interview 40年間の同窓会活動を通して多くの方々との交流に感謝! 遠藤 浩一さん(1982年/14期卒 教養学部(3期)国際関係学科 高橋勇治ゼミ)2023年10月1日1982年教養学部卒の遠藤浩一さんは、卒業後札幌のホテルへ就職されましたが、盛田昭夫さんが掲げた創業精神に惹かれソニー生命へ転職を決断。それ以来、入社20年を経過し50歳で営業職から管理職に転向し、2020年に60歳定年を迎え現在(嘱託社員)に至っていらっしゃいます。同窓会活動にも長年尽力され、霞会北海道支部の幹事や支部長、霞会の代議員、支部連合会の役員として約300名以上の同窓生の方々との出会いがあったそうです。今年2023年9月に「設立40周年同窓会」を開催。『例年にない盛会で、このような場面を見る度に長年幹事として支部長として同窓生の皆さんの再会の橋渡しができていることのへの喜びと自分自身の役割の重みを感じる次第です』と述べられています。 「中国研究ゼミ」で自身初めての海外旅行大学3年生の時に中国の広大な国土と悠久の歴史が織りなす文化に心惹かれ、中国研究ゼミに所属しました。その12月に研修旅行と称して10日間にわたり北京、杭州、上海を旅行しましたが、当時の中国は個人旅行が認められておらず、日中友好協会の推薦による「○○訪中団」と言う名目でしか入国ができませんでした。北京空港に降り立った時は何やら重い空気を感じ、入国審査では何らかのトラブルで数時間も足止めをくらい、拘束されるのではないかとの不安と緊張があったのを覚えています。 北京では「北京大学」の日本語学科の学生と交流し、その中で「日本の女性は結婚後なぜ仕事をしないのですか?」との質問に返事を窮しましたが、日本女性は結婚すると家庭に入り専業主婦になるとの当時の日本の観念が“国民は皆仕事に就くことが当たり前”の中国人には理解できなかったようです。 この旅行は私自身にとって初めての海外旅行であり、国際人を目指したいという希望を抱いてこの大学に入学し、それを具現化する第一歩となる貴重な体験でした(旅行費用は約40万円と当時としては高額で金策に苦労しました)。ゼミでは主にエドガースノー『中国の赤い星』に著されている毛沢東時代の近代中国を学び卒論のテーマは「中国4つの近代化への道」でした。 (北京大学の正門) (日本語学科の学生と私) ソニー生命への転職が人生の転機大学卒業後、札幌駅前のセンチュリーロイヤルホテルに就職し主にフロント業務に携わっていましたが、外国人観光客の応対においては英検2級の資格は全く用をなさず、その語学力は大変乏しく拙いものでした。在学中に英語力をもっと身に付けておくべきだったと後悔したものです。 その後1990年(30歳時)に人生の転機となる1本の電話がありした。それは「SONYが新規事業を始めることになりその仕事への転職のお誘いです」という内容でその仕事とはフルコミッションの生命保険営業でした。また、私の個人情報は大学卒業名簿から入手していたと入社後に判明しました。 当時のソニー生命の新聞広告は「今日から生命保険が変わる!ソニー生命が変える!」であり、「SONYは人のやらない新しいことにチャレンジする」と言う「盛田昭夫」さんが掲げた創業精神に惹かれ転職を決断しました。フルコミッションに対する収入不安からなかなか転職するか否かを決めきれず、最後はコインで決めました(笑) 入社当時の生命保険業界は画一的なパッケージ商品を主にセースルレディが職場に赴き営業するという手法でしたが、ソニー生命は顧客のライフプランと経済状況に合わせたオーダーメイドの合理的な保険を販売するという当時としては斬新な手法を採用しました。それが社会的な評価を得て会社も私個人も順調に業績を伸ばすことができ、2008年には成績上位者によるハワイコンベンションに妻と参加し表彰を受けたことが最高の栄誉でした。 入社20年を経過し50歳で営業職から管理職に転向し、2020年に60歳定年を迎え現在(嘱託社員)に至っています。今まで顧客への死亡保険金支払いは約30件に達しましたが、その保険金で顧客のその後の生活が守られことを考えるとこの仕事の重みと責任を痛感し、生命保険の本質と役割をもっとより多くの人に理解してもらうことが大切でそれが私たちの責務であると感じています。 (ハワイでのコンベンション表彰式に妻と入場の場面) シンガポール支部と北海道支部の交流会北海道支部設立25周年記念事業として2008年2月にシンガポール支部に赴き交流を開催しました。その時の様子をまとめた当時の同窓会報への寄稿文を下記に掲載します。 去る、1月31日北海道支部は武智支部長をはじめとした総勢6名で来星(シンガポールを訪れること)しました。この来星の目的は北海道支部設立25周年記念行事として、シンガポール支部と交流会を開催することでした。昨年5月の同窓会で一番北の支部と一番南の支部が交流し、同窓会活動の活性化を図ろうというこの企画が発表されてから8ヵ月後の待ちに待った来星でした。 北海道の千歳空港出発時の気温はマイナス10度でシンガポールチャンギ空港の到着時はプラス30度という気温差がなんと40度もあり、防寒具から薄着への着替えに苦労をしました。シンガポールは街並みが美しく整備され、アジアのいろいろな人種が集い大変エネルギッシュで魅力的な街でした。また国際ビジネスの拠点としても大変活性化していて「アジアの力」が集結しているという印象を受けました。 交流会は2月1日に落合前支部長の計らいでビジネス街の中心にある高層ビルの63階「Tower Club」という素晴らしい眺望の中華レストランで開催されました。眺望もさることながら料理も最高級で私たちを最高の「おもてなし」で歓迎していただきました。 シンガポール支部からは落合さん、加藤支部長、孫玲さんをはじめ総勢11名もの方が出席していただきましたが、皆さん国際的なお仕事をされている精力的な方々ばかりでビジネスや文化の違いなどいろいろなお話を聞かせていただき、大変良い刺激を受けました。 また、シンガポール支部は卒業生の総数が少ないにもかかわらず、活動ニュースの発行など会員間のコミュニケーションの取り方が上手で見習うべき点が多々ありました。北海道支部も設立から25年が経ち支部活動もマンネリ化が否めない時期でしたが、この交流会を契機にシンガポール支部の斬新な活動の取組みを参考に新たな一歩を踏み出したいと思います。 最後になりましたが、この交流会を快く引き受けていただき私たちを暖かく迎えていただいたシンガポール支部の皆様に心よりお礼を申し上げます。また、今回の交流会が全国の同窓会活動の活性化の一助となれば幸いと思います。 (シンガポール支部との交流会 2008年2月) 北海道支部設立40周年を迎えて大学卒業の翌年(1983年)、北海道支部同窓会の設立総会に参加してから早40年が経ちました。その間、長年にわたり幹事として又は支部長として同窓会活動に関わってきましたがコロナ期間を除き毎年欠かさず同窓会を開催してきたことは大きな意義を感じています。今まで北海道支部の幹事又は支部長、霞会の代議員、支部連合会の役員として約300名以上の同窓生の方々との出会いがありました。その中でも多くの先輩方との出会いから人生訓を得たり、仕事への指導や協力をしていただいたり私の人生に大きな良い影響を受けて今があると思っています。それだけ私にとっての同窓会活動は有意義で価値のあるものでした。 そして、今年2023年9月に4年ぶりに「設立40周年同窓会」を開催することができました。北海道外からもお祝いに駆け付けくれた支部長や卒業以来の再会の初参加の同期の方もいて、例年にない総勢22名もの出席者が共に語り合い、お酒を交わし、次回の再会を約束し散会となりました。このような場面を見る度に長年幹事として支部長として同窓生の皆さんの再会の橋渡しができていることのへの喜びと自分自身の役割の重みを感じる次第です。これからは今後も北海道支部を存続し発展させるべく後輩の育成に努めて参ります。 (霞会北海道支部 設立40周年同窓会 2023年9月) (遠 藤 浩 一さんプロフィール)北海道岩内町出身 岩内高校卒業 札幌市在住 1982年/14期卒 教養学部(3期)国際関係学科 高橋勇治ゼミ 1990年よりソニー生命保険株式会社に勤務 1983年の北海道支部設立より40年間にわたり幹事又は支部長として活動 <趣味> ゴルフ、登山、野鳥撮影(Instagramアカウント“kdkqp145”) TIU 霞会シンガポール支部... Read more...「大学、教授先生方、そして同窓会に感謝を込めて!」 大川和男さん (1978年商学部卒 泉暹ゼミ 少林寺拳法部)2023年9月1日大川和男さんは1978年に東京国際大学商学部を卒業。現在は税理士法人大川会計の代表税理士として活躍されています。学生時代に恩師泉暹教授との出会いがきっかけで職業会計人を目指されましたが、勉強と少林寺拳法部クラブの両立はかなり厳しかったと語られています。また同窓会霞会にも積極的に参加され、常任幹事、副会長なども歴任されました。これまでお世話になった大学、恩師の教授先生方をはじめ、同窓生の皆さんにはいつも感謝の気持ちを持たれて活動されています。 霞会(東京国際大学同窓会)シンガポール支部の皆様、初めまして、またはお久しぶりです! 私は、10期生(1978年卒、商学部商学科、泉ゼミ、少林寺拳法部)の大川和男でございます。 福岡県北九州市小倉北区の出身です。仕事は、「税理士法人 大川会計(東京池袋・北九州戸畑オフィス)」の代表税理士をしております。この度、霞会シンガポール支部より、会報「TIU Sparks」への寄稿依頼を承りました。 私自身は、あまりグローバルでもなく、拙い文章でもあり、特に「教養学部(1976年設置。1995年に、「国際関係学部」と「人間社会学部」に改組転換)」で、第2キャンパス(1982年開設。以下、「2キャン」)に通学されていた方は、よくわからないかもしれませんが、「懐かしいな」、「そんな事があったのか」などのご感想をお持ちいただけたなら、とても幸甚でございます。 入学当時は商学部商学科だけの大学でした 私が入学した当時(1974年、昭和49年。オイルショックの年。)は、まだ「国際商科大学(ICC =International College of Commerce and economics)」という名称の4年制単科大学で、「商学部商学科」しかありませんでした。また、キャンパスも、現在の第1キャンパス(以下、「1キャン」)のみでした。米国ウィラメット大学との姉妹校関係は、すでに締結(1969年)されておりました。 元々は、高田馬場の「一橋予備校」を運営しておられた金子泰蔵先生が、「これからは、4年制大学だ。」との思いで、一橋大学(旧東京商科大学)出身の有志らと共に創学(1965年)されたと聞いたことがあります。「わが大学は、一橋大学と兄弟校である」との言葉の所以です。 学生を集めるために、一流名門大学を目指していた「一橋予備校」の生徒達に、「うちの大学に来ないか?」と、金子泰蔵先生ご自身が声をかけられたとも聞いております。そのせいか、私の印象として、1期生から初期生の先輩方は優秀な方々が多いように感じます。 入学当初、校舎は少なく、2~3階建ての小さな建物が多かったです。中庭や運動場などもあり、「なんだかスペースが広いな」と感じました。 学生生活スタート時はワクワクと。でも勉強とクラブ両立の大学生活は厳しいものでした 私の下宿は、畑の中にポツンとある「学生の家」でした。下宿はアパートではなく、平屋が3棟建っており、1棟に4~5名の学生達が住んでいました。大家のおばさんに大学の事をお聞きしたら、「お坊ちゃん、お嬢ちゃんが多くて、おっとりとした大学ですよ」との事でした。 正門を入ると、広場に噴水があり、さらに真っすぐ行くと、古い建物「カレッジセンター(通称、カレセン)」があり、そこが唯一の学食でした。「この大学で、どのような学生生活が始まるのか?」とワクワクしておりました。 恩師、故泉暹(いずみ・すすむ)教授と出会い、職業会計人を目指す 入学当初、多くの授業科目(必修科目や選択科目)の中から、進学するための最低単位以上の科目を選ぶ必要がありました。下宿の先輩方に、いろいろ相談に乗っていただきました。 「僕は高校時代、グラフィックデザイナーを目指していましたが、父に説得され、家業の税理士事務所を継ぐことに決心しました。」と話すと、先輩が「それなら、絶対に泉教授の授業を選択したほうが良いよ。泉ゼミから、何人も税理士、公認会計士を輩出してるんだよ。厳しい先生だけど、大学の事をすごく愛している先生だよ」と、教えてくださいました。私は迷わず、泉先生の「簿記論」を選択しました。 「簿記論」の初めての授業。「やけに恰幅の良い先生だな」との印象を持ちました。そして授業が始まりましたが、「売掛金」「買掛金」やら、普通高校出身で、まだ一度も簿記の勉強をした事がなかった私は、最初から最後まで、チンプンカンプンでした。最初から、内容的に商業高校出身者レベルの授業でした。 「これはまずい!」と思った私は、授業後、教授室に戻るため廊下を歩く泉教授を追いかけ、「先生、僕は父の跡を継ぐため、職業会計人(税理士、公認会計士)を目指していますが、先生の授業がさっぱりわかりませんでした。どうすればいいんでしょうか?」と尋ねました。 泉教授は、「はははは!」と笑いながら、「君ね、本屋さんに行ったら、簿記検定試験用の『明解簿記』『簿記検定』という本が、3級から1級まで売っているから、それを買って、まず3級から自分で勉強しなさい」との事でした。 私は、その日の授業がすべて終わると、その足で本屋さんに直行しました。この日から、私の簿記の勉強がスタートしました。とにかく毎日勉強を続けていると、だんだん理解できるようになってきました。前期試験と後期試験では、泉教授の「簿記論」については、いずれも100点満点でした。そして1年生の秋に、「簿記検定試験3級(日本商工会議所主催)」を受験したところ、合格いたしました。2年生となった私は、引き続き、泉教授の「簿記原理」を受講しました。「簿記原理」についても、前期・後期試験とも100点満点でした。また、「簿記検定試験2級」にも合格することができました。本当に、泉教授のおかげと、感謝いたしました。 ある日、「簿記原理」の授業を、一番前の席で聞いていると(泉教授の授業だけは、いつも一番前の席に座りました。)、突然、マイク片手に「大川君という学生がいる」と言い出しました。私は、「急に私の名前を出して、何を言い出すんだろう」と聞いていました。 「普通高校出身でありながら、商業高校出身の学生達を追い越したすごい学生がいる。それが、大川君だ」と話されたのです。それを聞いていた私は、嬉しいやら、恥ずかしいやら。 3年生になると、ゼミの選択が必修科目(単位)となりました。掲示板に、泉ゼミの「募集条件」が張り出されておりました。内容はほとんど忘れましたが、一つだけ覚えているのは、一番最初に、「酒が飲めること」と書かれていたことです。 選考に落ちた学生も居たようですが、私は何とか泉ゼミに入ることができました。卒業まで、最も厳しい泉ゼミに居られた事は、私の大きな優越感となりました。ゼミ合宿にも、必ず参加いたしました。なぜなら、ゼミ合宿不参加の時点で落第、留年が決定するからです。結局、1年生から4年生まで、泉教授の前期・後期試験は、すべて100点満点でした。 4年生の12月のある日、自宅アパート(引越し後)のポストに、「東京国税局」と書かれた茶封筒が入っていました。「学生で、税金払う必要ないのに何だろう?」と、大学に向かう路上で見ました。なんと、入っていたのは、「税理士試験・簿記論」(国家試験)の「合格通知」(1/5科目め)した。僕は、歩く道の上で「やった!」と、本当に飛び上がって喜びました。 少し、泉教授の事について書かせていただきます。泉教授(簿記会計)は、米山教授(簿記会計)加藤教授(商法)と並んで、「一橋大学の三羽烏」と称されていました。3人は、一橋大学時代の同級生でありました。泉教授は酒豪で、学生達の間で、「霞ヶ関駅周辺の飲食店で、行ったことのない店はない。」と噂されていました。 現在、1キャンの正門を入ると、左側に留学生の母国である「万国旗ポール」がありますが、これは泉教授のご提案によります。 また、正門の入り口には、「枝垂桜」が植えられており、入学・卒業時の記念撮影場所となっていますが、これも泉教授が寄贈されたものです。 泉教授の言葉で、心に残っているのは、 「これからは、どこの大学に行ったかではない。大学で、何を、どれ位学んだかが重要だ。」 「僕の授業は、一橋大学と同じレベルだ。僕のゼミを卒業した者は、一橋大学を卒業したのと同 じだ。」 「学んだ事を、図示できなければ、本当に理解したことにならない。」など。 私が卒業直前に、正門前の小料理屋でばったり泉教授にお会いした時、僕の背中をポンポンとたたきながら「大川君、よく頑張ったな。体育会のクラブに所属しながら、国家試験に1科目でも合格したのは、創学以来、大川君が初めてだ」と言ってくださいました。 少林寺拳法部に入部 私が入学当初、キャンパス内は、各クラブの新入部員勧誘が盛んでした。 私が下宿していた「学生の家」の自室に居ると、突然、ノックの音がして、同じ下宿の先輩が2人入ってきました。少林寺拳法部の2年生の先輩たちでした。 「俺たち、少林寺拳法部なんだけど」「あ、そうですか。僕は高校時代、空手の道場に通っていました。1級で茶帯です。空手部に入って、黒帯を取りたいんです」1人の先輩が「少林寺の技を教えてやるよ」と、私の手首をひねりました。これが、私と少林寺拳法の出会いでした。 入部してみると、実際はまだ「愛好会」で、部員も新入生を除いて、10人程度の小さなクラブでした。道場など無く、練習は毎日、中庭の芝生の上でした。冬は、裸足で、霜柱をサクサクと踏みながらの練習でした。私たち新入生が10人ほど入部し、ようやくクラブらしくなりました。 近所の居酒屋で、「新入部員歓迎コンパ」が行われ、新入生は全員、先輩方からしこたま飲まされました。現在では考えられない事です。 今や「秋霞祭」などでも、キャンパス内での飲酒は、完全に禁止です。1~2年生は、ほとんどがまだ未成年だからです。 私が2年生になった時、全員、初段(黒帯)になりました。キャンパス内に体育館が出来、「少林寺拳法部」道場(2F)も造っていただきました。少林寺拳法部では、休みの日に、急きょ招集をかけられる事もあり、「勉強との両立は、思ったより厳しい」ものでした。 税理士試験制度について 少し、税理士試験制度について、概要を説明しておきます。税理士試験科目は5科目に合格する必要があり、会計科目である「簿記論」と「財務諸表論」が必修科目、「法人税法」か「所得税法」が選択修科目で、残りの2科目を、任意科目として「相続税法」、「消費税法」や、地方税の「固定資産税」、「住民税」、「酒税」などから選択することになります。 科目合格制で、1科目でも合格すれば、その科目は生涯有効となります。各科目60点以上で合格、合格率は各科目10%~20%で、最終資格取得者は受験者の5%程度と言われています。 私の頃は、「法人税法」「所得税法」「相続税法」を「(主要)国税3法」と呼び、勉強のボリュームも大きいものでした。実務的には、「所得税より法人税の方が報酬が高い。相続税を知らなければ、儲からない。」。 また、「税理士試験」には「試験免除制度」があります。 ①経済学系の大学院(2年)を卒業することにより、会計2科目免除、法律系の大学院(2年)を卒業することにより税法3科目も免除されます。すなわち、2つの大学院を合わせて4年間卒業(修士又は博士学位を取得)すれば、税理士資格を取得できます。これを「ダブルマスター組」と呼んでいましたが、現在では、「シングルマスター」のみが条件となっています。 ➁10年又は15年以上の国税従事者(税務署など)は、税法科目が免除されます。さらに、23年又は28年以上勤務し、指定研修を修了した者は、会計科目が免除されます。 すなわち、定年退職まで、税務署などに勤務した者は退職後、「税理士会」に登録するだけで、税理士になれます。「税務署OB組」などと呼びます。 私の場合は、必修の会計2科目と、「法人税法」、「相続税法」、「消費税法」の3科目に合格した「試験合格組」となります。 税理士受験から税理士事務所開業まで 大学卒業後、なかなか「税理士試験」に合格できませんでした。大学4年生時に、「簿記論」を受かっただけで、あと4科目(必須科目、選択必須科目他)に合格する必要がありました。 そこで、東京高田馬場にある「税経学院(出版社)」が運営している「税経寮」に入って、受験勉強に専念する事にしました。すでに婚約していた家内とは、「遠距離恋愛」になってしまいましたが、「(財務諸表論に合格するまで)待ちます」と言ってくれました。私は、一大決心をしました。 「税経寮」には、北海道から沖縄まで、全国から税理士を目指している人達が集まっていました。入寮してからは、食べてる時と、寝ている時以外は、すべて勉強のために費やしました。 皆、専門学校にも通っていました。睡眠時間も、3~4時間でした。 上京してから、試験日までの半年の間に、「受験ノイローゼ者」が6人出ました。彼らは、それぞれの実家に帰って行きました。僕は、「少林寺拳法部のおかげで、いつのまにか精神力が鍛えられていたんだな」と実感しました。 8月初旬の税理士試験の2か月前ぐらいになると、毎月の「月例テスト(計算問題)」では、100点満点を取れるようになり、クラスで1番になりました。税理士試験後も、念のため受講を続け、12月の合格発表まで、100点満点の1番を続けました。苦手だった必須科目「財務諸表論」に、ようやく合格しました。(2/5科目め) 婚約している事もあり、翌年、会計事務所に就職し、「税経寮」を退室しました。現在、「東京スカイツリー」が建っている地下鉄「押上駅」で安いアパート(2K)を見つけ、家内を北九州から呼び出し、新婚生活が始まりました。 受験生である僕の状況を理解している家内は、勉強の手伝いもしてくれました。私が就職した会計事務所は、日本のバブルの影響で、あっという間に拡大していきました。(現在では、日本一のスケールを誇る会計事務所になりました。)その会計事務所に勤務している間に、「相続税法」に合格しました。(3/5科目め) しかしながら、仕事がどんどん忙しくなっていき、専門学校にも通えなくなってしまいました。 「父の事務所を継ぐ(資格取得)」事が第一命題であった私は、その会計事務所に4年半ほど勤務した後、縁あって、千代田区神田練塀町(秋葉原駅近く)にある一般企業(青果物等卸売及び貿易業)に転職しました。 その会社では、経理部長となり、日々の通常の「経理・入力業務」だけでなく、「銀行折衝」、「貿易実務」、「販売管理・会計システム構築」、「税務署対応」などにも従事しました。 「決算・申告業務」なども私がすべて行いましたので、税理士を頼まず、申告書などには、「税理士署名押印」は無しのままでした。 その会社に勤務している間に、「法人税法」(4/5科目め)と「消費税法」(5/5科目め)に合格し、同じビル内の別室で開業することになりました。 その会社と、取引のあったグループ会社4社、合わせて5社が、最初の顧問先になりました。 これはとてもラッキーな事で、税理士事務所を開業しただけで、関与先が増えるわけではありません。開業して、最初に行ったのは、事務所の「基本理念づくり」です。「何故、開業したのか?他の会計事務所に勤務税理士として勤める、一般企業に勤める。実家に帰り、父親とともに働く。」いくつか選択肢はありました。 一つには、すでに顧問先ができたために、実家には帰れない。(跡を継ぐ事ができない。) 実務経験も、会計事務所、一般企業ともあるので、開業してもやっていけるはずだ。当時の社長は、「東京で食えない奴が、地方で食えるわけがない。」という信条をお持ちでした。 いろんな企業の「社是社訓」「経営理念」「モットー」などを、勉強しました。結局、米国DHL社の経営理念に近いものになりました。関与先様も、少しずつではありますが、増えていきました。 霞会の同窓会活動に参加 私が同窓会活動に参加するようになりましたのは、税理士事務所を開業してからでした。その当時の同窓会組織は、まだしっかりしたものとは言えないものでした。 現在のような「一般社団法人」という制度はなく、法律的にはPTAなどと同じく、「人格のない社団等」という組織でした。日本全国の学校の同窓会は、すべてこの「人格のない社団等」でした。 当時の同窓会組織は、「幹事会」「常任幹事会」「総会」の3つでした。当時の会長は故三宅ヨシロウ先輩(1期生、野球部創部)、事務局長は池内和彦先輩(1期生、躰道部創部)でした。同窓会に参加するようになってから、いろんな先輩、後輩方とも知り合い、「幹事」に任命されました。そして、同窓会の会計監査を担当させていただきました。決算が近づくと、池内事務局長が資料を持って、私の事務所に来られました。 当時は、同窓会本会だけでなく、少しの地方支部会(当初は任意で、補助金なし。)、藍旗会(体育会系OB会の集合組織)、オーナーズクラブ(経営者、企業の中枢関係者の、勉強会・交流会。その後、自然消滅。)がありました。 同窓会に参加しているうちに、「常任幹事」に任命されました。役員会議・交流会の後、帰りの電車の中、三宅会長が「大川、今からうちに来て、泊まれ。」奥様、お嬢様をご紹介くださり、同窓会の話ではなく、「今度、東京マラソンに参加するのよ」とか、そんな話ばかりで、ご出身である土佐の鰹節を削って、ご馳走してくださいました。 池内事務局長とも、個人的に親しくなり、「新国劇」に誘われてすっかりハマり、何度も一緒に観 劇いたしました。役者さん達とも親しくなり、なかなかできない経験をさせていただきました。 同窓会の組織も、徐々に変わり、「幹事会」「会長」「副会長」「総会」になりました。そして、会長も、三宅先輩から東村真先輩(3期生、アメリカンフットボール部創部)に替わりました。 実は、東村先輩とは、同窓会で知り合い、以前から個人的にもお付き合いさせていただいておりました。ご自分の所属するダーツチームに誘われ、私もメンバーになりました。週に一度は、一緒に飲むことになり、よく「大川、今日うちに泊まれ。」と何度もお世話になりました。 東村先輩が「会長」に就任された時、東村先輩のご指名により、私も「副会長」の一人になりました。「会議は踊る」とは、よく言ったもので、「会長・副会長会議」でもなかなかコンセンサスが取れず、長時間にわたる事もままありました。 東村先輩が「会長」を辞任する決意をされた時、私は東村先輩のご自宅におりました。「えっ、次の会長はどうされるのですか?」、「君野君に頼もうと思う」現会長である君野信太郎先輩(4期生、躰道部)の事です。 その時に、私も「副会長」を辞任する決意をしました。(君野先輩とも親しくさせていただいておりましたが、指名してくださった東村先輩が辞任されるのに、私だけ残るわけにはいかないと) 税理士法人大川会計について 現在の、私の「税理士法人大川会計」について、少し書きます。事務所としては、「主たる事務所」である「東京オフィス(豊島区池袋)」と、「従たる事務所」である「北九州オフィス(北九州市戸畑区)」の二つです。 税理士法人大川会計北九州オフィス 東京&北九州オフィス合同顔合わせ(両親を囲んで) 個人事務所を「法人化」したのは、父の生前中に、二人で「税理士会」に相談に行き、「税理士法人にした方がよい。」と勧められたからでした。これにより、自分の東京事務所と高齢化した父の北九州事務所の両方の仕事を、堂々と出来るようになりました。(税理士法上、「税理士は、事務所を一つしか持ってはいけない」事になっています) 「東京オフィス」では、7、8年前から行政書士の紹介により、「中国人経営者」の関与先様が増え始めました。いわゆる「投資系ビザ」というもので、日本で500万円以上の投資をすればビザが取れるのです。その投資には、自分で資本金500万円以上の会社を設立することも含まれます。 また、そのビザを毎年更新するのに、いくつかの条件があり、そのうちのいくつかの書類は、税理士事務所が作成するものです。ビザ更新のためのご指導もしています。 日本国内における中国人達のネットワークというのは凄いものがあり、次から次に紹介が始まりました。 また、これらの経営者たちは、本国の金持ちの子供達が多く、日本のビルを、「安いよ~!」とポンと1棟買いしたりするので、驚かされます。最近では、日本に会社を持つ香港の経営者や、韓国人の経営者までご紹介されました。 大変、有り難いことではありますが、業務の品質を落とすわけにはいきません。そのへんが、会計事務所経営の難しい部分であります。「スタッフを増やそうか、どうしようか?」 最後になりますが、同窓生の皆様方のご活躍を応援しておりますとともに、更なる発展されますことを、心より祈念いたしております。 我が母校「TIU」の創学当時からの精神(理念とは別)である、「V (Vision=大志)、I (Intelligence=知性)、C (Courage=勇気)」を心に刻んで、頑張りましょう! (大川和男さんプロフィール)福岡県北九州市小倉北区出身 1978年3月 国際商科大学(現東京国際大学)商学部商学科卒業 泉暹ゼミ 少林寺拳法部。 卒業後、公認会計士・税理士事務所にて会計実務、税務業務、相続対策、会社設立、企業買収、企業評価および営業譲渡等の実務経験を積む。 その後、一般企業に経理部長として勤務。経理システム構築、事務合理化対策、資金の調達・運用および貿易実務等に携わる。 TKC全国会会員、認定経営革新等支援機関、商工会など主催セミナー講師なども行う。 1991年4月、大川和男税理士事務所を創業。 2014年5月、税理士法人大川会計を設立、代表社員として現在に至る。【東京オフィス】 〒171-0021 東京都豊島区西池袋2-36-1 ソフトタウン池袋203号 TEL:03-3984-2275 FAX:03-3984-2274 【北九州オフィス】 〒804-0073 福岡県北九州市戸畑区明治町10-2 TEL:093-884-0311 FAX:093-884-0315 (税理士法人大川会計ホームページ) https://www.okawa-kaikei.jp/ TIU 霞会シンガポール支部... Read more...霞会とともに50周年を迎えます 高橋広さん(1974年商学部 /6期卒業 松本雅男ゼミ 秋霞祭)2023年6月1日高橋広さんは1974年商学部/6 期卒業。現在は霞会副会長に選出され、2024年11月に予定されている「霞会50周年記念総会」の50周年記念誌編集委員長に就任されました。1974年第6回卒業式で同窓会を立ち上げられ、来年は霞会50周年記念総会、個人的にも卒業50年、同時に5期生の奥様と結婚されて50年になられると言うのは感慨深いことですね。TIU Sparks 掲載の国内外でご活躍されている同窓生の方々に感銘を受けられており、霞会創立50周年記念誌作成に数多くの同窓生に多大なご協力をお願いしたいと言われてい ます。 霞会の設立経緯と50周年記念総会に向けて 私は、1974(昭和49)年に卒業しました第6期生です。それまで、1965(昭和40)年に創立された本学には同窓会がありませんでした。 そこで、1973(昭和48)年10月27日に第 1期から5期までの卒業生 1,073名に対し、同窓会名簿作成のための通知を発送し 1974 (昭 和49)年1月27日、2月17日、2月25日に「同窓会発起人会」 「同窓会設立準備委員会」を開催し、会長に尾谷長彦さん、副会長に斎藤民穂さん、柴谷彰さん、事務局が私という体制を樹立しました。 1974 (昭和49)年3月25日の第6回卒業式の当日、第1期生の尾谷長彦さん (初代会長)に会場に来ていただいてご挨拶していただき、「同窓会設立のお知らせ」と「同窓会規約」が配布されました。金子泰蔵学長 (同窓会名誉会長) に同窓会の立ち上げについてお祝辞をいただき、会場出口で、同窓会設立の趣旨に賛同した卒業生から同窓会費を集めて、それを、三菱銀行に内定していた相良明君が、会場の川越市民会館の近くにあった富士銀行 (現、みずほ銀行)の川越支店に口座を開設したのが本学の同窓会の始まりです。 余談ですが、その1週間前の3月17日に、松本雅男先生のご媒酌で、5期生の家内と結婚式を挙げ、まだ学生でしたので、学割で切符を買い、家内が勤務していた日興証券の契約ホテルに宿泊して、近畿地方に新婚旅行に行ったことを思い出します。 また、卒業式で、金子学長から、ソントン賞をいただきました。秋霞祭実行委員を第5回の備品工作局長 (家内は記録局長でした)と第6回の実行委員長と2回やり、同窓会を立ち上げたりしたことが評価されたのかなと思っております。翌年の1975(昭和50)年は、本学創立10周年であり、「本学の草創期は、同窓会の設立をもって終了した」と大変喜ばれたとのことです。それから、9月1日に事務局を深谷辰夫君に引継ぎ、10月1日に、山崎良太郎君の努力により第1期生 110名から第6期生 332名まで 1,380名の同窓会名簿第1号が発行され、秋霞祭期間中の1974 (昭和49)年11月3日に、 同窓会の設立総会が開催されたのです。 卒業後は、金融機関に勤務していたので、同窓会活動をするゆとりがありませんでしたが、1997 (平成9)年4月から松本雅男ゼミの5期生の吉野和典さんの推薦で監査、 2000 (平成12)年から 2008 (平成20)年まで会長の三宅ヨシロウさんの推薦で副会長、2009 (平成21)年から監査、2012 (平成24)年から常任幹事、2014 (平成26)年から一般社団法 人霞会の理事、2022 (令和4)年から副会長と26年も役員をやらせていただきました。その間、設立 30 周年記念総会実行委員長、40周年記念誌を総務委員長として担当しました。40 周年記念誌の編集で、シンガポール支部の海外で活躍する同窓生のプロフィールを掲載したことが、TIU Sparks の立ち上げのきっかけだったと聞いて大変うれしく思います。 早いもので、来年の11月の総会は、創立 50 周年記念総会になります。この記念すべき時を、皆さんとともに迎えられることは、この上なく光栄なことです。皆さんの大切な思い出を、創立 50 周年記念総会で形にしましょう。私は、3度目のご奉公で、50周年記念誌編集委員長となりましたので、今までの「集大成」といえる記念誌を作成するつもりです。 TIU Sparks 掲載の国内外でご活躍されている同窓生の方々の姿に大変感銘を受けました。記念誌に盛り込む企画・情報等を皆さんから募集します。どうぞよろしくお願いいたします。 霞会(東京国際大学同窓会)設立30周年記念誌と東京国際大学同窓会40周年記念誌から (松本雅男先生「米寿」祝賀会、最前列右端二人が私ども夫婦です) (退職記念を長男次男一家と) (高橋広さんプロフィール) 1969(昭和44)年3月県立富山高等学校卒業 1970(昭和45)年4月国際商科大学(現東京国際大学) 商学部入学 1974(昭和49)年3月同 卒業(6 期卒・松本雅男ゼミ・第6回秋霞祭実行委員長) 1974(昭和49)年4月(株)協和銀行(現りそな銀行)入行 1979(昭和54)年9月退職 1979(昭和54)年10月(株)英弘社入社 2016(平成28)年3月同 (関連会社)代表取締役歴任)退職 2018(平成30)年2月(有)人智開発研究所(デイサービス事業所)入社 2021(令和3)年7月同退職 2022(令和4)年3月介護福祉士登録 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...次々と襲い来る苦難を「笑顔創生」で乗り越える 加藤清さん(1981年卒業 商学部/13期 石井ゼミ)2022年9月1日加藤清さんは1981年3月に東京国際大学商学部を卒業後、埼玉県飯能市の家業の材木店を引き継ごうと大手材木問屋や大手材木店で勤務され、25歳で住宅建設の藤和ホーム株式会社を独立起業されました。現在は藤和グループ:住宅建設、不動産、介護福祉事業など(会社法人、一般社団法人、社会福祉法人、NPO法人、事業協同組合)の理事長・CEOとして、経営理念の「笑顔創生」をモットーに活躍されています。 40歳の時には、障がいを持つ人のために社会を変えようと、日高市議会議員に初当選(2期)、48歳で埼玉県議会議員を務められ、行政面からの地域活性化に貢献されました。また、東京国際大学同窓会(霞会)が一般社団法人になったときに副会長も務められ、大学・同窓会の発展にも尽力されてこられました。昨年、最愛の奥様を亡くされ、喪失感から体調を崩去られたそうですが、「63歳の今を再発進のスタートラインとして、世のため人のために自分ができることをやっていこうと決心しています」と述べられています。 私は現在、藤和グループという住宅建設、不動産、介護福祉事業などを行う複合事業体(会社法人7社、一般社団法人2社、社会福祉法人、NPO法人、事業協同組合)のCEOとして、「笑顔創生」を合言葉に埼玉県西部地域の発展と地元のみなさんの幸福のために尽力しています。かつては日高市議、埼玉県議会議員として行政面から地域の活性化を目指した時期もありましたが、今は民間人としてできることをやっています。 私が生まれたのは1959年で、埼玉県飯能市高山という西川材の本場で有り、山林経営の盛んな山間部で材木店を営む一家の長男として生を受けました。当時の飯能市は林業が盛んで、山持ちのほうが町の人よりも豊かな暮らしをしていました。そんなわが家でしたが、私が17歳の時、父が木材搬出中に事故に遭い、脊髄損傷による下半身不随の大怪我をしてしまいます。そのため東京の大学に進学するつもりでいた私は父を支えるため、地元の東京国際大学に入学することになりました。 早く一家を支える存在にならなければと思った私は、大学在学中にアルバイトに明け暮れました。社会のさまざまな面を知り、独立したときの糧とするためです。授業ノートのコピー販売、塾の講師、ちり紙交換などいろいろな仕事を経験しました。中には「夜逃げ屋」という映画になった様なグレーなアルバイト仕事もありました。会社を倒産させてしまった経営者一家を、債権者に気づかれないうちに最小限の家財道具と一緒に逃がすという仕事です。ここで私は、会社経営の厳しさを社会の裏側から学ぶことができました。 県議会議員選挙出陣式にて 特別養護老人ホーム四季の郷上尾 100床 卒業後、父のやっていた材木店を引き継ごうと考えた私は、大手材木問屋や大手材木店で働き、ノウハウを身につけます。しかし中小零細でその業界で生きることが難しいと悟り、隣接業種である住宅建設の会社を立ち上げました。1984年、私が25歳の時のことです。それ以来、事業を拡大しながら地元の青年団や青年会議所(JC)で仲間づくりをし、40歳の時には日高市議会議員に初当選を果たしました。市議を2期務め、48歳の時には埼玉県議会議員に当選し埼玉県の発展に寄与することになりました。 私が議員になろうと考えた理由は、障がい者となった父のことで行政と関係を持つうちに、「障がいを持つ人のために社会を変えようとするなら、議員にならなければダメだ」と思うようになったからです。議員になった私は、当時当たり前のように「障害者」と書かれていた表記を「障がい者」と改めさせました。 特別養護老人ホームふるさとホーム狭山 県会議員から市長を目指しましたが、日高市長選挙では次点となり、政治の世界から距離を置くことにした私は、それから障がい者施設や老人福祉施設を次々と立ち上げ、地域福祉の貢献に尽力しました。現在は建設と不動産の仕事を弟(東京国際大学卒業)に譲り、私は福祉分野の仕事に力を入れています。現在では病院、クリニックのオーナーを始め、特別養護老人ホーム(2箇所)介護付き有料老人ホーム(6箇所)、高齢者ディサービス(4箇所)、障がい者リハビリディ(3箇所)、子供たちの放課後ディ、介護ショップなどを開設しています。2023年4月には生越町に特別養護老人ホーム100床を、飯能市に45床の介護付有料老人ホームをオープンする予定です。 東京国際大学同窓会「霞会」は長く法人会を持たない任意団体でしたが、私が副会長を務めた時に一般社団法人となりました。大学に対して50周年記念事業に対する5000万円の寄付を行うなど、大学の発展に柔軟に対応できる同窓会を構築し、「積小為大」の精神でチャレンジを続けています。「東京国際大にはすごい人がたくさんいる。この大学のOB・OGで本当に良かった」と言われるような霞会であってほしいと思います。 亡き妻と箱根駅伝の応援にて 旧車を集めるのが趣味です。 私事になりますが、昨年最愛の妻を亡くしました。59歳という早すぎる死でした。膵臓癌と診断されてからずっと治療と看病に付き添い、最期は自宅で看取りました。喪失感から私も体調を崩し、いっそ死んで家内のところに行こうかと本気で考えたこともありましたが、ふと人生最大の苦難に打ち勝ち、下半身不随を乗り越えて自動車の運転ができるようになり、87歳まで生きた父のことを思いました。父は事故に遭った時、医者から「生きて1年、奇跡が起きて3年」と宣告されていたのです。 わが加藤家は飯能の山間地域で47代の歴史を持ちます。代々の祖先が生きる中では、私以上の苦難を経験した人がたくさんいたでしょう。今私が生きていて、娘や息子が元気でいられるのも、襲い来る苦難をはね除けたご先祖様のおかげです。ならば私も苦難などに負けていられません。そう思って家内の新盆を迎えました。 藤和グループの経営理念は「笑顔創生」です。自分自身が笑顔になることはもちろんですが、相手の方が笑顔になるにはどうしたら良いかを考えて行動することで、自分が、家族が、周囲が、会社が、地域が、社会が良くなります。そう思って『心構えを変えれば、行動が変わる、行動が変われば習慣が変わる、習慣が変われば人格が変わる、人格が変われば人生が変わる』この事を常に心して頑張っています。 私はかつて藤和グループCEO挨拶として次のようなことを言いました。 「人は笑顔になると脳からセロトニンと呼ばれる幸せホルモンが分泌され、幸福感や前向きな気持ちを感じることができます。『病は気から』という言葉もあるように、心の状態は体調にも影響します。笑うことで気分が明るくなれば、身体にも良い影響が生まれ、免疫力がアップし、ストレスが解消されます。だから常に笑顔でいることを意識すれば、毎日を元気に過ごすことができるのです。悲しい事や辛いことがあった時は、すぐには笑顔になれないかもしれません。そんな時はこの「笑顔創生」のフレーズを思い出し、どうしたら笑顔で過ごせるのかを考えてみましょう。そして小さなことからでも行動に移してみてください。きっと幸せになれると私は確信しています」 特別養護老人ホーム四季の郷 越生 今私はこの言葉を自分自身に向けて再発信しています。そして63歳の今を再発進のスタートラインとして、「世のため人のために自分ができること」をやっていこうと決心しています。 霞会のみなさんにも、辛いことや苦しいことがたくさんあるでしょう。中には一時の私のように、もう死んでしまいたいと絶望に襲われる人もいるかもしれません。そんな時こそ、この「笑顔創生」を思い出していただきたいと思います。東京国際大学の学生であった時のことを思い出すのもいいでしょう。きっと現状を打開するヒントが思い浮かぶと思います。自分のやってきたことにムダなことなど一つもなく、会った人たちともムダな縁など一つもありません。明けない夜はありません。必ず朝が来ます。此れからもお互い頑張りましょう。 (加藤 清さんプロフィール)1959(昭和34)年 2月1日生まれ(水瓶座) 1975年3月13日(金)父が作業中の事故に遭遇。 (父49歳、母42歳) ≪16歳≫「医師より生きて一年、奇跡が起きて三年」と告げられる。後に4年間の闘病、リハビリ。生活の後、脊髄損傷により下半身不随の1級障がい者となるも生還。 1977年3月狭山ヶ丘高等学校卒業 ≪18歳≫ 1980年9月母校の狭山ヶ丘高等学校に教育実習に行き、担任を持ったクラスで妻、美智代との運命の出会い。(昭和61年結婚、40年後の令和3年没)≪21歳≫ 1981年3月東京国際大学 商学部13期卒業 優秀学長賞受賞 ≪22歳≫ 1981年4月日榮住宅資材㈱入社 現ナイス(株) 一部上場(木材、住宅資材総合商社) 1982年3月日榮住宅資材㈱退社 23歳 (営業達成率賞で全国一位になる) 1984年6月藤和ホーム株式会社 独立起業 (現会長) ≪25歳≫ 1986年3月9日 4月(結婚 清 27歳、妻 美智代23歳)藤和建築設計事務所開設 1987年4月日高市連合青年団 団長就任 ≪28歳≫ 1987年10月20日長女 愛美誕生(清28歳 美智代23歳) 1988年4月飯能青年会議所(JC) 入会 ≪29歳≫ 1988年4月9日~10日「日高ヤングフェスティバル1988」を巾着田で開催し延5000人の参加。 第一回ミス日高コンテスト、日本一長い迷路、人気バンド演奏、模擬店、提灯みこし等の盛沢山のイベントを日高市連合青年団団長(実行委員長)として開催。 1990年3月藤和建設株式会社設立 (現取締役) ≪31歳≫ 1991年8月16日長男 将伍 誕生 (清32歳、美智代28歳) 1994年5月株式会社 藤増ステンレス工業設立 (現取締役) ≪35歳≫ 1996年7月有限会社トーマス企画設計設立 (妻 美智代 代表取締役) ≪37歳≫ 12月日高市建設事業協同組合設立 代表理事組合長 就任 1999年4月日高市議会議員選挙 2位当選(1期) ≪40歳≫ 2000年4月日高市身障福祉会顧問に就任 ≪41歳≫ 5月31日埼玉県公民館功労者表彰 受賞 2002年3月㈱グローバル介護サービス(現取締役) ≪43歳≫ 2003年4月NPO法人さいたま福祉ネット四季の郷設立 (妻 美智代初代理事長) 4月日高市議会議員選挙 トップ当選 (2期) ≪44歳≫ 6月日高市議会 副議長 就任 2006年2月埼玉県議会議員 当選 (1期) ≪48歳≫ 2007年6月埼玉県知事上田清司「埼玉を日本一にする県民の会」代表幹事 ≪49歳≫ 2008年4月有限会社トーマス企画設計設立(現取締役) 2009年4月医療法人社団 寿会 吉沢病院 経営顧問・監事に就任。≪52歳≫ 2010年4月日高市長選に挑戦するも次点。 ≪53歳≫ 2012年8月26日父 加藤増次 没 享年86歳 2014年6月農事組合長 2016年1月 4月 4月 4月 5月 一般社団法人あすなろ推進機構専務理事 ≪57歳≫ 日高市区長会副会長日高市社会福祉協議会福祉委員(28.4.1~30.3.31) 飯能警察署 地域防犯推進委員就任日本赤十字社社員増強推進委員就任 2017年4月日高市地域福祉計画策定委員会委員(29.4.21~31.3.31) 6月社会福祉法人藤和会設立(特別養護老人ホーム)理事長就任 ≪58歳≫ 2018年2月株式会社ネクサス 代表取締役会長 ≪59歳≫ 5月藤和BCS事業協同組合 代表理事 組合長就任 10月 一般社団法人にこにこ福祉機構 (妻 美智代 理事長)専務理事一般社団法人いきいき福祉事業団 代表理事 2019年2月山手介護株式会社をM&Aにて取得 代表取締役 社長兼会長 ≪60歳≫ 3月「笑顔創生」 藤和グループ 山手介護(株) 創業60周年記念式典開催 7月特許庁商標登録 第6160852号 「ミマモリー」登録証取得 11月特許庁商標登録 第6193693号「金澤式リボーン点滴療法」登録証取得 2020年9月特許庁商標登録 第6296440号「農体験型リボーンセラピー」登録証取得 10月リハビリ&フィットネス・元気アップ倶楽部 FC募集展開スタート≪61歳≫ 11月特許庁商標登録 第6313936号 「元気アップ倶楽部」登録証取得 2021年5月特許庁商標登録 第6394452号 「元気のビタミン」登録証取得 4月6日妻 美智代58歳がすい臓癌により6ケ月の余命宣告を受ける。≪62歳≫ 9月16日最愛の妻 加藤美智代がすい臓癌に依り没。享年59歳 ≪62歳≫ 2022年2月パーキンソン病を発症 障害者認定 2級となる。 ≪63歳≫ 9月社会福祉法人藤和会 放課後ディサービス鴻巣 開所 2023年4月 5月 9月 11月山手介護付き有料老人ホーム 四季の郷飯能(45床)開設予定 ≪64歳≫社会福祉法人藤和会 特別養護老人ホーム四季の郷越生(100床)開設予定著書 苦難と復活・心と体のリハビリ物語 出版予定リハビリ&フィットネス元気アップ倶楽部日高開設予定介護付き有料老人ホーム四季の郷 皆野 開所予定 ◆主な医療・福祉オーナー・その他の施設 40歳代~60歳代(個人所有)こうのす共生病院こうのす共生クリニック土地・建物 103床土地・建物 透析 介護付き有料老人ホーム・ふるさとホーム狭山 80床 ・ふるさとホーム寄居 35床・ふるさとホーム毛呂山 35床・さわやか倶楽部日高館 52床・皆野フォレストなの花館 26床 ・リハビリ&フィットネス元気アップ倶楽部 飯能・藤和マンション2 (RC3階)・藤和マンション3 (RC4階)・藤和マンション5 (RC4階)・放課後ディサービス 鴻巣 ・オクトマンション飯能 (鉄骨4階)・ほっともっと日高店 ◆主な医療・福祉オーナー・その他の施設 40歳代~60歳代(法人所有) ・ディサービスセンター山手なの花館・福祉用具貸与事業所介護ショップ山手・障がい者就労支B 四季の郷 日高 ・ディサービスセンター 山手せせらぎ館・指定居宅介護支援事業所 山手介護支援館・障がい者就労支援B スリール四季・リハビリ&フィットネス 元気アップ倶楽部 高坂・特別養護老人ホーム 四季の郷 上尾 100床・特別養護老人ホーム 四季の郷 越生 100床・介護付き有料老人ホーム 四季の郷 飯能 45床藤和グループ法人本部 〒350-1236 埼玉県日高市猿田37-4 Tel:042-978-8081 fax: 042-985-0667 E-mail: katou.kiyoshi@nifty.ne.jp 代表取締役 会長 加 藤 清 藤和ホーム山手介護藤和会ネクサス TIU 霞会シンガポール支部... Read more...『変なホテル』などロボットプロデュースの第一人者と言われ、成長する経営者としてこれまでやってきたこと。富田直美さん(東京国際大学 1972年卒業/4期 商学部 大久保ゼミ) 2021年11月19日富田直美さんは国際商科大学(現東京国際大学)創設時の4期生です。現在は 2016年にhapi-robo st (代表取締役社長)を立ち上げ、エイチ・アイ・エス取締役CIO、ハウステンボス取締役CTOとしてエイチ・アイ・エスグループのテクノロジー全般を統括 されています。 これまで外資系IT企業の日本法人社長など11社の経営にも携わり、(財)日本総合研究所理事、社会開発研究センター理事、アジア太平洋地域ラジコンカー協会初代会長等を歴任。多摩大学の客員教授。考える塾である“富田考力塾”を全国的に展開中。ラジコンはプロレベル。ドローンによる空撮もプロとして活躍中。成長する経営者としてこれまでやってこられたことなど、‘富田流‘の話をお伺いしました。 富田さんは「変なホテル」をはじめ、ロボットプロデュースの第一人者と言われ、イノベーションを先導されていますね。 ロボットに関する興味は日本のBaby Boomer世代と大きく変わるわけではありません。戦後の復興、高度成長時代にロボットは夢であり、鉄人28号(無線操縦ロボット)鉄腕アトム(人口知能をもったアンドロイド)そしてドラエモン・・・・がロボットに対する我々の未来の夢を形成したのではと思います。でも現実は、遅くて巨大な大型コンピューター、そしてワープロ、そして工場のラインでは、テレビ、オーディオ、等々の真空管からトランジスタ、正に省電力で小型化が進み、更にLSI そして高度なチップ化と工業化と合理化された製造工程の中に、作業用のロボットがはいってきました。 特にB to CでもB to Bでも共通な大量で高額な売上を上げる事ができる、自動車産業では著しい産業用ロボット、主に組み立てラインでの人の手の代用するロボットが開発され改善され、日本の自動車産業の隆盛と共に、Factory Automation における省人化と高度化に大いに貢献する。20世紀後半に入り、全ては生産性と多様性の為の発展をしてきました。 電話も有線の電話から、無線の電話へ、その過程で、更に多くのIT関係のコンピューターや、チップ、メモリー等々の半導体産業からのIT部品が製造され、半導体の記憶素子(メモリー)の世界的競争の中でも日本が世界のトップレベルの生産国、消費国ともなりましたが、肝心かなめの論理チップであるCPUにては米国のINTEL社の完全一人勝となったわけです。 (「変なホテル」のロボット・チェックインカウンター)(ハピロボ、パーソナルロボット temi /テミ) 東京国際大学(当時の国際商科大学ICC)を選ばれたきっかけと最初のお仕事は? 実は私は学歴で差別化される一流企業には就職する気持ちが全くなく、実力で評価される企業を選んだのです。 当時の大学(国際商科大学ICC)は私達が入ってようやく1年~4年までが揃った段階で、新しいキャンパスが裸のグランドの中にあり、郊外型の団地である角栄団地の横にある、そんな呑気な場所に受験失敗をした人が行き場を求めて来てた感じでしたが、一流大学を目指していた人と、少人数によるチュートリアル教育と創始者であり予備校である一橋学院を創業された金子学長が如水会(一橋大学のOB会)をバックでの、新企業人(アントレプレナー?!)を育成するとの志に救われた学生も存在しておりました。 一期生の就職が決まり出し、本当に金子学長と如水会の応援があってだと思いますが、成績優秀な先輩が、大手銀行、大手商社、大手メーカー等々への就職が決まって行く様を見て、ICCのような新設校であっても、しっかりと勉学に励む事で、一流大学を落ちた自分でも未来が開けると信じる事ができました。 なので、私も英検、商業英語検定、等々の資格取得と大学の授業での成績に拘る事ができました。Pre就活の始まりです。そんな中で、成績優秀?(ウイラメット大学のサマーセッションの補助金取得)な私には第一志望の大手商社への道も開けるのだと考えておりました。ところが考えてもいなかった大手広告代理店(学監のネットワーク)への早期就職内定の話もありましたが、貿易コースの私は大手商社を考えておりましたが、当時の親友がその大手商社を希望していたので、私は全く異なる選択をする決定をしました。それは一流企業には行かない・・・・でした。 ≪Why ? 一流には行かない≫ 私はこう考えました。一流大学を目指し、2浪までして、結局 ICCに拾われた自分が、いくら勉強したからと言って、凄い学歴にはならない。だとしたら一流企業に学長と如水会の力を得て入社できても、そこに集うエリート学歴の同期と出世競争をせざるを得ない。同じ実績をあげたとしても、ICCの先輩がいない私より、同窓の先輩が多く上司にいる人には勝負にならない。だとしたら実力で勝負できる、私の力?を必要としている企業にはいるべきだ。そうだ、一流ブランドを目指すのでなく、実力だけで勝負できる企業を選ぼう。 こんなわけで、たまたま学生時代(両親の居ない苦学生)アルバイトをしていた会社の側にある2部上場で躍進中の田村電機製作所(現在のサクサホールディングズ)に入りたいと考えました。元々ラジコン模型を趣味としており、電子、通信、オーディオ、メカトロニクスが大好きでしたので、その視点から優れたProduct Lineを持っている事と海外に対しての躍進が見え、更にはNTT(当時は電電公社)ファミリーの企業だったからです。 ≪凄い就活対応!?≫ 残念ながらこの企業は大学の推薦リストには載っておらず(恐らく上を目指すICCでは二部上場は対象外?)、就職課の方々にお手伝いいただける部分は殆どなく、自分での対応を余儀なくされました。NTTファミリーの会社ですと、家柄、家族構成も多少は就活に影響を与えると聞き及んでいましたので、両親が他界している私のハンディをカバーする秘策を考えました。 亡父が高校で教師をしており、その教え子には名家出身の方もおり、銅の最大手である同和鉱業五代目会長の猪瀬弁一郎会長ご子息がおり、紹介していただき、お会いしました。 正に縁故リクルートを考えたのです。 猪瀬会長にお会いすると私の思いをくみ取ってくださり、目の前で、電電公社(NTT)の秋草副総裁に電話をされ、直接お会いできる手配をしてくださいました。 後日 秋草副総裁に日比谷の本社の副総裁室でお目にかかると早速、田村電機の桑原専務(電電公社から出向した筆頭役員)に電話をされ、全てのアレンジを整える事ができ、入社試験を受けましたが、無事入社する事ができました。 ここでの学びは、志望大学の受験に失敗し、ブランドでなく実力を高めるしか出世の道が無いと考える仲間が居る大学で救われ、更にブランド就職をするのではなく、金子学長を含む、建学の精神に燃え世界基準の教育を実践する為に呼び集められた、チャレンジングな精鋭教授陣に触れた私や仲間が、実力勝負の選択をも辞さず行った事が、今の私を醸成してくれたとの事だと考えます。 (2010年から2年間、大学同窓会の副会長を歴任。講演・セミナー講師として) ≪就職後の私を私らしくしてくれた荒波≫ 田村電機に入社し、トップダウンのコネクションもあり、希望する海外営業(貿易)の部門に配属されると考えておりましたが、この会社にも学歴判断があり、貿易部門の採用はたったの一人、なんと上智大学の外国語学部の人間が配属、そして私は一番元気な国内営業部一課に配属になりました。 Why ???!!! それは貿易部は三井物産経由の御用部門であり、元気一杯な私をまずは活気のある民需(NTT対応は官需部門)部門で徹底的に営業として鍛え上げる意図があったのです。 国内営業で大好きなメカトロと電子の計測器(カウンター = 電話の度数や、テープレコーダーの録音位置、コピー機械の枚数管理)部門の営業で、それらの営業の中でも、一流の電気メーカー、海外の商社を対応する部門に配属されました。外資系の事務機メーカーからリクルートされた優秀な上司と先輩との商社営業とメーカーの海外部門への営業を担当し、国内営業と海外営業の両方のチャンスを得て、御用営業でない自由な新規ビジネスを開拓する仕事ができ、入社半年後には、民需部門でのルーキーとして注目されるようになっておりました。 今でこそ有名な会社になっておりますが、この当時、私の上司が攻めていたのが、三星電子、金星社、大宇電子・・・・・と言う韓国の財閥企業、そして香港にある華僑系、そしてSears(ユダヤ系、米国の大手Discount 通販&デパート)等々、更にはインド系の商社であり、日本のエリート商社の商流には入らない異世界の会社でした。そして 1年経った頃、インドの商社からLC(Letter of Credit)が届き、ナ・ナ・何とこの国内部門での輸出取引を行う事になったのです。 その間、松下電機、三洋電機、SONY等々の貿易部門との取引も行っており、正に、国内一流電気関連、アジア新興国での商社取引、そして米国のXerox(コピー機械用カウンター)の日本駐在事務所との取引も学び、更に田村電機の諸先輩の経験則でできないビジネスを凄い上司とともに、私の貿易実務の資格に磨きをかけながら行う事ができ、入社翌年には田村電機の創設者の実弟である田村常務のお供でアジア出張も行い、国内営業部に居ながらにして、更に米国でのCES(CE Show)への出張も行うようになりました。 ≪発展的転職≫ 入社数年で自分の理想的な居場所を見つける事ができ、同期入社を超えて若手のホープとしての地位を確実な?!ものとした私に、当時、このカウンターを利用し、ドイツで始まった勤務時間管理システムの少数精鋭部門の先輩を受け入れる事を指示されました。 Flex Timeシステムのプロジェクトチームです。私は係長寸前の立場、そこにプロジェクトチームの課長、係長が入って来る?? 彼らは新しい制度とシステムを開発し販売する組織ですが、なかなかFlex Timeシステムは営業数字を挙げる事ができない状況で、営業数字をトップレベルで上げていた私の係に合併した形です。 余談も含めて、今まで全く触れてなかった、大切な事実があります。それは当時、私はラジコン業界では若きレジェンド(笑)となっており、ラジコンメーカーのリーダーでもあったのです。 その事が私の営業を大きく支えてもいたのです?? 理由はラジコンの専門誌にしばしば登場する有名人であり、日本選手権のチャンピオンチームの若きリーダーである私を知っている、テープレコーダーのメカ(カセットテープレコーダーのメカ部分)には小型のテープカウンターが入っており、当時一番の得意先であり、世田谷の桜新町に本社を置く、タナシン電気(世界一のカセットテープレコーダーのメカメーカー)があり、そこの技術幹部の多くはラジコンマニアであり、私を頂点とするラジコンメーカーのクライアントでもあったのです。 そんな事もあり、世界的に需要が高まった、カセットテープレコーダ、デジタル時計(電子でなく、メカ式)等々の主要部品に使われる計数機(カウンター)、そして人々の勤務形態を自由解放する自由時間勤務システム(Flex Working Time System = FLEX TIME)等の若手のProfessionalとのポジションを得て、先に田村電機を辞めて、新進気鋭のコンサル企業に転職していた先輩に誘われ、コンサルタントとしての第二のビジネス人生を始める事になったのです。 そのコンサル企業が、世界中の先端テクノロジー、全く新しいマーケティングの手法、そして企業とプロダクトのブランディングを行う、もっとも先端諦な独立系コンサルティング企業と知る人は知るODS (Overseas Data Service)でした。 外資系IT企業の日本法人社長など11社の経営に長年携わってこられましたね。 ≪コンサル企業から実業の世界へブーメラン回帰?!≫ 外資系IT企業にお世話になる前の 8年間、前述のODSと言う、世界中の先端技術・手法を日本の高度成長期に世界中から持ち込んだ情報コンサル商社で私が担ったいくつかの貴重な経験を辿ってみます。 田村電機の最後での私の命運を決めるプロジェクトがシンガポール工場設立準備プロジェクトでした。当時高度成長の中で、日本から欧州への電気機器の輸出が輸入規制で問題になり始めており、Panasonic, Sanyo、等々の大手家電メーカーがOff Shore工場(海外工場を現地法人化)する流れがあり、田村電機の電気電子部品も現地生産する事で国内でのLost Businessを補う対応を私が提案しましたが、時機尚早との断がおり、私はこれ以上田村電機にお世話になる事を良しとせず、先輩に誘われるまま物売りから知財を売るコンサル仕事にチャレンジする事になったのです。 ≪ODSでの最初の仕事≫ 当時のODSは一見変人集団で、人員は30名弱。 スイスのバテル研究所の研究員をしていて、国立音大の創業者の子息である福井さん、世界的なCar Designをドイツフォードでしていた伊藤邦さん、ライフスタイル調査の主幹をしていた三浦さん、等々、と創業社長の山口峻宏とその仲間と言う、凄い知能集団でした。しかも、元々海外の先端技術文献を輸入する商社からスタートして、それらの技術を研究調査する海外のトップクラスのResearch Associate(調査研究機関)の200社以上の総代理権を保有しており、正に戦後から続く日本の近代工業化の元である、世界レベルの先端技術情報を基に調査コンサルを行う先端的企業でした。 田村電機で電気・電子・メカトロ・働き方改革等々をして来た私への期待は先端技術関連の調査コンサル事業領域を拡大する事でした。既にこれがODSでの屋台骨になっており、おりしも、New Media, On Line Data Base, 等々の今流に言えば、DX(Digital Transformation)の夜明け前夜であり、技術的に言えば、真空管からダイオード、トランジスタ、IC そして大規模集積回路であるLSI さらにそれらを更に効率よくパッケージ化するチップキャリア等々、の先端技術の黎明期でもありました。その後、New MediaがMulti Mediaに、On Line Data Baseがクラウドに・・・・・LSI Chip carrierがSoC(System On a Chip = IoT)にと変遷して行く未来を俯瞰できる、正に私の好奇心を丸裸にする部門のリーダーとして成長する事ができたのです。。 研究調査部門の後は、企業のブランディイングであるCI (Corporate Identity)でミノルタカメラのCI、そして世界No.1のIndustrial Designグループを日本へ紹介するうプロジェクトに従事もでき、ポルシェ、ルイジコラーニ、ハンスムートそしてアップルのデザインを担ったFrog Designの代表ハート・ムート・エスリンガー等々、世界の天才デザインナー&グループとの提携業務。さらには先端コンセプトをProductにするODS Tradingの設立責任者と、実に多くの事を実業の立ち上げで学ぶ事が出来ました。 中でも当時のマーケティングがDemographic(属性)データ主体に対して、Life Style(生き様)を中心とすべきとするヤンケロビッチ博士の手法Life Style Indicator(LSI)を展開し、多くのConsumerをターゲットとした企業の初期段階のデータマイイング&マーケティングに資する事が出来た事も大きかったです。 ≪コンサルから実業家に最初のIT 企業≫ 正に、私にとっての本物のOJT(On the Job Training)MBA教室となったODSでの役割の中で、最初のNew MediaとOn Line Data BaseのStudy予測で、1985年頃にはソフトウェアが成熟し、超小型のコンピューター(Hand Held Computer = HHC)が登場し、マルチメディアの時代が訪れるとの下りが登場しました。 更に、通信ネットワークのデジタル化が進むと私もコンサルタントとして語り始めた頃、そして工業デザインが単なる躯体(シャーシー)のカバーで無くなる時代がLSIによりリアルになるとデザインが人間工学(エルゴノミクス)やライフスタイルによって決定されるとの正にDXによる変革が起きると自覚した段階で、DXの中心となるソフトウェアの世界への好奇心が増大し、田村電機を卒業した他の大先輩からパソコンのソフトウェアの世界のBig 3の一つが日本法人のGM(General Manager = 法人社長)を探しているとの話があり、自分の好奇心を満たす天から降ってきたOpportunityと考え退社して、飛びつく事にしました。 当時のPCソフト業界のBig 3が ①Microsoft, ②Lotus, ③ Ashton Tate でありそのアシュトンテイトの日本法人の社長候補、但しまずは営業部長としてスタートし1年後に日本法人の社長となり、その後アジア大洋州の地域社長にもなるわけです。これを実業家と呼ぶには余りにも稚拙ですが、一応、日本法人の代表取締役社長ですので経営者になったのは確かです。(笑) 正にNECのPC88や98が寡占状態を占める伸びを示しており、パソコンで業務のアプリケーションを開発できるソフトウェアであるRDMS(Relational Database Management System)の世界①の会社のソフトはパソコン単体よりも高価格で、でも中小企業でも全ての取引のデータ管理、請求書、受注書、等々の管理を、パソコンで行えるソフトウェアは特に高度成長期の中小企業、更にはダウンサイジングが始まっていた大企業でも爆発的に売れ、私は日本だけでなく、アジア太平洋地域の統括社長、本社の副社長となり、4年後にアシュトンテイトが下位のボーランド社に吸収合併されるまで勤めあげ、IT業界でのいくつかの座長(日本パソコンソフトウェア協会理事、東芝ソフトウェア協議会会長、パソコンソフトウェア著作権協会副会長・・)をつとめる事になりました。 ≪私の今にも影響を与えた2番目の凄いIT企業≫ アシュトンテイトを離れた半年後、アシュトンテイトの吸収合併を仕掛けた、米国のVC(Venture Capitalist)の担当Associateである原丈人氏が、なんと私に世界No.1のテレビ会議システム会社であるPictureTelの設立されたばかりの日本法人の社長のポジションを持ってきてくれました。因みに、アシュトンテイトの時代にあの孫正義氏のソフトバンクはアシュトンテイトの一番の代理店であり、アシュトンテイトが吸収され私がその年の暮れに離職した年明けの1月1日の早朝6時に、出張先のニューヨークから、“富田さん、お仕事ご苦労様でした、今ニューヨークで別なデータベース企業の社長と会っているのだけど、直ぐにニューヨークに来れない”との電話を下さったのです。 その時の孫さんはまだ、日本のソフト流通のBig 3の一社であるソフトバンクの社長に過ぎなかったのですが、彼がパソコン単体へのソフトウェアから、企業LAN仕様の初のソフトウェアであるアシュトンテイトdBASE LAN販の日本での初の展開、パソコンが大企業の大型コンピューターや、ワークステーションに伍して使える新時代 = ダウンサイジングの道を開く凄い製品であった事も明記させていただきます。 さてそのピクチャーテルで以下の事を成し遂げる事ができました。 6人の日本法人を数年で50名のトップ企業に その後、アジア太平洋地域の社長として17の地域、200名のスタッフ、シンガポール開発センター設立。 NTTの世界初のデジタルネットワーク(N-ISDN)の普及の為の世界初のパソコン対応型テレビ会議システムをマイクロソフトWINDOWS 95上で実現するPhoenixプロジェクトを提案そして完成。 1996年にこのPhoenixを日本全国の小中学校1000校へ配り、この1000校への同時双方向配信をできるPhoenix通信網株式会社をNTTと共同で設立、そのシステムを世界に先駆けて納入、私も社外取締役に就任。 このシステムを使ったマルチメディア教育 “コネっとプラン”(子供のデジタルネットワークによる双方向教育)を小室哲哉氏の“You are the One”と言うキャンペーンソングの収益金で開始、その後2000年2月まで24回、ビル・ゲーツまで含むリアルタイム双方向の教育を成し遂げ、24万人の生徒が学校に居ながらにして、遠隔双方向教育を受ける事ができた。(*図1参照) 1999年、ジョンソン&ジョンソンと世界初の遠隔内視鏡手術システムを開発し、遠隔医療の先鞭をつけた。今盛んになったテレ・ワークは既にその時点で使える状態になり、デジタル化は日本が世界で断トツだった。 ピクチャーテルとシャープで先端のテレビ会議システム開発をするプロジェクトを開始し、その直後、私は ドットコム世界へ飛び込むべく、ピクチャーテルを辞める。 (*図1) ≪ドットコムピーク時の業界に転職、ドットコムバブル弾ける中での乱世へ≫ 2000年に孫正義氏がドットコムへの本格参入を発表し、彼が参考にしたと言われている米国の最大の投資インキュベーショングループである、ピクチャーテルと同じBoston地域にあるCMGIから誘われ、そのグループの最優良企業で、日本の住友商事と提携関係にあり日本法人(資本金30億)を設立済みのEngage社(世界トップのProfiling技術 = ネット上での人の行動から最適な広告バナーを瞬時に表示)の社長のポジションで引き受けました。 結果2年後、ネットバブル崩壊とともに退職し、その後IT関連の先端企業5社の日本法人社長を歴任(①Pulse社=全ての写真からAvatarを生成する世界No.1の技術保有、②Collabnet社=唯一無二のオープンソースソフト開発のプラットフォーマー、③Opsware社= Web管理の自動化ソリューション1、④ArcSight社 = 世界No.1の厳しいネットセキュリティ企業で米国国防総省 日本自衛隊使用、⑤Paralles社 = クラウドサービスの自動化とAppleでWindowsを使える仮想化技術)を短期間に歴任し、60歳の時から初めて知った世界一のセールスマンと言われ、米国一流企業のメンタリングを行い、日本でも著書が10冊翻訳されている世界的なメンターであるジェフリー・ギトマー氏の公認トレーナー資格を取得、多摩大学の客員教授として大学院大学での教鞭をとり始める事になりました。。 (パラレルス(株)の社長就任挨拶) ... Read more...“ オレゴンから愛”、異文化の架け橋に島田 昌己さん(1981年度卒業 商学部 高橋宏チュートリアル、山岡ゼミ ESS /ウィラメット大学1980年度卒業)2020年12月1日島田昌己さんは、1981年3月に国際商科大学(現東京国際大学)を卒業。在学中にウイラメット大学(ウ大)での第1回春期ゼミナール参加され、3年次よりウ大に編入。ICCとウ大留学でダブルディグリーを取得され、人生が大きく変わったと感謝されています。卒業後、Sonyに入社、26歳でオレゴン州への移住を決められ、日米交流の代理店業務や在ポートランド日本国総領事館に勤務。1993年からは現地法人東京国際大学アメリカにて ”ASP at Willamette University” で28年間、活躍されてこられました。パンデミック収束の先行きの見えない状況の中、今年の4月に退任されましたが、アメリカ社会に永住を決めて38年、日本人としてどんな貢献ができるかをこれからも考えていきたい、と述べられています。 入学した頃の大学のイメージは、他の伝統校に比べて革新的、躍動的で少数精鋭。外国人学生と楽しそうに語る大学生のポスターに「米国オレゴン州ウイラメット大学姉妹校」のコピー、案内には好きなドルフィンが。「国際」という文字がまだ新鮮だった頃、ICC(国際商科大学)は他の伝統校に比べて革新的、躍動的で少数精鋭、新しい形の大学として「Vision, Courage, Inteligence」を掲げ、英知と機動力が養える大学のイメージでした。 入学しやすく、学長をはじめ教授陣や職員の方々との距離が近く、あの時代の英語の達人3者の二人(國弘正雄先生、浅野輔先生)が教鞭を取られていて、留充実した留学プログラムと海外からの留学生との交流が盛ん。自ずから求めて努力すれば、刺激的な出会いや人生を変えるような経験を提供してくれる「打てば響く」大学と感じていました。 ICCが将来の選択肢を広げるきっかけとなり、幸せな人生設計に繋がる「出会い」や「機会」を提供してくれたことに感謝しています。姉妹校のウイラメット大学と同じく、人生にポジティブな変化をもたらしてくれた大学でした。 ICC(国際商科大学/現東京国際大学)とウイラメット大学留学でダブルディグリー取得によって、人生が大きく変わったと感謝しています。TIUの英語教育と留学制度を利用できてTIUとウ大にて素晴らしい教授、先輩、学友、そして後輩達に出会えたこと、大学の提供する留学経験が自己発見と価値観の確立につながり、進む道の選択肢に自信が持てたこと、幸せに繋がる人生設計ができたこと、価値観を共有できる素敵なパートナーに巡り会えて温かい家族を持てることに繋がったこと、幸せな人生を送ってこれたことなどですね。 将来を模索していた自分はICCに入学したことで、西海岸の隠れた名門、姉妹校ウイラメット大学(ウ大)に留学することができ、ダブルディグリー取得により進路の選択肢が海外にも広がり、人生が大きく変わった卒業生のひとりであることを感謝しています。 子供のころから海外へのあこがれがあり、外国留学できるようにとICCへ入学。新潟県長岡市生まれ。隣の見附市で恵まれた生活環境の中で育ち、小学校から高校までは野球、柔道、水泳、サッカー、剣道、少林寺拳法と体を動かすことに熱中した。外国映画や洋楽が好きで自分の求めているものが外国にあるのではないかと感じていた。 そして入りやすく、外国に近づけるような雰囲気のある大学であるICCに入学希望。入学前は少林寺拳法部に入り自己確立と大学の英語学習に専念しようと思ったが都内での学生寮生活で実感した実用英語力の無さと留学制度を利用して海外生活体験をしてみたいと思い、ESSに入部。何とか短期留学まで漕ぎ着けました。 ICC時代の第1回ウイラメット大学春期ゼミナールウ大新聞の集合写真 ウイラメット大学(ウ大)での第1回春期ゼミナール参加から、3年次よりウ大に編入。ウイラメット大学(ウ大)での第1回春期ゼミナール参加での強烈なインパクトが米国大学学位習得への新たな夢を創り、あの7週間での経験と出会いが長期留学への特訓の原動力となる。恩師と仰ぐ先輩や先生方のお陰で英語力と留学資金の二つの壁を何とかクリアーし3年次よりウ大に編入することができました。 現実は厳しく、現地では学位取得の勉強量に圧倒され、逃げることもできず、それまで経験したことがなかった苦しみを味わった。絶望感、疲労感の中で自分の弱さを見つけ、強さを悟り、覚悟を決めた後にやっと腹が座る。その後徐々に学業や留学生活が充実して行きました。 オレゴンとハワイ大学夏期授業参加時に出会った人々の暮らしを見て、家族との時間を大切にし、自然環境を敬うバランスの取れたライフスタイルに魅了された。自分の存在意義や生きる意味、そして幸せとは何かを模索し始めました。 ウ大少林寺拳法クラブ ウ大 Beta会クリスマスパーティ ウ大授業(学生国連)記事 ウ大卒業式 卒業後はSony日本へ入社。留学終了後、恩師の勧めと太極の流れには逆らわずに就職戦線に臨んだ。就職活動は思ったよりスムーズに進み、数社から内定をいただくが、尊敬する先生や先輩のアドバイスもあり、SONYに就職。 プロフィール、ベータ方式ビデオ、ウオークマン、コンパクトディスクプレーヤー等の絶盛期。躍動的な職場で同僚、上司に恵まれて仕事も刺激的だったが、10年20年先の企業人の姿も見え、激務の中で変わっていく自分にも気付き、オレゴンで知り合った妻と4年目に方向転換に踏み切りました。... Read more...霞会事務局運営の思い出と躰道 池内和彦さん(1969年卒業 商学部第1期 西山忠三会計学ゼミ 躰道部)2020年10月12日池内和彦さんは国際商科大学(現東京国際大学)設立時の商学部第一期生です。 卒業後、株式会社ショーボンド建設、日本躰道協会本部に勤務された後、1987年東京国際大学(霞会)初代事務局長に就任され、2006年までの18年間、ご活躍されました。当時の霞会活動の活動や霞会事務局立ち上げ時の関係者皆さん方のご苦労などをお聞きしました。 また、学生時代から修練されていた「躰道」についても社会人となっても継続されており、世界躰道選手権大会 全日本躰道選手権大会 各種大会に出場して数々の実績を残されています。 最近は、ブログ「つれづれなるままに」掲載 5000日(閲覧数 550万回)やTAMC(東京アマチュア・マジシャンズ・クラブ)会員として、2004年より16年間(マジック出演 300回)、各種イベント、ボランティア活動なども積極的に行っていらっしゃいます。 校名が国際商科大学から東京国際大学となった1985年に、初代霞会事務局長に就任。1969年、大学を卒業後、ショーボンド建設株式会社に就職をして東京および仙台で勤務していました。 3年後、学生時代に修練をしていた躰道の本部となる東京の日本躰道協会へ転職して、組織拡充運営と実技指導者の専任として従事するようになり、全国の組織拡大と指導のために走りまわりました。 1980年、ボランティアとして霞会の常任幹事に就任して運営に携わっておりました。当時、同窓会費は永久会費として1万円を卒業生から任意に徴収しておりました。同期の三宅ヨシロウ常任幹事の提案により「同窓会費を学生が授業料を支払う時に預かり金として1万円ずつ徴収した方が良い」となり、大学側に折衝して承認されてから、同窓会費積立金は潤沢になり幅広い運営と活動ができるようになりました。 1985年に校名が国際商科大学から東京国際大学となるとともに新しく金子泰藏記念図書館が建設されました。「今まで図書室のあった管理棟2階の二部屋が空くので、同窓会で使用しませんか?」と金子泰藏学長より打診があり、同窓会役員会で検討して受け入れることなりました。事務室は提供されるが、専属の事務員が欲しいと協議した結果、日本躰道協会で組織運営に携わってきてノウハウを持っている池内和彦に専任として担当してほしいと当時の金子光男会長より打診がありました。同窓会役員会、臨時総会を経て、私は42才の時に、常任幹事から初代事務局長として就任することとなりました。それまでは、学生課の贄田課長が役員会からの要請で、パートの女性を雇って机と電話1台で同窓会運営を手伝っていました。専任の事務局長を招聘する時の給与対応も十分に配慮されていました。 霞会報の継続発行は、同窓会員からの反響は大きかったです。 いよいよ学生時代からお世話になった金子泰藏学長のそばで同窓会の仕事ができることに喜びを感じておりました。金子泰藏学長とは、大学の第1期生として入学したこともあり、卒業後も手紙などで現況報告をすると必ず返信の書簡を貰いました。躰道に関しても創始者である祝嶺正献最高師範とも意気投合して親しく交流をしており、全日本躰道選手権大会の行われた東京体育館にも観覧に来てくれました。私の結婚式にも来賓として出席いただき過分なるスピーチを頂きました。そのような金子泰藏学長でありましたが、私が霞会事務局を担当する早々に、突如、急逝されました。その日は会議が3つも実施されハードなスケジュールでもあったとのことでした。金子学長は80才の時でした。事務局長としての最初の仕事が青山葬儀場で挙行された葬儀告別式の参列となりました。 当時、大学のTIUニュースも同窓会報も作成が中断しているときでした。日本躰道協会時代に会報の作成及び編集に携わっていたものですから、同窓会員に対して、大学の創学者である金子泰藏学長の訃報を知らせなくていけないと考慮して、同窓会報を作成して全会員に発送をしました。以後、年2回~4回の定期発刊となりました。同窓会報で金子泰藏学長の訃報を掲載したことを知った大学も中断していたTIUニュースをこの機会に再発刊しました。同窓会報は当初タブロイド4頁のモノクロ版でしたが、最終的にはカラー刷りの冊子スタイルと発展させました。同窓会報はその後霞会報と名称を変えていき、毎号全国各地で活躍する同窓会員の模様を取材して採り入れていきました。その反響はとても大きかったです。組織の普及発展を考慮した場合、会員に現況を広報するものとして霞会報の発行はとても必要なものでした。 (事務局スタッフ体験者の卒業式あいさつ)(秋霞祭開催中、事務局に訪れた同窓生達と) 霞会の支部会は、当時は北海道と大阪の2支部だけでした。 私が事務局に就任した時には、霞会の支部会は北海道と大阪支部の二支部しかありませんでした。同窓会役員会(常任幹事会)では、事務局も設置できたことであり、全国に支部を創っていくこととなりました。各県に在住する卒期の早い人に連絡をして現地に赴き説明会を開催して、支部設立総会の開催についての打合せを次々にしてきました。日程と会場が決定すると同窓会本部で支部設立総会開催案内および出欠の返信ハガキを作成して支部の在住者へ発送をしました。そして支部会が全国に続々と設立していきました。その時の活動は、毎週のように土日は現地に出張して打合せを行い、そして支部設立総会と懇親会の当日にも出席して、霞会の活動について参加者に報告をして回りました。ほとんど休日もなく活動をしていた時でありました。現在の各地での支部会の活動ぶりを見ていると楽しくなってきます。 最近では、霞会シンガポール支部が世界各地で活躍する同窓会員の活躍ぶりをまとめてホームページを作成して広報をしております。霞会員の活躍ぶりを知ることは喜びに感じております。(霞会全国支部長会議、宮城県松島) ミステリー作家、横山秀夫氏(商11期卒)の講演会には800名の方が来場され大盛況でした。 霞会の主な行事として、6月には定例総会、講演会、懇親会があります。なかでも講演会は講師が同窓生が担当することもあり毎回好評であります。ミステリー作家として活躍している横山秀夫氏(商11期卒)の講演会には800名の方が来場して大盛況でありました。1月には新春の集いが開催されております。アトラクションでは、紙切り芸の林家正楽師匠、江戸物売り声宮田章司師匠など有名演芸人に出演をしてもらいました。また全国の支部や会員から提供された景品が当たる抽選会では盛り上がったものです。全国支部長会議は全国の支部が持ち回りで毎年主管して開催をしておりました。会議の後は懇親会となり交流の場となり、また翌日は主管県支部による観光案内なども実施しておりました。毎年、春と秋にはゴルフコンペがあり、時には大学側と合同開催する大コンペも由緒ある霞が関カンツリーカントリーで開催したこともありました。体育会OB会(藍旗会)とは定期的に交流会を開催して活動の互助体制をしておりました。また霞会正副会長と大学学部長、職員幹部との定期懇談会も開催して情報交換をしておりました。(ミステリー作家、横山秀夫氏(11期卒)講演会) 学生時代から修練していた「躰道」について社会人となっても継続しています。 大学在学中に修練をしていた「躰道」も、卒業後も継続して鍛錬するとともに指導を担当しておりました。 そして、躰道の大会には機会あるごとに選手として出場をしていきました。全日本選手権大会では連続して優勝をしました。全国社会人大会では東京国際大学のゼッケンを背中につけて出場し、優勝とともに栄誉ある「最高師範杯」を何回も獲得しました。全国の躰道指導者が集まる全国範士競技会でも個人の部、団体の部で優勝を果たしました。日米親善大会では選手を代表して宣誓を担当したこともありました。 海外で活躍をしている同窓生として、躰道部出身の内田光信氏(商学部4期卒)がおります。卒業後、アメリカに渡り、ネブラスカ州の大学を卒業すると、ジョージア州アトランタで「NAC」という会社を創り、日本とアメリカの企業のコンサルタントをしており、多くの政財界の人たちと交流を広げました。東京国際大学の理念に基づいて、世界に羽ばたいて活躍している同窓生の内田光信氏です。また、内田光信氏はアメリカ躰道協会会長として数千人の会員に躰道の理念と実技を指導しております。私もアトランタには、アメリカ躰道大会と世界親善躰道大会の時の二回訪れて選手として出場をしております。全国躰道選手権大会優勝(個人の部)(日米躰道親善大会で選手宣誓を担当)(国際躰道親善大会 アメリカ躰道協会会長の内田光信氏と) 常に、「吾 動く故に 吾在り」の根本理念を念頭にし、その精神で活動をしてきました。 私は18年間、霞会事務局長として組織運営に携わり60才の時に後進に譲り勇退しました。金子泰藏学長から「同窓会事務局が大学内にあることは同窓会との密接な関係が構築される」との提案により、事務局用の部屋を無償で提供していただいたことはとても大きかったです。そして卒業後は霞会員となる現役学生を毎年数名募集して事務局スタッフとして手伝ってもらいました。私が在職している間に約40名の学生たちがスタッフとして協力をしてくれました。 事務局長を勇退した後は、まだなかった霞会東京都支部(現首都圏支部)の設立準備に奔走して組織として立ち上げスタートさせました。その後、霞会常任幹事、評議員からも退いて、現在は首都圏支部の顧問として活動をしております。 母校・東京国際大学の同窓会(霞会)初代事務局長と勤務できたのも、入学第1期生であったことが大きな要因であります。第1期生の入学者は196名で、当初は、管理棟と校舎の二棟しかない国際商科大学(ICC)でした。教員、職員、学生たちが三者一体となってICCの名前を世の中に広めていこうとの精神がありました。 常に、「吾 動く故に 吾在り」の根本理念を念頭にし、その精神で活動をしてきました。 現在は、現役学生たちの支援に時間をとって活動をしていきたいと考慮しているところです。 (池内和彦さんプロフィール)1945年 東京都武蔵野市に生まれる 1964年 東京都立竹早高校卒業 1969年 国際商科大学(現東京国際大学)卒業 第1期生商学部 1969年 株式会社ショーボンド建設入社 東京および仙台にて勤務 1973年 日本躰道協会本部に転職 1987年 東京国際大学同窓会(霞会)事務局長に就任 2006年 東京国際大学同窓会(霞会)事務局を勇退 ◎学生時代から修練していた「躰道」について社会人となっても継続しており、各種大会に出場して実績あり。世界躰道選手権大会 全日本躰道選手権大会 全国範士躰道競技大会 全国社会人躰道優勝大会国際親善躰道優勝大会 日米親善躰道大会 等で優勝実績多数あり。 ブログ「つれづれなるままに」http://blog.goo.ne.jp/ikeuchi_1945 掲載 5000日 閲覧数 550万回 TAMC(東京アマチュア・マジシャンズ・クラブ)会員 所属 2004年より16年間 マジック出演 300回 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...入社3年目に初めての海外勤務、以来「フロンティア・スピリットの精神」で国際ビジネスにチャレンジ。 落合正和さん(商学部 6期/1974年卒、阿部光典ゼミ、アメリカンフットボール部)2019年11月27日1998年に国内の医療法人に再就職してから今年で単身赴任生活21年目になります。 ● 入社後に、海外での仕事をしたいと思われたきっかけは何でしょうか? 私がゼネコンの佐藤工業入社後に海外に携わるきっかけとなったのは、毎月発行される社報に連載されていた「シンガポール支店の工事報告」に自分の海外勤務の夢を重ね合わせていたことに端を発します。私の入社した年は、第一次オイルショック直後で新入社員は過去最多の270名を超しておりました(翌年から新規採用は激減)。新入社員の多くは国公立・有名私立大学の出身者で、卒業生を輩出してやっと6年目の新設無名大学出身の私が対等に競っていくためには何をしなければならないのか常に自問自答の日々でした。後輩たちの為にも絶対に大学の名を汚すわけにはいかないという思いから、自分が活躍できる場として海外に的を絞ることにはそう時間はかかりませんでした。アメリカンフットボール部時代に培ったフロンティア・スピリットのチャレンジ精神と体力にはだれにも引けを取らない自信があったからです。 ● 初めての海外赴任は入社3年目の25歳からと聞きましたが? 丁度そのころ、佐藤工業は海外建設市場の拡大を視野に国内職員の選抜を始めていました。当時の上司から「君は国際商科大学の卒業生だったね、語学が堪能ならば海外工事に興味はないのかな ?」との質問に『勿論希望するところです!』と即答。その1年後本社海外事業部へ移動。しかし、希望していた英語圏のシンガポール勤務ではなく、三井物産を中心とした日本企業連合とイラン政府との合弁石油化学コンビナート建設の国家プロジェクト(IJPC)の現場要員として未知の産油国イランに赴任することが決まったのは入社3年目の25歳の時でした。 イラン転勤の声がかかった職員の中には、灼熱の気候(夏の気温50℃超)、公用語(ペルシャ語)、宗教(回教)食事(羊肉)等大きな環境の違いから躊躇する者が続出しました。私を含め選抜された数名の事務系職員は本社で大量の建設資材をイラン迄輸出する業務を担当し、赴任までの3カ月間のペルシャ語の読み書きの特訓を受けた後、順次現地に赴任して行きました。当時は中東勤務者の一時帰国の社内規定も整っていない時代で、皆いつ日本へ戻れるか不安な気持ちのまま羽田空港から一路首都テヘランへ向け飛び立って行きました。案の定、我々よりも先に赴任していた先輩職員たちはあまりの環境の違いに適応できず脱落する者が続出、私は、着任早々欠員となった経理課長の代わりに急遽テヘラン事務所の事務担当を任されることになりました。 ● イラン・イラク戦争下の困難な状況の中での仕事も経験されたとか。 1976年テヘラン着任後私は、ペルシャ語の家庭教師として自費でイラン人秘書を雇い、事務所内ではペルシャ語以外は一切使わないようにしました(会話は勿論、書類も経理帳簿もすべてペルシャ語)。イラン革命の勃発で緊急帰国するまで(1979年3月)の2年間で習得したペルシャ語が革命時の内戦状態の中で、身の安全を守る最大の武器となるとは思いも寄りませんでした。革命による工事中断で帰国した後、1980年からは2年間サウジアラビア・ヤンブーで国内向け精油所建設工事の工事事務に携わりました。サウジアラビアから帰任後は革命で頓挫していたIJPCプロジェクト再開のための現地被害調査に2度にわたってペルシャ湾岸の建設現場に向かいました。当時はイラン・イラク戦争真っ只中、現場に着任後1週間で工事再開の情報がイラクに漏れ空軍によるロケット弾攻撃を受けた現場には一度も立ち入ることができず、日本人関係者は全員キャンプ内で監禁状態となりました。人質生活3ケ月後、日本政府とイラン革命政府の話し合いの結果、急遽現場から解放されることになりましたがイラク軍の攻撃を避けて現場からテヘランに避難するには陸路しかありませんでした。700名の日本人は15台のバスに分乗し月明かりのない闇夜の晩に無灯火の隊列で一路テヘランを目指しました。私は、先頭車両のイラン人運転手の通訳として同乗し先導役を買って出ました。翌朝朝日が昇る頃15台のバスは全て無事テヘランに到着することができ、この時また苦労して覚えたペルシャ語に助けられることになりました。 ● 中国、トルコ、ロシア、フィリピンをはじめ米国でもグローバルに活躍されてきたのですね。 帰国後は本社海外事業部で新たな海外市場開拓を企画しておりましたが、1986年、米国デトロイトでアメリカンモータース社のJeep組立工場の自動生産ラインを受注したことから、米国での新規事業展開の事務責任者として現地法人立上げから8年間初めて家族帯同で勤務することになりました。アメリカンモータース社がクライスラー社に統合され、契約は解除となりデトロイトからカリフォルニア(オレンジカウンティ)に移り新たに手掛けたのが不動産開発事業です。商業施設・事務所・集合住宅等の賃貸不動産を建設所有し、最終的にはロスアンゼルスの西部で総事業費250億円の会員制ゴルフ場付き宅地開発(Spanish Hills Golf & Country Club)を手掛けた後1994年3月に長男の高校受験の1年前のタイミングで日本に帰任致しました。 ● 後輩の方々へのメッセージをお願いします。 帰国後3年程国内支店におりましたが1997年に佐藤工業を47歳で希望退職。1998年より茨城県常陸太田市で医療法人の本部事務局長として18年勤務。現在は、グループの調剤薬局と医療コンサルタント会社を経営しております。華々しく、刺激的で且つ厳しい国際ビジネスからはしばらく離れておりますが、国際商科大学のVision・Courage・Intelligenceの教育理念は、常に新しい事に挑戦する際に私の指針としております。勤務の傍ら東京国際大学の同窓会活動にも参加し2009年から常任幹事、2012年から副会長を8年経験し、2019年4月より霞会の法人監事(任期4年)を務めております。 私の信条は、「フロンティア・スピリットの精神」です。未知の荒野を切り開いていく開拓者魂。東京国際大学の校歌の歌詞3番を聞くと今でも胸にこみあげてくるものがあります。 『叡智を誇るわが友は 信義に厚く学たけて 苦難の道を切り開き 7つの海に漕ぎ出でん 世界の国を翔けめぐり 勝利を歌えよ高らかに これぞ我らが母校 東京国際』 東京国際大学の現役学生の皆さんに伝えたい事は、自分は何がしたいのか、自分には何ができるのか、それを在学中に徹底的に追求して下さい。また母校を既に卒業した後輩の皆さんには、日本にいても海外にいても常に新たなことに挑戦する「フロンティア・スピリット」を忘れない開拓者であって欲しいと念じています。 (落合正和さんプロファイル) 1974年3月 国際商科大学 商学部(阿部光典ゼミ)卒業、アメリカンフットボール部(主将) 卒業後、佐藤工業株式会社入社 名古屋支店、本社海外事業部勤務。1976年から2年間イラン(テヘラン)赴任、1980年から2年間サウジアラビア(ヤンブー)製油所建設工事に携わるほか、中国・トルコ・ロシア・フィリピンなどでマンパワー市場調査業務。1986年に米国の現地法人を立ち上げ、ミシガン州デトロイトとカリフォルニア州オレンジカウンティに8年間駐在。1997年佐藤工業株式会社退社。 1998年から国内医療法人の本部事務局長、今年で単身赴任生活21年目。現在医療法人グループの調剤薬局と医療コンサルタント会社を経営。 2009年より同窓会常任幹事、2012年より副会長職を8期経て、2019年より法人監事。 TIU 霞会シンガポール支部... Read more...商売の基本は人間関係。「信頼関係」を築くことが、商売成功の秘訣だと思います。Lee Ee Hoe(ダト・スリー・リー・イー・フイ)さん、経済学部 28期/1996年卒 栗林ゼミ2019年11月27日マレーシア国アップル企業グループ会長。1964年7月5日、ジョホール州生まれ。高校卒業後上京し、添乗員として働く。25歳のとき日本へ留学。東京国際大学付属日本語学校で日本語を学んだ後、東京国際大学に進学し国際経済学を専攻。帰国後の96年、旅行代理店「アップルホリデー」を立ち上げる。2013年、外国企業としては初めて、日本の観光振興への貢献を称えられ、日本観光庁より「第5回観光長官表彰」を受賞。2015年、日本とマレーシア間の観光産業分野の発展に寄与した功績により 「旭日双光章」を受賞。 「日本人より日本のことを知っている人」と言われるダト・スリ李さんは、国内最大手の旅行会社、アップルバケーションズ&コンベンションズ社の代表だ。同社はアジア地域およびヨーロッパ地域への旅行関連業務を手掛けるほか、国内に3ツ星、4ツ星ホテルを所有・運営する。1996年、社員3名で立ち上げた小さな旅行代理店がわずか18年で、今や年商2億リンギを売り上げる一大企業に成長。その要となったのは、訪日観光ツアーだ。国内の北海道ブームの火付け役となったのが、ダト・スリ李さんなのだから。2013年11月に移転したというブキッ・ビンタンにある新社屋を訪問した。 訪ねて驚いたのが、会長室のある4階。エレベーターを降りると、トビラの向こうは見事な「和」。日本食レストランに来たのかと錯覚するほどの、凝ったインテリアだ。「この丸太ですか? 九州から取り寄せました。ここにある椅子や壁素材なども、すべて日本から取り寄せたものですよ」とダト・スリ李さん。フロアー内にズラリ〜と飾られた土産品や樽は、「岐阜県知事や三重県知事はじめ、来社いただいた方々からのお土産です」。 ダト・スリ李さんはゴム農園で働く両親のもとで育ち、高校を卒業した後はKLでツアーガイドとして働いていたが、日本に留学している友人の勧めで、日本留学を決意。「日本に着いて1週間後には、中華食堂でアルバイトを始めました」。日本語を全く解せないダト・スリ李さんだったが、「店のご主人、トヨタさんは私の顔を見ただけで雇ってくれました。会話はほとんど筆談で、トヨタさんの奥さんは私に童謡を教えてくれた。そのお陰で日本語の上達も早かったと思います」。トヨタさんはダト・スリ李さんが進学する大学の保証人になってくれた。大学在学中は東南アジアの華僑相手にツアーガイドのアルバイトをし、日本各地を回る。 そのときの経験が、帰国後に始めたマレーシア人向けの訪日観光ツアーに生かされることになった。「おいしい食べ物と景色、温泉、雪、何か体験できる要素など、マレーシア人相手に必要不可欠な要素があれば、人気が出ます。今私が注目しているのは岐阜県です」と語るダト・スリ李さんに、商売成功の秘訣を聞くと、「お客さんとの信頼関係です」。日本人以上の日本人だと感じました。 (Senyum2014年7月号、この人のセニョ~ムより) 霞会マレーシア支部の設立で、同窓生ネットワークを応援して行きます。 アップルバケーションズ社は東京国際大学の同窓生と創り上げた会社で、マレーシアではNo1の訪日ツアーオペレーターとなり、10名の卒業生が働いている。現在、東京、ジャカルタ、シンガポール、バンコックに支社を構えており、旅行業界の先駆者として高い評価を受けるとともに、各方面から注目と称賛を浴びている。アップルグループではさらに、航空ロジスティ事業、電子メディア及び広告事業、ブティクホテル事業、不動産投資、旅行専門学校の運営へと事業を拡大していくそうです。 2017年2月に霞会マレーシア支部が設立されました。グループホテルであるLe Apple KL Tower内のRokkoレストランにて設立総会が開催され、日本からの霞会関係者やシンガポール支部の方々などの参加で賑やかな会となりました。「これからマレーシアでもTIU同窓生のネットワークを強力なものにして行きます、当面の目標は3年以内に会員を30名します」と挨拶をされていました。 TIU 霞会シンガポール支部... 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