技術者の道から写真家の道に。その中で見つけた自分にしか見えないもの。
豊吉雅昭さん(1997年3月卒業 商学部経営情報学科 芝野耕司 ゼミ)

『第2回 BrainBrunn ART AWARD2023』にて。2023年2月8日(水)〜4月9日(日)
第2回 BrainBrunn ART AWARD2023』にて。2023年2月8日(水)〜4月9日(日)

 豊吉雅昭と申します。

 私は緑内障に罹患している視覚障害者です。現在では左眼の視野の大半と右目の視野の3割ほどを消失しています。そのため、日常の景色は常に霞がかっており、人の顔は輪郭程度しか認識できません。横断歩道を渡る時に信号が見えないため、ヒヤリとしたことが1度や2度ではありません。色も認識できないものがあり、その為コントラスト差の少ない階段の段差などはわからずに1枚板のように見えます。ですから階段の上り下りには毎度不安を感じています。最近では手書きの文字も読めないことが多くなりました。

そんな私ですが、現在は写真作品を制作する日々を送っています。あることをきっかけに、自分の見え方が自分だけのものであると気づき、この“見えない視界“を写真作品で表現することに取り憑かれました。有難い事に最近ではコンペティションなどでの入賞も増えました。眼にハンデを抱える私がなぜ写真を撮るようになったのか。この場をお借りして少しお話させていただきます。


学生時代
 私は1993年に東京国際大学に入学しました。商学部経営情報学科に所属し、コンピュータに強い感心を持っていたこともあって芝野耕司先生のゼミを選びました。秋葉原にあるパソコンショップや現在の川越第1キャンパス1号館の情報処理課でアルバイトをし、パソコンルームに入り浸る。そんな学生でした。この頃は近視ではありましたが眼に問題があったわけではなく、普通に見えていました。TIUAへの留学試験に申し込んだりもしたのですが、ビビリでヘタレの私は試験すら受けませんでしたね。

芝野ゼミでは卒業論文とは別に情報処理学会での論文発表が課されており、3・4年次はこれにかかりきりでした。毎週のゼミでは論文のテーマを芝野先生にプレゼンしていましたが、研究者が持つべき倫理観や偏りのないデータ収集の難しさなど全く知りませんでしたから、思いつきのテーマを発表しては怒られる事を繰り返していましたね。なんとかかんとか、当時普及し始めたばかりのインターネット、この頃はまだまだ出始めの、しかし無数にあるホームページの情報を視覚的に表現するというテーマに辿り着き、「robotとHotsauceを用いた個人Homepage環境管理」という題で発表します。学会発表後に飲んだお酒の美味しかったこと!まあ、なぜか私は飲み過ぎた同期生の介抱をしたりしていたのですが。この時に芝野先生から言われた「発表内容はすべて把握して論文を読むことなく発表すること」が後々に役立つ事になります。


学会発表で使用したOHPスライド

 

当時使用していた業務ノート
私はメモ魔だったのでA3サイズのノートを年に数冊使い切ってました

システムエンジニアとしての道
 1997年に卒業し、独立系SIerである日本システム技術株式会社に就職します。設計から開発、運用まで一通りの事を身につけ、幾つものシステム開発に携わります。モノづくりに携わりたかった私にとっては天職でした。販売管理システムを主に担当しましたが、一番大きかったのは日本野球機構のプロ野球公式データベースシステム開発を担当したことです。プロ野球の詳細データ、チームの勝敗はもとより打者がどんな球種を打ったのか、エラーの内容や数、投手の勝率や配球など詳細なデータを集計し、各種メディアが利用できるようにしたシステムです。国内で初めての技術を用いて開発したこともあり、メディアの取材を受けるまでになりました。この時は社内で行われていた年次成果発表会でも表彰を受け、学生時代の論文発表がここで活きました。また、サーバー運用などの経験もあったため、東京本社の移転にあたり、移転先での社内インフラ構築なども担当しました。





ビリヤードが好きでよくやりました
この頃はコンタクトレンズ使用
2002年2月ごろ

しかし、業務に忙殺されて緑内障に罹患します。この病を甘く見ていた私は治療を怠り、気付かないうちに視野欠損が進行します。また、残業時間も過労死ラインなど遥かに超えた日々を送っていました。家に帰るのが月に3日ほどなんて時期もありましたし。ひどい時は着替えを職場の近くで買って仕事をこなし、家には手付かずの洗濯物が山のようになっていました。だんだん資料の判読に時間がかかるようになり、バグの発生頻度も上がっていきます。技術者としての上達も展望も持てない事に苛立ちを感じ、精神的にも失調をきたし始めた私は2007年に退職します。

一番辛かった時期
 退職後に転職先を探しましたが、これが上手くいかない。病歴があるだけでこうも変わるものかと悲しくなりました。なんとか雑貨店でのアルバイトに採用されて数年働きます。ところが2011年。家業を亡くなった父から兄が受け継いでいたのですが、そのうちの一つ、クリーニング取次店を長年勤めていた方が倒れ、急遽私がその後を引き継ぐことになりました。しかし、です。技術畑にいた私にとってはすべてが初めてのことばかり。これブラウス?ロングコートとミドルコートの違いって?なんでこんなにスカートの種類があるの、と苦戦の連続です。何年も預かりっぱなしになっている衣類も少なくなく、でも引き取りに来た時は即渡せないとクレームになり、売り上げも下がる一方でした。家でのゴタゴタも多くなったせいか、緑内障はさらに進行して2015年ごろには汚れている部分の判別すら難しくなりました。結局、外科手技での治療が必要になり、2015年11月に閉店します。


当時のクリーニング取次店
2011年8月ごろ 
 

手術、そして絶望
 緑内障とは視神経の損傷により視野の消失が進んでいく病気なのですが、残念な事に現代医学では根本治療はもとより、失った視野の回復すらできません。ですので、治療は進行を止める・遅らせる事が主目的です。点眼治療が基本で、大概はこれのみで済みます。ですが私のように進行が止まらない場合、手術治療に移リます。2015年12月上旬に初めて手術を受け、年末に退院後の検査を受けて愕然としました。術前に近い状態まで病状が戻ってしまっていたのです。少し説明すると、緑内障の手術では眼の中にある管に傷をつけ、その傷が治りにくいようにします。眼内の水分を外に流すルートを作り、目が膨れ過ぎないようにして視神経がこれ以上損傷しないようにするんです。しかし傷が治ってしまったり、目詰まりが起きたりすると再び目の圧力が上昇してしまう。手術そのものは無事に終わりましたが、この、言わば元の木阿弥になる人もいるわけです。お先真っ暗とはこの事です。自分の眼はどんどん見えなくなっていくのみ、と人生に絶望した私は引き篭もるようになります。


手術直後
写真は2020年9月の4度目の手術の時のもの

 

看護師さん作 入院中薬表
写真は2020年9月の4度目の手術の時のもの

西川悟平氏との出会い
 引き篭もり生活を送っていた2016年3月。たまたま見たテレビ番組で“7本指のピアニスト“西川悟平さんの事を知ります。渡米後に指が動かなくなる難病のジストニアに罹患し、その為にピアノが弾けなくなります。しかし彼は、7年にも渡るリハビリの末に動くようになった7本の指で演奏活動を再開。再びピアニストとして世界中で演奏していました。ちなみに彼は2021年開催の東京パラリンピックでトリの演奏を見事に勤めています。彼の演奏をどうしても聴きたくなった私は、カメラを携えて日本でのコンサートに足繁く通うようになります。ありがたいことにリハーサルやコンサートでの撮影をさせてくださるようになり、段々と自分の状況を受け入れられるようになっていきました。ちなみにこの撮影は現在でも続けています。他にも、病気の患者会で同じ境遇の人と関わりを持っていたことも大きかったです。この頃から本格的に写真に傾倒するようになりました。


初めての撮影 (2018年3月撮影)
2022年12月
NEW YORK PHOTOGRAPHY AWARDS 2022 GOLD WINNER 作品

 

コンサートのポスター等に使われました。

今でもコンサート撮影
2023年5月

 

リハーサルでないと撮れないですね、こんなの
2023年5月 撮影

写真の道へ
 2015年から2020年まで、4度の手術を受けつつ写真を撮り続ける中で、自分自身の見え方を前向きに受け入れるようになっていきました。多分にご自身の病気を“ギフト“と称する悟平さんの影響が大きかったですね。私の見ているもの、言わば“見えない視界“が自分だけの唯一無二のものであると捉えられるようになった私は、普段見ている光景を写真で再現するようになります。不思議なもので、自分自身を受け入れられるようになってから写真で結果を出しているんです。写真家の所幸則氏に2010年から師事を受けていますが、コンテストやコンペティションでの入賞できるようになったのはすべて手術後、西川悟平さんと出会ってからです。


2017年の1月に地元、埼玉県のコンテストで初めて賞を獲った時は本当に嬉しかった。学生時代の美術や音楽の成績なんか赤点スレスレでしたから。何より、自分でもできることがあると実感を伴って経験できたのは大きかったです。方法や使う道具を工夫すればできることはあると気づいた私は、“見えない視界“を表現する写真作品を「MONOCLE VISION」と名付けて現在でも撮り続けています。本気で取り組んでいると応援してくれたり支援してくれる人も出てくるもので、写真作品の制作を通じて交流も広がりました。2022年4月には初めての個展を銀座のギャラリーで開催し、限定発売していた写真集は完売に至りました。個展開催後、多重露光という技法(簡単に言うと重ね撮り)で制作する私の写真は、撮って出しが評価される国内では現代美術、海外では写真のコンペティションへの応募にシフトします、2023年は5月までで6つの入賞という結果につながりました。とは言え、まだまだ写真だけで身を立てられているわけではありませんので、まだまだ精進の身です。



 



 

友人に撮影してもらったプロフィール写真 2023年2月撮影

最後に
 紆余曲折ありましたが、私は幸せ者です。多くの写真の撮り手が自分のテーマを見つけることに苦労する中、私は自分だけの表現に出会いました。写真評論家の飯沢耕太郎氏に個展で言われたのですが、ハンデとは表現者にとって大きなきっかけになります。別に生活や人生設計が楽になった訳ではありませんが、それは誰でも同じこと。結婚や出産、転職、親の死別など人生の困難ごとは誰にでも起こり得ます。今も芝野耕司先生にはメールで近況を報告しますが、個展開催の時にはお祝いのメッセージをいただきました。一度だけ外語大の方の研究室へ伺った後に訪れ、数時間にもわたって大説教をもらっていたんですけどね。それだけに本当に嬉しかった。本気でやっている事には、本気で答えてくれる人がいる。そんな当たり前の事に気づけた私は本当に幸せ者です。これからも写真の道を歩んでいくつもりです。もしどこかでお会いすることがありましたら、拙作を見てご意見をただければ、とても嬉しいです。



(豊吉雅昭さんプロフィール)
1975年生まれ、埼玉県出身。1997年東京国際大学卒業。在学中はコンピュータに傾倒し、卒業後は日本システム技術株式会社に入社。SEとしてシステム開発に携わる。緑内障による視野欠損が進行し、技術者としての自分に限界を感じて退職。2010年より写真家 所幸則氏に師事。その後も緑内障は進行し2015年から4度の手術を受け、現在では左目にはチューブとプレートが入っている。2022年現在、左目の視野の大半を消失。外科手術を受けるようになって以降、“見えない視界“を表現する作品として「MONOCLE VISION」シリーズの制作を開始。同時期より“7本指のピアニスト“ 西川悟平氏のリハーサルポートレートも撮り始める。主な機材はSony α7III、RICOH GRIIIを使用。2020年8月に緑内障患者/写真家としてNHK Eテレの番組に出演。2022年4月に個展「MONOCLE VISION」を開催。緑内障フレンドネットワーク正会員。

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