introduction 海外 アジア・オセアニアAsia・Oceania北米North AmericaTIUA Willamette Univ.南米Latin America欧州Europe中東・アフリカMiddle East・Africa貧乏学生と旅の経験が今ある私の根源齋藤竜一さん(2002年国際関係学部卒業 枇杷木賢生ゼミ、2004年大学院 国際関係学研究科卒業 枇杷木賢生研究室)2023年4月1日寄り道ばかりの人生でした。遠回りをして紆余曲折し、立ち止まったり、時には全力で走ってみたりと、私は人よりも時間をかけて大人になったような気がします。 浪人~大学2年の貧乏期 当初、とりあえず大学に入ることのみを目標として受験勉強をしておりましたが、大学受験直後にやりたい方向性(夢)を見つけました。1浪してようやく合格した大学の学部が将来進みたい進路と違うことから、入学金の支払を済ませた後にもかかわらず、入学を辞退してしまいました。そんな私のわがままに母は泣き、父は口をつぐみました。2浪時の予備校費用、大学受験代、大学入学金と大学1年の前期分の授業料、合計150~200万円くらいでしたでしょうか、それを全て自分で支払うことを約束し、2浪生活に突入しました。やりたいことが定まり、自分のお金で勉強をし、2浪という背水の陣から、更に勉強に熱が入りました。しかし受験シーズン真っ只中に熱を出し、ヘロヘロになりながら入試を受け、ようやく2期試験にて東京国際大学へ入学。長い長い暗黒時代からやっと抜け出せ、とても晴れ晴れした気持ちになったのを覚えています。 しかし、ホッとしたのも束の間、せっかくやりたい学問を学べるのに、お金の返済でバイト漬け生活が始まりました。お金は極力切り詰め、毎日家からおにぎりを持っていき、食堂でかけそばをおかずにおにぎりを頬張っておりました。平日は大学とバイト、土日は朝から夜までバイト、夏休みや年末年始は休みなく働きました。稼いだお金は全て返済へ。唯一バイトの給料日だけは、食堂でかけそばではなく、好きな定食を食べられるというルールを作り、月1回の(私にとっては)豪華なランチが私のご褒美でした。また、1年次のゼミ合宿が沖縄で現地集合現地解散で行われることになった際も、ゼミの仲間が飛行機で向かう中、私は1人安い船便(3等の雑魚寝部屋)で向かっていました。当然TIUAなんかには行けるはずもなく、留学を夢見ていた私には、憧れでした。TIUAから成長し帰国する友人らが一回り大きく、眩しく、そして羨ましく見えました。 この時期に体験したことは、私の忍耐力を大きく育ててくれました。これは、この後旅をするようになった私にとても貢献しました。 大学2年~4年旅行期 忘れもしない大学2年生の11月、やっと全ての返済が終わりました。翌月いつものように給料日がきて、預金口座を見ると当たり前のようにお金が振り込まれています。今まではこのお金はごっそり無くなっていましたが、今月からは全て自分の物です。何に使っても良いお金。今まで何も考えずに、ひたすら返済のために我武者羅に働いてきていましたので、完済後のことなど何も考えていませんでした。正直、突然やってきた自由なお金に戸惑いました。いったい何に使ったらいいのだろうと。 そんな時に偶然出会ったのが、「遣唐使」と言う中国短期留学プログラムです。名前の通り船で大陸に渡り1ヶ月くらい現地の大学で学ぶというものでした。そこでは色々な背景の人間と寝食を共にし、とても刺激を受けました。何より2000年の上海は今と全く異なっており、見る物全てにカルチャーショックを受けました。街中にニーハオ(ドア無し)トイレがあったり、舗装されていないデコボコの道やその上でゴザを敷いて物を売っていたりと、当時の日本と比べるとまだまだ未開発の都市でした。私は逆にそういう未開の中国を訪れることに興味を持ち、それから秘境と呼ばれる地を旅行して回わることになります。普段は大学生活とバイトを両立させ、夏休みや春休みのまとまった休みになると、貯めたお金で1~2ヵ月くらいの旅行に出ていきました。 最初は、中国の知識が無かったので、とりあえず上海まで船で行き、そこで買った中国地図を的にしてダーツの旅をしました。当時はまだTVでダーツの旅はやってなかったので、その先駆けでしたでしょうか(笑。最初に当たったのは、中国南部にある雲南省でした。長距離列車に5日間揺られ省内中心都市「昆明」に着きました。風呂もシャワーも無い夏の車内で、5日間を過ごせたのも今まで培った忍耐力のおかげかもしれません。雲南省は少数民族が多く暮らす地域で、日本では見ることにできない独特の衣装や文化、習慣がありました。そういった出会いが私の好奇心を大きく刺激し、日本人が行ったことの無い場所を求め、更に秘境へ秘境へと足を進めて行きました。 やはり中国は沿岸部より西部はまだ発展していない町が多く、蘭州や敦煌、新疆ウイグル自治区の烏魯木斉(ウルムチ)、博楽(ボルタラ)等未開の地を探し、西へ西へと向かっていきました。タクラマカン砂漠を長距離バスで抜けていた時に、長時間景色の変わらない一面砂しか見えない場所で、他のバスが横転していました。そのバスの日陰に乗客たちが体育座りをしていた光景を今でも覚えています。あの方たちは助かったのでしょうか。今でも砂漠の映像を見ると思い出されます。 雲南省の少数民族ナシ族の人たちと 上海から昆明への列車(中央が本人)中国とカザフスタンの国境近くにある町「博楽(ボルタラ)」の花崗斑岩怪石群風景 内モンゴルで乗馬 大学院入学金問題で再び貧乏期 色々な国々を巡って環境問題や貧困を解決したいと更に強く思うようになりました。そこで国際協力の仕事に携わりたいという明確な夢を抱き、その中でもUNDPで働く国際公務員に憧れました。国際公務員になるには最低でも修士号が必要と言う条件から、大学院に進学することを決めました。当然家にはお金が無く、自分で学費を払うことで親から入学の許可を得ました。既に2浪している為、ここから修士課程となると更に2年間社会に出るのが遅くなります。 大学院に合格すればすぐに奨学金(当時の育英会)が借りられ、入学金や授業料の問題は無いと安易に考えておりました。しかし、なんと奨学金は4月の入学後に申請をして、6月から適用になるというものでした。東京国際大学大学院国際関係学研究科(枇杷木教授の国際経済学の研究室)に入学することになったのですが、合格しておきながら入学金がありません。授業料も払えません。大学側に6月の奨学金まで待ってほしいと掛け合うも。3月31日までに支払いが無ければ合格は破棄されると言われてしまいました。 そこで人生最初で最後の利用となるであろう市中の消費者金融にてお金を借りました。また再び貧乏生活に逆戻りです。利息がとても高いことから早期に返済したく、高収入の仕事を探しました。そこで見つけたのがCATVの営業です。「月50万も夢じゃない!」という広告を見てすぐにTELをしてました。獲得した契約件数による歩合で給料が決まるシステムです。そこで、私は研修を受け現場に配属となるのですが、その研修の内容がとても素晴らしく、毎日ワクワクして受けておりました。 ここで学んだことは、その後の私の営業スタイルに大きく影響しております。現場では営業エリアとしてアパートを2~3棟を与えられ、そのアパートの一軒一軒を訪ねてCATVの勧誘をして契約を獲得していきます。最初に当てがわれた物件が、「八千代荘」というボロアパートでした。まず各ドアに呼び鈴が無く、ドアをノックするのですが、木製のドアが雨に打たれ、それが乾き、また雨に打たれと繰り返しているのか、ドアの表面は波をうっており、中身は素材がボロボロで空洞になっており、ノックしてもコンコンではなく、カスカスと音がします。出てきたご老人は耳が遠くテレビを見ていないと言います。他の部屋も回りますが、「年金生活でカツカツだからCATVなんて払えない」とか「そもそもTVを持っていない」「ラジオを使っている。」といった状況です。 最初はとても苦戦しましたが、研修で習ったこと忠実に真似、実践していくと契約が取れるようになってきました。契約が取れてくると、ボロアパートだけでなく、普通のアパートやマンション等も担当させてもらえるようになりました。マンションに住む方はボロアパートと客層が全く異なり、契約の獲得率が大幅に上がりました。大学卒業前の2月頃から契約社員として働き始め、大学院入学後の4月末までフルに働き、最終的にその地域のCATV局の営業成績がトップになりました。そのおかげで入学後最初の1ヵ月は全く授業に出席できず無駄にしてしまいましたが、何とか2ヵ月半で120万円を稼ぐことができ無事完済できました。4月の給料は、あの広告の50万の夢を超えることができ、あの広告もまんざらでもないと思いました。 ニュージーランドへ語学留学・ドイツへの旅 大学院に通いながら英語の必要性を痛感します。今まで英語から逃げ中国語を勉強してきた私は、自分の夢のためにも中国語だけでは駄目だと考え、ニュージーランドに語学留学に行きました。お金の無い私は、日本で企業の用意する留学のパッケージを利用するのはコストがかかると考え、まず飛行機のチケットだけ購入し、現地ではドミトリー(バックパッカー)に滞在し、語学学校を探しました。全て自分で手配することで余計なコストを排除し、格安で学校に通うことができました。更にドミトリーで同じ部屋になったアイルランド人との出会いです。彼らは私のことを毎晩のようにアイリッシュパブに連れて行ってくれました。海やBBQ、パーティーに誘ってくれました。私以外は全てアイルランド人でしたので、少々癖のあるなまりがありましたが学校より遥かに英語の勉強になりました。 アイルランドの友人達とセントパトリックデーのパーティー 『西遊記』にも登場するタクラマカン砂漠の火焔山(かえんざん) 大学院2年生の時、学生最後の長い旅を計画しました。私はビールが好きで、昔から本場ドイツのビールを飲んでみたいと思っておりました。ただ飛行機でドイツまで行き、ビールで乾杯して戻ってくるといったありきたりの旅行では面白くないと考え、秘境好きな私は飛行機を使わずにドイツまで行こうと計画しました。 まず、東京から大阪まで電車に乗り、大阪から上海まで船で移動、その後は電車、バス、乗合タクシー等を使ってドイツに到着しました。本当ならシルクロードの南ルート(中国―パキスタンーイランーイラクートルコ)を使おうと思っていたのですが、その当時インドとパキスタンが緊張関係にあり、国境を通過できないという話がありました。よって、急遽ルートを北に変更し、中国―カザフスタンーロシアーバルト三国―ポーランドードイツへと移動していきました。こうすると、訪れた各地の地ビールを飲むことができ、ドイツまで様々なビールを楽しんで巡ることができました。とても駆け足でしたが、何とか夏休みの2ヵ月間でドイツまでたどり着けました。授業の関係で、ドイツでの滞在日数はベルリンに2日間だけでした。ミュンヘンのビール祭りに参加できなかったのが今でも後悔しております。 中国-カザフスタンのボーダー カザフスタンのアルマトイにある永久氷河カザフスタンからロシアへの国際列車で一緒になった人々 ポーランド・ワルシャワの並木道大学院卒業式 ようやく社会人 東京計器入社後、韓国、中国、東南アジア市場を経て 大学院の卒業後、2年の派遣社員期間を経て東京計器株式会社に入社しました。舶用機器の海外営業部に配属となりました。取扱う製品は大型船に搭載されるレーダや自動航行システム(オートパイロット)、ジャイロコンパス(磁石より高精度で方位を検出する精密機器)といったもので、文系の私にはとても勉強が大変でした。CATVの売り込みとは全く内容が異なり、初めてまじまじと見る機器の図面、わけのわからない記号や表記にこんなものを自分が売っていけるのかとても心配でした。 時には「小学生の理科の教科書からやり直せ」と指導を受けたこともありました。会社や仕事は私の学力など待ってくれません。最初はひたすら流れてくる仕事をこなしていくだけで、毎日自分が何をやっているのかわけがわからなくなる事もありました。いちいち家に帰る時間が惜しく、寝る時間を確保するために漫画喫茶やカプセルホテルに泊まることもありました。会社の通勤途中、追い込まれすぎて歩きながら涙が出てくることもありました。 入社した2006年~2009年まで担当した韓国市場はそんな状況でした。今まで鍛え上げられた忍耐力があったからこそ辞めずに続けられてきたのだと思います。2009年に担当する市場が中国に変わりました。学生時代によく渡航した中国を担当でき嬉しくてモチベーションが上がりました。中国を担当した3年間で、自分一人で営業活動をこなせるようになり、やりがいと達成感を感じられるようになりました。 その後2012~2017年まで香港/オセアニアを担当し、2017年~2021年までシンガポール支店に赴任しました。特に2016~2017年は私にとって激動の時期でした。2016年にマンションを購入し、すぐにシンガポール赴任が言い渡され、1年も住むことなくマンションを売りに出しました。またちょうどその時に長女が生まれました。生活基盤を作ったり、現地の仕事を把握をするために、先に半年間単身でシンガポールに渡り生活をし、その後家族を呼び寄せることになりました。里帰り出産にて2月に生まれ、私は3月に出国だったので、長女に会えたのはほんの数回のみでした。妻には大きな負担をかけてしまったこと、生まれた長女にほとんど会えなかったことに、申し訳なくそして残念な気持ちでいっぱいでした。 人生の大きなイベントであるマンションの購入、売却、出産、転勤がその一年のうちに全てやってきました。心身ともに疲れ切って悲鳴を上げている中、シンガポール生活が始まりました。支店に配属と言っても、実際に支店にいるのは私だけです。現地代理店のオフィスの一部屋を間借りして、活動しておりました。赴任当時は誰も知り合いがいなく、現地のローカルスタッフに助けてもらい家具を揃え、電気ガス水道、携帯電話、インターネット等のインフラ環境を整えていきました。半年後に無事に家族を迎え入れ、仕事や生活に慣れてきた頃、いよいよシンガポールでの仕事を拡大していきます。 シンガポール支店ではシンガポールだけでなく周辺の東南アジア諸国も担当します。マレーシア、インドネシア、タイ、ベトナム、ミャンマーを行き来する生活が始まり、更にやりがいを感じました。売上げを増やすために、市場を開拓していきます。新しい販売代理店やアフターサービスの代行店を探し、販路を拡大していきます。シンガポールで出会った人との関係を大切にし、そのコネクションでインドネシアやマレーシアの代理代行店候補となる企業を紹介していただいたりと、精力的に活動しました。その頃には当初の国際公務員という夢は、なくなっておりました。家庭を持ち子供たちを一人前に育てていくことを考えると途上国(最貧国)での勤務は、現実的ではなくなったからです。何より今の仕事にやりがいを感じておりました。 そんな矢先に訪れたのが、コロナウィルスの感染問題です。シンガポールではロックダウンが厳しく、生活必需品の購入以外は一切外出が許されません。今まで順調に進んでいた市場開拓もここで全てストップです。1年間ほぼ毎日在宅勤務の日々が続きました。何もできず悶々とした中、ついに帰任の通達が出ます。志し半ばで帰国となり、大変残念でした。帰国後もコロナウィルスの影響は続き、市場開拓の成果を見ることなく、東南アジア担当を後にします。2023年から新しく中国/韓国担当へと変わりました。昔担当していた市場なので勝手はわかっています。しかし、当社としては既にできあがっている成熟した市場ですので、正直面白みがありません。また、いつか未成熟の市場に飛び出し、自ら進んで開拓していきたいと思います。 ベトナムでの会議の様子(右から2番目が本人) マレーシアセミナーでのプレゼンの様子①マレーシアセミナーでのプレゼンの様子② 最後に 本来、大学をストレートに卒業した人は22歳頃に新卒で就職し、立派な社会人として働き始めます。しかし、私は学校を卒業し正社員になるまでに6年間(2浪+大学院2年+派遣社員2年)も遠回りをしてしまいました。しかし、この遠回りは決して無駄ではありませんでした。将来のことを真剣に考える時間であったり、自分の将来を変える出会いがあったり、その間に学んだこと・経験したことが後々役に立ったりと、全てのこと一つ一つが今を生きる自分の大事な構成要素となっているのです。ストレートに最短で社会人になる人もいますが、人生一度だけ、私みたいに少し回り道をしても面白いのでは。 (齋藤竜一さんプロフィール) 東京都出身 1996年私立正則高校卒業 1998年 東京国際大学 国際関係学部 国際関係学科 入学 2002年大学卒業 2002年東京国際大学大学院 国際関係学研究科 入学 2004年大学院修士課程 修了 2006年東京計器株式会社 入社 2006~2009年韓国市場を担当 2009~2012年中国市場を担当 2012~2017年香港/オセアニア市場を担当 2017~2021年シンガポールに赴任 東南アジア市場を担当 2022年~ 韓国/中国市場を担当 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...ワシントン州から旅館「薩摩の里」の女将へ 石脇りおら(旧姓リオラ・スチュワート)さん (1985年卒業 教養学部 祇園時信彦ゼミ ゴルフ部)2023年1月1日アメリカ・ワシントン州出身の石脇りおらさんは1985年3月に教養学部を卒業後、ブリタニカ、ドールジャパンに勤務。ご結婚後に旦那様の郷里・鹿児島で旅館「薩摩の里」を手伝うことになり、現在は女将として旅館経営をされています。 「旅館「薩摩の里」は鹿児島空港近郊の市比野温泉街から少し離れた里山にある温泉宿です。自然に包まれ、季節を感じ、温泉で体を癒す、田舎の穏やかな時間が流れる場所です。鹿児島にお越しの際は、私どもの旅館「薩摩の里」にお泊りいただけると、大変嬉しいです」と述べられています。 10歳でシアトルから単身日本へ 東京国際大学教養学部17期卒の石脇りおら(旧姓リオラ・スチュワート)と申します。 アメリカ・ワシントン州シアトル郊外の小さな町Port Townsend出身で、アメリカ人の父と日本人の母、姉と弟との5人家族で10歳まで暮らしました。 父には「日本の教育レベルは高い。せっかく優秀な日本人の血が流れているのだから日本の教育を受けさせたい」という考えがありました。母方の伯母がよくアメリカに遊びに来ていて伯母になついていたし、伯母には子供もおりませんでしたので、私を自分の子供のように育ててくれました。 日本に来て驚きと戸惑いの連続で、日本語は全く話せなかったので、日本の教育に慣れるまで苦しかったですね。 「世界に目を向けなければ」という伯母の薦めで東京国際大学に入学 茨城県の土浦日大高等学校を卒業して、獣医になりたくて日本大学へ進みましたが、「これからは世界に目を向けなければ」という伯母の薦めもあって、獣医学部を途中で断念しました。 東京国際大学に入学したのですが、茨城県牛久の叔母の家から2時間半かけて通学。加えて門限が9時でしたので、毎日時間との戦いで忙しかったですね。でもゴルフ部、ゼミでの研究、そしてアルバイトと精一杯大学生活をエンジョイしました。アルバイトは、今はもうありませんが、銀座の日本堂というお店で時計の販売を担当しました。外国人旅行客の接客を2~3年勤めました。 卒業後、ゴルフ部の仲間からの力添えでブリタニカに入社し、北海道で英語教師として8年間勤めました。そして上司の紹介でドールジャパンへ8年、東京で勤務。副社長の秘書でしたが、ボスがバナナパインを担当していたことから商品部の仕事にも携わりました。 夫との出会いから鹿児島へ、旅館「薩摩の里」を手伝うことに ドールジャパンを辞めてのんびりしているときに、夫と出会いました。私の変わった性格、つまり日本人的だけどアメリカ人的な自分を理解してくれる人は少なく、彼はその中の一人でした。そして結婚。それから「帰郷して仕事を手伝ってほしい」という夫の兄の要請で、夫の郷里・鹿児島で旅館「薩摩の里」を手伝うことになったのです。 九州は初めてでしたが、日本に来た時と状況は同じ、何とかなると思ったのです。でも現実は大きく違っていました。まずは言葉、方言には悩まされました。そして味、鹿児島独特の甘さです。ちょっと苦手でしたが、今は慣れてしまいました。 日本的な部分とアメリカ的な部分を融合して、女将業に専念しています 見た目が日本人ではないので、皆が心配して表の仕事はさせてくれませんでした。でも私の好奇心・チャレンジ精神が芽を出し、いつのまにか表の仕事もこなすようになり、女将として働いています。私は旅館の表の顔「女将」、夫は裏方の社長として二人三脚で頑張っています。 私の中には日本的な部分とアメリカ的な部分があります。お花を生けるとき心が落ち着くし、日本の美・和の心に惹かれます。でも「日本人の本音とたてまえ」を理解するのは難しい。また、自己主張という面ではアメリカ的なのでしょうね。両親の2つのDNAを融合させて、自分らしく生きていきたいと思っています。 時間の流れが変わる宿「薩摩の里」は里山にある温泉宿です。 是非とも、皆様方に昔ながらの温泉宿にお越しいただきたく、私どもの旅館「薩摩の里」の紹介をさせていただきます。 鹿児島県薩摩川内市の市比野温泉は江戸時代から湯治場として栄えた歴史ある名湯で、泉質の良さは有名で、今でも遠方から多くのお客様がお越しになります。旅館「薩摩の里」は鹿児島空港近郊の市比野温泉街から少し離れた里山にある温泉宿です。鹿児島空港や鹿児島駅からは、車で約一時間の距離です。 自然に包まれ、季節を感じ、温泉で体を癒す、田舎の穏やかな時間が流れる場所です。 100%のトロッとした温泉「美人の湯」 薩摩の里の温泉は、触れてすぐ実感できるトロっとした感触とあがった後のお肌のしっとりスベスベ感という特徴から、「美人の湯」と呼ばれるようになっています。 循環ではない源泉掛け流し、加水・加温なしの100%天然温泉をごゆっくりとお楽しみください。 地元の料理と山海の幸をどうぞ。 鹿児島は海と山の幸に恵まれた地、美味しいもの、美味しい食べ方をお客様にたのしんでいただけるよう鹿児島の郷土料理、旬の素材を使った会席料理、地元の新鮮な魚、地鶏の刺身などをご用意しております。 (旅館の前は緑の絨毯がとても綺麗です) (庭園を眺める1階和室) (地元の料理と山海の幸をどうぞ) あるものは昔ながらの里山の風景、ないものは気取ったもの、現代的なもの。お客様にはしばし街中の喧騒を忘れて静けさを味わってもらいたいと思います。源泉かけ流しの天然温泉、美人の湯と美味しい郷土料理なども楽しんでいただけると有難いです。 日本全国から、海外からも泊ってみたい温泉旅館に薦められるように常に質とサービスのレベルアップを目指していきますので、鹿児島にお越しの際は、私どもの旅館「薩摩の里」にお泊りいただけると、大変嬉しいです。 (石脇りおら(旧姓リオラ・スチュワート)さんプロフィール) アメリカ・シアトル郊外で10歳まで過ごす。 その後、茨城県牛久の伯母の家に住む。 : 土浦日本大学高等学校卒 1985年3月 東京国際大学教養学部17期卒 祇園時信彦ゼミ ゴルフ部 卒業後、ブリタニカ入社、北海道で8年間英語教師 ドールジャパン(東京)で8年間勤務。副社長秘書、商品部 2000年から 旅館「薩摩の里」を手伝う。現在は女将に専念しています。 鹿児島県市比野温泉 旅館「薩摩の里」 鹿児島県薩摩川内市樋脇町市比野4134 TEL:0996-38-1012 FAX:0996-38-2061 旅館 薩摩の里ホームページ https://satsumanosato.jp/ 旅館 薩摩の里Facebook https://www.facebook.com/satsumanosato TIU 霞会シンガポール支部... Read more...たたかう!ランドスケープアーキテクト鈴木マキエさん(1995年 国際関係学部入学、長谷ゼミ 1996年TIUA、2000年ウィラメット大学卒業:BA in Art & Sociology)2022年12月1日1996年TIUA生、2000年ウィラメット大学卒業生の鈴木マキエです。 現在はシアトルを拠点とするランドスケープアーキテクチャー会社「GGN」の一員として世界各国の都市・地域開発やデザインプロジェクトに参加させていただいています。 獅子白兎のTIUA・ウィラメット留学生活 フィリピンやブラジル出身のご近所さんが多い地区で育った私は、子供の頃から「広い世界が見たい」と漠然と留学を思い描いていました。が、しかし、その夢とは裏腹に、英語も含めテスト直前に詰め込み乗り切る「横着者」にグングン育った結果、進路決定時に正規留学は難しく、幅広い英語レベルの生徒を受け入れているTIUAプログラムに惹かれTIUに入学。ろくに英語ができないままオレゴンへ行くことに! そこで学んだのが、私の英語力では宿題を適当にやって無難な成績を取ることは不可能ということ!要領で流すことは通用せず、人生初めて真正面から勉強に取り組まなければいけなくなってしまいました。これを機に一生懸命勉強することが楽しくなったのは私の人生を変えた大きな出来事でした。 寮でも日本・アメリカ・海外からの留学生問わず一生懸命友達作りに励みました。当初、無口で小柄な私に対するアメリカ人の第一印象は典型的なおとなしい日本人。単に英語が話せなかっただけなんですが。。。 笑) 面白い冗談が言えないのはまだしも、かなり面白い冗談で笑わ(え)ない私を、「面白好きなヤツ」と理解してもらうのに当初はかなり苦戦しました。が、出川哲郎流さんも推奨の「魂で話すアプローチ」で交流し、少しずつ友達の輪を広げていきました。友達を作るのに人生で一番努力したのはこの時だった、と感じます。 Willamette University International Dinner 国際留学生の皆と。 努力の成果もあり、寮を追い出される夏休みはアメリカ人の友達数人の家に寄せてもらい貴重な経験をしてきました。中でも印象的なのは、制限速度のないモンタナで友人が仮免中だった私に運転練習させてくれた際、日本ではありえない古さのバンのギア変更が難しく、急な山道の下り坂カーブでスピードが出すぎ同乗者全員(2021年の投稿者飯島さん含む)が「殺す気かー!」と恐怖に陥った件、ワイオミングの友人の牧場で映画「The Horse Whisperer」のモデルになった馬小屋に寝泊まりしたワイルドな日々、牧場到着と同時にオーストラリア出身のカウボーイ達に向こう訛りで「%$x0&*#パレード行くか?」と聞かれ、「Yes]と答えたら馬車にポーンと乗せられ、見物に向かうと思いきや沿道に現れた大勢の人々に手を振られ、パレード登場を果たしていたドッキリ!事件、日本人の名前が覚えられない友人の伯母さんに「ジュリアロバーツ」というニックネーム(?)で呼ばれ、田舎街で名前を耳にした人々を「えっ、どこにいるの?!?!」とキョロキョロさせた件などなど、今でも集まれば話題に上る武勇伝がたくさん誕生しました。 TIUAやウィラメット時代を振り返ると宿題一つから友人関係、日常生活に至るまで何においても一生懸命、獅子白兎で立ち向かった日々だったと感じます。ここで培った頑張る精神は後の過酷な建築系大学院の時代を乗り切る基礎にもなったと思われます。 ワイオミングでのカウボーイライフ。 発見!ランドスケープアーキテクチャー ウ大卒業後は憧れの街サンフランシスコへ。直接仕事に繋がる専攻でなかったこともあり、就職難に直面。そこで公園を通じて地域向上を目指すNPOで研修生をしながら社会に役立つ専門分野で大学院に進むことを考え始めました。NPOで担当した土地利用調査や市民参加型公園計画の企画、公聴会への参加などがきっかけで、都市計画に興味を持ち、大学院進学を念頭にカリフォルニア大学バークレー校のキャリアフェアに参加。申し込みの際2つの学科のセッションが選べるんですが、都市計画の他にもう一つ「なんだろ、この学科?」レベルで選んでみたのがランドスケープアーキテクチャーでした。軽い興味で受けたセッションでしたが。。。 実は社会学や環境のみならずアートも絡んだ面白い分野であることが発覚!早速心変わりし、大学院はランドスケープアーキテクチャーに決定! 翌年、都市での環境デザイン、コミュニティーデザインが強いシアトルのワシントン大学に進学。大学院ではイタリア、中国、台湾などに短期留学。神戸でも震災復興後のまちづくりに参加するなど、多忙でしたが様々な風土、文化、そしてデザインプロジェクトを体験できました。最終的にはランドスケープの修士号に加え、都市計画学科とコラボのアーバンデザインサーティフィケイトも取得し卒業しました。 日本語ではランドスケープアーキテクチャーという分野を包括する言葉がなく、緑化、造園、園芸などと部分的な面で訳されてしまいますが、庭や外構だけでなく、色々な分野と連携を図り都市や地方、コミュニティと一緒に地域のビジョンを打ち立てていくという大規模なスケールや公共空間、グリーンインフラに関わるプロとしても活躍している分野です。 キャリアで学ぶ SASAKIサンフランシスコでは、実戦でスキルを磨く 卒業と同時にサンフランシスコに舞い戻り、SASAKIという建築、土木、インテリア、エコロジストなど多分野が存在する総合設計オフィスに就職。関係分野の専門家と身近にやり取りしながらプロとして必要な知識やスキルを学びました。最初に取り組んだプロジェクトの一つ、アメリカ最大級の港、LA港の工業地区に大きな公園や遊歩道を作ったプロジェクトでは長年工業地帯に住んでいる人々の住環境の向上に貢献できたことに加え、多数の賞などをいただき、キャリア初期から有意義で面白いプロジェクトに恵まれ幸運でした。 しばらくするとバージニア大学に移った大学院時代の恩師から常勤講師をしてみないかと声をかけていただき、挑戦を決意。1年半程働いたオフィスから半年間の休職許可をもらい、大学のあるシャーロッツビルへ引っ越しました。 バージニア大学で初めての教鞭を取る アジア人、女性、英語が訛っている、(他の先生と比べて)若い、小さい。。。 私という人物は登場した瞬間に「立派な先生だ」という印象を与える要素は皆無です。想像通り指導者としてのリスペクトを得るのが最初のハードルとなりました。多くの助言や応援の中で、特に響いたのが「全てを知っている必要はない。教える相手より一歩先を行っていれば、その一歩について教えることができるから」というものでした。リスペクトを得るために無理に先生らしく振舞ったり、本来の自分より大きく見せたりする必要はない、自分の貢献できる形で自分らしく頑張ればいい、と思えた言葉です。 結局、当初半年だった予定は2回の延長により2年近くになり、徐々に自分の教えるスタイル的なものが見えてきました。豊富な現場経験のある指導者が少ないのが弱みだと学生時代から感じていた私は、現場の知識や経験を共有できる先生になりたかったので、もっと実践経験が必要と考えていました。そんな時、徐々にリーマンショックの波及を受け教員志望者が急増。それを機に現場復帰を決断。不景気真っただ中で元のオフィスは苦戦中だったので、元上司が移動した先のボストン本社で再就職となりました。 バージニアでは試行錯誤の日々でしたが、ご指導いただいた先生方や今では友達・同僚になっている生徒達のおかげで充実した日々を送ることができ、いい思い出となっています。この経験は現在客員教授をさせてもらっているワシントン大学でも生かされています。 バージニア大学の生徒たちと。 SASAKIボストンでは、中東やアジア各国の大規模開発、街や各地域のビジョン形成や骨組みのデザインなどに取り組む 現場復帰したボストン本社ではアジアと中東を中心に都市デザインや大きなスケールのマスタープランなどを担当しました。アーバンデザイン、建築、土木、エコロジーの専門家と一緒に中東やアジア各国の大規模開発、街や地域のビジョン・枠組み形成や空間デザインなどに取り組みました。 ヨルダン側の死海、4000haのマスタープランは中でも思いで深いプロジェクトです。世界一標高が低い「死海」はそのユニークな成分で体が浮くことや貴重なバスソルトとして有名ですが、その珍しさは水自体だけではなく、ワディと呼ばれる渓谷や、希少種達が利用する広大なタマリスク(低木)の森などの周辺環境にも及びます。農業発展による水源ヨルダン川の水量低下に伴う死海の水位低下は年に1mにも及び、毎年ビーチがリゾートから遠ざかってしまう問題、テロ防止策で立体/地下駐車場設置が困難で歩行者環境が厳しい点やセキュリティ管理が水際を私有地化している問題、必要な真水と汚水の再利用のバランスが取れた開発スピードの調整などなど、社会的課題も特殊でした。 中東のマーケティングの専門家や環境エンジニアも交えた専門家チーム全員で環境、政治、経済、テクノロジーなど全ての面に渡り、どうしたら現在の問題に答えながらも、より良い未来の可能性を守っていく持続可能なデザインができるか検討し、死海という場所にしかない良さを基軸に、真珠のネックレスのように小さめの開発を要所に展開し繋いでいくストラテジーを考案。ヨルダン初の環境アセスや住人公聴会も開き、地元民やリゾート従業員のための機能的で活気ある本物の街づくりも提案しました。 初めてリード的なポジションで、自分の力不足を痛感したプロジェクトでしたが、とても多くの学びがあり、個人的に大きく成長できたプロジェクトでした。 Dead Sea Development Zone Detailed Master Plan(提供:SASAKI Associates) GGNシアトルで、数か国の興味深いプロジェクトに携わる 多数のマスタープランプロジェクトを経て、実際の建設経験を求めて、コンセプトから建設まで丁寧に手掛けることで有名な現在の会社GGNに入社。シアトルに戻り早10年、時折ワシントン大学で教えながら、アメリカ全土や数か国に渡り大学やハイテク企業のキャンパスや複合開発、会社の無償活動を利用したNPOによるホームレスの住居プロジェクトまで幅広く興味深いプロジェクトに携わらせていただいています。2018年のコンペ時から参加している大阪の「うめきた2期」もその一つです。 うめきた2期。GGNチームはプロジェクト全体のランドスケープビジョンからコンセプトレベルのデザイン、都市公園区画は詳細までリードデザインとして担当 うめきた2期開発は2024年先行オープン、2027年完成予定の複合開発で関空と大阪駅をつなぐJRの新しい駅の真横に位置している計9haのプロジェクトです。敷地の中心に位置する4.5haの都市公園の他、商業やインキュベーション施設、コンベンションセンター、3つのホテルに2つの住宅棟なども含めた街区となる予定です。 詳しくはオフィシャルウェブページもあるので是非ご覧ください:https://umekita2.jp/ 私達GGNはプロジェクト全体のランドスケープビジョンからコンセプトデザイン、都市公園区画は詳細までリードデザインとして担当。クライアントとなる事業者9社をはじめ、複数の建築事務所を含む日本のデザインチームと共にデザインに取り組んでいます。 GGNの特徴としては与件や機能面のみならず、独自のデザインプロセスによりその土地の普遍的な本質を探り出し、模倣やコピペではない、その土地にしかない・その場所で一番輝ける本物のデザインを提案していく点です。 歴史・文化、社会環境、生物多様性など色々調べると「何もない」とか「価値のない」場所などなく、どこでも興味深いストーリーや地元の人が自分の街を感じる瞬間が存在しています。それをどう可視化し、機能・与件、自然環境やコスト、そして様々な人々の意見などとのバランスを取って表現していくか、プロジェクト一つずつ丁寧に検討していきます。 もちろん、うめきた2期でも色々な調査・分析を重ね、淀川と深い関りがある豊かで潤った大地の記憶や橋の街大阪をインスピレーションに、海外に誇れる日本らしさも現代的にデザインに織り交ぜていきました。 初めての日本のプロジェクトなので日本特有な事を学ぶ機会が満載です。高度な技術や完成度など世界に誇れる点も多い中、縦割りや保守的なアプローチが主流であること、専門的なデータ分析より経験則を重んじる傾向、事例主義など、公共空間の向上には多くの課題やハードルも多そうです。個人的に最初の事例自体がどうできたのかは「卵が先か鶏が先か」並みのミステリーだと感じています。 お店などは雰囲気をとても大事にするのに公共空間は機能さえしていれば安っぽくても仕方ない、とあきらめているのが日本人の感覚と感じることがありますが、公共空間の質を付加価値としてではなく街のバイタリティのベース・インフラとして捉えていくことにより、地域や街、日々の暮らしの豊かさの向上に繋がっていくのでは、と思っています。コロナの影響もあり、世界中で屋外や公共空間価の値感が見直されてきている今、日本でも新しい公共空間や地域のあり方に取り組む機会が増えることを願っています。 うめきた2期ではGGN 創立者の一人、世界的にも巨匠的存在であるキャサリンと深く協働することができ、共にプロジェクトに貢献できたことや、日本チームも含め様々な方々から学べた事に感謝しています。都市公園はこの春工事が開始されましたが、これからも気を抜かず、最後まで日本チームと一緒に頑張っていきたいと思っています。 うめきた2期開発-鳥瞰イメージ(提供:うめきた2期開発事業者) 「たたかう、ランドスケープアーキテクト」として、試行錯誤しながら自分らしくチャレンジして行きたい 最後に「たたかう、ランドスケープアーキテクト」のタイトルですが、去年行った日建設計講演の際、友人に「私らしい」と提案されたタイトルです。TIUA時代の「負けない」精神が反映されているのでは、と感じます。ここ数年パンデミックや治安・政情の悪化など、世界中暗いニュースが多く凹みがちな日もありますが、私が「たたかって」いけるのも様々な方々のサポートあってと再痛感させられた機会でもあります。 日本での公共空間向上やランドスケープアーキテクチャーの普及を考えると、どう「たたかって」いくべきか(まだ)分かりませんが、また試行錯誤しながら自分らしくチャレンジしていけたらなと思っています! 何か「たたかうランドスケープアーキテクト」がお役に立てそうなことがあればご一報をいただければ、と思います! (鈴木マキエさんプロフィール) 名古屋出身 愛知県立千種高校卒業。 1995年TIU国際関係学部入学、長谷ゼミ。 1996年TIUA、2000年ウィラメット大学卒業:BA in Art & Sociology。2012年 GGN Ltd入社 現在の役職はPrincipal。 GGN: https://www.ggnltd.com/ 米国シアトルを拠点にするランドスケープアーキテクト。TIUAの後、ウィラメット大学へ編入、Bachelor of Arts(アートと社会学)で卒業。ワシントン大学でMLA(ランドスケープアーキテクチャー修士号)とアーバンデザインサーティフィケートを取得。ランドスケープデザイン・建築オフィスやバージニア大学建築学部講師などを経た後、現在勤務しているGGNに2012年に入社。 40平方キロメートル以上の大規模な地域マスタープランからホームレスのための極小ハウスプロジェクトまで幅広いスケールやタイプのプロジェクトを手掛ける。過去に携わったプロジェクトは世界10か国以上。現在は大阪のうめきた2期地区開発も担当。ワシントン大学にて客員教授も兼任中。 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...東南アジア6カ国駐在をして思うことは、Fairnessな立ち振る舞いをする事の重要さです。阿久津晴彦さん(1986年卒 商学部 川島ゼミサーフィン同好会)2022年11月1日東京国際大学を卒業後、東洋インキに入社、1992年からアジア6か国に赴任1986年4月に東洋インキ製造株式会社に入社。6年間朝日新聞社を担当し、90年からは並行して丸1年間九州全域新聞社新規開拓を担当。それ迄の「新聞社担当」というどっぷりドメスティック営業から92年いきなり半年間の海外要員養成コースに半ば強制で参加させられ、香港にトレーニー兼華南地区新聞事業マーケティング担当として着任。此処から私の海外駐在生活が始まりました。 思えば当時国際部長の「お前みたいな活きのいいのが海外向いてんだよ」というエレベーターホールでの何気ない一言で「ああ、俺は海外向きなんだ」と貿易実務も無知英語も朝の挨拶位しか出来ない「気合と活きだけ」の若造が海外に飛び出して行く事になりました。(後日談:部長はそんな事言ったっけかなと覚えてませんでしたが) 1992年にトレーニーとして初の海外駐在生活を香港でスタート。(1992年11月~1993年4月 Toyo Ink Hong Kongトレーニー時代)初ボーナスで買った憧れのゼロハリバートンのシャンパンゴールドアタッシュケースを手に当時の啓徳(カイタック)空港に降り立ちました。今でもスターフェリーに乗り路面電車を利用しての通勤は忘れることができません。トレーニーでありながらまるで旅行者気分の「非日常」を楽しみながらの初海外生活をスタートさせました。 当時の香港マカオ・深圳地区は成長に向け一直線の熱気と裏町のカオスで猥雑な状態が混然とし常に映画のワンシーンに自分が置かれている様な毎日が興奮状態でした。コミュニケーションはそれこそ「絵を交えた筆談&気合のボディーランゲージ」です。それまでの人生で経験した恥と冷や汗の二乗分位をかきつつも実務経験を積み何とか皆の期待に応えるような新規開発を成し遂げ沢山の事を最前線フロントラインで経験した事により、日本国内では得る事のできないスピード感、ダイナミックさに魅了され「やっぱり俺は海外だ」と思いを定めたのでした。 そして実績が評価され半年の海外研修を打ち上げ、翌年93年5月から当時手つかずの台湾市場新聞社開拓という役割で台湾東洋油墨有限公司に正式駐在となります。 台湾駐在中の宴席で『習得した技』が、後々中国本土ビジネスに活かされて来るとはその時は思いもよりませんでした。(1993年5月~1994年7月 台湾東洋油墨有限公司時代)「営業統括 Sales GM」という当時の名刺が残っています。年上ばかりの販売部隊を統括する立場です。香港時代とは一変「のんびり家族的」人の気質は最高ですが、時間にルーズな事に加えて過去の歴史的背景・生活習慣の違い等気を遣う事や戸惑う事も多い日々も何事にもポジティブに職務に励んでいました。主要スタッフが日本語を堪能に操る事等から仕事はすっかり日本語での指示出し報連相と今から思えば貴方は何様ですか?という感じでしたし、若さに任せて毎晩の宴席、飲み屋での中途半端な中国語(普通話)と無茶な酒の飲み方で飲みニケーションはマスター領域に達しましたが、今から思えばもっと謙虚な姿勢で職務に当たり、中国語を真剣に勉強しておくべきだったと反省しています。 一方宴席で『習得した技』が、後々中国本土ビジネスに活かされて来るとはその時は思いもよりませんでした。皆良く言うことを聞いてくれるし、宴会に次ぐ宴会、何か自分が偉くなったような錯覚に襲われていました。当時の上司である社長(総経理)とぶつかる事が多くなりました。売り上げ増と言う実績を残しつつも、本社は組織運営・統率の面から私を台湾から外す決定をしたのでした。 タイ駐在は、起死回生・捲土重来の思いで必死に職務に当たりました。(1994年9月~2001年3月 Toyo Ink Thailand)不本意な形で「よこよこ」で台湾からタイへ駐在となりました。此処でのポジションはMarketing GMです。台湾での反省・会社の意思決定の現実を思い知らされた私は、起死回生・捲土重来の思いで必死に職務に当たりました。初日にいきなり英語で自己紹介を幹部社員の前でさせられホワイトボードに自分の名前位しか書けなかった自分を恥じ、その日のうちに日本人会で英語の家庭教師(カナダ人)を紹介してもらい、どんなに夜遅くまで飲んで帰っても毎朝6時から1時間の個人レッスンを毎日休まず続けました。するとどうでしょう、3か月程経ったある晩なんと英語で夢を見たのです。すると信じられない事に相手が話している言葉がどんどんキャッチアップできて直ぐに文脈から意味が理解できるようになり、ボキャブラリーが増えて話す事が楽しくなってきました。駐在を終えるころには会計士や弁護士等とも可成り込み入った話ができる位のレベルに迄コミュニケーション能力が上達しました。しかし嬉しい経験ばかりではありませんでした。 97年6月末に起こった「通貨危機」です。一体何が起きたのか理解出来ないうちに会社はみるみる赤字に転落。お客様も倒産の嵐、回収不能不良債権の山、寝むれない日が続き体調不良で挙句に円形脱毛症になり地獄を見た思いでした。しかし皆と一緒に「明日は必ず良くなる」と信じて誠心誠意職務にあたり、1年半後には再び黒字会社として累損も一掃し復活したのでした。この時一人も解雇することなくボーナスは出せませんでしたが、給与も滞らせることはなく支給したことにより会社への帰属意識が高まり定着率が改善し、その時の核人材が後々この会社の主要幹部・役員となって事業を健全・強力に牽引してくれていて今でも彼らとやり取りが続いていることは私の財産です。 その後2001年3月に本社国際本部に戻り4年間を主に欧州北米・中国本土の新規事業系推進と言う役割を経て、再び海外勤務の命を受けてマレーシアに駐在となります。 マレーシアは「多様性を受け入れる社会」、マレー系、中華系、インド系と混然一体調和しお互いを尊重して生活している様子は新鮮でした。(2005年3月~2011年7月 Toyochem Specialty Chemical Sdn Bhd )Chairman & Managing Directorとして初の現地トップとしての赴任です。今で言う「多様性を受け入れる社会」マレー系、中華系、インド系と混然一体調和しお互いを尊重して生活している様子は新鮮でした。当時この会社はKL株式市場に株を上場している東南アジアグループ会社の中でも優良企業でしたが、赴任の最重要ミッションはなんと「非上場化」でした。年一回の株主総会でもそんな事は言える筈もなく、株主集団訴訟に怯えつつ最大限注意を払って密かに計画を推進しました。 此方は初期計画通りに事が進み無事ミッションコンプリートとなったのですが、矢張り忘れられない出来事は2008年の所謂「リーマンショック」です。一瞬にして不況真っただ中という状況に立たされましたが、タイでの通貨危機の経験があったおかげで落ち着いて適切に諸事対処することが出来、被害を最小限に食い止めることが出来ました。そしてタイ時代同様一人も解雇せず給与をカットすることなく、ナショナルスタッフと共に職場・生活の糧を守ったのです。この時の皆を信頼して任せて責任から逃げない姿勢が後の職務に役立つのです。 又同時期グループ会社であるベトナムの立て直し再構築、インドネシアの新規事業立ち上げにも携わり、会社経営のダイナミズムと社員に対する責任の重さを日々実感していました。 (2009年頃に当時のアブドラ・アマド・バダウィ首相に、世界初工業化用途で当時開発に成功したパームオイルの印刷インキの説明に首相府に伺った際の写真) インドネシア赴任時は「労務問題・組合問題」で嵐が吹き荒れており、膠着状態(2011年10月~2016年12月 PT Toyo Ink Indonesia 駐在時代)今回も「よこよこ」でPresident & CEOの肩書での赴任です。大きく成長を期待されている会社に十分な経験を積み意気込んで乗り込んできたつもりでしたが、何か勝手が違います。当時は「労務問題・組合問題」で嵐が吹き荒れており、全く理屈の通らないようなプロセス、論理で工場封鎖、社員監禁、業務妨害と打つ手がありませんでした。相互理解に努めようも箸にも棒にもかからない。「労使」ではなく「日本人vsインドネシア人」といったナショナリズムが先鋭的にぶつかり合う構図でした。 目前のビジネスチャンスを逸したくない機会損失を避けたいとの思いが焦りを生み、日々悩み相談する相手も何処かで繋がっていて情報漏洩しているのではないかといった様な不信感の中での職務でしたが、膠着状態の中で一筋の光が見えました。それは矢張り相手をRespectし相手の言葉で理解しようとする姿勢です。皆金持ちになりたいのではなく「今より少しだけ豊かに幸せな生活を送りたい」と願っている事を理解したのです。ですから壁を取り払い私から積極的に会話の機会を設けました。そして一緒に「より良い職場を作って行こうよ」と呼びかけました。 このきっかけは対話の中で拾った言葉「ゴトンロヨン(インドネシア語で相互互助の精神)」の実践です。たったこれだけの事で信じられない事に職場の雰囲気が一変し協力者がどんどん増殖、「わからんちん」言っていた組合幹部が同僚スタッフから窘められるという様な状況変化となりました。此処で経験し肝に落ちた事は「乗り込んできた」ではなく「軒先を借りて商売させて頂きに来た」からお互いを尊重し共に進んでいきましょうという極めて当たり前の基本に立ち返った精神・所作だったのです。 数々の思い出を後に再び本社国際本部に戻り、北中南米の関係会社事業のフォローを主なミッションとして2年間を過ごし、そしてなんと今度はインドへの赴任です。 6か国目の赴任はインドへ、コロナ過で突然のロックダウンで飢え死の恐怖を実感(2019年1月~2022年3月 Toyo Ink India 駐在時代)Chairman & CEOという役職で6か国目の赴任です。長らく海外業務に携わっていながら最も疎遠としていた国です。赴任命令が出たときは一瞬たじろぎましたが「本社以外だったら何処でも希望地」と直ぐに覚悟を決めて着任しましたが、三か月後に「どうして俺はもっと早くインドに来なかったんだろう!」と悔しい思いをする事になるとは思いもよらない事でした。何しろ将来性や市場の大きさ厚みが今迄の何処よりも桁違いにある。そんな国でトップとして働けることの幸せを感じて着任二年目で赤字会社を脱却し、黒字化に目途を付け「よっしゃー」と思っていた矢先の「コロナ禍」です。 突然のロックダウン、情報遮断、閉じ込められたアパートで2週間程過ぎた頃にみるみる食糧・飲料水が底をついて来る現実に直面し、初めて飢え死の恐怖を実感しました。しかし人間は逞しいものでこの頃になるとデリーのど真ん中にロバに引かれたリヤカーで新鮮な野菜を積んで物売りが来るようになり、却って健康的な生活を送る意識が芽生えたお陰で10kgの減量に成功入社当時と同じ体重・サイズと言った健康状態に戻る事が出来、後日産業医の先生から驚かれる事となりました。 一方仕事の方は、全てが未体験ゾーンです。会社の安全管理、社員の健康管理、事業継続の為の役所対応とリモートでの対応でもどかしく思い通りに事が進まないことも多くありましたが、矢張りここでもスタッフを信じ任せ責任は俺がとるという姿勢を貫く事で力強く復活をする事になるのです。今やグループでも Top5 に入る優良企業となっています。そして濃く熱いスタッフと共に過ごした 3年間の思い出を後に、何と2度目のマレーシア駐在を命ぜられます。 2度目のマレーシア赴任。今迄の海外での経験を通じて強く思うことは、常に『Fairness/公明正大』 な立ち振る舞いをする事の重要さ (2022年4月~ Toyochem Specialty Chemical Sdn Bhd 駐在)2度目の同じ役職での赴任です。前回は家族帯同今回はKLチョンガーです。勝手知ったるマレーシアでの2度目の駐在生活はゴルフばかりでなく、文化面でも趣味面でも新たな経験を沢山したいとわくわくしています。さて、仕事の方ですが以前からの秘書が居てくれたりドライバーさんも変わっていなかったり中堅だった幹部が MD になっていたり夫々事業責任者になっていたりと着任当日からほぼ違和感なく職務に当たることが出来ましたが、大きく変わっていたのは業績悪化で業態変化をしなければいけないという切羽詰まった状況である事です。 何故こうなってしまったのか過去10年間をあれこれ言っても詮無き事。気持ちを切り替え明日へ向かって進むだけです。それに皆から頼りにされている、安心感を持って受け入れられていると感じていますので此れに十分応えない訳にはいきません。今迄の経験、知識、思いと少しのテクニックを縦横無尽に駆使し恩返しではありませんが皆のために一働きするつもりです。 有難い事に過去苦楽を共にしたタイ、ベトナム、インドネシア、インドのメンバーも積極的に応援の手を差し伸べてくれています。相互互助、Respect、謙虚さ、其れに常にポジティブで明日はもっと良くなるさ!と信じて行動に移す事の大切さを改めて噛締めて実感し日々新たな気持ちで過ごしています。 今迄の海外での経験を通じて強く思うことは常に『Fairness/公明正大』 な立ち振る舞いをする事の重要さです。これは幾多の困難な経験辛い決断をしてきた中で芽生えてきたものです。又日本人としてアイデンティティを保ち民間外交の一翼を担っているとの自負自覚も必要かと。こちらは若気の至り、山ほどの恥の経験等を通じて一層思いを強くしています。 (阿久津晴彦さんプロフィール) 1986年3月東京国際大学商学部卒 川島ゼミ サーフィン同好会 1986年4月~1992年10月東洋インキ製造株式会社に入社 新聞社担当 1992年11月~1993年4月Toyo Ink Hong Kongトレーニー兼華南地区新聞事業 マーケティング担当 1993年5月~1994年7月台湾東洋油墨有限公司 営業統括 Sales GM 1994年9月~2001年3月Toyo Ink Thailand, Marketing GM 2001年3月~2005年3月本社国際本部 欧州北米・中国本土の新規事業系推進 2005年3月~2011年7月Toyochem Specialty Chemical Sdn Bhd, Chairman & Managing Director 2011年10月~2016年12月PT Toyo Ink Indonesia,President & CEO 2017年1月~2019年12月本社国際本部 北中南米の関係会社事業のフォロー 2019年1月~2022年3月Toyo Ink India, Chairman & CEO 2022年4月~ Toyochem Specialty Chemical Sdn Bhd, Chairman & Managing Director TIU 霞会シンガポール支部... Read more...日本と世界。その双方の中小企業のIT化を日本の技術と力で活性化させたい! 木原一夫さん(1993年卒業 商学部経営情報学科 芝野耕司ゼミ)2022年10月1日はじめに 私は,商学部経営情報学科を1993年に卒業した木原一夫と申します。通常であれば,日本とシンガポールを行き来しながら生活をしているのですが,コロナによるパンデミックのおかげで日本に3年近く,縛り付けられていました。 私は,日本とシンガポールの双方で,企業内で利用するソフトウェアの受注開発や情報技術を活用した経営コンサルタント,コンピュータソフトウェアや機器の販売,および情報システムサポートを行なっている会社を経営しております。また,SAJ公認正指導員であることから,冬は,白馬八方尾根スキー場を拠点として,毎週末,スキーインストラクターとして活動しています。 こんな私が,どのように現在に至っているのかをご紹介させていただければと思い、今回、筆を執らせていただきました。 コンピュータの魅力に取りつかれた時代から社会人へ 私自身,小学生のころからコンピュータに対する魅力に取りつかれ,英語も分からない中でプログラミングに打ち込んでいました。当時は,パソコンと呼ばれるコンピュータが台頭し始める直前であり,電卓に毛が生えた程度の性能しかないコンピュータであっても10万円(現在の価格で20万円程度)もする時代でした。 中学に入り,お年玉貯金を全額つぎ込んでコンピュータを購入し,更にプログラミング熱は加速していきました。 そして,専門的にコンピュータについて学ぶべく,情報処理施設のある千葉県立一宮商業高校に進学しました。そして,高校卒業後は,最先端技術を取り入れるべく新設した,東京国際大学商学部経営情報学科に進学し,経営情報学科の最初の卒業生となりました。 ゼミでは,現東京外語大学教授の芝野耕司先生,また,既に退任されておりますが佐藤英人先生に師事し,多くの最新IT技術を学ばせて頂きました。しかし,この経営情報学科が現在ではなくなってしまい,個人的には,少し悲しく思っています。 私が東京国際大学を卒業した1993年といえば,日本のバブル経済が崩壊したとされる1991年から1993年の真っただ中でした。 そのため,学生にとって本来は売り手市場であったIT業界の景気は一気に冷え込み,内定を頂いた中堅企業は倒産,もしくは内定取り消しとなる事態が頻発しました。実際に,私の周りの友人の半数は就職活動に翻弄されたにも関わらず,結局,就職が出来ない事態までが発生していました。 そのような時期であったにも関わらず,幸いにして,私は,中堅のシステムインテグレータである株式会社システムコンサルタントに,入社することが出来ました.とはいえ,いきなり3ヶ月の自宅待機命令には,度肝を抜かれたものです。 日本の景気が冷え込み続ける中ではありますが,次々と新しいIT技術が台頭しては消えていく,技術革新が急速に進む時代であった当時,私が従事していた業務は,新しいIT技術を用いたソフトウェア開発手法の開発や技術研究,およびお客様と共に新たなソフトウェア開発を試みることでした。 それらの新たな技術に関する情報は,当時はインターネットも発達していない時代ですから取得するには書籍を頼るしかなく,しかも,それらの書籍は,日本国内において流通していないものでしたから,海外から書籍を購入し,それらの書籍に埋もれ悪戦苦闘する日々でした。 起業し独立後の苦難 その後もバブル経済崩壊の影響は続き,また,海外のIT技術に多く触れていたことから,日本の中小企業のIT化に対する環境について,様々な疑問意識を抱くようになりました。 そして,日本の中小企業のIT化を促進することを使命として,1999年に株式会社アルテックを設立しました。しかし,私は,IT技術には精通していたものの企業経営は素人でした.そのため,当時,話題となり始めていたMBAに着目し,2000年に産能大学大学院経営情報学研究科へ入学しました。 しかし,その直後,共同経営者が殺害される事件に巻き込まれて会社が倒産してしまい,借金を抱えることとなりました。このような状況で,従業員とともに2001年に新たに株式会社リアルフューチャーズを設立し,翌年である2002年に修士(経営情報学)を取得しました。 その後,事業拡大,および東南アジアのIT化の促進を命題にし,2007年にシンガポール法人であるReal Futures Pte. Ltd.を設立しました。しかし、この設立と同時に我々を襲ったリーマンショックの煽りを受け,いきなり苦境に立たされました。 ソフトウェア開発案件が激減し,更にシステム開発単価は急落したことで,会社経営が危ぶまれる中,日本よりもいち早く景気が立ち上がったシンガポールでの事業展開により,多くの企業が倒産するさなか,様々な方からの支援も頂き,今日まで事業を継続することができています。 (シンガポール高層ビル) (弊社社員と浅草にて) シンガポールにおける事業展開 シンガポールにおけるビジネスモデルは,シンガポールで展開する外資系企業,ローカル企業の双方に対して日本品質の情報システムの提供を行なうことでした。 よって,シンガポール法人は,もちろん,様々なユーザサポートも行いますが,原則として純粋な営業部隊として位置づけ,全てのシステム開発を日本国内で行うこととしました。今では、1シンガポールドルが100円程度となっていますが,私がシンガポールへ進出した当時は,1シンガポールドルが68円の時代でした。 そのため,通常の日本国内におけるIT企業は,安価な人件費である東南アジアへシステム開発を委託するオフショア開発が主流でしたが,私たちは,その逆となる「逆オフショア」を実践しようとしたわけですから,私の周りの社長達からは批判の声が多く寄せられたことを覚えています。 しかし,ベンチャー企業として,不可能を可能にしてこそベンチャーであり,この不可能と思われる事業形態を可能とするためのビジネスモデルを開発し,実際に,シンガポールに乗り込んだわけです。 そもそも,中小企業のIT化を促進するために,日本におけるソフトウェア開発の標準工数の半分で,同等のソフトウェアを開発することを可能とするソリューションの開発を行なっていた訳ですから,物価水準の低い東南アジアでも勝負できた訳です。 研究者への転身 コロナウィルスが日本国内で猛威を振るう前の2017年に東京都立大学システムデザイン研究科において、博士の学位を取得すべく,博士課程後期に入学しました。 システムソフトウェア開発の現場では,未だにソフトウェアの品質担保に苦慮し,また,ソフトウェアを発注するユーザは,そのソフトウェアのテストに多大な労力とコストを要している現状があります。 このような現状において,今まで主流であった品質,コスト,期間であるQCDにかかわる情報からの品質予測ではなく,ソフトウェア開発にかかわる人たちの感性に関するデータからのソフトウェアの品質予測に関する研究を完成させるために,博士課程後期に入学したわけです。 そもそも、ソフトウェア開発プロジェクトに関する情報収集は,各ユーザやSIerのコンプライアンスの観点から非常に困難な状況でした.その中で,少ない情報であっても精度高くソフトウェア品質を予測するAIエンジンを開発することができ,2022年に5年の歳月をかけて無事に博士(工学)の学位を取得しました。 そして,現在は,東京都立大学学都市環境学部において非常勤講師を行ない,更には,RFsC情報科学研究所を設立し,情報システム品質予測に関する研究,および少量データによるAIエンジンの開発と研究を行なっています。 (博士後期課程の学位記授与式にて) (都市環境学部において非常勤講師) 結び 東京国際大学を卒業し,既に30年という月日が流れています.多くの諸先輩方が世界を舞台に活躍されている背中を追い続けてここまで来ました。 いつかは追い抜く!そんな気持ちでありますが,諸先輩方も私のような若輩者に追いつかれるどころか、更に加速して前を走り続けており,私自身も,後輩たちにそのような姿を見せられるように,日々、前に向かって走り続けております。 日本と東南アジアのIT化の促進のために、私たちが持つIT技術を駆使して,お客様が利用される企業システムの構築,サポート,コンサルテーションを尽力していきたく考えています。 (木原一夫さんプロフィール)(経歴) (1970年)千葉県茂原市出身 (1989年)千葉県立一宮商業高等学校 卒業 (1993年)東京国際大学 商学部 経営情報学科(芝野耕司ゼミ) 卒業 (1993年)株式会社システムコンサルタント 入社 (1999年)株式会社システムコンサルタント 退職 (1999年)株式会社アルテック 設立 (2001年)株式会社リアルフューチャーズ 設立 (2007年)Real Futures Pte. Ltd. 設立 (2002年)産能大学大学院 経営情報学研究科 修士(経営情報学) 修了 (2022年)東京都立大学大学院 システムデザイン研究科 博士(工学)修了 (2022年)RFsC情報科学研究所 設立 (2022年)東京都立大学都市環境学部 非常勤講師 株式会社リアルフューチャーズ/Real Futures Pte. Ltd.ホームページ http://www.rfsc.co.jp/ http://www.rfsc.com.sg/ (著書・業績) ソフトウェア開発プロジェクトにおけるシステムエンジニアの不安とソフトウェア品質に関する研究, 博士論文, 東京都立大学大学院, 2022 SEが持つ感覚的評価から非障害案件の程度を各ソフト設計工程で確率的に予測する試み[DOI: 10.5057/jjske.TJSKE-D-21-00001], 日本感性工学会論文誌, Vol. 20, No. 3, pp. 301-309, 2021 ラフ集合分析によるSEが持つ感覚的評価からの非障害案件予測[DOI: 10.5057/jjske.TJSKE-D-20-00043] 日本感性工学会論文誌, Vol. 19, No. 4, pp. 395-403, 2020 SEが持つソフトウェア設計書に対する不安要因と非障害案件の関係性分析, 日本設備管理学会誌, Vol. 32, No. 1, pp. 1-7, 2020 Research of computer system quality transition process based on quality sense values by system engineers, The Asia Pacific Industrial Engineering & Management Systems Conference 2018, 2018 標準化デジタルドキュメントにおける情報認識および情報活用の研究, 修士論文, 産能大学大学院, 2002 (学会会員) 情報処理学会正会員 日本経営工学会正会員 日本感性工学会正会員 (学位) 東京国際大学 学士(経営情報学) 産能大学大学院 修士(経営情報学) 東京都立大学大学院 博士(工学) TIU 霞会シンガポール支部... Read more...「人生という旅に出て60年。……ファティマという名前をもらったサハラ砂漠で現地の民と暮らした経験が私の転機だったと想う」 空羽(くう)ファティマ(関口恵子)さん(1986年卒業 国際関係学部 テニス部)2022年8月1日はじめまして。絵本作家の空羽(くう)ファティマ(関口恵子)と申します。群馬県前橋在住です。2022年現在15作出版している自作の絵本〈主に大人の為の朗読CD付き絵本【愛と命と希望がテーマのキャメルン シリーズ】〉などの作者で、その世界観を立体的に表現しようと、物語に寄り添うオリジナルの音楽と,切り絵の映像と、ダンスをつけて、学校や舞台などで、その“朗読コンサート”を,医療者,教育者のメンバーと共に〈命の大切さと日々の尊さ〉を伝える活動(震災支援活動や、子育て支援、イジメ予防など)を14年間続けております。 私は当時の「国際商科大学(現東京国際大学)」を卒業後、世界35ヵ国を海外版寅さんの如く飛び回り、サハラ砂漠で現地の民と電気も水道もトイレもない生活をした際に付けてもらった「ファティマ」と言うニックネームを、その時学んだ“生きていく上で大切なこと」を忘れないようにと今もペンネームとして使っております。41歳で初めての出産後、自分の命より大事な存在に出会えたことで命の輝きを散りばめた【キャメルン シリーズ】というラクダを主人公にした物語を書いたのは、砂漠でラクダの価値を実感したことと、人間ではないキャラクターを使った方が“人生における深いメッセージ”も、ストレートに真っ直ぐに心に伝わると考えました。 アメリカ留学が目的で、東京国際大学に入学さてさて。在学中は国際商科大学という名称で、オレゴンに編入できる制度を使いたくて国際関係学科に入ったのですが、厳しい体育会のテニス部に入り、76人だった新入部員が14人に減り、後輩もできたことでクラブを続け女子部主将なぞをやり、結局留学は卒業後にしました。 1年間朝から夜中まで必死にバイトして溜めたお金で,オレゴン州のサザンオレゴンステイトカレッジ大学附属の英語学校。フロリダは職業訓練所学校に通い、日本で生花をやっていた私はフラワーアレンジを学びました。オレゴンは大学内の池にワニがいた寮の暮らしをして、フロリダは何箇所もホームステイを経験し アメリカ家庭の中に入ったことで、生のアメリカの暮らしを肌で体験。虐待ママから子供を守りながら暮らした家。鳥が放し飼いになっていてご飯の時はフンを避けながら食べたおばあちゃんの一人暮らしの家。貧しいながらも毎晩のテーブルセッティングがとても素敵なカップルの温かな家。などなどいろんな家庭を体験。 中でも面白かったのはある子供の絵を見た私はその色彩の豊かさと自由さに感動して「どういう育て方をしたらこんな絵が描けるようになるの?」と聞くと、「サンフラワースクール」という私立の自由な小学校に行ってるというので,見学させてもらうと子供たちはその日に受けたい授業を自分で選び、寝転びながら授業を受けたりしてるのに、日本みたいに受け身ではなく政治的なことも性教育もオープンに小さい子がバンバン発言していて,驚いたのでした。 本当に楽しい自由な学校で、ワニのいる川?湖?に日本ではありえないくらいに先生も生徒と一緒に泥だらけになりながらのピクニックに行ったりするとにかくスゴい、ワイルドな自由な学校だった。 それで,楽しくなりここで学びたいと思った私は「生徒としてぜひ通わせてほしい」と校長に頼むと,「大人は無理」と初めは言われたが、子供たちにあやとりや、折り紙を教えて「こんなふうに日本文化も生徒たちに伝えるからお願いします!」と再度頼むと、私に懐いた子どもたちも先生にお願いしてくれて,晴れて小学生になれたのでした。めでたしめでたし!♡╰(*´︶`*)╯♡ しかも,一度納得した後は、その校長先生はなんと授業料も無料にしてくださり、自分の家にタダで住んで良いと言ってくれたのだった!ひゃあ!びっくり、なんてありがたし!校長先生の夫はセントピーターズバーグの新聞社の社長さんで、リッチなお家での暮らしが始まったのでした。庭にはアライグマが来てて可愛かったが,サンドフリーという砂浜にいるノミに食われて物凄く,痒い日々で(>__... Read more...シンガポールと日本、フランスの将来の架け橋となり、それぞれの文化やビジネス関係に貢献します。 Rahul Guptaさん (2020年卒業 国際関係学部、2018年Sciences Po France 交換留学生)2022年7月1日Mr. Rahul Gupta‘s Professional Career: (Rahul Gupta さんプロフィール) 2017 April: Transferred into E Track Program, Tokyo International University 2018 January : On exchange at Sciences Po France 2019 April: Continue at TIU and Starts Internship at Japanese Trading Company in Mie 2020 March: Graduates from TIU (International Relations Department) At present : Talent Sourcer, Unity Technologies in Singapore. ( https://unity.com/ ) Please do connect with me on my LinkedIn. I would be happy to answer all your questions, especially current TIU students who want to work for global companies and what it takes. Rahul Gupta|LinkedIn 2017年4月 東京国際大学Eトラックプログラム(英語コース)に編入 2018年1月 フランスSciences Poにて交換留学 2019年4月 東京国際大学に在学中、三重の日系商社でインターンシップを開始 2020年3月 東京国際大学国際関係学部卒業 現在 Unity Technologies(シンガポール), タレントソーサー (Unityホームページ: https://unity.com/) 私のLinkedInにコネクトしてください。特にグローバル企業で働きたいTIU在校生、何が必要なのか、あらゆる質問にお答えしたいと思います。 Rahul Gupta|LinkedIn TIU 霞会シンガポール支部... Read more...激浪の人生 ‐ 人生は変えていける 勝木弘幸(旧姓田中)さん (1969年卒業 商学部/1期 平ゼミ 躰道部)2022年5月12日勝木弘幸〔旧姓田中〕さんは、国際商科大学(現・東京国際大学)開校時の商学部1期生です。卒業後は、大昭和製紙、キヤノンマーケティングで活躍され、その後レッズジャパン(後にコスタトレーディング)などを経営されています。2016年にはご自身の70歳を期に、これまでの人生を振り返り、冊子『激浪の人生‐人生は変えていける』に書き纏められました。「死ぬまでビジネスで挑戦し続けて社会貢献に尽くしたい」と、その波乱万丈の人生のお話を聞かせて頂きました。 「苦節と逆転の人生だが、大学時代に勉学に励み、躰道部では体と精神を鍛えたことが、今も元気で頑張れる秘訣です。これからも常に少年のような純粋な気持ちで「挑」み「戦」い続けたい と述べられていました。 大学、会社員時代から独立まで 大学時代は苦学生で、勉学と躰道に勤しむ 国際商科大学(現・東京国際大学))を選んだのは、兄が一橋予備校の金子泰藏さん(大学創設者・学長)を知っていて、(国際商科大学を)うけたらどうだ?」と紹介されたのです。はじめは「霞が関にある」と聞いて「あれ、一等地にあるんだ!」って思っていたら、行ってみるととんでもない田舎でした。1965年当時は大学設立時で荒れた土地ばかりで凄かったんですよ。 中学2年の時に地元大分を襲った大洪水で砂鉄採集の施設・機械がすべて流失し、親父の事業は壊滅、一転して貧乏生活に陥りました。これが「人生の転機」の一回目です。大学時代は姉から毎月1万円の仕送り、月3千円の奨学金とアルバイトで稼いだお金で、学費から下宿代、飲食から部活費用などすべてを賄っていた苦学生でした。この時姉から受けた恩義は将来自分が「社会貢献」することによって返していこうと決意しました。 大学では躰道部を創設しました。創設メンバー7名のうちの一人です。当時まだ40代だった躰道の創設者・祝嶺正献先生が直接指導に来てくださって、その薫陶を受けました。「躰道の理念は、最終的には社会貢献だ」と仰っていて、その言葉が今も私の中に生きています。 躰道の稽古はきつく、部員は普通あんまり勉強しないのですけど(笑)、私は全部授業に出ていましたよ。ゼミは経営学でしたが、就職先を決めることになり、指導教官の西山先生から「同級生が大昭和製紙の専務をしているから受けてみなさい」と推薦され、大昭和製紙に就職することになりました。 (大学躰道部時代の合宿にて) (躰道の創設者・祝嶺正献先生と) 紙の売り上げを年商100億円にまで拡大 大昭和製紙は1969年の入社当時、資本金56億円の大会社で、オーナー経営者の下で急成長を遂げている会社でした。私も出版社ほか紙業界に顧客・知己を広げた時代でした。1977年当時は既にバブル状態で、毎晩銀座で2-3軒飲みに行ってました。 1980年、脱カメラとして複写機を中心とするオフィス機器の販売に活路を求めていたキヤノンから大昭和に「紙の専門家」を提供してほしいとの要請があり、どういう訳か私に白羽の矢が立ったんです。 当時のキヤノン販売の滝川精一社長の最終面接を受けて、私の採用が決まりました。私が34歳の時でした。ここでマーケティング・企画部門に在籍して、紙の売り上げをバンバン増やしました。当時のキヤノン販売は面白い会社で、意思決定を下に任せるところがありました。 素早く意思決定ができるので、業績がグングン伸びていったんです。私も思い切り仕事をしました。その結果、入社当時1980年、年商3千万円程度の売り上げだったコピー紙の商売を役職定年直前の2001年には年商100億円にまでに伸ばすことができました。 業績を伸ばせた理由としては、1)再生紙など時代の動向・ニーズをタイムリーに捉えた商品投入、2)全国に紙の専任販売担当者を配置、3)紙メーカーとの協調体制、4)紙メーカーの代理店網を利用したVAN直納システムの構築、などがあげられます。そして55歳で役職定年となり、営業の第一線から退くことになったので、独立を考え始めました。 独立後するも赤字体質、そしてあの 3・11 が襲ってきました 2003年、大昭和時代からの取引先・レッツジャパンの増田社長から「自分は歳だし仕事を引き継いでくれないか?」と声を掛けられ、会社を引き継ぐことにしました。これが現在のコスタトレーディングの始まりなんです。 会社は家庭用紙の問屋で、私が引き継いだころは月商300万程度の赤字会社でした。社員 1~2人の日本橋の零細企業もいいところでした。コピー用紙を中心に2011年3月までには、月商3000万円にまで売り上げを伸ばしました。でも紙の商売は粗利が薄く、月商3000万円でも赤字体質で、キヤノンの退職金を切り崩して経営していました。そこに、あの 3・11 が襲ってきたのです。 極限の三重苦、そして奇跡の逆転劇 売り上げゼロになるんですよ。給料も払えない つらくて厳しい時期はその前から始まっていました。2010年9月に、一年半に及ぶ闘病の末、最愛の妻が亡くなりました。妻の発病・入院から3~4年が、金銭的にも心身の面でも、人生で最もつらい日々でした。 2011年に3月11日の東日本大地震により、コピー用紙の仕入れ先である三菱製紙八戸工場が壊滅し、コスタトレーディング(当時この名前に商号変更していました)は売上ゼロになるんですよ。従業員と顧問にも給料も払えないので、何名かリストラせざるを得なくなりました。2012年まで売り上げゼロで、やくざみたいな借金取りも来ました。商品(紙)の仕入れで借金もあり、赤字経営の累損で6千万円ぐらいの借金になっていました。相手は高田馬場にある会社で、そこから紙を仕入れてたのです。その会社の社長が「どうするんだ!」「今月いくら払えるか?」って、毎月私を呼びつけて、報告させ。催促するんですよ。 もう心身ともボロボロでした。 ちょうどそのころ、元キヤノン販売の技術本部長だった金野信次さんから偶然電話があったのです。彼とはお互いキヤノンを辞めてからずっと音信不通だったんです。近況を聞いてみると「船に乗って居る」というのです。東神奈川の彼の船に行ったら、バイオ事業の会社をやっていて、海の浄化作業を行う船を所有しており、その船に事務所を構えていたのです。 そのころ私は地獄の借金取り立て攻撃を受け、心身はボロボロ。「もう会社を畳もうかな、いまの事務所の家賃も払えないし」と状況を話したら、彼が「じゃ、この船広いし、ウチに来れば?」ということで船にオフィスを置かせてもらうことにしたのです。 そうそう、高須義男顧問はキヤノン本体の開発部門に居た人で、キヤノンのコピー機用のトナーをゼロから創り上げた人なんです。キャノンを定年退職後、縁あってコスタトレーディングに入って頂き、以来苦節を共にした盟友で、その知識と経験を生かして、商品開発・技術開発を受け持ってもらっています。フイルム開発も高須さんが手がけたものなんです。 競争相手は世界的化学メーカーでしたが、我々が勝ったのです 船上オフィスの頃、高須さんと2人で色んな企業から開発案件を請け負い、追っかけていました。その中の1社が、柴野恒夫社長のATT株式会社です。2012年3月に柴野社長から、かねてからワーク中だった韓国の世界的電子メーカー向けにスマホ液晶画面用フイルムの商談が成立し、受注が決定したとの電話を受けました。 我々の開発したポレウレタン・フイルムがマッチしたのです。R(アール:弧)を描いた画面を持つスマホに柔らかくてぴったりだったのです。競争相手は世界的化学メーカーでしたが、我々が勝ったのです。 船のオーナーの関係者などに融資をお願いし、300万円の融資からスタートした液晶画面用フィルムに事業は、韓国メーカーのスマホビジネスの伸長とともに拡大を続け、今や韓国メーカーのみならず、中国・台湾のメーカーへの輸出ビジネスが倍々ゲームで増進中で、すべてのタッチパネルユーザーやメーカーに売込中です。このフイルム・ビジネスはATTと共同で展開しています。おかげで、東京信用金庫から優良企業として表彰されたりもしました。 (社員旅行、ハワイにて) 今、これからの挑戦。 一番大切なことは「信用」だと言い切れますね 逆転のきっかけは、「人との縁」が運命を変える大きな働きをしてきたのだなぁという気はしますね。でも、私は、ビジネスマン・人間として一番大切なことは「信用」だと言い切ることが出来ますね。「約束を守る」「言ったことを守る」こと。単純なんだけど、これを一度でも破ると、もう相手は信用してくれませんね。信用のない人に誰もお金を貸してくれませんよ。 白鵬関に「地獄の苦しみを知った人」にしか備わらない人間性に共感を覚えました白鵬関とは元横綱・輪島さんに紹介されて、初めて会ったのは関取が関脇の時でした。会った途端、その人の人格・人柄の良さ・やさしさ・育ちの良さに魅了されました。「地獄の苦しみを知った人」にしか備わらない人間性に共感を覚えたのです。 事実、関取は来日した時、62キロしか体重がなく、「これじゃすぐ辞めるだろう」とみんなに思われていたらしいのです。それを地獄の思いで稽古し、死ぬほど食べることにより、努力に努力を重ねて、今の身体と横綱の地位を獲得し、それを維持し、さらに上を極めようとしているのです。 白鵬関とは、ご家族ぐるみでお付き合いをさせて頂いており、モンゴル・ウランバートルのログハウス(大分県の日田杉造り)建設に協力したり、白鵬関へ刀匠・松田次泰先生作の太刀を贈呈するなど、今の私にできる範囲の応援をさせてもらっています。 ビジネス上では2016年に銀座にちゃんこ屋「鵬」を共同で開店しました。ゆくゆくは白鵬関と一緒に、モンゴルで大きな事業をやりたいですね。 (太刀を前に白鵬関とプロゴルファー片山晋呉氏と) (輪島関と台湾旅行での一枚) (2014年5月場所優勝パレードで白鵬関とオープンカーに) (白鵬関の優勝記念祝賀会にて) 常に少年のように純粋な気持ちで前を向いていくしかない あまりカッコイイ言葉では言えませんけど、敢えて座右の銘というなら「Do your Best !」ですね。「あきらめない。やるしかない。やり通す」ことです。人間、ベストを尽くすしかないですよ。それには、努力・忍耐力が必要です。己で解決しなければ他人は助けてくれませんからね。 また、ビジネスとは「挑戦」でしょうね。私は若いころから起業の意識が強かったですね。「生涯挑戦続ける!」ですね。死ぬまで挑戦しかないですね。だから、「ゆっくりしてどこか旅行でも」なんて気は全くないですね(笑)、ほんとに。常に少年のような純粋な気持ちで前を向いていくしかない。ビジネスは挑戦する、死ぬまで辞めない。まだもうちょっとやれるでしょう。 会社のモットーとして「エコロジーを尊重したエコノミー(eco-mmunity)づくりを掲げていますが、レッズジャパンを引き継いだころからの社提です。先にお話ししましたように、学生時代に姉の仕送りを受けていたという恩義を「社会貢献」という形で社会に返したいと決意しました。その決意から、「持続可能な社会づくり」に貢献する仕事を通じて「社会貢献」を形にしていく姿勢を表した言葉として(eco-mmunity)という造語を考え出したわけです。 これからも新しい事業に挑戦し続けること、それが夢なんです。誰かのため、人のためです 将来の夢は、死ぬまで、ビジネスを辞めない。動けなくなったらしようがないけど。それまでに自分の入る老人ホームを作りたいのです(笑)。自分でホームを作り、仲間を入れたいんです。入りたいって言う人がたくさんいるから、月5万円程度に費用にすることができたら、庶民でも入れるじゃないですか。国民年金受給者でも入れる施設を作らなきゃだめですよ。あと、最後に、これからも新しい事業に挑戦し続けることですね。繰り返しますが、死ぬまで挑戦ですよ。いつまでも前を向いてポジティブに。 モンゴルでのビジネスもそうですが、他にも今まさに始めたばかりの事業が何個かあります。健康・環境・福祉・安全、さらにファッションまで、幅広く手掛け始めています。もうお金じゃないんですよ。名誉でも地位でもなくて、ただ、いままで支えてくれた人たち、周りにいる人たち、皆に幸せを作ることが出来ればそれでいいんです。最後は世の中への社会貢献ですよ。そのためにビジネスで挑戦し続けていること、それが夢なんです。誰かのため、人のためにですよ。純粋に。 *上記掲載内容は、2016年3月発行の『激浪の人生』冊子から纏めています。 (勝木弘幸〈旧姓田中〉さんプロフィール) 大分県杵築市出身 大分県立杵紫高等学校卒業 1969年3月国際商科大学(現・東京国際大学)商学部卒業 平ゼミ 躰道部 1969年4月大昭和製紙(株)入社 1980年8月大昭和製紙(株)退社 1980年9月キヤノン販売(株)入社〈現・キヤノンマーケティングジャパン(株)〉 2003年5月キヤノン販売(株)退社 2003年6月レッツ・ジャパン(株) 取締役社長に就任 〈コスタトレーディング〔株〕に名称変更〉 現在、別会社を立ち上げて、Eco-mmunityビジネスを推進中、 (業務内容) * タッチパネルの高性能フイルムの開発・製造・販売 * サービス高齢者住宅の検討 * 介護用品の販売 * モンゴル関連ビジネスや健康・環境・福祉・安全、さらにファッションまで幅広く手掛けている TIU 霞会シンガポール支部... Read more...全ては繋がっている。四半世紀を超えて続く友情。藤原直美さん(1997年 商学部経営情報学科卒業 1992年TIUA留学 1996年ウィラメット大学経済学部卒業)2022年3月11日神奈川県の湘南に生まれ、毎年お正月は沿道に出て箱根駅伝を見て育ち、子供の頃から「箱根駅伝に出ている大学に行きたい」と思っていました。卒業して何年も経って母校が箱根駅伝に出ることになるとは嬉しい驚きでした。 女性の就職は難しい、現役でないとダメ、実家からじゃないと就職できない… 今ではコンプライアンスに引っかかるような女性の就職難そんな時代だったので、卒業を遅らせることなく留学できるプログラムのある東京国際大学に入学しました。 まさか自分が米国の大学に行けるなんて!Willamette大学の奨学金プログラムに合格したときは私を含めて誰もがそう思ったに違いありません。 1992年TIUA(現ASP)プログラムが人生で生まれて初めての海外渡航でした。 TIUAでは真ん中のレベルのクラス、英語の成績がすごく良かったわけでもありませんでした。ただ思い返してみれば、小さな頃から日本を出たいと思っていました。思い続けていれば夢が叶うものですね。 親に4年間で卒業するという約束でアメリカにいかせてもらいましたので、卒業が2年遅れる長期留学は親には反対され、お金は一切出さないとも言われました。 幸運にも当時の奨学金は渡航費も出たので、両親に伝えたのは出発の二週間前。反対される時間もなかったです(笑) 反対を押し切って渡米したものの生活費を含めてサポートしてくれた両親に感謝しています。 人生初の海外渡航がTIUA。国際色豊かな理想の環境でした 入った寮は今では無くなってしまったのですが、WISH (Willamette University International Studies House)でした。 各国からの留学生がアメリカ人と暮らす寮で、白人率の非常に高い学内で、アジア各国、中東、ヨーロッパからの学生、各言語のTeaching Assistantがいたりと国際色豊かで、私には理想の環境でした。当時は、寮で食事が出ていたので、各国の学生が自分の国料理を振る舞う日があったり、いつも賑やかな寮でした。 悪天候で飛行機が大幅に遅れて到着した初日、ターバンを巻いたインド人の寮長がカレーを作って待っていてくれたのは今でも良い思い出です。 ルームメイトはJunior(3年生)のブルガリア人留学生で自分が苦労した経験から、私が日本語を話すことを極力減らすために毎日ランチはWISHの食堂で一緒にご飯を食べようと言ってくれ、KANEKOの食堂で談笑しながら日本語でランチを食べる同級生を見ながら、通称スカイブリッジを渡る毎日でした。WISHに戻ってのランチも、はじめの頃は会話に入っていけず「Naomiっておとなしいのねー」なんて言われて、「本当は全然おとなしくないんだけど…」と、いつかみんなの会話に入りたいと思って過ごしました。 WISHは様々な国の生徒が一緒に暮らしていました。国同士の対立のことが議論になったり、アジア人に対する差別も経験しました。日本人は、英語がわからないと思われていたようで、あからさまに悪口を言っている生徒もいました。でも、その悪口がわかるようになっている自分が嬉しくもあり、いつか「聞こえてるよ」って英語で言い返してやろうと思っていました。 当時戦争状態だった、イランとイラクの生徒が同じ部屋で暮らしていたり、各国の語学アシスタントの方が暮らしていたり、世界とつながることができる寮でした。当時はバブルがはじけて間もない頃で、日本人に対する差別もありましたが、ほとんどの学生は、とてもフレンドリーで日本のことを聞いてくれたり、宿題を見てくれたり、大学の中に世界があるような素晴らしい環境で過ごすことができたことはその後の私に大きな影響を与えました。 プログラムも終わりに近づいた頃、小さい頃から患っていたアトピーと喘息が良くなっていることに気がつき、もっと長くアメリカに居たいと、長期留学を考えるようになりました。 TIUAでTOEFLの点数が上がったとはいえ、レベルは真ん中、長期留学にチャレンジするのはトップレベルの生徒ばかりで自分にはとてもハードルが高く思えました。また、親との1年で帰る、4年で大学を卒業するという約束もあり帰国することになりました。 先生方からのサポートで乗り越えられたWillamette大学日本に帰国し、TIUAのDeanでいらした川嶋先生が「お前は、アメリカの方が合っているから、挑戦してみるといい。」 そのひと言がきっかけでした。もしかするとはっきりと「日本は合ってない」とおっしゃっていたかもしれません(笑)。先生のお見立ては正しかったと今でも思います。 プログラムのディレクターをしていらしたGunnar Gundersen 先生が「Naomiは耳がいい。」と言ってくださったことが励みになり、留学に挑戦しようという思いを新たにしました。アメリカにいたのはトータルで4年弱ですが、発音については「こっち(アメリカ)で生まれたの?」って聞かれるくらいです。本当のネイティブはそれも聞かれないだろうなとも思いますけどね(笑) 専攻は経済学部。心理学なども興味がありましたが、英語がギリギリだった私はなるべく単位が移行できること、そして漠然とビジネスに興味があったので、Business Economicsを専攻しました。 勉強の大変さはTIUAの比ではありませんでした。噂では聞いていましたが、魔の三角地帯、いわゆる寮の部屋、教室、図書館…本当にこの3点だけで生活する日々でした。経済学部は統計学など数学が必須で、数学が不得意だった私は、毎度クラスの後に“Come see me” と呼び出されていました。先生は怒っているわけではなく、クラスについていけているか、何かサポートが必要ではないかをチェックしてくれました。このような、サポートがあることは小さな大学であるWillametteの素晴らしいところだと思います。それでも寮のロビーのソファで倒れ込んだまま寝てしまい、慌ててクラスに出てクイズ(小テストのようなもの)を受けたことが何度あったかわからないくらいです。 クリスマスブレイクを利用して、里帰りをしているWISHの生徒を訪ねながらヨーロッパを回りました。当時はインターネットはまだ出始めの頃で、トーマスクックという紙の時刻表と地球の歩き方を片手に、ユーロパスを利用しての電車の旅。時にユースホステルに泊まりながら、寝台列車を宿にしながらの旅でした。旅のスタートがベルリンでまだ崩壊から間もないベルリンの壁、東西ドイツの違い、世界が変わったのを目の当たりにしました。その後ブルガリアを陸路で訪ねようとしたのですが、ビザの取得に領事館に行ってみたところ、当時紛争中だったボスニアヘルツェゴビナを通らなくてはならないから、やめなさいと言われ諦めなければならなりませんでした。 12月31日電車の遅れで極寒の真冬のスイスで泊まる宿がなくなり途方に暮れていたところ、同じように途方に暮れている日本人のご家族がいらして、一緒に雪の中観光協会まで行って宿を探すお手伝いをしたところ、一緒にディーナーをご馳走になった上に、宿代まで出していただいたのは良い思いです。 スイスでジュネーブに向かう電車でご一緒したスイスの方に「レストランではチーズフォンデュが1人では食べられなかった」と話していたら「うちに来なさい!」と招待され、チーズフォンデュをご馳走になった上に、泊めていただいただき、今でもフォンデュを食べる時に、この時教わったチーズは8の字で混ぜるを実践しています。今では考えられないことですが、駅で眠ったり、知り合った方に泊めていただいたり、大冒険の旅でした。 Senior (4年生)になると、勉強法も要領を得るようになり、相変わらず大変ではありましたが、授業が楽しくなってきました。実際に社会で活躍している方が講師として授業を行なったり、オレゴン州経済開発局でインターンも経験し、Travel Oregon(https://traveloregon.com/)の冊子の編纂を担当しました。 キャンパス外に住む生徒が多い中、卒業するまでWISHに暮らしました。残念ながら現在は無くなってしまったようですが、私にとって家のような、大切な場所になっています。 卒業後は通信会社へ。3年目から全米各地を廻る機会が増えましたアメリカの大学の卒業は5月、氷河期と言われる就職活動には遅すぎる時期でした。米国での就職も試みましたが、なかなかうまくいかず、とにかく勉強が大変だったので、一度日本に帰りたいとも思っていました。2、3年働いて、お金をためてMBAで戻ってこようと思っていたのです。ラッキーにも、これから世界に拠点を展開しようとしていた大手通信事業者に就職が決まりました。 最初の配属先が、群馬県で、英語とは全く縁のない社会人生活のスタートでした。通勤と営業での車の運転、初めての仕事、英語とは無縁の生活に、もうこれ以上ここで働くのは無理かもしれないなーと思っていました。 ところが、見てくれている方はいるもので入社から3年目で、米国勤務から帰国した上司の元で働くチャンスが来ました。 東京に異動になり、海外の会社との提携を進める上司のお供として、アメリカに行く機会が増えました。ここで頑張れば、海外勤務のチャンスがあるかもしれないと思い。自分より上のマネージャー陣を飛ばして部長と一緒に全米各地を回っていたので、メンバーの中では英語ができる方だという自覚もありましたし、トップクラスの方との打ち合わせにも同席させてもらっていたので、少々天狗になっていたところもあると思います。 今でも忘れられないのですが、出張中のカリフォルニア州のパロアルトのバーで「藤原さんさぁ、英語ができるのはいいんだけど、学生みたいな話し方やめてくれる?」と部長から言われました。 カジュアルな雰囲気のシリコンバレーの企業、自分もカジュアルでフレンドリーな英語で話していたのだと思います。正直なところ、カジュアルな英語と洗練されたビジネス英語の区別もあまりついていなかったと思います。お会いしているのはシリコンバレーの企業のトップ、本当に反省しましたし、悔しかったです。でも、これを言ってくれた部長には今でも大変感謝しています。 それからも、海外出張は何度も行きましたが、フレンドリーにペラペラ話すことなく、話を振られた時にだけ答えるようにし、ビジネスのプロの会話を聞くことを徹底しました。この経験がその後の世界各国の方々と仕事をしていくのにとても役立ちました。 再びアメリカへ。リモートワークとワークライフバランスは当たり前でしたWillametteを卒業して10年、いつかはアメリカへ戻りたい、海外で働きたいと思っていましたが、駐在員になるのは家族持ちの男性ばかり。待っているだけでは自分にチャンスは回ってこないと思い、海外オフィスで募集しているポジションに直接応募する制度にチャレンジしました。すべてを会社が手配してくれる駐在員とは違い、待遇も現地社員と同等、家探し、車の購入まで、すべてを自分でやる必要がありました。 アメリカ人VPのもとで、私はカリフォルニアで日本本社とのリエゾン役、上司とエンジニアがいるITチームはテキサス、プロダクトチームはニューヨークという体制でのリモートワークが2006年の時点ですでに当たり前になっていました。カリフォルニアの夜間に先に明けるニューヨーク、ダラスのチームが仕事を上げ、それを日本のオープンに合わせて私が本社にプレゼンをするという時差をうまく利用した働き方は眼から鱗でした。 ワークライフバランスもしっかりしており、7時過ぎにはもうオフィスには誰もいません。ゆとりができた時間を利用して、ヨガの指導者資格も取得しました。 アメリカでの担当業務はIT部門、お客さまや、社内のユーザのリクエストを聞きながらITシステムを企画設計し、開発部門とつなぐ仕事を担当しました。世界中から集まったプライドも技術も高い優秀なエンジニアたちからは、「そんなリクエスト必要だとは思えない、無駄な開発はしたくない」と。そんな時は、現場にいればランチに行って話をしたり、ミーティングとは別に個人的に話して人間関係を築いて乗り切ってきました。日本と海外の間に入って色々苦労はしましたが、いつのまにか、これが私の役割、強みになっていました。 リーマンショックで帰国。東南アジアでは当たって砕けろ精神でトップと会えました2度目のアメリカ生活も落ち着いてきた頃、いわゆるリーマンショックが起こりました。私がアメリカに残れるようにサポートしてくれていた上司も含め、お客さまも、社内も激震でした。アメリカオフィスは規模を縮小し、コストのかかる日本人は最小限にして、私も帰国することになりました。やっと、念願のアメリカ勤務が叶った矢先の出来事で大きなショックを受けましたが、一緒に働いてきたアメリカのメンバーの雇用を守るためだと納得させ、日本に帰国することになりました。 帰国後は、アジア各国の通信会社への営業や協業の業務につきました。これまではアメリカ、ヨーロッパの社内メンバーとの業務から、アジアの通信事業者との業務になりました。各国の営業部隊と協力して、お客さまを周りシンガポール、インドネシア、マレーシア、インド…アジアの発展は目覚しく、もうすっかり日本を追い越したなーという勢いを肌で感じました。アジアでの通信事業は、財閥系の企業が担っていることも多く、いわゆる大富豪の方々にもお会いすることもあったのですが、アメリカの大学時代に培った当たって砕けろ精神と、懐に飛び込める性格が功をそうしたのか、比較的すぐにトップの方に会うことができ、しかも女性一人で日本から来たというのが珍しいのか、商談中にご飯をとっていただいてご馳走になったり(商談中のオフィスで、です!)色々面白い体験をしました。 各国で開催されている通信事業者が集まる国際イベントがあるのですが、「あなたどこかであったよね、覚えているよー」と声をかけていただいたことも度々あります。人に覚えていただけるというのは、Willamette時代から、出会った人とはご縁を大切にと、次々話しかける度胸のおかげだと思っています。 インドネシア、インドではバティックやサリーなどの伝統衣装を着て出勤する日があるのですが、サリーを着せてもらいオフィスで撮った写真をインドの同僚がSNSに乗せたのを見て「出張中なのに…」のようなことを言われることがありました。 いつの間にか海外出張をSNSに載せないようにというお達しが出るようになりました。この日本独特の閉塞感、みんなが監視し合うような雰囲気(もちろん、そういうことばかりではないのですが)をどうにかできないか、自分にできることがあるのではないかと思うようになりました。 四半世紀を超えた友情 Willametteでのルームメイトは、高校卒業後、日本留学から帰ってきたオハイオ出身のアメリカ人でした。彼女との友情はを四半世紀経った今でも続いています。 実は、私の卒業間近に大喧嘩し、彼女はボーイフレンドと部屋を出ていき、卒業式にはきてくれたものの、ほとんど口を聞かないままお別れすることになりました。そのまま数年音信不通になっていたのですが、とあるReunionでMarci(ルームメイト)が「Naomiを探しているから連絡先を教えても良いか」と聞かれ、即答で ”YES!!!”。 当時は出張で頻繁にカリフォルニアに行っていたので、Palo Altoの出張先のホテルに飛んできてくれました。そこから7年の空白を埋めるように、毎年、年に1回は会っています。 2013年、彼女の旦那様が急逝されました。 原因は今でもはっきりとわからないのですが、過労だったと思います。入院したと連絡が来てから、わずか6時間のことでした。飛行機に飛び乗りお葬式に駆けつけました。大学時代にお世話になった彼女の家族や親戚にも再会しました。この時、彼女のお父様が私に言ったことばが今でも忘れられません。”Naomi, you are not living, just existing. Life can be very short, Live your life.” ちょうどこの頃、自分の仕事に疑問を感じ始めていました。日本の本社の業務を海外に展開する仕事を担当していたのですが、働き方や時間、業務の進め方、日本のやり方を進めようとするほど、海外のオフィスのやり方が効率が良く、お客さまや時代のニーズに合っているということを肌で実感し始めていたからです。 それに伴ってだんだん、仕事や働き方を考えるようになりました。これを機に、仕事とは別に10年以上続けていたヨガに加え、マインドフルネスや瞑想を学びはじめ、人として豊かに生きる、働くバランスを考えるようになりました。 会社に副業申請を出し、ヨガを本格的に教え始めたところ、仕事で疲れてしまった方や、何かにつまづいて苦しくなっている方が集まってくるようになりました。 「初めてのヨガが直美先生で良かった。」と言っていただいたり、私のレッスンを受けたことがきっかけで、インストラクターにまでなった生徒さんもいます。 英語と日本語でのレッスンも開催することもあり、本当に色々な方に来ていただき、私自身もみなさんから元気をもらいました。 再び海外を目指す。何度でもチャレンジしたい。2019年長年温めていた「2人の真ん中のハワイで女子旅をする」を実現しました。仕事で岐路に立っていた私に、彼女は泣きながら「私の旦那のようにならないで、もう大切なひとをなくしたくない。」と言われ、ハワイの海で2人で大泣きしました。 そして改めて自分が疲れきっていることに気づきました。そして2020年彼女との約束を実現するため、ずっと夢だった、ハワイ島での長期滞在を実現しました。 予定を立てず、朝起きて自分がしたいことをする。気がつくと、毎日、毎日海でイルカと泳いで過ごしました。 これまでも毎年ハワイに来ていましたが、この時の滞在は特別でした。いつのまにか、日々の仕事や立場を気にするあまり、自分に正直でいることが難しくなっていたことに気が付きました。 ハワイの長期滞在を通じて、もう一度海外で暮らすことを目指す決意をしました。海外で人を探しているという卒業生の方や、お知り合いがいらっしゃったらぜひご連絡ください。 どんなときも私を支え続けてくれたのは、アメリカ生活で培った英語、コミュニケーション力でした。いくつになっても、何度でもチャレンジできる、それを教えてくれたのも、アメリカでの生活があったからだと思っています。 もしも今、コロナや色々な事情でやりたいことを諦めそうになっている方がいらっしゃったら、希望を持ちづけて欲しいと思います。これからまた、海外への扉も再び開かれていくはずです。私自身も、これから自分には何ができるか、一人でも多くのかたが豊かに自分らしく生きていくためのお手伝いをライフワークにしていきたいと考えています。 TIUはとてもユニークな大学です。ASPプログラムをはじめ、早い段階から海外で学位を取得できる制度があり、自分さえやりたいと思えば色々なことに挑戦できる大学です。卒業生も色々なところで活躍していらっしゃいます。卒業後四半世紀が過ぎた今でも、仕事やプライベートを通じて知り合った方が偶然TIUやWillamette大学の卒業生だったことが何度もありました。長い間この制度を支え続けてくださった先生方や、職員の皆さんに感謝いたします。また、今回このような機会をいただいた大先輩の島田さん、落合さん、自分の半生を振り返る大変貴重な機会となりました、ありがとうございました。 (藤原直美さんプロフィール) 神奈川県出身 1991年東京国際大学 商学部経営情報学科 入学 1992年TIUA (現ASP)(アメリカ・オレゴン州)1年間留学 1996年ウィラメット大学 経済学部卒業 1997年通信会社 入社 2006年同アメリカ カリフォルニア州 サンノゼオフィス勤務 2008年帰国 2008年同東京本社 インドネシア、マレーシア、シンガポール担当 2017年より インド担当 2022年東京在住 (資格等) 全米ヨガアライアンス 200 RYTヨガインストラクター資格 リストラティブヨガ 指導者資格 ヨガと精神疾患 マインドフルネスワークショップ、マインドフルネスキャリア YouTube ハワイと御蔵島のイルカの映像 https://www.youtube.com/channel/UCkJZlag_smi2-aDiSrsjMyQ TIU 霞会シンガポール支部... Read more...日本人初の熱気球世界チャンピオン、再び大空へ 藤田昌彦さん(1978年卒業 商学部10期 米田ゼミ)2022年1月21日藤田昌彦さんは国際商科大学(現東京国際大学)3年の時に熱気球を手作りされ、熱気球競技では1989年、2000年と2回の日本選手権優勝、熱気球ホンダグランプリ3連覇、熱気球ワールドホンダグランプリ優勝、日本人初のワールドエアゲームス金メダルなどの成績を上げられ、日本熱気球界で「世界の藤田」と呼ばれる存在となられています。 また冒険飛行にも挑戦され、1992年には日本人初・世界初の熱気球によるベーリング海峡横断飛行に成功。2011年にはキリマンジャロ横断フライトに世界で初めて成功。2013年にはアルプス山脈を約400キロにわたって横断するロングフライトも果たされています。 現在は、熱気球競技選手、冒険家。熱気球の販売・レンタル及び熱気球を用いた広告宣伝の企画運営等を行う有限会社バルーンカンパニーの代表取締役。 やるからには”熱気球で世界の頂点に立つ、世界チャンピオンになる” 草野球が大リーグに勝つようなものだ、そんなの出来るわけがない、バカげた挑戦だ。誰もがそう思った。 “グオウーゴウー”夜明けの静寂を引き裂くようなバーナーの轟音が響き渡る。もう一焚きで僕らは空中へ解き放たれる。どこへ行くかって?野暮なことを聞くな。風に吹かれてどこ行くが分かりゃしない。だから、どっち行ってもいいように、広ーい広い場所の真ん中から飛ぶ、そしてどこかへ降りる。国際商科大学(現東京国際大学)3年の約1年間をかけて、他大学の仲間とチームを組み自分達で熱気球を手作りした。自分達で作った気球で大空を飛ぶ。こんなエキサイティングなことは大学時代にしか出来ない。 約1年間を費やし、球皮(気球本体)、ゴンドラ、バーナーが完成した。見よう見まねのフライトは毎回が冒険だった。毎回命がけだった。現在のように、風を測り、高度による方向の違う風を利用して自分の行きたい場所へ行くなど、考えも及ばぬことだった。どこ行くか分からないが風まかせにただ飛んでどこかへ降りる、それが楽しくてしょうがなかった。就職活動もせずのめり込んだ。 卒業後は実家の仕事の手伝いとバイトで金をため、憧れのアメリカへ修行を目的に渡った。アメリカは世界一の熱気球大国だ。肌で感じるアメリカの革新的な熱気球事情は若かった私に強烈なインパクトを与えた。1年ほどして、その自作した気球をもって後輩達が卒業旅行へ来ることになった。カルフォルニアで飛んだあと、世界一の熱気球大会があるアルバカーキへ行くためダッジバンを借り機材を積み込み、駐車し、部屋に戻り準備をしているわずかな時間にそれは起きた。バンを見に行った友人が血相を変えてもどった。「バンがない」そんな馬鹿な!そこには割れたガラスの破片が散らばっているだけだった。あんなに苦労して作った気球が跡形もなく消え去った。打ちのめされた。アメリカという国の贖えない洗礼を受け、完全に叩き潰された。後輩の中に、僕をなぐさめてくれた女性がいた。それが今の女房となる。 アメリカから帰国後、結婚してバルーンカンパニーを設立 帰国後、結婚してバルーンカンパニーを起こした。イベント会社に自作気球を数機販売した。1年で300万円を貯め、仕事を整理し、女房の夢であった世界旅行へ旅立った。中国からシベリア鉄道でモスクワ、東ヨーロッパ、トルコ、ギリシャ、エジプト、ドイツを起点にヨーロッパを周り、イギリスからアメリカへ。アメリカで妊娠が分かり約1年の旅を終えて帰国。30歳。 ヨーロッパの気球の歴史は長い。多くの気球乗り達に会い刺激を受けた。親子4代気球乗りには大いに感銘を受けた。スペインの立ち上げたばかりの気球メーカーとも出くわした。この出会いが後に人生の大きな礎となる。帰国後、日本の総代理店契約を結び、これが世界第1号だった。今や世界トップの熱気球メーカーと成長した。 このころから、日本にも気球競技が少しずつ浸透し始めてきた。気球大会も北海道以外、佐賀やその他の地域でも開催されるようになって来た。日本選手権も毎年開催されるようになって来た。世界選手権にも日本の代表を派遣し始めた。結果は散々だった。 日本のレべルは、当然まだまだ世界と戦えるレベルではなかった。日本のトップでもフライト時間は100時間程度、かたや、1000時間を超すツワモノ揃いの欧米勢に太刀打ちできるわけがなかった。経験値が違い過ぎた。それでも、同じ人間がやること、敵は怪物ではない、俺にだってできるはずだ。やるからには世界チャンピオンになる。周りからはたわ言に捉えられた。出来る訳がない、草野球レベルが大リーグに勝てるとでも思ってるのか?めげなかった。世界との溝を埋めるには、日本で飛んでてもだめだ、世界に出て世界レベルと戦う力を付けなければ勝てない。それには資金がいる。スポンサーを真剣に探した。簡単には見つからない。自分の分身のような子供が生まれ、何としても家族を幸せにする。それがモティベーションを強くした。ラッキーが訪れた。 自己鍛錬、企業教育等のプログラムを販売する、モティベーションを日本に広めたPJMジャパンとスポンサー契約が成立したのだ。有田代表がマイナーな熱気球の世界チャンピオンになる夢を応援してくれたのだ。それからは年に2回世界の大会に参戦した。出来る限り濃い練習をした。通常の1時間を、その3倍の内容で練習した。 33歳、初出場の日本選手権で優勝した。2年後の世界選手権出場初出場の権利を得た。翌年のプレ大会2位となり舞い上がった、世界チャンピオンはもう直ぐと過信した。甘かった。本戦はミスが重なり100機中の50位台。この悔しさをバネにした。 日本では世界標準の競技を取り入れた、年間5戦を日本各地で戦い、総合成績で王者を決めるグランプリ戦がスタートした。いきなり3連覇した。あまりに勝ちすぎるのでハンディーを付けられた。 ハンディーなど関係なく優勝した。グランプリ戦は日本の競技レベルを世界へ近づけていった。グランプリ戦は今年で30回を迎えた。その内の20回の優勝を2人のパイロットが成し遂げた。私と息子である。私は競技の第一線は引退したが、息子はまだまだ勝ち続けるだろう。 2001年に念願の世界チャンピオンになった。 2000年、競技人生でピークを迎えた。日本選手権、日本グランプはもちろん、世界グランプリで日本人初優勝、日本グランプリ最終戦佐賀インターナショナルバルーンフェスタ優勝、世界グランプリ(アメリカ、ヨーロッパ、日本で3戦)最終戦茂木優勝。世界歴代1位の賞金王になった。 そして遂に、2001年念願の世界チャンピオンになった。スペインのワールドエアゲーム(航空スポーツのオリンピック)で気球部門金メダルを獲得した。 「世界の藤田」と呼ばれる存在となる。 1989年、2000年と2回の日本選手権優勝、熱気球ホンダグランプリ3連覇、熱気球ワールドホンダグランプリ優勝、日本人初のワールドエアゲームス金メダルなどの成績を上げ、日本熱気球界で「世界の藤田」と呼ばれる存在となる。飛行経験のある国は35か国に上る。 また競技と並行して冒険飛行にも挑戦し、1992年には日本初の宇宙飛行経験者である秋山豊寛さんを同乗させて世界初の熱気球によるベーリング海峡横断飛行に成功。2011年には複数機の熱気球によるキリマンジャロ横断フライトに世界で初めて成功した。2013年にはアルプス山脈を約400キロにわたって横断するロングフライトも果たしている。 (2013年、イタリア、オーストリア、スイスとアルプス山脈を約400キロにわたって 横断するロングフライトを果たす) 競技分野で2001年財団法人日本航空協会「航空スポーツ賞」、日本気球連盟「イカロス賞」を受賞。冒険家として2015年にファウスト冒険家賞を息子雄大と共に受賞しました。 (私の主な大会記録) 日本選手権優勝2回(1989、2000) 日本ホンダグランプリ総合優勝8回(1993~1995、1997、1998、2000、2001、2005) ワールドエアゲームス熱気球部門金メダル(2001) 1988年 オーストリア建国100周年大会3位 1992年 スペイングランプリ部門優勝、中国インターナショナル部門優勝 1994年 スイス・シャトーデー(アルプス越え) 部門優勝 1995年 フィリピンインターナショナル3連覇(~97年) 1997年 韓国インターナショナル優勝 2000年 ホンダワールドグランプリ優勝 2004年 熱気球世界選手権(オーストラリア)5位入賞 2006年 熱気球世界選手権(日本)9位入賞 息子の藤田雄大が日本選手権を史上最年少の21歳で制するなど優勝7回。さらに2014年の世界選手権では、アジア人パイロットとして初優勝を飾った。 世界の大会に参加するたびに息子もクルーとして、学校を休んで連れて行った。バーナーに背が届くようになった中学生から操縦を覚えさせた。その甲斐あり、海外大会で外人相手でも物おじしない、堂々と戦えるようになった。2014年ブラジルの世界選手権で2世パイロットとして世界初の優勝をした。 『翔べ、フジタ 熱気球世界チャンピオン 再び大空へ』が放映される “番組は、競技者の一人・藤田雄大選手(34)に9カ月間に及ぶ独占密着取材を敢行した。熱気球競技界のレジェンドを父に持つ藤田は「母親のお腹の中にいるときから気球に乗っていた」まさに“気球の申し子”。日本選手権を史上最年少の21歳で制するなど優勝7回。さらに2014年の世界選手権では、アジア人パイロットとして初優勝を飾った熱気球競技の世界的アイコンだ。”(テレQホームページより) 私は12年のブランク後、2021年最高齢パイロット65歳としてグランプリ戦に復活 20年間の競技人生で、世界の大会で数々の優勝をしてきました。第一線を退いた後は息子のチーフクルーとしてサポートし世界チャンピオンに育てました。息子は結婚を機に独立し、私は12年のブランク後、最高年齢パイロットでグランプリ戦に復活しました。年間ランキング6位入賞。 ブランク明けにしては上出来。シード権を得たので今年度もあまり気張らず参戦します。現在は、熱気球競技選手、冒険家。熱気球の販売・レンタル及び熱気球を用いた広告宣伝の企画運営等を行う有限会社バルーンカンパニーの代表取締役を務めています。 (熱気球を用いたイベント運営) (2005年竜虎万博にて)イベント 愛知万博オープニングイベント 龍虎型熱気球をショーとして演出。 スペインイベリア万博、日本館オープニングイベントで龍虎バルーンを会場に舞い降ろした。 山本寛斎元気プロジェクトで、東京ドームで初めて巨大なクジラ船バルーンを掲揚した。 今年は東京オリンピックのイベントで、東京のど真ん中で巨大な顔を出現させた。 (熱気球体験フライト) (係留フライト) (藤田昌彦さんのプロフィール) 東京都出身 東京都立松原高等学校卒 1978年3月 国際商科大学(現東京国際大学)卒業 商学部/10期 米田ゼミ 大学卒業後は熱気球競技の盛んなアメリカに一年間渡り、技術を磨く。 1989年、2000年と2回の日本選手権優勝、熱気球ホンダグランプリ3連覇、熱気球ワールドホンダグランプリ優勝、日本人初のワールドエアゲームス金メダルなどの成績を上げ日本熱気球界で「世界の藤田」と呼ばれる存在となる。 冒険飛行にも挑戦し、1992年に日本初・世界初の熱気球によるベーリング海峡横断飛行に成功。2011年にキリマンジャロ横断フライトに世界で初めて成功。2013年にはアルプス山脈を約400キロにわたって横断するロングフライトも果たす。 現在は熱気球競技選手、冒険家。熱気球の販売・レンタル及び熱気球を用いた広告宣伝の企画運営等を行う有限会社バルーンカンパニーの代表取締役。 有限会社 バルーンカンパニー 住所:〒329-0101 栃木県下都賀郡野木町友沼5488-11 電話:0280-55-1238 FAX :0280-55-1525 設立:1988年3月 ホームページ:https://www.balcomjp.com Facebook:熱気球の会社Balloon Company TIU 霞会シンガポール支部... Read more...平社員から社長へ、そして会社をジャスダック株式上場を果たすまで。 中村繁貴さん(1999年人間社会学部卒業 金子和夫ゼミ スキューバダイビング愛好会)2022年1月4日中村繁貴さんは東京国際大学人間社会学部福祉心理学科を1999年3月に卒業。その後1年間バックパッカーで海外旅行をされた空白の期間があったそうですが、人間社会学部で学んだ「高齢者の孤独死」という社会課題を解決したい想いからIT業界へ参入。株式会社テンダの平社員からスタートされ、29歳で取締役、COO, CTO、関連会社社長などを経られて、2018年には代表取締役社長に就任されました。そして2021年6月に株式会社テンダをジャスダックに上場されました。「これまでIT業界や経営者としての苦悩や課題など多かったが、次はプライム市場でもう一度鐘を鳴らせるようにやれることを精一杯頑張って行きます」と打鐘会の際に述べられています。 私が社長を務める株式会社テンダが、2021年6月10日に念願の上場を果たしました。 2021年11月に緊急事態宣言の影響で中止になっていた株式上場式典(セレモニー・打鐘会)が再開されたため、鐘を鳴らしに行ってきました。 今後も浮かれることなくまずやれることを精一杯行って、プライム市場でもう一度鐘を鳴らせるよう、皆様のご支援を賜りながら更なる繁栄を目指して参ります。 私はテンダの創業メンバーではなく、平社員からキャリアをスタートしました。20年以上在籍して今、社長という立場で上場を経験しました。周囲を見回してみると、「案外マイノリティなのだな」と思います。テンダは会長と私で「両代表」という経営体制をとっていますし、それも珍しいことのひとつかもしれません。知人に、「リアル島耕作」と表現されたことがあります。笑 せっかくの機会なので、ここまできた思考回路や、今まで周囲から投げられていた疑問を一つずつ詳らかにしていきたいと思います。 自己紹介は、平凡でマイペース まずは、簡単な自己紹介から。 停学も受けるようなごく平凡の高校生が、平凡に大学受験をして、4年で卒業します。「いきなり端折りすぎだろ!」と思われるかもしれませんが、本当に平凡です。 気にしたことはないですが、母校の東京国際大学は所謂新設大学で、当時は知名度も低く、一般的には入りやすい大学という位置付けみたいでした。これも平凡。 学生時代はバックパッカーをしながら、心理学と福祉学を専攻していました。 卒業後の進路は一応考えていました。大学院へ行って将来は臨床心理士になるかなぁとか、学士受験して医学部で脳科学を学びたいなとか。専門学校に行って理学療法士になるか・・・進路はどれも就職ではなく、大学院や専門大学の進学を考えていましたね・・・要するに社会人になり働くことから逃げていたのだと思います。 (学生時代の同級生と) 結局進学もせず、すぐに就職もせず、海外に少し行ったりして、浮遊していました。1年ブランクが空いたあと、「何をしたいのか」自問自答してみると・・・ そういえば社会課題に違和感と疑問を抱いていた、と思い出すことができました。 大学時代、一人暮らし高齢者の実態調査をしている中、「高齢者の孤独死」という現実に触れました。すごく感じたのを覚えています。違和を・・・。この違和感を自分が学んだ心理学や福祉学で解決しよう!・・と、最初は考えていたはずです。 リアル島耕作? 平社員から上場会社の社長へ当時はITバブルの波が何度か来ていて、片やワンクリックで世界80億人と繋がれると言われ、しかし目の前では高度経済成長期を支えてくださった人生とビジネスの先輩が誰とも人間関係が繋がっていなく、気づかれず孤独死を迎えることもある。そこに違和感があって、納得がいかなくて、人と人がもっと豊かに繋がり合う世界を創造したいと考えていました。 ITについても実はよく分かっていませんでした。でも、何となく、社会はITの力で精神的にも、経済的にも、もっと豊かにできると信じてIT業界に飛び込みました。 そうです。ただ「詳しいことはよくわからないけれど、ITを通じて人と人がもっと繋がり、豊かな社会造りが実現できる!」と信じていただけなのです。それは2000年のことでした。 心理学では情報処理を少しだけ学びましたが、プログラミングはド素人。黒い画面に表示される、数字とアルファベットの羅列を見て1日で会社を辞めようと思ったほど、拒否反応が発動していました。実際、同期の中で成績も一番悪かったです。 これだけ自分の性格が向いていない世界でここまで頑張れた理由は、これだけ不向きな仕事で結果を残せたら自信に繋がるだろうという謎の負けず嫌いの逆転発想があったからです。自分の中でも「3年以内に上位10%に入るだけの付加価値を出す」などという中期計画を立てて、それに向かい努力してみることになります。長期計画も立てました。「35歳くらいまでには経営に関わろう」というものです。 結果的には2006年、想定より5年ほど早い29歳の終わりに、取締役に就任しました。その後は、いわゆるCOO(最高執行責任者)、CTO(最高技術責任者)のような立場をしつつ、M&Aを行った会社など関連会社の社長などを経て、2018年にテンダの代表取締役社長に就任しました。そして、(大分ショートカットしてしまいましたが)2021年ジャスダック株式上場という運びになります。はい。一旦、ここまで。 軽くこのような経歴だけ聞くと、「リアル島耕作」となるようです。 (2021年11月 株式上場式典 セレモニー・打鐘会) 現実は漫画のようにカッコよくは過ぎてくれない。私自身、優秀でもないし、ピカピカなキャリアがある訳でもないし、素敵なモテイベントもないです。軽く流してしまいましたが、経営に参画してからは、山あり谷あり、紆余曲折だらけでした。 急に経営の一角になったので、急いで経営学を独学で学びましたが、実務で精一杯でしたし、何よりも未熟な経営者だったのですから、仲間や、お客様、パートナーに大きく迷惑をかけることも多数ありました。 苦悩も課題も多い、凡人の私ですから、絶望に打ちひしがれ、多くの失敗や絶望、苦しみからメンタルとフィジカルのバランスを崩したこともあります。そんな私がここまでやって来られたのは、結局は多かれ少なかれ私に関わってくれたすべての人のお陰です。 私、中村繁貴への「よくある質問」 今は若い経営者が多いですし、大学在学中から起業をする人、就活せずに起業家を目指す人が大勢います。一部の積極的で能力に溢れた人がいる一方で、漠然とした未来に期待が持てない人も、何をしたらいいのかわからないという人もいるでしょう。「よくある質問」の答えは、そういった人たちに少しでもヒントになるかもしれないな、とちょっと思っています。 「よくある質問」の答え合わせをしたいと思います。 IT業界なのになぜ転職しなかったのですか? → 今いる環境で必要としてくれている人がいて、それに報いることが先と思ったから。そもそもテンダでやりたいことがいっぱいあったから。 ※あと、ただの負けず嫌いです。 引き抜きとかなかったの? → ありました。ありがたいことに、めちゃくちゃ好条件の時も。でも、①に近いというか、一緒にやってきた仲間とかこのメンバーでまず結果を出す方が先と思いました。※あと、いくつかは好条件すぎてビビっていたのかも知れません。 起業しないの? → 考えたことはあります。しかし、「起業」自体は社会貢献するための手段の1つでしかなくて、起業が良いとか、悪いとか、勤めることが良いとか、悪いとか、それはビジョンやステージによって異なるかなと思います。フリーでも、起業しても、多くのステークホルダーとさまざま関わることには変わらないし、支えていただけることも変わらないと思っています。 上場した会社の社長になれば? → 上場に関心があるのであれば、上場企業の社長になればよかったのではないかと言われることもあります。但し、私の場合は特に上場企業の社長になりたかったわけではなくて、今いる組織やサービスをより多くの人に届けるための手段としての上場と考えていましたし、できることなら上場自体を自分が社長の立場で実現、経験したいと思っていました。 ※あとは、社長として上場を経験するチャレンジの重要性も感じていたのかも知れません。上場というステージがある状態も大切ですが、そのステージまで会社やサービスを創り上げるプロセスの重要さを感じていました。 雇われ社長はメリットないよ? → そんなことはないです。オーナーCEOという大きな存在がいてもらえるから、No2としてCOOとして力を発揮できることも大いにあります。個人的に、経営はアートだと思っています。たいていの経営者はアーティストです。雇われている社長かどうかは、自己表現をするアートの手段の1つでしかありません。起業して、自由度が増すことは多くあると思いますが、結局株主がいて、ステークホルダーがいる中で、自己表現をする手段としては同じだと思っています。 ※この「経営はアート」部分、少しややこしいので興味のある方がいらっしゃるようでしたら、別で気が向いたら書かせていただきます。 このような至らない私ではありますが、少しでも関わってくださった方々の努力の積み重ねのお陰で、今があると心から感謝しています。 特に、今はテンダを卒業されたメンバーも含めた社員のみんな、お客様、家族や友人も含めたパートナー、株主の皆様のご支援があってのことと痛切に感じています。 このようなご支援の元、上場してスタートを切りました。 本当に感謝してもしきれません。 (日経CNBC「IPO社長に聞く」でのインタビュー) 社長に就任して、目標に掲げたこと 2018年9月に社長に就任してから、企業理念を変更し、「テンダの存在理由=Mission」「イメージする未来の姿=Vision」そして「組織としての行動規範=Value」を企業理念に掲げました。Missionは「人と社会を豊かにする」、Visionは「ITサービスで人と社会の価値を創出する」になります。そしてValueは、「AIとクラウドでワークスタイル変革を目指す」としました。こうした企業理念を打ち出したことで、企業として目指していく方向が明確になったと思っています。 人とITのコラボレーションで社会貢献を 株式会社テンダのホームページでは次のような企業情報や事業内容などを紹介しています。「ITサービスで人と社会の価値を創出する」というビジョン実現に向けて、企業スローガンである「SHINKA経営」の実践により、ワークスタイル変革ソリューションとデジタルトランスフォーメーション(DX)を通じて、働く時間の効率化や充実、人々の余暇の充実に貢献し、人と社会に豊かさを提供します。 株式上場という新しいステージに立ち、チャレンジさせてもらえることを心から嬉しく思っています。これからも、初心を忘れず、社会や責任と向き合って付加価値の向上による社会貢献に努めて参ります。いま私にできること。それに邁進します。 皆様のご支援のほど何卒よろしくお願いいたします。 テンダは創業以来「ホワイトカラーの業務効率化」を目指し、製品/サービスの開発やエンジニアリングの提供を行ってきました。業務内容としましては、次の3つの事業です。 ≪ビジネスプロダクト事業≫ 累計導入企業が2,600社を超える『Dojo』(ドージョー)をはじめとした、「ホワイトカラーの業務効率化」を目的としたサービスを提供しています。企画はもちろん、開発やマーケティング、カスタマーサポートなどすべてを自社で行うなど、お客さまの声を反映しやすい体制を構築しています。 ≪ITソリューション事業≫ 1,000件以上の実績のある、企画から保守・運用、技術者支援まで一貫したソリューションを提供しています。自社で開発したCMSやWebクローラーなど、お客さまの課題解決に役立つツールがあることも特長です。 ≪ゲームコンテンツ事業≫ 2001年よりゲーム開発に携わってきた長い経験と実績がテンダにはあります。ソーシャルゲームに係るすべてを内製できるパワーで、ゲームに関わるすべての方に持続的な幸せをお届けできるよう取り組み続けています。 仕事をするなら楽しいほうがいい 「私の専攻はもともと心理学や高齢者福祉学で、メンタルヘルスや孤独死についての研究をしていました。その経験により、鬱病の撲滅などを目指してTEんWAをつくったのが始まりです。仕事をするなら楽しいほうがいい。そんな思いで開発しました。離職率を下げたり、隠れた人財を発掘したり、人に〝気づき〟を与えるためのコミュニケーション・プラットフォームとしてTEんWAを活用してほしいと思っています」 コミュニケーションを分析すると企業の姿が見えてくる 「TEんWAを導入すれば、コミュニケーション頻度と売り上げの伸びが正比例していることがわかります。一番大きなメリットは、TEんWAが社員の個人情報データを単に管理するのではなく、集約させることで社内のコミュニケーションを活性化させ、効果的な人間関係を構築したり、気づきを与えたりすることができることです。だからこそ、最適な人事の掛け合わせや採用についても大きな効果を発揮できるのです」 AI時代に生きる人をサポートする もう一つテンダが注力するサービスが、「Dojo(ドージョー)」です。こちらはマニュアル自動作成ツールでサービスを開始して10年目。東証上場企業の約30%が導入するなど、その実績は2400社以上と圧倒的なシェアを誇っています。09年には第21回中小企業優秀新技術・新製品賞ソフトウエア部門の優秀賞を受賞しています。 この「Dojo」の特長は、各種マニュアルや教育コンテンツの作成を飛躍的に効率化させることにあります。実際、マニュアル作成の工程数を最大98%削減し、大幅な時短とコスト削減を実現。さらに研修マニュアルなどをデジタルコンテンツ化して、各人が好きな時間にPCやスマホで学習することができる、いわばeラーニングできるようにすることで研修開催のような煩雑な調整を省くことを可能にしました。そして、コールセンターなどのオペレーター教育でも、現場実務に即したスタッフ教育の仕組みづくりに役立つということです。 (システム操作ナビゲーション「Dojoナビ」(旧名称「Dojo Sero) が「中小企業基盤整備機構理事長賞」を受賞) 同窓生へのメッセージ 現在のキャリアは、学生時代に感じた違和感と課題意識から生まれたものです。 大学生というタイミングにおいて講義だけでなく、様々なことを学び経験したことが糧となっており、母校に大変感謝しています。 ビジネスの世界に足を踏み入れたあとも、同窓生とお会いする機会が増えておりとてもうれしく思っています。採用において当社を志望いただける方や、大手外資系IT企業の幹部、最近では上場企業の社長にも同窓生がいらっしゃることも経験しました。同窓生とお会いできる際には不思議と感情移入することが多くあります。 お世話になった母校や、同じ環境で学びと経験を得た同窓生に、なにか少しでも恩返しができればと日々思っています。同窓生の皆さまもなにかのご縁かと思いますので、平凡な奴だけど同窓生にがんばっている人がいるんだな程度でも、お見知りおきいただけますと嬉しいです。今後ともよろしくお願いいたします。 (上記の文章は次の掲載記事などからも一部抜粋しております) クラウド Watch : https://cloud.watch.impress.co.jp/docs/interview/1197368.html 東洋経済 On Line : https://toyokeizai.net/articles/-/222460 (中村繫貴さんプロフィール) 東京都出身駿台学園高校卒業 1999年3月東京国際大学 人間社会学部福祉心理学科卒業 金子和夫ゼミ 2000年11月 株式会社テンダ 入社 2006年5月 株式会社テンダ 取締役 2007年1月 北京天達楽恵軟件有限公司 監事 2008年6月 ユニファイジャパン株式会社 取締役 2011年6月 北京天達楽恵軟件有限公司(中国) 董事 2011年8月 株式会社テンダ 常務取締役 2011年10月 株式会社テンダホールディングス 取締役 2013年10月 大連天達科技有限公司(中国) 董事(現任) 2015年6月 ユニファイジャパン株式会社 代表取締役 2016年6月 株式会社テンダ 専務取締役 2017年8月 株式会社テンダ 取締役副社長 2018年8月 株式会社テンダ 代表取締役社長(現任) 2021年6月 株式会社テンダ ジャスダックに上場 株式会社テンダ ホームページ : https://www.tenda.co.jp/company/ 大連天達科技有限公司 ホームページ : https://www.dltenda.com/profile TIU 霞会シンガポール支部... Read more...『変なホテル』などロボットプロデュースの第一人者と言われ、成長する経営者としてこれまでやってきたこと。富田直美さん(東京国際大学 1972年卒業/4期 商学部 大久保ゼミ) 2021年11月19日富田直美さんは国際商科大学(現東京国際大学)創設時の4期生です。現在は 2016年にhapi-robo st (代表取締役社長)を立ち上げ、エイチ・アイ・エス取締役CIO、ハウステンボス取締役CTOとしてエイチ・アイ・エスグループのテクノロジー全般を統括 されています。 これまで外資系IT企業の日本法人社長など11社の経営にも携わり、(財)日本総合研究所理事、社会開発研究センター理事、アジア太平洋地域ラジコンカー協会初代会長等を歴任。多摩大学の客員教授。考える塾である“富田考力塾”を全国的に展開中。ラジコンはプロレベル。ドローンによる空撮もプロとして活躍中。成長する経営者としてこれまでやってこられたことなど、‘富田流‘の話をお伺いしました。 富田さんは「変なホテル」をはじめ、ロボットプロデュースの第一人者と言われ、イノベーションを先導されていますね。 ロボットに関する興味は日本のBaby Boomer世代と大きく変わるわけではありません。戦後の復興、高度成長時代にロボットは夢であり、鉄人28号(無線操縦ロボット)鉄腕アトム(人口知能をもったアンドロイド)そしてドラエモン・・・・がロボットに対する我々の未来の夢を形成したのではと思います。でも現実は、遅くて巨大な大型コンピューター、そしてワープロ、そして工場のラインでは、テレビ、オーディオ、等々の真空管からトランジスタ、正に省電力で小型化が進み、更にLSI そして高度なチップ化と工業化と合理化された製造工程の中に、作業用のロボットがはいってきました。 特にB to CでもB to Bでも共通な大量で高額な売上を上げる事ができる、自動車産業では著しい産業用ロボット、主に組み立てラインでの人の手の代用するロボットが開発され改善され、日本の自動車産業の隆盛と共に、Factory Automation における省人化と高度化に大いに貢献する。20世紀後半に入り、全ては生産性と多様性の為の発展をしてきました。 電話も有線の電話から、無線の電話へ、その過程で、更に多くのIT関係のコンピューターや、チップ、メモリー等々の半導体産業からのIT部品が製造され、半導体の記憶素子(メモリー)の世界的競争の中でも日本が世界のトップレベルの生産国、消費国ともなりましたが、肝心かなめの論理チップであるCPUにては米国のINTEL社の完全一人勝となったわけです。 (「変なホテル」のロボット・チェックインカウンター)(ハピロボ、パーソナルロボット temi /テミ) 東京国際大学(当時の国際商科大学ICC)を選ばれたきっかけと最初のお仕事は? 実は私は学歴で差別化される一流企業には就職する気持ちが全くなく、実力で評価される企業を選んだのです。 当時の大学(国際商科大学ICC)は私達が入ってようやく1年~4年までが揃った段階で、新しいキャンパスが裸のグランドの中にあり、郊外型の団地である角栄団地の横にある、そんな呑気な場所に受験失敗をした人が行き場を求めて来てた感じでしたが、一流大学を目指していた人と、少人数によるチュートリアル教育と創始者であり予備校である一橋学院を創業された金子学長が如水会(一橋大学のOB会)をバックでの、新企業人(アントレプレナー?!)を育成するとの志に救われた学生も存在しておりました。 一期生の就職が決まり出し、本当に金子学長と如水会の応援があってだと思いますが、成績優秀な先輩が、大手銀行、大手商社、大手メーカー等々への就職が決まって行く様を見て、ICCのような新設校であっても、しっかりと勉学に励む事で、一流大学を落ちた自分でも未来が開けると信じる事ができました。 なので、私も英検、商業英語検定、等々の資格取得と大学の授業での成績に拘る事ができました。Pre就活の始まりです。そんな中で、成績優秀?(ウイラメット大学のサマーセッションの補助金取得)な私には第一志望の大手商社への道も開けるのだと考えておりました。ところが考えてもいなかった大手広告代理店(学監のネットワーク)への早期就職内定の話もありましたが、貿易コースの私は大手商社を考えておりましたが、当時の親友がその大手商社を希望していたので、私は全く異なる選択をする決定をしました。それは一流企業には行かない・・・・でした。 ≪Why ? 一流には行かない≫ 私はこう考えました。一流大学を目指し、2浪までして、結局 ICCに拾われた自分が、いくら勉強したからと言って、凄い学歴にはならない。だとしたら一流企業に学長と如水会の力を得て入社できても、そこに集うエリート学歴の同期と出世競争をせざるを得ない。同じ実績をあげたとしても、ICCの先輩がいない私より、同窓の先輩が多く上司にいる人には勝負にならない。だとしたら実力で勝負できる、私の力?を必要としている企業にはいるべきだ。そうだ、一流ブランドを目指すのでなく、実力だけで勝負できる企業を選ぼう。 こんなわけで、たまたま学生時代(両親の居ない苦学生)アルバイトをしていた会社の側にある2部上場で躍進中の田村電機製作所(現在のサクサホールディングズ)に入りたいと考えました。元々ラジコン模型を趣味としており、電子、通信、オーディオ、メカトロニクスが大好きでしたので、その視点から優れたProduct Lineを持っている事と海外に対しての躍進が見え、更にはNTT(当時は電電公社)ファミリーの企業だったからです。 ≪凄い就活対応!?≫ 残念ながらこの企業は大学の推薦リストには載っておらず(恐らく上を目指すICCでは二部上場は対象外?)、就職課の方々にお手伝いいただける部分は殆どなく、自分での対応を余儀なくされました。NTTファミリーの会社ですと、家柄、家族構成も多少は就活に影響を与えると聞き及んでいましたので、両親が他界している私のハンディをカバーする秘策を考えました。 亡父が高校で教師をしており、その教え子には名家出身の方もおり、銅の最大手である同和鉱業五代目会長の猪瀬弁一郎会長ご子息がおり、紹介していただき、お会いしました。 正に縁故リクルートを考えたのです。 猪瀬会長にお会いすると私の思いをくみ取ってくださり、目の前で、電電公社(NTT)の秋草副総裁に電話をされ、直接お会いできる手配をしてくださいました。 後日 秋草副総裁に日比谷の本社の副総裁室でお目にかかると早速、田村電機の桑原専務(電電公社から出向した筆頭役員)に電話をされ、全てのアレンジを整える事ができ、入社試験を受けましたが、無事入社する事ができました。 ここでの学びは、志望大学の受験に失敗し、ブランドでなく実力を高めるしか出世の道が無いと考える仲間が居る大学で救われ、更にブランド就職をするのではなく、金子学長を含む、建学の精神に燃え世界基準の教育を実践する為に呼び集められた、チャレンジングな精鋭教授陣に触れた私や仲間が、実力勝負の選択をも辞さず行った事が、今の私を醸成してくれたとの事だと考えます。 (2010年から2年間、大学同窓会の副会長を歴任。講演・セミナー講師として) ≪就職後の私を私らしくしてくれた荒波≫ 田村電機に入社し、トップダウンのコネクションもあり、希望する海外営業(貿易)の部門に配属されると考えておりましたが、この会社にも学歴判断があり、貿易部門の採用はたったの一人、なんと上智大学の外国語学部の人間が配属、そして私は一番元気な国内営業部一課に配属になりました。 Why ???!!! それは貿易部は三井物産経由の御用部門であり、元気一杯な私をまずは活気のある民需(NTT対応は官需部門)部門で徹底的に営業として鍛え上げる意図があったのです。 国内営業で大好きなメカトロと電子の計測器(カウンター = 電話の度数や、テープレコーダーの録音位置、コピー機械の枚数管理)部門の営業で、それらの営業の中でも、一流の電気メーカー、海外の商社を対応する部門に配属されました。外資系の事務機メーカーからリクルートされた優秀な上司と先輩との商社営業とメーカーの海外部門への営業を担当し、国内営業と海外営業の両方のチャンスを得て、御用営業でない自由な新規ビジネスを開拓する仕事ができ、入社半年後には、民需部門でのルーキーとして注目されるようになっておりました。 今でこそ有名な会社になっておりますが、この当時、私の上司が攻めていたのが、三星電子、金星社、大宇電子・・・・・と言う韓国の財閥企業、そして香港にある華僑系、そしてSears(ユダヤ系、米国の大手Discount 通販&デパート)等々、更にはインド系の商社であり、日本のエリート商社の商流には入らない異世界の会社でした。そして 1年経った頃、インドの商社からLC(Letter of Credit)が届き、ナ・ナ・何とこの国内部門での輸出取引を行う事になったのです。 その間、松下電機、三洋電機、SONY等々の貿易部門との取引も行っており、正に、国内一流電気関連、アジア新興国での商社取引、そして米国のXerox(コピー機械用カウンター)の日本駐在事務所との取引も学び、更に田村電機の諸先輩の経験則でできないビジネスを凄い上司とともに、私の貿易実務の資格に磨きをかけながら行う事ができ、入社翌年には田村電機の創設者の実弟である田村常務のお供でアジア出張も行い、国内営業部に居ながらにして、更に米国でのCES(CE Show)への出張も行うようになりました。 ≪発展的転職≫ 入社数年で自分の理想的な居場所を見つける事ができ、同期入社を超えて若手のホープとしての地位を確実な?!ものとした私に、当時、このカウンターを利用し、ドイツで始まった勤務時間管理システムの少数精鋭部門の先輩を受け入れる事を指示されました。 Flex Timeシステムのプロジェクトチームです。私は係長寸前の立場、そこにプロジェクトチームの課長、係長が入って来る?? 彼らは新しい制度とシステムを開発し販売する組織ですが、なかなかFlex Timeシステムは営業数字を挙げる事ができない状況で、営業数字をトップレベルで上げていた私の係に合併した形です。 余談も含めて、今まで全く触れてなかった、大切な事実があります。それは当時、私はラジコン業界では若きレジェンド(笑)となっており、ラジコンメーカーのリーダーでもあったのです。 その事が私の営業を大きく支えてもいたのです?? 理由はラジコンの専門誌にしばしば登場する有名人であり、日本選手権のチャンピオンチームの若きリーダーである私を知っている、テープレコーダーのメカ(カセットテープレコーダーのメカ部分)には小型のテープカウンターが入っており、当時一番の得意先であり、世田谷の桜新町に本社を置く、タナシン電気(世界一のカセットテープレコーダーのメカメーカー)があり、そこの技術幹部の多くはラジコンマニアであり、私を頂点とするラジコンメーカーのクライアントでもあったのです。 そんな事もあり、世界的に需要が高まった、カセットテープレコーダ、デジタル時計(電子でなく、メカ式)等々の主要部品に使われる計数機(カウンター)、そして人々の勤務形態を自由解放する自由時間勤務システム(Flex Working Time System = FLEX TIME)等の若手のProfessionalとのポジションを得て、先に田村電機を辞めて、新進気鋭のコンサル企業に転職していた先輩に誘われ、コンサルタントとしての第二のビジネス人生を始める事になったのです。 そのコンサル企業が、世界中の先端テクノロジー、全く新しいマーケティングの手法、そして企業とプロダクトのブランディングを行う、もっとも先端諦な独立系コンサルティング企業と知る人は知るODS (Overseas Data Service)でした。 外資系IT企業の日本法人社長など11社の経営に長年携わってこられましたね。 ≪コンサル企業から実業の世界へブーメラン回帰?!≫ 外資系IT企業にお世話になる前の 8年間、前述のODSと言う、世界中の先端技術・手法を日本の高度成長期に世界中から持ち込んだ情報コンサル商社で私が担ったいくつかの貴重な経験を辿ってみます。 田村電機の最後での私の命運を決めるプロジェクトがシンガポール工場設立準備プロジェクトでした。当時高度成長の中で、日本から欧州への電気機器の輸出が輸入規制で問題になり始めており、Panasonic, Sanyo、等々の大手家電メーカーがOff Shore工場(海外工場を現地法人化)する流れがあり、田村電機の電気電子部品も現地生産する事で国内でのLost Businessを補う対応を私が提案しましたが、時機尚早との断がおり、私はこれ以上田村電機にお世話になる事を良しとせず、先輩に誘われるまま物売りから知財を売るコンサル仕事にチャレンジする事になったのです。 ≪ODSでの最初の仕事≫ 当時のODSは一見変人集団で、人員は30名弱。 スイスのバテル研究所の研究員をしていて、国立音大の創業者の子息である福井さん、世界的なCar Designをドイツフォードでしていた伊藤邦さん、ライフスタイル調査の主幹をしていた三浦さん、等々、と創業社長の山口峻宏とその仲間と言う、凄い知能集団でした。しかも、元々海外の先端技術文献を輸入する商社からスタートして、それらの技術を研究調査する海外のトップクラスのResearch Associate(調査研究機関)の200社以上の総代理権を保有しており、正に戦後から続く日本の近代工業化の元である、世界レベルの先端技術情報を基に調査コンサルを行う先端的企業でした。 田村電機で電気・電子・メカトロ・働き方改革等々をして来た私への期待は先端技術関連の調査コンサル事業領域を拡大する事でした。既にこれがODSでの屋台骨になっており、おりしも、New Media, On Line Data Base, 等々の今流に言えば、DX(Digital Transformation)の夜明け前夜であり、技術的に言えば、真空管からダイオード、トランジスタ、IC そして大規模集積回路であるLSI さらにそれらを更に効率よくパッケージ化するチップキャリア等々、の先端技術の黎明期でもありました。その後、New MediaがMulti Mediaに、On Line Data Baseがクラウドに・・・・・LSI Chip carrierがSoC(System On a Chip = IoT)にと変遷して行く未来を俯瞰できる、正に私の好奇心を丸裸にする部門のリーダーとして成長する事ができたのです。。 研究調査部門の後は、企業のブランディイングであるCI (Corporate Identity)でミノルタカメラのCI、そして世界No.1のIndustrial Designグループを日本へ紹介するうプロジェクトに従事もでき、ポルシェ、ルイジコラーニ、ハンスムートそしてアップルのデザインを担ったFrog Designの代表ハート・ムート・エスリンガー等々、世界の天才デザインナー&グループとの提携業務。さらには先端コンセプトをProductにするODS Tradingの設立責任者と、実に多くの事を実業の立ち上げで学ぶ事が出来ました。 中でも当時のマーケティングがDemographic(属性)データ主体に対して、Life Style(生き様)を中心とすべきとするヤンケロビッチ博士の手法Life Style Indicator(LSI)を展開し、多くのConsumerをターゲットとした企業の初期段階のデータマイイング&マーケティングに資する事が出来た事も大きかったです。 ≪コンサルから実業家に最初のIT 企業≫ 正に、私にとっての本物のOJT(On the Job Training)MBA教室となったODSでの役割の中で、最初のNew MediaとOn Line Data BaseのStudy予測で、1985年頃にはソフトウェアが成熟し、超小型のコンピューター(Hand Held Computer = HHC)が登場し、マルチメディアの時代が訪れるとの下りが登場しました。 更に、通信ネットワークのデジタル化が進むと私もコンサルタントとして語り始めた頃、そして工業デザインが単なる躯体(シャーシー)のカバーで無くなる時代がLSIによりリアルになるとデザインが人間工学(エルゴノミクス)やライフスタイルによって決定されるとの正にDXによる変革が起きると自覚した段階で、DXの中心となるソフトウェアの世界への好奇心が増大し、田村電機を卒業した他の大先輩からパソコンのソフトウェアの世界のBig 3の一つが日本法人のGM(General Manager = 法人社長)を探しているとの話があり、自分の好奇心を満たす天から降ってきたOpportunityと考え退社して、飛びつく事にしました。 当時のPCソフト業界のBig 3が ①Microsoft, ②Lotus, ③ Ashton Tate でありそのアシュトンテイトの日本法人の社長候補、但しまずは営業部長としてスタートし1年後に日本法人の社長となり、その後アジア大洋州の地域社長にもなるわけです。これを実業家と呼ぶには余りにも稚拙ですが、一応、日本法人の代表取締役社長ですので経営者になったのは確かです。(笑) 正にNECのPC88や98が寡占状態を占める伸びを示しており、パソコンで業務のアプリケーションを開発できるソフトウェアであるRDMS(Relational Database Management System)の世界①の会社のソフトはパソコン単体よりも高価格で、でも中小企業でも全ての取引のデータ管理、請求書、受注書、等々の管理を、パソコンで行えるソフトウェアは特に高度成長期の中小企業、更にはダウンサイジングが始まっていた大企業でも爆発的に売れ、私は日本だけでなく、アジア太平洋地域の統括社長、本社の副社長となり、4年後にアシュトンテイトが下位のボーランド社に吸収合併されるまで勤めあげ、IT業界でのいくつかの座長(日本パソコンソフトウェア協会理事、東芝ソフトウェア協議会会長、パソコンソフトウェア著作権協会副会長・・)をつとめる事になりました。 ≪私の今にも影響を与えた2番目の凄いIT企業≫ アシュトンテイトを離れた半年後、アシュトンテイトの吸収合併を仕掛けた、米国のVC(Venture Capitalist)の担当Associateである原丈人氏が、なんと私に世界No.1のテレビ会議システム会社であるPictureTelの設立されたばかりの日本法人の社長のポジションを持ってきてくれました。因みに、アシュトンテイトの時代にあの孫正義氏のソフトバンクはアシュトンテイトの一番の代理店であり、アシュトンテイトが吸収され私がその年の暮れに離職した年明けの1月1日の早朝6時に、出張先のニューヨークから、“富田さん、お仕事ご苦労様でした、今ニューヨークで別なデータベース企業の社長と会っているのだけど、直ぐにニューヨークに来れない”との電話を下さったのです。 その時の孫さんはまだ、日本のソフト流通のBig 3の一社であるソフトバンクの社長に過ぎなかったのですが、彼がパソコン単体へのソフトウェアから、企業LAN仕様の初のソフトウェアであるアシュトンテイトdBASE LAN販の日本での初の展開、パソコンが大企業の大型コンピューターや、ワークステーションに伍して使える新時代 = ダウンサイジングの道を開く凄い製品であった事も明記させていただきます。 さてそのピクチャーテルで以下の事を成し遂げる事ができました。 6人の日本法人を数年で50名のトップ企業に その後、アジア太平洋地域の社長として17の地域、200名のスタッフ、シンガポール開発センター設立。 NTTの世界初のデジタルネットワーク(N-ISDN)の普及の為の世界初のパソコン対応型テレビ会議システムをマイクロソフトWINDOWS 95上で実現するPhoenixプロジェクトを提案そして完成。 1996年にこのPhoenixを日本全国の小中学校1000校へ配り、この1000校への同時双方向配信をできるPhoenix通信網株式会社をNTTと共同で設立、そのシステムを世界に先駆けて納入、私も社外取締役に就任。 このシステムを使ったマルチメディア教育 “コネっとプラン”(子供のデジタルネットワークによる双方向教育)を小室哲哉氏の“You are the One”と言うキャンペーンソングの収益金で開始、その後2000年2月まで24回、ビル・ゲーツまで含むリアルタイム双方向の教育を成し遂げ、24万人の生徒が学校に居ながらにして、遠隔双方向教育を受ける事ができた。(*図1参照) 1999年、ジョンソン&ジョンソンと世界初の遠隔内視鏡手術システムを開発し、遠隔医療の先鞭をつけた。今盛んになったテレ・ワークは既にその時点で使える状態になり、デジタル化は日本が世界で断トツだった。 ピクチャーテルとシャープで先端のテレビ会議システム開発をするプロジェクトを開始し、その直後、私は ドットコム世界へ飛び込むべく、ピクチャーテルを辞める。 (*図1) ≪ドットコムピーク時の業界に転職、ドットコムバブル弾ける中での乱世へ≫ 2000年に孫正義氏がドットコムへの本格参入を発表し、彼が参考にしたと言われている米国の最大の投資インキュベーショングループである、ピクチャーテルと同じBoston地域にあるCMGIから誘われ、そのグループの最優良企業で、日本の住友商事と提携関係にあり日本法人(資本金30億)を設立済みのEngage社(世界トップのProfiling技術 = ネット上での人の行動から最適な広告バナーを瞬時に表示)の社長のポジションで引き受けました。 結果2年後、ネットバブル崩壊とともに退職し、その後IT関連の先端企業5社の日本法人社長を歴任(①Pulse社=全ての写真からAvatarを生成する世界No.1の技術保有、②Collabnet社=唯一無二のオープンソースソフト開発のプラットフォーマー、③Opsware社= Web管理の自動化ソリューション1、④ArcSight社 = 世界No.1の厳しいネットセキュリティ企業で米国国防総省 日本自衛隊使用、⑤Paralles社 = クラウドサービスの自動化とAppleでWindowsを使える仮想化技術)を短期間に歴任し、60歳の時から初めて知った世界一のセールスマンと言われ、米国一流企業のメンタリングを行い、日本でも著書が10冊翻訳されている世界的なメンターであるジェフリー・ギトマー氏の公認トレーナー資格を取得、多摩大学の客員教授として大学院大学での教鞭をとり始める事になりました。。 (パラレルス(株)の社長就任挨拶) ... Read more...「古民家現地再生:古民家移築再生」で、社会公共性の高いビジネスを全国に展開しています。 井上幸一さん 1984年 商学部卒業/16期 臼井ゼミ 剣道部 2021年11月5日学生時代は剣道部で全日本に出場。 愛媛から東京へのイメージで川越に大学進学しましたが、愛媛より自然豊富だった「的場」で、大都会東京のイメージとはかけ離れた「納屋の2階を借りて」の学生生活のスタートでした。小学2年生から剣道をやっていたので、迷わず剣道部へ。 それが地獄の始まりでした(笑)。こんなに、大学は上下関係が厳しいとは思いませんでした。体育会系の考え方「何事も『はい』か『YES』でまずはやる」という教育は、社会人になって結果的にはいい学びとなりました。4年生のときに、主将として全日本に出場できましたし楽しい充実した霞ヶ関キャンパスの4年間でした。(勉強した記憶はないです) (大学正門前にて) (剣道部メンバー) 松山青年会議所(JC)に入会したことが、劇的に人生を変えました。 卒業後、即家業であった材木屋入社。社長の息子として「なんとなく仕事していた」そんな感じでしたが、29歳で「松山青年会議所(JC)に入会」し、これが劇的に人生を変えました。「社会公共性が大事」を叩き込まれた、その卒業までの11年間でした。会員200名を超える松山JC理事長、愛媛ブロック長・四国協議会会長、日本JCにも出向し、海外での井戸掘りや学校建設など11回参加させて頂き、日本JCの役員も経験できました。この時の「多くの経験と多くの仲間」が今の私を支えることになるとは当時は考えもしなかったです。 その後、商工会議所青年部(YEG)でも「青年部会長」をさせて頂き「地域貢献活動はいっぱい」させて頂きました。そんな経験をさせてくれた会社に感謝しています。 (松山青年会議所(JC)海外研修) (セミナー講師として講演中) 不動産投資などが裏目に出て、木材業も時代に合わず右肩下がりに。 しかし気づいてみると会社は「火の車」。先代(父)の(32歳で社長に就任していました)不動産投資などが裏目に出て、木材業も時代に合わず右肩下がり・・・リフォームなどの新規事業にも取り組みましたが、社員50名を背負うのは大変でした。銀行の「晴れの日に傘を貸し、雨の日に傘を貸さない」を肌身で感じました。 このままでは倒産する。1、下請けに徹する。2、材木屋から不動産賃貸業になる。3、メーカーになる。この3つからの選択をしなければなりません。1は未来がない、2は面白くないと3を目指しました。誰もやっていない商品を扱うメーカーへ・・・「古材」を選択しました。2002年のことです。 時は資源、廃棄物などの分別回収・再資源化・再利用について定めた「リサイクル法」が施行された年です。今でこそ「古材は当たり前」になりましたが、その当時は「古材はゴミ」でした。戦前、木は貴重な資源として「再利用は当たり前」だったんです。 それを文献で読んで「環境の時代、社会公共性も高くこれはビジネスになる」と思いスタートしましたが、社員は「ゴミ屋さんは出来ない」と次々退社。一緒に働いていた会長であった父、常務であった弟も退社して、社員3名(妻も入れて)、借金19億円からのスタートとなりました。銀行は「債務を子会社に付け替えたり」でそう問題はなかったのですが、コツコツ借金を返しながらの40代でした。 新聞は「天声人語」、テレビは「カンブリア宮殿」「ガイアの夜明け」などで多数取り上げて頂き、「古材買取・販売ビジネス」を大きく伸ばすことができました。 しかし「捨てる神あれば、拾う神」もあるものです。環境に優しいビジネスとマスコミに次々取り上げられ、新聞は「天声人語」テレビは「カンブリア宮殿」「ガイアの夜明け」など多数取り上げて頂き、「古材買取・販売ビジネス」は大きく伸ばすことができました。 ひとりでトラックを走らせて「古材買取・古材販売」を全国駆け巡りました。その後、ビジネスが大きくなってきたので『フランチャイズ(FC)展開』に切り替えました。50店を超えた頃・・・「FC内グループ分裂」が起きました。あとで調べてみてわかったのですが「参入障壁なければすぐ真似される」のです。今考えれば当たり前のことですが、当時は気がつきませんでした。せっかく構築したFCも崩壊しまた苦難に陥りました。 (古民家再生作業) (現地で完成後の調査) 「ふるや・ふる家。民家」と言われ、古民家の言う言葉のない時代「古民家」という造語を創りました。古材は古民家から取り出されていたので「壊すのでなく活かすのもいいのではないか?」とヒラメキきました。今では当たり前なのですが、当時は大きな決断で「1981年以前の建物は耐震性がないので建て替えなきゃいけない」と言われた時代です。「古民家は耐震性のない危ない建築物」だったのです。 「それを残し、活かすことが出来るとビジネスになるはず」と私的資格として「古民家鑑定士」という資格制度を作り(今では延べ2万名弱の有資格者となりました)、国の仕組みも変えてもらわなきゃいけないので「古民家再生議員連盟」もつくってもらいました。 これらは「JC・YEG時代の人脈と経験」が大いに生きました。この資格制度や再生への安全と安心の仕組みの構築が大きな「参入障壁」となり、今では全国約200店舗のネットワークが構築されています。 (菅元総理に「古民家再生」について説明をさせていただきました) (古民家再生議員連盟が発足) (古民家解体中) 「古民家現地再生:古民家移築再生」で、社会公共性の高いビジネスを展開しています。 自治体連携も約50自治体となり、「古民家現地再生:古民家移築再生」というビジネスを通して、各地域の空き家古民家の課題解決、解体古民家の古材利用などをさせて頂いています。内閣府・総務省・観光庁・農水省などの専門員もさせて頂き「社会公共性の高いビジネス展開」が出来るようになりました。 (アメリカへ古民家を移築) (古材を使った家) 卒業して・・・もう38年。随分昔のような大学生活はたった4年間でしたが、その後、紆余曲折、様々な経験をさせて頂きました。東京国際大学(当時は国際商科大学)の剣道部で「全日本に行く」という強い気持ちを持つ精神力を養えたおかげだと、あっという間の4年間に感謝しています。そんな鍛えた精神力には未来の「運も味方をする」のですね。 年明けには60歳還暦です。後継者も育ち、孫も生まれ、幸せな充実した日々を過ごしています。妻は「もう引退して、楽をしたら? と言ってくれますが、バランスよくもう少し「未来の子ども達の為に持続可能な循環型社会の市場創造」を楽しみたいと思います。 (井上幸一さんプロフィール) 愛媛県松山市出身 1984年東京国際大学商学部卒業/16期 臼井ゼミ 剣道部 1985年株式会社アイモクへ入社。 1994年株式会社アイモク代表取締役社長に就任。 1996年リフォーム事業会社、株式会社ミスタービルド愛媛常務取締役へ就任。 1998年社団法人松山青年会議所理事長。 2000年公益社団法人日本青年会議所愛媛ブロック会長。株式会社アイモクにて古材事業をスタートさせる。 2001年公益社団法人日本青年会議所四国地区協議会会長。 2004年株式会社ミスタービルド愛媛を株式会社ヴィンテージアイモク(現・株式会社アステティックスジャパン)に変更し株式会社アイモクの古材事業を引き継ぐ。同時に代表取締役社長へ就任。 2005年古材事業のFC化を開始し、古材倉庫グループを運営。 2006年松山商工会議所青年部会長。 2009年古民家鑑定士資格事業をスタートさせる。 2011年グリーン建築推進協議会(現・一般社団法人全国古民家再生協会)を創立。 2015年株式会社ヴィンテージアイモク(現:株式会社アステティックスジャパン) 代表取締役社長を退任。 2017年内閣官房歴史的資源を通した観光のまちづくり専門家会議 専門員へ着任。 2019年総務省 地域力創造アドバイザーへ着任。 一般社団法人全国空き家アドバイザー協会 専務理事 一般社団法人古材リユース推進協会 理事長 一般社団法人住教育推進機構 専務理事 一般社団法人住まい教育推進協会 顧問 一般社団法人地域観光開発推進機構 理事長 一般社団法人全国古民家再生協会 専門員 東京都千代田区内幸町1−3−1 幸ビルディング 9F 株式会社アステティックスジャパン 顧問 愛媛県松山市大可賀2丁目1番28号 アイテム愛媛 内 ホームページ:https://astj.jp/about 内閣府 歴史的資源を通した観光のまちづくり専門家会議専門員 総務省 地域力創造アドバイザー 農林水産省 農泊地域専門家 観光庁 広域周遊観光促進専門家 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...ワークライフバランスを取りながら世界の脆弱な人々へ支援を 河野雄太さん(2009年卒業 言語コミュニケーション学部 岩崎ゼミ/ウィラメット大学 社会学部 2008年卒業)2021年10月22日1. 自己紹介、大学卒業から現在まで 2009年TIU言語コミュニケーション学部卒業(岩崎ゼミ)、2008年ウ大社会学部卒業の河野雄太と申します。現在は国連開発計画(United Nations Development Programme: UNDP)インド事務所で持続可能な開発目標 (SDGs)を地方に促進させる部署で勤務しています。また、日本企業とUNDPの連携についても担当しています。 大学時代は長期留学の奨学金を勝ち取るためにTOEFLの勉強に打ち込んだり、ウ大では膨大な量の課題に圧倒されながらもそれをこなしていく中で英語力が上がっていきました。ボランティア活動やアルバイトもやって大変ながらも楽しい学生生活を送ることが出来ました。卒業後も学生時代にお世話になった言コミの岩崎先生や国際関係学部の金先生、同窓生数人とは折に触れて連絡を取っています。 (TIUのラウンジで留学生の友人と) 大学卒業後はJICAの青年海外協力隊に参加し、インドの農村部で約2年間、妊産婦や新生児がかかる診療所環境の改善に取り組みました。その後、イギリスのブラッドフォード大学で紛争解決学の修士号を取得し、公益財団法人アジア福祉教育財団で日本国内の難民支援の現場で日本語教育や緊急性の高い人々に対する保護措置(生活保護の様な支援)に携わらせていただきました。また、国際NGOのADRA Japanでは、エチオピアの南スーダン難民支援に従事させていただき、難民キャンプでトイレ建設と衛生啓発活動を通して衛生環境の改善に取り組みました。 (難民キャンプでの活動の合間、キャンプ近くでエチオピア人の同僚と休憩Gambella/ Ethiopia) 2019年から外務省の平和構築・開発におけるグローバル人材育成事業に参加し、国連開発計画(UNDP)のアフリカ地域センターで、平和構築・ガバナンス専門官として勤務し、2020年から日本政府のJunior Professional Officer (JPO)派遣制度に参加し、UNDPインド事務所にて勤務しています。 2. SDGsについて SDGs-持続可能な開発目標はSustainable Development Goalsの略で、2015年に日本を含む国連に加盟している193カ国が全会一致で採択した2030年までの15年間の行動目標です。SDGsでは貧困、食料、環境、ジェンダー、クリーンエネルギー等17の目標と169のターゲットがありますが、途上国だけでなく先進国にも関係のあるものも多いです。SDGsは多くの分野を含んでいるため理解するのが難しいですが、一言でいうと「自分たちの子供の世代、孫の世代に今のような地球を受け継いで行くためにいろいろな問題を解決しよう」という目標です。現在人類は地球1.7個分の生活をしていると言われており、持続可能ではありません。このままではいずれ後の世代は今の様な地球で暮らせないと言われています。将来の世代のための資源に手を付けない範囲で経済発展しようというのがSDGsの考え方です。 3. これまでの仕事で印象的だったこと 政治的コミットメントを得るということ 途上国では政治的なコミットメントを得ないと物事が進まないことが多くあります。例えば担当者レベルでこう進めて行こう、と合意してもそれが遅々として進まないことがあります。また、そもそも担当者レベルで話がまとまらないことも良くあります。そういう環境では相手国政府の高官等地位の高い人達と会議の場を持って定期的に支持を得ておくことである程度こうした状況を回避することができます。国連の現場で途上国での物事の進め方を学んだ経験でした。 (エチオピア政府、政府間開発機構、UNDP職員でエチオピア、ケニア、ソマリアの国境地域に出張 Addis Ababa/Ethiopia) コロナ禍では最も脆弱な人々が大きな影響を受けるということ コロナは途上国でも甚大な被害を与えています。例えばアフリカの角地域では感染防止策の一環として国境が閉鎖されてこれまでの様にビジネスができず、経済活動に大きな影響が出ました。さらにそうした時期にバッタが大量発生しこの地域の農業に大打撃を与えました。生きていくために人々は残された湖や川などの水資源や家畜を育てる牧草地等に集まることになります。しかし、資源が十分に無いため部族衝突が起こり、紛争に発展することもあります。しかもこうした資源は気候変動により規模が少なくなっています。既に何重もの課題がある地域にコロナが蔓延する影響は先進国での蔓延とは比べ物になりません。 第二波がインドを襲った際、ピーク時の1日の新規感染者数は40万人を超えました。医療用酸素の不足は特に深刻で、感染した家族や愛する人々の酸素を確保するために走り回る人々の姿や、入手の目途が立たず途方に暮れたり涙したりする人々の姿が連日ニュースやソーシャルメディアで取り上げられました。こうした状況の中、UNDPは日本政府、インド政府と連携し医療用酸素プラントを建設することで地方病院のコロナ対応能力を大きく向上させました。 コロナ禍を技術革新で乗り越えていくインドの力強さ インドのデジタルの発展には目を見張るものがあります。大都市ではオンラインで食料や日用品全般の購入、自宅までのデリバリーが安価ででき、コロナ禍でも外出する必要はありません。PCR検査はwhatsapp で予約し自宅でサンプル採取が1,000円程度で出来ますし、結果はEメールで受け取れます。ワクチンの予約や証明書の発行もオンラインで出来ます。農村部にもデジタル化の流れは届いており、アマゾン等を活用しオンランで農村で作った商品(織物、服、電飾、食料品 等)を売ることができます。また、農村から出ることなくスマートフォンで様々な情報(例えば政府の公的支援情報)にアクセスすることが可能になってきています。地方でも電子決済が進んでおり、屋台や露店でもQRコードで支払うことができます。コロナ禍という未曾有の事態にもデジタルイノベーションを通して適応、発展していくインドの力強さを感じました。 (インドの農村地域で小規模ビジネスに取り組む女性グループを視察 Uttarakhand/ India) 4. 自分自身の生き方、これからやりたいこと、皆さんのメッセージ 私は仕事はプライベートを充実させるための手段と考えており、家族との時間を仕事よりも大切にしたいと思っています。その上で世の中の弱い立場にある人のために働いたり、行ったことのない国や文化に触れたり、SDGsを進めるための活動ができればと考えています。この場をお借りしてみなさんに伝えたいことは、買い物は選挙だということです。世の中には様々な商品がありますが、地球環境、人権、労働環境、フェアトレードに配慮した製品を購入することで、優良企業を応援することができます。もし消費者の多くがそのような基準で買い物をすれば、配慮していない企業も自社の商品やバリューチェーンを見直さざるを得ません。私たちは日々の買い物を通して世の中をを良くすることに貢献できるのです。全ての買い物でこれをやるのは大変ですが、先ずは一品、そのような基準で購入してみては如何でしょうか。 (妻と休暇先のモルディブで) (河野雄太さんプロフィール) 1986年 埼玉県川越市生まれ 2004年 狭山ヶ丘高校卒業東京国際大学言語コミュニケーション学部入学 2008年 ウィラメット大学社会学部卒業 2009年 東京国際大学言語コミュニケーション学部卒業JICA 青年海外協力隊員としてインドへ 2012年 ブラッドフォード大学 紛争解決学部 修士課程修了(イギリス) 2012-2015年 公益財団法人 アジア福祉教育財団 難民事業本部 難民相談員、プロジェクト・マネージャー (日本) 2016-2019年 国際NGO ADRA Japan プロジェクト・マネージャー (エチオピア) 2019-2021年現在国連開発計画 (UNDP) 平和構築ガバナンス専門家 (エチオピア)SDGsコーディネーター (インド) 公益財団法人アジア福祉教育財団https://www.rhq.gr.jp/ 国際NGO ADRA Japan https://www.adrajpn.org/ 外務省 平和構築・開発におけるグローバル人材育成事業https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/peace_b/j_ikusei_shokai.html 日本政府 Junior Professional Officer (JPO)派遣制度https://www.mofa-irc.go.jp/jpo/seido.html SDGs-持続可能な開発目標 Sustainable Development Goalshttps://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/sdgs/about/index.html インド進出日本企業と国連開発計画(UNDP)のパートナーシップについて(CSR/SDGs) : 970KB PDF TIU 霞会シンガポール支部... Read more...「ニュージーランドは第二の故郷に」 飯島良介さん(1999年卒業 商学部 中西ゼミ TIUA) 2021年9月24日Kia Ora! 「一歩踏み出す勇気」 群馬の田舎町でのびのびと幼少期を過ごした私は、東京国際大学への進学を機に埼玉の川越で一人暮らしを始めました。私に転機が訪れたのは大学2年の時です。 同学のTIUAプログラムを利用して、アメリカ・オレゴン州へ約1年間の留学を経験することになりました。留学期間で交友関係が世界中に広がっただけではなく、グローバル社会への視野も広がることになりました。その経験を踏まえ、帰国後は、学内で留学生カウンセラーをしながら、異文化交流をしてきました。就職活動を控えた1998年の冬は、長野で開催されたパラリンピックのボランティア活動に参加し、選手村でジムの手伝いをする中で、将来を考えながら模索する日々を送りました。 卒業後は東京に本社を置く電子部品の会社へ就職。幸いにも学生時代に学んだ英語を使える海外部に配属されました。 「若い時の苦労は買ってでもせよ」という言葉がありますが、まさに私の社会人一年目はヨーロッパ方面を担当していたこともあり時差の関係で、毎晩、終電近くまで働く日々を過ごし、同社で多くのことを学ばせて頂きました。同社での三年間の勤務の中で、海外へ行くチャンスが何度かあり、アメリカやヨーロッパへも行く機会を与えて頂きました。当時は、特に携帯電話市場が真っ盛りで、供給よりも需要が伸びていたため、私の業務では、迅速な納期管理が求められました。いま、思えば、時代の最先端であったハイテク産業で働いていたものだなぁと、しみじみと振り返ることもあります。 例えば、その当時、“ハンドキャリー”といって、部品を自社スタッフ自らが運ぶという仕事がありました。具体的には、前日に常務に呼び出されて「明日、ドイツへ行って来てくれ!」と指示され、すぐに航空券を手配し、新宿の本社から営業車で埼玉にある工場まで部品を取りに行き、翌日の朝にはドイツへ部品を持って運ぶという、“運び屋”のような仕事です。 そんな多忙な日々に対し、少し休養が欲しくなった頃、大学時代の海外経験を振り返り、新しいステップへ踏み出すことを決意しました。最初は、安定した仕事を捨てるということに少し躊躇しましたが、若かったこともあり、思い切って自分の世界を大きく広げたいと思うようになっていました。 (1999年~2002年:日本電波工業時代の写真、イタリア出張) 「人生無駄なし」 2002年のサッカー日韓ワールドカップが終わる頃に大学の先輩の勧めでニュージーランドのことを知り、一念発起して、ワーキングホリデービザを利用して人生初のオセアニア方面へ。今思えば当時は、ニュージーランドと言えば羊とオールブラックス程度の知識でした。最初は、思い出深いアメリカ留学のあとのニュージーランドへの渡航だっただけに、そこまで期待もなく、最初は、ニュージーランドのことをあまり好きになれませんでした。 そんな私でしたが、もともと、アウトドアに興味があり、偶然にもニュージーランドの南島の世界遺産に指定されているアオラキ・マウントクック国立公園にてトレッキングガイドとして働くこととなりました。仕事を始めたころは、山登りもさほどしたことがなく、植物や動物の知識もほぼゼロだったので、しばらくは勉強の日々でしたが、2~3年ほど働き続けているうちに、色んな人たちと出会いを通じて、その仕事の面白さに気づいていきました。気が付けば、最初は期待もしていなかった、ニュージーランドの大自然の魅力にハマっている自分に気づき、労働ビザや永住権の申請をすることになりました。 (Mt.Cook国立公園内のMt Sefton – 3,151mをバックに) 当時、労働ビザの申請が厳しく、自分自身諦めていたころ、勤めていたホテルのオーナー夫妻にサポートレーターを書いていただき、それを機に、一気に永住権取得まで辿り着くことができました。日本では “コネ”というとあまり良いイメージはありませんが、もともとは、英語のコネクション。すなわち、人との繋がりを意味し、私は自分の経験から、ニュージーランドでのコネクションの重要性を実感しました。 オーナー夫妻との出会いもまた偶然でした。ハイキングを催行しない冬期に、私は、ホテルの予約課で働く機会に恵まれました。それは、慣れない仕事でしたが、そこでたまたまオーナー夫妻に出会うことに。“人生無駄なし”という事を身をもって体験しました。 最終的に、同ホテルでは、ハイキング部門のマネージャー職を経験することになり、気が付けばニュージーランドでの生活が10年以上経ち、その頃には、すっかりこの国の魅力にとりこになっていました。 家庭の都合上、2014年に日本へ帰国することになったのですが、偶然にもニュージーランド政府観光局の仕事が舞い込んできました。願ってもない仕事に最初は、まったく自信もなかったのですが、駄目もとで挑戦することにしました。 「今も英語を学びつつ、ニュージーランドのストーリーテラーに」 現在はニュージーランド政府観光局の東京事務所にて旅行会社担当をしています。同観光局は、日本からニュージーランドへ訪問する人たちに対し、マーケティングを行う組織です。2019年のラグビーワールドカップ日本大会では、オールブラックスとともにニュージーランドのプロモーション活動を行いました。私は、ニュージーランド現地のマオリ・パフォーマンスグループたちの世話役となり、日本各地でハカなどのマオリ文化を紹介しました。ちなみにニュージーランドの先住民・マオリは自然を大切にする日本の文化とも似ていて、ニュージーランドをご紹介する上では欠かせないエッセンスの一つです。 (2019年マオリ・パフォーマンスグループとの記念写真)*2019年の RWCプロモーション動画はこちら:最高の舞台を39(サンキュー)!#nzsays39 (卒業後もTIUAの仲間たちと) 将来的に旅行業界は、サスティナブルツーリズムが進むと思われますが、世界の中でも旅行先の一つとしてニュージーランドは、注目される存在になってくると私自身は信じています。ぜひ、多くの皆様にニュージーランドのことを知っていただき、一度は訪問してほしいと考えています。私の半生に関心を持っていただいた方や、ニュージーランドについてもっと知りたい方は、この機会に「100% Pure New Zealand」のウェブサイトをチェックしてみてください。皆さんの人生を変える体験ができるかもしれません。そして、そのときは、ニュージーランドのどこかでお会いできることを楽しみにしています。コロナ禍において、旅行業に携わる身として、大変厳しい状況が続いていますが、国境の再開に向けてしっかりした準備を進めて行きたいと思います。 “He waka eke noa – We are all in this together” (世界遺産:アオラキ・マウントクック国立公園) 東京国際大学、そしてTIUAで学んだことを活かして、これからも楽しい人生を送りたいと思います。 Ngā mihi: Thank you (飯島良介さんプロフィール) ——- 群馬県出身 1995年 群馬県立伊勢崎東高等学校 卒業 1995年 東京国際大学商学部 入学 1996年 TIUA (アメリカ・オレゴン州)にて1年間留学 1999年 東京国際大学商学部 卒業 (中西ゼミ) 1999年 日本電波工業株式会社 入社 2002年 ワーキングホリデー制度を利用してニュージーランドへ 2014年 帰国、2016年よりニュージーランド政府観光局にて勤務(現在に至る) *ニュージーランド政府観光局公式ホームページ https://www.newzealand.com/jp/ TIU 霞会シンガポール支部... Read more...霞が関にルーツを持つグローバルなTIUの交換留学生。 Mark Wijeyratneさん(2006年 スウェーデンからの交換留学生) 2021年9月9日Mr. Mark Wijeyratne‘s Professional Career: (Mark Wijeyratneさんプロフィール) Sales & Marketing Manager-iFACTS Governance, Risk and Compliance software, Sweden Sales Manager Belgium, Netherlands and Luxembourg-SONY Regional Sales Manager (APAC) and Area Manager (ASEAN) -Safeture, Sweden Managing Consultant (Telecom practice)- HAYS plc, Singapore Managing Consultant (Telecom practice)- Chandler Macleod, Singapore Key Account Manager-Telia Company, Sweden TIU 霞会シンガポール支部... Read more...勇往邁進。行動することが人生を切り開く近道であると証明したい。 大城佑斗さん(2010年卒業 商学部会計学科 増田ゼミ) 2021年7月2日私は2010年卒の大城佑斗と申します。2021年6月現在、北海道・東京・沖縄でそれぞれ別法人として会社経営をしています。 北海道では不動産、東京ではWeb制作とアプリ開発、沖縄では映像制作・Web制作・求人サイト運営と各拠点で事業内容も異なります。最近では台湾の上場企業との業務提携も実現し、海外展開に向けてゆっくりとではありますが、着実に地に足をつけながら歩み進めております。 私のTIU時代。18歳当時は芸能関係の仕事にも少しばかり関わっていたこともあり、北海道に残るか、東京に上京するかを悩んだ末、募集枠があるTIUに二次応募にて受験しました。「会計学科」が新たに新設されるので、商学部会計学科へ入学しました。 本音はTIU時代での学びを…!と記載しようと思いましたが、恥ずかしながら私の学生生活は勉学に勤しんだわけでもなく、芸能関係の仕事にも関わっておりましたので、対外的な活動が中心でした。結果として、1年半ほどで芸能関係の仕事を辞め、バイト生活に明け暮れたというのがリアルなところです。ただ、TIUで出会った友人とは今でも親交があり、一生の友に会えたことが何よりの宝であり良い想い出です。 卒業後の就職先は上場企業だっただけに、新卒募集もMARCHクラス以上の人材を中心に採用していたと聞いています。当時は知名度の低い大学から運よく入社できたので、僕としてはいわゆる「学歴がいい人」に負けたくないと思って結果を出すために力を絞れたと思っています。負けず嫌いな性格というのも功を奏したと思いますが、その意味ではTIU卒で本当に良かったと思っています。 (沖縄で1部屋所有するホテルからみえる景色) (沖縄で1部屋を所有する2カ所のリゾートホテル ※ワーケーションルーム) タイトル『勇往邁進。行動することが人生を切り開く近道であると証明したい。』は少し大げさな表現かもしれませんが、現在30代前半の私が、多拠点での会社経営、更には三拠点生活ができるまでの考え方・生き方についてお話をしたいと思います。 ライフワードは「人生倍速」。 私の人生の軸になる考え方・生き方としてライフワードがあります。 「人生倍速」です。 自分の年齢×2倍の方とも対話が成立するだけのコミュニケーション能力・情報/知識量を身に付けるように努めることを私なりに表現した言葉です。自分自身の「鮮度」を維持する、高めるための言葉として大切にしています。“勝ち負け”を競うためではなく、心構えを築く心の土台となります。 行動せねば夢など叶わない。 私は国内屈指の人材紹介会社JAC Recruitmentで勤務した経験があります。入社当時はリーマンショックの影響もあり、アポイントが取れない時期が続き結果もでない苦しい時期がありました。リーマンショックのせいにするのは簡単かもしれません。ただ、今の市場(マーケット)はどこも同じ。であれば将来的に活況となる業界を予想し、且つ当時、誰も当たっていないような業界に将来的な人材確保の電話をすればアポイントが取れるのではないか?と、当時の私なりに考え行動した結果、入社以来個人成績は全て達成し、開拓した市場は後に1つのチームとして立ち上がり、全社表彰・チーム表彰を受けるまでに成長していきました。 余談ですが、2014年ごろ社内でTIUの先輩との出会いがありました。 当時JAC Recruitment Asia COO及びシンガポール社長の落合雅治先輩から社内メッセージをいただき、「シンガポール、マレーシア、タイには卒業生が働いているが、JapanにもTIU出身者でTop Salesで頑張っている人がいると聞いたから嬉しくて連絡した」という内容でした。そのきっかけから後に個別で連絡する関係になり、現在に至ります。落合先輩からは、TIU卒としての誇りと自信を胸に、ビジネスの世界を駆け抜けていく熱量高い言葉をかけてもらったのを昨日の事のように覚えています。 (2015年の年間表彰でOutstanding Consultant Awardを受賞) 人材紹介会社での経験から経営人生へのトライを始める。 JAC Recruitment時代に「専門性が高まることで自分の居場所ができる」ことを体感し、「人生倍速」というワイフワードの正しさを実感しました。 また、JAC Recruitment時代は多くの経営者や転職希望者とも接する中で、上手くいく人とそうでない人の差も私なりに感じることができたのも貴重な経験となっています。日々多くの方と接する中で、自然と「経営」に対する興味が沸きました。 私は、元々机上でコツコツと学び深めるタイプではなかったので、とにかく人より「時間」「行動」の質をあげることを考えていました。人生は1度きり、時間は平等、であれば「経営」というものへチャレンジしたい!と何をしたいか決めることなく退職しました。 何をしたいか決めずに退職・・・いま思えば恐ろしいですね(笑) ただ、退職後に自分自身に起きた面白い変化がありました。 それは「思考の制限解除」です。 これまで日経新聞を読んでも「景況感や採用関連記事」に意識が集中していましたが、退職の意思を固めてからは「○○したらどうなんだろう、市場はこんなサービスを求めていないだろうか」など、思考に発展性が生まれました。いわゆるビジュアルシンキングの一つの物事に対する多様な見方をしていたということです。 (地元新聞社から取材を受ける様子) ルーツを持つ沖縄で会社経営を始めるが、七転八起。 退職後は怒涛の経営人生の幕が開けます。 会社登記準備を進めようとした矢先、沖縄県で後継者を探している会社があることを聞き、エステ、医療機器販売、売店の3事業を行っている30名ほどの会社株式を買い取る形で代表となりました。 ・・・が、そこからはドラマのような出来事の連続でした。 ・ 会社売上7割を占める施設の移転決定に伴い、売上7割減 ・ テナント管理の業務委託収入がテナントオーナー変更によりゼロへ 真っ先に取り組んだことは経営基盤の強化と事業再構築でした。 事業の売却、譲渡などで窮地を脱し、業種転換に向け採用を加速させ、現在の沖縄で展開している映像制作・Web制作・求人サイト運営というカタチに落ち着きました。 まさに七転八起(幾回失敗しても力を落とさず、たちあがって奮闘すること)の精神で乗り切った経験です。 (沖縄県全体にSDGsのプロモーション動画制作)(動画求人サイト・オキナビ) ”拘り”に対する捉え方にも柔軟性を持つことが大事。 退職後、思考の制限が解除されたとお伝えしました。同様に感じたものが「ストレスの質が変わった」ことです。 当然、生きていればストレスを感じますが、会社に勤めることと、独立して自ら会社を経営することでは、責任の度合いも異なります。その中で、”拘り”にも柔軟性が出てきました。 人それぞれ考え方はありますが、私の場合、地域特有の市場(マーケット)で自分の能力の範囲または適した仲間の能力値・期待値に沿う事業を展開することです。コアキャリアが”HR領域”だから必ずHR領域をやるという拘りはありません。ただ、自分自身で特化した分野があるから極端な話常に機会は伺っているのは事実です。 北海道には広大な土地、東京には圧倒的な顧客数と情報発信地、沖縄には世界に誇れる日本ブランド、その特性に適する事業を展開することで、企業成長と自己資産の形成をしてきました。 職業講話など年数十本ほどしますが、「人生波乱万丈ですね」とよく言われます。(笑) 私としては、ただ行動をし続けているだけというのが答えで、行動をすることが時間の有効活用にも繋がり、自らを学び深める最も効率的な方法だというだけです。 (沖縄でのセミナースピーカーとして) 勇往邁進。行動することが人生を切り開く近道であると証明したい。 心構えは”木の根”。行動は”木の幹”。成果は”葉(花)”。 どんな人でも個人の総資産を数十億まで積み上げることは可能です。 土台となる【心構え】を自分なりに見つけ【体験する】ことで大きく人生は変わります。 勇往邁進。行動することが人生を切り開く近道となります。 最後になりますが、TIU卒として、数多くの諸先輩方の中に記事が掲載されることを嬉しく思います。いつの世も志高く、力強く歩んでいるTIU卒の方々が世界の至るところにいます。その中の一人になれることを期待し、私自身も研鑽していきたいと思います。長々と取り留めのないことを書き綴ってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。 (大城佑斗さんのプロフィール) 1987年 <沖縄出身北海道育ち> 2006年 札幌第一高等学校 卒 2010年 東京国際大学 商学部会計学科卒 増田ゼミ 2010年 Japan Digital Communications Ltd. 入社 2012年 Japan Digital Communications Ltd. 退職 2013年 JAC Recruitment Japan入社 2015年 JAC Recruitment Japan 退職 2015年 株式会社プロライアンス(オーナー株式買収にて代表就任) 主な事業内容:オキナビ運営事業、 有料職業紹介事業、映像制作事業、 Web制作・集客支援事業など 他、北海道・東京・沖縄で会社経営 *株式会社プロアライアンス ホームページ https://proalliance.jp/ *動画求人サイト「オキナビ」 https://oki-navi.jp/ TIU 霞会シンガポール支部... Read more...「国際関係の”アクター”を目指して、愚直に、不器用に、そして反骨的に」-グローバル活動の基礎を築いた東京国際大学・TIUA等での経験 – 高橋 秀征さん (1996年卒業 教養学部国際学科 平山龍水ゼミ TIUA 小林多加士ゼミ) 2021年6月2日はじめに: 最早メディアで取り上げられない日はないくらいに昨今当たり前となった「グローバル」や「国際」という言葉。昨年初めに始まった新型コロナウイルスの世界的感染拡大以前は、人々が概ね自由に国境を越え、ビジネスや観光が行われていました。2019年までは日本の各自治体が海外からの誘客に力を入れ、インバウンド需要が景気を押し上げていた時期もありました。コロナ禍で国境を跨いだ人々の往来がほぼ不可能になった現在でも、オンラインミーティングやバーチャル展示会、越境EC等を活用し、国と国とを跨いだ活動や取引は活発に行われています。現在勤務する豊橋市内のとある企業の方にビジネスの現状を伺ったところ、コロナ禍の中でも業績は良く、特に海外関係は売上が好調と仰っています。グローバル活動や国境を跨いだビジネスや取引、コミュニケーションは、最早普通なものとなっています。 現在は普通となった「グローバル」や「国際」ですが、30年以上前は真新しいものでした。それらに中学生の時に興味を示し、それ以来国際舞台で活動したいという夢を、愚直に、不器用に、そして反骨精神も持ちながら追い求めてきました。加えて大学からは、学んだ国際関係学におけるアクターという考えのもと、国際的に影響力や役割を果たせる組織で働きたいという希望を持ちました。本文では、「グローバル」や「国際」に目覚めた契機、グローバル活動の基礎を築いた東京国際大学や米国・インド留学での学生生活、時として迷いや挫折、限界、方向転換をしながら夢を追求した社会人時代を振り返り、如何に地元の商工会議所に着地したかをお伝えします。今後グローバルな活動を目指している若い方に、私の経験が多少なりとも参考になれば幸いです。 「グローバル」や「国際」に目覚めた契機 私は中学校の卒業文集の中で、将来の夢を「世界を行き来するような仕事に就きたい、出来れば国際機関に勤務したい」と書き、同級生から奇異の目で見られたことを覚えています。現在はごく自然な「グローバル」や「国際」は、当時は(特に田舎では)奇異の対象でした。一介の園芸を営む長男として生まれた私が、奇異の目を跳ねのけグローバルや国際関係に興味を持った切欠は、もともと小学生から歴史や社会科が好きであり、中学生からは英語を中心とする外国語に興味を持ち始め、高校生では世界史を選択したことが大きく関わっていました。この他、中学生の時にタイの方を数日間ホームステイ先として受け入れ、その縁が切欠でタイを訪れたこと(海外初渡航)、地域の学校が集まる英語暗唱大会で賞を頂いたことも、興味を持ち始めた契機となりました。一方でグローバルや国際に関心を持っていたにもかかわらず、中学三年生の際、生徒を数人選抜して韓国に数日間派遣するというプログラムに選考漏れしたという悔しい思いも味わい、是非グローバルに活動して見返したい、という反骨精神も芽生えました。 更に当時の世界情勢も、私をグローバルや国際の世界に駆り立てました。高校に在学した1989年から92年にかけて、天安門事件、東欧諸国の民主革命、ドイツ統一、湾岸戦争、ソビエト連邦崩壊、ソマリアやボスニアでの民族紛争等、世界を揺るがす大事件が立て続けに起こり、否が応でもそれらのニュースに触れない日はない毎日でした。また当時はベルリンの壁崩壊に象徴される東西冷戦と分断が終結し、世界が新たな秩序を模索し始めた希望溢れる時代でもありました。そのような世界に少しでも関わりたいという夢や希望を高校時代に培いました。 東京国際大学で得た財産: グローバルに、国際的に活動したいという夢を実現するため、大学は国際学部や学科がある大学を中心に受験しました。現在は“国際”と付く名前の学部は数多くありますが、当時はまだ少なく、幾つか受験した中で、東京国際大学に合格することができました。大学では教養学部国際学科に所属し、主に第二キャンパスで国際関係学や国際法、地域研究、外国語等の授業を受けました。また二年時には米国・オレゴン州にある東京国際大学アメリカ校(TIUA)で勉強し、夏休みには一か月間米国・カナダをグレイハウンドバスで一周するという貴重な機会も得ました。 4年間の大学生活の中で、大きく三つの財産を得たと考えています。一つ目は何といっても国際関係学に関する基礎的知識です。その一丁目一番地が国際関係学におけるアクター(行為主体)は誰かという考えで、リアリストの学派が主権国家のみをアクターと捉えるのに対し、リベラリストの学派は主権国家でない国際機関や多国籍企業、非政府機関、個人までもがアクターとして認められるという考えに立ち、当時はリベラリストの考えに共鳴したことを覚えています。またリベラリストが唱えていた国際レジームという理論にも共感を抱きました。(リアリストのすべての国家は国益を追求し、国力を高め、争う中で勢力均衡が生まれるという考えも最もである)この知識を習得したことにより、アクターとなる組織で活動したいという方向性が芽生えました。 二つ目は語学、特に使える英語力です。グローバルに、国際的に活動するには英語が必須であることは大学入学前から認識しており、大学では国際関係と同様に英語の勉強に時間を費やしました。TIUAでは授業のほか、普段の生活も英語を使うという好環境に恵まれ、また幸い良いルームメイトや仲間にも囲まれ、自然と使える英語を身に付けることができました。学生期間中、TOEFL等を受験しましたが、胸を張れるほどの成績を取れたとは言えません。しかしTOEFLに付随したTWEと呼ばれるライティングの試験は比較的良いスコアを取れたことは、使える英語を身に付けた賜物であったと思っています。またその後のネルー大学では、英語で修士論文を執筆し、修士号を取得できたほか、いくつかの論文を英語の学術雑誌に掲載することもできました。 三つ目はコミュニケーション力と“繋がり”です。東京国際大学のキャンパスは他に比べ比較的小さいこともあり、人と人との距離が近く、ゼミや部活サークル活動などを通じて、教職員や同級生、先輩等と多く触れ合う機会を得ました。様々な人たちと触れることによって、コミュニケーション力が磨かれ、多くの友人や知り合いに恵まれました。特にTIUAでは寮生活という更に人との距離が近い生活を経験できました。“同じ釜の飯”を食べた仲間ということもあり、ルームメイトをはじめ当時繋がりを持てた日本、アメリカの友人とは、コロナ禍以前は会ったり、今でもFacebookなどで繋がっています。コロナ禍前の2019年3月、当時同じ寮に住み仲良くしていたアメリカ人の友人が来日し、私に連絡をくれ、食事を共にしました。彼女に会うのは20年以上ぶりでしたが、当時の繋がりが今でも生きていると実感できた時でもありました。 全米一周バス旅行で訪問したワシントンDCのホワイトハウス前にて(1993年7月) 全米一周バス旅行で訪問したアトランタのCNN本社を見学(1993年7月) TIUA滞在中に参加した米国の子供たちに日本文化を伝えるDay Campの様子(1993年8月) 23年ぶりにTIUAを訪問し、当時お世話になった方々に挨拶(2016年2月) 26年ぶりに東京でTIUAの友人と再会(2019年3月) 帰国後の苦悩と見つけた一筋の光: 1993年12月にTIUAのプログラムを終え、意気揚々と日本に帰国しましたが、その後大学を卒業しインドに留学する1996年8月までは、まさに苦悩と模索の日々でした。同級生が企業へ就職、もしくは留学するなか、国際舞台でアクターとして活動したいという中学生からの夢を実現するため、自分は何をすべきなのか、どのような進路を進めばよいのか、もがき苦しみました。企業への就職という選択は、国際関係上でのアクターにはなれないと考えた当時の私は、就職活動という選択肢は最初から捨てており、大学院への進学もしくは留学、国際機関やNGO、研究機関等への勤務などを模索しました。留学先として、英米加豪の大学だけでなく、ほかの欧州やアジア、果てはガイアナという南米の国にま で願書を請求したことを覚えています。 結局は1996年から2000年までインド政府奨学金留学生としてインドに留学するという選択肢を選び、それが結果的に一筋の光となる訳ですが、それを突き動かしたのは主に二つの理由がありました。その一つは、TIUAというプログラムが果たして本当に胸を張って留学していたのかという疑問であり、是非現地の大学に入学し卒業したいと考えました。確かにTIUAのプログラムは、留年せずにアメリカで約一年間勉強できるというプログラムであり、参加できたことを誇りに思い、その後の人生の財産になったことは間違いありません。ただ、あくまでTIUAはアメリカにある東京国際大学の分校であり、姉妹校のウイラメット大学の授業を受け寮に住むことができたものの、ウイラメット大学の学位を取得した訳ではありません。アメリカで勉強はしましたが、本当の意味で留学であったのか、現地の大学を卒業して初めて留学なのか、帰国後考えるようになりました。 もう一つが今後の人生を見据え、何を専門にすべきかということでした。TIUAでは英語やアメリカ等を学びましたが、あくまで基礎的知識を学んだと理解しています。世の中は当時から複雑化しており、且つ競争も激しいため、ある特定の地域や分野の専門性が当時から求められていました。留学先もアメリカが圧倒的であったのが、徐々に多様化しつつある時期でもありました。川越のキャンパスに戻り、3・4年生はアメリカに限らず世界全体の情勢に目を向けるようになりました。当時は中国を中心とするアジア地域が経済的に隆盛の時代であったため、時流を見据え、アジア地域を専門にされていた小林多加士先生のゼミに属しました。先生は中国の専門家でしたが、広い意味で私の目をアジア地域に向けさせてくれました。 進路を模索する中で知ったのが、世界の多くの国が実施している国費留学制度でした。その制度は、毎年日本をはじめ各国から数人を選抜してその国の一流大学院に派遣し、多くの場合、学費全般や生活費の一部を受入国が支給する給付金制度です。アメリカやイギリスの大学は半ば商業化しており、また公的な給付金がほとんどないため、大学院で勉強するには高額の費用が掛かります。また仮に英米の大学院で修士や博士課程に入学できたとしても、金銭面で両親に更に高額の負担を掛けるほか、学位を修了しても、いわゆる”学位難民”になる可能性もあり、先行きは不透明でした。従って給付金制度があり、且つ英語が使え、特にアジア地域を専門にできる場所ということで、最終的にはインド政府が行っている給付金留学制度の門を叩くことになったのです。当時、インドを中心とする南アジア地域は、日本では認識が薄く、その地域を専門にしている人も少数でした。それゆえ、日本にとりまだ未開の地域を専門にすることで、夢を実現できるのではと考えたのでした。 目指した南アジア地域の専門職と限界: インド政府より給付金を頂き、2000年までの4年間、ニューデリーにあるジャワハルラル・ネルー大学(以降ネルー大学)国際学部に留学することができました。インドでは修士課程が二つに分かれており、96年からの2年間は国際関係学や地域研究を全体的に学ぶMaster of Arts (MA)課程に、98年からの2年間は同学部の南アジア学科に在籍し、それぞれ修士課程を修了することができました。ネルー大学は、1969年にインド独立とその後の国家建設に大きな役割を果たしたジャワハルラル・ネルー初代首相の意思を受け継ぐ形で創設された大学で、国際学部や言語学部をはじめ、ライフサイエンスやバイオテクノロジー、コンピューターサイエンスなど、比較的新しい分野の学問が学べる大学です。加えて、言語学部除き他の学部には学士課程はなく、MAコースから始まっており、ある意味で大学院大学とも言えます。 数あるインドの大学からネルー大学国際学部を選択した理由は、インド内で最高レベルの専門家を揃えた最強の南アジア学科が首都にあること、その一点に尽きるかと思います。インドだけでなく周辺地域のパキスタン、バングラディシュ、ネパール・ブータン、スリランカ・モルディブそれぞれに専門の教授が居り、各国の政治・経済や歴史、外交、南アジア地域協力連合(SAARC)を中心とする地域協力等を習得することができました。また私と同じく南アジア地域を勉強するため、欧州やアフリカ、アジアからの学生も居り、ともに切磋琢磨しながら勉強や研究ができました。 南アジア学科在籍2年目は修士論文の執筆に時間を割き、モルディブを研究対象として選び、「モルディブをケーススタディとした極小島嶼国の安全保障」という修士論文を執筆できました。モルディブは中東と東南アジアとを結ぶシーレーンの中間にあり、戦略的に重要な国であると捉え、対象として選びました。また1988年に傭兵という非国家の勢力に国を乗っ取られるという危機があり、如何にモルディブや他の極小島嶼国が脆弱なのかにも興味を持ちました。 日本に帰国後、2005年までの4年間はインド貿易振興局東京事務所に勤務し、インドと関わることができました。ただ本心は研究職を目指していました。しかし己の能力の無さも去ることながら、南アジア地域の政治や外交を専門として受け入れる就職先が少ないこと、日本の学術関係者との繋がりを作ることができなかったこと、博士課程を取得しても研究職には就くのが難しいという現実、地方から上京した私にとり日々の生活を犠牲にはできなかったことなどにより、研究を本職とすることは結局諦めざるを得ませんでした。 次に考えたのが、ジャーナリストとしての南アジア地域専門家で、新聞社勤務を通してそれを目指そうと考えた時期もありました。数年間記者として経験や実績を積み、独立してフリージャーナリストになることを視野に入れていました。2005年に日刊工業新聞社への入社が叶い、記者職を希望していましたが、2011年までの6年間、残念ながら希望は叶わず、展示会主催を担当するイベント事業部に配属されてしまい、その望みも潰えてしまいました。 それでも仕事とは別に、2003年より岐阜女子大学から特別研究員という立場を頂き、モルディブや同様の脆弱性を持つ南太平洋地域、インド等について論文や文章を投稿して雑誌等に掲載できたほか、モルディブの情勢が緊迫した際はマスコミから取材依頼も頂いています。ただ、あくまでその時々で就いている職場の業務を優先しなければならず、ここ10年ほど研究調査活動は正直行えていません。しかしながら、私に一筋の光を与えてくれた南アジア地域はライフワークにしたいと考えており、後日時間ができれば研究や勉強を続けたいと考えています。 ルームメイトの家族とネルー大学にて(1999年4月) 友人宅を訪問した際に南インドの家庭食を右手で頂く(1998年6月) ネパール東部にあるブータン人難民キャンプを訪問(1997年12月) インド・ビハール州の農家を訪問(1998年12月) 世界遺産タージ・マハルを訪問(2000年7月) ジャイプールのアンベール城にて (2000年10月) ディスティネーションマーケティングへの関心: 南アジア地域を本職とすることに限界を感じた私は、日刊工業新聞社を退社後、自動車の調査会社2社に勤務しますが、専門を半ば封印せざるを得ず、悶々とした日々を過ごしていました。その苦境の時期を抜け出し、私に新たな興味関心を与えてくれたのが、前職のサクラインターナショナルでした。同社はGlobal M.I.C.E. Producerのスローガンを柱に、世界中で展示会やイベントをプロデュース(主に施工や運営)するユニークな会社で、7年の勤務の間、主に海外・国内の新規顧客を開拓する業務を担いました。その中で、調査研究を行い、新たな顧客を同社に引っ張るというセールス&マーケティング業務に目覚めました。特に日本でイベントや会議を主催したい海外の主催者を調査し、担当者を見つけ出し、展示会等でアプローチやプレゼンテーションを行い、実際顧客にすることができたことは大きな喜びでした。大手旅行社と競合の上、国際パラリンピック委員会関連の業務を開拓ことができたことは、同社での大きな成果であったと自負しています。 同社では南アジア地域の専門性をある程度認めて頂いたほか、幾つかの貴重な経験をさせてもらい、感謝の言葉もありません。その一つがセールス&マーケティング活動のために、世界の様々な国を出張できたことです。サクラインターナショナルに勤務中、欧米やアジア、中東を中心に凡そ20か国・地域を訪問することができました。それらの出張が、南アジア地域を専門としていた私の目を大きく開かせてくれました。出張の際、同社のミッションを果たすことが最優先ですが、付随してその国や都市の歴史や文化にも触れ、視野を広げることができました。 それに関連して、二つ目が海外のM.I.C.E.(Meeting, Incentives, Convention, Exhibition/Eventの総称)関連展示会への出展と、その中で垣間見えたグローバルな都市間の国際会議・イベントの誘致競争でした。M.I.C.E.関係の世界的展示会として、フランクフルトやラスベガスで開催のIMEXや、バルセロナで開催のIBTMが有名であり、それらの展示会に出展する機会を得ました。その展示会にはホテルや旅行社だけでなく、世界各都市にあるコンベンションビューローと呼ばれる観光M.I.C.E.を推進・誘致する団体が数多く出展をしており、それらが鎬を削る姿を目の当たりにできました。コロナ禍以前のM.I.C.E.業界は世界的に隆盛しており、国家ではなく都市が主導して激しい誘致競争が行われていました。一つのイベントをその都市に誘致することは、国内外的に大きなインパクトを持ち、その状況を見る限り、都市レベルでも国際関係学におけるアクターになれるのではと考え、その分野や状況に関心を持つようになりました。 グローバルな競争という側面と同時に関心を持ったのが、国際協力という分野でした。2016年から19年の間、国際協力機構(JICA)の研修をお手伝いするようになり、主に発展途上国の貿易・観光関係の政府関係者に対して、講師として展示会への出展やマスコミの活用など商品・製品のプロモーションに関するプログラムをお手伝いできたことは非常に貴重な経験でした。JICAが行う研修生受け入れのプログラムは、技術協力として1955年に始まったプログラムであり、そのような歴史あるプログラムに微力ながら参加できたことは、誇りと自信を与えてくれました。 和服を着てIMEX Frankfurtに出展(2015年5月)クアラルンプールで開催のAFECA Forumに、スピーカーとして登壇(2015年11月) イスタンブールで開催のIFES Summitに出席(2016年6月) 韓国・江原道で開催のKIMCに出席(2017年1月) 観光関係者向けのJICA研修にて(2017年9月) 展示会場におけるJICA研修(2018年7月) 商工会議所に入所: ディスティネーション、すなわち都市や地域を世界的にマーケティングやプロモーションすることに関心を持ち始めた私は、2020年12月、出身地である愛知県豊橋市に戻り、商工会議所で新たな道を歩み始めました。家庭の事情から地元に戻る必要が出てきたという個人的な側面もありましたが、地元の中心都市である豊橋を元気にしたい、発展に寄与したい、将来的にグローバルに知名度を上げたいという理由で、商工会議所の門を叩きました。商工会議所は自治体の下部機関と誤解されがちですが、自治体からは独立した地域経済団体であり、地元の事業所を様々な側面からサポートするほか、自治体への提言や意見集約も行っています。豊橋をマーケティングする前に必要なのは、市内の状況を熟知したうえで事業所をサポートし、元気にすることであり、その使命感を持ち業務に臨んでいます。 このほか商工会議所は、貿易証明の交付を通じて国際間の取引の円滑化を図るという役割も果たしています。商工会議所は世界の各都市にあり、それぞれの会議所は、1923年に署名された「税関手続の簡易化に関する国際条約」(ジュネーブ条約)に基づき、原産地証明書という書類を交付しています。原産地証明とは、貿易取引される輸出品の国籍を証明するもので、多くの貿易取引で税関を通る際(通関)に必要となる書類です。この原産地証明書のほか、会議所ではサイン証明書やインボイス証明書など、通関に必要な書類も交付しています。私はその担当のほか、市内の事業所の海外展開を支援する業務も担っています。 さいごに: これまで私の活動をサポートし応援してくれた両親や妹には感謝の言葉もありません。通常長男は実家の家業を継ぐことが求められますが、特に父親はそれには一言も触れず、私の思いや考えを尊重し後押ししてくれました。東京国際大学への進学やTIUAでの勉強は強力にサポートしてくれ、インドに行く際も反対はありませんでした。それらのサポートを恩返しするのは、お金ではなく、これまで経験を積んだ分野で実績や業績を残さなければという気持ちは今でも持ち続けています。その父は2018年9月に他界してしまいましたが、今でも本当に恩返しができているのか、まだ足りないのか自問自答する日々です。 これまで様々な楽しいこと、苦難や挫折を味わってきましたが、それらを経験したからこそ今があると認識しています。グローバルな舞台で活動したいという中学生からの夢はある程度叶えることができ、また廻りまわって商工会議所という国際的な役割も一部担う組織にも入所することができました。様々な経験の中で、東京国際大学やTIUAでの経験は、夢を実現するための基礎を築けたと考えています。東京国際大学の在校生の皆さんも、またそうでない方も、是非大学で基礎を固め、且つ専門分野を見つけ、自らの道を模索して頂きたいと思います。 (高橋秀征さんプロフィール) 1973年12月愛知県新城市生まれ 1989年4月愛知県立新城東高等学校 入学 1992年4月東京国際大学教養学部国際学科 入学 (1年:平山龍水ゼミ) 1993年東京国際大学アメリカ校 (TIUA) 在学 1996年3月東京国際大学教養学部国際学会 卒業 (3・4年:小林多加士ゼミ) 1996年8月インド政府奨学金留学生として、インド・ジャワハルラルネルー大学国際学部MA課程入学 1998年5月ジャワハルラル・ネルー大学国際学部MA課程修了 1998年8月ジャワハルラル・ネルー大学国際学部南アジア学科M.Phil.課程入学 2000年7月ジャワハルラル・ネルー大学国際学部南アジア学科M.Phil.課程修了(修士論文は、モルディブをケースとした極小島嶼国の安全保障) 2000年8~12月アジアアフリカ法律諮問機関/AALCO(政府間国際機関)に研修生として勤務 https://aalco.int/ 2001~2005年インド貿易振興局東京事務所 勤務 www.indiatradefair.com/ 2003年~岐阜女子大学南アジア研究センター特別研究員 拝命 www.gijodai.ac.jp/csas/ 2005~2011年日刊工業新聞社 勤務 www.nikkan.co.jp/ 2011~13年自動車調査会社2社 勤務 2013~2020年サクラインターナショナル(株) 勤務 www.sakurain.co.jp/ 2020年~豊橋商工会議所 勤務 現在に至る。 www.toyohashi-cci.or.jp/ 主な出版・掲載記事 「モーリシャス・インド関係」, 月刊アフリカ(東京・アフリカ協会), 第37巻10号, 1997年10月発行, 28~32ページ。 “New Japanese Role in the Indian Ocean”, Journal of India Ocean Studies (New Delhi), Vol. 5, No. 1, November 1997, pp. 13-20. “Japanese View on Collective Security”, Journal of Peace Studies (New Delhi), Vol. 5, No. 6, November-December 1998, pp. 16-22. “Maldivian National Security –And the Threats of Mercenaries”, The Round Table (London), No. 351, July 1999, pp. 433-444. 「自由化のもと急成長を続ける展示会産業 -インド」,見本市展示会通信(㈱ピーオーピー),2003年10月発行。 「台頭するアジアの大国・インド」,「IBO News」(社団法人大阪国際ビジネス振興協会),2003年11月発行。 「非欧米圏への留学の可能性」,「留学交流」(独立行政法人日本学生支援機構),2004年5月発行。 「ビケタワ宣言の国際法的考察」, パシフィック・ウェイ(東京・太平洋諸島地域研究所), 第124号, 2004年7月発行, 36~48ページ。 https://www.jaipas.or.jp/124/124_4.htm” 「海外人づくりハンドブック・インド」,(財)海外職業訓練協会, 千葉, 2004年,(共著: 第2章の「職業訓練教育制度」を担当)。 「自由化の下で急成長するインドの広告産業」,「産業広告」(社団法人日本産業広告協会),2006年1月発行。 「観光客が「地上最後の楽園」の政治を変えた? モルディブ・ガユーム長期政権と民主化の展開」,「国際人権ひろば」(財団法人アジア・太平洋人権情報センター),2007年1月発行。 https://www.hurights.or.jp/archives/newsletter/section2/2007/01/post-234.html 「インド洋平和地帯が今後目指すもの ―国際法的アプローチ―」, 南アジア・アフェアーズ(岐阜・岐阜女子大学南アジア研究センター),第5号,2008年11月発行,32~52ページ。 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...タンポポのように!! 君島忠男さん(1979年卒業、商学部第11期、川嶋ゼミ、競技スキー部)2021年5月3日TIU Sparksに関心をお持ちの皆様、初めまして。本学1979年卒君島忠男と申します。 寄稿のご依頼を頂きまして、大変僭越ながら自分の在学時代から卒業、至現在を紹介させていただきます。 ゼミと部活で(1975年7月立山合宿)(1978年2月斑尾高原合宿) 私の生まれた地は、栃木県の塩原温泉。それ も上塩原で、山一つ超えると福島県という雪深いところでした。三歳からスキーを始め、小、中、高とスキー部で、もちろん大学でもスキー部に所属しておりました。当時の我校のスキー部は、体育会的厳しさと愛好会的楽しさが混然一体としており、私のこれまでの人生において非常に思い出深い1ページとして刻まれております。人との関わりの基礎を学ばせていただいたと思っています。 ゼミは川嶋行彦先生(後に秋篠宮妃紀子様の叔父となる)。勿論、マーケティングを学ぶことが目的でしたが、ゼミ紹介の一文に「自分の結婚式、或いは、結婚したいと思う相手とのデートの時は授業を休んでも出席扱いにする」とういう文面を見てフレンドリーな人間性に興味を抱き、定員5倍の難関を突破して川嶋ゼミ1期生となりました。 西伊豆でのゼミ合宿や京王プラザホテルでのパーティーなど思い出は沢山ありますが、学問への考え方を教えて頂いたことは今でもはっきりと記憶しております。幾つかありますが、特に、「広く学べ。そして、将来何か壁に直面した時に、その障壁を乗り越えるためには何のどの部分を学べばよいのか、が的確にわかることが大事」と。まさにマーケティング的シェアの考え方を教えて頂きました。川嶋ゼミでの学びは後の自分形成に大きく影響を与えて頂きました。 懐石料理の料理人 実は私、日本料理の料理人なんです。大学卒業後直ぐ、地元(宇都宮市)では有名な老舗割烹料理店に修行に出されました。出されたというのは、自分の意志からではなく長男としての宿命として受け入れたということです。住み込みで1日平均15時間労働。忙しく、週に2回は3時間ほどしか睡眠時間をとることができない状況でした。休みは月に2回。あの時代でも、あまり類のない厳しい修行でした。 修行を経て実家の料亭(宇都宮市)に入りますが、次第に自分の考える経営をしたく、28歳で自分の店を持ちます。母校で学んだマーケティング的視点で飲食店経営に挑みたかったのです。実家の仕事も手伝いながらですから、労働的には非常に大変でしたが、1988年4店舗目の開業を機に会社組織(株式会社Wグループ)に致しまして、現在までに31店舗の飲食店を多種開業して参りました。 理系的思考 そんな料理人の私が、なぜ文科省から表彰を受けたのか、不思議に思われた方がほとんどではないでしょうか。しかも、我が母校東京国際大学(TIU)は理系の大学ではありませんし。 私は、幼少の頃から算数、理科などの科目が好きで、高等学校では理科系進学クラスでした。自分で言うのもおこがましいのですが根っからの科学者魂があり、修行を重ねている時も、日本料理の長い歴史が生んだ数々の技法にほとんど解き明かされていない科学との密接な関係を感じていました。調理方法一つ一つに「なぜ?」という疑問が浮かび、先輩職人や料理長に質問しても煩がられるだけでした。自分で調べてみようと料理の修行をしつつ独学で勉強をし始めたのです。 高校で学んだ科学の基礎知識を活かし、料理修行を物理・化学の観点から捉え、「なぜ」を解明、「料理を科学する」先駆者を目指してきました。「なぜ」を解明する中、特に興味を持ったのが「甕(かめ)」の未知なる力でした。なぜ甕で「タレ」を保存するのだろう。焼酎などアルコール類を甕(オールドセラミックス)で寝かせると角がとれ、まろやかな味わいになるのは何故なんだろう。これがセラミックに興味をもった最初のきっかけです。セラミックからは、いったい何が出ているのだろう?調べる中で、特に興味を持ったのは遠赤外線やマイナスイオンでした。 自分の会社を立ち上げてから、当時交流のあった芝浦工業大学の先生の教えを乞いながら、セラミックスから発生するマイナスイオンの研究に夢中になり日々研究を重ね、1993年には株式会社Wグループ内に環境保全事業部NAZCAを創設しマイナスイオン発生素材の研究開発に取り組むこととなりました。 その後、2005年、遂にマイナスイオン発生セラミックスによる自動車からのCO₂削減装置「Super Ceramics JET1」の開発に成功。同年11月に量販店にて全国で販売することとなり、翌12月に環境保全事業部を独立させ株式会社NAZCAとします。 そうした環境保全活動の中、知人の紹介で2012年北海道大学 大学院 地球環境科学研究院 準教授 川口俊一先生と出会うこととなります。 (北海道大学) (北大内当社先端機能性材料開発センター) それから間もなく、川口先生の勧めもあり、北大敷地内にラボを創設し、二人三脚で取組んで研究開発に勤しみました。 3年後の2015年、タッチパネルへの防汚付加としてフッ素膜を自己組織化法にて成膜することに成功。一般ユーザー向けに商品化し、全国の量販店にて販売してまいりました。テレビ東京WBSや新聞、雑誌などで紹介されると大手企業からも声が掛かるようになり、発明協会の推薦を受け、私が筆頭者となり必要書類を作成し応募したところ「文部科学大臣賞」を受賞することとなりました。 近年は、その効果が防汚付加のみならず、水蒸気バリア性、耐薬品性、離形性などの用途に使用され、最近ではその特異性(単分子膜、共有結合、高生産性、etc.)から多数の半導体製造企業より注目されるようになり、令和2年、「科学技術分野の文部科学大臣表彰 科学技術賞」を受賞しております。 (帝国ホテルにて) (京王プラザホテル札幌にて) しかしながら、夢はまだまだ道半ばでして、私達が取組んでおります研究開発は、「次世代の太陽光発電システム」です。窓ガラスに、特殊な薬液を染み込ませたワープシート等で擦るだけでその窓ガラスが太陽光パネルになってしまうというものです。この「自己組織化成膜法」により、世界中の窓ガラスを太陽光パネルにして脱原発や火力発電によるCO₂排出の削減を目指しております。 夢の実現を目指して 2016年7月 スリランカ民主社会主義共和国に現地法人(Nazca Corporation)を設立。新たな太陽光発電システムに必要な良質な酸化チタンの採掘やスリランカの高純度のシリカ事業に着手しました。 スリランカのシリカ採掘から精製の様子 私達の考える塗るタイプ(化学反応で基板に結晶膜を成膜)の太陽光発電システムは、酸化チタンによりN型半導体を造りだすことに成功しています。同じくP型半導体、陰極、陽極と透明な薄膜で造ろうとしています。現在、張るタイプのものはありますが、効率がよくありません。私達はその6倍以上の変換効率を目指しており、曇りでもその効率が低下することのないよう紫外線による発電の研究開発をしております。 シリカは現在の太陽光パネルの主流の材料であり、スマホやタブレットなどのタッチパネル、液晶テレビ、パソコンなどの画面や光ファイバーなどの材料としても使用されています。販売においては、牛尾貿易(上海)有限公司、牛尾貿易(深圳)有限公司(ウシオ電機中国支社)等々商社との協業で行っております。 スリランカ民主社会主義共和国は、2008年まで内戦が続き、私が初めて訪れた時はまだ内戦の跡が色濃く残っていて警戒心もあり、簡単によそ者を受け入れるような状況ではありませんでした。 幾度となく訪れるうちに、少しづつ人脈ができてきたそんなある日のことです。コロンボ郊外にあるマンションの密集するプールサイドレストランで、現地の関係者とお酒を飲みながら食事をしていると、酒に酔った大男が仲間同士なのか喧嘩が始まり、一方的に殴りまくっているではありませんか。誰も止めようとはせず、関わりたくない様子。私は、他国に来てまでとは思いましたが止めに入り、私への大男の右ストレートを半月受けで受け、逆手を取って投げつけました(押閂投外)。男はしばらく起き上がれずにいましたが、少しして多少正気に戻ったのかほかの仲間になだめられ、なんとか事なきを得ました。 それを見ていたある大学教授が、悠長な日本語で私に話しかけてきました。大変驚いた様子で、興味深そうに「あなたは空手家ですか」というのです。それがきっかけで一緒に飲むことになり、それを皮切りに信頼を得、人脈が人脈を生みシリカ事業に繋がったのです。 (招待演舞で)(自分の結婚式での演舞より) 実は私は、母校入学時まだ授業も始まっていない3月末頃、少林寺拳法部2年生の佐藤充先輩に出会い道院に入門することなり、部活後道場通いをしていました。そして、今なお現役で続けております。山口県と離れてはいますが、佐藤先輩とも今尚交流はつづいており、4年後輩の少林寺拳法部の渡邊昭次とは宇都宮東道院で現在も一緒に汗を流しております。 人生の道しるべ石ころだらけの線路内でも根を下ろし、黄金色の花を咲かせるたんぽぽ 前述いたしましたが、元々私は、理系の学問が好きで、高校では理科系進学クラスにおりました。当然理系の大学にいくつもりで3年生の夏休み過ぎまで理学中心の勉強をしておりましたが、両親より経営の勉強を勧められ現東京国際大学にお世話になることとなりました。 好きな理系の学問を学ぶことはできませんでしたが、TIUでの学びは決して遠回りではなく卒業後の自分の人生への「道しるべ」となったのです。マーケティング、会計学(簿記、原価計算論、etc.)、国際教養等々多岐にわたり学ばせていただき、社会人としての基礎を身につけることができました。 そうした学問もさることながら、今でも鮮明に覚えておりますのは、金子泰藏初代学長先生と松本雅男部長先生の卒業式での贈る言葉です。金子先生からは、「賢いウサギは3つの穴を持つ」と。経営者となる者へは多角経営をしなさいということを教え、また、ビジネスマンとなる者へは、「この学校での学びを基礎として、是非、世界をまたにかけて仕事をする国際人になって欲しい」と。 42年も前のあの時代に既に、グローバル化の重要性を教えて頂きました。また、松本先生は、「石垣や線路など、どんな過酷なところにでも根をおろし黄金色の花を咲かす、そんなタンポポのような明るく根強い社会人になって欲しい」と。 私は、このお二人に頂いた教えを「道しるべ」として今日まで歩んでまいりました。一から会社を興し継続していられるのもTIUでの学びや体験が基礎となり「タンポポのように生きる」を目指してきたからと自負しております。 これからも決して驕ることなく、感謝の気持ちを忘れず、夢の新太陽光発電システム開発実現を目指して精進してまいりたいと思っております。 また、最近の母校の現役諸君の活躍を耳にしたり、テレビでの箱根駅伝の奮闘を観たりして非常に誇らしく思っております。TIUの卒業生であることの喜びを感じております。 2023年9月には、ついに池袋キャンパスも開校になり、いよいよ金子泰蔵初代学長先生が描いた東京国際大学の名の如く、世界の大都市東京から国際的な学生の育成・グローバル教育による国際ブレイン・サーキュレーション拠点の構築を一卒業生として楽しみにしております。 (君島忠男さんプロフィール) 1979年3月国際商科大学卒業(現TIU)。家業を継ぐため同年4月有限会社一八入社、日本料理の修行を積む。 1988年6月株式会社Wグループを設立。 1988年6月私事ですが、OB会(現霞会)栃木県支部発足の総会で20期の後輩と出会い1991年結婚。TIUに最大の恩恵を受ける。 1993年3月日本料理の化学的見地に着手し、環境保全事業部を創設。マイナスイオン発生素材の研究開発に取り組む。 2005年11月Super Ceramics JET 1開発、量販店にて全国で販売開始。 同年 12月環境保全事業部を独立させ、株式会社 NAZCAを設立。 2012年8月ウシオ電気株式会社と酸化チタンの新成膜技術で提携。共同研究。 同年11月「環状オレフィン樹脂からなる成形体表面への酸化チタン膜形成方法」で特許出願、取得(2016年9月)。 2013年2月「ガラスからなる形成体表面への酸化チタン膜形成方法」で特許出願、取得(2016年8月)。 2014年8月北海道大学内 北大ビジネス・スプリングに先端機能性材料開発センターを開設。 2015年2月アメリカでの「環状オレフィン樹脂からなる成形体表面への酸化チタン膜形成方法」特許取得。 2015年4月国立研究開発法人産業技術総合研究所(産総研)とNDAを交わし、北海道大学と当社の開発した技術による、新たな塗るタイプの太陽電池の開発に着手する。 2015年12月北海道大学と「直接接触法を用いた成形体表面への単分子膜被覆の方法及びキット」で特許取得。 2016年7月スリランカ民主社会主義共和国に現地法人設立(高純度シリカの採掘・精製・販売)。 同年9月当社技術による「三元触媒(自動車用排ガス処理装置)」で日立化成株式会社と提携・共同開発に着手する。 2016年10月「自己組織化法によるフッ素成膜(CS1)」で文部科学大臣賞を受賞。 2017年11月大日本印刷株式会社の新型オフセット印刷機に正式に当社のフッ素成膜技術が採用される。 2018年1月母校霞会より「霞賞」受賞 2020年4月科学技術分野の文部科学大臣表彰 科学技術賞受賞 マスコミ報道関連2015年6月から現在までに日刊工業新聞に5度、化学工業日報に掲載され、中小機構発行紙に2回、雑誌New Leader、WEB Journal、発明THE INVENTION等々計5回、スリランカ国営テレビ2度報道(シリカ鉱山開拓、Super Ceramics JET 1)、テレビ東京「WBS」トレンド卵などで紹介されている。 株式会社NAZCAHP http://www.nazca.cchttps://www.youtube.com/watch?v=tjiJnTKBEuo TIU 霞会シンガポール支部... Read more...トントン拍子に進まなかったことが、むしろ良かった! 西舘崇さん(2001年卒業 国際関係学部国際関係学科 下羽友衛ゼミ ESS TIUA)2021年2月22日13年間の大学生活を経て・・・2016年4月から念願の大学専任講師に 東京国際大学を卒業したのは2001年3月でしたが、その後、大学院に入るための院浪をして、2002年4月から東京大学の大学院に進学しました。そこで3年かけて修士号を、5年かけて博士号を取得しました。学部時代から数えると計13年間、大学生活をしていたことになります。 大学院を修了した後もすぐには就職ができず、研究者として外務省やシンクタンクなどで働いたり、大学非常勤講師をしたり、塾講師をしたりしていました。2016年4月より、共愛学園前橋国際大学にて専任教員として働き始めました。 専任になるまで長い道のりでしたが、それでもなお僕はすごくラッキーだと思います。たくさんの幸運が重なり、またたくさんの方々に助けて頂きました。 米国留学を断念して、下羽ゼミのフィリピン・スタディーツアーに参加する。 TIUで良かったと思うことの一つは、素晴らしい先生たちとの出会いです。中でも、3、4年次のゼミの担当教員だった下羽友衛先生の教えは、僕自身の現在の教育・研究活動の支えとなっています。 下羽先生から頂いた言葉で、今でも鮮明に覚えていることがあります。それは「今、米国に行ったらダメになる。留学はやめた方が良い。アジアに目を向けなさい」との一言です。TIUAから帰り、留学試験に合格して、ウィラメット大学で学ぶ権利を得た矢先のことでした。納得できず、先生に何度も問い返しましたが、僕は結局、留学を断念することにしました。 下羽ゼミに入った後は、ゼミ主催のフィリピン・スタディーツアーや韓国スタディーツアーなどに参加させて頂きました。そこで見聞きしたもの、学んだことは、僕の一生の宝です。例えばフィリピンでは、国際政治学の理論書を用いて現地の様子をどう説明するか、彼女たち・彼たちが抱える問題をいかに解決するかについて考えました。下羽ゼミにとってのフィリピンは、テキストを深く理解するための一事例では決してなく、テキストから学んだことを実際に生かす現場そのものだったように思います。 下羽ゼミで訪れたフィリピン、レイテ島十字架山にて(2002年) 慶尚大学(韓国)での特別講演にて「学生交流が東アジアを変える」をテーマに語る下羽先生(2007年) 自分自身と向き合うこと、そして生まれ育った地域について知ることの大切さを知る フィリピンでは下羽先生とともにNGOを設立し、調査・教育活動も行いましたが、その過程で上手く行かないこともありました。その一つが、自分たちと同世代の現地パートナーを見つけ、関係を築くことでした。 失敗の大きな原因の一つは、英語ではありません。それは、自分自身について語ることが出来なかったからだと考えています。当時の僕は、英語はそこそこ出来たと思いますが、自分が生まれ育った故郷の郡山(福島)についてはもとより、川越のことも、日本のことも、相手に伝えることが出来ませんでした。自分がなぜ大学で学ぶのか、なぜ国際関係学を学ぶのかさえ、話すことが出来ませんでした。 日本ではよく「国際理解」や「異文化理解」の話になると、相手のことを知ることの大切さが強調されます。でも、本当の意味で協力し合える関係を築く上ためには、相手のことを知るだけでなく、相手にも自分が何者なのかについて知ってもらう必要があります。そうでないと、そもそも相手から信用もしてもらえません。そのことにフィリピンで気付かされました。 大学で教鞭を取り始めて、自分自身に向き合うことや自分の生まれ育った地域について知ることがいかに大切か、改めて実感しています。どんなに勉強ができても、社交的であっても、語学に堪能であっても・・・自分自身について語ることが出来ないと社会でも、世界でも戦っていけないのではないか、と考えています。学生たちにはそれを伝えながら、大学の外に出て、地域で学ぶ実践を展開しています。隔年でフィリピンへのスタディーツアーも実施しています。 学生たちと訪れたサン・カルロス大学(セブ)にて(2017年) 学部時代から20年ほど経ちましたが、学び方も、論文書きも、就職活動も、思ったように行かないことの繰り返しだったからこそ、今の僕がいるのかなぁと思います。そんな中でいつも温かく見守って下さっているたくさんの先生方、先輩・後輩の皆さま、同僚や仲間たち、友人たち、そして家族の皆さんに、三郎さんや五郎さんたちに、心から感謝致します。 (西舘崇さんのプロフィール)福島県郡山市出身 安積高校卒業2001年3月東京国際大学国際関係学部国際関係学科卒業(下羽友衛ゼミ、TIUA参加者)2010年3月東京大学大学院新領域創成科学研究科博士課程修了 博士(国際協力学) 2010年4月〜2016年3月様々な現場での研究・教育業務(外務省、シンクタンク、塾、大学等)2016年4月共愛学園前橋国際大学国際社会学部専任講師2019年4月共愛学園前橋国際大学国際社会学部准教授※詳細などについては大学HPの紹介ページにてご笑覧頂けたら幸いです。→ https://www.kyoai.ac.jp/course-teacher/course-teacher-1372/ ※『日経新聞』(2021年2月10日付)の「UPDATE 知の現場」にて共愛学園前橋国際大学の取り組みが紹介されており、西舘さんの授業の様子も紹介されています。機会がありましたらご覧ください。 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...「たくさんの素晴らしい出会いに感謝」 曽我部光由さん(1978年卒業 商学部10期 石井寛ゼミ) 2021年2月8日1978年国際商科大学(現東京国際大学)商学部卒の曽我部光由と申します。 数少ないICCの後輩かつ友人の島田昌己さんに紹介&背中を押され、恥ずかしながら今までの人生の大半を占める海外出向生活の良い時代大変な時代をまとめて振り返る良い機会と思い寄稿させていただきます。 ICC学生時代を振り返って 四国の田舎町の裕福でもない家庭で育った私が海外とくにアメリカにあこがれを持つきっかけは、ミッキー安川さんの自伝漫画だったと思います。戦後間もない時代にお金もなく言葉も分からない米国に行って奮闘されたお姿に「自分もいつか体験したい」と漠然と思ったものです。 当時国際と名のつく大学は今ほど多くなく、私の中では今では死語となっている「ハイカラ」に感じて受けた国際商科大学に入学することができました。残念ながら卒業までの5年間は褒められたものではなく生活に追われアルバイト三昧で、島田さんのように留学と学業に情熱を傾けられた誇らしい学生生活と比しまして恥ずかしながらやっと5年でICCを卒業できたといった有様でした。 それでも交換留学中でキャンパスで学んでいる姉妹校W大生のカウンセラーとしてお世話をしながら様々な出会いができたのも良き思い出です。W大の当時副学長だった故Dean Yocum先生に「W大の大学院でDegree取りたいなら私が推薦してあげる」という温かいお言葉に、真剣に留学を考えた時期もありました。米国留学にあこがれ、交換留学していたW大学生の友人たちに誘われ卒業前にW大キャンパスも訪れ特別体験授業も受ける機会も得られました。オレゴンの州都Salemの歴史あるキャンパスや自由な学生たちの雰囲気に魅了され、Graduate Schoolに必須のGMATの難解さも考えずその気になったものです。しかしながら実父が病に倒れ入院。そんな中で不確かな夢を追い続ける余裕もなく実家の父の生存中に就職して安心させなければと遅い就活をスタートした次第です。 (ウ大交換留学生のカウンセラーをしていた時) 卒業後、メガネのパリー三城入社 同級生が内定を複数社もらいだした後でスタートした就活、ましてや学生最後の大切な人生のイベント(就活)を真摯にとらえず周りに流されて何とかなると人生をなめていたと思います。「異文化との出会い」にほのかな期待だけで海外に拠点のある企業にばかり足が向き、甘い考えで受けた旅行会社の最終面接に遅刻するというポンコツぶりでした。そんな中、眼鏡チェーン企業という認識すら薄く国際性豊かな小売り企業に映った眼鏡のパリー三城(現三城ホールディング)の入社試験を受け、運よく拾っていただきました。 入社当時1978年には、海外拠点と言っても社名にもある都市のパリ、そしてシンガポール、法人設立したばかりのハワイのみでした。同期入社数は150名以上と当時の三城の企業規模からは多すぎる採用でしたが、会社も専務(二代目オーナー)も当時若く勢いがあった時期だったと思います。 それでも小売業とは言え、扱う商品の眼鏡が視力矯正商品という医療関連サポート小売りの仕事に自分でも驚くほど思いのほかはまり、プライドを持って業務に没頭できるようになれたのは幸いでした。もちろん銀行に勤める友人たちから週末に誘われるたびに、周りがレジャーで出かける週末が一番多忙になる小売業の悩める定めを感じました。嫌気がさして辞めていく同期入社の仲間を送り出すたびに「因果な商売」と他業種が羨ましく映り、小売りが真に自分の天職なのか?と心が揺れたのも事実です。 三城は1979年当時海外第2番目の法人(海外進出第1号はパリのオペラ店)として、シンガポールに当時旧ヤオハン所有のプラザシンガプーラに進出しておりました。入社2年目でお客様のエスコート係としてシンガポールに社員旅行で出かけた時、当時の支配人の活き活きとして働く姿が目に焼き付きました。朝の3-4時まで私たちやお客様を接待し、その翌朝10時前にお店で全現地社員への朝礼でてきぱきと指示する姿に、そして2号店に向けての現地ディベロッパーとの交渉事も目の当たりにし海外支配人という職位にあこがれたものです。 入社3年目にハワイ法人への出向を命じられました。 その後人事に海外勤務希望をアピールし続けたことが幸いし、入社3年目にハワイ法人への出向を命じられました。 時は1981年5月、日本人投資家によるオアフ島不動産バブルが始まる前でしたが、そのころでもすでに巨大アラモアナショッピングモールの当時オーナー企業が日本のスーパーダイエー社、ワイキキの主要ホテルも故小佐野賢治氏率いる国際興業社に買収されたあとでした。私どもパリー三城ハワイ店もカラカウア目抜き通りで営業していましたが、お客様の半数が現地のいわゆるローカル日系のお客様、そして半数近くが日本人ツーリスト、特に新婚カップルの方々でした。ここは本当にアメリカ?と感じるくらいアウェイ感もなく、当時の州知事も日系のジョージ有吉知事で島中が「アロハスピリッツ」で包まれていて、我々日本人にとってはまさしく魅惑の楽園だったと思います。 ただ周りはリゾート気分満載でも、仕事する身になると異なります。初めての海外店での勤務はワイキキという観光地だからこそ営業時間も長く、ハードな毎日でした。現地のお客様や本土からのお客様への英語での販売では失敗の連続に自己嫌悪の毎日でした。「あなたじゃダメ、ちゃんとした人に代わって」と何度言われたことでしょう。お店は設立3年経っていましたが、お家賃も景気に連動して毎年上昇し法人の資金繰りも芳しくありませんでした。今のハワイも米国一物価高の州ですが、当時は1ドル=230円前後で、何を買っても日本の倍ほどしていた記憶があります。 当時の支配人が諸事情により退社後、赴任して3年弱の何の功績もない私に仮とはいえ資金繰りが厳しい法人の支配人を任せた親会社はよほど人材不足に悩んでいたのでしょう! 法人とは言え、私を含め社員4名で自転車操業のお店の管理は文字通り綱渡り状態でした。毎月末買い付け商品や家賃、人件費などの支払いに追われていたのを覚えています。今思えば、この時期に私自身の中で「雇われサラリーマン」から零細ですが経営者として成長できた時代なのかもしれません。小さいお店の管理ですが、販売や眼鏡加工はもちろん商品調達のための仕入れや貿易業務も私一人がすべて担いわなければ会社が機能しません。当時PCメールも存在しない時代なのでTelex通信(FAXが出回るまで)、家賃交渉や店舗改装、決算書などの会計諸表作成、収支増で資金潤沢になった時点での新店出店計画、雇用と人材育成などなど、すべて初めての取り組みで大いに職位に育てられた時期でもありました。商学部出身にもかかわらず、簿記会計学などの学業に専念しなかったことを悔やみ自己嫌悪の毎日でした。毎四半期に恥を忍んで親会社の経理部長や現地の会計士に初歩から教えていただいたのを覚えています。 それでも私が支配人になった1986年から1991年にかけてのバブル景気(日本でのバブル崩壊は1989年の株価暴落)にはワイキキ全体が「ショッピング天国」状態で、パリ三城もその恩恵を受け現地法人のキャッシュフローも毎年右肩上がりに増えました。そしてその勢いで3店舗にまでお店も増やすことができました。 (1988年ハワイの自宅で) 常夏のリゾート地ハワイで家族を持ち子供(息子二人)にも恵まれ、このまま何の疑いもなく家族一同で第2の故郷ハワイでの永住を考えていた矢先に豪法人移動の話が入ってきました。 バブルに連動したハワイ経済躍動の波に乗っただけの現地会社のRed to Blackという実績だけで規模の大きい豪州法人社長任命とは、親会社が私に対して過大評価をされたのだと思います。当時の三城のオーナー&会長の直々のご指名による人事異動に逆らえるはずもなく、後ろ髪をひかれる思いで新天地であるシドニーに向かいました。 豪州法人出向のためシドニーへ赴任 1994年春に移動したころのシドニーは、南半球一の繁華街と呼ばれていたにもかかわらずホノルルの広く整備された町でのゆったりした運転に慣れた私には豪人の運転マナーの悪さ、そして道路も狭くデコボコしているように感じ戸惑い辟易としたものです。当時の豪法人のスタッフ数は200名前後でシドニー9店舗、メルボルン7店舗、キャンベラ1店舗と広い大陸に店舗間の距離も半端なく移動も大変でした。収支の出ているお店がほとんどなく、まずは定石通りスクラップ&ビルトで2年で10店舗閉店、その後収支の出る立地やモールに14店舗オープンし計21店舗体制にし、何とか赴任4年目で利益を生む法人に立て直すことができました。お客様との出会いもそうですが、ハワイ法人のような規模の小さい会社の運営では経験できないマーケット戦略(テレビでのCM制作やWestfieldなど豪州大手ディベロッパーとの交流)の没頭し、現地法人の発展期を通して大切な出会いをたくさんさせていただいた時代でした。 わがままな私に辛抱強く付き合ってくれた現地の優秀な仲間たちにも恵まれて、私自身も様々な面で成長できた豪州赴任でした。 赴任当初は現地の会社も資金枯渇状態で、恒例の会社主催の真夏(夜10時まで日が長く明るい夜)のクリスマスパーティーも節約のため近隣の河川敷にある公園やキャンプ場にテントを張って食事もケイタリング外注して催している状態でした。そんな会社主催のパーティーも年々資金的余裕ができ出すごとに、ホテルのボールルームに格上げしていき、赴任の終わりごろには豪華なシドニー湾クルージング客船を貸し切りバンドを呼んでのパーティーができるまでになりました。 当時のシドニーは、2000年のシドニーオリンピック開催に向けて国を挙げての建設ラッシュ、そしてレベルの高いインフラ整備を国際的にアピールする絶好の機会と豪政府も豪国民も大いに意気高揚としていました。その余波で移民も激増し経済成長も著しかった時代でした。 私の豪法人再建も当時のオリンピック好景気という時代に助けられ、運が良かっただけなのかもしれません。 仕事に没頭し家庭や自分自身の身体の管理をおろそかにしていた報いなのか、医者いらずだった私の身体にも2000年12月ごろ、メルボルンへの出張前日に異常な倦怠感に襲われました。 かかりつけの主治医に診察してもらったところ脾臓がかなり腫れているとのこと、詳細は追って連絡とのことで自宅療養するように伝えられ帰宅しました。その夕方に、主治医から「明日朝すぐに入院してもらいます。」との電話があり、病名を告知されました。 主治医の診断は「慢性骨髄性白血病」。今でこそ新薬が開発され完治もしくは寛解まで治癒できる病気にまで医療は進歩していますが、当時は白血病と言えば「不治の病」骨髄移植しなければ余命3-4年と告げられました。 2001年3月、海外出向から20年後に病気療養での帰国 骨髄移植をするためには、まず骨髄提供者ドナーを探さなければいけません。HLA(Human Leukocyte antigen)という白血球の型が適合する確率は兄弟姉妹で25%、幸い私の妹が適合し、無事東京で移植手術を行い命拾いしました。 今だから喉元過ぎれば的にさらっと記していますが、当時は家族はもとより本当に周りの皆さんにどれだけ心配をかけ、どれだけ助けていただいたか。人と人との大切な繋がりや、周りの皆様にいただいた温かい思いやりに深く感謝してもしきれないくらいです。 特に当時の三城オーナー兼会長には、骨髄移植の名医と病院までご紹介くださり高額な治療費だけでなく退院後の住居など親身になってサポートいただき、ドナーである妹と同様「命の恩人」と深く感謝しています。 2002年に久しぶりの国内で仕事復帰 1年近い病気休暇のあと、本社事務所の海外事業に仕事復帰して2年後東日本営業担当を命じられました。希望していた念願の営業現場復帰ですが、当時で300店舗近い店舗の営業統括を任されたのですからかなり気負っていたと思います。 海外支配人歴が長く全ての部署をコントロールしなければという責務に対する思い入れが強く、営業外の本部と他部署とも大小の衝突を繰り返していたと思います。2007年春にシアトル支店を命じられた時は、52歳でようやく母国日本で家族と一緒に地に足付けた人生を描いていたこともあり正直Reluctantという言葉がぴったりの気持ちでした。 二人の息子は日本の大学に通っていましたので日本に残しましたが、大きな病の経験もありさすがに単身赴任はきついので妻にお願いしてシアトルについてきてもらいました。 2007年6月 シアトル支店出向 赴任先シアトル支店も業績が長年厳しく、私の52歳過ぎての出向もどうやら海外子会社の再建請負人のような人事異動と後で聞きました。 店舗閉店による支店縮小の最中で現地の社員は会社の財務状態を熟知しているだけに、支店が清算されるか否か非常に敏感でした。 たとえ私の本音が「不承不承の赴任」だったとしても、そのような素振りはおくびにも出してはいけないと努めたものです。 赴任後すぐの2008年のリーマンショックもシアトル経済特に小売業を直撃し、支店存続の危機にもあい、苦しい時代のかじ取りを強いられました。苦節4年目でようやく支店の通期利益が出るまでに業績も回復できたのも良き現地スタッフに恵まれたおかげだと感謝しています。 (PortlandからMauiJim本社のあるイリノイ州PeoriaにMauiJimオーナーの自家用ジェットで) (MauiJimとの商談後の食事 Peoriaにて) サンフランシスコでの同窓会 2018年には同じICC卒業生の羽鳥誠一郎さんご夫妻、島田昌己さんご夫妻とサンフランシスコで久しぶりの同窓旅行を楽しみました。羽鳥さんご夫妻、島田さんご夫妻とは在学時代からの長いお付き合いで私の結婚式にもご出席いただき、ハワイにもご夫婦で遊びに来ていただく数少ない大切な友人でいてくださっています。 (サンフランシスコでの同窓会) (SEFCO球場で島田ご夫妻と) たくさんの素晴らしい出会いに感謝 2020年のコロナ禍の始まりは、世界中人々を翻弄し私どもの生活習慣を大きく変えました。もう元の日常には戻らない、異なる生活様式の導入を余儀なくされるのではと言われています。 私どもの支店が位置する北米Washington州も昨年3月末から6月一杯の州政府主導のLockdownは、途絶えた収入源に実店舗を商う小売りのもろさを感じたものです。2021年の今も北米では外出自粛令が続いています。お店は幸いエッセンシャル小売り(Healthcare小売り)として入店数制限を条件に細々と営業させていただいています。経営者として、社員一人一人の雇用と健全な生活を守るため、急速な変革期に適応すべく全方位で舵取りに専念しなければいけません。 不透明な2021年の始まりですが、「明けない夜はない」新しいポストコロナ禍での通常生活に戻れることを願い、日々健康であることに感謝しながら企業人として最後のご奉公に励んでいます。 様々なワクチンの接種がここシアトルでもスタートし、身近の知人も受けた話も多くなってきています。 私共夫婦も、異なる国や都市で暮らす二組の息子夫婦と孫たちのところに訪れることを指折り数えながらパンデミック終焉を待っています。 周りの同世代が定年で隠居生活に入る話が多くなりました。あと少しこの支店が盤石になることを見届け、夫婦で懐かしいハワイでの隠遁生活を夢見ているところです。 皆様におかれましても、愛するご家族や大切なお友達に会いに行きたくても旅行もままならない中、ご不便な生活が続いているとお察しいたします。今回のパンデミックが終息するのもあと少しの辛抱と信じたく存じます。 新しい生活様式で自由に旅行ができるようになり、TIU卒業生の皆様との出会いをシアトルもしくはホノルルで楽しみにしています。 どうぞよろしくお願い致します。 次男の娘(孫娘)の1歳誕生日 (曽我部光由さんプロファイル) 1955年3月愛媛県新居浜市生まれ 1973年4月国際商科大学(現東京国際大学)商学部入学 1978年3月国際商科大学商学部卒業 石井寛ゼミ 1978年4月(株)パリ三城 入社 1981年5月パリ三城ハワイ法人MIKI INCに出向 1986年2月ハワイ法人MIKI INC 支配人に昇格 1994年5月パリ三城豪州法人に出向 Paris miki optical/Vision Express 現地法人社長に任命される。 2001年3月病気治療&療養のため帰国 2001年7月移植手術準備のため東京慈恵医大病院に入院 2002年4月(株)三城 新横浜本部 海外事業部に職場復帰 2004年4月(株)三城 執行役員東日本営業担当を任命される。 2007年5月Paris miki USA Seattle Branchに支社長として再び海外再出向 2021年2月現在にいたる。 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...たくさんの物語がある人生を歩みたい内山九十九さん(1984年/17期 商学部卒 増田謙一ゼミ バスケットボール部)2021年1月14日街中でよく見かける居酒屋「かぶら屋」は、首都圏を中心に現在63店舗展開されており、急成長しています。内山九十九さん(1984年商学部卒)は卒業後、築地の水産会社や東京小僧寿し本部で活躍されました。その後、経験を活かして事業計画書を持ち込んで、かぶら屋の運営会社に契約社員として入社。3年後には(株)フードゲート(現在のかぶら屋)の代表となられました。 現在は親会社の(株)フーデックスホールディングスの常務取締役として、コロナ禍における新期事業にも取り組を始めていらっしゃいます。2021年に還暦を迎え、また新たなチャレンジを始めていきたい、と述べられています。 学生時代から築いてきた同窓生人脈を、これからも幅広く広げていきたい。入学してすぐ、背の低い体育会系の学ランを着た方から声をかけられ、小学校から10年やってきた剣道部を避けるために、「バスケでもやろうかと思って」と言ったところ、その方が、まさかのバスケ部の2年生。小学校時代ミニバスケをちょっと経験したくらいでしたが、バスケ部に入ることに。 入学後半年も経たない時期に眩暈の病気に襲われ部活動を休む事になったことがきっかけとなり、退部。先輩の下宿(はつかり荘)に呼ばれ、説得される中で辞めるのなら、俺を殴ってからやめろ?的な熱いノリから、みんなの前で本当に先輩を殴ってしまって辞めました。(笑)・・・中村先輩。すみませんでした。 しかしながら、そのバスケット部に入ったきっかけから、大学時代、先輩方とのつながりが拡がり、退部後もお世話になりました。 また、駅近くの喫茶店「蓮豆」で2年ほどアルバイトをさせて頂いた事で幅広くOBの方、地元の方とのつながりができ、ゴルフ部やスキー部の方など今でもお付き合いさせて頂いております。 大学時代は殆ど大学にも行かず勉強もせず、パチンコ、麻雀、アルバイトの生活でした。 そのため、ゼミの仲間やクラブ活動の仲間といった大学時代の同窓はおりませんでした。 1年のチュートリアルで同じクラスだった同期から声をかけられ、霞会東京支部の集まりに参加したことがきっかけで、また先輩後輩とつながる事ができました。今では先輩、後輩の皆様に事ある毎に気にかけて頂きお店を利用して頂いており感謝しております。 事業計画書を持ち込み、契約社員から3年後に(株)かぶら屋の代表取締役に 就活も全くせず、父のコネで築地の水産会社に入社。父が静岡で水産市場を経営していたこともあり、食関係であれば、無くならないものであり、食べる事が好きでしたので、水産系で商社的な会社という事で㈱合食というイカ専門の水産会社にコネ入社。 要領がよく、営業成績もよかったのですが、売り上げ予算を達成すると、喫茶店や得意先でサボってばかり。次年度のために、翌月に売上を回し、年度末には翌年に売上を回す。そんなザ・サラリーマン生活。 営業では、美味しいと思っているものをなかなか扱ってもらえない事。自分のポリシーに反して、美味しくないものまで営業マンに販売割り当てがあり売らないといけない事。 自分が美味しいと思うものを直接売りたいと思うようになり、5年半働いた会社を辞めました。 当時の水産会社では週休2日も有給もあり得ず、土曜日は半ドン。朝は6時から市場。日曜もスーパーの応援等もありましたので、まずは週休2日制。年間休日110日に目がくらみ、給与希望に応ずる。そんな広告につられて東京小僧寿し本部の商品部に入社。 入社後1年現場経験を積み、本部で水産会社での経験を生かし仕入れ担当に。バブル崩壊後も数年間は業績も良く、仕入の担当は数を良い商品を数集める事で非常に楽しい仕事でしたが、業績が悪化し始めると一変しました。 このままではいけないと思い、会社への提案を行い、マーケティング部を作ってもらいました。ここでの経験や勉強を多くさせて頂いた事が現在につながっています。 その後、会社への事業提案をいくつか行い、結果として会社での新事業には至らず、自分でやろうと独立を決め退職をしました。 その時の送別会で後輩に連れていかれたのが、今の「かぶら屋」。 年末の忘年会時期の一番忙しい日で入れるお店がなく、後輩からやりたいと思っているお店って、こんなお店ではないですか?と連れて行かれ、混んでいて入れなかったのですが、働いている人達がすごく良い笑顔で、近くに1号店があると教えてくれ、席が空いたら連絡しますと近くの立ち飲みの1号店に行くと、そこで働いているアルバイトの子達がまた、良い笑顔でむかえてくれました。どうして、こんなに良い笑顔で働けるのだろう? 前職では、鏡に向かって口角を上げなど笑顔の作り方を教えていましたが、本当の笑顔はそこにはありませんでした。 翌日、運営会社の㈱フーデックスに事業計画書を持ち込みこのお店を自分にやらせてもらいたいと提案。 翌年、契約社員として入社して3年後に㈱フードゲート(現在の㈱かぶら屋)の代表となり、かぶら屋の事業展開を行ってきました。 元々、お酒をほとんど飲まない自分が居酒屋事業を始めたのですが、昔の居酒屋は屋台的な感じで周囲の人と自然と仲良くなってしまうような場所でした。 ところが、大手チェーンが生まれ、居酒屋の大型化、そして個室化、居酒屋メニューなどと言われ、どこへ行っても同じようなメニューばかり。 そんなお店ばかりとなってしまった居酒屋。都心部では毎日、コンビニ寄ってお弁当とビールを買って、家で一人でと言った人が増える中、会社でもPCに座ってメールでのやりとり。 人と人のふれ合いの場が無くなってしまった。 日常の中で何かホッとする。そんな場所って必要ではないか? そんな想いで始めたのが「小さな居酒屋」かぶら屋です。 小さな店だからお客様とスタッフの距離も近い。スーパーとコンビニの違いのように、スーパーの方が安く品揃えがあるのにコンビニで買うのは、小さいから入りやすく一つだけ買って出やすい。だからちょっと寄って買う。 居酒屋も同じ。大型店やひざまずいて接客されるような店では一杯では帰れない。 一杯だけでも立ち寄れる。そんなお店がかぶら屋。 小さいお店は収益性が低いのですが、それをカバーするためのシステムが必要となります。 居酒屋というスタイルにファストフードの概念を取り入れ、必要な時に必要なものを作り、必要な時に必要な人を入れる。ジャストインタイムの考え方。 小さなお店でも収益が上がるスタイルを作ってきました。(かぶら屋は現在63店舗。) 昨年2019年12月末で社長退任し若い世代に引き継いでおります。 現在は親会社の㈱フーデックスホールディングスで常務取締役となり、かぶら屋の事業会社は営業に専念する形を取り、本体で仕入れ物流等を担う形にして全体をサポートする業務を行っております。 コロナ禍における現在は、新事業へ向けた取り組みを始めているところです。 今年に還暦を迎え、また新たなチャレンジを始めていきたい。 海外への展開は台湾、上海などに進出していますが、担当がいて店舗運営しています。自分は外へ出ていってはおりませんが、これからの日本企業はもっとグローバルな視点で経営を考えていかなければなりません。超々高齢化を迎える日本、急速な人口減少を迎え、市場が縮小している中、従来型の大量消費時代の仕組みから、いかに無駄を省き必要な時に必要なものを提供する。そうしたジャストインタイムの仕組みがどんな業界にも通ずることと思います。こうした考えを基盤に川上から川下をつなぎ無駄を省く。 そのために、売り場を作り、そこに向けて生産者、流通、システムを巻き込んだ事業展開を図りたい。そんな想いで事業を考えております。 2021年に還暦を迎えます。 自分の一つの夢と申しますか、「たくさんの物語がある人生を歩みたい」と思っておりました。 そんな事で60歳を迎え、また新たなチャレンジを始めて行きたいと考えております。 人生100年時代。 70代でも現役でご活躍をされている方がいます。 多くの人が笑顔で働ける。そんな場所を創っていきたい。働く人もお客様もたくさんの笑顔が生まれる場所を拡げて行くことが自分の役割だと思っております。 自己紹介的な内容となりましたが、これからもどうぞ宜しくお願い致します。 (内山九十九さんプロフィール) 1961年 静岡県静岡市生まれ 1979年 静岡県立静岡西高等学校卒 1984年 国際商科大学商学部卒 増田謙一ゼミ バスケットボール部 1984年 ㈱合食 東京支店入社(築地場外、アメ横、山梨、長野担当) 1989年 ㈱東京小僧寿し入社その後合併し㈱小僧寿し本部(仕入・マーケ・商品開発担当) 2003年 ㈱フーデックス 契約社員として入社 2006年 ㈱フードゲート設立(現㈱かぶら屋)代表取締役 2019年 社長退任 2020年 ㈱フーデックスホールディングス 常務取締役 (会社ホームページ): 株式会社かぶら屋 株式会社フーデックスホールディングス 「かぶら屋」開業支援 https://www.facebook.com/kaburaya.bz/ https://twitter.com/kaburaya_ieg https://www.youtube.com/watch?v=gAbfGatHRZg (展開ブランド): TIU 霞会シンガポール支部... Read more...霞会の海外支部として、グローバルな視点から同窓会を盛り上げていきます。孫玲さん(1994年卒業 /26期 経済学部国際経済学科 鐘ケ江ゼミ 写真部)2021年1月2日インターナショナルな大学に憧れ、TIUへ入学。 1994年卒経済学部卒業の孫玲です。東京国際大学TIUに入学する前は、拓殖大学の留学生別科の学生でした。拓殖大学の留学生別科修了後の成績と出席率で、そのまま受験無しで拓殖大学の商学部に進学出来たのですが、東京国際大学というインターナショナルな名前と海外留学制度に引かれてTIUの入学試験を受けてTIU生になりました。もう一つ理由は拓殖大学の商学部の一年~二年目は高尾山キャンパスで勉強しなければならないので、当時貧乏な留学生の私が引っ越ししたくなかったというのもありました。 1990年に入学した時に、一年目の情報処理で人生初めてパソコンを触りました。ビジネス実務に関する講座を、早くから受講できたのは良かったです。そして数多くの興味ある部活の中から、私は写真部を選んで充実な大学生活をはじめることになりました。いまも写真は好きな趣味の一つです。TIUの教授陣はとても優秀な方々ばかりでしたが、留学生にとっては日本語の先生方もとても教育能力が優れていて、大変親切でした。 二年目に人気の鐘ケ江先生ゼミに入れたのはとても嬉しかったです。当時ゼミでは湾岸戦争について、イラクとイランとの紛争は何が原因なのか、どちらの主張が正論なのか激しい議論をしたことなどは今でも思い出に残っています。いま4年間の大学生活を振り返ってみると、ゼミ合宿やクラブ活動で青春を謳歌し、沢山の同級生、先輩、後輩の友人ができたことはかけがえのない宝物となりました。シンガポールに在住してからも鐘ケ江先生との近況報告を続けていましたので、2010年前半にはゼミOB・OGがシンガポールに3名、インドネシアにも赴任・在住していることがわかり、ゼミの結束は凄いなと思いました。(冬休み期間中、長野での鐘ケ江ゼミ合宿) 在学中にインターンシップで仕事をはじめ、結婚を機にシンガポール支店へ転籍。 大学四年の時に私はカナダ留学を計画している時に、大学就職課から本社は埼玉県にある日特エンジニアリング株式会社から求人の依頼があって、中国ブランカン事業好調の為、営業本部海外窓口担当を急募しているとの連絡がありました。就職課は私を推薦してくれ、二回面接を受けて入社内定を貰いました。四年生は卒論と週一回のゼミだけなので、直ぐ日特の営業本部でのインターンシップの仕事が始まりました。仕事は海外/中国、台湾営業窓口担当、機械マニュアルの翻訳、海外から見学、研修に来るお客様の案内及び通訳など。その翌年3月卒業後、外の9名の日本人男性新入社員と一緒に新入研修を受けてから、仕事内容はほぼ代わり無く、インターンシップから正社員に切り替えられました。 (卒業後の新入社員時代)(日特本社退職時に同僚との記念写真) 大学4年シンガポール旅行した時に出会った旦那と結婚を決めたので1995年5月会社に辞表を出しました。上司から結婚後も仕事をしますかと聞かれたので私はyes と答えました。上司はシンガポール支店で働きませんか? というわけで私は本社一旦退職して、シンガポール支店に入社しました。日特シンガポールで私は日系顧客担当、営業及びサービスサポート、本社の連絡、技術資料の翻訳及び日本からの技術者の通訳役などの仕事でした。 日特で9年間働いて退職した後は、子育てに専念していました。 世の中狭いのか?同窓生が何処にもいるのか?とびっくりした出来事がありました。会社を辞めた数年後、日特シンガポール支店長として赴任して来たTIU後輩と同窓会での名刺交換で奇遇な出会いとなりました。 2011年次男が中学生になった時に、そろそろ仕事に復帰したいとアムスシンガポールに入社しました。その後8年間は民間財団法人であるアジア国際支援財団の仕事を手伝いしました。仕事内容は毎年年末から学生募集して、翌年の夏休み期間中(6月)にシンガポールのトップ高校の優秀な生徒を連れて日本見学の旅行を行っていました。旅行プログラムは日本の著名大学10校を見学、日本の学生との交流をはじめ、国会、首相官邸、政府機関、企業訪問などです。その成果として、旅行に参加した学生の中から高校卒業後に毎年何名かが日本の大学に進学しています。(実績として東大、早稲田、慶応、上智、外語大、立命館など) (アジア国際支援財団のオフィスで)(シンガポール高校生の日本訪問) 去年いろんな事情があってアムスがシンガポールからの撤退に伴い、アジア国際財団がシンガポールでの活動も休止してしまいました。 コロナ禍に翻弄されて、世界中の人々の生活スタイルが変えられました。去年の春から始まったサーキットブレーカーの困難な時期を乗り越え、国内感染者はゼロになっています。今は少し落ち着いて第三解除段階に入りましたが、私も去年から全力でジュネスグローバルの健康飲料などのオンラインビジネスに取り込んでおります。それ以外には財務管理、趣味のお琴の勉強などをしています。 グローバルなTIUの知名度を上げるように、今後も同窓会活動を活発に進めていきます。 シンガポールはアジアにおける金融、経済的な面でのハブの役割をなしており、日本からも多くの企業がここにアジア統括拠点や支店を設けています。国際性と語学力の高いTIU卒業生は常時15名から20名ぐらい駐在しています。 霞会シンガポール支部は霞会の最初の海外支部として2003年に設立されましたが、 6代目支部長として歴代支部長の積極的な活動を継続しています。シンガポール在住者との懇親会をはじめ、東南アジア在住の同窓生との交流やネットワークずくり、大学への貢献(インターンシッププログラムへ・E-Track留学生募集への協力など)等の活動を行っています。また、昨年5月よりこのグローバルに活躍するTIUの卒業生ホームページ”TIU Sparks”を立ちあげておりますので、霞会の皆様からの寄稿や運営のご協力のほどよろしくお願いします。 これからも国内支部の同窓生と一緒に力をあわせ、グローバルな霞会ネットワークの拡大と東京国際大学の知名度上げるように努力をしていきます。 (支部設立前の懇親会2003年)(支部懇親会2019年) (孫玲さんプロフィール) 中国 桂林出身 1985年 大連外語大学で日本語を勉強 1987年末 日本で一年間日本語学校、拓殖大学留学生別科修了 1994年3月 東京国際大学 経済学部国際経済学科卒業 鐘ケ江ゼミ 写真部 1993年4月 日特エンジニアリング(株)に入社 海外/中国、台湾営業窓口担当 1995年6月 日特エンジニアリング(株)シンガポール支店に転籍、日系顧客担当 2011年8月 アムスシンガポール(株)入社。民間財団法人アジア国際支援財団業 2019年11月 アムスシンガポール(株)で8年間の勤務後、退職。 現在、ジュネスグローバルの健康飲料などのオンラインビジネスに従事。 2018年9月より霞会シンガポール支部、6代目の支部長を拝命。 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...好きこそ物の上手なれ 鈴木康浩さん(1992年卒業、教養学部国際学科 下羽友衛ゼミ ゴルフ部) 2020年11月16日中学・高校時代は、米州・豪州など計10年間、海外で過ごしました。親の仕事の関係で14歳から20歳まで米州・豪州など計10年間、海外で過ごしました。日本語も英語も中途半端な覚え方をしており、今でも言語にはコンプレックスを感じています。 当時12歳だった私は1980年の全米オープンで青木功プロが健闘する姿を父親とテレビで 観戦。その頃からゴルフに興味を持ち、15歳で初めてクラブを握った。17歳の頃には時々80を切るぐらいに上達し豪州ジュニアの試合にも参加する様になったが、少し“やんちゃ”だった事もあり、豪州ジュニア協会から出場停止処分となり、あっさりとゴルフを辞めることになります。 再び、クラブを握ったのは大学のゴルフ部に入部してからとなります。1年生から団体戦に出場させて頂き主力選手の一人であったが、ある大学の試合で当時アマチュアだった伊沢利光選手や川岸良兼選手のショットのすごさに驚いて、ゴルフに対するやる気が全く無くしてしまった事を思い出します。(後悔) 大学では下羽友衛ゼミで、現場主義で真理を見極める討議をすることが大事だということを教えられました。当時、日本の企業に就職するには日本の大学を卒業しなければ就職が難しいと言われていた時代であり、縁があってTIUに進学。小規模の大学であり学生の数は少ないが、その分、友人だけでなく教授や学生課とも接する機会が多く、私にとって様々なアドバイス等を受けられた事もあり充実した大学生活を過ごした。特に下羽友衛ゼミでの活動は、現場主義で真理を見極める討議をすることが大事だということを教えられました。 39歳でシンガポール赴任、人との出会いこそが財産と感じました。大学卒業後、就職し26歳で結婚。仕事が忙しかった事もあり、39歳までゴルフはほとんど やらなかったですね。 39歳の時に海外勤務の辞令を頂きシンガポールに赴任。英語を活用した仕事は簡単では無かったのですが、充実した生活から何でも前向きな気持ちで仕事を行っていました。霞会シンガポール支部のメンバーの皆さん方とも良く会食をしました。 16年ぶりに再開したゴルフは新鮮で、すぐにのめり込んで行きました。シンガポール名門のゴルフ場Sentosa Golf Clubで日本人メンバーの方々と頻繁にゴルフをするようになるのですが、大学の同窓生の落合さん(4期)や高崎さん(14期)などと一緒にプレーしたのは、楽しい思い出となりました。 今でもその頃に出会った方々とゴルフをする関係にありますが、人との出会いこそが財産であると感じています。 (週末ゴルフのSentosa Golf Club)(2011年霞会シンガポール支部懇親会) 2012年にシンガポールから英国へ転勤。2012年にシンガポールから英国に転勤を命じられ欧州の調査を従事。 欧州27か国の市場調査は大変エキサイティングな仕事であり、法律、規制、文化、習慣、M&Aなど様々な事を学んだ4年間でした。 仕事の傍ら、本場英国でのゴルフを満喫。ゴルフ場に行くのにジャケットにネクタイで行く習慣にとまどいながらも、ゴルフと言うスポーツの本来のあり方を学びました。思い出深い事は、日本人が主催されている欧州大会(8か国)で運よく英国代表を競う予選で勝ち残り、英国代表チームとしてフランスへ遠征することができました。チームでは2番目のスコアで貢献し、団体優勝を遂げました。 2016年に帰国し本社から欧州事業のサポートをしていますが、英国でのゴルフ仲間とは今も親交を続けています。 (全英オープンを開催したロイヤルシンクポートGCにて) 何にでも「深堀する癖」を心掛けた事は社会人として有益であったと思います。振り返って見ても決して模範になる生き方をして来たとは言えません。就職活動も特に希望する業種は無く、給料の高そうなイメージがあった金融関係の会社を選びました。バブル崩壊直後でもありましたが、意外なほどスムーズに内定を頂きました。そこまでは順調でしたが、入社してから同期や先輩社員との実力の差を感じ始め、このままでは「やばい」と直感的に感じ始めました。 その時から一般常識や経済知識を習得する為に新聞や経済雑誌などを読む様にしました。しかしながら、それだけではビジネスの世界では通用する訳も無く、ニュースや活字から得る情報だけでなく、その背景や経緯が何であるのかを理解する事が重要であるかを実感した次第です。何にでも「深堀する癖」を心掛けた事は社会人として有益であったと思います。今年、勤続28年となりますが、早い段階で社会人としての「危機意識」を感じられて良かったと考えています。 これからやりたいことは、ゴルフを上達させてアマの公式戦に出場したい。ゴルフクラブを握ったのは15歳からですが、大学時代でもそれほど夢中になる事は無かったと思います。50歳を過ぎてから「目覚め」てしまい、スイングや筋トレなど真剣に取り組む様になりました。最近では70台で回っても満足出来ないレベルになっており、60歳までにはアマの公式戦に出場できる腕前になる事を目標としています。 (鈴木康浩さんプロフィール) 東京都出身 豪州、ビクトリア州立Elwood高校卒業 1992年3月 東京国際大学教養学部国際学科卒業、下羽友衛ゼミ ゴルフ部 1992年4月 日立キャピタル株式会社に入社。 主に国内営業に従事。 2007年 シンガポール支店に赴任。 主にシンガポールでは営業に従事し、周辺諸国の市場調査を兼務。 2012年 英国支店に赴任。 主に欧州地域の市場調査を従事。 2016年 帰国・本社に赴任。 主に欧州事業のサポートを従事。 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...タイこそ、我が第二の故郷 山本康貴さん(1986年卒業 教養学部国際学科 原彬久ゼミ)2020年10月22日1986年、教養学部国際学科卒業の山本康貴と申します。今回は、ご依頼を頂きまして、大学時代から今日に至る小生の歩みをご紹介したいと思います。 下羽ゼミ、原ゼミで学んだことは、仕事に対する取り組み姿勢や思考方法など、大いに役に立っています。 大学のゼミでは、1年:地域研究(中岡先生)、2年:国際関係(下羽先生)、3年・4年:国際関係(原先生)に所属しておりました。 下羽先生のもとでは、ホルスティ著「国際政治」を教材に、毎週1~2章分の内容を、ゼミ生が持ち回りでまとめ、授業の中で発表しておりました。発表の後、ゼミ生間でその内容について、議論するのですが、予習をしていないと、この議論についていけないのです。議論についていくためには、該当部分を読み込み、理解するだけではなく、引用先文献や、関連事項なども調べて臨む必要がありました。私の場合、毎週該当部分を3回から4回は、読み返さなければなりませんでした。その為、テキストとなった「国際政治」は、常に携帯していたため、先ず外箱が壊れ、次にビニールカバーが破れ、最後には、装丁が壊れてしまいました。 3年からの原先生のゼミでも、学習スタイルは、同じでした。但し、原先生のゼミでは、題材を固定せず、毎回先生のご指定になる教材について、その週の当番が、レジュメにまとめ、ゼミで発表していました。発表の後、内容についての議論を行うのも、下羽先生のゼミと同じでした。 原先生のゼミでは、授業とは別に大変貴重な体験をさせて頂きました。 原先生は、歴史上の当事者に直接インタビューし、歴史を再構築するという研究手法(オーラル・ヒストリー)を用い、日米安保条約改定の政治過程を研究されておられます。私は、幸せなことに、岸信介元首相や、藤山愛一郎元外相、その他上級官僚や、野党党首などのインタビューのテープを文字に起こす作業をさせて頂きました。正に歴史の当事者たちの発言に触れることが出来、気分が高揚したのを今でも覚えています。 下羽先生は、原先生のゼミ1期生だったので、下羽ゼミと原ゼミには、交流があり、夏には、合同合宿を行っていました。2年生の時に参加したこの夏合宿で、下羽ゼミを上回る原ゼミの厳しさに接し、大変驚いたのと同時に、3年からは、絶対に原ゼミに入ると、心に決めました。 下羽ゼミから原ゼミにかけて、学んだ国際政治は、直接今の仕事には繋がりませんが、仕事に対する取り組み姿勢や思考方法など、間接的には大いに役に立っていると思います。 卒業後は自動車部品メーカーに就職、初めてのアメリカ出張はハプニング続きでした。 1986年に大学を卒業した私は、現在勤務する自動車部品メーカーに就職いたしました。当時の当社は、技術者枠と、文系枠の他、海外枠での採用を行っておりました。技術者枠と、文系枠は、人事の担当者面接の後、一般常識試験と役員面接で選考が行われていましたが、海外枠の採用では、一般常識試験に代わり、英語の試験が行われていました。私は、自ら申し込んだわけではないのですが、人事の担当者面接の際、将来的には、海外関係の業務を担当したいと言っていたので、海外枠に回されたのかもしれません。 役員面接も、無事通過し、内定を頂くことが出来ました。 最初に配属されたのは、海外部海外課という部署でした。海外課では、当時3社(アメリカ、台湾、タイ)あった、海外関係会社に対する、本社側の窓口業務や、本社から供給する部材の受発注や、船積み手配を担当していました。その他、海外関係会社で、立ち上げる新製品の金型、治具、設備の開発管理も行っていました。私は、その中で、アメリカの子会社を担当でした。 当時を振り返って、印象に残っていることは、入社4年目に行った初めてのアメリカ出張です。この出張は、私にとって初めて尽くしの出張でした。初めての海外渡航であり、初めての航空機搭乗でした。初めて海外出張にもかかわらず、いくつものハプニングがありました。 先ずは、シカゴ・オヘア空港での乗り継ぎで、成田からの便が遅延し、国内線に乗り遅れてしました。初めての海外、初めての航空機搭乗で、乗り遅れで、私は真っ青になりました。このまま、進むことも帰ることも出来なくなってしまうのではないかと不安になりました。顔を真っ青にしながら、カウンターへ行き、国際線の遅延により、国内線に乗り遅れた旨を告げると、無事次の便を手配して頂けました。あの時の不安は、これまで感じた不安の中でも、最大のものでした。 2時間ほど遅れて、目的地であるコロンバス空港に到着することが出来ました。空港には、現地出向者が迎えに来てくれていて、無事合流することが出来ました。 コロンバスでの仕事は、つつがなく終わりました。次は、ミシガン州のバトル・クリークに、1986年に設立した現法に向かうことになっていました。しかし、都合の良い便が手配できず、07:30にデイトン(コロンバスから、クルマで1時間半ほどの距離)から飛び立つ便しか空きがありませんでした。朝コロンバスから、移動したのでは、乗り遅れる可能性が高いので、デイトン空港近くのホテルに、前泊することにしていました。 しかし、デイトンに移動する日、仕事が終わると、現地出向者数名が、競馬に行くということになり、私も同行することになりました。私は、競馬にあまり興味はなく、3レース程賭けて、飽きてしまいました。しかし、現地出向者は、当てた外したと大盛り上がりでした。 次の日が、早いので、私は早々に帰りたかったのですが、そのようなことを言い出せるような空気ではありませんでした。結局、お開きになったのは、夜の10時過ぎでした。 そこから、地図を頼りに(当時は、ナビなどありませんでした)、デイトン空港を目指しまた。私は、元来方向音痴なので、無事たどり着けるか、ここでも不安になりましたが、なんとか、その日のうちにホテルに到着することが出来ました。 ここで、大きな問題に気が付きました。07:30のフライトですから、06:00には、チェックインしたいと思っていました。しかし、そこで気が付いたのは、レンタカーのキーが、手元に残っていることでした。その時点で、既に日付が変わっていましたので、レンタカー屋も既に閉まっていると思われ、どうしたものかと思案に暮れてしまいました。取敢えず、ホテルのカウンターに電話をして、事情を伝えたところ、翌朝空港で返せば、問題ないとのことでした。 不安を抱えながらも、その日は眠りにつき、翌朝は、念のため、フライト2時間前の05:30に、空港に到着致しました。空港で、レンタカー屋のカウンターに直行したのですが、カウンターはまだ空いていませんでした。仕方がないので、カウンターの前のベンチで、待つことにしました。しかし、フライトの1時間半前になっても、1時間前になっても、カウンターは開きません。このままカンターが開かず、フライトに乗り遅れるのではないかと、不安は最大限に膨らみました。 フライト30分前になり、やっと一人の女性が、カウンターに入りました。私は、カウンターに駆け寄り、女性にフライトが迫っているので、直ぐに返却手続きをお願いしたい旨を、真っ青な顔で伝えたところ、女性は、指定の駐車場にクルマを停めたら、書類一式を駐車場のポストに投函すれば、後日クレジットカードで精算されるといい、何を焦っているのかわからないという顔でした。日本では、レンタカー返却に当たっては、傷などないか、入念な確認がありますが、かの地では、全くあっさりとしたものでした。あの死ぬほどの不安は、何だったのでしょう? 北米担当から国内カーメーカー担当を経て、2002年にタイへ赴任。 さて、私は、その後1995年までの9年間、北米担当を9年間続け、1995年4月には、国内カーメーカー担当の営業に異動することになりました。国内カーメーカー担当といっても、私の担当する機種は、海外生産の機種でしたので、引き続き、営業の立場で、海外と関わることとなりました。 この時期から、北米担当から、後に私自身が、赴任することになるタイ及び周辺国で生産される機種を担当することになりました。特に、当社のタイ現地関係会社にとって、非常に大きなプロジェクトの競合が、異動間もない時期に行われることになりました。この競合では、世界中の27社が、参加してコンペが行われました。 この競合をまとめるため、タイの現地関係会社に頻繁に出張することになりました。結果、無事当社が、そのプロジェクトを受注することが出来ました。受注をすると、受注した製品を開発する必要がありますので、その為、受注後も、頻繁にタイへ出張することになりました。そして、当該機種が、量産開始となる年の2002年4月に、タイに営業ジェネラル・マネージャーとして、赴任することになりました。(2004年イタリア出張、自動車メーカー本社前にて) タイ人の仕事の進め方には、戸惑いましたが、しっかりと相手の立場で、相手の言葉で、説明をすると、しっかりと理解してくれました。 タイでは、最初タイ語が話せませんでしたし、タイ人の考え方が分からず、右往左往していました。とにかく、タイ人とは、英語で会話を行い、意思疎通に努めました。しかし、納期当日に仕事が終わっていないにもかかわらず、平気で定時に退社するとか、判っていないのに質問してこないなど、タイ人の仕事の進め方には、戸惑いました。 この事態が変わってきたのは、私がタイ語を話すようになり、部下のひとりひとりと会話することが出来るようになった頃からです。仕事の納期についても、しっかりと相手の立場で、相手の言葉で、説明をすると、しっかりと理解してくれました。その後は、自ら徹夜までしてくれるようになりました。質問をしないことについても、こちらから歩み寄ることで、何を理解し、何を理解していないかを、判るようになりました。 私は、タイに9年間おりましたが、タイに赴任してくる日本人駐在員を見てきて、いくつかのタイプがあるように感じました。仕事を、全部抱え込んでしまう人、その中には、抱え込んだ仕事を自分でこなせる人と、こなせない人がいます。前者のケースでは、現地のマネージャー、スタッフは、育ちません。後者は、仕事に穴をあけるだけではなく、精神的に参ってしまうケースも見られました。 私が、目指したのは、現地のマネージャー、スタッフに、仕事の進め方を教え、やってもらうことでした。もちろん、やらせっ放しでは、トラブルが発生した際、対応が遅れてしまいます。そこで、常に会話を通して、仕事の進み具合を把握することに努めました。 手前味噌ですが、上記のような取り組みの結果、赴任当時主任クラスだった現地スタッフが、今では、ジェネラル・マネージャーを任させるまでになっています。 (2011年タイ駐在からの帰任時の送別会) タイでの駐在生活(単身赴任)は、9年におよび、赴任時8歳だった息子も、帰任時には、17歳になっていました。また、タイへの赴任時に、東京の本社にあった、私の所属していた営業部が、2004年に、秦野の事業所に移動になった為、帰任先は本社ではなく秦野事業所となってしました。その結果、国内でも単身赴任を続けることになり、単身赴任生活は、2020年現在、18年に及んでいます。 アジアからイギリス、ドイツ、アメリカ等で、仕事をする機会が増えました。 2011年に帰国してからは、再び国内カーメーカーを担当することになりました。国内メーカーなのですが、前述と同じく、国内生産より海外生産の方が多い状況ですので、中国や、タイ、そしてインドなどへの出張が多くなりました。 その後、2015年からは、日系以外のカーメーカーへの拡販を担当することになり、イギリス、ドイツ、アメリカ等で、仕事をする機会が増えました。特に、イギリスと仕事をすることが多くなったのですが、当初ブリティッシュ・イングリッシュになじめず、苦労しました。私は、アメリカ英語で育ちましたので、イギリス人の発音と独特の言い回しには、当初ついていけませんでした。今でも、イギリス人との会話には、苦労はありますが、以前よりは、理解できるようになったような気がします。 これまでグローバルな仕事に携わることができ、これからも成長を続けていきたい。 定年まで、3年となり、サラリーマン生活の最終コーナーを回っている感じですが、サラリーマン生活を振り返ると、海外関係の仕事に携わりたいという希望は、叶えられたように思います。また、いくつかの大きなプロジェクトも成功させる事が出来ました。現状に甘んずることなく、これからも成長を続けられるよう、最終コーナーを全力で走りぬきたいと思います。 (山本康貴さんプロフィール) 東京都出身 専修大学附属高校卒業 1986年3月 国際商科大学(現東京国際大学)教養学部国際学科卒業 原彬久ゼミ (第二キャンパス一期生、国際商科大学最後の卒業生) 1986年4月 自動車部品メーカーに入社 海外部海外課に配属される。 その後、北米担当、国内カーメーカー担当 2002年4月 タイ現地法人へジェネラル・マネージャーとして赴任 2011年 日本に帰任、国内カーメーカー担当 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...「ポジティブ・チャレンジ・リスペクト」を信条にアメリカ駐在 通算15年以上! 三岡俊寿さん(1993年卒業 経済学部 国際経済学科、松村ゼミ)2020年10月1日皆さん、こんにちは。世界的なコロナパンデミックでニューノーマル生活を余儀なくされてご不便も多いこととお察しします。只今、2回目のアメリカ赴任をしており、通算15年以上となります!その間、コロナパンデミックの他にも、2001年の9.11同時多発テロもライブで経験するなど大きな出来事を肌で感じてきました。 そんな自分を振り返ると、日本のバブル経済崩壊後の就職難時期に当たる1993年卒業生。新卒募集も減少している中、「グローバルに活躍したい!」という信念を貫いて池上通信機株式会社へ入社、海外営業本部に配属されました。それ以来、ずっと海外畑にいます。入社後はアジア諸国の営業担当とアメリカ駐在を繰り返しており、2017年5月からは米国法人社長に就いております。今まで延べ22ヶ国を訪問し主に放送機器を放送局、学校、協会などへ販売してきました。 当社は放送機器以外にも、長年培った映像技術のノウハウと最先端技術を駆使して、医療用映像機器、映像監視機器、外観検査装置などを製造・販売しています。これら映像を軸としたメイドインジャパンの品質・サービスを世界に広めるために東奔西走しています。 放送カメラ納入先のお客様との写真。(ルイジアナ州ニューオーリンズにある教会) ここまで来るまで決して楽な道のりではありませんでしたが、驕ることなく 臆することなく前向きに取り組んできた結果が今に繋がっているのだと思います。 これもひとえにTIUでの学生生活を通して、「ポジティブに考えていれば必ず道は開ける、チャレンジ(努力)なくして前進なし、相手をリスペクトすることでリスペクトは得られる」という人生観のベースが出来たお陰だと思います。 漠然と海外に憧れた学生時代。 高校時代にまで遡りますが、帰国子女の生徒が外国人の先生と英会話をしているのを見て正直カッコいいと思ったことから始まります。それまで英語は一教科としか思っていなかったものが、海外の人と会話が出来るようになりたい、漠然とした海外への憧れを抱くようになりました。 大学受験では英語に力を入れているところを中心に受けたものの、悉く全滅し浪人することも覚悟していました。 そんな中、国際人育成に力を入れているTIUのことを知り、しかも、新設学部の「経済学部」で2次募集があり、最後の希望をかけて受験したところ、なんと合格!後もなかったので、正直拾われたと思ったのと同時に強い縁を感じました。今でも大学には感謝しています。 海外への憧れから現実に。 入学した1989年に当時では珍しい制度として、休学せずに長期海外留学ができるTIUアメリカ校(TIUA)が開校されました。正しく、国際人育成のため、より多くの学生に留学のチャンスを与えるこの制度に感銘を受け、迷わず応募し1年間留学することを決めました。 期待と不安を抱きつつの初めての海外は、スケールの大きさ、目に入る光景すべてが新鮮で感動したことを今でも覚えています。「憧れ・夢」の無形なものから、「自分の将来像」を形としてイメージし始めたときでもありました。 TIUA留学生活は自分の将来像の原点。 留学期間中はフィジカル面・メンタル面ともに鍛え上げられましたし、一番悩んだときかも知れません。渡米して意気揚々でいたのもつかの間、慣れない海外生活、英語も通じず身振り手振りの毎日、上達しないまま3ヶ月経過したころでホームシックにもなりました。そんな時、周囲の仲間に励まされ、悩んでいても仕方がない、やるしかないと気持ちを切り替え、各種スポーツ、フィールドトリップや集会などに積極的に参加してコミュニケーションを図り、留学期間が終わりを迎えるころには「グローバルに活躍したい!」という願望が芽生えるようになりました。TIUAプログラムは語学習得だけではなく、仲間とともに多様な悩みを克服し、刺激を受け合い、絆を深め、心身ともに大きく成長させてもえるソーシャルな場と言っても過言ではないでしょう! TIUとの不思議な縁。 実は、TIUと縁を感じたのは大学受験時だけではないんです。何の縁かわかりませんが、当時、広報課からの依頼で受験生向けパンフレットのモデル、大学紹介ビデオのメインキャスト4人にも選ばれて、慣れないポーズや演技をしたことを覚えています。受験生向けに大学の良さを伝えるために自分なりに一生懸命演技しましたが、今はちょっと恥ずかしくて見れないですかね。(笑) 今回も海外で活躍されている多くの卒業生の中から自分にお話を頂けたことを光栄に思い、寄稿させて頂いております。 発想の転換でポジティブに。 人生の中で出来ないことが多いのが現実です。ただ、出来ないことはやらない、やっても無駄、ムリと諦める人が多いのではないでしょうか。または、失敗したら恥ずかしいと思う人もいるでしょう。昔の自分もそうでした。では、発想を変えて、出来ないことが多いのが当たり前と思えば、恥じることもなくチャレンジしてみようと思えるかもしれません。 一見、ネガティブな発想と思われるかも知れませんが、角度を変えてネガティブなこともポジティブに置き換えることが重要ですね。勇気をもって一歩踏み出せば、出来るかもしれませんし、出来ないとしても、無駄な努力はないものです。きっと何処かで生かされるはず。一人で出来なければ力を合わせて皆でやれば良いことですし、物事を悲観的に考えないようにしています。今はコロナパンデミックで全体的に沈んだ雰囲気が漂っていますが、ポジティブに発想転換してネガティブを吹き飛ばしていきましょう! TIUA時代のBAXTER寮でのクリスマスパーティー。 (三岡俊寿さんプロファイル)静岡県出身、浜松湖南高等学校卒業 1989年4月東京国際大学 経済学部 国際経済学科 入学(経済学部1期生) 1990年 TIUアメリカ校(TIUA) 留学 (TIUA 2期生) 1993年3月 東京国際大学 経済学部 国際経済学科卒業、松村ゼミ 1993年4月 池上通信機(株)入社、海外営業本部に配属。 (1993年~東南アジア営業4年間、1997年~1回目アメリカ赴任8年間、2005年~アジア諸国営業8年間、2013年~2回目アメリカ赴任中) TIU 霞会シンガポール支部... Read more...地球のどこからでもお役に立って死ぬ人生田中素美さん(1987年卒 教養学部国際学科 青木外志夫ゼミ 体育会スキー部)2020年9月23日◆「体は資本」を地で⾏くことになるとは! この原稿がUPされる頃には、56歳になっています。もう20年近くよく⾔われるのが、「詐欺だ!」「ありえない!」「本当に◯◯歳???」です。いえいえ、あなたの⽬の前にいる私は「体の可能性のサンプル」に過ぎないのです。 2020年現在 ◆コンプレックスの塊も悪くない 現在の私は、ボディスタイルプロデューサー∕ジェロントロジスト∕社員⾃⾛型健康経営アドバイザーです。しかし、⽣まれつき右⾸と右脚が曲がっていて、顔の⾻もパーツもズレています。極度の冷えと顔の肌トラブルやアレルギーもあり、ハンデのある体で幼少期を過ごしました。加えて、11歳まで運動⾳痴でした。 ⼦供の頃からの憧れは「地球を⾶び回ること」。 ⽣まれた1964年は東京オリンピックの年であり、海外渡航の⾃由化がされた年です。テレビで流れるアメリカのCartoon番組やドラマにかなり影響され育ちました。⽇本とか性別とかカテゴライズされることが嫌いな⼦供でしたので、どの国にというより、地球⼈として地球上の⾏きたいところに⾏ったりきたりして暮らしたいと思っていました。 しかし、様々なことに挑戦してはうまくいかない。でもまた何かに挑戦する⽇々。好奇⼼と俯瞰して⾒る⽬があればどうにかなるという根拠のない⾃信はありましたので、コンプレックスさえも燃料とし挑戦し続けてこれたのだと思います。 ◆「天職」とはこういうものか 東京で⽣まれ育ち、私⽴の⼥⼦校で6年間過ごしましたが、共学に戻りたいことと⾃由な校⾵の匂いを感じ、TIUを受験しました。しかし、国際学科に⼊学したものの、地球を⾶び回るにはどうしたらよいか迷いが⽣じます。 結局、私の⽬標は定まらないまま就職活動に⼊りました。定まらないならそれはそれ、これからを⾒据えて必ず必要になるであろうIT業界(その当時は情報処理業界)を選ぶことにさっさと決め、勝⼿に応募し勝⼿に⼊社を決めました。現在のシンクタンク⼤⼿、㈱⽇本総合研究所です。就職課には褒められました。⼿がかからなかったからでしょう。 その後も⾃分の思いのまま⾃由に⾏動し、24歳より照明会社に移り、その後ニューヨークへ⾏ったりと、紆余曲折がありました。何に向かっていったら良いのか、少しわからなくなった時期が30代前半でした。 そして2001年、思いがけず健康予防美容の業界に⾜を踏み⼊れることになり、今年で20年⽬になります。12年前から東京銀座のプライベートサロンを⽴ち上げ、個別ボディプロデュースをVIP向けに⾏っています。しかし、まさかこんなに続くとは思ってもみませんでした。なぜならアンチ医療アンチ美容だからです。 神様は⾯⽩いことをするものです。「その様々な経験や思いをしてきたお前だからこそ、健康予防美容の仕事で⼈のお役に⽴てるからやりなさい。」と⾔われた気がしたのです。 ◆⾔いたいことを⾔うには経験値だ!法⼈へは健康経営を! 36歳で新しい世界への挑戦が始まりました。「⼈間の体の素晴らしさをどうやって伝えて いくか」「世の中の間違った情報にいかに惑わされているかを気付いてもらうには」「誰でもたった1年で健康で美しく強く変われることをどうやって腑に落としていくか」 とにもかくにも、経験を積み重ねる⽇々が始まったのです。今となっては延べで13000⼈の体を変えてきた経験と、⾃分の体を1年で変えてその後19年以上進化させてきた経験とエビデンスという、⼤きな貴重な価値を⼿に⼊れることになりました。 しかも、⾯倒くさがり屋で飽きっぽく、すぐサボろうとする癖のある私でも1年でできた⽅法を⼟台にしているので、誰でもできるという利点も⽣まれました。 「体を会社としたら、あなたは死ぬまで社⻑です。ところがほとんどの⼈はブラック企業なんですよ。」というような具体例をたくさん使いますので、みなさんが⾃分の事として捉えられるのです。⾃分の弱みや悪癖も変える必要はないので、誰でもできるということなのです。 例えば、⾛ることが嫌いな私が、この仕事のスタートと同時に2001年からフルマラソンを始め、年に3回は世界を⾶び回っていることも⾯⽩い事実だと思います。 2019年 Sundown Marathon そのマラソンですが、2014年からはシンガポールのSundown Marathonへの参加もスタートしました。暑い場所で⾛るのなら頑張れるという、ランナーとしては珍しいタイプです。有り難いことに、TIUシンガポール⽀部の存在を落合さんから教えていただき、翌年からは現地で⽀部の皆様との交流も楽しみの⼀つになっています。 2015年 Singapore そして、昨年から始めた、法⼈への「健康経営」の啓蒙活動も⼤事なことになりました。今まで私が考えてきたことと国の流れがやっと合致したのです。アメリカに遅れること15年ほどです。「社員の健康は経営資産」これを理解しない会社は後がないでしょう。そういう時代にすでに突⼊しています。 経営者や富裕層向けの【幻冬舎ゴールドオンライン】に、健康経営関係の記事を書いています。⾮常にわかりやすいと評判を頂いていますので、よろしければご参照ください。著者名「⽥中素美」で検索できます。 ◆地球のどこからでもお役に⽴って死ぬ⼈⽣ 2020年は、コロナという世界同時テロの様なことが起こりました。これは私達⼀⼈ひとり に、⽴ち⽌まって⼈⽣をよく考える時間を与えてくれました。もちろん私もその⼀⼈です。そのおかげで、以前から考えていた完全オンラインでの個別ボディコンサルティングを、待ったなしで始動することができたのです。個⼈だけでなく、法⼈のリーダーや次世代リーダーへも負荷なくできる⽅法です。 もしSNSがなかったら?これだけITが発達していなかったら?、と考えると恐ろしいです。神様はタイミングよく⼈間に問題提起をしてきますね。いろいろな⾓度で瞬時に突破⼝を考えることができるのも、TIUで培ったのかなと今は思います。コンプレックスだらけの私を、「そのままでいいんだよ」と⾔ってくれたのは、TIUの校⾵とニューヨークでした。7⽉30⽇にこのTIU Sparksへ寄稿されている中江くんは、国際学科の同期です。こんなにもテイストの違う⼆⼈が友⼈であるということ⾃体も、TIUの良さの現れではないでしょうか。様々なタイプの⼈が同等に存在することがTIUカラーだと思います。 私の夢は、「世界を⾶び回ること」から、「世界のどこからでもお役に⽴つこと」に変わりました。コロナのおかげで、どこにでも⾏けることがどれだけ素晴らしいことなのかも⾝に沁みましたので、⼩さなことでも私なりのお役⽬で努⼒していきます。 ⼈⽣100年時代、まだまだ時間はあります。私は、健康と美しさを⼿に⼊れることの資産価値をお伝えしながら、私ができないことで社会に向き合っている企業や個⼈へ投資できるような、そんな⾃分になりたいと今は思っています。 ⼈⽣を⾯⽩がりましょう! (⽥中素美さんプロフィール)⽥中素美 Motomi Tanaka ボディスタイルプロデューサー ジェロントロジスト(USC認定) 社員⾃⾛型健康経営アドバイザー Origin&Beauty 代表 Origin&Beauty (東京銀座) https://originandbeauty.com 幻冬舎ゴールドオンライン https://gentosha-go.com TIU 霞会シンガポール支部... Read more...旅こそ我が人生 山下太郎さん(1973年卒 商学部5期 町田実ゼミ 体育会ワンダーフォーゲル部)2020年9月11日異国へのあこがれ 私は1950年の切れ目の年に伊豆の下田で生まれました。父は学徒徴兵の海軍特攻兵でした。父は長年、先に逝った戦友のために、「戦争の悲惨さ」を語り継ぎながら昨年12月に亡くなりましたが、私は父が奇跡的に生還してくれたお陰で自分がこの世に生を受けたことへの感謝を忘れたことはありません。 下田は言わずと知れた「開国の街」です。ペリーの来航を祝って毎年開催される「黒船祭り」。下田の街を闊歩する米兵にヨーヨーを買って貰ったことが私の国際交流の始まりでした。そんなある日、下田湾沖に停泊する米第七艦隊の戦艦を見たことが、私の心に“外国への憧れ”が芽生えたきっかけだったと思います。しかし、その時はまだ、「旅行」を仕事とし、生涯で51ヵ国も旅をするような人生を送ることになろうとは想像もしませんでした。 (アメリカ戦艦と外国への憧れ) 音楽との出会い 父の転勤に伴い、私は中学から高校時代を静岡市で過ごしました。クラブ活動はブラスバンド部でトランペットを担当しました。今でもクラシック音楽が大好きで、最近はオペラ鑑賞に嵌っています。それはきっと子供の頃に聴いた下田の街をパレードする米軍音楽隊の華やかなブラスの響きが耳に残っているからだと思います。 (中学・高校時代はブラスバンド部) 英語大好き人間 英検2級は中学の時に合格しました。当時はクラシック・レコードを聴きながら、アメリカのペンパルと文通するのが趣味でした。ある年のクリスマス、文通相手の女の子がネクタイピンを贈ってくれました。その時、母が驚いて言った言葉を覚えています。「アメリカでは中学生がネクタイをするんだねぇ!」。日本は奇跡的な「高度成長」の只中にありましたが、当時の中学生はネクタイもブレザーも持っていなかったのです。 そんな私に父がタイプライターを購入してくれました。外国と文通するならタイプライターが便利だろうと・・・。タイプ学校に行くのは苦手で殆ど独学でマスターしたのですが、その時に覚えたキーボード配列がその後の人生でどれだけ役立ったことでしょう! 大学時代は山登り 晴れて入学した国際商科大学は埼玉県にありましたので海がありませんでした。学生時代は大いに体を鍛えようと思っていた私は躊躇うことなく体育会「ワンダーフォーゲル部」に入部しました。 確かに山登りは辛くて厳しいものでしたが、頂上に立った時の感動と爽快感は想像を超えたものでした。3千メートルの日本の屋根から見る朝晩の景色の何と美しいことか!4年生になった私は一眼レフカメラを購入し、山の景色を撮り続けました。 「美しいものを求める」・・「美しいものを記録する」・・今もなお私が追い求める人生のテーマです。伊豆の山育ちで健康にも恵まれた私は、大学4年間、全ての合宿に休むことなく参加したものでした。 (ワンダーフォーゲル部、大学4年間で、80座登頂) 旅行業は天職 「就職した会社は「東京観光」。先に就職していた大学の先輩からの勧めでした。「この仕事はお前にぴったりだ!」の言葉通り、これはまさに私にとって天職でした。 「東京観光で最初の配属は住友商事。商社の海外出張の手配が仕事でした。配属されて直ぐ、大使館へ提出するビザ申請書を作成する時に、ほとんどキーボードを見ないでタイプする私を見て上司が驚きました。中学の時に文通するために父に買って貰ったタイプライターをマスターしていたことが大いに役立ちました。 「三洋電機から誘いの言葉が掛かったのは、当時私が担当していたルフトハンザドイツ航空の送客人数が日本一を記録した頃のことでした。既に三洋電機にはロイヤルツーリストというインハウス旅行会社があったのですが、当時、秋葉原の電気店の招待旅行は全て大手旅行会社に流れていました。グループ内の団体旅行需要を自社で取り込みたいとの熱い要請を受けて、私は転職を決意しました。「手配する旅行会社から、提案する旅行会社へ」のスローガンを掲げ、ロイヤルツーリストは見事に三洋電機の団体旅行を一手に担うに至りました。 「この時、社内販売で購入したウインドウズ95が、その後の私の人生に大きな影響を与えました。1999年には生まれて初めてホームページを立ち上げました。「こんにちは、山下です」の文字がネット上に踊った時の感激は今も忘れません。今では私のサイトには旅の記録、ルーヴルの名画、オペラの解説、履歴書から確定申告書式まで・・・私が歩んできた人生の記録が詰まっています。 「その後、三洋電機は創業以来60年を超える歴史に幕を閉じましたが、その時に採用し一緒に団体旅行獲得に邁進した部下たちは、今も変わらずにパナソニックの旅行部門で頑張っています。 (1979年、明治・中央・国学院大学欧州研修旅行、添乗の師本多氏と) (1994年、北京ツアー) ひたすら世界へ 三洋電機で一定の成果を果たした私は、52歳の時に㈱ジェイピー旅行に転職しました。営業担当の取締役として迎えられたのです。JPとは「ジャパン・ポリス」、その名の通り警察のマーケットを扱う会社でした。特殊な仕事でしたが、「世界麻薬取締会議」の設営や、「青年警察官の語学研修旅行」などを通じてたくさんの警察幹部とのご縁を頂きました。 61歳で定年退職した私に、「まだまだ引退は早いよ!」と声をかけてくれたのは「トラベル懇話会」でした。お陰様で、旅行業界の経営者懇談会の事務局長を7年間勤めさせて頂きました。事務局長に就任して分かったことがあります。なんとこの会は、私が最初に就職した会社東京観光の吉村社長が発起・設立したものだったのです。退任する直前に「トラベル懇話会40年史」をまとめたのですが、会創設期の記事を収集しながら、東京観光時代のある時の朝礼で、「業界内外の諸問題を勉強・意見交換するために『トラベル懇話会という組織を立ち上げた』と吉村社長が報告したことを思い出しました。定年退職後に与えられた新たなステージを、奇遇にも最初に就職した会社の社長が用意していてくれたことを知って、ここでも人のご縁の大切さを思い知りました。 こうして、若かりし頃に外国に憧れた私は、世界51ヵ国を旅し、出国回数は218回を数えるに至りました。その間の旅行日数は1,367日。よくよく考えてみれば、4年弱海外赴任していたようなものです。言葉や文化は違っても、どの国に行っても人の笑顔は共通でした。相手を喜ばすために出来ることは無限であることを学びました。 (2011年、退職記念旅行 デルタ航空のCAさんから記念品贈呈)(2018年9月、トラベル懇話会事務局長退任)(2017年、ミラノスカラ座にて 「セヴィリアの理髪師」を観劇) (2018年、ヴェローナ・アレーナにて日本を代表するソプラノ 山口安紀子さんと) (何かいい物語があって、語る相手がいる限り、人生捨てたもんじゃない) デジタルが日本を変える 今、コロナ渦の中でこの原稿をまとめながら、旅行業・観光業の皆様のご苦労に思いを巡らせています。従業員も経営者もそのご苦労は如何ばかりかと胸が痛みます。 そんな中、去る8月6日に古希の誕生日を迎えました。それを記念して「私が生きた日本70年」と題した動画を編集しました。自分で編集したこの動画を観るにつけ、本当に日本が輝いていた一番良い時代を生きた幸運に感謝せずはいられません。 先に実施された「特別定額給付金」の給付状況を見て思うことがあります。日本はまだまだデジタル後進国なんだなぁと。かつてスウェーデンに年金制度を学びました。半世紀も前に、スウェーデンでの改革は日本と同じ悩みから始まりました。「このままでは長期的に年金制度を維持できない」と・・・。これを解決したのがデジタル技術でした。スウェーデンの国民は毎年国からオレンジの封筒を受け取ります。このオレンジ封筒の中には個人個人の毎年の所得と、その結果将来受け取れるであろう年金額が明記された書類が入っています。これを可能にしたのがデジタル・システムであることは言うまでもありません。 振り返って日本を見ると、個人情報が筒抜けになるのが怖いという理由でマイナンバーカード制度への移行がと滞っています。戦争で命を懸けた父たちの次の世代の人々が余りにもITを苦手にしています。市役所のベテランの中には未だにスマホさえ操作できない職員も少なくありません。 中学でタイプライターに出会い、キーボードに親しみ、50歳の前にホームページをアップし、パソコンやスマホから多くの“便利”を享受して来た者として、もっともっと日本のデジタル化が進み、多くの国民がその恩恵に浴する日が来ることを願いながら、古希の記念の動画をご紹介します。 「私が生きた日本70年」: https://youtu.be/_XwVvL_YhZg (山下太郎さんプロフィール) 静岡県下田市出身 静岡市立高校卒業 1973年 3月 国際商科大学卒業(現東京国際大学)商学部5期 町田実ゼミ 体育会ワンダーフォーゲル部 1973年 4月 東京観光㈱入社 1987年12月 東京観光㈱退職 1988年 1月 三洋電機㈱入社 事業開発本部旅行業担当 3月 ㈱ロイヤルツーリスト出向 1997年 1月 同、東日本営業本部営業推進部長 1998年 4月 同、関東営業所長(群馬県邑楽郡大泉町) 2002年 1月 三洋電機㈱退職 2002年 8月 ㈱ジェイ・ピー旅行入社 2004年 8月 同、営業部長 2006年 5月 同、取締役 2011年 9月 ㈱ジェイ・ピー旅行定年退職 2012年 3月 トラベル懇話会事務局長就任 2018年 9月 トラベル懇話会退任 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...夢を繋げる 岩橋宏和さん(商学部15期/1983年卒、小峯ゼミ、ELIクラブ)2020年9月6日国際物流、外国人雇用の開発などアジア域内のビジネスに30年間従事してきました。1983年3月に国際商科大学(東京国際大学)を卒業後、4月鴻池運輸株式会社に入社しました。国際物流の仕事に従事して、船舶代理店部門の立ち上げ、東京の複合輸送部の立ち上げ後、2000年にマニラに駐在、現地法人を立ち上げました。2005年7月に帰任し、経営企画部で外国人雇用の開発を開始しました。日系人、技能実習生の雇用開発後、2015年11月、ロックブリッジホールディングス株式会社を設立のため、55歳で鴻池運輸株式会社を早期退職しました。 (2000年のマニラ駐在事務所開設時のスタッフとの写真) (NHKなどで取材) 私は、国際物流に20年、外国人雇用の開発に10年、あわせて30年以上、アジア域内の ビジネスに従事してきました。とりわけ、フィリピンとの関わりが最も長く、2000年 のマニラへの赴任以来、今年で20年となります。その間、マニラ駐在員時代の物流会 社の立ち上げ、2005年に帰国してからの実習生受け入れ、フィリピンからの日系人の 雇用、在日外国人の雇用等、人材開発を進めてきました。また、自らの法人設立・運営の経験を活かし、フィリピンへの進出を図りたい企業のサポートも行ってきました 。 (元セブ市長のマイク・ラマさんと。当時はセブドクターズ大学と日系フィリピン人の介護士育成コースを運営していました) 介護職をメインに東南アジアからの人材の有料職業紹介業務に携わっています。フィリピンはここ数年、目覚めたかのように著しい経済発展を遂げ、日系企業の投資対象国となりました。人口が1億人を超え、平均年齢が20歳台前半の国に魅力を感じるのは、私だけではないと思います。私は、この時を逃してはならないと考え、32年間勤務した会社を早期退職し、自らの会社を設立することを決意しました。 業務内容は、外国人雇用のための人材会社で、介護職をメインに東南アジアからの人材の有料職業紹介業務に携わっています。現在、東京に本社、富山に営業所、マニラに現地法人を有し、今後は2019年にできた新しい在留資格、特定技能の人材に 力を入れていく予定で、全国ネットワーク、RBパートナーズを推し進めています。 (現在の会社、現地説明会の写真です) 東京国際大学・応援歌「蒼き勇者」作曲、都倉俊一先生の作品等の作詞もしてきました。 1995年の阪神淡路大震災にショックを受けて、その年から、作詞家・はしおあきら先生の作詞教室で学んだ。ペンネームは(かやまけいいち)加山景一として、横綱・白鵬関の応援歌「夢土俵」作曲 関島秀樹先生、メディカルケアサービス株式会社の社歌「かがやき」作曲 コモリタ ミノル先生、歌手・サーカス、そして、東京国際大学・応援歌「蒼き勇者」作曲 都倉俊一先生の作品等の作詞をしました。2019年12月には、吉本興業のマニラ住みます芸人HP3(ハッポンスリー)に「フィリピーナディバ」を提供、マニラでレコーディングをしました。 (吉本興行のマニラ住みます芸人、HP3(ハッポンスリー)と一緒に) 新しいことに挑戦することで、夢を繋いでいきたい。大学在学中は臼井チュートリアル後、小峯ゼミ、ELIクラブに所属する。大学2年生の時に同人誌・玉手箱を創刊しました。新しいことに挑戦することが子供のころから大好きでした。上京して、アメリカに行くのが夢でした。臼井チュートリアル後、小峯ゼミ、ELIクラブに所属し、大学2年生の時に同人誌・玉手箱を創刊しました。大学に入って、アメリカオレゴン州のWillamette University春季ゼミナールに行く機会を頂きました。そこからが私の人生の第2幕の始まりだったと思います。海外と日本の関連する仕事をすること、事業を起こすことを人生の目標にしました。大学との繋がりは今もあり、TIUJ(日本語学校)の卒業生、フィリピンからの留学生2名を採用しています。 (岩橋宏和さんプロフィール) 1960年5月7日、和歌山県海草郡野上町(現 紀美野長町)に生まれる。 1978年3月、県立大成高等学校を卒業後、 国際商科大学・商学部商学部に入学。臼井チュートリアル後、小峯ゼミ、ELIク ラブに所属する。大学2年生の時に同人誌・玉手箱を創刊する。 1983年3月同校卒業後、4月から鴻池運輸株式会社に入社する。国際物流の船舶代 理店部門の立ち上げ、東京の複合輸送部の立ち上げに従事。 2000年にマニラに駐在、現地法人を立ち上げ、2005年7月に帰任。 経営企画部で外国人雇用の開発を開始する。日系人、技能実習生の雇用開発後、 2015年11月、55歳で鴻池運輸株式会社を早期退職する。 現在、ロックブリッジホールディングス株式会社を設立。東京に本社、富山営業 所、マニラに現地法人を有し、介護職をメインに東南アジアからの人材の有料職 業紹介業務に携わっている。 ロックブリッジホールディングス 株式会社 ホームページ https://rockbridgeholdings.co.jp/ TIU 霞会シンガポール支部... Read more...外交の現場に身を置いて 中江 新さん(1987年卒 教養学部国際学科第8期、原彬久ゼミナール、無線研究愛好会)2020年7月30日 皆さん、こんにちは。今回は宜しくお願いいたします。新型コロナウィルスのために日本でもシンガポールでも、そして私の滞在しております韓国でも厳しい状況にいらっしゃる方は多いと思います。是非、ともに生き抜く力を共有したいですね。 私は子供の頃から、こうしたパンデミックの問題に限らず、私たちの住む「地球」、「世界」の出来事に広く関心がありました。いろいろな国の海外放送を聴いたり、自分でも「発信」するためアマチュア無線なんかもしました。 東京国際大学原ゼミでの学問、そして人との出会いが今の道につながる。 勢い国際関係論を勉強したくなり東京国際大学(当時は国際商科大学)に入学。3年生からは、原彬久先生のゼミに入りました。そしてゼミで米国のジョージ・ケナンという対ソ封じ込め政策を立案した外交官について研究したこと、更に後になって恩師のお一人から「国際関係論や外交史を勉強したければ、実際に外交官をやってごらん」と背中を押されたことが今の道につながりました。1990年に外務省専門職員試験を受けたのですが、いろいろな大学の学生とともに勉強会を行い、試験科目の憲法や国際法、経済学等について教えてもらったことに今も感謝しています。 海外生活18年、外交官として韓国、カナダ、中国で勤務。 1991年4月に外務省入省。ちょうど米ソ冷戦が終焉し、地域情勢が不安定化するなど国際関係は変化の時期を迎えていました。地域専門外交官として私が担当したのが朝鮮半島。日本の安全にとりアジア隣国との外交の重要性に漠然と思いを致しました。今まで29年余りの外交官生活のうち国内勤務が11年、残り18年は海外勤務です。(1995年6月、慶尚南道巨済島にて) 1992年6月から2年間は、ソウルの在韓国日本国大使館付となり語学研修を受けました。前半は延世大学の語学スクールに通い、後半はその大学院で韓国の北方外交などを研究しましたが、夜、下宿の友人とフロアで車座になって飲みながら語り合ったり、韓国の地方を旅したことも良い思い出です。等身大のおつきあいはどこでも大事だと思います。 業務の中で歴史的な瞬間に出会うこともありました。 1991年5月、私は、韓国との国連同時加盟を拒否していた北朝鮮が南北同時加盟に舵を切ったという第一報をラジオプレスという海外情報モニター機関から伝えられました。これを課内で報告したところ、蜂の巣をつつくような騒ぎになりました。語学研修後の在外公館勤務は釜山の総領事館でしたが、海上自衛隊練習艦隊の初めての釜山入港の準備にも関わりました。2009年から3年ほど、中国東北部の瀋陽の総領事館で勤務していたときには、とある筋から金正日総書記が近々鉄道で中国を訪問する、という情報を得たこともありました。思いがけない話は突然飛び込んでくるものです。(1998年1月、北朝鮮の妙香山にて。KEDOと北朝鮮の協議の際に) KEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構)を担当していた1997年7月からの約2年半の間に、三度北朝鮮を訪問する機会も得ました。インフラが老朽化し豊かとは言えない人々の生活を垣間見る一方、物質に毒されない純朴な人々の情にも触れました。 ワールドカップ日韓共同開催の際には2002年日韓国民交流年を担当、続いてソウルの大使館で日韓国交正常化40周年を記念した日韓友情年を担当しました。当時、韓国における日本文化開放と、日本における韓流への関心増大とも相まって、伝統芸能からポップカルチャーまで両国の交流が幅広く活性化されました。日韓関係が困難でも、国民の交流という大義が忘れられることのないよう役割を果たせたことは良かったと思います。 カナダのバンクーバーにある総領事館で領事としてカナダ日系移民の皆さんと交流し、第二次世界大戦当時の苦労を理解すると同時に日系三世、四世の人々を日本に招待したこと、更には天皇皇后両陛下のカナダ公式訪問に携わったことも良い思い出です。 日韓関係、日朝関係について思うこと。 日韓関係について。2016年10月に二度目の釜山勤務が始まった直後、総領事館の前に従軍慰安婦の少女像が反日団体の手で設置されました。在外公館の安寧と威厳が損なわれるような行為が事実上黙認されています。この一例をとっても日韓関係は歴史問題をはじめ大変難しい局面にあることがわかります。日本として確固とした立場をもって現状の是正を求めること、特に日韓国交正常化から現在までの日本の韓国に対する取組というファクトを踏まえるようきちんと韓国側を説得する努力を怠ってはなりません。一方、日本と韓国は今後とも対外開放体系の中で生きるという共通の目標があります。また、両国関係も様々な交流が基礎をなしており、これらの点は両国関係の望ましいあり方を示すものです。 日朝関係について。北朝鮮は核、ミサイルの開発を放棄し、また、日本との間の拉致問題を解決することが、自ら繁栄に向けて舵を切る最も重要な方向性と思われます。日本としてそうした望ましい方向に進むよう、各国とも連携してきちんと説得することがますます大事であると心得ます。あの純朴な人民たちのためにも。(2013年8月、グランドキャニオンでの家族写真。ソウル、バンクーバー、瀋陽勤務の際は、家族で駐在)本を読もう、様々な世界を見て人と交わろう、後悔を恐れずチャレンジしよう。 大学時代のもっとも大切な思い出は、原先生のご指導の下、ゼミ生の間で大変真剣な議論を行ったことです。ゼミの結束も強く、卒業後も折に触れて先生、そしてゼミ生の皆さんと交流しています。私の場合は、仕事柄現役ゼミ生的な立場にあると思っています。私たちの教科書にハンス・モーゲンソーの「国際政治」という本があり、その中に「外交-調整による平和」という章がありますが、ゼミで学んだことは私の現実の仕事に生かされるべきものです。ゼミとのつながりは私にとって大変幸運でかけがえのないものです。 また、私には、大学や仕事を通じた自分自身の体験、達成したことも失敗したことも含め、特に後輩の皆さんに伝えていければという僭越な思いがあります。後輩の皆さんには、まず良く読書することをおすすめしたいと思います。そして自ら外に出て、様々な世界を見て人と群れずとも交わること、そうした環境に身を置くことを実行してみてはいかがでしょうか。そして、後悔を恐れずにチャレンジすること。そうして得た体験の中で私と共通するものがあれば大変幸いですし、違う体験をされれば今度は私がそこから学ぶことができると思っています。 長文にもかかわらず辛抱して読んでいただいた皆さんに感謝申し上げます。 (中江 新さんプロフィール) 1987年3月 東京国際大学教養学部国際学科卒業 1989年3月 一橋大学大学院法学研究科修士課程修了 1991年4月 外務省入省(平成3年度専門職員) 1992年6月 外務省在外研修員(大韓民国) 1994年7月 在釜山日本国総領事館副領事 1997年7月 外務省北東アジア課勤務 2000年1月 外務省文化第一課勤務 2003年8月 在韓国日本国大使館二等書記官 2006年1月 在バンクーバー日本国総領事館領事 2009年10月 在瀋陽日本国総領事館領事 2012年8月 内閣官房拉致問題対策本部事務局参事官補佐 2015年10月 外務省開発協力企画室室長補佐 2016年10月 在釜山日本国総領事館首席領事 2020年8月 帰朝予定 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...日本に居ても、国外から日本を見る髙田 浩さん(1987年卒 商学部商学科 清水川ゼミ)2020年7月19日現在、市議会議員としてご活躍されながら、大学院生なんですね。 1987年3月に東京国際大学を卒業後、1995年に貿易商社営業マンから厚木市議会議員に転身。31歳でした。私は、幼い頃から祖父と19時からのNHKテレビニュースを観ていました。これは、私が政治に関心を持った最初のきっかけです。テレビでアニメを観ていた私。祖父は私に、「NHKのニュースだけはみせてね」と言っていました。 52歳になった2016年春、横浜国立大学大学院に入学しました。50の手習いで法律の研究です。今は博士課程にいます。私が議員でありながら大学院を目指した理由は、地方自治体に環境政策の制度設計が足りないことに気が付いたためです。私を突き動かした心の根源は、幼い頃に海や山で遊んだ記憶です。 高校時代から国際交流に関心を持たれていたのですか? 神奈川県が主催した高校生対象の国際交流キャンプに参加し、外国人の友達が出来ました。これを機に、英語やオートバイ好きだった私は、「海外を走りたい!」という夢を持つようになりました。 また、高校2年の春(1980年)、私は國弘正雄先生(2014年他界)と出会い、文化人類学を直接ご指導頂くようにもなりました。ラジオ講座「百万人の英語」が企画した「ライシャワー博士(元米国駐日大使)と國弘先生を囲む読者の会」に葉書1枚で応募したところ、「参加を」との連絡を受けたのでした。 國弘先生は当時、国際商科大学(現東京国際大学)教授であり、日本テレビのニュースキャスターと百万人の英語講師も兼務。「同時通訳の神様」とも言われていました。私はそれ以降、國弘先生の鞄持ちに。国内外の著名人とお会いする機会にも恵まれました。 私にとって、国際交流や文化人類学は、環境政策を研究する上での基礎であり、繋がっています。何故ならば、それらには多様性という共通点があるためです。 また、地方議員として、私独自の活動があります。厚木市内の小・中学校における大使館員(東京)による特別授業のコーディネーター役を自主的に担っています。これまで、オーストラリア大使館や南アフリカ大使館、ラオス大使館、サウジアラビア大使館、ケニア大使館、ニュージーランド大使館にご協力いただいています。留学生による特別授業も実施したことがあります。 手順としては、私が小・中学校の校長に「関心のある国は?」と聞きます。その後、大使館に直接交渉です。接点がなくても、元商社営業マンとしてのノウハウが活かされます。児童生徒向けに授業が実施されれば、新聞記事になります。各大使館としても、自国のPRとなります。 海外との交流も広がり、2014年にはオーストラリア・タスマニア州グラモーガン・スプリング・ベイ市より名誉市民を授かりました。 東京国際大学を選ばれた理由は? 大学受験の際、私は他の大学を一切考えませんでした。理由は二つ。建学の精神である「真の国際人の養成」が私の興味関心と合致していました。 また、学びたい二人の先生がいる唯一の大学でした。一人は、國弘先生。もう一人の先生とは、浅野輔先生(政治学/2000年他界)です。浅野先生もTBSのニュースキャスター。日本版ニューズウィーク初代編集長もなさっていました。当時、ニュースキャスターには誰もが認める大物が起用されていました。平日の18時30分になると、2つのテレビ局において国際商科大学の先生がテレビに出ていました。私はお二人の講義をテープレコーダーで録音しており、今でも大切に保存してあります。 ゼミの清水川繁雄先生(1996年他界)は、当時のケインズ経済学研究の第一人者。学んだことは、今でも思い出すことがあります。 親交のある卒業生の活躍先は様々です。海外との商取引を担うビジネスマン(海外駐在も経験)、スイスのプライベートバンク、温泉地のホテルオーナー、地方自治体の会計監査責任者等です。アメリカの大手・設計技術者支援ツールメーカー社員から僧侶に転身した卒業生もいます。 一年休学して、オーストラリアをオートバイで一周されたそうですね。 私は大学4年生になった1985年春、一年間休学しました。オーストラリアをオートバイで一周するためです。半年、一日12時間労働のアルバイト。お金を貯めました。そして、6年越しの見果てぬ夢を追い求めて、シドニーの地に立つことが出来ました。 走行距離31,500km半年の旅を振り返ってみると、最も良かったことは、人との出会いでした。沢山の人が荷物満載の若い日本人ライダーに興味を持ってくれて、17軒ものご家庭に泊めてもらい、ダイビングやヨット、水上スキーも楽しみました。 身に着いたことの一つは、海外から日本を見ること。報道の違いにも気が付きました。日本では外国のニュースは、アメリカ中心。一方、オーストラリアでは、諸外国の事が広くニュースとなっていました。 道なき道を進むタイプのようですね。今後の目標を教えてください。 はい。真面目ですが、なおかつ日本人には3%しかいないと言われる楽天家でもあるようです。まず、 環境政策の伝道師になりたいです。環境政策は大事であることはわかるが、対応は手探り状態。これは大方の地方自治体における実情だといえます。私は、環境教育の制度を整えることにより、現状を好転させたいです。 また、小選挙区比例代表並立制の改革に寄与したいです。衆議院の小選挙区制度は、死票が多く出ます。結果として、国民の投票行動と政党構成が合いません。1994年の選挙制度改正の際、参議院議員であった國弘先生は、「小選挙区制反対のヘビー級チャンピオン」とも称されていました。 私は、大学院で海外の選挙制度の講義も受けました。私が出来る事として、まずは望ましい選挙制度についての論文を書きたいと考えています。 海外オートバイツーリングもしたいです。オーストラリア以外にも、中国シルクロードやタイ、ネパールもオートバイで走ったことがあります。これまで、35ヶ国程を旅しています。ただ、一方で、「それだけで終わりか?」との気持ちもあります。 海外をレンタルバイクで走るという簡単な方法もあります。鳥取県境港とロシア・ウラジオストック間のフェリーを使えば、ユーラシア大陸を走ることも出来ます。いつか、南米等も含めオートバイで走り、各国の文化に触れたいです。 今後も大学の建学の精神に沿って「大志・勇気・知性を持った国際人たらん」と胸に刻みつつ、人が気付きにくい課題の解決策を提示し、世の中に貢献して行きます。(2020年7月19日) (髙田 浩さんプロファイル) 1964年 神奈川県横須賀市で育つ 1987年 東京国際大学商学部卒業 (清水川ゼミ/ケインズ経済学) 学生時代は、朝刊夕刊を配達する新聞奨学生 都内の貿易商社営業マンを経て 1995年 厚木市議会議員初当選 2014年 豪州タスマニア州グラモーガン・スプリング・ベイ市名誉市民 2016年 横浜国立大学大学院入学(環境法) 2018年 横浜国立大学大学院より修士号取得(法学修士)、博士課程へ ホームページ www.hiroshi-takada.com TIU 霞会シンガポール支部... Read more...私の半生は反省と再起。ベトナムで再スタートです。 山岸和秀さん(1978年卒 商学部10期 高橋宏ゼミ)2020年6月21日一流の教授陣と高橋宏ゼミ(前学長)との出会いが、東南アジアに目を向けることに。旧名は国際商科大学ICC、現在は東京国際大学TIUの10期生です。TIU前学長で現在はTIUA学長でアメリカ在住の高橋宏先生のゼミでした。我を張って、高橋先生の初めてのゼミだったのにご迷惑をかけたのを思い出します。それでも、好き勝手なテーマでしたが、忍耐強く、面倒を見ていただきました。そのあたりの教育姿勢がとても好きでした。 また、加えて、TBSキャスターやNHK TV英会話中級講師の浅野輔先生や、翻訳者で同時通訳者の國弘正雄先生などの授業を、ついてゆくことも出来ないのに受けておりました。学生時代に初めて肌で感じた一流の人々でした。 留学はしませんでしたが、四年の時に英語の教材を丸暗記しての、30日間米国貧乏旅行を経験。 就職後は、片言の英語ができるようになったのがうれしくてこっそり英語学習を続け、縁故入社の印刷会社を2年で辞めて、米国系会社では電子材料の購買課長まで務めました。 アウトドアスポーツブランドの会社を起業しましたが、20年目にして挫折。 趣味のスカイスポーツが高じて、日本でのPGパイオニアの一人となり、ライセンス制度やスクールの普及に一役買いながら、30歳の時に自社のブランドを立ち上げて独立します。やがてブームが去り、自社スクールでの事故に嫌気がさし、借金も増えるばかりなので閉鎖を決意。その時は、縫製工場をベトナムに持っていました。20年も続けた趣味の延長の自社をきっぱりやめて、再出発。この辺から挫折と再起を繰り返すことになります。 挫折した時は意気消沈しており、体調も最悪、原因不明の病気にもかかり、ステロイド投与を一ヶ月も受けていました。しかし、その間も気功瞑想をしていたおかげか、医者も驚く奇跡の回復、後遺症もなしとなったのです。気功を継続することで、その後の薬漬けの糖尿病も治ってしまいました。 ベトナムホーチミンで心機一転、経験を生かして縫製工場を拡大。 日本では、お世話になった人、義理を欠く方も大勢おり、お許しをいだだきながらも正直、気持ちは逃げの出国だったでしょうか。ですから、ベトナムホーチミンでは、当然一からの再起になりました。 縫製工場の経験を買われて、手縫い着物の工場を二つ立ち上げます。大学で学んだ国際感覚がどこかで目覚めたらしく、ベトナムでの着物工場では初めてのISO9001を取得し、文化的な古い日本語で構成される着物の縫製工程を標準化、お直しをミスフィードバックとして捉えて、縫製ミスを激減させ、パターン翻訳をアクセスソフトで作ったりと、再起の元気は爆発して成功を重ねていきました。(ホーチミン着物手縫い縫製工場) 分野違いの冷凍野菜工場をベトナムで立ち上げ、ミャンマーでの操業にも貢献はしたが。その覇気を買われて、中部ダラットにある分野違いの冷凍食品工場立て直しにチャレンジ。生産能力を倍にしたり、従業員の定着率を上げたり、歩留まり生産性の向上も目に見張るほどにしましたが、実は、信頼していた社員に裏切られ、利用されていたことが後で判明することになります。これも挫折ですね。ショックは強烈でしたが、これはここでは書けませんが…。 (中部ダラットの冷凍野菜工場) ただ、本社は数字だけを見ているわけで、山岸にミャンマー政府に頼まれている冷凍野菜工場を作らせようという話になります。これは当然、ミャンマーは行ってみたい国の筆頭になっていましたから、私は喜んで飛んで行きました。 これが実は再起になります。 足掛け2年で、土地の選定、ライセンス、建設、設備導入、社員教育等々のすべてを創業まで持ってゆきます。また、材料の日本野菜の産地を開発します。これが大変でした。世界の農家が豊かになれば世界の経済が変わると息巻いていたころです。もしかして、日本の農協が農家を豊かにしたので、日本経済は発展したのではと思っていたころですね。それも一理あるでしょう? (ミャンマーの冷凍野菜工場) 4人いた日本人は、若い人から体を悪くして帰国してしまいます。最後に残ったのは私一人、一人で工場建設と産地開発はできませんよね。ところが本社にお願いしても、俺は知らねえという孤立無援が続きます。向こうはサラリーマンで、こちらは独創性のあるICCの卒業生ですからね。ベースが違うわけで、大会社の社長や役員ら10数名を前にして、激怒しながら大声で不満をぶつけましたら、即、首となったわけです。ははは。思い出せば痛快ですが、当時は真剣に怒っていました。 でも、首になってホーチミンの家に戻ったときの例えようもない解放感、ストレスフリー、自由な自分を感じた時、初めて自分を反省しました。ああ、執着が強すぎたのではと。体もボロボロ、心もボロボロだったんです。なぜ、あの時、十数名の社長や役員らを味方につけられなかったのか? なぜ、孤立する道を選んだのかってね。そうです、違う道もあったのですね。私という人間に、もし、徳があったとすればですが。無かったからこうなったのです。どうせ、仕事するなら徳を積むことなのです。これ以外に仕事がうまくゆく方法はありません。 そうそう、高橋宏教授が学長になられた話を聞いた時、ああ、あの先生なら徳があるからと感じた次第です。私はお世辞で書いているのではないのです。そう、45年前、チュートリアル授業を先生から初めて教えを受けた時に、そう感じたのです。 ミャンマーから戻った後はタイバンコックに丸二年、FDフリーズドライの会社に勤め、多少の改善を収めて昨年9月に帰国。既に65歳になっておりました。 (タイのFD工場) 半生を反省し、再々再起はベトナムで。 このコロナの騒ぎの中、就職口もあるわけなく、「もういいんじゃね」と思っていましたが、ベトナム式の管理運営から日本式の管理運営にしたいという会社が不意に現れ、社長に会ってみるとこれまたとても人徳のある素晴らしい人だったのです。一肌脱ぎたくなりまして、本年6月1日から社長を務めています。なんと、今回は金型成形の会社でして、今は必死に勉強中です。 縫製から食品、そして金型成形と懲りもせず異業界を渡り歩ける理由は、昔ICC今TIUの“International Gentleman-ship“、その卒業生のなせる業でしょう。後輩の皆さんには是非、ストレスの多い仕事の中でも徳を重ねることを忘れずに、善人であれば、そして善人であろうとしていれば、必ず、捨てる神あれば拾う神が現れます。これは本当です。 好きなことにのめりこみ、挫折、反省と再起の連続から必ず幸運がやってくる。私の半生は、好きなことにのめり込み,多大な犠牲(家族、時間、人、お金)を払って、そして挫折。しかしそこからの再起。挫折と再起の中から、とても大切なことを学びました。そして、私の人生は、多かれ少かれ、このパターンの繰り返しであったように思います。 身をもって分かったことは、過度な執着はダメ。目に見えないものが大事で、お金で買えないものを大事にすることですね。そして、自分なりの幸せというのは、とても何気ない小さなことの積み重ねだと気づいた次第です。 文章が長くなりました。後、10年は働けると感じています。何かの良縁で皆様と結ばれてゆくように祈念しております。 (山岸和秀さんのプロファイル) 埼玉県出身 上尾高校卒業 1978年3月 国際商科大学(現東京国際大学)商学部卒業 高橋宏ゼミ 1978年~1980年 廣済堂印刷株式会社 営業 (印刷会社) 1981年~1986年 日本オーク株式会社 課長 (電子材料商社) 1986年~2004年 株式会社蒼穹 社長、President (スポーツ用品ブランド) 2004年~2010年 Pearl Tone Vietnam株式会社 社長、Director (着物手縫い縫製) 2011年~2016年 Dalat Japan Food株式会社 社長、Director (冷凍野菜) 2015年~2017年 Myanmar Agri Foods株式会社 副社長CEO (冷凍野菜) 2017年~2019年 EiyoThai株式会社 副社長 (具材フリーズドライ) 2020年6月~ Iida Mold Vietnam株式会社 社長、Director (金型成形) TIU 霞会シンガポール支部... Read more...陸上自衛隊で33年間勤務。パキスタンでの防衛駐在官、東日本大震災での災害派 遣など多くの経験をさせてもらいました。嶌末 真さん 1985年卒 教養学部国際学科 川崎孝子ゼミ 体育会卓球部2020年6月8日TIU卒業は、昭和60年でした。大学を卒業すると福岡県久留米市にある陸上自衛隊幹部候補生学校に入校。そこで約1年間厳しい訓練を受け、最初は青森の第9通信大隊に配属。青森で中隊長上番中に指揮幕僚課程(旧軍の陸軍大学に相当)に合格。 卒業後は、陸上幕僚監部、通信大隊長、パキスタンでの防衛駐在官、情報本部や統合幕僚監部での勤務を経て、平成21年から仙台において東北方面通信群長として勤務、東日本大震災での災害派遣に参加するなど数々の経験を積むことができました。 幹部候補生学校での厳しい訓練~部隊への配属~指揮幕僚課程への合格 私は、一般幹部候補生として入隊しましたので入隊後の半年間は防衛大学校卒業生や部内の幹部候補生と異なり、基本教練、射撃、戦闘訓練、格闘、救急救命法、地図判読などの自衛官としての基本教育から部隊の指揮官たる統率や戦術など盛りだくさんの教育を受けました。 一番苦労したのが体力。ずっと卓球をやっていたので体力には自信があったのですが、自衛隊の体力錬成はレベルが違います。卒業前の総合訓練では、100キロの道のりを30キロの装具をつけて不眠不休で行軍した後、攻撃するという厳しい訓練を体験しました。 最初の配属は、青森の第9通信大隊、そこに8年おりました。今でも津軽弁のヒアリングはOK。第9通信大隊では小隊長、大隊本部、師団司令部での勤務、そして中隊長と現場のあらゆる職務を経験することができました。わずか20代の若造小隊長がいきなり自分の父親くらいの古参軍曹から若い隊員と多くの部下を持ちます。現場の師匠は小隊陸曹、経験豊富で人格も素晴らしい方でした。若造小隊長を根気強く育ててもらいました。今でもその方とは家族ぐるみのお付き合いをさせていただいてます。中隊長上番時に旧軍の陸軍大学に相当する指揮幕僚課程に合格、平成5年から2年間、市ヶ谷の幹部学校で上級幹部になるための教育を受けることができました。 陸幕での地獄の勤務、師団通信大隊長として第一線部隊長に 指揮幕僚課程卒業後、いきなり陸上幕僚監部調査部に配属されました。そこでの業務の内容は細部申すことはできませんが、それは厳しい任務でした。結婚して間もなかったのですが、毎日官舎に帰れるかではなく、今日は何時間寝られるかという超ブラックな勤務環境。しかし一歩外に出ると華やかな六本木でした。平成7年から4年間、六本木で勤務した後、平成11年から2年間、兵庫県伊丹市で通信大隊長として久しぶりに現場に復帰、約300名の部下を持つ部隊長になりました。素晴らしい上司・同僚・部下に恵まれ、また、北海道での約1か月におよぶ北転演習に参加するなど、素晴らしい経験をさせてもらいました。 パキスタンでの防衛駐在官の勤務~帰国直後の国際緊急援助隊への参加 平成14年から3年間、パキスタンで防衛駐在官として勤務しました。防衛駐在官とは防衛省から外務省に出向し外務事務官として大使館などの在外公館に勤務する自衛官のことを言います。自衛官の階級を呼称するとともに制服を着用して、派遣国の国防関係者や各国武官との交流・情報収集を行うほか、我が国の防衛政策に対する国際的理解を深める活動などを行います。当時は米国での9.11テロの直後、治安が急速に悪化し、対テロ戦の第一線での勤務でした。妻と二人の子供(小学生)を伴って赴任していた ので家族を含む在留邦人の安全確保にも気を配りました。子供たちは武装警備員による警護を受けながら、毎日学校に通うという貴重な経験もしました。 当時のパキスタンはムシャラフ大統領が陸軍参謀総長を兼務する所謂軍事国家でしたので大使館における防衛駐在官の果たすべき職務も多く、TIUの創学の精神である「真の国際人」を胸に厳しい職務をこなすことができました。 3年間の素晴らしい勤務を終え帰国直後の平成17年、パキスタンにおいて大規模な地震災害が起き、陸上自衛隊から国際緊急航空援助隊が派遣されることが決定、私は防衛駐在官の経験をかわれ対外調整チーム長として国際緊急援助任務に参加することになりました。現地において防衛駐在官時代に培った人間関係が大いに役に立ち、厳しい任務でしたが何とか隊の任務達成に貢献することができました。 東北方面通信群長への上番、東日本大震災での災害派遣 パキスタンでの国際緊急援助隊としての任務を終え、情報本部、統合幕僚監部で勤務した後、平成21年から2年半、東北方面通信群長として仙台で勤務しました。群長とは約千人の部下を持ち、東北地方の陸上自衛隊全体の指揮通信システムに責任を有する非常にやりがいのある職務です。 素晴らしい上司・同僚・部下に恵まれ群長として充実した勤務を送っていたところ、平成23年3月11日、あの東日本大震災が起きました。東北地方の民間通信ネットワークは全てダウンしましたが、防衛省自前の専用回線は生き残り、そこから野外通信回線を全国から集結する部隊の司令部等へ構成し、JTF(災統合任務部隊)の任務達成に貢献することができました。不眠不休の数か月間でしたが、ここが自分の自衛官としての正念場だと思い、精一杯頑張りました。改めて不眠不休で頑張ってくれた当時の部下隊員に敬意を表するとともに地震でお亡くなりになった方のご冥福をお祈りします。 33年間勤務した陸上自衛隊を万感の思いで卒業 通信群長下番後、サイバーを司るシステム防護隊長、研究本部での勤務を経たのち、平成28年12月から防衛省自衛隊全体の指揮通信システム・ネットワーク・サイバー防衛を担任する自衛隊指揮通信システム隊司令に上番。平成30年8月1日に陸将補に特別昇任させていただき、大好きだった陸上自衛隊を卒業することができました。 現在は、一般社団法人 日本防衛装備工業会の調査部長として、海外を飛び回ってます。また、霞会東京首都圏支部に入会させていただき同窓生とも親交を図らせていただいてます。憲法9条の問題もあり継子扱いの自衛隊ですが、今や国民の90%以上が肯定的な印象を持つ素晴らしい組織です。また、非常にやりがいのある職務ですので、是非後輩の皆さんも一般幹部候補生に応募してほしいと思います。 (嶌末真さんプロフィール) 1985年3月 陸上自衛隊幹部候補生学校入校 1999年8月 第3通信大隊長 2002年6月 在パキスタン防衛駐在官 2005年12月 情報本部情報調整官 2007年8月 統合幕僚監部指揮通信システム運用班長 2009年3月 東北方面通信群長 2011年8月 システム防護隊長 2014年3月 陸上自衛隊研究本部主任研究開発官 2016年12月 自衛隊指揮通信システム隊司令 2018年8月 陸将補に特別昇任の上、退官 2019年1月 一般社団法人日本防衛装備工業会 調査部長 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...NZ在住18年目。若い方々に、海外に出る事で将来の可能性が何倍にも広がる経験を積める機会を もっと増やして行きたい。 山本大輔さん(商学部商学科 1995卒 越智ゼミ)2020年5月22日【就職活動サポートも手厚かったTIUでした】 私はTIUの商学部商学科に1991年から1995年まで通わせて頂きました。在学中はとても勤勉な学生とは言えず、アルバイトや自分で立ち上げた社会人サッカーチームの運営に没頭していました。そんな学生でしたので、ゼミはおぼろげに越智教授のゼミに通っていたと記憶しています。(時々講義中にバイオリンを弾いて下さった教授です) ゼミの仲間と川越氷川神社にて花見をしました。 また、私たちの1つ前の代までは売り手市場だった新卒就職が、バブル崩壊により就職氷河期に入っていった時代でもありました。 私は大学4年の夏に入るまで就職先が決まらずに、就職科の方にサポートが必要ですか?とご連絡を頂いて何社か紹介も頂きました。 実際はその企業の面談の前に数日後にスポーツメーカーの営業部に内定が決まりました。 社会人になってから知りましたが、当時こうして個々に直接サポートに応じてくれる大学はそう多くなかったようなので、周りに驚かれました。 新卒で入社したスポーツメーカーでは営業部門に配属され、初年度から担当を持ち色々な経験をさせて頂きました。そして仕事にも慣れた頃、当時年齢制限が25歳までだった「一生に一度だけのビザ」というワーキングホリデーの存在を知り、迷わず会社を辞めて渡豪しました。 【ワーキングホリデーで渡豪、帰国後の外資メーカー勤務を経て、その後はニュージーランドに移住】 オーストラリアの1年で、随分と自分の価値基準や選択の幅が変わりました。 オーストラリアのワーキングホリデーで、人生が180度変わりました。 帰国後は世界と繋がる仕事がしたいとドイツ系の建築機械メーカーに再就職しました。そこでは約4年英語を実務で使いながら仕事をして、30歳を目前に今度は英語を使いながら海外で就労経験を積む事を目的にニュージーランドに渡りました。 ニュージーランドでは仕事につなげる為に最初に観光の専門学校に通いましたが、実際は留学・就職・移住に関わる仕事を15年以上この地で続けて来ました。その中には現地の私立の専門学校の中で新たにゼロから語学学校を立ち上げる事を任されたり、オークランド市の教育部門と一緒にインターンプログラムの企画を作ったりといった経験もして来ました。 現地では専門学校の中に新設で語学学校を立ち上げる責任者の一人に任命。 【ニュージーランドでの活動とこれからについて】 紆余曲折ありましたが、現在は個人事業主として会社を持ち、4000人以上のメンバーの在籍するニュージーランドと日本をつなぐコミュニティも運営もしています。そこでは引き続き留学・就職そして移住をされたい方のサポートをしたり、世界で一番起業しやすい国に選ばれたようにビジネスのサポートもさせて頂いております。 私は私自身や周りの似たような境遇の在留邦人たちの経験から、「どんな形でも良いので一度国の外を見るのはもうMUSTの経験だ」と考えていて、そのような若い人を応援する活動にも力を入れています。特に、上で述べたオークランド市の教育部門は起業体験も含めたユニークなインターンシップの提供に積極的で、これからTIUの学生さんを繋げていければと考えております。 90年代前半のあの当時から様々な国からの学生がキャンパスにいたTIUで学べた事は、「世界には自分たちと違う文化・価値観を持った人たちが存在する」という事を、文章ではなく実感できた最初の体験でもありました。今現在LinkedInなどのTIUの繋がりを見ると当時以上に本当に様々な国からの学生が在籍しているのが分かります。正にTokyo International universityですね。 私は今後日本人学生だけでなく様々な国からのTIU学生のために、ニュージーランドを含めた海外での経験を提供できる機会を増やして行きたいと考えております。 現在は留学・就職(インターン含む)・移住のサポートをして、日本でのセミナーも定期的に行っています。 (山本 大輔さんプロファイル) 埼玉県出身、 草加高校卒業 1995年3月 東京国際大学 商学部商学科卒業 越智ゼミ 卒業。 1995年4月 スポーツメーカのONYONE(株)に入社。東京支店営業部に配属。 1997年10月から1年間、オーストラリアでワーキングホリデーを体験。 1999年4月から約4年、ドイツ企業の子会社Putzmeister Japan営業部に勤務。 2003年1月 海外就職を目指してニュージーランドへ。 2003年10月から、留学や移住のサポートをする日系企業や現地の語学学校のマーケティングを担当。 2009年3月 National tertiary education Consortium (現Aspire2グループ)にて語学学校立ち上げ責任者。 2013年4月から、これまでの経験を活かして留学・就職・移住などのサポートで、Connect JPNZを起業。 Connect JPNZホームページ web site: www.connectjpnz.net blog: www.globalperson.net mail: info@connectjpnz.com TIU 霞会シンガポール支部... Read more...国際物流HUB拠点での海外勤務 髙山 純さん 1989年卒 教養学部人間関係学科 水泳愛好会 豊田ゼミ、對馬ゼミ2020年2月26日TIU卒業は89年、元号は平成元年でした。ヤマト運輸㈱へ入社し社会人として現在32年目となります。海外はシンガポール、香港の物流大国で駐在、マレーシアでの半年間に渡るフィージビリティースタディを経験してきました。また現在2度目のシンガポール赴任の前には4年間、沖縄で国際物流に関わってまいりました。 宅急便でお馴染みの会社ではありますが、入社時の配属はトラベル事業本部でトラベルエージェントの部門にてホールセーラー営業を、その後、92年より当時の国際事業本部へ異動し、国際海上貨物の輸入を担当、営業として顧客回りや新規開拓を経験してきました。 シンガポール、香港などの海外勤務では、世界一の物流ハブを実感。 海外勤務は94年11月よりシンガポールへ赴任。入社時より海外と接点のある仕事がしたいと考えていましたので念願がかなった当時をよく覚えています。しかしながら、勤務地については欧米を希望していたので、シンガポールと言われた時は少し複雑でした。先ずシンガポールという国名は知っていたが、どこにあるのかよく分からず、地図で確認したくらい無知でしたし、東南アジアに対するイメージが自分の中ではあまり良いものでは無かったので不安も感じていました。 赴任して直ぐに感じたのは人々の活気や様々な国からビジネスにやってくる国際性豊かな街である事。港のコンテナヤードに蔵置されている膨大なコンテナや多数のガントリークレーンを見て世界1の物流ハブを実感しました。 海上輸送の営業マネージャー、支店長として4年4か月駐在しました。80年~90年代初めは日本の製造業が多数進出していて、日本人も当時は3万人くらいと言われてましたが、仕事以外でも多くの日本人との交流があり大変良い思い出です。ソフトボールのチームに入り日本人会の大会やシンガポールの国内チームとリーグ戦をしたり、アメリカ人コミュニティーのスローピッチリーグに参戦したり、仲間とテニスやゴルフ、各種飲み会等、オフタイムも充実していました。(仕事以上に?) 99年に帰国した後、2008年にマレーシアで事業フィージビリティースタディーにて再び海外へ。現地での宅配事業開始における事前調査をしてきました。 09年から13年までは香港で勤務。現地に宅急便サービスが始まった時期は、ローカルスタッフの教育とか、オペレーション上の難しさを痛感させられましたが、会社の歴史に残る事業に関われたのは良い経験でした。 昨年12月から2回目のシンガポール勤務。今後も海外ビジネスネットワークを広げていきます。 19年12月、再びシンガポールへ、しかも現地事業責任者として赴任。20年ぶりの当地も、当時とくらべ大きく発展し、便利になりました。配車アプリや決済アプリの機能性の高さは本当に素晴らしい物です。物流もITを駆使する時代ですので、多方面の分野の人々と交流を持ち、創造力を高めていきたいと思う毎日です。 海外生活を通して、思いやりや尊重の精神を改めて学ぶ事も多くありました。例えば、老人に席を譲る、困っている人に声を掛けるなど多々見かけますし、個人や日本人の価値観や常識では通じない事も多々あるわけです。多国籍人種の国だからこそ、リアルに感じます。 あと何年、当地にいられるか分かりませんが、今後も海外と接点のあるプロジェクトに関わっていければと思っております。 TIUインターンシップの受け入れなど、大学の発展へ協力していきます。あと、英語も頑張らないと・・・年々下手になっている様に思うので。OB会の皆様とも親交を深め、良い刺激を受けながら頑張っていこうと思います。 昨年後半にはTIUよりグローバル人材育成の一環として現役学生のインターン派遣の話があり、当社でも受け入れをさせて頂きました。2月初旬より今月いっぱい、1名の学生が当社の引越事業部にて業務を行っています。お客様の現場にも足を運び、ヒヤリングをしながら当社の事業へも協力を頂いています。 この様な制度が浸透し、多くの学生が海外での勤務を実際に体験し、将来、海外で活躍する人材が増えると大変嬉しい事です。 2020年1月、20年度キックオフミーティングにおいて、前年度の優秀部門表彰 2019年2月、社員達とバーベキュー大会(@イーストコーストパーク)TIUインターン生と引越事業部のメンバーで。インターン最終日の報告会後の後。 (高山 純さんプロファイル) 長野県出身、 臼田高校卒 1989年3月 東京国際大学 教養学部卒業 對馬ゼミ 水泳愛好会(現水泳部) 卒業後、ヤマト運輸(株)に入社。トラベル事業部、国際事業部などに勤務。 1994年から1999年までシンガポールヤマト運輸㈱勤務。海外輸送営業マネージャー、海上貨物支店長。 2008年マレーシアに短期赴任。 2009年から2013年まで香港に駐在。香港ヤマト運輸 ㈱、営業マネージャー。 2019年12月からシンガポールヤマト運輸㈱へ赴任。シンガポール現地法人取締役社長として2回目の赴任。 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...どこに行っても楽しかった海外です。 加藤 賢さん (商学部14期/1982年卒、清水川ゼミ)2020年2月18日1982年商学部14期(清水川ゼミ)卒業の加藤賢です。現在は、東洋インキグループの関連会社東洋アドレの代表をしています。 まず、簡単に自己紹介させて頂きますと、1978年に国際商科大学(現、東京国際大)の商学部に入学しました。入学時、すでに「あちこち」寄り道をし過ぎており、21才の新入生でした。 本人は、別に同級性との年の差などは、全く気にしていませんでしたが、周りは結構気を使ってくれて居たようです。その仲間たちとは、今でも時々、一杯飲んでいますが。入学後、普通の企業は、入社の年齢制限等もあるので、サラリーマンになるより、税理士でも目指そうか?といった気持ちで、学生生活をスタートさせましたが、3か月も経つと、簿記は分からないし、数字は嫌いだし、あっという間に、会計を投げ出してしまい、楽しい学生生活をエンジョイし始めました。 でも、学生生活で数多くの友人を得、バイトで稼いだ小銭で、インド、ネパール、中東をバックパッカーとして歩き、社会勉強できた事は、大きな収穫だったと思います。 東洋インキ製造(株)に入社後は、プラスチックの営業、マーケティング部門、経営企画部門を経て、当社が1990年代に投資した「デジタル印刷機(プロユースのコピーの様な機械)とそのトナー」の部門に異動しました。 パートナーはイスラエル企業であり、今でもそうですが、中東各国とは、オイルの関係もあり、日系企業でイスラエルと取引している企業は極めて珍しい時期でした。このイスラエル企業は、米国NASAの画像解析の技術を基に数々の特許を有しており、それを基礎に、デジタル印刷機とそのトナーの製造販売を行い、当社はアジア地区の販売とそのトナー製造を行いました。事業はゆっくりと成長し、現在は、米国HP社がその事業を引き継いでいますが、事業そのものより、このイスラエル人、つまり、ユダヤ人との仕事が、きわめて印象的でした。彼らは、欧米では、特殊なビジネスマンといわれていますが、4000年前にカナンの地を離れた彼らは、第二次世界大戦後にイスラエルを建国したわけですが、ビジネス上は、世界全部が彼らの土俵でした。また、ユダヤ人とはユダヤ教徒であり、母親がユダヤ人であるとの定義だそうで、それぞれの人は、スラブ系あり、ラテン系あり、アフリカ系あり、各地にそのネットワークを張り巡らせていました。 だから、まだ電話会議も始まったばかりの1990年代後半でも、世界5各国以上の電話会議や、今月はパリで会議したと思えば、次の月はサンパウロに呼び出されるといった状況で、10年にわたって、年間150日以上の出張生活でした。ただ、この経験は、民族、国籍で特徴はあるものの、ビジネスや人間関係は、その人柄と相手を尊重する姿勢が最も重要な事を教えてもらいました。また、交渉事は、どの土俵で議論するか?自分の土俵で議論できるか?などのテクニカルな面も随分と感じました。 その後、2005年にこの仕事を離れ、当社の本業である化学製品でシンガポールに駐在し、その後帰国し、2010年に執行役員、2012年に常務執行役となり、特殊化学品の生産、販売の責任者として過ごしました。また、その後、再度インドネシアに駐在しましたが、現在は、グループ内の接着剤メーカーの代表となりました。シンガポール、インドネシアへ赴任中、大学の同窓生とのネットワークが広がりました。シンガポールでは第3代支部長を歴任し、東南アジアでも色んな同窓生との交わり、今も交流が継続しています。 私は、イスラエルをはじめ、30年程を海外とのビジネスに費やしてきましたが、やはり、全ては人であり、相手を尊敬、思う気持ちさえあれば、活路は常に見いだせると思っております。 皆さんは、いかがでしょうか? (加藤 賢さんプロファイル) 1982年3月 東京国際大学 商学部(清水川ゼミ)卒業 卒業後、東洋インキ製造(株)に入社。 2005年にシンガポール赴任。東洋インキアジア極社長兼東洋インキアジア 代表取締役社長 2010年 東洋インキ グループ本社 執行役員 2012年 東洋インキ グループ本社 常務執行役員 その後、再度インドネシアへ赴任。東洋インキ インドネシア 代表取締役社長 現在は、東洋インキグループ会社の東洋アドレ 代表取締役社長、他関連会社社長などを兼務 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...激動の電子部品業界で東南アジア、インド、オーストラリアなどを飛び回ってました! 寺山賢司さん(教養国際10期 1989年卒、原ゼミ、ELI)2020年1月28日新年快乐(Xin Ni Kuai Lok) 、シンガポール風、新年の挨拶です。 1989年卒業、教養学部国際学科10期 寺山賢司と申します。クラブはELI。まずは、箱根駅伝5位入賞おめでとうございます。昨年、立川の予選会を応援しにいき、 トップ通過で感激しましたが、本戦でここまで活躍とは驚きです。「持ってますね!」 霞会シンガポール支部のグループラインでも実況中継されていました。世界は狭くなりました。これからも、母校を応援していき、盛り上げていきましょう! 大学1・2年は下羽ゼミ、3・4年は原ゼミ所属で専攻は国際政治でした。 外書購読など、難解なテキストを、夜な夜な、涙しながら、読んでいたのが懐かしく。 ついつい怠けて一夜漬けでこなしていました。付け焼刃は物にならず。コツコツが大事かと。ゼミは、緊張感がありながらもアットホームな雰囲気で、今でも先生を囲んでの食事会やゼミの仲間と不定期に集まって、近況報告や昔話に花を咲かせています。今でも同期は勿論、先輩、後輩とも繋がりがあり、貴重な財産ですね。勉学は今一歩でしたが、両先生からは、物事の本質を探究する事、多角的視野を持つこと、等々、多くを学びました。(下羽先生は、残念ながら2007年に急逝、意志を継いでいこうと思っています) 卒業旅行で、約2カ月、香港、深圳、広州、桂林を一人旅。 今は、深圳、広州共に大都会になりましたが、当時は、鄧小平の改革開放政策が緒についたばかりで超田舎町。中国の急成長を驚き、実感。ただ大中華思想の拡大主義が心配。 資本主義と社会主義のGapに大きなカルチャーショックを受けました。広州駅には、地方の農民が大量に集結デモ参加、公安が鞭で人民を”シバ”いていました! (同じ年の6月北京で天安門事件発生、社会に大きなストレスが溜まっていた様です) 前年の円高不況から、好景気に転換した平成元年に社会人デビュー。 思えば、扇子を片手に、「ジュリアナ東京」など、世間は浮かれていました。今は、やたら世間から弄られるバブル入社の一期生。リストラ対象世代!今にして思えば、社会人になる前に、もう少し寄り道(遊学や世界旅行等)をして見聞を広めておいても良かったかな?とも思います。 大学卒業後、電子部品会社に入社、海外事業部で欧州、北米、アジアを一通り担当。 当初は、自分の無知と無力を痛感(学生上がりなので当然) 励ましもあり、腐らず、諦めず、地道のやってきた事で、何とか一人前になれたかと。様々な事を経験、失敗をしながらも、新たなチャレンジできて、”甘いも辛いも”経験し平成を駆け抜けてきました(笑)。恵まれた時代でした。当時は、早朝から深夜に及ぶ働きで、今では考えられない、超ブラックでした。時代です。それでも11時から終電までの“一杯”と元気でした。 2006年から2014年までの8年間、シンガポールに赴任し、霞会シンガポールへ参加。 東南アジア生活にどっぷり順応してしまい、帰国後の日本では今でもリハビリ中。 シンガポール駐在中は、活動テリトリーが南アジア+オーストラリアで、新規顧客開拓もあ り動き回っていました。一度、下記の様な“地獄のロード”がありました。 (日)シンガポール=>バンコク(タイ)=> (火)デリー(インド)=>(水)バンガロール(インド)=.>(金)ハノイ(ベトナム) =>(土)シンガポール=>(日)シドニー(オーストラリア)=>(月)マニラ(フィリピン)=>(水)ジャカルタ(インドネシア)=>(木)ペナン(マレーシア)=>(土) シンガポール 言語、慣習、通貨、時差、交通事情も異なり、”ここは何処?”私は誰?”状態でした。 ただ、多様性の中から新しい考えや物が生まれるかと実感しました。(シンガポールは自宅や家族もあり唯一オアシスでした) 色々な事をこなそうとすると、“行き当たりばったり”では、当然行き詰まります。 戦略、計画、準備で8割方成果は決まるのではと思います。それでも、その場に行って みないと、わからない事が多いのが醍醐味でもあります。 正直、個々の能力や、瞬発力、集中力では欧米やインド、中国のトップには敵わない。 その代わり、日本には、チームワーク(One Team!)、根気、計画したら、その通り実行 しようと言う意気込みがあり、そこで勝負するのが勝ちのストーリーかと思いました。 また健康でなければ良い仕事はできません。体力勝負な所があります。“何時でも”“何処でも”“誰とでも”(笑)でも短時間でも寝られる事が意外と重要かと。 日本に本帰国してみると、いろいろな事がスムーズに運び、”居心地は良い”。 またラグビーワールドカップで日本が活躍した、ワールドプレミアムで世界一になった、 ノーベル賞を受賞した、外国人の海外旅行先人気No.1 になった等々、日本人の誇りだの、 日本民族の勝利だのと日本に対する素晴らしいNewsが飛び込んでくる。 おめでたい。明るい未来があるような雰囲気ですが本当にそうなのでしょうか? 生産性、IT、国の借金、財政難、少子高齢化、を見ても日本は危機的状況かと感じています。 おだてられて、何か良い気になって、現実逃避をしてしまっている人が多いと感じます。 “井の中の蛙”で、ぬるま湯につかった状態。気が付いた時には手遅れで「ゆでガエル」に ならないか、危惧しています。 世の中は物騒で激動。ガラパゴスで日本の中だけで完結する事はほぼ無くなり、望む、望ま ないに拘わらず、グローバルの動きに大きな影響を受ける様になっています。従来の新興国 も急速に発展しており、国際間の競争も激しく、下剋上が起こってくると思います。 長期で外国に出ていると、逆に日本の現状が嫌でも見えてくる気がします。 一定期間、外国で生活し、そこから日本をウォッチするのも良いかと思います。 その中でもシンガポールは、人種の坩堝で且つ霞会のサポートもありお薦めです。 大変な時代になってきて、難しい舵取りが求められていますが、希望を持ち、母校の駅伝部 の様に、輝ける存在になれる様、頑張っていきましょう!! 最後になりましたが、皆様のご健勝とご活躍をお祈り致します。 (寺山賢司さんプロフィール) 東京都出身, 明治学院東村山高校卒業 東京国際大学 教養学部国際学科 1989年卒 原ゼミ ELI 1989年3月卒業後、ヒロセ電機株式会社に入社。 2006年 Hirose Singapore支店長としてシンガポールへ赴任。 2010年 現法 Hirose Electric Singapore Pte.Ltdを設立、初代Managing Director 2014年までの8年間、シンガポール基点に東南アジア、インド、オーストラリアなどに営業活動を行う。 2014年から本社営業部に勤務。 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...世界に通じるエンジニアリングでお客様に貢献する 高崎仁さん(商学部 第14期/1982卒業 塩浜ゼミ ローターアクトクラブ)2020年1月16日1982年4月 私は東京国際大学(当時国際商科大学)を無事卒業し、東証一部上場の機械専門商社 “第一実業株式会社” に将来は海外勤務希望という意志の元、入社しました。 商学部出身の自分で“セールスエンジニア”業務はできるのか?など不安の中、新人研修を終えると三菱重工業(株)製プラスティック射出成形機(精密部品は時計の内蔵歯車、大型製品では自動車用バンパーなど生産する)という生産財の販売担当として関東地区製造業顧客を中心に拡販に従事しました。 その後、バブル好景気以前からの円高状況により日本製造業のアメリカ進出担当としてCHICAGOに赴任し孤軍奮闘。自動車業界を中心に音響、映像製造業界顧客の北米進出窓口として全米中を出張し日々多忙な生活を送っておりました。 生産設備の受発注活動に始まり、製作手配、納期管理、輸出業務、通関代行、内陸輸送、開梱据え付け、試運転調整までを一貫担当するという業務経験の中、数々の困難にあい、国や人種の隔たりなく協力者のありがたさを痛感しONE-TEAMの大切さを実感。 その後はアジア半導体製造業界に担当変更。韓国大手財閥を中心に世界中へPANASONIC製半導体製造装置の拡販に注力。 2008年、その経験より第一実業(株)南アジアフォールディングカンパニー本社であるシンガポールに社長として赴任。東南アジア9か国10支店の運営を担当しました。 2011年には第一実業(株)執行役員を拝命。 シンガポールでは東南アジア諸国の民族、歴史、宗教、習慣、生活環境、通貨(当然)、経済環境の差を痛感しアジア全域の200名を超える現地社員との “同じ米穀を食す民族”との共通思想” のもと “何事も協働” という貴重な体験を得て東京に2016年帰任。 第一実業(株)本社産業機械事業本部副本部長を経て、現在(株)第一メカテック取締役。弊社(株)第一メカテックは第一実業グループのサービスエンジニアリング会社として製造、販販、サービス一体体制のもと、産業機械、電子半導体、資源プラント設備、創薬、航空設備、他あらゆる “ものづくり” の顧客に対し世界規模で対応し貢献していく企業です。 卒業後は20数年間まったく連絡しておりませんでしたが、2008年シンガポール赴任が決まりTIUのHPを拝見した折に、シンガポールにも霞会あることを知り、初代創立者の落合先輩にMAILにてお知らせ。赴任後当地にて歓迎会を開催していただきました。会社関係者以外知人のいない単身赴任者には大変ありがたかった記憶のもと、現在に至っております。その後2011年に前代の加藤さんより支部長を拝命し約4年間勤めさせていただきました。 学生時代は塩浜秀夫先生の貿易論をチュートリアルからゼミ迄4年間取得させていただき、学問のみならず色々教授いただきました。その後も毎年定期的にお会いし近況報告も踏まえ一献を継続。私どもの結婚式にも列席いただくなど現在も人生を教授(?)していただいております。烏滸がましいですが自分の座右の銘 “一期一会” はこのころ形成されたと自負しております。(笑) 思い出は、私の出張先のSAN-DIEGO(CA)で先生とお会いし、休日をご一緒できた事です。異環境での先生のご意見を伺えた記憶です。又ゼミの諸先輩、ローターアクトクラブの諸先輩をはじめ、定期的に交流+親交を深めさせていただいております。 2017年より現在の(株)第一メカテックに出向後、毎年TIUのOGを複数採用させていただいており, 語学力は勿論の事、国際感覚、順応力など弊社への貢献度も高いと評価を得ております。今後も留学生も含め採用継続はしていく所存です。 最後に2020年の支部長会議はシンガポール開催との事。これまでの皆様からの多大なるご支援とご鞭撻に感謝すると同時に、今後の益々のご発展を祈念しております。 アメリカのテスラ社(カリフォルニアの電気自動車メーカー)訪問時 シンガポール弊宅での霞会メンバーとのBBQ (高崎 仁さんプロフィール) 東京都出身、桜美林高校 1982年4月東京国際大学(当時は国際商科大学)卒業後、機械専門商社“第一実業株式会社(東証一部上場)に入社。 その後、アメリカ進出担当としてCHICAGOに赴任。 2008年から2016年まで第一実業(株)南アジア統括本社であるシンガポールに社長として赴任し、東南アジア9か国10支店の運営を担当。 2011年には第一実業(株)執行役員を拝命。 第一実業(株)本社産業機械事業本部副本部長を経て、現在(株)第一メカテック取締役。 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...途上国援助は未知との遭遇。次はベトナムへ 石田幸男さん(商7期、1975年卒、柴沼ゼミ)2020年1月5日1975年に大学卒業後、JICA(国際協力機構)に40年以上勤務しました。JICAの仕事は途上国援助であり、保健医療から鉱工業や社会開発と、幅広い分野にわたっています。保健医療協力援助を行う部署に配属されたのを皮切りに、ほぼ3年に1度の人事異動があり、毎回未知の世界に転職するような仕事をしてきました。海外勤務も8ヵ国(バングラデシュ、シンガポール、ケニア、フィリピン、モンゴル、ベトナム、ウズベキスタン、ボツワナ)20年以上。振り返れば社会人以前、国内勤務、海外勤務がそれぞれ20年ずつと、なかなかバランスの取れた生活ですね。 7期生としてTIUを卒業したのはずいぶん前ですが、働き出してからもTIUとの縁が切れることはなく、今までに母校の関係者と接触する機会が何度かありました。たとえば、東京ではJICAが取り組む途上国援助などについて講演会をしましたし、フィリピンでは、故下羽教授率いるスタディツアーの学生に対し現地事情紹介したり、モンゴル勤務時には、日本語教育についてお手伝いをしたりしました。 フィリピンのJICA事務所にて故下羽教授とゼミ生の皆さんと ウズベキスタン勤務時には、ウズベキスタン人留学生のE-Trackへの応募促進で、大学との橋渡しのお手伝いをさせていただきました。年を追うごとにTIUの発展が感じられたのを思い出します。 2019年にJICAの仕事を卒業しましたが、現在は縁あってベトナムのホーチミン市師範大学日本語学部の顧問として、日本との交流関係の仕事に携わっています。ベトナムは国中が前を向いて進んでいる姿勢が感じられ、これから益々面白くなる国だと期待しています。 海外で日本人は、「礼儀正しく、誠実で、努力家である」との良いイメージを持たれています。在外での生活では、日本人であることを大変ありがたく思う機会が多くありました。このような高い評価は先人の努力の積み重ねのお陰であり、大きな財産。この良いイメージと評判を失わないように行動したいと思っていますし、皆さんにもぜひそうあってほしいと思っています。そして、どこの国でも最終的には人との良好な関係が一番大事でした。いい友達、いい先生、いい先輩など、人との信頼関係をうまく築いていくことが、自分にも周囲の人にとっても一番ではないでしょうか。 ウズベキスタン日本センターにてスタッフと700,000人目の訪問者を祝う (石田幸男さんプロフィール) 1975年3月東京国際大学商学部卒、柴沼ゼミ 1975年4月から2019年までJICA(国際協力機構)に約45年間勤務。 海外勤務地はバングラデシュ、シンガポール、ケニア、フィリピン、モンゴル、ベトナム、ウズベキスタン、ボツワナの8カ国に渡る。 2019年よりベトナムホーチミン市師範大学日本語学部顧問として、日本との国際交流に従事中。 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...学生時代に関わったマレーシアとの様々な交流を推進 新井卓治さん(教養学部 1991年卒 桑原ゼミ)2019年12月15日私は日本とマレーシアとの交流を行う公益社団法人(NGO)に所属している関係で、これまでマレーシアからの留学生で東京国際大学に進学した方々や、マレーシアやシンガポールで活躍する大学OBの方々とご縁があったことから、シンガポール在住の大先輩である落合さんのご紹介もあり、OB会マレーシア支部にも監事として参画させて頂いております。 1991年に教養学部国際関係学科を卒業、大学院社会学研究科に進学し、1993年に卒業しました。学部では渥美ゼミ、桑原ゼミに在籍、大学院では桑原研究室で東南アジア地域研究を専攻しました。東南アジアの中でも独特の多民族社会に関心を持ったマレーシアについて研究し、修士論文は「マレーシア語の中の外来語要素の研究」というテーマで書きました。マレーシア語(マレー語)は大学院の時から勉強し始め、今までこつこつと続けています。 大学院在学中に社団法人日本マレーシア協会(当時、現在は公益社団法人)に入局、現在に至っています。 ご存知のように、日本とマレーシアは80年代、特にマハティール首相の就任後、様々な分野で交流が促進され、特に経済的な関係は非常に強いものとなりました。そういった中で日本マレーシア協会ではどのような役割を果たしてきたかというと、日本国内ではマレーシアからの留学生支援活動に力を入れてきました。ルックイースト政策による日本への関心の高まりによって、マレーシアから国費留学生だけでなく私費留学生も多く来日するようになりました。特に私費留学生は、来日後、査証、入居、進学、就職など、様々な場面で身元保証が求められ、それによるトラブルも多く見られました。そこで機関保証として大勢の私費留学生の身元を引き受けてきました。その中に東京国際大学生もいましたので、そのことが卒業後、私が大学と再びご縁が出来るきっかけとなりました。 その他、マレー語講座や赴任者講習の実施、国際シンポジウムの開催、機関誌の発行、マレーシア書籍の邦訳書発行、観光促進への協力などの活動を行っています。特に近年、マレーシアで研修プログラムを行う教育機関などが増え、いわゆるロングステイ先としてシニア世代の関心も高まっていますので、マレーシア政府と共催でそれらに関するセミナーなども開催しています。 マレーシアでは、環境保全プロジェクトとして、貴重な熱帯雨林の減少が進むボルネオ島のサラワク州で、1995年から熱帯雨林再生活動を行っています。個人のご寄付、企業や団体等からのご支援を得て、これまで約1600ヘクタールの60万本の在来種等の植林を実施し、現在も継続しています。また、貴重な生態系の保護と沿岸地域の暮らしを守るために、マングローブ林の再生活動も行っており、ボルネオ島のサラワク州と半島部のクダ州の2か所において、地域の人々の参加を得て、育苗や植林活動を行っています。 私は、前述の熱帯雨林再生活動の担当者として、年間4、5回はマレーシアを訪れ、現地の政府、大学、地域村落関係者などとプロジェクトを推進しています。現在非常勤講師を務めている大学では、学生のために国際協力活動体験や海外の大学生との交流などを通じて、学生の国際的な視野を広げ、英語力の向上も図ろうとするプログラムを、学科やゼミ単位で積極的に取り入れようとしています。東南アジアのマレーシアは、日本から遠くなく、治安もよく、多民族・多文化社会を学べる地域であるとのことで、私が推進しているプロジェクトの活動に、夏春休みを利用して定期的に学生が参加するようになり、大変うれしく思うとともに、自分の仕事を通じて、もっと学生に様々な機会を提供していきたいと思っています。 大学を卒業して約30年になりますが、今考えると、あれだけ海外、特に開発途上地域であった東南アジアや中近東などに関する教員や授業が多かったというのは、国内で最も早く国際学科を設置した大学として、先進的なものであったと思います。たまたま東南アジアのマレーシアと関係する仕事をずっと続けてきたので、時間の経過による時代の変化を強く感じています。顕著な例が、近年、マレーシアから日本へ訪れる人の数が、日本からマレーシアを訪れる人の数より多くなっていることです。これは大きな変化です。 一般的に、大学を卒業すると40年ほど社会で働くわけですが、今の大学生にとって東南アジア地域は、仕事を通じて最も密接に接する地域の一つになることは間違いないと信じています。TIUがこれからも学生にとって30~40年先を見越した学びや機会を提供できる大学であることを切に願います。 ボルネオ島サラワク州の植林活動地域の人々 書籍出版交流会議でマレーシア教育大臣と (新井卓治さんプロファイル) 公益社団法人日本マレーシア協会 専務理事 (URL http://www.jma-wawasan.com) 教養学部 1991年卒 桑原ゼミ、大学院社会学研究科1993年卒 大学院在学中に同協会へ入局、1997年から現職。 複数の大学(文教大、日大、東外大:2019年度現在)で非常勤講師を務める(マレー語、東南アジア地域研究)ほか、マレーシア民族舞踊団を主宰し、各地で公演を行う。 著書に『今すぐ話せるマレーシア語』、『マレーシアを旅する会話』、『まずはこれだけマレーシア語』など。 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...ASEAN発展と共に人生を捧げる覚悟大串健一さん 1990年 商学部 商学科卒業 伊藤貞一ゼミ(国際経営論)2019年12月13日私は大学卒業と同時に塗装機器及び設備、空気圧縮機と真空機器メーカーの岩田塗装機工業株式会社(現アネスト岩田株式会社、本社横浜市)へ入社致しました。当時20名以上の卒業生が日本全国の営業部門でご活躍されておりました。毎年、泊りがけでOB会が開催され文系では一番多い大学でした。入社時、国内営業担当として頼もしい先輩の皆様から叱咤激励とご指導を頂いたことは今でも私の財産です。13年間の国内営業で業界や会社やビジネスに関する知識を身に着けた後、2003年本社マーケティング部門へ異動し初めて海外を目指し中国と台湾市場を担当しました。 その後2005年中国・上海の現地販売法人へ赴任し塗装工程を有する日系企業を中心に塗装機器を販売しました。中国駐在期間中の2007年に市場が拡大する華南地区販売強化を目的に広州へ分公司(支店)を立上げる機会に恵まれました。初めて市場調査~支店立上げ~運営までを担当しました。30代、特に35歳前後に海外赴任したことは肉体的、精神的、生理的、能力的なさまざまな面から見てトップに立つ適齢期、成功に向けて100%の体制で突入出来るまたとない時期でした。 2009年帰任し日本国内拠点長を経由し2013年本社マーケティング部門で新興国(ミャンマー、ラオス、カンボジア、バングラディッシュ)の市場調査を担当し、当時軍事政権から解放された有望市場のミャンマーへ支店を設立し自ら2014年ヤンゴンへ赴任しました。 2015年インドネシア・ジャカルタ現地法人へ異動、2019年タイ・バンコク現地法人へ赴任しました。現在、タイ及びインドネシア現地法人代表とミャンマー責任者を兼任し4ヵ国(日本人、タイ人、インドネシア人、ミャンマー人)、約60名のスタッフをマネジメントしています。 私が海外生活に馴染んで英語と中国語を習得出来たのは大学在学中、多くの留学生と交流し文化の違いを認めた上でお互いを尊敬する大切さを理解する機会に恵まれたお蔭だと思います。現役学生の皆さんには国際性豊かな本学で世界の皆さんと交流頂くチャンスを是非生かして頂き世界を舞台にご活躍して頂くことを期待します。 最後に私事で恐縮ですが、第二の人生はミャンマーで過ごす為に準備中です。ミャンマーにはアイデアとエネルギーにあふれているけれど、お金に困っている会社がたくさんあります。また起業したいが数十万円のお金を作り出せないで苦労しています。その人達に対して、自分がこれまで経験した事を話し、シェアしてアドバイスし必要があれば出資もして支える役回りをしたい思います。少しでもお世話になったASEANに恩返し出来ることをやりたいです。 以上 ピニンファリーナ社デザイン新形スプレーガン 新形空気圧縮機 タイ女性スタッフと(真ん中が筆者) (大串健一さんプロフィール) 埼玉県出身、桶川高校卒業 1990年3月 東京国際大学商学部 伊藤禎一ゼミ卒業 1990年4月 岩田塗装機工業(株)(現アネスト岩田株式会社)入社、国内営業、マーケティング部へ配属 2005年 中国•上海現地販売法人へ赴任、 2009年 国内拠点長、マーケティング部 2014年 ミャンマー・ヤンゴン現地法人へ赴任 2015年 インドネシア・ジャカルタ現地法人代表として赴任 2019年 タイ・バンコック現地法人代表として赴任。現在、タイ、インドネシア現地法人代表、ミャンマー現地法人責任者 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...商売の基本は人間関係。「信頼関係」を築くことが、商売成功の秘訣だと思います。Lee Ee Hoe(ダト・スリー・リー・イー・フイ)さん、経済学部 28期/1996年卒 栗林ゼミ2019年11月27日マレーシア国アップル企業グループ会長。1964年7月5日、ジョホール州生まれ。高校卒業後上京し、添乗員として働く。25歳のとき日本へ留学。東京国際大学付属日本語学校で日本語を学んだ後、東京国際大学に進学し国際経済学を専攻。帰国後の96年、旅行代理店「アップルホリデー」を立ち上げる。2013年、外国企業としては初めて、日本の観光振興への貢献を称えられ、日本観光庁より「第5回観光長官表彰」を受賞。2015年、日本とマレーシア間の観光産業分野の発展に寄与した功績により 「旭日双光章」を受賞。 「日本人より日本のことを知っている人」と言われるダト・スリ李さんは、国内最大手の旅行会社、アップルバケーションズ&コンベンションズ社の代表だ。同社はアジア地域およびヨーロッパ地域への旅行関連業務を手掛けるほか、国内に3ツ星、4ツ星ホテルを所有・運営する。1996年、社員3名で立ち上げた小さな旅行代理店がわずか18年で、今や年商2億リンギを売り上げる一大企業に成長。その要となったのは、訪日観光ツアーだ。国内の北海道ブームの火付け役となったのが、ダト・スリ李さんなのだから。2013年11月に移転したというブキッ・ビンタンにある新社屋を訪問した。 訪ねて驚いたのが、会長室のある4階。エレベーターを降りると、トビラの向こうは見事な「和」。日本食レストランに来たのかと錯覚するほどの、凝ったインテリアだ。「この丸太ですか? 九州から取り寄せました。ここにある椅子や壁素材なども、すべて日本から取り寄せたものですよ」とダト・スリ李さん。フロアー内にズラリ〜と飾られた土産品や樽は、「岐阜県知事や三重県知事はじめ、来社いただいた方々からのお土産です」。 ダト・スリ李さんはゴム農園で働く両親のもとで育ち、高校を卒業した後はKLでツアーガイドとして働いていたが、日本に留学している友人の勧めで、日本留学を決意。「日本に着いて1週間後には、中華食堂でアルバイトを始めました」。日本語を全く解せないダト・スリ李さんだったが、「店のご主人、トヨタさんは私の顔を見ただけで雇ってくれました。会話はほとんど筆談で、トヨタさんの奥さんは私に童謡を教えてくれた。そのお陰で日本語の上達も早かったと思います」。トヨタさんはダト・スリ李さんが進学する大学の保証人になってくれた。大学在学中は東南アジアの華僑相手にツアーガイドのアルバイトをし、日本各地を回る。 そのときの経験が、帰国後に始めたマレーシア人向けの訪日観光ツアーに生かされることになった。「おいしい食べ物と景色、温泉、雪、何か体験できる要素など、マレーシア人相手に必要不可欠な要素があれば、人気が出ます。今私が注目しているのは岐阜県です」と語るダト・スリ李さんに、商売成功の秘訣を聞くと、「お客さんとの信頼関係です」。日本人以上の日本人だと感じました。 (Senyum2014年7月号、この人のセニョ~ムより) 霞会マレーシア支部の設立で、同窓生ネットワークを応援して行きます。 アップルバケーションズ社は東京国際大学の同窓生と創り上げた会社で、マレーシアではNo1の訪日ツアーオペレーターとなり、10名の卒業生が働いている。現在、東京、ジャカルタ、シンガポール、バンコックに支社を構えており、旅行業界の先駆者として高い評価を受けるとともに、各方面から注目と称賛を浴びている。アップルグループではさらに、航空ロジスティ事業、電子メディア及び広告事業、ブティクホテル事業、不動産投資、旅行専門学校の運営へと事業を拡大していくそうです。 2017年2月に霞会マレーシア支部が設立されました。グループホテルであるLe Apple KL Tower内のRokkoレストランにて設立総会が開催され、日本からの霞会関係者やシンガポール支部の方々などの参加で賑やかな会となりました。「これからマレーシアでもTIU同窓生のネットワークを強力なものにして行きます、当面の目標は3年以内に会員を30名します」と挨拶をされていました。 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...アジアでトップクラスの人材紹介会社に拡大。これからもインターナショナルな大学を応援していきます。落合雅治さん 商4期/1972年卒 鹿島宗二郎ゼミ2019年11月9日シンガポール在住30年、そろそろシンガポールの化石になりそうです。赴任直前は東京ベイシェラトンホテルのオープニング時の宣伝・プロモーションマネージャーでした。卒業後は何と転職10回を経験、それぞれの転職先では後輩の活躍に奮起させられ、最後は転職業を天職とし、人材紹介会社JAC RecruitmentシンガポールとJAC Recruitment Asiaを田崎ひろみ会長とともに約30年間経営してきました。 5名でスタートした会社が、アジアTopレベルの人材紹介会社として成長し、シンガポールからアジア経済成長の波にも乗ってマレーシア、インドネシア、中国、タイ、韓国、ベトナム、インドとへ拠点展開をしました。各国拠点すべてオーガニックに自分たちだけの力でゼロからスタートして築き上げてきました。アジア経済危機、湾岸戦争、リーマンショック、SARS等の困難な時期も乗り越えて、2017年の退職時にはアジアに9か国(UK含む)、社員総数約450名のグループ会社に成長拡大できました。これもお客様方のご愛顧は勿論, TIUアジアネットワークで営業活動や同窓生の転職紹介などできたこと有難く感謝しております。現在、JACRecruitment Asia各国は、日本法人JAC Recruitment(一部上場)のグループ会社となっており、TIU卒業生も多数一緒に働いてきました。 シンガポールはインターナショナルスタンダードの国で真摯に頑張れば成功できる国、グローバルビジネスを運営するにはフェアーですばらしい国です。皆さん方も是非『転職のJAC Recruitment Asia』を利用してアジアへ挑戦してみましょう。勿論、当たり外れもあるかも知れませんが、自分の培った経験と知識を生かして天職を見つけてください。 今回は学生時代のエピソードをひとつ。我々4期生(1972年卒)の入学当時は卒業生はいなく、全校生1000名弱のこじんまりとした大学でした。在学時は大阪万博、高層ビル(世界貿易センタービル、京王プラザビル)完成、よど号ハイジャック事件, 小説家三島由紀夫の自衛隊(市ヶ谷)での割腹自殺など話題の多い年でした。 入学時は原杉久チュートで『ソクラテスの弁明』を原文で勉強したことがまだ脳裏に焼きついています。鹿島宗二郎ゼミでは中国経済専攻でしたので、これまで東南アジア・中国圏内で仕事をしてきたことに人生の宇宙観を感じました。 “馬を指して鹿となす”風潮はいつの時代にもありますが、間違ったことについてはっきりとおかしいと言う、自分の信念を貫くことが必要だと学びました。だから未だに堅物者だと言われ続けられているんでしょうか。 3年生のとき鹿島先生と大学側との間に教育方針で行き違いがあった?ことが災いして、ゼミの授業が1年間で終了するという前代未聞の事態になったのです。何回か大学側と話し合いを重ねましたが、ゼミに入りたい後輩の“ハンスト運動”や“全共闘運動“など入り混じって、大学の有史以来の最初で最後の“ロックアウト”で大学は夏休み前に閉鎖され、我々鹿島ゼミ員は大学の厄介者?の集まりになったわけです。この歴史は未だに卒業生のなかで語り継がれています。4年次は高円寺の先生の自宅や合宿で卒業論文を書き上げるという特例なアレンジでしたが、今となっては思い出深い卒業となりました。 4期生の大半が当時の著名企業に入社しましたが、それぞれ人生の荒波を乗り越え、もう退職後の時代を迎えています。私も退職後の生活に入りましたが、今も鹿島ゼミがあっての国際商科大学(東京国際大学)卒だと誇りに思ってます。また前学長の高橋宏さん(現TIUA学長)は鹿島ゼミの先輩です。今後もゼロからスタートするという学生時代の“若い精神力”を持ち続けながら周りを鼓舞し、充実した生活を送っていかなければと気を引き締めているところです。目標としていたことをやり遂げること、精神的にも体力的にも若々しさを取り戻し、今後も母校発展のために海外での同窓会活動に協力していく所存です。 最後に、霞会シンガポール支部は2013年に設立されましたが、2020年6月に霞会全国支部総会がシンガポールで開催されることになりました。初めての海外での総会になりますので、この機会に同窓生の皆様方が各諸国からも多数来星され、TIUのグローバルネットワークが広がることを期待しています。 落合雅治さんプロファイル 宮崎県出身,日南高校卒業 1972年3月卒業、4期/商学部 鹿島宗二朗ゼミ 卒業後、ホテルフェニックス、宮崎交通、The Millennium Gloucester Hotel(UK)、The Copthorne Tara Hotel(UK), ISS Inc, C&A Japan、Sheraton Grande Tokyo Bay Hotelなどに勤務。 1989年からJAC Recruitment Singapore-Managing Director、2004年からJAC Recruitment Asia -Director/COOなどを歴任し、2017年からNon Executive Director、2019年5月退任。シンガポール在住30年。 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...30年を超える海外勤務で延べ50ヶ国のビジネスを開拓。 現在日本とヨーロッパのグローバルな架け橋構築中原田晃さん(教養学部 15期/1983年卒 小島ゼミ)2019年10月8日海外での生活が早34年目を迎えようとしています。前職の池上通信機(株)に1983年4月に入社し、1986年6月1日、26歳で初めてドイツに赴任。以来ドイツ25年、アメリカに3年弱、そして最期の赴任地シンガポールに3年と30年以上に亘って海外をベースに仕事に従事してきました。 その間、主に各国の放送局及び放送関係のお客様にカメラを中心とした放送機器の販売、監視用・医療用カメラ・モニター機器の販売、更には医薬品製造機器の販売と業界が異なる広範囲のビジネス分野で経験をさせてもらいました。特に思い出に残る仕事は1992年のスペイン・バルセロナで開催されたオリンピック中継用に当時最先端の放送カメラシステムをスペイン国営、地方公共放送局及び民放局向けに約700台を超える大型納入が出来た事です。 仕事で訪問した国もヨーロッパ・中東=30カ国、南北アメリカ=9カ国、アジア=9カ国と計48カ国となり、宗教、文化、政治、経済の異なる色々な国での貴重な経験を積む事が出来、また前職では全ての海外現地法人(ヨーロッパ、アメリカ、アジア)の社長を経験してきました。 2018年3月末、日本への帰任を一つの区切りとして35年間勤めた前職を58歳で早期退職し、第二の新しいビジネスマン人生の出発として”Connecting you between Europe and Japan”をスローガンに、日本のお客様の海外進出、またヨーロッパのお客様の日本進出のお手伝いをしたいと言う思いから2018年5月24日に個人事業主としてG-Bridge(コンサルティング会社)を立ち上げ、現在は日本とヨーロッパ(ドイツ)をベースに、アメリカを含む広範囲な地域を飛び歩いています。 大学時代に国際人を目指して学んだ事、社会人になって海外を舞台に仕事に従事出来た事は、一生の財産であり、一切無駄は無かったと感じております。そしてこれからも今までの経験を生かし、真の国際人として母校の発展、社会に貢献出来る様、頑張って行きたいと思います。 (原田晃プロファイル) 福岡県出身, 豊津高校卒業1983年3月末卒業 15期/教養学部国際学科 小島 千二郎ゼミ卒業後、池上通信機(株)に35年間勤務(ドイツ、アメリカ、シンガポール 現地法人社長、海外営業本部副本部長などを歴任)。G-Bridgeを2018年5月24日に設立し、現在はドイツ・デュッセルドルフをベースにコンサルティング会社を経営。兼 武蔵オプティカルシステム(株)執行役員 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...TIUとカセットテープが私の人生を変えた 吉野宏さん(1975年商学部卒業、本田実ゼミ、マンドリン愛好会)2023年5月1日2次試験のある国際商科大学(現東京国際大学)へ入学1971年の春は私にとって憂鬱な季節でした。第一志望の早稲田を落ち、第二志望の明治にも入れず浪人を考えていましたが、弟がいてそれも許されずまだ間に合う大学を探して国際商科大学(現在の東京国際大学)に入学しました。国際人になるための英語教育や少人数でのチュートリアルや専門分野ゼミがあるとのことに興味を持ちました。 高校も第一志望には入れなかったので回復力はある方でしたので、すぐに気持ちを入れ替えて学生生活をエンジョイすることにしました。クラブ活動は、マンドリン愛好会を同期の仲間と作って楽しみました。マンドリンなら女の子も入って来るだろうと期待していたのですが、一人だけ後輩が入って来ただけでした。ゼミは、本田実ゼミで商学、貿易の授業が多く先輩や同期には商社へ就職した者が多くいました。海外に行きたかったので私も自然と商社希望になりました。 1974年、4年生になった私は5月から就職活動が始まりました。当時は、まだ就職協定が比較的守られている時代で、大手企業は5月1日から会社訪問が解禁、7月1日に一斉の入社試験がありました。つまり、活動は2ヶ月間でその間に第一志望の会社を決めて、7月1日に受けるという一発勝負の試験でした。会社訪問をすると、“もう他には行かなくていいのではないのですか”というように柔らかく内示の感触をくれるところもありましたが、反対に会社によっては「国立大学、6大学、他」のように受付の机が分けられているところがあり(今だったら差別で問題になったでしょうが)こんなところに入ったら派閥や格差があって大変だろうと思って申し込みもせずに帰ったことを覚えています。 ということで、三菱商事、三井物産、丸紅の当時の3大商社は諦めて、中堅の商社に狙いを定めました。M商事、K商事、Y商事などです。大手の総合商社と違って鉄鋼や木材などの特定の分野に強い専門商社です。一次試験は何とか受かり2次、3次面接まではいくのですがそこで全て落ちました。前年からの第一次オイルショックで商社は景気が悪くなり採用人数を削減していたのも理由の一つでしたが、数年後にこの3社が苦しんでいるのを日経新聞で知った時は複雑な気持ちでした。 当時の録音テープのブランドTDK(東京電機化学工業)に内定 大学の就職課の担当者からは、銀行やメーカーでは駄目なの?と言われ、商社に拘ってもしょうがないという気持ちもあり、他の業種の会社訪問を考えました。その中で、K銀行と外資系のM石油から内示を貰えましたが、試験を受けに行ったのはTDKでした。当時は、まだ社名を東京電機化学工業という古めかしい名前でした。TDKは録音テープのブランド・商標として使われていました。東京のT、電気のD、化学工業のKの頭文字を取ったもので、その後私が入社して数年後に正式に社名をTDKに変更しました。株式欄に英文表記した日本で最初の会社です。因みに、ソニーは今でも“ソニー“です。 何故TDKを選んだかというと、私が最初に使った録音テープ、当時はまだオープンリールテープでしたが、それがTDKだったのです。その後にカセットテープになるのですがそれもTDKが最初でした。そういう意味では何か縁があったのでしょう。就職課の担当者からは、まだ大きな会社ではないが、成長性がある会社だからいいのではと言われて会社訪問に行ったのを覚えています。一部上場はしていましたが、売り上げはまだ600億円、株価は450円の会社でした。ただ利益率が良いのが目立っていて10%の60億円はありました。今年の3月の売り上げが2兆2,000億円、利益が1,900億円、株価は4,700円(株式分割前の高値は17,000円)ですから、隔世の感があります。 私は試験には縁がないのか、実力以上の高望みなのか分かりませんが、高校、大学、就職と第一志望に受かったことはありません。1回で受かったのは自動車の免許の試験だけでこれは競争率が無く基本的に落とす試験ではないので受かったのでしょう。そういう状況ですから、就職も第一志望に受からなかったことはあまり気にならず、TDKの試験を受けました。筆記試験では前の日に読んだ日経新聞の記事と同じ問題が出ましたし、英語もそれまでに受けた会社の中では一番出来たので、これで駄目ならばしょうがないという気持ちでした。 2次の役員面接では、希望の職種と勤務先を聞かれましたので、磁気テープの営業を希望し、勤務地は次男なので国内・海外のどこでも可能ですと答えました。結果的にはこれが良かったのかも知れませんがとにかく入社試験に受かりました。 テープ事業部に配属され、神戸出張所に転勤になる 同期入社が28人いたのですが、技術職を含めて電子部品部門を希望したのが26人で磁気テープ部門を希望したのは私を含めて2名でした。私はTDKはテープの会社だと思っていたのに本流は電子部品だったのです。発祥がマグネットやフェライト、コンデンサーの会社ですから。ということで、磁気テープの営業部門に配属されて最初は秋葉原の電気店の店頭で3ヶ月間テープの販売応援をやらされました。TDKという会社に入ったのに、毎日の出勤は秋葉原の代理店、それから電気店に行くという毎日で、土日も休みがありませんでしたので入社前のイメージとは違って少し嫌な気持ちになりました。(宣伝・商品企画時代に勤務していた当時の東京・日本橋の本社ビル) カセットテープはTDKが一番売れていると思っていましたが、当時はSONYが一番でTDKは2番目、マクセルがマニアの中で意外と人気なのも分かりました。コンシューマービジネスではお客さんと接することが重要なので、店頭販売は貴重な経験でした。3ヶ月の実習訓練も終わるといよいよ先輩の営業マンと一緒に営業に出るOJTが始まりました。営業は販売代理店への営業と直販店(大手の電気店やレコード店)に分けられます。 挨拶の仕方や名刺の渡し方から始まって、製品紹介、キャンペーン案内、価格交渉などと営業のイロハを先輩から教えて貰いました。私が配属された東京営業所は全国でも一番売り上げが多くて、月商で1億ぐらいだったと思いますが、このような地道な営業活動の積み重ねが大きな数字になるのだと肌で感じることが出来ました。 10月になるとOJTも終わり、営業部長から“いよいよ出番だよ“と言われ、神戸出張所に転勤になりました。生まれてからずっと関東以外を知らなかったので少し不安でしたがこれから始まる新しいことに対する期待の方が大きかったことを覚えています。この神戸行きが私のその後の人生を大きく左右するのですから、やはり人生は運と縁が大事だと思います。神戸は、大阪のように大きな営業所ではなく小世帯の出張所でした。所長と先輩の営業マンが2人、事務の女性が1人でした。(この女性が後に私の妻となります) 神戸出張所のテリトリーは兵庫県と岡山県です。先輩の一人が岡山を担当し、兵庫県をも一人の先輩と私が担当することになりました。神戸で一番賑やかな三宮から大阪よりの東の大きな市場を先輩が、西の明石、姫路方面を私が担当しました。私はTDKのテープはトップブランドなので、アタッシュケースを持ってカッコよく売りに行けると思っていましたが、現実は違っていました。コンシューマービジネスのヒエラルキーは、ユーザーが一番上で、次が小売店、それから販売代理店でメーカーは一番下です。私がイメージしていた階層と真逆です。従って、私のようなメーカーの営業マンは全てに頭を下げてお願いしなければならないことを学びました。しかし、このようにして物が売れて行くのだという仕組みを知ったことは私のその後の仕事の底辺に根付いたので良い経験になりました。 この時の営業の仕事で大変だったことがあります。代理店営業ですが販売代理店は文字通りTDKの営業マンの代わりに町の電気屋さん(当時は松下電器や東芝のお店)にテープを売ってくれるのですが、この代理店は何百種類以上の製品を扱っているのでTDKのテープだけを売ってくれるわけではありません。そこで如何にして他の製品よりもTDKのテープを売って貰えるようにするかが大変でした。それで当時やったのが“トラックセールス”という手法でした。代理店の営業部長に頼んで市場の巡回という名目で営業マンのトラックに乗せて貰い一緒にテープを売るというやり方です。代理店の営業マンも私が一緒にいるので、その日は電気屋さんにテープを売り込まないわけにはいかないのです。 これを続けていくうちに代理店の営業マンにも気に入られてTDKの製品に力を入れて売ってくれるようになりました。営業の基本“製品よりもまず自分を売れ”を身を持って体験した訳です。神戸に転勤になって2年目の春に事務をやっていた女性と結婚しました。 神戸に行かなければ、妻とは結婚しなかったのですからこれも運命・縁でしょうか。(神戸出張所のメンバーと。左端が私で右側から2人目の女性が現在の妻です) もう一つあります。大阪でエレクトロニクスショーがあり、手伝いに神戸からも人を出して欲しいと要請があり、新人の私が行きました。会場には本社から宣伝担当者が来ていました。 準備や製品紹介の合間にその宣伝担当者と話をする機会がありました。私のことを気に入ってくれたのか、今、宣伝部員を増員しようと考えているのでもし興味があれば上司に話してくれると言われました。即答はしませんでした。営業を始めてまだ3年なのでやっと営業の面白さが分かって来たところでしたから。ただ、当時全国で営業マンは50人ほどいたと思いますが、私が全国最年少営業マンでした。何故ならば、第一次オイルショックの不況で文系の新入社員は私が採用されてからは2年間採用されていなかったからです。 当時は営業所長の権限は大きかったので私も営業所長になりたいと思いましたが、上に営業マンが50人もいるのでは難しいと思い、宣伝の仕事に興味があったこともあり本社の宣伝部の誘いに手を挙げました。営業所長からまだ早いと言われましたが、最後は快く送り出してくれたので感謝しました。 本社に転勤になり、営業企画部で宣伝担当になる本社の宣伝の仕事は営業の仕事とは全く違っていて最初は戸惑いましたが、やっていくうちに面白くなり自分でいうのもおかしいですが、自分にはこれが天職かなと思えるようになり、仕事に打ち込みました。 誤算は私を誘ってくれた先輩の宣伝担当者が、私を宣伝部に誘っておきながらすぐに会社を辞めてオーディオ評論家になってしまったことです。私はそれからしばらくは一人でカセットテープの宣伝担当をやりましたが、当時のお金で年間16億円使っていました。まだ26歳の若手にそれだけのお金と仕事を任せてくれた会社に驚きと感謝ですね。ここで宣伝時代の思い出話を記します。 私が入社した1975年(昭和50年)はカセットテープ市場が拡大しようとする時でした。当時私が神戸で営業を担当していた時にテレビCMでは愛川欽也の“お宅何DK?俺TDK!”が流れていました。その後に当時のアイドルの榊原郁恵、キャンディーズを起用、TDKの知名度は一気に上がり売り上げも急増してついにSONYを抜いて業界一になりました。 しかし、出荷総数では勝ててもHiFi分野では未だSONYには勝てませんでした。 営業から宣伝に移った私は調査・分析をしてTDKとSONYの差は音楽イメージであると 確信しました。相手は、ハードとソフトを持った世界のSONY、普通のことをやっていては勝てないと思いました。 1981年音楽の基準となるテープ“ミュージック・リファレンス”をコンセプトに音楽用カセットADの新製品を発売。それを機会に大キャンペーンをやることになりました。タイトルは“アメリカン・サウンド・シーン”、クラシック、ジャズ、ポップス、ロック等、全ての音楽があるアメリカの音楽シーンを宣伝のコンセプトにしました。 その象徴として、第一弾は当時ディスコミュージックで人気のアーチスト“ビージーズ”を起用、翌年の1982年にはグラミー賞7部門を受賞したスティービー・ワンダーを起用した。NHKのプロジェクトXでも紹介された有名な言葉“TDKが私を選ぶ前に私がTDKを選んだ”。 スティービー・ワンダーのCM撮影のため、2週間の同行は感動的でした。私は彼のコンサート、CM撮影のため2週間彼と同行しました。ニューオリンズのスーパー・ドームのコンサートでは数万人の観客が彼の音楽に熱狂しました。CMの撮影は、ニューメキシコ州のサンタフェ(あの宮沢りえがヌード写真集を出した場所)近くのホワイトサンズいう砂漠。目が見えないスティービーが砂漠を走るシーン、スティービーには彼の兄が持つラジカセから流れる音の方向に走ってくれと頼みました。転んでも下は砂漠の砂で怪我はしないというと彼は走ってくれ、感動的なシーンが撮れました。(スティービー・ワンダーと二人で撮った写真があるのですが、肖像権の関係でお見せ出来ないのが残念!) スティービー・ワンダーは片時も音楽と離れずいつも音楽を聴いていました。撮影の合間でもラジカセで、もちろん横にはTDKのテープがありました。移動中も自分の耳の形に合わせた特製のイヤホーンで音楽を聴いていました。私はスティービーにインタビューを申し込んでいましたが、2日経ってもO.Kがもらえませんでした。3日目の夜中12時頃、今からならばO.Kと言われると眠い目をこすりながら彼の部屋に行くと彼はいつものように音楽を聴いていました。彼に音楽との関わりについて話して欲しいと尋ねました。 通訳は区切りながら進めるかと聞いてきましたが私は時間がもったいないので、通訳はいいから進めてくれと言いました。彼は音楽で世界中の人を幸せにして、平和にしたいということを語り始めました。この時ほど自分の英語力の無さを悔いたことはありません。その後1985年スティービーは、”We are the world” を多くのミュージシャンと一緒に歌いその夢を実現させました。 アメリカン・サウンド・シーンのキャンペーンはTDKのイメージを一気に変えてくれ、TDKは名実ともにSONYを抜きトップになりました。多くの大学生がスティービー・ワンダーのCMを見てTDKへ入社しました。現在の社長は私もその一人であるとTDKタイムズで語っています。スティービー・ワンダーは、TDKの音楽性を高めただけでなくリクルート効果も果たしてくれたようです。 商品企画課では、カセットテープの新製品企画を担当するその後私は商品企画部に移り、新製品の企画を担当することになりました。宣伝では出来上がったものをPRする仕事でしたが、今度は製品そのものを企画・造る仕事に携わることになったのです。数年はカセットテープの市場が拡大していたので企画する製品がヒットして良い時代でしたが、その後市場が成熟してカセットテープが趣味の製品からコモディテー化すると差別化が難しくなりました。それにCDコンパクトディスクの登場が拍車を掛け需要は落ち込んでいくことになりました。 そんな時、アメリカで商品企画が出来る人が欲しいということになり、私が行くことになりました。TDKには自己申告制度があり毎年自分がやりたい仕事や行きたい勤務地の希望を出せる制度です。私は大学時代から海外に行きたかったので、毎年海外赴任を希望していたのですがそれがかなわず16年が過ぎていました。 子供が中学生になっていたのでもう海外はいいなということで取り下げたのですが皮肉なことに声が掛ったのです。少しは迷いましたが、海外で仕事をするのは学生時代からの夢だったので行くことにしました。 (私が商品企画をしたカセットテープの一部) アメリカ・ニューヨークの現地法人に転勤になり商品企画を担当赴任先はニューヨークの現地法人です。アメリカにはカセットテープを製造する工場がカルフォルニアにビデオテープを製造する工場がジョージアにありましたが、商品を企画する部門はなく日本にその業務を委託していました。それを私が現地で行い日本の商品企画・デザイン・開発部門と連携して進めていくことでした。現地化の走りでした。 英語も堪能でなかったのでアメリカ人の部下とのコミュニケーションにも苦労しましたが、アメリカ市場でのTDKブランドの浸透・拡大という共通した目的を共有することが出来ればアメリカ人とでも仕事は出来るのだということが分かりました。 (TDK ELECTRONICS CORPORATION 社屋) (オフィスの部屋) 家族とアメリカ生活をエンジョイ 一緒に赴任した家族のことも心配しましたが、現地校に入った息子も最初は英語の授業に苦労していましたが、1年も経つと私よりヒアリングは上になり学校の授業にも追いていけるようになりました。子供が落ち着くと母親も安心するのか、友達とマンハッタンにミュージカルを見に行くようになり、私は毎週のゴルフと家族皆がアメリカ生活をエンジョイするようになりました。休みにはナイアガラの滝、グランド・キャニオン、イエローストーンとアメリカの自然を満喫できたこともいい想い出です。 (ニューヨークで住んでいた家) (自由の女神の前で家族と) 日本に戻り、磁気テープ営業からTDK本流の電子部品営業で心機一転 6年間の赴任後日本に戻りました。既にカセットテープやビデオテープの市場は販売価格が下がり利益が出ないビジネスとなって来ていました。新しいビジネスを模索するためにTDKのブランドと技術を使った製品の商品企画部門やパソコンを使った教育ソフトの営業企画部門の仕事をしました。そして、また大きな転機が訪れたのです。アメリカに私を推薦してくれた先輩が定年退職するので、後任に私を推薦してくれたのです。 部署は、もう一つのTDKである電子部品事業部の宣伝部門です。テープビジネスが好きで入ったのですから、テープビジネスを最後まで見届けたいという気持ちが強かったのですが、先細るビジネスに将来を見いだせなかったのと自分のキャリアを生かせる仕事をしたいと思い、先輩の誘いを受けることにしました。しかし、電子部品の宣伝はテープの宣伝とは全く異なっていました。 テープの宣伝は個人のユーザーが対象なのに対して、電子部品の宣伝は企業の購買担当者や技術者です。所謂、B to CとB to Bの違いです。製品の種類とアイテム数がテープの比ではなく技術的にも難しい製品が多いのでそれを理解するのは大変でしたが、優秀な部下が多くいたので助かりました。定年までの8年間でTDKの本流の電子部品でのビジネスを経験できたことは後で振り返ると良かったと思います。誘ってくれた先輩に感謝です。 こうして、満60歳で無事定年を迎えられました。再雇用の制度もあったのですが、今のように良い条件でなかったこともあり、同期の28人で残ったのは1人だけでした。 定年後はインターネット放送などのボランティア活動で楽しんでいます。定年後は生活のために仕事をする気はなく、現役時代にお世話になった広告協会から誘いを受けた仕事を手伝ったり(無給)、住んでいる地域で始まったFM放送のボランティアをやり、今はインターネット放送の番組でMCをやっています。私が2番目の年長者でほとんどが若い人ですが刺激を貰って楽しんでいます。 (地元のインターネット放送でMCを担当) TIU同窓会もグローバル化が高まっていくことを期待しています。TIUの同窓会へは定年する少し前の現役時代から誘われていたのですが、茨城県支部の会に参加するようになったのは定年退職してからです。4年前に順番で支部長になり現在4年目を迎えています。最初は持ち回りの2年間だけのつもりでしたが、関東ブロックの私より若い支部長たちの同窓会を良くしたいという熱意に影響を受けて支部長を続けています。 霞会の各支部同窓会活動にもっと多くの若い方々の参加が増えて、国内外の霞会ネットワークが広がると良いですね。 今年の秋には池袋キャンパスが出来て、名実と共に“東京国際大学”となります。グローバルな時代と言われて久しいですが、私が学生だった頃とは違って、ビジネスや文化、レジャーもグローバル化が当たり前の時代になっています。そうした時代に大学の後輩に臨むことは、日本人というアイデンティティを失わずに積極的に多くの大学にいる留学生とコミュニケーションを取り、そして海外に飛び出して外国の良さを吸収して真のグローバルな人材になってくれることを期待したいと思います。 (茨城県支部の総会で会員の皆さんと) (吉野宏さんプロフィール) 埼玉県川越市出身 1971年私立城北高校卒業(東京) 1975年国際商科大学(現東京国際大学)商学部卒業(7期) 本田実ゼミ マンドリン愛好会 1975年東京電機化学工業株式会社(現TDK株式会社)に入社 1975年神戸出張所に転勤 1979年東京本社に転勤 営業企画部で宣伝担当 1986年商品企画課に異動 1991年アメリカ・ニューヨークの現地法人TDK ELECTRONICS CORPORATIONに赴任 1997年日本に帰国、 磁気テープ事業部・応用商品部の商品企画部門 2004年電子部品営業事業本部 宣伝企画部に異動 2012年TDKを定年退職 2019年TIU霞会茨城県支部長に就任して現在に至る TIU 霞会シンガポール支部... Read more...ワシントン州から旅館「薩摩の里」の女将へ 石脇りおら(旧姓リオラ・スチュワート)さん (1985年卒業 教養学部 祇園時信彦ゼミ ゴルフ部)2023年1月1日アメリカ・ワシントン州出身の石脇りおらさんは1985年3月に教養学部を卒業後、ブリタニカ、ドールジャパンに勤務。ご結婚後に旦那様の郷里・鹿児島で旅館「薩摩の里」を手伝うことになり、現在は女将として旅館経営をされています。 「旅館「薩摩の里」は鹿児島空港近郊の市比野温泉街から少し離れた里山にある温泉宿です。自然に包まれ、季節を感じ、温泉で体を癒す、田舎の穏やかな時間が流れる場所です。鹿児島にお越しの際は、私どもの旅館「薩摩の里」にお泊りいただけると、大変嬉しいです」と述べられています。 10歳でシアトルから単身日本へ 東京国際大学教養学部17期卒の石脇りおら(旧姓リオラ・スチュワート)と申します。 アメリカ・ワシントン州シアトル郊外の小さな町Port Townsend出身で、アメリカ人の父と日本人の母、姉と弟との5人家族で10歳まで暮らしました。 父には「日本の教育レベルは高い。せっかく優秀な日本人の血が流れているのだから日本の教育を受けさせたい」という考えがありました。母方の伯母がよくアメリカに遊びに来ていて伯母になついていたし、伯母には子供もおりませんでしたので、私を自分の子供のように育ててくれました。 日本に来て驚きと戸惑いの連続で、日本語は全く話せなかったので、日本の教育に慣れるまで苦しかったですね。 「世界に目を向けなければ」という伯母の薦めで東京国際大学に入学 茨城県の土浦日大高等学校を卒業して、獣医になりたくて日本大学へ進みましたが、「これからは世界に目を向けなければ」という伯母の薦めもあって、獣医学部を途中で断念しました。 東京国際大学に入学したのですが、茨城県牛久の叔母の家から2時間半かけて通学。加えて門限が9時でしたので、毎日時間との戦いで忙しかったですね。でもゴルフ部、ゼミでの研究、そしてアルバイトと精一杯大学生活をエンジョイしました。アルバイトは、今はもうありませんが、銀座の日本堂というお店で時計の販売を担当しました。外国人旅行客の接客を2~3年勤めました。 卒業後、ゴルフ部の仲間からの力添えでブリタニカに入社し、北海道で英語教師として8年間勤めました。そして上司の紹介でドールジャパンへ8年、東京で勤務。副社長の秘書でしたが、ボスがバナナパインを担当していたことから商品部の仕事にも携わりました。 夫との出会いから鹿児島へ、旅館「薩摩の里」を手伝うことに ドールジャパンを辞めてのんびりしているときに、夫と出会いました。私の変わった性格、つまり日本人的だけどアメリカ人的な自分を理解してくれる人は少なく、彼はその中の一人でした。そして結婚。それから「帰郷して仕事を手伝ってほしい」という夫の兄の要請で、夫の郷里・鹿児島で旅館「薩摩の里」を手伝うことになったのです。 九州は初めてでしたが、日本に来た時と状況は同じ、何とかなると思ったのです。でも現実は大きく違っていました。まずは言葉、方言には悩まされました。そして味、鹿児島独特の甘さです。ちょっと苦手でしたが、今は慣れてしまいました。 日本的な部分とアメリカ的な部分を融合して、女将業に専念しています 見た目が日本人ではないので、皆が心配して表の仕事はさせてくれませんでした。でも私の好奇心・チャレンジ精神が芽を出し、いつのまにか表の仕事もこなすようになり、女将として働いています。私は旅館の表の顔「女将」、夫は裏方の社長として二人三脚で頑張っています。 私の中には日本的な部分とアメリカ的な部分があります。お花を生けるとき心が落ち着くし、日本の美・和の心に惹かれます。でも「日本人の本音とたてまえ」を理解するのは難しい。また、自己主張という面ではアメリカ的なのでしょうね。両親の2つのDNAを融合させて、自分らしく生きていきたいと思っています。 時間の流れが変わる宿「薩摩の里」は里山にある温泉宿です。 是非とも、皆様方に昔ながらの温泉宿にお越しいただきたく、私どもの旅館「薩摩の里」の紹介をさせていただきます。 鹿児島県薩摩川内市の市比野温泉は江戸時代から湯治場として栄えた歴史ある名湯で、泉質の良さは有名で、今でも遠方から多くのお客様がお越しになります。旅館「薩摩の里」は鹿児島空港近郊の市比野温泉街から少し離れた里山にある温泉宿です。鹿児島空港や鹿児島駅からは、車で約一時間の距離です。 自然に包まれ、季節を感じ、温泉で体を癒す、田舎の穏やかな時間が流れる場所です。 100%のトロッとした温泉「美人の湯」 薩摩の里の温泉は、触れてすぐ実感できるトロっとした感触とあがった後のお肌のしっとりスベスベ感という特徴から、「美人の湯」と呼ばれるようになっています。 循環ではない源泉掛け流し、加水・加温なしの100%天然温泉をごゆっくりとお楽しみください。 地元の料理と山海の幸をどうぞ。 鹿児島は海と山の幸に恵まれた地、美味しいもの、美味しい食べ方をお客様にたのしんでいただけるよう鹿児島の郷土料理、旬の素材を使った会席料理、地元の新鮮な魚、地鶏の刺身などをご用意しております。 (旅館の前は緑の絨毯がとても綺麗です) (庭園を眺める1階和室) (地元の料理と山海の幸をどうぞ) あるものは昔ながらの里山の風景、ないものは気取ったもの、現代的なもの。お客様にはしばし街中の喧騒を忘れて静けさを味わってもらいたいと思います。源泉かけ流しの天然温泉、美人の湯と美味しい郷土料理なども楽しんでいただけると有難いです。 日本全国から、海外からも泊ってみたい温泉旅館に薦められるように常に質とサービスのレベルアップを目指していきますので、鹿児島にお越しの際は、私どもの旅館「薩摩の里」にお泊りいただけると、大変嬉しいです。 (石脇りおら(旧姓リオラ・スチュワート)さんプロフィール) アメリカ・シアトル郊外で10歳まで過ごす。 その後、茨城県牛久の伯母の家に住む。 : 土浦日本大学高等学校卒 1985年3月 東京国際大学教養学部17期卒 祇園時信彦ゼミ ゴルフ部 卒業後、ブリタニカ入社、北海道で8年間英語教師 ドールジャパン(東京)で8年間勤務。副社長秘書、商品部 2000年から 旅館「薩摩の里」を手伝う。現在は女将に専念しています。 鹿児島県市比野温泉 旅館「薩摩の里」 鹿児島県薩摩川内市樋脇町市比野4134 TEL:0996-38-1012 FAX:0996-38-2061 旅館 薩摩の里ホームページ https://satsumanosato.jp/ 旅館 薩摩の里Facebook https://www.facebook.com/satsumanosato TIU 霞会シンガポール支部... Read more...たたかう!ランドスケープアーキテクト鈴木マキエさん(1995年 国際関係学部入学、長谷ゼミ 1996年TIUA、2000年ウィラメット大学卒業:BA in Art & Sociology)2022年12月1日1996年TIUA生、2000年ウィラメット大学卒業生の鈴木マキエです。 現在はシアトルを拠点とするランドスケープアーキテクチャー会社「GGN」の一員として世界各国の都市・地域開発やデザインプロジェクトに参加させていただいています。 獅子白兎のTIUA・ウィラメット留学生活 フィリピンやブラジル出身のご近所さんが多い地区で育った私は、子供の頃から「広い世界が見たい」と漠然と留学を思い描いていました。が、しかし、その夢とは裏腹に、英語も含めテスト直前に詰め込み乗り切る「横着者」にグングン育った結果、進路決定時に正規留学は難しく、幅広い英語レベルの生徒を受け入れているTIUAプログラムに惹かれTIUに入学。ろくに英語ができないままオレゴンへ行くことに! そこで学んだのが、私の英語力では宿題を適当にやって無難な成績を取ることは不可能ということ!要領で流すことは通用せず、人生初めて真正面から勉強に取り組まなければいけなくなってしまいました。これを機に一生懸命勉強することが楽しくなったのは私の人生を変えた大きな出来事でした。 寮でも日本・アメリカ・海外からの留学生問わず一生懸命友達作りに励みました。当初、無口で小柄な私に対するアメリカ人の第一印象は典型的なおとなしい日本人。単に英語が話せなかっただけなんですが。。。 笑) 面白い冗談が言えないのはまだしも、かなり面白い冗談で笑わ(え)ない私を、「面白好きなヤツ」と理解してもらうのに当初はかなり苦戦しました。が、出川哲郎流さんも推奨の「魂で話すアプローチ」で交流し、少しずつ友達の輪を広げていきました。友達を作るのに人生で一番努力したのはこの時だった、と感じます。 Willamette University International Dinner 国際留学生の皆と。 努力の成果もあり、寮を追い出される夏休みはアメリカ人の友達数人の家に寄せてもらい貴重な経験をしてきました。中でも印象的なのは、制限速度のないモンタナで友人が仮免中だった私に運転練習させてくれた際、日本ではありえない古さのバンのギア変更が難しく、急な山道の下り坂カーブでスピードが出すぎ同乗者全員(2021年の投稿者飯島さん含む)が「殺す気かー!」と恐怖に陥った件、ワイオミングの友人の牧場で映画「The Horse Whisperer」のモデルになった馬小屋に寝泊まりしたワイルドな日々、牧場到着と同時にオーストラリア出身のカウボーイ達に向こう訛りで「%$x0&*#パレード行くか?」と聞かれ、「Yes]と答えたら馬車にポーンと乗せられ、見物に向かうと思いきや沿道に現れた大勢の人々に手を振られ、パレード登場を果たしていたドッキリ!事件、日本人の名前が覚えられない友人の伯母さんに「ジュリアロバーツ」というニックネーム(?)で呼ばれ、田舎街で名前を耳にした人々を「えっ、どこにいるの?!?!」とキョロキョロさせた件などなど、今でも集まれば話題に上る武勇伝がたくさん誕生しました。 TIUAやウィラメット時代を振り返ると宿題一つから友人関係、日常生活に至るまで何においても一生懸命、獅子白兎で立ち向かった日々だったと感じます。ここで培った頑張る精神は後の過酷な建築系大学院の時代を乗り切る基礎にもなったと思われます。 ワイオミングでのカウボーイライフ。 発見!ランドスケープアーキテクチャー ウ大卒業後は憧れの街サンフランシスコへ。直接仕事に繋がる専攻でなかったこともあり、就職難に直面。そこで公園を通じて地域向上を目指すNPOで研修生をしながら社会に役立つ専門分野で大学院に進むことを考え始めました。NPOで担当した土地利用調査や市民参加型公園計画の企画、公聴会への参加などがきっかけで、都市計画に興味を持ち、大学院進学を念頭にカリフォルニア大学バークレー校のキャリアフェアに参加。申し込みの際2つの学科のセッションが選べるんですが、都市計画の他にもう一つ「なんだろ、この学科?」レベルで選んでみたのがランドスケープアーキテクチャーでした。軽い興味で受けたセッションでしたが。。。 実は社会学や環境のみならずアートも絡んだ面白い分野であることが発覚!早速心変わりし、大学院はランドスケープアーキテクチャーに決定! 翌年、都市での環境デザイン、コミュニティーデザインが強いシアトルのワシントン大学に進学。大学院ではイタリア、中国、台湾などに短期留学。神戸でも震災復興後のまちづくりに参加するなど、多忙でしたが様々な風土、文化、そしてデザインプロジェクトを体験できました。最終的にはランドスケープの修士号に加え、都市計画学科とコラボのアーバンデザインサーティフィケイトも取得し卒業しました。 日本語ではランドスケープアーキテクチャーという分野を包括する言葉がなく、緑化、造園、園芸などと部分的な面で訳されてしまいますが、庭や外構だけでなく、色々な分野と連携を図り都市や地方、コミュニティと一緒に地域のビジョンを打ち立てていくという大規模なスケールや公共空間、グリーンインフラに関わるプロとしても活躍している分野です。 キャリアで学ぶ SASAKIサンフランシスコでは、実戦でスキルを磨く 卒業と同時にサンフランシスコに舞い戻り、SASAKIという建築、土木、インテリア、エコロジストなど多分野が存在する総合設計オフィスに就職。関係分野の専門家と身近にやり取りしながらプロとして必要な知識やスキルを学びました。最初に取り組んだプロジェクトの一つ、アメリカ最大級の港、LA港の工業地区に大きな公園や遊歩道を作ったプロジェクトでは長年工業地帯に住んでいる人々の住環境の向上に貢献できたことに加え、多数の賞などをいただき、キャリア初期から有意義で面白いプロジェクトに恵まれ幸運でした。 しばらくするとバージニア大学に移った大学院時代の恩師から常勤講師をしてみないかと声をかけていただき、挑戦を決意。1年半程働いたオフィスから半年間の休職許可をもらい、大学のあるシャーロッツビルへ引っ越しました。 バージニア大学で初めての教鞭を取る アジア人、女性、英語が訛っている、(他の先生と比べて)若い、小さい。。。 私という人物は登場した瞬間に「立派な先生だ」という印象を与える要素は皆無です。想像通り指導者としてのリスペクトを得るのが最初のハードルとなりました。多くの助言や応援の中で、特に響いたのが「全てを知っている必要はない。教える相手より一歩先を行っていれば、その一歩について教えることができるから」というものでした。リスペクトを得るために無理に先生らしく振舞ったり、本来の自分より大きく見せたりする必要はない、自分の貢献できる形で自分らしく頑張ればいい、と思えた言葉です。 結局、当初半年だった予定は2回の延長により2年近くになり、徐々に自分の教えるスタイル的なものが見えてきました。豊富な現場経験のある指導者が少ないのが弱みだと学生時代から感じていた私は、現場の知識や経験を共有できる先生になりたかったので、もっと実践経験が必要と考えていました。そんな時、徐々にリーマンショックの波及を受け教員志望者が急増。それを機に現場復帰を決断。不景気真っただ中で元のオフィスは苦戦中だったので、元上司が移動した先のボストン本社で再就職となりました。 バージニアでは試行錯誤の日々でしたが、ご指導いただいた先生方や今では友達・同僚になっている生徒達のおかげで充実した日々を送ることができ、いい思い出となっています。この経験は現在客員教授をさせてもらっているワシントン大学でも生かされています。 バージニア大学の生徒たちと。 SASAKIボストンでは、中東やアジア各国の大規模開発、街や各地域のビジョン形成や骨組みのデザインなどに取り組む 現場復帰したボストン本社ではアジアと中東を中心に都市デザインや大きなスケールのマスタープランなどを担当しました。アーバンデザイン、建築、土木、エコロジーの専門家と一緒に中東やアジア各国の大規模開発、街や地域のビジョン・枠組み形成や空間デザインなどに取り組みました。 ヨルダン側の死海、4000haのマスタープランは中でも思いで深いプロジェクトです。世界一標高が低い「死海」はそのユニークな成分で体が浮くことや貴重なバスソルトとして有名ですが、その珍しさは水自体だけではなく、ワディと呼ばれる渓谷や、希少種達が利用する広大なタマリスク(低木)の森などの周辺環境にも及びます。農業発展による水源ヨルダン川の水量低下に伴う死海の水位低下は年に1mにも及び、毎年ビーチがリゾートから遠ざかってしまう問題、テロ防止策で立体/地下駐車場設置が困難で歩行者環境が厳しい点やセキュリティ管理が水際を私有地化している問題、必要な真水と汚水の再利用のバランスが取れた開発スピードの調整などなど、社会的課題も特殊でした。 中東のマーケティングの専門家や環境エンジニアも交えた専門家チーム全員で環境、政治、経済、テクノロジーなど全ての面に渡り、どうしたら現在の問題に答えながらも、より良い未来の可能性を守っていく持続可能なデザインができるか検討し、死海という場所にしかない良さを基軸に、真珠のネックレスのように小さめの開発を要所に展開し繋いでいくストラテジーを考案。ヨルダン初の環境アセスや住人公聴会も開き、地元民やリゾート従業員のための機能的で活気ある本物の街づくりも提案しました。 初めてリード的なポジションで、自分の力不足を痛感したプロジェクトでしたが、とても多くの学びがあり、個人的に大きく成長できたプロジェクトでした。 Dead Sea Development Zone Detailed Master Plan(提供:SASAKI Associates) GGNシアトルで、数か国の興味深いプロジェクトに携わる 多数のマスタープランプロジェクトを経て、実際の建設経験を求めて、コンセプトから建設まで丁寧に手掛けることで有名な現在の会社GGNに入社。シアトルに戻り早10年、時折ワシントン大学で教えながら、アメリカ全土や数か国に渡り大学やハイテク企業のキャンパスや複合開発、会社の無償活動を利用したNPOによるホームレスの住居プロジェクトまで幅広く興味深いプロジェクトに携わらせていただいています。2018年のコンペ時から参加している大阪の「うめきた2期」もその一つです。 うめきた2期。GGNチームはプロジェクト全体のランドスケープビジョンからコンセプトレベルのデザイン、都市公園区画は詳細までリードデザインとして担当 うめきた2期開発は2024年先行オープン、2027年完成予定の複合開発で関空と大阪駅をつなぐJRの新しい駅の真横に位置している計9haのプロジェクトです。敷地の中心に位置する4.5haの都市公園の他、商業やインキュベーション施設、コンベンションセンター、3つのホテルに2つの住宅棟なども含めた街区となる予定です。 詳しくはオフィシャルウェブページもあるので是非ご覧ください:https://umekita2.jp/ 私達GGNはプロジェクト全体のランドスケープビジョンからコンセプトデザイン、都市公園区画は詳細までリードデザインとして担当。クライアントとなる事業者9社をはじめ、複数の建築事務所を含む日本のデザインチームと共にデザインに取り組んでいます。 GGNの特徴としては与件や機能面のみならず、独自のデザインプロセスによりその土地の普遍的な本質を探り出し、模倣やコピペではない、その土地にしかない・その場所で一番輝ける本物のデザインを提案していく点です。 歴史・文化、社会環境、生物多様性など色々調べると「何もない」とか「価値のない」場所などなく、どこでも興味深いストーリーや地元の人が自分の街を感じる瞬間が存在しています。それをどう可視化し、機能・与件、自然環境やコスト、そして様々な人々の意見などとのバランスを取って表現していくか、プロジェクト一つずつ丁寧に検討していきます。 もちろん、うめきた2期でも色々な調査・分析を重ね、淀川と深い関りがある豊かで潤った大地の記憶や橋の街大阪をインスピレーションに、海外に誇れる日本らしさも現代的にデザインに織り交ぜていきました。 初めての日本のプロジェクトなので日本特有な事を学ぶ機会が満載です。高度な技術や完成度など世界に誇れる点も多い中、縦割りや保守的なアプローチが主流であること、専門的なデータ分析より経験則を重んじる傾向、事例主義など、公共空間の向上には多くの課題やハードルも多そうです。個人的に最初の事例自体がどうできたのかは「卵が先か鶏が先か」並みのミステリーだと感じています。 お店などは雰囲気をとても大事にするのに公共空間は機能さえしていれば安っぽくても仕方ない、とあきらめているのが日本人の感覚と感じることがありますが、公共空間の質を付加価値としてではなく街のバイタリティのベース・インフラとして捉えていくことにより、地域や街、日々の暮らしの豊かさの向上に繋がっていくのでは、と思っています。コロナの影響もあり、世界中で屋外や公共空間価の値感が見直されてきている今、日本でも新しい公共空間や地域のあり方に取り組む機会が増えることを願っています。 うめきた2期ではGGN 創立者の一人、世界的にも巨匠的存在であるキャサリンと深く協働することができ、共にプロジェクトに貢献できたことや、日本チームも含め様々な方々から学べた事に感謝しています。都市公園はこの春工事が開始されましたが、これからも気を抜かず、最後まで日本チームと一緒に頑張っていきたいと思っています。 うめきた2期開発-鳥瞰イメージ(提供:うめきた2期開発事業者) 「たたかう、ランドスケープアーキテクト」として、試行錯誤しながら自分らしくチャレンジして行きたい 最後に「たたかう、ランドスケープアーキテクト」のタイトルですが、去年行った日建設計講演の際、友人に「私らしい」と提案されたタイトルです。TIUA時代の「負けない」精神が反映されているのでは、と感じます。ここ数年パンデミックや治安・政情の悪化など、世界中暗いニュースが多く凹みがちな日もありますが、私が「たたかって」いけるのも様々な方々のサポートあってと再痛感させられた機会でもあります。 日本での公共空間向上やランドスケープアーキテクチャーの普及を考えると、どう「たたかって」いくべきか(まだ)分かりませんが、また試行錯誤しながら自分らしくチャレンジしていけたらなと思っています! 何か「たたかうランドスケープアーキテクト」がお役に立てそうなことがあればご一報をいただければ、と思います! (鈴木マキエさんプロフィール) 名古屋出身 愛知県立千種高校卒業。 1995年TIU国際関係学部入学、長谷ゼミ。 1996年TIUA、2000年ウィラメット大学卒業:BA in Art & Sociology。2012年 GGN Ltd入社 現在の役職はPrincipal。 GGN: https://www.ggnltd.com/ 米国シアトルを拠点にするランドスケープアーキテクト。TIUAの後、ウィラメット大学へ編入、Bachelor of Arts(アートと社会学)で卒業。ワシントン大学でMLA(ランドスケープアーキテクチャー修士号)とアーバンデザインサーティフィケートを取得。ランドスケープデザイン・建築オフィスやバージニア大学建築学部講師などを経た後、現在勤務しているGGNに2012年に入社。 40平方キロメートル以上の大規模な地域マスタープランからホームレスのための極小ハウスプロジェクトまで幅広いスケールやタイプのプロジェクトを手掛ける。過去に携わったプロジェクトは世界10か国以上。現在は大阪のうめきた2期地区開発も担当。ワシントン大学にて客員教授も兼任中。 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...「人生という旅に出て60年。……ファティマという名前をもらったサハラ砂漠で現地の民と暮らした経験が私の転機だったと想う」 空羽(くう)ファティマ(関口恵子)さん(1986年卒業 国際関係学部 テニス部)2022年8月1日はじめまして。絵本作家の空羽(くう)ファティマ(関口恵子)と申します。群馬県前橋在住です。2022年現在15作出版している自作の絵本〈主に大人の為の朗読CD付き絵本【愛と命と希望がテーマのキャメルン シリーズ】〉などの作者で、その世界観を立体的に表現しようと、物語に寄り添うオリジナルの音楽と,切り絵の映像と、ダンスをつけて、学校や舞台などで、その“朗読コンサート”を,医療者,教育者のメンバーと共に〈命の大切さと日々の尊さ〉を伝える活動(震災支援活動や、子育て支援、イジメ予防など)を14年間続けております。 私は当時の「国際商科大学(現東京国際大学)」を卒業後、世界35ヵ国を海外版寅さんの如く飛び回り、サハラ砂漠で現地の民と電気も水道もトイレもない生活をした際に付けてもらった「ファティマ」と言うニックネームを、その時学んだ“生きていく上で大切なこと」を忘れないようにと今もペンネームとして使っております。41歳で初めての出産後、自分の命より大事な存在に出会えたことで命の輝きを散りばめた【キャメルン シリーズ】というラクダを主人公にした物語を書いたのは、砂漠でラクダの価値を実感したことと、人間ではないキャラクターを使った方が“人生における深いメッセージ”も、ストレートに真っ直ぐに心に伝わると考えました。 アメリカ留学が目的で、東京国際大学に入学さてさて。在学中は国際商科大学という名称で、オレゴンに編入できる制度を使いたくて国際関係学科に入ったのですが、厳しい体育会のテニス部に入り、76人だった新入部員が14人に減り、後輩もできたことでクラブを続け女子部主将なぞをやり、結局留学は卒業後にしました。 1年間朝から夜中まで必死にバイトして溜めたお金で,オレゴン州のサザンオレゴンステイトカレッジ大学附属の英語学校。フロリダは職業訓練所学校に通い、日本で生花をやっていた私はフラワーアレンジを学びました。オレゴンは大学内の池にワニがいた寮の暮らしをして、フロリダは何箇所もホームステイを経験し アメリカ家庭の中に入ったことで、生のアメリカの暮らしを肌で体験。虐待ママから子供を守りながら暮らした家。鳥が放し飼いになっていてご飯の時はフンを避けながら食べたおばあちゃんの一人暮らしの家。貧しいながらも毎晩のテーブルセッティングがとても素敵なカップルの温かな家。などなどいろんな家庭を体験。 中でも面白かったのはある子供の絵を見た私はその色彩の豊かさと自由さに感動して「どういう育て方をしたらこんな絵が描けるようになるの?」と聞くと、「サンフラワースクール」という私立の自由な小学校に行ってるというので,見学させてもらうと子供たちはその日に受けたい授業を自分で選び、寝転びながら授業を受けたりしてるのに、日本みたいに受け身ではなく政治的なことも性教育もオープンに小さい子がバンバン発言していて,驚いたのでした。 本当に楽しい自由な学校で、ワニのいる川?湖?に日本ではありえないくらいに先生も生徒と一緒に泥だらけになりながらのピクニックに行ったりするとにかくスゴい、ワイルドな自由な学校だった。 それで,楽しくなりここで学びたいと思った私は「生徒としてぜひ通わせてほしい」と校長に頼むと,「大人は無理」と初めは言われたが、子供たちにあやとりや、折り紙を教えて「こんなふうに日本文化も生徒たちに伝えるからお願いします!」と再度頼むと、私に懐いた子どもたちも先生にお願いしてくれて,晴れて小学生になれたのでした。めでたしめでたし!♡╰(*´︶`*)╯♡ しかも,一度納得した後は、その校長先生はなんと授業料も無料にしてくださり、自分の家にタダで住んで良いと言ってくれたのだった!ひゃあ!びっくり、なんてありがたし!校長先生の夫はセントピーターズバーグの新聞社の社長さんで、リッチなお家での暮らしが始まったのでした。庭にはアライグマが来てて可愛かったが,サンドフリーという砂浜にいるノミに食われて物凄く,痒い日々で(>__... Read more...TIUに入学した事が、その後の人生を大きく左右したと思います。井上 仁さん(1991年卒業 商学部 鐘ヶ江ゼミ/1990年南オレゴン大学 Social Science 卒業)2022年6月1日私は1986年4月に東京国際大学商学部商学科に入学、1991年3月に卒業しました(最後は鐘ヶ江先生のアジア経済ゼミでした)。途中、2年間は米国に留学しています。現在は米国在住ですが、大学時代からの海外経験を振り返り、今後、海外での活躍を希望している方の参考になればと思い、本稿を書き始めた次第です。 南オレゴン州立大学の留学時代は間違いなく、the best part of my life.私はTIU商学部2年次、学長推薦を得て、日本国際教育協会から奨学金を頂き、姉妹校関係のあった南オレゴン州立大学(現・南オレゴン大学:SOU)に2年間留学する機会に恵まれました。学内の選考には筆記テストや面接試験もあり、多くのTIU生が受験し、狭き門だったと思います。面接後は失敗を確信し、次の年にもう一度チャレンジすると、落ち込んでいたところ、合格通知を受けました。当時はスマホもパソコンもなく、事前の手紙のやり取りのみを通じて留学準備し、スーツケース一つで渡米しました。Portlandの空港から大学への行き方も知らず、今思うと、少々無茶したかと思いますが、当時、留学された方は皆同じ様な経験をされたのではないかと思います。 留学開始当初は、相当苦労した記憶があります。それでも、多くの人の助けを得ながら、充実した日々を過ごしました。2年間はあっという間に過ぎ、Summer Schoolを含む計7クオーター(7学期)在籍し、Honor Roll 3回、Dean’s List 1回頂き、1990年6月、苦労した甲斐あって優等学位で卒業する事ができました。今思えば、留学時代は間違いなく、the best part of my lifeだと思います。何時か、また米国に戻りたいと思いながら帰国した記憶があります。 学位はTIUと南オレゴン大学の両方からBachelorを取得しましたが、Double Bachelorはあまり意味がなく、2つ取得するのであれば、一方はMasterやDoctor等、Terminal Degreeを取得する方が、就職や転職には有利と思います。 (卒業式は公園(屋外)で行われました。Ashland, Oregon, June 1990) 卒業後は、大手化学メーカーに就職。海外出張で視野を広げる帰国後は即、就職活動に取り掛かり、当時はバブル崩壊直前だった事もあり、希望した会社(日本の大手化学メーカー)に就職するができました。会社では先輩や上司にも恵まれ、様々な経験を積む事ができました。入社直後は海外顧客へのセールス・マーケティングに従事し、海外出張の機会も多く、視野を広げる良い経験になりました。 シリコンバレーに役員として出向。米国特有の訴訟で大勝利したのは忘れられない経験でした2007年にはシリコンバレーにある子会社に役員として出向する機会も得られ、留学以来、初めて米国に戻る機会となりました。英語は多少覚えていましたが、大学で何とかしていたままの英語では歯が立たない事に気づき、ビジネスで使える様に、鍛え直しました。赴任中はリーマンショックで子会社経営も一時困難を極めましたが何とか乗り切りました。 途中、大きな訴訟が1件発生し、終結まで何と4年間費やしました。保険会社が保険金を払わなかったので、法的処置を取らざるを得なかったのですが、訴訟が得意でない日系企業だった事もあり、保険会社になめられていたのだと思います。最終的には全面的に主張が認められ、被告からは懲罰的なPenaltyを含む金額の和解金を得られ、大勝利となりました。今では、忘れられない経験の一つです。 シリコンバレーのある米国西海岸は豊かな自然に恵まれ、年間を通じて晴天も多く、旅行には最適でした。最も気に入っていたのは、Lake Tahoeです。湖の透明度も高く、秋には素晴らしい紅葉も楽しめます。ネバダとの州境にあるので、カジノもあり、夜も飽きません。最近の山火事で一部消失してしまったと知り、非常に残念です。 (レイクタホ(カリフォルニア州)にて) (Red Rock Canyon, Nevada, USA) (Grand Teton National Park, Wyoming, USA) 再度の駐在でシリコンバレーからノースカロナイナへ。そして転職2013年7月、シリコンバレーでの駐在は終了しましたが、その2年後、再度駐在として、買収したばかりの会社のVice Presidentとしてノースカロライナ州にある、バイオ企業での勤務を命ぜられました。翌年、ノースカロライナにある日系の大人用オムツのメーカーと縁があり、転職する事になり、現在に至っています。お陰様で高齢化社会の恩恵を受け、需要は右肩上がりになっています。最近、マスクの製造販売も開始いたしましたが、コロナの収束と共に需要は激減し、こちらは右肩下がりで、頭が痛いです。 (左から2番目(後部座席)が筆者。これが当社の新製品(マスク)です) TIU卒業生には日本国内に留まる事なく、大きく視野を広げ、国内外を問わず、社会に貢献できる逞しい社会人になって頂きたいこの様な人生を歩んでいますが、振り返るとTIUに入学した事が、その後の人生を大きく左右したと思います。入学前には英語とはほぼ無縁でしたが、友人や教授から良い影響を受け、少しづつ、先が開けてきたと思います。最近、世の中の変化が激しさを増しましたが、TIUやSOUで教わった事に加え、これまで経験してきた事が非常に役に立っています。それでも、社会人になってから本格的なインフレを経験するのは初めてだと思いますし、Pandemicやウクライナ侵攻等、思いもよらぬ障害も発生しています。社会・経済環境は激変していると思いますが、何とか幸せに暮らしています。残念ながら平和な世界はやや遠のいてしまったのかと危惧しています。チャレンジングな環境が続くかも知れませんが、TIUの卒業生には日本国内に留まる事なく、大きく視野を広げ、国内外を問わず、社会に貢献できる逞しい社会人になって頂きたいと思います。そして、是非、自ら幸せを感じられる人生にしていただきたいと願っています。 (以上、2022年5月1日、Raleigh, North Carolina, USAにて、井上 仁) (井上 仁さんプロフィール) 東京都出身 明大附中野高校卒業 1986年4月東京国際大学商学部入学 1987年9月南オレゴン州立大学(現・南オレゴン大学)入学 1990年6月南オレゴン州立大学卒業(Social Science学部, International Studies専攻) 1991年3月東京国際大学商学部卒業 鐘ヶ江ゼミ 1991年4月日系大手化学メーカーに就職 セールス・マーケティング部 2007年米国シリコンバレーにある子会社へ役員として出向 2013年米国シリコンバレーより帰国 2015年米国ノースカロライナ州にあるバイオ企業へVice Presidentとして勤務 2016年米国ノースカロライナ州にある日系オムツメーカーに転職 現在に至る TIU 霞会シンガポール支部... Read more...大学時代に経験したアメリカ留学、異文化体験からパワーエレクトロニクス半導体デバイスサプライチェーンの世界へ 木村徳明さん(1998年卒業 経済学部国際経済学科 鐘ヶ江ゼミ、ESS/1997年Willamette Univ. 教養学部経済学卒業)2022年4月24日29年前、大学入学した頃 私が東京国際大学への入学をしたのは、1993年、今からもう29年前になる。1993年というと、東武東上線のふじみ野駅が開業、当時はみずほ台駅と上福岡駅の間は住宅も少なく、広い畑が残っていて、今の高層マンションが立ち並ぶ住宅街もまだなかった。 当時、家庭にはインターネットがようやく普及し始めた頃で、ダイヤルアップ接続。ネットを接続していると、家の電話が繋がらなくて、自宅でPCを繋ぐのも気を使ったような時代だった。モニターもCRT(ブラウン管)、今のように液晶を使ったフラットパネルディスプレイは存在していなかった。 学生が持っていたのもポケベルで、“ポケベルが鳴らなくて”という歌も流行っていた。携帯電話も通話しかできないPHSがようやく普及し始めた頃だった。今のように、誰もがスマートフォンを手にして、動画、ゲーム、電子書籍、ニュースを見る時代になるとも想像が及ばなかった。当時アメリカでの留学経験を振り返りながら、今にどうつながってきたのか振り返ってみたい。 1991年の夏休みにアリゾナ州に約1か月ホームステイをする機会があり、その時に体験したアメリカでの生活、英語が不自由ながらも温かく私を迎えてくれたホストファミリーにまた会いたい。次に会う際には、英語でコミュニケーションを取りたいというのが、英語を勉強、習得したいというモチベーションだった。 大学進学先を決める際にも、Willamette大学でのAmerican Study Program(ASP, 旧TIUA)をはじめ海外提携校との留学制度が充実していたことが東京国際大学へ進学を決めた理由だった。 1993年、大学入学後はESSに入部し、ディベートセクションに入った。1年時には、とにかく英語力が足りず、先輩のやっている様子を必死にまねることに精一杯でした。一つの議題に対して、賛成、反対に分かれて、スピーチをまとめ、議論をしていた。よく議論としてあがったのは、憲法9条の問題、少年法の適用について、原子力発電の是非などで、必要な情報を集めるため、当時は今のように、Wikipediaもなく、インターネットは図書検索で使える程度で、Imidas(イミダス)や、現代用語の基礎知識といった分厚い情報、用語集、日経、朝日新聞、東洋経済、ダイヤモンド、日経ビジネスといった経済誌、文芸春秋、中央公論などの月刊誌を大学の図書館で情報収集のためによく読んでいた。 ESSでの活動は、論理的に議論を組み立てるための手法、伝え方、物事の賛成、反対、両方の視点からとらえて意見をまとめる作業は、後のASPに参加した際や、WUでのリーディング、ライティング、ディスカッションなどアカデミックスキルの基礎となった。 (95年 ESS 4年生の卒業式、TIU第一キャンパス図書館前にて) ASPプログラム(旧TIUAプログラム)での思い出 大学1年の課程を終え、2月に、ASPプログラムに参加することになった。ASPプログラムは非常によくできたプログラムで、語学を習得するのみではなく、異文化での生活、留学経験を積むことができた。“When in Roma, Do as a Romans do.”“郷に入れば、郷に従え” ということわざがあるが、Willamette Universityで寮生活をしながら、実際に WU生たちのやっていることを見よう、見まねでどんどん吸収しようという気持ちでいっぱいだった。 プログラムに参加して、すぐにSpring Break(春休み)があり、WUの学生たちが主催しているAlternative Spring Breakという泊りがけで参加するボランティア活動に参加した。7-8名のWUの学生中で、留学生で参加したのは私一人。リスニングもスピーキングもまだおぼつかない状態ながら、Warm SpringsというOregon州にあるネイティブアメリカンの居留地を訪れ、ネイティブアメリカンの文化保護センターで草刈り、清掃などボランティアに参加した。 土着文化を持つネイティブアメリカの人たちはアメリカ社会に適合できず、アルコール依存症、貧困、社会問題を抱えている実情などを見た。居留地周辺は街灯もなく、夜になると満天の星空、静寂の中、コヨーテの遠吠えが聞こえてきそうな雰囲気。Warm Springsの族長の方に招かれて、参加した学生とテントの中で、薬草を炊いたサウナ、スウェットバスに入った。 その族長は呪術師で、テントの中に入った一人、一人に、前世がどんな人物だった告げはじめた。そのお告げは、具体的に、いつの時代の、誰なのかはわからないが、南蛮貿易で頃に東南アジアに進出した人物か、旧日本軍で、オランダかイギリスに支配された地域で、解放のために現地人と戦った人物なのか、支配されていた現地人を指揮して解放のために戦った人物だった。因みに、私の家系は武士の家でもなく、第二次世界大戦中に、南方に従軍した人物もいないので、全くの迷信なのだが。 (Willamette大学新聞 Collegianに載った、TIUA生到着の記事) 94年の夏休み、アメリカワールドカップ 1994年はアメリカでサッカーのワールドカップが開催された年だった。日本は1992年にJリーグが始まり、プロ化され、三浦知良、ラモス瑠偉などの選手が活躍し、ワールドカップ出場の期待が大きく高まっていた頃だったが、日本代表はワールドカップ出場が掛かったアジア予選で、カタール・ドーハで行われた試合、後半2-1でリードしながら、ロスタイムに同点に追いつかれ、ワールドカップ出場権を逃したこの試合は、ドーハの悲劇と記憶され、あと一歩で出場を逃した大会だ。 今年サッカー日本代表はアジア予選を勝ち抜き、7大会連続でワールドカップ出場を決めている。ドイツ、イングランドをはじめ、ヨーロッパのリーグで活躍する選手がほとんど占めている今、当時ワールドカップ出場することが難しかった時代を想うと、日本サッカーが着実に強化を進んでいることがよくわかる。 ワールドカップを観に行きたいという気持ちは強かったが、まずチケットの入手方法がわからない。週末にASPに参加した学生のグループで訪れた、Portlandで、日本とアジアの食材を扱っているグローサリーストアで買った、日本の新聞の米国版に偶然、ワールドカップのチケット販売の広告を見つけた。当時は、チケット販売会社に電話でオペレーターにつないで、拙い英語で欲しいチケットを伝え、何とかチケットを手にした。 購入できたチケットは7/4 独立記念日に行われる、San Francisco近郊のPalo Alotoスタンフォードスタジアムでのアメリカ対ブラジルの試合だった。試合前のスタジアム周辺は、大勢のブラジル人サポーターたちがサンバを踊りながらお祭り騒ぎで盛り上がっていた。スタンフォードスタジアムには86,000人の大観衆が詰め寄せた。 試合はブラジルが優勢に進めるも、アメリカがなかなかゴールを割らせない展開。終盤にブラジルが選手交代後に得点を決め1-0で勝利した拮抗した内容だった。アメリカではまだサッカーはメジャーなスポーツではなく、サイドをブラジル人選手が駆け上がり、座っていた観衆が盛り上がって立ち上がると、後方から“Sit Down‼”と大声で注意をされたことを覚えている。 今や、アメリカでもMLSプロサッカーリーグが立ち上がり、人気も定着して、観客がサッカーを見る眼も成熟し当時のようなことはないのだろうが。その夜はSan Francisco湾、フィッシャーマンズワーフで独立記念日の花火を見たことはいい思い出である。 San Franciscoを訪れたあと、Los Angels、San Bernardino とAmtrakを乗り継ぎ、Grand Canyonを訪れ、その後、Arizona 州Phoenix近郊のMesaという街へ。高校2年の夏休みにお世話になったホストファミリーとの再会を果たす。94年ワールドカップアメリカ大会も佳境を迎え、ブラジル対イタリアの決勝戦もホストファミリー宅で観た。高校の頃、ほとんど英語で会話できなかったが、ASPに参加して上達した英語が活きて、自分の英語力の向上も実感できた体験でした。 ASPプログラムの終了から、Willamette大学への長期留学 夏休みが終わると、TOEFLのスコア上がり、長期留学の要件を満たすレベルまで英語力も向上した。Willamette大学への奨学生試験にも何とか受かり、翌年の1995年の秋からWillamette大学へ編入することが決まった。ASPに参加して、語学力も身についてはいたもの、少人数で行われることの多いWillamette大学での授業はついていくのが大変だった。最初のセメスターで取った、アカデミックライティングの授業は特に印象に残っていて、テーマは“核問題”。7~8名の少人数で行われるディスカッション、ASPである程度通用すると思っていたが、全く通用せず、完全に自信を喪失した。語学力のみではなく、近現代史の知識が圧倒的に不足していること。また、日本は唯一の被爆国、非核三原則、憲法9条で規定されている平和憲法、いずれも日本では当たり前とされている知識がなぜそうなのかと問われるとどうにも説明ができない。 高校の修学旅行で、長崎での被ばく者の体験談を聞いたことを伝えようにも、アメリカ人に対して、それが何を意味しているのかは非常に難しかった。そんな時にそのライティングの授業を受け持った教授から、読むことを勧められたのは、Noam Chomskyの著作だった。Chomskyの著作や論文は日本語訳も多数出版されているが、一般的な日本で受け入れられているメディアを通じて捉えられているアメリカではなく、冷戦後のアメリカ、新自由主義に傾きすぎる政治、行き過ぎた資本主義社会に対する批判だった。教授がChomskyの著作を勧めたのも、当時日本で身に着けた私のアメリカ観を考え直すきっかけを与えたかったのだろう。 専攻したのは経済学で、冷戦後の東ヨーロッパ、旧ソビエトがどのような過程で、資本主義、自由主義経済に移行していくのかを研究する講義が印象に残っている。今、ロシアがウクライナを侵攻して、一部の報道などでは、東西冷戦の再来するのではなどの意見も出ているが、1995年頃は、社会主義、計画経済から、資本主義経済の移行は、人、モノ、お金、情報を遮る壁がなくなり、より豊かな世界になる明るい見方が主流だった。 あと、印象に残っているのは、芭蕉のおくの細道とEmily Dickenson詩を比較、源氏物語とホメイロス オデッセイ、川端康成の雪国とヘミングウェイの老人と海を比較して読み解いていく比較文学の授業だった。おくの細道も、源氏物語も、雪国も、すべて英語版があるのだが、日本語と読み比べると非常に興味深かった。漢字と仮名が混じった文章が表現する情景や心情の豊さを感じる体験だった。 ASP、Willamette大学での留学経験は、授業、当時読んだ本を通じて、自分のもの見方、考え方に大きな影響を与えた。日本の大学での授業ではあまり取り上げられない、古典を原文で読んだことは、すぐに役立つ知識ではなかったが、今でも読み返すと新たな気づきを得られる。変化の激しい時代だからこそ、じっくりと古典と向き合い、その中から得られた知識で行動、判断することが習慣になった。 大学卒業後、半導体・エレクトロニクス業界へ Willamette大学卒業後、TIUを卒業し、その後の進路としてはサンケン電気(株)パワーエレクトロニクス、電力変換、制御を専門とする半導体デバイス製造メーカーに1998年入社した。入社時の配属先は、海外営業部でアメリカ市場の日系大手テレビメーカーを担当した、当時はメキシコに日系テレビメーカーが多数製造工場を持ち、設計開発をカリフォルニアで行っていた頃だった。ブラウン管(CRT)テレビ、プロジェクションテレビ用の電源に使われる、IC、ダイオードの売り込みをした。 その後、アメリカ担当から欧州市場向けの車載部品の営業を担当し、フランス、ドイツの車のヘッドライト製造メーカー向けにHID(高輝度ディスチャージ)ランプの点灯を制御するICの販売。自動車用発電機(オルタネーター)用の電圧制御IC、ダイオードなどの売り込みを経験した。その後、2007年に当時イギリス ウェールズにある販売子会社に出向をした。残念ながら、2008年リーマンショック後の業績の悪化を受け、出向期間は1年半と短期間だった。HIDランプもLEDに置き換えられ、自動車用のオルタネーターも内燃機関が電動モーターに置き換えられることによって、なくなりつつある。 2012年から、現在はサプライチェーンを統括する部門で、半導体のミネソタ州にある自社のウェハ製造工場の生産管理を経験。2019年から現在は、車載用のディスプレイ用の電源制御用ICの生産管理をしている。 コロナウイルスは日本では感染対策の徹底、ワクチン接種が進み、今年の年始から感染が広まった、オミクロン株による第6波も終息に向かいつつあるが、2019年以来広まったコロナウィルスは、東南アジアにある製造委託先の作業者に感染し、一時期、操業が停止。半導体需要の急増により、生産能力が大きく不足、使用する材料、部材も入手困難な状況があり、供給の遅延が状態している。 ようやくコロナウイルス感染も落ち着きを見せるかと思いきや、欧州で、ロシアによるウクライナ侵攻がはじまり、大手車メーカーも生産を大幅に減らしている状況である。需要側の動き、生産供給側の動きをにらみながら、東南アジア、中国、アメリカにある製造場所と連携を取り、日々生産のコントロール、調整していく対応はまだまだ続いていく。長期的にはパワーエレクトロニクスの領域はこれから、車の電動化、省エネの必要性から、さらに広がっていく、世界的な需要増をにらみながら、サプライチェーンの構築していく仕事はまだまだ続いていく。 (Sanken Power Systemsウェールズ出向時のオフィスにて / Cardiff Castle) これから 今、インターネット上に存在する、主なウェブサイトの60%で使われている言語は英語、日本語は2.1%しかないといわれている。世界で話されている言語の話者数でも英語は15億人いて、10億人以上は英語を母国語としない人が使用している。 学生時代のASP、Willamette大学の留学経験は英語を身に着ける上で非常に役立った。また、異文化体験は自分のモノの見方、考え方に大きな影響を与えた。また慣れ親しんだ日本での生活から離れ、海外で生活した経験は、異文化に対する寛容性、環境の変化に対するレジリエンスを身に着けることができた。 29年前から、現在とは、身の回りに存在している環境も技術も全くことなり、私の経験をそのまま役立てられることも正直ないだろう。ただ海外経験もほとんどなく、英語力も高くなかった自分が、留学をし、英語を使えるようになり、今につながってきた。 ASP(TIUAプログラム)は1990年から始まり、32年続いている留学プログラムで、たくさんの学生が、留学経験、異文化体験を積み重ねてきた。時代が変わり、かつてのような先輩、後輩という縦の人間関係が役立つことも少なくなっているし、SNS、オンラインでの交流が主流になっていますが、コロナウイルスの流行も落ち着いたらまた、同窓会の開催をまた行いたいと思っている。 (2017 ASP/TIUA Alumni Reunion にてGunnar Gunderson先生と) TIUA/ ASP 同窓会 ホームページhttp://www.tiuaalumni.net/web/japanese/ (木村徳明さんプロフィール) 埼玉県出身 鴻巣高校卒業 1993年入学東京国際大学経済学部国際経済学科 鐘ヶ江ゼミ、ESS 1994年2月ASPプログラムに参加 1995年9月Willamette大学へ編入、1997年教養学部経済学卒業 1998年3月東京国際大学経済学部国際経済学科卒業 1998年4月サンケン電気(株)入社 海外営業部勤務 2007年英国販売子会社へ1年半出向 2012年米国ミネソタ州自社製造工場の生産管理を担当 2018年米国グループ会社 Allegro Micro Systemsの生産管理を担当 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...全ては繋がっている。四半世紀を超えて続く友情。藤原直美さん(1997年 商学部経営情報学科卒業 1992年TIUA留学 1996年ウィラメット大学経済学部卒業)2022年3月11日神奈川県の湘南に生まれ、毎年お正月は沿道に出て箱根駅伝を見て育ち、子供の頃から「箱根駅伝に出ている大学に行きたい」と思っていました。卒業して何年も経って母校が箱根駅伝に出ることになるとは嬉しい驚きでした。 女性の就職は難しい、現役でないとダメ、実家からじゃないと就職できない… 今ではコンプライアンスに引っかかるような女性の就職難そんな時代だったので、卒業を遅らせることなく留学できるプログラムのある東京国際大学に入学しました。 まさか自分が米国の大学に行けるなんて!Willamette大学の奨学金プログラムに合格したときは私を含めて誰もがそう思ったに違いありません。 1992年TIUA(現ASP)プログラムが人生で生まれて初めての海外渡航でした。 TIUAでは真ん中のレベルのクラス、英語の成績がすごく良かったわけでもありませんでした。ただ思い返してみれば、小さな頃から日本を出たいと思っていました。思い続けていれば夢が叶うものですね。 親に4年間で卒業するという約束でアメリカにいかせてもらいましたので、卒業が2年遅れる長期留学は親には反対され、お金は一切出さないとも言われました。 幸運にも当時の奨学金は渡航費も出たので、両親に伝えたのは出発の二週間前。反対される時間もなかったです(笑) 反対を押し切って渡米したものの生活費を含めてサポートしてくれた両親に感謝しています。 人生初の海外渡航がTIUA。国際色豊かな理想の環境でした 入った寮は今では無くなってしまったのですが、WISH (Willamette University International Studies House)でした。 各国からの留学生がアメリカ人と暮らす寮で、白人率の非常に高い学内で、アジア各国、中東、ヨーロッパからの学生、各言語のTeaching Assistantがいたりと国際色豊かで、私には理想の環境でした。当時は、寮で食事が出ていたので、各国の学生が自分の国料理を振る舞う日があったり、いつも賑やかな寮でした。 悪天候で飛行機が大幅に遅れて到着した初日、ターバンを巻いたインド人の寮長がカレーを作って待っていてくれたのは今でも良い思い出です。 ルームメイトはJunior(3年生)のブルガリア人留学生で自分が苦労した経験から、私が日本語を話すことを極力減らすために毎日ランチはWISHの食堂で一緒にご飯を食べようと言ってくれ、KANEKOの食堂で談笑しながら日本語でランチを食べる同級生を見ながら、通称スカイブリッジを渡る毎日でした。WISHに戻ってのランチも、はじめの頃は会話に入っていけず「Naomiっておとなしいのねー」なんて言われて、「本当は全然おとなしくないんだけど…」と、いつかみんなの会話に入りたいと思って過ごしました。 WISHは様々な国の生徒が一緒に暮らしていました。国同士の対立のことが議論になったり、アジア人に対する差別も経験しました。日本人は、英語がわからないと思われていたようで、あからさまに悪口を言っている生徒もいました。でも、その悪口がわかるようになっている自分が嬉しくもあり、いつか「聞こえてるよ」って英語で言い返してやろうと思っていました。 当時戦争状態だった、イランとイラクの生徒が同じ部屋で暮らしていたり、各国の語学アシスタントの方が暮らしていたり、世界とつながることができる寮でした。当時はバブルがはじけて間もない頃で、日本人に対する差別もありましたが、ほとんどの学生は、とてもフレンドリーで日本のことを聞いてくれたり、宿題を見てくれたり、大学の中に世界があるような素晴らしい環境で過ごすことができたことはその後の私に大きな影響を与えました。 プログラムも終わりに近づいた頃、小さい頃から患っていたアトピーと喘息が良くなっていることに気がつき、もっと長くアメリカに居たいと、長期留学を考えるようになりました。 TIUAでTOEFLの点数が上がったとはいえ、レベルは真ん中、長期留学にチャレンジするのはトップレベルの生徒ばかりで自分にはとてもハードルが高く思えました。また、親との1年で帰る、4年で大学を卒業するという約束もあり帰国することになりました。 先生方からのサポートで乗り越えられたWillamette大学日本に帰国し、TIUAのDeanでいらした川嶋先生が「お前は、アメリカの方が合っているから、挑戦してみるといい。」 そのひと言がきっかけでした。もしかするとはっきりと「日本は合ってない」とおっしゃっていたかもしれません(笑)。先生のお見立ては正しかったと今でも思います。 プログラムのディレクターをしていらしたGunnar Gundersen 先生が「Naomiは耳がいい。」と言ってくださったことが励みになり、留学に挑戦しようという思いを新たにしました。アメリカにいたのはトータルで4年弱ですが、発音については「こっち(アメリカ)で生まれたの?」って聞かれるくらいです。本当のネイティブはそれも聞かれないだろうなとも思いますけどね(笑) 専攻は経済学部。心理学なども興味がありましたが、英語がギリギリだった私はなるべく単位が移行できること、そして漠然とビジネスに興味があったので、Business Economicsを専攻しました。 勉強の大変さはTIUAの比ではありませんでした。噂では聞いていましたが、魔の三角地帯、いわゆる寮の部屋、教室、図書館…本当にこの3点だけで生活する日々でした。経済学部は統計学など数学が必須で、数学が不得意だった私は、毎度クラスの後に“Come see me” と呼び出されていました。先生は怒っているわけではなく、クラスについていけているか、何かサポートが必要ではないかをチェックしてくれました。このような、サポートがあることは小さな大学であるWillametteの素晴らしいところだと思います。それでも寮のロビーのソファで倒れ込んだまま寝てしまい、慌ててクラスに出てクイズ(小テストのようなもの)を受けたことが何度あったかわからないくらいです。 クリスマスブレイクを利用して、里帰りをしているWISHの生徒を訪ねながらヨーロッパを回りました。当時はインターネットはまだ出始めの頃で、トーマスクックという紙の時刻表と地球の歩き方を片手に、ユーロパスを利用しての電車の旅。時にユースホステルに泊まりながら、寝台列車を宿にしながらの旅でした。旅のスタートがベルリンでまだ崩壊から間もないベルリンの壁、東西ドイツの違い、世界が変わったのを目の当たりにしました。その後ブルガリアを陸路で訪ねようとしたのですが、ビザの取得に領事館に行ってみたところ、当時紛争中だったボスニアヘルツェゴビナを通らなくてはならないから、やめなさいと言われ諦めなければならなりませんでした。 12月31日電車の遅れで極寒の真冬のスイスで泊まる宿がなくなり途方に暮れていたところ、同じように途方に暮れている日本人のご家族がいらして、一緒に雪の中観光協会まで行って宿を探すお手伝いをしたところ、一緒にディーナーをご馳走になった上に、宿代まで出していただいたのは良い思いです。 スイスでジュネーブに向かう電車でご一緒したスイスの方に「レストランではチーズフォンデュが1人では食べられなかった」と話していたら「うちに来なさい!」と招待され、チーズフォンデュをご馳走になった上に、泊めていただいただき、今でもフォンデュを食べる時に、この時教わったチーズは8の字で混ぜるを実践しています。今では考えられないことですが、駅で眠ったり、知り合った方に泊めていただいたり、大冒険の旅でした。 Senior (4年生)になると、勉強法も要領を得るようになり、相変わらず大変ではありましたが、授業が楽しくなってきました。実際に社会で活躍している方が講師として授業を行なったり、オレゴン州経済開発局でインターンも経験し、Travel Oregon(https://traveloregon.com/)の冊子の編纂を担当しました。 キャンパス外に住む生徒が多い中、卒業するまでWISHに暮らしました。残念ながら現在は無くなってしまったようですが、私にとって家のような、大切な場所になっています。 卒業後は通信会社へ。3年目から全米各地を廻る機会が増えましたアメリカの大学の卒業は5月、氷河期と言われる就職活動には遅すぎる時期でした。米国での就職も試みましたが、なかなかうまくいかず、とにかく勉強が大変だったので、一度日本に帰りたいとも思っていました。2、3年働いて、お金をためてMBAで戻ってこようと思っていたのです。ラッキーにも、これから世界に拠点を展開しようとしていた大手通信事業者に就職が決まりました。 最初の配属先が、群馬県で、英語とは全く縁のない社会人生活のスタートでした。通勤と営業での車の運転、初めての仕事、英語とは無縁の生活に、もうこれ以上ここで働くのは無理かもしれないなーと思っていました。 ところが、見てくれている方はいるもので入社から3年目で、米国勤務から帰国した上司の元で働くチャンスが来ました。 東京に異動になり、海外の会社との提携を進める上司のお供として、アメリカに行く機会が増えました。ここで頑張れば、海外勤務のチャンスがあるかもしれないと思い。自分より上のマネージャー陣を飛ばして部長と一緒に全米各地を回っていたので、メンバーの中では英語ができる方だという自覚もありましたし、トップクラスの方との打ち合わせにも同席させてもらっていたので、少々天狗になっていたところもあると思います。 今でも忘れられないのですが、出張中のカリフォルニア州のパロアルトのバーで「藤原さんさぁ、英語ができるのはいいんだけど、学生みたいな話し方やめてくれる?」と部長から言われました。 カジュアルな雰囲気のシリコンバレーの企業、自分もカジュアルでフレンドリーな英語で話していたのだと思います。正直なところ、カジュアルな英語と洗練されたビジネス英語の区別もあまりついていなかったと思います。お会いしているのはシリコンバレーの企業のトップ、本当に反省しましたし、悔しかったです。でも、これを言ってくれた部長には今でも大変感謝しています。 それからも、海外出張は何度も行きましたが、フレンドリーにペラペラ話すことなく、話を振られた時にだけ答えるようにし、ビジネスのプロの会話を聞くことを徹底しました。この経験がその後の世界各国の方々と仕事をしていくのにとても役立ちました。 再びアメリカへ。リモートワークとワークライフバランスは当たり前でしたWillametteを卒業して10年、いつかはアメリカへ戻りたい、海外で働きたいと思っていましたが、駐在員になるのは家族持ちの男性ばかり。待っているだけでは自分にチャンスは回ってこないと思い、海外オフィスで募集しているポジションに直接応募する制度にチャレンジしました。すべてを会社が手配してくれる駐在員とは違い、待遇も現地社員と同等、家探し、車の購入まで、すべてを自分でやる必要がありました。 アメリカ人VPのもとで、私はカリフォルニアで日本本社とのリエゾン役、上司とエンジニアがいるITチームはテキサス、プロダクトチームはニューヨークという体制でのリモートワークが2006年の時点ですでに当たり前になっていました。カリフォルニアの夜間に先に明けるニューヨーク、ダラスのチームが仕事を上げ、それを日本のオープンに合わせて私が本社にプレゼンをするという時差をうまく利用した働き方は眼から鱗でした。 ワークライフバランスもしっかりしており、7時過ぎにはもうオフィスには誰もいません。ゆとりができた時間を利用して、ヨガの指導者資格も取得しました。 アメリカでの担当業務はIT部門、お客さまや、社内のユーザのリクエストを聞きながらITシステムを企画設計し、開発部門とつなぐ仕事を担当しました。世界中から集まったプライドも技術も高い優秀なエンジニアたちからは、「そんなリクエスト必要だとは思えない、無駄な開発はしたくない」と。そんな時は、現場にいればランチに行って話をしたり、ミーティングとは別に個人的に話して人間関係を築いて乗り切ってきました。日本と海外の間に入って色々苦労はしましたが、いつのまにか、これが私の役割、強みになっていました。 リーマンショックで帰国。東南アジアでは当たって砕けろ精神でトップと会えました2度目のアメリカ生活も落ち着いてきた頃、いわゆるリーマンショックが起こりました。私がアメリカに残れるようにサポートしてくれていた上司も含め、お客さまも、社内も激震でした。アメリカオフィスは規模を縮小し、コストのかかる日本人は最小限にして、私も帰国することになりました。やっと、念願のアメリカ勤務が叶った矢先の出来事で大きなショックを受けましたが、一緒に働いてきたアメリカのメンバーの雇用を守るためだと納得させ、日本に帰国することになりました。 帰国後は、アジア各国の通信会社への営業や協業の業務につきました。これまではアメリカ、ヨーロッパの社内メンバーとの業務から、アジアの通信事業者との業務になりました。各国の営業部隊と協力して、お客さまを周りシンガポール、インドネシア、マレーシア、インド…アジアの発展は目覚しく、もうすっかり日本を追い越したなーという勢いを肌で感じました。アジアでの通信事業は、財閥系の企業が担っていることも多く、いわゆる大富豪の方々にもお会いすることもあったのですが、アメリカの大学時代に培った当たって砕けろ精神と、懐に飛び込める性格が功をそうしたのか、比較的すぐにトップの方に会うことができ、しかも女性一人で日本から来たというのが珍しいのか、商談中にご飯をとっていただいてご馳走になったり(商談中のオフィスで、です!)色々面白い体験をしました。 各国で開催されている通信事業者が集まる国際イベントがあるのですが、「あなたどこかであったよね、覚えているよー」と声をかけていただいたことも度々あります。人に覚えていただけるというのは、Willamette時代から、出会った人とはご縁を大切にと、次々話しかける度胸のおかげだと思っています。 インドネシア、インドではバティックやサリーなどの伝統衣装を着て出勤する日があるのですが、サリーを着せてもらいオフィスで撮った写真をインドの同僚がSNSに乗せたのを見て「出張中なのに…」のようなことを言われることがありました。 いつの間にか海外出張をSNSに載せないようにというお達しが出るようになりました。この日本独特の閉塞感、みんなが監視し合うような雰囲気(もちろん、そういうことばかりではないのですが)をどうにかできないか、自分にできることがあるのではないかと思うようになりました。 四半世紀を超えた友情 Willametteでのルームメイトは、高校卒業後、日本留学から帰ってきたオハイオ出身のアメリカ人でした。彼女との友情はを四半世紀経った今でも続いています。 実は、私の卒業間近に大喧嘩し、彼女はボーイフレンドと部屋を出ていき、卒業式にはきてくれたものの、ほとんど口を聞かないままお別れすることになりました。そのまま数年音信不通になっていたのですが、とあるReunionでMarci(ルームメイト)が「Naomiを探しているから連絡先を教えても良いか」と聞かれ、即答で ”YES!!!”。 当時は出張で頻繁にカリフォルニアに行っていたので、Palo Altoの出張先のホテルに飛んできてくれました。そこから7年の空白を埋めるように、毎年、年に1回は会っています。 2013年、彼女の旦那様が急逝されました。 原因は今でもはっきりとわからないのですが、過労だったと思います。入院したと連絡が来てから、わずか6時間のことでした。飛行機に飛び乗りお葬式に駆けつけました。大学時代にお世話になった彼女の家族や親戚にも再会しました。この時、彼女のお父様が私に言ったことばが今でも忘れられません。”Naomi, you are not living, just existing. Life can be very short, Live your life.” ちょうどこの頃、自分の仕事に疑問を感じ始めていました。日本の本社の業務を海外に展開する仕事を担当していたのですが、働き方や時間、業務の進め方、日本のやり方を進めようとするほど、海外のオフィスのやり方が効率が良く、お客さまや時代のニーズに合っているということを肌で実感し始めていたからです。 それに伴ってだんだん、仕事や働き方を考えるようになりました。これを機に、仕事とは別に10年以上続けていたヨガに加え、マインドフルネスや瞑想を学びはじめ、人として豊かに生きる、働くバランスを考えるようになりました。 会社に副業申請を出し、ヨガを本格的に教え始めたところ、仕事で疲れてしまった方や、何かにつまづいて苦しくなっている方が集まってくるようになりました。 「初めてのヨガが直美先生で良かった。」と言っていただいたり、私のレッスンを受けたことがきっかけで、インストラクターにまでなった生徒さんもいます。 英語と日本語でのレッスンも開催することもあり、本当に色々な方に来ていただき、私自身もみなさんから元気をもらいました。 再び海外を目指す。何度でもチャレンジしたい。2019年長年温めていた「2人の真ん中のハワイで女子旅をする」を実現しました。仕事で岐路に立っていた私に、彼女は泣きながら「私の旦那のようにならないで、もう大切なひとをなくしたくない。」と言われ、ハワイの海で2人で大泣きしました。 そして改めて自分が疲れきっていることに気づきました。そして2020年彼女との約束を実現するため、ずっと夢だった、ハワイ島での長期滞在を実現しました。 予定を立てず、朝起きて自分がしたいことをする。気がつくと、毎日、毎日海でイルカと泳いで過ごしました。 これまでも毎年ハワイに来ていましたが、この時の滞在は特別でした。いつのまにか、日々の仕事や立場を気にするあまり、自分に正直でいることが難しくなっていたことに気が付きました。 ハワイの長期滞在を通じて、もう一度海外で暮らすことを目指す決意をしました。海外で人を探しているという卒業生の方や、お知り合いがいらっしゃったらぜひご連絡ください。 どんなときも私を支え続けてくれたのは、アメリカ生活で培った英語、コミュニケーション力でした。いくつになっても、何度でもチャレンジできる、それを教えてくれたのも、アメリカでの生活があったからだと思っています。 もしも今、コロナや色々な事情でやりたいことを諦めそうになっている方がいらっしゃったら、希望を持ちづけて欲しいと思います。これからまた、海外への扉も再び開かれていくはずです。私自身も、これから自分には何ができるか、一人でも多くのかたが豊かに自分らしく生きていくためのお手伝いをライフワークにしていきたいと考えています。 TIUはとてもユニークな大学です。ASPプログラムをはじめ、早い段階から海外で学位を取得できる制度があり、自分さえやりたいと思えば色々なことに挑戦できる大学です。卒業生も色々なところで活躍していらっしゃいます。卒業後四半世紀が過ぎた今でも、仕事やプライベートを通じて知り合った方が偶然TIUやWillamette大学の卒業生だったことが何度もありました。長い間この制度を支え続けてくださった先生方や、職員の皆さんに感謝いたします。また、今回このような機会をいただいた大先輩の島田さん、落合さん、自分の半生を振り返る大変貴重な機会となりました、ありがとうございました。 (藤原直美さんプロフィール) 神奈川県出身 1991年東京国際大学 商学部経営情報学科 入学 1992年TIUA (現ASP)(アメリカ・オレゴン州)1年間留学 1996年ウィラメット大学 経済学部卒業 1997年通信会社 入社 2006年同アメリカ カリフォルニア州 サンノゼオフィス勤務 2008年帰国 2008年同東京本社 インドネシア、マレーシア、シンガポール担当 2017年より インド担当 2022年東京在住 (資格等) 全米ヨガアライアンス 200 RYTヨガインストラクター資格 リストラティブヨガ 指導者資格 ヨガと精神疾患 マインドフルネスワークショップ、マインドフルネスキャリア YouTube ハワイと御蔵島のイルカの映像 https://www.youtube.com/channel/UCkJZlag_smi2-aDiSrsjMyQ TIU 霞会シンガポール支部... Read more...渡る世界は夢ばかり。はじまりはTIU 大森 舞梨乃さん(2010年卒業 言語コミュニケーション学部 田部井ゼミ OC統括)2022年2月21日「将来は英語で食べていく」だけはどんなことがあっても譲れなかった大学卒業後はTIUで身に着けた英語力を存分に活かしたいと思い、数年は都内で外国人接待の多いレストランのレセプション業務をはじめ英会話学校の語学アドバイザー、観光ガイドなど、幅広いジャンルの職種で多くの経験を積ませていただきました。そして24歳の時に祖母の介護をきっかけに里帰りを果たし、地元(山梨県)で外国人ゲストハウスという宿泊業に出会い、世界各国から日本を訪れる外国人旅行客を相手に観光案内や富士山ツアーガイドを2年ほど務めました。そして27歳の時に世界中のゲストハウス研究をテーマに掲げ、世界一周一人旅(27ヵ国350日間)を決行し無事達成。帰国後は実家をDIYで改装し、2017年7月にゲストハウスを開業。 (世界一周一人旅 チリのアタカマ砂漠にて) (ゲストハウスオープンからのリピーターさんと) 同時進行で地域限定特例通訳案内士の資格も取得し、地元の大学生を対象とした演習ガイド講師も現在は務めさせていただいております。またこの資格からご縁をいただき、数年前に異業種からオファーでドイツ・スウェーデンにてビジネス商談の同時通訳も務めさせていただきました。現在は二児の母となり、仕事と子育てで忙しいながらも楽しい毎日を過ごしております。TIUで培った「成功するまでやれば失敗はない」「やらない後悔より、やって反省」のチャレンジ精神は今も健在で、おかげでこのコロナ禍でも何とか生き残ることができています。 (ドイツ・スウェーデンにて同時通訳業務)(通訳案内士演習ガイド業務にてテキサス高の生徒さんと) 卒業してもTIUに関わっていたいと卒業前から思っていた大学1年生の時からOCスタッフに携わったり、学部委員会に属したり、友人や留学生とアクティビティをしたり、同期だけでなく先輩や後輩、学校全体に関わることが楽しくて好きでした。卒業した今でもSNSを通じて大学時代の仲間・先輩・後輩とは時々連絡を取り合ったり、苦楽を共にした仲良しメンバーとは年に数回対面したり今ではオンラインで報告会などを開いたりしています。またご縁に恵まれ、TIUAの父母説明会や言語コミュニケーション学部の合同ゼミにほぼ毎年のようにゲスト講師として呼んでいただき、卒業した今でも後輩たちにメッセージを伝えられる場に立てることを光栄に思います。 TIU/TIUA卒で良かったと思うことは、同じ志を持った仲間とたくさん出会えたことと、ゼミの先生方が教えてくださった人生観や世界観が今の私を「オンリーワン」にしてくれたことです。 (2016年世界一周から帰国後、母校や地元の大学で講演会などのオファーをいただくようになる) 気が付いたら夢中になり、それが仕事になる。なければ自分で作ればいい大学を卒業して、英語に携わる仕事を転々とするも、どれもしっくりこない。でもどうしても「英語を使った仕事」へのこだわりは捨てられなかった。2013年に里帰りを果たし、25歳の時に地元の大手チェーンのゲストハウスの存在を初めて知り、自分の本能とフィーリングセンサーが今までにないくらい反応したことをきっかけに、ゲストハウスで契約社員として働き始めました。英語で地元を紹介する楽しさや充実感を味わい、世界各国から訪れる外国人バックパッカーたちと毎日話しているうちに、自分でゲストハウスをやってみたいと、自然と強く思うようになりました。「人生をかけてやってみたい」と思える仕事に出会えた瞬間でもありました。 ゲストハウスで働くようになってから「仕事をしている」という感覚がなく、ふと感じたことがあります。それは「夢中になれることを仕事にする」ことができれば、どんな困難が立ちはだかっても乗り越えられるし、常にワクワクできるということです。理由なんていらない。やりたいからやる、それでいい。私は今二児の母になり、やりたいことが更にたくさん増えました。今後もワクワクをビジネスに変えていきたいです。 (夢を持った旅人たちが集うゲストハウスにしたいという想いを込めて、夢来人/むらびとです) (大森 舞梨乃さんプロフィール) 山梨県南都留郡山中湖村出身 2006年3月県立吉田高等学校卒業 2010年3月東京国際大学言語コミュニケーション学部卒業 田部井ゼミ OC統括(2007年 Willamette Universityへ留学/団体留学プログラム参加) 2010年4月~2013年2月英語スキルを活かせる仕事を転々 2013年3月ケイズハウス富士山店入社 2015年2月同社退社 2015年4月世界一周一人旅決行(計27ヵ国350日) 2016年10月地域限定特例通訳案内士取得 2017年7月ゲストハウス夢来人開業 ゲストハウス夢来人(むらびと)ホームページ http://murabitohouse.com/ 住所:〒401-0501 山梨県南都留郡山中湖村山中29-2 電話番号:0555-62-1374 Email: info@murabitohouse.com 「世界一周旅」ブログ https://ameblo.jp/go4biodiv0162/ 「旅を終えて」ブログ https://ameblo.jp/murabito0162/ TIU 霞会シンガポール支部... Read more...日本人初の熱気球世界チャンピオン、再び大空へ 藤田昌彦さん(1978年卒業 商学部10期 米田ゼミ)2022年1月21日藤田昌彦さんは国際商科大学(現東京国際大学)3年の時に熱気球を手作りされ、熱気球競技では1989年、2000年と2回の日本選手権優勝、熱気球ホンダグランプリ3連覇、熱気球ワールドホンダグランプリ優勝、日本人初のワールドエアゲームス金メダルなどの成績を上げられ、日本熱気球界で「世界の藤田」と呼ばれる存在となられています。 また冒険飛行にも挑戦され、1992年には日本人初・世界初の熱気球によるベーリング海峡横断飛行に成功。2011年にはキリマンジャロ横断フライトに世界で初めて成功。2013年にはアルプス山脈を約400キロにわたって横断するロングフライトも果たされています。 現在は、熱気球競技選手、冒険家。熱気球の販売・レンタル及び熱気球を用いた広告宣伝の企画運営等を行う有限会社バルーンカンパニーの代表取締役。 やるからには”熱気球で世界の頂点に立つ、世界チャンピオンになる” 草野球が大リーグに勝つようなものだ、そんなの出来るわけがない、バカげた挑戦だ。誰もがそう思った。 “グオウーゴウー”夜明けの静寂を引き裂くようなバーナーの轟音が響き渡る。もう一焚きで僕らは空中へ解き放たれる。どこへ行くかって?野暮なことを聞くな。風に吹かれてどこ行くが分かりゃしない。だから、どっち行ってもいいように、広ーい広い場所の真ん中から飛ぶ、そしてどこかへ降りる。国際商科大学(現東京国際大学)3年の約1年間をかけて、他大学の仲間とチームを組み自分達で熱気球を手作りした。自分達で作った気球で大空を飛ぶ。こんなエキサイティングなことは大学時代にしか出来ない。 約1年間を費やし、球皮(気球本体)、ゴンドラ、バーナーが完成した。見よう見まねのフライトは毎回が冒険だった。毎回命がけだった。現在のように、風を測り、高度による方向の違う風を利用して自分の行きたい場所へ行くなど、考えも及ばぬことだった。どこ行くか分からないが風まかせにただ飛んでどこかへ降りる、それが楽しくてしょうがなかった。就職活動もせずのめり込んだ。 卒業後は実家の仕事の手伝いとバイトで金をため、憧れのアメリカへ修行を目的に渡った。アメリカは世界一の熱気球大国だ。肌で感じるアメリカの革新的な熱気球事情は若かった私に強烈なインパクトを与えた。1年ほどして、その自作した気球をもって後輩達が卒業旅行へ来ることになった。カルフォルニアで飛んだあと、世界一の熱気球大会があるアルバカーキへ行くためダッジバンを借り機材を積み込み、駐車し、部屋に戻り準備をしているわずかな時間にそれは起きた。バンを見に行った友人が血相を変えてもどった。「バンがない」そんな馬鹿な!そこには割れたガラスの破片が散らばっているだけだった。あんなに苦労して作った気球が跡形もなく消え去った。打ちのめされた。アメリカという国の贖えない洗礼を受け、完全に叩き潰された。後輩の中に、僕をなぐさめてくれた女性がいた。それが今の女房となる。 アメリカから帰国後、結婚してバルーンカンパニーを設立 帰国後、結婚してバルーンカンパニーを起こした。イベント会社に自作気球を数機販売した。1年で300万円を貯め、仕事を整理し、女房の夢であった世界旅行へ旅立った。中国からシベリア鉄道でモスクワ、東ヨーロッパ、トルコ、ギリシャ、エジプト、ドイツを起点にヨーロッパを周り、イギリスからアメリカへ。アメリカで妊娠が分かり約1年の旅を終えて帰国。30歳。 ヨーロッパの気球の歴史は長い。多くの気球乗り達に会い刺激を受けた。親子4代気球乗りには大いに感銘を受けた。スペインの立ち上げたばかりの気球メーカーとも出くわした。この出会いが後に人生の大きな礎となる。帰国後、日本の総代理店契約を結び、これが世界第1号だった。今や世界トップの熱気球メーカーと成長した。 このころから、日本にも気球競技が少しずつ浸透し始めてきた。気球大会も北海道以外、佐賀やその他の地域でも開催されるようになって来た。日本選手権も毎年開催されるようになって来た。世界選手権にも日本の代表を派遣し始めた。結果は散々だった。 日本のレべルは、当然まだまだ世界と戦えるレベルではなかった。日本のトップでもフライト時間は100時間程度、かたや、1000時間を超すツワモノ揃いの欧米勢に太刀打ちできるわけがなかった。経験値が違い過ぎた。それでも、同じ人間がやること、敵は怪物ではない、俺にだってできるはずだ。やるからには世界チャンピオンになる。周りからはたわ言に捉えられた。出来る訳がない、草野球レベルが大リーグに勝てるとでも思ってるのか?めげなかった。世界との溝を埋めるには、日本で飛んでてもだめだ、世界に出て世界レベルと戦う力を付けなければ勝てない。それには資金がいる。スポンサーを真剣に探した。簡単には見つからない。自分の分身のような子供が生まれ、何としても家族を幸せにする。それがモティベーションを強くした。ラッキーが訪れた。 自己鍛錬、企業教育等のプログラムを販売する、モティベーションを日本に広めたPJMジャパンとスポンサー契約が成立したのだ。有田代表がマイナーな熱気球の世界チャンピオンになる夢を応援してくれたのだ。それからは年に2回世界の大会に参戦した。出来る限り濃い練習をした。通常の1時間を、その3倍の内容で練習した。 33歳、初出場の日本選手権で優勝した。2年後の世界選手権出場初出場の権利を得た。翌年のプレ大会2位となり舞い上がった、世界チャンピオンはもう直ぐと過信した。甘かった。本戦はミスが重なり100機中の50位台。この悔しさをバネにした。 日本では世界標準の競技を取り入れた、年間5戦を日本各地で戦い、総合成績で王者を決めるグランプリ戦がスタートした。いきなり3連覇した。あまりに勝ちすぎるのでハンディーを付けられた。 ハンディーなど関係なく優勝した。グランプリ戦は日本の競技レベルを世界へ近づけていった。グランプリ戦は今年で30回を迎えた。その内の20回の優勝を2人のパイロットが成し遂げた。私と息子である。私は競技の第一線は引退したが、息子はまだまだ勝ち続けるだろう。 2001年に念願の世界チャンピオンになった。 2000年、競技人生でピークを迎えた。日本選手権、日本グランプはもちろん、世界グランプリで日本人初優勝、日本グランプリ最終戦佐賀インターナショナルバルーンフェスタ優勝、世界グランプリ(アメリカ、ヨーロッパ、日本で3戦)最終戦茂木優勝。世界歴代1位の賞金王になった。 そして遂に、2001年念願の世界チャンピオンになった。スペインのワールドエアゲーム(航空スポーツのオリンピック)で気球部門金メダルを獲得した。 「世界の藤田」と呼ばれる存在となる。 1989年、2000年と2回の日本選手権優勝、熱気球ホンダグランプリ3連覇、熱気球ワールドホンダグランプリ優勝、日本人初のワールドエアゲームス金メダルなどの成績を上げ、日本熱気球界で「世界の藤田」と呼ばれる存在となる。飛行経験のある国は35か国に上る。 また競技と並行して冒険飛行にも挑戦し、1992年には日本初の宇宙飛行経験者である秋山豊寛さんを同乗させて世界初の熱気球によるベーリング海峡横断飛行に成功。2011年には複数機の熱気球によるキリマンジャロ横断フライトに世界で初めて成功した。2013年にはアルプス山脈を約400キロにわたって横断するロングフライトも果たしている。 (2013年、イタリア、オーストリア、スイスとアルプス山脈を約400キロにわたって 横断するロングフライトを果たす) 競技分野で2001年財団法人日本航空協会「航空スポーツ賞」、日本気球連盟「イカロス賞」を受賞。冒険家として2015年にファウスト冒険家賞を息子雄大と共に受賞しました。 (私の主な大会記録) 日本選手権優勝2回(1989、2000) 日本ホンダグランプリ総合優勝8回(1993~1995、1997、1998、2000、2001、2005) ワールドエアゲームス熱気球部門金メダル(2001) 1988年 オーストリア建国100周年大会3位 1992年 スペイングランプリ部門優勝、中国インターナショナル部門優勝 1994年 スイス・シャトーデー(アルプス越え) 部門優勝 1995年 フィリピンインターナショナル3連覇(~97年) 1997年 韓国インターナショナル優勝 2000年 ホンダワールドグランプリ優勝 2004年 熱気球世界選手権(オーストラリア)5位入賞 2006年 熱気球世界選手権(日本)9位入賞 息子の藤田雄大が日本選手権を史上最年少の21歳で制するなど優勝7回。さらに2014年の世界選手権では、アジア人パイロットとして初優勝を飾った。 世界の大会に参加するたびに息子もクルーとして、学校を休んで連れて行った。バーナーに背が届くようになった中学生から操縦を覚えさせた。その甲斐あり、海外大会で外人相手でも物おじしない、堂々と戦えるようになった。2014年ブラジルの世界選手権で2世パイロットとして世界初の優勝をした。 『翔べ、フジタ 熱気球世界チャンピオン 再び大空へ』が放映される “番組は、競技者の一人・藤田雄大選手(34)に9カ月間に及ぶ独占密着取材を敢行した。熱気球競技界のレジェンドを父に持つ藤田は「母親のお腹の中にいるときから気球に乗っていた」まさに“気球の申し子”。日本選手権を史上最年少の21歳で制するなど優勝7回。さらに2014年の世界選手権では、アジア人パイロットとして初優勝を飾った熱気球競技の世界的アイコンだ。”(テレQホームページより) 私は12年のブランク後、2021年最高齢パイロット65歳としてグランプリ戦に復活 20年間の競技人生で、世界の大会で数々の優勝をしてきました。第一線を退いた後は息子のチーフクルーとしてサポートし世界チャンピオンに育てました。息子は結婚を機に独立し、私は12年のブランク後、最高年齢パイロットでグランプリ戦に復活しました。年間ランキング6位入賞。 ブランク明けにしては上出来。シード権を得たので今年度もあまり気張らず参戦します。現在は、熱気球競技選手、冒険家。熱気球の販売・レンタル及び熱気球を用いた広告宣伝の企画運営等を行う有限会社バルーンカンパニーの代表取締役を務めています。 (熱気球を用いたイベント運営) (2005年竜虎万博にて)イベント 愛知万博オープニングイベント 龍虎型熱気球をショーとして演出。 スペインイベリア万博、日本館オープニングイベントで龍虎バルーンを会場に舞い降ろした。 山本寛斎元気プロジェクトで、東京ドームで初めて巨大なクジラ船バルーンを掲揚した。 今年は東京オリンピックのイベントで、東京のど真ん中で巨大な顔を出現させた。 (熱気球体験フライト) (係留フライト) (藤田昌彦さんのプロフィール) 東京都出身 東京都立松原高等学校卒 1978年3月 国際商科大学(現東京国際大学)卒業 商学部/10期 米田ゼミ 大学卒業後は熱気球競技の盛んなアメリカに一年間渡り、技術を磨く。 1989年、2000年と2回の日本選手権優勝、熱気球ホンダグランプリ3連覇、熱気球ワールドホンダグランプリ優勝、日本人初のワールドエアゲームス金メダルなどの成績を上げ日本熱気球界で「世界の藤田」と呼ばれる存在となる。 冒険飛行にも挑戦し、1992年に日本初・世界初の熱気球によるベーリング海峡横断飛行に成功。2011年にキリマンジャロ横断フライトに世界で初めて成功。2013年にはアルプス山脈を約400キロにわたって横断するロングフライトも果たす。 現在は熱気球競技選手、冒険家。熱気球の販売・レンタル及び熱気球を用いた広告宣伝の企画運営等を行う有限会社バルーンカンパニーの代表取締役。 有限会社 バルーンカンパニー 住所:〒329-0101 栃木県下都賀郡野木町友沼5488-11 電話:0280-55-1238 FAX :0280-55-1525 設立:1988年3月 ホームページ:https://www.balcomjp.com Facebook:熱気球の会社Balloon Company TIU 霞会シンガポール支部... Read more...『変なホテル』などロボットプロデュースの第一人者と言われ、成長する経営者としてこれまでやってきたこと。富田直美さん(東京国際大学 1972年卒業/4期 商学部 大久保ゼミ) 2021年11月19日富田直美さんは国際商科大学(現東京国際大学)創設時の4期生です。現在は 2016年にhapi-robo st (代表取締役社長)を立ち上げ、エイチ・アイ・エス取締役CIO、ハウステンボス取締役CTOとしてエイチ・アイ・エスグループのテクノロジー全般を統括 されています。 これまで外資系IT企業の日本法人社長など11社の経営にも携わり、(財)日本総合研究所理事、社会開発研究センター理事、アジア太平洋地域ラジコンカー協会初代会長等を歴任。多摩大学の客員教授。考える塾である“富田考力塾”を全国的に展開中。ラジコンはプロレベル。ドローンによる空撮もプロとして活躍中。成長する経営者としてこれまでやってこられたことなど、‘富田流‘の話をお伺いしました。 富田さんは「変なホテル」をはじめ、ロボットプロデュースの第一人者と言われ、イノベーションを先導されていますね。 ロボットに関する興味は日本のBaby Boomer世代と大きく変わるわけではありません。戦後の復興、高度成長時代にロボットは夢であり、鉄人28号(無線操縦ロボット)鉄腕アトム(人口知能をもったアンドロイド)そしてドラエモン・・・・がロボットに対する我々の未来の夢を形成したのではと思います。でも現実は、遅くて巨大な大型コンピューター、そしてワープロ、そして工場のラインでは、テレビ、オーディオ、等々の真空管からトランジスタ、正に省電力で小型化が進み、更にLSI そして高度なチップ化と工業化と合理化された製造工程の中に、作業用のロボットがはいってきました。 特にB to CでもB to Bでも共通な大量で高額な売上を上げる事ができる、自動車産業では著しい産業用ロボット、主に組み立てラインでの人の手の代用するロボットが開発され改善され、日本の自動車産業の隆盛と共に、Factory Automation における省人化と高度化に大いに貢献する。20世紀後半に入り、全ては生産性と多様性の為の発展をしてきました。 電話も有線の電話から、無線の電話へ、その過程で、更に多くのIT関係のコンピューターや、チップ、メモリー等々の半導体産業からのIT部品が製造され、半導体の記憶素子(メモリー)の世界的競争の中でも日本が世界のトップレベルの生産国、消費国ともなりましたが、肝心かなめの論理チップであるCPUにては米国のINTEL社の完全一人勝となったわけです。 (「変なホテル」のロボット・チェックインカウンター)(ハピロボ、パーソナルロボット temi /テミ) 東京国際大学(当時の国際商科大学ICC)を選ばれたきっかけと最初のお仕事は? 実は私は学歴で差別化される一流企業には就職する気持ちが全くなく、実力で評価される企業を選んだのです。 当時の大学(国際商科大学ICC)は私達が入ってようやく1年~4年までが揃った段階で、新しいキャンパスが裸のグランドの中にあり、郊外型の団地である角栄団地の横にある、そんな呑気な場所に受験失敗をした人が行き場を求めて来てた感じでしたが、一流大学を目指していた人と、少人数によるチュートリアル教育と創始者であり予備校である一橋学院を創業された金子学長が如水会(一橋大学のOB会)をバックでの、新企業人(アントレプレナー?!)を育成するとの志に救われた学生も存在しておりました。 一期生の就職が決まり出し、本当に金子学長と如水会の応援があってだと思いますが、成績優秀な先輩が、大手銀行、大手商社、大手メーカー等々への就職が決まって行く様を見て、ICCのような新設校であっても、しっかりと勉学に励む事で、一流大学を落ちた自分でも未来が開けると信じる事ができました。 なので、私も英検、商業英語検定、等々の資格取得と大学の授業での成績に拘る事ができました。Pre就活の始まりです。そんな中で、成績優秀?(ウイラメット大学のサマーセッションの補助金取得)な私には第一志望の大手商社への道も開けるのだと考えておりました。ところが考えてもいなかった大手広告代理店(学監のネットワーク)への早期就職内定の話もありましたが、貿易コースの私は大手商社を考えておりましたが、当時の親友がその大手商社を希望していたので、私は全く異なる選択をする決定をしました。それは一流企業には行かない・・・・でした。 ≪Why ? 一流には行かない≫ 私はこう考えました。一流大学を目指し、2浪までして、結局 ICCに拾われた自分が、いくら勉強したからと言って、凄い学歴にはならない。だとしたら一流企業に学長と如水会の力を得て入社できても、そこに集うエリート学歴の同期と出世競争をせざるを得ない。同じ実績をあげたとしても、ICCの先輩がいない私より、同窓の先輩が多く上司にいる人には勝負にならない。だとしたら実力で勝負できる、私の力?を必要としている企業にはいるべきだ。そうだ、一流ブランドを目指すのでなく、実力だけで勝負できる企業を選ぼう。 こんなわけで、たまたま学生時代(両親の居ない苦学生)アルバイトをしていた会社の側にある2部上場で躍進中の田村電機製作所(現在のサクサホールディングズ)に入りたいと考えました。元々ラジコン模型を趣味としており、電子、通信、オーディオ、メカトロニクスが大好きでしたので、その視点から優れたProduct Lineを持っている事と海外に対しての躍進が見え、更にはNTT(当時は電電公社)ファミリーの企業だったからです。 ≪凄い就活対応!?≫ 残念ながらこの企業は大学の推薦リストには載っておらず(恐らく上を目指すICCでは二部上場は対象外?)、就職課の方々にお手伝いいただける部分は殆どなく、自分での対応を余儀なくされました。NTTファミリーの会社ですと、家柄、家族構成も多少は就活に影響を与えると聞き及んでいましたので、両親が他界している私のハンディをカバーする秘策を考えました。 亡父が高校で教師をしており、その教え子には名家出身の方もおり、銅の最大手である同和鉱業五代目会長の猪瀬弁一郎会長ご子息がおり、紹介していただき、お会いしました。 正に縁故リクルートを考えたのです。 猪瀬会長にお会いすると私の思いをくみ取ってくださり、目の前で、電電公社(NTT)の秋草副総裁に電話をされ、直接お会いできる手配をしてくださいました。 後日 秋草副総裁に日比谷の本社の副総裁室でお目にかかると早速、田村電機の桑原専務(電電公社から出向した筆頭役員)に電話をされ、全てのアレンジを整える事ができ、入社試験を受けましたが、無事入社する事ができました。 ここでの学びは、志望大学の受験に失敗し、ブランドでなく実力を高めるしか出世の道が無いと考える仲間が居る大学で救われ、更にブランド就職をするのではなく、金子学長を含む、建学の精神に燃え世界基準の教育を実践する為に呼び集められた、チャレンジングな精鋭教授陣に触れた私や仲間が、実力勝負の選択をも辞さず行った事が、今の私を醸成してくれたとの事だと考えます。 (2010年から2年間、大学同窓会の副会長を歴任。講演・セミナー講師として) ≪就職後の私を私らしくしてくれた荒波≫ 田村電機に入社し、トップダウンのコネクションもあり、希望する海外営業(貿易)の部門に配属されると考えておりましたが、この会社にも学歴判断があり、貿易部門の採用はたったの一人、なんと上智大学の外国語学部の人間が配属、そして私は一番元気な国内営業部一課に配属になりました。 Why ???!!! それは貿易部は三井物産経由の御用部門であり、元気一杯な私をまずは活気のある民需(NTT対応は官需部門)部門で徹底的に営業として鍛え上げる意図があったのです。 国内営業で大好きなメカトロと電子の計測器(カウンター = 電話の度数や、テープレコーダーの録音位置、コピー機械の枚数管理)部門の営業で、それらの営業の中でも、一流の電気メーカー、海外の商社を対応する部門に配属されました。外資系の事務機メーカーからリクルートされた優秀な上司と先輩との商社営業とメーカーの海外部門への営業を担当し、国内営業と海外営業の両方のチャンスを得て、御用営業でない自由な新規ビジネスを開拓する仕事ができ、入社半年後には、民需部門でのルーキーとして注目されるようになっておりました。 今でこそ有名な会社になっておりますが、この当時、私の上司が攻めていたのが、三星電子、金星社、大宇電子・・・・・と言う韓国の財閥企業、そして香港にある華僑系、そしてSears(ユダヤ系、米国の大手Discount 通販&デパート)等々、更にはインド系の商社であり、日本のエリート商社の商流には入らない異世界の会社でした。そして 1年経った頃、インドの商社からLC(Letter of Credit)が届き、ナ・ナ・何とこの国内部門での輸出取引を行う事になったのです。 その間、松下電機、三洋電機、SONY等々の貿易部門との取引も行っており、正に、国内一流電気関連、アジア新興国での商社取引、そして米国のXerox(コピー機械用カウンター)の日本駐在事務所との取引も学び、更に田村電機の諸先輩の経験則でできないビジネスを凄い上司とともに、私の貿易実務の資格に磨きをかけながら行う事ができ、入社翌年には田村電機の創設者の実弟である田村常務のお供でアジア出張も行い、国内営業部に居ながらにして、更に米国でのCES(CE Show)への出張も行うようになりました。 ≪発展的転職≫ 入社数年で自分の理想的な居場所を見つける事ができ、同期入社を超えて若手のホープとしての地位を確実な?!ものとした私に、当時、このカウンターを利用し、ドイツで始まった勤務時間管理システムの少数精鋭部門の先輩を受け入れる事を指示されました。 Flex Timeシステムのプロジェクトチームです。私は係長寸前の立場、そこにプロジェクトチームの課長、係長が入って来る?? 彼らは新しい制度とシステムを開発し販売する組織ですが、なかなかFlex Timeシステムは営業数字を挙げる事ができない状況で、営業数字をトップレベルで上げていた私の係に合併した形です。 余談も含めて、今まで全く触れてなかった、大切な事実があります。それは当時、私はラジコン業界では若きレジェンド(笑)となっており、ラジコンメーカーのリーダーでもあったのです。 その事が私の営業を大きく支えてもいたのです?? 理由はラジコンの専門誌にしばしば登場する有名人であり、日本選手権のチャンピオンチームの若きリーダーである私を知っている、テープレコーダーのメカ(カセットテープレコーダーのメカ部分)には小型のテープカウンターが入っており、当時一番の得意先であり、世田谷の桜新町に本社を置く、タナシン電気(世界一のカセットテープレコーダーのメカメーカー)があり、そこの技術幹部の多くはラジコンマニアであり、私を頂点とするラジコンメーカーのクライアントでもあったのです。 そんな事もあり、世界的に需要が高まった、カセットテープレコーダ、デジタル時計(電子でなく、メカ式)等々の主要部品に使われる計数機(カウンター)、そして人々の勤務形態を自由解放する自由時間勤務システム(Flex Working Time System = FLEX TIME)等の若手のProfessionalとのポジションを得て、先に田村電機を辞めて、新進気鋭のコンサル企業に転職していた先輩に誘われ、コンサルタントとしての第二のビジネス人生を始める事になったのです。 そのコンサル企業が、世界中の先端テクノロジー、全く新しいマーケティングの手法、そして企業とプロダクトのブランディングを行う、もっとも先端諦な独立系コンサルティング企業と知る人は知るODS (Overseas Data Service)でした。 外資系IT企業の日本法人社長など11社の経営に長年携わってこられましたね。 ≪コンサル企業から実業の世界へブーメラン回帰?!≫ 外資系IT企業にお世話になる前の 8年間、前述のODSと言う、世界中の先端技術・手法を日本の高度成長期に世界中から持ち込んだ情報コンサル商社で私が担ったいくつかの貴重な経験を辿ってみます。 田村電機の最後での私の命運を決めるプロジェクトがシンガポール工場設立準備プロジェクトでした。当時高度成長の中で、日本から欧州への電気機器の輸出が輸入規制で問題になり始めており、Panasonic, Sanyo、等々の大手家電メーカーがOff Shore工場(海外工場を現地法人化)する流れがあり、田村電機の電気電子部品も現地生産する事で国内でのLost Businessを補う対応を私が提案しましたが、時機尚早との断がおり、私はこれ以上田村電機にお世話になる事を良しとせず、先輩に誘われるまま物売りから知財を売るコンサル仕事にチャレンジする事になったのです。 ≪ODSでの最初の仕事≫ 当時のODSは一見変人集団で、人員は30名弱。 スイスのバテル研究所の研究員をしていて、国立音大の創業者の子息である福井さん、世界的なCar Designをドイツフォードでしていた伊藤邦さん、ライフスタイル調査の主幹をしていた三浦さん、等々、と創業社長の山口峻宏とその仲間と言う、凄い知能集団でした。しかも、元々海外の先端技術文献を輸入する商社からスタートして、それらの技術を研究調査する海外のトップクラスのResearch Associate(調査研究機関)の200社以上の総代理権を保有しており、正に戦後から続く日本の近代工業化の元である、世界レベルの先端技術情報を基に調査コンサルを行う先端的企業でした。 田村電機で電気・電子・メカトロ・働き方改革等々をして来た私への期待は先端技術関連の調査コンサル事業領域を拡大する事でした。既にこれがODSでの屋台骨になっており、おりしも、New Media, On Line Data Base, 等々の今流に言えば、DX(Digital Transformation)の夜明け前夜であり、技術的に言えば、真空管からダイオード、トランジスタ、IC そして大規模集積回路であるLSI さらにそれらを更に効率よくパッケージ化するチップキャリア等々、の先端技術の黎明期でもありました。その後、New MediaがMulti Mediaに、On Line Data Baseがクラウドに・・・・・LSI Chip carrierがSoC(System On a Chip = IoT)にと変遷して行く未来を俯瞰できる、正に私の好奇心を丸裸にする部門のリーダーとして成長する事ができたのです。。 研究調査部門の後は、企業のブランディイングであるCI (Corporate Identity)でミノルタカメラのCI、そして世界No.1のIndustrial Designグループを日本へ紹介するうプロジェクトに従事もでき、ポルシェ、ルイジコラーニ、ハンスムートそしてアップルのデザインを担ったFrog Designの代表ハート・ムート・エスリンガー等々、世界の天才デザインナー&グループとの提携業務。さらには先端コンセプトをProductにするODS Tradingの設立責任者と、実に多くの事を実業の立ち上げで学ぶ事が出来ました。 中でも当時のマーケティングがDemographic(属性)データ主体に対して、Life Style(生き様)を中心とすべきとするヤンケロビッチ博士の手法Life Style Indicator(LSI)を展開し、多くのConsumerをターゲットとした企業の初期段階のデータマイイング&マーケティングに資する事が出来た事も大きかったです。 ≪コンサルから実業家に最初のIT 企業≫ 正に、私にとっての本物のOJT(On the Job Training)MBA教室となったODSでの役割の中で、最初のNew MediaとOn Line Data BaseのStudy予測で、1985年頃にはソフトウェアが成熟し、超小型のコンピューター(Hand Held Computer = HHC)が登場し、マルチメディアの時代が訪れるとの下りが登場しました。 更に、通信ネットワークのデジタル化が進むと私もコンサルタントとして語り始めた頃、そして工業デザインが単なる躯体(シャーシー)のカバーで無くなる時代がLSIによりリアルになるとデザインが人間工学(エルゴノミクス)やライフスタイルによって決定されるとの正にDXによる変革が起きると自覚した段階で、DXの中心となるソフトウェアの世界への好奇心が増大し、田村電機を卒業した他の大先輩からパソコンのソフトウェアの世界のBig 3の一つが日本法人のGM(General Manager = 法人社長)を探しているとの話があり、自分の好奇心を満たす天から降ってきたOpportunityと考え退社して、飛びつく事にしました。 当時のPCソフト業界のBig 3が ①Microsoft, ②Lotus, ③ Ashton Tate でありそのアシュトンテイトの日本法人の社長候補、但しまずは営業部長としてスタートし1年後に日本法人の社長となり、その後アジア大洋州の地域社長にもなるわけです。これを実業家と呼ぶには余りにも稚拙ですが、一応、日本法人の代表取締役社長ですので経営者になったのは確かです。(笑) 正にNECのPC88や98が寡占状態を占める伸びを示しており、パソコンで業務のアプリケーションを開発できるソフトウェアであるRDMS(Relational Database Management System)の世界①の会社のソフトはパソコン単体よりも高価格で、でも中小企業でも全ての取引のデータ管理、請求書、受注書、等々の管理を、パソコンで行えるソフトウェアは特に高度成長期の中小企業、更にはダウンサイジングが始まっていた大企業でも爆発的に売れ、私は日本だけでなく、アジア太平洋地域の統括社長、本社の副社長となり、4年後にアシュトンテイトが下位のボーランド社に吸収合併されるまで勤めあげ、IT業界でのいくつかの座長(日本パソコンソフトウェア協会理事、東芝ソフトウェア協議会会長、パソコンソフトウェア著作権協会副会長・・)をつとめる事になりました。 ≪私の今にも影響を与えた2番目の凄いIT企業≫ アシュトンテイトを離れた半年後、アシュトンテイトの吸収合併を仕掛けた、米国のVC(Venture Capitalist)の担当Associateである原丈人氏が、なんと私に世界No.1のテレビ会議システム会社であるPictureTelの設立されたばかりの日本法人の社長のポジションを持ってきてくれました。因みに、アシュトンテイトの時代にあの孫正義氏のソフトバンクはアシュトンテイトの一番の代理店であり、アシュトンテイトが吸収され私がその年の暮れに離職した年明けの1月1日の早朝6時に、出張先のニューヨークから、“富田さん、お仕事ご苦労様でした、今ニューヨークで別なデータベース企業の社長と会っているのだけど、直ぐにニューヨークに来れない”との電話を下さったのです。 その時の孫さんはまだ、日本のソフト流通のBig 3の一社であるソフトバンクの社長に過ぎなかったのですが、彼がパソコン単体へのソフトウェアから、企業LAN仕様の初のソフトウェアであるアシュトンテイトdBASE LAN販の日本での初の展開、パソコンが大企業の大型コンピューターや、ワークステーションに伍して使える新時代 = ダウンサイジングの道を開く凄い製品であった事も明記させていただきます。 さてそのピクチャーテルで以下の事を成し遂げる事ができました。 6人の日本法人を数年で50名のトップ企業に その後、アジア太平洋地域の社長として17の地域、200名のスタッフ、シンガポール開発センター設立。 NTTの世界初のデジタルネットワーク(N-ISDN)の普及の為の世界初のパソコン対応型テレビ会議システムをマイクロソフトWINDOWS 95上で実現するPhoenixプロジェクトを提案そして完成。 1996年にこのPhoenixを日本全国の小中学校1000校へ配り、この1000校への同時双方向配信をできるPhoenix通信網株式会社をNTTと共同で設立、そのシステムを世界に先駆けて納入、私も社外取締役に就任。 このシステムを使ったマルチメディア教育 “コネっとプラン”(子供のデジタルネットワークによる双方向教育)を小室哲哉氏の“You are the One”と言うキャンペーンソングの収益金で開始、その後2000年2月まで24回、ビル・ゲーツまで含むリアルタイム双方向の教育を成し遂げ、24万人の生徒が学校に居ながらにして、遠隔双方向教育を受ける事ができた。(*図1参照) 1999年、ジョンソン&ジョンソンと世界初の遠隔内視鏡手術システムを開発し、遠隔医療の先鞭をつけた。今盛んになったテレ・ワークは既にその時点で使える状態になり、デジタル化は日本が世界で断トツだった。 ピクチャーテルとシャープで先端のテレビ会議システム開発をするプロジェクトを開始し、その直後、私は ドットコム世界へ飛び込むべく、ピクチャーテルを辞める。 (*図1) ≪ドットコムピーク時の業界に転職、ドットコムバブル弾ける中での乱世へ≫ 2000年に孫正義氏がドットコムへの本格参入を発表し、彼が参考にしたと言われている米国の最大の投資インキュベーショングループである、ピクチャーテルと同じBoston地域にあるCMGIから誘われ、そのグループの最優良企業で、日本の住友商事と提携関係にあり日本法人(資本金30億)を設立済みのEngage社(世界トップのProfiling技術 = ネット上での人の行動から最適な広告バナーを瞬時に表示)の社長のポジションで引き受けました。 結果2年後、ネットバブル崩壊とともに退職し、その後IT関連の先端企業5社の日本法人社長を歴任(①Pulse社=全ての写真からAvatarを生成する世界No.1の技術保有、②Collabnet社=唯一無二のオープンソースソフト開発のプラットフォーマー、③Opsware社= Web管理の自動化ソリューション1、④ArcSight社 = 世界No.1の厳しいネットセキュリティ企業で米国国防総省 日本自衛隊使用、⑤Paralles社 = クラウドサービスの自動化とAppleでWindowsを使える仮想化技術)を短期間に歴任し、60歳の時から初めて知った世界一のセールスマンと言われ、米国一流企業のメンタリングを行い、日本でも著書が10冊翻訳されている世界的なメンターであるジェフリー・ギトマー氏の公認トレーナー資格を取得、多摩大学の客員教授として大学院大学での教鞭をとり始める事になりました。。 (パラレルス(株)の社長就任挨拶) ... Read more...挫折からの挑戦。ニューヨークから世界へ。 原口雄次さん(東京国際大学商学部2004年卒業 TIUA 2000年生 Willamette大学 リベラルアーツ 修辞学 2003年卒業) 2021年8月18日プロ野球選手を夢見ていたが、東京国際大学のTIUAプログラムを知り、商学部に入学。 私は高校までプロ野球選手になることを夢見て栃木県の野球名門校へ入学し、野球に日々明け暮れる毎日でした。しかしながら、あっけなくその夢が3年の夏に散り(初戦敗退)、進路を悩んでいた時に、勉強はたいしてしていなかったのですが、英語だけは好きだったのでアメリカに留学してみたいと思うようになりました。その時、東京国際大学のTIUAプログラムを知り、東京国際大学に入学をしました。TIUAでの成績は上位でなかったものの、それでも10か月の限られた期間を最大限に生かそうと、日々英語の勉強とウ大生の友達をたくさん作る事に夢中でした。そして、あっという間に留学の期間は過ぎていきました。そんな中、Willametteの編入試験に合格したのはまさに奇跡的な出来事で、さらに2年Willametteで留学を継続することが出来ました。その当時は卒業後広告代理店に就職することを夢みていて、いわゆる大手企業に応募をしたのですが、すべて不採用。最終的に、TIU就職課に勧められた英語が使える神奈川の企業にとりあえず就職しました。 しかし、とりあえず英語は使えたものの、あまりにも自分に興味がない業界だったので、まったく熱意がわかない日々。そんな中、なぜか料理に興味を持つようになり、自然と将来自分のレストランを開くことが夢となりました。お昼休みには料理雑誌を読み、仕事を終えてはスーパーにより新しい食材を買い、自炊の毎日。週末は近所のスーパーの鮮魚売り場で魚の裁きかたを見学し、家で実践。栃木の陶芸の街に行って食器を買う。そんな日々を日本で約2年間過ごしました。 ボストンにある魚屋の卸業者に就職、人生で一番重要なターニングポイントでした。 そうすると家庭の事情でアメリカに再度戻るチャンスが訪れました。これをチャンスにキャリアチェンジをし、ボストンにある魚屋の卸業者に就職が決まりました。これは今となっては人生で一番重要なターニングポイントでした。魚が自分の武器になるとは当時は思ってもいませんでした。 取引先は主にお寿司屋さんです。魚やお寿司に関しては全くの初心者でしたが、毎日大好きな料理と食材とレストラン業界に触れ合える職場に没頭し3年間、必死に働きました。自分の夢がレストラン開業だったという事をしばらく忘れるほど、魚まみれの楽しい日々でした。そしてボストンでの3年後、全米でトップの売り上げを作り上げるセールスマンとなることが出来ました。その実績もあり、当時の会社の人事でニューヨークに異動が決まり、全米のマーケティング事業部を立ち上げることになりました。 N.YブルックリンにYuji Ramen, レストランOKONOMI、鮮魚店OSAKANA をオープン。 今となって、ラーメンは世界的に人気を集めている料理ですが、当時はラーメンが徐々に人気を集め始めてきた時期で、自分自身、ラーメンは全く好きではなかったのですが、アメリカで新しいことに取り組んでいるラーメン屋もそれほどいないという事に気付き、ラーメンについて興味が持つようになりました。そしてまぜ麺(汁なしラーメン)という存在に出会い、それに特化したコンセプトをYUJI Ramenと名付け、副業として独自のラーメンをバーや、カフェ、ギャラリー、フリーマーケットで作るようになりました。思惑通り、スープがないラーメンというコンプトがメディア受けし、ニューヨークの主要メディアに取り上げられ、お客さんが殺到。副業として続けられなくなってしまったので、本業の魚屋を退職し、2012年に独立をしました。大学卒業してレストラン開業を夢として抱くようになってから約7年後でした。まさかイタリアンシェフを目指していた自分が、ラーメン屋として事業をスタートするとは夢にも思っていませんでした。 その後、Wholefoods Marketという全米でも有名なスーパーから声がかかり、テナントして出店をしましたが、やはり自分の店を路面店として持ちたいという夢があったので撤退し、ブルックリンにOKONOMIというレストランを開けることが出来ました。コンセプトは地元の魚を使った「一汁三菜の焼き魚朝定食。日本の旅館で食べるような朝定食をニューヨーカーにも伝えたい。そして夜はYUJI Ramen。これも幸いなことに地元のお客様や、観光客に受け入れられ大ヒットとなりました。 その2年後に刺身用の魚が買える鮮魚店OSAKANAをブルックリンでオープンしました。OSAKANAでは魚の販売だけではなく、魚の料理教室も提供し、おいしい魚をより簡単に自宅で食べてもらえるような新しいライフスタイルを提案しています。 新横浜ラーメン博物館、京都、東京には路面店オープン。 その後、新横浜ラーメン博物館出店を経て、京都と東京での路面店オープン。日本でもブルックリンで始めた事業を逆輸入する流れとなりました。今年はバンコクとハワイでの出店に向けて準備をしています。 海外で長い間一緒に特別な時間を共にしたTIUA、ウ大時代の友達は一生の財産。 正直なところ、私はTIUAやウ大生の時にそれほど同級生と深い付き合いを持っていなかったのですが、日本への出店を決めて、その足掛かりとして東京の店で自分のPOP UPストアーをやったときに、FACEBOOKの告知だけだったのにも関わらず、当時のTIUAの同級生がみんな集まってくれて、その店がTIUAの同窓会状態になったことがありました。海外で長い間一緒に特別な時間を共にしたTIUA、ウ大時代の友達は一生の財産だと思いました。 失敗してもまたチャレンジする勇気を失わない事。その勇気さえ失わなければ、きっと成功につながるはず。 私は高校時代から40歳になる今まで自分の夢に没頭しひたすら突き進んできました。結果としてはうまくいっているように見えますが、すべての実績は自分の記憶からかき消してしまいたいほど辛い失敗や挫折や恥ずかしい経験に基づいたものです。夢に向かって突き進む事は様々な障害が同時に発生するので楽な事はそれほどありません。 しかし、それでも夢があり諦められないのならば、まずは一番身近な人にその夢を語り始めることからスタートするのが良いと思います。そうするとそれに共鳴する人は自然と集まってくるし、自分の中でも何をしなければいけないのかが具体的にわかるようになっていきます。そして夢がぼんやりとしたイメージから、具体的な目標と次第に変っていきます。そしてある日突然、思ってもいなかった壁や失敗にぶつかる日が訪れます。 失敗は恐れるべきではありませんが、致命傷を負わないことが重要と思います。致命傷と軽傷の境界線は見える物ではないので、気を付けてください。しかし、失敗してもまたチャレンジする勇気をうしなわない事。その勇気さえ失わなければ、きっと成功につながるはずだと私は信じています。そして、今も毎日新しいことにチャレンジしています。 (原口雄次さんプロフィール) ——- 栃木県宇都宮市生まれ。 1999 栃木県作新学院高等部卒業 1999 東京国際大学商学部入学 2000 TIUA参加 2001‐2003 Willamette大学留学 修辞学専攻 2004 東京国際大学卒業 2005‐2007 牧野フライス製作所就職 2007‐2010 True World Foods Boston 転職 2010‐2012 True World Foods New York 異動 2012 YUJI Ramen創業・独立 2014 OKONOMI//YUJI Ramenオープン 2016 OSAKANA Brooklynオープン 2017‐2018 新横浜ラーメン博物館出店 2018 ロリマー京都・YUJI Ramen 東京オープン 2019 OKOZUSHI オープン 2021 OSAKANA NYCオープン 2021 OKONOMI/YUJI Ramen Bangkok オープン予定 2021 OKONOMI//YUJI Ramen Waikiki オープン予定 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...ハリウッドでビジネスチャンスを掴む。どんな失敗もチャンスに。やらずに後悔だけはしたくない。 青木洋一郎さん(2001年卒業、商学部経済情報学科 佐藤ゼミ/ ウイラメット大学 芸術専攻 2000年卒業) 2021年6月17日将来の夢はハリウッドで働いて、エンドロールに名前を載せたい。 将来の夢はハリウッドで働いてエンドロールに名前がのりたい。そんな夢をもった高校生でした。 ウ大を卒業後、日本に帰国、東京国際大学の4年次に通いながら、デジタルハリウッドに入学しコンピュータグラフィックを学びました。両校を卒業した後、東京のCGプロダクションに就職し日本で約7年働きました。日本からハリウッドで働くチャンスを掴むのは至難の業。またアメリカの学校に通ってCGの技術を高め、本場で就職活動をしなければいけないが、大学院に行くにはお金もかかるし、現在の仕事をやめていく勇気もなかった。 とりあえず3年は日本で働こうと考え、3年経った時に当時のCGプロダクションの社長に「アメリカにいきたいです。」と伝え、「後1年だけでいてくれないか」と言われ、4年働いた後、ロサンゼルスに飛び、3ヶ月の観光ビザで無給のインターンシップに参加しました。日系のローカルテレビ局でのインターンシップだったのすが、私の夢見ていたハリウッド映画の現場とローカル局での環境は期待と違っていたこともあり、ビザと仕事をオファーしてくれる話もあったのですが一度日本に帰国しました。 しかし本場ハリウッドで映画の仕事をしたいという夢を諦めらずフラストレーションがたまる中、生活の為に幾つかCGプロダクションを転職していく中、2008年に、2Dの映像を3Dに変換するという新しい技術を持つベンチャー会社の方にお誘いを頂きました。 初めてその会社の技術を見たときはBack to the Futureを見た時と同じようなとても新鮮な気持ちになり、「これが映像の未来だ!」「この技術は自分をハリウッドの世界に導いてくれる!」というインスピレーションを感じその会社に就職を決めました。 ハリウッドで3Dビジネスのチャンスを掴む。世界的ヒット・3Dブームの火付け役となったアバターがまだ公開されていない2009年、アバターに出演していたジョバンニ・リビシという俳優とハリウッド映画のプロデューサーが私が働いていたベンチャー会社の「2D―3D変換」技術に興味を持ち、ハリウッドにプレゼンテーションに来てほしいという依頼を受け、英語が喋れる私と上司でロサンゼルスに飛びました。 StereoDを一緒に立ち上げたハ俳優のジョバンニ・リビシと 当初は2週間の予定だった出張はデモ作品を作るために3ヶ月の滞在になりましたが、仕上がりを気に入ってもらい、「ハリウッドで新しいビジネスを始めたい。労働ビザを出したら働いてくれるか」と仕事のオファーを頂きました。実はこの時はまだ3Dブーム前で、特に日本では3Dの需要が全くない状況で、ベンチャー会社が倒産の危機でした。将来への不安でお先真っ暗状態から突然舞い降りた奇跡でした。「Of course!!」と速答。この時が夢に見ていた渡米、ハリウッドで働くチャンスを掴んだ瞬間でした。 2010年、StereoD設立に参画し、10名のスタッフから800名へ拡張。2010年、StereoDが設立され、H1ビザが届くとともに渡米し、そこからは怒涛の数年が過ぎました。当初は10名程のスタッフでしたが、一つ目の映画が決まるとともに30名、50名へと人数が増えそれぞれのアーティストにソフトウェアの使い方を指導、自分の担当部分の作成と朝から晩まで働きました。ハリウッドレベルのケータリングの昼飯、夕飯に感動。私の英語を一生懸命理解しようとしてくれる仲間たち。パラマウントスタジオにオフィスを構え、昼休みに撮影スタジオの横を歩くとセットを作っているスタッフや衣装を準備しているスタッフ。食堂ではテレビドラマに出演中の俳優さん達が食事をしていたりとすべてのものが新鮮でした。寝る時間も削り辛い時もありましたが、一から立ち上げた会社、映画のクレジットに名前がのるまで諦められない気持ちとでやり切りました。 1本目の映画が終了するとその他の映画スタジオのクライアントも私たちの技術に興味を持ち始め、デモを作りながら2本、3本と次々と映画作品の数が増えていきました。 最初の2,3年はロスアンゼルスのみでスタッフを抱えていたので気づいたときには仕事の数と比例し200人以上の体制になっていました。 その後、Deluxe Entertainmentというポストプロダクションと合併することになり、親会社のインド支社のスタッフも加わり800名規模の会社になりました。 自分の中では21世紀のアメリカンドリームを実体験しているのではないかと思っていました。 主な仕事内容は2D-3D変換のスーパーバイザーとしてプロデューサーや監督と直接打ち合わせをし、CGアーティストのマネージメント、スケジュールとクオリティー管理をしていました。 StereoD オフィス前 同僚との屋外映画イベント ジェームズキャメロン監督からタイタニックを3Dにしたいとの依頼を受ける。ジェームズキャメロン監督からタイタニックを3Dにしたい、という依頼があり競合プレゼンの結果、StereoDが選ばれました。しかし、同じ会社のスーパーバイザーは「King of 3D」とも言われているキャメロン監督の対応や厳しい、大変なプロジェクトだという事を嫌がり、誰も担当をしたがらない状況でした。そこで私が担当に立候補しました。 1年以上かかった大プロジェクトでしたが、キャメロン監督と仕事ができ、ロンドンのワールドプレミアにも両親と共に招待していただき親孝行も出来、思い入れ深い作品になりました。 タイタニック3D レッドカーペット両親とロンドンにて スティーブン・スピルバーグ監督のジュラシックパーク3Dの空間演出を担当することに。スティーブン・スピルバーグ監督がジュラシックパークを3D化したいとその後、スティーブン・スピルバーグ監督がジュラシックパークを3D化したいという時に、キャメロンのチームが「タイタニック3Dを担当した同じチームに任せるのがベスト」だと言ってくれたようで、子供のころから好きだったジュラシックパーク3Dの空間演出を担当する運びになりました。まさか自分が子供の頃から大好きなジュラシックパークの3D公開に携われるとは夢にも見てませんでしたし、スピルバーグ監督と対話することができたのは私にとって大きな出来事でした。 その後はタイタニック、ジュラシックパークの3D化の実績を買われ、大きな映画の担当になることがどんどん増えていき、キャメロン監督とはターミネータ2、スピルバーグ監督とはThe BFG, Jurassic World, Ready Player Oneで一緒に仕事させていただきました。また多くのファンがいるStar Warsのスピンオフ映画、Rogue One, Soloも担当できたのは光栄でした。 Rogue One / Star Wars Story スタッフ完成試写会 Solo / Star Wars Story スタッフ完成試写会 現在は、2022年公開予定ジュラシックワールド3を担当/制作中。2019年より2DVFXプロダクションとして、数々のオスカーやアカデミーの賞を受賞しているDNEGに移籍し、現在は2022年公開予定ジュラシックワールド 3を担当/制作中です。 担当作品として ジュラシックワールド3(2022公開予定) スパイズ・イン・ディズガイス オープニング/エンデイング(2019) ハン・ソロ/スターウォーズ・ストーリー(2018) レディ・プレイヤー1(2018) ザ・マミー/呪われた砂漠の王女(2017) ターミネーター2 3D (2017) ローグ・ワン/スターウォーズ・ストーリー(2016) ビッグ・フレンドリー・ジャイアント(2016) ジュラシックワールド1(2015) ゴジラ(2014) ジュラシックパーク 3D(2013) タイタニック 3D(2012) 等 TIU入学は姉(教養学部)の勧めで、ウイラメット大からアメリカ映画業界就職のチャンスを得る。TIUに入学を決め理由は2歳上の姉がTIU教養学部でTIUAに参加し、姉と母親がいい大学だと勧めて来たことがきっかけでした。TIU商学部に合格していたものの、志望していた大学は不合格で浪人をかんがえていたのですが、母親から「浪人して他の大学にギリギリ入るより、TIUで一番になりなさい。」と言われたことと、留学にはすごく興味があったのでTIUへの入学を決断しました。 私が入学したころは現在のように画像、映像ソフトは初期段階のもので高価なものであまり普及していなく使い方を教えてくれる学校もあまりありませんでした。商学部経営情報学科のプログラミングをつかったビジュアルベーシック、プログラムでゲームを作ったり画像をつくる事が勉強できるという事で佐藤ゼミ生になりました。しかし、プログラミングはとても難しく断念してしまいました。今となれば、頑張って習得しておけばよかったと思う事の一つです。 部活動は2年次からTIUAと決めていたので、入る予定がなかったのですが、少林寺拳法の勧誘で見学に行ったまま断り切れずに入部を決めてしまいました。部活で素敵な先輩や友達ができ、同じ同期から他2名も一緒にTIUAに参加しました。またTIUAスタッフの島田昌己 さんが元少林寺拳法部所属だったこともあり、TIUAでも少林寺拳法を続け、日本カルチャーを紹介する機会があれば型などを披露し喜んでもらえる事もあり少林寺拳法部に入ってよかったなと思いました。1997年度は98名のTIUA生がいたので一度に100人近くの友達ができ、一つのキャンパスで濃厚な一年を海外で過ごすというのはTIUAでしかできない貴重な体験だと思います。 ウ大への長期留学当初は文化人類学を勉強しようと決めていました。しかし、授業に参加してみると自分の学びたい事と方向性が違っていたこともあったことと、芸術専攻の先生がギリシャ絵画専門の先生でギリシャで考古学の研究もしていたこともあり、コンピュータグラフィック、映画の仕事がしたいと高校卒業時に決めていたので、芸術の基本を学んでおくことは必須かもしれないという事で芸術専攻に切り替えをました。TIUから観察で来ていた教授に「専攻は何をしているんだ?」と聞かれ、周りの同期は社会学、経済、ビジネスと返答しているなか、私が「芸術です。」と答えると「何でそんなことを勉強してるんだ。」と言われ悔しい思いをしました。 しかし、アメリカの大学のいい所は、入学した後に自分の勉強したい専門を決められる事だと私は実感しました。日本の大学は入学試験に願書を出す時点で自分の専攻を決めていなくてはいけませんし、変更もできません。 きっと私も日本で文化人類学でどこかの大学に合格していたら、そのまま文化人類学での卒業を目指していたと思います。 芸術専攻で卒業して本当によかったと感じた時は、もちろん芸術の基礎を学べたこともありますが、アメリカで映画業界への就職のチャンスがあり、H1ビザ(就労)の申請の時にUnder Graduateでの専門が芸術だったことで申請へとても有利だった時です。もしここで全く違う専攻で卒業していたら、応募資格がなくせっかくのチャンスを逃していたかもしれないと知ったときは、専攻変更を勇気を出して決断してよかったなと思いました。 ウ大時代のルームメイト、マットとNYで再会 芸術専攻卒業作品の一つ「RED」留学中バイトさせてもらった思い出の場所「BISTRO」 「どんな失敗もチャンスに。チャンスを見逃すな!やらずに後悔だけはしたくない。 自分の生き方には「やらずに後悔したくない。失敗しても、その失敗をいい経験にすればいい。」というモットーをもって常に前進しようと心がけています。 興味、そしてチャンスがあったらとりあえず飛び込む。失敗は怖いけど、なんとかなるだろうという気持ちで乗り越えてきました。 何が正しい生き方、正解なんて一生わからないと思います。人生は一度しかないし、チャンスは何度も巡ってこない。 留学から学んだ事として、自分の意見を発言する、伝えることの大切さです。ディスカッションして他人の意見を聞く。その中で新しい事が生まれたり、自分だけでは思いつかなかったアイデアが浮かんだりする。黙っていては自分の存在はないものに等しい。他人がいるから自分の存在がある。黙っていては誰も認めてくれないし、助けてもくれない。そういう仲間、クライアントとコミュニケーションを繰り返すことによってにネットワークがどんどん広がっていきます。例えば夢があったら周りにどんどん話していくなど、声に出すことの大切さは未だに感じています。声に出すことによって周りの人がチャンスを運んでくることも多々あります。TIUA、ウ大で習得した英語力、コミュニケーション力が今の私の大きな支えになっています。 留学時にお世話になった先生や学校のスタッフの方々に「いつか映画のエンドロールに名前がのるように頑張るので楽しみにしていてください」とメッセージを残して卒業しました。とりあえず無事にその目標を達成できたことは本当によかったと思います。ハリウッドで働いて約12年、引き続き多くの人に楽しい時間や感動を与えられる映画作品に携わっていけたらと思っています。そして多くの人と出会いいろんな経験をして行きたいです。もう43歳になりますが気持ちは学生の時と全く変わっていせん。 (青木 洋一郎さんプロフィール) 宮城県仙台市生まれ、桐光学園高等学校卒業 2001年3月 東京国際大学商学部経済情報学科卒業 佐藤ゼミ 少林寺拳法部 ( 2000年ウイラメット大学 芸術専攻卒業) デジタルハリウッド東京本校にて学ぶ。 2001年卒業後、株式会社トマソン、株式会社オムニバスジャパン等を経て、立体映像 / 2D-3D変換の世界に飛び込む。 2010年にStereoD LLCの設立に参加し、「タイタニック 3D」「Jurassic Park 3D」、「GODZILLA ゴジラ」などの3D演出を担当。 2017年「Star Wars : Rogue One」と2019年、「Ready Player One」にてLumiere Awardで2D-3D部門受賞。 2019年DNEGに移籍。現在は2022年公開予定ジュラシックワールド3を担当/制作中。 DNEG会社ホームページ https://www.dneg.com/stereo/ TIU 霞会シンガポール支部... Read more...自分を見つけに世界へ、ブラジル・サンパウロから。 吉田章則さん(1997年卒業 経済学部国際経済学科、田村ゼミ/ウィラメット大学1996年卒業)2021年5月19日ブラジル・サンパウロから 私は93年のTIUA生で、島田さんの紹介で今回投稿させていただいております。私は今ブラジルのサンパウロ市に住んでおり、南米に同窓生がいたら一緒に思い出話でもしたいです。もちろん今の時代、日本や世界のどこからでもつながることができるので、南米や国際開発関係の仕事に興味があれば気軽に連絡していただきたいです。大学のネットワークを広げ、ブラジルまで来る人がいたら大変嬉しく思います。 私は自分のやりたいことを見つけながらブラジルまで来てしまいましたが、そのきっかけとなったのは、大学時代をオレゴンで過ごし、様々な出会いと新しい発見を重ね、そして人生を変える経験ができたからだと思います。TIUAは自分にとっての初めての海外で、言葉も文化も違う世界でしたが、違う環境で生活する楽しみを見つけました。なんでも新しいことに挑戦できるチャンスの多い大学生は、まだまだ選択肢が多く、海外留学など、今できる何か違う体験をしてみてはと思っております。 ブラジルから見た日本との距離 皆さんは、ブラジルと言って何を想像しますか。日本からのブラジルは距離があるので、なかなか印象が薄いのではないでしょうか。しかし、ブラジルから見た日本は比較的近く感じることができ、ブラジル人にとって日本は憧れの存在です。大使館や総領事館のフェイスブック登録数では、ブラジルが世界で一番多いそうです。つまりブラジル人は日本に高い関心を持っており、日本料理や日本文化配信を興味深く観ています。日本は、治安も良く、町もきれいで、インフラも整備され、いろいろな面で便利で、現地の朝のニュース番組などでも日本の公共施設が模範として取り上げられることもあります。ブラジルはサッカー王国で知られ、ワールドカップ試合日には学校や仕事が休みになります。そのブラジル人にとっての日本サッカーは、ライバルではなく、選手のロッカールーム掃除、サポーターのスタジアム掃除として知られております。 日本人に対するリスペクトは、ブラジル日系移民の歴史も影響していると思います。ブラジルには世界最大の日系社会が存在し、5世6世までの子孫を合わせると約2百万人いると言われております。今は、その日系人が、ブラジルの政治、医療、教育分野などでもブラジル社会の中心人物となり活躍し、日本のプラスイメージや親近感を持たせています。若者日系人に日本人をルーツに持つことをどう思うかとのアンケートでは、ほぼ100%がそのルーツに誇りに持っていると答えるそうです。日本人の勤勉さや誠実さが、ブラジル日系人にも継承され、ブラジルで存在感を増し、ブラジルからリスペクトされています。ブラジルは、日本人にとってとても住みやすい国です。 東京国際大学との縁 しかし、小さい頃からブラジルと縁があったわけではなく、大学時代もブラジルのことはほとんど知りませんでした。ただもっと世界を知ろうと思ったのは、TIUAをきっかけに英語ができるようになってからです。高校時代は野球ばかりやっており、国語がずっと苦手で、理系への進学を考えていました。浪人中に国際関係に興味を持ち、英語を勉強し始め、6大学を目指して10大学程受験したのですが、合格したのは東京国際大学だけでした。受験戦争の厳しさと、合格した縁を感じました。 大学1年目は、体育会系のスキー部に入り、留学するかどうか迷うこともありました。しかし、せっかく留学制度のある大学を選んだのだからとTIUAで留学することに決めました。そして初めての海外経験を積んだTIUAでの生活は、自分の人生を少しずつ変えていきました。特にアメリカ以外にもっと世界に出ていきたい気持ちも更に強くなっていきました。 TIUAへの留学で学んだこと 世界で生活する自身に繋がったのは、英語を習得できたことです。TIUAは英語のプログラムがしっかりしており、仲間と学んだ授業も面白く、先生も友人も学習意欲が高く、学ぶ環境が整っていました。授業以外の時間にも、イベントに参加しながらネイティブの友達を作ったり、日本人同士でも英語でしゃべったり、英語に触れる時間を作る努力をしました。一番お世話になったのは、IPC(学生カウンセラー)やRA(寮長)の人達でした。他の人には通じない英語が彼らには理解してもらえました。時間をかけて親身に付き合ってもらい大いに励ましてくれました。IPCが旅行を計画してくれたカリフォルニア州とアリゾナ州の長距離旅行は楽しかったです。言語能力は履歴書にもずっと残りますし、今の仕事でも英語を使います。TIUAでは重要な英語のスキルを習得することができたと思います。 言語とともに習得したのは、異文化理解や外国人とのコミュニケーション能力だと思います。TIUAのミッションを作成していたガナー先生と話したことを覚えていますが、自分にとってのTIUAの魅力は、友達ファミリー、コミュニティーイベント、課外授業やウ大生との交流活動でした。まだ英語が流暢に話せない学生でも積極的に参加できる環境が整っており、コミュニケーション能力を磨くことにつながりました。読み書きだけではなく話す英語を学び、TIUAの一年でたくさんの友達を作ることができ、大きな財産になりました。日本に帰っても、視野を広げるため留学生と友好関係を持ち、世界のどんな人とも友達を作りどんな国でも生活していけると思えました。 (東京国際大学の留学生たちと) (ウ大でWISHの友達と) ウ大長期留学、ボランティア活動の経験 TIUAでの1年は早かったです。特に将来を考えていたわけでもなく、ウ大の長期留学を受け、オレゴンに戻ることができました。長期留学の2年間では、WISH(学生寮名)で知り合った他の国からの留学生や、後輩のTIUA生とも交流関係を深めることができました。授業も大変でしたが、プライベートでの友好関係を更に増やすことができたと思います。現地の大学生とのイベントやパーティーなど、日本ではできない経験ができ、楽しく充実した時間を過ごすことができました。特に自分が好きだったのは、ボランティア活動でした。近所の学校訪問、貧困エリアの子供のメンターやリフォームなど、ウ大のボランティアの募集があったら必ず参加していました。人種や地位などに関わらず受け入れてくれる感じが自分にとっても過ごしやすい環境でもあり、昔から困っている人を助けたいという気持ちとも重なり、いろんな形で貧困などの社会問題などに触れる機会が多くなりました。 ウ大時代のボランティア活動で、更なる挑戦をする自分を見つける体験をします。長期夏休み中に、大学で紹介されたニューメキシコのYouth Development Inc.というNGOに、数か月お世話になることに決めたのです。NGOは、どのような仕事をするのかを理解するためでしたが、そこでの体験は今でも忘れられず、自分を成長させてくれる経験となりました。Youth Development Inc.は、ヒスパニックやネイティブのマイノリティ中高生で社会問題を抱えている若者を保護、指導、育成するNGOでした。児童虐待、麻薬、アル中、強盗、不良、若年妊娠など、少年院に入りそうな人達と時間を過ごすことになり、そこには未知の世界がありました。日本人がそんなところで何ができるかと言っても、実際は何を変えることも、そして彼らを助けることもできなかったと思います。NGOで働く職員の信念の強さや優しさ、そしていろいろな問題に立ち向かい立ち直ろうとする青年達の生命力など、自分の経験したことのない社会に出会い多くを学んだと思います。 (ニューメキシコでNGO職員の家族と) (ウ大卒業式) ワシントンDCから中南米へ、大学院とソフトウェア企業での経験 もともと落ち着きがなく飽きやすい性格で、大学時代に経験したボランティアで更なる好奇心と行動力を育み、人とは違う人生を歩むことに興味を持ち始めます。そこで、東京国際大学卒業後は、国際開発を研究するためにワシントンDCにあるアメリカン大学大学院に進学することにしました。その際には、ヨーカム先生、ガナー先生に推薦状を書いていただき大学院に進学することができました。オレゴンでの経験を活かし、勉強以外では負けない友好関係を深め、イベントやボランティアにも積極的に参加し続けました。アメリカン大学には、日本からの留学生だけで200人程、更に世界中からも優秀な留学生が集まり、同じDC地区の他大学との交流もあり、更に国際的な視野を広げることができました。少し周りを見渡すと、世銀やIMFなどの国際機関、また各国の大使館などでインターンする友達も多くいました。本当に国際性豊かな大学で楽しかったです。アメリカン大学では、留学生をケアする事務所で働くなどして、交流関係を世界中に広げることができ、今でも世界中にいる友達とつながっています。 国際開発論では、なんでも「参加すること」の大切さを学びました。ボランティア活動に参加させるには、その活動に興味も持たせることが必要で、興味あるイベントにするには参加数や集客力が大切です。その地域のお祭りなどは、政治的な関係もあり、人々が集まることこそが大切で、日米交流協会が運営するワシントンDC桜祭りも毎年手伝っていました。イベントでもボランティアでも何か企画するのには金銭的のみならず、社会貢献など人の気持ちや興味に訴えることが大切だと思います。 大学院卒業後も日本に帰ることは考えず、ワシントンDCで国際サプライチェーンのソフトウェア企業で、データアナリストとして就職することにしました。国際的なワシントンDC滞在中に感じていたのは、留学に来るような優秀な人は英語もできますが、現地の言葉、第二外国語ができないと、そのコミュニティーに溶け込んでいくのは難しいということです。違う世界で自分のやりたいことを見つけることに興味が溢れ、中南米の友人の影響もありもっと中南米を知りたくなり、会社を辞め、アメリカを出ることにしました。スペイン語の能力が十分ではなく、最初は大学院時代の友達のところにお世話人なりながら、メキシコ、グアテマラ、エルサルバドルなどで、スペイン語学習プログラムやインターンなどをしました。そしてしばらく、自分のできることを探しながら、中南米の国々を渡り歩いていました。 (アメリカン大学の友達と) (アメリカン大学大学院卒業) 中南米からブラジルへ、食品貿易企業、鉄鋼企業、商工会議所などで経験 中南米滞在中、ブラジルに来る縁があるのですが、その時の縁をつないでくれたのはTIUA時代の同期でした。彼は、食肉商社で仕事をしていた関係で、チリやブラジルと取引があり、ブラジルの現地企業で人を探しているからと知り合いを紹介してくれました。仕事内容は、牛の屠畜場を巡り、日本向けにボイル腸を企画、生産、品質管理して、日本に輸出することでした。牛以外にも鳥や豚の屠畜場にも買い付けや品質管理の仕事も担い、ブラジル中を駆け回ったのを覚えています。TIUA同期の彼とは、馬肉と鴨肉の貿易で一緒に仕事をしましたが、大学時代には想像できない繋がりでした。 食肉の仕事の後、リオにある大手の鉄鋼企業にプロジェクトコーディネーターとして勤務しました。その時の仕事内容は、現地鉄鋼事業の調査や情報配信、特にポルトガル語の鉄鋼記事を日本語にして配信することなどでした。また、大手商社を通じ、技術営業や原料購買部などの事業支援などもしていました。ちなみにブラジルは、農業や畜産大国でもありますが、鉄鉱石などの生産・輸出もしており、世界有数の鉱物資源大国でもあります。 また、ブラジル日本商工会議所の調査員として事務局の仕事も経験しました。商工会議所では、日伯政府間の会議や政策対話の機会を通じ、ブラジルでの日系企業のビジネス環境整備の目的のもと、ブラジル政府や政府関連機関と官民合同の政策対話会合を運営しておりました。経産省からの補助金で、政策対話委員会の事務局員として雇われ、官民会合の国際会議の調整役の仕事をしていました。 (屠畜場にて、牛の腸解体前) (日本の製品、ブラジル産ボイル腸) (廃鉱となっている鉱山) (労働法改正など労働問題研究会) ブラジル味の素とブラジル埼玉県人会 そして現在は、ブラジル味の素との縁があり、コーポレート部のマネージャーとして勤務しております。ブラジル味の素は、農業大国であるブラジルにも生産拠点があり、調味料を中心にブラジル全土に販売し、現地化が進んでいる企業です。うまみやアミノ酸の働きで社会価値と経済価値を創造する取り組みを様々な分野で行っております。ブラジル工場で生産された製品を海外のグループ会社に輸出したりもしております。 味の素はグローバルで「食と健康の課題解決企業」を目指し、ブラジルにもその企業理念はきちんと根付き、会社と社員一人一人が一体となって食と健康の課題解決のため日々働いております。自分は現地の中途採用で、毎週行われている入社研修を20代の若者たちと一緒にポル語字幕の日本語の会社説明ビデオを見ました。入社時に「我々は何のために働いているのか?」など問いかけられ、会社は利益を追求しなければなりませんが、社会貢献など社会価値創造する事業にも力を入れる必要があるとの説明も受けました。経営理念がしっかりしていて、それに共感が持てる従業員が集まり、日伯の間で成長し続けていける魅力のある企業です。 (ブラジルにある味の素工場) (ブラジル味の素の同僚と) 仕事以外の時間には、いまでも自分の好きなボランティアや祭りイベントの企画をしたり、参加したりしています。その一つとして、ブラジル埼玉県人会の会長をしております。何をするかといいますと、ブラジルで埼玉県をPRしたり、日伯の交流を埼玉通じて行ったりします。20万人規模の日本祭りなどで埼玉ブースを出展し、オリンピック事前キャンプ地の新座市の紹介や県の観光地などを伝えたりしています。ブラジルには47都道府県人会があり、その中で埼玉は特徴も郷土愛も薄れがちで、日本からの支援も少なく、継続も大変なのですが、日伯交流に貢献できればと活動しています。日本に帰った際に、県庁の国際課を訪問して事業報告するなど、日伯交換留学実現にむけ埼玉大学を訪問したこともあります。 また、埼玉県人会は、初心者向けの日本語クラスも運営しています。一昔前の日系移民は、子孫に日本語教育を行っていましたが、ブラジル社会に浸透していくにつれ、日本語を話さない新しい世代の日系人が増えています。日系人は、日本人としての誇りは持っておりますが、狭い日系コロニアで使われる日本語は、ブラジル社会ではほとんど使う機会がなく、日本語離れは否めない事実となっています。現在の日本語学習者は、漫画に興味の高い非日系人もおりますが、全体的には減少傾向にあります。少しでも日本語や日本文化がブラジルで伝われば幸いです。 ブラジルは、多様性が豊かで、何かと新しい発見が転がっているのも楽しいです。自分を見つけて中南米を歩いて来ましたが、今でも新しいチャレンジが生まれています。パンデミックもその一つだと思います。大学時代を思い出しながら長々と書いてしまいましたが、最後まで読んでいただき、本当にどうもありがとうございました。 (サンパウロ日本祭り、埼玉ブース) (日本語スピーチコンテストの審査員として) (ブラジル選手事前キャンプ地新座市の市長と) (埼玉県人会で日系児童福祉施設に寄付) (吉田章則さんプロフィール) 埼玉県出身越谷北高校卒業 1992年4月東京国際大学 経済学部 国際経済学科入学(田村ゼミ、スキー部) 1993年TIUアメリカ校 留学 1996年5月ウィラメット大学 経済学部 卒業 1997年3月東京国際大学 経済学部 国際経済学科 卒業 2000年12月アメリカン大学 国際開発論修士号 卒業 同大学 MBAビジネススクール修士号 卒業 2000年~2003年ソフトウェア企業・ネクストリンクス 貿易シニアアナリスト(米国メリーランド州) 2003年~2004年スペイン語学校(メキシコ・グワナフアト市、ガテマラ・アンティグア市、ニカラグア・エステリ市)、ハザマ組(エルサルバドル・サンサルバドル市)、ジェトロサンチアゴ(チリ・サンチアゴ市) 2004年~2010年食品商社・アンデスフーズ(ブラジル・カンポグランデ市、マリンガ市、サンパウロ市) 2010年~2011年ブラジルJFEスチール プロジェクトコーディネーター(ブラジル・リオデジャネイロ市) 2012年~2013年自営業・レストラン経営 (ブラジル・サンパウロ市) 2014年~2019年ブラジル日本商工会議所 政策対話委員会調査員(ブラジル・サンパウロ市) 2019年~現在ブラジル味の素 コーポレート部マネージャー(ブラジル・サンパウロ市) TIU 霞会シンガポール支部... Read more...常にポジティブ思考を心掛けたい。半導体市場を通じ、テキサスと日本/アジア間ビジネス拡大へ奮闘中 伊藤宏人さん(1996年卒業、経済学部国際経済学科)2021年4月8日96年経済学部国際経済学科卒業の伊藤と申します。大した経歴でもドラマチックな人生を送っている分けでもないですが、TIUA留学中にお世話になった島田さんからの依頼により私の経歴を寄稿させて頂きます。 現在: 現在家族と共にテキサス州北部のプレーノという街に住んでいます。数年前にトヨタ北米本社がカリフォルニア州から引っ越してきた街です。アリゾナ州に本社のある日系の半導体関連の会社に勤めています。2012年に同会社に現地採用され、翌年にテキサス州に異動になり現在に至ります。顧客であるダラスにある現地半導体会社にセールスエンジニアとして常駐しており、日本やマレーシアで開発設計製作した製品の販売サービスが主な業務です。技術や工場と顧客の間に入りながらビジネスの拡大に向け奮闘しています。日常やり取りしている同顧客のエンジニアはアメリカ人に限らず、アジア系、ヨーロッパ系、アフリカ系出身がいて国際色豊か。コロナ前までは非定期に顧客の別州にある拠点やアジアの量産拠点にも訪問していました。 (2016年フィリピン出張、現地同僚と、右奥が私) 高校~大学: 高校生の時に読んだ落合信彦氏の著書「アメリカよ!あめりかよ!」がアメリカに強い関心を持ったきっかけでした。自らの留学体験を通して、60年代アメリカの激動と変貌を浮き彫りにする自伝ノンフィクションです。落合信彦さんのメンタルの強さと行動力に対して当時高校生なりに強い感銘を受けたのをはっきりと覚えています。アメリカ映画やスポーツを通じての漠然とした憧れから、同著書をきっかけにいつかはアメリカに移住することを人生の目標の一つにしていました。高校の卒業文集には同著書を読んでいかに感銘を受けたことを書いた記憶があります。 英語力は皆無だったのもあり、高校を卒業してそのままアメリカの大学に留学するということは考えられませんでした。在学中にアメリカへ短期留学出来るシステムのある東京国際大学を選択しました。東京国際大学に入学してからTIUAに行くことしか頭に無かった記憶があります。最初の説明会で一番前の席に座り、OBに最初に質問をしたくらい前のめりでした。93年の2月にTIUAに行きましたが、初めてのアメリカだったので見るもの全てが新鮮で、空気を吸っているだけで気持ちが高揚していました。当時19~20才なりの等身大の悩みは抱えつつ、今振り返るとこれまでの人生で一番楽しい時間を過ごせたと思っています。 この短期留学を後押ししてくれ、金銭的な援助も惜しみなく提供してくれた親には一生頭が上がりません。この経験があるからこそ今があり、自分の息子達に対しても彼らの人生が豊になる為のサポートは全力で行おうと決めています。TIUAでの収穫は色々ありますが、最大の収穫はその時に出来た友人かと思います。近くに住んでいないので今は会う機会は非常に少ないですが、昨年は数回Zoom飲み会を実施して30年近く経った今でも仲良くしてます。しょうもない話で盛り上がりながらも、各々の分野で頑張っており彼らとの会話は励みになります。 社会人: 就職活動は苦労しましたが、埼玉県に本社のある機械メーカーに就職しました。技術研修及び人間関係構築の為に福島の工場に一年間勤務後、埼玉の本社営業に配属されました。関東の顧客を相手に営業活動を数年行った後、アメリカ現地法人で若手の派遣を検討していると聞き直に手を上げ、入社3年目にも関わらず駐在の機会を頂けました。中西部の新規顧客開拓を目的としたオハイオ新事務所設立に伴い、販売サービスを主な業務とするセールスエンジニアとして現地に派遣されました。 (2000年シカゴダウンタウンにて) 打合せのみの訪問だけではなく、数週間に渡る現地顧客工場での機械設置も業務の一環でした。基本工場は田舎にあることもあり、出張の際に移動に使う時間が日本の比ではないことを実感しました。合計で4年間の駐在、最初の3年がオハイオ州、最後の一年はメリーランド州、その後日本に帰国しました。日本に帰国後は福島での工場勤務を挟み、埼玉本社の海外営業部の所属となりました。海外営業部では出張ベースで頻繁に欧米及びアジアの顧客を訪問し販促に努めました。13年務めた同会社を2009年に退職し、東京都内に本社のある風力発電機のベンチャーメーカーに転職しました。 転職: 前職で知り合った会社の社長さんの紹介で風力発電機メーカーに転職しました。ベンチャー企業に身を置いてみたいという希望から初めての転職を実現させました。最初はプロジェクトマネジャーで製品開発及び販売戦略に携わりました。その後、同開発製品のアメリカでの販売に伴い、一年前に設立された米国現地法人(コロラド州)へ2010年に派遣されました。最初は技術マネージャーでしが、駐在半年後にCOOとなり拠点運営を任されました。当時コロラド州が再生可能エネルギーの導入に積極的だったこともあり、各地でイベントが開催されネットワーク構築の機会の場が多く有りました。小さい組織だったこともあり色々な業務を経験させてもらいました。 (2010年コロラド州ボルダー風力発電機設置サイト) 任務完了に伴い会社から帰国命令が出たのですが、子供をそのままアメリカで育てたいという気持ちからアメリカに残ることを決め、現地で転職活動を行いました。親が経験していないアメリカでの学校生活を子供に経験させたいという思いです。日本帰国後はアジア営業への配属が内示されていましたが、ここで日本に戻ったらもうアメリカに来る機会はないと思ったので、会社には平謝りで帰国せず退職を決断しました。運よくビザサポートをしてくれる現在勤めている会社に直に現地採用してもらうことが出来て現在に至ります。 最後に: 妻や両親や知人や会社の人に支えられながら今に至ります。現在勤めている会社からのサポートにより昨年グリーンカードを取得出来ましたので、仕事があって健康な限り今後もアメリカに住み続けるつもりです。2020年はコロナの影響でアメリカでは多くの人が職を失いましたが、属している半導体業界が盛況なおかげで仕事を失うこともなく、家族共々健康に過ごせていることに感謝している日々です。 コロナをきっかけに色々な社会問題が浮き彫りになり、アメリカの脆さが見えた年だったかと思います。~90年代のアメリカ一強の古き良き時代では無いということを改めて実感します。ネガティブな報道が多い中でポジティブな出来事を見つけていくしかないですね。将来の夢や目標を追いかけるのも大切ですが、小さな幸せを日々意識的に見つけることが人生を幸福に生きていくコツでしょう。如何なる状況でも常にポジティブ思考を心掛けたいと思っています。 (2013年ダラスのホテルにてTIUA在籍時以来20年振り久しぶりの再会、Gunnarと島田さん) (伊藤宏人さんプロフィール) 千葉県出身江戸川学園取手高校卒業 1992年4月東京国際大学 経済学部 国際経済学科 入学 1993年2~12月TIUアメリカ校 留学 1996年3月東京国際大学 経済学部 国際経済学科 卒業 1996年4月機械メーカー入社(埼玉本社、米国オハイオ州、メリーランド州) 2009年4月風力発電機メーカー入社(米国コロラド州) 2012年5月半導体関連メーカー入社(米国テキサス州) TIU 霞会シンガポール支部... Read more...「たくさんの素晴らしい出会いに感謝」 曽我部光由さん(1978年卒業 商学部10期 石井寛ゼミ) 2021年2月8日1978年国際商科大学(現東京国際大学)商学部卒の曽我部光由と申します。 数少ないICCの後輩かつ友人の島田昌己さんに紹介&背中を押され、恥ずかしながら今までの人生の大半を占める海外出向生活の良い時代大変な時代をまとめて振り返る良い機会と思い寄稿させていただきます。 ICC学生時代を振り返って 四国の田舎町の裕福でもない家庭で育った私が海外とくにアメリカにあこがれを持つきっかけは、ミッキー安川さんの自伝漫画だったと思います。戦後間もない時代にお金もなく言葉も分からない米国に行って奮闘されたお姿に「自分もいつか体験したい」と漠然と思ったものです。 当時国際と名のつく大学は今ほど多くなく、私の中では今では死語となっている「ハイカラ」に感じて受けた国際商科大学に入学することができました。残念ながら卒業までの5年間は褒められたものではなく生活に追われアルバイト三昧で、島田さんのように留学と学業に情熱を傾けられた誇らしい学生生活と比しまして恥ずかしながらやっと5年でICCを卒業できたといった有様でした。 それでも交換留学中でキャンパスで学んでいる姉妹校W大生のカウンセラーとしてお世話をしながら様々な出会いができたのも良き思い出です。W大の当時副学長だった故Dean Yocum先生に「W大の大学院でDegree取りたいなら私が推薦してあげる」という温かいお言葉に、真剣に留学を考えた時期もありました。米国留学にあこがれ、交換留学していたW大学生の友人たちに誘われ卒業前にW大キャンパスも訪れ特別体験授業も受ける機会も得られました。オレゴンの州都Salemの歴史あるキャンパスや自由な学生たちの雰囲気に魅了され、Graduate Schoolに必須のGMATの難解さも考えずその気になったものです。しかしながら実父が病に倒れ入院。そんな中で不確かな夢を追い続ける余裕もなく実家の父の生存中に就職して安心させなければと遅い就活をスタートした次第です。 (ウ大交換留学生のカウンセラーをしていた時) 卒業後、メガネのパリー三城入社 同級生が内定を複数社もらいだした後でスタートした就活、ましてや学生最後の大切な人生のイベント(就活)を真摯にとらえず周りに流されて何とかなると人生をなめていたと思います。「異文化との出会い」にほのかな期待だけで海外に拠点のある企業にばかり足が向き、甘い考えで受けた旅行会社の最終面接に遅刻するというポンコツぶりでした。そんな中、眼鏡チェーン企業という認識すら薄く国際性豊かな小売り企業に映った眼鏡のパリー三城(現三城ホールディング)の入社試験を受け、運よく拾っていただきました。 入社当時1978年には、海外拠点と言っても社名にもある都市のパリ、そしてシンガポール、法人設立したばかりのハワイのみでした。同期入社数は150名以上と当時の三城の企業規模からは多すぎる採用でしたが、会社も専務(二代目オーナー)も当時若く勢いがあった時期だったと思います。 それでも小売業とは言え、扱う商品の眼鏡が視力矯正商品という医療関連サポート小売りの仕事に自分でも驚くほど思いのほかはまり、プライドを持って業務に没頭できるようになれたのは幸いでした。もちろん銀行に勤める友人たちから週末に誘われるたびに、周りがレジャーで出かける週末が一番多忙になる小売業の悩める定めを感じました。嫌気がさして辞めていく同期入社の仲間を送り出すたびに「因果な商売」と他業種が羨ましく映り、小売りが真に自分の天職なのか?と心が揺れたのも事実です。 三城は1979年当時海外第2番目の法人(海外進出第1号はパリのオペラ店)として、シンガポールに当時旧ヤオハン所有のプラザシンガプーラに進出しておりました。入社2年目でお客様のエスコート係としてシンガポールに社員旅行で出かけた時、当時の支配人の活き活きとして働く姿が目に焼き付きました。朝の3-4時まで私たちやお客様を接待し、その翌朝10時前にお店で全現地社員への朝礼でてきぱきと指示する姿に、そして2号店に向けての現地ディベロッパーとの交渉事も目の当たりにし海外支配人という職位にあこがれたものです。 入社3年目にハワイ法人への出向を命じられました。 その後人事に海外勤務希望をアピールし続けたことが幸いし、入社3年目にハワイ法人への出向を命じられました。 時は1981年5月、日本人投資家によるオアフ島不動産バブルが始まる前でしたが、そのころでもすでに巨大アラモアナショッピングモールの当時オーナー企業が日本のスーパーダイエー社、ワイキキの主要ホテルも故小佐野賢治氏率いる国際興業社に買収されたあとでした。私どもパリー三城ハワイ店もカラカウア目抜き通りで営業していましたが、お客様の半数が現地のいわゆるローカル日系のお客様、そして半数近くが日本人ツーリスト、特に新婚カップルの方々でした。ここは本当にアメリカ?と感じるくらいアウェイ感もなく、当時の州知事も日系のジョージ有吉知事で島中が「アロハスピリッツ」で包まれていて、我々日本人にとってはまさしく魅惑の楽園だったと思います。 ただ周りはリゾート気分満載でも、仕事する身になると異なります。初めての海外店での勤務はワイキキという観光地だからこそ営業時間も長く、ハードな毎日でした。現地のお客様や本土からのお客様への英語での販売では失敗の連続に自己嫌悪の毎日でした。「あなたじゃダメ、ちゃんとした人に代わって」と何度言われたことでしょう。お店は設立3年経っていましたが、お家賃も景気に連動して毎年上昇し法人の資金繰りも芳しくありませんでした。今のハワイも米国一物価高の州ですが、当時は1ドル=230円前後で、何を買っても日本の倍ほどしていた記憶があります。 当時の支配人が諸事情により退社後、赴任して3年弱の何の功績もない私に仮とはいえ資金繰りが厳しい法人の支配人を任せた親会社はよほど人材不足に悩んでいたのでしょう! 法人とは言え、私を含め社員4名で自転車操業のお店の管理は文字通り綱渡り状態でした。毎月末買い付け商品や家賃、人件費などの支払いに追われていたのを覚えています。今思えば、この時期に私自身の中で「雇われサラリーマン」から零細ですが経営者として成長できた時代なのかもしれません。小さいお店の管理ですが、販売や眼鏡加工はもちろん商品調達のための仕入れや貿易業務も私一人がすべて担いわなければ会社が機能しません。当時PCメールも存在しない時代なのでTelex通信(FAXが出回るまで)、家賃交渉や店舗改装、決算書などの会計諸表作成、収支増で資金潤沢になった時点での新店出店計画、雇用と人材育成などなど、すべて初めての取り組みで大いに職位に育てられた時期でもありました。商学部出身にもかかわらず、簿記会計学などの学業に専念しなかったことを悔やみ自己嫌悪の毎日でした。毎四半期に恥を忍んで親会社の経理部長や現地の会計士に初歩から教えていただいたのを覚えています。 それでも私が支配人になった1986年から1991年にかけてのバブル景気(日本でのバブル崩壊は1989年の株価暴落)にはワイキキ全体が「ショッピング天国」状態で、パリ三城もその恩恵を受け現地法人のキャッシュフローも毎年右肩上がりに増えました。そしてその勢いで3店舗にまでお店も増やすことができました。 (1988年ハワイの自宅で) 常夏のリゾート地ハワイで家族を持ち子供(息子二人)にも恵まれ、このまま何の疑いもなく家族一同で第2の故郷ハワイでの永住を考えていた矢先に豪法人移動の話が入ってきました。 バブルに連動したハワイ経済躍動の波に乗っただけの現地会社のRed to Blackという実績だけで規模の大きい豪州法人社長任命とは、親会社が私に対して過大評価をされたのだと思います。当時の三城のオーナー&会長の直々のご指名による人事異動に逆らえるはずもなく、後ろ髪をひかれる思いで新天地であるシドニーに向かいました。 豪州法人出向のためシドニーへ赴任 1994年春に移動したころのシドニーは、南半球一の繁華街と呼ばれていたにもかかわらずホノルルの広く整備された町でのゆったりした運転に慣れた私には豪人の運転マナーの悪さ、そして道路も狭くデコボコしているように感じ戸惑い辟易としたものです。当時の豪法人のスタッフ数は200名前後でシドニー9店舗、メルボルン7店舗、キャンベラ1店舗と広い大陸に店舗間の距離も半端なく移動も大変でした。収支の出ているお店がほとんどなく、まずは定石通りスクラップ&ビルトで2年で10店舗閉店、その後収支の出る立地やモールに14店舗オープンし計21店舗体制にし、何とか赴任4年目で利益を生む法人に立て直すことができました。お客様との出会いもそうですが、ハワイ法人のような規模の小さい会社の運営では経験できないマーケット戦略(テレビでのCM制作やWestfieldなど豪州大手ディベロッパーとの交流)の没頭し、現地法人の発展期を通して大切な出会いをたくさんさせていただいた時代でした。 わがままな私に辛抱強く付き合ってくれた現地の優秀な仲間たちにも恵まれて、私自身も様々な面で成長できた豪州赴任でした。 赴任当初は現地の会社も資金枯渇状態で、恒例の会社主催の真夏(夜10時まで日が長く明るい夜)のクリスマスパーティーも節約のため近隣の河川敷にある公園やキャンプ場にテントを張って食事もケイタリング外注して催している状態でした。そんな会社主催のパーティーも年々資金的余裕ができ出すごとに、ホテルのボールルームに格上げしていき、赴任の終わりごろには豪華なシドニー湾クルージング客船を貸し切りバンドを呼んでのパーティーができるまでになりました。 当時のシドニーは、2000年のシドニーオリンピック開催に向けて国を挙げての建設ラッシュ、そしてレベルの高いインフラ整備を国際的にアピールする絶好の機会と豪政府も豪国民も大いに意気高揚としていました。その余波で移民も激増し経済成長も著しかった時代でした。 私の豪法人再建も当時のオリンピック好景気という時代に助けられ、運が良かっただけなのかもしれません。 仕事に没頭し家庭や自分自身の身体の管理をおろそかにしていた報いなのか、医者いらずだった私の身体にも2000年12月ごろ、メルボルンへの出張前日に異常な倦怠感に襲われました。 かかりつけの主治医に診察してもらったところ脾臓がかなり腫れているとのこと、詳細は追って連絡とのことで自宅療養するように伝えられ帰宅しました。その夕方に、主治医から「明日朝すぐに入院してもらいます。」との電話があり、病名を告知されました。 主治医の診断は「慢性骨髄性白血病」。今でこそ新薬が開発され完治もしくは寛解まで治癒できる病気にまで医療は進歩していますが、当時は白血病と言えば「不治の病」骨髄移植しなければ余命3-4年と告げられました。 2001年3月、海外出向から20年後に病気療養での帰国 骨髄移植をするためには、まず骨髄提供者ドナーを探さなければいけません。HLA(Human Leukocyte antigen)という白血球の型が適合する確率は兄弟姉妹で25%、幸い私の妹が適合し、無事東京で移植手術を行い命拾いしました。 今だから喉元過ぎれば的にさらっと記していますが、当時は家族はもとより本当に周りの皆さんにどれだけ心配をかけ、どれだけ助けていただいたか。人と人との大切な繋がりや、周りの皆様にいただいた温かい思いやりに深く感謝してもしきれないくらいです。 特に当時の三城オーナー兼会長には、骨髄移植の名医と病院までご紹介くださり高額な治療費だけでなく退院後の住居など親身になってサポートいただき、ドナーである妹と同様「命の恩人」と深く感謝しています。 2002年に久しぶりの国内で仕事復帰 1年近い病気休暇のあと、本社事務所の海外事業に仕事復帰して2年後東日本営業担当を命じられました。希望していた念願の営業現場復帰ですが、当時で300店舗近い店舗の営業統括を任されたのですからかなり気負っていたと思います。 海外支配人歴が長く全ての部署をコントロールしなければという責務に対する思い入れが強く、営業外の本部と他部署とも大小の衝突を繰り返していたと思います。2007年春にシアトル支店を命じられた時は、52歳でようやく母国日本で家族と一緒に地に足付けた人生を描いていたこともあり正直Reluctantという言葉がぴったりの気持ちでした。 二人の息子は日本の大学に通っていましたので日本に残しましたが、大きな病の経験もありさすがに単身赴任はきついので妻にお願いしてシアトルについてきてもらいました。 2007年6月 シアトル支店出向 赴任先シアトル支店も業績が長年厳しく、私の52歳過ぎての出向もどうやら海外子会社の再建請負人のような人事異動と後で聞きました。 店舗閉店による支店縮小の最中で現地の社員は会社の財務状態を熟知しているだけに、支店が清算されるか否か非常に敏感でした。 たとえ私の本音が「不承不承の赴任」だったとしても、そのような素振りはおくびにも出してはいけないと努めたものです。 赴任後すぐの2008年のリーマンショックもシアトル経済特に小売業を直撃し、支店存続の危機にもあい、苦しい時代のかじ取りを強いられました。苦節4年目でようやく支店の通期利益が出るまでに業績も回復できたのも良き現地スタッフに恵まれたおかげだと感謝しています。 (PortlandからMauiJim本社のあるイリノイ州PeoriaにMauiJimオーナーの自家用ジェットで) (MauiJimとの商談後の食事 Peoriaにて) サンフランシスコでの同窓会 2018年には同じICC卒業生の羽鳥誠一郎さんご夫妻、島田昌己さんご夫妻とサンフランシスコで久しぶりの同窓旅行を楽しみました。羽鳥さんご夫妻、島田さんご夫妻とは在学時代からの長いお付き合いで私の結婚式にもご出席いただき、ハワイにもご夫婦で遊びに来ていただく数少ない大切な友人でいてくださっています。 (サンフランシスコでの同窓会) (SEFCO球場で島田ご夫妻と) たくさんの素晴らしい出会いに感謝 2020年のコロナ禍の始まりは、世界中人々を翻弄し私どもの生活習慣を大きく変えました。もう元の日常には戻らない、異なる生活様式の導入を余儀なくされるのではと言われています。 私どもの支店が位置する北米Washington州も昨年3月末から6月一杯の州政府主導のLockdownは、途絶えた収入源に実店舗を商う小売りのもろさを感じたものです。2021年の今も北米では外出自粛令が続いています。お店は幸いエッセンシャル小売り(Healthcare小売り)として入店数制限を条件に細々と営業させていただいています。経営者として、社員一人一人の雇用と健全な生活を守るため、急速な変革期に適応すべく全方位で舵取りに専念しなければいけません。 不透明な2021年の始まりですが、「明けない夜はない」新しいポストコロナ禍での通常生活に戻れることを願い、日々健康であることに感謝しながら企業人として最後のご奉公に励んでいます。 様々なワクチンの接種がここシアトルでもスタートし、身近の知人も受けた話も多くなってきています。 私共夫婦も、異なる国や都市で暮らす二組の息子夫婦と孫たちのところに訪れることを指折り数えながらパンデミック終焉を待っています。 周りの同世代が定年で隠居生活に入る話が多くなりました。あと少しこの支店が盤石になることを見届け、夫婦で懐かしいハワイでの隠遁生活を夢見ているところです。 皆様におかれましても、愛するご家族や大切なお友達に会いに行きたくても旅行もままならない中、ご不便な生活が続いているとお察しいたします。今回のパンデミックが終息するのもあと少しの辛抱と信じたく存じます。 新しい生活様式で自由に旅行ができるようになり、TIU卒業生の皆様との出会いをシアトルもしくはホノルルで楽しみにしています。 どうぞよろしくお願い致します。 次男の娘(孫娘)の1歳誕生日 (曽我部光由さんプロファイル) 1955年3月愛媛県新居浜市生まれ 1973年4月国際商科大学(現東京国際大学)商学部入学 1978年3月国際商科大学商学部卒業 石井寛ゼミ 1978年4月(株)パリ三城 入社 1981年5月パリ三城ハワイ法人MIKI INCに出向 1986年2月ハワイ法人MIKI INC 支配人に昇格 1994年5月パリ三城豪州法人に出向 Paris miki optical/Vision Express 現地法人社長に任命される。 2001年3月病気治療&療養のため帰国 2001年7月移植手術準備のため東京慈恵医大病院に入院 2002年4月(株)三城 新横浜本部 海外事業部に職場復帰 2004年4月(株)三城 執行役員東日本営業担当を任命される。 2007年5月Paris miki USA Seattle Branchに支社長として再び海外再出向 2021年2月現在にいたる。 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...生涯思春期・雑草でもいいんです、緑でいられれば。 横山亮信さん (1990年卒業 商学部 三村ゼミ)2021年1月26日埼玉県出身の1986年度生。1990年商学部卒業です。東京で証券会社に入社。1年ちょっと営業職をし、退職。1991年に単身でオレゴン州ポートランドに渡り、証券会社でStock Brokerとして3年弱勤務。その後は、日系企業、メディア媒体、マイナーリーグ球団職員、インターネット関連等と、何度か転職をし、現在はColumbia Sportswear本社でサプライチェーンアナリストとして、主にアジア地域のサポートをしています。私は決して自慢できるような経歴や語れる活躍ストーリーがあるわけではありません。在学中の経験や、「英語」との出会い、そしてなによりも、東京国際大学を通して出会った人たちからの支えで私の今は成り立っています。その感謝の意味もあり、また今後の進路に悩んでいる学生がいたら、世間や周囲の声またはアドバイスも重要ですが、自身の内側に秘められた声も聞いてもいいんだと感じていただけたら幸いであると思い、私の経歴を紹介させていただきます。 私は国際商科大学の受験票を持って受験し、東京国際大学に入学。学校名が変わった最初の年でした。大学生になった解放感か先走り、恥ずかしながら、志というものは特になく、4年間いかにして学生生活を楽しもうかとばかり考えていました。これは高校まで野球に没頭し、ほぼ私生活がなかったと感じたことへの反動でした。4年間、三村ゼミ(マーケティング)に所属しました。この三村先生から受けた助言や激励は私の後の人生にポジティブな影響を与えてくださり、感謝しています。どのような助言だったのかは、私の育ってきた過程に関係します。 2度の英語との出会い 小学生の頃から、決して成績は良くなく、授業中もなかなか集中できない子供でした。当時は生徒数も多く、できない子供はどんどん取り残されていく教育システムだったと思います。まだ当時は個性重視なんて時代ではなく、周囲と異なる言動には偏見が付きまとい、その上成績が悪いと人格まで否定されたように扱われた時代。通信簿には毎年「落ち着きがない」だの「無駄口が多い」だの書かれた子供でした。そんな落ちこぼれの道を進んでもおかしくないような中で、私を救ってくれたのは英語との出会いでした。小3か小4の頃、自宅にブリタニカの英語教材のセールスマンが訪れます。当時ではよくあった訪問販売員。通常であれば、「興味ありません」と言って追い返す母が何故か話を聞いていたのです。私と同世代の方はご存じの方もいると思いますが、「モクモク村のケンちゃん」や「マコとガコの冒険シリーズ」等の絵本を観ながら英語を交えた物語を聴くもので、楽しく自然に入っていけました。当時では定番のThis is a penから入っていくのではなく、日常生活で使える英語に耳と自ら音を発することから入っていったことで、英語に対する抵抗がなくなったのだと後になって思います。 しかし当時、英語は中学生になってから。相変わらず成績がいまいちの私は、負い目を感じたまま成長していきます。小学5年生の時、たまたまちょっとだけ予習しおいたものが算数のテストに出て100点をとった時、先生からはカンニングをしたと決めつけられ、「自分のしたことをよく考えて反省しろ」とまで言われ、その時のショックと先生の顔は今でもしっかり覚えています。結局自分は、よくやっても認められない人間なんだと落ち込んでいる時、また救ってくれたのは英語でした。近所に横田基地に出入りしている人で英語がとても堪能な人が中学校の教科書をベースとして小さな英語塾をやっていると聞き、入れてもらいました。中学生になり、学校で英語の授業が始まるころには既に3年生の教科書で学んでいた私は、英語だったら「ボーダーライン落ちこぼれ」のイメージを変えることができるかもしれないと、希望が持てるようになりました。 それから中学、高校と英語はある程度成績を保っていましたが、他の成績はいまいちのまま。大学はその時、国際商科大学で入試が英語だけの制度があり、受験しました。小学生の時の2回の「英語との出会い」が無かったら、大学には行けてなかったかもしれません。 人生の転換期をつくるきっかけとなった大学時代 既に私は世間に対して反感を持っている若者になってしまっていました。学力だけで人を判断する風潮の強い世の中。自分の意見を殺し、訳の分からない校則を守って「良い子」を演じなければ孤立していってしまう子供時代。更に当時はバブル真っ只中。周りから認められるような「大学生」を演じ切るため、背伸びするのに疲れていました。人間関係にもうんざりしていた私は、その疲れていることにも気づかず必死だったようです。そんな大学2年の時、南オレゴン州立大学での夏季講習に参加します。これが全ての始まりになりました。 講習はわずか6週間。小さい頃から英語を上達させたいと思っていた私は、積極的に下手な英語を使いまくり、現地の人との交友を深めていきました。全てのことが初めての経験で、感受性の鋭い19歳の私には全てが新鮮でした。最も感じたのは、みんな自分らしく生きようとしている。違う考え方や行動に対してみな寛大で、お互いを尊重している。日本で少しひねくれてしまっていた私には衝撃的だったんです。そして、一般社会人の家族第一主義。当時の日本のサラリーマンは上司から「家族と仕事とどっちが大事なんだ。仕事に決まってんだろ」などど言われる時代。その時、「私は家族がハッピーになるために仕事をしている。それに障害になるのだったら、仕事なんて価値がない。」という声も耳にし、もしかしたら自分の居場所はここにあるかもしれないと思い始めました。その後、現地で知り合った人たちと連絡を途絶えないよう、手紙や電話等で交流を続けました。それと同時にその6週間の経験が衝撃的で、将来アメリカに移住することを妄想しはじめます。 しかし、「果たして、出来が悪いとレッテルを張られてきた自分にそんなことができるのか?」や「チェレンジする気持ちが強ければできるかもしれない」等と自問自答を繰り返していた大学4年生の時、ゼミの飲み会での三村先生との会話が私を勇気づけてくれます。先生が隣に座った時、私はその少し前に提出したリサーチを手抜きをしていたこともあり、気まずかったので、先制攻撃でこちらからそれを誤りました。そしたら先生は「横山君は能力があるのだから使わないともったいないですよ。」と思いもよらぬ返事が返ってきました。実は高校生の時にも一人だけ「本当は能力があるのに、それを発揮できていない。いつか発揮できる時が来るでしょう」と言ってくれた先生がいたのです。そういう風に言ってくれた先生って今まで2人だけですと話し、更には「でもそういっても、もう大学4年生。発揮できないまま学生終わっちゃいますね」と笑っている私に先生は「そんなの学生のうちに現れるものではありませんよ。当り前じゃない。横山君は本当にやらなければならない時が来た時に絶対やれるから。」と言っていただき、正直、いったい先生は飲む前から何を言ってるんだろうと思いました。「人生の転換期が訪れた時には自分を信じるように」とも言われ、その時いつかはアメリカに移住できると思った瞬間でした。あの時の先生には多少のお酒が入っていたかもしれませんが(笑)、あの言葉は大きいなんてもんじゃなかったです。 (大学の卒業式後のパーティー。左から3人目が三村優美子先生。右端が私) いつどのような形で移住するかという具体的なプランがあったわけではなく、というか、どのように立てたらいいかもわからないまま、就職活動を迎えます。特に強く進みたい業種や職種があるわけでもなく、迷っていました。そりゃそうですよ。20代前半の若者で、その後の長い人生の明確なビジョンを確立できているのは稀だと思います。そこで私は証券会社の営業職に決めました。理由は2つ。将来どのような道に進みたいのかわからない中、証券業ではより多くの業界の勉強を強いられます。その中で、自分にはこれなのではないかと思える業種を選別できるかもしれないと考えたのが一つ。そして2つ目は、当時証券営業は最も過酷な仕事のひとつと言われていました。社会人1年目からそれを経験しておけば、その後はどのような道に行ってもやっていけるのではないかと考えたのです。 卒業前に、空いた時間でオレゴンでの夏季講習から交流を続けていた人達を訪ねにポートランドに向かいます。その時、お世話になった友人の親友が、最近こちらで証券マンになったということで、私も証券会社に就職をするということで紹介されたのです。当時はバブル崩壊前でポートランドにも日系企業が160社以上あり、また日系富裕層も多少いました。幸いにも、その友人の証券会社は小さないわゆる地場証券。社長にも会うことができ、「ポートランドには日本語を話せるブローカーがいないと思う。とても価値がある。日本で少し経験を積んだら、こちらへ来たら面白い。」と言っていただき、本格的に将来こちらに来ることを意識します。 日本で就職も1年で渡米を決意 入社したのは明光証券。(現SMBC日興証券の一部)配属されたのは新宿アルタスタジオの隣にあった支店。中野坂上をテリトリーとして与えられ、ほぼすべての時間を新規顧客の開拓に走り回りました。そして1年が過ぎた頃、子供の頃らから感じていた世間に対する違和感に加え、理不尽ともいえる日本のサラリーマン社会が拍車をかけ、私は23歳の時渡米することを決意します。極端な縦社会と年功序列には特に反感を覚えました。年上の人を敬ったり、目上の人に対して敬意を表すのは日本文化の素晴らしい部分ですし、私も重んじでいます。ただ、それが極端すぎて、ほんとに仕事ができないし、実際してないのに歳を重ねてきただけで給料が倍だったり、営業においては自分より半分以下の成績の先輩のほうが給料高かったりで。だったら実力で勝負できる環境に行きたいと思いました。生意気な若造だったんですね。 明光証券にはニューヨークに駐在事務所がありました。まずはそこに行くことが近道かもしれないと思い、会社に、今すぐではなくても近い将来行かせてほしいと相談しました。2年目に差し掛かったにしては数字をあげていたので、問答無用はないだろうと期待していたのですが、かえってきた返事は想定外のものでした。「実はあそこは日本で使えないやつが行くとこなんや。英会話は上達するかもわからへんが、下手したら日本に帰ってくる場所が無くなってまうねん。お前は将来有望やから行かせるわけにはいかんのや。」でした。勢いのある大阪弁の反応に喜んでいいのかなんなのかわからないまま「わかりました。それなら自分で行きます」と言って辞意を伝えます。私のプランと目標を話すと、「わいは立場上止めなあかんのや。そやけど個人的にはそういうチャレンジは素晴らし思うねん。胸張って行ってこい。ただ、わいが止めなかったことは絶対内緒やで。それやったらお前の上司と人事にうまく言っとってやる。」と言っていただけました。当時はまだ売り手市場で、社員が減ることは管理責任を問われるので、退職は簡単ではありませんでした。もしその時退社にてこずっていたら、人生変わっていたかもしれません。この時本音で対応してくださった営業本部の方には今でも感謝しています。 しかし、内心怖くて震えていました。英語には子供の頃から触れていたとはいえ、かたことレベル。渡米した際には証券のBrokerとなる資格を取らなければならず、ビザの関係で、それに受からなければ帰国という条件。試験は6時間(500問)のテストで合格率は30%以下。ましてや英語を母国語としない人にとっては難度が増します。突破できたとしても、完全実力主義。数字をあげなければ容赦なく解雇。周りには「何夢みてんだよ」とか「お前は甘いよ」等、止める人の方が断然多かったです。三村先生にも相談しました。先生は背中を押してくれた数少ない人の中のひとりでした。決心する過程の中で私は、中途半端では無理だと悟り、親には「アメリカで何年か経験を積んで、日本で将来役にたてる」と安心させる為に言っていましたが、内心は帰ってくるつもりはありませんでした。これは、駄目だったら帰ってくればいいやという選択肢があると、どこかで甘えてしまうからです。 チャレンジを決心した理由は他にもあります。自分に少し苦労をさせないといけないと感じたのです。私の世代は高度経済成長後の生まれ。幸いにも中流家庭に育てられた私は、苦労というのは味わっていません。高校大学時代はバブルに甘やかされ、就職活動は当時「売り手市場」と呼ばれ、今では考えられないように学生がちやほやされ、なんの苦労もなく就職。その時点での人生を振り返った時、「このまま歳を重ねていったら、俺、嫌なやつになっちゃうな」と、ふと思ったんです。そして、1991年の春、就職の保証はないまま渡米しました。 足踏みからスタート よく「期待と不安で云々」という表現が使われますが、正直不安しかありませんでした。その不安は出鼻から的中し、飛行機を降りたことろから難関に出会います。実はその時、正式なビザは取得しておらず、観光ビザで渡米。これは説明すると長くなるので省きますが、先ず行かないと何も始まらないのでそれを優先し賭けにでました。案の定入国審査でひっかかり、数時間拘束されます。そのまま不正入国者の留置所に送られることは防げましたが、就職活動等は一切行なわないよう強い口調で警告を受け、ゲートをでました。在学中に夏季講習で知り合い、そして卒業前に証券マンのDarrell君を紹介してくれたSandy君が、数時間待たされたにも関わらず、出迎えてくれました。 この後、Sandy君は私に移民弁護士を探してくれたり、住む場所を確保してくれました。またその後の弁護士や証券会社との交渉の仲介などもDarrell君と協力し、2人とも公私ともに多忙な時期にも関わらず、私をサポートしてくれました。このサポートがなければ、間違いなく今の私はなく、彼らには感謝しきれません。彼らと彼らの両親、兄弟とその家族とは、今でも家族同様のお付き合いをさせていただいています。人生、誰でも大きな転期を迎えた時、キーとなる人に出会うものですが、間違いなくこの2人は、そうです。その出会いを提供してくれたのは東京国際大学です。その他多くの方々のサポートのもと、1991年の春夏を正式なビザ取得の為に費やし、手続き上一度日本に戻り、秋に改めて渡米しました。春に感じた変な胸騒ぎはなく、今度は純粋な挑戦に対する不安と緊張で、食事が喉を通りませんでしたが健康的な緊張でした。 (Sandy君、Darrell君とPortlandで証券マンをしていた時に遊びに来ていた私の母です) 証券取引ライセンス取得 まず、最初にやらなければならなかったのが、証券Brokerのライセンスの取得。これをしなければ、紹介してもらった証券会社からの雇用はありません。その時はビザの関係で転職の選択肢はなく、絶対条件でした。選択肢がなかったことが、逆に必死になれた要因だと思います。当時はインターネットは一般的に普及するかなり前で、日本からの情報など簡単に入ってこない時代。日本人の知り合いもいなかった為、日本語を話す機会等まったくありませんでした。それで集中できたのも事実です。テストに向け猛勉強を始め、今まで人生でこんなに勉強したことなかったように勉強しました。頭の中を英語にするため、寝る時はラジオをつけっぱなしにしたり、常に独り言を言っていたり、映画を英語の字幕でみて何度も同じところを繰り返したり、考えられることは何でもしました。やはりWall Streetは何回も観ました。会話を練習するために銀行の残高照会に電話をし、残高を聞いた後、世間話をしてみたり。必要の無いものをコンビニに買いに言って、店員と話をしたりと、人ってやけくそになると、結構いろんなことできるんだなと思いました。 その時ふと、三村先生に言っていただいた、「やらなければならない時がきた時」って今なのかなぁと、ふと思ったのを覚えています。そんな生活を7か月し、テストは3回かかってしまいましたが、何とか合格し、Stock Brokerとして仕事ができるようになりました。実は3回不合格となると、半年間は受験することができず、会社からはそれには待ってくれないことを伝えられていました。合格ラインからわずか5問差での合格だったこともあり、ほんとに首の皮が一枚つながった状況でした。1991年5月7日のことで、今でも全てのモーメントをはっき覚えています。ただ、その夜どれだけ飲んだかは覚えていません。 TIUAにご挨拶 この頃、ポートランドから約1時間程南のSalemという街に、東京国際大学アメリカ(TIUA)が開校して数年がたっていました。私は、Brokerライセンスを取得し、正式に就職したのを機に、ここに卒業生がいることを知っていただこうと、挨拶に伺いました。当時赴任していたのは川嶋先生で、よくお昼をご馳走になったり、ご自宅に夕食に招いていただいたり、よくしていただきました。川嶋先生と言えば当時、常時和服で通し、アメリカでも洋服は着ない主義。私の在学中もそうでした。私は、川嶋先生の洋服姿を見たことのある数少ない人間です(笑)。在学中は川嶋先生の授業は履修していましたが、なかなか直接話す機会はありませんでした。このような縁でお会いでき、いろいろとお話させていただいたことは貴重な時間でした。そして当時、事務局長をされていた卒業生でもある鳥原さんに、「ポートランドの日本領事館に先輩がいるぞ。会いにいってこいよ」と言われ、このサイトにもオレゴンから愛とかなんとか言って(笑)投稿されている島田さんに出会います。http://kasumikai-sg.rfsc.info/archives/1191 こんな遠くにいた近い先輩 さて、こうして始まったアメリカでの生活ですが、アメリカの証券マンは全て歩合制。多くの若者がアメリカンドリームを夢見て挑戦します。現実は大半が半年もたずで諦めていきます。私は離脱する選択肢がなかったので必死でした。当時は電話での飛び込みセールスからスタート。かたこと英語でセールスの電話をするわけですから、簡単ではありませんでした。人種差別的な言葉を浴びせられたこともあったりしましたが、あの手この手で何とか少しづつ顧客を獲得していきました。もちろん、日系企業も片っ端から周り、ポートランドだけではなくシアトルにも足を延ばしネットワークを広げていきました。電話帳から日系または日本人だと思われる人たちに片っ端にコンタクトし、顧客を獲得していき、順調かと思いきや、やはり厳しい世界。うまくいってある程度の収入を得られる月もあれば、ほぼ無い月もあります。家賃を払えなくなる危機になったり、冷蔵庫が空になることもありました。不調な月が続いてしまうと、ほんとに食べるのにも苦労しました。 そんな時、今では笑い話になっていますが、島田先輩宅へ、ちょうど食事をしているだろうと思われる時間に「ご挨拶」に現れるようにしました。心の中で「飯食ってく?」と言ってもらえるのを期待しながら、そんなことないふりを一生懸命してました(笑)。しまいには島田さんに「もう面倒くさいからうちに住んじゃえば?」と言われ、空いている部屋に1年程下宿させていただきました。ここでまた、東京国際大学を通して知り合った人に、危機を救っていただくことになり感謝しきれません。母親には今でも「島田さんには足を向けて寝てはいけません」と言われています。今では島田家とは自宅も近く、家族ぐるみでお付き合いさせていただいて30年になります。 日本社会に逆戻り Stock Brokerとしてのキャリアは何とか3年弱もったのですが、私にも潮時が訪れてしまいます。ただ、諦めたわけではなかったので、いつかは返り咲いてやると思いながら転職先を探しました。ですが結局取り敢えず落ち着いた先は日系企業でした。まだバブルに陰りが見えてきたとは言え崩壊前。優越感を持った日本の駐在員サラリーマンとその家族で構成された、閉ざされた独特な社会に身を投じることとなりました。社内ではいい上司や同僚に恵まれたのですが、業務上では顧客や取引先等は日本社会そのもの。異国の地に「造られた」社会は、日本社会の嫌な部分だけを凝縮させたような場所になってしまい、ドロドロした世界でした。 更に私は「現地の人間」と、見下されたりもしました。なんでアメリカ来てまでこんな思いをしなければならないんだと、悔しくなったり、Brokerとして成功ができなかった結果と沈んだりもしました。正直、2度と日本人社会と関わる仕事はしたくないと思ってしまいました。結果的にはまたひねくれてしまうこととなりましたが、この経験で、また牙が伸びてきてくれたのかと思います。 メディア業界に方向転換 1996年。また転機が訪れます。経緯は長くなるので省きますが、当時ポートランドにあったマイナーリーグ1Aの球団職員となります。元高校球児の私にはドリームジョブでした。面接に行った時、グランドに立ってここが職場だと思うとウキウキしたのを覚えています。業務はスポンサーセールスでしたが、マイナーの小さな組織でしたので、あらゆる経験をさせてもらいました。当時はまだ日本人選手がメジャーに多く渡る前でしたが、当時の監督や選手たちと私の日本での高校野球での経験をシェアしたり、日米の野球の違いの話が盛り上がったりしたのはとてもいい思い出です。確かに楽しめる仕事ではありましたが、決して安定を求められる仕事ではありませんでした。マイナーですので球団の移転や買収とはいつも隣り合わせ。また、収入はとても家計を支えられるものではなく、オーナーとGM以外は皆、ここで何かを学び、それぞれの道へ進んで行きます。経営側もそれを前提として運営しています。結局私も球団買収及び移転もあり、余儀なく転職先を探すこととなります。 Stock Brokerとしてのセールスや顧客管理の経験と、球団職員として経験したマーケティング、プロモーション等が幸いし、ラジオ放送局に転職します。再び、数字をあげないと解雇と隣りあわせとなるチャレンジングな業界でしたが、もう一回実力の世界で勝負したと思いました。ここでも山あり谷ありの2年半程を過ごしましたが、その時の顧客との縁で、当時シアトルに本社を置きNBAのシアトルスーパーソニックスのオーナーで主にシアトル、ボストン、マイアミに多数のテレビ、ラジオ局を保有する会社に紹介されました。その会社は他にもアウトドアメディアを展開していて、そのアウトドア部門で、ある地域を担当してほしいとAK Mediaという会社に誘っていただけました。業務そのものよりも、会社の理念や方針、人材育成に対する考え方等に共感できる会社がやっと見つかったと感じました。もちろん、ここでも数字が全てです。しかし、会社が自分と同じ方向を向いていると感じ、ここなら大丈夫だと確信しました。その後順調に過ごし、この会社に引退するまでいられるかもしれない、いや、いたいと感じ始めた頃、会社が少しずつポートフォリオを売却しはじめ、やな予感がしてきました。最初はNBAチームの売却でしたが、それはプロスポーツの世界なのでさほど気にはなりませんでしたが、少しずつ小さなアウトドアマーケットやテレビ局等を売却し始め、そろそろ大きな一発がくるなと感じでいました。 案の定2001年、ClearChannelという大手に売却されました。懸念していたのは、この大手のイメージが、私が転職を決めた時に共感した会社の理念や方針とは全く反対の評判だったからです。噂通り、会社の方針は反対に進み、職場環境は悪化。どんどん容赦なく人は切られて行き、2007年、私も耐えられなくなりました。タイミングは最悪でした。この数年前には自宅を購入。奥さんは妊娠中。収入は現在も含め、その時が一番稼いでいた時期だったので、仕事を辞めている場合ではなかったのは確かですが、あの時の精神状態では、いい父親になれないと感じました。人生何が大切なのかを考え直し、辞表を出すことを決めました。周りにはサポートとなる家族や友人がいたのでなんとかなっていましたが、精神的には疲れ切ってました。ここまで大学を出てから、自分なりの「成功」を求めて全力疾走し、余力がなくなったという感じでしょうか。この辞表提出で、一つの章が終わったような感覚さえありました。 ちょっとここで息抜き やはり私生活とのバランスがあっての人生。のめりこんだのはアイスホッケーです。私は東京小平の錦城高校で野球をしてました。甲子園出場経験はなく、当時は中堅レベルでした。何年かに一度は甲子園に出ても恥ずかしくないチームとなり、年の近い先輩後輩には、もうあと数歩まで行った年もありましが、私の時は数歩どころかマラソンより長いレベルでした。(笑)80年代の典型的な高校野球の厳しい世界を通ったことは誇りでもありますが、いろいろ後悔や疑問が残り、不完全燃焼状態でいたのですが、こちらに来て間もないころ、友人に誘われホッケーを観戦し、残り分を燃焼させるのは「これだ」と目覚めてしまいました。その影響で13歳の息子もプレーしています。少し前まで週2~3回氷上で暴れてましたが、最近ではコロナの影響もありますが、体力の衰えも顕著に見え始め、かなりスローダウンしてます。息子の練習を手伝ったり、息子のチームとパパ軍の試合に出たりするのが楽しみになっています。野球の指導もしてますが、こちらでは不完全燃焼を八つ当たりするわけにはいきません。(笑) (息子の野球チームと私) 冷却期間 それから数年は、元AK Mediaの重役数人と、私と同じようにClearChannelを去っていった人たちで立ち上げた会社でコンサルタントとして働いたり、知り合いのインターネット関連の会社を手伝ったりしていましたが、2008年の深刻な景気悪化もあり、なかなか安定したポジションに着くことができませんでした。しかし、この数年間は自宅勤務で時間もある程度自由に設定できたため、子供と出産時からずっと一緒に過ごすことができました。子育てをフルタイムで行うことができて、成長の過程を見逃すことなく過ごせたのは大きな財産です。子供が初めて笑った時、最初の言葉を発した時、最初の一歩を踏んだ時を見逃さなかったんです。仕事が当時は「最悪」だと感じた一連の出来事も、実はこのような時間を過ごせるように、必然的に起こったことなんだと感じてます。またこの数年は改めて自分のことを見つめ直す時間にもなりました。 若い時は誰もが「成功」というのを地位や収入と直接結び付けてしまいがちです。決して間違いではありませんし、それを最後まで追い続けるのもひとつの人生であり、ある意味持ち続けていたいパワーです。しかし、もっとバランスの取れた生き方があるのではないかと、この頃気づきます。日本の社会に反感を感じ、ひねくれてアメリカに渡り、こちらの日系企業での経験で更にひねくれてしまい、日本とは全く縁のない仕事をしてきました。日本で生まれ育った月日よりも、渡米してからの月日が長くなる時が近くなるにつれ、少し肩の力を抜いて、今まで経験してきたことを活かせて、より自然体に生きるのがいいのかなと感じ始めました。「いい歳こいていつまでも意地はってないで」と自分に言い、日本語を必要とする仕事も視野に入れはじめました。そして巡り合ったのがSurveyMonkeyというオンラインアンケートツールの会社でした。 活躍できる場所を求めて再出発 SurveyMonkeyは日本市場から2017年に撤退してしまいましたが、当時2010年は、日本語サイトを立ち上げる準備中で将来の日本市場進出を目指していました。そこで私は5年半、日本市場の開拓全般にかかわりました。プロジェクトは順調に進み、いよいよ日本支社を立ち上げる準備にかかった時、日本への移動を考えるよう相談されます。こちらでは、日本の会社のように転勤は一方的に命ぜられるのではなく、選択肢を与えられたり相談等、過程を踏むのが通常です。私は悩んだ末、やはり家族を優先し、こちらに留まることを伝えました。 会社の反応は、「それなら事実上の解雇」でした。ただ、「今辞められたら困るので、日本で支社長になる人をトレーニングしてからにしてほしい」とも言われ、酷な話だとは思いながら、そうした場合のボーナスに目がくらみ(笑)承諾しました。今度こそ長く居られる、いや、居たいと思える場所が見つかったと感じ、努力してきたので大変複雑な心境でしたが、人生そんなものですね。状況がレモンを投げつけてきたら、それを拾ってレモネードを作らなければ、先に進めないのだと。そしてこれも何かの理由があってのことなんだと言い聞かせて前を向くようにしました。 現在の職場へ 無事にその責務を果たし、さぁこの後どうするかと思っている時、現在の職場であるColumbia Sportwearが日本であるプロジェクトが進行中であることを耳にし、知り合いを通して紹介してもらいます。日米のビジネス文化の近いからくる溝があり、なかなかスムーズに事が進まないようでした。私は、今こそ今まで自分が歩んできた道を無駄にしない機会が訪れたのかもしれないと感じました。日本で生まれ育っていなければ、わからないことってもちろんたくさんありますよね。そして、ある時期はひねくれて日本と全く関係ない場所にいたかもしれませんが、そこまでどっぷりこちらの社会に浸かることで学んできたこともたくさんあり、またそうしないとわからなかったこともあると思います。ここで日本側と本社の間に入り、お互いの「声」となれるよう、常に新しいことへのチャレンジをモットーに勉強させていただいて6年目になります。数年前から、中国と韓国も担当するようになり、更なる勉強の毎日です。 今後の人生 自分ではまだまだ若いと思い続けてきましたが、現実には引退を考えるまであと10~15年。ですが正直まだ発展途上であると感じています。転職を繰り返した事で、現職に就いたのはわずか5年半前で、ベテラン感がないことがあると思いますが、今の自分を必要としてくれている場所に居ることができていると感じています。就職活動の頃、特に強く進みたい業種や職種があるわけでもなく、迷っていたといことを申し上げましたが、正直いまだにその状態であるような気がします。しかし、一日が終り、鏡に向かいどのように自分のことを感じるかが大事で、職種やポジション等はそれを受け入れられるものにするツールのひとつととらえています。そして、最初に何故自分がアメリカに移住したかったのかを改めて考えるようにしています。 自分らしく生きることができて、仕事よりも家族を第一に考えることのできる環境。だからと言って、20代の頃にあったような強い志を捨てなくてもいい、ある程度バランスの取れた状況に感謝しています。勿論、ある程度の犠牲はありますが、何よりも、子供の成長過程を見逃さなかったこと。今でも子供のホッケーの練習や試合はほとんど見逃しません。子供の野球チームの監督も毎年こなしてきました。それを仕事と両立できていることに満足しています。 私のメインプロジェクトは、今13歳の一人息子が家を出ていく時に、独り立ちできる準備をしてあげること。そして、そこまでの人生での後悔を最小限にできるようガイドしてあげること。渡米して30年、辛いことのほうが多かったような気がしますが、一度も後悔したり諦めようと思ったことはありません。ただ、同じこと繰り返せって言われたら考えちゃいますけどね(笑)。あの時、周りの声や恐怖心に惑わされながらも、何故あんなに渡米したかったのか自分でも不思議です。しかし、自分の内側から聞こえる声に耳を傾けたことで今があります。もし彼がそのような状況になった時には、的確なアドバイスができるようになりたいです。今息子はより高いレベルを目指し、400マイル(約650キロ)離れた地でホッケーをしています。親としてはお金はかかるし、毎週片道6時間の運転等、犠牲は少なくありません。彼が最終的にどのレベルまで上がっていけるかわかりませんが、終わった時に、できることは全てやりきったと感じてほしいのです。正直なところ、自分が味わって不完全燃焼になってしまった野球での経験を彼にして欲しくないというのが本音です。結構その後引きずってしまうんですよ。 私のこれまでの人生で経験した、良かったことと後悔や反省の両方がそこにポジティブに凝縮されていると信じ、今後も進んで行きたいです。また、それを可能にできている要因には、山あり谷ありで、不安定な時期も多々あった中、同じ価値観を共有し、いつも応援してくれた奥さんのサポートがあり、大変感謝しています。 (親子対決後の一枚) (横山亮信(あきのぶ)さんプロフィール) 埼玉県出身錦城高校卒業 1990年3月東京国際大学商学部卒業 三村ゼミ大学2年の時、南オレゴン州立大学での夏季講習に参加 1990年4月卒業後、明光証券入社。(現SMBC日興証券の一部) 1991年渡米。 ポートランドでStock Brokerとしてのキャリアを積み、現地の日系企業へ転職 1996年~ マイナーリーグ1A(ポートランド)の球団職員、 音楽ラジオ放送局、 AK Media/ClearChannel(アウトドアメディア), SurveyMonkey(オンラインアンケー ツールの会社)などに勤務 2015年~ Columbia Sportwear(ポートランド)勤務。サプライチェーンアナリストとして主に日本、中国、韓国をサポート*会社ホームページ https://www.columbia.com/ https://www.columbiasports.co.jp/(日本語) TIU 霞会シンガポール支部... Read more...“ オレゴンから愛”、異文化の架け橋に島田 昌己さん(1981年度卒業 商学部 高橋宏チュートリアル、山岡ゼミ ESS /ウィラメット大学1980年度卒業)2020年12月1日島田昌己さんは、1981年3月に国際商科大学(現東京国際大学)を卒業。在学中にウイラメット大学(ウ大)での第1回春期ゼミナール参加され、3年次よりウ大に編入。ICCとウ大留学でダブルディグリーを取得され、人生が大きく変わったと感謝されています。卒業後、Sonyに入社、26歳でオレゴン州への移住を決められ、日米交流の代理店業務や在ポートランド日本国総領事館に勤務。1993年からは現地法人東京国際大学アメリカにて ”ASP at Willamette University” で28年間、活躍されてこられました。パンデミック収束の先行きの見えない状況の中、今年の4月に退任されましたが、アメリカ社会に永住を決めて38年、日本人としてどんな貢献ができるかをこれからも考えていきたい、と述べられています。 入学した頃の大学のイメージは、他の伝統校に比べて革新的、躍動的で少数精鋭。外国人学生と楽しそうに語る大学生のポスターに「米国オレゴン州ウイラメット大学姉妹校」のコピー、案内には好きなドルフィンが。「国際」という文字がまだ新鮮だった頃、ICC(国際商科大学)は他の伝統校に比べて革新的、躍動的で少数精鋭、新しい形の大学として「Vision, Courage, Inteligence」を掲げ、英知と機動力が養える大学のイメージでした。 入学しやすく、学長をはじめ教授陣や職員の方々との距離が近く、あの時代の英語の達人3者の二人(國弘正雄先生、浅野輔先生)が教鞭を取られていて、留充実した留学プログラムと海外からの留学生との交流が盛ん。自ずから求めて努力すれば、刺激的な出会いや人生を変えるような経験を提供してくれる「打てば響く」大学と感じていました。 ICCが将来の選択肢を広げるきっかけとなり、幸せな人生設計に繋がる「出会い」や「機会」を提供してくれたことに感謝しています。姉妹校のウイラメット大学と同じく、人生にポジティブな変化をもたらしてくれた大学でした。 ICC(国際商科大学/現東京国際大学)とウイラメット大学留学でダブルディグリー取得によって、人生が大きく変わったと感謝しています。TIUの英語教育と留学制度を利用できてTIUとウ大にて素晴らしい教授、先輩、学友、そして後輩達に出会えたこと、大学の提供する留学経験が自己発見と価値観の確立につながり、進む道の選択肢に自信が持てたこと、幸せに繋がる人生設計ができたこと、価値観を共有できる素敵なパートナーに巡り会えて温かい家族を持てることに繋がったこと、幸せな人生を送ってこれたことなどですね。 将来を模索していた自分はICCに入学したことで、西海岸の隠れた名門、姉妹校ウイラメット大学(ウ大)に留学することができ、ダブルディグリー取得により進路の選択肢が海外にも広がり、人生が大きく変わった卒業生のひとりであることを感謝しています。 子供のころから海外へのあこがれがあり、外国留学できるようにとICCへ入学。新潟県長岡市生まれ。隣の見附市で恵まれた生活環境の中で育ち、小学校から高校までは野球、柔道、水泳、サッカー、剣道、少林寺拳法と体を動かすことに熱中した。外国映画や洋楽が好きで自分の求めているものが外国にあるのではないかと感じていた。 そして入りやすく、外国に近づけるような雰囲気のある大学であるICCに入学希望。入学前は少林寺拳法部に入り自己確立と大学の英語学習に専念しようと思ったが都内での学生寮生活で実感した実用英語力の無さと留学制度を利用して海外生活体験をしてみたいと思い、ESSに入部。何とか短期留学まで漕ぎ着けました。 ICC時代の第1回ウイラメット大学春期ゼミナールウ大新聞の集合写真 ウイラメット大学(ウ大)での第1回春期ゼミナール参加から、3年次よりウ大に編入。ウイラメット大学(ウ大)での第1回春期ゼミナール参加での強烈なインパクトが米国大学学位習得への新たな夢を創り、あの7週間での経験と出会いが長期留学への特訓の原動力となる。恩師と仰ぐ先輩や先生方のお陰で英語力と留学資金の二つの壁を何とかクリアーし3年次よりウ大に編入することができました。 現実は厳しく、現地では学位取得の勉強量に圧倒され、逃げることもできず、それまで経験したことがなかった苦しみを味わった。絶望感、疲労感の中で自分の弱さを見つけ、強さを悟り、覚悟を決めた後にやっと腹が座る。その後徐々に学業や留学生活が充実して行きました。 オレゴンとハワイ大学夏期授業参加時に出会った人々の暮らしを見て、家族との時間を大切にし、自然環境を敬うバランスの取れたライフスタイルに魅了された。自分の存在意義や生きる意味、そして幸せとは何かを模索し始めました。 ウ大少林寺拳法クラブ ウ大 Beta会クリスマスパーティ ウ大授業(学生国連)記事 ウ大卒業式 卒業後はSony日本へ入社。留学終了後、恩師の勧めと太極の流れには逆らわずに就職戦線に臨んだ。就職活動は思ったよりスムーズに進み、数社から内定をいただくが、尊敬する先生や先輩のアドバイスもあり、SONYに就職。 プロフィール、ベータ方式ビデオ、ウオークマン、コンパクトディスクプレーヤー等の絶盛期。躍動的な職場で同僚、上司に恵まれて仕事も刺激的だったが、10年20年先の企業人の姿も見え、激務の中で変わっていく自分にも気付き、オレゴンで知り合った妻と4年目に方向転換に踏み切りました。... Read more...失敗を恐れずに前進 フレドリクソン由貴子(旧姓、曽篠由貴子)さん(2001年卒業、国際関係学部 / ウイラメット大学2000年卒業)2020年11月2日初めての海外留学高校時代はソフトテニスでインター杯に出場するほどスポーツ少女でしたが年少のころから海外への興味がありました。きっと映画好きの父がディズニーのアニメーションを私にみせたことがきっかけで日本とはまた違う世界があるのだと子供心に感じでいたのかもしれません。私が進路を決めるにあたりTIUの充実した留学プログラムを知り、受験することにしました。 そして在学中にTIUAに参加したことが私の人生のターニングポイントであったといっても過言ではありません。19歳の感性豊かな時期にこのプログラムに参加できたことは、言葉にできないほど実りのあるものでした。文化の違いを経験し、生き方・価値観とは自分の生活する国・文化に大きく影響を受けていること、つまり絶対だと思っていた生き方・価値観はいとも簡単に書き換えることができるということを知り、無限の可能性を感じることができました。 その後大学三年のときにウィラメット大学への編入・奨学金試験に合格し、再度アメリカのオレゴンで社会学を勉強することになりました。一生の友人に出会い、その後の人生に大きな影響を与える気付きを得られたことは私の人生における宝物です。 (ウィラメット大学、WISH寮の友人達と) 社会人スタート、そして再度海外へ卒業後はネットワーク機器の販売・サポートを提供する株式会社ティ・アイ・ディに就職し営業として全く今までとは違う世界で社会人としてたくさん学ばせていただきましたが、社会学への興味を捨てきれず、2年後にロンドン大学ゴールドスミスカレッジにて社会学の大学院プログラムに参加しました。アメリカでの経験があるとはいえ、180度違う環境でした。自立して独自に自分の勉学を進める形で周囲のエリートたちに囲まれ、自信を失うことも多々ありました。また生活していた場所はロンドンでも2番目に危険な地域でかつあげ、麻薬を売っている人もおり、大学院生活を無事に終えられるのか心配もありました。 なんとか無事に大学院も終え、日本に戻るつもりでいましたが、その時につきあっていたスウェーデン人の彼、(現夫)についてスウェーデンの北、北極圏内にあるキルナ市に引越ししました。 (ロンドン留学時代のフラットメイト達と) スウェーデン、キルナでの生活のはじまりキルナは鉄鉱石の鉱山で有名な人口2万人ほどの町です。ここでスウェーデン語もろくにできない私が仕事を探すわけです。今までの勉学など全く役に立たず、あるのは鉱山関係の仕事ばかり。知識も経験もなく全く仕事がみつかりませんでした。最終的にインターンとしてあるホテルで仕事ができることになりました。 ここで大きなカルチャーショックを経験します。インターンといっても週末は一人でホテルの仕事をするのです。ペンションのような大きさで部屋数は13部屋です。とはいっても一人で朝食サービス、その後の片付け、そして部屋の掃除をし、合間にレセプションや予約の仕事、更にはカフェ・レストランも併設していたのでそこにお客様がきたらその仕事もこなし、夜はレストランの仕事でした。最初はコックがいたのですが、ある日突然現れなくなり、社長に電話をすると「メニューがあるでしょ。それを由貴がつくるんだよ。」というのです。スウェーデン料理だってまだ作ったこともない私がメニューだけでわかるわけありません。 3日間ほどお客様がくると「コックは病欠です」とごまかし、その3日間で料理をならいました。一人で働いているときにヒューズが飛び、お客様を真っ暗なレストランに残し、作業手袋をつけてヒューズを直したこともありますし、驚くことばかりでしたが、予想もしない問題を自分で解決することから自信がつきました。ただ大学や大学院で勉強したことが活かせていないとホテルのトイレ掃除をしながら涙することもありました。 その後、スウェーデン語をもっと勉強しようと一年間スウェーデン語学校に集中して通いました。その後も就職活動はさっぱりで、スウェーデン語学校で知り合った移民の友人の紹介でスーパーの量り売りお菓子を補給するパートタイムの仕事をしながら、正社員の仕事を探し続けました。職安にいくと中華料理のウェイトレスかダンプトラックの運転手の仕事しかないと言われ情けない気持ちと私を必要としている会社が一つもないことを悲しく思い、スーツケースに荷物をまとめて日本に帰ろうかという気持ちになりました。 (冬のある一日、こんなに雪が積もりなかなか出かけられない日も) キルナガイドツアーとの出会いそんな時、キルナガイドツアーという観光会社が予約オフィスのスタッフを探しているという話を聞きます。早速履歴書を送ると面接に呼ばれ、エネルギッシュで面白い、冗談ばかりいう社長に出会います。この彼との出会いが私のキルナでの生活をがらっと変えました。面接の時点ですぐに感じたのですが私を移民としてではなく、私の経歴、私の得意な部分を見てもらえた、そんな気がしました。それまでは苗字がスウェーデン人ではないという時点で対応がなんとなく冷たく、私がどういう人間か話すチャンスも与えてもらえないと感じることが多かったのです。この社長はのちにキルナ市長に当選するのですが(現在も市長)、とてもオープンで寛容で、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。 キルナガイドツアーで仕事をもらえて大喜びしたものの、翌日からいきなり電話対応、予約をすることになり、スウェーデン語学校にいったとはいえ、まだまだのスウェーデン語力の私には大変なことでした。緊張しすぎて周りの人に私の心臓の音が聞こえているのではないかと思うほど、ドキドキしていました。キルナは冬の観光シーズンで一年分の売り上げをあげるほど12月から3月の4ヶ月は戦場のような凄まじさなのです。ここにいきなり投げ込まれ一日何件もの予約をこなし、お客様の送迎をし、お土産屋でも仕事をしました。社長が私にチャンスを与えてくれた、これを絶対に無駄にしたくない、移民だから仕事がスウェーデン人よりできないと思われたくないという気持ちがとても強く、絶対に社長に後悔させないぞと頑張りました。 すると一ヶ月もしないうちに私の予約数が他二人の同僚の倍に達していることがわかりました。その後も色々なことがありましたが、このキルナガイドツアーが大好きで13年たった今でも勤めています。勤めてから3,4年後に予約課のリーダーになり、その後採用などにもかかわるようになり、会社全体のことも社長と二人三脚で運営していくようになりました。そして社長が2019年の市長選挙で当選したことをきっかけに、私が社長の役に就く事になりました。(株式会社Kiruna Guidetur オーロラツアー、スノーモービルツアー) 社長としての挑戦私が勤め始めたころは社員はスウェーデン人だけで私が唯一の外国人でしたが、この数年は様々な国籍の人が働いています。多いときは社員25名中、11カ国の違う国籍だったときもあります。私が社会学を学んでいるとき、色々な国籍の人と仕事をすることが夢でもありました。それはきっとアメリカ留学時代に各国の留学生と仲良くなり国を超えた個人同士の付き合いの素晴らしさを経験したからだと思います。なので国際色豊かな環境で働きたい願いはずっとあり、こんな北国の小さな町でそんな私の願いが知らないうちに叶ったのです。 国籍が違う同僚との仕事は刺激がたくさんです。価値観、宗教、それまでの生活、育ち方、すべて違いますし、仕事に対する姿勢は同じ国の中でも違うのですから、言葉で理解しているようでも誤解が生まれたりすることも多々あります。同僚の何人かはとても議論好きで責められるような質問をされてタジタジしてしまうこともあります。議論は議論ではっきり意見交換をすべきだと思う人が多いように思います。そして「私が」「僕が」そう思うのだから、という「個」を大事にしている価値観を垣間見ます。そういう個性の強さこそが会社の力でもあり、それをまとめてよい方向にもっていくというのが私のチャレンジでもあります。 でも不思議と違う国籍を超えた同じ目標にむかう仲間の間でのつながりが生まれているのも事実で、それを実感するときに毎回こんな環境で働けていることに感謝します。みんなの共通点はキルナの素晴らしい自然を色々なアクティビティで世界中の人に経験してもらいたい、そのために一生懸命仕事をする、そこでつながっているのだと思います。 (仕事中の風景) (フレドリクソン由貴子/旧姓、曽篠由貴子さんプロフィール) 埼玉県出身、昭和学院高等学校卒業 1995年4月 東京国際大学国際関係学部入学 1996年 TIUAプログラムに参加 1998年9月 Willamette Universityへ編入 2000年5月 Willamette University卒業 2001年3月 東京国際大学国際関係学部卒業 2001年4月 株式会社ティ・アイ・ディに就職 2003年8月 ロンドン大学Gold Smith College(大学院) 2004年8月 ロンドン大学Gold Smith College Master Degreeを習得 2004年10月 からスウェーデン最北のキルナ市に移住 その後2007年12月に株式会社Kiruna Guideturに就職 2019年から社長に就任 Kiruna Guidetur 会社ホームページ https://www.kirunaguidetur.com/ Vänortsgatan 8 98132 Kiruna Sweden info@kirunaguidetur.com +46 980 81110 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...タイこそ、我が第二の故郷 山本康貴さん(1986年卒業 教養学部国際学科 原彬久ゼミ)2020年10月22日1986年、教養学部国際学科卒業の山本康貴と申します。今回は、ご依頼を頂きまして、大学時代から今日に至る小生の歩みをご紹介したいと思います。 下羽ゼミ、原ゼミで学んだことは、仕事に対する取り組み姿勢や思考方法など、大いに役に立っています。 大学のゼミでは、1年:地域研究(中岡先生)、2年:国際関係(下羽先生)、3年・4年:国際関係(原先生)に所属しておりました。 下羽先生のもとでは、ホルスティ著「国際政治」を教材に、毎週1~2章分の内容を、ゼミ生が持ち回りでまとめ、授業の中で発表しておりました。発表の後、ゼミ生間でその内容について、議論するのですが、予習をしていないと、この議論についていけないのです。議論についていくためには、該当部分を読み込み、理解するだけではなく、引用先文献や、関連事項なども調べて臨む必要がありました。私の場合、毎週該当部分を3回から4回は、読み返さなければなりませんでした。その為、テキストとなった「国際政治」は、常に携帯していたため、先ず外箱が壊れ、次にビニールカバーが破れ、最後には、装丁が壊れてしまいました。 3年からの原先生のゼミでも、学習スタイルは、同じでした。但し、原先生のゼミでは、題材を固定せず、毎回先生のご指定になる教材について、その週の当番が、レジュメにまとめ、ゼミで発表していました。発表の後、内容についての議論を行うのも、下羽先生のゼミと同じでした。 原先生のゼミでは、授業とは別に大変貴重な体験をさせて頂きました。 原先生は、歴史上の当事者に直接インタビューし、歴史を再構築するという研究手法(オーラル・ヒストリー)を用い、日米安保条約改定の政治過程を研究されておられます。私は、幸せなことに、岸信介元首相や、藤山愛一郎元外相、その他上級官僚や、野党党首などのインタビューのテープを文字に起こす作業をさせて頂きました。正に歴史の当事者たちの発言に触れることが出来、気分が高揚したのを今でも覚えています。 下羽先生は、原先生のゼミ1期生だったので、下羽ゼミと原ゼミには、交流があり、夏には、合同合宿を行っていました。2年生の時に参加したこの夏合宿で、下羽ゼミを上回る原ゼミの厳しさに接し、大変驚いたのと同時に、3年からは、絶対に原ゼミに入ると、心に決めました。 下羽ゼミから原ゼミにかけて、学んだ国際政治は、直接今の仕事には繋がりませんが、仕事に対する取り組み姿勢や思考方法など、間接的には大いに役に立っていると思います。 卒業後は自動車部品メーカーに就職、初めてのアメリカ出張はハプニング続きでした。 1986年に大学を卒業した私は、現在勤務する自動車部品メーカーに就職いたしました。当時の当社は、技術者枠と、文系枠の他、海外枠での採用を行っておりました。技術者枠と、文系枠は、人事の担当者面接の後、一般常識試験と役員面接で選考が行われていましたが、海外枠の採用では、一般常識試験に代わり、英語の試験が行われていました。私は、自ら申し込んだわけではないのですが、人事の担当者面接の際、将来的には、海外関係の業務を担当したいと言っていたので、海外枠に回されたのかもしれません。 役員面接も、無事通過し、内定を頂くことが出来ました。 最初に配属されたのは、海外部海外課という部署でした。海外課では、当時3社(アメリカ、台湾、タイ)あった、海外関係会社に対する、本社側の窓口業務や、本社から供給する部材の受発注や、船積み手配を担当していました。その他、海外関係会社で、立ち上げる新製品の金型、治具、設備の開発管理も行っていました。私は、その中で、アメリカの子会社を担当でした。 当時を振り返って、印象に残っていることは、入社4年目に行った初めてのアメリカ出張です。この出張は、私にとって初めて尽くしの出張でした。初めての海外渡航であり、初めての航空機搭乗でした。初めて海外出張にもかかわらず、いくつものハプニングがありました。 先ずは、シカゴ・オヘア空港での乗り継ぎで、成田からの便が遅延し、国内線に乗り遅れてしました。初めての海外、初めての航空機搭乗で、乗り遅れで、私は真っ青になりました。このまま、進むことも帰ることも出来なくなってしまうのではないかと不安になりました。顔を真っ青にしながら、カウンターへ行き、国際線の遅延により、国内線に乗り遅れた旨を告げると、無事次の便を手配して頂けました。あの時の不安は、これまで感じた不安の中でも、最大のものでした。 2時間ほど遅れて、目的地であるコロンバス空港に到着することが出来ました。空港には、現地出向者が迎えに来てくれていて、無事合流することが出来ました。 コロンバスでの仕事は、つつがなく終わりました。次は、ミシガン州のバトル・クリークに、1986年に設立した現法に向かうことになっていました。しかし、都合の良い便が手配できず、07:30にデイトン(コロンバスから、クルマで1時間半ほどの距離)から飛び立つ便しか空きがありませんでした。朝コロンバスから、移動したのでは、乗り遅れる可能性が高いので、デイトン空港近くのホテルに、前泊することにしていました。 しかし、デイトンに移動する日、仕事が終わると、現地出向者数名が、競馬に行くということになり、私も同行することになりました。私は、競馬にあまり興味はなく、3レース程賭けて、飽きてしまいました。しかし、現地出向者は、当てた外したと大盛り上がりでした。 次の日が、早いので、私は早々に帰りたかったのですが、そのようなことを言い出せるような空気ではありませんでした。結局、お開きになったのは、夜の10時過ぎでした。 そこから、地図を頼りに(当時は、ナビなどありませんでした)、デイトン空港を目指しまた。私は、元来方向音痴なので、無事たどり着けるか、ここでも不安になりましたが、なんとか、その日のうちにホテルに到着することが出来ました。 ここで、大きな問題に気が付きました。07:30のフライトですから、06:00には、チェックインしたいと思っていました。しかし、そこで気が付いたのは、レンタカーのキーが、手元に残っていることでした。その時点で、既に日付が変わっていましたので、レンタカー屋も既に閉まっていると思われ、どうしたものかと思案に暮れてしまいました。取敢えず、ホテルのカウンターに電話をして、事情を伝えたところ、翌朝空港で返せば、問題ないとのことでした。 不安を抱えながらも、その日は眠りにつき、翌朝は、念のため、フライト2時間前の05:30に、空港に到着致しました。空港で、レンタカー屋のカウンターに直行したのですが、カウンターはまだ空いていませんでした。仕方がないので、カウンターの前のベンチで、待つことにしました。しかし、フライトの1時間半前になっても、1時間前になっても、カウンターは開きません。このままカンターが開かず、フライトに乗り遅れるのではないかと、不安は最大限に膨らみました。 フライト30分前になり、やっと一人の女性が、カウンターに入りました。私は、カウンターに駆け寄り、女性にフライトが迫っているので、直ぐに返却手続きをお願いしたい旨を、真っ青な顔で伝えたところ、女性は、指定の駐車場にクルマを停めたら、書類一式を駐車場のポストに投函すれば、後日クレジットカードで精算されるといい、何を焦っているのかわからないという顔でした。日本では、レンタカー返却に当たっては、傷などないか、入念な確認がありますが、かの地では、全くあっさりとしたものでした。あの死ぬほどの不安は、何だったのでしょう? 北米担当から国内カーメーカー担当を経て、2002年にタイへ赴任。 さて、私は、その後1995年までの9年間、北米担当を9年間続け、1995年4月には、国内カーメーカー担当の営業に異動することになりました。国内カーメーカー担当といっても、私の担当する機種は、海外生産の機種でしたので、引き続き、営業の立場で、海外と関わることとなりました。 この時期から、北米担当から、後に私自身が、赴任することになるタイ及び周辺国で生産される機種を担当することになりました。特に、当社のタイ現地関係会社にとって、非常に大きなプロジェクトの競合が、異動間もない時期に行われることになりました。この競合では、世界中の27社が、参加してコンペが行われました。 この競合をまとめるため、タイの現地関係会社に頻繁に出張することになりました。結果、無事当社が、そのプロジェクトを受注することが出来ました。受注をすると、受注した製品を開発する必要がありますので、その為、受注後も、頻繁にタイへ出張することになりました。そして、当該機種が、量産開始となる年の2002年4月に、タイに営業ジェネラル・マネージャーとして、赴任することになりました。(2004年イタリア出張、自動車メーカー本社前にて) タイ人の仕事の進め方には、戸惑いましたが、しっかりと相手の立場で、相手の言葉で、説明をすると、しっかりと理解してくれました。 タイでは、最初タイ語が話せませんでしたし、タイ人の考え方が分からず、右往左往していました。とにかく、タイ人とは、英語で会話を行い、意思疎通に努めました。しかし、納期当日に仕事が終わっていないにもかかわらず、平気で定時に退社するとか、判っていないのに質問してこないなど、タイ人の仕事の進め方には、戸惑いました。 この事態が変わってきたのは、私がタイ語を話すようになり、部下のひとりひとりと会話することが出来るようになった頃からです。仕事の納期についても、しっかりと相手の立場で、相手の言葉で、説明をすると、しっかりと理解してくれました。その後は、自ら徹夜までしてくれるようになりました。質問をしないことについても、こちらから歩み寄ることで、何を理解し、何を理解していないかを、判るようになりました。 私は、タイに9年間おりましたが、タイに赴任してくる日本人駐在員を見てきて、いくつかのタイプがあるように感じました。仕事を、全部抱え込んでしまう人、その中には、抱え込んだ仕事を自分でこなせる人と、こなせない人がいます。前者のケースでは、現地のマネージャー、スタッフは、育ちません。後者は、仕事に穴をあけるだけではなく、精神的に参ってしまうケースも見られました。 私が、目指したのは、現地のマネージャー、スタッフに、仕事の進め方を教え、やってもらうことでした。もちろん、やらせっ放しでは、トラブルが発生した際、対応が遅れてしまいます。そこで、常に会話を通して、仕事の進み具合を把握することに努めました。 手前味噌ですが、上記のような取り組みの結果、赴任当時主任クラスだった現地スタッフが、今では、ジェネラル・マネージャーを任させるまでになっています。 (2011年タイ駐在からの帰任時の送別会) タイでの駐在生活(単身赴任)は、9年におよび、赴任時8歳だった息子も、帰任時には、17歳になっていました。また、タイへの赴任時に、東京の本社にあった、私の所属していた営業部が、2004年に、秦野の事業所に移動になった為、帰任先は本社ではなく秦野事業所となってしました。その結果、国内でも単身赴任を続けることになり、単身赴任生活は、2020年現在、18年に及んでいます。 アジアからイギリス、ドイツ、アメリカ等で、仕事をする機会が増えました。 2011年に帰国してからは、再び国内カーメーカーを担当することになりました。国内メーカーなのですが、前述と同じく、国内生産より海外生産の方が多い状況ですので、中国や、タイ、そしてインドなどへの出張が多くなりました。 その後、2015年からは、日系以外のカーメーカーへの拡販を担当することになり、イギリス、ドイツ、アメリカ等で、仕事をする機会が増えました。特に、イギリスと仕事をすることが多くなったのですが、当初ブリティッシュ・イングリッシュになじめず、苦労しました。私は、アメリカ英語で育ちましたので、イギリス人の発音と独特の言い回しには、当初ついていけませんでした。今でも、イギリス人との会話には、苦労はありますが、以前よりは、理解できるようになったような気がします。 これまでグローバルな仕事に携わることができ、これからも成長を続けていきたい。 定年まで、3年となり、サラリーマン生活の最終コーナーを回っている感じですが、サラリーマン生活を振り返ると、海外関係の仕事に携わりたいという希望は、叶えられたように思います。また、いくつかの大きなプロジェクトも成功させる事が出来ました。現状に甘んずることなく、これからも成長を続けられるよう、最終コーナーを全力で走りぬきたいと思います。 (山本康貴さんプロフィール) 東京都出身 専修大学附属高校卒業 1986年3月 国際商科大学(現東京国際大学)教養学部国際学科卒業 原彬久ゼミ (第二キャンパス一期生、国際商科大学最後の卒業生) 1986年4月 自動車部品メーカーに入社 海外部海外課に配属される。 その後、北米担当、国内カーメーカー担当 2002年4月 タイ現地法人へジェネラル・マネージャーとして赴任 2011年 日本に帰任、国内カーメーカー担当 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...霞会事務局運営の思い出と躰道 池内和彦さん(1969年卒業 商学部第1期 西山忠三会計学ゼミ 躰道部)2020年10月12日池内和彦さんは国際商科大学(現東京国際大学)設立時の商学部第一期生です。 卒業後、株式会社ショーボンド建設、日本躰道協会本部に勤務された後、1987年東京国際大学(霞会)初代事務局長に就任され、2006年までの18年間、ご活躍されました。当時の霞会活動の活動や霞会事務局立ち上げ時の関係者皆さん方のご苦労などをお聞きしました。 また、学生時代から修練されていた「躰道」についても社会人となっても継続されており、世界躰道選手権大会 全日本躰道選手権大会 各種大会に出場して数々の実績を残されています。 最近は、ブログ「つれづれなるままに」掲載 5000日(閲覧数 550万回)やTAMC(東京アマチュア・マジシャンズ・クラブ)会員として、2004年より16年間(マジック出演 300回)、各種イベント、ボランティア活動なども積極的に行っていらっしゃいます。 校名が国際商科大学から東京国際大学となった1985年に、初代霞会事務局長に就任。1969年、大学を卒業後、ショーボンド建設株式会社に就職をして東京および仙台で勤務していました。 3年後、学生時代に修練をしていた躰道の本部となる東京の日本躰道協会へ転職して、組織拡充運営と実技指導者の専任として従事するようになり、全国の組織拡大と指導のために走りまわりました。 1980年、ボランティアとして霞会の常任幹事に就任して運営に携わっておりました。当時、同窓会費は永久会費として1万円を卒業生から任意に徴収しておりました。同期の三宅ヨシロウ常任幹事の提案により「同窓会費を学生が授業料を支払う時に預かり金として1万円ずつ徴収した方が良い」となり、大学側に折衝して承認されてから、同窓会費積立金は潤沢になり幅広い運営と活動ができるようになりました。 1985年に校名が国際商科大学から東京国際大学となるとともに新しく金子泰藏記念図書館が建設されました。「今まで図書室のあった管理棟2階の二部屋が空くので、同窓会で使用しませんか?」と金子泰藏学長より打診があり、同窓会役員会で検討して受け入れることなりました。事務室は提供されるが、専属の事務員が欲しいと協議した結果、日本躰道協会で組織運営に携わってきてノウハウを持っている池内和彦に専任として担当してほしいと当時の金子光男会長より打診がありました。同窓会役員会、臨時総会を経て、私は42才の時に、常任幹事から初代事務局長として就任することとなりました。それまでは、学生課の贄田課長が役員会からの要請で、パートの女性を雇って机と電話1台で同窓会運営を手伝っていました。専任の事務局長を招聘する時の給与対応も十分に配慮されていました。 霞会報の継続発行は、同窓会員からの反響は大きかったです。 いよいよ学生時代からお世話になった金子泰藏学長のそばで同窓会の仕事ができることに喜びを感じておりました。金子泰藏学長とは、大学の第1期生として入学したこともあり、卒業後も手紙などで現況報告をすると必ず返信の書簡を貰いました。躰道に関しても創始者である祝嶺正献最高師範とも意気投合して親しく交流をしており、全日本躰道選手権大会の行われた東京体育館にも観覧に来てくれました。私の結婚式にも来賓として出席いただき過分なるスピーチを頂きました。そのような金子泰藏学長でありましたが、私が霞会事務局を担当する早々に、突如、急逝されました。その日は会議が3つも実施されハードなスケジュールでもあったとのことでした。金子学長は80才の時でした。事務局長としての最初の仕事が青山葬儀場で挙行された葬儀告別式の参列となりました。 当時、大学のTIUニュースも同窓会報も作成が中断しているときでした。日本躰道協会時代に会報の作成及び編集に携わっていたものですから、同窓会員に対して、大学の創学者である金子泰藏学長の訃報を知らせなくていけないと考慮して、同窓会報を作成して全会員に発送をしました。以後、年2回~4回の定期発刊となりました。同窓会報で金子泰藏学長の訃報を掲載したことを知った大学も中断していたTIUニュースをこの機会に再発刊しました。同窓会報は当初タブロイド4頁のモノクロ版でしたが、最終的にはカラー刷りの冊子スタイルと発展させました。同窓会報はその後霞会報と名称を変えていき、毎号全国各地で活躍する同窓会員の模様を取材して採り入れていきました。その反響はとても大きかったです。組織の普及発展を考慮した場合、会員に現況を広報するものとして霞会報の発行はとても必要なものでした。 (事務局スタッフ体験者の卒業式あいさつ)(秋霞祭開催中、事務局に訪れた同窓生達と) 霞会の支部会は、当時は北海道と大阪の2支部だけでした。 私が事務局に就任した時には、霞会の支部会は北海道と大阪支部の二支部しかありませんでした。同窓会役員会(常任幹事会)では、事務局も設置できたことであり、全国に支部を創っていくこととなりました。各県に在住する卒期の早い人に連絡をして現地に赴き説明会を開催して、支部設立総会の開催についての打合せを次々にしてきました。日程と会場が決定すると同窓会本部で支部設立総会開催案内および出欠の返信ハガキを作成して支部の在住者へ発送をしました。そして支部会が全国に続々と設立していきました。その時の活動は、毎週のように土日は現地に出張して打合せを行い、そして支部設立総会と懇親会の当日にも出席して、霞会の活動について参加者に報告をして回りました。ほとんど休日もなく活動をしていた時でありました。現在の各地での支部会の活動ぶりを見ていると楽しくなってきます。 最近では、霞会シンガポール支部が世界各地で活躍する同窓会員の活躍ぶりをまとめてホームページを作成して広報をしております。霞会員の活躍ぶりを知ることは喜びに感じております。(霞会全国支部長会議、宮城県松島) ミステリー作家、横山秀夫氏(商11期卒)の講演会には800名の方が来場され大盛況でした。 霞会の主な行事として、6月には定例総会、講演会、懇親会があります。なかでも講演会は講師が同窓生が担当することもあり毎回好評であります。ミステリー作家として活躍している横山秀夫氏(商11期卒)の講演会には800名の方が来場して大盛況でありました。1月には新春の集いが開催されております。アトラクションでは、紙切り芸の林家正楽師匠、江戸物売り声宮田章司師匠など有名演芸人に出演をしてもらいました。また全国の支部や会員から提供された景品が当たる抽選会では盛り上がったものです。全国支部長会議は全国の支部が持ち回りで毎年主管して開催をしておりました。会議の後は懇親会となり交流の場となり、また翌日は主管県支部による観光案内なども実施しておりました。毎年、春と秋にはゴルフコンペがあり、時には大学側と合同開催する大コンペも由緒ある霞が関カンツリーカントリーで開催したこともありました。体育会OB会(藍旗会)とは定期的に交流会を開催して活動の互助体制をしておりました。また霞会正副会長と大学学部長、職員幹部との定期懇談会も開催して情報交換をしておりました。(ミステリー作家、横山秀夫氏(11期卒)講演会) 学生時代から修練していた「躰道」について社会人となっても継続しています。 大学在学中に修練をしていた「躰道」も、卒業後も継続して鍛錬するとともに指導を担当しておりました。 そして、躰道の大会には機会あるごとに選手として出場をしていきました。全日本選手権大会では連続して優勝をしました。全国社会人大会では東京国際大学のゼッケンを背中につけて出場し、優勝とともに栄誉ある「最高師範杯」を何回も獲得しました。全国の躰道指導者が集まる全国範士競技会でも個人の部、団体の部で優勝を果たしました。日米親善大会では選手を代表して宣誓を担当したこともありました。 海外で活躍をしている同窓生として、躰道部出身の内田光信氏(商学部4期卒)がおります。卒業後、アメリカに渡り、ネブラスカ州の大学を卒業すると、ジョージア州アトランタで「NAC」という会社を創り、日本とアメリカの企業のコンサルタントをしており、多くの政財界の人たちと交流を広げました。東京国際大学の理念に基づいて、世界に羽ばたいて活躍している同窓生の内田光信氏です。また、内田光信氏はアメリカ躰道協会会長として数千人の会員に躰道の理念と実技を指導しております。私もアトランタには、アメリカ躰道大会と世界親善躰道大会の時の二回訪れて選手として出場をしております。全国躰道選手権大会優勝(個人の部)(日米躰道親善大会で選手宣誓を担当)(国際躰道親善大会 アメリカ躰道協会会長の内田光信氏と) 常に、「吾 動く故に 吾在り」の根本理念を念頭にし、その精神で活動をしてきました。 私は18年間、霞会事務局長として組織運営に携わり60才の時に後進に譲り勇退しました。金子泰藏学長から「同窓会事務局が大学内にあることは同窓会との密接な関係が構築される」との提案により、事務局用の部屋を無償で提供していただいたことはとても大きかったです。そして卒業後は霞会員となる現役学生を毎年数名募集して事務局スタッフとして手伝ってもらいました。私が在職している間に約40名の学生たちがスタッフとして協力をしてくれました。 事務局長を勇退した後は、まだなかった霞会東京都支部(現首都圏支部)の設立準備に奔走して組織として立ち上げスタートさせました。その後、霞会常任幹事、評議員からも退いて、現在は首都圏支部の顧問として活動をしております。 母校・東京国際大学の同窓会(霞会)初代事務局長と勤務できたのも、入学第1期生であったことが大きな要因であります。第1期生の入学者は196名で、当初は、管理棟と校舎の二棟しかない国際商科大学(ICC)でした。教員、職員、学生たちが三者一体となってICCの名前を世の中に広めていこうとの精神がありました。 常に、「吾 動く故に 吾在り」の根本理念を念頭にし、その精神で活動をしてきました。 現在は、現役学生たちの支援に時間をとって活動をしていきたいと考慮しているところです。 (池内和彦さんプロフィール)1945年 東京都武蔵野市に生まれる 1964年 東京都立竹早高校卒業 1969年 国際商科大学(現東京国際大学)卒業 第1期生商学部 1969年 株式会社ショーボンド建設入社 東京および仙台にて勤務 1973年 日本躰道協会本部に転職 1987年 東京国際大学同窓会(霞会)事務局長に就任 2006年 東京国際大学同窓会(霞会)事務局を勇退 ◎学生時代から修練していた「躰道」について社会人となっても継続しており、各種大会に出場して実績あり。世界躰道選手権大会 全日本躰道選手権大会 全国範士躰道競技大会 全国社会人躰道優勝大会国際親善躰道優勝大会 日米親善躰道大会 等で優勝実績多数あり。 ブログ「つれづれなるままに」http://blog.goo.ne.jp/ikeuchi_1945 掲載 5000日 閲覧数 550万回 TAMC(東京アマチュア・マジシャンズ・クラブ)会員 所属 2004年より16年間 マジック出演 300回 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...「ポジティブ・チャレンジ・リスペクト」を信条にアメリカ駐在 通算15年以上! 三岡俊寿さん(1993年卒業 経済学部 国際経済学科、松村ゼミ)2020年10月1日皆さん、こんにちは。世界的なコロナパンデミックでニューノーマル生活を余儀なくされてご不便も多いこととお察しします。只今、2回目のアメリカ赴任をしており、通算15年以上となります!その間、コロナパンデミックの他にも、2001年の9.11同時多発テロもライブで経験するなど大きな出来事を肌で感じてきました。 そんな自分を振り返ると、日本のバブル経済崩壊後の就職難時期に当たる1993年卒業生。新卒募集も減少している中、「グローバルに活躍したい!」という信念を貫いて池上通信機株式会社へ入社、海外営業本部に配属されました。それ以来、ずっと海外畑にいます。入社後はアジア諸国の営業担当とアメリカ駐在を繰り返しており、2017年5月からは米国法人社長に就いております。今まで延べ22ヶ国を訪問し主に放送機器を放送局、学校、協会などへ販売してきました。 当社は放送機器以外にも、長年培った映像技術のノウハウと最先端技術を駆使して、医療用映像機器、映像監視機器、外観検査装置などを製造・販売しています。これら映像を軸としたメイドインジャパンの品質・サービスを世界に広めるために東奔西走しています。 放送カメラ納入先のお客様との写真。(ルイジアナ州ニューオーリンズにある教会) ここまで来るまで決して楽な道のりではありませんでしたが、驕ることなく 臆することなく前向きに取り組んできた結果が今に繋がっているのだと思います。 これもひとえにTIUでの学生生活を通して、「ポジティブに考えていれば必ず道は開ける、チャレンジ(努力)なくして前進なし、相手をリスペクトすることでリスペクトは得られる」という人生観のベースが出来たお陰だと思います。 漠然と海外に憧れた学生時代。 高校時代にまで遡りますが、帰国子女の生徒が外国人の先生と英会話をしているのを見て正直カッコいいと思ったことから始まります。それまで英語は一教科としか思っていなかったものが、海外の人と会話が出来るようになりたい、漠然とした海外への憧れを抱くようになりました。 大学受験では英語に力を入れているところを中心に受けたものの、悉く全滅し浪人することも覚悟していました。 そんな中、国際人育成に力を入れているTIUのことを知り、しかも、新設学部の「経済学部」で2次募集があり、最後の希望をかけて受験したところ、なんと合格!後もなかったので、正直拾われたと思ったのと同時に強い縁を感じました。今でも大学には感謝しています。 海外への憧れから現実に。 入学した1989年に当時では珍しい制度として、休学せずに長期海外留学ができるTIUアメリカ校(TIUA)が開校されました。正しく、国際人育成のため、より多くの学生に留学のチャンスを与えるこの制度に感銘を受け、迷わず応募し1年間留学することを決めました。 期待と不安を抱きつつの初めての海外は、スケールの大きさ、目に入る光景すべてが新鮮で感動したことを今でも覚えています。「憧れ・夢」の無形なものから、「自分の将来像」を形としてイメージし始めたときでもありました。 TIUA留学生活は自分の将来像の原点。 留学期間中はフィジカル面・メンタル面ともに鍛え上げられましたし、一番悩んだときかも知れません。渡米して意気揚々でいたのもつかの間、慣れない海外生活、英語も通じず身振り手振りの毎日、上達しないまま3ヶ月経過したころでホームシックにもなりました。そんな時、周囲の仲間に励まされ、悩んでいても仕方がない、やるしかないと気持ちを切り替え、各種スポーツ、フィールドトリップや集会などに積極的に参加してコミュニケーションを図り、留学期間が終わりを迎えるころには「グローバルに活躍したい!」という願望が芽生えるようになりました。TIUAプログラムは語学習得だけではなく、仲間とともに多様な悩みを克服し、刺激を受け合い、絆を深め、心身ともに大きく成長させてもえるソーシャルな場と言っても過言ではないでしょう! TIUとの不思議な縁。 実は、TIUと縁を感じたのは大学受験時だけではないんです。何の縁かわかりませんが、当時、広報課からの依頼で受験生向けパンフレットのモデル、大学紹介ビデオのメインキャスト4人にも選ばれて、慣れないポーズや演技をしたことを覚えています。受験生向けに大学の良さを伝えるために自分なりに一生懸命演技しましたが、今はちょっと恥ずかしくて見れないですかね。(笑) 今回も海外で活躍されている多くの卒業生の中から自分にお話を頂けたことを光栄に思い、寄稿させて頂いております。 発想の転換でポジティブに。 人生の中で出来ないことが多いのが現実です。ただ、出来ないことはやらない、やっても無駄、ムリと諦める人が多いのではないでしょうか。または、失敗したら恥ずかしいと思う人もいるでしょう。昔の自分もそうでした。では、発想を変えて、出来ないことが多いのが当たり前と思えば、恥じることもなくチャレンジしてみようと思えるかもしれません。 一見、ネガティブな発想と思われるかも知れませんが、角度を変えてネガティブなこともポジティブに置き換えることが重要ですね。勇気をもって一歩踏み出せば、出来るかもしれませんし、出来ないとしても、無駄な努力はないものです。きっと何処かで生かされるはず。一人で出来なければ力を合わせて皆でやれば良いことですし、物事を悲観的に考えないようにしています。今はコロナパンデミックで全体的に沈んだ雰囲気が漂っていますが、ポジティブに発想転換してネガティブを吹き飛ばしていきましょう! TIUA時代のBAXTER寮でのクリスマスパーティー。 (三岡俊寿さんプロファイル)静岡県出身、浜松湖南高等学校卒業 1989年4月東京国際大学 経済学部 国際経済学科 入学(経済学部1期生) 1990年 TIUアメリカ校(TIUA) 留学 (TIUA 2期生) 1993年3月 東京国際大学 経済学部 国際経済学科卒業、松村ゼミ 1993年4月 池上通信機(株)入社、海外営業本部に配属。 (1993年~東南アジア営業4年間、1997年~1回目アメリカ赴任8年間、2005年~アジア諸国営業8年間、2013年~2回目アメリカ赴任中) TIU 霞会シンガポール支部... Read more...地球のどこからでもお役に立って死ぬ人生田中素美さん(1987年卒 教養学部国際学科 青木外志夫ゼミ 体育会スキー部)2020年9月23日◆「体は資本」を地で⾏くことになるとは! この原稿がUPされる頃には、56歳になっています。もう20年近くよく⾔われるのが、「詐欺だ!」「ありえない!」「本当に◯◯歳???」です。いえいえ、あなたの⽬の前にいる私は「体の可能性のサンプル」に過ぎないのです。 2020年現在 ◆コンプレックスの塊も悪くない 現在の私は、ボディスタイルプロデューサー∕ジェロントロジスト∕社員⾃⾛型健康経営アドバイザーです。しかし、⽣まれつき右⾸と右脚が曲がっていて、顔の⾻もパーツもズレています。極度の冷えと顔の肌トラブルやアレルギーもあり、ハンデのある体で幼少期を過ごしました。加えて、11歳まで運動⾳痴でした。 ⼦供の頃からの憧れは「地球を⾶び回ること」。 ⽣まれた1964年は東京オリンピックの年であり、海外渡航の⾃由化がされた年です。テレビで流れるアメリカのCartoon番組やドラマにかなり影響され育ちました。⽇本とか性別とかカテゴライズされることが嫌いな⼦供でしたので、どの国にというより、地球⼈として地球上の⾏きたいところに⾏ったりきたりして暮らしたいと思っていました。 しかし、様々なことに挑戦してはうまくいかない。でもまた何かに挑戦する⽇々。好奇⼼と俯瞰して⾒る⽬があればどうにかなるという根拠のない⾃信はありましたので、コンプレックスさえも燃料とし挑戦し続けてこれたのだと思います。 ◆「天職」とはこういうものか 東京で⽣まれ育ち、私⽴の⼥⼦校で6年間過ごしましたが、共学に戻りたいことと⾃由な校⾵の匂いを感じ、TIUを受験しました。しかし、国際学科に⼊学したものの、地球を⾶び回るにはどうしたらよいか迷いが⽣じます。 結局、私の⽬標は定まらないまま就職活動に⼊りました。定まらないならそれはそれ、これからを⾒据えて必ず必要になるであろうIT業界(その当時は情報処理業界)を選ぶことにさっさと決め、勝⼿に応募し勝⼿に⼊社を決めました。現在のシンクタンク⼤⼿、㈱⽇本総合研究所です。就職課には褒められました。⼿がかからなかったからでしょう。 その後も⾃分の思いのまま⾃由に⾏動し、24歳より照明会社に移り、その後ニューヨークへ⾏ったりと、紆余曲折がありました。何に向かっていったら良いのか、少しわからなくなった時期が30代前半でした。 そして2001年、思いがけず健康予防美容の業界に⾜を踏み⼊れることになり、今年で20年⽬になります。12年前から東京銀座のプライベートサロンを⽴ち上げ、個別ボディプロデュースをVIP向けに⾏っています。しかし、まさかこんなに続くとは思ってもみませんでした。なぜならアンチ医療アンチ美容だからです。 神様は⾯⽩いことをするものです。「その様々な経験や思いをしてきたお前だからこそ、健康予防美容の仕事で⼈のお役に⽴てるからやりなさい。」と⾔われた気がしたのです。 ◆⾔いたいことを⾔うには経験値だ!法⼈へは健康経営を! 36歳で新しい世界への挑戦が始まりました。「⼈間の体の素晴らしさをどうやって伝えて いくか」「世の中の間違った情報にいかに惑わされているかを気付いてもらうには」「誰でもたった1年で健康で美しく強く変われることをどうやって腑に落としていくか」 とにもかくにも、経験を積み重ねる⽇々が始まったのです。今となっては延べで13000⼈の体を変えてきた経験と、⾃分の体を1年で変えてその後19年以上進化させてきた経験とエビデンスという、⼤きな貴重な価値を⼿に⼊れることになりました。 しかも、⾯倒くさがり屋で飽きっぽく、すぐサボろうとする癖のある私でも1年でできた⽅法を⼟台にしているので、誰でもできるという利点も⽣まれました。 「体を会社としたら、あなたは死ぬまで社⻑です。ところがほとんどの⼈はブラック企業なんですよ。」というような具体例をたくさん使いますので、みなさんが⾃分の事として捉えられるのです。⾃分の弱みや悪癖も変える必要はないので、誰でもできるということなのです。 例えば、⾛ることが嫌いな私が、この仕事のスタートと同時に2001年からフルマラソンを始め、年に3回は世界を⾶び回っていることも⾯⽩い事実だと思います。 2019年 Sundown Marathon そのマラソンですが、2014年からはシンガポールのSundown Marathonへの参加もスタートしました。暑い場所で⾛るのなら頑張れるという、ランナーとしては珍しいタイプです。有り難いことに、TIUシンガポール⽀部の存在を落合さんから教えていただき、翌年からは現地で⽀部の皆様との交流も楽しみの⼀つになっています。 2015年 Singapore そして、昨年から始めた、法⼈への「健康経営」の啓蒙活動も⼤事なことになりました。今まで私が考えてきたことと国の流れがやっと合致したのです。アメリカに遅れること15年ほどです。「社員の健康は経営資産」これを理解しない会社は後がないでしょう。そういう時代にすでに突⼊しています。 経営者や富裕層向けの【幻冬舎ゴールドオンライン】に、健康経営関係の記事を書いています。⾮常にわかりやすいと評判を頂いていますので、よろしければご参照ください。著者名「⽥中素美」で検索できます。 ◆地球のどこからでもお役に⽴って死ぬ⼈⽣ 2020年は、コロナという世界同時テロの様なことが起こりました。これは私達⼀⼈ひとり に、⽴ち⽌まって⼈⽣をよく考える時間を与えてくれました。もちろん私もその⼀⼈です。そのおかげで、以前から考えていた完全オンラインでの個別ボディコンサルティングを、待ったなしで始動することができたのです。個⼈だけでなく、法⼈のリーダーや次世代リーダーへも負荷なくできる⽅法です。 もしSNSがなかったら?これだけITが発達していなかったら?、と考えると恐ろしいです。神様はタイミングよく⼈間に問題提起をしてきますね。いろいろな⾓度で瞬時に突破⼝を考えることができるのも、TIUで培ったのかなと今は思います。コンプレックスだらけの私を、「そのままでいいんだよ」と⾔ってくれたのは、TIUの校⾵とニューヨークでした。7⽉30⽇にこのTIU Sparksへ寄稿されている中江くんは、国際学科の同期です。こんなにもテイストの違う⼆⼈が友⼈であるということ⾃体も、TIUの良さの現れではないでしょうか。様々なタイプの⼈が同等に存在することがTIUカラーだと思います。 私の夢は、「世界を⾶び回ること」から、「世界のどこからでもお役に⽴つこと」に変わりました。コロナのおかげで、どこにでも⾏けることがどれだけ素晴らしいことなのかも⾝に沁みましたので、⼩さなことでも私なりのお役⽬で努⼒していきます。 ⼈⽣100年時代、まだまだ時間はあります。私は、健康と美しさを⼿に⼊れることの資産価値をお伝えしながら、私ができないことで社会に向き合っている企業や個⼈へ投資できるような、そんな⾃分になりたいと今は思っています。 ⼈⽣を⾯⽩がりましょう! (⽥中素美さんプロフィール)⽥中素美 Motomi Tanaka ボディスタイルプロデューサー ジェロントロジスト(USC認定) 社員⾃⾛型健康経営アドバイザー Origin&Beauty 代表 Origin&Beauty (東京銀座) https://originandbeauty.com 幻冬舎ゴールドオンライン https://gentosha-go.com TIU 霞会シンガポール支部... Read more...国際物流業でアメリカ,ドイツ,オランダ3か国を経験 津田 秀さん(1991年卒,商学部商学科,高山ゼミ)2020年8月11日 1991年4月に西日本鉄道株式会社、航空貨物事業部に就職致しました。就職するまでは物流に対しての理解がなく、商学概論で学んだFOB、CIFなどのINCOTERMSすら忘れており、全くの新しい分野への取り組みでした。学生時代を通して海外に旅行も行ったことがなく、海外赴任など考えることもありませんした。 入社2年目で転機が訪れ、LOS ANGELESで研修生活を経験。 西鉄に入社し最初に配属されたのが、航空輸出を取り扱う営業所でした。新入社員なのに少し年齢が高かったこともあり、当時の所長から内勤の勉強もそこそこに即外回りに行けと言われ、右も左も分からいまま営業に出ていたことが今となっては懐かしいです。恥ずかしならが、お客様からの依頼で、FOBで出荷しておいてと言われ、FOBって?と聞き返すほどの“すっとんきょな営業マン”でした。ただ、明るさと、元気が良かったのでお客様、会社の諸先輩方に可愛がってもらい転機が訪れたのが2年目です。30年以上前から西鉄は海外研修制度に力を入れており、当時は毎年4人(現在は全世界に9人)をアメリカとイギリスに1年間研修生の派遣を行っておりました。社内試験があるのですが、当時の所長が推進してくれ、英語筆記と面接試験をまぐれで合格し、アメリカのLOS ANGELESで研修生活を送ることとなりました。自身で出来がよいと思ったことはないのですが、ここからが海外生活の本当の始まりかもしれません。研修後は東京に帰任し、2年営業所、2年新規顧客開拓を行う開発部隊を経験し、アメリカのNEW YORKへの赴任、厳密に言うとすでにアメリカ現地法人への出向となり、正式に海外駐在員となりました。 アメリカ(NEW YORK)からドイツ(DUSSELDRF)駐在で国際物流の経験を積みました。 NEW YORK時代は若さもあり、一番仕事をし、経験を積んだ時期かもしれません。物流業は朝が早く夜が遅いは通例で、朝は7:30に出社、帰りは日が変わり12:00が毎日、金曜日に至っては2:00か3:00の帰宅で、当時のはやり言葉である“花金”が本当に羨ましかったです。毎年の様に転勤の話が貰いながら結局NEW YORKでは9年間勤めました。NEW YORKからドイツのDUSSELDRFに転勤し、そこで3年駐在し日本に本帰国となりました。帰国してから毎年の様にマニラ、インドへの赴任の依頼を頂きましたが、当時持病があり赴任できる状態でなく、今でも完治はしておりませんが医師との相談上、海外赴任が出来るということで2016年に現在のオランダ社への赴任を受けました。 現在はオランダ勤務で5年目。既に赴任時の目標達成をし、後進に繋いでいきます。 オランダ社は今年で5年目になります。赴任した時は累積赤字と債務超過での借入金があり、まずその解消に翻弄し、2018年で累積赤字解消、2019年6月に借入金完済と、赴任時に挙げた目標を達成することが出来き、選んで頂いた会社にも恩返しができたと思っております。今年はコロナの影響もあり、苦戦が続いておりますが、何とかこの苦しい状況を乗り越え後進に綺麗な形で譲りたく思っております。 大学時代は全く出来の良い学生ではありませんでした。大学時代の友人、高校、中学時代の友人とも今でも交流があるのですが、“津田が海外、しかも現地法人の社長”と今でも驚かれる始末です。正直自分でも学生時代、そして就職前もこのような人生を歩むとは想像もしてませでした。西鉄人生も後10年を切りました。今後は後進を更に育て、西鉄の更なる発展を望んでます。 (オランダの日本企業対抗のサッカートーナメントの参加した時の写真です。) 与えられた仕事を精一杯こなし、そのこなした中から未来を見ることが大事。 西鉄での人生を振り返って、自分の生き方を考えると一つだけ自信を持って言えることがあります。それは遠くを見ないで、与えられた仕事を精一杯こなし、そのこなした中から未来を見るでしょうか。目の前のことをいち早く行うことが、やはり一番の近道かもしれません。それと人の繋がりを常に大切にしてきたつもりです。勿論学生時代の友人もそうですが、会社人生で出会った方々に支えられてきたのも事実で、感謝しかありません。初めて配属された当時の営業所長はもう10年以上前に引退されましたが、今でも年2回、囲む会を催して当時の仲間と飲んでます。 今の東京国際大学の学生さん達はもっと海外が身近になっていると感じてます。グローバルという言葉にも違和感がないのではないでしょうか。以前から東京国際大学はグローバルな試みを色々とやられているので、これからの学生さん達にはチャンスがあればどんどん海外に出て行って貰い、海外経験を通して、人、文化に触れ、さらに日本の良さ、日本人の素晴らしさを理解して頂ければと思っております。まだ海外赴任中ですが、3か国を経験してもまだ海外生活は刺激的で、勉強の毎日です。まだちょっと先ですが、引退してもこの経験を活かし、新たな事に挑戦したいと今から準備してます。 (津田 秀 / つだ しげる)さんプロファイル) 東京都出身、小平高校卒業 1991年3月東京国際大学商学部商学科卒業 高山ゼミ 1991年4月西日本鉄道株式会社入社、航空貨物事業部勤務。その後 ,アメリカLOS ANGELESで研修(1年間)、NEW YORK駐在(9年間)、ドイツDUSSELDRF駐在(3年間)を経て勤続29年。 2016年から西鉄オランダ現地法人、NNR Global Logistics Netherlands B.V. 社、社長就任、現職中 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...外交の現場に身を置いて 中江 新さん(1987年卒 教養学部国際学科第8期、原彬久ゼミナール、無線研究愛好会)2020年7月30日 皆さん、こんにちは。今回は宜しくお願いいたします。新型コロナウィルスのために日本でもシンガポールでも、そして私の滞在しております韓国でも厳しい状況にいらっしゃる方は多いと思います。是非、ともに生き抜く力を共有したいですね。 私は子供の頃から、こうしたパンデミックの問題に限らず、私たちの住む「地球」、「世界」の出来事に広く関心がありました。いろいろな国の海外放送を聴いたり、自分でも「発信」するためアマチュア無線なんかもしました。 東京国際大学原ゼミでの学問、そして人との出会いが今の道につながる。 勢い国際関係論を勉強したくなり東京国際大学(当時は国際商科大学)に入学。3年生からは、原彬久先生のゼミに入りました。そしてゼミで米国のジョージ・ケナンという対ソ封じ込め政策を立案した外交官について研究したこと、更に後になって恩師のお一人から「国際関係論や外交史を勉強したければ、実際に外交官をやってごらん」と背中を押されたことが今の道につながりました。1990年に外務省専門職員試験を受けたのですが、いろいろな大学の学生とともに勉強会を行い、試験科目の憲法や国際法、経済学等について教えてもらったことに今も感謝しています。 海外生活18年、外交官として韓国、カナダ、中国で勤務。 1991年4月に外務省入省。ちょうど米ソ冷戦が終焉し、地域情勢が不安定化するなど国際関係は変化の時期を迎えていました。地域専門外交官として私が担当したのが朝鮮半島。日本の安全にとりアジア隣国との外交の重要性に漠然と思いを致しました。今まで29年余りの外交官生活のうち国内勤務が11年、残り18年は海外勤務です。(1995年6月、慶尚南道巨済島にて) 1992年6月から2年間は、ソウルの在韓国日本国大使館付となり語学研修を受けました。前半は延世大学の語学スクールに通い、後半はその大学院で韓国の北方外交などを研究しましたが、夜、下宿の友人とフロアで車座になって飲みながら語り合ったり、韓国の地方を旅したことも良い思い出です。等身大のおつきあいはどこでも大事だと思います。 業務の中で歴史的な瞬間に出会うこともありました。 1991年5月、私は、韓国との国連同時加盟を拒否していた北朝鮮が南北同時加盟に舵を切ったという第一報をラジオプレスという海外情報モニター機関から伝えられました。これを課内で報告したところ、蜂の巣をつつくような騒ぎになりました。語学研修後の在外公館勤務は釜山の総領事館でしたが、海上自衛隊練習艦隊の初めての釜山入港の準備にも関わりました。2009年から3年ほど、中国東北部の瀋陽の総領事館で勤務していたときには、とある筋から金正日総書記が近々鉄道で中国を訪問する、という情報を得たこともありました。思いがけない話は突然飛び込んでくるものです。(1998年1月、北朝鮮の妙香山にて。KEDOと北朝鮮の協議の際に) KEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構)を担当していた1997年7月からの約2年半の間に、三度北朝鮮を訪問する機会も得ました。インフラが老朽化し豊かとは言えない人々の生活を垣間見る一方、物質に毒されない純朴な人々の情にも触れました。 ワールドカップ日韓共同開催の際には2002年日韓国民交流年を担当、続いてソウルの大使館で日韓国交正常化40周年を記念した日韓友情年を担当しました。当時、韓国における日本文化開放と、日本における韓流への関心増大とも相まって、伝統芸能からポップカルチャーまで両国の交流が幅広く活性化されました。日韓関係が困難でも、国民の交流という大義が忘れられることのないよう役割を果たせたことは良かったと思います。 カナダのバンクーバーにある総領事館で領事としてカナダ日系移民の皆さんと交流し、第二次世界大戦当時の苦労を理解すると同時に日系三世、四世の人々を日本に招待したこと、更には天皇皇后両陛下のカナダ公式訪問に携わったことも良い思い出です。 日韓関係、日朝関係について思うこと。 日韓関係について。2016年10月に二度目の釜山勤務が始まった直後、総領事館の前に従軍慰安婦の少女像が反日団体の手で設置されました。在外公館の安寧と威厳が損なわれるような行為が事実上黙認されています。この一例をとっても日韓関係は歴史問題をはじめ大変難しい局面にあることがわかります。日本として確固とした立場をもって現状の是正を求めること、特に日韓国交正常化から現在までの日本の韓国に対する取組というファクトを踏まえるようきちんと韓国側を説得する努力を怠ってはなりません。一方、日本と韓国は今後とも対外開放体系の中で生きるという共通の目標があります。また、両国関係も様々な交流が基礎をなしており、これらの点は両国関係の望ましいあり方を示すものです。 日朝関係について。北朝鮮は核、ミサイルの開発を放棄し、また、日本との間の拉致問題を解決することが、自ら繁栄に向けて舵を切る最も重要な方向性と思われます。日本としてそうした望ましい方向に進むよう、各国とも連携してきちんと説得することがますます大事であると心得ます。あの純朴な人民たちのためにも。(2013年8月、グランドキャニオンでの家族写真。ソウル、バンクーバー、瀋陽勤務の際は、家族で駐在)本を読もう、様々な世界を見て人と交わろう、後悔を恐れずチャレンジしよう。 大学時代のもっとも大切な思い出は、原先生のご指導の下、ゼミ生の間で大変真剣な議論を行ったことです。ゼミの結束も強く、卒業後も折に触れて先生、そしてゼミ生の皆さんと交流しています。私の場合は、仕事柄現役ゼミ生的な立場にあると思っています。私たちの教科書にハンス・モーゲンソーの「国際政治」という本があり、その中に「外交-調整による平和」という章がありますが、ゼミで学んだことは私の現実の仕事に生かされるべきものです。ゼミとのつながりは私にとって大変幸運でかけがえのないものです。 また、私には、大学や仕事を通じた自分自身の体験、達成したことも失敗したことも含め、特に後輩の皆さんに伝えていければという僭越な思いがあります。後輩の皆さんには、まず良く読書することをおすすめしたいと思います。そして自ら外に出て、様々な世界を見て人と群れずとも交わること、そうした環境に身を置くことを実行してみてはいかがでしょうか。そして、後悔を恐れずにチャレンジすること。そうして得た体験の中で私と共通するものがあれば大変幸いですし、違う体験をされれば今度は私がそこから学ぶことができると思っています。 長文にもかかわらず辛抱して読んでいただいた皆さんに感謝申し上げます。 (中江 新さんプロフィール) 1987年3月 東京国際大学教養学部国際学科卒業 1989年3月 一橋大学大学院法学研究科修士課程修了 1991年4月 外務省入省(平成3年度専門職員) 1992年6月 外務省在外研修員(大韓民国) 1994年7月 在釜山日本国総領事館副領事 1997年7月 外務省北東アジア課勤務 2000年1月 外務省文化第一課勤務 2003年8月 在韓国日本国大使館二等書記官 2006年1月 在バンクーバー日本国総領事館領事 2009年10月 在瀋陽日本国総領事館領事 2012年8月 内閣官房拉致問題対策本部事務局参事官補佐 2015年10月 外務省開発協力企画室室長補佐 2016年10月 在釜山日本国総領事館首席領事 2020年8月 帰朝予定 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...世界に通じるエンジニアリングでお客様に貢献する 高崎仁さん(商学部 第14期/1982卒業 塩浜ゼミ ローターアクトクラブ)2020年1月16日1982年4月 私は東京国際大学(当時国際商科大学)を無事卒業し、東証一部上場の機械専門商社 “第一実業株式会社” に将来は海外勤務希望という意志の元、入社しました。 商学部出身の自分で“セールスエンジニア”業務はできるのか?など不安の中、新人研修を終えると三菱重工業(株)製プラスティック射出成形機(精密部品は時計の内蔵歯車、大型製品では自動車用バンパーなど生産する)という生産財の販売担当として関東地区製造業顧客を中心に拡販に従事しました。 その後、バブル好景気以前からの円高状況により日本製造業のアメリカ進出担当としてCHICAGOに赴任し孤軍奮闘。自動車業界を中心に音響、映像製造業界顧客の北米進出窓口として全米中を出張し日々多忙な生活を送っておりました。 生産設備の受発注活動に始まり、製作手配、納期管理、輸出業務、通関代行、内陸輸送、開梱据え付け、試運転調整までを一貫担当するという業務経験の中、数々の困難にあい、国や人種の隔たりなく協力者のありがたさを痛感しONE-TEAMの大切さを実感。 その後はアジア半導体製造業界に担当変更。韓国大手財閥を中心に世界中へPANASONIC製半導体製造装置の拡販に注力。 2008年、その経験より第一実業(株)南アジアフォールディングカンパニー本社であるシンガポールに社長として赴任。東南アジア9か国10支店の運営を担当しました。 2011年には第一実業(株)執行役員を拝命。 シンガポールでは東南アジア諸国の民族、歴史、宗教、習慣、生活環境、通貨(当然)、経済環境の差を痛感しアジア全域の200名を超える現地社員との “同じ米穀を食す民族”との共通思想” のもと “何事も協働” という貴重な体験を得て東京に2016年帰任。 第一実業(株)本社産業機械事業本部副本部長を経て、現在(株)第一メカテック取締役。弊社(株)第一メカテックは第一実業グループのサービスエンジニアリング会社として製造、販販、サービス一体体制のもと、産業機械、電子半導体、資源プラント設備、創薬、航空設備、他あらゆる “ものづくり” の顧客に対し世界規模で対応し貢献していく企業です。 卒業後は20数年間まったく連絡しておりませんでしたが、2008年シンガポール赴任が決まりTIUのHPを拝見した折に、シンガポールにも霞会あることを知り、初代創立者の落合先輩にMAILにてお知らせ。赴任後当地にて歓迎会を開催していただきました。会社関係者以外知人のいない単身赴任者には大変ありがたかった記憶のもと、現在に至っております。その後2011年に前代の加藤さんより支部長を拝命し約4年間勤めさせていただきました。 学生時代は塩浜秀夫先生の貿易論をチュートリアルからゼミ迄4年間取得させていただき、学問のみならず色々教授いただきました。その後も毎年定期的にお会いし近況報告も踏まえ一献を継続。私どもの結婚式にも列席いただくなど現在も人生を教授(?)していただいております。烏滸がましいですが自分の座右の銘 “一期一会” はこのころ形成されたと自負しております。(笑) 思い出は、私の出張先のSAN-DIEGO(CA)で先生とお会いし、休日をご一緒できた事です。異環境での先生のご意見を伺えた記憶です。又ゼミの諸先輩、ローターアクトクラブの諸先輩をはじめ、定期的に交流+親交を深めさせていただいております。 2017年より現在の(株)第一メカテックに出向後、毎年TIUのOGを複数採用させていただいており, 語学力は勿論の事、国際感覚、順応力など弊社への貢献度も高いと評価を得ております。今後も留学生も含め採用継続はしていく所存です。 最後に2020年の支部長会議はシンガポール開催との事。これまでの皆様からの多大なるご支援とご鞭撻に感謝すると同時に、今後の益々のご発展を祈念しております。 アメリカのテスラ社(カリフォルニアの電気自動車メーカー)訪問時 シンガポール弊宅での霞会メンバーとのBBQ (高崎 仁さんプロフィール) 東京都出身、桜美林高校 1982年4月東京国際大学(当時は国際商科大学)卒業後、機械専門商社“第一実業株式会社(東証一部上場)に入社。 その後、アメリカ進出担当としてCHICAGOに赴任。 2008年から2016年まで第一実業(株)南アジア統括本社であるシンガポールに社長として赴任し、東南アジア9か国10支店の運営を担当。 2011年には第一実業(株)執行役員を拝命。 第一実業(株)本社産業機械事業本部副本部長を経て、現在(株)第一メカテック取締役。 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...入社3年目に初めての海外勤務、以来「フロンティア・スピリットの精神」で国際ビジネスにチャレンジ。 落合正和さん(商学部 6期/1974年卒、阿部光典ゼミ、アメリカンフットボール部)2019年11月27日1998年に国内の医療法人に再就職してから今年で単身赴任生活21年目になります。 ● 入社後に、海外での仕事をしたいと思われたきっかけは何でしょうか? 私がゼネコンの佐藤工業入社後に海外に携わるきっかけとなったのは、毎月発行される社報に連載されていた「シンガポール支店の工事報告」に自分の海外勤務の夢を重ね合わせていたことに端を発します。私の入社した年は、第一次オイルショック直後で新入社員は過去最多の270名を超しておりました(翌年から新規採用は激減)。新入社員の多くは国公立・有名私立大学の出身者で、卒業生を輩出してやっと6年目の新設無名大学出身の私が対等に競っていくためには何をしなければならないのか常に自問自答の日々でした。後輩たちの為にも絶対に大学の名を汚すわけにはいかないという思いから、自分が活躍できる場として海外に的を絞ることにはそう時間はかかりませんでした。アメリカンフットボール部時代に培ったフロンティア・スピリットのチャレンジ精神と体力にはだれにも引けを取らない自信があったからです。 ● 初めての海外赴任は入社3年目の25歳からと聞きましたが? 丁度そのころ、佐藤工業は海外建設市場の拡大を視野に国内職員の選抜を始めていました。当時の上司から「君は国際商科大学の卒業生だったね、語学が堪能ならば海外工事に興味はないのかな ?」との質問に『勿論希望するところです!』と即答。その1年後本社海外事業部へ移動。しかし、希望していた英語圏のシンガポール勤務ではなく、三井物産を中心とした日本企業連合とイラン政府との合弁石油化学コンビナート建設の国家プロジェクト(IJPC)の現場要員として未知の産油国イランに赴任することが決まったのは入社3年目の25歳の時でした。 イラン転勤の声がかかった職員の中には、灼熱の気候(夏の気温50℃超)、公用語(ペルシャ語)、宗教(回教)食事(羊肉)等大きな環境の違いから躊躇する者が続出しました。私を含め選抜された数名の事務系職員は本社で大量の建設資材をイラン迄輸出する業務を担当し、赴任までの3カ月間のペルシャ語の読み書きの特訓を受けた後、順次現地に赴任して行きました。当時は中東勤務者の一時帰国の社内規定も整っていない時代で、皆いつ日本へ戻れるか不安な気持ちのまま羽田空港から一路首都テヘランへ向け飛び立って行きました。案の定、我々よりも先に赴任していた先輩職員たちはあまりの環境の違いに適応できず脱落する者が続出、私は、着任早々欠員となった経理課長の代わりに急遽テヘラン事務所の事務担当を任されることになりました。 ● イラン・イラク戦争下の困難な状況の中での仕事も経験されたとか。 1976年テヘラン着任後私は、ペルシャ語の家庭教師として自費でイラン人秘書を雇い、事務所内ではペルシャ語以外は一切使わないようにしました(会話は勿論、書類も経理帳簿もすべてペルシャ語)。イラン革命の勃発で緊急帰国するまで(1979年3月)の2年間で習得したペルシャ語が革命時の内戦状態の中で、身の安全を守る最大の武器となるとは思いも寄りませんでした。革命による工事中断で帰国した後、1980年からは2年間サウジアラビア・ヤンブーで国内向け精油所建設工事の工事事務に携わりました。サウジアラビアから帰任後は革命で頓挫していたIJPCプロジェクト再開のための現地被害調査に2度にわたってペルシャ湾岸の建設現場に向かいました。当時はイラン・イラク戦争真っ只中、現場に着任後1週間で工事再開の情報がイラクに漏れ空軍によるロケット弾攻撃を受けた現場には一度も立ち入ることができず、日本人関係者は全員キャンプ内で監禁状態となりました。人質生活3ケ月後、日本政府とイラン革命政府の話し合いの結果、急遽現場から解放されることになりましたがイラク軍の攻撃を避けて現場からテヘランに避難するには陸路しかありませんでした。700名の日本人は15台のバスに分乗し月明かりのない闇夜の晩に無灯火の隊列で一路テヘランを目指しました。私は、先頭車両のイラン人運転手の通訳として同乗し先導役を買って出ました。翌朝朝日が昇る頃15台のバスは全て無事テヘランに到着することができ、この時また苦労して覚えたペルシャ語に助けられることになりました。 ● 中国、トルコ、ロシア、フィリピンをはじめ米国でもグローバルに活躍されてきたのですね。 帰国後は本社海外事業部で新たな海外市場開拓を企画しておりましたが、1986年、米国デトロイトでアメリカンモータース社のJeep組立工場の自動生産ラインを受注したことから、米国での新規事業展開の事務責任者として現地法人立上げから8年間初めて家族帯同で勤務することになりました。アメリカンモータース社がクライスラー社に統合され、契約は解除となりデトロイトからカリフォルニア(オレンジカウンティ)に移り新たに手掛けたのが不動産開発事業です。商業施設・事務所・集合住宅等の賃貸不動産を建設所有し、最終的にはロスアンゼルスの西部で総事業費250億円の会員制ゴルフ場付き宅地開発(Spanish Hills Golf & Country Club)を手掛けた後1994年3月に長男の高校受験の1年前のタイミングで日本に帰任致しました。 ● 後輩の方々へのメッセージをお願いします。 帰国後3年程国内支店におりましたが1997年に佐藤工業を47歳で希望退職。1998年より茨城県常陸太田市で医療法人の本部事務局長として18年勤務。現在は、グループの調剤薬局と医療コンサルタント会社を経営しております。華々しく、刺激的で且つ厳しい国際ビジネスからはしばらく離れておりますが、国際商科大学のVision・Courage・Intelligenceの教育理念は、常に新しい事に挑戦する際に私の指針としております。勤務の傍ら東京国際大学の同窓会活動にも参加し2009年から常任幹事、2012年から副会長を8年経験し、2019年4月より霞会の法人監事(任期4年)を務めております。 私の信条は、「フロンティア・スピリットの精神」です。未知の荒野を切り開いていく開拓者魂。東京国際大学の校歌の歌詞3番を聞くと今でも胸にこみあげてくるものがあります。 『叡智を誇るわが友は 信義に厚く学たけて 苦難の道を切り開き 7つの海に漕ぎ出でん 世界の国を翔けめぐり 勝利を歌えよ高らかに これぞ我らが母校 東京国際』 東京国際大学の現役学生の皆さんに伝えたい事は、自分は何がしたいのか、自分には何ができるのか、それを在学中に徹底的に追求して下さい。また母校を既に卒業した後輩の皆さんには、日本にいても海外にいても常に新たなことに挑戦する「フロンティア・スピリット」を忘れない開拓者であって欲しいと念じています。 (落合正和さんプロファイル) 1974年3月 国際商科大学 商学部(阿部光典ゼミ)卒業、アメリカンフットボール部(主将) 卒業後、佐藤工業株式会社入社 名古屋支店、本社海外事業部勤務。1976年から2年間イラン(テヘラン)赴任、1980年から2年間サウジアラビア(ヤンブー)製油所建設工事に携わるほか、中国・トルコ・ロシア・フィリピンなどでマンパワー市場調査業務。1986年に米国の現地法人を立ち上げ、ミシガン州デトロイトとカリフォルニア州オレンジカウンティに8年間駐在。1997年佐藤工業株式会社退社。 1998年から国内医療法人の本部事務局長、今年で単身赴任生活21年目。現在医療法人グループの調剤薬局と医療コンサルタント会社を経営。 2009年より同窓会常任幹事、2012年より副会長職を8期経て、2019年より法人監事。 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...30年を超える海外勤務で延べ50ヶ国のビジネスを開拓。 現在日本とヨーロッパのグローバルな架け橋構築中原田晃さん(教養学部 15期/1983年卒 小島ゼミ)2019年10月8日海外での生活が早34年目を迎えようとしています。前職の池上通信機(株)に1983年4月に入社し、1986年6月1日、26歳で初めてドイツに赴任。以来ドイツ25年、アメリカに3年弱、そして最期の赴任地シンガポールに3年と30年以上に亘って海外をベースに仕事に従事してきました。 その間、主に各国の放送局及び放送関係のお客様にカメラを中心とした放送機器の販売、監視用・医療用カメラ・モニター機器の販売、更には医薬品製造機器の販売と業界が異なる広範囲のビジネス分野で経験をさせてもらいました。特に思い出に残る仕事は1992年のスペイン・バルセロナで開催されたオリンピック中継用に当時最先端の放送カメラシステムをスペイン国営、地方公共放送局及び民放局向けに約700台を超える大型納入が出来た事です。 仕事で訪問した国もヨーロッパ・中東=30カ国、南北アメリカ=9カ国、アジア=9カ国と計48カ国となり、宗教、文化、政治、経済の異なる色々な国での貴重な経験を積む事が出来、また前職では全ての海外現地法人(ヨーロッパ、アメリカ、アジア)の社長を経験してきました。 2018年3月末、日本への帰任を一つの区切りとして35年間勤めた前職を58歳で早期退職し、第二の新しいビジネスマン人生の出発として”Connecting you between Europe and Japan”をスローガンに、日本のお客様の海外進出、またヨーロッパのお客様の日本進出のお手伝いをしたいと言う思いから2018年5月24日に個人事業主としてG-Bridge(コンサルティング会社)を立ち上げ、現在は日本とヨーロッパ(ドイツ)をベースに、アメリカを含む広範囲な地域を飛び歩いています。 大学時代に国際人を目指して学んだ事、社会人になって海外を舞台に仕事に従事出来た事は、一生の財産であり、一切無駄は無かったと感じております。そしてこれからも今までの経験を生かし、真の国際人として母校の発展、社会に貢献出来る様、頑張って行きたいと思います。 (原田晃プロファイル) 福岡県出身, 豊津高校卒業1983年3月末卒業 15期/教養学部国際学科 小島 千二郎ゼミ卒業後、池上通信機(株)に35年間勤務(ドイツ、アメリカ、シンガポール 現地法人社長、海外営業本部副本部長などを歴任)。G-Bridgeを2018年5月24日に設立し、現在はドイツ・デュッセルドルフをベースにコンサルティング会社を経営。兼 武蔵オプティカルシステム(株)執行役員 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...江戸庶民の味、天ぷらを今に伝える伝統の老舗「三定(さんさだ)」に、お立ち寄りください。 真田優さん(1983年卒業 商学部 野口衡ゼミ)2023年3月1日志望動機は、広々としたキャンパスと海外留学ができる大学でした 高校は千葉県市川市にある日出学園高校で、ラグビーや柔道を試みるスポーツマンでした。校長の勧めもあり、大学は都心でなく、郊外の環境の整った広々としたキャンパスのある大学を希望。もう一つの志望動機は、海外の大学へ留学できることでした。 1979年4月に国際商科大学(現東京国際大学)商学部に入学しました。入学後は、米国のウイラメット大学と英国の大学へ2回の留学研修を体験して、海外留学の希望はかなえられました。野口衡教授には1年のチュートから4年のゼミナールまで一貫して指導を受けていました。とても物静かな先生であり、今でも巡り合えてよかったと感謝しています。 大学生活では、英語のクラス仲間や先輩・後輩にも恵まれ、とても楽しかったですし、充実した時間を過ごすことができました。親しい友人として高橋時康氏、中野雅史氏、鈴木啓介氏、菅原誠氏、柳沼泰寛氏、成田成章氏らとは、よく行動を共にしました。また、米山昭一郎先生とそのゼミのメンバーとの交流も多かったです。当時、大学広報課の高島信六さんには、よく食事に連れて行ってもらい、いろいろと話をして交歓のひとときをもった良き思い出があります。 「三定」は、雷門近くにある日本で最も古い天ぷら老舗です 大学を卒業するとともに、すぐに家業の天ぷら屋を手伝うようになりました。今は江戸文化を今でも伝える浅草の雷門の横にある天ぷら屋「三定(さんさだ)」の七代目を弟と共に継いでいます。 「一に浅草、二に観音、三に三定の天ぷら」のキャッチフレースで有名な三定。地下鉄浅草駅からすぐの雷門の近くにある老舗です。三定の創業は、天保八年(1837年)。江戸時代の事でした。以来180年以上に渡り、天ぷら屋として最も古い暖簾を継承しております。 初代の定吉(さだきち)は、天保二年、同郷の先輩を頼りに三河(今の愛知県)より上京し、後に人形町の自宅前に天ぷら屋台をはり、三河屋定吉(みかわやさだきち)、即ち三定(さんさだ)となりました。明治18年に浅草寺の門前にある現在の場所に店を構えました。 (雷門通りに面した本館の入り口。お土産用天ぷらの販売も行っております。) (本館一階テーブル席) (新館大広間) 店内に飾られている三定繁昌之図には、三定が描かれています 三定店内のとある場所に飾られている、時代を感じさせる浅草寺界隈を描いた版画「東京名所之内 金龍山浅草寺真景」。江戸期ではなく明治21年に描かれたものですが、右奥に浅草寺の観音堂、中央手前には、三定と出入りするお客様が描かれています。行き交う人々や馬車、人力車などの姿から、当時の雰囲気が伝わって来ます。店内で見かけられた際は、ぜひじっくりとご覧になってください。 (浅草寺界隈を描いた版画「東京名所之内 金龍山浅草寺真景」に三定が描かれている)クリックで拡大 三定の天ぷらは江戸前天ぷらです 三定の天ぷらはいわゆる江戸前天ぷらでございます。初代定吉が売り出した、江戸近海でとれた小魚などに衣を付け、胡麻油で揚げて屋台で売り出した天ぷらは当時の人々に好評を博したと伝えられております。今日のわたしたちも胡麻油の風味豊かな天ぷらをお召し上がりいただけるよう、努力しております。胡麻油を用いる江戸前天ぷらは衣が茶色味を持ちます。当店独自の胡麻油で新鮮な素材を揚げた天ぷらは、芳醇な香りと軽い歯ごたえを持ちます。大根おろしと特製の天つゆでお召し上がりください。 名物メニューの一つに、貝柱と小海老を主とした“かき揚げ”があります。大きいものは直径30cmに厚さが5cmもあるので、お客様はびっくりされます。 定番人気メニューは上天丼、中かき丼、旬の天ぷら盛り合わせなど 【天丼】はみ出す程の海老や、芝海老と小柱をまとめ上げ、ボリュームたっぷりのかき揚げをのせた天丼は、天ぷらの盛り合わせとはまた違い、よりダイナミックで庶民的な人気メニューです。胡麻油で揚げて、伝統の天つゆをたっぷりつけた三定の天丼をぜひご賞味ください。 上天丼(小かき揚げ/海老/白身魚) 中かき丼(中かき揚げ/なめこ汁) 【天ぷら】魚介類などに小麦粉の衣を纏わせて油で揚げる、今の形の天ぷらが広まったのは、江戸時代前期のことでした。江戸庶民の食べ物として広まった天ぷらは、今なお人気の高い和食の一つです。胡麻油で揚げる伝統を今に伝える、三定の天ぷらをぜひご賞味ください。 旬の天ぷら盛り合わせ(海老/野菜/魚介) 竹定食(前菜/お刺身/天ぷら/焼物/茶碗蒸し/酢物/なめこ汁/御飯/香の物/果物) 浅草観光、観音様のお参りの際のお食事に、三定(さんさだ)にお立ち寄りください 三定は日本最古の天ぷら屋でございます。わたしたちは江戸の伝統を大切にしつつも、移り行くお客様のニーズにお応えできるように心がけてまいりました。これはひとえに、店の主人は必ず調理場に立たなければならない、という三定の掟によるものです。江戸時代の創業以来、わたしたちはこのオーナーシェフ制度を代々守ってきました。わたしたちには雷門の店があるだけですが、それは店主が店から目を離す事が無いようにするためです。 今は弟の息子である真田賢太郎も若旦那として家業を手伝ってくれています。味はファッションと同じで、時代によってお客さんの嗜好も変わってきますので、伝統の上に胡坐をかくことなく、いつの時代にもお客さんがおいしいといってくれるものを提供していきたいと思っています。守るべきは一筋通し、枝葉をアレンジするのも代々のオーナーシェフの役割です。 これからも私どもはお客様の声を大切にしながら、江戸の文化を守り続けて参ります。 浅草には年間を通じていろいろの行事があります。正月の初詣参りから始まり、5月の勇壮な三社祭り、熱気溢れるサンバカーニバル等など。祭りの日程に合わせて浅草に来てくれる人が多くなりました。浅草観光、観音様のお参りの際のお食事に、江戸庶民の味、天ぷらを今に伝える伝統の老舗・三定(さんさだ)にお立ち寄りください。特に同窓生の皆様には、ご来店の際にはお声がけをしていただけたら嬉しいです。 (真田優さんプロフィール) 1979年3月日出学園高校卒業(千葉県市川市) 1979年4月国際商科大学(現東京国際大学)商学部入学ウイラメット大学、英国大学へ留学・研修 1983年3月国際商科大学(現東京国際大学)商学部卒業 野口ゼミ大学卒業後、江戸前天ぷら「三定(さんさだ)」入店現在、家業を継いでいます。 (雷門三定ホームページ) http://www.tempura-sansada.co.jp/ 東京都台東区浅草 1-2-2 電話 : 03-3841-3200・03-3841-3400 東京メトロ(地下鉄)銀座線浅草駅 1番出口より徒歩1分 都営地下鉄 浅草線 浅草駅 A4 出口より徒歩3分 東武線 浅草駅(松屋デパート)より徒歩3分 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...たたかう!ランドスケープアーキテクト鈴木マキエさん(1995年 国際関係学部入学、長谷ゼミ 1996年TIUA、2000年ウィラメット大学卒業:BA in Art & Sociology)2022年12月1日1996年TIUA生、2000年ウィラメット大学卒業生の鈴木マキエです。 現在はシアトルを拠点とするランドスケープアーキテクチャー会社「GGN」の一員として世界各国の都市・地域開発やデザインプロジェクトに参加させていただいています。 獅子白兎のTIUA・ウィラメット留学生活 フィリピンやブラジル出身のご近所さんが多い地区で育った私は、子供の頃から「広い世界が見たい」と漠然と留学を思い描いていました。が、しかし、その夢とは裏腹に、英語も含めテスト直前に詰め込み乗り切る「横着者」にグングン育った結果、進路決定時に正規留学は難しく、幅広い英語レベルの生徒を受け入れているTIUAプログラムに惹かれTIUに入学。ろくに英語ができないままオレゴンへ行くことに! そこで学んだのが、私の英語力では宿題を適当にやって無難な成績を取ることは不可能ということ!要領で流すことは通用せず、人生初めて真正面から勉強に取り組まなければいけなくなってしまいました。これを機に一生懸命勉強することが楽しくなったのは私の人生を変えた大きな出来事でした。 寮でも日本・アメリカ・海外からの留学生問わず一生懸命友達作りに励みました。当初、無口で小柄な私に対するアメリカ人の第一印象は典型的なおとなしい日本人。単に英語が話せなかっただけなんですが。。。 笑) 面白い冗談が言えないのはまだしも、かなり面白い冗談で笑わ(え)ない私を、「面白好きなヤツ」と理解してもらうのに当初はかなり苦戦しました。が、出川哲郎流さんも推奨の「魂で話すアプローチ」で交流し、少しずつ友達の輪を広げていきました。友達を作るのに人生で一番努力したのはこの時だった、と感じます。 Willamette University International Dinner 国際留学生の皆と。 努力の成果もあり、寮を追い出される夏休みはアメリカ人の友達数人の家に寄せてもらい貴重な経験をしてきました。中でも印象的なのは、制限速度のないモンタナで友人が仮免中だった私に運転練習させてくれた際、日本ではありえない古さのバンのギア変更が難しく、急な山道の下り坂カーブでスピードが出すぎ同乗者全員(2021年の投稿者飯島さん含む)が「殺す気かー!」と恐怖に陥った件、ワイオミングの友人の牧場で映画「The Horse Whisperer」のモデルになった馬小屋に寝泊まりしたワイルドな日々、牧場到着と同時にオーストラリア出身のカウボーイ達に向こう訛りで「%$x0&*#パレード行くか?」と聞かれ、「Yes]と答えたら馬車にポーンと乗せられ、見物に向かうと思いきや沿道に現れた大勢の人々に手を振られ、パレード登場を果たしていたドッキリ!事件、日本人の名前が覚えられない友人の伯母さんに「ジュリアロバーツ」というニックネーム(?)で呼ばれ、田舎街で名前を耳にした人々を「えっ、どこにいるの?!?!」とキョロキョロさせた件などなど、今でも集まれば話題に上る武勇伝がたくさん誕生しました。 TIUAやウィラメット時代を振り返ると宿題一つから友人関係、日常生活に至るまで何においても一生懸命、獅子白兎で立ち向かった日々だったと感じます。ここで培った頑張る精神は後の過酷な建築系大学院の時代を乗り切る基礎にもなったと思われます。 ワイオミングでのカウボーイライフ。 発見!ランドスケープアーキテクチャー ウ大卒業後は憧れの街サンフランシスコへ。直接仕事に繋がる専攻でなかったこともあり、就職難に直面。そこで公園を通じて地域向上を目指すNPOで研修生をしながら社会に役立つ専門分野で大学院に進むことを考え始めました。NPOで担当した土地利用調査や市民参加型公園計画の企画、公聴会への参加などがきっかけで、都市計画に興味を持ち、大学院進学を念頭にカリフォルニア大学バークレー校のキャリアフェアに参加。申し込みの際2つの学科のセッションが選べるんですが、都市計画の他にもう一つ「なんだろ、この学科?」レベルで選んでみたのがランドスケープアーキテクチャーでした。軽い興味で受けたセッションでしたが。。。 実は社会学や環境のみならずアートも絡んだ面白い分野であることが発覚!早速心変わりし、大学院はランドスケープアーキテクチャーに決定! 翌年、都市での環境デザイン、コミュニティーデザインが強いシアトルのワシントン大学に進学。大学院ではイタリア、中国、台湾などに短期留学。神戸でも震災復興後のまちづくりに参加するなど、多忙でしたが様々な風土、文化、そしてデザインプロジェクトを体験できました。最終的にはランドスケープの修士号に加え、都市計画学科とコラボのアーバンデザインサーティフィケイトも取得し卒業しました。 日本語ではランドスケープアーキテクチャーという分野を包括する言葉がなく、緑化、造園、園芸などと部分的な面で訳されてしまいますが、庭や外構だけでなく、色々な分野と連携を図り都市や地方、コミュニティと一緒に地域のビジョンを打ち立てていくという大規模なスケールや公共空間、グリーンインフラに関わるプロとしても活躍している分野です。 キャリアで学ぶ SASAKIサンフランシスコでは、実戦でスキルを磨く 卒業と同時にサンフランシスコに舞い戻り、SASAKIという建築、土木、インテリア、エコロジストなど多分野が存在する総合設計オフィスに就職。関係分野の専門家と身近にやり取りしながらプロとして必要な知識やスキルを学びました。最初に取り組んだプロジェクトの一つ、アメリカ最大級の港、LA港の工業地区に大きな公園や遊歩道を作ったプロジェクトでは長年工業地帯に住んでいる人々の住環境の向上に貢献できたことに加え、多数の賞などをいただき、キャリア初期から有意義で面白いプロジェクトに恵まれ幸運でした。 しばらくするとバージニア大学に移った大学院時代の恩師から常勤講師をしてみないかと声をかけていただき、挑戦を決意。1年半程働いたオフィスから半年間の休職許可をもらい、大学のあるシャーロッツビルへ引っ越しました。 バージニア大学で初めての教鞭を取る アジア人、女性、英語が訛っている、(他の先生と比べて)若い、小さい。。。 私という人物は登場した瞬間に「立派な先生だ」という印象を与える要素は皆無です。想像通り指導者としてのリスペクトを得るのが最初のハードルとなりました。多くの助言や応援の中で、特に響いたのが「全てを知っている必要はない。教える相手より一歩先を行っていれば、その一歩について教えることができるから」というものでした。リスペクトを得るために無理に先生らしく振舞ったり、本来の自分より大きく見せたりする必要はない、自分の貢献できる形で自分らしく頑張ればいい、と思えた言葉です。 結局、当初半年だった予定は2回の延長により2年近くになり、徐々に自分の教えるスタイル的なものが見えてきました。豊富な現場経験のある指導者が少ないのが弱みだと学生時代から感じていた私は、現場の知識や経験を共有できる先生になりたかったので、もっと実践経験が必要と考えていました。そんな時、徐々にリーマンショックの波及を受け教員志望者が急増。それを機に現場復帰を決断。不景気真っただ中で元のオフィスは苦戦中だったので、元上司が移動した先のボストン本社で再就職となりました。 バージニアでは試行錯誤の日々でしたが、ご指導いただいた先生方や今では友達・同僚になっている生徒達のおかげで充実した日々を送ることができ、いい思い出となっています。この経験は現在客員教授をさせてもらっているワシントン大学でも生かされています。 バージニア大学の生徒たちと。 SASAKIボストンでは、中東やアジア各国の大規模開発、街や各地域のビジョン形成や骨組みのデザインなどに取り組む 現場復帰したボストン本社ではアジアと中東を中心に都市デザインや大きなスケールのマスタープランなどを担当しました。アーバンデザイン、建築、土木、エコロジーの専門家と一緒に中東やアジア各国の大規模開発、街や地域のビジョン・枠組み形成や空間デザインなどに取り組みました。 ヨルダン側の死海、4000haのマスタープランは中でも思いで深いプロジェクトです。世界一標高が低い「死海」はそのユニークな成分で体が浮くことや貴重なバスソルトとして有名ですが、その珍しさは水自体だけではなく、ワディと呼ばれる渓谷や、希少種達が利用する広大なタマリスク(低木)の森などの周辺環境にも及びます。農業発展による水源ヨルダン川の水量低下に伴う死海の水位低下は年に1mにも及び、毎年ビーチがリゾートから遠ざかってしまう問題、テロ防止策で立体/地下駐車場設置が困難で歩行者環境が厳しい点やセキュリティ管理が水際を私有地化している問題、必要な真水と汚水の再利用のバランスが取れた開発スピードの調整などなど、社会的課題も特殊でした。 中東のマーケティングの専門家や環境エンジニアも交えた専門家チーム全員で環境、政治、経済、テクノロジーなど全ての面に渡り、どうしたら現在の問題に答えながらも、より良い未来の可能性を守っていく持続可能なデザインができるか検討し、死海という場所にしかない良さを基軸に、真珠のネックレスのように小さめの開発を要所に展開し繋いでいくストラテジーを考案。ヨルダン初の環境アセスや住人公聴会も開き、地元民やリゾート従業員のための機能的で活気ある本物の街づくりも提案しました。 初めてリード的なポジションで、自分の力不足を痛感したプロジェクトでしたが、とても多くの学びがあり、個人的に大きく成長できたプロジェクトでした。 Dead Sea Development Zone Detailed Master Plan(提供:SASAKI Associates) GGNシアトルで、数か国の興味深いプロジェクトに携わる 多数のマスタープランプロジェクトを経て、実際の建設経験を求めて、コンセプトから建設まで丁寧に手掛けることで有名な現在の会社GGNに入社。シアトルに戻り早10年、時折ワシントン大学で教えながら、アメリカ全土や数か国に渡り大学やハイテク企業のキャンパスや複合開発、会社の無償活動を利用したNPOによるホームレスの住居プロジェクトまで幅広く興味深いプロジェクトに携わらせていただいています。2018年のコンペ時から参加している大阪の「うめきた2期」もその一つです。 うめきた2期。GGNチームはプロジェクト全体のランドスケープビジョンからコンセプトレベルのデザイン、都市公園区画は詳細までリードデザインとして担当 うめきた2期開発は2024年先行オープン、2027年完成予定の複合開発で関空と大阪駅をつなぐJRの新しい駅の真横に位置している計9haのプロジェクトです。敷地の中心に位置する4.5haの都市公園の他、商業やインキュベーション施設、コンベンションセンター、3つのホテルに2つの住宅棟なども含めた街区となる予定です。 詳しくはオフィシャルウェブページもあるので是非ご覧ください:https://umekita2.jp/ 私達GGNはプロジェクト全体のランドスケープビジョンからコンセプトデザイン、都市公園区画は詳細までリードデザインとして担当。クライアントとなる事業者9社をはじめ、複数の建築事務所を含む日本のデザインチームと共にデザインに取り組んでいます。 GGNの特徴としては与件や機能面のみならず、独自のデザインプロセスによりその土地の普遍的な本質を探り出し、模倣やコピペではない、その土地にしかない・その場所で一番輝ける本物のデザインを提案していく点です。 歴史・文化、社会環境、生物多様性など色々調べると「何もない」とか「価値のない」場所などなく、どこでも興味深いストーリーや地元の人が自分の街を感じる瞬間が存在しています。それをどう可視化し、機能・与件、自然環境やコスト、そして様々な人々の意見などとのバランスを取って表現していくか、プロジェクト一つずつ丁寧に検討していきます。 もちろん、うめきた2期でも色々な調査・分析を重ね、淀川と深い関りがある豊かで潤った大地の記憶や橋の街大阪をインスピレーションに、海外に誇れる日本らしさも現代的にデザインに織り交ぜていきました。 初めての日本のプロジェクトなので日本特有な事を学ぶ機会が満載です。高度な技術や完成度など世界に誇れる点も多い中、縦割りや保守的なアプローチが主流であること、専門的なデータ分析より経験則を重んじる傾向、事例主義など、公共空間の向上には多くの課題やハードルも多そうです。個人的に最初の事例自体がどうできたのかは「卵が先か鶏が先か」並みのミステリーだと感じています。 お店などは雰囲気をとても大事にするのに公共空間は機能さえしていれば安っぽくても仕方ない、とあきらめているのが日本人の感覚と感じることがありますが、公共空間の質を付加価値としてではなく街のバイタリティのベース・インフラとして捉えていくことにより、地域や街、日々の暮らしの豊かさの向上に繋がっていくのでは、と思っています。コロナの影響もあり、世界中で屋外や公共空間価の値感が見直されてきている今、日本でも新しい公共空間や地域のあり方に取り組む機会が増えることを願っています。 うめきた2期ではGGN 創立者の一人、世界的にも巨匠的存在であるキャサリンと深く協働することができ、共にプロジェクトに貢献できたことや、日本チームも含め様々な方々から学べた事に感謝しています。都市公園はこの春工事が開始されましたが、これからも気を抜かず、最後まで日本チームと一緒に頑張っていきたいと思っています。 うめきた2期開発-鳥瞰イメージ(提供:うめきた2期開発事業者) 「たたかう、ランドスケープアーキテクト」として、試行錯誤しながら自分らしくチャレンジして行きたい 最後に「たたかう、ランドスケープアーキテクト」のタイトルですが、去年行った日建設計講演の際、友人に「私らしい」と提案されたタイトルです。TIUA時代の「負けない」精神が反映されているのでは、と感じます。ここ数年パンデミックや治安・政情の悪化など、世界中暗いニュースが多く凹みがちな日もありますが、私が「たたかって」いけるのも様々な方々のサポートあってと再痛感させられた機会でもあります。 日本での公共空間向上やランドスケープアーキテクチャーの普及を考えると、どう「たたかって」いくべきか(まだ)分かりませんが、また試行錯誤しながら自分らしくチャレンジしていけたらなと思っています! 何か「たたかうランドスケープアーキテクト」がお役に立てそうなことがあればご一報をいただければ、と思います! (鈴木マキエさんプロフィール) 名古屋出身 愛知県立千種高校卒業。 1995年TIU国際関係学部入学、長谷ゼミ。 1996年TIUA、2000年ウィラメット大学卒業:BA in Art & Sociology。2012年 GGN Ltd入社 現在の役職はPrincipal。 GGN: https://www.ggnltd.com/ 米国シアトルを拠点にするランドスケープアーキテクト。TIUAの後、ウィラメット大学へ編入、Bachelor of Arts(アートと社会学)で卒業。ワシントン大学でMLA(ランドスケープアーキテクチャー修士号)とアーバンデザインサーティフィケートを取得。ランドスケープデザイン・建築オフィスやバージニア大学建築学部講師などを経た後、現在勤務しているGGNに2012年に入社。 40平方キロメートル以上の大規模な地域マスタープランからホームレスのための極小ハウスプロジェクトまで幅広いスケールやタイプのプロジェクトを手掛ける。過去に携わったプロジェクトは世界10か国以上。現在は大阪のうめきた2期地区開発も担当。ワシントン大学にて客員教授も兼任中。 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...TIUに入学した事が、その後の人生を大きく左右したと思います。井上 仁さん(1991年卒業 商学部 鐘ヶ江ゼミ/1990年南オレゴン大学 Social Science 卒業)2022年6月1日私は1986年4月に東京国際大学商学部商学科に入学、1991年3月に卒業しました(最後は鐘ヶ江先生のアジア経済ゼミでした)。途中、2年間は米国に留学しています。現在は米国在住ですが、大学時代からの海外経験を振り返り、今後、海外での活躍を希望している方の参考になればと思い、本稿を書き始めた次第です。 南オレゴン州立大学の留学時代は間違いなく、the best part of my life.私はTIU商学部2年次、学長推薦を得て、日本国際教育協会から奨学金を頂き、姉妹校関係のあった南オレゴン州立大学(現・南オレゴン大学:SOU)に2年間留学する機会に恵まれました。学内の選考には筆記テストや面接試験もあり、多くのTIU生が受験し、狭き門だったと思います。面接後は失敗を確信し、次の年にもう一度チャレンジすると、落ち込んでいたところ、合格通知を受けました。当時はスマホもパソコンもなく、事前の手紙のやり取りのみを通じて留学準備し、スーツケース一つで渡米しました。Portlandの空港から大学への行き方も知らず、今思うと、少々無茶したかと思いますが、当時、留学された方は皆同じ様な経験をされたのではないかと思います。 留学開始当初は、相当苦労した記憶があります。それでも、多くの人の助けを得ながら、充実した日々を過ごしました。2年間はあっという間に過ぎ、Summer Schoolを含む計7クオーター(7学期)在籍し、Honor Roll 3回、Dean’s List 1回頂き、1990年6月、苦労した甲斐あって優等学位で卒業する事ができました。今思えば、留学時代は間違いなく、the best part of my lifeだと思います。何時か、また米国に戻りたいと思いながら帰国した記憶があります。 学位はTIUと南オレゴン大学の両方からBachelorを取得しましたが、Double Bachelorはあまり意味がなく、2つ取得するのであれば、一方はMasterやDoctor等、Terminal Degreeを取得する方が、就職や転職には有利と思います。 (卒業式は公園(屋外)で行われました。Ashland, Oregon, June 1990) 卒業後は、大手化学メーカーに就職。海外出張で視野を広げる帰国後は即、就職活動に取り掛かり、当時はバブル崩壊直前だった事もあり、希望した会社(日本の大手化学メーカー)に就職するができました。会社では先輩や上司にも恵まれ、様々な経験を積む事ができました。入社直後は海外顧客へのセールス・マーケティングに従事し、海外出張の機会も多く、視野を広げる良い経験になりました。 シリコンバレーに役員として出向。米国特有の訴訟で大勝利したのは忘れられない経験でした2007年にはシリコンバレーにある子会社に役員として出向する機会も得られ、留学以来、初めて米国に戻る機会となりました。英語は多少覚えていましたが、大学で何とかしていたままの英語では歯が立たない事に気づき、ビジネスで使える様に、鍛え直しました。赴任中はリーマンショックで子会社経営も一時困難を極めましたが何とか乗り切りました。 途中、大きな訴訟が1件発生し、終結まで何と4年間費やしました。保険会社が保険金を払わなかったので、法的処置を取らざるを得なかったのですが、訴訟が得意でない日系企業だった事もあり、保険会社になめられていたのだと思います。最終的には全面的に主張が認められ、被告からは懲罰的なPenaltyを含む金額の和解金を得られ、大勝利となりました。今では、忘れられない経験の一つです。 シリコンバレーのある米国西海岸は豊かな自然に恵まれ、年間を通じて晴天も多く、旅行には最適でした。最も気に入っていたのは、Lake Tahoeです。湖の透明度も高く、秋には素晴らしい紅葉も楽しめます。ネバダとの州境にあるので、カジノもあり、夜も飽きません。最近の山火事で一部消失してしまったと知り、非常に残念です。 (レイクタホ(カリフォルニア州)にて) (Red Rock Canyon, Nevada, USA) (Grand Teton National Park, Wyoming, USA) 再度の駐在でシリコンバレーからノースカロナイナへ。そして転職2013年7月、シリコンバレーでの駐在は終了しましたが、その2年後、再度駐在として、買収したばかりの会社のVice Presidentとしてノースカロライナ州にある、バイオ企業での勤務を命ぜられました。翌年、ノースカロライナにある日系の大人用オムツのメーカーと縁があり、転職する事になり、現在に至っています。お陰様で高齢化社会の恩恵を受け、需要は右肩上がりになっています。最近、マスクの製造販売も開始いたしましたが、コロナの収束と共に需要は激減し、こちらは右肩下がりで、頭が痛いです。 (左から2番目(後部座席)が筆者。これが当社の新製品(マスク)です) TIU卒業生には日本国内に留まる事なく、大きく視野を広げ、国内外を問わず、社会に貢献できる逞しい社会人になって頂きたいこの様な人生を歩んでいますが、振り返るとTIUに入学した事が、その後の人生を大きく左右したと思います。入学前には英語とはほぼ無縁でしたが、友人や教授から良い影響を受け、少しづつ、先が開けてきたと思います。最近、世の中の変化が激しさを増しましたが、TIUやSOUで教わった事に加え、これまで経験してきた事が非常に役に立っています。それでも、社会人になってから本格的なインフレを経験するのは初めてだと思いますし、Pandemicやウクライナ侵攻等、思いもよらぬ障害も発生しています。社会・経済環境は激変していると思いますが、何とか幸せに暮らしています。残念ながら平和な世界はやや遠のいてしまったのかと危惧しています。チャレンジングな環境が続くかも知れませんが、TIUの卒業生には日本国内に留まる事なく、大きく視野を広げ、国内外を問わず、社会に貢献できる逞しい社会人になって頂きたいと思います。そして、是非、自ら幸せを感じられる人生にしていただきたいと願っています。 (以上、2022年5月1日、Raleigh, North Carolina, USAにて、井上 仁) (井上 仁さんプロフィール) 東京都出身 明大附中野高校卒業 1986年4月東京国際大学商学部入学 1987年9月南オレゴン州立大学(現・南オレゴン大学)入学 1990年6月南オレゴン州立大学卒業(Social Science学部, International Studies専攻) 1991年3月東京国際大学商学部卒業 鐘ヶ江ゼミ 1991年4月日系大手化学メーカーに就職 セールス・マーケティング部 2007年米国シリコンバレーにある子会社へ役員として出向 2013年米国シリコンバレーより帰国 2015年米国ノースカロライナ州にあるバイオ企業へVice Presidentとして勤務 2016年米国ノースカロライナ州にある日系オムツメーカーに転職 現在に至る TIU 霞会シンガポール支部... Read more...大学時代に経験したアメリカ留学、異文化体験からパワーエレクトロニクス半導体デバイスサプライチェーンの世界へ 木村徳明さん(1998年卒業 経済学部国際経済学科 鐘ヶ江ゼミ、ESS/1997年Willamette Univ. 教養学部経済学卒業)2022年4月24日29年前、大学入学した頃 私が東京国際大学への入学をしたのは、1993年、今からもう29年前になる。1993年というと、東武東上線のふじみ野駅が開業、当時はみずほ台駅と上福岡駅の間は住宅も少なく、広い畑が残っていて、今の高層マンションが立ち並ぶ住宅街もまだなかった。 当時、家庭にはインターネットがようやく普及し始めた頃で、ダイヤルアップ接続。ネットを接続していると、家の電話が繋がらなくて、自宅でPCを繋ぐのも気を使ったような時代だった。モニターもCRT(ブラウン管)、今のように液晶を使ったフラットパネルディスプレイは存在していなかった。 学生が持っていたのもポケベルで、“ポケベルが鳴らなくて”という歌も流行っていた。携帯電話も通話しかできないPHSがようやく普及し始めた頃だった。今のように、誰もがスマートフォンを手にして、動画、ゲーム、電子書籍、ニュースを見る時代になるとも想像が及ばなかった。当時アメリカでの留学経験を振り返りながら、今にどうつながってきたのか振り返ってみたい。 1991年の夏休みにアリゾナ州に約1か月ホームステイをする機会があり、その時に体験したアメリカでの生活、英語が不自由ながらも温かく私を迎えてくれたホストファミリーにまた会いたい。次に会う際には、英語でコミュニケーションを取りたいというのが、英語を勉強、習得したいというモチベーションだった。 大学進学先を決める際にも、Willamette大学でのAmerican Study Program(ASP, 旧TIUA)をはじめ海外提携校との留学制度が充実していたことが東京国際大学へ進学を決めた理由だった。 1993年、大学入学後はESSに入部し、ディベートセクションに入った。1年時には、とにかく英語力が足りず、先輩のやっている様子を必死にまねることに精一杯でした。一つの議題に対して、賛成、反対に分かれて、スピーチをまとめ、議論をしていた。よく議論としてあがったのは、憲法9条の問題、少年法の適用について、原子力発電の是非などで、必要な情報を集めるため、当時は今のように、Wikipediaもなく、インターネットは図書検索で使える程度で、Imidas(イミダス)や、現代用語の基礎知識といった分厚い情報、用語集、日経、朝日新聞、東洋経済、ダイヤモンド、日経ビジネスといった経済誌、文芸春秋、中央公論などの月刊誌を大学の図書館で情報収集のためによく読んでいた。 ESSでの活動は、論理的に議論を組み立てるための手法、伝え方、物事の賛成、反対、両方の視点からとらえて意見をまとめる作業は、後のASPに参加した際や、WUでのリーディング、ライティング、ディスカッションなどアカデミックスキルの基礎となった。 (95年 ESS 4年生の卒業式、TIU第一キャンパス図書館前にて) ASPプログラム(旧TIUAプログラム)での思い出 大学1年の課程を終え、2月に、ASPプログラムに参加することになった。ASPプログラムは非常によくできたプログラムで、語学を習得するのみではなく、異文化での生活、留学経験を積むことができた。“When in Roma, Do as a Romans do.”“郷に入れば、郷に従え” ということわざがあるが、Willamette Universityで寮生活をしながら、実際に WU生たちのやっていることを見よう、見まねでどんどん吸収しようという気持ちでいっぱいだった。 プログラムに参加して、すぐにSpring Break(春休み)があり、WUの学生たちが主催しているAlternative Spring Breakという泊りがけで参加するボランティア活動に参加した。7-8名のWUの学生中で、留学生で参加したのは私一人。リスニングもスピーキングもまだおぼつかない状態ながら、Warm SpringsというOregon州にあるネイティブアメリカンの居留地を訪れ、ネイティブアメリカンの文化保護センターで草刈り、清掃などボランティアに参加した。 土着文化を持つネイティブアメリカの人たちはアメリカ社会に適合できず、アルコール依存症、貧困、社会問題を抱えている実情などを見た。居留地周辺は街灯もなく、夜になると満天の星空、静寂の中、コヨーテの遠吠えが聞こえてきそうな雰囲気。Warm Springsの族長の方に招かれて、参加した学生とテントの中で、薬草を炊いたサウナ、スウェットバスに入った。 その族長は呪術師で、テントの中に入った一人、一人に、前世がどんな人物だった告げはじめた。そのお告げは、具体的に、いつの時代の、誰なのかはわからないが、南蛮貿易で頃に東南アジアに進出した人物か、旧日本軍で、オランダかイギリスに支配された地域で、解放のために現地人と戦った人物なのか、支配されていた現地人を指揮して解放のために戦った人物だった。因みに、私の家系は武士の家でもなく、第二次世界大戦中に、南方に従軍した人物もいないので、全くの迷信なのだが。 (Willamette大学新聞 Collegianに載った、TIUA生到着の記事) 94年の夏休み、アメリカワールドカップ 1994年はアメリカでサッカーのワールドカップが開催された年だった。日本は1992年にJリーグが始まり、プロ化され、三浦知良、ラモス瑠偉などの選手が活躍し、ワールドカップ出場の期待が大きく高まっていた頃だったが、日本代表はワールドカップ出場が掛かったアジア予選で、カタール・ドーハで行われた試合、後半2-1でリードしながら、ロスタイムに同点に追いつかれ、ワールドカップ出場権を逃したこの試合は、ドーハの悲劇と記憶され、あと一歩で出場を逃した大会だ。 今年サッカー日本代表はアジア予選を勝ち抜き、7大会連続でワールドカップ出場を決めている。ドイツ、イングランドをはじめ、ヨーロッパのリーグで活躍する選手がほとんど占めている今、当時ワールドカップ出場することが難しかった時代を想うと、日本サッカーが着実に強化を進んでいることがよくわかる。 ワールドカップを観に行きたいという気持ちは強かったが、まずチケットの入手方法がわからない。週末にASPに参加した学生のグループで訪れた、Portlandで、日本とアジアの食材を扱っているグローサリーストアで買った、日本の新聞の米国版に偶然、ワールドカップのチケット販売の広告を見つけた。当時は、チケット販売会社に電話でオペレーターにつないで、拙い英語で欲しいチケットを伝え、何とかチケットを手にした。 購入できたチケットは7/4 独立記念日に行われる、San Francisco近郊のPalo Alotoスタンフォードスタジアムでのアメリカ対ブラジルの試合だった。試合前のスタジアム周辺は、大勢のブラジル人サポーターたちがサンバを踊りながらお祭り騒ぎで盛り上がっていた。スタンフォードスタジアムには86,000人の大観衆が詰め寄せた。 試合はブラジルが優勢に進めるも、アメリカがなかなかゴールを割らせない展開。終盤にブラジルが選手交代後に得点を決め1-0で勝利した拮抗した内容だった。アメリカではまだサッカーはメジャーなスポーツではなく、サイドをブラジル人選手が駆け上がり、座っていた観衆が盛り上がって立ち上がると、後方から“Sit Down‼”と大声で注意をされたことを覚えている。 今や、アメリカでもMLSプロサッカーリーグが立ち上がり、人気も定着して、観客がサッカーを見る眼も成熟し当時のようなことはないのだろうが。その夜はSan Francisco湾、フィッシャーマンズワーフで独立記念日の花火を見たことはいい思い出である。 San Franciscoを訪れたあと、Los Angels、San Bernardino とAmtrakを乗り継ぎ