました。その時、塾生の入塾の決意表明を聞き、更に私の母の「やれ~!」という言葉に背中を押され、また、グレゴリー・セドフがいち早く、「こんな時こそ、日本へ。皆さんの力になりたい」とのメッセージを寄せてくれ、招聘及びツアーを敢行することを決意しました。 福島での生き方塾での演奏会では、「ふるさと」や「会津磐梯山」などもレパートリーに加え、福島の皆様を元気づけました。会場では、すすり泣く声が聞こえました。この年は、埼玉に避難している双葉町の皆さんのところにも慰問演奏に行きました。その時、皆さんの失意の中での静かな葛藤、心の強さに、私もセドフさんも大変感銘を受けました。 前年に、ヤマハホールでの皇后陛下美智子様がお越し下さった演奏会に東京国際大学の理事長はじめ学長や同窓会役員の皆様がお越し下さったご縁で、2011年は、東京国際大学のオーディトリアムにて、オープンキャンパスの一環で、セドフの演奏会を開催して頂きました。コンサート後には、倉田信靖理事長とセドフの対談も行われ、私は、その司会進行及び通訳を務めました。 そして、この席上、グレゴリー・セドフは、これまでの日露交流活動や福島被災地支援などの功績をご憲章頂き、東京国際大学特命教授に任命頂きました。 (2012年6月東京国際大学オーディトリアムでの倉田理事長とグレゴリーセドフの対談 通訳川島佳子) TIUでのグレゴリーセドフ演奏会 最前列写真左は、倉田理事長、司会説明:川島 その後も、東京国際大学でのグレゴリー・セドフの演奏会は、2013年と2016年に開催されました。 下村さんの生き方塾との関わりもあって、私とセドフさんの福島を応援する活動は、2011年から現在まで続いています。実は、ロシアでも、3月に、「福島の為に祈る」というコンサートを行っており、2020年は、また、夢のようなことでしたが、この演奏会のオープニングに、上皇后陛下美智子様が詩の朗読をされている映像でご参加下さり、大変特別な演奏会となりました。これも、Something Greatなお導きとしか言いようがありません。 また、下村満子様には、色々な機会を与えて頂きました。その最たるものは、「ダライラマ法王14世と科学者との対話」の総合司会に、私を推薦して下さったことです。360Kカロリーのイベントでは、経費削減の為、企画から司会までも私が担当していたので、それを聞いていて推薦して下さったのでした。その結果、TV局のアナウンサーも差し置いて、何と、私がその大役を務めることになりました。2012年と2013年、2度仰せつかり、その都度、法王より、お経を織り込んだシルクの白いスカーフ、祈りの「カタ」を頂きました。これも、真に夢のような出来事でしたが、下村満子さんのお蔭と心より感謝申し上げます。 (左から2つ目のスクリーンの下に赤い着物を着て司会をしているのが川島) 4.人生は夢の学校-大学はインキュベーター- 人は何の為に生きるのでしょうか。誰もが人生でぶち当たる問いです。 私は、自分の人生を振り返り、人生の方向性は、小学生の時代にほぼ出来上がったように思います。その後の希望や思いも、その為に、例えば大谷翔平さんのように、人生設計ノートを書いたわけでもなく、掲げた目標に向かって、他のことを犠牲にして突き進むほどの努力をしてきた訳ではありませんが、なんとなく、思った方向へ導かれた気がします。おそらく、それは、私だけでなく、ほとんどの人がそうなんじゃないかと思います。 カール・ルイスが語った通り、思えば叶う。もちろん、人生は、良いことばかりでなく、むしろ、嫌なこと、避けたいこと、そして、ショッキングで立ち上がれないほどの苦しみの方が多いのだと実感します。しかし、人生は、その都度がレッスンであり、トレーニングであり、チャレンジだとも思うのです。 大学時代、多くのユニークな先輩や同輩に恵まれ、様々な経験をしました。厳しいゼミでは、多くの本を読み、本に読まれることなく、自分の頭で考え、他の人と違っても、自分の意見を言う訓練をさせられました。自分の信念や感受性に関しての自信があります。それは、音楽や洋舞踊を習った経験からも培われたものです。 世界同時パンデミックという未曽有の事態を、人類は体験しました。全てが初めてのことではありましたが、私は、2020年の2月頃から、なんとなく、変だなという違和感を抱いていました。世界が同時に同じことを行う。それに違和感を覚えました。ちょうど、3月11日、グレゴリー・セドフの「福島の為に祈る」というコンサートを行うために、ロシアへ行く前のことでした。私がロシアに入国した時、モスクワでも、サンクトペテルブルグでもマスクをしている人はほとんどいませんでした。私たちの演奏会、美智子様がビデオでご参加下さった演奏会も無事に終了し、イリーナ・ペレンとマラト・シェミウノフのバレエレッスンツア―に参加された小学生の関連の事業も、また、私どもが在サンクトペテルブルグ総領事館の職員をお招きしたバレエの公演も、無事に終了して、明後日帰国するという時に、ロシアでも、全ての劇場が閉鎖となり、日本からの入国もできなくなりました。私どもの予定が、無事に終了したとたんに、閉鎖です。危機一髪、ラッキーでした。日本への帰国もどうなるかと思いましたが、帰りの便では、マスクの使用が強制となりました。 帰国後のロックダウン、その間、私は、世界がどのように成り立っているのか、色々調べる時間をもらったように思いました。そして、その後の2022年のロシアのウクライナ侵攻。私は、ゴルバチョフの時代からロシア、当時はソ連でしたが、仕事で、多くかかわる機会を得ました。根室の北方四島交流施設ニホロの企画に参画し、ビザなし交流で島から来るロシア人の取材、また、元島民で返還運動に従事する日本人、根室、釧路の漁師の方々からもお話を伺いました。 また、ロシアのダイヤモンド会社アルロサの仕事にも関わり、その後は、ロシアの音楽家、バレエダンサーなどと家族のように付き合っています。2015年からは、毎年ロシアを訪れていました。最初に行く際には、日本では、ロシアは危険だとか、治安が悪いとか、モノが足りないとか、暗いとか、いろいろ言われていましたが、行ってみると、その差が大きすぎて夢のパラダイスのようでした。特に、音楽やバレエや美術が好きな私には、サンクトペテルブルグは、町中が美術館のようで、楽しくて感動にあふれ、宝くじが当たったら、ここに住みたいと思うほどでした。そして、観光国で、大勢の観光客が世界中から来ており、道行く人は、ほとんどがアイフォンを持っており、道を尋ねると、英語がわからない人でも、親切に調べて教えてくれます。日本の昭和の時代のような人情があります。 そして、毎年行くたびに、空港内は、高級なお土産物屋が増え、人々の暮らし、着るものも、高級デザートなど、高度成長している様に驚きました。ロシアにいる日本人を多く知っているので、彼らから色々聴いていることと、日本での報道が、全く違います。 そもそも、“プロジェクトフラ”を知っている人は、日本にどれくらいいるのでしょうか。日本では、偏ったことしか報道されず、大事なことが報道されないことが、わかってきました。 また、私は。2014年から、ロシアのバレエダンサーを招聘し、日本の若手プロ、青少年と共演する教育的事業を企画主催しており、2022年は、大変厳しい環境でしたが、ウクライナから避難してきたダンサーにも出演してもらいました。この時に感じたことは、ウクライナ人でも何人でもダンサーである限りは、踊る機会に踊りたいという事です。しかし、問題は、周りの人です、ロシア人が出る舞台で踊るのはいかがなものかとの非難がありました。また、観客も、本当は、多くの方は、芸術文化交流はどんな時でも大事であり、継続することで、平和に貢献できると思っていても、他人から、ロシアの見方をしていると見られたら困るというように、世間体ばかりを気にしている人が多いのです。 私は、原ゼミで、どんな時でも、自分が学び考えたことから、自分の意見が誰と違っても、そもそも全く同じであるはずはないのですが、はっきりと主張できることの重要性を学びました。権力も力も発言権もある人が、なぜか、それをする勇気がないのかという事を今回強く感じました。大学というアカデミアにあっても、多くの大学が、逃げ腰であることに失望致しました。大学こそ、どんな時でも、世論がいかようであっても、権力に負けず、自分の考えを持ち、事の大事さ、それを発言できる勇気を持った人材を育てるべきだと思いますし、大学は、率先して、そのような発信ができたはずです。 イラク侵攻後、イギリス首相が、イラク侵攻は間違いだったと発言した時、同盟国として、そのような発言は、いかがなものかと批判を受けましたが、同盟国だからこそ、間違いを正すべきなのではないでしょうか。 会社内で起こっている不正に関して、報告する人を保護する方向になっていますが、会社でも、内部告発を重要視し、保護するのであれば、国も同盟国の間違いを正すよう促進保護するべきだと思います。 そうしないと、世界は、良くなりません。 今は、金が権力になり、金が正義になってしまっています。本来の正義とはなんなのでしょうか。 私は、現在は、政治家の秘書でもありませんし、直接政治には関わっておりませんが、芸術文化を通して、国際理解や平和に貢献しているつもりです。実際、外国では、芸術文化は、上位の分野にカテゴライズされており、国家元首や、地位の高い方々にお目にかかれる機会も多いのです。たまに、日本の政治家から、それらの件で、意見を求められたりすることもあります。 2024年9月、私はロシア政府より招待を受け、サンクトペテブルグルで開催された“ユーラシア ウイメンズ フォーラム”に参加してきました。サンクトペテルブルグは、コロナ前と同様、世界中から観光客が訪れ、夜11時まで本屋も、ブティックも開いており、にぎわっていました。ヨーロッパのブランド品も売られており、物も豊富で、人々の暮らし向きも上昇しているように思いました。 フォーラムには、126か国から900人が招待されました。プーチン大統領もスピーチされ、元副首相、現国家院議長のヴァレンティナ・マトビエンコ閣下主催の晩さん会は、会場への入場前から延々と3時間以上、オーケストラの生演奏、ソリストたちのクラシック音楽、ジャス、ポップス、オペラ、民族音楽、舞踊、テクノとエンターテイメントのてんこ盛りで、豪華なフルコースの食事も、食べる暇もないくらい、魅力的で圧倒的でした。やはり、芸術文化による感動共有が、人々を結び付け、勇気や元気を与え、問題解決に向かわし得る大きな力があると実感致しました。私の仕事も、ものすごく大変で、毎回、もう辞めよう、続けられないと思うのですが、この貴重な体験を通じて、命ある限り、芸術文化交流・教育・福祉事業を継続していくことを決意できました。 サンクトペテルブルグでは、日本国総領事からも、公邸での昼食に、ご招待頂き、これまでずっと、どんな時も日露文化交流を継続してきたことに対しての、労いと感謝と敬意までものお言葉を賜り、今後への励ましも頂きました。更に、フォーラムに全日着物を着用して参加し、日本の魅力を伝えてくれたことにも感謝しますとのメールを頂きました。ロシアでの滞在で感じたことも、帰国後の日本でのこと、機会がありましたら、別途、詳細を報告したいと思います。 マトヴィエンコ閣下と、SPに囲まれてSPが撮影してくれました。 5.結びに 若い世代の方へのメッセージ ここには、ショックな出来事や自殺しようとさえ思った経験については、もちろん書いておりませんが、誰もが、そんな辛い経験をしていることと思います。 でも、例えば10回中9回その大変な状況を何とか頑張って乗り越えれば、ものすごいご褒美のような夢のような出来事が1回くらい巡って来るものです。ひどい出来事で、もう生きていけないと思った時、私が色々考えて自分なりに結論づけたのは、「神様は、全ての人に、その人にあった最高の人生を用意してくれている」ということです。それを生かすも殺すも、その人次第。そう思って、受け入れて、それが自分の為になることと思えば、何とかやり過ごせます。 母校館林女子高校の創立90周年記念の式典で、在校生への講演の機会を得た際、これからを生きる若い世代に届けたメッセージを、まとめにしたいと思います。確か、TIUニュースで取材して頂いた際にもお話したことですが、 第一に、出会いを大切にしようということです。それは、人も機会も含まれます。大変なことも縁があれば引き受けましょう。大変なことは、誰だって嫌です。それでも、それを経験することで必ず成長できます。今までできなかったこと、不可能だと思ってたことが可能になるのです。大変なことを乗り越えられた、その成功体験を重ねることで、自分のキャパシティーをどんどん大きくすることができるのです。 ピッコロ・ヴァイオリン奏者のセドフさんを自費で招いてツアーをするということは、ほとんど不可能と思われることでしたが、今では、1年の間に、セドフさんに加え、ロシアのバレエダンサー、イリーナ・ペレンとマラト・シェミウノフ、メキシコのピアニスト、アレハンドロ・ベラ、オーストリアのヴァイオリニスト、ヨハネス・フライシュマン、ドイツのチェリスト、ユリウス・ベルガー、ピアニスト、オリバー・ケルンを招へいし、其々のツアーを行っています。 第二に、若い方に強く言いたいのは、失敗を恐れるなということです。考えてみて下さい。野球で3割打者って凄いんですよね。3割って事は、10回に7回は失敗してるんです。それでも、それってすごいことなんです。そう思うと、元気が出てきませんか。勇気が湧いてきませんか。人生は、夢を見つける、あるいは、追い求めて実現する学校なのですから、学校では、いくらでもトライ&エラーが許されるのです。特に、学生時代は、失敗を恐れずに色々なことにチェレンジして欲しいと思います。大学時代は、何でも挑戦して経験して欲しいと思います。その時の嬉しいことも、楽しいことも、苦しみも悲しみも、全てが成長のバネになります。 そして、私の好きな言葉を贈ります。「できないのは途中で止めてしまうから。」ピアノを習ったおかげで、「できるまでやることがやること」だと学びました。つまり、やり続ければ、必ずいつかできるようになるのです。カール・ルイスの言葉、「思い続ければ、いつか必ず叶う。Never give up 」です。「楽しんで、やり続ける。思い続ける」。其々の、ペースで、やればいいのです。 人との出会い、この広い宇宙にあって、天文学的な確率で、人生で出会う人たち。必然なのか、偶然なのかはわかりませんが、何らかの意味があると思います。もとを辿れば、人類は皆、兄弟であり親戚です。それぞれの人生に、環境に、出会いに感謝しつつ、この夢の学校で学び、トライ&エラーを楽しくやっていきましょう。 より良い種を生み出すために。無限の可能性に向かって、共に人生という学校で学び続け、夢の実現、更新の為に、挑戦し続けようではありませんか。 川島企画プロデュースバレエ芸術文化交流・教育事業(2014年より継続) 川島企画プロデュース、国際芸術交流・教育・福祉事業 グレゴリー・セドフ「Arts for All2024誰も輝くカラフルコンサートーピッコロヴァイオリンが歌い・踊る」終演後の集合写真 目の不自由な演奏家との共演のプロジェクト K&Associates International https://k-and-a-intl.com/ https://www.facebook.com/KeikoKawashima.KandAssociates.International 川島佳子 (KAWASHIMA,Keiko) kkawashima@cssimc.com (川島佳子さんのプロフィール) 群馬県館林市出身 1982年3月東京国際大学卒業 教養学部国際関係学科 原彬久ゼミ ELI K & Associates International代表 株式会社チョウドリ ソフトウエア サービス取締役 特定非営利活動法人ちきゅう市民クラブ 事務局長他 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
川島佳子さん(1982年卒業 教養学部国際関係学科 原彬久ゼミ ELI)2025年1月1日1.はじめに 「789●△×◎」東京国際大学(当時は国際商科大学教養学部)在籍時の学籍番号、今でも鮮明に覚えています。 私は、現在、芸術文化を核とした国際交流や教育、福祉など、社会貢献事業の企画プロデュースをメインに、地域活性化や企業のプロモーションを提案しています。地域の文化施設の活性化と芸術文化教育事業、国際交流事業等による商圏の拡大、新規顧客の呼び込み、地域の次世代の育成、地域からの発信等を通し、文化と経済の融合を目指す地域活性化事業等を企画しています。 海外から演奏家やバレエダンサーを招へいし、大使館や大使公邸でのコンサートの他、青少年や若手プロに同じステージで共演する機会を提供し、彼らの夢の後押しをする教育事業が、実に驚くほどの成果をあげています。これまで参加された小学生~高校生は、現在、世界中のバレエ団で活躍し、中には、映画女優となって、日本アカデミー賞新人賞を獲得したり、ミスワールド日本代表になった人も、10万人のフォロワーをもつYOUTUBERになったりと夫々が多方面で、実に生き生きと挑戦を続けています。 彼らは、まだ始まったばかりの「夢の学校」という人生で、より多くを経験し、学び、チャレンジし、頑張れば、夢は実現するという事を身をもって学んでいるのです。 2.大学までの道 私は、群馬県館林市の出身で、小学校に入る前から、ヤマハの音楽教室に通ったり、洋舞踊を習ったり、活発で、好奇心旺盛なこども時代を過ごしました。 幼少期は、母の影響を多く受けました。母は、東京から群馬に疎開して来た人で、音楽や芸術に造詣が深く、その影響もあって、私も小学校入学前から、オルガン、ピアノを習いました。練習が嫌でサボり癖のある私に、母はスパルタで厳かったのですが、今では大変感謝しています。楽器は、練習しないと絶対に弾けないので、努力体質が身につきます。「やる」という意味は、単に時間を過ごすだけでなく、「できるようになるまで」が、「やる」という意味だと身をもって学べるのです。 また、洋舞踊は、思い切り身体を使って表現するのが楽しく、中学では体操部に入り、県大会に出場するほど頑張りました。この経験も、今、ロシアのバレエダンサー、イリーナ・ペレンとマラト・シェミウノフのプロデュースやバレエの教育事業を企画するのに、大変役立っています。 ピアノの先生のお父さんは、日本キリスト教団の牧師さんでもあり、日曜学校にも通いました。毎週聖書を読み、賛美歌を歌い、クリスマスには、劇をやったり、色々な家を回って、玄関先でクリスマスキャロルを歌ったり、夏はキャンプなどもしました。そんな経験から、先生のご家族と大変親しくしておりました。 ピアノの先生は、私が小学校4年生の時に、布教活動などの為に、カナダに移住することになりました。それから、先生との文通が始まりました。日本では、おとなしく、控えめな先生で、けっして社交的とは言い難かったのですが、その先生が、友人たちと車で、カナダを横断したり、バンクーバーの夕日の中をクルージングしている写真などが送られてきて、異国の生活文化に接し、大変刺激的で、外国へのあこがれを強くしました。 先生の父である、牧師さんは、英語の塾もされており、私が、小学校5年生になると、その英語塾へ入会のご案内が送られてきたので、何の疑問もなく、入塾しました。行ってみると、私以外の参加者は、皆6年生でした。中学から始まる英語の予習として、6年生にのみ、案内したようですが、私も6年生だと、牧師さんが勘違いしてしまったようでした。 6年生の先輩の中で、ただ一人の5年生でした。とにかく、私は、ピアノの先生との文通で芽生えた海外へのあこがれから、その為に、英語が不可欠であり、英語を学ぶことが楽しくて仕方なかったのです。そして、その結果、自分で言うのは何ですが、年下の私が、一番できてしまって、嬉しい反面、先輩方に悪い気がして、課題のペーパーができた順に提出して帰るという時は、出来上がっていても、一番最後に提出したりと、こどもながらに気を使っていました。 翌年も、今度は、同期の6年生たちと一緒にまた、同じコースを受けました。中学入学前に2年英語をやっていたので、中学での授業は、楽々すいすいでした。 ピアノの先生との文通も続き、カナダの美しい自然や、ホームパーティーなどの楽しそうな写真や絵ハガキは、私の外国へ行ってみたいという思いを年々強くさせました。1969年、アポロ11号月面着陸のテレビ中継以来、通訳という仕事が脚光を浴びていました。サイマルアカデミーの西山千さん、國広正雄さん、村松増美さん、鳥飼久美子さん、TBSのニュースキャスターを務めた浅野輔さんなどに、あこがれるようになりました。 母は、「女は、勉強なんかできなくても良い。学校なんて、どこでも同じ。」と公言しており、中学の先生は、隣の県の高校への進学を進めましたが、家から自転車で通えるところ、ということで、群馬県立館林女子高等学校に進みました。相変わらず、英語は好きで、得意でした。英語と数学が得意でした。クラブは、マンドリンギター部に所属し、指揮者として、多くのコンサートに出演しました。ちょうど、中学生の頃、館林市文化会館が建設され、開館当時は、連日、群馬交響楽団の演奏会や、劇団四季のミュージカルなど、文化会館に行くのが楽しみでした。そして、その同じ舞台で、自分も発表会でピアノを演奏したり、踊ったり、指揮をする機会に恵まれました。 旺文社のヨーロッパ英語研修ツアーの情報を見つけ、過去の参加者の感想などを読んでいるうちに、私も行きたくなり、無理だろうなと思いながらも、その思いがだんだん募って、ついに、母に相談しました。高校2年の時でした。 夏休みに、約3週間、イギリスのラムスゲートで、ホームスティしながら、外国人向けの英語学校に通い、その後、フランス、スイス、イタリアへの旅行がついているツアーでした。蛍雪時代や辞書などの出版社として、当時は、最大手だった旺文社が、中学生、高校生を中心対象として企画している語学研修ツアーで、親の心配を軽減するために、4人から6人のグループに、大人が一人つくという。旺文社が株主になっている、TV朝日の中堅社員のサバティカルか、海外のTV局の視察などもかねて、こどものリーダーとして、ついてくれるという体制で、本人も親も安心して、海外に出してもらえることになりました。 当時は、まだ外国へ行くのは珍しく、特に、私が住む群馬県館林市では、ましてや家族が同行せずに、高校生が一人で約1か月を一人海外へ行くというのは、大きな冒険でしたし、心配もされました。 担任の先生は、英語の先生だったので、よくわかってもらえるかと思いましたが、そうでもなく、校長先生と教頭先生とも面談をし、まるで、青山光子が、クーデンホーフ伯爵との結婚の為、ヨーロッパに渡る際、皇后陛下に謁見し、「海外にあっても、日本女子としての誇りと自覚を胸に、行動するように」とのお言葉を頂いたように、私も、校長先生から、「海外に行っても、館女生としての、自覚をもって、品行方正に勤めるように」というような言葉を賜りました。真面目な私は、イギリス到着後から、毎週、校長先生宛に、絵葉書を送りました。 高校時代には、QUEENなどロックグループのファンクラブに入ったり、武道館でのコンサートに行ったり、ロックマガジンなどを購読したりしました。またその頃、加藤タキさんが、コーディネーターという職業として、脚光を浴びており、私も、英語を使って、ロックグループの取材やコーディネートなどをする仕事につきたいとも思うようになりました。 そんな高校時代を過ごし、いよいよ、高校2年の冬頃から、進路を考えるようになりました。ピアノの先生や音楽の先生は、音大に行くことを進めてくれましたし、洋舞踊も習っていたので、ダンスの方面に進むか、また、数学も結構得意だったので、担任の先生などは、全科目受験の公立大学の教育学部などに行って、教師になるのが良いのではないかとか。。。 しかし、私の中では、通訳者、あるいは、コーディネーターになりたいという思いもあって、浅野輔先生と國広正雄先生のいる国際商科大学教養学部を受験しようと思いました。英検2級をもっていたので、推薦入学を受けました。そして、その他、ミッション系の大学も受験しました。 残念ながら、ミッション系の大学には、受からなかったのですが、その別の大学で見かけたファッショナブルな方を、国際商科大学の入学式で見かけ、声を上げそうに、嬉しくなりました。しかも同じクラス。とても仲良くなり、彼女の新婚旅行に同行するくらいの親友になりました。 大学時代は、通訳を目指していたくらいですから、英語のクラブに入りました。英語のクラブは、2つありましたが、英語で話す中身も学ぶというELI(English Language Institute)に入りました。毎日昼休みには、NHKのラジオ講座を先輩と予習復習し、放課後には、政治や経済の本などを読み、その内容を英語でディスカッションやディベートをするための論理的な思考を、英語と共に学びました。厳しく、かつユニークな先輩方に恵まれ、刺激的で、楽しく充実した日々でした。週末にも、KUEL関東学生英語会連盟等の大会(ディベートの試合等)などのイベントも多く、アルバイトなどする時間は、ありませんでした。 3年になって、国際関係学科を選び、ゼミは、国際政治、国際関係論の原彬久先生にご指導頂きました。これまたこのゼミの同期及び先輩方が、大変ユニークな方々で、しかし、とてつもなく優秀で、家族的な雰囲気の中、自主的なサブゼミ、本ゼミでも、多くの本を読み、自分の頭で考え、自分の意見を言う訓練をさせてもらった時期でした。恐れず、ひるまず、自分の考えをまとめ、発表する。問題提起をして、議論をする。そんな日々でした。しかし、秋霞祭などでは、ジャガイモのお店を出したり、皆で、色々な体験を共有しました。今思えば、本当に多くを経験し、鍛えられ、協力し、また、卒業できないかもしれない仲間を助けようと色々な応援や手伝いをいしたことなど、今も鮮明に会話の一つ一つが思い出されるほどです。私は、その男子からは、当時「親分」と呼ばれてました。下宿にノートを借りに来るだけでなく、風邪ひいたと言っては、ティッシュやみかんなど何でももらいに来ました。私は、その頃は、2階建ての一軒家に、最初の下宿で一緒だった同期の女性と2人で暮らしていたので、いつも、ことあるごとに色々な意味で頼られていました。 卒論は、「日本の外交政策決定過程における文化的要因―日本外交の文化人類学的考察―」だったかと思います。大学4年の夏頃から、ゼミの他の方々の就職が決まってきて、私もそろそろ卒業後の進路を考えなければならないと焦りました。当時、高度成長の波にのり、スポーツや余暇産業が良いのではと、YONEXを受けることにしました。就職課に色々と相談に行きましたが、イメージ的に良いなと思った大企業などは、親元からの通勤1時間以内の条件や、縁故採用だけだとか、当時は、女子の就職にまだまだ制約がある時代でした。そんな中、条件のないオープンに応募を募っているYONEXに焦点を絞りました。しかし、10月からの採用試験というので、他のゼミ生が、8月、9月に早々と就職を決め、卒論に集中している中、焦りのようなものも感じ、他にも、外資系の製薬会社、船舶会社、大手通信会社など、受けることにしました。しかし、私が希望した会社は、ほとんどが、「就職協定を守るので、11月から」というような感じでした。そんな中、YONEXは、10月から、書類選考、筆記試験、ディスカッション(モスクワオリンピックのボイコットを題材に、政治とスポーツに関するテーマ)などの試験がありました。ディスカッションは、ELIで仕込まれたので、得意分野でした。しかも英語でなく、日本語でいいのですから、水を得た魚のように、本領発揮!そして、次には、一次面接、役員面接、と勝ち進んでいき、やっと、採用となりました。 最初に出た採用内定はYONEXでしたが、11月の段階で、まだ、他に数社が筆記、一次が合格しており、更に、まだ先に面接試験が待っておりましたが、原先生の「一つ受かれば、もう良いじゃないか」という言葉に従って、YONEXに決めました。何度も試験の度に、会社に行っていたので、なんとなく既に愛着のような感情も芽生えていました。また、試験の度に会場で一緒になる他の受験者と顔見知りになっており、言葉を交わしたりしていたので、入社式の時には、既に3人ほどと友達になっておりました。そんな風に始まった社会人。社会人として1社目は、YONEXでした。 3.人生での良き出会いに導かれて (1)メンター:村松増美先生 私の最大のメンターは、月面着陸やサミットでも有名な同時通訳者で、サイマルアカデミーの校長、村松増美先生です。10歳の頃、TVでドキドキしながら見た、月面着陸の同時通訳者、あこがれていた先生と、大変親しくさせて頂くという幸運を得ました。 湯島にあるYONEXの東京本社には、群馬から約2時間かけて通いました。冬は、朝、まだ星が出ているうちに、家を出るような感じで、夜も結構残業が多かったので、8時くらいに退社するような日々でした。同期入社、大卒女子は、7人でしたが、皆仲良しでした。会社は新潟が本社で、スポーツ用品という先の成長性が見込める会社でしたが、自分にはあわないとすぐに感じました。しかし、石の上にも3年というので、3年は、我慢しようと思いました。結果、3年7か月をここで学びました。学校は、黙っていても、3年、4年で卒業になります。これまで、クラブ活動などでも、入ったら、途中でやめるのは、なんとなく、我慢のできないダメ人間のようで、途中でやめることはなかったのですが、しかし、会社は、卒業という節目が回ってこないので、自分で卒業するしかないと言い聞かせました。辞めるということに関して、罪悪感を感じ、ものすごく悩んでしまったからです。 YONEXにいる時から、通訳になりたいという夢に向かって、サイマルアカデミーに通っていました。YONEXを辞めてからは、更に、上級のクラスに通いました。そして、サイマルアカデミー主催のオーストラリア英語研修ツアーに参加しました。その頃、サイマルアカデミーに掲示されていた「オランダ博のコーディネーター募集」を見た年配のクラスメイトが、「あら、こういうの、あなたにむいてるんじゃないの」と進めてくれて、願書を出してみました。 数日後、衆議院議員中山太郎事務所から電話がありました。「オランダ博のコーディネーターにご応募ありがとうございました。こちらの職は、すでに決定してしまったのですが、良かったら、秘書兼コーディネーターとして、働きませんか。」つまり、中山太郎先生の国会事務所で、秘書として働かないかというオファーでした。 通称MM、村松増美先生のモットーは「よく学びよく遊べ」。英語の他、国際人としての心得やマナー、学ぶ姿勢、好奇心、人との付き合い方など、本当に多くを学びました。また、スキー仲間として、一緒に滑ったオーストラリア、ニュージーランド、踊りまくったディスコなど、忘れられない思い出がたくさんあります。ビジネスやアカデミアの一線で、国際的に活躍する著名な大先輩方、各国大使もご紹介下さって、これらの方方からも多くを学びました。 衆議院議員中山太郎先生の秘書として、国会事務所に勤務することに関し、少し戸惑っていた私は、丁度、オーストラリア研修旅行の帰りの飛行機の中で、MMに相談しました。「私の知る限り、中山先生は、クリーンで立派な方だから、やってみなさい」との助言を頂き、迷いなく挑戦することにしたのでした。中山太郎先生の秘書、コーディネーターとしては、脳死臓器移植法案ができるまでの過程を経験させて頂き、その他、昭和天皇崩御の時などは、大変貴重な経験をさせて頂きました。同時に忍耐も学びました。 その後、サイマルの先輩の紹介で、作曲家の都倉俊一氏が会長を務める企画会社、「クローバー21」に勤務することになりました。当時、都倉氏が、投資家を集め、長崎原爆をテーマにしたミュージカルを、ロンドンで制作する為に作った会社でしたが、なかなか制作に時間がかかり、その間、私は、文化事業の企画プロデュースを担当することになりました。この時の経験が今の私の仕事の根幹を作っていると言えます。 1991年、ソ連のミハイル・ゴルバチョフ大統領の来日を記念して開催された、ワールド・チルドレンズ・フェスティバルの制作スタッフとして、財団法人国際児童交流財団ウエーブ2千に出向することになりました。 このイベントは、当時のソビエト連邦から100人、米国から60人、東西ドイツから30人のこどもたちを其々招き、世界平和を願い、芸術文化で交流する趣旨で、海部首相はじめ、財団の会長、長嶋茂雄、副会長、岡本綾子、カール・ルイス、ブルック・シールズ、ペレ他、国内外から様々な著名人が出演したバブル期ならではの祭典でした。こどもサミットでは、ミハイル・ゴルバチョフ大統領と海部俊樹内閣総理大臣が、平和の指きりをするという演出で、これはTVでも大変話題になりました。この大規模なイベントを約2週間で準備し、徹夜続きの日々で、私は完全に燃え尽きてしまいました。その後、この財団から、新しく始まる事業を担当してもらえないかとお声がかかり、財団職員となりました。それは、「夢の学校」という事業でした。 実は、最初にこの事務所に打ち合わせで出向いた時に、「私もこういうところで、仕事がしたいな。どういう人が、こういうところで働けるのだろうか。」と事務所を出る時に、働いている人を横目で見ながら、心でつぶやいたのですが、 何気に心に思っただけで、それに関して、就職活動をしたり、お願いしたり、アピールしたことも、何もしなかったのですが、願ったことが上から降ってきたような感じでした。 (2)夢の学校 長嶋茂雄が会長を務める国際児童交流財団ウエーブ2千は、「こどもたちに夢と希望を与える活動を行う」文部省所管の財団で、私は、「夢の学校」の事業主事となりました。 これは、長嶋茂雄、カール・ルイス、宇宙飛行士テレシコーワ、音楽家や俳優など、夢を成し遂げた人と一緒に小学校に行き、児童と講師となる著名人が互いに夢について語り合う交流授業で、1年間に、全都道府県84校の小学校で開催しました。なるべく、そういう経験を得難いと思われる離島や、全校生徒5人の山の中の学校とか、色々な学校を回りました。講師の選定、交渉、現場での仕切り、学校の選定、交渉、ロケハン、ロードマネジメント、アテンド、メディア対応、スポンサー対応と、想像を絶する忙しさで、年がら年中、旅をしているような感じでしたが、この経験も、現在私の仕事に大変役立っています。 私は、これらの講師が、こどもたちに語る熱い言葉を毎回聞いていました。例えば、カール・ルイスは、「こどもの頃、家族皆走るのが速かったのに、自分だけ遅かった。けれども走るの大好きだったので、いつかは速く走れるようになりたいと思い続けた。Never Give Up」と話す訳です。長嶋さんは、「貧しかったので、野球のボールが買えず、母が、夜中に、手を針で刺して血だらけにしながら、ボールを縫って作ってくれた。だから、頑張った。」と。これらの話に、私自身も大変勇気づけられ、大切はことをたくさん学ばせてもらいました。 ところが、残念なことに、この財団は1年後には潰れてしまい、それで仕方なく独立したのです。ある日突然仕事場が無くなってしまったので、途方にくれました。それまでに頂いた名刺を整理し、「独立したので、宜しくお願いします。」とお願いに行くのですが、お願いしないと誰にもわからないし、独立したと言ってしまうと後には引けないし、とても怖くて孤独で不安な時期でしたが、何とか生き延びました。 (3)K & Associates Internationalとして独立 そうして作ったのが、K&Aです。自分一人では、何もできないけれど、皆さんに助けて頂いて何とかできるという思いからK&アソシエイツにしました。 最初の仕事は、「24時間TV愛は地球を救う」で、歌手のマルシアさんの初恋の相手を探して、ブラジルから日本に来てもらうコーディネートでした。いくら請求して良いのかもわからず、「安すぎる」と言われ、そのような仕事の料金の相場も、仕事先に教えてもらうような船出でした。 その後は、地方の文化施設の企画やコンサルティングの仕事の機会を得ました。「夢の学校」の経験が評価されての依頼でした。神奈川県の「地球市民かながわプラザ」が最初の案件でした。この仕事の延長戦上で、NPO法人 ちきゅう市民クラブを設立しました。 また、この頃は、地域活性化のコンサル、市民大学講座の企画など地方自治体の仕事を中心に、商工団体のコンサルなど、地方の仕事が多い時期でした。これら行政の仕事をし、単年度の予算の組み方、事業の在り方など多くの疑問を感じ、改めてそれらのことを学び、考えてみたいと思い、立教大学大学院文学研究科比較文明学専攻博士前期課程に入学します。「文部科学省研究費助成研究」に参加し、地域と文化、公共のマーケティングなどを研究し、引き続きソフトパワーを活用した地域活性化のコンサルの仕事をしていました。 「地球市民かながわプラザ」の仕事で多くの留学生を紹介してくれた友人である工学博士チョウドリ モーミンウッディンさんが独立する際、会社設立を手伝い、株式会社チョウドリ ソフトウエア サービスのマーケティングを担当することになりました。文化と化学工学は、全く違う分野であり、そこに関わる人も仕事の仕方も違うので、大変刺激的で、一からの勉強でしたが、視野が広がりました。クライアントのエンジニアは、私の専門が化学工学だと思っており、最初に出版社から出た出版物に、執筆者として私の名前が出たのは、化学工学の専門書でした。大学院の学位、比較文明学修士が取得できたのも、チョウドリさんの応援と助言のお陰で、大変感謝しています。 (4)ピッコロ・ヴァイオリン研究会 2006年、ピッコロ・ヴァイオリン奏者、グレゴリー・セドフとの出会いにより、自費で音楽家を海外から招き、コンサートツアーを主催するという無謀な事業を始めることになってしまいました。それは、私が信頼する電気通信大学教授早川正士先生からの紹介でしたが、私自身、セドフさんの奏でる美しい音楽と、更に、この楽器を制作した音響学者カーリン・ハッチンス博士の偉業に感動して、この楽器を広めたい、セドフさんのことを多くの人に知ってもらいたいという使命感に燃えてしまったからでした。 私が感動したように、多くの方の共感を得られると思っていたのですが、実際は、クラシック音楽界の保守的な高い壁に阻まれ、苦労の連続でした。困難な状況であればあるほど燃えてしまい、「社会の受容能力を高めたい。新しいことに挑戦する人を応援したい。」との思いを強くし、「ピッコロ・ヴァイオリン研究会」を立ち上げ、以後、毎年、自費でセドフさんを日本に招き演奏会を主催するようになりました。 この頃、NHK教育TV趣味悠々「かっこよく弾く簡単ピアノ講座」などピアニスト、斎藤雅広さんのマネジメントや、企業の周年事業企画の仕事もしていましたが、とにかく、セドフさんの自主公演と招へいにお金がかかり、すっかり貧乏になりました。この苦労はしばらく続きました。とにかく必死に、できることは何でもやりました。文系ですが、東京大学で開催された日本音響学会で発表したり、学会誌に投稿したり、ラジオやTVにも出ました。そして、2010年には、当時の皇后陛下美智子様が、演奏会にお越し下さるという夢のようなことが実現したのです。 これも、色々なご縁が重なってのことでした。これで、多くの方に知って頂き、次の年には、苦労なくツアーを開催できると期待したのですが、神様は、更なる試練を下さいました。 2011年3月、東日本大震災に見舞われました。その年は、6月にセドフさんのツアーを予定しておりました。 (2010年皇后陛下美智子様がお出まし下さったグレゴリー・セドフの演奏会) (演奏会には、東京国際大学理事長、学長、同窓会の皆様がお越しくださいました。) (5)もう一人のメンター:下村満子さん ジャーナリストの下村満子さんとの最初の出会いは、私が、自治体の市民大学講座などの講演会の企画をしていた際に、講演をお願いしたのが最初です。ちょっと色々あって、一旦決まった仕事だったのですが、ある誤解により、その後お断りされてしまったのです。困った私は、どうしようかと思いながらも、その時の気持ちや状況など、誤解が解けるよう、手紙を書いて送りました。その後、ご理解頂き、一度いらっしゃいということで、お目通りし、直に色々お話させて頂き、その後、親しくさせて頂くようになりました。 当時、下村さんは、医療法人の理事長をされており、VIP向けの健康サロンとして、岩月明シェフの「360Kカロリー、塩分2.2グラムのフルコースフランス料理」を紹介し、この料理を食べる会を開催して頂きました。その後は、ロイヤルパークホテルで、春夏秋冬の食材を活かし、年に4回、3年間一緒に開催しました。セドフさんの演奏も聴いて頂き、色々な方にご紹介下さいました。そして、2011年に下村さんの実家のある福島では、「下村満子生き方塾」が4月に開講予定で、その応援団に、私もセドフさんも加えて頂きました。 開塾を迎える準備をしていた3月、未曽有の大惨事が勃発しました。東日本大震災、津波、続く原発事故の3重苦が福島を襲ったのでした。下村さんは、事故直後、4トントラックに自らが乗り込み、食料や医療物資を届けるなどの活動をすぐさま始めました。 同時に、生き方塾はどうするのか。中止にするのか、延期にするのか。生き方塾の6月の会では、私が招聘する、また、同じく下村満子生き方塾の応援団にも加えて頂いているグレゴリー・セドフの演奏会も予定されていました。そもそも、そんな時に招聘できるのか。放射能を恐れて、海外に帰国する外交官や、来日をキャンセルする外来音楽家などが多い中、はたして、セドフさんは、日本に来てくれるのか。私が主催する東京公演も、芸大の学長他との共演の内容でしたが、キャンセルするか、実施するか、決断が迫られました。 とても厳しく悩ましく辛い時でした。省エネ、時差停電も敢行される中、夜の演奏会は、電力の消費というような批判もあり、また、多くの方は、外出を控えるようになった為、演奏会を開催しても、誰も来てくれないのでは、というような状況でした。 下村さんの生き方塾は、受講予定の福島の皆様が、「こんな時こそ、生き方塾が必要。なにか、心の支えがないと、生きていけない。前を向いて、進むために、是非開講して欲しい」と声を上げました。 その声に押され、下村満子生き方塾は、4月16日、余震が続く中開塾し、私も東京から参加致しました。その時、塾生の入塾の決意表明を聞き、更に私の母の「やれ~!」という言葉に背中を押され、また、グレゴリー・セドフがいち早く、「こんな時こそ、日本へ。皆さんの力になりたい」とのメッセージを寄せてくれ、招聘及びツアーを敢行することを決意しました。 福島での生き方塾での演奏会では、「ふるさと」や「会津磐梯山」などもレパートリーに加え、福島の皆様を元気づけました。会場では、すすり泣く声が聞こえました。この年は、埼玉に避難している双葉町の皆さんのところにも慰問演奏に行きました。その時、皆さんの失意の中での静かな葛藤、心の強さに、私もセドフさんも大変感銘を受けました。 前年に、ヤマハホールでの皇后陛下美智子様がお越し下さった演奏会に東京国際大学の理事長はじめ学長や同窓会役員の皆様がお越し下さったご縁で、2011年は、東京国際大学のオーディトリアムにて、オープンキャンパスの一環で、セドフの演奏会を開催して頂きました。コンサート後には、倉田信靖理事長とセドフの対談も行われ、私は、その司会進行及び通訳を務めました。 そして、この席上、グレゴリー・セドフは、これまでの日露交流活動や福島被災地支援などの功績をご憲章頂き、東京国際大学特命教授に任命頂きました。 (2012年6月東京国際大学オーディトリアムでの倉田理事長とグレゴリーセドフの対談 通訳川島佳子) TIUでのグレゴリーセドフ演奏会 最前列写真左は、倉田理事長、司会説明:川島 その後も、東京国際大学でのグレゴリー・セドフの演奏会は、2013年と2016年に開催されました。 下村さんの生き方塾との関わりもあって、私とセドフさんの福島を応援する活動は、2011年から現在まで続いています。実は、ロシアでも、3月に、「福島の為に祈る」というコンサートを行っており、2020年は、また、夢のようなことでしたが、この演奏会のオープニングに、上皇后陛下美智子様が詩の朗読をされている映像でご参加下さり、大変特別な演奏会となりました。これも、Something Greatなお導きとしか言いようがありません。 また、下村満子様には、色々な機会を与えて頂きました。その最たるものは、「ダライラマ法王14世と科学者との対話」の総合司会に、私を推薦して下さったことです。360Kカロリーのイベントでは、経費削減の為、企画から司会までも私が担当していたので、それを聞いていて推薦して下さったのでした。その結果、TV局のアナウンサーも差し置いて、何と、私がその大役を務めることになりました。2012年と2013年、2度仰せつかり、その都度、法王より、お経を織り込んだシルクの白いスカーフ、祈りの「カタ」を頂きました。これも、真に夢のような出来事でしたが、下村満子さんのお蔭と心より感謝申し上げます。 (左から2つ目のスクリーンの下に赤い着物を着て司会をしているのが川島) 4.人生は夢の学校-大学はインキュベーター- 人は何の為に生きるのでしょうか。誰もが人生でぶち当たる問いです。 私は、自分の人生を振り返り、人生の方向性は、小学生の時代にほぼ出来上がったように思います。その後の希望や思いも、その為に、例えば大谷翔平さんのように、人生設計ノートを書いたわけでもなく、掲げた目標に向かって、他のことを犠牲にして突き進むほどの努力をしてきた訳ではありませんが、なんとなく、思った方向へ導かれた気がします。おそらく、それは、私だけでなく、ほとんどの人がそうなんじゃないかと思います。 カール・ルイスが語った通り、思えば叶う。もちろん、人生は、良いことばかりでなく、むしろ、嫌なこと、避けたいこと、そして、ショッキングで立ち上がれないほどの苦しみの方が多いのだと実感します。しかし、人生は、その都度がレッスンであり、トレーニングであり、チャレンジだとも思うのです。 大学時代、多くのユニークな先輩や同輩に恵まれ、様々な経験をしました。厳しいゼミでは、多くの本を読み、本に読まれることなく、自分の頭で考え、他の人と違っても、自分の意見を言う訓練をさせられました。自分の信念や感受性に関しての自信があります。それは、音楽や洋舞踊を習った経験からも培われたものです。 世界同時パンデミックという未曽有の事態を、人類は体験しました。全てが初めてのことではありましたが、私は、2020年の2月頃から、なんとなく、変だなという違和感を抱いていました。世界が同時に同じことを行う。それに違和感を覚えました。ちょうど、3月11日、グレゴリー・セドフの「福島の為に祈る」というコンサートを行うために、ロシアへ行く前のことでした。私がロシアに入国した時、モスクワでも、サンクトペテルブルグでもマスクをしている人はほとんどいませんでした。私たちの演奏会、美智子様がビデオでご参加下さった演奏会も無事に終了し、イリーナ・ペレンとマラト・シェミウノフのバレエレッスンツア―に参加された小学生の関連の事業も、また、私どもが在サンクトペテルブルグ総領事館の職員をお招きしたバレエの公演も、無事に終了して、明後日帰国するという時に、ロシアでも、全ての劇場が閉鎖となり、日本からの入国もできなくなりました。私どもの予定が、無事に終了したとたんに、閉鎖です。危機一髪、ラッキーでした。日本への帰国もどうなるかと思いましたが、帰りの便では、マスクの使用が強制となりました。 帰国後のロックダウン、その間、私は、世界がどのように成り立っているのか、色々調べる時間をもらったように思いました。そして、その後の2022年のロシアのウクライナ侵攻。私は、ゴルバチョフの時代からロシア、当時はソ連でしたが、仕事で、多くかかわる機会を得ました。根室の北方四島交流施設ニホロの企画に参画し、ビザなし交流で島から来るロシア人の取材、また、元島民で返還運動に従事する日本人、根室、釧路の漁師の方々からもお話を伺いました。 また、ロシアのダイヤモンド会社アルロサの仕事にも関わり、その後は、ロシアの音楽家、バレエダンサーなどと家族のように付き合っています。2015年からは、毎年ロシアを訪れていました。最初に行く際には、日本では、ロシアは危険だとか、治安が悪いとか、モノが足りないとか、暗いとか、いろいろ言われていましたが、行ってみると、その差が大きすぎて夢のパラダイスのようでした。特に、音楽やバレエや美術が好きな私には、サンクトペテルブルグは、町中が美術館のようで、楽しくて感動にあふれ、宝くじが当たったら、ここに住みたいと思うほどでした。そして、観光国で、大勢の観光客が世界中から来ており、道行く人は、ほとんどがアイフォンを持っており、道を尋ねると、英語がわからない人でも、親切に調べて教えてくれます。日本の昭和の時代のような人情があります。 そして、毎年行くたびに、空港内は、高級なお土産物屋が増え、人々の暮らし、着るものも、高級デザートなど、高度成長している様に驚きました。ロシアにいる日本人を多く知っているので、彼らから色々聴いていることと、日本での報道が、全く違います。 そもそも、“プロジェクトフラ”を知っている人は、日本にどれくらいいるのでしょうか。日本では、偏ったことしか報道されず、大事なことが報道されないことが、わかってきました。 また、私は。2014年から、ロシアのバレエダンサーを招聘し、日本の若手プロ、青少年と共演する教育的事業を企画主催しており、2022年は、大変厳しい環境でしたが、ウクライナから避難してきたダンサーにも出演してもらいました。この時に感じたことは、ウクライナ人でも何人でもダンサーである限りは、踊る機会に踊りたいという事です。しかし、問題は、周りの人です、ロシア人が出る舞台で踊るのはいかがなものかとの非難がありました。また、観客も、本当は、多くの方は、芸術文化交流はどんな時でも大事であり、継続することで、平和に貢献できると思っていても、他人から、ロシアの見方をしていると見られたら困るというように、世間体ばかりを気にしている人が多いのです。 私は、原ゼミで、どんな時でも、自分が学び考えたことから、自分の意見が誰と違っても、そもそも全く同じであるはずはないのですが、はっきりと主張できることの重要性を学びました。権力も力も発言権もある人が、なぜか、それをする勇気がないのかという事を今回強く感じました。大学というアカデミアにあっても、多くの大学が、逃げ腰であることに失望致しました。大学こそ、どんな時でも、世論がいかようであっても、権力に負けず、自分の考えを持ち、事の大事さ、それを発言できる勇気を持った人材を育てるべきだと思いますし、大学は、率先して、そのような発信ができたはずです。 イラク侵攻後、イギリス首相が、イラク侵攻は間違いだったと発言した時、同盟国として、そのような発言は、いかがなものかと批判を受けましたが、同盟国だからこそ、間違いを正すべきなのではないでしょうか。 会社内で起こっている不正に関して、報告する人を保護する方向になっていますが、会社でも、内部告発を重要視し、保護するのであれば、国も同盟国の間違いを正すよう促進保護するべきだと思います。 そうしないと、世界は、良くなりません。 今は、金が権力になり、金が正義になってしまっています。本来の正義とはなんなのでしょうか。 私は、現在は、政治家の秘書でもありませんし、直接政治には関わっておりませんが、芸術文化を通して、国際理解や平和に貢献しているつもりです。実際、外国では、芸術文化は、上位の分野にカテゴライズされており、国家元首や、地位の高い方々にお目にかかれる機会も多いのです。たまに、日本の政治家から、それらの件で、意見を求められたりすることもあります。 2024年9月、私はロシア政府より招待を受け、サンクトペテブルグルで開催された“ユーラシア ウイメンズ フォーラム”に参加してきました。サンクトペテルブルグは、コロナ前と同様、世界中から観光客が訪れ、夜11時まで本屋も、ブティックも開いており、にぎわっていました。ヨーロッパのブランド品も売られており、物も豊富で、人々の暮らし向きも上昇しているように思いました。 フォーラムには、126か国から900人が招待されました。プーチン大統領もスピーチされ、元副首相、現国家院議長のヴァレンティナ・マトビエンコ閣下主催の晩さん会は、会場への入場前から延々と3時間以上、オーケストラの生演奏、ソリストたちのクラシック音楽、ジャス、ポップス、オペラ、民族音楽、舞踊、テクノとエンターテイメントのてんこ盛りで、豪華なフルコースの食事も、食べる暇もないくらい、魅力的で圧倒的でした。やはり、芸術文化による感動共有が、人々を結び付け、勇気や元気を与え、問題解決に向かわし得る大きな力があると実感致しました。私の仕事も、ものすごく大変で、毎回、もう辞めよう、続けられないと思うのですが、この貴重な体験を通じて、命ある限り、芸術文化交流・教育・福祉事業を継続していくことを決意できました。 サンクトペテルブルグでは、日本国総領事からも、公邸での昼食に、ご招待頂き、これまでずっと、どんな時も日露文化交流を継続してきたことに対しての、労いと感謝と敬意までものお言葉を賜り、今後への励ましも頂きました。更に、フォーラムに全日着物を着用して参加し、日本の魅力を伝えてくれたことにも感謝しますとのメールを頂きました。ロシアでの滞在で感じたことも、帰国後の日本でのこと、機会がありましたら、別途、詳細を報告したいと思います。 マトヴィエンコ閣下と、SPに囲まれてSPが撮影してくれました。 5.結びに 若い世代の方へのメッセージ ここには、ショックな出来事や自殺しようとさえ思った経験については、もちろん書いておりませんが、誰もが、そんな辛い経験をしていることと思います。 でも、例えば10回中9回その大変な状況を何とか頑張って乗り越えれば、ものすごいご褒美のような夢のような出来事が1回くらい巡って来るものです。ひどい出来事で、もう生きていけないと思った時、私が色々考えて自分なりに結論づけたのは、「神様は、全ての人に、その人にあった最高の人生を用意してくれている」ということです。それを生かすも殺すも、その人次第。そう思って、受け入れて、それが自分の為になることと思えば、何とかやり過ごせます。 母校館林女子高校の創立90周年記念の式典で、在校生への講演の機会を得た際、これからを生きる若い世代に届けたメッセージを、まとめにしたいと思います。確か、TIUニュースで取材して頂いた際にもお話したことですが、 第一に、出会いを大切にしようということです。それは、人も機会も含まれます。大変なことも縁があれば引き受けましょう。大変なことは、誰だって嫌です。それでも、それを経験することで必ず成長できます。今までできなかったこと、不可能だと思ってたことが可能になるのです。大変なことを乗り越えられた、その成功体験を重ねることで、自分のキャパシティーをどんどん大きくすることができるのです。 ピッコロ・ヴァイオリン奏者のセドフさんを自費で招いてツアーをするということは、ほとんど不可能と思われることでしたが、今では、1年の間に、セドフさんに加え、ロシアのバレエダンサー、イリーナ・ペレンとマラト・シェミウノフ、メキシコのピアニスト、アレハンドロ・ベラ、オーストリアのヴァイオリニスト、ヨハネス・フライシュマン、ドイツのチェリスト、ユリウス・ベルガー、ピアニスト、オリバー・ケルンを招へいし、其々のツアーを行っています。 第二に、若い方に強く言いたいのは、失敗を恐れるなということです。考えてみて下さい。野球で3割打者って凄いんですよね。3割って事は、10回に7回は失敗してるんです。それでも、それってすごいことなんです。そう思うと、元気が出てきませんか。勇気が湧いてきませんか。人生は、夢を見つける、あるいは、追い求めて実現する学校なのですから、学校では、いくらでもトライ&エラーが許されるのです。特に、学生時代は、失敗を恐れずに色々なことにチェレンジして欲しいと思います。大学時代は、何でも挑戦して経験して欲しいと思います。その時の嬉しいことも、楽しいことも、苦しみも悲しみも、全てが成長のバネになります。 そして、私の好きな言葉を贈ります。「できないのは途中で止めてしまうから。」ピアノを習ったおかげで、「できるまでやることがやること」だと学びました。つまり、やり続ければ、必ずいつかできるようになるのです。カール・ルイスの言葉、「思い続ければ、いつか必ず叶う。Never give up 」です。「楽しんで、やり続ける。思い続ける」。其々の、ペースで、やればいいのです。 人との出会い、この広い宇宙にあって、天文学的な確率で、人生で出会う人たち。必然なのか、偶然なのかはわかりませんが、何らかの意味があると思います。もとを辿れば、人類は皆、兄弟であり親戚です。それぞれの人生に、環境に、出会いに感謝しつつ、この夢の学校で学び、トライ&エラーを楽しくやっていきましょう。 より良い種を生み出すために。無限の可能性に向かって、共に人生という学校で学び続け、夢の実現、更新の為に、挑戦し続けようではありませんか。 川島企画プロデュースバレエ芸術文化交流・教育事業(2014年より継続) 川島企画プロデュース、国際芸術交流・教育・福祉事業 グレゴリー・セドフ「Arts for All2024誰も輝くカラフルコンサートーピッコロヴァイオリンが歌い・踊る」終演後の集合写真 目の不自由な演奏家との共演のプロジェクト K&Associates International https://k-and-a-intl.com/ https://www.facebook.com/KeikoKawashima.KandAssociates.International 川島佳子 (KAWASHIMA,Keiko) kkawashima@cssimc.com (川島佳子さんのプロフィール) 群馬県館林市出身 1982年3月東京国際大学卒業 教養学部国際関係学科 原彬久ゼミ ELI K & Associates International代表 株式会社チョウドリ ソフトウエア サービス取締役 特定非営利活動法人ちきゅう市民クラブ 事務局長他 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
「人生に無駄な経験は無い」
原田 晴之さん (1992年卒業 教養学部国際学科/大越ゼミ 1991年Willamette Univ.卒業/BA政治学専攻)2024年10月1日【プロローグ】 私が海外に興味を持ち始めたのは幼稚園での出会いがきっかけでした。カトリック系幼稚園で良くして頂いた神父、先生(シスター)方、そして聖書の挿絵に登場する聖人達は皆、外国人でした。園庭で先生と一緒に遊んでいた時に、花壇のチューリップが果たして自分と同じ様に見えているのだろうかと考えていた記憶が、ぼんやりと残っています。(幼稚園から頂いた聖書) 【高校留学】 カリフォルニア州のメキシコ系アメリカ人家庭にホームステイをしながら、地元の公立高校 (Bloomington High School) に1年間通いました。激しい環境の変化に身を投じた事で、いきなり人生の転換期を迎えました。勉強不足による知識の無さや思考力の弱さを痛感し、帰国後に何を為すべきか大いに悩んだ時期でした。 ■ 自律性を養う 私のホストファミリーは、モービルホーム (トラックで牽引出来る家) に住む共働き家庭(3人家族+犬1匹& 猫1匹)でした。食事は冷蔵庫にある食材を各自が勝手に料理して取ることが基本で、家事はホストブラザーと分担していました。ところが、滞在3か月を過ぎた頃から、冷蔵庫が空になることが増え、家事の分担も私に偏り始めました。 普段はのんびり屋の私でしたが、「空腹」が「飢え」に変わったところで突然「スイッチ」が入り、自分でも驚く程の行動力を発揮したのです。近隣の家や友人宅を訪ねて、「芝刈り」「庭木の剪定」「掃除」「洗車」「ベビーシッター」「犬の散歩」「プールの清掃」等の仕事を次々と取り、家事で身に付けたスキルを総動員して、一気に問題を解決してしまったのです。(その勢いは止まらず、学校の昼食を無料にして貰うことにも成功しました。) その後、高校卒業に必須のクラス「American History」の前期分を、留学初期の英語力不足が原因で履修漏れが判明し、留学中最大の危機に直面しました。しかし、幸いにもその時ちょうど「スイッチ」が入って「エンジン全開」の状態だった為、この難局をうまく切り抜けられました。日本の高校で履修済みの世界史の教科書を手に、カウンセラーの先生や社会科の教諭、教頭先生に必死で掛け合いました。そして、補習クラスの履修を条件に「前期分」に相当する単位の置換を認めて貰うことに漕ぎつけたのです。 「自分の問題は自分で解決する」「自ら考え行動する」という自律性を養うことが、高校留学で得た最大の収穫でした。 (高校のクラス) ■ 英語の多様性とTPO 若者の英語、大人の英語、綺麗な英語、汚い英語、白人の英語、黒人の英語、メキシコ人の英語、インド人の英語、中華系の英語、西海岸の英語、LAヴァリーガール (Valley Girl) の英語、サーファーの英語等、多種多様な英語が日常生活でパワフルに話されており、米国デビューを果たした私の前に大きな壁として立ちはだかりました。私は小さなメモ帳を常に携行し、聞き取れた言葉をカタカナでメモし、帰宅後には鏡の前でネイティブスピーカーになったつもりで、カッコよく身振り手振り付きで発声練習を行いました。翌日には学校の友達にそれを披露してアルファベットに変換して貰い、帰宅後に辞書で調べて正確な意味を理解するというルーティンを徹底的に繰り返しました。その結果、3カ月後には確かな進歩を感じ、それが自信につながりました。 ところが、日々私が書き溜めて練習し、身に付けた英語が、米国の一般社会では決して受け入れられないギャング英語(メキシコ系のChicano Englishがベース)だった為に、それまで私を応援してくれた大切な友人が少しずつ私から離れて行きました。私はTPOをわきまえ、学校生活の中では標準的な英語を使うことを心掛けました。一方で、興味のあったインド、スペイン語、中国語訛りの英語については密かに練習を続けました。標準的な英語とそれ以外の切り分けにはかなり苦労しましたが、これも一つの学びでした。 ■ 人種差別 ほぼ単一民族の日本で育った私にとって、自分が「有色人種」である事を強烈に意識させられ、自覚させられたのが米国での生活でした。留学当初、私は「Jap」「Nip」「Gook」「Chink」「Pigtail」「WOG」「Napalm」その他多くの差別語で呼ばれ、学校の内外で不当な扱いを受ける事がありました。ある日、真っ黒に日焼けした自分の手の甲を見た瞬間、「汚い!」と感じた自分に大きなショックを受けました。無意識の内に、東洋人であることに劣等感を抱いていたと気付き、驚いたのです。 滞在期間の後半には友人も増え、それは和らいで行きましたが、学校の授業で見せられた 「A Class Divided」 というドキュメンタリー番組 (※)を通じて、改めて自分が抱いていた「劣等感」の正体を考えさせられました。そして、白人以外の人種に対して抱いていたかもしれない「優越感」がいかに虚しいものであったかを痛切に感じました。 ※ 1968年アイオワ州の小学校で実施された人種差別についての実験授業 YouTubeで日本語版を見つけたのでご紹介します。(NHK特集1988年4月29日放送) 「青い目 茶色い目 ~教室は目の色で分けられた~ (ウイリアム・ピータース著 / NHK出版) (高校の仲間)(高校の仲間) 【東京国際大学】 校名が「国際商科大学 (ICC)」から「東京国際大学 (TIU)」に改称された年(1986年)に入学しました。「高校留学での体験を思い出として終わらせず、深堀りする事で経験値として落とし込みたい。更に勉学を重ねる事で進むべき将来の道を明らかにしたい。」との一心で門を叩きました。 ■ スランプからの脱出 高い志と情熱を持って臨んだ「下羽ゼミ」(国際政治学)で私を待ち構えていたのは、日本全国から集まった個性豊かなクラスメート(曲者)達でした。私とは次元の違う高レベルの論客揃いで、自ら収集した情報(Fact)を分析(Study)し知識 (Knowledge) として吸い上げて行く「大学生の勉強方法」を当たり前の様に実践していました。私も必死で食らいつきましたが、元来の怠け癖と誘惑に弱い性格が邪魔をして空回りし、大学1~2年時は焦燥感に苛まれる事が多かったです。 3年に進級すると「大越ゼミ」(アメリカ研究論)を選択しました。下羽ゼミの仲間達が「厳格な修行僧」、「哲学者」の如く真理を追究する一体集団だとすれば、大越ゼミの仲間達は「まとまりの無い我儘な自由人」、「枠にとらわれない斬新的なクリエイター」の集まりといった印象でした。 一見、全く異なる二つのゼミでしたが、そこで学んだことは共通していました。知識の積み重ねや思考力の鍛錬は他人に代わって貰うことは出来ないこと、焦って背伸びをしても一足飛びに先には進めないこと、地道に継続することの重要性、そして勉強は苦しいだけでなく、取組み方次第では自由で楽しいものだということを教えられました。これは、至極当たり前のことかもしれませんが、私にとって大きな気付きでした。 スランプから脱出して改めて周りを見渡すと、それまで見過ごしていた周りのものが鮮明に見えるようになりました。大学が提供する豊富な選択授業や、新しい図書館や視聴覚室の英語教材の存在に気が付き、それらを積極的に活用することにしました。また、一度は諦めていた留学についても、挑戦したいという気持ちが湧いて来ました。親の支援で一度留学させて貰っていた為、再度の留学は経済的に難しいと感じていましたが、奨学金制度を活用することで再び挑戦出来るのではと考えました。そして、春・夏の海外セミナー(春:ウィラメット大学、夏:南オレゴン州立大学)や長期留学(ウィラメット大学)に全て応募し、大学からの支援を得られました。 ■ 教育実習 将来の進路の一つとして教育関連の仕事を考えており、教職課程を履修しました。大学の紹介により、埼玉県の私立男子高校の2年生クラスで英語の教育実習を行いました。事前準備をしっかりして、気合を入れて挑んだ初授業でしたが、英語以前に生徒のやる気をいかに引き出すかが喫緊の課題であることが分かりました。授業中に簡単な問題を出して何人かの生徒を当てたところ、皆一様に立ち上がらず、中腰で「分かりません」と言って着席してしまいます。 私は、着席した生徒を再度しっかり立ち上がらせ、「分からなくても良いから、分かろうとしよう」と説得しました。そして、答えが出るまでヒントを出し続け、場合によっては答えを黒板に書いて声に出して読ませる等、兎に角最後まで諦めないで挑戦するように指導しました。 また、机の中に教科書ガイドを忍ばせている生徒達には、「英語なんて数学みたいに考えてもしょうがないから、教科書ガイドの積極利用は大歓迎!」と、机上に置いて堂々と使用するように奨めました。教科書の練習問題も面白い文章に全て書き換えて、少しでも楽しめるように工夫しました。 最初はやる気の無い生徒が多かったのですが、中学校で習った辞書の引き方から、必要と思われる基礎的な構文については丁寧に何度も教えたところ、徐々に授業に参加する生徒が増えて行きました。極めつけは、少しずるいやり方とも思いましたが、どのクラスにも必ずいるおしゃべりで明るい生徒をうまく乗せて、授業が楽しくなるようなムードメーカーの役割を担わせることでクラス全体がひとつになりとても充実した授業運営が出来る様になりました。 しかし、私の授業を見学した先生方の評価は、年配のベテラン教師と若い教師とで真っ二つに分かれました。あるベテラン教師は、「原田先生は元気があって声も大きく、発音だけは良いけれど、中学で教わった構文を、わざわざ高校の授業でまた教える必要はないでしょう?」と否定的なコメントを残して教室を出て行かれました。一方で、若い指導教諭は他の若い先生方と一緒になって「原田先生、気にしないで!生徒が分からないから、分かるまで教えるのは当然のことです。中学校で教わっていようがいまいが、関係ありません!」と、私の教授方法を全面的に支持して頂けました。 担当していたクラスには、当時では珍しい米国からの交換留学生が在籍していました。彼と共にハイスクールで実際に話されている会話をスキット形式で授業中に紹介すると、「生きた英会話」に関心を持つ生徒が何人も現れ、教えることのやりがいを大いに感じました (※)。ある日、彼から深刻な二つの悩みを打ち明けられ、それを解消する為に奮闘することになりました。一つ目は、日本語補習の個人レッスンの機会を与えるよう学校と調整したこと、二つ目は、関係がうまくいかないホストファミリーから新しいホストファミリーへの変更をサポートしたことです。実習生の立場で出過ぎた行動だったかもしれませんが、自らの高校留学でお世話になった方々への恩返しのつもりで思わず突っ走ってしまったのだと思います。 ※ それでも教科書英語で基礎を固める事は大切です。 初日から積極的に取組んだ教育実習はあっという間に終了し、仲良くなった生徒達や意気投合した若い先生方に温かく送り出して頂きました。実習校からは大学卒業後に是非来て欲しいという有難いお言葉を頂きましたが(もしかすると社交辞令だったかもしれません)、私は企業就職を選びました。実習期間中に出会った企業経験者の先生の柔軟な視点や考え方、そしてその言葉に感じた重みから、教師という職業には専門教科の知識だけでなく、幅広い社会経験が必要だと強く感じたのです。(これはあくまでも、私の自分自身への評価に基づく判断であり、大学卒業後直ぐに教職に就かれる方を否定するものではありません。) (生徒からの寄書き) 【ウィラメット大学】 再びアメリカへ行くチャンスを得た2年間の奨学金プログラムでは、前回の高校留学時とは異なり、生活に適応するだけでなく、大学生活全体を通して様々な経験を積むことが出来ました。この留学期間は、私の学生時代で最も成長した時期であり、大いに学び、大いに悩み、そして大いに楽しむことで、現在の私の土台を築きました。(ウィラメット大学) ■ 寮生活:フラットハウス ウィラメット大学は、1842年に創立された西海岸で最も古い大学です。オレゴン州会議事堂に隣接する美しいキャンパス内の学生寮で2年間を過ごしました。キャンパスにある学生寮は、個室の寮もありますが、ルームメートとシェアする二人部屋が基本です。私が編入した当時は寮が満室でしたが、大学が交渉して会員制のフラタニティーハウスの一室を仮住まいさせて貰うことで留学生活をスタートしました。 「フラタニティー」(fraternity)とは辞書によると、「米国の男子学生の社交クラブ、友愛会」と定義されており、その歴史はアメリカの建国の歴史からそれ程遠くない1800年代初頭に、学生達が理想の学生生活を求めて結成したグループに遡ります。当時のアメリカは自由の国として建国されましたが、教育界は保守的で学生の行動には厳しい制約があり、その為学生の活動は地下に潜り、秘密結社的な形態をとりました。やがて、フラタニティーは全米に広がり、現在では多様なグループが設立され、共通の趣味や価値観を持つ学生が集う伝統的な学生組織として認知されました。私が仮住まいしたフラタニティーは、「ΣΑΕ:Sigma Alpha Epsilon」(略称 エス・エイ・イー)という全米に支部を持つグループでした。フラタニティーは「Greek Society」とも呼ばれ、ギリシャ語2~3文字の略称が一般的です。 (ΣΑΕハウス) (ΣΑΕの仲間達と) その後、第一希望の寮であるWISH (Willamette International Studies House) に空きが出ず、止む無く移った個室のYork Houseでは、隣室の学生からタイプライターの音がうるさいとの苦情が出て、夜間の使用を禁止され、困っていました。そんな時、ΣΑΕから新会員候補としての招待(Bid)を受けました。私はフラタニティーという謎めいたグループに興味があり、招待を受けた後、正式なプロセスを経てメンバーとなりました。 フラタニティーのメンバーになる為には、「Rush」と呼ばれる募集期間中に希望するフラタニティーのイベントに参加し、メンバー達と交流します。そこで選ばれた者は招待状を受け取り、次に「Pledge」という新会員候補または見習いとして一定期間の試練や課題(Initiation)を乗り越えることで、正式会員となります。各フラタニティーには伝統的な儀式 (Ritual) やイベントがあり、その内容の多くは秘密です。会員となった後、秘密の合言葉や挨拶の仕方が伝授され、フラタニティーのギリシャ文字が入ったトレーナーやTシャツの着用が許されます。また、本部からはスーツのジャケットにつけるピンバッジ(記章)と証書が贈られます。 フラタニティーは、派手なパーティーを開催することがあり (※)、ハウスの地下室にはバーカウンターやビールサーバーが完備されています。パーティーの日には、キャンパス中から着飾った生徒が集まり大変な賑わいを見せます。クラスの課題に追われる私は、図書館横の24H Study Roomで勉強を終えた後、深夜遅くハウスに戻るのですが、パーティーが終わっているわけもなく、そのまま巻き込まれ酔っぱらって気絶することが何度かありました。アメリカの大学生活をフルに体験し、満喫する為には避けては通れない修行の場でもありました。(楽しい思い出です。) ※ フラタニティ―は、パーティーで大騒ぎするイメージばかりが先行していますが、ボランティア活動等の社会奉仕も盛んに行っています。 ■ 授業 アメリカの授業は進行が早く、私が専攻していた政治学(Political Science)は、授業に出る前提となっている読書課題(Reading Assignment)の量が特に多い学科でした。成績は以下の4項目で評価され、ネイティブの学生ですら毎日必死で勉強に励んでいました。 ①Attendance(出席) ②Participation(授業への参加、貢献) ③Exam(試験) ④Paper / Assignment(提出レポート・課題) 新入生は、最初の半年間(1st Semester)でしっかり勉強の習慣と最適な勉強法を身につけないと、学校が指定した成績に到達出来ず、学業保護観察処分(Academic Probation)を受けることになります。これにより、学校のイベントや部活動等への参加が禁止され、次の試験で成績が改善されない場合は退学(Academic Dismissal)の厳しい措置が取られてしまいます。 2度目の留学とはいえ、英語のハンディキャップが大きく、初年度の前期クラスでは、アドバイザーのセオドア・シェイ教授(政治学 博士)の助言を受けて、新入生クラス(100番台)で英語の基礎を固めると共に成績(GPA)の確保に努めました。その中で、「Public Speaking」のクラスは、毎回スピーチ原稿を準備し、クラスメートとビデオカメラの前でスピーチするという、とてもストレスフルなものでしたが、そこで学んだことは、後の授業だけでなく、就職後の仕事にも大変役立っています。 また、政治学の初級クラスでの初回レポートでは、政治哲学(The Role of The Individual and Political Order)について書きました。脳みそが千切れる程に考え抜き、何度も書き直し、連日の徹夜で仕上げましたが、既に提出締切日の授業が終わるタイミングであると気付きました。慌ててキャンパスを走り、教授のオフィスドアを激しくノックしました。何事かと出て来たシェイ教授は、開口一番「教師生活30年、寝巻き姿で飛び込んで来た生徒は君が初めてだ!」とあきれ返っていました。言われてはっと気付くと、確かに髪はぼさぼさ、無精髭、Tシャツに短パン、素足にスニーカー姿で、タイプライターで打ち終えたばかりのレポートを持って訪ねた私は、尋常でない迫力を感じさせたのかもしれません。本来受理されなかったかもしれないレポートでしたが、しっかり採点され、後日返却して頂きました。 実家から当時のレポートが出て来て、表紙に書かれたシェイ教授の温かいコメント(※)が、あの頃の私をどれほど励まし、支えとなっていたかを思い出しました。教授にとっては何気無い一言だったかもしれませんが、私には大きな力となりました。長い年月が経った今、改めて感謝の気持ちで一杯です。本当にありがとうございました! ※ シェイ教授のコメント This is an excellent paper. Very thoughtful and full of interesting insights. Well done in all respects. It is an A paper which has to become an A- because it was late. Again, excellent essay! これは素晴らしい論文だ。非常に思慮深く、興味深い洞察に満ちている。全ての点で良く出来ている。遅れた為 A- となったが、A論文である。もう一度言うが、素晴らしいエッセイだ! ■ 忘れられない貴重な体験の数々 夏休みの造園業や冬休みの牧場でのアルバイト、スクールマスコット(Barney the Bearcat)としての全米チアリーディング合宿参加や学校対抗のスポーツイベントでの活動、更に留学生会(WISA:Willamette International Student Association)やボランティア活動等、まるで見えない手に背中を押されるかのように、様々なことに挑戦し、貴重な体験を重ねました。これにより、自分の日本人としてのアイデンティティと価値観を確認し、現在のマインドセットの礎を築くことが出来ました。今、ひとつひとつの体験が記憶として蘇りますが、拙稿がネバーエンディングとなってしまいますので、ここでは割愛し、先に進ませて頂きます。 授業について行くのが精一杯だった私が、全ての活動をどうやってマネージメント出来たのか、今でも分かりません。しかし、私が留学生活を全う出来たのは、間違いなくウィラメット大学の教授陣とクラスメートの皆さんの支えがあったからです。また、海の向こうの日本から励ましの手紙を送ってくれたTIUの仲間達、両親、そして天のご加護にも感謝します。そして忘れてはならないのは、TIUAのDeanを務められていた川嶋教授のご厚意でご自宅にお招き頂き、ご馳走になった奥様の温かい家庭料理、かわいいワンちゃんのおもてなしが、ともすれば崩れそうだった私の心を癒し、励まして頂けたことです。この場をお借りして心から御礼申し上げます。 卒業式は屋外のスタジアムで盛大に開催されました。当時、湾岸戦争へ予備役(Reserve Force)として中東に派兵されたクラスメート達は、皆落第となってしまいました。当日はまだ帰還していなかった彼らの名前が読み上げられ、「名誉ある落第」として称えられました。観客席からは大きな歓声と拍手が沸き起こり、よく晴れた高い空にこだましました。 (学校新聞1面に掲載される) (卒業証書授与) 【就職】 資源に乏しい我が国が、高い技術力と品質でモノづくりをし、世界に輸出することで発展して来たことに、私は先人達への深い敬意を抱いていました。文系の私としては、直接モノづくりに関われないまでも、日本の優れた製品を世界中の人々に紹介し、使って貰うことで貢献したいと考えました。大袈裟かもしれませんが、日本と世界各国との経済交流を深めることで、日本の安全保障はもちろん、世界平和の維持に少しでも寄与したいという思いから、メーカーへの就職を決意しました。その後、2社目、3社目でIT・ゲーム業界を経験しましたが、初心に立ち返り4社目のメーカーに転職しました。ここで27年間勤め、来年には定年退職を迎えます。2社目、3社目での経験を通じて、製造業がハードウェア中心の開発からデジタル技術を介してインターネットやソフトウェアとの融合を考慮した開発へと進化していく流れを肌で感じられました。 ■ 1社目:放送機器メーカー 池上通信機株式会社(以下、池上)は、放送用・業務用機器の分野で世界的に高い評価を受けている放送機器メーカーです。それ以外にも、監視カメラ、医療用カメラ、錠剤検査装置等も手掛けています。主力製品の放送用カメラは、世界中の放送局や映像プロダクションで使用されており、その高い性能と信頼性で、現場のプロフェッショナルから絶大な支持を得ています。テレビで大型スポーツイベントやコンサート、そしてニュース報道の現場で使用されるカメラが一瞬映像に映る事がありますが、「Ikegami」のロゴを見るたびに胸が躍ります。 私が入社した当時 (1992年)の主流はアナログ方式であり、世界的な大手総合家電メーカーが開発した放送用カメラが束になっても、池上の製品には及びませんでした (※)。その後、1990年代後半からデジタル技術の導入が活発化し、デジタル方式への移行が加速しました。池上は競合他社との熾烈な競争を繰り広げながらも、積極的な技術革新を続け、業界での確固たる地位を守り抜きました。池上を離れた今でも、私は変わらず 「Ikegami Fan」であり続けています。 ※競争入札等で、競合他社のカメラと池上のカメラを並べて同じ対象物を撮影し、性能や操作性を比較することがありました。これにより、放送用カメラで最も重要な解像度や色再現性が一目瞭然に判別出来ました。特に色再現性については、競合他社のカメラは一般家電用技術を基にしている為、実物よりも鮮やかに映る傾向(誰が撮っても綺麗に映る補正回路?)がありましたが、池上のカメラは本物の色味を忠実に再現します。その為、放送業界のプロフェッショナルの厳しい要求や期待に応える製品であることが何度も証明されました。海外広告では、「The Professional Cameras dedicated to the Dedicated Professionals」というキャッチコピー(正確には覚えていませんが)が使われており、池上の特長を的確に表していると感じ、とても誇らしく思っていました。 ● 海外業務の習得 池上は、人を育てることに長けた会社であり、私が在籍した4年間という短い期間の中で、海外セールスに必要な基本的スキルセットをほぼ全て学ぶことが出来ました。海外販売子会社、海外代理店、海外販売店、国内大手商社との取引を通じて輸出入の知識や見積書作成、受発注納期管理、代金回収、技術翻訳、顧客アテンド等、多岐にわたる業務を経験させて頂きました。 担当地域は、インドネシア、インド、パキスタン、オーストラリア、ニュージーランド、そして最後は北米でした。一番の思い出は、あるODA案件で、スタジオシステムと大型中継車(OB Van)の入札、落札、納入初期まで、上司と先輩社員の指導の下、懸命に進めたことです。途中で異動となり、最後まで関与することは出来ませんでしたが、この経験を通じて多くのことを学びました。特に、プロジェクトの初期段階での情報収集や綿密な計画、営業と工場関係者との緊密な連携が成功の決め手であることを深く実感しました。 ● 恩義ある会社との別れ 池上では、尊敬できる上司、先輩、同僚に恵まれ、会社の外でもスポーツやBBQを楽しむ等、非常に親密なお付き合いをさせて頂きました。直属の上司であり兄貴分と慕っていたTさんに退職の意を伝えた時、最初は慰留されましたが、最終的には「会社にとって原田に残って貰うのは良いことだと思う。しかし、原田のこれからの人生が悔いの残らないものになるかどうかまでは保証出来ない。だから、原田が選んだこの決断を尊重し、応援する」と言って送り出して頂けました。今の会社で私が管理職となり、若い部下が辞める度にまさか同じ言葉で送り出すことになるとは、カルマを感じずにはいられません。 ■ 2社目:ITベンチャービジネス 日本でのインターネット利用者が殆どいなかった1990年代初頭、サイバーテクノロジーズ・インターナショナル株式会社(以下、サイバー)が創業されました。創業メンバーは全員アメリカ人で、既にインターネットが爆発的に普及し始めていた米国ではなく、これから普及が見込まれる日本に進出してビジネスチャンスを掴もうとしました。彼らは企業や一般ユーザー向けのインターネット接続、サーバーレンタル、ウェブページ作成・更新メンテナンス、ソフトウェア・プログラム開発等のサービスを積極的に展開し、日本のインターネット黎明期を支える重要な役割を果たしました。 ● インターネットとの出会い 創業メンバーの社長を含む4人はウィラメット大学の卒業生で、日本進出の手始めとしてインターネット導入に前向きな外資系企業から確実にビジネスを獲得し、その勢いで日本企業への展開を本格化しているところでした。ウィラメット大学の友人として食事に誘われ、集合場所として立ち寄った彼らのオフィスで、当時最先端のインターネット技術を次々と披露され、大変驚かされました。 一方で、そんな煌びやかなプレゼンテーションの後で私の心を捉えて離さなかったのは、今では当たり前となった電子メールでした。大変地味なアプリケーションでしたが、今後これが世界中で普及し、国境を越え遠くにいる人達と容易に繋がることが出来ると確信しました。私はこの新しいコミュニケーションツールの可能性に心を躍らせ、未来の広がりを感じずにはいられませんでした。 後に友人から、食事の真の目的が私の勧誘であることを明かされました。それまで私を育ててくれた池上への恩義があり、まだ大した貢献もしないうちに転職することに大変悩みましたが、これから急激な発展を遂げるであろうインターネット業界に身を投じて、世の中の動きを直に感じてみたいという思いが強くなり、新たな道に進むことを決意しました。 ● インターネット・ビジネス 当時日本の大企業は次々とWebサイト(ホームページ)を立ち上げ、大口の仕事の依頼が寄せられました。大手総合家電メーカー、大手自動車メーカー、大手商社、大手不動産会社、外資系大手通信会社、駐日外国大使館等、多くの優良顧客との取引きが成立しました。 それまで安定した収入源のひとつであった個人向けダイアルアップ(電話線)やISDNによるインターネット接続サービス業務からは撤退し、設立当初から会社が目指していたIT技術による企業向け「ビジネス・ソリューション」の展開にシフトして行きました。サイバーが構築・運営サポートをしていた企業向けWebサイトには、今でこそ盛んに利用されているWebマーケティング機能が既に搭載されていました。ユーザーがどのようにWebサイトまでたどり着いたのか、Webサイト内のページアクセス・ログ(閲覧履歴)、再訪問率等を分析して顧客企業に提供していました。 ● 時代の寵児 私が関わった仕事の中でエキサイティングだったのが、顧客であり提携パートナーでもあった株式会社ハイパーネットとの協業です。同社は、ウェブブラウザーに広告表示することでインターネット接続料金を無料にするシステムを開発し一世風靡したベンチャービジネスの雄でした。残念ながら急速な事業拡大をした直後に銀行融資が縮小され市場環境の変化(ITバブル崩壊)もあり倒産してしまいました。この企業の上層部は皆私と同世代で、社長を筆頭に物凄いカリスマとオーラを発していました。副社長のN野氏はハイパーネットを退職後、NTTドコモでi-modeを立ち上げ、現在KADOKAWAの代表取締役社長としてご活躍されています。ハイパーネットの倒産については「社長失格」(板倉雄一郎著 / 日経BP社)という本となり、後にTVドラマとして放映されました。同書に登場する人物は実名で書かれており、当時窓口としてお付き合いしていた事業部長のN山氏が突然退職された理由が分かり、心が痛みました。(板倉雄一郎著 / 日経BP社) ● 夢破れる 大きな夢を抱いて入社したサイバーですが、小規模のベンチャービジネスが成長を続ける為には、卓越したアイデアだけでなく、資金面のバックアップや「運とタイミング」も必要です。当時、インターネットは日々目覚ましい発展を遂げていましたが、「インターネット」という言葉やイメージばかりが先行し、実際に何が出来るのか、どう活用するのかはまだ手探りの状態でした。魅力的なWebコンテンツやアプリケーションも殆ど無く、市場は未成熟で利益を創出するのは厳しい環境でした。サイバーの財務状況が悪化し始めた頃、私は親しくなった技術部長に誘われ、米系大手ゲームメーカーへ転職しました。現在サイバーは在りませんが、それぞれ別の道を歩んでいる友人達とは今でもインターネットで繋がっています。先日、カナダに移住した元社長と二十数年振りに再会し、友情を再確認出来たことが非常に感慨深かったです。学生時代に始まり、短いながらもサイバーで共に苦楽を味わった仲間との絆は、時を経ても変わらず、私にとって大切な宝です。 ■ 3社目:米国ゲームメーカー日本支社 アクティビジョン・ジャパン株式会社(以下、アクティビジョン)は、世界最大手のゲームソフトメーカーであるActivision, Inc.(現:Activision Blizzard, Inc.)の日本法人でした。主な業務内容は、パソコンや家庭用ゲーム機向けのゲームソフトおよびライセンスの販売であり、米国本社で開発されたゲームを日本市場に合わせてローカライズ (日本語化) する機能も担っていました。バイリンガルのエンジニアが、日本語に翻訳された音声やテキストをゲーム内に組み込む作業を行っていました。アクティビジョンは「洋ゲー(洋物ゲーム)」として知られ、特定の「洋ゲーマニア」から強い支持を受けていました。 1990年代後半、ゲーム業界では大きな技術革新の波が起こりました。アクティビジョンはロボット対戦、カーチェイス、戦闘機対戦等のゲームにインターネット対戦機能や3Dポリゴン技術を導入し、リアルな質感のある画像でのオンラインマルチプレイ (※) を実現しました。更に、AI機能をいち早く採用することで、特定の洋ゲーマニアだけでなく、一般ユーザーも魅了しました。 ※ インターネット上で複数のユーザーが同時にプレイすること ● ゲーム業界に身を投じて ゲーム業界には、「PC系」と呼ばれるパソコン向けのゲームソフトと、「コンシューマー系」と呼ばれる家庭用ゲーム機向けのゲームソフトがあります。前者はWindowsやAppleのOSを使用するパソコン向け、後者は任天堂、ソニー、セガが製造する専用ゲーム機(ファミコン、プレイステーション、セガサターン)向けです。私は、PC系ゲームソフトを営業活動のメインとし、北海道から九州までのパソコン量販店、ゲームソフト専門店、家電量販店、書店、玩具店を一人で回っていました。上司命令で、どこにいても最低でも週に1回は主戦場である秋葉原の得意先に顔を出すようにしていました。また、週末にはゲーム大会を企画・開催し、休む間もなく働いていました。 当時は、大きな量販店であっても購入を決める担当者の多くは、ゲームソフトに精通した若手社員やアルバイト学生でした。彼らは気さくに話を聞いてくれ、自社ゲームの反響や競合他社の情報、パッケージの改善点等を教えてくれました。私は毎晩帰宅後に自社ゲームと競合他社のゲームをプレイしながら知識を深め、次第に洋ゲーの独特な世界観に心を奪われるようになりました。日本のゲームが色鮮やかでBGMや効果音が派手で楽しいのに対し、洋ゲーの少しくすんだ色使いや幻想的なBGM、効果音には奥深い魅力がありました。 一度興味を持ち始めると、全国のゲーム調達担当者とのコミュニケーションが充実し、大手卸業者(問屋)から得た仕入情報の分析(顧客毎に違う売れ筋、売れないタイトルの傾向、地域毎の顧客動向他)が少しずつ出来るようになりました。当初は、やみくもに飛び込み営業を繰り返していたのですが、上司の熱血指導のお蔭で(毎日こっぴどく叱られていました )、体を使った営業だけでなく、頭を使った営業の重要性を認識し、営業スタイルの改善に努めました。そして問屋からの情報を基に、訪問先を絞り込み、顧客毎の個別アプローチを展開した結果、ポスター掲示や販促品の自由な配置、更にはアクティビジョン専用の特設コーナーの設置を許可される等、店舗でのプロモーション活動が活発化しました。その結果、アクティビジョンのゲームが店頭に増え、目立つ場所に置かれる機会も増えて行きました。 ● 体力勝負だった広報活動 ゲーム業界での営業に慣れて来た頃、広報担当者の退職に伴い、掛け持ちで広報の仕事を担当することになりました。雑誌社を訪問して新作ゲームのデモを行い、記事掲載をして貰うことでその認知度を高める取組みを実施しました。広告よりも特集記事等に掲載される方が、広告効果が高く、費用対効果も抜群でした。当時はまだ最新ゲームを滑らかに動かせられる高性能なノートブックPCが少なかった為、大きなブラウン管モニター、ステレオスピーカーとデスクトップパソコン一式を抱えて会社から出て、道端で捉まえたタクシーに積んで雑誌社へ持ち込んでいました。今振り返ると体力と気力に満ち溢れていた若い自分だからこそ出来たのだと懐かしく思い出されます。 ● 新たなる成長へ向けて アクティビジョン・ジャパンは12〜13名の小さな会社でした。このような小さな会社が競争を勝ち抜く為には、綿密な戦略と作戦が必要であり、その実行過程では常に修正を加えながら前進していくことを学びました。特に、マーケティング理論「ランチェスターの弱者の戦略」を営業戦略に取り入れていたことは興味深く、勉強になりました。猪突猛進で頑張っているだけでは成果が上がらないことを、全国のお客様を訪問する営業活動やキャンペーン、広報活動を通じて理解しました。アクティビジョン・ジャパンでの経験は、仕事に対する考え方やアプローチを少しずつ変える契機となりました。(30代まで続けたGymトレーニング) (老舗洋ゲー専門店で自社ポスターと) ■ 4社目:電子機器・部品メーカー 日本航空電子工業株式会社(以下、航空電子)は、「コネクタ事業(コネクタ)」、「インターフェース・ソリューション事業(タッチパネル、タッチパネルモニタ)」、「航機事業(航空・宇宙電子機器・部品)」の3事業ラインからなる電子機器・部品製造メーカーです。1953年の創業時に、将来日本に必ず訪れる航空・宇宙産業時代にエレクトロニクス技術で社会貢献をしたいという思いが社名に込められています。 一大決心して大恩ある池上を飛び出し、サイバーで夢破れ、ゲーム業界で忙しい日々を過ごしていましたが、心の奥底では、日本の高度な技術や製品を世界に紹介して行きたいという気持ちが再び強くなっていました。そんな折、週末に予定していた顧客とのアポイントがキャンセルとなり、ふと手に取った求人雑誌で『国際派転職フェア』の広告が目に留まりました。丁度スーツを着ていたこともあり、思い切ってその転職フェアを訪れてみると、そこには航空電子がブースを構えていました。航空電子は、池上の製品に使われていたコネクタを製造しており、その縁もあって興味を引かれました。しかし、再度転職することには少し躊躇しており、その場での決断は出来ませんでした。それでも、航空電子から何度も熱心にお誘いを頂いたことで、次第に決心が固まり、この会社で新たな挑戦をすることを決意しました。 ● 航機事業ライン 最初に配属された航機営業本部では、技術翻訳から始まり、産業機器向けアプリケーションに使用される加速度計、光ジャイロ、リニアモータの営業に幅広く携わりました。具体的には、油田掘削時におけるドリル先端の位置・方向把握に使用される加速度計やセンサーパッケージ、製造機器のXYステージを駆動させるリニアモータ、トンネル内の壁面検査ロボットの位置・姿勢測定用センサーユニット、構造物の揺れを低減するアクティブ制振用センサーユニット等、様々なアプリケーションに関わりました。 配属初期の修行 私は航空電子が新卒以外で初めて雇った文系出身の営業マンでした。その為、技術用語が飛び交う営業フロアでは、日本語でさえ理解が難しい状況でした。そこで、会社にお願いし、最初の1ヵ月間は工場の設計部門で若いエンジニアの隣に席を設けてもらい、加速度計や光ジャイロの原理や応用について学ぶ機会を得ました。その結果、社内で話されている大まかな内容について把握出来るようになりました。当時、会社の営業フロアには、日本初の国産H-IIロケットの姿勢制御を司る慣性誘導装置の開発を担当し、NHK番組「プロジェクトX」に出演した技師長や、米国の技術系一流大学出身で油田ビジネスを開拓した猛烈営業部長(私の最初の上司)等、優秀な方々で溢れていました。彼らと共に働く中で、多くのご指導を頂き、新しい環境に慣れていくことが出来ました。 余談ですが、この技師長がH-IIロケット用の慣性誘導装置を開発中、ジェットコースターにその装置を載せて何度も試験を繰り返したという逸話を最近になって知り、私もテレビ番組のロケで、読売ランドのジェットコースターに加速度計ユニットを持ち込み、背中向きに乗って加速度を測定したことを思い出しました。先輩の開発時の逸話には遥かに及びませんが、私もほんの少しだけテレビに映ることが出来たこの経験には、ささやかながらもロマンを感じています。 閑話休題、工場勤務から営業部署に戻ると直ぐに、上司と技術部長と共に、英国を皮切りに米国テキサス州を中心とした石油掘削関連の顧客を次々と訪問しました。加速度計や光ジャイロの拡販においては、単に製品性能を示すだけでなく、顧客のアプリケーションやニーズに応じた技術提案が求められます。顧客の態度や反応から、航空電子がこれまで着実に顧客の要望に応え、その結果として深い信頼関係が築かれていることが分かりました。これをしっかり受け継ぎ、更に発展させていく責任が自分に課せられていると感じ、身が引き締まる思いがしました。(定年退職が迫る上司の背中から発せられる強烈なプレッシャーと期待が、ひしひしと伝わって来ました。) 毎晩ホテルに戻ると、上司と技術部長の指導の下で打合せ議事録を作成し、本社にFAXで報告した後、ようやく食事にありつけました。しかし、その食事も顧客接待を想定したレストラン開拓を兼ねており、寝るまで気を抜くことが出来ませんでした。厳しい旅でしたが、この経験は最高のOJTであり、普段忙しい上司と技術部長から直接学べた時間は贅沢で貴重なものでした。 予期せぬ異動 私は当初、米国の販売子会社に出向している方の交代要員として雇われていましたが、その話は諸事情により無くなってしまいました。そして2年後、会社の主力ビジネスであるコネクタ事業ラインの海外営業本部に異動することになりました。人生最後の転職として覚悟を決め、難しい技術知識の習得や営業活動に取組み、更には商社へ出向して営業スキルを磨いていた私にとって、この異動は大きなショックでした。社内とはいえ、全く異なる業種への異動は転職と同じようなインパクトを感じていました。 記憶に残る仕事 2年間の航機営業で特に印象深かった仕事の一つに、1998年にテキサス州ヒューストンのアストロドームで開催された海底油田関連の展示会(Offshore Technology Conference)への出展があります。当時、航空電子は世界最小サイズ (直径19mm) の耐環境・高温対応 (~175℃) の加速度計を開発し、小さなブースで発表しました。海底油田掘削関連の展示会ということもあり、他のブースはヘリコプターや商用潜水艦、ボート、掘削ドリル等大規模な展示を行っていましたが、我々のブースはお手製の20cm程のシーソーに加速度計を取り付け、それを上げ下ろしする際に出力される電気信号を波形モニターに映し出すという、非常にシンプルなデモを行いました。 派手な展示が多い中、航空電子の小さく地味なブースに展示開始と同時に多くの人が押し寄せ、大変驚きました。競合他社も同等仕様の加速度計を発表していましたが、偵察したところ、それは外観だけで中身の無い「どんがら(モックアップ)」でした。開発が間に合わなかったのです。この瞬間、私は心の中で「やった!」と叫びました。航空電子の開発が競争に勝った瞬間でした。 油田掘削は年々深く掘り進む傾向にあり、それに伴いドリルの先端はますます細くなっています。さらに掘削が進むにつれて地中温度は150℃を超える高温となる為、小型で耐熱、耐衝撃、且つ高精度な加速度計が業界で求められています。当時、この要件に応えられる会社は航空電子と競合他社の2社だけでした。(米国テキサス州:Offshore Technology Conference) もう一つ印象深い仕事としては、ある欧州メーカーへの拡販取組みがあります。当時、国内の主要産業機器メーカーとは既に取引があったものの、海外市場への進出はまだ限定的でした。そこで、私は半年以内に訪問することを目標に設定し、先ず幕張メッセで開催された国際展示会でその企業の展示ブースを訪ねました。アクティブ制振のアイデアを口頭で説明し、名刺を渡したところ、数週間後にはあっさりと招待を受けてしまいました。 会社内は大騒ぎとなり、私は、土日は自己啓発として関数電卓を片手に三角関数を復習し、平日は工場の技術データを集めながら、プレゼン資料の作成に努めました。1か月後、同年代の若手エンジニアと共に欧州へ飛び、そのメーカーでプレゼンを行いました。応対して頂いたのは博士号を持つ6人のエンジニアの方々で、文系出身の私にとっては緊張の連続でした。しかし、同行エンジニアと協力しながら、アクティブ制振の提案と試作品による試験結果の説明、質疑応答を行い、更に航空電子の航機関連主要製品の説明とデモンストレーションを実施しました。 結果的に多くの課題を持ち帰ることになりましたが、この出張では、航機事業ライン(工場・営業)の諸先輩から教えられ、託された全てを出し切り、初めて大きな達成感を味わうことが出来ました。そして、この達成感は、次の異動先へと向かう私にとって、一つの区切りを意味するものでした。 ● コネクタ事業ライン コネクタは、航空電子の総売上の8割以上を占める主力製品で、プリント基板や電子機器同士の電力や電気信号を接続・切断する為の重要な部品です。人工衛星や飛行機、電車、自動車、家電製品、パソコン、スマートフォン等、広範な分野で多種多様なコネクタが大量に使用されています。コネクタは、電力や電気信号を伝える金属製のコンタクトと、それらを絶縁するプラスチック(インシュレータ)で構成されており、電気的性能と機械的性能の両方を満たさなければならず、その開発には高度な専門知識とノウハウを要します。 営業マンはお客様に育てられる 私のコネクタ事業ラインでの業務は今年で25年目を迎えます。この間、多くの貴重な経験をさせて頂きました。中でも特に心に残っているのは、13年間担当を務めた、欧州のグローバル企業とのビジネスです。当時、GAM(Global Account Manager)として欧州、北米、アジアのR&Dや生産拠点に何度も訪れ、多くの開発案件に携わりました。そして、量産立上げ後に避けては通れない品質問題や納期問題、価格交渉等にも会社同僚と一丸となって積極的に取組み、その結果、No.1サプライヤーとして高く評価して頂きました。 (フィンランド:夏) (フィンランド:冬) この経験から、メーカー営業マンは社内で得た知識やスキルを基盤にしながらも、最終的には顧客によって育てられることを強く実感しました。私自身、社内で基礎を固めた後、顧客と向き合い、彼らの要求に応える過程で成長して来ました。 先ず、社内での基礎作りとして、現場での実践経験に力を入れました。携帯電話やPDA、STB(セットトップボックス)等の電子機器を片っ端から分解し、基板の形状や実装部品の配列、高さ、投影面積等を丹念に調査して、アプリケーション毎の筐体形状や内部構造、実装技術について学びました。また、工場の技術フロアでは、試作品の組立てや評価試験にアシスタントとして参加し、その結果を英文レポートに纏めることで、コネクタ製品に関する理解を深めました。 次に、顧客と直接向き合い、彼らの要求に応える中で、営業マンとしての成長が促されたと思います。例えば、品質問題が発生した際には、通常は立入ることの出来ない顧客の生産ラインに特別に入れて貰い、技術評価試験に立会う機会がありました。品質問題はサプライヤーにとって避けたい事態ですが、これをチャンスと捉え、問題解決に取組むことで顧客の信頼を得られました。 その上で、品質問題とは別に、顧客の生産ラインで使用されている製造設備を把握し、その後、その設備メーカーを訪問して、次の製品作りに生かすヒントを得ることに努めました。これらのヒントを製品に反映し、品質や使い勝手を向上させることで、顧客の満足度を高めることが出来ました。 モノづくりの舞台裏 ここで少し、メーカーにおいてよく見受けられる工場部門間の関係性について触れたいと思います。それは、開発途上で、設計担当者と生産技術・製造部門のエンジニアとの間で立場の違いからしばしば緊張や対立が生じることです。設計者が斬新なアイデアやテクノロジーを投入して尖った製品開発に挑む一方で、生産技術や製造部門のエンジニア達は、その実現の為に多大な努力を強いられます。しかし、ひとたび新製品が市場に投入され、成功を収めると、全員がその達成感を共有し、固い絆で結ばれ、それが開発を続ける中で更に深まって行きます。こうしたモノづくりの舞台裏を知っていると、初めて訪問した顧客のプリント基板を見せて頂いた際に、生産技術や製造部門が設計にどのように影響を受けているかを指摘出来ることがあります。すると、窓口の設計者がその場で関連エンジニアを呼び出してくれることがあり、その結果、打合せは自然と笑いのある明るい雰囲気になることがよくあります。このような経験の積み重ねが、同じモノづくりに携わる顧客との関係構築に大いに役立ちました。 (北京:陳式太極拳「単鞭」のポーズ) (サンディエゴ) 信頼とバランスの構築 ビジネスの世界では、「Win-Win」という理想がよく語られますが、現実では、顧客がWinし、私達が少しLoseすることも少なからずあります。これは、顧客との力関係によるもので、ある程度は避けられないことです。私は常に顧客の立場を最大限に尊重しつつも、自社の利益を守る為に、適切なバランスを見つけるよう心掛けて来ました。その為、時には難しい話もしっかりと議論出来る関係構築が重要だと考えています。 (中国河南省:太極拳国際試合 相手は後にAlibaba創業者 Jack Ma氏のボディーガードに) ● 英国販売子会社出向 JAE Europe, Limited (以下、JAE EU)は、航空電子の販売子会社で、英国に本社を構え、ドイツ、フランス、イタリア、スウェーデンにもオフィスを展開し、欧州全域のビジネスをカバーしています。欧州市場は、特に自動車産業、産業用ロボット市場、医療機器市場において、世界の技術革新をリードする多くのテクノロジーリーダーが存在する重要な市場です。JAE EUは、この市場で欧州の先進企業と共に未来の技術革新に貢献することを目指しています。 入社当時に立ち消えた海外赴任の話が、18年後に突然舞い戻って来たかと思うと、急速に具体化し、家族(妻、長男: 中2、次男: 小6)を伴って英国に赴任することになりました。2016年から2020年まで英国ロンドンで生活し、その間にBrexitや新型コロナウイルスの蔓延といった大きな変化が起こる中で、仕事面でも家庭面でも得られることが多かったです。 新しい職場環境 JAE EUでの勤務が始まると、現地社員は英国、ドイツ、フランス、イタリア、スウェーデン等多国籍で構成され、顧客も30か国以上に跨っていることが分かりました。「欧州」と一言で括るにはあまりに大雑把過ぎる地域であり、国毎の人々や文化、習慣の違いを考慮した対応が必要なのは言うまでもありません。 私は一時期、営業に加えてマーケティングや技術チームの責任者も兼任していました。英国本社での勤務と並行して、ドイツのミュンヘンオフィスとの連携を強化する為に、頻繁に現地を訪れていました。現地社員との業務遂行においては、ドイツの労働法規や労務管理に細心の注意を払い、職務明細書(Job Description)に基づいた明確な業務指示を行い、ファクトとエビデンスに基づいた公正な業績評価を心掛けていました。また、拡販方針や戦略については納得がいくまで議論を重ねることで、チーム全体の目標と方向性を揃えました。 ドイツのメンバー達は、普段は家族生活を優先し、プライベートな時間を大切にしていましたが、いざという時は自ら進んで長時間の業務に取組んでくれました。私が別の仕事でドイツに行けなかった際には、急遽英国まで駆けつけ、ピザ1枚で深夜まで一緒に作業してくれることもありました。この経験は、ワークライフバランスを徹底して重視するドイツ人に対する固定観念を完全に払拭するものでした。彼らの献身的な姿勢と協力には、今でも感謝しています。 日常生活 ①:家族生活の変化 日本での生活と比較して、英国での生活では家族との関わり方に大きな変化がありました。日本で暮らしていた頃は、仕事のことばかりを考えていましたが、海外では家族の生活に積極的に関わり、生活環境を整えたり、日常生活のサポート(学校、病院、買い物、余暇)にも力を入れるようになりました。学校選びについては、私自身の留学経験から現地校を勧めましたが、息子達から「お父さんは自分の意志でアメリカに留学したんでしょ?僕らはお父さんの転勤で外国に来たんで自分の意志じゃないんだ!」と反論され、彼らの気持ちを尊重して日本人学校に通わせることにしました。(立派な主張だと感心しました。) 今では日本人学校に通わせたことが正しい選択だったと思っています。日本人としてのアイデンティティを確立する過程での良い教育を受けられました。ロンドン日本人学校には優秀な教師と生徒が集まり、非常に高い教育レベルが提供されていました。また、欧州を訪れる日本の要人(宇宙飛行士、スポーツ選手、芸術家、ミュージシャン、学者、政治家等)の多くがロンドン日本人学校に立ち寄り、貴重なお話を子供達に聞かせてくれる機会があり、大変恵まれた学習環境にありました。 日常生活 ②:ロンドンの暮らし ロンドンでの生活は、歴史的な街並みや博物館、美術館、そしてミュージカル等、文化に容易に触れることが出来ました。気候は北海道より北に位置する為冬はやや寒いものの、年間を通じて非常に快適でした。また、都会でありながら自然が豊かで、緑あふれる公園が数多くあります。自宅の裏庭には、狐、リス、野鳥が頻繁に訪れ、心を癒してくれました。賢い狐は、生ごみを入れるコンテナのロックを外して荒らしていくこともあり、彼らとの知恵比べも日常の出来事でした。ロンドン中心街の観光スポットは、私達にとっては生活圏の一部であり、散髪や息子達のスポーツ用品、日本食材等の買い出しをしていました。日本食材は日本価格の何と3倍で、購入する品物によって一番安い店を選ぶ等節約に努めました。 日常生活 ③:自動車通勤 通勤については、赴任当初は大きな試練でした。オフィスは自宅から南西に60kmの距離にあり、朝の通勤時には頻繁に事故渋滞に巻き込まれました。英国では、警察が事故現場の調査を終えるまで道路を閉鎖する為、高速道路内で閉じ込められ、トイレに行けず苦しい思いをしたこともあります。閉鎖が解けた後、急いで高速道路を降り、ヒースロー空港で用を足したことも。たった10分の駐車でしたが、これまでで一番高くついたトイレでした。帰りが遅くなると、高速道路が閉鎖されて入れなかったり、途中で閉鎖となり止む無く最寄りの出口から出て行かなければならず、何度も道に迷いながら真っ暗な山道のような場所を走りました。その過程で、帰宅ルートが自然と増え、道に詳しくなりました。一度慣れてしまうと、自動車通勤は一人になれる特別な時間となり、iPhoneに入れた70~80年代の歌謡曲を大声で歌いながら眠気を覚まして帰る日々を楽しみました。 日常生活 ④:ハプニング 息子の剣道教室に参加した際、アキレス腱を断裂し、ロンドンの救急病院(A&E: Accident and Emergency)で全身麻酔の日帰り手術を受けることになりました。そこではクロスファンクショナルチーム(機能横断型チーム:CFT)による対応が行われており、大変興味深いものでした。 窓口での受付を済ませた私は、病室を行き来すること無く、直ぐに移動式のベッドに乗せられました。そのまま手術着に着替え、手術室前で待機する他の患者達の長いベッドの列に加わりました。手術が流れ作業のように次々と行われ、ベッドの列が動きながら手術室に近づいていく様子を見て、自分がまるで工場の生産ラインに投入された材料のような感覚を覚えました。 病院スタッフは役割毎に色分けされた制服を着用し、それぞれの専門分野に基づいてテキパキと対応してくれました。私のベッドには、手術前から退院までの全ての手順が記された私専用のノート(※)が置かれており、スタッフはそのノートに従って入れ替わり立ち代わり私の前に現れては、チェックボックスを埋めながら正確に漏れなく処置を進めていました。このオペレーションは、病院の人手不足を補い、患者の精神的・身体的負担を軽減するもので、大いに感銘を受けました。 (病院スタッフの制服:役割別色分け) (日帰り手術用ノート) 尚、私は外国人でしたが、NHS(National Health Service:国民保健サービス)に加入していた為、薬代を除き医療費は無料でした。一般的に日本人駐在者は会社で加入する海外旅行保険を適用し、高額なプライベート医療サービスを利用することが多いですが、私はNHSの病院で奇跡的に手術日を確保出来た為、また冒険心にも駆られて手術を受けることにしました。因みに、奇遇にも同じ剣道場で数週間後にアキレス腱を断裂したポーランド系の方は、NHSの手術待ちが3カ月だった為、ポーランドで手術を受けたそうです。英国の医療現場が慢性的に混雑し、極めて厳しい状況にあることは事前に知っていましたが、道場で私の為に呼んで頂いた救急車が2時間待ち(後にキャンセル)だったことから、その現実を身をもって痛感させられました。 ※ノートには、手術前の準備(体温、脈拍、血圧、血液チェック、退院後の松葉杖の使い方指導等)から、術後の体力回復処置、退院許可迄のプロセスがページ毎に記載されていました。 その後、ギブスを装着してのドイツ出張では、イミグレーションの審査が驚くほどスムーズに進み、健常者としての移動よりも楽で早かったという貴重な体験もありました。イミグレーションでは電気自動車に乗せられ、そのまま空港出口まで送って貰えたことも印象に残っています。 英国赴任を終えて 振り返ると、英国での赴任は、仕事、異文化での暮らし、そして家族との時間という三つの面で、多くの学びと成長がありました。仕事や異文化での経験はこれまでも積み重ねてきましたが、家族の存在を何より大切にし、共に過ごす時間を最優先するようになったのは、この英国での生活がきっかけでした。子供達が成長し、家族で一緒に過ごす時間が減ってしまった今、コロナ禍のロックダウン中に家族水入らずで過ごした時間が特別な思い出となっています。ロンドンの青空の下、自宅裏庭で楽しんだBBQは、かけがえのない記憶です。 (ジブラルタル海峡:ここから顧客のいるモロッコへ船で渡りました)(ストーンヘンジ:ロンドンの自宅からたったの130km) (アイスランド:家族旅行) ● 現在:コネクタ事業ライン 海外赴任から帰国後、特定顧客の営業チームの責任者を務めた後、営業ラインを離れ、海外契約書のリーガルチェックという新たな職務に就きました。この業務では、海外の取引先や今後取引を予定している会社から提示された契約書に含まれる法的問題や自社に不利益な条項が無いかを精査します。また、取引内容に適合しているかを確認し、必要に応じて修正案を提示します。契約締結プロセスは、最終交渉の場であり、トラブルを未然に防ぎ、健全な関係を築くことが重要です。 法務バックグラウンドはありませんが、営業経験を通じて基本的な契約書の知識は持っていました。しかし、それを専門職として扱うのは全くの初心者であり、当初は手探りの状態でした。その為、法務部門のアドバイスや支援を受けながら、外部セミナーを受講し、情報収集を重ねて来ました。現在、業務を始めてから1年以上が経過し、100件以上の契約書をチェックし、150件以上の文献を読み、少しずつ知見が積み上がって来たと感じています。 この仕事において、私が特に重視しているのは、営業バックグラウンドを活かしたリスク評価です。同じ条文でも、相手方がどのような会社で、どのようなビジネスを進めようとしているのかによって、評価が異なります。長年の海外ビジネス経験を基にした分析・判断力を発揮し、日々新たな業務に全力で取組んでいます。(ロンドン: タワーブリッジを一望しながらのアフタヌーンティ) 【エピローグ】 これまでのキャリアを通じて学んだのは、「人生に無駄な経験は無い」ということです。転職や新たな挑戦を重ねる中で、失敗と成功を繰り返して来ましたが、その全てが今の私を形成する大切な要素となっています。若い世代の方々が自分の夢を追いかけ、理想に向かって進む為の力と勇気に少しでもなればという思いを込めて、この体験記を書き進めました。 「外国人と日本人は、同じものを見た時に同じように見えるのだろうか?」幼い頃に抱いたこの疑問に対する答えが、年月を経て少しずつ見えて来たように思います。私達の世界の見え方は、目の色等の生まれ持った特徴や、育った環境、経験によって異なるものです。同じ日本人同士でも、年齢や生活環境によって物の見え方には違いがあることを日々感じています。 交通機関の発展による人的交流に加え、インターネット技術の革新による国境を越えた情報交換の活発化が、本格的なグローバル社会の到来をもたらしました。今や世界中の人々との共生が日常となり、日本でも様々な背景を持つ人々が増えています。グローバルスタンダードや普遍的価値観の追求が進む中で、この流れに対して懸念も感じています。均一化による公平性は大切ですが、それによって多様性が失われることは避けなければなりません。また、多様性を認める為にマイノリティーを優先することが、時に不条理を生むこともあります。私達は、非常に難しい時代の局面に立たされています。 私は、より良い未来を築く為に、日々の小さな一歩を大切にしながら、自分らしく出来ることを続けて行きたいと思っています。この体験記が、読んで下さった方にとって、少しでも前向きな気持ちや、新たな一歩を踏み出すきっかけになれば幸いです。 (原田 晴之さんプロフィール) 群馬県出身 1984年3月 東京都立板橋高等学校 卒業 1985年6月 米国カリフォルニア州Bloomington High School 卒業 1986年4月 東京国際大学教養学部国際学科 入学 (下羽ゼミ) 1989年9月 米国オレゴン州Willamette University入学 (3学年編入) 1991年5月 米国オレゴン州Willamette University 卒業 (BA政治学専攻) 1992年3月 東京国際大学教養学部国際学科 卒業 (大越ゼミ) 1992年4月 池上通信機株式会社 入社 1996年3月 池上通信機株式会社 退社 1996年4月 Cyber Technologies International株式会社 入社 (ITベンチャービジネス) 1996年10月 Cyber Technologies International株式会社 退社 1996年11月 Activision Japan 株式会社 入社 (米国ゲームメーカー日本支社) 1997年6月 Activision Japan 株式会社 退社 1997年7月 日本航空電子工業株式会社 入社 (電子機器・部品メーカー) 2016年3月 JAE Europe, Limited 出向(英国販売子会社) 2020年10月 日本航空電子工業株式会社 帰任、現在に至る (航空電子スポンサーのボブルヘッド人形) (シアトル:イチロー選手) TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
原田 晴之さん (1992年卒業 教養学部国際学科/大越ゼミ 1991年Willamette Univ.卒業/BA政治学専攻)2024年10月1日【プロローグ】 私が海外に興味を持ち始めたのは幼稚園での出会いがきっかけでした。カトリック系幼稚園で良くして頂いた神父、先生(シスター)方、そして聖書の挿絵に登場する聖人達は皆、外国人でした。園庭で先生と一緒に遊んでいた時に、花壇のチューリップが果たして自分と同じ様に見えているのだろうかと考えていた記憶が、ぼんやりと残っています。(幼稚園から頂いた聖書) 【高校留学】 カリフォルニア州のメキシコ系アメリカ人家庭にホームステイをしながら、地元の公立高校 (Bloomington High School) に1年間通いました。激しい環境の変化に身を投じた事で、いきなり人生の転換期を迎えました。勉強不足による知識の無さや思考力の弱さを痛感し、帰国後に何を為すべきか大いに悩んだ時期でした。 ■ 自律性を養う 私のホストファミリーは、モービルホーム (トラックで牽引出来る家) に住む共働き家庭(3人家族+犬1匹& 猫1匹)でした。食事は冷蔵庫にある食材を各自が勝手に料理して取ることが基本で、家事はホストブラザーと分担していました。ところが、滞在3か月を過ぎた頃から、冷蔵庫が空になることが増え、家事の分担も私に偏り始めました。 普段はのんびり屋の私でしたが、「空腹」が「飢え」に変わったところで突然「スイッチ」が入り、自分でも驚く程の行動力を発揮したのです。近隣の家や友人宅を訪ねて、「芝刈り」「庭木の剪定」「掃除」「洗車」「ベビーシッター」「犬の散歩」「プールの清掃」等の仕事を次々と取り、家事で身に付けたスキルを総動員して、一気に問題を解決してしまったのです。(その勢いは止まらず、学校の昼食を無料にして貰うことにも成功しました。) その後、高校卒業に必須のクラス「American History」の前期分を、留学初期の英語力不足が原因で履修漏れが判明し、留学中最大の危機に直面しました。しかし、幸いにもその時ちょうど「スイッチ」が入って「エンジン全開」の状態だった為、この難局をうまく切り抜けられました。日本の高校で履修済みの世界史の教科書を手に、カウンセラーの先生や社会科の教諭、教頭先生に必死で掛け合いました。そして、補習クラスの履修を条件に「前期分」に相当する単位の置換を認めて貰うことに漕ぎつけたのです。 「自分の問題は自分で解決する」「自ら考え行動する」という自律性を養うことが、高校留学で得た最大の収穫でした。 (高校のクラス) ■ 英語の多様性とTPO 若者の英語、大人の英語、綺麗な英語、汚い英語、白人の英語、黒人の英語、メキシコ人の英語、インド人の英語、中華系の英語、西海岸の英語、LAヴァリーガール (Valley Girl) の英語、サーファーの英語等、多種多様な英語が日常生活でパワフルに話されており、米国デビューを果たした私の前に大きな壁として立ちはだかりました。私は小さなメモ帳を常に携行し、聞き取れた言葉をカタカナでメモし、帰宅後には鏡の前でネイティブスピーカーになったつもりで、カッコよく身振り手振り付きで発声練習を行いました。翌日には学校の友達にそれを披露してアルファベットに変換して貰い、帰宅後に辞書で調べて正確な意味を理解するというルーティンを徹底的に繰り返しました。その結果、3カ月後には確かな進歩を感じ、それが自信につながりました。 ところが、日々私が書き溜めて練習し、身に付けた英語が、米国の一般社会では決して受け入れられないギャング英語(メキシコ系のChicano Englishがベース)だった為に、それまで私を応援してくれた大切な友人が少しずつ私から離れて行きました。私はTPOをわきまえ、学校生活の中では標準的な英語を使うことを心掛けました。一方で、興味のあったインド、スペイン語、中国語訛りの英語については密かに練習を続けました。標準的な英語とそれ以外の切り分けにはかなり苦労しましたが、これも一つの学びでした。 ■ 人種差別 ほぼ単一民族の日本で育った私にとって、自分が「有色人種」である事を強烈に意識させられ、自覚させられたのが米国での生活でした。留学当初、私は「Jap」「Nip」「Gook」「Chink」「Pigtail」「WOG」「Napalm」その他多くの差別語で呼ばれ、学校の内外で不当な扱いを受ける事がありました。ある日、真っ黒に日焼けした自分の手の甲を見た瞬間、「汚い!」と感じた自分に大きなショックを受けました。無意識の内に、東洋人であることに劣等感を抱いていたと気付き、驚いたのです。 滞在期間の後半には友人も増え、それは和らいで行きましたが、学校の授業で見せられた 「A Class Divided」 というドキュメンタリー番組 (※)を通じて、改めて自分が抱いていた「劣等感」の正体を考えさせられました。そして、白人以外の人種に対して抱いていたかもしれない「優越感」がいかに虚しいものであったかを痛切に感じました。 ※ 1968年アイオワ州の小学校で実施された人種差別についての実験授業 YouTubeで日本語版を見つけたのでご紹介します。(NHK特集1988年4月29日放送) 「青い目 茶色い目 ~教室は目の色で分けられた~ (ウイリアム・ピータース著 / NHK出版) (高校の仲間)(高校の仲間) 【東京国際大学】 校名が「国際商科大学 (ICC)」から「東京国際大学 (TIU)」に改称された年(1986年)に入学しました。「高校留学での体験を思い出として終わらせず、深堀りする事で経験値として落とし込みたい。更に勉学を重ねる事で進むべき将来の道を明らかにしたい。」との一心で門を叩きました。 ■ スランプからの脱出 高い志と情熱を持って臨んだ「下羽ゼミ」(国際政治学)で私を待ち構えていたのは、日本全国から集まった個性豊かなクラスメート(曲者)達でした。私とは次元の違う高レベルの論客揃いで、自ら収集した情報(Fact)を分析(Study)し知識 (Knowledge) として吸い上げて行く「大学生の勉強方法」を当たり前の様に実践していました。私も必死で食らいつきましたが、元来の怠け癖と誘惑に弱い性格が邪魔をして空回りし、大学1~2年時は焦燥感に苛まれる事が多かったです。 3年に進級すると「大越ゼミ」(アメリカ研究論)を選択しました。下羽ゼミの仲間達が「厳格な修行僧」、「哲学者」の如く真理を追究する一体集団だとすれば、大越ゼミの仲間達は「まとまりの無い我儘な自由人」、「枠にとらわれない斬新的なクリエイター」の集まりといった印象でした。 一見、全く異なる二つのゼミでしたが、そこで学んだことは共通していました。知識の積み重ねや思考力の鍛錬は他人に代わって貰うことは出来ないこと、焦って背伸びをしても一足飛びに先には進めないこと、地道に継続することの重要性、そして勉強は苦しいだけでなく、取組み方次第では自由で楽しいものだということを教えられました。これは、至極当たり前のことかもしれませんが、私にとって大きな気付きでした。 スランプから脱出して改めて周りを見渡すと、それまで見過ごしていた周りのものが鮮明に見えるようになりました。大学が提供する豊富な選択授業や、新しい図書館や視聴覚室の英語教材の存在に気が付き、それらを積極的に活用することにしました。また、一度は諦めていた留学についても、挑戦したいという気持ちが湧いて来ました。親の支援で一度留学させて貰っていた為、再度の留学は経済的に難しいと感じていましたが、奨学金制度を活用することで再び挑戦出来るのではと考えました。そして、春・夏の海外セミナー(春:ウィラメット大学、夏:南オレゴン州立大学)や長期留学(ウィラメット大学)に全て応募し、大学からの支援を得られました。 ■ 教育実習 将来の進路の一つとして教育関連の仕事を考えており、教職課程を履修しました。大学の紹介により、埼玉県の私立男子高校の2年生クラスで英語の教育実習を行いました。事前準備をしっかりして、気合を入れて挑んだ初授業でしたが、英語以前に生徒のやる気をいかに引き出すかが喫緊の課題であることが分かりました。授業中に簡単な問題を出して何人かの生徒を当てたところ、皆一様に立ち上がらず、中腰で「分かりません」と言って着席してしまいます。 私は、着席した生徒を再度しっかり立ち上がらせ、「分からなくても良いから、分かろうとしよう」と説得しました。そして、答えが出るまでヒントを出し続け、場合によっては答えを黒板に書いて声に出して読ませる等、兎に角最後まで諦めないで挑戦するように指導しました。 また、机の中に教科書ガイドを忍ばせている生徒達には、「英語なんて数学みたいに考えてもしょうがないから、教科書ガイドの積極利用は大歓迎!」と、机上に置いて堂々と使用するように奨めました。教科書の練習問題も面白い文章に全て書き換えて、少しでも楽しめるように工夫しました。 最初はやる気の無い生徒が多かったのですが、中学校で習った辞書の引き方から、必要と思われる基礎的な構文については丁寧に何度も教えたところ、徐々に授業に参加する生徒が増えて行きました。極めつけは、少しずるいやり方とも思いましたが、どのクラスにも必ずいるおしゃべりで明るい生徒をうまく乗せて、授業が楽しくなるようなムードメーカーの役割を担わせることでクラス全体がひとつになりとても充実した授業運営が出来る様になりました。 しかし、私の授業を見学した先生方の評価は、年配のベテラン教師と若い教師とで真っ二つに分かれました。あるベテラン教師は、「原田先生は元気があって声も大きく、発音だけは良いけれど、中学で教わった構文を、わざわざ高校の授業でまた教える必要はないでしょう?」と否定的なコメントを残して教室を出て行かれました。一方で、若い指導教諭は他の若い先生方と一緒になって「原田先生、気にしないで!生徒が分からないから、分かるまで教えるのは当然のことです。中学校で教わっていようがいまいが、関係ありません!」と、私の教授方法を全面的に支持して頂けました。 担当していたクラスには、当時では珍しい米国からの交換留学生が在籍していました。彼と共にハイスクールで実際に話されている会話をスキット形式で授業中に紹介すると、「生きた英会話」に関心を持つ生徒が何人も現れ、教えることのやりがいを大いに感じました (※)。ある日、彼から深刻な二つの悩みを打ち明けられ、それを解消する為に奮闘することになりました。一つ目は、日本語補習の個人レッスンの機会を与えるよう学校と調整したこと、二つ目は、関係がうまくいかないホストファミリーから新しいホストファミリーへの変更をサポートしたことです。実習生の立場で出過ぎた行動だったかもしれませんが、自らの高校留学でお世話になった方々への恩返しのつもりで思わず突っ走ってしまったのだと思います。 ※ それでも教科書英語で基礎を固める事は大切です。 初日から積極的に取組んだ教育実習はあっという間に終了し、仲良くなった生徒達や意気投合した若い先生方に温かく送り出して頂きました。実習校からは大学卒業後に是非来て欲しいという有難いお言葉を頂きましたが(もしかすると社交辞令だったかもしれません)、私は企業就職を選びました。実習期間中に出会った企業経験者の先生の柔軟な視点や考え方、そしてその言葉に感じた重みから、教師という職業には専門教科の知識だけでなく、幅広い社会経験が必要だと強く感じたのです。(これはあくまでも、私の自分自身への評価に基づく判断であり、大学卒業後直ぐに教職に就かれる方を否定するものではありません。) (生徒からの寄書き) 【ウィラメット大学】 再びアメリカへ行くチャンスを得た2年間の奨学金プログラムでは、前回の高校留学時とは異なり、生活に適応するだけでなく、大学生活全体を通して様々な経験を積むことが出来ました。この留学期間は、私の学生時代で最も成長した時期であり、大いに学び、大いに悩み、そして大いに楽しむことで、現在の私の土台を築きました。(ウィラメット大学) ■ 寮生活:フラットハウス ウィラメット大学は、1842年に創立された西海岸で最も古い大学です。オレゴン州会議事堂に隣接する美しいキャンパス内の学生寮で2年間を過ごしました。キャンパスにある学生寮は、個室の寮もありますが、ルームメートとシェアする二人部屋が基本です。私が編入した当時は寮が満室でしたが、大学が交渉して会員制のフラタニティーハウスの一室を仮住まいさせて貰うことで留学生活をスタートしました。 「フラタニティー」(fraternity)とは辞書によると、「米国の男子学生の社交クラブ、友愛会」と定義されており、その歴史はアメリカの建国の歴史からそれ程遠くない1800年代初頭に、学生達が理想の学生生活を求めて結成したグループに遡ります。当時のアメリカは自由の国として建国されましたが、教育界は保守的で学生の行動には厳しい制約があり、その為学生の活動は地下に潜り、秘密結社的な形態をとりました。やがて、フラタニティーは全米に広がり、現在では多様なグループが設立され、共通の趣味や価値観を持つ学生が集う伝統的な学生組織として認知されました。私が仮住まいしたフラタニティーは、「ΣΑΕ:Sigma Alpha Epsilon」(略称 エス・エイ・イー)という全米に支部を持つグループでした。フラタニティーは「Greek Society」とも呼ばれ、ギリシャ語2~3文字の略称が一般的です。 (ΣΑΕハウス) (ΣΑΕの仲間達と) その後、第一希望の寮であるWISH (Willamette International Studies House) に空きが出ず、止む無く移った個室のYork Houseでは、隣室の学生からタイプライターの音がうるさいとの苦情が出て、夜間の使用を禁止され、困っていました。そんな時、ΣΑΕから新会員候補としての招待(Bid)を受けました。私はフラタニティーという謎めいたグループに興味があり、招待を受けた後、正式なプロセスを経てメンバーとなりました。 フラタニティーのメンバーになる為には、「Rush」と呼ばれる募集期間中に希望するフラタニティーのイベントに参加し、メンバー達と交流します。そこで選ばれた者は招待状を受け取り、次に「Pledge」という新会員候補または見習いとして一定期間の試練や課題(Initiation)を乗り越えることで、正式会員となります。各フラタニティーには伝統的な儀式 (Ritual) やイベントがあり、その内容の多くは秘密です。会員となった後、秘密の合言葉や挨拶の仕方が伝授され、フラタニティーのギリシャ文字が入ったトレーナーやTシャツの着用が許されます。また、本部からはスーツのジャケットにつけるピンバッジ(記章)と証書が贈られます。 フラタニティーは、派手なパーティーを開催することがあり (※)、ハウスの地下室にはバーカウンターやビールサーバーが完備されています。パーティーの日には、キャンパス中から着飾った生徒が集まり大変な賑わいを見せます。クラスの課題に追われる私は、図書館横の24H Study Roomで勉強を終えた後、深夜遅くハウスに戻るのですが、パーティーが終わっているわけもなく、そのまま巻き込まれ酔っぱらって気絶することが何度かありました。アメリカの大学生活をフルに体験し、満喫する為には避けては通れない修行の場でもありました。(楽しい思い出です。) ※ フラタニティ―は、パーティーで大騒ぎするイメージばかりが先行していますが、ボランティア活動等の社会奉仕も盛んに行っています。 ■ 授業 アメリカの授業は進行が早く、私が専攻していた政治学(Political Science)は、授業に出る前提となっている読書課題(Reading Assignment)の量が特に多い学科でした。成績は以下の4項目で評価され、ネイティブの学生ですら毎日必死で勉強に励んでいました。 ①Attendance(出席) ②Participation(授業への参加、貢献) ③Exam(試験) ④Paper / Assignment(提出レポート・課題) 新入生は、最初の半年間(1st Semester)でしっかり勉強の習慣と最適な勉強法を身につけないと、学校が指定した成績に到達出来ず、学業保護観察処分(Academic Probation)を受けることになります。これにより、学校のイベントや部活動等への参加が禁止され、次の試験で成績が改善されない場合は退学(Academic Dismissal)の厳しい措置が取られてしまいます。 2度目の留学とはいえ、英語のハンディキャップが大きく、初年度の前期クラスでは、アドバイザーのセオドア・シェイ教授(政治学 博士)の助言を受けて、新入生クラス(100番台)で英語の基礎を固めると共に成績(GPA)の確保に努めました。その中で、「Public Speaking」のクラスは、毎回スピーチ原稿を準備し、クラスメートとビデオカメラの前でスピーチするという、とてもストレスフルなものでしたが、そこで学んだことは、後の授業だけでなく、就職後の仕事にも大変役立っています。 また、政治学の初級クラスでの初回レポートでは、政治哲学(The Role of The Individual and Political Order)について書きました。脳みそが千切れる程に考え抜き、何度も書き直し、連日の徹夜で仕上げましたが、既に提出締切日の授業が終わるタイミングであると気付きました。慌ててキャンパスを走り、教授のオフィスドアを激しくノックしました。何事かと出て来たシェイ教授は、開口一番「教師生活30年、寝巻き姿で飛び込んで来た生徒は君が初めてだ!」とあきれ返っていました。言われてはっと気付くと、確かに髪はぼさぼさ、無精髭、Tシャツに短パン、素足にスニーカー姿で、タイプライターで打ち終えたばかりのレポートを持って訪ねた私は、尋常でない迫力を感じさせたのかもしれません。本来受理されなかったかもしれないレポートでしたが、しっかり採点され、後日返却して頂きました。 実家から当時のレポートが出て来て、表紙に書かれたシェイ教授の温かいコメント(※)が、あの頃の私をどれほど励まし、支えとなっていたかを思い出しました。教授にとっては何気無い一言だったかもしれませんが、私には大きな力となりました。長い年月が経った今、改めて感謝の気持ちで一杯です。本当にありがとうございました! ※ シェイ教授のコメント This is an excellent paper. Very thoughtful and full of interesting insights. Well done in all respects. It is an A paper which has to become an A- because it was late. Again, excellent essay! これは素晴らしい論文だ。非常に思慮深く、興味深い洞察に満ちている。全ての点で良く出来ている。遅れた為 A- となったが、A論文である。もう一度言うが、素晴らしいエッセイだ! ■ 忘れられない貴重な体験の数々 夏休みの造園業や冬休みの牧場でのアルバイト、スクールマスコット(Barney the Bearcat)としての全米チアリーディング合宿参加や学校対抗のスポーツイベントでの活動、更に留学生会(WISA:Willamette International Student Association)やボランティア活動等、まるで見えない手に背中を押されるかのように、様々なことに挑戦し、貴重な体験を重ねました。これにより、自分の日本人としてのアイデンティティと価値観を確認し、現在のマインドセットの礎を築くことが出来ました。今、ひとつひとつの体験が記憶として蘇りますが、拙稿がネバーエンディングとなってしまいますので、ここでは割愛し、先に進ませて頂きます。 授業について行くのが精一杯だった私が、全ての活動をどうやってマネージメント出来たのか、今でも分かりません。しかし、私が留学生活を全う出来たのは、間違いなくウィラメット大学の教授陣とクラスメートの皆さんの支えがあったからです。また、海の向こうの日本から励ましの手紙を送ってくれたTIUの仲間達、両親、そして天のご加護にも感謝します。そして忘れてはならないのは、TIUAのDeanを務められていた川嶋教授のご厚意でご自宅にお招き頂き、ご馳走になった奥様の温かい家庭料理、かわいいワンちゃんのおもてなしが、ともすれば崩れそうだった私の心を癒し、励まして頂けたことです。この場をお借りして心から御礼申し上げます。 卒業式は屋外のスタジアムで盛大に開催されました。当時、湾岸戦争へ予備役(Reserve Force)として中東に派兵されたクラスメート達は、皆落第となってしまいました。当日はまだ帰還していなかった彼らの名前が読み上げられ、「名誉ある落第」として称えられました。観客席からは大きな歓声と拍手が沸き起こり、よく晴れた高い空にこだましました。 (学校新聞1面に掲載される) (卒業証書授与) 【就職】 資源に乏しい我が国が、高い技術力と品質でモノづくりをし、世界に輸出することで発展して来たことに、私は先人達への深い敬意を抱いていました。文系の私としては、直接モノづくりに関われないまでも、日本の優れた製品を世界中の人々に紹介し、使って貰うことで貢献したいと考えました。大袈裟かもしれませんが、日本と世界各国との経済交流を深めることで、日本の安全保障はもちろん、世界平和の維持に少しでも寄与したいという思いから、メーカーへの就職を決意しました。その後、2社目、3社目でIT・ゲーム業界を経験しましたが、初心に立ち返り4社目のメーカーに転職しました。ここで27年間勤め、来年には定年退職を迎えます。2社目、3社目での経験を通じて、製造業がハードウェア中心の開発からデジタル技術を介してインターネットやソフトウェアとの融合を考慮した開発へと進化していく流れを肌で感じられました。 ■ 1社目:放送機器メーカー 池上通信機株式会社(以下、池上)は、放送用・業務用機器の分野で世界的に高い評価を受けている放送機器メーカーです。それ以外にも、監視カメラ、医療用カメラ、錠剤検査装置等も手掛けています。主力製品の放送用カメラは、世界中の放送局や映像プロダクションで使用されており、その高い性能と信頼性で、現場のプロフェッショナルから絶大な支持を得ています。テレビで大型スポーツイベントやコンサート、そしてニュース報道の現場で使用されるカメラが一瞬映像に映る事がありますが、「Ikegami」のロゴを見るたびに胸が躍ります。 私が入社した当時 (1992年)の主流はアナログ方式であり、世界的な大手総合家電メーカーが開発した放送用カメラが束になっても、池上の製品には及びませんでした (※)。その後、1990年代後半からデジタル技術の導入が活発化し、デジタル方式への移行が加速しました。池上は競合他社との熾烈な競争を繰り広げながらも、積極的な技術革新を続け、業界での確固たる地位を守り抜きました。池上を離れた今でも、私は変わらず 「Ikegami Fan」であり続けています。 ※競争入札等で、競合他社のカメラと池上のカメラを並べて同じ対象物を撮影し、性能や操作性を比較することがありました。これにより、放送用カメラで最も重要な解像度や色再現性が一目瞭然に判別出来ました。特に色再現性については、競合他社のカメラは一般家電用技術を基にしている為、実物よりも鮮やかに映る傾向(誰が撮っても綺麗に映る補正回路?)がありましたが、池上のカメラは本物の色味を忠実に再現します。その為、放送業界のプロフェッショナルの厳しい要求や期待に応える製品であることが何度も証明されました。海外広告では、「The Professional Cameras dedicated to the Dedicated Professionals」というキャッチコピー(正確には覚えていませんが)が使われており、池上の特長を的確に表していると感じ、とても誇らしく思っていました。 ● 海外業務の習得 池上は、人を育てることに長けた会社であり、私が在籍した4年間という短い期間の中で、海外セールスに必要な基本的スキルセットをほぼ全て学ぶことが出来ました。海外販売子会社、海外代理店、海外販売店、国内大手商社との取引を通じて輸出入の知識や見積書作成、受発注納期管理、代金回収、技術翻訳、顧客アテンド等、多岐にわたる業務を経験させて頂きました。 担当地域は、インドネシア、インド、パキスタン、オーストラリア、ニュージーランド、そして最後は北米でした。一番の思い出は、あるODA案件で、スタジオシステムと大型中継車(OB Van)の入札、落札、納入初期まで、上司と先輩社員の指導の下、懸命に進めたことです。途中で異動となり、最後まで関与することは出来ませんでしたが、この経験を通じて多くのことを学びました。特に、プロジェクトの初期段階での情報収集や綿密な計画、営業と工場関係者との緊密な連携が成功の決め手であることを深く実感しました。 ● 恩義ある会社との別れ 池上では、尊敬できる上司、先輩、同僚に恵まれ、会社の外でもスポーツやBBQを楽しむ等、非常に親密なお付き合いをさせて頂きました。直属の上司であり兄貴分と慕っていたTさんに退職の意を伝えた時、最初は慰留されましたが、最終的には「会社にとって原田に残って貰うのは良いことだと思う。しかし、原田のこれからの人生が悔いの残らないものになるかどうかまでは保証出来ない。だから、原田が選んだこの決断を尊重し、応援する」と言って送り出して頂けました。今の会社で私が管理職となり、若い部下が辞める度にまさか同じ言葉で送り出すことになるとは、カルマを感じずにはいられません。 ■ 2社目:ITベンチャービジネス 日本でのインターネット利用者が殆どいなかった1990年代初頭、サイバーテクノロジーズ・インターナショナル株式会社(以下、サイバー)が創業されました。創業メンバーは全員アメリカ人で、既にインターネットが爆発的に普及し始めていた米国ではなく、これから普及が見込まれる日本に進出してビジネスチャンスを掴もうとしました。彼らは企業や一般ユーザー向けのインターネット接続、サーバーレンタル、ウェブページ作成・更新メンテナンス、ソフトウェア・プログラム開発等のサービスを積極的に展開し、日本のインターネット黎明期を支える重要な役割を果たしました。 ● インターネットとの出会い 創業メンバーの社長を含む4人はウィラメット大学の卒業生で、日本進出の手始めとしてインターネット導入に前向きな外資系企業から確実にビジネスを獲得し、その勢いで日本企業への展開を本格化しているところでした。ウィラメット大学の友人として食事に誘われ、集合場所として立ち寄った彼らのオフィスで、当時最先端のインターネット技術を次々と披露され、大変驚かされました。 一方で、そんな煌びやかなプレゼンテーションの後で私の心を捉えて離さなかったのは、今では当たり前となった電子メールでした。大変地味なアプリケーションでしたが、今後これが世界中で普及し、国境を越え遠くにいる人達と容易に繋がることが出来ると確信しました。私はこの新しいコミュニケーションツールの可能性に心を躍らせ、未来の広がりを感じずにはいられませんでした。 後に友人から、食事の真の目的が私の勧誘であることを明かされました。それまで私を育ててくれた池上への恩義があり、まだ大した貢献もしないうちに転職することに大変悩みましたが、これから急激な発展を遂げるであろうインターネット業界に身を投じて、世の中の動きを直に感じてみたいという思いが強くなり、新たな道に進むことを決意しました。 ● インターネット・ビジネス 当時日本の大企業は次々とWebサイト(ホームページ)を立ち上げ、大口の仕事の依頼が寄せられました。大手総合家電メーカー、大手自動車メーカー、大手商社、大手不動産会社、外資系大手通信会社、駐日外国大使館等、多くの優良顧客との取引きが成立しました。 それまで安定した収入源のひとつであった個人向けダイアルアップ(電話線)やISDNによるインターネット接続サービス業務からは撤退し、設立当初から会社が目指していたIT技術による企業向け「ビジネス・ソリューション」の展開にシフトして行きました。サイバーが構築・運営サポートをしていた企業向けWebサイトには、今でこそ盛んに利用されているWebマーケティング機能が既に搭載されていました。ユーザーがどのようにWebサイトまでたどり着いたのか、Webサイト内のページアクセス・ログ(閲覧履歴)、再訪問率等を分析して顧客企業に提供していました。 ● 時代の寵児 私が関わった仕事の中でエキサイティングだったのが、顧客であり提携パートナーでもあった株式会社ハイパーネットとの協業です。同社は、ウェブブラウザーに広告表示することでインターネット接続料金を無料にするシステムを開発し一世風靡したベンチャービジネスの雄でした。残念ながら急速な事業拡大をした直後に銀行融資が縮小され市場環境の変化(ITバブル崩壊)もあり倒産してしまいました。この企業の上層部は皆私と同世代で、社長を筆頭に物凄いカリスマとオーラを発していました。副社長のN野氏はハイパーネットを退職後、NTTドコモでi-modeを立ち上げ、現在KADOKAWAの代表取締役社長としてご活躍されています。ハイパーネットの倒産については「社長失格」(板倉雄一郎著 / 日経BP社)という本となり、後にTVドラマとして放映されました。同書に登場する人物は実名で書かれており、当時窓口としてお付き合いしていた事業部長のN山氏が突然退職された理由が分かり、心が痛みました。(板倉雄一郎著 / 日経BP社) ● 夢破れる 大きな夢を抱いて入社したサイバーですが、小規模のベンチャービジネスが成長を続ける為には、卓越したアイデアだけでなく、資金面のバックアップや「運とタイミング」も必要です。当時、インターネットは日々目覚ましい発展を遂げていましたが、「インターネット」という言葉やイメージばかりが先行し、実際に何が出来るのか、どう活用するのかはまだ手探りの状態でした。魅力的なWebコンテンツやアプリケーションも殆ど無く、市場は未成熟で利益を創出するのは厳しい環境でした。サイバーの財務状況が悪化し始めた頃、私は親しくなった技術部長に誘われ、米系大手ゲームメーカーへ転職しました。現在サイバーは在りませんが、それぞれ別の道を歩んでいる友人達とは今でもインターネットで繋がっています。先日、カナダに移住した元社長と二十数年振りに再会し、友情を再確認出来たことが非常に感慨深かったです。学生時代に始まり、短いながらもサイバーで共に苦楽を味わった仲間との絆は、時を経ても変わらず、私にとって大切な宝です。 ■ 3社目:米国ゲームメーカー日本支社 アクティビジョン・ジャパン株式会社(以下、アクティビジョン)は、世界最大手のゲームソフトメーカーであるActivision, Inc.(現:Activision Blizzard, Inc.)の日本法人でした。主な業務内容は、パソコンや家庭用ゲーム機向けのゲームソフトおよびライセンスの販売であり、米国本社で開発されたゲームを日本市場に合わせてローカライズ (日本語化) する機能も担っていました。バイリンガルのエンジニアが、日本語に翻訳された音声やテキストをゲーム内に組み込む作業を行っていました。アクティビジョンは「洋ゲー(洋物ゲーム)」として知られ、特定の「洋ゲーマニア」から強い支持を受けていました。 1990年代後半、ゲーム業界では大きな技術革新の波が起こりました。アクティビジョンはロボット対戦、カーチェイス、戦闘機対戦等のゲームにインターネット対戦機能や3Dポリゴン技術を導入し、リアルな質感のある画像でのオンラインマルチプレイ (※) を実現しました。更に、AI機能をいち早く採用することで、特定の洋ゲーマニアだけでなく、一般ユーザーも魅了しました。 ※ インターネット上で複数のユーザーが同時にプレイすること ● ゲーム業界に身を投じて ゲーム業界には、「PC系」と呼ばれるパソコン向けのゲームソフトと、「コンシューマー系」と呼ばれる家庭用ゲーム機向けのゲームソフトがあります。前者はWindowsやAppleのOSを使用するパソコン向け、後者は任天堂、ソニー、セガが製造する専用ゲーム機(ファミコン、プレイステーション、セガサターン)向けです。私は、PC系ゲームソフトを営業活動のメインとし、北海道から九州までのパソコン量販店、ゲームソフト専門店、家電量販店、書店、玩具店を一人で回っていました。上司命令で、どこにいても最低でも週に1回は主戦場である秋葉原の得意先に顔を出すようにしていました。また、週末にはゲーム大会を企画・開催し、休む間もなく働いていました。 当時は、大きな量販店であっても購入を決める担当者の多くは、ゲームソフトに精通した若手社員やアルバイト学生でした。彼らは気さくに話を聞いてくれ、自社ゲームの反響や競合他社の情報、パッケージの改善点等を教えてくれました。私は毎晩帰宅後に自社ゲームと競合他社のゲームをプレイしながら知識を深め、次第に洋ゲーの独特な世界観に心を奪われるようになりました。日本のゲームが色鮮やかでBGMや効果音が派手で楽しいのに対し、洋ゲーの少しくすんだ色使いや幻想的なBGM、効果音には奥深い魅力がありました。 一度興味を持ち始めると、全国のゲーム調達担当者とのコミュニケーションが充実し、大手卸業者(問屋)から得た仕入情報の分析(顧客毎に違う売れ筋、売れないタイトルの傾向、地域毎の顧客動向他)が少しずつ出来るようになりました。当初は、やみくもに飛び込み営業を繰り返していたのですが、上司の熱血指導のお蔭で(毎日こっぴどく叱られていました )、体を使った営業だけでなく、頭を使った営業の重要性を認識し、営業スタイルの改善に努めました。そして問屋からの情報を基に、訪問先を絞り込み、顧客毎の個別アプローチを展開した結果、ポスター掲示や販促品の自由な配置、更にはアクティビジョン専用の特設コーナーの設置を許可される等、店舗でのプロモーション活動が活発化しました。その結果、アクティビジョンのゲームが店頭に増え、目立つ場所に置かれる機会も増えて行きました。 ● 体力勝負だった広報活動 ゲーム業界での営業に慣れて来た頃、広報担当者の退職に伴い、掛け持ちで広報の仕事を担当することになりました。雑誌社を訪問して新作ゲームのデモを行い、記事掲載をして貰うことでその認知度を高める取組みを実施しました。広告よりも特集記事等に掲載される方が、広告効果が高く、費用対効果も抜群でした。当時はまだ最新ゲームを滑らかに動かせられる高性能なノートブックPCが少なかった為、大きなブラウン管モニター、ステレオスピーカーとデスクトップパソコン一式を抱えて会社から出て、道端で捉まえたタクシーに積んで雑誌社へ持ち込んでいました。今振り返ると体力と気力に満ち溢れていた若い自分だからこそ出来たのだと懐かしく思い出されます。 ● 新たなる成長へ向けて アクティビジョン・ジャパンは12〜13名の小さな会社でした。このような小さな会社が競争を勝ち抜く為には、綿密な戦略と作戦が必要であり、その実行過程では常に修正を加えながら前進していくことを学びました。特に、マーケティング理論「ランチェスターの弱者の戦略」を営業戦略に取り入れていたことは興味深く、勉強になりました。猪突猛進で頑張っているだけでは成果が上がらないことを、全国のお客様を訪問する営業活動やキャンペーン、広報活動を通じて理解しました。アクティビジョン・ジャパンでの経験は、仕事に対する考え方やアプローチを少しずつ変える契機となりました。(30代まで続けたGymトレーニング) (老舗洋ゲー専門店で自社ポスターと) ■ 4社目:電子機器・部品メーカー 日本航空電子工業株式会社(以下、航空電子)は、「コネクタ事業(コネクタ)」、「インターフェース・ソリューション事業(タッチパネル、タッチパネルモニタ)」、「航機事業(航空・宇宙電子機器・部品)」の3事業ラインからなる電子機器・部品製造メーカーです。1953年の創業時に、将来日本に必ず訪れる航空・宇宙産業時代にエレクトロニクス技術で社会貢献をしたいという思いが社名に込められています。 一大決心して大恩ある池上を飛び出し、サイバーで夢破れ、ゲーム業界で忙しい日々を過ごしていましたが、心の奥底では、日本の高度な技術や製品を世界に紹介して行きたいという気持ちが再び強くなっていました。そんな折、週末に予定していた顧客とのアポイントがキャンセルとなり、ふと手に取った求人雑誌で『国際派転職フェア』の広告が目に留まりました。丁度スーツを着ていたこともあり、思い切ってその転職フェアを訪れてみると、そこには航空電子がブースを構えていました。航空電子は、池上の製品に使われていたコネクタを製造しており、その縁もあって興味を引かれました。しかし、再度転職することには少し躊躇しており、その場での決断は出来ませんでした。それでも、航空電子から何度も熱心にお誘いを頂いたことで、次第に決心が固まり、この会社で新たな挑戦をすることを決意しました。 ● 航機事業ライン 最初に配属された航機営業本部では、技術翻訳から始まり、産業機器向けアプリケーションに使用される加速度計、光ジャイロ、リニアモータの営業に幅広く携わりました。具体的には、油田掘削時におけるドリル先端の位置・方向把握に使用される加速度計やセンサーパッケージ、製造機器のXYステージを駆動させるリニアモータ、トンネル内の壁面検査ロボットの位置・姿勢測定用センサーユニット、構造物の揺れを低減するアクティブ制振用センサーユニット等、様々なアプリケーションに関わりました。 配属初期の修行 私は航空電子が新卒以外で初めて雇った文系出身の営業マンでした。その為、技術用語が飛び交う営業フロアでは、日本語でさえ理解が難しい状況でした。そこで、会社にお願いし、最初の1ヵ月間は工場の設計部門で若いエンジニアの隣に席を設けてもらい、加速度計や光ジャイロの原理や応用について学ぶ機会を得ました。その結果、社内で話されている大まかな内容について把握出来るようになりました。当時、会社の営業フロアには、日本初の国産H-IIロケットの姿勢制御を司る慣性誘導装置の開発を担当し、NHK番組「プロジェクトX」に出演した技師長や、米国の技術系一流大学出身で油田ビジネスを開拓した猛烈営業部長(私の最初の上司)等、優秀な方々で溢れていました。彼らと共に働く中で、多くのご指導を頂き、新しい環境に慣れていくことが出来ました。 余談ですが、この技師長がH-IIロケット用の慣性誘導装置を開発中、ジェットコースターにその装置を載せて何度も試験を繰り返したという逸話を最近になって知り、私もテレビ番組のロケで、読売ランドのジェットコースターに加速度計ユニットを持ち込み、背中向きに乗って加速度を測定したことを思い出しました。先輩の開発時の逸話には遥かに及びませんが、私もほんの少しだけテレビに映ることが出来たこの経験には、ささやかながらもロマンを感じています。 閑話休題、工場勤務から営業部署に戻ると直ぐに、上司と技術部長と共に、英国を皮切りに米国テキサス州を中心とした石油掘削関連の顧客を次々と訪問しました。加速度計や光ジャイロの拡販においては、単に製品性能を示すだけでなく、顧客のアプリケーションやニーズに応じた技術提案が求められます。顧客の態度や反応から、航空電子がこれまで着実に顧客の要望に応え、その結果として深い信頼関係が築かれていることが分かりました。これをしっかり受け継ぎ、更に発展させていく責任が自分に課せられていると感じ、身が引き締まる思いがしました。(定年退職が迫る上司の背中から発せられる強烈なプレッシャーと期待が、ひしひしと伝わって来ました。) 毎晩ホテルに戻ると、上司と技術部長の指導の下で打合せ議事録を作成し、本社にFAXで報告した後、ようやく食事にありつけました。しかし、その食事も顧客接待を想定したレストラン開拓を兼ねており、寝るまで気を抜くことが出来ませんでした。厳しい旅でしたが、この経験は最高のOJTであり、普段忙しい上司と技術部長から直接学べた時間は贅沢で貴重なものでした。 予期せぬ異動 私は当初、米国の販売子会社に出向している方の交代要員として雇われていましたが、その話は諸事情により無くなってしまいました。そして2年後、会社の主力ビジネスであるコネクタ事業ラインの海外営業本部に異動することになりました。人生最後の転職として覚悟を決め、難しい技術知識の習得や営業活動に取組み、更には商社へ出向して営業スキルを磨いていた私にとって、この異動は大きなショックでした。社内とはいえ、全く異なる業種への異動は転職と同じようなインパクトを感じていました。 記憶に残る仕事 2年間の航機営業で特に印象深かった仕事の一つに、1998年にテキサス州ヒューストンのアストロドームで開催された海底油田関連の展示会(Offshore Technology Conference)への出展があります。当時、航空電子は世界最小サイズ (直径19mm) の耐環境・高温対応 (~175℃) の加速度計を開発し、小さなブースで発表しました。海底油田掘削関連の展示会ということもあり、他のブースはヘリコプターや商用潜水艦、ボート、掘削ドリル等大規模な展示を行っていましたが、我々のブースはお手製の20cm程のシーソーに加速度計を取り付け、それを上げ下ろしする際に出力される電気信号を波形モニターに映し出すという、非常にシンプルなデモを行いました。 派手な展示が多い中、航空電子の小さく地味なブースに展示開始と同時に多くの人が押し寄せ、大変驚きました。競合他社も同等仕様の加速度計を発表していましたが、偵察したところ、それは外観だけで中身の無い「どんがら(モックアップ)」でした。開発が間に合わなかったのです。この瞬間、私は心の中で「やった!」と叫びました。航空電子の開発が競争に勝った瞬間でした。 油田掘削は年々深く掘り進む傾向にあり、それに伴いドリルの先端はますます細くなっています。さらに掘削が進むにつれて地中温度は150℃を超える高温となる為、小型で耐熱、耐衝撃、且つ高精度な加速度計が業界で求められています。当時、この要件に応えられる会社は航空電子と競合他社の2社だけでした。(米国テキサス州:Offshore Technology Conference) もう一つ印象深い仕事としては、ある欧州メーカーへの拡販取組みがあります。当時、国内の主要産業機器メーカーとは既に取引があったものの、海外市場への進出はまだ限定的でした。そこで、私は半年以内に訪問することを目標に設定し、先ず幕張メッセで開催された国際展示会でその企業の展示ブースを訪ねました。アクティブ制振のアイデアを口頭で説明し、名刺を渡したところ、数週間後にはあっさりと招待を受けてしまいました。 会社内は大騒ぎとなり、私は、土日は自己啓発として関数電卓を片手に三角関数を復習し、平日は工場の技術データを集めながら、プレゼン資料の作成に努めました。1か月後、同年代の若手エンジニアと共に欧州へ飛び、そのメーカーでプレゼンを行いました。応対して頂いたのは博士号を持つ6人のエンジニアの方々で、文系出身の私にとっては緊張の連続でした。しかし、同行エンジニアと協力しながら、アクティブ制振の提案と試作品による試験結果の説明、質疑応答を行い、更に航空電子の航機関連主要製品の説明とデモンストレーションを実施しました。 結果的に多くの課題を持ち帰ることになりましたが、この出張では、航機事業ライン(工場・営業)の諸先輩から教えられ、託された全てを出し切り、初めて大きな達成感を味わうことが出来ました。そして、この達成感は、次の異動先へと向かう私にとって、一つの区切りを意味するものでした。 ● コネクタ事業ライン コネクタは、航空電子の総売上の8割以上を占める主力製品で、プリント基板や電子機器同士の電力や電気信号を接続・切断する為の重要な部品です。人工衛星や飛行機、電車、自動車、家電製品、パソコン、スマートフォン等、広範な分野で多種多様なコネクタが大量に使用されています。コネクタは、電力や電気信号を伝える金属製のコンタクトと、それらを絶縁するプラスチック(インシュレータ)で構成されており、電気的性能と機械的性能の両方を満たさなければならず、その開発には高度な専門知識とノウハウを要します。 営業マンはお客様に育てられる 私のコネクタ事業ラインでの業務は今年で25年目を迎えます。この間、多くの貴重な経験をさせて頂きました。中でも特に心に残っているのは、13年間担当を務めた、欧州のグローバル企業とのビジネスです。当時、GAM(Global Account Manager)として欧州、北米、アジアのR&Dや生産拠点に何度も訪れ、多くの開発案件に携わりました。そして、量産立上げ後に避けては通れない品質問題や納期問題、価格交渉等にも会社同僚と一丸となって積極的に取組み、その結果、No.1サプライヤーとして高く評価して頂きました。 (フィンランド:夏) (フィンランド:冬) この経験から、メーカー営業マンは社内で得た知識やスキルを基盤にしながらも、最終的には顧客によって育てられることを強く実感しました。私自身、社内で基礎を固めた後、顧客と向き合い、彼らの要求に応える過程で成長して来ました。 先ず、社内での基礎作りとして、現場での実践経験に力を入れました。携帯電話やPDA、STB(セットトップボックス)等の電子機器を片っ端から分解し、基板の形状や実装部品の配列、高さ、投影面積等を丹念に調査して、アプリケーション毎の筐体形状や内部構造、実装技術について学びました。また、工場の技術フロアでは、試作品の組立てや評価試験にアシスタントとして参加し、その結果を英文レポートに纏めることで、コネクタ製品に関する理解を深めました。 次に、顧客と直接向き合い、彼らの要求に応える中で、営業マンとしての成長が促されたと思います。例えば、品質問題が発生した際には、通常は立入ることの出来ない顧客の生産ラインに特別に入れて貰い、技術評価試験に立会う機会がありました。品質問題はサプライヤーにとって避けたい事態ですが、これをチャンスと捉え、問題解決に取組むことで顧客の信頼を得られました。 その上で、品質問題とは別に、顧客の生産ラインで使用されている製造設備を把握し、その後、その設備メーカーを訪問して、次の製品作りに生かすヒントを得ることに努めました。これらのヒントを製品に反映し、品質や使い勝手を向上させることで、顧客の満足度を高めることが出来ました。 モノづくりの舞台裏 ここで少し、メーカーにおいてよく見受けられる工場部門間の関係性について触れたいと思います。それは、開発途上で、設計担当者と生産技術・製造部門のエンジニアとの間で立場の違いからしばしば緊張や対立が生じることです。設計者が斬新なアイデアやテクノロジーを投入して尖った製品開発に挑む一方で、生産技術や製造部門のエンジニア達は、その実現の為に多大な努力を強いられます。しかし、ひとたび新製品が市場に投入され、成功を収めると、全員がその達成感を共有し、固い絆で結ばれ、それが開発を続ける中で更に深まって行きます。こうしたモノづくりの舞台裏を知っていると、初めて訪問した顧客のプリント基板を見せて頂いた際に、生産技術や製造部門が設計にどのように影響を受けているかを指摘出来ることがあります。すると、窓口の設計者がその場で関連エンジニアを呼び出してくれることがあり、その結果、打合せは自然と笑いのある明るい雰囲気になることがよくあります。このような経験の積み重ねが、同じモノづくりに携わる顧客との関係構築に大いに役立ちました。 (北京:陳式太極拳「単鞭」のポーズ) (サンディエゴ) 信頼とバランスの構築 ビジネスの世界では、「Win-Win」という理想がよく語られますが、現実では、顧客がWinし、私達が少しLoseすることも少なからずあります。これは、顧客との力関係によるもので、ある程度は避けられないことです。私は常に顧客の立場を最大限に尊重しつつも、自社の利益を守る為に、適切なバランスを見つけるよう心掛けて来ました。その為、時には難しい話もしっかりと議論出来る関係構築が重要だと考えています。 (中国河南省:太極拳国際試合 相手は後にAlibaba創業者 Jack Ma氏のボディーガードに) ● 英国販売子会社出向 JAE Europe, Limited (以下、JAE EU)は、航空電子の販売子会社で、英国に本社を構え、ドイツ、フランス、イタリア、スウェーデンにもオフィスを展開し、欧州全域のビジネスをカバーしています。欧州市場は、特に自動車産業、産業用ロボット市場、医療機器市場において、世界の技術革新をリードする多くのテクノロジーリーダーが存在する重要な市場です。JAE EUは、この市場で欧州の先進企業と共に未来の技術革新に貢献することを目指しています。 入社当時に立ち消えた海外赴任の話が、18年後に突然舞い戻って来たかと思うと、急速に具体化し、家族(妻、長男: 中2、次男: 小6)を伴って英国に赴任することになりました。2016年から2020年まで英国ロンドンで生活し、その間にBrexitや新型コロナウイルスの蔓延といった大きな変化が起こる中で、仕事面でも家庭面でも得られることが多かったです。 新しい職場環境 JAE EUでの勤務が始まると、現地社員は英国、ドイツ、フランス、イタリア、スウェーデン等多国籍で構成され、顧客も30か国以上に跨っていることが分かりました。「欧州」と一言で括るにはあまりに大雑把過ぎる地域であり、国毎の人々や文化、習慣の違いを考慮した対応が必要なのは言うまでもありません。 私は一時期、営業に加えてマーケティングや技術チームの責任者も兼任していました。英国本社での勤務と並行して、ドイツのミュンヘンオフィスとの連携を強化する為に、頻繁に現地を訪れていました。現地社員との業務遂行においては、ドイツの労働法規や労務管理に細心の注意を払い、職務明細書(Job Description)に基づいた明確な業務指示を行い、ファクトとエビデンスに基づいた公正な業績評価を心掛けていました。また、拡販方針や戦略については納得がいくまで議論を重ねることで、チーム全体の目標と方向性を揃えました。 ドイツのメンバー達は、普段は家族生活を優先し、プライベートな時間を大切にしていましたが、いざという時は自ら進んで長時間の業務に取組んでくれました。私が別の仕事でドイツに行けなかった際には、急遽英国まで駆けつけ、ピザ1枚で深夜まで一緒に作業してくれることもありました。この経験は、ワークライフバランスを徹底して重視するドイツ人に対する固定観念を完全に払拭するものでした。彼らの献身的な姿勢と協力には、今でも感謝しています。 日常生活 ①:家族生活の変化 日本での生活と比較して、英国での生活では家族との関わり方に大きな変化がありました。日本で暮らしていた頃は、仕事のことばかりを考えていましたが、海外では家族の生活に積極的に関わり、生活環境を整えたり、日常生活のサポート(学校、病院、買い物、余暇)にも力を入れるようになりました。学校選びについては、私自身の留学経験から現地校を勧めましたが、息子達から「お父さんは自分の意志でアメリカに留学したんでしょ?僕らはお父さんの転勤で外国に来たんで自分の意志じゃないんだ!」と反論され、彼らの気持ちを尊重して日本人学校に通わせることにしました。(立派な主張だと感心しました。) 今では日本人学校に通わせたことが正しい選択だったと思っています。日本人としてのアイデンティティを確立する過程での良い教育を受けられました。ロンドン日本人学校には優秀な教師と生徒が集まり、非常に高い教育レベルが提供されていました。また、欧州を訪れる日本の要人(宇宙飛行士、スポーツ選手、芸術家、ミュージシャン、学者、政治家等)の多くがロンドン日本人学校に立ち寄り、貴重なお話を子供達に聞かせてくれる機会があり、大変恵まれた学習環境にありました。 日常生活 ②:ロンドンの暮らし ロンドンでの生活は、歴史的な街並みや博物館、美術館、そしてミュージカル等、文化に容易に触れることが出来ました。気候は北海道より北に位置する為冬はやや寒いものの、年間を通じて非常に快適でした。また、都会でありながら自然が豊かで、緑あふれる公園が数多くあります。自宅の裏庭には、狐、リス、野鳥が頻繁に訪れ、心を癒してくれました。賢い狐は、生ごみを入れるコンテナのロックを外して荒らしていくこともあり、彼らとの知恵比べも日常の出来事でした。ロンドン中心街の観光スポットは、私達にとっては生活圏の一部であり、散髪や息子達のスポーツ用品、日本食材等の買い出しをしていました。日本食材は日本価格の何と3倍で、購入する品物によって一番安い店を選ぶ等節約に努めました。 日常生活 ③:自動車通勤 通勤については、赴任当初は大きな試練でした。オフィスは自宅から南西に60kmの距離にあり、朝の通勤時には頻繁に事故渋滞に巻き込まれました。英国では、警察が事故現場の調査を終えるまで道路を閉鎖する為、高速道路内で閉じ込められ、トイレに行けず苦しい思いをしたこともあります。閉鎖が解けた後、急いで高速道路を降り、ヒースロー空港で用を足したことも。たった10分の駐車でしたが、これまでで一番高くついたトイレでした。帰りが遅くなると、高速道路が閉鎖されて入れなかったり、途中で閉鎖となり止む無く最寄りの出口から出て行かなければならず、何度も道に迷いながら真っ暗な山道のような場所を走りました。その過程で、帰宅ルートが自然と増え、道に詳しくなりました。一度慣れてしまうと、自動車通勤は一人になれる特別な時間となり、iPhoneに入れた70~80年代の歌謡曲を大声で歌いながら眠気を覚まして帰る日々を楽しみました。 日常生活 ④:ハプニング 息子の剣道教室に参加した際、アキレス腱を断裂し、ロンドンの救急病院(A&E: Accident and Emergency)で全身麻酔の日帰り手術を受けることになりました。そこではクロスファンクショナルチーム(機能横断型チーム:CFT)による対応が行われており、大変興味深いものでした。 窓口での受付を済ませた私は、病室を行き来すること無く、直ぐに移動式のベッドに乗せられました。そのまま手術着に着替え、手術室前で待機する他の患者達の長いベッドの列に加わりました。手術が流れ作業のように次々と行われ、ベッドの列が動きながら手術室に近づいていく様子を見て、自分がまるで工場の生産ラインに投入された材料のような感覚を覚えました。 病院スタッフは役割毎に色分けされた制服を着用し、それぞれの専門分野に基づいてテキパキと対応してくれました。私のベッドには、手術前から退院までの全ての手順が記された私専用のノート(※)が置かれており、スタッフはそのノートに従って入れ替わり立ち代わり私の前に現れては、チェックボックスを埋めながら正確に漏れなく処置を進めていました。このオペレーションは、病院の人手不足を補い、患者の精神的・身体的負担を軽減するもので、大いに感銘を受けました。 (病院スタッフの制服:役割別色分け) (日帰り手術用ノート) 尚、私は外国人でしたが、NHS(National Health Service:国民保健サービス)に加入していた為、薬代を除き医療費は無料でした。一般的に日本人駐在者は会社で加入する海外旅行保険を適用し、高額なプライベート医療サービスを利用することが多いですが、私はNHSの病院で奇跡的に手術日を確保出来た為、また冒険心にも駆られて手術を受けることにしました。因みに、奇遇にも同じ剣道場で数週間後にアキレス腱を断裂したポーランド系の方は、NHSの手術待ちが3カ月だった為、ポーランドで手術を受けたそうです。英国の医療現場が慢性的に混雑し、極めて厳しい状況にあることは事前に知っていましたが、道場で私の為に呼んで頂いた救急車が2時間待ち(後にキャンセル)だったことから、その現実を身をもって痛感させられました。 ※ノートには、手術前の準備(体温、脈拍、血圧、血液チェック、退院後の松葉杖の使い方指導等)から、術後の体力回復処置、退院許可迄のプロセスがページ毎に記載されていました。 その後、ギブスを装着してのドイツ出張では、イミグレーションの審査が驚くほどスムーズに進み、健常者としての移動よりも楽で早かったという貴重な体験もありました。イミグレーションでは電気自動車に乗せられ、そのまま空港出口まで送って貰えたことも印象に残っています。 英国赴任を終えて 振り返ると、英国での赴任は、仕事、異文化での暮らし、そして家族との時間という三つの面で、多くの学びと成長がありました。仕事や異文化での経験はこれまでも積み重ねてきましたが、家族の存在を何より大切にし、共に過ごす時間を最優先するようになったのは、この英国での生活がきっかけでした。子供達が成長し、家族で一緒に過ごす時間が減ってしまった今、コロナ禍のロックダウン中に家族水入らずで過ごした時間が特別な思い出となっています。ロンドンの青空の下、自宅裏庭で楽しんだBBQは、かけがえのない記憶です。 (ジブラルタル海峡:ここから顧客のいるモロッコへ船で渡りました)(ストーンヘンジ:ロンドンの自宅からたったの130km) (アイスランド:家族旅行) ● 現在:コネクタ事業ライン 海外赴任から帰国後、特定顧客の営業チームの責任者を務めた後、営業ラインを離れ、海外契約書のリーガルチェックという新たな職務に就きました。この業務では、海外の取引先や今後取引を予定している会社から提示された契約書に含まれる法的問題や自社に不利益な条項が無いかを精査します。また、取引内容に適合しているかを確認し、必要に応じて修正案を提示します。契約締結プロセスは、最終交渉の場であり、トラブルを未然に防ぎ、健全な関係を築くことが重要です。 法務バックグラウンドはありませんが、営業経験を通じて基本的な契約書の知識は持っていました。しかし、それを専門職として扱うのは全くの初心者であり、当初は手探りの状態でした。その為、法務部門のアドバイスや支援を受けながら、外部セミナーを受講し、情報収集を重ねて来ました。現在、業務を始めてから1年以上が経過し、100件以上の契約書をチェックし、150件以上の文献を読み、少しずつ知見が積み上がって来たと感じています。 この仕事において、私が特に重視しているのは、営業バックグラウンドを活かしたリスク評価です。同じ条文でも、相手方がどのような会社で、どのようなビジネスを進めようとしているのかによって、評価が異なります。長年の海外ビジネス経験を基にした分析・判断力を発揮し、日々新たな業務に全力で取組んでいます。(ロンドン: タワーブリッジを一望しながらのアフタヌーンティ) 【エピローグ】 これまでのキャリアを通じて学んだのは、「人生に無駄な経験は無い」ということです。転職や新たな挑戦を重ねる中で、失敗と成功を繰り返して来ましたが、その全てが今の私を形成する大切な要素となっています。若い世代の方々が自分の夢を追いかけ、理想に向かって進む為の力と勇気に少しでもなればという思いを込めて、この体験記を書き進めました。 「外国人と日本人は、同じものを見た時に同じように見えるのだろうか?」幼い頃に抱いたこの疑問に対する答えが、年月を経て少しずつ見えて来たように思います。私達の世界の見え方は、目の色等の生まれ持った特徴や、育った環境、経験によって異なるものです。同じ日本人同士でも、年齢や生活環境によって物の見え方には違いがあることを日々感じています。 交通機関の発展による人的交流に加え、インターネット技術の革新による国境を越えた情報交換の活発化が、本格的なグローバル社会の到来をもたらしました。今や世界中の人々との共生が日常となり、日本でも様々な背景を持つ人々が増えています。グローバルスタンダードや普遍的価値観の追求が進む中で、この流れに対して懸念も感じています。均一化による公平性は大切ですが、それによって多様性が失われることは避けなければなりません。また、多様性を認める為にマイノリティーを優先することが、時に不条理を生むこともあります。私達は、非常に難しい時代の局面に立たされています。 私は、より良い未来を築く為に、日々の小さな一歩を大切にしながら、自分らしく出来ることを続けて行きたいと思っています。この体験記が、読んで下さった方にとって、少しでも前向きな気持ちや、新たな一歩を踏み出すきっかけになれば幸いです。 (原田 晴之さんプロフィール) 群馬県出身 1984年3月 東京都立板橋高等学校 卒業 1985年6月 米国カリフォルニア州Bloomington High School 卒業 1986年4月 東京国際大学教養学部国際学科 入学 (下羽ゼミ) 1989年9月 米国オレゴン州Willamette University入学 (3学年編入) 1991年5月 米国オレゴン州Willamette University 卒業 (BA政治学専攻) 1992年3月 東京国際大学教養学部国際学科 卒業 (大越ゼミ) 1992年4月 池上通信機株式会社 入社 1996年3月 池上通信機株式会社 退社 1996年4月 Cyber Technologies International株式会社 入社 (ITベンチャービジネス) 1996年10月 Cyber Technologies International株式会社 退社 1996年11月 Activision Japan 株式会社 入社 (米国ゲームメーカー日本支社) 1997年6月 Activision Japan 株式会社 退社 1997年7月 日本航空電子工業株式会社 入社 (電子機器・部品メーカー) 2016年3月 JAE Europe, Limited 出向(英国販売子会社) 2020年10月 日本航空電子工業株式会社 帰任、現在に至る (航空電子スポンサーのボブルヘッド人形) (シアトル:イチロー選手) TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
世界の平和を願いながら人生を送ってほしい
TOKU/馬場督之さん(1996年 商学部 経営情報学科卒業 TIUA 臼井ゼミ タイニーラヴ/軽音楽)2024年8月1日・TIU 入学 高校3年になる前の春休みに、母が講師をしている公文式が主催するアメリカでの10日間のホームステイ・プログラムに、妹とともに参加した。今思えば、この時の体験が僕の人生を大いに左右することになったのだと思う。 初めての海外で母国語ではない言葉で実際にコミュニケーションがとれるおもしろさを知ってしまった僕は、自分の高校に教えに来ていたアメリカ人の先生と積極的に交流するようになり、英語を話す機会を増やし、いつしかまた海外に行きたいという願望を抱くようになった。 東京国際大学の名前を知ったのは浪人生になってしまった年だった。この大学には、当時のどの国公私立の大学よりも飛び抜けて贅沢な語学留学プログラムがあるというのをその当時に知った。期間は1年で、アメリカ人のルームメイトと過ごせるなんて、もう受験しないわけにはいかなかった。他の大学も受験したが、本当にここにしか合格しなかった。もう絶対にこの語学留学プログラムに参加しろという神の思し召しなのかと思い、1年生の秋に2段階の試験を受けて合格し、晴れて留学が決まった。何が待ち受けているのか、僕の心は期待でいっぱいだった。 ・音楽遍歴 僕は今ミュージシャンとして生きている。 それ以外の人生は全くもって想像がつかない。 音楽は僕の存在理由そのもの。生きる意味。 でも小さい頃からの夢というわけではなかった。 父親の影響で物心つく頃から音楽を聴くのを好きになり、どこに出かけるにも、寝る時にも、音楽がないとダメだった。音楽はいつも側にいた。 父親は趣味でいろんな楽器を演奏する人で、週末になるとうちに父親のブルーグラス・バンドのメンバーを集めては夜通し演奏していた。他にも様々な音楽を僕に教えてくれた。 小学生の時に父親が地元で初めてのレンタルスタジオを始めて、昼夜ひっきりなしに音楽を志す人が出入りするのを見ながら過ごしていたが、サッカー少年だった僕は楽器を演奏することに興味はなかった。 中学校に進んでその状況が変わる。なんと、進んだ中学校にはサッカー部がなく、仕方がないので他のスポーツ系ではなく、好きな音楽系の部活動をしようと思い吹奏楽部を覗きに行き、コルネットというトランペットに一番近い楽器を始めることになる。 とはいえ真面目にはやらず、譜面も読まず、持ち前の音感で隣の人の吹く音を覚えてしまい、あとは自由に吹いていただけだった。 なので、高校生になると高校が遠かったのもありコルネットを吹くのを止めてしまう。 そして、高校の仲間とバンドを始め、ドラムをプレイし始める。ほぼ同時にベースを始め、そして浪人生の時にはギターを始めた。 ロック、ポップ、フォークにはまり、TIUに入ってから最初に在籍したのは軽音のサークルだった。そのサークルから紹介されたバイト先のCD屋さんで、わけもわからずマイルス・デイビス (ジャズの帝王と言われたトランペッター)のCDを買い、その中の1曲を気に入り、耳で聞いて同じように吹けるように練習し、誘われるままに行ったジャズの生演奏をやっていたお店で言われるがままに飛び入りして練習したことを吹き、実はそれはマイルスがアドリブ(即興)で演奏したものだと初めて知り、それ以来ジャズに取りつかれて今に至る。 実は、小学生の時に僕の地元にやってきたマイルス・デイビスのコンサートに連れて行ってもらったことが大きく影響していると思う。最初で最後だったが、大のマイルスのファンの父親が「こんな機会は二度とあるかわからない!」と家族を連れて行ってくれた。その時に感じた会場の熱気を今でも覚えている。 ・TIUA さて、留学に話を戻したいと思う。 そんなわけで、留学が決まったときには僕はすっかりジャズに取りつかれていて、個人データに”音楽” “ジャズ” と書きまくり、TIUAに着いた日に出会ったのがジャズピアノをバリバリ弾く僕のルームメイト、Julian Snow だった。 ジャズにハマってすぐに購入し、もちろん一緒にアメリカに持っていったトランペットのケースを見つけた彼は、時差ぼけでフラフラの僕を練習室に連れて行った。そして2人でしばし演奏し、次の週にはベーシストを加えて練習し、さらにサックス・プレイヤーが加わり、僕らはウィラメット大学のキャンパスにある Bistro というカフェで毎週木曜日にライヴをするようになる。 あの時はジャズを始めたばかりで決して上手くない、むしろド下手なトランペッターで吹ける曲もわずかしかなかったのに、よくも僕をバンドに入れたものだと思う。今もってしても謎だ。 でも英語を勉強しに行ったのに、音楽も同時にやることができるなんて夢のようだった。 週末にはキャンパス内の屋外でギターを弾いて歌い、そのうち一緒に歌う仲間もできた。 ウィラメット大学にあるロザンヌという男女共同寮に住み、朝食はパンケーキとミルク、午後授業が終わるとウィラメットのキャンパスの芝生で宿題、夕食を終えたら仲間とバスケットボールを楽しみ、シャワーを浴びてトランペットと譜面を持って音楽練習室に向かい夜遅くまで練習した。Julian のバンドに付いて行くのは大変だった。片っ端から曲を知り、演奏(アドリブ)できるようにならなければならなかった。でもその大変な作業が楽しくて仕方なかった。 Bistro でのライヴはとにかく毎回が刺激そのものだった。 Julian 始めメンバーは皆達者なので置いてきぼりになることもしばしばだったけど、必死について行った。 ライヴ中はいろんな人が行き来していた。それを見ているのも楽しかった。そこで出会った友達と今でも交流は続いている。 時々開催されたフィールドトリップでオレゴンの他の土地に行けるのもとても刺激だった。見るもの全てが新しいって素晴らしいと思った。オレゴンの大自然はとにかく広い。オレゴン・コーストや Mt.Hood で経験したスノーボード、馬に乗ったのも覚えている。そして都市に行くとCDショップに行けるのが本当に嬉しかった。聞きたいジャズの名曲はまだ山ほどあった。それは今でもそう。 夏休みについても書かなければ! 7月の下旬からほぼ一ヶ月をかけてアメリカを見て回った。 飛行機ではなく、アムトラックという汽車でアメリカ大陸の大きさを肌で感じながらの旅。 セーラムを出発して、 まずはサンフランシスコまで汽車の中で1泊、 2泊ほどして サンフランシスコからロスは朝から晩までまる1日を汽車の中で、 ロスで3泊ほどして ロスからニューオリンズまでは汽車の中で2泊! ニューオリンズで3泊くらいして、 ニューオリンズからニューヨークまでは汽車で1泊、 ニューヨークで3泊ほどして ニューヨークからシカゴまでは汽車で1泊、 シカゴで2泊ほどして シカゴからシアトルまでは汽車で2泊、 シアトルで2泊ほどして シアトルからセーラムに。 行程はざっとかんな感じ。 1ヶ月以内ならば何度も途中下車できる切符を購入し、寝台車ではなく普通のコーチシートで全行程を移動した。日本人にとっては広くて、リクライニングさせると寝心地のいいソファになった。若さゆえに可能だった。 砂漠のど真ん中を走ってる時に、ここでエンジンが故障したらどうなるんだろうと思ったり、夜中に目が覚めて外を見ると、たまに田舎の街灯が流れていく真っ暗が続く景色だったり、汽車でしか味わえない経験をたくさんした。 当時はポータブルのカセットテープ・プレイヤーが音を出してくれる一番小さい機械、旅の間に何度テープをひっくり返したことか。 初めて訪れたジャズの街ニューオリンズ、そしてニューヨークではジャズのレジェンドの生の演奏に触れることができた。 ニューヨークで演奏を聞いた、とても印象に残るトランペッターがいた。その彼と、およそ7年後の自分がメジャー・デビューしたころに出会うとは夢にも思わなかった。そのニューヨークでのライヴの話をしたら、なんと彼はその時のことを覚えていた。2度目に会った時だったかな、お互いの誕生日が同じ日だということがわかり、以来彼が数年前に突然逝ってしまうまで、ずっと仲のいい友達になった。最後にやり取りしたメッセージは、お互いに「I love you」だった。 ちょっと話がずれてしまったけど、 TIUAに留学していた1993年という年は、今までの人生で一番充実していたと思う。それだけTIUAは僕に濃密な経験をさせてくれた。 そして、この時の体験、身につけた語学力は現在の僕のキャリアに大きく大きく関わっている。東京にやってくる海外からのミュージシャンと知り合い、その後も付き合いが続くのは語学力により相手を理解し友情を深めることができるということがとても大きいと強く感じる。 初めて日本に来るミュージシャン達を案内したり、日本のことを説明したりすることができるのは、同時に彼らの文化を理解することにも繋がり、その後の付き合いが深くなっていく。このお互いの理解、受け入れるという気持ちは、TIUAへの留学でいろんなものを見て知った経験があったから身についたのだと思う。 もちろんそれには、全てではなくとも相手をすぐに受け入れるオープンなマインドを持つということがとても重要だと思う。僕の場合は根っからの好奇心旺盛な性格も手伝って自然と身についたところもあるが、TIUの自由な校風から始まり、TIUAで経験した全てのことは僕をさらにオープンマインドの持ち主にしてくれたことは言うまでもない。 世界には様々な人種が存在する。そして、今現在は良くも悪くも日々多様な出来事があり、目まぐるしいくらいに時代が回っている。世界の動きを見ると、ポジティブなこともあるけど本当に苦しくなるような理解できないほどのネガティブなことも起こっている。人類がこれからどう生きていくのか、そして何より自分がどう生きていけばいいのか、常に敏感に物事を察知し、様々な情報を整理していかなければならない。 そんな時代でも、僕は全ての人間は同じく人間であり、単純に生まれや育ちが違うだけで肌の色で差別したりする心は一切持っていなくて、むしろ違うことに興味を抱く人間であれることに幸せを感じる。そしてそう思えるのは、TIUAでの生活を通じてアメリカでいろいろな人間と出会ったことが大きく影響していると思う。人種は違えど、愛を捧ぐ心は皆持っているということを強く学んだ。 ・近況 今、僕はパリにも拠点を置き、ヨーロッパで自分のキャリアを広げようとチャレンジしている。2017年からパリに住む友人のプロジェクトに参加することで毎年2度パリに来てはそこを拠点にヨーロッパをツアーするようになり、その友人の勧めもあり彼のレーベルからヨーロッパ向けの自分のアルバムが2020年の1月に日本より先にフランスでリリースされ、2月にリリース・ツアーを行ったところで新型コロナウイルスによるパンデミックで、3年半もの間ヨーロッパに来ることが出来なくなった。 ようやく落ち着いたところで来られなかった月日を取り戻したい、チャレンジしたいという気持ちが、僕を言葉もわからない新たな土地・パリに住まわせることになった。逆にパンデミックがなければこういう気持ちにならなかったのかもしれない。 まだまだ種蒔きの段階だけど、数年のうちに何かに到達したいと思っている。それはヨーロッパ内のあらゆるところからオファーを受け始めることだと思っている。 ・1人の人間として Life is one time. 人生は一度きり。 50年という年月を生きてより強くそれを感じる。なぜ自分はこの世に生を享けたのか、生きているうちに何ができるか、この貴重な時間を有意義に過ごすことを考えながら生きていきたい。 そして、これから大学生活を送る若人達に、自身が心から生きる喜びを感じられるものを見つけてほしいと心から願う。 そして真実を見つめ、家族を大切にし、心通う友に感謝し、世界の平和を願いながら実りある、意味ある人生を楽しみ、送ってほしいと切に希望します。 TOKU (TOKU/馬場督之のプロフィール) 新潟県三条市出身 新潟明訓高校卒業 1996年3月 東京国際大学 商学部経営情報学科卒業 TIUA留学 臼井ゼミ タイニーラヴ(軽音楽) 日本唯一のヴォーカリスト&フリューゲルホーンプレーヤー 父親の影響でノンジャンルで音楽に親しみ、中学時代にブラスバンドで初めての楽器コルネットを手にする。 2000年1月アルバム“Everything She Said”でソニー・ミュージックよりデビュー。 デビュー当初から注目を集め、その年の8月には早くもブルーノート東京に出演。 アルバムはアジア各国でもリリースされ、積極的に海外での公演も行っている。 昨今、ジャズの枠を超えた幅広い音楽性から、m-flo、平井堅、Skoop On Somebody、 今井美樹、大黒摩季、などのアルバムにプレイヤーとして参加。 2008年に発売したアルバム「Love Again」は初のDuet SongをExileのATSUSHI氏を迎えて収録。 2011年3月の東日本大震災の直後に行われた、シンディー・ローパーの国内ツアーにも 参加し、話題となる。 2011年4月27日、本人がずっと温めていた企画「TOKU sings & plays STEVIE WONDER- JAZZ TRIBUTE FROM ATLANTA」を発売。 2015年5月、フランクシナトラの生誕100周年を記念して全曲シナトラのカバーアルバムを発売。そのレベルの高さに各所で大絶賛を浴びている。 2017年6月、ジャンルを超えTOKUが今まで出会った様々なミュージシャン達とコラボレートしたアルバム「SHAKE」をリリース。 2019年2月、今まで書いていたオリジナル曲からTOKU自身が厳選し、未発表曲、未発表テイクも含めたオリジナル曲のみによるコンピレーション「Original Songbook」をリリース。 2020年4月、フランスを代表するミュージシャン達とレーコーディングした初のヨーロッパ録音「TOKU In Paris」をリリース。フランスで先行発売され、ヨーロッパでのアルバムリリース・ツアーは各地でソールドアウト、好評を得る。 (TOKU Inc.®︎) TOKU Inc. オフィシャルサイト https://www.tokujazz.com TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
TOKU/馬場督之さん(1996年 商学部 経営情報学科卒業 TIUA 臼井ゼミ タイニーラヴ/軽音楽)2024年8月1日・TIU 入学 高校3年になる前の春休みに、母が講師をしている公文式が主催するアメリカでの10日間のホームステイ・プログラムに、妹とともに参加した。今思えば、この時の体験が僕の人生を大いに左右することになったのだと思う。 初めての海外で母国語ではない言葉で実際にコミュニケーションがとれるおもしろさを知ってしまった僕は、自分の高校に教えに来ていたアメリカ人の先生と積極的に交流するようになり、英語を話す機会を増やし、いつしかまた海外に行きたいという願望を抱くようになった。 東京国際大学の名前を知ったのは浪人生になってしまった年だった。この大学には、当時のどの国公私立の大学よりも飛び抜けて贅沢な語学留学プログラムがあるというのをその当時に知った。期間は1年で、アメリカ人のルームメイトと過ごせるなんて、もう受験しないわけにはいかなかった。他の大学も受験したが、本当にここにしか合格しなかった。もう絶対にこの語学留学プログラムに参加しろという神の思し召しなのかと思い、1年生の秋に2段階の試験を受けて合格し、晴れて留学が決まった。何が待ち受けているのか、僕の心は期待でいっぱいだった。 ・音楽遍歴 僕は今ミュージシャンとして生きている。 それ以外の人生は全くもって想像がつかない。 音楽は僕の存在理由そのもの。生きる意味。 でも小さい頃からの夢というわけではなかった。 父親の影響で物心つく頃から音楽を聴くのを好きになり、どこに出かけるにも、寝る時にも、音楽がないとダメだった。音楽はいつも側にいた。 父親は趣味でいろんな楽器を演奏する人で、週末になるとうちに父親のブルーグラス・バンドのメンバーを集めては夜通し演奏していた。他にも様々な音楽を僕に教えてくれた。 小学生の時に父親が地元で初めてのレンタルスタジオを始めて、昼夜ひっきりなしに音楽を志す人が出入りするのを見ながら過ごしていたが、サッカー少年だった僕は楽器を演奏することに興味はなかった。 中学校に進んでその状況が変わる。なんと、進んだ中学校にはサッカー部がなく、仕方がないので他のスポーツ系ではなく、好きな音楽系の部活動をしようと思い吹奏楽部を覗きに行き、コルネットというトランペットに一番近い楽器を始めることになる。 とはいえ真面目にはやらず、譜面も読まず、持ち前の音感で隣の人の吹く音を覚えてしまい、あとは自由に吹いていただけだった。 なので、高校生になると高校が遠かったのもありコルネットを吹くのを止めてしまう。 そして、高校の仲間とバンドを始め、ドラムをプレイし始める。ほぼ同時にベースを始め、そして浪人生の時にはギターを始めた。 ロック、ポップ、フォークにはまり、TIUに入ってから最初に在籍したのは軽音のサークルだった。そのサークルから紹介されたバイト先のCD屋さんで、わけもわからずマイルス・デイビス (ジャズの帝王と言われたトランペッター)のCDを買い、その中の1曲を気に入り、耳で聞いて同じように吹けるように練習し、誘われるままに行ったジャズの生演奏をやっていたお店で言われるがままに飛び入りして練習したことを吹き、実はそれはマイルスがアドリブ(即興)で演奏したものだと初めて知り、それ以来ジャズに取りつかれて今に至る。 実は、小学生の時に僕の地元にやってきたマイルス・デイビスのコンサートに連れて行ってもらったことが大きく影響していると思う。最初で最後だったが、大のマイルスのファンの父親が「こんな機会は二度とあるかわからない!」と家族を連れて行ってくれた。その時に感じた会場の熱気を今でも覚えている。 ・TIUA さて、留学に話を戻したいと思う。 そんなわけで、留学が決まったときには僕はすっかりジャズに取りつかれていて、個人データに”音楽” “ジャズ” と書きまくり、TIUAに着いた日に出会ったのがジャズピアノをバリバリ弾く僕のルームメイト、Julian Snow だった。 ジャズにハマってすぐに購入し、もちろん一緒にアメリカに持っていったトランペットのケースを見つけた彼は、時差ぼけでフラフラの僕を練習室に連れて行った。そして2人でしばし演奏し、次の週にはベーシストを加えて練習し、さらにサックス・プレイヤーが加わり、僕らはウィラメット大学のキャンパスにある Bistro というカフェで毎週木曜日にライヴをするようになる。 あの時はジャズを始めたばかりで決して上手くない、むしろド下手なトランペッターで吹ける曲もわずかしかなかったのに、よくも僕をバンドに入れたものだと思う。今もってしても謎だ。 でも英語を勉強しに行ったのに、音楽も同時にやることができるなんて夢のようだった。 週末にはキャンパス内の屋外でギターを弾いて歌い、そのうち一緒に歌う仲間もできた。 ウィラメット大学にあるロザンヌという男女共同寮に住み、朝食はパンケーキとミルク、午後授業が終わるとウィラメットのキャンパスの芝生で宿題、夕食を終えたら仲間とバスケットボールを楽しみ、シャワーを浴びてトランペットと譜面を持って音楽練習室に向かい夜遅くまで練習した。Julian のバンドに付いて行くのは大変だった。片っ端から曲を知り、演奏(アドリブ)できるようにならなければならなかった。でもその大変な作業が楽しくて仕方なかった。 Bistro でのライヴはとにかく毎回が刺激そのものだった。 Julian 始めメンバーは皆達者なので置いてきぼりになることもしばしばだったけど、必死について行った。 ライヴ中はいろんな人が行き来していた。それを見ているのも楽しかった。そこで出会った友達と今でも交流は続いている。 時々開催されたフィールドトリップでオレゴンの他の土地に行けるのもとても刺激だった。見るもの全てが新しいって素晴らしいと思った。オレゴンの大自然はとにかく広い。オレゴン・コーストや Mt.Hood で経験したスノーボード、馬に乗ったのも覚えている。そして都市に行くとCDショップに行けるのが本当に嬉しかった。聞きたいジャズの名曲はまだ山ほどあった。それは今でもそう。 夏休みについても書かなければ! 7月の下旬からほぼ一ヶ月をかけてアメリカを見て回った。 飛行機ではなく、アムトラックという汽車でアメリカ大陸の大きさを肌で感じながらの旅。 セーラムを出発して、 まずはサンフランシスコまで汽車の中で1泊、 2泊ほどして サンフランシスコからロスは朝から晩までまる1日を汽車の中で、 ロスで3泊ほどして ロスからニューオリンズまでは汽車の中で2泊! ニューオリンズで3泊くらいして、 ニューオリンズからニューヨークまでは汽車で1泊、 ニューヨークで3泊ほどして ニューヨークからシカゴまでは汽車で1泊、 シカゴで2泊ほどして シカゴからシアトルまでは汽車で2泊、 シアトルで2泊ほどして シアトルからセーラムに。 行程はざっとかんな感じ。 1ヶ月以内ならば何度も途中下車できる切符を購入し、寝台車ではなく普通のコーチシートで全行程を移動した。日本人にとっては広くて、リクライニングさせると寝心地のいいソファになった。若さゆえに可能だった。 砂漠のど真ん中を走ってる時に、ここでエンジンが故障したらどうなるんだろうと思ったり、夜中に目が覚めて外を見ると、たまに田舎の街灯が流れていく真っ暗が続く景色だったり、汽車でしか味わえない経験をたくさんした。 当時はポータブルのカセットテープ・プレイヤーが音を出してくれる一番小さい機械、旅の間に何度テープをひっくり返したことか。 初めて訪れたジャズの街ニューオリンズ、そしてニューヨークではジャズのレジェンドの生の演奏に触れることができた。 ニューヨークで演奏を聞いた、とても印象に残るトランペッターがいた。その彼と、およそ7年後の自分がメジャー・デビューしたころに出会うとは夢にも思わなかった。そのニューヨークでのライヴの話をしたら、なんと彼はその時のことを覚えていた。2度目に会った時だったかな、お互いの誕生日が同じ日だということがわかり、以来彼が数年前に突然逝ってしまうまで、ずっと仲のいい友達になった。最後にやり取りしたメッセージは、お互いに「I love you」だった。 ちょっと話がずれてしまったけど、 TIUAに留学していた1993年という年は、今までの人生で一番充実していたと思う。それだけTIUAは僕に濃密な経験をさせてくれた。 そして、この時の体験、身につけた語学力は現在の僕のキャリアに大きく大きく関わっている。東京にやってくる海外からのミュージシャンと知り合い、その後も付き合いが続くのは語学力により相手を理解し友情を深めることができるということがとても大きいと強く感じる。 初めて日本に来るミュージシャン達を案内したり、日本のことを説明したりすることができるのは、同時に彼らの文化を理解することにも繋がり、その後の付き合いが深くなっていく。このお互いの理解、受け入れるという気持ちは、TIUAへの留学でいろんなものを見て知った経験があったから身についたのだと思う。 もちろんそれには、全てではなくとも相手をすぐに受け入れるオープンなマインドを持つということがとても重要だと思う。僕の場合は根っからの好奇心旺盛な性格も手伝って自然と身についたところもあるが、TIUの自由な校風から始まり、TIUAで経験した全てのことは僕をさらにオープンマインドの持ち主にしてくれたことは言うまでもない。 世界には様々な人種が存在する。そして、今現在は良くも悪くも日々多様な出来事があり、目まぐるしいくらいに時代が回っている。世界の動きを見ると、ポジティブなこともあるけど本当に苦しくなるような理解できないほどのネガティブなことも起こっている。人類がこれからどう生きていくのか、そして何より自分がどう生きていけばいいのか、常に敏感に物事を察知し、様々な情報を整理していかなければならない。 そんな時代でも、僕は全ての人間は同じく人間であり、単純に生まれや育ちが違うだけで肌の色で差別したりする心は一切持っていなくて、むしろ違うことに興味を抱く人間であれることに幸せを感じる。そしてそう思えるのは、TIUAでの生活を通じてアメリカでいろいろな人間と出会ったことが大きく影響していると思う。人種は違えど、愛を捧ぐ心は皆持っているということを強く学んだ。 ・近況 今、僕はパリにも拠点を置き、ヨーロッパで自分のキャリアを広げようとチャレンジしている。2017年からパリに住む友人のプロジェクトに参加することで毎年2度パリに来てはそこを拠点にヨーロッパをツアーするようになり、その友人の勧めもあり彼のレーベルからヨーロッパ向けの自分のアルバムが2020年の1月に日本より先にフランスでリリースされ、2月にリリース・ツアーを行ったところで新型コロナウイルスによるパンデミックで、3年半もの間ヨーロッパに来ることが出来なくなった。 ようやく落ち着いたところで来られなかった月日を取り戻したい、チャレンジしたいという気持ちが、僕を言葉もわからない新たな土地・パリに住まわせることになった。逆にパンデミックがなければこういう気持ちにならなかったのかもしれない。 まだまだ種蒔きの段階だけど、数年のうちに何かに到達したいと思っている。それはヨーロッパ内のあらゆるところからオファーを受け始めることだと思っている。 ・1人の人間として Life is one time. 人生は一度きり。 50年という年月を生きてより強くそれを感じる。なぜ自分はこの世に生を享けたのか、生きているうちに何ができるか、この貴重な時間を有意義に過ごすことを考えながら生きていきたい。 そして、これから大学生活を送る若人達に、自身が心から生きる喜びを感じられるものを見つけてほしいと心から願う。 そして真実を見つめ、家族を大切にし、心通う友に感謝し、世界の平和を願いながら実りある、意味ある人生を楽しみ、送ってほしいと切に希望します。 TOKU (TOKU/馬場督之のプロフィール) 新潟県三条市出身 新潟明訓高校卒業 1996年3月 東京国際大学 商学部経営情報学科卒業 TIUA留学 臼井ゼミ タイニーラヴ(軽音楽) 日本唯一のヴォーカリスト&フリューゲルホーンプレーヤー 父親の影響でノンジャンルで音楽に親しみ、中学時代にブラスバンドで初めての楽器コルネットを手にする。 2000年1月アルバム“Everything She Said”でソニー・ミュージックよりデビュー。 デビュー当初から注目を集め、その年の8月には早くもブルーノート東京に出演。 アルバムはアジア各国でもリリースされ、積極的に海外での公演も行っている。 昨今、ジャズの枠を超えた幅広い音楽性から、m-flo、平井堅、Skoop On Somebody、 今井美樹、大黒摩季、などのアルバムにプレイヤーとして参加。 2008年に発売したアルバム「Love Again」は初のDuet SongをExileのATSUSHI氏を迎えて収録。 2011年3月の東日本大震災の直後に行われた、シンディー・ローパーの国内ツアーにも 参加し、話題となる。 2011年4月27日、本人がずっと温めていた企画「TOKU sings & plays STEVIE WONDER- JAZZ TRIBUTE FROM ATLANTA」を発売。 2015年5月、フランクシナトラの生誕100周年を記念して全曲シナトラのカバーアルバムを発売。そのレベルの高さに各所で大絶賛を浴びている。 2017年6月、ジャンルを超えTOKUが今まで出会った様々なミュージシャン達とコラボレートしたアルバム「SHAKE」をリリース。 2019年2月、今まで書いていたオリジナル曲からTOKU自身が厳選し、未発表曲、未発表テイクも含めたオリジナル曲のみによるコンピレーション「Original Songbook」をリリース。 2020年4月、フランスを代表するミュージシャン達とレーコーディングした初のヨーロッパ録音「TOKU In Paris」をリリース。フランスで先行発売され、ヨーロッパでのアルバムリリース・ツアーは各地でソールドアウト、好評を得る。 (TOKU Inc.®︎) TOKU Inc. オフィシャルサイト https://www.tokujazz.com TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
恩人への感謝と最後までやり抜く想い
土谷 恵太郎さん(1996年 商学部卒業)2024年5月1日現在、住商エアロシステム㈱という商社において防衛関連のビジネスを行っています。海外の動向を探り、今日本に必要もしくは中長期的に必要となるであろう技術の導入に向け客先へ紹介、斡旋を行っています。最終の客先は防衛省となりますが、国内メーカー経由での提案や納入も行っています。現職のビジネス概要はあまり深くを語れないかもしれませんが、卒業後今まで2社を経験し、大先輩との出会い含め今に至るまでの私の体験談が少しでも皆さまのご参考になればと考え、僭越ながら寄稿させていただきます。東京国際大学在学時は交友関係に重きを置くあまり、あまり勉強をする学生ではありませんでしたが、2年次の1993年にTIUAに行かせていただいたことが一番勉強をした時期であり、全くやったことが無かったバスケットボールをWillamette大の体育の授業で選択したことが始めるきっかけにもなりました。また、今も同じ呼び名か分かりませんが、TOMODACHIファミリーのMr. Walter Jonesと30年経った今でも交流があります。奥様のMrs. Glenda Jonesは数年前に亡くなってしまいましたが、彼らの交友関係はとても広く、覚えられないぐらい沢山の方を紹介いただいたことが記憶に残っています。基本週末は彼らと一緒に行動していたのですが、友人のお葬式にも参列するぐらい色々な経験をさせていただきました。卒業後は、丁度就職氷河期で敗戦が多かったものの、大阪に本社を持つ上松商事㈱に採用され、配属が大阪となり、初めて大阪の地に足を踏み入れました。買ったものは忘れましたが、最初に新大阪のキヨスクのおばちゃんに「おおきに」と元気に言われたことが本場、本物の関西弁を初めて聞いた言葉で、今日の出張で新大阪を使う際も昨日の日のように思い出されます。 上松商事㈱ (1社目) 大阪岸和田に本社を置く木材商社となり、インドネシアと関係が強い会社でした。当時はスハルト大統領でしたが、その政権と関係のあるインドネシア合板協会との合弁企業である対日独占輸入業を担うニッピンド㈱へ出向となり、そこで今ではあまり使われないLC等の貿易実務業務の日々を送りました。勤務地は心斎橋でカナダ村に位置していました。余談ですが、カナダ村は今となっては大阪の方も知らない方が多いですが、多少おしゃれなエリアながらアメ村の北側にあるということで、カナダ村と呼ばれていましたので何かの折に話のネタにされてみて下さい。さて、実際の業務ですが、インドネシアから毎月数多くの在来船を貸し切り船舶動静を管理しつつ、様々な種類の合板を大量に輸入し、主に大手総合商社および社内関連製造・加工工場向けに販売していました。我々の卸値価格が毎週月曜の日経新聞に掲載され実質日本の合板価格動向の指標になっていました。合板とはベニヤ板ですが、家の構造用や家具含め多岐に渡り使用されているもので、一見、木の板や製材がそのまま使われているようでも、ほぼ80%以上はベニヤ板が使われています。ちなみに高速道路もコンクリートパネルという型枠合板で作られているので、住宅着工戸数や高速道路建設といった需給により市況が変わっていく商品となります。最終的には1990年代後半にインドネシアで発生した資本収支危機により、International Monetary Fund (IMF)の支援を得るにあたり、IMFからの勧告内容に合板カルテルの廃止という項目が含まれ独占販売権を失うことになりました。商社の根幹とも言える商権を失ったことにより会社が傾くこととなり、最終的には関連会社の製造・加工部門を残し倒産となってしまいました。一方、大阪での生活は業務が早めに終わっていたこともあり、バスケを通して会社以外でも交友関係を広げていき、今も多くの方と交友関係が継続しており、大阪は自分になぜか合っている場所でもあり、また本当に住みたいとも思っています。 住商エアロシステム㈱ (2社目) 1社目の状況により会社を離れ、数か月TOMODACHIファミリーを訪問した際、旧友含め様々な方々と再会できました。そこで英気を養いつつ、今まで経験した貿易実務を前面に押し出し転職活動を行い、面接官と一番フィーリングが合った住商エアロシステム㈱に2000年2月よりお世話になることになりました。今は自社名義で防衛装備品向け商社No.1を狙える立場まで会社規模が大きくなりましたが、当時は親会社である住友商事㈱の業務委託でできる業務の範囲も限られていました。規模が大きくなっていく最中、私は陸上自衛隊 (陸自)向けビジネスを住友商事から住商エアロシステムへ移管するために入社直後住友商事へ出向することになりました。移管後は陸自ビジネスを行いつつ、航空機エンジンのビジネスを行い、その後、航空自衛隊向けと海上自衛隊向けのビジネスを経験し、今に至りますが、前期で陸自ビジネスに関与していた際、2008年より2年強、欧州住友商事会社(ロンドン)へ転勤する機会を得ることができました。現在は入社時に担っていた陸上自衛隊ビジネスに戻り業務拡大に努めていますが、直前には管理部門の総務部で給与チーム長として給与含む社会労務関連を担うとともに、人事や採用も行うことで別視点から会社を見ることができました。防衛業界について少し触れますが、防衛省自衛隊は陸海空に分かれ、最近は統合幕僚監部なる組織もできましたが、それぞれの組織は統合されて運用されるにはまだまだ時間がかかると言っても過言ではありません。陸海空にはそれぞれの文化や哲学があり、私は語ることはできませんが、海自と空自は艦船や航空機といったAssetベースでの運用に対して、陸自が人ベースでの運用となっています。人が主体の陸自へ最新の装備品が全てに行きわたっていることはなく、殆どの部隊が日々古い装備で訓練を行い、有事に対し120%の準備を行い備えています。最近では国会で防衛予算が元々GDP1%だったものを2%にする方針が決まりましたが、かかる周辺諸国との状況を鑑みると防衛のためにマストとして必要になるものであり、我々はその部分において、防衛省や防衛業界へ貢献するというマインドを以って支援していくこと常としています。ビジネスとしてやっていることもあり、利益を追求しがちになりますが、どんなビジネスにも言えるのですが、必要以上に利益を追求することは業界全体の底上げには繋がらず長続きはしませんので、国内メーカー含めた関係各社と長期に渡りWin-Winの関係性構築ができるよう最善のスキーム作りに努めています。ご参考まで、日々の業務は部署にもよりますが、直接見なければならない直属のチーム員が15名いた際は自分の仕事の時間が取れるのが22時以降であったため、毎日終電でしたが、コロナもあり、在宅勤務に必要な備品も備わっていることから、良いかどうか分かりませんが、事務所以外でも事務所同様の仕事ができる環境になったことで、効率的にはなりました。商社は激務と言いますが、そうかもしれません。しかし、その分得ることが多いことも事実ですし、皆いくつか持たれているであろう夢の実現には近づきやすい部分もあると思いますが、健康あってのことだなと最近は多少気遣うようになりました。 (英Airshowにて) ロンドン駐在時代 担当範囲は欧州であり、現地スタッフとなる部員が独デュッセルドルフにいたため、ほぼ毎週出張をしていました。担う業務は欧州側から日本への日々の輸入業務支援以外に日本からの来訪者や海外メーカーとの面談やアテンドといった業務が主でありますが、冒頭で述べた海外の動向を探り、日本に今必要もしくは中長期的に必要となるであろう技術の情報収集を行っていました。多くは語れないことが残念ですが、駐在時代以外に限らず西側諸国で必要なものが得られない場合は当時中欧と呼ばれたチェコやブルガリアにも訪問しその国経由で各種調整が完了するまで帰国できないということもありました。ロンドンでの生活は当時家内と2人だけだったため、家賃の自腹部分が多くなっても交通が便利かつ安全なエリアを選択しました。場所はゴルゴ13に良く出てくることは知らなかったのですがNew Scotland YardがあるSt. James ParkエリアのFlatを選択しました。家内は一人でいることが多かったため、お金は十分でなくてもせめて中心部まで徒歩圏内の飽きない場所を選択しました。その結果、なんだかんだで、帰国までに食器や家具などがかなり増えましたが、二人でお店のみならず、ほぼ無料の美術館・博物館でデザイン性が良いものを見たりすることで、自然と目が肥えつつ、それを日本からの来訪者が求める場所やお店に連れていき、帰国後に来訪者や来訪者から受け取った彼らの家族が喜んでいたと連絡をいただくことは相互に嬉しいことであり、大したことが無いようにも思えますが、かなり重要な部分の一つでもあり、相互にとって長きに渡り良い思い出になり、今もその方々とお会いすると当時の話で盛り上がっていただけることは嬉しく思います。 (ロンドンでの住まい) 嶌末 真さんとの出会い 防衛業界において先輩や後輩と会う機会は数年前に他商社におられた同級生の1回限りでしたが、一昨年度の2022年にワシントンDCで開催される米陸軍協会の年次総会・展示会となるAUSAへ参加する際、社団法人である日本防衛装備工業会 (JADI)が会員の国内メーカーを集いツアーを企画され、当社もそちらを支援することとなりました。防衛関連ビジネスでは情報管理が厳格な業界ですが、個人情報や経歴等を提出する機会が多く、JADI支援に向けやりとりを行ったところ、JADIの窓口が調査部長である嶌末 真さんでした。1985年卒 (教養学部)ということで同窓かつ大先輩であることが判明しました。嶌末さんは元陸上自衛官であり、パキスタンの防衛駐在官も歴任された方です。自衛官には職種というものがあり、陸自に16種類ある職種で通信となり、その分野では陸自内で非常に有名な方であることを知りました。嶌末先輩と呼ばせていただきますが、お互い同業界で大学の先輩・後輩といった経験が多くない中、狭い業界で一緒に仕事をする機会があったことは何かのご縁と考え、お互いに機会を作り頻繁に会うようになりました。そこで様々な情報交換をさせていただいたことは自身の財産となり、この関係は後輩である私から是非とも継続させていただきたいと考えています。嶌末先輩情報について私がこれ以上勝手に述べることはできませんが、卓球において有名な方であるため、ご興味のある方は卓球経由で嶌末先輩との交流も図っていただければと思います (ちなみに私は卓球ほぼできません)。 (米AUSA2022にて) TIU受験生/在校生へのメッセージ 表題で「恩人への感謝と最後までやり抜く想い」と記載しましたが、それぞれ関係しないようですが繋がりがあるものと思っています。「恩人への感謝」は、その都度お世話になる方へ感謝することですが、その後もその方を忘れることなど一度もありませんし、時折様子を確認させていただいています。「最後までやり抜く想い」とは、たまにあのタイミングで転職していていたらどうなっていたかなと思いますが、一度世話になり育てていただいた所属先を自ら裏切るようなことにはならずに済んでいますが、継続は力なりというモットーでやってきました。確かに、自身にとってより評価してくれる転職先を都度のタイミングで選択される方もおり、それを全く否定するものではありませんが、私自身、生き方が上手くない部分もあることは理解しつつもそれも人生だと思うので、私は一つ一つのことに最大限の力を注ぐようにしています。人間誰しも隣の芝は青く見えたり、今の自分に不満がある部分はあり、難しいですが人と比較しないマインドを持ちつつも、今与えられた仕事や環境に対し、一生懸命向かい様々なことを吸収していくのが若い内は一番だと思いますので、頑張っていって下さい。結びとなりますが、皆様の今後向かわれる分野において成功され、ご家族含め発展されますとともに、東京国際大学の名を世界に広めていかれることを心より祈念しております。 (土谷 恵太郎さんのプロフィール) 1992年浦和学院卒業 1992年東京国際大学 商学部入学 1993年TIUA 1996年東京国際大学 商学部卒業 1996年上松商事㈱入社と同時にニッピンド株式会社へ出向 2000年住商エアロシステム㈱へ転職 2008年欧州住友商事会社(ロンドン)へ転勤 2010年住商エアロシステム㈱へ転勤 2024年各営業部や人事総務部給与チーム長を経験し同社ディフェンスシステム事業第一部 陸上チーム長にて現在に至る TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
土谷 恵太郎さん(1996年 商学部卒業)2024年5月1日現在、住商エアロシステム㈱という商社において防衛関連のビジネスを行っています。海外の動向を探り、今日本に必要もしくは中長期的に必要となるであろう技術の導入に向け客先へ紹介、斡旋を行っています。最終の客先は防衛省となりますが、国内メーカー経由での提案や納入も行っています。現職のビジネス概要はあまり深くを語れないかもしれませんが、卒業後今まで2社を経験し、大先輩との出会い含め今に至るまでの私の体験談が少しでも皆さまのご参考になればと考え、僭越ながら寄稿させていただきます。東京国際大学在学時は交友関係に重きを置くあまり、あまり勉強をする学生ではありませんでしたが、2年次の1993年にTIUAに行かせていただいたことが一番勉強をした時期であり、全くやったことが無かったバスケットボールをWillamette大の体育の授業で選択したことが始めるきっかけにもなりました。また、今も同じ呼び名か分かりませんが、TOMODACHIファミリーのMr. Walter Jonesと30年経った今でも交流があります。奥様のMrs. Glenda Jonesは数年前に亡くなってしまいましたが、彼らの交友関係はとても広く、覚えられないぐらい沢山の方を紹介いただいたことが記憶に残っています。基本週末は彼らと一緒に行動していたのですが、友人のお葬式にも参列するぐらい色々な経験をさせていただきました。卒業後は、丁度就職氷河期で敗戦が多かったものの、大阪に本社を持つ上松商事㈱に採用され、配属が大阪となり、初めて大阪の地に足を踏み入れました。買ったものは忘れましたが、最初に新大阪のキヨスクのおばちゃんに「おおきに」と元気に言われたことが本場、本物の関西弁を初めて聞いた言葉で、今日の出張で新大阪を使う際も昨日の日のように思い出されます。 上松商事㈱ (1社目) 大阪岸和田に本社を置く木材商社となり、インドネシアと関係が強い会社でした。当時はスハルト大統領でしたが、その政権と関係のあるインドネシア合板協会との合弁企業である対日独占輸入業を担うニッピンド㈱へ出向となり、そこで今ではあまり使われないLC等の貿易実務業務の日々を送りました。勤務地は心斎橋でカナダ村に位置していました。余談ですが、カナダ村は今となっては大阪の方も知らない方が多いですが、多少おしゃれなエリアながらアメ村の北側にあるということで、カナダ村と呼ばれていましたので何かの折に話のネタにされてみて下さい。さて、実際の業務ですが、インドネシアから毎月数多くの在来船を貸し切り船舶動静を管理しつつ、様々な種類の合板を大量に輸入し、主に大手総合商社および社内関連製造・加工工場向けに販売していました。我々の卸値価格が毎週月曜の日経新聞に掲載され実質日本の合板価格動向の指標になっていました。合板とはベニヤ板ですが、家の構造用や家具含め多岐に渡り使用されているもので、一見、木の板や製材がそのまま使われているようでも、ほぼ80%以上はベニヤ板が使われています。ちなみに高速道路もコンクリートパネルという型枠合板で作られているので、住宅着工戸数や高速道路建設といった需給により市況が変わっていく商品となります。最終的には1990年代後半にインドネシアで発生した資本収支危機により、International Monetary Fund (IMF)の支援を得るにあたり、IMFからの勧告内容に合板カルテルの廃止という項目が含まれ独占販売権を失うことになりました。商社の根幹とも言える商権を失ったことにより会社が傾くこととなり、最終的には関連会社の製造・加工部門を残し倒産となってしまいました。一方、大阪での生活は業務が早めに終わっていたこともあり、バスケを通して会社以外でも交友関係を広げていき、今も多くの方と交友関係が継続しており、大阪は自分になぜか合っている場所でもあり、また本当に住みたいとも思っています。 住商エアロシステム㈱ (2社目) 1社目の状況により会社を離れ、数か月TOMODACHIファミリーを訪問した際、旧友含め様々な方々と再会できました。そこで英気を養いつつ、今まで経験した貿易実務を前面に押し出し転職活動を行い、面接官と一番フィーリングが合った住商エアロシステム㈱に2000年2月よりお世話になることになりました。今は自社名義で防衛装備品向け商社No.1を狙える立場まで会社規模が大きくなりましたが、当時は親会社である住友商事㈱の業務委託でできる業務の範囲も限られていました。規模が大きくなっていく最中、私は陸上自衛隊 (陸自)向けビジネスを住友商事から住商エアロシステムへ移管するために入社直後住友商事へ出向することになりました。移管後は陸自ビジネスを行いつつ、航空機エンジンのビジネスを行い、その後、航空自衛隊向けと海上自衛隊向けのビジネスを経験し、今に至りますが、前期で陸自ビジネスに関与していた際、2008年より2年強、欧州住友商事会社(ロンドン)へ転勤する機会を得ることができました。現在は入社時に担っていた陸上自衛隊ビジネスに戻り業務拡大に努めていますが、直前には管理部門の総務部で給与チーム長として給与含む社会労務関連を担うとともに、人事や採用も行うことで別視点から会社を見ることができました。防衛業界について少し触れますが、防衛省自衛隊は陸海空に分かれ、最近は統合幕僚監部なる組織もできましたが、それぞれの組織は統合されて運用されるにはまだまだ時間がかかると言っても過言ではありません。陸海空にはそれぞれの文化や哲学があり、私は語ることはできませんが、海自と空自は艦船や航空機といったAssetベースでの運用に対して、陸自が人ベースでの運用となっています。人が主体の陸自へ最新の装備品が全てに行きわたっていることはなく、殆どの部隊が日々古い装備で訓練を行い、有事に対し120%の準備を行い備えています。最近では国会で防衛予算が元々GDP1%だったものを2%にする方針が決まりましたが、かかる周辺諸国との状況を鑑みると防衛のためにマストとして必要になるものであり、我々はその部分において、防衛省や防衛業界へ貢献するというマインドを以って支援していくこと常としています。ビジネスとしてやっていることもあり、利益を追求しがちになりますが、どんなビジネスにも言えるのですが、必要以上に利益を追求することは業界全体の底上げには繋がらず長続きはしませんので、国内メーカー含めた関係各社と長期に渡りWin-Winの関係性構築ができるよう最善のスキーム作りに努めています。ご参考まで、日々の業務は部署にもよりますが、直接見なければならない直属のチーム員が15名いた際は自分の仕事の時間が取れるのが22時以降であったため、毎日終電でしたが、コロナもあり、在宅勤務に必要な備品も備わっていることから、良いかどうか分かりませんが、事務所以外でも事務所同様の仕事ができる環境になったことで、効率的にはなりました。商社は激務と言いますが、そうかもしれません。しかし、その分得ることが多いことも事実ですし、皆いくつか持たれているであろう夢の実現には近づきやすい部分もあると思いますが、健康あってのことだなと最近は多少気遣うようになりました。 (英Airshowにて) ロンドン駐在時代 担当範囲は欧州であり、現地スタッフとなる部員が独デュッセルドルフにいたため、ほぼ毎週出張をしていました。担う業務は欧州側から日本への日々の輸入業務支援以外に日本からの来訪者や海外メーカーとの面談やアテンドといった業務が主でありますが、冒頭で述べた海外の動向を探り、日本に今必要もしくは中長期的に必要となるであろう技術の情報収集を行っていました。多くは語れないことが残念ですが、駐在時代以外に限らず西側諸国で必要なものが得られない場合は当時中欧と呼ばれたチェコやブルガリアにも訪問しその国経由で各種調整が完了するまで帰国できないということもありました。ロンドンでの生活は当時家内と2人だけだったため、家賃の自腹部分が多くなっても交通が便利かつ安全なエリアを選択しました。場所はゴルゴ13に良く出てくることは知らなかったのですがNew Scotland YardがあるSt. James ParkエリアのFlatを選択しました。家内は一人でいることが多かったため、お金は十分でなくてもせめて中心部まで徒歩圏内の飽きない場所を選択しました。その結果、なんだかんだで、帰国までに食器や家具などがかなり増えましたが、二人でお店のみならず、ほぼ無料の美術館・博物館でデザイン性が良いものを見たりすることで、自然と目が肥えつつ、それを日本からの来訪者が求める場所やお店に連れていき、帰国後に来訪者や来訪者から受け取った彼らの家族が喜んでいたと連絡をいただくことは相互に嬉しいことであり、大したことが無いようにも思えますが、かなり重要な部分の一つでもあり、相互にとって長きに渡り良い思い出になり、今もその方々とお会いすると当時の話で盛り上がっていただけることは嬉しく思います。 (ロンドンでの住まい) 嶌末 真さんとの出会い 防衛業界において先輩や後輩と会う機会は数年前に他商社におられた同級生の1回限りでしたが、一昨年度の2022年にワシントンDCで開催される米陸軍協会の年次総会・展示会となるAUSAへ参加する際、社団法人である日本防衛装備工業会 (JADI)が会員の国内メーカーを集いツアーを企画され、当社もそちらを支援することとなりました。防衛関連ビジネスでは情報管理が厳格な業界ですが、個人情報や経歴等を提出する機会が多く、JADI支援に向けやりとりを行ったところ、JADIの窓口が調査部長である嶌末 真さんでした。1985年卒 (教養学部)ということで同窓かつ大先輩であることが判明しました。嶌末さんは元陸上自衛官であり、パキスタンの防衛駐在官も歴任された方です。自衛官には職種というものがあり、陸自に16種類ある職種で通信となり、その分野では陸自内で非常に有名な方であることを知りました。嶌末先輩と呼ばせていただきますが、お互い同業界で大学の先輩・後輩といった経験が多くない中、狭い業界で一緒に仕事をする機会があったことは何かのご縁と考え、お互いに機会を作り頻繁に会うようになりました。そこで様々な情報交換をさせていただいたことは自身の財産となり、この関係は後輩である私から是非とも継続させていただきたいと考えています。嶌末先輩情報について私がこれ以上勝手に述べることはできませんが、卓球において有名な方であるため、ご興味のある方は卓球経由で嶌末先輩との交流も図っていただければと思います (ちなみに私は卓球ほぼできません)。 (米AUSA2022にて) TIU受験生/在校生へのメッセージ 表題で「恩人への感謝と最後までやり抜く想い」と記載しましたが、それぞれ関係しないようですが繋がりがあるものと思っています。「恩人への感謝」は、その都度お世話になる方へ感謝することですが、その後もその方を忘れることなど一度もありませんし、時折様子を確認させていただいています。「最後までやり抜く想い」とは、たまにあのタイミングで転職していていたらどうなっていたかなと思いますが、一度世話になり育てていただいた所属先を自ら裏切るようなことにはならずに済んでいますが、継続は力なりというモットーでやってきました。確かに、自身にとってより評価してくれる転職先を都度のタイミングで選択される方もおり、それを全く否定するものではありませんが、私自身、生き方が上手くない部分もあることは理解しつつもそれも人生だと思うので、私は一つ一つのことに最大限の力を注ぐようにしています。人間誰しも隣の芝は青く見えたり、今の自分に不満がある部分はあり、難しいですが人と比較しないマインドを持ちつつも、今与えられた仕事や環境に対し、一生懸命向かい様々なことを吸収していくのが若い内は一番だと思いますので、頑張っていって下さい。結びとなりますが、皆様の今後向かわれる分野において成功され、ご家族含め発展されますとともに、東京国際大学の名を世界に広めていかれることを心より祈念しております。 (土谷 恵太郎さんのプロフィール) 1992年浦和学院卒業 1992年東京国際大学 商学部入学 1993年TIUA 1996年東京国際大学 商学部卒業 1996年上松商事㈱入社と同時にニッピンド株式会社へ出向 2000年住商エアロシステム㈱へ転職 2008年欧州住友商事会社(ロンドン)へ転勤 2010年住商エアロシステム㈱へ転勤 2024年各営業部や人事総務部給与チーム長を経験し同社ディフェンスシステム事業第一部 陸上チーム長にて現在に至る TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
将来に夢を持ち、TIUの一員として世界でご活躍されることを願っています。
松尾謙一さん (1982年商学部卒業 小峰ゼミ ESS~ELI)2023年12月1日特に自分が九州から出てきた時の大学に対する想いと憧れ=「国際化」を思い出し、若い学生さんたちに将来に夢を持ち、TIUの一員として世界でご活躍を!!との思いで記させて頂きました。以下英語にて失礼します!! 【Mr,Kenichi Matsuo‘s Profile】 Born June 1958 in Kagoshima City, Kumamoto City until high school, then moved to Tokyo to become a member of ICC. Entered ICC (TIU) in April 1978. Komine Seminar (Foreign Exchange, International Finance) ESS~ELI (English Conversation Acquisition Debate Section Chief) I wanted to work in the trading department of a manufacturing company in the future, so I studied English Club, Foreign Exchange, and International Finance. April 1982: Joined Ichikawa Co.,LTD September 1987: Studied abroad in the U.S. (Monterey CA, Houston TX, Atlanta GA) March 1988: Returned to Japan and was assigned to the Overseas Trade Department (thereafter, sales in 24 countries for 20 years until March 2007) After 20 years as a salaried employee, consulted with a board member to challenge an unknown job. April 2008: Assigned to the Internal Audit Department (Appointed as General Manager of the Internal Audit Department in April 2004) Compliance training under management, audits of overseas sales companies, etc. April 2018 While at Ichikawa, established the joint venture Matsu and hosted various events~. Organized various events and study groups in other industries, including a gathering of legendary executive producer Akira Imai, who created 196 Project X on NHK, vice president of the supporters’ association of legendary boxer Hiroyuki Sakamoto, and hosted a recital of a Japanese dancer and other events and study groups in other industries. September 2021: Retired from Ichikawa Corporation and joined Security Service Co. Former NHK executive producer Akira Imai hosts seminars and shares many inspiring experiences with his colleagues. おまけです。最近の活動です。 今後は国際的なイベントに参加することはもちろん、国際的に活躍する人を応援いたします。70歳までは働きたいと思います。 元プロボクサー 坂本博之氏 日本舞踊家 若柳尚雄里(なおゆり)氏 日本舞踊家 若柳尚雄里(なおゆり)氏 大蔵流狂言師善竹十郎氏 ※元プロボクサー坂本氏の後援会副会長、恵まれない子供たちへのボランティア ※日本舞踊家若柳尚雄里氏の日本文化を世界に!の企画・プロデュース ※大蔵流狂言師 善竹十郎 狂言を身近に感じるためのセミナー主催 (松尾謙一さんプロフィール) 1958年6月 鹿児島市生まれ、高校まで熊本市、大学から上京ICCの一員となる。 1978年4月 ICC(現TIU )入学 商学部14期生 小峰ゼミ(外国為替、国際金融論男子20名) ESS~ELI(英会話習得~Debate Section Chief) 1982年4月 市川毛織株式会社入社(現イチカワ株式会社)国内営業部配属 1987年9月 社内米国語学留学(モントレーCA、ヒューストンTX、アトランタGA) 1988年3月 帰国後海外営業部配属(以後2007年3月迄20年間、24か国で営業)リーマン生活20年経て未知の仕事にチャレンジしたく役員に相談し 2008年4月 内部監査室配属(2004年4月から内部監査室長)経営者の下コンプライアンス教育、監査法人と海外販社監査等実施 2018年4月 イチカワ在籍中に合同会社マツを設立し各種イベント主催~。NHKでプロジェクトXを196本作った伝説のエグゼクティブ・プロデューサー今井彰氏の集い、伝説のボクサー坂本博之後援会副会長、日本舞踊家のリサイタル等他業種のイベント・勉強会主催等など主催 2021年9月 イチカワ株式会社後、警備保障勤務兼イベント主催を実施中 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
松尾謙一さん (1982年商学部卒業 小峰ゼミ ESS~ELI)2023年12月1日特に自分が九州から出てきた時の大学に対する想いと憧れ=「国際化」を思い出し、若い学生さんたちに将来に夢を持ち、TIUの一員として世界でご活躍を!!との思いで記させて頂きました。以下英語にて失礼します!! 【Mr,Kenichi Matsuo‘s Profile】 Born June 1958 in Kagoshima City, Kumamoto City until high school, then moved to Tokyo to become a member of ICC. Entered ICC (TIU) in April 1978. Komine Seminar (Foreign Exchange, International Finance) ESS~ELI (English Conversation Acquisition Debate Section Chief) I wanted to work in the trading department of a manufacturing company in the future, so I studied English Club, Foreign Exchange, and International Finance. April 1982: Joined Ichikawa Co.,LTD September 1987: Studied abroad in the U.S. (Monterey CA, Houston TX, Atlanta GA) March 1988: Returned to Japan and was assigned to the Overseas Trade Department (thereafter, sales in 24 countries for 20 years until March 2007) After 20 years as a salaried employee, consulted with a board member to challenge an unknown job. April 2008: Assigned to the Internal Audit Department (Appointed as General Manager of the Internal Audit Department in April 2004) Compliance training under management, audits of overseas sales companies, etc. April 2018 While at Ichikawa, established the joint venture Matsu and hosted various events~. Organized various events and study groups in other industries, including a gathering of legendary executive producer Akira Imai, who created 196 Project X on NHK, vice president of the supporters’ association of legendary boxer Hiroyuki Sakamoto, and hosted a recital of a Japanese dancer and other events and study groups in other industries. September 2021: Retired from Ichikawa Corporation and joined Security Service Co. Former NHK executive producer Akira Imai hosts seminars and shares many inspiring experiences with his colleagues. おまけです。最近の活動です。 今後は国際的なイベントに参加することはもちろん、国際的に活躍する人を応援いたします。70歳までは働きたいと思います。 元プロボクサー 坂本博之氏 日本舞踊家 若柳尚雄里(なおゆり)氏 日本舞踊家 若柳尚雄里(なおゆり)氏 大蔵流狂言師善竹十郎氏 ※元プロボクサー坂本氏の後援会副会長、恵まれない子供たちへのボランティア ※日本舞踊家若柳尚雄里氏の日本文化を世界に!の企画・プロデュース ※大蔵流狂言師 善竹十郎 狂言を身近に感じるためのセミナー主催 (松尾謙一さんプロフィール) 1958年6月 鹿児島市生まれ、高校まで熊本市、大学から上京ICCの一員となる。 1978年4月 ICC(現TIU )入学 商学部14期生 小峰ゼミ(外国為替、国際金融論男子20名) ESS~ELI(英会話習得~Debate Section Chief) 1982年4月 市川毛織株式会社入社(現イチカワ株式会社)国内営業部配属 1987年9月 社内米国語学留学(モントレーCA、ヒューストンTX、アトランタGA) 1988年3月 帰国後海外営業部配属(以後2007年3月迄20年間、24か国で営業)リーマン生活20年経て未知の仕事にチャレンジしたく役員に相談し 2008年4月 内部監査室配属(2004年4月から内部監査室長)経営者の下コンプライアンス教育、監査法人と海外販社監査等実施 2018年4月 イチカワ在籍中に合同会社マツを設立し各種イベント主催~。NHKでプロジェクトXを196本作った伝説のエグゼクティブ・プロデューサー今井彰氏の集い、伝説のボクサー坂本博之後援会副会長、日本舞踊家のリサイタル等他業種のイベント・勉強会主催等など主催 2021年9月 イチカワ株式会社後、警備保障勤務兼イベント主催を実施中 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
技術者の道から写真家の道に。その中で見つけた自分にしか見えないもの。
豊吉雅昭さん(1997年3月卒業 商学部経営情報学科 芝野耕司 ゼミ)2023年8月1日 豊吉雅昭と申します。 私は緑内障に罹患している視覚障害者です。現在では左眼の視野の大半と右目の視野の3割ほどを消失しています。そのため、日常の景色は常に霞がかっており、人の顔は輪郭程度しか認識できません。横断歩道を渡る時に信号が見えないため、ヒヤリとしたことが1度や2度ではありません。色も認識できないものがあり、その為コントラスト差の少ない階段の段差などはわからずに1枚板のように見えます。ですから階段の上り下りには毎度不安を感じています。最近では手書きの文字も読めないことが多くなりました。 そんな私ですが、現在は写真作品を制作する日々を送っています。あることをきっかけに、自分の見え方が自分だけのものであると気づき、この“見えない視界“を写真作品で表現することに取り憑かれました。有難い事に最近ではコンペティションなどでの入賞も増えました。眼にハンデを抱える私がなぜ写真を撮るようになったのか。この場をお借りして少しお話させていただきます。 染まりやすい視界 2.182023年5月 第11回 躍動する現代作家展 入選作品 Staining Visibility 9.112023年4月 LONDON PHOTOGRAPHY AWARD 2022 GOLD WINNER 作品 学生時代 私は1993年に東京国際大学に入学しました。商学部経営情報学科に所属し、コンピュータに強い感心を持っていたこともあって芝野耕司先生のゼミを選びました。秋葉原にあるパソコンショップや現在の川越第1キャンパス1号館の情報処理課でアルバイトをし、パソコンルームに入り浸る。そんな学生でした。この頃は近視ではありましたが眼に問題があったわけではなく、普通に見えていました。TIUAへの留学試験に申し込んだりもしたのですが、ビビリでヘタレの私は試験すら受けませんでしたね。 芝野ゼミでは卒業論文とは別に情報処理学会での論文発表が課されており、3・4年次はこれにかかりきりでした。毎週のゼミでは論文のテーマを芝野先生にプレゼンしていましたが、研究者が持つべき倫理観や偏りのないデータ収集の難しさなど全く知りませんでしたから、思いつきのテーマを発表しては怒られる事を繰り返していましたね。なんとかかんとか、当時普及し始めたばかりのインターネット、この頃はまだまだ出始めの、しかし無数にあるホームページの情報を視覚的に表現するというテーマに辿り着き、「robotとHotsauceを用いた個人Homepage環境管理」という題で発表します。学会発表後に飲んだお酒の美味しかったこと!まあ、なぜか私は飲み過ぎた同期生の介抱をしたりしていたのですが。この時に芝野先生から言われた「発表内容はすべて把握して論文を読むことなく発表すること」が後々に役立つ事になります。 学会発表で使用したOHPスライド 当時使用していた業務ノート私はメモ魔だったのでA3サイズのノートを年に数冊使い切ってました システムエンジニアとしての道 1997年に卒業し、独立系SIerである日本システム技術株式会社に就職します。設計から開発、運用まで一通りの事を身につけ、幾つものシステム開発に携わります。モノづくりに携わりたかった私にとっては天職でした。販売管理システムを主に担当しましたが、一番大きかったのは日本野球機構のプロ野球公式データベースシステム開発を担当したことです。プロ野球の詳細データ、チームの勝敗はもとより打者がどんな球種を打ったのか、エラーの内容や数、投手の勝率や配球など詳細なデータを集計し、各種メディアが利用できるようにしたシステムです。国内で初めての技術を用いて開発したこともあり、メディアの取材を受けるまでになりました。この時は社内で行われていた年次成果発表会でも表彰を受け、学生時代の論文発表がここで活きました。また、サーバー運用などの経験もあったため、東京本社の移転にあたり、移転先での社内インフラ構築なども担当しました。 ビリヤードが好きでよくやりましたこの頃はコンタクトレンズ使用2002年2月ごろ しかし、業務に忙殺されて緑内障に罹患します。この病を甘く見ていた私は治療を怠り、気付かないうちに視野欠損が進行します。また、残業時間も過労死ラインなど遥かに超えた日々を送っていました。家に帰るのが月に3日ほどなんて時期もありましたし。ひどい時は着替えを職場の近くで買って仕事をこなし、家には手付かずの洗濯物が山のようになっていました。だんだん資料の判読に時間がかかるようになり、バグの発生頻度も上がっていきます。技術者としての上達も展望も持てない事に苛立ちを感じ、精神的にも失調をきたし始めた私は2007年に退職します。 一番辛かった時期 退職後に転職先を探しましたが、これが上手くいかない。病歴があるだけでこうも変わるものかと悲しくなりました。なんとか雑貨店でのアルバイトに採用されて数年働きます。ところが2011年。家業を亡くなった父から兄が受け継いでいたのですが、そのうちの一つ、クリーニング取次店を長年勤めていた方が倒れ、急遽私がその後を引き継ぐことになりました。しかし、です。技術畑にいた私にとってはすべてが初めてのことばかり。これブラウス?ロングコートとミドルコートの違いって?なんでこんなにスカートの種類があるの、と苦戦の連続です。何年も預かりっぱなしになっている衣類も少なくなく、でも引き取りに来た時は即渡せないとクレームになり、売り上げも下がる一方でした。家でのゴタゴタも多くなったせいか、緑内障はさらに進行して2015年ごろには汚れている部分の判別すら難しくなりました。結局、外科手技での治療が必要になり、2015年11月に閉店します。当時のクリーニング取次店 2011年8月ごろ 手術、そして絶望 緑内障とは視神経の損傷により視野の消失が進んでいく病気なのですが、残念な事に現代医学では根本治療はもとより、失った視野の回復すらできません。ですので、治療は進行を止める・遅らせる事が主目的です。点眼治療が基本で、大概はこれのみで済みます。ですが私のように進行が止まらない場合、手術治療に移リます。2015年12月上旬に初めて手術を受け、年末に退院後の検査を受けて愕然としました。術前に近い状態まで病状が戻ってしまっていたのです。少し説明すると、緑内障の手術では眼の中にある管に傷をつけ、その傷が治りにくいようにします。眼内の水分を外に流すルートを作り、目が膨れ過ぎないようにして視神経がこれ以上損傷しないようにするんです。しかし傷が治ってしまったり、目詰まりが起きたりすると再び目の圧力が上昇してしまう。手術そのものは無事に終わりましたが、この、言わば元の木阿弥になる人もいるわけです。お先真っ暗とはこの事です。自分の眼はどんどん見えなくなっていくのみ、と人生に絶望した私は引き篭もるようになります。手術直後写真は2020年9月の4度目の手術の時のもの 看護師さん作 入院中薬表 写真は2020年9月の4度目の手術の時のもの 西川悟平氏との出会い 引き篭もり生活を送っていた2016年3月。たまたま見たテレビ番組で“7本指のピアニスト“西川悟平さんの事を知ります。渡米後に指が動かなくなる難病のジストニアに罹患し、その為にピアノが弾けなくなります。しかし彼は、7年にも渡るリハビリの末に動くようになった7本の指で演奏活動を再開。再びピアニストとして世界中で演奏していました。ちなみに彼は2021年開催の東京パラリンピックでトリの演奏を見事に勤めています。彼の演奏をどうしても聴きたくなった私は、カメラを携えて日本でのコンサートに足繁く通うようになります。ありがたいことにリハーサルやコンサートでの撮影をさせてくださるようになり、段々と自分の状況を受け入れられるようになっていきました。ちなみにこの撮影は現在でも続けています。他にも、病気の患者会で同じ境遇の人と関わりを持っていたことも大きかったです。この頃から本格的に写真に傾倒するようになりました。 初めての撮影 (2018年3月撮影)2022年12月NEW YORK PHOTOGRAPHY AWARDS 2022 GOLD WINNER 作品 コンサートのポスター等に使われました。今でもコンサート撮影 2023年5月 リハーサルでないと撮れないですね、こんなの2023年5月 撮影 写真の道へ 2015年から2020年まで、4度の手術を受けつつ写真を撮り続ける中で、自分自身の見え方を前向きに受け入れるようになっていきました。多分にご自身の病気を“ギフト“と称する悟平さんの影響が大きかったですね。私の見ているもの、言わば“見えない視界“が自分だけの唯一無二のものであると捉えられるようになった私は、普段見ている光景を写真で再現するようになります。不思議なもので、自分自身を受け入れられるようになってから写真で結果を出しているんです。写真家の所幸則氏に2010年から師事を受けていますが、コンテストやコンペティションでの入賞できるようになったのはすべて手術後、西川悟平さんと出会ってからです。初めての入選作品2017年 埼玉の下水道フォトコンテスト 2017年の1月に地元、埼玉県のコンテストで初めて賞を獲った時は本当に嬉しかった。学生時代の美術や音楽の成績なんか赤点スレスレでしたから。何より、自分でもできることがあると実感を伴って経験できたのは大きかったです。方法や使う道具を工夫すればできることはあると気づいた私は、“見えない視界“を表現する写真作品を「MONOCLE VISION」と名付けて現在でも撮り続けています。本気で取り組んでいると応援してくれたり支援してくれる人も出てくるもので、写真作品の制作を通じて交流も広がりました。2022年4月には初めての個展を銀座のギャラリーで開催し、限定発売していた写真集は完売に至りました。個展開催後、多重露光という技法(簡単に言うと重ね撮り)で制作する私の写真は、撮って出しが評価される国内では現代美術、海外では写真のコンペティションへの応募にシフトします、2023年は5月までで6つの入賞という結果につながりました。とは言え、まだまだ写真だけで身を立てられているわけではありませんので、まだまだ精進の身です。 個展会場の様子2022年4月 銀座 Art Gallery M84 友人に撮影してもらったプロフィール写真 2023年2月撮影最後に 紆余曲折ありましたが、私は幸せ者です。多くの写真の撮り手が自分のテーマを見つけることに苦労する中、私は自分だけの表現に出会いました。写真評論家の飯沢耕太郎氏に個展で言われたのですが、ハンデとは表現者にとって大きなきっかけになります。別に生活や人生設計が楽になった訳ではありませんが、それは誰でも同じこと。結婚や出産、転職、親の死別など人生の困難ごとは誰にでも起こり得ます。今も芝野耕司先生にはメールで近況を報告しますが、個展開催の時にはお祝いのメッセージをいただきました。一度だけ外語大の方の研究室へ伺った後に訪れ、数時間にもわたって大説教をもらっていたんですけどね。それだけに本当に嬉しかった。本気でやっている事には、本気で答えてくれる人がいる。そんな当たり前の事に気づけた私は本当に幸せ者です。これからも写真の道を歩んでいくつもりです。もしどこかでお会いすることがありましたら、拙作を見てご意見をただければ、とても嬉しいです。 (豊吉雅昭さんプロフィール) 1975年生まれ、埼玉県出身。1997年東京国際大学卒業。在学中はコンピュータに傾倒し、卒業後は日本システム技術株式会社に入社。SEとしてシステム開発に携わる。緑内障による視野欠損が進行し、技術者としての自分に限界を感じて退職。2010年より写真家 所幸則氏に師事。その後も緑内障は進行し2015年から4度の手術を受け、現在では左目にはチューブとプレートが入っている。2022年現在、左目の視野の大半を消失。外科手術を受けるようになって以降、“見えない視界“を表現する作品として「MONOCLE VISION」シリーズの制作を開始。同時期より“7本指のピアニスト“ 西川悟平氏のリハーサルポートレートも撮り始める。主な機材はSony α7III、RICOH GRIIIを使用。2020年8月に緑内障患者/写真家としてNHK Eテレの番組に出演。2022年4月に個展「MONOCLE VISION」を開催。緑内障フレンドネットワーク正会員。 HP https://toyokiti.com Instagram https://www.instagram.com/toyokiti TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
豊吉雅昭さん(1997年3月卒業 商学部経営情報学科 芝野耕司 ゼミ)2023年8月1日 豊吉雅昭と申します。 私は緑内障に罹患している視覚障害者です。現在では左眼の視野の大半と右目の視野の3割ほどを消失しています。そのため、日常の景色は常に霞がかっており、人の顔は輪郭程度しか認識できません。横断歩道を渡る時に信号が見えないため、ヒヤリとしたことが1度や2度ではありません。色も認識できないものがあり、その為コントラスト差の少ない階段の段差などはわからずに1枚板のように見えます。ですから階段の上り下りには毎度不安を感じています。最近では手書きの文字も読めないことが多くなりました。 そんな私ですが、現在は写真作品を制作する日々を送っています。あることをきっかけに、自分の見え方が自分だけのものであると気づき、この“見えない視界“を写真作品で表現することに取り憑かれました。有難い事に最近ではコンペティションなどでの入賞も増えました。眼にハンデを抱える私がなぜ写真を撮るようになったのか。この場をお借りして少しお話させていただきます。 染まりやすい視界 2.182023年5月 第11回 躍動する現代作家展 入選作品 Staining Visibility 9.112023年4月 LONDON PHOTOGRAPHY AWARD 2022 GOLD WINNER 作品 学生時代 私は1993年に東京国際大学に入学しました。商学部経営情報学科に所属し、コンピュータに強い感心を持っていたこともあって芝野耕司先生のゼミを選びました。秋葉原にあるパソコンショップや現在の川越第1キャンパス1号館の情報処理課でアルバイトをし、パソコンルームに入り浸る。そんな学生でした。この頃は近視ではありましたが眼に問題があったわけではなく、普通に見えていました。TIUAへの留学試験に申し込んだりもしたのですが、ビビリでヘタレの私は試験すら受けませんでしたね。 芝野ゼミでは卒業論文とは別に情報処理学会での論文発表が課されており、3・4年次はこれにかかりきりでした。毎週のゼミでは論文のテーマを芝野先生にプレゼンしていましたが、研究者が持つべき倫理観や偏りのないデータ収集の難しさなど全く知りませんでしたから、思いつきのテーマを発表しては怒られる事を繰り返していましたね。なんとかかんとか、当時普及し始めたばかりのインターネット、この頃はまだまだ出始めの、しかし無数にあるホームページの情報を視覚的に表現するというテーマに辿り着き、「robotとHotsauceを用いた個人Homepage環境管理」という題で発表します。学会発表後に飲んだお酒の美味しかったこと!まあ、なぜか私は飲み過ぎた同期生の介抱をしたりしていたのですが。この時に芝野先生から言われた「発表内容はすべて把握して論文を読むことなく発表すること」が後々に役立つ事になります。 学会発表で使用したOHPスライド 当時使用していた業務ノート私はメモ魔だったのでA3サイズのノートを年に数冊使い切ってました システムエンジニアとしての道 1997年に卒業し、独立系SIerである日本システム技術株式会社に就職します。設計から開発、運用まで一通りの事を身につけ、幾つものシステム開発に携わります。モノづくりに携わりたかった私にとっては天職でした。販売管理システムを主に担当しましたが、一番大きかったのは日本野球機構のプロ野球公式データベースシステム開発を担当したことです。プロ野球の詳細データ、チームの勝敗はもとより打者がどんな球種を打ったのか、エラーの内容や数、投手の勝率や配球など詳細なデータを集計し、各種メディアが利用できるようにしたシステムです。国内で初めての技術を用いて開発したこともあり、メディアの取材を受けるまでになりました。この時は社内で行われていた年次成果発表会でも表彰を受け、学生時代の論文発表がここで活きました。また、サーバー運用などの経験もあったため、東京本社の移転にあたり、移転先での社内インフラ構築なども担当しました。 ビリヤードが好きでよくやりましたこの頃はコンタクトレンズ使用2002年2月ごろ しかし、業務に忙殺されて緑内障に罹患します。この病を甘く見ていた私は治療を怠り、気付かないうちに視野欠損が進行します。また、残業時間も過労死ラインなど遥かに超えた日々を送っていました。家に帰るのが月に3日ほどなんて時期もありましたし。ひどい時は着替えを職場の近くで買って仕事をこなし、家には手付かずの洗濯物が山のようになっていました。だんだん資料の判読に時間がかかるようになり、バグの発生頻度も上がっていきます。技術者としての上達も展望も持てない事に苛立ちを感じ、精神的にも失調をきたし始めた私は2007年に退職します。 一番辛かった時期 退職後に転職先を探しましたが、これが上手くいかない。病歴があるだけでこうも変わるものかと悲しくなりました。なんとか雑貨店でのアルバイトに採用されて数年働きます。ところが2011年。家業を亡くなった父から兄が受け継いでいたのですが、そのうちの一つ、クリーニング取次店を長年勤めていた方が倒れ、急遽私がその後を引き継ぐことになりました。しかし、です。技術畑にいた私にとってはすべてが初めてのことばかり。これブラウス?ロングコートとミドルコートの違いって?なんでこんなにスカートの種類があるの、と苦戦の連続です。何年も預かりっぱなしになっている衣類も少なくなく、でも引き取りに来た時は即渡せないとクレームになり、売り上げも下がる一方でした。家でのゴタゴタも多くなったせいか、緑内障はさらに進行して2015年ごろには汚れている部分の判別すら難しくなりました。結局、外科手技での治療が必要になり、2015年11月に閉店します。当時のクリーニング取次店 2011年8月ごろ 手術、そして絶望 緑内障とは視神経の損傷により視野の消失が進んでいく病気なのですが、残念な事に現代医学では根本治療はもとより、失った視野の回復すらできません。ですので、治療は進行を止める・遅らせる事が主目的です。点眼治療が基本で、大概はこれのみで済みます。ですが私のように進行が止まらない場合、手術治療に移リます。2015年12月上旬に初めて手術を受け、年末に退院後の検査を受けて愕然としました。術前に近い状態まで病状が戻ってしまっていたのです。少し説明すると、緑内障の手術では眼の中にある管に傷をつけ、その傷が治りにくいようにします。眼内の水分を外に流すルートを作り、目が膨れ過ぎないようにして視神経がこれ以上損傷しないようにするんです。しかし傷が治ってしまったり、目詰まりが起きたりすると再び目の圧力が上昇してしまう。手術そのものは無事に終わりましたが、この、言わば元の木阿弥になる人もいるわけです。お先真っ暗とはこの事です。自分の眼はどんどん見えなくなっていくのみ、と人生に絶望した私は引き篭もるようになります。手術直後写真は2020年9月の4度目の手術の時のもの 看護師さん作 入院中薬表 写真は2020年9月の4度目の手術の時のもの 西川悟平氏との出会い 引き篭もり生活を送っていた2016年3月。たまたま見たテレビ番組で“7本指のピアニスト“西川悟平さんの事を知ります。渡米後に指が動かなくなる難病のジストニアに罹患し、その為にピアノが弾けなくなります。しかし彼は、7年にも渡るリハビリの末に動くようになった7本の指で演奏活動を再開。再びピアニストとして世界中で演奏していました。ちなみに彼は2021年開催の東京パラリンピックでトリの演奏を見事に勤めています。彼の演奏をどうしても聴きたくなった私は、カメラを携えて日本でのコンサートに足繁く通うようになります。ありがたいことにリハーサルやコンサートでの撮影をさせてくださるようになり、段々と自分の状況を受け入れられるようになっていきました。ちなみにこの撮影は現在でも続けています。他にも、病気の患者会で同じ境遇の人と関わりを持っていたことも大きかったです。この頃から本格的に写真に傾倒するようになりました。 初めての撮影 (2018年3月撮影)2022年12月NEW YORK PHOTOGRAPHY AWARDS 2022 GOLD WINNER 作品 コンサートのポスター等に使われました。今でもコンサート撮影 2023年5月 リハーサルでないと撮れないですね、こんなの2023年5月 撮影 写真の道へ 2015年から2020年まで、4度の手術を受けつつ写真を撮り続ける中で、自分自身の見え方を前向きに受け入れるようになっていきました。多分にご自身の病気を“ギフト“と称する悟平さんの影響が大きかったですね。私の見ているもの、言わば“見えない視界“が自分だけの唯一無二のものであると捉えられるようになった私は、普段見ている光景を写真で再現するようになります。不思議なもので、自分自身を受け入れられるようになってから写真で結果を出しているんです。写真家の所幸則氏に2010年から師事を受けていますが、コンテストやコンペティションでの入賞できるようになったのはすべて手術後、西川悟平さんと出会ってからです。初めての入選作品2017年 埼玉の下水道フォトコンテスト 2017年の1月に地元、埼玉県のコンテストで初めて賞を獲った時は本当に嬉しかった。学生時代の美術や音楽の成績なんか赤点スレスレでしたから。何より、自分でもできることがあると実感を伴って経験できたのは大きかったです。方法や使う道具を工夫すればできることはあると気づいた私は、“見えない視界“を表現する写真作品を「MONOCLE VISION」と名付けて現在でも撮り続けています。本気で取り組んでいると応援してくれたり支援してくれる人も出てくるもので、写真作品の制作を通じて交流も広がりました。2022年4月には初めての個展を銀座のギャラリーで開催し、限定発売していた写真集は完売に至りました。個展開催後、多重露光という技法(簡単に言うと重ね撮り)で制作する私の写真は、撮って出しが評価される国内では現代美術、海外では写真のコンペティションへの応募にシフトします、2023年は5月までで6つの入賞という結果につながりました。とは言え、まだまだ写真だけで身を立てられているわけではありませんので、まだまだ精進の身です。 個展会場の様子2022年4月 銀座 Art Gallery M84 友人に撮影してもらったプロフィール写真 2023年2月撮影最後に 紆余曲折ありましたが、私は幸せ者です。多くの写真の撮り手が自分のテーマを見つけることに苦労する中、私は自分だけの表現に出会いました。写真評論家の飯沢耕太郎氏に個展で言われたのですが、ハンデとは表現者にとって大きなきっかけになります。別に生活や人生設計が楽になった訳ではありませんが、それは誰でも同じこと。結婚や出産、転職、親の死別など人生の困難ごとは誰にでも起こり得ます。今も芝野耕司先生にはメールで近況を報告しますが、個展開催の時にはお祝いのメッセージをいただきました。一度だけ外語大の方の研究室へ伺った後に訪れ、数時間にもわたって大説教をもらっていたんですけどね。それだけに本当に嬉しかった。本気でやっている事には、本気で答えてくれる人がいる。そんな当たり前の事に気づけた私は本当に幸せ者です。これからも写真の道を歩んでいくつもりです。もしどこかでお会いすることがありましたら、拙作を見てご意見をただければ、とても嬉しいです。 (豊吉雅昭さんプロフィール) 1975年生まれ、埼玉県出身。1997年東京国際大学卒業。在学中はコンピュータに傾倒し、卒業後は日本システム技術株式会社に入社。SEとしてシステム開発に携わる。緑内障による視野欠損が進行し、技術者としての自分に限界を感じて退職。2010年より写真家 所幸則氏に師事。その後も緑内障は進行し2015年から4度の手術を受け、現在では左目にはチューブとプレートが入っている。2022年現在、左目の視野の大半を消失。外科手術を受けるようになって以降、“見えない視界“を表現する作品として「MONOCLE VISION」シリーズの制作を開始。同時期より“7本指のピアニスト“ 西川悟平氏のリハーサルポートレートも撮り始める。主な機材はSony α7III、RICOH GRIIIを使用。2020年8月に緑内障患者/写真家としてNHK Eテレの番組に出演。2022年4月に個展「MONOCLE VISION」を開催。緑内障フレンドネットワーク正会員。 HP https://toyokiti.com Instagram https://www.instagram.com/toyokiti TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
約半世紀かけたグローバルビジネス。いまだ珍道中!
保井 和毅さん(1982年商学部卒業 小峯ゼミ ELI(English Language Institute)2023年7月1日TIUとウイラメット大学1978年4月に国際商科大学(TIU)に入学しました。当時は、外国の歴史、国際関係の理解深堀と必要な語学力を高めグローバル人になりたい思いが漠然とありましたが、特に専門の学行などに行くこともなくマイペースな独学で英語など勉強していました。 2年時の夏休みにアルバイトで貯めたお金でリンガフォンと言う英語教材を購入し、ややスイッチが入った感がありました。3年時からは小峯ゼミで国際金融論を専攻しました。当時の欧州通貨制度関連の文書を読まされましたが、現在の共通通貨ユーロへの生みの苦しみなどの流れが概念的に理解出来ました。 それと、並行し中学から始めた陸上競技(短距離)を継続していました。残念ながら、当時のTIUには陸上競技部がなく、近くの入間川グランドでの自主トレからの出発です。 幸いに、英語はELI(English Language Institute)、陸上は小川町のチームからお誘いがありようやくメンバとしての活動が叶いました。 1980年夏のウ大のスカラシップを受験したのですが、確か最後の3名まで残り、自分以外の2名が公費留学生に採用されました。その2名の中の1名が同郷の兵庫県立芦屋高校出身の和田昇君で、就職後現在も付き合いが続いています。当方も、御慰めで夏季セミナーの奨学金を頂く事出来たのでが、当然参加させていただきました。 (ウ大でカウンセラーをしていただいたJudyさんと。小柄でチャーミングでテニスが上手な方でした。英語の発音をバッチリと叩き込まれました。英会話は、かなり自信がつきました。) 就職活動1982年の就職戦線は、TIU全体でも好調だったと思います。小峯ゼミでは、東京海上、三菱商事、三菱銀行など大手超一流企業の内定者が続出しました。当方も、運よく日本電気、キャノン、City Bankなど複数社で内定を頂きました。悩んだ末、当時理系・文系男子人気ナンバーワンの日本電気に入社する事にしました。日本電気には、1名だけTIUのOBの方がおられ、自分以降も続いて欲しいなと感じていましたし、入社後数年間は毎年数名の在学生がOB訪問として当方へ来られていました。1名の方が入社されたのは記憶がありますが、残念ながら途中で退職されています。 今は、当時とは大分事情が違うと思いますが、入社したらどこの大学出身とか関係ないと思います。すべて、ゼロスタートで個人の成長に委ねる事が非常に大きいと感じています。 咋今の学歴フィルータは、受け入れ企業側が効率を優先(応募の数を絞る)するには仕方がない方法ですが、実力のあるB,Cランク大学の学生に取り残念な手段だと思います。ただ、今は個人の情報発信がかなり自由に出来るので、いい意味で目立つ活動を在学中にされたらいいと思います。パフォーマンスは処世術として姑息な手段とも取れますが、会社に入っても重要となります。 日本電気入社前半は半導体ビジネス:1982年に入社後、すぐに半導体事業グループの当時の最先端半導体の工場の管理部門に配属されました。希望していた海外営業でなく暫くふて腐れていましたが、モノ作り側なので表面的ですが技術あるいは供給側のサプライチェーンなどの理解に役立ちました。 当時NECは半導体世界ナンバーワンで、毎年海外の工場の大型投資を進めており、その仕事に関われたこともモチベーションの向上に繋がりました。当時は、海外ビジネスに携われる人材が不足しており、入社2-3年の当方も数億円の投資企画書の作成を自ら作成せざるを得ない状況でした。地球儀を俯瞰しながら、グローバルサプライチェーンの最適を上司・仲間と検討する日々でした。 入社当時のNEC相模原事業場です。当時最先端の6インチウエハーの工場でした。この様な工場が、日本のみならず、北米、欧州、シンガポール等で複数稼働していました) 最初の転機は、結婚後の1988年です。上司から、UKの工場の管理部門に行かないかとの打診がありました。ただ、マーケットに向かい合いたい希望が擽っていたので営業部門への異動を希望し、北米向けの半導体営業への異動が実現しました。ASICと言うカスタム(顧客用途別)LSIの担当となり、米国法人の営業と連携しIBM、AT&Tなど大手ICT顧客からDesign win獲得のため出張などを重ねながらビジネスの拡大を進めました。当時は、係長でしたが年商50億円+の予算が与えられていました。営業は顧客が優先ですが、モノ作り部門出身というサプライサイドでの経験は大いに役たちました。 ビジネスは、Market in であつてProduct outではだめだ(主にB2Bですが)とよく言われますが、十分な供給側のマーケティング、高い技術力のある分野では後者も通じると思います。素材、部品など一部の日本企業はproducts outパターンでも対応出来ますが、それ以外の分野は厳しくなりました。 その後、北米の半導体販売会社への駐在の話などもありましたが、今度は海外営業グループの企画・新規ビジネス関連部門への異動が命ぜられました。バブル後に、会社として海外含めて売る新製品が不足する大変な時期でした。カラー液晶の海外営業組織が立ちあがり、営業での再登板となりました。この製品も、やはり日系の大手企業が複数参入してきました。当初から、いずれ台湾・韓国勢に追い抜かれると言う半導体事業と同じ構図がグローバルでも描かれていました。 営業アプローチは、シンプルで従来のCRT(ブラウン管)モニタを使用している業種・顧客への売り込みです。主に、PC、Work station、POCレジなどのメーカであるApple, Compaq, Dell, Sun Micro,台湾系PC OEM,NCRと測定器などのTechtronics, Agirentなどが主要顧客です。現地営業の日々の営業活動と日本からの新規技術紹介などを連動させ事業拡大を進めました。 ただ、IBMはPCビジネスのHQが神奈川県大和市にあり、そこの開発購買へのアプローチが重要です。日本での直販は初めてでしたが、これがまた楽しく社会人人生後半へ生かすことが出来たと(今から振り返って)感じます。本来、海外市場で営業活動するのがグローバルと捉えていたのが、日本も含めての活動がグローバルとの概念へと軌道修正した瞬間でした。確か、世の中も「海外、国際」から「グローバル」と言う言葉が使用された時期でした。 (三田にあるNEC本社ビル。本社スタッフ、営業部門が集結しています。) 後半はICTビジネス1990年代後半から、米国のパソコンメーカ、Microsoftなどが一気に日本へ参入して来て、IT、情報化と言う言葉が広く使用されだしました。日本の半導体メーカの凋落が始まった時期でした。転職なども考え、Intel社まどから内定がもらえましたが、最終的には社内公募制度で情報システム部門へ異動しました。これは、専業企業では転職そのもので、すべて一からの出直しを覚悟し臨みました。 組織デザインも全然別で、全ての損益責任はフロントの営業が持つ仕組みです。ご存知の通リ日本のIT企業の多くは自社製品単品のビジネスモデルでなく、仕入れ製品、SE(System Engineer)のシステム開発費用、アフターサービス等含めたSystem integrationモデルです。これは、日本独特のモデルで、後々グローバル化が上手く進まないと言う事に気ずく事になります。大変なとこに来たなと感じました。 異動先の事業部長と相談し、最初は勉強も兼ねSE部門のプリセールスとしてERP(Enterprise Resource Planning)ソフトおよびSystem Integrationの拡販を進めました。ERPソフトは従来の汎用機(大型コンピュータ)上ですべて個別開発していたシステムに代わる業務パッケージソフトです。基本的な業務プロセスは、Pre Packageされているので開発工数の低減と早期導入が可能と言うのがうたい文句です。ただ、お客様の生産管理、販売管理などの理解がないと追加開発領域が多くなるので、業務コンサル的なサービスが必要となります。 当方が、異動出来たのは半導体中心ですが、生産、販売、グローバルの経験があり、それなりにお客様先で語れるのが大きな理由だったと思います。担当は、日本の大手製造業でしたので、当然システムもグローバル展開が条件となります。ここで、ようやく得意と感じていたグローバルが出てくるわけです。 ただ、お客様が製造業と言う事もあり、東南アジア、中国の工場システム案件が多く一度は欧米から離れる事になります。海外出張でお客様の情報システムの方に会うと、その方の同期の東京の何処の誰だれはどうしているか・・。など宴席で聞かれながら商談をしたことが多々あります。日本人全般ですが、海外にいると本社情報が少なくなり気になるのでしょう。お客様本体との間柄を上手くブリッジするのも営業の役目です。本当に、Domesticなグローバルビジネスでした。 新事業を担当した時期もありました。RFID(Radio Frequency Identification)ソリューションの立ち上げの際には、米国のWal Mart様に大胆にも出向きました。彼らの商品の入出庫、倉庫業務の効率化システムの提案を行うのが目的です。何度もアーカンサスにある本社に足を運びました。結局、現地体制が上手く出来ず受注には至らずでした。しかし、世界ナンバーワンの企業と仕事が出来たのは自分含めてメンバにもいい経験だったと思います。 ドイツ企業とのアライアンスと駐在:その後、社内でもIT部門のグローバル化の推進と外資大手企業とのアライアンス推進の動きが加速し始めました。双方のマーケット(顧客)を連携して深掘する戦略です。綺麗な絵ですが、現場の営業レベルに落ちるとドロドロした事となります。そのような状況の中で、2008年の春頃に上司の事業本部長から突然ドイツのSAP社とアライアンスと市場開拓の目的でドイツに行くよう命じられました。 理由は、「欧米でIT関連の仕事を任せられるのはお前しかいない」との事でした。エレベータ内のやり取りで周りの連中も聞いていました。あえて、その場を利用したのでしょう。すでに、現地組織の立上げスケジュールも確定し、メンバもほぼ確定していた様でしたが、マネジメント、対外折衝、営業活動など雑用役として白羽の矢が立ちました。 時間が無い中で、組織の役割、企画案など作成し関連部門と調整しコメントを貰おうとしましたが、誰も経験が無いのでいい回答が得られませんでした。不満と不安が募り、辞令を拝命した例の上司に話したところ、目の覚めるような返事が返ってきました。「気持ちは分かるが、お前が不安になれば皆が不安になる・・・・」。これは、上司との信頼関係が構築されており、すべて思った通リにやれと言う内容として励みになりました。駐在は、いろいろ家族とも話し合いましたが子供の教育などもあり単身で行くことになりました。 (40歳後半で単身赴任前の家族での送別会です。もう少し、時期が早ければとも思いましたが・・。) 2008年7月14日に現地に到着し、ドイツ南西部Baden-Württemberg州のマンハイムと言う町に住む事にしました。人口40万の中堅都市でしたが、職場、フランクフルトなどへのアクセスもよく快適な暮らしができました。 (マンハイムのダウンタウンの入り口の公園です。季節の色とりどりの花が美しく クリスマス・マーケッとも開催されます。) 業務は、事務所立上げから始まり現地法人内での組織、ITシステムの適用、エンジニア用のコンピュータルーム、IT機器・事務機など調達、ドイツ人秘書の採用など一からです。次は、日本から帯同したエンジニアの仕事の内容を本社、他地域のメンバと調整しながら進めました。SAPと言うグローバル業務ソフトにNECのソリューションを連携しグローバルで売れるようにする仕組み作りです。当然、SAP本社、関連するITパートナへの連携も重要です。ほとんど、部下とパートナなどのモチベーション向上の仕掛け作りが仕事です。 一方、自分としては、やはり営業ですので日系のお客様が中心になりますが現地での市場開拓に邁進しました。10人弱の組織で対外的に如何に影響力を持たせるかが重要な役割です。営業も、SAPのような大きなシステムは東京本社含めたお客様コンタクト無ではそうは売れるわけではないので、適時東京に戻り東京の営業との顧客訪問などを行いました。ドイツ顧客に対しては、手離れがいい商材を本社から持ち込みドイツ企業などへアプローチをかけました。先日も、当時のドイツのお客様の社長とコンタクトしたりして、ネッとワークは今でも役立っています。 また、欧州のIT企業への出資などの戦略も本社側で検討していた時期で、何社かの評価など本社の企画部門の方と進めました。ご存じの方も多いかと思いますが、日系IT企業が得意としているのは単品の販売ではなくSystem Integrationです。お客様の、戦略ならびに業務を理解しITで課題解決を提案する内容です。その為、各地域、国のお客様自身のビジネスが理解出来ているIT会社を買収するのが手っ取り早くなります。競争力のあるハードウェア製品を保有している企業に比べ、グローバル化の難易度が一段と上がります。ただ、現地でしか出来ない経験が出来たのは、僅かな成功体験よりよかったと思います。 また、余暇の話は腐るほどあるのですが割愛させていただきますが、一点前述の和田昇君もPanasonicの社員としてドイツのハンブルグに同時期に駐在されており偶にフランクフルトで合流しました。現在も交流が続いています。 2012年の春に帰任する事になりますが、ドイツ駐在で得た経験、人脈がその後役立つ事になります。帰国後は、中華圏APAC営業本部で大洋州・シンガポール地域の営業とITソリューション軸で本部責任を担う事になりました。 方針はシンプルで、シンガポールにSAP, MicrosoftのERP要員がいましたので、彼らの体制強化と他のAPAC地域へのビジネス展開です。上記のERP製品は他社製品ですのでプラスで自社製品、例えばPOS端末などと連携した流通業向けSystem integrationメニューの強化などを行いました。欧米に比べ、アジアは多少日本と近いITビジネスモデルがあるのとNECの企業バリューが高いので、数字は上がりました。 2014年には、国際情報化協力センタ(CICC:Center of the International Corporation of Computerization)を兼務しました。ここは、元経済産業省の外郭団体で日本の大手IT企業の参画をベースに東南アジアを中心にICTの協力、企業側としてはODAなど国際協力資金を活用したビジネスの拡大を推進する組織です。すでに、55歳になっていたのでNECでの最後の楽しみ場所と考え、好きな様にさせてもらいました。海外の政府機関との折衝などは初めての経験で勉強になりました。CICCの名目でNECの災害、防衛、サイバーセキュリティなどの提案を行い、実証なども行いました。内戦前のミャンマーとかバングラディシュ、カンボジアなどの警察・軍関係の方々面会出来たのは貴重な経験でした。 NEC卒業後と現在最終的には、2019年にNECを予定通り退職しましたが、帰任後も、ドイツ関連の方々とのネットワークを大切にしてきたので、その腐れ縁が思いもよらぬ方向へ進みました。 現在は、駐在中に名刺交換をさせていただいたドイツの人材会社のご紹介もありELATEC GmbHの日本代表(と言つても小所帯ですが)をさせて頂いています。日本市場の立ち上げに日本企業の本社とのアライアンス、新規市場開拓です。コロナ下で、なかなか本社のミュンヘンには行けませんでしたが、昨年の10月のお客様セミナ+Oktober Festでの打ち上げに入社前面接以来久々に行く事が出来ました。 (現会社のお客様向けセミナおよびイベントに参加、2022年10月) 長々と、お付き合いいただきありがとうございました。最後になりますが、振り返り自分の歩いたグローバルビジネスは、遠回りしながらも多数の方々に支えられて来たのだと思います。 何十年も外国でご活躍されている優秀な方とは違い、日本国内の営業も経験出来たのが現職の外資系企業では評価されたのかも知れません。特に、これから社会人になられる方は人生長丁場となります。数年で成果が出ず悩んだ時は、焦らずに一呼吸おいて自問しながら再スタートを切って下さい。 (保井和毅さんプロフィール) 1977年3月兵庫県西宮高等学校卒業 1978年4月国際商科大学商学部入学(小峯ゼミ/ELI: English Language Institute) 1982年3月同校卒業 1982年4月日本電気株式会社入社 第一LSI事業部計画部配属 1986年6月半導体企画室海外推進部異動 1990年6月北米電子デバイス部異動 1999年6月製造装置ソリューション事業部(ITシステム営業)移動 2008年6月NEC Europe Ltd. NEC SAP Solution Center(ドイツ)駐在 2012年6月APAC営業本部へ帰任(ITソリューション全体統括) 2016年4月財団法人 国際情報化協力センタ(CICC)兼務 2019年4月日本電気株式会社退職 2019年5月~2020年5月日欧ビジネス開拓コンサル 2020年6月ELATEC GmbH日本代表就任 2022年9月ドイツECOSコンサルティング 特別顧問就任(副業) TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
保井 和毅さん(1982年商学部卒業 小峯ゼミ ELI(English Language Institute)2023年7月1日TIUとウイラメット大学1978年4月に国際商科大学(TIU)に入学しました。当時は、外国の歴史、国際関係の理解深堀と必要な語学力を高めグローバル人になりたい思いが漠然とありましたが、特に専門の学行などに行くこともなくマイペースな独学で英語など勉強していました。 2年時の夏休みにアルバイトで貯めたお金でリンガフォンと言う英語教材を購入し、ややスイッチが入った感がありました。3年時からは小峯ゼミで国際金融論を専攻しました。当時の欧州通貨制度関連の文書を読まされましたが、現在の共通通貨ユーロへの生みの苦しみなどの流れが概念的に理解出来ました。 それと、並行し中学から始めた陸上競技(短距離)を継続していました。残念ながら、当時のTIUには陸上競技部がなく、近くの入間川グランドでの自主トレからの出発です。 幸いに、英語はELI(English Language Institute)、陸上は小川町のチームからお誘いがありようやくメンバとしての活動が叶いました。 1980年夏のウ大のスカラシップを受験したのですが、確か最後の3名まで残り、自分以外の2名が公費留学生に採用されました。その2名の中の1名が同郷の兵庫県立芦屋高校出身の和田昇君で、就職後現在も付き合いが続いています。当方も、御慰めで夏季セミナーの奨学金を頂く事出来たのでが、当然参加させていただきました。 (ウ大でカウンセラーをしていただいたJudyさんと。小柄でチャーミングでテニスが上手な方でした。英語の発音をバッチリと叩き込まれました。英会話は、かなり自信がつきました。) 就職活動1982年の就職戦線は、TIU全体でも好調だったと思います。小峯ゼミでは、東京海上、三菱商事、三菱銀行など大手超一流企業の内定者が続出しました。当方も、運よく日本電気、キャノン、City Bankなど複数社で内定を頂きました。悩んだ末、当時理系・文系男子人気ナンバーワンの日本電気に入社する事にしました。日本電気には、1名だけTIUのOBの方がおられ、自分以降も続いて欲しいなと感じていましたし、入社後数年間は毎年数名の在学生がOB訪問として当方へ来られていました。1名の方が入社されたのは記憶がありますが、残念ながら途中で退職されています。 今は、当時とは大分事情が違うと思いますが、入社したらどこの大学出身とか関係ないと思います。すべて、ゼロスタートで個人の成長に委ねる事が非常に大きいと感じています。 咋今の学歴フィルータは、受け入れ企業側が効率を優先(応募の数を絞る)するには仕方がない方法ですが、実力のあるB,Cランク大学の学生に取り残念な手段だと思います。ただ、今は個人の情報発信がかなり自由に出来るので、いい意味で目立つ活動を在学中にされたらいいと思います。パフォーマンスは処世術として姑息な手段とも取れますが、会社に入っても重要となります。 日本電気入社前半は半導体ビジネス:1982年に入社後、すぐに半導体事業グループの当時の最先端半導体の工場の管理部門に配属されました。希望していた海外営業でなく暫くふて腐れていましたが、モノ作り側なので表面的ですが技術あるいは供給側のサプライチェーンなどの理解に役立ちました。 当時NECは半導体世界ナンバーワンで、毎年海外の工場の大型投資を進めており、その仕事に関われたこともモチベーションの向上に繋がりました。当時は、海外ビジネスに携われる人材が不足しており、入社2-3年の当方も数億円の投資企画書の作成を自ら作成せざるを得ない状況でした。地球儀を俯瞰しながら、グローバルサプライチェーンの最適を上司・仲間と検討する日々でした。 入社当時のNEC相模原事業場です。当時最先端の6インチウエハーの工場でした。この様な工場が、日本のみならず、北米、欧州、シンガポール等で複数稼働していました) 最初の転機は、結婚後の1988年です。上司から、UKの工場の管理部門に行かないかとの打診がありました。ただ、マーケットに向かい合いたい希望が擽っていたので営業部門への異動を希望し、北米向けの半導体営業への異動が実現しました。ASICと言うカスタム(顧客用途別)LSIの担当となり、米国法人の営業と連携しIBM、AT&Tなど大手ICT顧客からDesign win獲得のため出張などを重ねながらビジネスの拡大を進めました。当時は、係長でしたが年商50億円+の予算が与えられていました。営業は顧客が優先ですが、モノ作り部門出身というサプライサイドでの経験は大いに役たちました。 ビジネスは、Market in であつてProduct outではだめだ(主にB2Bですが)とよく言われますが、十分な供給側のマーケティング、高い技術力のある分野では後者も通じると思います。素材、部品など一部の日本企業はproducts outパターンでも対応出来ますが、それ以外の分野は厳しくなりました。 その後、北米の半導体販売会社への駐在の話などもありましたが、今度は海外営業グループの企画・新規ビジネス関連部門への異動が命ぜられました。バブル後に、会社として海外含めて売る新製品が不足する大変な時期でした。カラー液晶の海外営業組織が立ちあがり、営業での再登板となりました。この製品も、やはり日系の大手企業が複数参入してきました。当初から、いずれ台湾・韓国勢に追い抜かれると言う半導体事業と同じ構図がグローバルでも描かれていました。 営業アプローチは、シンプルで従来のCRT(ブラウン管)モニタを使用している業種・顧客への売り込みです。主に、PC、Work station、POCレジなどのメーカであるApple, Compaq, Dell, Sun Micro,台湾系PC OEM,NCRと測定器などのTechtronics, Agirentなどが主要顧客です。現地営業の日々の営業活動と日本からの新規技術紹介などを連動させ事業拡大を進めました。 ただ、IBMはPCビジネスのHQが神奈川県大和市にあり、そこの開発購買へのアプローチが重要です。日本での直販は初めてでしたが、これがまた楽しく社会人人生後半へ生かすことが出来たと(今から振り返って)感じます。本来、海外市場で営業活動するのがグローバルと捉えていたのが、日本も含めての活動がグローバルとの概念へと軌道修正した瞬間でした。確か、世の中も「海外、国際」から「グローバル」と言う言葉が使用された時期でした。 (三田にあるNEC本社ビル。本社スタッフ、営業部門が集結しています。) 後半はICTビジネス1990年代後半から、米国のパソコンメーカ、Microsoftなどが一気に日本へ参入して来て、IT、情報化と言う言葉が広く使用されだしました。日本の半導体メーカの凋落が始まった時期でした。転職なども考え、Intel社まどから内定がもらえましたが、最終的には社内公募制度で情報システム部門へ異動しました。これは、専業企業では転職そのもので、すべて一からの出直しを覚悟し臨みました。 組織デザインも全然別で、全ての損益責任はフロントの営業が持つ仕組みです。ご存知の通リ日本のIT企業の多くは自社製品単品のビジネスモデルでなく、仕入れ製品、SE(System Engineer)のシステム開発費用、アフターサービス等含めたSystem integrationモデルです。これは、日本独特のモデルで、後々グローバル化が上手く進まないと言う事に気ずく事になります。大変なとこに来たなと感じました。 異動先の事業部長と相談し、最初は勉強も兼ねSE部門のプリセールスとしてERP(Enterprise Resource Planning)ソフトおよびSystem Integrationの拡販を進めました。ERPソフトは従来の汎用機(大型コンピュータ)上ですべて個別開発していたシステムに代わる業務パッケージソフトです。基本的な業務プロセスは、Pre Packageされているので開発工数の低減と早期導入が可能と言うのがうたい文句です。ただ、お客様の生産管理、販売管理などの理解がないと追加開発領域が多くなるので、業務コンサル的なサービスが必要となります。 当方が、異動出来たのは半導体中心ですが、生産、販売、グローバルの経験があり、それなりにお客様先で語れるのが大きな理由だったと思います。担当は、日本の大手製造業でしたので、当然システムもグローバル展開が条件となります。ここで、ようやく得意と感じていたグローバルが出てくるわけです。 ただ、お客様が製造業と言う事もあり、東南アジア、中国の工場システム案件が多く一度は欧米から離れる事になります。海外出張でお客様の情報システムの方に会うと、その方の同期の東京の何処の誰だれはどうしているか・・。など宴席で聞かれながら商談をしたことが多々あります。日本人全般ですが、海外にいると本社情報が少なくなり気になるのでしょう。お客様本体との間柄を上手くブリッジするのも営業の役目です。本当に、Domesticなグローバルビジネスでした。 新事業を担当した時期もありました。RFID(Radio Frequency Identification)ソリューションの立ち上げの際には、米国のWal Mart様に大胆にも出向きました。彼らの商品の入出庫、倉庫業務の効率化システムの提案を行うのが目的です。何度もアーカンサスにある本社に足を運びました。結局、現地体制が上手く出来ず受注には至らずでした。しかし、世界ナンバーワンの企業と仕事が出来たのは自分含めてメンバにもいい経験だったと思います。 ドイツ企業とのアライアンスと駐在:その後、社内でもIT部門のグローバル化の推進と外資大手企業とのアライアンス推進の動きが加速し始めました。双方のマーケット(顧客)を連携して深掘する戦略です。綺麗な絵ですが、現場の営業レベルに落ちるとドロドロした事となります。そのような状況の中で、2008年の春頃に上司の事業本部長から突然ドイツのSAP社とアライアンスと市場開拓の目的でドイツに行くよう命じられました。 理由は、「欧米でIT関連の仕事を任せられるのはお前しかいない」との事でした。エレベータ内のやり取りで周りの連中も聞いていました。あえて、その場を利用したのでしょう。すでに、現地組織の立上げスケジュールも確定し、メンバもほぼ確定していた様でしたが、マネジメント、対外折衝、営業活動など雑用役として白羽の矢が立ちました。 時間が無い中で、組織の役割、企画案など作成し関連部門と調整しコメントを貰おうとしましたが、誰も経験が無いのでいい回答が得られませんでした。不満と不安が募り、辞令を拝命した例の上司に話したところ、目の覚めるような返事が返ってきました。「気持ちは分かるが、お前が不安になれば皆が不安になる・・・・」。これは、上司との信頼関係が構築されており、すべて思った通リにやれと言う内容として励みになりました。駐在は、いろいろ家族とも話し合いましたが子供の教育などもあり単身で行くことになりました。 (40歳後半で単身赴任前の家族での送別会です。もう少し、時期が早ければとも思いましたが・・。) 2008年7月14日に現地に到着し、ドイツ南西部Baden-Württemberg州のマンハイムと言う町に住む事にしました。人口40万の中堅都市でしたが、職場、フランクフルトなどへのアクセスもよく快適な暮らしができました。 (マンハイムのダウンタウンの入り口の公園です。季節の色とりどりの花が美しく クリスマス・マーケッとも開催されます。) 業務は、事務所立上げから始まり現地法人内での組織、ITシステムの適用、エンジニア用のコンピュータルーム、IT機器・事務機など調達、ドイツ人秘書の採用など一からです。次は、日本から帯同したエンジニアの仕事の内容を本社、他地域のメンバと調整しながら進めました。SAPと言うグローバル業務ソフトにNECのソリューションを連携しグローバルで売れるようにする仕組み作りです。当然、SAP本社、関連するITパートナへの連携も重要です。ほとんど、部下とパートナなどのモチベーション向上の仕掛け作りが仕事です。 一方、自分としては、やはり営業ですので日系のお客様が中心になりますが現地での市場開拓に邁進しました。10人弱の組織で対外的に如何に影響力を持たせるかが重要な役割です。営業も、SAPのような大きなシステムは東京本社含めたお客様コンタクト無ではそうは売れるわけではないので、適時東京に戻り東京の営業との顧客訪問などを行いました。ドイツ顧客に対しては、手離れがいい商材を本社から持ち込みドイツ企業などへアプローチをかけました。先日も、当時のドイツのお客様の社長とコンタクトしたりして、ネッとワークは今でも役立っています。 また、欧州のIT企業への出資などの戦略も本社側で検討していた時期で、何社かの評価など本社の企画部門の方と進めました。ご存じの方も多いかと思いますが、日系IT企業が得意としているのは単品の販売ではなくSystem Integrationです。お客様の、戦略ならびに業務を理解しITで課題解決を提案する内容です。その為、各地域、国のお客様自身のビジネスが理解出来ているIT会社を買収するのが手っ取り早くなります。競争力のあるハードウェア製品を保有している企業に比べ、グローバル化の難易度が一段と上がります。ただ、現地でしか出来ない経験が出来たのは、僅かな成功体験よりよかったと思います。 また、余暇の話は腐るほどあるのですが割愛させていただきますが、一点前述の和田昇君もPanasonicの社員としてドイツのハンブルグに同時期に駐在されており偶にフランクフルトで合流しました。現在も交流が続いています。 2012年の春に帰任する事になりますが、ドイツ駐在で得た経験、人脈がその後役立つ事になります。帰国後は、中華圏APAC営業本部で大洋州・シンガポール地域の営業とITソリューション軸で本部責任を担う事になりました。 方針はシンプルで、シンガポールにSAP, MicrosoftのERP要員がいましたので、彼らの体制強化と他のAPAC地域へのビジネス展開です。上記のERP製品は他社製品ですのでプラスで自社製品、例えばPOS端末などと連携した流通業向けSystem integrationメニューの強化などを行いました。欧米に比べ、アジアは多少日本と近いITビジネスモデルがあるのとNECの企業バリューが高いので、数字は上がりました。 2014年には、国際情報化協力センタ(CICC:Center of the International Corporation of Computerization)を兼務しました。ここは、元経済産業省の外郭団体で日本の大手IT企業の参画をベースに東南アジアを中心にICTの協力、企業側としてはODAなど国際協力資金を活用したビジネスの拡大を推進する組織です。すでに、55歳になっていたのでNECでの最後の楽しみ場所と考え、好きな様にさせてもらいました。海外の政府機関との折衝などは初めての経験で勉強になりました。CICCの名目でNECの災害、防衛、サイバーセキュリティなどの提案を行い、実証なども行いました。内戦前のミャンマーとかバングラディシュ、カンボジアなどの警察・軍関係の方々面会出来たのは貴重な経験でした。 NEC卒業後と現在最終的には、2019年にNECを予定通り退職しましたが、帰任後も、ドイツ関連の方々とのネットワークを大切にしてきたので、その腐れ縁が思いもよらぬ方向へ進みました。 現在は、駐在中に名刺交換をさせていただいたドイツの人材会社のご紹介もありELATEC GmbHの日本代表(と言つても小所帯ですが)をさせて頂いています。日本市場の立ち上げに日本企業の本社とのアライアンス、新規市場開拓です。コロナ下で、なかなか本社のミュンヘンには行けませんでしたが、昨年の10月のお客様セミナ+Oktober Festでの打ち上げに入社前面接以来久々に行く事が出来ました。 (現会社のお客様向けセミナおよびイベントに参加、2022年10月) 長々と、お付き合いいただきありがとうございました。最後になりますが、振り返り自分の歩いたグローバルビジネスは、遠回りしながらも多数の方々に支えられて来たのだと思います。 何十年も外国でご活躍されている優秀な方とは違い、日本国内の営業も経験出来たのが現職の外資系企業では評価されたのかも知れません。特に、これから社会人になられる方は人生長丁場となります。数年で成果が出ず悩んだ時は、焦らずに一呼吸おいて自問しながら再スタートを切って下さい。 (保井和毅さんプロフィール) 1977年3月兵庫県西宮高等学校卒業 1978年4月国際商科大学商学部入学(小峯ゼミ/ELI: English Language Institute) 1982年3月同校卒業 1982年4月日本電気株式会社入社 第一LSI事業部計画部配属 1986年6月半導体企画室海外推進部異動 1990年6月北米電子デバイス部異動 1999年6月製造装置ソリューション事業部(ITシステム営業)移動 2008年6月NEC Europe Ltd. NEC SAP Solution Center(ドイツ)駐在 2012年6月APAC営業本部へ帰任(ITソリューション全体統括) 2016年4月財団法人 国際情報化協力センタ(CICC)兼務 2019年4月日本電気株式会社退職 2019年5月~2020年5月日欧ビジネス開拓コンサル 2020年6月ELATEC GmbH日本代表就任 2022年9月ドイツECOSコンサルティング 特別顧問就任(副業) TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
シンガポールと日本、フランスの将来の架け橋となり、それぞれの文化やビジネス関係に貢献します。
Rahul Guptaさん (2020年卒業 国際関係学部、2018年Sciences Po France 交換留学生)2022年7月1日Mr. Rahul Gupta‘s Professional Career: (Rahul Gupta さんプロフィール) 2017 April: Transferred into E Track Program, Tokyo International University 2018 January : On exchange at Sciences Po France 2019 April: Continue at TIU and Starts Internship at Japanese Trading Company in Mie 2020 March: Graduates from TIU (International Relations Department) At present : Talent Sourcer, Unity Technologies in Singapore. ( https://unity.com/ ) Please do connect with me on my LinkedIn. I would be happy to answer all your questions, especially current TIU students who want to work for global companies and what it takes. Rahul Gupta|LinkedIn 2017年4月 東京国際大学Eトラックプログラム(英語コース)に編入 2018年1月 フランスSciences Poにて交換留学 2019年4月 東京国際大学に在学中、三重の日系商社でインターンシップを開始 2020年3月 東京国際大学国際関係学部卒業 現在 Unity Technologies(シンガポール), タレントソーサー (Unityホームページ: https://unity.com/) 私のLinkedInにコネクトしてください。特にグローバル企業で働きたいTIU在校生、何が必要なのか、あらゆる質問にお答えしたいと思います。 Rahul Gupta|LinkedIn TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
Rahul Guptaさん (2020年卒業 国際関係学部、2018年Sciences Po France 交換留学生)2022年7月1日Mr. Rahul Gupta‘s Professional Career: (Rahul Gupta さんプロフィール) 2017 April: Transferred into E Track Program, Tokyo International University 2018 January : On exchange at Sciences Po France 2019 April: Continue at TIU and Starts Internship at Japanese Trading Company in Mie 2020 March: Graduates from TIU (International Relations Department) At present : Talent Sourcer, Unity Technologies in Singapore. ( https://unity.com/ ) Please do connect with me on my LinkedIn. I would be happy to answer all your questions, especially current TIU students who want to work for global companies and what it takes. Rahul Gupta|LinkedIn 2017年4月 東京国際大学Eトラックプログラム(英語コース)に編入 2018年1月 フランスSciences Poにて交換留学 2019年4月 東京国際大学に在学中、三重の日系商社でインターンシップを開始 2020年3月 東京国際大学国際関係学部卒業 現在 Unity Technologies(シンガポール), タレントソーサー (Unityホームページ: https://unity.com/) 私のLinkedInにコネクトしてください。特にグローバル企業で働きたいTIU在校生、何が必要なのか、あらゆる質問にお答えしたいと思います。 Rahul Gupta|LinkedIn TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
大学時代に経験したアメリカ留学、異文化体験からパワーエレクトロニクス半導体デバイスサプライチェーンの世界へ
木村徳明さん(1998年卒業 経済学部国際経済学科 鐘ヶ江ゼミ、ESS/1997年Willamette Univ. 教養学部経済学卒業)2022年4月24日29年前、大学入学した頃 私が東京国際大学への入学をしたのは、1993年、今からもう29年前になる。1993年というと、東武東上線のふじみ野駅が開業、当時はみずほ台駅と上福岡駅の間は住宅も少なく、広い畑が残っていて、今の高層マンションが立ち並ぶ住宅街もまだなかった。 当時、家庭にはインターネットがようやく普及し始めた頃で、ダイヤルアップ接続。ネットを接続していると、家の電話が繋がらなくて、自宅でPCを繋ぐのも気を使ったような時代だった。モニターもCRT(ブラウン管)、今のように液晶を使ったフラットパネルディスプレイは存在していなかった。 学生が持っていたのもポケベルで、“ポケベルが鳴らなくて”という歌も流行っていた。携帯電話も通話しかできないPHSがようやく普及し始めた頃だった。今のように、誰もがスマートフォンを手にして、動画、ゲーム、電子書籍、ニュースを見る時代になるとも想像が及ばなかった。当時アメリカでの留学経験を振り返りながら、今にどうつながってきたのか振り返ってみたい。 1991年の夏休みにアリゾナ州に約1か月ホームステイをする機会があり、その時に体験したアメリカでの生活、英語が不自由ながらも温かく私を迎えてくれたホストファミリーにまた会いたい。次に会う際には、英語でコミュニケーションを取りたいというのが、英語を勉強、習得したいというモチベーションだった。 大学進学先を決める際にも、Willamette大学でのAmerican Study Program(ASP, 旧TIUA)をはじめ海外提携校との留学制度が充実していたことが東京国際大学へ進学を決めた理由だった。 1993年、大学入学後はESSに入部し、ディベートセクションに入った。1年時には、とにかく英語力が足りず、先輩のやっている様子を必死にまねることに精一杯でした。一つの議題に対して、賛成、反対に分かれて、スピーチをまとめ、議論をしていた。よく議論としてあがったのは、憲法9条の問題、少年法の適用について、原子力発電の是非などで、必要な情報を集めるため、当時は今のように、Wikipediaもなく、インターネットは図書検索で使える程度で、Imidas(イミダス)や、現代用語の基礎知識といった分厚い情報、用語集、日経、朝日新聞、東洋経済、ダイヤモンド、日経ビジネスといった経済誌、文芸春秋、中央公論などの月刊誌を大学の図書館で情報収集のためによく読んでいた。 ESSでの活動は、論理的に議論を組み立てるための手法、伝え方、物事の賛成、反対、両方の視点からとらえて意見をまとめる作業は、後のASPに参加した際や、WUでのリーディング、ライティング、ディスカッションなどアカデミックスキルの基礎となった。 (95年 ESS 4年生の卒業式、TIU第一キャンパス図書館前にて) ASPプログラム(旧TIUAプログラム)での思い出 大学1年の課程を終え、2月に、ASPプログラムに参加することになった。ASPプログラムは非常によくできたプログラムで、語学を習得するのみではなく、異文化での生活、留学経験を積むことができた。“When in Roma, Do as a Romans do.”“郷に入れば、郷に従え” ということわざがあるが、Willamette Universityで寮生活をしながら、実際に WU生たちのやっていることを見よう、見まねでどんどん吸収しようという気持ちでいっぱいだった。 プログラムに参加して、すぐにSpring Break(春休み)があり、WUの学生たちが主催しているAlternative Spring Breakという泊りがけで参加するボランティア活動に参加した。7-8名のWUの学生中で、留学生で参加したのは私一人。リスニングもスピーキングもまだおぼつかない状態ながら、Warm SpringsというOregon州にあるネイティブアメリカンの居留地を訪れ、ネイティブアメリカンの文化保護センターで草刈り、清掃などボランティアに参加した。 土着文化を持つネイティブアメリカの人たちはアメリカ社会に適合できず、アルコール依存症、貧困、社会問題を抱えている実情などを見た。居留地周辺は街灯もなく、夜になると満天の星空、静寂の中、コヨーテの遠吠えが聞こえてきそうな雰囲気。Warm Springsの族長の方に招かれて、参加した学生とテントの中で、薬草を炊いたサウナ、スウェットバスに入った。 その族長は呪術師で、テントの中に入った一人、一人に、前世がどんな人物だった告げはじめた。そのお告げは、具体的に、いつの時代の、誰なのかはわからないが、南蛮貿易で頃に東南アジアに進出した人物か、旧日本軍で、オランダかイギリスに支配された地域で、解放のために現地人と戦った人物なのか、支配されていた現地人を指揮して解放のために戦った人物だった。因みに、私の家系は武士の家でもなく、第二次世界大戦中に、南方に従軍した人物もいないので、全くの迷信なのだが。 (Willamette大学新聞 Collegianに載った、TIUA生到着の記事) 94年の夏休み、アメリカワールドカップ 1994年はアメリカでサッカーのワールドカップが開催された年だった。日本は1992年にJリーグが始まり、プロ化され、三浦知良、ラモス瑠偉などの選手が活躍し、ワールドカップ出場の期待が大きく高まっていた頃だったが、日本代表はワールドカップ出場が掛かったアジア予選で、カタール・ドーハで行われた試合、後半2-1でリードしながら、ロスタイムに同点に追いつかれ、ワールドカップ出場権を逃したこの試合は、ドーハの悲劇と記憶され、あと一歩で出場を逃した大会だ。 今年サッカー日本代表はアジア予選を勝ち抜き、7大会連続でワールドカップ出場を決めている。ドイツ、イングランドをはじめ、ヨーロッパのリーグで活躍する選手がほとんど占めている今、当時ワールドカップ出場することが難しかった時代を想うと、日本サッカーが着実に強化を進んでいることがよくわかる。 ワールドカップを観に行きたいという気持ちは強かったが、まずチケットの入手方法がわからない。週末にASPに参加した学生のグループで訪れた、Portlandで、日本とアジアの食材を扱っているグローサリーストアで買った、日本の新聞の米国版に偶然、ワールドカップのチケット販売の広告を見つけた。当時は、チケット販売会社に電話でオペレーターにつないで、拙い英語で欲しいチケットを伝え、何とかチケットを手にした。 購入できたチケットは7/4 独立記念日に行われる、San Francisco近郊のPalo Alotoスタンフォードスタジアムでのアメリカ対ブラジルの試合だった。試合前のスタジアム周辺は、大勢のブラジル人サポーターたちがサンバを踊りながらお祭り騒ぎで盛り上がっていた。スタンフォードスタジアムには86,000人の大観衆が詰め寄せた。 試合はブラジルが優勢に進めるも、アメリカがなかなかゴールを割らせない展開。終盤にブラジルが選手交代後に得点を決め1-0で勝利した拮抗した内容だった。アメリカではまだサッカーはメジャーなスポーツではなく、サイドをブラジル人選手が駆け上がり、座っていた観衆が盛り上がって立ち上がると、後方から“Sit Down‼”と大声で注意をされたことを覚えている。 今や、アメリカでもMLSプロサッカーリーグが立ち上がり、人気も定着して、観客がサッカーを見る眼も成熟し当時のようなことはないのだろうが。その夜はSan Francisco湾、フィッシャーマンズワーフで独立記念日の花火を見たことはいい思い出である。 San Franciscoを訪れたあと、Los Angels、San Bernardino とAmtrakを乗り継ぎ、Grand Canyonを訪れ、その後、Arizona 州Phoenix近郊のMesaという街へ。高校2年の夏休みにお世話になったホストファミリーとの再会を果たす。94年ワールドカップアメリカ大会も佳境を迎え、ブラジル対イタリアの決勝戦もホストファミリー宅で観た。高校の頃、ほとんど英語で会話できなかったが、ASPに参加して上達した英語が活きて、自分の英語力の向上も実感できた体験でした。 ASPプログラムの終了から、Willamette大学への長期留学 夏休みが終わると、TOEFLのスコア上がり、長期留学の要件を満たすレベルまで英語力も向上した。Willamette大学への奨学生試験にも何とか受かり、翌年の1995年の秋からWillamette大学へ編入することが決まった。ASPに参加して、語学力も身についてはいたもの、少人数で行われることの多いWillamette大学での授業はついていくのが大変だった。最初のセメスターで取った、アカデミックライティングの授業は特に印象に残っていて、テーマは“核問題”。7~8名の少人数で行われるディスカッション、ASPである程度通用すると思っていたが、全く通用せず、完全に自信を喪失した。語学力のみではなく、近現代史の知識が圧倒的に不足していること。また、日本は唯一の被爆国、非核三原則、憲法9条で規定されている平和憲法、いずれも日本では当たり前とされている知識がなぜそうなのかと問われるとどうにも説明ができない。 高校の修学旅行で、長崎での被ばく者の体験談を聞いたことを伝えようにも、アメリカ人に対して、それが何を意味しているのかは非常に難しかった。そんな時にそのライティングの授業を受け持った教授から、読むことを勧められたのは、Noam Chomskyの著作だった。Chomskyの著作や論文は日本語訳も多数出版されているが、一般的な日本で受け入れられているメディアを通じて捉えられているアメリカではなく、冷戦後のアメリカ、新自由主義に傾きすぎる政治、行き過ぎた資本主義社会に対する批判だった。教授がChomskyの著作を勧めたのも、当時日本で身に着けた私のアメリカ観を考え直すきっかけを与えたかったのだろう。 専攻したのは経済学で、冷戦後の東ヨーロッパ、旧ソビエトがどのような過程で、資本主義、自由主義経済に移行していくのかを研究する講義が印象に残っている。今、ロシアがウクライナを侵攻して、一部の報道などでは、東西冷戦の再来するのではなどの意見も出ているが、1995年頃は、社会主義、計画経済から、資本主義経済の移行は、人、モノ、お金、情報を遮る壁がなくなり、より豊かな世界になる明るい見方が主流だった。 あと、印象に残っているのは、芭蕉のおくの細道とEmily Dickenson詩を比較、源氏物語とホメイロス オデッセイ、川端康成の雪国とヘミングウェイの老人と海を比較して読み解いていく比較文学の授業だった。おくの細道も、源氏物語も、雪国も、すべて英語版があるのだが、日本語と読み比べると非常に興味深かった。漢字と仮名が混じった文章が表現する情景や心情の豊さを感じる体験だった。 ASP、Willamette大学での留学経験は、授業、当時読んだ本を通じて、自分のもの見方、考え方に大きな影響を与えた。日本の大学での授業ではあまり取り上げられない、古典を原文で読んだことは、すぐに役立つ知識ではなかったが、今でも読み返すと新たな気づきを得られる。変化の激しい時代だからこそ、じっくりと古典と向き合い、その中から得られた知識で行動、判断することが習慣になった。 大学卒業後、半導体・エレクトロニクス業界へ Willamette大学卒業後、TIUを卒業し、その後の進路としてはサンケン電気(株)パワーエレクトロニクス、電力変換、制御を専門とする半導体デバイス製造メーカーに1998年入社した。入社時の配属先は、海外営業部でアメリカ市場の日系大手テレビメーカーを担当した、当時はメキシコに日系テレビメーカーが多数製造工場を持ち、設計開発をカリフォルニアで行っていた頃だった。ブラウン管(CRT)テレビ、プロジェクションテレビ用の電源に使われる、IC、ダイオードの売り込みをした。 その後、アメリカ担当から欧州市場向けの車載部品の営業を担当し、フランス、ドイツの車のヘッドライト製造メーカー向けにHID(高輝度ディスチャージ)ランプの点灯を制御するICの販売。自動車用発電機(オルタネーター)用の電圧制御IC、ダイオードなどの売り込みを経験した。その後、2007年に当時イギリス ウェールズにある販売子会社に出向をした。残念ながら、2008年リーマンショック後の業績の悪化を受け、出向期間は1年半と短期間だった。HIDランプもLEDに置き換えられ、自動車用のオルタネーターも内燃機関が電動モーターに置き換えられることによって、なくなりつつある。 2012年から、現在はサプライチェーンを統括する部門で、半導体のミネソタ州にある自社のウェハ製造工場の生産管理を経験。2019年から現在は、車載用のディスプレイ用の電源制御用ICの生産管理をしている。 コロナウイルスは日本では感染対策の徹底、ワクチン接種が進み、今年の年始から感染が広まった、オミクロン株による第6波も終息に向かいつつあるが、2019年以来広まったコロナウィルスは、東南アジアにある製造委託先の作業者に感染し、一時期、操業が停止。半導体需要の急増により、生産能力が大きく不足、使用する材料、部材も入手困難な状況があり、供給の遅延が状態している。 ようやくコロナウイルス感染も落ち着きを見せるかと思いきや、欧州で、ロシアによるウクライナ侵攻がはじまり、大手車メーカーも生産を大幅に減らしている状況である。需要側の動き、生産供給側の動きをにらみながら、東南アジア、中国、アメリカにある製造場所と連携を取り、日々生産のコントロール、調整していく対応はまだまだ続いていく。長期的にはパワーエレクトロニクスの領域はこれから、車の電動化、省エネの必要性から、さらに広がっていく、世界的な需要増をにらみながら、サプライチェーンの構築していく仕事はまだまだ続いていく。 (Sanken Power Systemsウェールズ出向時のオフィスにて / Cardiff Castle) これから 今、インターネット上に存在する、主なウェブサイトの60%で使われている言語は英語、日本語は2.1%しかないといわれている。世界で話されている言語の話者数でも英語は15億人いて、10億人以上は英語を母国語としない人が使用している。 学生時代のASP、Willamette大学の留学経験は英語を身に着ける上で非常に役立った。また、異文化体験は自分のモノの見方、考え方に大きな影響を与えた。また慣れ親しんだ日本での生活から離れ、海外で生活した経験は、異文化に対する寛容性、環境の変化に対するレジリエンスを身に着けることができた。 29年前から、現在とは、身の回りに存在している環境も技術も全くことなり、私の経験をそのまま役立てられることも正直ないだろう。ただ海外経験もほとんどなく、英語力も高くなかった自分が、留学をし、英語を使えるようになり、今につながってきた。 ASP(TIUAプログラム)は1990年から始まり、32年続いている留学プログラムで、たくさんの学生が、留学経験、異文化体験を積み重ねてきた。時代が変わり、かつてのような先輩、後輩という縦の人間関係が役立つことも少なくなっているし、SNS、オンラインでの交流が主流になっていますが、コロナウイルスの流行も落ち着いたらまた、同窓会の開催をまた行いたいと思っている。 (2017 ASP/TIUA Alumni Reunion にてGunnar Gunderson先生と) TIUA/ ASP 同窓会 ホームページhttp://www.tiuaalumni.net/web/japanese/ (木村徳明さんプロフィール) 埼玉県出身 鴻巣高校卒業 1993年入学東京国際大学経済学部国際経済学科 鐘ヶ江ゼミ、ESS 1994年2月ASPプログラムに参加 1995年9月Willamette大学へ編入、1997年教養学部経済学卒業 1998年3月東京国際大学経済学部国際経済学科卒業 1998年4月サンケン電気(株)入社 海外営業部勤務 2007年英国販売子会社へ1年半出向 2012年米国ミネソタ州自社製造工場の生産管理を担当 2018年米国グループ会社 Allegro Micro Systemsの生産管理を担当 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
木村徳明さん(1998年卒業 経済学部国際経済学科 鐘ヶ江ゼミ、ESS/1997年Willamette Univ. 教養学部経済学卒業)2022年4月24日29年前、大学入学した頃 私が東京国際大学への入学をしたのは、1993年、今からもう29年前になる。1993年というと、東武東上線のふじみ野駅が開業、当時はみずほ台駅と上福岡駅の間は住宅も少なく、広い畑が残っていて、今の高層マンションが立ち並ぶ住宅街もまだなかった。 当時、家庭にはインターネットがようやく普及し始めた頃で、ダイヤルアップ接続。ネットを接続していると、家の電話が繋がらなくて、自宅でPCを繋ぐのも気を使ったような時代だった。モニターもCRT(ブラウン管)、今のように液晶を使ったフラットパネルディスプレイは存在していなかった。 学生が持っていたのもポケベルで、“ポケベルが鳴らなくて”という歌も流行っていた。携帯電話も通話しかできないPHSがようやく普及し始めた頃だった。今のように、誰もがスマートフォンを手にして、動画、ゲーム、電子書籍、ニュースを見る時代になるとも想像が及ばなかった。当時アメリカでの留学経験を振り返りながら、今にどうつながってきたのか振り返ってみたい。 1991年の夏休みにアリゾナ州に約1か月ホームステイをする機会があり、その時に体験したアメリカでの生活、英語が不自由ながらも温かく私を迎えてくれたホストファミリーにまた会いたい。次に会う際には、英語でコミュニケーションを取りたいというのが、英語を勉強、習得したいというモチベーションだった。 大学進学先を決める際にも、Willamette大学でのAmerican Study Program(ASP, 旧TIUA)をはじめ海外提携校との留学制度が充実していたことが東京国際大学へ進学を決めた理由だった。 1993年、大学入学後はESSに入部し、ディベートセクションに入った。1年時には、とにかく英語力が足りず、先輩のやっている様子を必死にまねることに精一杯でした。一つの議題に対して、賛成、反対に分かれて、スピーチをまとめ、議論をしていた。よく議論としてあがったのは、憲法9条の問題、少年法の適用について、原子力発電の是非などで、必要な情報を集めるため、当時は今のように、Wikipediaもなく、インターネットは図書検索で使える程度で、Imidas(イミダス)や、現代用語の基礎知識といった分厚い情報、用語集、日経、朝日新聞、東洋経済、ダイヤモンド、日経ビジネスといった経済誌、文芸春秋、中央公論などの月刊誌を大学の図書館で情報収集のためによく読んでいた。 ESSでの活動は、論理的に議論を組み立てるための手法、伝え方、物事の賛成、反対、両方の視点からとらえて意見をまとめる作業は、後のASPに参加した際や、WUでのリーディング、ライティング、ディスカッションなどアカデミックスキルの基礎となった。 (95年 ESS 4年生の卒業式、TIU第一キャンパス図書館前にて) ASPプログラム(旧TIUAプログラム)での思い出 大学1年の課程を終え、2月に、ASPプログラムに参加することになった。ASPプログラムは非常によくできたプログラムで、語学を習得するのみではなく、異文化での生活、留学経験を積むことができた。“When in Roma, Do as a Romans do.”“郷に入れば、郷に従え” ということわざがあるが、Willamette Universityで寮生活をしながら、実際に WU生たちのやっていることを見よう、見まねでどんどん吸収しようという気持ちでいっぱいだった。 プログラムに参加して、すぐにSpring Break(春休み)があり、WUの学生たちが主催しているAlternative Spring Breakという泊りがけで参加するボランティア活動に参加した。7-8名のWUの学生中で、留学生で参加したのは私一人。リスニングもスピーキングもまだおぼつかない状態ながら、Warm SpringsというOregon州にあるネイティブアメリカンの居留地を訪れ、ネイティブアメリカンの文化保護センターで草刈り、清掃などボランティアに参加した。 土着文化を持つネイティブアメリカの人たちはアメリカ社会に適合できず、アルコール依存症、貧困、社会問題を抱えている実情などを見た。居留地周辺は街灯もなく、夜になると満天の星空、静寂の中、コヨーテの遠吠えが聞こえてきそうな雰囲気。Warm Springsの族長の方に招かれて、参加した学生とテントの中で、薬草を炊いたサウナ、スウェットバスに入った。 その族長は呪術師で、テントの中に入った一人、一人に、前世がどんな人物だった告げはじめた。そのお告げは、具体的に、いつの時代の、誰なのかはわからないが、南蛮貿易で頃に東南アジアに進出した人物か、旧日本軍で、オランダかイギリスに支配された地域で、解放のために現地人と戦った人物なのか、支配されていた現地人を指揮して解放のために戦った人物だった。因みに、私の家系は武士の家でもなく、第二次世界大戦中に、南方に従軍した人物もいないので、全くの迷信なのだが。 (Willamette大学新聞 Collegianに載った、TIUA生到着の記事) 94年の夏休み、アメリカワールドカップ 1994年はアメリカでサッカーのワールドカップが開催された年だった。日本は1992年にJリーグが始まり、プロ化され、三浦知良、ラモス瑠偉などの選手が活躍し、ワールドカップ出場の期待が大きく高まっていた頃だったが、日本代表はワールドカップ出場が掛かったアジア予選で、カタール・ドーハで行われた試合、後半2-1でリードしながら、ロスタイムに同点に追いつかれ、ワールドカップ出場権を逃したこの試合は、ドーハの悲劇と記憶され、あと一歩で出場を逃した大会だ。 今年サッカー日本代表はアジア予選を勝ち抜き、7大会連続でワールドカップ出場を決めている。ドイツ、イングランドをはじめ、ヨーロッパのリーグで活躍する選手がほとんど占めている今、当時ワールドカップ出場することが難しかった時代を想うと、日本サッカーが着実に強化を進んでいることがよくわかる。 ワールドカップを観に行きたいという気持ちは強かったが、まずチケットの入手方法がわからない。週末にASPに参加した学生のグループで訪れた、Portlandで、日本とアジアの食材を扱っているグローサリーストアで買った、日本の新聞の米国版に偶然、ワールドカップのチケット販売の広告を見つけた。当時は、チケット販売会社に電話でオペレーターにつないで、拙い英語で欲しいチケットを伝え、何とかチケットを手にした。 購入できたチケットは7/4 独立記念日に行われる、San Francisco近郊のPalo Alotoスタンフォードスタジアムでのアメリカ対ブラジルの試合だった。試合前のスタジアム周辺は、大勢のブラジル人サポーターたちがサンバを踊りながらお祭り騒ぎで盛り上がっていた。スタンフォードスタジアムには86,000人の大観衆が詰め寄せた。 試合はブラジルが優勢に進めるも、アメリカがなかなかゴールを割らせない展開。終盤にブラジルが選手交代後に得点を決め1-0で勝利した拮抗した内容だった。アメリカではまだサッカーはメジャーなスポーツではなく、サイドをブラジル人選手が駆け上がり、座っていた観衆が盛り上がって立ち上がると、後方から“Sit Down‼”と大声で注意をされたことを覚えている。 今や、アメリカでもMLSプロサッカーリーグが立ち上がり、人気も定着して、観客がサッカーを見る眼も成熟し当時のようなことはないのだろうが。その夜はSan Francisco湾、フィッシャーマンズワーフで独立記念日の花火を見たことはいい思い出である。 San Franciscoを訪れたあと、Los Angels、San Bernardino とAmtrakを乗り継ぎ、Grand Canyonを訪れ、その後、Arizona 州Phoenix近郊のMesaという街へ。高校2年の夏休みにお世話になったホストファミリーとの再会を果たす。94年ワールドカップアメリカ大会も佳境を迎え、ブラジル対イタリアの決勝戦もホストファミリー宅で観た。高校の頃、ほとんど英語で会話できなかったが、ASPに参加して上達した英語が活きて、自分の英語力の向上も実感できた体験でした。 ASPプログラムの終了から、Willamette大学への長期留学 夏休みが終わると、TOEFLのスコア上がり、長期留学の要件を満たすレベルまで英語力も向上した。Willamette大学への奨学生試験にも何とか受かり、翌年の1995年の秋からWillamette大学へ編入することが決まった。ASPに参加して、語学力も身についてはいたもの、少人数で行われることの多いWillamette大学での授業はついていくのが大変だった。最初のセメスターで取った、アカデミックライティングの授業は特に印象に残っていて、テーマは“核問題”。7~8名の少人数で行われるディスカッション、ASPである程度通用すると思っていたが、全く通用せず、完全に自信を喪失した。語学力のみではなく、近現代史の知識が圧倒的に不足していること。また、日本は唯一の被爆国、非核三原則、憲法9条で規定されている平和憲法、いずれも日本では当たり前とされている知識がなぜそうなのかと問われるとどうにも説明ができない。 高校の修学旅行で、長崎での被ばく者の体験談を聞いたことを伝えようにも、アメリカ人に対して、それが何を意味しているのかは非常に難しかった。そんな時にそのライティングの授業を受け持った教授から、読むことを勧められたのは、Noam Chomskyの著作だった。Chomskyの著作や論文は日本語訳も多数出版されているが、一般的な日本で受け入れられているメディアを通じて捉えられているアメリカではなく、冷戦後のアメリカ、新自由主義に傾きすぎる政治、行き過ぎた資本主義社会に対する批判だった。教授がChomskyの著作を勧めたのも、当時日本で身に着けた私のアメリカ観を考え直すきっかけを与えたかったのだろう。 専攻したのは経済学で、冷戦後の東ヨーロッパ、旧ソビエトがどのような過程で、資本主義、自由主義経済に移行していくのかを研究する講義が印象に残っている。今、ロシアがウクライナを侵攻して、一部の報道などでは、東西冷戦の再来するのではなどの意見も出ているが、1995年頃は、社会主義、計画経済から、資本主義経済の移行は、人、モノ、お金、情報を遮る壁がなくなり、より豊かな世界になる明るい見方が主流だった。 あと、印象に残っているのは、芭蕉のおくの細道とEmily Dickenson詩を比較、源氏物語とホメイロス オデッセイ、川端康成の雪国とヘミングウェイの老人と海を比較して読み解いていく比較文学の授業だった。おくの細道も、源氏物語も、雪国も、すべて英語版があるのだが、日本語と読み比べると非常に興味深かった。漢字と仮名が混じった文章が表現する情景や心情の豊さを感じる体験だった。 ASP、Willamette大学での留学経験は、授業、当時読んだ本を通じて、自分のもの見方、考え方に大きな影響を与えた。日本の大学での授業ではあまり取り上げられない、古典を原文で読んだことは、すぐに役立つ知識ではなかったが、今でも読み返すと新たな気づきを得られる。変化の激しい時代だからこそ、じっくりと古典と向き合い、その中から得られた知識で行動、判断することが習慣になった。 大学卒業後、半導体・エレクトロニクス業界へ Willamette大学卒業後、TIUを卒業し、その後の進路としてはサンケン電気(株)パワーエレクトロニクス、電力変換、制御を専門とする半導体デバイス製造メーカーに1998年入社した。入社時の配属先は、海外営業部でアメリカ市場の日系大手テレビメーカーを担当した、当時はメキシコに日系テレビメーカーが多数製造工場を持ち、設計開発をカリフォルニアで行っていた頃だった。ブラウン管(CRT)テレビ、プロジェクションテレビ用の電源に使われる、IC、ダイオードの売り込みをした。 その後、アメリカ担当から欧州市場向けの車載部品の営業を担当し、フランス、ドイツの車のヘッドライト製造メーカー向けにHID(高輝度ディスチャージ)ランプの点灯を制御するICの販売。自動車用発電機(オルタネーター)用の電圧制御IC、ダイオードなどの売り込みを経験した。その後、2007年に当時イギリス ウェールズにある販売子会社に出向をした。残念ながら、2008年リーマンショック後の業績の悪化を受け、出向期間は1年半と短期間だった。HIDランプもLEDに置き換えられ、自動車用のオルタネーターも内燃機関が電動モーターに置き換えられることによって、なくなりつつある。 2012年から、現在はサプライチェーンを統括する部門で、半導体のミネソタ州にある自社のウェハ製造工場の生産管理を経験。2019年から現在は、車載用のディスプレイ用の電源制御用ICの生産管理をしている。 コロナウイルスは日本では感染対策の徹底、ワクチン接種が進み、今年の年始から感染が広まった、オミクロン株による第6波も終息に向かいつつあるが、2019年以来広まったコロナウィルスは、東南アジアにある製造委託先の作業者に感染し、一時期、操業が停止。半導体需要の急増により、生産能力が大きく不足、使用する材料、部材も入手困難な状況があり、供給の遅延が状態している。 ようやくコロナウイルス感染も落ち着きを見せるかと思いきや、欧州で、ロシアによるウクライナ侵攻がはじまり、大手車メーカーも生産を大幅に減らしている状況である。需要側の動き、生産供給側の動きをにらみながら、東南アジア、中国、アメリカにある製造場所と連携を取り、日々生産のコントロール、調整していく対応はまだまだ続いていく。長期的にはパワーエレクトロニクスの領域はこれから、車の電動化、省エネの必要性から、さらに広がっていく、世界的な需要増をにらみながら、サプライチェーンの構築していく仕事はまだまだ続いていく。 (Sanken Power Systemsウェールズ出向時のオフィスにて / Cardiff Castle) これから 今、インターネット上に存在する、主なウェブサイトの60%で使われている言語は英語、日本語は2.1%しかないといわれている。世界で話されている言語の話者数でも英語は15億人いて、10億人以上は英語を母国語としない人が使用している。 学生時代のASP、Willamette大学の留学経験は英語を身に着ける上で非常に役立った。また、異文化体験は自分のモノの見方、考え方に大きな影響を与えた。また慣れ親しんだ日本での生活から離れ、海外で生活した経験は、異文化に対する寛容性、環境の変化に対するレジリエンスを身に着けることができた。 29年前から、現在とは、身の回りに存在している環境も技術も全くことなり、私の経験をそのまま役立てられることも正直ないだろう。ただ海外経験もほとんどなく、英語力も高くなかった自分が、留学をし、英語を使えるようになり、今につながってきた。 ASP(TIUAプログラム)は1990年から始まり、32年続いている留学プログラムで、たくさんの学生が、留学経験、異文化体験を積み重ねてきた。時代が変わり、かつてのような先輩、後輩という縦の人間関係が役立つことも少なくなっているし、SNS、オンラインでの交流が主流になっていますが、コロナウイルスの流行も落ち着いたらまた、同窓会の開催をまた行いたいと思っている。 (2017 ASP/TIUA Alumni Reunion にてGunnar Gunderson先生と) TIUA/ ASP 同窓会 ホームページhttp://www.tiuaalumni.net/web/japanese/ (木村徳明さんプロフィール) 埼玉県出身 鴻巣高校卒業 1993年入学東京国際大学経済学部国際経済学科 鐘ヶ江ゼミ、ESS 1994年2月ASPプログラムに参加 1995年9月Willamette大学へ編入、1997年教養学部経済学卒業 1998年3月東京国際大学経済学部国際経済学科卒業 1998年4月サンケン電気(株)入社 海外営業部勤務 2007年英国販売子会社へ1年半出向 2012年米国ミネソタ州自社製造工場の生産管理を担当 2018年米国グループ会社 Allegro Micro Systemsの生産管理を担当 TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
日本人初の熱気球世界チャンピオン、再び大空へ
藤田昌彦さん(1978年卒業 商学部10期 米田ゼミ)2022年1月21日藤田昌彦さんは国際商科大学(現東京国際大学)3年の時に熱気球を手作りされ、熱気球競技では1989年、2000年と2回の日本選手権優勝、熱気球ホンダグランプリ3連覇、熱気球ワールドホンダグランプリ優勝、日本人初のワールドエアゲームス金メダルなどの成績を上げられ、日本熱気球界で「世界の藤田」と呼ばれる存在となられています。 また冒険飛行にも挑戦され、1992年には日本人初・世界初の熱気球によるベーリング海峡横断飛行に成功。2011年にはキリマンジャロ横断フライトに世界で初めて成功。2013年にはアルプス山脈を約400キロにわたって横断するロングフライトも果たされています。 現在は、熱気球競技選手、冒険家。熱気球の販売・レンタル及び熱気球を用いた広告宣伝の企画運営等を行う有限会社バルーンカンパニーの代表取締役。 やるからには”熱気球で世界の頂点に立つ、世界チャンピオンになる” 草野球が大リーグに勝つようなものだ、そんなの出来るわけがない、バカげた挑戦だ。誰もがそう思った。 “グオウーゴウー”夜明けの静寂を引き裂くようなバーナーの轟音が響き渡る。もう一焚きで僕らは空中へ解き放たれる。どこへ行くかって?野暮なことを聞くな。風に吹かれてどこ行くが分かりゃしない。だから、どっち行ってもいいように、広ーい広い場所の真ん中から飛ぶ、そしてどこかへ降りる。国際商科大学(現東京国際大学)3年の約1年間をかけて、他大学の仲間とチームを組み自分達で熱気球を手作りした。自分達で作った気球で大空を飛ぶ。こんなエキサイティングなことは大学時代にしか出来ない。 約1年間を費やし、球皮(気球本体)、ゴンドラ、バーナーが完成した。見よう見まねのフライトは毎回が冒険だった。毎回命がけだった。現在のように、風を測り、高度による方向の違う風を利用して自分の行きたい場所へ行くなど、考えも及ばぬことだった。どこ行くか分からないが風まかせにただ飛んでどこかへ降りる、それが楽しくてしょうがなかった。就職活動もせずのめり込んだ。 卒業後は実家の仕事の手伝いとバイトで金をため、憧れのアメリカへ修行を目的に渡った。アメリカは世界一の熱気球大国だ。肌で感じるアメリカの革新的な熱気球事情は若かった私に強烈なインパクトを与えた。1年ほどして、その自作した気球をもって後輩達が卒業旅行へ来ることになった。カルフォルニアで飛んだあと、世界一の熱気球大会があるアルバカーキへ行くためダッジバンを借り機材を積み込み、駐車し、部屋に戻り準備をしているわずかな時間にそれは起きた。バンを見に行った友人が血相を変えてもどった。「バンがない」そんな馬鹿な!そこには割れたガラスの破片が散らばっているだけだった。あんなに苦労して作った気球が跡形もなく消え去った。打ちのめされた。アメリカという国の贖えない洗礼を受け、完全に叩き潰された。後輩の中に、僕をなぐさめてくれた女性がいた。それが今の女房となる。 アメリカから帰国後、結婚してバルーンカンパニーを設立 帰国後、結婚してバルーンカンパニーを起こした。イベント会社に自作気球を数機販売した。1年で300万円を貯め、仕事を整理し、女房の夢であった世界旅行へ旅立った。中国からシベリア鉄道でモスクワ、東ヨーロッパ、トルコ、ギリシャ、エジプト、ドイツを起点にヨーロッパを周り、イギリスからアメリカへ。アメリカで妊娠が分かり約1年の旅を終えて帰国。30歳。 ヨーロッパの気球の歴史は長い。多くの気球乗り達に会い刺激を受けた。親子4代気球乗りには大いに感銘を受けた。スペインの立ち上げたばかりの気球メーカーとも出くわした。この出会いが後に人生の大きな礎となる。帰国後、日本の総代理店契約を結び、これが世界第1号だった。今や世界トップの熱気球メーカーと成長した。 このころから、日本にも気球競技が少しずつ浸透し始めてきた。気球大会も北海道以外、佐賀やその他の地域でも開催されるようになって来た。日本選手権も毎年開催されるようになって来た。世界選手権にも日本の代表を派遣し始めた。結果は散々だった。 日本のレべルは、当然まだまだ世界と戦えるレベルではなかった。日本のトップでもフライト時間は100時間程度、かたや、1000時間を超すツワモノ揃いの欧米勢に太刀打ちできるわけがなかった。経験値が違い過ぎた。それでも、同じ人間がやること、敵は怪物ではない、俺にだってできるはずだ。やるからには世界チャンピオンになる。周りからはたわ言に捉えられた。出来る訳がない、草野球レベルが大リーグに勝てるとでも思ってるのか?めげなかった。世界との溝を埋めるには、日本で飛んでてもだめだ、世界に出て世界レベルと戦う力を付けなければ勝てない。それには資金がいる。スポンサーを真剣に探した。簡単には見つからない。自分の分身のような子供が生まれ、何としても家族を幸せにする。それがモティベーションを強くした。ラッキーが訪れた。 自己鍛錬、企業教育等のプログラムを販売する、モティベーションを日本に広めたPJMジャパンとスポンサー契約が成立したのだ。有田代表がマイナーな熱気球の世界チャンピオンになる夢を応援してくれたのだ。それからは年に2回世界の大会に参戦した。出来る限り濃い練習をした。通常の1時間を、その3倍の内容で練習した。 33歳、初出場の日本選手権で優勝した。2年後の世界選手権出場初出場の権利を得た。翌年のプレ大会2位となり舞い上がった、世界チャンピオンはもう直ぐと過信した。甘かった。本戦はミスが重なり100機中の50位台。この悔しさをバネにした。 日本では世界標準の競技を取り入れた、年間5戦を日本各地で戦い、総合成績で王者を決めるグランプリ戦がスタートした。いきなり3連覇した。あまりに勝ちすぎるのでハンディーを付けられた。 ハンディーなど関係なく優勝した。グランプリ戦は日本の競技レベルを世界へ近づけていった。グランプリ戦は今年で30回を迎えた。その内の20回の優勝を2人のパイロットが成し遂げた。私と息子である。私は競技の第一線は引退したが、息子はまだまだ勝ち続けるだろう。 2001年に念願の世界チャンピオンになった。 2000年、競技人生でピークを迎えた。日本選手権、日本グランプはもちろん、世界グランプリで日本人初優勝、日本グランプリ最終戦佐賀インターナショナルバルーンフェスタ優勝、世界グランプリ(アメリカ、ヨーロッパ、日本で3戦)最終戦茂木優勝。世界歴代1位の賞金王になった。 そして遂に、2001年念願の世界チャンピオンになった。スペインのワールドエアゲーム(航空スポーツのオリンピック)で気球部門金メダルを獲得した。 「世界の藤田」と呼ばれる存在となる。 1989年、2000年と2回の日本選手権優勝、熱気球ホンダグランプリ3連覇、熱気球ワールドホンダグランプリ優勝、日本人初のワールドエアゲームス金メダルなどの成績を上げ、日本熱気球界で「世界の藤田」と呼ばれる存在となる。飛行経験のある国は35か国に上る。 また競技と並行して冒険飛行にも挑戦し、1992年には日本初の宇宙飛行経験者である秋山豊寛さんを同乗させて世界初の熱気球によるベーリング海峡横断飛行に成功。2011年には複数機の熱気球によるキリマンジャロ横断フライトに世界で初めて成功した。2013年にはアルプス山脈を約400キロにわたって横断するロングフライトも果たしている。 (2013年、イタリア、オーストリア、スイスとアルプス山脈を約400キロにわたって 横断するロングフライトを果たす) 競技分野で2001年財団法人日本航空協会「航空スポーツ賞」、日本気球連盟「イカロス賞」を受賞。冒険家として2015年にファウスト冒険家賞を息子雄大と共に受賞しました。 (私の主な大会記録) 日本選手権優勝2回(1989、2000) 日本ホンダグランプリ総合優勝8回(1993~1995、1997、1998、2000、2001、2005) ワールドエアゲームス熱気球部門金メダル(2001) 1988年 オーストリア建国100周年大会3位 1992年 スペイングランプリ部門優勝、中国インターナショナル部門優勝 1994年 スイス・シャトーデー(アルプス越え) 部門優勝 1995年 フィリピンインターナショナル3連覇(~97年) 1997年 韓国インターナショナル優勝 2000年 ホンダワールドグランプリ優勝 2004年 熱気球世界選手権(オーストラリア)5位入賞 2006年 熱気球世界選手権(日本)9位入賞 息子の藤田雄大が日本選手権を史上最年少の21歳で制するなど優勝7回。さらに2014年の世界選手権では、アジア人パイロットとして初優勝を飾った。 世界の大会に参加するたびに息子もクルーとして、学校を休んで連れて行った。バーナーに背が届くようになった中学生から操縦を覚えさせた。その甲斐あり、海外大会で外人相手でも物おじしない、堂々と戦えるようになった。2014年ブラジルの世界選手権で2世パイロットとして世界初の優勝をした。 『翔べ、フジタ 熱気球世界チャンピオン 再び大空へ』が放映される “番組は、競技者の一人・藤田雄大選手(34)に9カ月間に及ぶ独占密着取材を敢行した。熱気球競技界のレジェンドを父に持つ藤田は「母親のお腹の中にいるときから気球に乗っていた」まさに“気球の申し子”。日本選手権を史上最年少の21歳で制するなど優勝7回。さらに2014年の世界選手権では、アジア人パイロットとして初優勝を飾った熱気球競技の世界的アイコンだ。”(テレQホームページより) 私は12年のブランク後、2021年最高齢パイロット65歳としてグランプリ戦に復活 20年間の競技人生で、世界の大会で数々の優勝をしてきました。第一線を退いた後は息子のチーフクルーとしてサポートし世界チャンピオンに育てました。息子は結婚を機に独立し、私は12年のブランク後、最高年齢パイロットでグランプリ戦に復活しました。年間ランキング6位入賞。 ブランク明けにしては上出来。シード権を得たので今年度もあまり気張らず参戦します。現在は、熱気球競技選手、冒険家。熱気球の販売・レンタル及び熱気球を用いた広告宣伝の企画運営等を行う有限会社バルーンカンパニーの代表取締役を務めています。 (熱気球を用いたイベント運営) (2005年竜虎万博にて)イベント 愛知万博オープニングイベント 龍虎型熱気球をショーとして演出。 スペインイベリア万博、日本館オープニングイベントで龍虎バルーンを会場に舞い降ろした。 山本寛斎元気プロジェクトで、東京ドームで初めて巨大なクジラ船バルーンを掲揚した。 今年は東京オリンピックのイベントで、東京のど真ん中で巨大な顔を出現させた。 (熱気球体験フライト) (係留フライト) (藤田昌彦さんのプロフィール) 東京都出身 東京都立松原高等学校卒 1978年3月 国際商科大学(現東京国際大学)卒業 商学部/10期 米田ゼミ 大学卒業後は熱気球競技の盛んなアメリカに一年間渡り、技術を磨く。 1989年、2000年と2回の日本選手権優勝、熱気球ホンダグランプリ3連覇、熱気球ワールドホンダグランプリ優勝、日本人初のワールドエアゲームス金メダルなどの成績を上げ日本熱気球界で「世界の藤田」と呼ばれる存在となる。 冒険飛行にも挑戦し、1992年に日本初・世界初の熱気球によるベーリング海峡横断飛行に成功。2011年にキリマンジャロ横断フライトに世界で初めて成功。2013年にはアルプス山脈を約400キロにわたって横断するロングフライトも果たす。 現在は熱気球競技選手、冒険家。熱気球の販売・レンタル及び熱気球を用いた広告宣伝の企画運営等を行う有限会社バルーンカンパニーの代表取締役。 有限会社 バルーンカンパニー 住所:〒329-0101 栃木県下都賀郡野木町友沼5488-11 電話:0280-55-1238 FAX :0280-55-1525 設立:1988年3月 ホームページ:https://www.balcomjp.com Facebook:熱気球の会社Balloon Company TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
藤田昌彦さん(1978年卒業 商学部10期 米田ゼミ)2022年1月21日藤田昌彦さんは国際商科大学(現東京国際大学)3年の時に熱気球を手作りされ、熱気球競技では1989年、2000年と2回の日本選手権優勝、熱気球ホンダグランプリ3連覇、熱気球ワールドホンダグランプリ優勝、日本人初のワールドエアゲームス金メダルなどの成績を上げられ、日本熱気球界で「世界の藤田」と呼ばれる存在となられています。 また冒険飛行にも挑戦され、1992年には日本人初・世界初の熱気球によるベーリング海峡横断飛行に成功。2011年にはキリマンジャロ横断フライトに世界で初めて成功。2013年にはアルプス山脈を約400キロにわたって横断するロングフライトも果たされています。 現在は、熱気球競技選手、冒険家。熱気球の販売・レンタル及び熱気球を用いた広告宣伝の企画運営等を行う有限会社バルーンカンパニーの代表取締役。 やるからには”熱気球で世界の頂点に立つ、世界チャンピオンになる” 草野球が大リーグに勝つようなものだ、そんなの出来るわけがない、バカげた挑戦だ。誰もがそう思った。 “グオウーゴウー”夜明けの静寂を引き裂くようなバーナーの轟音が響き渡る。もう一焚きで僕らは空中へ解き放たれる。どこへ行くかって?野暮なことを聞くな。風に吹かれてどこ行くが分かりゃしない。だから、どっち行ってもいいように、広ーい広い場所の真ん中から飛ぶ、そしてどこかへ降りる。国際商科大学(現東京国際大学)3年の約1年間をかけて、他大学の仲間とチームを組み自分達で熱気球を手作りした。自分達で作った気球で大空を飛ぶ。こんなエキサイティングなことは大学時代にしか出来ない。 約1年間を費やし、球皮(気球本体)、ゴンドラ、バーナーが完成した。見よう見まねのフライトは毎回が冒険だった。毎回命がけだった。現在のように、風を測り、高度による方向の違う風を利用して自分の行きたい場所へ行くなど、考えも及ばぬことだった。どこ行くか分からないが風まかせにただ飛んでどこかへ降りる、それが楽しくてしょうがなかった。就職活動もせずのめり込んだ。 卒業後は実家の仕事の手伝いとバイトで金をため、憧れのアメリカへ修行を目的に渡った。アメリカは世界一の熱気球大国だ。肌で感じるアメリカの革新的な熱気球事情は若かった私に強烈なインパクトを与えた。1年ほどして、その自作した気球をもって後輩達が卒業旅行へ来ることになった。カルフォルニアで飛んだあと、世界一の熱気球大会があるアルバカーキへ行くためダッジバンを借り機材を積み込み、駐車し、部屋に戻り準備をしているわずかな時間にそれは起きた。バンを見に行った友人が血相を変えてもどった。「バンがない」そんな馬鹿な!そこには割れたガラスの破片が散らばっているだけだった。あんなに苦労して作った気球が跡形もなく消え去った。打ちのめされた。アメリカという国の贖えない洗礼を受け、完全に叩き潰された。後輩の中に、僕をなぐさめてくれた女性がいた。それが今の女房となる。 アメリカから帰国後、結婚してバルーンカンパニーを設立 帰国後、結婚してバルーンカンパニーを起こした。イベント会社に自作気球を数機販売した。1年で300万円を貯め、仕事を整理し、女房の夢であった世界旅行へ旅立った。中国からシベリア鉄道でモスクワ、東ヨーロッパ、トルコ、ギリシャ、エジプト、ドイツを起点にヨーロッパを周り、イギリスからアメリカへ。アメリカで妊娠が分かり約1年の旅を終えて帰国。30歳。 ヨーロッパの気球の歴史は長い。多くの気球乗り達に会い刺激を受けた。親子4代気球乗りには大いに感銘を受けた。スペインの立ち上げたばかりの気球メーカーとも出くわした。この出会いが後に人生の大きな礎となる。帰国後、日本の総代理店契約を結び、これが世界第1号だった。今や世界トップの熱気球メーカーと成長した。 このころから、日本にも気球競技が少しずつ浸透し始めてきた。気球大会も北海道以外、佐賀やその他の地域でも開催されるようになって来た。日本選手権も毎年開催されるようになって来た。世界選手権にも日本の代表を派遣し始めた。結果は散々だった。 日本のレべルは、当然まだまだ世界と戦えるレベルではなかった。日本のトップでもフライト時間は100時間程度、かたや、1000時間を超すツワモノ揃いの欧米勢に太刀打ちできるわけがなかった。経験値が違い過ぎた。それでも、同じ人間がやること、敵は怪物ではない、俺にだってできるはずだ。やるからには世界チャンピオンになる。周りからはたわ言に捉えられた。出来る訳がない、草野球レベルが大リーグに勝てるとでも思ってるのか?めげなかった。世界との溝を埋めるには、日本で飛んでてもだめだ、世界に出て世界レベルと戦う力を付けなければ勝てない。それには資金がいる。スポンサーを真剣に探した。簡単には見つからない。自分の分身のような子供が生まれ、何としても家族を幸せにする。それがモティベーションを強くした。ラッキーが訪れた。 自己鍛錬、企業教育等のプログラムを販売する、モティベーションを日本に広めたPJMジャパンとスポンサー契約が成立したのだ。有田代表がマイナーな熱気球の世界チャンピオンになる夢を応援してくれたのだ。それからは年に2回世界の大会に参戦した。出来る限り濃い練習をした。通常の1時間を、その3倍の内容で練習した。 33歳、初出場の日本選手権で優勝した。2年後の世界選手権出場初出場の権利を得た。翌年のプレ大会2位となり舞い上がった、世界チャンピオンはもう直ぐと過信した。甘かった。本戦はミスが重なり100機中の50位台。この悔しさをバネにした。 日本では世界標準の競技を取り入れた、年間5戦を日本各地で戦い、総合成績で王者を決めるグランプリ戦がスタートした。いきなり3連覇した。あまりに勝ちすぎるのでハンディーを付けられた。 ハンディーなど関係なく優勝した。グランプリ戦は日本の競技レベルを世界へ近づけていった。グランプリ戦は今年で30回を迎えた。その内の20回の優勝を2人のパイロットが成し遂げた。私と息子である。私は競技の第一線は引退したが、息子はまだまだ勝ち続けるだろう。 2001年に念願の世界チャンピオンになった。 2000年、競技人生でピークを迎えた。日本選手権、日本グランプはもちろん、世界グランプリで日本人初優勝、日本グランプリ最終戦佐賀インターナショナルバルーンフェスタ優勝、世界グランプリ(アメリカ、ヨーロッパ、日本で3戦)最終戦茂木優勝。世界歴代1位の賞金王になった。 そして遂に、2001年念願の世界チャンピオンになった。スペインのワールドエアゲーム(航空スポーツのオリンピック)で気球部門金メダルを獲得した。 「世界の藤田」と呼ばれる存在となる。 1989年、2000年と2回の日本選手権優勝、熱気球ホンダグランプリ3連覇、熱気球ワールドホンダグランプリ優勝、日本人初のワールドエアゲームス金メダルなどの成績を上げ、日本熱気球界で「世界の藤田」と呼ばれる存在となる。飛行経験のある国は35か国に上る。 また競技と並行して冒険飛行にも挑戦し、1992年には日本初の宇宙飛行経験者である秋山豊寛さんを同乗させて世界初の熱気球によるベーリング海峡横断飛行に成功。2011年には複数機の熱気球によるキリマンジャロ横断フライトに世界で初めて成功した。2013年にはアルプス山脈を約400キロにわたって横断するロングフライトも果たしている。 (2013年、イタリア、オーストリア、スイスとアルプス山脈を約400キロにわたって 横断するロングフライトを果たす) 競技分野で2001年財団法人日本航空協会「航空スポーツ賞」、日本気球連盟「イカロス賞」を受賞。冒険家として2015年にファウスト冒険家賞を息子雄大と共に受賞しました。 (私の主な大会記録) 日本選手権優勝2回(1989、2000) 日本ホンダグランプリ総合優勝8回(1993~1995、1997、1998、2000、2001、2005) ワールドエアゲームス熱気球部門金メダル(2001) 1988年 オーストリア建国100周年大会3位 1992年 スペイングランプリ部門優勝、中国インターナショナル部門優勝 1994年 スイス・シャトーデー(アルプス越え) 部門優勝 1995年 フィリピンインターナショナル3連覇(~97年) 1997年 韓国インターナショナル優勝 2000年 ホンダワールドグランプリ優勝 2004年 熱気球世界選手権(オーストラリア)5位入賞 2006年 熱気球世界選手権(日本)9位入賞 息子の藤田雄大が日本選手権を史上最年少の21歳で制するなど優勝7回。さらに2014年の世界選手権では、アジア人パイロットとして初優勝を飾った。 世界の大会に参加するたびに息子もクルーとして、学校を休んで連れて行った。バーナーに背が届くようになった中学生から操縦を覚えさせた。その甲斐あり、海外大会で外人相手でも物おじしない、堂々と戦えるようになった。2014年ブラジルの世界選手権で2世パイロットとして世界初の優勝をした。 『翔べ、フジタ 熱気球世界チャンピオン 再び大空へ』が放映される “番組は、競技者の一人・藤田雄大選手(34)に9カ月間に及ぶ独占密着取材を敢行した。熱気球競技界のレジェンドを父に持つ藤田は「母親のお腹の中にいるときから気球に乗っていた」まさに“気球の申し子”。日本選手権を史上最年少の21歳で制するなど優勝7回。さらに2014年の世界選手権では、アジア人パイロットとして初優勝を飾った熱気球競技の世界的アイコンだ。”(テレQホームページより) 私は12年のブランク後、2021年最高齢パイロット65歳としてグランプリ戦に復活 20年間の競技人生で、世界の大会で数々の優勝をしてきました。第一線を退いた後は息子のチーフクルーとしてサポートし世界チャンピオンに育てました。息子は結婚を機に独立し、私は12年のブランク後、最高年齢パイロットでグランプリ戦に復活しました。年間ランキング6位入賞。 ブランク明けにしては上出来。シード権を得たので今年度もあまり気張らず参戦します。現在は、熱気球競技選手、冒険家。熱気球の販売・レンタル及び熱気球を用いた広告宣伝の企画運営等を行う有限会社バルーンカンパニーの代表取締役を務めています。 (熱気球を用いたイベント運営) (2005年竜虎万博にて)イベント 愛知万博オープニングイベント 龍虎型熱気球をショーとして演出。 スペインイベリア万博、日本館オープニングイベントで龍虎バルーンを会場に舞い降ろした。 山本寛斎元気プロジェクトで、東京ドームで初めて巨大なクジラ船バルーンを掲揚した。 今年は東京オリンピックのイベントで、東京のど真ん中で巨大な顔を出現させた。 (熱気球体験フライト) (係留フライト) (藤田昌彦さんのプロフィール) 東京都出身 東京都立松原高等学校卒 1978年3月 国際商科大学(現東京国際大学)卒業 商学部/10期 米田ゼミ 大学卒業後は熱気球競技の盛んなアメリカに一年間渡り、技術を磨く。 1989年、2000年と2回の日本選手権優勝、熱気球ホンダグランプリ3連覇、熱気球ワールドホンダグランプリ優勝、日本人初のワールドエアゲームス金メダルなどの成績を上げ日本熱気球界で「世界の藤田」と呼ばれる存在となる。 冒険飛行にも挑戦し、1992年に日本初・世界初の熱気球によるベーリング海峡横断飛行に成功。2011年にキリマンジャロ横断フライトに世界で初めて成功。2013年にはアルプス山脈を約400キロにわたって横断するロングフライトも果たす。 現在は熱気球競技選手、冒険家。熱気球の販売・レンタル及び熱気球を用いた広告宣伝の企画運営等を行う有限会社バルーンカンパニーの代表取締役。 有限会社 バルーンカンパニー 住所:〒329-0101 栃木県下都賀郡野木町友沼5488-11 電話:0280-55-1238 FAX :0280-55-1525 設立:1988年3月 ホームページ:https://www.balcomjp.com Facebook:熱気球の会社Balloon Company TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
霞が関にルーツを持つグローバルなTIUの交換留学生。
Mark Wijeyratneさん(2006年 スウェーデンからの交換留学生) 2021年9月9日Mr. Mark Wijeyratne‘s Professional Career: (Mark Wijeyratneさんプロフィール) Sales & Marketing Manager-iFACTS Governance, Risk and Compliance software, Sweden Sales Manager Belgium, Netherlands and Luxembourg-SONY Regional Sales Manager (APAC) and Area Manager (ASEAN) -Safeture, Sweden Managing Consultant (Telecom practice)- HAYS plc, Singapore Managing Consultant (Telecom practice)- Chandler Macleod, Singapore Key Account Manager-Telia Company, Sweden TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
Mark Wijeyratneさん(2006年 スウェーデンからの交換留学生) 2021年9月9日Mr. Mark Wijeyratne‘s Professional Career: (Mark Wijeyratneさんプロフィール) Sales & Marketing Manager-iFACTS Governance, Risk and Compliance software, Sweden Sales Manager Belgium, Netherlands and Luxembourg-SONY Regional Sales Manager (APAC) and Area Manager (ASEAN) -Safeture, Sweden Managing Consultant (Telecom practice)- HAYS plc, Singapore Managing Consultant (Telecom practice)- Chandler Macleod, Singapore Key Account Manager-Telia Company, Sweden TIU 霞会シンガポール支部 [...] Read more...
あるTIU卒業生の人生の軌跡
髙宮純一さん(1992年24期卒業 教養学部国際学科 左治木吾郎ゼミ(1~2年生時)、小林多加士ゼミ(3~5年生時))2025年5月1日大学時代の資料探し この原稿を執筆するにあたり、久しぶりに大学時代の資料、書類、卒業アルバム、書籍などをあちこち探してみました。確か、大学時代の成績表を大学院進学の際に取り寄せた記憶があり、コピーしてどこかにしまっておいたはずですが、結果として見つけることができませんでした。今年で大学を卒業してから33年目になりますが、これまで国内外を12回ほど引っ越しました。引越しのたびに家族も増え、荷物を最小限に減らさざるを得ませんでした。学生時代に読んで感動し、名著として選定した書籍は、どこでも再読できるように全ての引越先に運搬していました。最近の引越しまで、大学時代のお気に入りの授業の講義ノートを捨てられず保管していましたが、昨年11月の引越しの際に荷物を減らすために講義ノートを捨ててしまい、後悔しています。 学問への情熱 これまでは時折、当時感動した先生方の講義ノートや教科書、講義で紹介された名著を読み返すことで、新たな学問、アカデミズムに触れ、学生時代の気持ちを思い出していました。私は頭が良くなく、成績もあまり良くないのですが、小さい頃から新しいことを学ぶことが好きで、決して勉強することは嫌ではありませんでした。大学TIUに進学し、素晴らしい先生方からアカデミズムという新たな学問の世界に導いていただいたことは、私にとって非常に刺激的で、学問の楽しさをさらに深く理解する機会となりました。学生時代に感じたあの時の感動を忘れることができず、社会人になっても当時の気持ちを思い出したくなります。 TIUを知るきっかけ 私がTIUを知ったきっかけは、高校時代の英語教師からの紹介でした。その教師はTIUを視察してきたらしく、「埼玉県の川越にありながら東京国際大学という名であるが、今後の日本の国際人を養成する素晴らしい大学がある。米国オレゴン州のウィラメット大学という大学に留学できる制度もあるお薦めの大学である」との触れ込みでした。 高校時代の留学経験 高校時代に米国に留学したことで、日本の高校を1年間休学し、4年間かけて高校を卒業しました。そのため、浪人することなく確実に入学できる大学に進学したいと考えていました。大学入試の受験料を節約するため、大学受験はTIU一本に絞り、もしTIUに受からなかった場合は大学には進学せず、働くつもりでした。できれば運よく給付生となり、学費免除を受けて在学中に米国の大学に留学したいと思っていましたが、そんなに世の中は甘くありませんでした。 ※スティルウォーター・シニア・ハイスクール:歴史的背景、主な特徴、著名な卒業生 スティルウォーターはミネソタ州で最初の学区であり、スティルウォーター・ハイスクールは1873年に設立された長い歴史を持つ学校です。スティルウォーター・ハイスクールは、オリンピックのクロスカントリースキー金メダリストであるジェシー・ディギンズや、元ホワイトハウス首席補佐官で現米国退役軍人長官のデニス・マクドノーなど、多岐にわたる分野で著名な卒業生を輩出しています。これらの卒業生の存在は、同校が高い教育水準と多様な才能を育む環境を有していることを示しています。 全米トップクラスの聖歌隊に参加(NYでのコンサート) 上述のとおり、私は高校2年生の夏から約1年間、米国に留学する機会に恵まれました。留学先は、ミネソタ州の対岸に位置するウィスコンシン州との州境にあるスティルウォーター市のStillwater Senior High Schoolでした。日本では2年生でしたが、留学先では3年生に編入しました。この高校時代の米国留学が私の人生に大きな影響を与えたことは間違いありません。 何も知らずに選択したChoir(聖歌隊)の授業は、実は全米トップクラスの優れたプログラムでした。我が校は幸運にも全米の高校の中から選抜され、ニューヨーク(NY)のセント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂(Cathedral of St. John the Divine)で開催される全米高校Choirのコンサートに招待されました。運良く私はこのNYでのコンサートのメンバーに選ばれました。NYでのコンサートやリハーサルの前後には、マンハッタンの摩天楼を散策したり、ブロードウェイ・ミュージカル(コーラスライン)を観劇したりしました。NYの各通りから見上げるビル群の壮大さには圧倒されました。 宿泊先近くのペン・ステーションで朝に見かけたトレンチコートをまといアタッシュケースを携え颯爽と歩く日本人ビジネスマンは、とてもクールでスマートな格好良さ、洗練さを感じました。当時、9.11でなくなった今は無きWTC(ワールド・トレード・センター)のツインタワーを見上げながら、将来このNYのマンハッタンで仕事をする自分を思い描き、ここで働いて挑戦したいと切望したのを覚えています。当時のNYは私に大きな夢やチャレンジ精神を与えてくれました。(実際にはそうした人生にはならなかったが。) 今後の人生に影響を与えたメキシコ訪問 さらに私の人生に影響を与え、それからの人生の方向性を決める出来事がありました。それは、NYで開催されたコンサートから戻った後に体験したメキシコ訪問でした。ホストファミリーは毎週末欠かさず教会に通う敬虔な長老派教会(Presbyterian Church)の信者でした。私の宗教は神道でしたが、留学中は米国の家族と一緒に教会に通い、青年部(Youth Club)に参加していました。そこで、教会活動の一環として、高校生によるメキシコでの教会建設を手伝うボランティア活動に参加することになりました。(この活動費は、教会の信者の方々からの寄付により賄われました。) 米国・ミネソタ州スティルウォーターからメキシコ・チワワ州の小さな村(村名は忘れました)まで、牧師さん2人が交代でスクールバスを運転し、国境を越えるという米国をほぼ縦断する旅でした。ボランティアの拠点・キャンプとなった米国側テキサス州エルパソまでは、スクールバスの中で2泊してたどり着きました。ミネソタ州スティルウォーターからの距離は最短でも1,399マイル(約2,251㎞)で、日本で言うと札幌市から福岡市までの距離に相当します。その後、エルパソから国境のリオ・グランデ川を渡り、メキシコ国境都市のシウダード・ファレスに入り、チワワ州の小さな村の教会建設現場に通いました。 陸路で国境を渡ったのは初めての経験でした。目には見えない国境を米国からメキシコに渡った瞬間、その雰囲気や空気感が一変したことに衝撃を受けました。同時に、対岸のメキシコ側の国境にはフェンスが敷かれており、米国への入国を待つ多くの人々がごった返している様子を見て、米国とメキシコの格差を目の当たりにしました。豊かな米国社会と貧しいメキシコとの格差に違和感を越えた怒りを感じたのを今でも鮮明に覚えています。この状況を何とか良い方向に改善したいと本心から感じました。当時はまだ17歳の高校生で、とても純粋だったようです。この体験は今でも鮮明に蘇り、その後の私の人生や仕事にとって重要な意味を持っています。 もはやNYの摩天楼でビジネスパーソンとして世界経済の中心で仕事をする自分の姿はすでに吹き飛び、先進国以外の途上国の地域や国々に関わって暮らし、仕事をすることが自分にとってやりたいこと、自分の人生の役割、天職ではないかと思うようになりました。この時の思いが、私の今後の人生のこだわりとなり、良くも悪くも大きく影響しています。 高校時代の思い出 日米で4年間過ごした高校時代、私のもっぱらの関心はギリシャ哲学にあり、ソクラテスやプラトンに傾倒していました。特に、絶対的な真理や善の存在を追求し、プラトンの『国家』を何度も繰り返し読みふけり、イデア論や国家論を理解しようと必死でした。当時の私は、受験勉強から逃避していただけかもしれませんが、素直になれず、ひねくれていたと思います。 そんな私を見かねて、東京教育大学の哲学科出身である恩師の村田先生が放課後に哲学好きな私の関心を満たし、ご指導してくださいました。今でも記憶に残る村田先生との一番の思い出は、先生が学生時代に研究していた英国の政治哲学者トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』の原書を先生の解説を受けながら読んだことです。とても難解な著作でしたが、先生に教えてもらいながら、自然状態、自然権、自然法といった言葉の定義を英語と日本語で理解し、先生と一緒にじっくり読み込んでいく学習でした。村田先生には、学ぶことの楽しさ、特に原書から読み解く学びの楽しさを教えてもらいました。 楽しかったTIUでの学び こうした経緯を経て、TIUに入学しました。TIUでは、私の知的好奇心を満たしてくれました。もっと知りたい、学びたいという姿勢で先生方にアプローチすると、ほぼ全ての先生方が対応してくださいました。TIUには、学問追求に熱心で、教育者としても素晴らしい先生方が多く、私は良い恩師に恵まれたと思っています。TIU時代は、学内では学ぶこと、研究することに集中し、学外ではインカレサークルに所属して、全国の学生や世界の学生たちと交流することに専念した充実した学生生活でした。後述しますが、研究熱心だったため、1年留年して5年間の大学生活を過ごしました。 1~2年生時のゼミは、左治木吾郎先生のゼミに所属し、川田侃先生の著書『国際政治経済学をめざして』を教材として、国際政治経済学を学ぶための米ソ冷戦構造や南北問題などの基礎を教えてもらいました。ソ連のゴルバチョフ政権下のペレストロイカやグラスノスチとともに政治改革が進められた時期、その後の東欧革命、天安門事件、ベルリンの壁の崩壊、ソ連崩壊につながる社会主義諸国の激動の時代でした。左治木先生はロシア経済や社会主義経済などもご専門だったため、その当時に起こる様々な事象について多くの質問をしたり、時間が足りない場合は先生の研究室に押しかけたりして、いろいろとご指導、ご教授いただきました。さらに左治木先生には、上級生のゼミや合宿にも誘っていただき、私の知りたい、学びたいという好奇心を大いに満たしていただきました。 3~5年生時のゼミは、小林多加士先生の中国研究演習のゼミに所属し、ご指導いただきました。小林ゼミは中国の地域研究を学ぶゼミでしたが、私の関心は当時揺れ動いていた社会主義体制の全般的な危機をこれまでの歴史社会理論上どう捉えるかということでした。小林先生は中国研究のみならず、世界システム論や比較文明論なども研究されていました。私は小林先生の指導の下、社会主義体制に影響を与えてきたマルクス歴史社会理論、アルチュセールの構造主義的社会主義、アンドレ・グンダー・フランクの従属理論、サミール・アミンの新従属理論、ロベール・ボワイエなどのレギュラシオン学派、イマニュエル・ウォーラーステインの世界システム論、田中明彦の『新しい中世 相互依存の世界システム』などの著作物を読み漁り、卒論を執筆する準備をしました。当時のワープロで執筆したので、メモリー機能がなく卒論は残っていませんが、確かテーマは「社会主義の全般的危機と歴史社会理論の再検討」だったと思います。小林ゼミでは、ゼミの合宿に参加しましたが、大学院生のゼミにも参加させてもらい、とても知的好奇心を刺激してもらいました。何となくこのまま大学院に進学する感じでした。 ゼミ以外に感銘を受けたTIUの先生方の講義 ゼミのみならず、感銘を受けた講義は以下のとおりです。 太田秀通先生の歴史学 西洋史学者である太田先生からは、世界史認識の思想と方法をはじめ、歴史を学ぶ楽しさを教えていただきました。紀元前のギリシャやクレタ島で使用されていた線文字Bの解読に関する歴史ロマンに感銘を受けました。アジア的生産様式の解釈などの講義も最高でした。アカデミズムの素晴らしさ、楽しさを教えてもらいました。 伊東博先生の教育学 援助する教育という理論に感銘を受け、その重要性を学ぶことができました。講義後は何度も先生の研究室を訪ね、さらに深い講義を受けました。教育も援助することと一緒であるとの考えには共鳴し、その後の途上国勤務にも活かしました。 大越康夫先生の憲法論 憲法9条を中心に憲法についてしっかり教えてもらいました。 引田隆也先生の政治思想史 とてもわかりやすく、ギリシャから現代までの思想史を網羅的に教えてもらい感銘を受けました。 下羽友衛先生の国際関係論 国際関係分析の方法論を教えてもらいましたが、紛争解決の研究者はその紛争地帯の現場に行って活動しながら分析することが重要であると熱弁していたことが印象的でした。 枇杷木賢生先生の国際経済学 一般教養の講義で基本的なことを教えていただきました。いつもジーンズでブーツを履いていた姿に憧れました。最近、米国テキサス州に出張して、念願のテキサス仕込みのブーツを購入することができました。 原彬久先生の国際政治学 モーゲンソー研究で有名で、政治的リアリズムについて教えてもらいました。学生時代にはカントのような理想的な国際政治学があるのではないかと疑問を持ちながら講義を受けていましたが、社会人になり中東アフリカ地域に関わることで、原先生が語っていた政治的リアリズムの重要性をより実感することができました。 杣正夫先生の日本選挙制度史 当時はあまり興味がなかったが、この講義を履修したことで、選挙を通じて日本政治史を理解することができました。このアプローチは新鮮でした。 富塚俊夫先生のアラビア語 2年間第二外国語としてアラビア語を教わりました。社会人となり中東地域に関わるきっかけとなったようです。 白井洋子先生のアメリカ史 ラス・カサス著の『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を読んでレポートを提出しましたが、植民地主義の時代を擁護するような頓珍漢なレポートを提出してしまったことを今でも後悔しています。 学生生活(インカレサークルISA活動、アジア訪問) 学内にいる時は、一生懸命勉強していた記憶が残っています。勉強は好きでしたが、頭が良くないので成績はそれほど良くなかった気がします。学外では、日本国際学生協会(ISA:International Student Association of Japan)という、当時全国に700名ほどの学生が所属する協会の東京支部に所属していました。TIUの先輩に誘われてISAに入会し、学生時代は学内では勉強、学外では海外の学生との交流や国際会議開催などの活動に費やしていました。TIUで講義を受けていない時は、四谷にあった東京支部の事務所に通い、都内の学生たちと勉強会を開催し、国際会議や海外の学生との交流会の企画・準備をしていました。 学生時代は、休みの期間は短期バイトをして10万円程度稼ぐと、そのたびにタイに出かけていました。タイのバンコクをベースに、ネパール、パキスタン、アフガニスタン、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピンなどを訪問し、各国の学生たちと交流していました。本当はもっと遠くに行きたかったのですが、あまり稼げず、学生時代はアジアまでしか行けませんでした。 1989年2月から4月にかけて、タイ、ネパール、パキスタン、アフガニスタンを訪問する機会に恵まれました。これは、私がISAの団長として、ネパールとパキスタンの学生団体と交流会を開催するイベントでした。ネパールでは、トリブバン大学(Tribhuvan University, TU)との交流会で、地方の現状を視察しようということで、地方都市のポカラに移動し、車両が入れない山岳地帯を3日間歩いて、各農村の農家に泊まりながら現地の村の有力者、小学校や病院などを視察しました。 パキスタンでは、カラチ大学とペシャワール大学の学生たちとの交流会を実施しました。パキスタンでは現地の家庭にホームステイし、イスラム社会やその文化に触れることができました。同時に、ペシャワールでは、まだ当時ソ連のアフガニスタン侵攻が解決していなかった時代で、ペシャワールのアフガニスタン人の難民キャンプから難民兵士が武器を持って国境のカイバル峠に行く姿、銃声、爆音が聞こえるところまで視察することができた貴重な体験をしました。 腸チフス感染による留年を経験 この旅行から帰国後、高熱が続き、幼少時から面倒を見てもらっているかかりつけ医の治療もお手上げとなり、地元の自治医科大学病院に行ったところ、病名はわからないが即入院となりました。同大学病院でも1週間ほど病名を診断できず、病状が悪化しないように処置がなされました。その後、培養結果が出て、腸チフスと診断され、法定伝染病に指定されている病気ということで、隔離施設のある病院に移送されることになりました。隔離病棟に入ったら即絶食となり、胸から管を入れられ、長期入院の治療が始まりました。40日ほど入院して退院後、体力も大幅に落ち、歩くことすらできない状況で、大学に通うのも困難な時期が続きました。学校側とも交渉しましたが、前期試験を受けられなければ留年せざるを得ないとのことで、1年間休学することにしました。 実は、学生時代には知識がなかったため対処できなかったが、法定伝染病に罹患し隔離されたことを根拠に学校側としっかり交渉すれば、1年留年することはなかったのではないかと少々悔やんでいます。ある教授に相談したら、「あなたを救う方法はない」ときっぱりと言われ、それ以上粘ることができませんでした。無知であることの哀れさを感じる出来事でした。 大家さんとの良き思い出 1年留年したことで、両親とは多少ギクシャクしながらも、サポートはしてくれていました。しかし、自分から家を出ることにして、4年生から5年生の就職が決まるまでは、大学近くの鶴ヶ島に四畳半トイレ・風呂・洗濯機使用共同で1か月1万円(共同の水道・光熱費は5千円)のアパートを見つけて住むことにしました。今はもう取り壊されてなくなってしまった古いアパートで、伯谷荘と言い、地元の酒屋さんのお婆様が大家さんをしているところでした。家賃は、そのお婆様の大家さんに直接払いに行くシステムでした。その際に、大家さんといろいろな世間話を30分くらい、長い時には1時間くらい話して家賃を払って帰ります。だんだん親しくなってくると、家賃を払いに行ったのに、お土産やお小遣いをもらって帰ることが多くなりました。この伯谷荘の大家さんには本当に助けてもらい、今でも感謝している忘れられない思い出の1つです。 就職活動の現実 こんな素晴らしい大家さんに支えてもらいながら、高校4年間、大学5年間通う学生を受け入れてくれる職場があるのかと怯えながら、インカレサークルISAの他大学の学生の仲間たちから情報を得ながら、就活を始めました。就活しながら、大学院への進学も真剣に考え準備もしていました。両親は、栃木の田舎に戻り、教員や役場、県庁、警察や消防署、父と同じ郵便局員などに務める公務員を希望していたようです。この就活の機会に、いろいろな業種の職業を見てみようとの気持ちで活動しましたが、現実はかなり厳しいものでした。 当時は、電話や手紙で説明会に申し込むのが一般的でした。一流と言われる大学の仲間たちからどこの企業は説明会が始まったとの情報を得て、電話をすると、出身大学名が伝わると説明会は開催しないとの回答が何社からもありました。実際に別の大学の友人たちはその企業の説明会に参加しているのに、参加させてもらえない、参加する権利さえないと現実の厳しさを実感しました。また、中学時代にとても優秀だった同級生が務める有名商社を訪ねたところ、「髙宮の大学ではうちの会社には入れない」とはっきり言われてしまいました。あるシンクタンクの説明会に参加したところ、「あなたのような人材は当社はいらない」とはっきり言われたこともありました。 一方、企業やNGOでも、とても丁寧で親切に対応してくれたところもありました。超大手企業は青田買いで先輩が出身大学の学生を確保している姿も身近に感じました。正式に試験を受けても、そう簡単には入れるところは少なそうだと感じていました。 JETROへの就職 民間企業に比べ就活の時期が遅い公務員や政府系機関の就職も視野に入れ、試験は誰でも受けさせてくれる職場を選んで就活することにしました。公務員の上級職を受けましたが、全くダメでした。外務省の専門職と上級職の受験票を取りながら、政府系機関のJETRO、JICA、OEFC、JNTO、日本銀行、中小企業事業団(現在は中小機構)などに連絡して、若手職員との面談をさせていただきました。通常であれば、出身大学の先輩職員が対応するのですが、TIU出身の先輩がいないところも多く、私の場合は別の出身大学の職員やインカレサークルの先輩を頼って各機関を訪問し、お話を聞かせていただきました。 アフリカに行ける職場は限られていましたが、「学生時代はアジアを訪問して途上国を知ったが、将来はアフリカで仕事をしたい」とJETROで言ったところ、当時のJETROは先進国志向の職員が多く、途上国、ましてやアフリカに行きたいという職員は聞いたことがない。JETROに入ったらすぐにアフリカに行けるのでは」と話が盛り上がりました。JETROとは縁があったのでしょう。その後、内々定をもらい、もう他に就活する必要もなく、残っている外務省の試験も受ける必要はない、JETROを信用してくださいと言われ、結果としてJETRO職員となることを決めました。その後、いくつかの政府機関や企業からお声がかかりましたが、JETROに就職するとお伝えしてお断りしました。 TIUのゼミの小林先生に大学院に行くか、JETROに行くか相談したところ、JETROに行くべきであると言われ、就職した後に大学院に来たければ勉強しにくれば良いと言われました。したがって、JETROに就職することにしました。TIUの就職課にJETRO内定を報告したところ、JETROを知らなかったようでした。とても残念な気持ちになりました。 社会の現実の厳しさを知る就活を体験しつつも、自分のやりたい、その後天職であると思える職場に就職できたことはとても運の良い人間だと思いました。就活中に言われたことは、良いことも悪いことも、就活でお付き合いした企業や機関は一生忘れることはありません。 TIU卒業後の人生の主な歩み 現在、岡山県倉敷市水島に本社のある萩原工業株式会社で経営企画室 社長特命担当部長を務めています。以前はJETRO岡山貿易情報センターの所長を務め、26年間JETROに勤務していました。 国際貿易・投資への献身:日本貿易振興機構(JETRO)でのキャリアJETROの日本の貿易・投資促進における役割と活動 1992年に日本貿易振興会(現在の日本貿易振興機構、JETRO)に入会し、2018年4月に退職するまでの26年間、国際貿易と投資の促進に尽力しました。JETROは、日本と世界各国との間の貿易と投資を促進することを目的とした政府系の独立行政法人です。当初は輸出振興に重点を置いていましたが、近年では輸入促進、対日投資誘致、中小企業の海外展開支援など、幅広い活動を行っています。現在、JETROは、56カ国76事務所と、日本国内に48の事務所を展開し、グローバルなネットワークを活かして活動を行っています。 海外事務所長としてのリーダーシップ ダルエスサラーム事務所長(タンザニア)での主な活動 JETRO在籍中にダルエスサラーム事務所長を1994年11月から1998年3月まで務めました。アフリカ駐在を希望して就職し、3年目でタンザニアに駐在、しかも若輩の20代ながらも事務所代表の所長として赴任することができました。タンザニアは、日本企業の投資関心が高まっている国の一つであり、JETROは日本とタンザニアの経済関係強化に努めています。ダルエスサラーム国際見本市への日本パビリオンの出展などを通じて、日本製品やサービスの紹介、日本企業による市場調査支援などが行われていました。また、アフリカ投資促進フォーラム(AIPF)の枠組みの中で、日本企業の投資促進を支援していました。 私の事務所長としての主な活動は、日本企業のタンザニア市場への参入支援、タンザニアからの対日輸出促進、両国間の経済協力関係の強化などでした。 テヘラン事務所長(イラン)での主な活動 続いて、私は1999年6月から2004年1月までテヘラン事務所長を務めました。タンザニアの駐在から東京本部に戻り、半年後には誰も行きたがらないとのことで、人事からお声がかかりました。また、所長であるということで即答しました。JETROは、イランとの貿易・投資促進を通じて、日本の経済発展に貢献することを目的として活動を行っています。テヘラン事務所では、市場調査、日本企業のイラン市場への進出支援、イランからの対日輸出促進、テヘラン国際見本市の日本館運営と日本企業向け展示会への参加支援を行いました。 また、当時は日本がアザデガン油田の権益を確保するため、イラン側に対して非石油分野での支援を活発化した時期でもありました。JETROにはイランの非石油分野への支援をする指示があり、イラン側が日本政府に求めた自動車産業及び部品産業の支援、薬品分野の産業支援、イランのWTO加入促進支援などを強化しました。イランは政治的に複雑な状況にある国であり、私の在任中には、日本とイランの経済関係を維持・発展させるために、慎重な対応と深い市場理解が求められました。 カイロ事務所長(エジプト)での主な活動 2010年3月から2014年11月まで、カイロ事務所長を務めました。エジプトは、アフリカ地域においてJETROが1955年から活動を展開している重要な拠点の一つです。カイロ事務所では、日本企業の対エジプト投資促進、エジプトからの対日輸出促進、技術協力、ビジネスミッションの実施など、多岐にわたる活動が行われています。 私の在任中には、アラブの春の事件が勃発し、政治・経済情勢の変化に対応しながら、日本とエジプトの経済関係を強化するため、カイロ国際見本市において日本館を出展・運営する活動なども展開しました。当時の上司からは「なぜ現地にいてアラブの春の発生を事前に予知できなかったのか?」と責められたことを思い出しました。2014年3月には、ロンドンで開催されたチャタムハウス(Chatham House:王立国際問題研究所)とアジア経済研究所の研究会合に出席し、「アラブの春」後の中東情勢について議論に参加するなど、地域情勢へ深く関与しました。 @マルサ・マトルーフの海岸 @エジプトの西部砂漠(サハラ砂漠の一部) @シーワオアシス 地域イニシアチブの主導:JETRO岡山貿易情報センター所長としての活動 JETROでは地方事務所勤務を経験していませんでしたが、2015年7月から2018年4月まで、JETRO岡山貿易情報センター所長を務め、地域経済の振興、国際交流、地元企業の支援に尽力しました。東京本部の役員からは、しっかり地方を学び、地方創生に貢献してくるよう指示されました。岡山県庁や県内の各市町村の企業の海外進出について知事、市長、町長、村長たちと意見交換を行ったり、岡山県高等学校教育研究協議会委員や岡山操山高校のスーパーグローバルハイスクール(SGH)運営指導委員会委員として、高校生のグローバルな視点育成に貢献したりするなど、地域社会との連携を積極的に行いました。 また、岡山県内の若者のグローバル意識を高めることを目的とし、地元の大学生や高校生、小中学生にも講師として長年関わり、自身の国際経験を共有してきました。これらの活動は、JETROのネットワークと自身の経験を活かして、地域経済のグローバル化を推進しようとしたものでした。 地方創生に貢献することを学ぶため岡山大学大学院にて公共政策学修士号を取得 2016年4月からJETRO岡山貿易情報センター所長を務めながら、夜や週末は岡山大学大学院の社会文化科学研究科博士前期課程の公共政策学専攻に通いました。ここでは、地域社会の発展と自立性を重視した公共政策について学び、念願かなって修士号も取得することができました。具体的には以下の内容を学びました。 政策分析能力: 法学、政治学、経済学、経営学などの学際的アプローチを通じて、政策の企画・立案・評価を行う能力を養いました。 公共組織経営: 公的組織の経営に関する知識とスキルを身に付けました。 地域公共政策: 中四国地域を対象に、地域の政策課題を発見し、解決する能力を育成しました。 在学中の2016年8月~9月にかけて、都市計画や地域開発の研究で有名な米国のPortland State Universityの研修に参加しました。このプログラムは「Okayama University Public Administration Short-Term Training, Citizen-Centered Governance – Cases from Portland, Oregon」というもので、この研修を修了することもできました。研修内容は以下のとおりです。 市民中心のガバナンス: 市民参加の重要性、市民の意見を政策決定に反映させる方法や、市民との協働を促進するための戦略を学びました。コミュニティ・エンゲージメント: 地域社会との関わり方や、コミュニティのニーズを理解し、対応する方法を探りました。 ポートランドの事例研究: ポートランド市が実施した市民中心の政策やプロジェクトの具体例を通じて、実践的な知識を得ました。政策の実施と評価: ポートランド市の政策がどのように実施され、評価されているかを学びました。 公共政策の理論と実践: 行政倫理と価値観、公共政策における倫理的な問題や価値観についての理解を深めました。政策分析と実施: 政策の分析方法や実施のプロセスを学びました。 リーダーシップと管理: 公共機関や非営利組織でのリーダーシップのスキルを養いました。財務管理と予算編成: 公共機関の財務管理や予算編成の方法を学びました。 地域資源の管理: 地域の自然資源を保護し、持続可能な方法で管理するための政策を学びました。非営利組織の管理: 非営利組織の運営や管理に関する知識を深めました。 このプログラムは、ポートランド州立大学の専門家や実務家から直接学ぶ機会を提供し、理論と実践を融合させた学びを通じて、公共政策における市民中心のガバナンスの理解を深めることができました。久しぶりの米国での学びは、とても良い機会、刺激となりました。 修士論文について 修士論文では「地方創生における地域経済活性化に効果をもたらす輸出産業の考察」をテーマに執筆しました。その概要は以下のとおりです。 研究目的: 日本の人口減少とそれに伴う国内経済の縮小に対し、地域経済を活性化させるために輸出産業の役割を探ることを目的としています。 研究方法: 貿易統計の分析: 財務省のデータを使用して、日本全体および岡山県の貿易動向を分析。産業連関表の利用: 地域産業連関表を用いて、各地域の輸出産業の特化係数や比較優位性を評価。 研究結果: 生産効果モデル: 輸出産業が地域経済に与える生産効果を分析し、主要な輸出産業を特定。輸出特化係数と比較優位モデル: 各産業の輸出特化係数と比較優位性を評価し、地域ごとの輸出産業の強みを明らかに。 研究考察: 輸出産業の重要性: 輸出産業が地域経済の成長を促進し、国内市場の縮小を補う役割を果たすことを強調。 政策提言: 地域ごとの輸出戦略を策定し、経済成長を維持するための具体的な施策を提案。 結論: 輸出戦略の重要性: 国内需要の減少に対処するため、輸出を通じて新たな需要を創出し、地域経済を活性化させることが必要。 詳細な分析: 全国産業連関表(2011年): 日本全体の輸出構造を分析し、輸出が国内生産に占める割合を明示。主要な輸出産業25部門を特定。 地域別分析: 47都道府県の地域産業連関表: 各地域の輸出データと産業分類を分析し、地域ごとの輸出産業の特徴を明らかに。 この論文は、地域経済の活性化における輸出産業の重要性を強調し、具体的な政策提言を行っています。詳細な統計分析や地域別の事例研究を通じて、輸出戦略の策定と実施の必要性を示しています。 JETROでの26年間で得たもの JETROでの26年間、そのうち13年間を海外駐在に費やした私は、国際市場、貿易規制、異文化間のビジネス慣行、そしてグローバルな経済動向に関する深い理解を培ってきました。この経験は、民間企業の実践的な戦略的方向性とグローバルな取り組みを形成する上で非常に貴重です。岡山大学大学院で2018年3月に取得した公共政策修士(MPP)の学位を含む私の学歴は、国際ビジネスにおける実践的な経験を補完し、グローバルな文脈における戦略的意思決定のための理論的枠組みを提供しています。MPPプログラムは、経済学、政策分析、組織管理などの分野の知識を与え、これらはグローバルな文脈における戦略策定に直接応用できるものです。 製造業への転身:萩原工業株式会社萩原工業:会社概要、事業内容、グローバル展開 岡山でのJETRO所長時代に創業家の経営者から誘われ、「人生後悔させない」と言われ最終的にJETROを離れる決意をしました。2018年5月に岡山県倉敷市水島に本社がある萩原工業株式会社に転職し、現在、経営企画室社長特命担当部長を務めています。萩原工業は、ポリエチレン・ポリプロピレンを主原料とした合成樹脂繊維「フラットヤーン」を用いた関連製品および産業機械の製造・販売を行う企業です。ブルーシートの国内トップメーカーであり、その他、人工芝、食品包装材、家電部材など、幅広い分野で製品を展開しています。当社は、海外14カ国に生産・販売拠点を持ち、グローバルに事業を展開しており、東京証券取引所プライム市場の上場企業でもあります。 萩原工業における役割:国際部長から経営企画室長へ 私は萩原工業入社後、経営戦略室長、合成樹脂事業部門国際部長及び経営企画室長を経て、現在は社長特命担当部長として、同社のグローバル展開を推進することを担っています。JETROでの豊富な国際経験と、海外市場に関する深い知識は、当社のグローバル戦略を推進する上でとても役に立っています。 私の萩原工業での活動の一例を紹介します。つい最近、外務省が作成したパンフレット「日本と中南米をつなぐ日系人」のインタビュー記事を通じて私の活動が紹介されました。 www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/pub/pamph/japan_latinamerica.html 私がこれまで訪問した国88か国(そのうち居住した国5か国)について 私がこれまで訪問し、住んだ国は、以下の地図のとおりです。 I have been to 88 (35%) countries / territories of the #World! #countriesbeen グローバル展開による経営力強化:講演テーマ分析 私はこれまで、「経営力強化のためのグローバル展開について」というテーマで様々なセミナーや講演会で講演を行ってきました。グローバル展開は、企業が成長機会を求め、競争力を強化するための重要な戦略の一つです。海外市場への参入、グローバルサプライチェーンの構築、海外企業との提携など、多様なアプローチが存在します。私の講演は、JETROでの経験に基づいた実践的な視点と、萩原工業におけるグローバル戦略の推進経験を踏まえた、示唆に富む内容であると評価されることがあります。 【髙宮純一(タカミヤ ジュンイチ)さんプロフィール】 1967年 5月19日生(東京都渋谷区) 学歴: 1974年3月 卒園 戸田東幼稚園(埼玉県戸田市) 1980年3月 卒業 野木町立友沼小学校(栃木県下都賀郡) 1983年3月 卒業 野木町立野木中学校(栃木県下都賀郡) 1985年6月 卒業 Stillwater Senior High School(米国ミネソタ州スティルウォーター市) 1987年3月 卒業 茨城県立古河第三高等学校普通科(茨城県古河市) 1992年3月 卒業 国際学士 東京国際大学教養学部国際学科(埼玉県川越市) 2016年9月 研修修了 Okayama University Public Administration Short-Term Training, Citizen-Centered Governance – Cases from the Portland, Oregon. Center for Public Service, Mark O. Harfield School of Government, Portland State University.(米国オレゴン州ポートランド市) 2018年3月 修士課程修了 公共政策学修士(Master of Public Policy) 学位記番号:第22946号(Degree Number : 22946)岡山大学社会文化研究科博士前期課程公共政策学専攻(岡山県岡山市) 資格: 防災士(Disaster Prevention Expert Certification in Japan) 日本防災士機構(特定非営利活動法人)(Japan Bousaisi Organization) 認定番号: No.019874 居住地の東京都世田谷区の支援を受け取得。 職歴: 1992年4月1日日本貿易振興会(JETRO:現在の日本貿易振興機構、東京都港区虎ノ門)採用 総務部人事課付 1992年4月20日 国内異動 経理部経理課(採用後配属先、経理・会計・財務業務) 1994年11月26日 海外異動 ダルエスサラーム事務所 所長 タンザニア ダルエスサラーム:1994年11月 – 1998年3月(3年5ヶ月) ダルエスサラーム日本人会 役員 1998年3月28日 国内異動 海外事業部事業調整課(海外事務所運営業務) 1998年7月1日 国内異動 事業統括部海外事業課(海外事務所運営業務) 1999年6月11日 海外異動 テヘラン事務所 所長 イラン テヘラン:1999年6月 – 2004年1月(4年8ヶ月) テヘラン日本人会 理事 2004年1月27日 国内異動 企画部企画課 課長代理(経営企画、予算総括業務) 2007年5月1日 国内異動 海外調査部調査企画課 課長代理(海外調査部全体の管理運営、調査企画業務) 2007年5月19日 国内異動 海外調査部 総括課長代理(海外調査部全体の管理運営、調査企画業務) 2008年10月10日 国内異動 総務部 主査(法務、契約、情報公開、コンプライアンス、内部統制等業務) 2009年7月1日 国内異動 総務部 主幹(法務、契約、情報公開、コンプライアンス、内部統制等業務) 2010年3月23日 海外異動 カイロ事務所 所長 エジプト カイロ:2010年3月 – 2014年11月(4年9ヶ月) エジプト日本商工会 副会長 カイロ日本人学校 PTA会長(学校運営委員会メンバー) 2014年3月27日 ロンドンにて Chatham House(英国王立国際問題研究所)とアジア経済研究所の研究会合に出席 「アラブの春」後の中東 ~東西の視点の邂逅(かいこう)~MENA in Post – “Arab Spring” Era Shared Perspectives on the Middle East and North Africa 2014年11月20日 国内異動 企画部主査 2015年2月1日 国内異動 事業推進主幹(中東アフリカ地域戦略) 2015年4月1日 国内異動 海外地域戦略主幹(中東アフリカ地域戦略) 2015年7月1日 国内異動 企画部付(入院) 2015年7月15日 国内異動 岡山貿易情報センター 所長 日本 岡山県:2015年7月 – 2018年4月(2年10ヶ月) 主な公職: 岡山商工会議所 参与 岡山・ミャンマー友好推進会議 顧問 岡山県・南オーストラリア州友好協会 理事及び監事 岡山県高等学校教育研究協議会 委員 岡山県高等学校教育研究協議会専門委員会(第二専門委員会)委員 岡山県高等学校教育研究協議会 起草委員会 岡山県土木部指定管理者候補選定委員会 委員 岡山県企業誘致推進協議会 企業誘致アドバイザー 岡山・産学官連携推進会議 委員 岡山空港国際物流促進協議会 顧問 岡山市経済政策審議会 委員 岡山市国際交流協議会 監事 (公財)岡山県産業振興財団 評議員 (公財)岡山県産業振興財団 評議員 選定委員会 委員 (一社)岡山県国際経済交流協会 理事 (一財)岡山県国際交流協会 評議員 (一財)岡山県国際交流協会 運営委員会 アドバイザー 岡山日蘭協会 特別顧問 岡山県立瀬戸南高等学校地域共育審議会 委員 岡山操山高校スーパーグローバルハイスクール運営指導委員会 指導委員 2018年4月30日 退職 日本貿易振興機構(東京都港区赤坂)を退職(26年1か月間) 2018年5月1日 転職 萩原工業株式会社(岡山県倉敷市)に入社 2018年5月1日 経営戦略室 室長(2年6か月) 2020年11月1日 合成樹脂事業部門 国際部 部長(1年間) 2021年11月1日 経営企画室 室長(3年間) 2024年11月1日~現在 経営企画室 社長特命担当部長 TIU 霞会シンガポール支部 [...]
髙宮純一さん(1992年24期卒業 教養学部国際学科 左治木吾郎ゼミ(1~2年生時)、小林多加士ゼミ(3~5年生時))2025年5月1日大学時代の資料探し この原稿を執筆するにあたり、久しぶりに大学時代の資料、書類、卒業アルバム、書籍などをあちこち探してみました。確か、大学時代の成績表を大学院進学の際に取り寄せた記憶があり、コピーしてどこかにしまっておいたはずですが、結果として見つけることができませんでした。今年で大学を卒業してから33年目になりますが、これまで国内外を12回ほど引っ越しました。引越しのたびに家族も増え、荷物を最小限に減らさざるを得ませんでした。学生時代に読んで感動し、名著として選定した書籍は、どこでも再読できるように全ての引越先に運搬していました。最近の引越しまで、大学時代のお気に入りの授業の講義ノートを捨てられず保管していましたが、昨年11月の引越しの際に荷物を減らすために講義ノートを捨ててしまい、後悔しています。 学問への情熱 これまでは時折、当時感動した先生方の講義ノートや教科書、講義で紹介された名著を読み返すことで、新たな学問、アカデミズムに触れ、学生時代の気持ちを思い出していました。私は頭が良くなく、成績もあまり良くないのですが、小さい頃から新しいことを学ぶことが好きで、決して勉強することは嫌ではありませんでした。大学TIUに進学し、素晴らしい先生方からアカデミズムという新たな学問の世界に導いていただいたことは、私にとって非常に刺激的で、学問の楽しさをさらに深く理解する機会となりました。学生時代に感じたあの時の感動を忘れることができず、社会人になっても当時の気持ちを思い出したくなります。 TIUを知るきっかけ 私がTIUを知ったきっかけは、高校時代の英語教師からの紹介でした。その教師はTIUを視察してきたらしく、「埼玉県の川越にありながら東京国際大学という名であるが、今後の日本の国際人を養成する素晴らしい大学がある。米国オレゴン州のウィラメット大学という大学に留学できる制度もあるお薦めの大学である」との触れ込みでした。 高校時代の留学経験 高校時代に米国に留学したことで、日本の高校を1年間休学し、4年間かけて高校を卒業しました。そのため、浪人することなく確実に入学できる大学に進学したいと考えていました。大学入試の受験料を節約するため、大学受験はTIU一本に絞り、もしTIUに受からなかった場合は大学には進学せず、働くつもりでした。できれば運よく給付生となり、学費免除を受けて在学中に米国の大学に留学したいと思っていましたが、そんなに世の中は甘くありませんでした。 ※スティルウォーター・シニア・ハイスクール:歴史的背景、主な特徴、著名な卒業生 スティルウォーターはミネソタ州で最初の学区であり、スティルウォーター・ハイスクールは1873年に設立された長い歴史を持つ学校です。スティルウォーター・ハイスクールは、オリンピックのクロスカントリースキー金メダリストであるジェシー・ディギンズや、元ホワイトハウス首席補佐官で現米国退役軍人長官のデニス・マクドノーなど、多岐にわたる分野で著名な卒業生を輩出しています。これらの卒業生の存在は、同校が高い教育水準と多様な才能を育む環境を有していることを示しています。 全米トップクラスの聖歌隊に参加(NYでのコンサート) 上述のとおり、私は高校2年生の夏から約1年間、米国に留学する機会に恵まれました。留学先は、ミネソタ州の対岸に位置するウィスコンシン州との州境にあるスティルウォーター市のStillwater Senior High Schoolでした。日本では2年生でしたが、留学先では3年生に編入しました。この高校時代の米国留学が私の人生に大きな影響を与えたことは間違いありません。 何も知らずに選択したChoir(聖歌隊)の授業は、実は全米トップクラスの優れたプログラムでした。我が校は幸運にも全米の高校の中から選抜され、ニューヨーク(NY)のセント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂(Cathedral of St. John the Divine)で開催される全米高校Choirのコンサートに招待されました。運良く私はこのNYでのコンサートのメンバーに選ばれました。NYでのコンサートやリハーサルの前後には、マンハッタンの摩天楼を散策したり、ブロードウェイ・ミュージカル(コーラスライン)を観劇したりしました。NYの各通りから見上げるビル群の壮大さには圧倒されました。 宿泊先近くのペン・ステーションで朝に見かけたトレンチコートをまといアタッシュケースを携え颯爽と歩く日本人ビジネスマンは、とてもクールでスマートな格好良さ、洗練さを感じました。当時、9.11でなくなった今は無きWTC(ワールド・トレード・センター)のツインタワーを見上げながら、将来このNYのマンハッタンで仕事をする自分を思い描き、ここで働いて挑戦したいと切望したのを覚えています。当時のNYは私に大きな夢やチャレンジ精神を与えてくれました。(実際にはそうした人生にはならなかったが。) 今後の人生に影響を与えたメキシコ訪問 さらに私の人生に影響を与え、それからの人生の方向性を決める出来事がありました。それは、NYで開催されたコンサートから戻った後に体験したメキシコ訪問でした。ホストファミリーは毎週末欠かさず教会に通う敬虔な長老派教会(Presbyterian Church)の信者でした。私の宗教は神道でしたが、留学中は米国の家族と一緒に教会に通い、青年部(Youth Club)に参加していました。そこで、教会活動の一環として、高校生によるメキシコでの教会建設を手伝うボランティア活動に参加することになりました。(この活動費は、教会の信者の方々からの寄付により賄われました。) 米国・ミネソタ州スティルウォーターからメキシコ・チワワ州の小さな村(村名は忘れました)まで、牧師さん2人が交代でスクールバスを運転し、国境を越えるという米国をほぼ縦断する旅でした。ボランティアの拠点・キャンプとなった米国側テキサス州エルパソまでは、スクールバスの中で2泊してたどり着きました。ミネソタ州スティルウォーターからの距離は最短でも1,399マイル(約2,251㎞)で、日本で言うと札幌市から福岡市までの距離に相当します。その後、エルパソから国境のリオ・グランデ川を渡り、メキシコ国境都市のシウダード・ファレスに入り、チワワ州の小さな村の教会建設現場に通いました。 陸路で国境を渡ったのは初めての経験でした。目には見えない国境を米国からメキシコに渡った瞬間、その雰囲気や空気感が一変したことに衝撃を受けました。同時に、対岸のメキシコ側の国境にはフェンスが敷かれており、米国への入国を待つ多くの人々がごった返している様子を見て、米国とメキシコの格差を目の当たりにしました。豊かな米国社会と貧しいメキシコとの格差に違和感を越えた怒りを感じたのを今でも鮮明に覚えています。この状況を何とか良い方向に改善したいと本心から感じました。当時はまだ17歳の高校生で、とても純粋だったようです。この体験は今でも鮮明に蘇り、その後の私の人生や仕事にとって重要な意味を持っています。 もはやNYの摩天楼でビジネスパーソンとして世界経済の中心で仕事をする自分の姿はすでに吹き飛び、先進国以外の途上国の地域や国々に関わって暮らし、仕事をすることが自分にとってやりたいこと、自分の人生の役割、天職ではないかと思うようになりました。この時の思いが、私の今後の人生のこだわりとなり、良くも悪くも大きく影響しています。 高校時代の思い出 日米で4年間過ごした高校時代、私のもっぱらの関心はギリシャ哲学にあり、ソクラテスやプラトンに傾倒していました。特に、絶対的な真理や善の存在を追求し、プラトンの『国家』を何度も繰り返し読みふけり、イデア論や国家論を理解しようと必死でした。当時の私は、受験勉強から逃避していただけかもしれませんが、素直になれず、ひねくれていたと思います。 そんな私を見かねて、東京教育大学の哲学科出身である恩師の村田先生が放課後に哲学好きな私の関心を満たし、ご指導してくださいました。今でも記憶に残る村田先生との一番の思い出は、先生が学生時代に研究していた英国の政治哲学者トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』の原書を先生の解説を受けながら読んだことです。とても難解な著作でしたが、先生に教えてもらいながら、自然状態、自然権、自然法といった言葉の定義を英語と日本語で理解し、先生と一緒にじっくり読み込んでいく学習でした。村田先生には、学ぶことの楽しさ、特に原書から読み解く学びの楽しさを教えてもらいました。 楽しかったTIUでの学び こうした経緯を経て、TIUに入学しました。TIUでは、私の知的好奇心を満たしてくれました。もっと知りたい、学びたいという姿勢で先生方にアプローチすると、ほぼ全ての先生方が対応してくださいました。TIUには、学問追求に熱心で、教育者としても素晴らしい先生方が多く、私は良い恩師に恵まれたと思っています。TIU時代は、学内では学ぶこと、研究することに集中し、学外ではインカレサークルに所属して、全国の学生や世界の学生たちと交流することに専念した充実した学生生活でした。後述しますが、研究熱心だったため、1年留年して5年間の大学生活を過ごしました。 1~2年生時のゼミは、左治木吾郎先生のゼミに所属し、川田侃先生の著書『国際政治経済学をめざして』を教材として、国際政治経済学を学ぶための米ソ冷戦構造や南北問題などの基礎を教えてもらいました。ソ連のゴルバチョフ政権下のペレストロイカやグラスノスチとともに政治改革が進められた時期、その後の東欧革命、天安門事件、ベルリンの壁の崩壊、ソ連崩壊につながる社会主義諸国の激動の時代でした。左治木先生はロシア経済や社会主義経済などもご専門だったため、その当時に起こる様々な事象について多くの質問をしたり、時間が足りない場合は先生の研究室に押しかけたりして、いろいろとご指導、ご教授いただきました。さらに左治木先生には、上級生のゼミや合宿にも誘っていただき、私の知りたい、学びたいという好奇心を大いに満たしていただきました。 3~5年生時のゼミは、小林多加士先生の中国研究演習のゼミに所属し、ご指導いただきました。小林ゼミは中国の地域研究を学ぶゼミでしたが、私の関心は当時揺れ動いていた社会主義体制の全般的な危機をこれまでの歴史社会理論上どう捉えるかということでした。小林先生は中国研究のみならず、世界システム論や比較文明論なども研究されていました。私は小林先生の指導の下、社会主義体制に影響を与えてきたマルクス歴史社会理論、アルチュセールの構造主義的社会主義、アンドレ・グンダー・フランクの従属理論、サミール・アミンの新従属理論、ロベール・ボワイエなどのレギュラシオン学派、イマニュエル・ウォーラーステインの世界システム論、田中明彦の『新しい中世 相互依存の世界システム』などの著作物を読み漁り、卒論を執筆する準備をしました。当時のワープロで執筆したので、メモリー機能がなく卒論は残っていませんが、確かテーマは「社会主義の全般的危機と歴史社会理論の再検討」だったと思います。小林ゼミでは、ゼミの合宿に参加しましたが、大学院生のゼミにも参加させてもらい、とても知的好奇心を刺激してもらいました。何となくこのまま大学院に進学する感じでした。 ゼミ以外に感銘を受けたTIUの先生方の講義 ゼミのみならず、感銘を受けた講義は以下のとおりです。 太田秀通先生の歴史学 西洋史学者である太田先生からは、世界史認識の思想と方法をはじめ、歴史を学ぶ楽しさを教えていただきました。紀元前のギリシャやクレタ島で使用されていた線文字Bの解読に関する歴史ロマンに感銘を受けました。アジア的生産様式の解釈などの講義も最高でした。アカデミズムの素晴らしさ、楽しさを教えてもらいました。 伊東博先生の教育学 援助する教育という理論に感銘を受け、その重要性を学ぶことができました。講義後は何度も先生の研究室を訪ね、さらに深い講義を受けました。教育も援助することと一緒であるとの考えには共鳴し、その後の途上国勤務にも活かしました。 大越康夫先生の憲法論 憲法9条を中心に憲法についてしっかり教えてもらいました。 引田隆也先生の政治思想史 とてもわかりやすく、ギリシャから現代までの思想史を網羅的に教えてもらい感銘を受けました。 下羽友衛先生の国際関係論 国際関係分析の方法論を教えてもらいましたが、紛争解決の研究者はその紛争地帯の現場に行って活動しながら分析することが重要であると熱弁していたことが印象的でした。 枇杷木賢生先生の国際経済学 一般教養の講義で基本的なことを教えていただきました。いつもジーンズでブーツを履いていた姿に憧れました。最近、米国テキサス州に出張して、念願のテキサス仕込みのブーツを購入することができました。 原彬久先生の国際政治学 モーゲンソー研究で有名で、政治的リアリズムについて教えてもらいました。学生時代にはカントのような理想的な国際政治学があるのではないかと疑問を持ちながら講義を受けていましたが、社会人になり中東アフリカ地域に関わることで、原先生が語っていた政治的リアリズムの重要性をより実感することができました。 杣正夫先生の日本選挙制度史 当時はあまり興味がなかったが、この講義を履修したことで、選挙を通じて日本政治史を理解することができました。このアプローチは新鮮でした。 富塚俊夫先生のアラビア語 2年間第二外国語としてアラビア語を教わりました。社会人となり中東地域に関わるきっかけとなったようです。 白井洋子先生のアメリカ史 ラス・カサス著の『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を読んでレポートを提出しましたが、植民地主義の時代を擁護するような頓珍漢なレポートを提出してしまったことを今でも後悔しています。 学生生活(インカレサークルISA活動、アジア訪問) 学内にいる時は、一生懸命勉強していた記憶が残っています。勉強は好きでしたが、頭が良くないので成績はそれほど良くなかった気がします。学外では、日本国際学生協会(ISA:International Student Association of Japan)という、当時全国に700名ほどの学生が所属する協会の東京支部に所属していました。TIUの先輩に誘われてISAに入会し、学生時代は学内では勉強、学外では海外の学生との交流や国際会議開催などの活動に費やしていました。TIUで講義を受けていない時は、四谷にあった東京支部の事務所に通い、都内の学生たちと勉強会を開催し、国際会議や海外の学生との交流会の企画・準備をしていました。 学生時代は、休みの期間は短期バイトをして10万円程度稼ぐと、そのたびにタイに出かけていました。タイのバンコクをベースに、ネパール、パキスタン、アフガニスタン、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピンなどを訪問し、各国の学生たちと交流していました。本当はもっと遠くに行きたかったのですが、あまり稼げず、学生時代はアジアまでしか行けませんでした。 1989年2月から4月にかけて、タイ、ネパール、パキスタン、アフガニスタンを訪問する機会に恵まれました。これは、私がISAの団長として、ネパールとパキスタンの学生団体と交流会を開催するイベントでした。ネパールでは、トリブバン大学(Tribhuvan University, TU)との交流会で、地方の現状を視察しようということで、地方都市のポカラに移動し、車両が入れない山岳地帯を3日間歩いて、各農村の農家に泊まりながら現地の村の有力者、小学校や病院などを視察しました。 パキスタンでは、カラチ大学とペシャワール大学の学生たちとの交流会を実施しました。パキスタンでは現地の家庭にホームステイし、イスラム社会やその文化に触れることができました。同時に、ペシャワールでは、まだ当時ソ連のアフガニスタン侵攻が解決していなかった時代で、ペシャワールのアフガニスタン人の難民キャンプから難民兵士が武器を持って国境のカイバル峠に行く姿、銃声、爆音が聞こえるところまで視察することができた貴重な体験をしました。 腸チフス感染による留年を経験 この旅行から帰国後、高熱が続き、幼少時から面倒を見てもらっているかかりつけ医の治療もお手上げとなり、地元の自治医科大学病院に行ったところ、病名はわからないが即入院となりました。同大学病院でも1週間ほど病名を診断できず、病状が悪化しないように処置がなされました。その後、培養結果が出て、腸チフスと診断され、法定伝染病に指定されている病気ということで、隔離施設のある病院に移送されることになりました。隔離病棟に入ったら即絶食となり、胸から管を入れられ、長期入院の治療が始まりました。40日ほど入院して退院後、体力も大幅に落ち、歩くことすらできない状況で、大学に通うのも困難な時期が続きました。学校側とも交渉しましたが、前期試験を受けられなければ留年せざるを得ないとのことで、1年間休学することにしました。 実は、学生時代には知識がなかったため対処できなかったが、法定伝染病に罹患し隔離されたことを根拠に学校側としっかり交渉すれば、1年留年することはなかったのではないかと少々悔やんでいます。ある教授に相談したら、「あなたを救う方法はない」ときっぱりと言われ、それ以上粘ることができませんでした。無知であることの哀れさを感じる出来事でした。 大家さんとの良き思い出 1年留年したことで、両親とは多少ギクシャクしながらも、サポートはしてくれていました。しかし、自分から家を出ることにして、4年生から5年生の就職が決まるまでは、大学近くの鶴ヶ島に四畳半トイレ・風呂・洗濯機使用共同で1か月1万円(共同の水道・光熱費は5千円)のアパートを見つけて住むことにしました。今はもう取り壊されてなくなってしまった古いアパートで、伯谷荘と言い、地元の酒屋さんのお婆様が大家さんをしているところでした。家賃は、そのお婆様の大家さんに直接払いに行くシステムでした。その際に、大家さんといろいろな世間話を30分くらい、長い時には1時間くらい話して家賃を払って帰ります。だんだん親しくなってくると、家賃を払いに行ったのに、お土産やお小遣いをもらって帰ることが多くなりました。この伯谷荘の大家さんには本当に助けてもらい、今でも感謝している忘れられない思い出の1つです。 就職活動の現実 こんな素晴らしい大家さんに支えてもらいながら、高校4年間、大学5年間通う学生を受け入れてくれる職場があるのかと怯えながら、インカレサークルISAの他大学の学生の仲間たちから情報を得ながら、就活を始めました。就活しながら、大学院への進学も真剣に考え準備もしていました。両親は、栃木の田舎に戻り、教員や役場、県庁、警察や消防署、父と同じ郵便局員などに務める公務員を希望していたようです。この就活の機会に、いろいろな業種の職業を見てみようとの気持ちで活動しましたが、現実はかなり厳しいものでした。 当時は、電話や手紙で説明会に申し込むのが一般的でした。一流と言われる大学の仲間たちからどこの企業は説明会が始まったとの情報を得て、電話をすると、出身大学名が伝わると説明会は開催しないとの回答が何社からもありました。実際に別の大学の友人たちはその企業の説明会に参加しているのに、参加させてもらえない、参加する権利さえないと現実の厳しさを実感しました。また、中学時代にとても優秀だった同級生が務める有名商社を訪ねたところ、「髙宮の大学ではうちの会社には入れない」とはっきり言われてしまいました。あるシンクタンクの説明会に参加したところ、「あなたのような人材は当社はいらない」とはっきり言われたこともありました。 一方、企業やNGOでも、とても丁寧で親切に対応してくれたところもありました。超大手企業は青田買いで先輩が出身大学の学生を確保している姿も身近に感じました。正式に試験を受けても、そう簡単には入れるところは少なそうだと感じていました。 JETROへの就職 民間企業に比べ就活の時期が遅い公務員や政府系機関の就職も視野に入れ、試験は誰でも受けさせてくれる職場を選んで就活することにしました。公務員の上級職を受けましたが、全くダメでした。外務省の専門職と上級職の受験票を取りながら、政府系機関のJETRO、JICA、OEFC、JNTO、日本銀行、中小企業事業団(現在は中小機構)などに連絡して、若手職員との面談をさせていただきました。通常であれば、出身大学の先輩職員が対応するのですが、TIU出身の先輩がいないところも多く、私の場合は別の出身大学の職員やインカレサークルの先輩を頼って各機関を訪問し、お話を聞かせていただきました。 アフリカに行ける職場は限られていましたが、「学生時代はアジアを訪問して途上国を知ったが、将来はアフリカで仕事をしたい」とJETROで言ったところ、当時のJETROは先進国志向の職員が多く、途上国、ましてやアフリカに行きたいという職員は聞いたことがない。JETROに入ったらすぐにアフリカに行けるのでは」と話が盛り上がりました。JETROとは縁があったのでしょう。その後、内々定をもらい、もう他に就活する必要もなく、残っている外務省の試験も受ける必要はない、JETROを信用してくださいと言われ、結果としてJETRO職員となることを決めました。その後、いくつかの政府機関や企業からお声がかかりましたが、JETROに就職するとお伝えしてお断りしました。 TIUのゼミの小林先生に大学院に行くか、JETROに行くか相談したところ、JETROに行くべきであると言われ、就職した後に大学院に来たければ勉強しにくれば良いと言われました。したがって、JETROに就職することにしました。TIUの就職課にJETRO内定を報告したところ、JETROを知らなかったようでした。とても残念な気持ちになりました。 社会の現実の厳しさを知る就活を体験しつつも、自分のやりたい、その後天職であると思える職場に就職できたことはとても運の良い人間だと思いました。就活中に言われたことは、良いことも悪いことも、就活でお付き合いした企業や機関は一生忘れることはありません。 TIU卒業後の人生の主な歩み 現在、岡山県倉敷市水島に本社のある萩原工業株式会社で経営企画室 社長特命担当部長を務めています。以前はJETRO岡山貿易情報センターの所長を務め、26年間JETROに勤務していました。 国際貿易・投資への献身:日本貿易振興機構(JETRO)でのキャリアJETROの日本の貿易・投資促進における役割と活動 1992年に日本貿易振興会(現在の日本貿易振興機構、JETRO)に入会し、2018年4月に退職するまでの26年間、国際貿易と投資の促進に尽力しました。JETROは、日本と世界各国との間の貿易と投資を促進することを目的とした政府系の独立行政法人です。当初は輸出振興に重点を置いていましたが、近年では輸入促進、対日投資誘致、中小企業の海外展開支援など、幅広い活動を行っています。現在、JETROは、56カ国76事務所と、日本国内に48の事務所を展開し、グローバルなネットワークを活かして活動を行っています。 海外事務所長としてのリーダーシップ ダルエスサラーム事務所長(タンザニア)での主な活動 JETRO在籍中にダルエスサラーム事務所長を1994年11月から1998年3月まで務めました。アフリカ駐在を希望して就職し、3年目でタンザニアに駐在、しかも若輩の20代ながらも事務所代表の所長として赴任することができました。タンザニアは、日本企業の投資関心が高まっている国の一つであり、JETROは日本とタンザニアの経済関係強化に努めています。ダルエスサラーム国際見本市への日本パビリオンの出展などを通じて、日本製品やサービスの紹介、日本企業による市場調査支援などが行われていました。また、アフリカ投資促進フォーラム(AIPF)の枠組みの中で、日本企業の投資促進を支援していました。 私の事務所長としての主な活動は、日本企業のタンザニア市場への参入支援、タンザニアからの対日輸出促進、両国間の経済協力関係の強化などでした。 テヘラン事務所長(イラン)での主な活動 続いて、私は1999年6月から2004年1月までテヘラン事務所長を務めました。タンザニアの駐在から東京本部に戻り、半年後には誰も行きたがらないとのことで、人事からお声がかかりました。また、所長であるということで即答しました。JETROは、イランとの貿易・投資促進を通じて、日本の経済発展に貢献することを目的として活動を行っています。テヘラン事務所では、市場調査、日本企業のイラン市場への進出支援、イランからの対日輸出促進、テヘラン国際見本市の日本館運営と日本企業向け展示会への参加支援を行いました。 また、当時は日本がアザデガン油田の権益を確保するため、イラン側に対して非石油分野での支援を活発化した時期でもありました。JETROにはイランの非石油分野への支援をする指示があり、イラン側が日本政府に求めた自動車産業及び部品産業の支援、薬品分野の産業支援、イランのWTO加入促進支援などを強化しました。イランは政治的に複雑な状況にある国であり、私の在任中には、日本とイランの経済関係を維持・発展させるために、慎重な対応と深い市場理解が求められました。 カイロ事務所長(エジプト)での主な活動 2010年3月から2014年11月まで、カイロ事務所長を務めました。エジプトは、アフリカ地域においてJETROが1955年から活動を展開している重要な拠点の一つです。カイロ事務所では、日本企業の対エジプト投資促進、エジプトからの対日輸出促進、技術協力、ビジネスミッションの実施など、多岐にわたる活動が行われています。 私の在任中には、アラブの春の事件が勃発し、政治・経済情勢の変化に対応しながら、日本とエジプトの経済関係を強化するため、カイロ国際見本市において日本館を出展・運営する活動なども展開しました。当時の上司からは「なぜ現地にいてアラブの春の発生を事前に予知できなかったのか?」と責められたことを思い出しました。2014年3月には、ロンドンで開催されたチャタムハウス(Chatham House:王立国際問題研究所)とアジア経済研究所の研究会合に出席し、「アラブの春」後の中東情勢について議論に参加するなど、地域情勢へ深く関与しました。 @マルサ・マトルーフの海岸 @エジプトの西部砂漠(サハラ砂漠の一部) @シーワオアシス 地域イニシアチブの主導:JETRO岡山貿易情報センター所長としての活動 JETROでは地方事務所勤務を経験していませんでしたが、2015年7月から2018年4月まで、JETRO岡山貿易情報センター所長を務め、地域経済の振興、国際交流、地元企業の支援に尽力しました。東京本部の役員からは、しっかり地方を学び、地方創生に貢献してくるよう指示されました。岡山県庁や県内の各市町村の企業の海外進出について知事、市長、町長、村長たちと意見交換を行ったり、岡山県高等学校教育研究協議会委員や岡山操山高校のスーパーグローバルハイスクール(SGH)運営指導委員会委員として、高校生のグローバルな視点育成に貢献したりするなど、地域社会との連携を積極的に行いました。 また、岡山県内の若者のグローバル意識を高めることを目的とし、地元の大学生や高校生、小中学生にも講師として長年関わり、自身の国際経験を共有してきました。これらの活動は、JETROのネットワークと自身の経験を活かして、地域経済のグローバル化を推進しようとしたものでした。 地方創生に貢献することを学ぶため岡山大学大学院にて公共政策学修士号を取得 2016年4月からJETRO岡山貿易情報センター所長を務めながら、夜や週末は岡山大学大学院の社会文化科学研究科博士前期課程の公共政策学専攻に通いました。ここでは、地域社会の発展と自立性を重視した公共政策について学び、念願かなって修士号も取得することができました。具体的には以下の内容を学びました。 政策分析能力: 法学、政治学、経済学、経営学などの学際的アプローチを通じて、政策の企画・立案・評価を行う能力を養いました。 公共組織経営: 公的組織の経営に関する知識とスキルを身に付けました。 地域公共政策: 中四国地域を対象に、地域の政策課題を発見し、解決する能力を育成しました。 在学中の2016年8月~9月にかけて、都市計画や地域開発の研究で有名な米国のPortland State Universityの研修に参加しました。このプログラムは「Okayama University Public Administration Short-Term Training, Citizen-Centered Governance – Cases from Portland, Oregon」というもので、この研修を修了することもできました。研修内容は以下のとおりです。 市民中心のガバナンス: 市民参加の重要性、市民の意見を政策決定に反映させる方法や、市民との協働を促進するための戦略を学びました。コミュニティ・エンゲージメント: 地域社会との関わり方や、コミュニティのニーズを理解し、対応する方法を探りました。 ポートランドの事例研究: ポートランド市が実施した市民中心の政策やプロジェクトの具体例を通じて、実践的な知識を得ました。政策の実施と評価: ポートランド市の政策がどのように実施され、評価されているかを学びました。 公共政策の理論と実践: 行政倫理と価値観、公共政策における倫理的な問題や価値観についての理解を深めました。政策分析と実施: 政策の分析方法や実施のプロセスを学びました。 リーダーシップと管理: 公共機関や非営利組織でのリーダーシップのスキルを養いました。財務管理と予算編成: 公共機関の財務管理や予算編成の方法を学びました。 地域資源の管理: 地域の自然資源を保護し、持続可能な方法で管理するための政策を学びました。非営利組織の管理: 非営利組織の運営や管理に関する知識を深めました。 このプログラムは、ポートランド州立大学の専門家や実務家から直接学ぶ機会を提供し、理論と実践を融合させた学びを通じて、公共政策における市民中心のガバナンスの理解を深めることができました。久しぶりの米国での学びは、とても良い機会、刺激となりました。 修士論文について 修士論文では「地方創生における地域経済活性化に効果をもたらす輸出産業の考察」をテーマに執筆しました。その概要は以下のとおりです。 研究目的: 日本の人口減少とそれに伴う国内経済の縮小に対し、地域経済を活性化させるために輸出産業の役割を探ることを目的としています。 研究方法: 貿易統計の分析: 財務省のデータを使用して、日本全体および岡山県の貿易動向を分析。産業連関表の利用: 地域産業連関表を用いて、各地域の輸出産業の特化係数や比較優位性を評価。 研究結果: 生産効果モデル: 輸出産業が地域経済に与える生産効果を分析し、主要な輸出産業を特定。輸出特化係数と比較優位モデル: 各産業の輸出特化係数と比較優位性を評価し、地域ごとの輸出産業の強みを明らかに。 研究考察: 輸出産業の重要性: 輸出産業が地域経済の成長を促進し、国内市場の縮小を補う役割を果たすことを強調。 政策提言: 地域ごとの輸出戦略を策定し、経済成長を維持するための具体的な施策を提案。 結論: 輸出戦略の重要性: 国内需要の減少に対処するため、輸出を通じて新たな需要を創出し、地域経済を活性化させることが必要。 詳細な分析: 全国産業連関表(2011年): 日本全体の輸出構造を分析し、輸出が国内生産に占める割合を明示。主要な輸出産業25部門を特定。 地域別分析: 47都道府県の地域産業連関表: 各地域の輸出データと産業分類を分析し、地域ごとの輸出産業の特徴を明らかに。 この論文は、地域経済の活性化における輸出産業の重要性を強調し、具体的な政策提言を行っています。詳細な統計分析や地域別の事例研究を通じて、輸出戦略の策定と実施の必要性を示しています。 JETROでの26年間で得たもの JETROでの26年間、そのうち13年間を海外駐在に費やした私は、国際市場、貿易規制、異文化間のビジネス慣行、そしてグローバルな経済動向に関する深い理解を培ってきました。この経験は、民間企業の実践的な戦略的方向性とグローバルな取り組みを形成する上で非常に貴重です。岡山大学大学院で2018年3月に取得した公共政策修士(MPP)の学位を含む私の学歴は、国際ビジネスにおける実践的な経験を補完し、グローバルな文脈における戦略的意思決定のための理論的枠組みを提供しています。MPPプログラムは、経済学、政策分析、組織管理などの分野の知識を与え、これらはグローバルな文脈における戦略策定に直接応用できるものです。 製造業への転身:萩原工業株式会社萩原工業:会社概要、事業内容、グローバル展開 岡山でのJETRO所長時代に創業家の経営者から誘われ、「人生後悔させない」と言われ最終的にJETROを離れる決意をしました。2018年5月に岡山県倉敷市水島に本社がある萩原工業株式会社に転職し、現在、経営企画室社長特命担当部長を務めています。萩原工業は、ポリエチレン・ポリプロピレンを主原料とした合成樹脂繊維「フラットヤーン」を用いた関連製品および産業機械の製造・販売を行う企業です。ブルーシートの国内トップメーカーであり、その他、人工芝、食品包装材、家電部材など、幅広い分野で製品を展開しています。当社は、海外14カ国に生産・販売拠点を持ち、グローバルに事業を展開しており、東京証券取引所プライム市場の上場企業でもあります。 萩原工業における役割:国際部長から経営企画室長へ 私は萩原工業入社後、経営戦略室長、合成樹脂事業部門国際部長及び経営企画室長を経て、現在は社長特命担当部長として、同社のグローバル展開を推進することを担っています。JETROでの豊富な国際経験と、海外市場に関する深い知識は、当社のグローバル戦略を推進する上でとても役に立っています。 私の萩原工業での活動の一例を紹介します。つい最近、外務省が作成したパンフレット「日本と中南米をつなぐ日系人」のインタビュー記事を通じて私の活動が紹介されました。 www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/pub/pamph/japan_latinamerica.html 私がこれまで訪問した国88か国(そのうち居住した国5か国)について 私がこれまで訪問し、住んだ国は、以下の地図のとおりです。 I have been to 88 (35%) countries / territories of the #World! #countriesbeen グローバル展開による経営力強化:講演テーマ分析 私はこれまで、「経営力強化のためのグローバル展開について」というテーマで様々なセミナーや講演会で講演を行ってきました。グローバル展開は、企業が成長機会を求め、競争力を強化するための重要な戦略の一つです。海外市場への参入、グローバルサプライチェーンの構築、海外企業との提携など、多様なアプローチが存在します。私の講演は、JETROでの経験に基づいた実践的な視点と、萩原工業におけるグローバル戦略の推進経験を踏まえた、示唆に富む内容であると評価されることがあります。 【髙宮純一(タカミヤ ジュンイチ)さんプロフィール】 1967年 5月19日生(東京都渋谷区) 学歴: 1974年3月 卒園 戸田東幼稚園(埼玉県戸田市) 1980年3月 卒業 野木町立友沼小学校(栃木県下都賀郡) 1983年3月 卒業 野木町立野木中学校(栃木県下都賀郡) 1985年6月 卒業 Stillwater Senior High School(米国ミネソタ州スティルウォーター市) 1987年3月 卒業 茨城県立古河第三高等学校普通科(茨城県古河市) 1992年3月 卒業 国際学士 東京国際大学教養学部国際学科(埼玉県川越市) 2016年9月 研修修了 Okayama University Public Administration Short-Term Training, Citizen-Centered Governance – Cases from the Portland, Oregon. Center for Public Service, Mark O. Harfield School of Government, Portland State University.(米国オレゴン州ポートランド市) 2018年3月 修士課程修了 公共政策学修士(Master of Public Policy) 学位記番号:第22946号(Degree Number : 22946)岡山大学社会文化研究科博士前期課程公共政策学専攻(岡山県岡山市) 資格: 防災士(Disaster Prevention Expert Certification in Japan) 日本防災士機構(特定非営利活動法人)(Japan Bousaisi Organization) 認定番号: No.019874 居住地の東京都世田谷区の支援を受け取得。 職歴: 1992年4月1日日本貿易振興会(JETRO:現在の日本貿易振興機構、東京都港区虎ノ門)採用 総務部人事課付 1992年4月20日 国内異動 経理部経理課(採用後配属先、経理・会計・財務業務) 1994年11月26日 海外異動 ダルエスサラーム事務所 所長 タンザニア ダルエスサラーム:1994年11月 – 1998年3月(3年5ヶ月) ダルエスサラーム日本人会 役員 1998年3月28日 国内異動 海外事業部事業調整課(海外事務所運営業務) 1998年7月1日 国内異動 事業統括部海外事業課(海外事務所運営業務) 1999年6月11日 海外異動 テヘラン事務所 所長 イラン テヘラン:1999年6月 – 2004年1月(4年8ヶ月) テヘラン日本人会 理事 2004年1月27日 国内異動 企画部企画課 課長代理(経営企画、予算総括業務) 2007年5月1日 国内異動 海外調査部調査企画課 課長代理(海外調査部全体の管理運営、調査企画業務) 2007年5月19日 国内異動 海外調査部 総括課長代理(海外調査部全体の管理運営、調査企画業務) 2008年10月10日 国内異動 総務部 主査(法務、契約、情報公開、コンプライアンス、内部統制等業務) 2009年7月1日 国内異動 総務部 主幹(法務、契約、情報公開、コンプライアンス、内部統制等業務) 2010年3月23日 海外異動 カイロ事務所 所長 エジプト カイロ:2010年3月 – 2014年11月(4年9ヶ月) エジプト日本商工会 副会長 カイロ日本人学校 PTA会長(学校運営委員会メンバー) 2014年3月27日 ロンドンにて Chatham House(英国王立国際問題研究所)とアジア経済研究所の研究会合に出席 「アラブの春」後の中東 ~東西の視点の邂逅(かいこう)~MENA in Post – “Arab Spring” Era Shared Perspectives on the Middle East and North Africa 2014年11月20日 国内異動 企画部主査 2015年2月1日 国内異動 事業推進主幹(中東アフリカ地域戦略) 2015年4月1日 国内異動 海外地域戦略主幹(中東アフリカ地域戦略) 2015年7月1日 国内異動 企画部付(入院) 2015年7月15日 国内異動 岡山貿易情報センター 所長 日本 岡山県:2015年7月 – 2018年4月(2年10ヶ月) 主な公職: 岡山商工会議所 参与 岡山・ミャンマー友好推進会議 顧問 岡山県・南オーストラリア州友好協会 理事及び監事 岡山県高等学校教育研究協議会 委員 岡山県高等学校教育研究協議会専門委員会(第二専門委員会)委員 岡山県高等学校教育研究協議会 起草委員会 岡山県土木部指定管理者候補選定委員会 委員 岡山県企業誘致推進協議会 企業誘致アドバイザー 岡山・産学官連携推進会議 委員 岡山空港国際物流促進協議会 顧問 岡山市経済政策審議会 委員 岡山市国際交流協議会 監事 (公財)岡山県産業振興財団 評議員 (公財)岡山県産業振興財団 評議員 選定委員会 委員 (一社)岡山県国際経済交流協会 理事 (一財)岡山県国際交流協会 評議員 (一財)岡山県国際交流協会 運営委員会 アドバイザー 岡山日蘭協会 特別顧問 岡山県立瀬戸南高等学校地域共育審議会 委員 岡山操山高校スーパーグローバルハイスクール運営指導委員会 指導委員 2018年4月30日 退職 日本貿易振興機構(東京都港区赤坂)を退職(26年1か月間) 2018年5月1日 転職 萩原工業株式会社(岡山県倉敷市)に入社 2018年5月1日 経営戦略室 室長(2年6か月) 2020年11月1日 合成樹脂事業部門 国際部 部長(1年間) 2021年11月1日 経営企画室 室長(3年間) 2024年11月1日~現在 経営企画室 社長特命担当部長 TIU 霞会シンガポール支部 [...]
TIU卒業生の方々にも国際連合・国際機関の職員を目指してもらいたい
高松雄一さん(1997年卒業 教養学部国際関係学科/TIUA下羽ゼミ1995年Willamette Univ.卒業 2001年シラキュース大学マックスウェル公共政策大学院修了)2024年6月1日高校生の時から国際連合で働きたいと決心 国際連合の職員になりたいと決心したのは高校生の時、教科書に載っていた日本の国際社会に対する貢献に関連した記事や平和維持活動に参加している世界各国からの青いヘルメットをかぶった兵士達の写真を見て国際連合とはいったい何なんだろうと関心を持ったことがきっかけです。国連のことを知れば知るほどそこで働きたくなり、自分もその組織で世界に何らかの形で貢献したいと思い、国連が自分の将来の勤務先だと目標を設定しまいました。今から考えると全然リスクを考えていなかったような…。 より国際性を持った大学に入ることを目指して、ほぼ決まっていた地元の大学の推薦入学まで辞退してしまいました。こんな唐突なそして無謀にも見えることを、よくも自分の両親は快く了解してくれたと今ではとても感謝しています。 海外留学、国際的視野育成がしっかりとしている東京国際大学に入学 東京国際大学をターゲットとした理由はやはり国際留学、国際的視野育成にかなり力をいれているところで、実質的サポートシステムがしっかりと整っている面に魅了されました。ほかの大学にはないアットホームな雰囲気にも惹かれました。とにかく学生と教授、そして大学職員との方々との距離がとても近く雰囲気が良いと以前から聞いていました。 大学時代に力を入れたことはとにかく様々な機会を利用して知識や語学を習得したことです。正式にとった講義だけではなく、教授たちの了解を得て他の学部や大学院の講義にも参加させてもらったことを思い出します。とにかく無我夢中で知識を習得し、自分の競争力を高めたいとしていたような気がします。 TIUA、Willamette大学、Drew大学へ留学し、国連事務局などでインターンシップに従事 二年時には当時のTIUアメリカ校へ留学, Willamette大学やニュージャージー州にあるDrew大学の国連プログラムでの留学・卒業も経験してまた東京国際大学に戻ってきました。在学中には日本とアメリカにおいてオレゴン州政府や国連事務局、国連難民高等弁務官事務所等でインターンシップに従事しました。 在学中に国際政治ゼミナールの故下羽友衛先生に勧められて参加した尾崎行雄記念財団主催の論文コンクールで国際関係に関する論文で文部大臣奨励賞を受賞し、アメリカに研修派遣されて、ノーベル平和財団が主催したシンポジウムに参加したことも大きな励みになりました。 国際連合ニューヨーク本部で働き始めて20年、現在は人事戦略関係の仕事に従事 国連には再度渡米しシラキュース大学マックスウェル公共政策大学院 (Syracuse University, Maxwell School of Citizenship and Public Affairs)を修了した後に広報局に入所し、国連ガイドなどの経験をしたその後はコフィアナン前国連事務総長のオフイス、平和維持局、本部人事部等で働きました。ニューヨーク本部だけではなくコンゴ民主共和国、タイ国バンコク、カナダモントリオールなどで様々な国連機関の職員達と仕事をしたりと良い経験になりました。コフィアナン元国連事務総長とお話したことも忘れ難い思い出になりました。 国連に就職してから20年以上時がたった現在は人事戦略関係の仕事をしています。具体的には国連職員を採用するためのアウトリーチ活動や職員の多様性を目指すことをしていて、大学や政府代表部を訪れ、国連就職の説明会なども行いました。いかに国連職員を増やすか等、各国の政府の方々と協議したりもします。 (故安倍晋三首相と国連本部で働いている邦人の同僚たちと)(国連本部国連総会にて) TIU卒業生の方々にも国際連合・国際機関の職員を目指してもらいたい 東京国際大学の学生たちには大きい夢を持って、是非ともそれに向かって辛抱強く挑戦してほしいです。短期的でかつ具体的な目標設定をして、遠回りでもいいから常に前向きに好奇心をもって戦略的に進んでいくことが大切だと思います。東京国際大学出身の国連職員が将来増えることを信じ、是非とも多くの学生に応募してもらい国際機関で働いてほしいです。 (詳しくは国連採用ウエブページ https://careers.un.org/home?language=en を参照) これからの国連は1)データ能力、2)イノベーション、3)行動科学、4)デジタルツール、そして5)先を見て戦略的に考える、というスキルを職員に必要としています。現在の学生だけではなく既に様々な専門分野で活躍されている東京国際大学の卒業生の方々にも、是非とも国連・国際機関の職員を目指してもらいたいと願っています。 国連は巨大な国際官僚組織です。皆さんがニュースや記事を読んでいて既に知っていると思いますが、この組織は様々な問題を抱えているのも現実です。それと同時に国連しかできないという仕事が山ほどあり、そのようなことはあまり報道されないのも辛いところ。国連が本当に何を達成しようとしているのかを理解して一緒にそれに向かっていきたいという職員を常に探しています。 東京国際大学の卒業生の輪がさらに広がっていくことを楽しみにしています。お互いに健康を第一にして頑張りましょう! (国際連合本部ビル) (高松雄一さんのプロフィール) 埼玉県出身東北学院榴ヶ岡高等学校卒業 1997年3月東京国際大学教養学部国際関係学科卒業 下羽友衛ゼミ TIUA留学 1995年 Willamette University 教養学部卒業 2001年シラキュース大学マックスウェル公共政策大学院(Syracuse University, Maxwell School of Citizenship and Public Affairs)修了 2000年国際連合広報局に入所 コフィアナン前国連事務総長のオフイス、平和維持局、本部人事部等で働く。 ニューヨーク本部だけではなくコンゴ民主共和国、タイ国バンコク、カナダモントリオールなどで様々な国連機関の職員達と仕事をする。 現在、国際連合ニューヨーク本部、経営戦略、ポリシー局人事戦略オフイス勤務 TIU 霞会シンガポール支部 [...]
高松雄一さん(1997年卒業 教養学部国際関係学科/TIUA下羽ゼミ1995年Willamette Univ.卒業 2001年シラキュース大学マックスウェル公共政策大学院修了)2024年6月1日高校生の時から国際連合で働きたいと決心 国際連合の職員になりたいと決心したのは高校生の時、教科書に載っていた日本の国際社会に対する貢献に関連した記事や平和維持活動に参加している世界各国からの青いヘルメットをかぶった兵士達の写真を見て国際連合とはいったい何なんだろうと関心を持ったことがきっかけです。国連のことを知れば知るほどそこで働きたくなり、自分もその組織で世界に何らかの形で貢献したいと思い、国連が自分の将来の勤務先だと目標を設定しまいました。今から考えると全然リスクを考えていなかったような…。 より国際性を持った大学に入ることを目指して、ほぼ決まっていた地元の大学の推薦入学まで辞退してしまいました。こんな唐突なそして無謀にも見えることを、よくも自分の両親は快く了解してくれたと今ではとても感謝しています。 海外留学、国際的視野育成がしっかりとしている東京国際大学に入学 東京国際大学をターゲットとした理由はやはり国際留学、国際的視野育成にかなり力をいれているところで、実質的サポートシステムがしっかりと整っている面に魅了されました。ほかの大学にはないアットホームな雰囲気にも惹かれました。とにかく学生と教授、そして大学職員との方々との距離がとても近く雰囲気が良いと以前から聞いていました。 大学時代に力を入れたことはとにかく様々な機会を利用して知識や語学を習得したことです。正式にとった講義だけではなく、教授たちの了解を得て他の学部や大学院の講義にも参加させてもらったことを思い出します。とにかく無我夢中で知識を習得し、自分の競争力を高めたいとしていたような気がします。 TIUA、Willamette大学、Drew大学へ留学し、国連事務局などでインターンシップに従事 二年時には当時のTIUアメリカ校へ留学, Willamette大学やニュージャージー州にあるDrew大学の国連プログラムでの留学・卒業も経験してまた東京国際大学に戻ってきました。在学中には日本とアメリカにおいてオレゴン州政府や国連事務局、国連難民高等弁務官事務所等でインターンシップに従事しました。 在学中に国際政治ゼミナールの故下羽友衛先生に勧められて参加した尾崎行雄記念財団主催の論文コンクールで国際関係に関する論文で文部大臣奨励賞を受賞し、アメリカに研修派遣されて、ノーベル平和財団が主催したシンポジウムに参加したことも大きな励みになりました。 国際連合ニューヨーク本部で働き始めて20年、現在は人事戦略関係の仕事に従事 国連には再度渡米しシラキュース大学マックスウェル公共政策大学院 (Syracuse University, Maxwell School of Citizenship and Public Affairs)を修了した後に広報局に入所し、国連ガイドなどの経験をしたその後はコフィアナン前国連事務総長のオフイス、平和維持局、本部人事部等で働きました。ニューヨーク本部だけではなくコンゴ民主共和国、タイ国バンコク、カナダモントリオールなどで様々な国連機関の職員達と仕事をしたりと良い経験になりました。コフィアナン元国連事務総長とお話したことも忘れ難い思い出になりました。 国連に就職してから20年以上時がたった現在は人事戦略関係の仕事をしています。具体的には国連職員を採用するためのアウトリーチ活動や職員の多様性を目指すことをしていて、大学や政府代表部を訪れ、国連就職の説明会なども行いました。いかに国連職員を増やすか等、各国の政府の方々と協議したりもします。 (故安倍晋三首相と国連本部で働いている邦人の同僚たちと)(国連本部国連総会にて) TIU卒業生の方々にも国際連合・国際機関の職員を目指してもらいたい 東京国際大学の学生たちには大きい夢を持って、是非ともそれに向かって辛抱強く挑戦してほしいです。短期的でかつ具体的な目標設定をして、遠回りでもいいから常に前向きに好奇心をもって戦略的に進んでいくことが大切だと思います。東京国際大学出身の国連職員が将来増えることを信じ、是非とも多くの学生に応募してもらい国際機関で働いてほしいです。 (詳しくは国連採用ウエブページ https://careers.un.org/home?language=en を参照) これからの国連は1)データ能力、2)イノベーション、3)行動科学、4)デジタルツール、そして5)先を見て戦略的に考える、というスキルを職員に必要としています。現在の学生だけではなく既に様々な専門分野で活躍されている東京国際大学の卒業生の方々にも、是非とも国連・国際機関の職員を目指してもらいたいと願っています。 国連は巨大な国際官僚組織です。皆さんがニュースや記事を読んでいて既に知っていると思いますが、この組織は様々な問題を抱えているのも現実です。それと同時に国連しかできないという仕事が山ほどあり、そのようなことはあまり報道されないのも辛いところ。国連が本当に何を達成しようとしているのかを理解して一緒にそれに向かっていきたいという職員を常に探しています。 東京国際大学の卒業生の輪がさらに広がっていくことを楽しみにしています。お互いに健康を第一にして頑張りましょう! (国際連合本部ビル) (高松雄一さんのプロフィール) 埼玉県出身東北学院榴ヶ岡高等学校卒業 1997年3月東京国際大学教養学部国際関係学科卒業 下羽友衛ゼミ TIUA留学 1995年 Willamette University 教養学部卒業 2001年シラキュース大学マックスウェル公共政策大学院(Syracuse University, Maxwell School of Citizenship and Public Affairs)修了 2000年国際連合広報局に入所 コフィアナン前国連事務総長のオフイス、平和維持局、本部人事部等で働く。 ニューヨーク本部だけではなくコンゴ民主共和国、タイ国バンコク、カナダモントリオールなどで様々な国連機関の職員達と仕事をする。 現在、国際連合ニューヨーク本部、経営戦略、ポリシー局人事戦略オフイス勤務 TIU 霞会シンガポール支部 [...]
将来に夢を持ち、TIUの一員として世界でご活躍されることを願っています。
松尾謙一さん (1982年商学部卒業 小峰ゼミ ESS~ELI)2023年12月1日特に自分が九州から出てきた時の大学に対する想いと憧れ=「国際化」を思い出し、若い学生さんたちに将来に夢を持ち、TIUの一員として世界でご活躍を!!との思いで記させて頂きました。以下英語にて失礼します!! 【Mr,Kenichi Matsuo‘s Profile】 Born June 1958 in Kagoshima City, Kumamoto City until high school, then moved to Tokyo to become a member of ICC. Entered ICC (TIU) in April 1978. Komine Seminar (Foreign Exchange, International Finance) ESS~ELI (English Conversation Acquisition Debate Section Chief) I wanted to work in the trading department of a manufacturing company in the future, so I studied English Club, Foreign Exchange, and International Finance. April 1982: Joined Ichikawa Co.,LTD September 1987: Studied abroad in the U.S. (Monterey CA, Houston TX, Atlanta GA) March 1988: Returned to Japan and was assigned to the Overseas Trade Department (thereafter, sales in 24 countries for 20 years until March 2007) After 20 years as a salaried employee, consulted with a board member to challenge an unknown job. April 2008: Assigned to the Internal Audit Department (Appointed as General Manager of the Internal Audit Department in April 2004) Compliance training under management, audits of overseas sales companies, etc. April 2018 While at Ichikawa, established the joint venture Matsu and hosted various events~. Organized various events and study groups in other industries, including a gathering of legendary executive producer Akira Imai, who created 196 Project X on NHK, vice president of the supporters’ association of legendary boxer Hiroyuki Sakamoto, and hosted a recital of a Japanese dancer and other events and study groups in other industries. September 2021: Retired from Ichikawa Corporation and joined Security Service Co. Former NHK executive producer Akira Imai hosts seminars and shares many inspiring experiences with his colleagues. おまけです。最近の活動です。 今後は国際的なイベントに参加することはもちろん、国際的に活躍する人を応援いたします。70歳までは働きたいと思います。 元プロボクサー 坂本博之氏 日本舞踊家 若柳尚雄里(なおゆり)氏 日本舞踊家 若柳尚雄里(なおゆり)氏 大蔵流狂言師善竹十郎氏 ※元プロボクサー坂本氏の後援会副会長、恵まれない子供たちへのボランティア ※日本舞踊家若柳尚雄里氏の日本文化を世界に!の企画・プロデュース ※大蔵流狂言師 善竹十郎 狂言を身近に感じるためのセミナー主催 (松尾謙一さんプロフィール) 1958年6月 鹿児島市生まれ、高校まで熊本市、大学から上京ICCの一員となる。 1978年4月 ICC(現TIU )入学 商学部14期生 小峰ゼミ(外国為替、国際金融論男子20名) ESS~ELI(英会話習得~Debate Section Chief) 1982年4月 市川毛織株式会社入社(現イチカワ株式会社)国内営業部配属 1987年9月 社内米国語学留学(モントレーCA、ヒューストンTX、アトランタGA) 1988年3月 帰国後海外営業部配属(以後2007年3月迄20年間、24か国で営業)リーマン生活20年経て未知の仕事にチャレンジしたく役員に相談し 2008年4月 内部監査室配属(2004年4月から内部監査室長)経営者の下コンプライアンス教育、監査法人と海外販社監査等実施 2018年4月 イチカワ在籍中に合同会社マツを設立し各種イベント主催~。NHKでプロジェクトXを196本作った伝説のエグゼクティブ・プロデューサー今井彰氏の集い、伝説のボクサー坂本博之後援会副会長、日本舞踊家のリサイタル等他業種のイベント・勉強会主催等など主催 2021年9月 イチカワ株式会社後、警備保障勤務兼イベント主催を実施中 TIU 霞会シンガポール支部 [...]
松尾謙一さん (1982年商学部卒業 小峰ゼミ ESS~ELI)2023年12月1日特に自分が九州から出てきた時の大学に対する想いと憧れ=「国際化」を思い出し、若い学生さんたちに将来に夢を持ち、TIUの一員として世界でご活躍を!!との思いで記させて頂きました。以下英語にて失礼します!! 【Mr,Kenichi Matsuo‘s Profile】 Born June 1958 in Kagoshima City, Kumamoto City until high school, then moved to Tokyo to become a member of ICC. Entered ICC (TIU) in April 1978. Komine Seminar (Foreign Exchange, International Finance) ESS~ELI (English Conversation Acquisition Debate Section Chief) I wanted to work in the trading department of a manufacturing company in the future, so I studied English Club, Foreign Exchange, and International Finance. April 1982: Joined Ichikawa Co.,LTD September 1987: Studied abroad in the U.S. (Monterey CA, Houston TX, Atlanta GA) March 1988: Returned to Japan and was assigned to the Overseas Trade Department (thereafter, sales in 24 countries for 20 years until March 2007) After 20 years as a salaried employee, consulted with a board member to challenge an unknown job. April 2008: Assigned to the Internal Audit Department (Appointed as General Manager of the Internal Audit Department in April 2004) Compliance training under management, audits of overseas sales companies, etc. April 2018 While at Ichikawa, established the joint venture Matsu and hosted various events~. Organized various events and study groups in other industries, including a gathering of legendary executive producer Akira Imai, who created 196 Project X on NHK, vice president of the supporters’ association of legendary boxer Hiroyuki Sakamoto, and hosted a recital of a Japanese dancer and other events and study groups in other industries. September 2021: Retired from Ichikawa Corporation and joined Security Service Co. Former NHK executive producer Akira Imai hosts seminars and shares many inspiring experiences with his colleagues. おまけです。最近の活動です。 今後は国際的なイベントに参加することはもちろん、国際的に活躍する人を応援いたします。70歳までは働きたいと思います。 元プロボクサー 坂本博之氏 日本舞踊家 若柳尚雄里(なおゆり)氏 日本舞踊家 若柳尚雄里(なおゆり)氏 大蔵流狂言師善竹十郎氏 ※元プロボクサー坂本氏の後援会副会長、恵まれない子供たちへのボランティア ※日本舞踊家若柳尚雄里氏の日本文化を世界に!の企画・プロデュース ※大蔵流狂言師 善竹十郎 狂言を身近に感じるためのセミナー主催 (松尾謙一さんプロフィール) 1958年6月 鹿児島市生まれ、高校まで熊本市、大学から上京ICCの一員となる。 1978年4月 ICC(現TIU )入学 商学部14期生 小峰ゼミ(外国為替、国際金融論男子20名) ESS~ELI(英会話習得~Debate Section Chief) 1982年4月 市川毛織株式会社入社(現イチカワ株式会社)国内営業部配属 1987年9月 社内米国語学留学(モントレーCA、ヒューストンTX、アトランタGA) 1988年3月 帰国後海外営業部配属(以後2007年3月迄20年間、24か国で営業)リーマン生活20年経て未知の仕事にチャレンジしたく役員に相談し 2008年4月 内部監査室配属(2004年4月から内部監査室長)経営者の下コンプライアンス教育、監査法人と海外販社監査等実施 2018年4月 イチカワ在籍中に合同会社マツを設立し各種イベント主催~。NHKでプロジェクトXを196本作った伝説のエグゼクティブ・プロデューサー今井彰氏の集い、伝説のボクサー坂本博之後援会副会長、日本舞踊家のリサイタル等他業種のイベント・勉強会主催等など主催 2021年9月 イチカワ株式会社後、警備保障勤務兼イベント主催を実施中 TIU 霞会シンガポール支部 [...]
たたかう!ランドスケープアーキテクト
鈴木マキエさん(1995年 国際関係学部入学、長谷ゼミ 1996年TIUA、2000年ウィラメット大学卒業:BA in Art & Sociology)2022年12月1日1996年TIUA生、2000年ウィラメット大学卒業生の鈴木マキエです。 現在はシアトルを拠点とするランドスケープアーキテクチャー会社「GGN」の一員として世界各国の都市・地域開発やデザインプロジェクトに参加させていただいています。 獅子白兎のTIUA・ウィラメット留学生活 フィリピンやブラジル出身のご近所さんが多い地区で育った私は、子供の頃から「広い世界が見たい」と漠然と留学を思い描いていました。が、しかし、その夢とは裏腹に、英語も含めテスト直前に詰め込み乗り切る「横着者」にグングン育った結果、進路決定時に正規留学は難しく、幅広い英語レベルの生徒を受け入れているTIUAプログラムに惹かれTIUに入学。ろくに英語ができないままオレゴンへ行くことに! そこで学んだのが、私の英語力では宿題を適当にやって無難な成績を取ることは不可能ということ!要領で流すことは通用せず、人生初めて真正面から勉強に取り組まなければいけなくなってしまいました。これを機に一生懸命勉強することが楽しくなったのは私の人生を変えた大きな出来事でした。 寮でも日本・アメリカ・海外からの留学生問わず一生懸命友達作りに励みました。当初、無口で小柄な私に対するアメリカ人の第一印象は典型的なおとなしい日本人。単に英語が話せなかっただけなんですが。。。 笑) 面白い冗談が言えないのはまだしも、かなり面白い冗談で笑わ(え)ない私を、「面白好きなヤツ」と理解してもらうのに当初はかなり苦戦しました。が、出川哲郎流さんも推奨の「魂で話すアプローチ」で交流し、少しずつ友達の輪を広げていきました。友達を作るのに人生で一番努力したのはこの時だった、と感じます。 Willamette University International Dinner 国際留学生の皆と。 努力の成果もあり、寮を追い出される夏休みはアメリカ人の友達数人の家に寄せてもらい貴重な経験をしてきました。中でも印象的なのは、制限速度のないモンタナで友人が仮免中だった私に運転練習させてくれた際、日本ではありえない古さのバンのギア変更が難しく、急な山道の下り坂カーブでスピードが出すぎ同乗者全員(2021年の投稿者飯島さん含む)が「殺す気かー!」と恐怖に陥った件、ワイオミングの友人の牧場で映画「The Horse Whisperer」のモデルになった馬小屋に寝泊まりしたワイルドな日々、牧場到着と同時にオーストラリア出身のカウボーイ達に向こう訛りで「%$x0&*#パレード行くか?」と聞かれ、「Yes]と答えたら馬車にポーンと乗せられ、見物に向かうと思いきや沿道に現れた大勢の人々に手を振られ、パレード登場を果たしていたドッキリ!事件、日本人の名前が覚えられない友人の伯母さんに「ジュリアロバーツ」というニックネーム(?)で呼ばれ、田舎街で名前を耳にした人々を「えっ、どこにいるの?!?!」とキョロキョロさせた件などなど、今でも集まれば話題に上る武勇伝がたくさん誕生しました。 TIUAやウィラメット時代を振り返ると宿題一つから友人関係、日常生活に至るまで何においても一生懸命、獅子白兎で立ち向かった日々だったと感じます。ここで培った頑張る精神は後の過酷な建築系大学院の時代を乗り切る基礎にもなったと思われます。 ワイオミングでのカウボーイライフ。 発見!ランドスケープアーキテクチャー ウ大卒業後は憧れの街サンフランシスコへ。直接仕事に繋がる専攻でなかったこともあり、就職難に直面。そこで公園を通じて地域向上を目指すNPOで研修生をしながら社会に役立つ専門分野で大学院に進むことを考え始めました。NPOで担当した土地利用調査や市民参加型公園計画の企画、公聴会への参加などがきっかけで、都市計画に興味を持ち、大学院進学を念頭にカリフォルニア大学バークレー校のキャリアフェアに参加。申し込みの際2つの学科のセッションが選べるんですが、都市計画の他にもう一つ「なんだろ、この学科?」レベルで選んでみたのがランドスケープアーキテクチャーでした。軽い興味で受けたセッションでしたが。。。 実は社会学や環境のみならずアートも絡んだ面白い分野であることが発覚!早速心変わりし、大学院はランドスケープアーキテクチャーに決定! 翌年、都市での環境デザイン、コミュニティーデザインが強いシアトルのワシントン大学に進学。大学院ではイタリア、中国、台湾などに短期留学。神戸でも震災復興後のまちづくりに参加するなど、多忙でしたが様々な風土、文化、そしてデザインプロジェクトを体験できました。最終的にはランドスケープの修士号に加え、都市計画学科とコラボのアーバンデザインサーティフィケイトも取得し卒業しました。 日本語ではランドスケープアーキテクチャーという分野を包括する言葉がなく、緑化、造園、園芸などと部分的な面で訳されてしまいますが、庭や外構だけでなく、色々な分野と連携を図り都市や地方、コミュニティと一緒に地域のビジョンを打ち立てていくという大規模なスケールや公共空間、グリーンインフラに関わるプロとしても活躍している分野です。 キャリアで学ぶ SASAKIサンフランシスコでは、実戦でスキルを磨く 卒業と同時にサンフランシスコに舞い戻り、SASAKIという建築、土木、インテリア、エコロジストなど多分野が存在する総合設計オフィスに就職。関係分野の専門家と身近にやり取りしながらプロとして必要な知識やスキルを学びました。最初に取り組んだプロジェクトの一つ、アメリカ最大級の港、LA港の工業地区に大きな公園や遊歩道を作ったプロジェクトでは長年工業地帯に住んでいる人々の住環境の向上に貢献できたことに加え、多数の賞などをいただき、キャリア初期から有意義で面白いプロジェクトに恵まれ幸運でした。 しばらくするとバージニア大学に移った大学院時代の恩師から常勤講師をしてみないかと声をかけていただき、挑戦を決意。1年半程働いたオフィスから半年間の休職許可をもらい、大学のあるシャーロッツビルへ引っ越しました。 バージニア大学で初めての教鞭を取る アジア人、女性、英語が訛っている、(他の先生と比べて)若い、小さい。。。 私という人物は登場した瞬間に「立派な先生だ」という印象を与える要素は皆無です。想像通り指導者としてのリスペクトを得るのが最初のハードルとなりました。多くの助言や応援の中で、特に響いたのが「全てを知っている必要はない。教える相手より一歩先を行っていれば、その一歩について教えることができるから」というものでした。リスペクトを得るために無理に先生らしく振舞ったり、本来の自分より大きく見せたりする必要はない、自分の貢献できる形で自分らしく頑張ればいい、と思えた言葉です。 結局、当初半年だった予定は2回の延長により2年近くになり、徐々に自分の教えるスタイル的なものが見えてきました。豊富な現場経験のある指導者が少ないのが弱みだと学生時代から感じていた私は、現場の知識や経験を共有できる先生になりたかったので、もっと実践経験が必要と考えていました。そんな時、徐々にリーマンショックの波及を受け教員志望者が急増。それを機に現場復帰を決断。不景気真っただ中で元のオフィスは苦戦中だったので、元上司が移動した先のボストン本社で再就職となりました。 バージニアでは試行錯誤の日々でしたが、ご指導いただいた先生方や今では友達・同僚になっている生徒達のおかげで充実した日々を送ることができ、いい思い出となっています。この経験は現在客員教授をさせてもらっているワシントン大学でも生かされています。 バージニア大学の生徒たちと。 SASAKIボストンでは、中東やアジア各国の大規模開発、街や各地域のビジョン形成や骨組みのデザインなどに取り組む 現場復帰したボストン本社ではアジアと中東を中心に都市デザインや大きなスケールのマスタープランなどを担当しました。アーバンデザイン、建築、土木、エコロジーの専門家と一緒に中東やアジア各国の大規模開発、街や地域のビジョン・枠組み形成や空間デザインなどに取り組みました。 ヨルダン側の死海、4000haのマスタープランは中でも思いで深いプロジェクトです。世界一標高が低い「死海」はそのユニークな成分で体が浮くことや貴重なバスソルトとして有名ですが、その珍しさは水自体だけではなく、ワディと呼ばれる渓谷や、希少種達が利用する広大なタマリスク(低木)の森などの周辺環境にも及びます。農業発展による水源ヨルダン川の水量低下に伴う死海の水位低下は年に1mにも及び、毎年ビーチがリゾートから遠ざかってしまう問題、テロ防止策で立体/地下駐車場設置が困難で歩行者環境が厳しい点やセキュリティ管理が水際を私有地化している問題、必要な真水と汚水の再利用のバランスが取れた開発スピードの調整などなど、社会的課題も特殊でした。 中東のマーケティングの専門家や環境エンジニアも交えた専門家チーム全員で環境、政治、経済、テクノロジーなど全ての面に渡り、どうしたら現在の問題に答えながらも、より良い未来の可能性を守っていく持続可能なデザインができるか検討し、死海という場所にしかない良さを基軸に、真珠のネックレスのように小さめの開発を要所に展開し繋いでいくストラテジーを考案。ヨルダン初の環境アセスや住人公聴会も開き、地元民やリゾート従業員のための機能的で活気ある本物の街づくりも提案しました。 初めてリード的なポジションで、自分の力不足を痛感したプロジェクトでしたが、とても多くの学びがあり、個人的に大きく成長できたプロジェクトでした。 Dead Sea Development Zone Detailed Master Plan(提供:SASAKI Associates) GGNシアトルで、数か国の興味深いプロジェクトに携わる 多数のマスタープランプロジェクトを経て、実際の建設経験を求めて、コンセプトから建設まで丁寧に手掛けることで有名な現在の会社GGNに入社。シアトルに戻り早10年、時折ワシントン大学で教えながら、アメリカ全土や数か国に渡り大学やハイテク企業のキャンパスや複合開発、会社の無償活動を利用したNPOによるホームレスの住居プロジェクトまで幅広く興味深いプロジェクトに携わらせていただいています。2018年のコンペ時から参加している大阪の「うめきた2期」もその一つです。 うめきた2期。GGNチームはプロジェクト全体のランドスケープビジョンからコンセプトレベルのデザイン、都市公園区画は詳細までリードデザインとして担当 うめきた2期開発は2024年先行オープン、2027年完成予定の複合開発で関空と大阪駅をつなぐJRの新しい駅の真横に位置している計9haのプロジェクトです。敷地の中心に位置する4.5haの都市公園の他、商業やインキュベーション施設、コンベンションセンター、3つのホテルに2つの住宅棟なども含めた街区となる予定です。 詳しくはオフィシャルウェブページもあるので是非ご覧ください:https://umekita2.jp/ 私達GGNはプロジェクト全体のランドスケープビジョンからコンセプトデザイン、都市公園区画は詳細までリードデザインとして担当。クライアントとなる事業者9社をはじめ、複数の建築事務所を含む日本のデザインチームと共にデザインに取り組んでいます。 GGNの特徴としては与件や機能面のみならず、独自のデザインプロセスによりその土地の普遍的な本質を探り出し、模倣やコピペではない、その土地にしかない・その場所で一番輝ける本物のデザインを提案していく点です。 歴史・文化、社会環境、生物多様性など色々調べると「何もない」とか「価値のない」場所などなく、どこでも興味深いストーリーや地元の人が自分の街を感じる瞬間が存在しています。それをどう可視化し、機能・与件、自然環境やコスト、そして様々な人々の意見などとのバランスを取って表現していくか、プロジェクト一つずつ丁寧に検討していきます。 もちろん、うめきた2期でも色々な調査・分析を重ね、淀川と深い関りがある豊かで潤った大地の記憶や橋の街大阪をインスピレーションに、海外に誇れる日本らしさも現代的にデザインに織り交ぜていきました。 初めての日本のプロジェクトなので日本特有な事を学ぶ機会が満載です。高度な技術や完成度など世界に誇れる点も多い中、縦割りや保守的なアプローチが主流であること、専門的なデータ分析より経験則を重んじる傾向、事例主義など、公共空間の向上には多くの課題やハードルも多そうです。個人的に最初の事例自体がどうできたのかは「卵が先か鶏が先か」並みのミステリーだと感じています。 お店などは雰囲気をとても大事にするのに公共空間は機能さえしていれば安っぽくても仕方ない、とあきらめているのが日本人の感覚と感じることがありますが、公共空間の質を付加価値としてではなく街のバイタリティのベース・インフラとして捉えていくことにより、地域や街、日々の暮らしの豊かさの向上に繋がっていくのでは、と思っています。コロナの影響もあり、世界中で屋外や公共空間価の値感が見直されてきている今、日本でも新しい公共空間や地域のあり方に取り組む機会が増えることを願っています。 うめきた2期ではGGN 創立者の一人、世界的にも巨匠的存在であるキャサリンと深く協働することができ、共にプロジェクトに貢献できたことや、日本チームも含め様々な方々から学べた事に感謝しています。都市公園はこの春工事が開始されましたが、これからも気を抜かず、最後まで日本チームと一緒に頑張っていきたいと思っています。 うめきた2期開発-鳥瞰イメージ(提供:うめきた2期開発事業者) 「たたかう、ランドスケープアーキテクト」として、試行錯誤しながら自分らしくチャレンジして行きたい 最後に「たたかう、ランドスケープアーキテクト」のタイトルですが、去年行った日建設計講演の際、友人に「私らしい」と提案されたタイトルです。TIUA時代の「負けない」精神が反映されているのでは、と感じます。ここ数年パンデミックや治安・政情の悪化など、世界中暗いニュースが多く凹みがちな日もありますが、私が「たたかって」いけるのも様々な方々のサポートあってと再痛感させられた機会でもあります。 日本での公共空間向上やランドスケープアーキテクチャーの普及を考えると、どう「たたかって」いくべきか(まだ)分かりませんが、また試行錯誤しながら自分らしくチャレンジしていけたらなと思っています! 何か「たたかうランドスケープアーキテクト」がお役に立てそうなことがあればご一報をいただければ、と思います! (鈴木マキエさんプロフィール) 名古屋出身 愛知県立千種高校卒業。 1995年TIU国際関係学部入学、長谷ゼミ。 1996年TIUA、2000年ウィラメット大学卒業:BA in Art & Sociology。2012年 GGN Ltd入社 現在の役職はPrincipal。 GGN: https://www.ggnltd.com/ 米国シアトルを拠点にするランドスケープアーキテクト。TIUAの後、ウィラメット大学へ編入、Bachelor of Arts(アートと社会学)で卒業。ワシントン大学でMLA(ランドスケープアーキテクチャー修士号)とアーバンデザインサーティフィケートを取得。ランドスケープデザイン・建築オフィスやバージニア大学建築学部講師などを経た後、現在勤務しているGGNに2012年に入社。 40平方キロメートル以上の大規模な地域マスタープランからホームレスのための極小ハウスプロジェクトまで幅広いスケールやタイプのプロジェクトを手掛ける。過去に携わったプロジェクトは世界10か国以上。現在は大阪のうめきた2期地区開発も担当。ワシントン大学にて客員教授も兼任中。 TIU 霞会シンガポール支部 [...]
鈴木マキエさん(1995年 国際関係学部入学、長谷ゼミ 1996年TIUA、2000年ウィラメット大学卒業:BA in Art & Sociology)2022年12月1日1996年TIUA生、2000年ウィラメット大学卒業生の鈴木マキエです。 現在はシアトルを拠点とするランドスケープアーキテクチャー会社「GGN」の一員として世界各国の都市・地域開発やデザインプロジェクトに参加させていただいています。 獅子白兎のTIUA・ウィラメット留学生活 フィリピンやブラジル出身のご近所さんが多い地区で育った私は、子供の頃から「広い世界が見たい」と漠然と留学を思い描いていました。が、しかし、その夢とは裏腹に、英語も含めテスト直前に詰め込み乗り切る「横着者」にグングン育った結果、進路決定時に正規留学は難しく、幅広い英語レベルの生徒を受け入れているTIUAプログラムに惹かれTIUに入学。ろくに英語ができないままオレゴンへ行くことに! そこで学んだのが、私の英語力では宿題を適当にやって無難な成績を取ることは不可能ということ!要領で流すことは通用せず、人生初めて真正面から勉強に取り組まなければいけなくなってしまいました。これを機に一生懸命勉強することが楽しくなったのは私の人生を変えた大きな出来事でした。 寮でも日本・アメリカ・海外からの留学生問わず一生懸命友達作りに励みました。当初、無口で小柄な私に対するアメリカ人の第一印象は典型的なおとなしい日本人。単に英語が話せなかっただけなんですが。。。 笑) 面白い冗談が言えないのはまだしも、かなり面白い冗談で笑わ(え)ない私を、「面白好きなヤツ」と理解してもらうのに当初はかなり苦戦しました。が、出川哲郎流さんも推奨の「魂で話すアプローチ」で交流し、少しずつ友達の輪を広げていきました。友達を作るのに人生で一番努力したのはこの時だった、と感じます。 Willamette University International Dinner 国際留学生の皆と。 努力の成果もあり、寮を追い出される夏休みはアメリカ人の友達数人の家に寄せてもらい貴重な経験をしてきました。中でも印象的なのは、制限速度のないモンタナで友人が仮免中だった私に運転練習させてくれた際、日本ではありえない古さのバンのギア変更が難しく、急な山道の下り坂カーブでスピードが出すぎ同乗者全員(2021年の投稿者飯島さん含む)が「殺す気かー!」と恐怖に陥った件、ワイオミングの友人の牧場で映画「The Horse Whisperer」のモデルになった馬小屋に寝泊まりしたワイルドな日々、牧場到着と同時にオーストラリア出身のカウボーイ達に向こう訛りで「%$x0&*#パレード行くか?」と聞かれ、「Yes]と答えたら馬車にポーンと乗せられ、見物に向かうと思いきや沿道に現れた大勢の人々に手を振られ、パレード登場を果たしていたドッキリ!事件、日本人の名前が覚えられない友人の伯母さんに「ジュリアロバーツ」というニックネーム(?)で呼ばれ、田舎街で名前を耳にした人々を「えっ、どこにいるの?!?!」とキョロキョロさせた件などなど、今でも集まれば話題に上る武勇伝がたくさん誕生しました。 TIUAやウィラメット時代を振り返ると宿題一つから友人関係、日常生活に至るまで何においても一生懸命、獅子白兎で立ち向かった日々だったと感じます。ここで培った頑張る精神は後の過酷な建築系大学院の時代を乗り切る基礎にもなったと思われます。 ワイオミングでのカウボーイライフ。 発見!ランドスケープアーキテクチャー ウ大卒業後は憧れの街サンフランシスコへ。直接仕事に繋がる専攻でなかったこともあり、就職難に直面。そこで公園を通じて地域向上を目指すNPOで研修生をしながら社会に役立つ専門分野で大学院に進むことを考え始めました。NPOで担当した土地利用調査や市民参加型公園計画の企画、公聴会への参加などがきっかけで、都市計画に興味を持ち、大学院進学を念頭にカリフォルニア大学バークレー校のキャリアフェアに参加。申し込みの際2つの学科のセッションが選べるんですが、都市計画の他にもう一つ「なんだろ、この学科?」レベルで選んでみたのがランドスケープアーキテクチャーでした。軽い興味で受けたセッションでしたが。。。 実は社会学や環境のみならずアートも絡んだ面白い分野であることが発覚!早速心変わりし、大学院はランドスケープアーキテクチャーに決定! 翌年、都市での環境デザイン、コミュニティーデザインが強いシアトルのワシントン大学に進学。大学院ではイタリア、中国、台湾などに短期留学。神戸でも震災復興後のまちづくりに参加するなど、多忙でしたが様々な風土、文化、そしてデザインプロジェクトを体験できました。最終的にはランドスケープの修士号に加え、都市計画学科とコラボのアーバンデザインサーティフィケイトも取得し卒業しました。 日本語ではランドスケープアーキテクチャーという分野を包括する言葉がなく、緑化、造園、園芸などと部分的な面で訳されてしまいますが、庭や外構だけでなく、色々な分野と連携を図り都市や地方、コミュニティと一緒に地域のビジョンを打ち立てていくという大規模なスケールや公共空間、グリーンインフラに関わるプロとしても活躍している分野です。 キャリアで学ぶ SASAKIサンフランシスコでは、実戦でスキルを磨く 卒業と同時にサンフランシスコに舞い戻り、SASAKIという建築、土木、インテリア、エコロジストなど多分野が存在する総合設計オフィスに就職。関係分野の専門家と身近にやり取りしながらプロとして必要な知識やスキルを学びました。最初に取り組んだプロジェクトの一つ、アメリカ最大級の港、LA港の工業地区に大きな公園や遊歩道を作ったプロジェクトでは長年工業地帯に住んでいる人々の住環境の向上に貢献できたことに加え、多数の賞などをいただき、キャリア初期から有意義で面白いプロジェクトに恵まれ幸運でした。 しばらくするとバージニア大学に移った大学院時代の恩師から常勤講師をしてみないかと声をかけていただき、挑戦を決意。1年半程働いたオフィスから半年間の休職許可をもらい、大学のあるシャーロッツビルへ引っ越しました。 バージニア大学で初めての教鞭を取る アジア人、女性、英語が訛っている、(他の先生と比べて)若い、小さい。。。 私という人物は登場した瞬間に「立派な先生だ」という印象を与える要素は皆無です。想像通り指導者としてのリスペクトを得るのが最初のハードルとなりました。多くの助言や応援の中で、特に響いたのが「全てを知っている必要はない。教える相手より一歩先を行っていれば、その一歩について教えることができるから」というものでした。リスペクトを得るために無理に先生らしく振舞ったり、本来の自分より大きく見せたりする必要はない、自分の貢献できる形で自分らしく頑張ればいい、と思えた言葉です。 結局、当初半年だった予定は2回の延長により2年近くになり、徐々に自分の教えるスタイル的なものが見えてきました。豊富な現場経験のある指導者が少ないのが弱みだと学生時代から感じていた私は、現場の知識や経験を共有できる先生になりたかったので、もっと実践経験が必要と考えていました。そんな時、徐々にリーマンショックの波及を受け教員志望者が急増。それを機に現場復帰を決断。不景気真っただ中で元のオフィスは苦戦中だったので、元上司が移動した先のボストン本社で再就職となりました。 バージニアでは試行錯誤の日々でしたが、ご指導いただいた先生方や今では友達・同僚になっている生徒達のおかげで充実した日々を送ることができ、いい思い出となっています。この経験は現在客員教授をさせてもらっているワシントン大学でも生かされています。 バージニア大学の生徒たちと。 SASAKIボストンでは、中東やアジア各国の大規模開発、街や各地域のビジョン形成や骨組みのデザインなどに取り組む 現場復帰したボストン本社ではアジアと中東を中心に都市デザインや大きなスケールのマスタープランなどを担当しました。アーバンデザイン、建築、土木、エコロジーの専門家と一緒に中東やアジア各国の大規模開発、街や地域のビジョン・枠組み形成や空間デザインなどに取り組みました。 ヨルダン側の死海、4000haのマスタープランは中でも思いで深いプロジェクトです。世界一標高が低い「死海」はそのユニークな成分で体が浮くことや貴重なバスソルトとして有名ですが、その珍しさは水自体だけではなく、ワディと呼ばれる渓谷や、希少種達が利用する広大なタマリスク(低木)の森などの周辺環境にも及びます。農業発展による水源ヨルダン川の水量低下に伴う死海の水位低下は年に1mにも及び、毎年ビーチがリゾートから遠ざかってしまう問題、テロ防止策で立体/地下駐車場設置が困難で歩行者環境が厳しい点やセキュリティ管理が水際を私有地化している問題、必要な真水と汚水の再利用のバランスが取れた開発スピードの調整などなど、社会的課題も特殊でした。 中東のマーケティングの専門家や環境エンジニアも交えた専門家チーム全員で環境、政治、経済、テクノロジーなど全ての面に渡り、どうしたら現在の問題に答えながらも、より良い未来の可能性を守っていく持続可能なデザインができるか検討し、死海という場所にしかない良さを基軸に、真珠のネックレスのように小さめの開発を要所に展開し繋いでいくストラテジーを考案。ヨルダン初の環境アセスや住人公聴会も開き、地元民やリゾート従業員のための機能的で活気ある本物の街づくりも提案しました。 初めてリード的なポジションで、自分の力不足を痛感したプロジェクトでしたが、とても多くの学びがあり、個人的に大きく成長できたプロジェクトでした。 Dead Sea Development Zone Detailed Master Plan(提供:SASAKI Associates) GGNシアトルで、数か国の興味深いプロジェクトに携わる 多数のマスタープランプロジェクトを経て、実際の建設経験を求めて、コンセプトから建設まで丁寧に手掛けることで有名な現在の会社GGNに入社。シアトルに戻り早10年、時折ワシントン大学で教えながら、アメリカ全土や数か国に渡り大学やハイテク企業のキャンパスや複合開発、会社の無償活動を利用したNPOによるホームレスの住居プロジェクトまで幅広く興味深いプロジェクトに携わらせていただいています。2018年のコンペ時から参加している大阪の「うめきた2期」もその一つです。 うめきた2期。GGNチームはプロジェクト全体のランドスケープビジョンからコンセプトレベルのデザイン、都市公園区画は詳細までリードデザインとして担当 うめきた2期開発は2024年先行オープン、2027年完成予定の複合開発で関空と大阪駅をつなぐJRの新しい駅の真横に位置している計9haのプロジェクトです。敷地の中心に位置する4.5haの都市公園の他、商業やインキュベーション施設、コンベンションセンター、3つのホテルに2つの住宅棟なども含めた街区となる予定です。 詳しくはオフィシャルウェブページもあるので是非ご覧ください:https://umekita2.jp/ 私達GGNはプロジェクト全体のランドスケープビジョンからコンセプトデザイン、都市公園区画は詳細までリードデザインとして担当。クライアントとなる事業者9社をはじめ、複数の建築事務所を含む日本のデザインチームと共にデザインに取り組んでいます。 GGNの特徴としては与件や機能面のみならず、独自のデザインプロセスによりその土地の普遍的な本質を探り出し、模倣やコピペではない、その土地にしかない・その場所で一番輝ける本物のデザインを提案していく点です。 歴史・文化、社会環境、生物多様性など色々調べると「何もない」とか「価値のない」場所などなく、どこでも興味深いストーリーや地元の人が自分の街を感じる瞬間が存在しています。それをどう可視化し、機能・与件、自然環境やコスト、そして様々な人々の意見などとのバランスを取って表現していくか、プロジェクト一つずつ丁寧に検討していきます。 もちろん、うめきた2期でも色々な調査・分析を重ね、淀川と深い関りがある豊かで潤った大地の記憶や橋の街大阪をインスピレーションに、海外に誇れる日本らしさも現代的にデザインに織り交ぜていきました。 初めての日本のプロジェクトなので日本特有な事を学ぶ機会が満載です。高度な技術や完成度など世界に誇れる点も多い中、縦割りや保守的なアプローチが主流であること、専門的なデータ分析より経験則を重んじる傾向、事例主義など、公共空間の向上には多くの課題やハードルも多そうです。個人的に最初の事例自体がどうできたのかは「卵が先か鶏が先か」並みのミステリーだと感じています。 お店などは雰囲気をとても大事にするのに公共空間は機能さえしていれば安っぽくても仕方ない、とあきらめているのが日本人の感覚と感じることがありますが、公共空間の質を付加価値としてではなく街のバイタリティのベース・インフラとして捉えていくことにより、地域や街、日々の暮らしの豊かさの向上に繋がっていくのでは、と思っています。コロナの影響もあり、世界中で屋外や公共空間価の値感が見直されてきている今、日本でも新しい公共空間や地域のあり方に取り組む機会が増えることを願っています。 うめきた2期ではGGN 創立者の一人、世界的にも巨匠的存在であるキャサリンと深く協働することができ、共にプロジェクトに貢献できたことや、日本チームも含め様々な方々から学べた事に感謝しています。都市公園はこの春工事が開始されましたが、これからも気を抜かず、最後まで日本チームと一緒に頑張っていきたいと思っています。 うめきた2期開発-鳥瞰イメージ(提供:うめきた2期開発事業者) 「たたかう、ランドスケープアーキテクト」として、試行錯誤しながら自分らしくチャレンジして行きたい 最後に「たたかう、ランドスケープアーキテクト」のタイトルですが、去年行った日建設計講演の際、友人に「私らしい」と提案されたタイトルです。TIUA時代の「負けない」精神が反映されているのでは、と感じます。ここ数年パンデミックや治安・政情の悪化など、世界中暗いニュースが多く凹みがちな日もありますが、私が「たたかって」いけるのも様々な方々のサポートあってと再痛感させられた機会でもあります。 日本での公共空間向上やランドスケープアーキテクチャーの普及を考えると、どう「たたかって」いくべきか(まだ)分かりませんが、また試行錯誤しながら自分らしくチャレンジしていけたらなと思っています! 何か「たたかうランドスケープアーキテクト」がお役に立てそうなことがあればご一報をいただければ、と思います! (鈴木マキエさんプロフィール) 名古屋出身 愛知県立千種高校卒業。 1995年TIU国際関係学部入学、長谷ゼミ。 1996年TIUA、2000年ウィラメット大学卒業:BA in Art & Sociology。2012年 GGN Ltd入社 現在の役職はPrincipal。 GGN: https://www.ggnltd.com/ 米国シアトルを拠点にするランドスケープアーキテクト。TIUAの後、ウィラメット大学へ編入、Bachelor of Arts(アートと社会学)で卒業。ワシントン大学でMLA(ランドスケープアーキテクチャー修士号)とアーバンデザインサーティフィケートを取得。ランドスケープデザイン・建築オフィスやバージニア大学建築学部講師などを経た後、現在勤務しているGGNに2012年に入社。 40平方キロメートル以上の大規模な地域マスタープランからホームレスのための極小ハウスプロジェクトまで幅広いスケールやタイプのプロジェクトを手掛ける。過去に携わったプロジェクトは世界10か国以上。現在は大阪のうめきた2期地区開発も担当。ワシントン大学にて客員教授も兼任中。 TIU 霞会シンガポール支部 [...]
「人生という旅に出て60年。……ファティマという名前をもらったサハラ砂漠で現地の民と暮らした経験が私の転機だったと想う」
空羽(くう)ファティマ(関口恵子)さん(1986年卒業 国際関係学部 テニス部)2022年8月1日はじめまして。絵本作家の空羽(くう)ファティマ(関口恵子)と申します。群馬県前橋在住です。2022年現在15作出版している自作の絵本〈主に大人の為の朗読CD付き絵本【愛と命と希望がテーマのキャメルン シリーズ】〉などの作者で、その世界観を立体的に表現しようと、物語に寄り添うオリジナルの音楽と,切り絵の映像と、ダンスをつけて、学校や舞台などで、その“朗読コンサート”を,医療者,教育者のメンバーと共に〈命の大切さと日々の尊さ〉を伝える活動(震災支援活動や、子育て支援、イジメ予防など)を14年間続けております。 私は当時の「国際商科大学(現東京国際大学)」を卒業後、世界35ヵ国を海外版寅さんの如く飛び回り、サハラ砂漠で現地の民と電気も水道もトイレもない生活をした際に付けてもらった「ファティマ」と言うニックネームを、その時学んだ“生きていく上で大切なこと」を忘れないようにと今もペンネームとして使っております。41歳で初めての出産後、自分の命より大事な存在に出会えたことで命の輝きを散りばめた【キャメルン シリーズ】というラクダを主人公にした物語を書いたのは、砂漠でラクダの価値を実感したことと、人間ではないキャラクターを使った方が“人生における深いメッセージ”も、ストレートに真っ直ぐに心に伝わると考えました。 アメリカ留学が目的で、東京国際大学に入学さてさて。在学中は国際商科大学という名称で、オレゴンに編入できる制度を使いたくて国際関係学科に入ったのですが、厳しい体育会のテニス部に入り、76人だった新入部員が14人に減り、後輩もできたことでクラブを続け女子部主将なぞをやり、結局留学は卒業後にしました。 1年間朝から夜中まで必死にバイトして溜めたお金で,オレゴン州のサザンオレゴンステイトカレッジ大学附属の英語学校。フロリダは職業訓練所学校に通い、日本で生花をやっていた私はフラワーアレンジを学びました。オレゴンは大学内の池にワニがいた寮の暮らしをして、フロリダは何箇所もホームステイを経験し アメリカ家庭の中に入ったことで、生のアメリカの暮らしを肌で体験。虐待ママから子供を守りながら暮らした家。鳥が放し飼いになっていてご飯の時はフンを避けながら食べたおばあちゃんの一人暮らしの家。貧しいながらも毎晩のテーブルセッティングがとても素敵なカップルの温かな家。などなどいろんな家庭を体験。 中でも面白かったのはある子供の絵を見た私はその色彩の豊かさと自由さに感動して「どういう育て方をしたらこんな絵が描けるようになるの?」と聞くと、「サンフラワースクール」という私立の自由な小学校に行ってるというので,見学させてもらうと子供たちはその日に受けたい授業を自分で選び、寝転びながら授業を受けたりしてるのに、日本みたいに受け身ではなく政治的なことも性教育もオープンに小さい子がバンバン発言していて,驚いたのでした。 本当に楽しい自由な学校で、ワニのいる川?湖?に日本ではありえないくらいに先生も生徒と一緒に泥だらけになりながらのピクニックに行ったりするとにかくスゴい、ワイルドな自由な学校だった。 それで,楽しくなりここで学びたいと思った私は「生徒としてぜひ通わせてほしい」と校長に頼むと,「大人は無理」と初めは言われたが、子供たちにあやとりや、折り紙を教えて「こんなふうに日本文化も生徒たちに伝えるからお願いします!」と再度頼むと、私に懐いた子どもたちも先生にお願いしてくれて,晴れて小学生になれたのでした。めでたしめでたし!♡╰(*´︶`*)╯♡ しかも,一度納得した後は、その校長先生はなんと授業料も無料にしてくださり、自分の家にタダで住んで良いと言ってくれたのだった!ひゃあ!びっくり、なんてありがたし!校長先生の夫はセントピーターズバーグの新聞社の社長さんで、リッチなお家での暮らしが始まったのでした。庭にはアライグマが来てて可愛かったが,サンドフリーという砂浜にいるノミに食われて物凄く,痒い日々で(>__ [...]
空羽(くう)ファティマ(関口恵子)さん(1986年卒業 国際関係学部 テニス部)2022年8月1日はじめまして。絵本作家の空羽(くう)ファティマ(関口恵子)と申します。群馬県前橋在住です。2022年現在15作出版している自作の絵本〈主に大人の為の朗読CD付き絵本【愛と命と希望がテーマのキャメルン シリーズ】〉などの作者で、その世界観を立体的に表現しようと、物語に寄り添うオリジナルの音楽と,切り絵の映像と、ダンスをつけて、学校や舞台などで、その“朗読コンサート”を,医療者,教育者のメンバーと共に〈命の大切さと日々の尊さ〉を伝える活動(震災支援活動や、子育て支援、イジメ予防など)を14年間続けております。 私は当時の「国際商科大学(現東京国際大学)」を卒業後、世界35ヵ国を海外版寅さんの如く飛び回り、サハラ砂漠で現地の民と電気も水道もトイレもない生活をした際に付けてもらった「ファティマ」と言うニックネームを、その時学んだ“生きていく上で大切なこと」を忘れないようにと今もペンネームとして使っております。41歳で初めての出産後、自分の命より大事な存在に出会えたことで命の輝きを散りばめた【キャメルン シリーズ】というラクダを主人公にした物語を書いたのは、砂漠でラクダの価値を実感したことと、人間ではないキャラクターを使った方が“人生における深いメッセージ”も、ストレートに真っ直ぐに心に伝わると考えました。 アメリカ留学が目的で、東京国際大学に入学さてさて。在学中は国際商科大学という名称で、オレゴンに編入できる制度を使いたくて国際関係学科に入ったのですが、厳しい体育会のテニス部に入り、76人だった新入部員が14人に減り、後輩もできたことでクラブを続け女子部主将なぞをやり、結局留学は卒業後にしました。 1年間朝から夜中まで必死にバイトして溜めたお金で,オレゴン州のサザンオレゴンステイトカレッジ大学附属の英語学校。フロリダは職業訓練所学校に通い、日本で生花をやっていた私はフラワーアレンジを学びました。オレゴンは大学内の池にワニがいた寮の暮らしをして、フロリダは何箇所もホームステイを経験し アメリカ家庭の中に入ったことで、生のアメリカの暮らしを肌で体験。虐待ママから子供を守りながら暮らした家。鳥が放し飼いになっていてご飯の時はフンを避けながら食べたおばあちゃんの一人暮らしの家。貧しいながらも毎晩のテーブルセッティングがとても素敵なカップルの温かな家。などなどいろんな家庭を体験。 中でも面白かったのはある子供の絵を見た私はその色彩の豊かさと自由さに感動して「どういう育て方をしたらこんな絵が描けるようになるの?」と聞くと、「サンフラワースクール」という私立の自由な小学校に行ってるというので,見学させてもらうと子供たちはその日に受けたい授業を自分で選び、寝転びながら授業を受けたりしてるのに、日本みたいに受け身ではなく政治的なことも性教育もオープンに小さい子がバンバン発言していて,驚いたのでした。 本当に楽しい自由な学校で、ワニのいる川?湖?に日本ではありえないくらいに先生も生徒と一緒に泥だらけになりながらのピクニックに行ったりするとにかくスゴい、ワイルドな自由な学校だった。 それで,楽しくなりここで学びたいと思った私は「生徒としてぜひ通わせてほしい」と校長に頼むと,「大人は無理」と初めは言われたが、子供たちにあやとりや、折り紙を教えて「こんなふうに日本文化も生徒たちに伝えるからお願いします!」と再度頼むと、私に懐いた子どもたちも先生にお願いしてくれて,晴れて小学生になれたのでした。めでたしめでたし!♡╰(*´︶`*)╯♡ しかも,一度納得した後は、その校長先生はなんと授業料も無料にしてくださり、自分の家にタダで住んで良いと言ってくれたのだった!ひゃあ!びっくり、なんてありがたし!校長先生の夫はセントピーターズバーグの新聞社の社長さんで、リッチなお家での暮らしが始まったのでした。庭にはアライグマが来てて可愛かったが,サンドフリーという砂浜にいるノミに食われて物凄く,痒い日々で(>__ [...]
ワークライフバランスを取りながら世界の脆弱な人々へ支援を
河野雄太さん(2009年卒業 言語コミュニケーション学部 岩崎ゼミ/ウィラメット大学 社会学部 2008年卒業)2021年10月22日1. 自己紹介、大学卒業から現在まで 2009年TIU言語コミュニケーション学部卒業(岩崎ゼミ)、2008年ウ大社会学部卒業の河野雄太と申します。現在は国連開発計画(United Nations Development Programme: UNDP)インド事務所で持続可能な開発目標 (SDGs)を地方に促進させる部署で勤務しています。また、日本企業とUNDPの連携についても担当しています。 大学時代は長期留学の奨学金を勝ち取るためにTOEFLの勉強に打ち込んだり、ウ大では膨大な量の課題に圧倒されながらもそれをこなしていく中で英語力が上がっていきました。ボランティア活動やアルバイトもやって大変ながらも楽しい学生生活を送ることが出来ました。卒業後も学生時代にお世話になった言コミの岩崎先生や国際関係学部の金先生、同窓生数人とは折に触れて連絡を取っています。 (TIUのラウンジで留学生の友人と) 大学卒業後はJICAの青年海外協力隊に参加し、インドの農村部で約2年間、妊産婦や新生児がかかる診療所環境の改善に取り組みました。その後、イギリスのブラッドフォード大学で紛争解決学の修士号を取得し、公益財団法人アジア福祉教育財団で日本国内の難民支援の現場で日本語教育や緊急性の高い人々に対する保護措置(生活保護の様な支援)に携わらせていただきました。また、国際NGOのADRA Japanでは、エチオピアの南スーダン難民支援に従事させていただき、難民キャンプでトイレ建設と衛生啓発活動を通して衛生環境の改善に取り組みました。 (難民キャンプでの活動の合間、キャンプ近くでエチオピア人の同僚と休憩Gambella/ Ethiopia) 2019年から外務省の平和構築・開発におけるグローバル人材育成事業に参加し、国連開発計画(UNDP)のアフリカ地域センターで、平和構築・ガバナンス専門官として勤務し、2020年から日本政府のJunior Professional Officer (JPO)派遣制度に参加し、UNDPインド事務所にて勤務しています。 2. SDGsについて SDGs-持続可能な開発目標はSustainable Development Goalsの略で、2015年に日本を含む国連に加盟している193カ国が全会一致で採択した2030年までの15年間の行動目標です。SDGsでは貧困、食料、環境、ジェンダー、クリーンエネルギー等17の目標と169のターゲットがありますが、途上国だけでなく先進国にも関係のあるものも多いです。SDGsは多くの分野を含んでいるため理解するのが難しいですが、一言でいうと「自分たちの子供の世代、孫の世代に今のような地球を受け継いで行くためにいろいろな問題を解決しよう」という目標です。現在人類は地球1.7個分の生活をしていると言われており、持続可能ではありません。このままではいずれ後の世代は今の様な地球で暮らせないと言われています。将来の世代のための資源に手を付けない範囲で経済発展しようというのがSDGsの考え方です。 3. これまでの仕事で印象的だったこと 政治的コミットメントを得るということ 途上国では政治的なコミットメントを得ないと物事が進まないことが多くあります。例えば担当者レベルでこう進めて行こう、と合意してもそれが遅々として進まないことがあります。また、そもそも担当者レベルで話がまとまらないことも良くあります。そういう環境では相手国政府の高官等地位の高い人達と会議の場を持って定期的に支持を得ておくことである程度こうした状況を回避することができます。国連の現場で途上国での物事の進め方を学んだ経験でした。 (エチオピア政府、政府間開発機構、UNDP職員でエチオピア、ケニア、ソマリアの国境地域に出張 Addis Ababa/Ethiopia) コロナ禍では最も脆弱な人々が大きな影響を受けるということ コロナは途上国でも甚大な被害を与えています。例えばアフリカの角地域では感染防止策の一環として国境が閉鎖されてこれまでの様にビジネスができず、経済活動に大きな影響が出ました。さらにそうした時期にバッタが大量発生しこの地域の農業に大打撃を与えました。生きていくために人々は残された湖や川などの水資源や家畜を育てる牧草地等に集まることになります。しかし、資源が十分に無いため部族衝突が起こり、紛争に発展することもあります。しかもこうした資源は気候変動により規模が少なくなっています。既に何重もの課題がある地域にコロナが蔓延する影響は先進国での蔓延とは比べ物になりません。 第二波がインドを襲った際、ピーク時の1日の新規感染者数は40万人を超えました。医療用酸素の不足は特に深刻で、感染した家族や愛する人々の酸素を確保するために走り回る人々の姿や、入手の目途が立たず途方に暮れたり涙したりする人々の姿が連日ニュースやソーシャルメディアで取り上げられました。こうした状況の中、UNDPは日本政府、インド政府と連携し医療用酸素プラントを建設することで地方病院のコロナ対応能力を大きく向上させました。 コロナ禍を技術革新で乗り越えていくインドの力強さ インドのデジタルの発展には目を見張るものがあります。大都市ではオンラインで食料や日用品全般の購入、自宅までのデリバリーが安価ででき、コロナ禍でも外出する必要はありません。PCR検査はwhatsapp で予約し自宅でサンプル採取が1,000円程度で出来ますし、結果はEメールで受け取れます。ワクチンの予約や証明書の発行もオンラインで出来ます。農村部にもデジタル化の流れは届いており、アマゾン等を活用しオンランで農村で作った商品(織物、服、電飾、食料品 等)を売ることができます。また、農村から出ることなくスマートフォンで様々な情報(例えば政府の公的支援情報)にアクセスすることが可能になってきています。地方でも電子決済が進んでおり、屋台や露店でもQRコードで支払うことができます。コロナ禍という未曾有の事態にもデジタルイノベーションを通して適応、発展していくインドの力強さを感じました。 (インドの農村地域で小規模ビジネスに取り組む女性グループを視察 Uttarakhand/ India) 4. 自分自身の生き方、これからやりたいこと、皆さんのメッセージ 私は仕事はプライベートを充実させるための手段と考えており、家族との時間を仕事よりも大切にしたいと思っています。その上で世の中の弱い立場にある人のために働いたり、行ったことのない国や文化に触れたり、SDGsを進めるための活動ができればと考えています。この場をお借りしてみなさんに伝えたいことは、買い物は選挙だということです。世の中には様々な商品がありますが、地球環境、人権、労働環境、フェアトレードに配慮した製品を購入することで、優良企業を応援することができます。もし消費者の多くがそのような基準で買い物をすれば、配慮していない企業も自社の商品やバリューチェーンを見直さざるを得ません。私たちは日々の買い物を通して世の中をを良くすることに貢献できるのです。全ての買い物でこれをやるのは大変ですが、先ずは一品、そのような基準で購入してみては如何でしょうか。 (妻と休暇先のモルディブで) (河野雄太さんプロフィール) 1986年 埼玉県川越市生まれ 2004年 狭山ヶ丘高校卒業東京国際大学言語コミュニケーション学部入学 2008年 ウィラメット大学社会学部卒業 2009年 東京国際大学言語コミュニケーション学部卒業JICA 青年海外協力隊員としてインドへ 2012年 ブラッドフォード大学 紛争解決学部 修士課程修了(イギリス) 2012-2015年 公益財団法人 アジア福祉教育財団 難民事業本部 難民相談員、プロジェクト・マネージャー (日本) 2016-2019年 国際NGO ADRA Japan プロジェクト・マネージャー (エチオピア) 2019-2021年現在国連開発計画 (UNDP) 平和構築ガバナンス専門家 (エチオピア)SDGsコーディネーター (インド) 公益財団法人アジア福祉教育財団https://www.rhq.gr.jp/ 国際NGO ADRA Japan https://www.adrajpn.org/ 外務省 平和構築・開発におけるグローバル人材育成事業https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/peace_b/j_ikusei_shokai.html 日本政府 Junior Professional Officer (JPO)派遣制度https://www.mofa-irc.go.jp/jpo/seido.html SDGs-持続可能な開発目標 Sustainable Development Goalshttps://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/sdgs/about/index.html インド進出日本企業と国連開発計画(UNDP)のパートナーシップについて(CSR/SDGs) : 970KB PDF TIU 霞会シンガポール支部 [...]
河野雄太さん(2009年卒業 言語コミュニケーション学部 岩崎ゼミ/ウィラメット大学 社会学部 2008年卒業)2021年10月22日1. 自己紹介、大学卒業から現在まで 2009年TIU言語コミュニケーション学部卒業(岩崎ゼミ)、2008年ウ大社会学部卒業の河野雄太と申します。現在は国連開発計画(United Nations Development Programme: UNDP)インド事務所で持続可能な開発目標 (SDGs)を地方に促進させる部署で勤務しています。また、日本企業とUNDPの連携についても担当しています。 大学時代は長期留学の奨学金を勝ち取るためにTOEFLの勉強に打ち込んだり、ウ大では膨大な量の課題に圧倒されながらもそれをこなしていく中で英語力が上がっていきました。ボランティア活動やアルバイトもやって大変ながらも楽しい学生生活を送ることが出来ました。卒業後も学生時代にお世話になった言コミの岩崎先生や国際関係学部の金先生、同窓生数人とは折に触れて連絡を取っています。 (TIUのラウンジで留学生の友人と) 大学卒業後はJICAの青年海外協力隊に参加し、インドの農村部で約2年間、妊産婦や新生児がかかる診療所環境の改善に取り組みました。その後、イギリスのブラッドフォード大学で紛争解決学の修士号を取得し、公益財団法人アジア福祉教育財団で日本国内の難民支援の現場で日本語教育や緊急性の高い人々に対する保護措置(生活保護の様な支援)に携わらせていただきました。また、国際NGOのADRA Japanでは、エチオピアの南スーダン難民支援に従事させていただき、難民キャンプでトイレ建設と衛生啓発活動を通して衛生環境の改善に取り組みました。 (難民キャンプでの活動の合間、キャンプ近くでエチオピア人の同僚と休憩Gambella/ Ethiopia) 2019年から外務省の平和構築・開発におけるグローバル人材育成事業に参加し、国連開発計画(UNDP)のアフリカ地域センターで、平和構築・ガバナンス専門官として勤務し、2020年から日本政府のJunior Professional Officer (JPO)派遣制度に参加し、UNDPインド事務所にて勤務しています。 2. SDGsについて SDGs-持続可能な開発目標はSustainable Development Goalsの略で、2015年に日本を含む国連に加盟している193カ国が全会一致で採択した2030年までの15年間の行動目標です。SDGsでは貧困、食料、環境、ジェンダー、クリーンエネルギー等17の目標と169のターゲットがありますが、途上国だけでなく先進国にも関係のあるものも多いです。SDGsは多くの分野を含んでいるため理解するのが難しいですが、一言でいうと「自分たちの子供の世代、孫の世代に今のような地球を受け継いで行くためにいろいろな問題を解決しよう」という目標です。現在人類は地球1.7個分の生活をしていると言われており、持続可能ではありません。このままではいずれ後の世代は今の様な地球で暮らせないと言われています。将来の世代のための資源に手を付けない範囲で経済発展しようというのがSDGsの考え方です。 3. これまでの仕事で印象的だったこと 政治的コミットメントを得るということ 途上国では政治的なコミットメントを得ないと物事が進まないことが多くあります。例えば担当者レベルでこう進めて行こう、と合意してもそれが遅々として進まないことがあります。また、そもそも担当者レベルで話がまとまらないことも良くあります。そういう環境では相手国政府の高官等地位の高い人達と会議の場を持って定期的に支持を得ておくことである程度こうした状況を回避することができます。国連の現場で途上国での物事の進め方を学んだ経験でした。 (エチオピア政府、政府間開発機構、UNDP職員でエチオピア、ケニア、ソマリアの国境地域に出張 Addis Ababa/Ethiopia) コロナ禍では最も脆弱な人々が大きな影響を受けるということ コロナは途上国でも甚大な被害を与えています。例えばアフリカの角地域では感染防止策の一環として国境が閉鎖されてこれまでの様にビジネスができず、経済活動に大きな影響が出ました。さらにそうした時期にバッタが大量発生しこの地域の農業に大打撃を与えました。生きていくために人々は残された湖や川などの水資源や家畜を育てる牧草地等に集まることになります。しかし、資源が十分に無いため部族衝突が起こり、紛争に発展することもあります。しかもこうした資源は気候変動により規模が少なくなっています。既に何重もの課題がある地域にコロナが蔓延する影響は先進国での蔓延とは比べ物になりません。 第二波がインドを襲った際、ピーク時の1日の新規感染者数は40万人を超えました。医療用酸素の不足は特に深刻で、感染した家族や愛する人々の酸素を確保するために走り回る人々の姿や、入手の目途が立たず途方に暮れたり涙したりする人々の姿が連日ニュースやソーシャルメディアで取り上げられました。こうした状況の中、UNDPは日本政府、インド政府と連携し医療用酸素プラントを建設することで地方病院のコロナ対応能力を大きく向上させました。 コロナ禍を技術革新で乗り越えていくインドの力強さ インドのデジタルの発展には目を見張るものがあります。大都市ではオンラインで食料や日用品全般の購入、自宅までのデリバリーが安価ででき、コロナ禍でも外出する必要はありません。PCR検査はwhatsapp で予約し自宅でサンプル採取が1,000円程度で出来ますし、結果はEメールで受け取れます。ワクチンの予約や証明書の発行もオンラインで出来ます。農村部にもデジタル化の流れは届いており、アマゾン等を活用しオンランで農村で作った商品(織物、服、電飾、食料品 等)を売ることができます。また、農村から出ることなくスマートフォンで様々な情報(例えば政府の公的支援情報)にアクセスすることが可能になってきています。地方でも電子決済が進んでおり、屋台や露店でもQRコードで支払うことができます。コロナ禍という未曾有の事態にもデジタルイノベーションを通して適応、発展していくインドの力強さを感じました。 (インドの農村地域で小規模ビジネスに取り組む女性グループを視察 Uttarakhand/ India) 4. 自分自身の生き方、これからやりたいこと、皆さんのメッセージ 私は仕事はプライベートを充実させるための手段と考えており、家族との時間を仕事よりも大切にしたいと思っています。その上で世の中の弱い立場にある人のために働いたり、行ったことのない国や文化に触れたり、SDGsを進めるための活動ができればと考えています。この場をお借りしてみなさんに伝えたいことは、買い物は選挙だということです。世の中には様々な商品がありますが、地球環境、人権、労働環境、フェアトレードに配慮した製品を購入することで、優良企業を応援することができます。もし消費者の多くがそのような基準で買い物をすれば、配慮していない企業も自社の商品やバリューチェーンを見直さざるを得ません。私たちは日々の買い物を通して世の中をを良くすることに貢献できるのです。全ての買い物でこれをやるのは大変ですが、先ずは一品、そのような基準で購入してみては如何でしょうか。 (妻と休暇先のモルディブで) (河野雄太さんプロフィール) 1986年 埼玉県川越市生まれ 2004年 狭山ヶ丘高校卒業東京国際大学言語コミュニケーション学部入学 2008年 ウィラメット大学社会学部卒業 2009年 東京国際大学言語コミュニケーション学部卒業JICA 青年海外協力隊員としてインドへ 2012年 ブラッドフォード大学 紛争解決学部 修士課程修了(イギリス) 2012-2015年 公益財団法人 アジア福祉教育財団 難民事業本部 難民相談員、プロジェクト・マネージャー (日本) 2016-2019年 国際NGO ADRA Japan プロジェクト・マネージャー (エチオピア) 2019-2021年現在国連開発計画 (UNDP) 平和構築ガバナンス専門家 (エチオピア)SDGsコーディネーター (インド) 公益財団法人アジア福祉教育財団https://www.rhq.gr.jp/ 国際NGO ADRA Japan https://www.adrajpn.org/ 外務省 平和構築・開発におけるグローバル人材育成事業https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/peace_b/j_ikusei_shokai.html 日本政府 Junior Professional Officer (JPO)派遣制度https://www.mofa-irc.go.jp/jpo/seido.html SDGs-持続可能な開発目標 Sustainable Development Goalshttps://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/sdgs/about/index.html インド進出日本企業と国連開発計画(UNDP)のパートナーシップについて(CSR/SDGs) : 970KB PDF TIU 霞会シンガポール支部 [...]
途上国援助は未知との遭遇。次はベトナムへ
石田幸男さん(商7期、1975年卒、柴沼ゼミ)2020年1月5日1975年に大学卒業後、JICA(国際協力機構)に40年以上勤務しました。JICAの仕事は途上国援助であり、保健医療から鉱工業や社会開発と、幅広い分野にわたっています。保健医療協力援助を行う部署に配属されたのを皮切りに、ほぼ3年に1度の人事異動があり、毎回未知の世界に転職するような仕事をしてきました。海外勤務も8ヵ国(バングラデシュ、シンガポール、ケニア、フィリピン、モンゴル、ベトナム、ウズベキスタン、ボツワナ)20年以上。振り返れば社会人以前、国内勤務、海外勤務がそれぞれ20年ずつと、なかなかバランスの取れた生活ですね。 7期生としてTIUを卒業したのはずいぶん前ですが、働き出してからもTIUとの縁が切れることはなく、今までに母校の関係者と接触する機会が何度かありました。たとえば、東京ではJICAが取り組む途上国援助などについて講演会をしましたし、フィリピンでは、故下羽教授率いるスタディツアーの学生に対し現地事情紹介したり、モンゴル勤務時には、日本語教育についてお手伝いをしたりしました。 フィリピンのJICA事務所にて故下羽教授とゼミ生の皆さんと ウズベキスタン勤務時には、ウズベキスタン人留学生のE-Trackへの応募促進で、大学との橋渡しのお手伝いをさせていただきました。年を追うごとにTIUの発展が感じられたのを思い出します。 2019年にJICAの仕事を卒業しましたが、現在は縁あってベトナムのホーチミン市師範大学日本語学部の顧問として、日本との交流関係の仕事に携わっています。ベトナムは国中が前を向いて進んでいる姿勢が感じられ、これから益々面白くなる国だと期待しています。 海外で日本人は、「礼儀正しく、誠実で、努力家である」との良いイメージを持たれています。在外での生活では、日本人であることを大変ありがたく思う機会が多くありました。このような高い評価は先人の努力の積み重ねのお陰であり、大きな財産。この良いイメージと評判を失わないように行動したいと思っていますし、皆さんにもぜひそうあってほしいと思っています。そして、どこの国でも最終的には人との良好な関係が一番大事でした。いい友達、いい先生、いい先輩など、人との信頼関係をうまく築いていくことが、自分にも周囲の人にとっても一番ではないでしょうか。 ウズベキスタン日本センターにてスタッフと700,000人目の訪問者を祝う (石田幸男さんプロフィール) 1975年3月東京国際大学商学部卒、柴沼ゼミ 1975年4月から2019年までJICA(国際協力機構)に約45年間勤務。 海外勤務地はバングラデシュ、シンガポール、ケニア、フィリピン、モンゴル、ベトナム、ウズベキスタン、ボツワナの8カ国に渡る。 2019年よりベトナムホーチミン市師範大学日本語学部顧問として、日本との国際交流に従事中。 TIU 霞会シンガポール支部 [...]
石田幸男さん(商7期、1975年卒、柴沼ゼミ)2020年1月5日1975年に大学卒業後、JICA(国際協力機構)に40年以上勤務しました。JICAの仕事は途上国援助であり、保健医療から鉱工業や社会開発と、幅広い分野にわたっています。保健医療協力援助を行う部署に配属されたのを皮切りに、ほぼ3年に1度の人事異動があり、毎回未知の世界に転職するような仕事をしてきました。海外勤務も8ヵ国(バングラデシュ、シンガポール、ケニア、フィリピン、モンゴル、ベトナム、ウズベキスタン、ボツワナ)20年以上。振り返れば社会人以前、国内勤務、海外勤務がそれぞれ20年ずつと、なかなかバランスの取れた生活ですね。 7期生としてTIUを卒業したのはずいぶん前ですが、働き出してからもTIUとの縁が切れることはなく、今までに母校の関係者と接触する機会が何度かありました。たとえば、東京ではJICAが取り組む途上国援助などについて講演会をしましたし、フィリピンでは、故下羽教授率いるスタディツアーの学生に対し現地事情紹介したり、モンゴル勤務時には、日本語教育についてお手伝いをしたりしました。 フィリピンのJICA事務所にて故下羽教授とゼミ生の皆さんと ウズベキスタン勤務時には、ウズベキスタン人留学生のE-Trackへの応募促進で、大学との橋渡しのお手伝いをさせていただきました。年を追うごとにTIUの発展が感じられたのを思い出します。 2019年にJICAの仕事を卒業しましたが、現在は縁あってベトナムのホーチミン市師範大学日本語学部の顧問として、日本との交流関係の仕事に携わっています。ベトナムは国中が前を向いて進んでいる姿勢が感じられ、これから益々面白くなる国だと期待しています。 海外で日本人は、「礼儀正しく、誠実で、努力家である」との良いイメージを持たれています。在外での生活では、日本人であることを大変ありがたく思う機会が多くありました。このような高い評価は先人の努力の積み重ねのお陰であり、大きな財産。この良いイメージと評判を失わないように行動したいと思っていますし、皆さんにもぜひそうあってほしいと思っています。そして、どこの国でも最終的には人との良好な関係が一番大事でした。いい友達、いい先生、いい先輩など、人との信頼関係をうまく築いていくことが、自分にも周囲の人にとっても一番ではないでしょうか。 ウズベキスタン日本センターにてスタッフと700,000人目の訪問者を祝う (石田幸男さんプロフィール) 1975年3月東京国際大学商学部卒、柴沼ゼミ 1975年4月から2019年までJICA(国際協力機構)に約45年間勤務。 海外勤務地はバングラデシュ、シンガポール、ケニア、フィリピン、モンゴル、ベトナム、ウズベキスタン、ボツワナの8カ国に渡る。 2019年よりベトナムホーチミン市師範大学日本語学部顧問として、日本との国際交流に従事中。 TIU 霞会シンガポール支部 [...]
入社3年目に初めての海外勤務、以来「フロンティア・スピリットの精神」で国際ビジネスにチャレンジ。
落合正和さん(商学部 6期/1974年卒、阿部光典ゼミ、アメリカンフットボール部)2019年11月27日1998年に国内の医療法人に再就職してから今年で単身赴任生活21年目になります。 ● 入社後に、海外での仕事をしたいと思われたきっかけは何でしょうか? 私がゼネコンの佐藤工業入社後に海外に携わるきっかけとなったのは、毎月発行される社報に連載されていた「シンガポール支店の工事報告」に自分の海外勤務の夢を重ね合わせていたことに端を発します。私の入社した年は、第一次オイルショック直後で新入社員は過去最多の270名を超しておりました(翌年から新規採用は激減)。新入社員の多くは国公立・有名私立大学の出身者で、卒業生を輩出してやっと6年目の新設無名大学出身の私が対等に競っていくためには何をしなければならないのか常に自問自答の日々でした。後輩たちの為にも絶対に大学の名を汚すわけにはいかないという思いから、自分が活躍できる場として海外に的を絞ることにはそう時間はかかりませんでした。アメリカンフットボール部時代に培ったフロンティア・スピリットのチャレンジ精神と体力にはだれにも引けを取らない自信があったからです。 ● 初めての海外赴任は入社3年目の25歳からと聞きましたが? 丁度そのころ、佐藤工業は海外建設市場の拡大を視野に国内職員の選抜を始めていました。当時の上司から「君は国際商科大学の卒業生だったね、語学が堪能ならば海外工事に興味はないのかな ?」との質問に『勿論希望するところです!』と即答。その1年後本社海外事業部へ移動。しかし、希望していた英語圏のシンガポール勤務ではなく、三井物産を中心とした日本企業連合とイラン政府との合弁石油化学コンビナート建設の国家プロジェクト(IJPC)の現場要員として未知の産油国イランに赴任することが決まったのは入社3年目の25歳の時でした。 イラン転勤の声がかかった職員の中には、灼熱の気候(夏の気温50℃超)、公用語(ペルシャ語)、宗教(回教)食事(羊肉)等大きな環境の違いから躊躇する者が続出しました。私を含め選抜された数名の事務系職員は本社で大量の建設資材をイラン迄輸出する業務を担当し、赴任までの3カ月間のペルシャ語の読み書きの特訓を受けた後、順次現地に赴任して行きました。当時は中東勤務者の一時帰国の社内規定も整っていない時代で、皆いつ日本へ戻れるか不安な気持ちのまま羽田空港から一路首都テヘランへ向け飛び立って行きました。案の定、我々よりも先に赴任していた先輩職員たちはあまりの環境の違いに適応できず脱落する者が続出、私は、着任早々欠員となった経理課長の代わりに急遽テヘラン事務所の事務担当を任されることになりました。 ● イラン・イラク戦争下の困難な状況の中での仕事も経験されたとか。 1976年テヘラン着任後私は、ペルシャ語の家庭教師として自費でイラン人秘書を雇い、事務所内ではペルシャ語以外は一切使わないようにしました(会話は勿論、書類も経理帳簿もすべてペルシャ語)。イラン革命の勃発で緊急帰国するまで(1979年3月)の2年間で習得したペルシャ語が革命時の内戦状態の中で、身の安全を守る最大の武器となるとは思いも寄りませんでした。革命による工事中断で帰国した後、1980年からは2年間サウジアラビア・ヤンブーで国内向け精油所建設工事の工事事務に携わりました。サウジアラビアから帰任後は革命で頓挫していたIJPCプロジェクト再開のための現地被害調査に2度にわたってペルシャ湾岸の建設現場に向かいました。当時はイラン・イラク戦争真っ只中、現場に着任後1週間で工事再開の情報がイラクに漏れ空軍によるロケット弾攻撃を受けた現場には一度も立ち入ることができず、日本人関係者は全員キャンプ内で監禁状態となりました。人質生活3ケ月後、日本政府とイラン革命政府の話し合いの結果、急遽現場から解放されることになりましたがイラク軍の攻撃を避けて現場からテヘランに避難するには陸路しかありませんでした。700名の日本人は15台のバスに分乗し月明かりのない闇夜の晩に無灯火の隊列で一路テヘランを目指しました。私は、先頭車両のイラン人運転手の通訳として同乗し先導役を買って出ました。翌朝朝日が昇る頃15台のバスは全て無事テヘランに到着することができ、この時また苦労して覚えたペルシャ語に助けられることになりました。 ● 中国、トルコ、ロシア、フィリピンをはじめ米国でもグローバルに活躍されてきたのですね。 帰国後は本社海外事業部で新たな海外市場開拓を企画しておりましたが、1986年、米国デトロイトでアメリカンモータース社のJeep組立工場の自動生産ラインを受注したことから、米国での新規事業展開の事務責任者として現地法人立上げから8年間初めて家族帯同で勤務することになりました。アメリカンモータース社がクライスラー社に統合され、契約は解除となりデトロイトからカリフォルニア(オレンジカウンティ)に移り新たに手掛けたのが不動産開発事業です。商業施設・事務所・集合住宅等の賃貸不動産を建設所有し、最終的にはロスアンゼルスの西部で総事業費250億円の会員制ゴルフ場付き宅地開発(Spanish Hills Golf & Country Club)を手掛けた後1994年3月に長男の高校受験の1年前のタイミングで日本に帰任致しました。 ● 後輩の方々へのメッセージをお願いします。 帰国後3年程国内支店におりましたが1997年に佐藤工業を47歳で希望退職。1998年より茨城県常陸太田市で医療法人の本部事務局長として18年勤務。現在は、グループの調剤薬局と医療コンサルタント会社を経営しております。華々しく、刺激的で且つ厳しい国際ビジネスからはしばらく離れておりますが、国際商科大学のVision・Courage・Intelligenceの教育理念は、常に新しい事に挑戦する際に私の指針としております。勤務の傍ら東京国際大学の同窓会活動にも参加し2009年から常任幹事、2012年から副会長を8年経験し、2019年4月より霞会の法人監事(任期4年)を務めております。 私の信条は、「フロンティア・スピリットの精神」です。未知の荒野を切り開いていく開拓者魂。東京国際大学の校歌の歌詞3番を聞くと今でも胸にこみあげてくるものがあります。 『叡智を誇るわが友は 信義に厚く学たけて 苦難の道を切り開き 7つの海に漕ぎ出でん 世界の国を翔けめぐり 勝利を歌えよ高らかに これぞ我らが母校 東京国際』 東京国際大学の現役学生の皆さんに伝えたい事は、自分は何がしたいのか、自分には何ができるのか、それを在学中に徹底的に追求して下さい。また母校を既に卒業した後輩の皆さんには、日本にいても海外にいても常に新たなことに挑戦する「フロンティア・スピリット」を忘れない開拓者であって欲しいと念じています。 (落合正和さんプロファイル) 1974年3月 国際商科大学 商学部(阿部光典ゼミ)卒業、アメリカンフットボール部(主将) 卒業後、佐藤工業株式会社入社 名古屋支店、本社海外事業部勤務。1976年から2年間イラン(テヘラン)赴任、1980年から2年間サウジアラビア(ヤンブー)製油所建設工事に携わるほか、中国・トルコ・ロシア・フィリピンなどでマンパワー市場調査業務。1986年に米国の現地法人を立ち上げ、ミシガン州デトロイトとカリフォルニア州オレンジカウンティに8年間駐在。1997年佐藤工業株式会社退社。 1998年から国内医療法人の本部事務局長、今年で単身赴任生活21年目。現在医療法人グループの調剤薬局と医療コンサルタント会社を経営。 2009年より同窓会常任幹事、2012年より副会長職を8期経て、2019年より法人監事。 TIU 霞会シンガポール支部 [...]
落合正和さん(商学部 6期/1974年卒、阿部光典ゼミ、アメリカンフットボール部)2019年11月27日1998年に国内の医療法人に再就職してから今年で単身赴任生活21年目になります。 ● 入社後に、海外での仕事をしたいと思われたきっかけは何でしょうか? 私がゼネコンの佐藤工業入社後に海外に携わるきっかけとなったのは、毎月発行される社報に連載されていた「シンガポール支店の工事報告」に自分の海外勤務の夢を重ね合わせていたことに端を発します。私の入社した年は、第一次オイルショック直後で新入社員は過去最多の270名を超しておりました(翌年から新規採用は激減)。新入社員の多くは国公立・有名私立大学の出身者で、卒業生を輩出してやっと6年目の新設無名大学出身の私が対等に競っていくためには何をしなければならないのか常に自問自答の日々でした。後輩たちの為にも絶対に大学の名を汚すわけにはいかないという思いから、自分が活躍できる場として海外に的を絞ることにはそう時間はかかりませんでした。アメリカンフットボール部時代に培ったフロンティア・スピリットのチャレンジ精神と体力にはだれにも引けを取らない自信があったからです。 ● 初めての海外赴任は入社3年目の25歳からと聞きましたが? 丁度そのころ、佐藤工業は海外建設市場の拡大を視野に国内職員の選抜を始めていました。当時の上司から「君は国際商科大学の卒業生だったね、語学が堪能ならば海外工事に興味はないのかな ?」との質問に『勿論希望するところです!』と即答。その1年後本社海外事業部へ移動。しかし、希望していた英語圏のシンガポール勤務ではなく、三井物産を中心とした日本企業連合とイラン政府との合弁石油化学コンビナート建設の国家プロジェクト(IJPC)の現場要員として未知の産油国イランに赴任することが決まったのは入社3年目の25歳の時でした。 イラン転勤の声がかかった職員の中には、灼熱の気候(夏の気温50℃超)、公用語(ペルシャ語)、宗教(回教)食事(羊肉)等大きな環境の違いから躊躇する者が続出しました。私を含め選抜された数名の事務系職員は本社で大量の建設資材をイラン迄輸出する業務を担当し、赴任までの3カ月間のペルシャ語の読み書きの特訓を受けた後、順次現地に赴任して行きました。当時は中東勤務者の一時帰国の社内規定も整っていない時代で、皆いつ日本へ戻れるか不安な気持ちのまま羽田空港から一路首都テヘランへ向け飛び立って行きました。案の定、我々よりも先に赴任していた先輩職員たちはあまりの環境の違いに適応できず脱落する者が続出、私は、着任早々欠員となった経理課長の代わりに急遽テヘラン事務所の事務担当を任されることになりました。 ● イラン・イラク戦争下の困難な状況の中での仕事も経験されたとか。 1976年テヘラン着任後私は、ペルシャ語の家庭教師として自費でイラン人秘書を雇い、事務所内ではペルシャ語以外は一切使わないようにしました(会話は勿論、書類も経理帳簿もすべてペルシャ語)。イラン革命の勃発で緊急帰国するまで(1979年3月)の2年間で習得したペルシャ語が革命時の内戦状態の中で、身の安全を守る最大の武器となるとは思いも寄りませんでした。革命による工事中断で帰国した後、1980年からは2年間サウジアラビア・ヤンブーで国内向け精油所建設工事の工事事務に携わりました。サウジアラビアから帰任後は革命で頓挫していたIJPCプロジェクト再開のための現地被害調査に2度にわたってペルシャ湾岸の建設現場に向かいました。当時はイラン・イラク戦争真っ只中、現場に着任後1週間で工事再開の情報がイラクに漏れ空軍によるロケット弾攻撃を受けた現場には一度も立ち入ることができず、日本人関係者は全員キャンプ内で監禁状態となりました。人質生活3ケ月後、日本政府とイラン革命政府の話し合いの結果、急遽現場から解放されることになりましたがイラク軍の攻撃を避けて現場からテヘランに避難するには陸路しかありませんでした。700名の日本人は15台のバスに分乗し月明かりのない闇夜の晩に無灯火の隊列で一路テヘランを目指しました。私は、先頭車両のイラン人運転手の通訳として同乗し先導役を買って出ました。翌朝朝日が昇る頃15台のバスは全て無事テヘランに到着することができ、この時また苦労して覚えたペルシャ語に助けられることになりました。 ● 中国、トルコ、ロシア、フィリピンをはじめ米国でもグローバルに活躍されてきたのですね。 帰国後は本社海外事業部で新たな海外市場開拓を企画しておりましたが、1986年、米国デトロイトでアメリカンモータース社のJeep組立工場の自動生産ラインを受注したことから、米国での新規事業展開の事務責任者として現地法人立上げから8年間初めて家族帯同で勤務することになりました。アメリカンモータース社がクライスラー社に統合され、契約は解除となりデトロイトからカリフォルニア(オレンジカウンティ)に移り新たに手掛けたのが不動産開発事業です。商業施設・事務所・集合住宅等の賃貸不動産を建設所有し、最終的にはロスアンゼルスの西部で総事業費250億円の会員制ゴルフ場付き宅地開発(Spanish Hills Golf & Country Club)を手掛けた後1994年3月に長男の高校受験の1年前のタイミングで日本に帰任致しました。 ● 後輩の方々へのメッセージをお願いします。 帰国後3年程国内支店におりましたが1997年に佐藤工業を47歳で希望退職。1998年より茨城県常陸太田市で医療法人の本部事務局長として18年勤務。現在は、グループの調剤薬局と医療コンサルタント会社を経営しております。華々しく、刺激的で且つ厳しい国際ビジネスからはしばらく離れておりますが、国際商科大学のVision・Courage・Intelligenceの教育理念は、常に新しい事に挑戦する際に私の指針としております。勤務の傍ら東京国際大学の同窓会活動にも参加し2009年から常任幹事、2012年から副会長を8年経験し、2019年4月より霞会の法人監事(任期4年)を務めております。 私の信条は、「フロンティア・スピリットの精神」です。未知の荒野を切り開いていく開拓者魂。東京国際大学の校歌の歌詞3番を聞くと今でも胸にこみあげてくるものがあります。 『叡智を誇るわが友は 信義に厚く学たけて 苦難の道を切り開き 7つの海に漕ぎ出でん 世界の国を翔けめぐり 勝利を歌えよ高らかに これぞ我らが母校 東京国際』 東京国際大学の現役学生の皆さんに伝えたい事は、自分は何がしたいのか、自分には何ができるのか、それを在学中に徹底的に追求して下さい。また母校を既に卒業した後輩の皆さんには、日本にいても海外にいても常に新たなことに挑戦する「フロンティア・スピリット」を忘れない開拓者であって欲しいと念じています。 (落合正和さんプロファイル) 1974年3月 国際商科大学 商学部(阿部光典ゼミ)卒業、アメリカンフットボール部(主将) 卒業後、佐藤工業株式会社入社 名古屋支店、本社海外事業部勤務。1976年から2年間イラン(テヘラン)赴任、1980年から2年間サウジアラビア(ヤンブー)製油所建設工事に携わるほか、中国・トルコ・ロシア・フィリピンなどでマンパワー市場調査業務。1986年に米国の現地法人を立ち上げ、ミシガン州デトロイトとカリフォルニア州オレンジカウンティに8年間駐在。1997年佐藤工業株式会社退社。 1998年から国内医療法人の本部事務局長、今年で単身赴任生活21年目。現在医療法人グループの調剤薬局と医療コンサルタント会社を経営。 2009年より同窓会常任幹事、2012年より副会長職を8期経て、2019年より法人監事。 TIU 霞会シンガポール支部 [...]











































