恩人への感謝と最後までやり抜く想い
土谷 恵太郎さん(1996年 商学部卒業)

(筆者と次男)
(筆者と次男)

現在、住商エアロシステム㈱という商社において防衛関連のビジネスを行っています。海外の動向を探り、今日本に必要もしくは中長期的に必要となるであろう技術の導入に向け客先へ紹介、斡旋を行っています。最終の客先は防衛省となりますが、国内メーカー経由での提案や納入も行っています。現職のビジネス概要はあまり深くを語れないかもしれませんが、卒業後今まで2社を経験し、大先輩との出会い含め今に至るまでの私の体験談が少しでも皆さまのご参考になればと考え、僭越ながら寄稿させていただきます。

東京国際大学在学時は交友関係に重きを置くあまり、あまり勉強をする学生ではありませんでしたが、2年次の1993年にTIUAに行かせていただいたことが一番勉強をした時期であり、全くやったことが無かったバスケットボールをWillamette大の体育の授業で選択したことが始めるきっかけにもなりました。また、今も同じ呼び名か分かりませんが、TOMODACHIファミリーのMr. Walter Jonesと30年経った今でも交流があります。奥様のMrs. Glenda Jonesは数年前に亡くなってしまいましたが、彼らの交友関係はとても広く、覚えられないぐらい沢山の方を紹介いただいたことが記憶に残っています。基本週末は彼らと一緒に行動していたのですが、友人のお葬式にも参列するぐらい色々な経験をさせていただきました。

卒業後は、丁度就職氷河期で敗戦が多かったものの、大阪に本社を持つ上松商事㈱に採用され、配属が大阪となり、初めて大阪の地に足を踏み入れました。買ったものは忘れましたが、最初に新大阪のキヨスクのおばちゃんに「おおきに」と元気に言われたことが本場、本物の関西弁を初めて聞いた言葉で、今日の出張で新大阪を使う際も昨日の日のように思い出されます。

上松商事㈱ (1社目)
大阪岸和田に本社を置く木材商社となり、インドネシアと関係が強い会社でした。当時はスハルト大統領でしたが、その政権と関係のあるインドネシア合板協会との合弁企業である対日独占輸入業を担うニッピンド㈱へ出向となり、そこで今ではあまり使われないLC等の貿易実務業務の日々を送りました。勤務地は心斎橋でカナダ村に位置していました。余談ですが、カナダ村は今となっては大阪の方も知らない方が多いですが、多少おしゃれなエリアながらアメ村の北側にあるということで、カナダ村と呼ばれていましたので何かの折に話のネタにされてみて下さい。

さて、実際の業務ですが、インドネシアから毎月数多くの在来船を貸し切り船舶動静を管理しつつ、様々な種類の合板を大量に輸入し、主に大手総合商社および社内関連製造・加工工場向けに販売していました。我々の卸値価格が毎週月曜の日経新聞に掲載され実質日本の合板価格動向の指標になっていました。合板とはベニヤ板ですが、家の構造用や家具含め多岐に渡り使用されているもので、一見、木の板や製材がそのまま使われているようでも、ほぼ80%以上はベニヤ板が使われています。ちなみに高速道路もコンクリートパネルという型枠合板で作られているので、住宅着工戸数や高速道路建設といった需給により市況が変わっていく商品となります。

最終的には1990年代後半にインドネシアで発生した資本収支危機により、International Monetary Fund (IMF)の支援を得るにあたり、IMFからの勧告内容に合板カルテルの廃止という項目が含まれ独占販売権を失うことになりました。商社の根幹とも言える商権を失ったことにより会社が傾くこととなり、最終的には関連会社の製造・加工部門を残し倒産となってしまいました。

一方、大阪での生活は業務が早めに終わっていたこともあり、バスケを通して会社以外でも交友関係を広げていき、今も多くの方と交友関係が継続しており、大阪は自分になぜか合っている場所でもあり、また本当に住みたいとも思っています。

住商エアロシステム㈱ (2社目) 
1社目の状況により会社を離れ、数か月TOMODACHIファミリーを訪問した際、旧友含め様々な方々と再会できました。そこで英気を養いつつ、今まで経験した貿易実務を前面に押し出し転職活動を行い、面接官と一番フィーリングが合った住商エアロシステム㈱に2000年2月よりお世話になることになりました。

今は自社名義で防衛装備品向け商社No.1を狙える立場まで会社規模が大きくなりましたが、当時は親会社である住友商事㈱の業務委託でできる業務の範囲も限られていました。規模が大きくなっていく最中、私は陸上自衛隊 (陸自)向けビジネスを住友商事から住商エアロシステムへ移管するために入社直後住友商事へ出向することになりました。移管後は陸自ビジネスを行いつつ、航空機エンジンのビジネスを行い、その後、航空自衛隊向けと海上自衛隊向けのビジネスを経験し、今に至りますが、前期で陸自ビジネスに関与していた際、2008年より2年強、欧州住友商事会社(ロンドン)へ転勤する機会を得ることができました。現在は入社時に担っていた陸上自衛隊ビジネスに戻り業務拡大に努めていますが、直前には管理部門の総務部で給与チーム長として給与含む社会労務関連を担うとともに、人事や採用も行うことで別視点から会社を見ることができました。

防衛業界について少し触れますが、防衛省自衛隊は陸海空に分かれ、最近は統合幕僚監部なる組織もできましたが、それぞれの組織は統合されて運用されるにはまだまだ時間がかかると言っても過言ではありません。陸海空にはそれぞれの文化や哲学があり、私は語ることはできませんが、海自と空自は艦船や航空機といったAssetベースでの運用に対して、陸自が人ベースでの運用となっています。人が主体の陸自へ最新の装備品が全てに行きわたっていることはなく、殆どの部隊が日々古い装備で訓練を行い、有事に対し120%の準備を行い備えています。

最近では国会で防衛予算が元々GDP1%だったものを2%にする方針が決まりましたが、かかる周辺諸国との状況を鑑みると防衛のためにマストとして必要になるものであり、我々はその部分において、防衛省や防衛業界へ貢献するというマインドを以って支援していくこと常としています。ビジネスとしてやっていることもあり、利益を追求しがちになりますが、どんなビジネスにも言えるのですが、必要以上に利益を追求することは業界全体の底上げには繋がらず長続きはしませんので、国内メーカー含めた関係各社と長期に渡りWin-Winの関係性構築ができるよう最善のスキーム作りに努めています。

ご参考まで、日々の業務は部署にもよりますが、直接見なければならない直属のチーム員が15名いた際は自分の仕事の時間が取れるのが22時以降であったため、毎日終電でしたが、コロナもあり、在宅勤務に必要な備品も備わっていることから、良いかどうか分かりませんが、事務所以外でも事務所同様の仕事ができる環境になったことで、効率的にはなりました。商社は激務と言いますが、そうかもしれません。しかし、その分得ることが多いことも事実ですし、皆いくつか持たれているであろう夢の実現には近づきやすい部分もあると思いますが、健康あってのことだなと最近は多少気遣うようになりました。

(英Airshowにて)

ロンドン駐在時代
担当範囲は欧州であり、現地スタッフとなる部員が独デュッセルドルフにいたため、ほぼ毎週出張をしていました。担う業務は欧州側から日本への日々の輸入業務支援以外に日本からの来訪者や海外メーカーとの面談やアテンドといった業務が主でありますが、冒頭で述べた海外の動向を探り、日本に今必要もしくは中長期的に必要となるであろう技術の情報収集を行っていました。多くは語れないことが残念ですが、駐在時代以外に限らず西側諸国で必要なものが得られない場合は当時中欧と呼ばれたチェコやブルガリアにも訪問しその国経由で各種調整が完了するまで帰国できないということもありました。

ロンドンでの生活は当時家内と2人だけだったため、家賃の自腹部分が多くなっても交通が便利かつ安全なエリアを選択しました。場所はゴルゴ13に良く出てくることは知らなかったのですがNew Scotland YardがあるSt. James ParkエリアのFlatを選択しました。家内は一人でいることが多かったため、お金は十分でなくてもせめて中心部まで徒歩圏内の飽きない場所を選択しました。その結果、なんだかんだで、帰国までに食器や家具などがかなり増えましたが、二人でお店のみならず、ほぼ無料の美術館・博物館でデザイン性が良いものを見たりすることで、自然と目が肥えつつ、それを日本からの来訪者が求める場所やお店に連れていき、帰国後に来訪者や来訪者から受け取った彼らの家族が喜んでいたと連絡をいただくことは相互に嬉しいことであり、大したことが無いようにも思えますが、かなり重要な部分の一つでもあり、相互にとって長きに渡り良い思い出になり、今もその方々とお会いすると当時の話で盛り上がっていただけることは嬉しく思います。


(ロンドンでの住まい)

嶌末 真さんとの出会い
防衛業界において先輩や後輩と会う機会は数年前に他商社におられた同級生の1回限りでしたが、一昨年度の2022年にワシントンDCで開催される米陸軍協会の年次総会・展示会となるAUSAへ参加する際、社団法人である日本防衛装備工業会 (JADI)が会員の国内メーカーを集いツアーを企画され、当社もそちらを支援することとなりました。防衛関連ビジネスでは情報管理が厳格な業界ですが、個人情報や経歴等を提出する機会が多く、JADI支援に向けやりとりを行ったところ、JADIの窓口が調査部長である嶌末 真さんでした。1985年卒 (教養学部)ということで同窓かつ大先輩であることが判明しました。嶌末さんは元陸上自衛官であり、パキスタンの防衛駐在官も歴任された方です。自衛官には職種というものがあり、陸自に16種類ある職種で通信となり、その分野では陸自内で非常に有名な方であることを知りました。

嶌末先輩と呼ばせていただきますが、お互い同業界で大学の先輩・後輩といった経験が多くない中、狭い業界で一緒に仕事をする機会があったことは何かのご縁と考え、お互いに機会を作り頻繁に会うようになりました。そこで様々な情報交換をさせていただいたことは自身の財産となり、この関係は後輩である私から是非とも継続させていただきたいと考えています。嶌末先輩情報について私がこれ以上勝手に述べることはできませんが、卓球において有名な方であるため、ご興味のある方は卓球経由で嶌末先輩との交流も図っていただければと思います (ちなみに私は卓球ほぼできません)。                                                                               

(米AUSA2022にて)

TIU受験生/在校生へのメッセージ
表題で「恩人への感謝と最後までやり抜く想い」と記載しましたが、それぞれ関係しないようですが繋がりがあるものと思っています。「恩人への感謝」は、その都度お世話になる方へ感謝することですが、その後もその方を忘れることなど一度もありませんし、時折様子を確認させていただいています。「最後までやり抜く想い」とは、たまにあのタイミングで転職していていたらどうなっていたかなと思いますが、一度世話になり育てていただいた所属先を自ら裏切るようなことにはならずに済んでいますが、継続は力なりというモットーでやってきました。確かに、自身にとってより評価してくれる転職先を都度のタイミングで選択される方もおり、それを全く否定するものではありませんが、私自身、生き方が上手くない部分もあることは理解しつつもそれも人生だと思うので、私は一つ一つのことに最大限の力を注ぐようにしています。

人間誰しも隣の芝は青く見えたり、今の自分に不満がある部分はあり、難しいですが人と比較しないマインドを持ちつつも、今与えられた仕事や環境に対し、一生懸命向かい様々なことを吸収していくのが若い内は一番だと思いますので、頑張っていって下さい。結びとなりますが、皆様の今後向かわれる分野において成功され、ご家族含め発展されますとともに、東京国際大学の名を世界に広めていかれることを心より祈念しております。

(土谷 恵太郎さんのプロフィール)
1992年浦和学院卒業
1992年東京国際大学 商学部入学
1993年TIUA
1996年東京国際大学 商学部卒業
1996年上松商事㈱入社と同時にニッピンド株式会社へ出向
2000年住商エアロシステム㈱へ転職
2008年欧州住友商事会社(ロンドン)へ転勤
2010年住商エアロシステム㈱へ転勤
2024年各営業部や人事総務部給与チーム長を経験し同社ディフェンスシステム事業第一部 陸上チーム長にて現在に至る

 

TIU 霞会シンガポール支部