海外ビジネスでお世話になった皆さんに感謝を込めて
小林正幸さん(1982年/14期卒業 商学部 加藤ゼミ 少林寺拳法部)

東京での 13 年間の単身赴任生活を終え、郷里札幌に戻ったある日、霞会東京国際大学同窓会札幌支部支部長の遠藤さんから OB 会の開催案内をいただき、はじめての参加で、41 年前の記憶との再会が、私の寄稿文の紹介に繋がります。還暦も過ぎ年金生活の年齢であるものの、好奇心旺盛な私は、北海道で通信環境の悪い地域でラストワンマイルを構築する会社に転職しました。思えば、幼い頃に父から外国語に触れる環境を作ってもらい、興味を持ち、国際商科大学の門を叩き、貿易商社に入社し、アメリカ、ヨーロッパを中心に、輸出入に携わる経験を積んできたことはかけがえのない人生経験となり現在に至っています。仕事を通して出会った素晴らしい製品はもとより、何よりも取引によって培った諸外国の方々と接したことは、私の人生の大きな糧になったことは言うまでもありません。今こうして寄稿文作成のタイプを進めているあいだも、これまでお世話になった皆さんの顔が脳裏に浮かび上がります。

国際商科大学入学
地方公務員だった山梨県出身の父の仕事の関係で、ほぼ 3 年周期で私の生活環境が変わりました。母が若かった頃に、転勤先で梱包物の段ボールを開けることなく、次の赴任地に転勤したことを聞かされたことがあるほど、父は北海道で土地改良の仕事に没頭していました。札幌で生まれた私は、物心つく小学校入学まで石狩郡当別町で生活し、その後、根室と函館で小学校、岩見沢で中学校、そして紋別で高校生活を過ごし、国際商科大学へ進学しました。負けず嫌いの性格もあり、転校先の積極的なコミュニケーションによって友達関係で苦労した記憶がなく、むしろ環境の変化を楽しんだことが海外への興味へと繋がりました。


大学4年生 少林寺拳法部道場にて

北海道から国際商科大学への入学した私は、海外への扉が広がることの期待を胸に大学生活をはじめました。上京後の生活拠点は大学近くの「学生の家」でした。平屋建てで食堂があり、夕食がついている事が魅力でした。この「学生の家」への入居が私の大学生活を一変させることになります。引っ越し荷物が到着する前に先輩からの歓迎会があり、人生で初めて酒に酔った自分を知りました。お酒との付き合いは、その後卒業まで続くことになります。「学生の家」の住居人は体育会系がほぼ全て、剣道部、躰道部、バレーボール部、そして少林寺拳法部の学生が生活しており、大学の体育会運動部の怖さを知らなかった私は、少林寺拳法部入部という無謀な行動に出ます。4 年間の大学生活は、今では後悔するほど、学業二の次に少林寺拳法に打ち込むことになりました。少林寺拳法部との出会いは、私の人生に影響を与えるまでになり、大学卒業後も都内の深川道院(少林寺拳法では道場を道院といいます)に通い、初野先生にご指導をいただきながら昇段をさせていただきました。3 学年からは加藤ゼミで商法を学び、自慢できる成績は得られませんでしたが、英語学習の興味はなくならず、大学の視聴覚室でヘッドフォンから流れてくる英語に体育会の喧騒から逃れ、安堵を覚えた記憶があります。

商社入社と海外デビュー
新日本コンマース株式会社(現・味の素トレーディング(株))は就職課に紹介いただき入社しました。味の素の 100%出資の子会社で、味の素未開の地の開拓を担い、味の素製品のほか、新事業として医療機器の輸出を手掛けていました。入社後、業務部に配属になり、味の素が輸出する製品の書類作成を手掛けました。出荷伝票の作成から、輸出申告書、INVOICE、PACKING LISTを作成し、信用状に基づく買取書類の作成まで、一連の作業を手掛けました。この貿易実務を OJTで手掛けた知識は為替相場の重要性も含め、その後の私の商社マンとして大きな経験になりました。輸出業務の仕事は 3 年間担当し 4 年目から医療機輸出部門に移動となりました。この部署は私が入社以来、興味を持っていた部署でベンチャービジネス構築を行う部署です。眼科・眼鏡に特化した日本製の顕微鏡の輸出をする仕事で、海外諸国に代理店を作り面的に事業展開すること がミッションです。私はアメリカと中南米の担当となり、早速取引先とのコミュニケーションを取ることになります。その頃の海外とのコミュニケーションは、今では考えられませんが国際郵便とテレックスという電報です。まもなくファックス通信が始まり、ワードプロセッサーの登場とコンピューターの登場によってコミュニケーションのスピードが格段に上がり、時代が大きく変化したことを実感しました。

初めての海外出張はアメリカのサンフランシスコでした。オハイオ州コロンバス本社代理店のBURTON 社が出展した国際眼科学会併設の展示会へのアテンドです。展示会中は全米はもとよりヨーロッパや中南米からも代理店が渡米するため、アメリカで効率的に商談を進める事が目的です。英会話にはある程度の自信がありましたが、はじめての渡米の雰囲気に飲まれていた私は、専門用語が全く理解できず、同行した先輩社員に事細く要点を聞き直し、自分の実力のなさに悔しい思いをしたことを覚えています。その後の多くの出張を通して、北米・中南米の代理店スタッフとのプライベートの時間を通して信頼関係を築いていきました。国境を隔てて素晴らしい人間関係を築くことは海外ビジネスの醍醐味でした。



なにも不満もなく新日本コンマースで社会人生活を過ごしていた私は、10 年後に転職することになります。帰宅途中に駅の売店でたまたま目にした求人誌の表紙に書かれた「北海道で海外ビジネスを」に心を揺さぶられました。そして1992 年に北海フォードトラクター株式会社(現・日本ニューホランド株式会社:通称 HFT)に転職することになります。この会社は米国 Ford と芝本産業株式会社のジョイントベンチャーで、大型トラクターをはじめコンバインや各種作業機を直接輸入し、国内の自社店舗を通じて農業生産者の皆さんに製品を納めサービスをする事がミッションの企業です。農業従事者が減少する中、北海道をはじめ全国各地で農業基盤の拡大が進み、農作業の大型化が進みました。

HFT に入社まもなく私は、新規事業を任され商品開発を手掛けました。ネイティブレベルのコミュニケーションができる HFT 社長のビジネスマインドを通して、仕事の完成度の高さと完璧を求める重要性を学びました。様々な商品のビジネスチャンスを模索するなか、アメリカペンシルバニア州のメーカーが手掛ける「バキューホイスト(吸引力を通して重量物を搬送する機械)」の輸入を手掛けました。この製品は稲作生産者が袋詰めする 30kg のコメ袋を移動する作業に活躍しました。人間関係は面白いもので、この製品をアメリアでマネージメントしていた担当者が突然、退職し新事業を始めたと聞き、HFT社長と彼のビジネスを見に行ったことが、次の商品開発につながります。ツインパススリングという超軽量スリングで、ワイヤーロープに比べ作業効率が格段に良くなることが特徴の製品です。この製品の販売は、HFT の親会社、芝本産業株式会社が手掛け、原子力発電所や重電メーカー、電力会社、自動車メーカーで、現在も活躍しています。



2010 年から芝本産業株式会社に籍を置き、新規事業の立案とインキュベートを手掛けました。様々な媒体やインターネットを駆使しドローンと出会います。シリコンバレーのスタートアップ 3D Robotics との出会いです。社長のクリスアンダーソンは、元 Forbs の編集長で、スマートフォンの普及に伴う構成部品のコスト削減により、空飛ぶコンピューター、ドローンが様々な業界に一石を投じることを見越していました。ベイエリアの公園でデモンストレーションを見せてもらい、スマートフォンに表示される地図にフライト範囲を指でなぞるだけで、瞬く間に視界から消え、数分後に同じ場所に戻ってくるドローンに、鳥肌が立ち完全に魅了されました。



 


ドローン黎明期に着手したビジネスを通して、インテル創業者マイケル・ゴードンが唱える「ムーアの法則」を実感し、技術開発の速さに危機感を覚えながらドローンビジネスに没頭しました。ドローンは空飛ぶスマートフォン化することを見越してたクリスはハードウェアの生産と並行し、ドローンで収集する画像データを立体的な 3 次元の点群データをクラウド環境で自動的に構築するソフトウェア Site Scan の開発を手掛けていました。Site Scan は日本では大手ゼネコンはじめ土木現場の土量計算や測量、日々変化する現場作業の進捗管理で活躍しています。このドローンと点群データ作成ソフトウェアの技術は、人工衛星による正確な GNSS 測位技術の広がりに拍車をかけ現在に至ります。ドローンの活躍は、今では皆さもご承知の通りで、この流れを見越していた 3DR スタッフと日本市場の開拓を手掛けた経験は、ビジネス以上の関係に至りました。



東京での単身赴任生活は、気がつくと 13 年になっていました。会社では若手がマネージメントで活躍するなか、退職を決意し郷里に戻りました。タイミングよく株式会社インターネットイニシアティブ(IIJ)と出会い、同社が手掛ける IoT 事業、なかでもアグリビジネスの展開を手がけています。冒頭で触れたラストワンマイルの環境構築です。IIJ は日本ではじめて事業レベルのインターネットビジネスに着手し急成長した会社で SI や MVNO で有名な企業です。LTE 環境が主要都市では整備されているものの、電波の不感地帯は地方では多く存在します。農業の現場ではトラクターをはじめ機械の自動化が進み、GPS など人工衛星からの位置情報を受信し自動でトラクターが圃場で活躍する環境になっています。一方 GPS などの信号をトラクターで受信するためにはLTE 電波が必要なため不感地帯では最新技術を使う事ができません。IIJ では、農林水産省が力を入れている情報通信環境整備対策事業を通して、全国様々な地域で LPWA 技術を構築し、水田の水管理をはじめ、気象、獣害対策などで用いるセンサーを駆使し、LTE 環境からネットワークにつなぎクラウドで情報を管理する技術の普及を手掛けています。

いまだに海外ビジネスへの興味はなくならず、インターネットの高速化でビジネス環境が身近になったことを背景にチャンスがあれば貿易の仕事に携わりたいと考えています。


(小林正幸さんプロフィール)
1982年3月 国際商科大学 商学部商学科卒業 加藤ゼミ 少林寺拳法部
1982年4月 新日本コンマース株式会社(現味の素トレーディング)入社
貿易実務・医療機器輸出
1992年1月 日本ニューホランド株式会社
事業開発(真空吸引搬送機器・ツインパススリング輸入販売)
2010年4月 芝本産業株式会社 事業開発部
事業開発(ドローン・ソフトウェア輸入販売)
2023年5月 株式会社インターネットイニシアティブ
IoT 事業部アグリ事業推進室(札幌支店)
札幌支店 情報通信環境整備事業(LPWA ラストワンマイル展開)
現在に至る

 

TIU 霞会シンガポール支部