生涯思春期・雑草でもいいんです、緑でいられれば。
横山亮信さん (1990年卒業 商学部 三村ゼミ)

(最近の家族の写真。私とハワイ出身で日系4世の妻、そして13歳の息子です)

埼玉県出身の1986年度生。1990年商学部卒業です。東京で証券会社に入社。1年ちょっと営業職をし、退職。1991年に単身でオレゴン州ポートランドに渡り、証券会社でStock Brokerとして3年弱勤務。その後は、日系企業、メディア媒体、マイナーリーグ球団職員、インターネット関連等と、何度か転職をし、現在はColumbia Sportswear本社でサプライチェーンアナリストとして、主にアジア地域のサポートをしています。私は決して自慢できるような経歴や語れる活躍ストーリーがあるわけではありません。在学中の経験や、「英語」との出会い、そしてなによりも、東京国際大学を通して出会った人たちからの支えで私の今は成り立っています。その感謝の意味もあり、また今後の進路に悩んでいる学生がいたら、世間や周囲の声またはアドバイスも重要ですが、自身の内側に秘められた声も聞いてもいいんだと感じていただけたら幸いであると思い、私の経歴を紹介させていただきます。
 
私は国際商科大学の受験票を持って受験し、東京国際大学に入学。学校名が変わった最初の年でした。大学生になった解放感か先走り、恥ずかしながら、志というものは特になく、4年間いかにして学生生活を楽しもうかとばかり考えていました。これは高校まで野球に没頭し、ほぼ私生活がなかったと感じたことへの反動でした。4年間、三村ゼミ(マーケティング)に所属しました。この三村先生から受けた助言や激励は私の後の人生にポジティブな影響を与えてくださり、感謝しています。どのような助言だったのかは、私の育ってきた過程に関係します。

2度の英語との出会い
小学生の頃から、決して成績は良くなく、授業中もなかなか集中できない子供でした。当時は生徒数も多く、できない子供はどんどん取り残されていく教育システムだったと思います。まだ当時は個性重視なんて時代ではなく、周囲と異なる言動には偏見が付きまとい、その上成績が悪いと人格まで否定されたように扱われた時代。通信簿には毎年「落ち着きがない」だの「無駄口が多い」だの書かれた子供でした。そんな落ちこぼれの道を進んでもおかしくないような中で、私を救ってくれたのは英語との出会いでした。小3か小4の頃、自宅にブリタニカの英語教材のセールスマンが訪れます。当時ではよくあった訪問販売員。通常であれば、「興味ありません」と言って追い返す母が何故か話を聞いていたのです。私と同世代の方はご存じの方もいると思いますが、「モクモク村のケンちゃん」や「マコとガコの冒険シリーズ」等の絵本を観ながら英語を交えた物語を聴くもので、楽しく自然に入っていけました。当時では定番のThis is a penから入っていくのではなく、日常生活で使える英語に耳と自ら音を発することから入っていったことで、英語に対する抵抗がなくなったのだと後になって思います。
 
しかし当時、英語は中学生になってから。相変わらず成績がいまいちの私は、負い目を感じたまま成長していきます。小学5年生の時、たまたまちょっとだけ予習しおいたものが算数のテストに出て100点をとった時、先生からはカンニングをしたと決めつけられ、「自分のしたことをよく考えて反省しろ」とまで言われ、その時のショックと先生の顔は今でもしっかり覚えています。結局自分は、よくやっても認められない人間なんだと落ち込んでいる時、また救ってくれたのは英語でした。近所に横田基地に出入りしている人で英語がとても堪能な人が中学校の教科書をベースとして小さな英語塾をやっていると聞き、入れてもらいました。中学生になり、学校で英語の授業が始まるころには既に3年生の教科書で学んでいた私は、英語だったら「ボーダーライン落ちこぼれ」のイメージを変えることができるかもしれないと、希望が持てるようになりました。
 
それから中学、高校と英語はある程度成績を保っていましたが、他の成績はいまいちのまま。大学はその時、国際商科大学で入試が英語だけの制度があり、受験しました。小学生の時の2回の「英語との出会い」が無かったら、大学には行けてなかったかもしれません。

人生の転換期をつくるきっかけとなった大学時代
既に私は世間に対して反感を持っている若者になってしまっていました。学力だけで人を判断する風潮の強い世の中。自分の意見を殺し、訳の分からない校則を守って「良い子」を演じなければ孤立していってしまう子供時代。更に当時はバブル真っ只中。周りから認められるような「大学生」を演じ切るため、背伸びするのに疲れていました。人間関係にもうんざりしていた私は、その疲れていることにも気づかず必死だったようです。そんな大学2年の時、南オレゴン州立大学での夏季講習に参加します。これが全ての始まりになりました。
 
講習はわずか6週間。小さい頃から英語を上達させたいと思っていた私は、積極的に下手な英語を使いまくり、現地の人との交友を深めていきました。全てのことが初めての経験で、感受性の鋭い19歳の私には全てが新鮮でした。最も感じたのは、みんな自分らしく生きようとしている。違う考え方や行動に対してみな寛大で、お互いを尊重している。日本で少しひねくれてしまっていた私には衝撃的だったんです。そして、一般社会人の家族第一主義。当時の日本のサラリーマンは上司から「家族と仕事とどっちが大事なんだ。仕事に決まってんだろ」などど言われる時代。その時、「私は家族がハッピーになるために仕事をしている。それに障害になるのだったら、仕事なんて価値がない。」という声も耳にし、もしかしたら自分の居場所はここにあるかもしれないと思い始めました。その後、現地で知り合った人たちと連絡を途絶えないよう、手紙や電話等で交流を続けました。それと同時にその6週間の経験が衝撃的で、将来アメリカに移住することを妄想しはじめます。
 
しかし、「果たして、出来が悪いとレッテルを張られてきた自分にそんなことができるのか?」や「チェレンジする気持ちが強ければできるかもしれない」等と自問自答を繰り返していた大学4年生の時、ゼミの飲み会での三村先生との会話が私を勇気づけてくれます。先生が隣に座った時、私はその少し前に提出したリサーチを手抜きをしていたこともあり、気まずかったので、先制攻撃でこちらからそれを誤りました。そしたら先生は「横山君は能力があるのだから使わないともったいないですよ。」と思いもよらぬ返事が返ってきました。実は高校生の時にも一人だけ「本当は能力があるのに、それを発揮できていない。いつか発揮できる時が来るでしょう」と言ってくれた先生がいたのです。そういう風に言ってくれた先生って今まで2人だけですと話し、更には「でもそういっても、もう大学4年生。発揮できないまま学生終わっちゃいますね」と笑っている私に先生は「そんなの学生のうちに現れるものではありませんよ。当り前じゃない。横山君は本当にやらなければならない時が来た時に絶対やれるから。」と言っていただき、正直、いったい先生は飲む前から何を言ってるんだろうと思いました。「人生の転換期が訪れた時には自分を信じるように」とも言われ、その時いつかはアメリカに移住できると思った瞬間でした。あの時の先生には多少のお酒が入っていたかもしれませんが(笑)、あの言葉は大きいなんてもんじゃなかったです。


(大学の卒業式後のパーティー。左から3人目が三村優美子先生。右端が私)

いつどのような形で移住するかという具体的なプランがあったわけではなく、というか、どのように立てたらいいかもわからないまま、就職活動を迎えます。特に強く進みたい業種や職種があるわけでもなく、迷っていました。そりゃそうですよ。20代前半の若者で、その後の長い人生の明確なビジョンを確立できているのは稀だと思います。そこで私は証券会社の営業職に決めました。理由は2つ。将来どのような道に進みたいのかわからない中、証券業ではより多くの業界の勉強を強いられます。その中で、自分にはこれなのではないかと思える業種を選別できるかもしれないと考えたのが一つ。そして2つ目は、当時証券営業は最も過酷な仕事のひとつと言われていました。社会人1年目からそれを経験しておけば、その後はどのような道に行ってもやっていけるのではないかと考えたのです。
 
卒業前に、空いた時間でオレゴンでの夏季講習から交流を続けていた人達を訪ねにポートランドに向かいます。その時、お世話になった友人の親友が、最近こちらで証券マンになったということで、私も証券会社に就職をするということで紹介されたのです。当時はバブル崩壊前でポートランドにも日系企業が160社以上あり、また日系富裕層も多少いました。幸いにも、その友人の証券会社は小さないわゆる地場証券。社長にも会うことができ、「ポートランドには日本語を話せるブローカーがいないと思う。とても価値がある。日本で少し経験を積んだら、こちらへ来たら面白い。」と言っていただき、本格的に将来こちらに来ることを意識します。

日本で就職も1年で渡米を決意
入社したのは明光証券。(現SMBC日興証券の一部)配属されたのは新宿アルタスタジオの隣にあった支店。中野坂上をテリトリーとして与えられ、ほぼすべての時間を新規顧客の開拓に走り回りました。そして1年が過ぎた頃、子供の頃らから感じていた世間に対する違和感に加え、理不尽ともいえる日本のサラリーマン社会が拍車をかけ、私は23歳の時渡米することを決意します。極端な縦社会と年功序列には特に反感を覚えました。年上の人を敬ったり、目上の人に対して敬意を表すのは日本文化の素晴らしい部分ですし、私も重んじでいます。ただ、それが極端すぎて、ほんとに仕事ができないし、実際してないのに歳を重ねてきただけで給料が倍だったり、営業においては自分より半分以下の成績の先輩のほうが給料高かったりで。だったら実力で勝負できる環境に行きたいと思いました。生意気な若造だったんですね。
明光証券にはニューヨークに駐在事務所がありました。まずはそこに行くことが近道かもしれないと思い、会社に、今すぐではなくても近い将来行かせてほしいと相談しました。2年目に差し掛かったにしては数字をあげていたので、問答無用はないだろうと期待していたのですが、かえってきた返事は想定外のものでした。「実はあそこは日本で使えないやつが行くとこなんや。英会話は上達するかもわからへんが、下手したら日本に帰ってくる場所が無くなってまうねん。お前は将来有望やから行かせるわけにはいかんのや。」でした。勢いのある大阪弁の反応に喜んでいいのかなんなのかわからないまま「わかりました。それなら自分で行きます」と言って辞意を伝えます。私のプランと目標を話すと、「わいは立場上止めなあかんのや。そやけど個人的にはそういうチャレンジは素晴らし思うねん。胸張って行ってこい。ただ、わいが止めなかったことは絶対内緒やで。それやったらお前の上司と人事にうまく言っとってやる。」と言っていただけました。当時はまだ売り手市場で、社員が減ることは管理責任を問われるので、退職は簡単ではありませんでした。もしその時退社にてこずっていたら、人生変わっていたかもしれません。この時本音で対応してくださった営業本部の方には今でも感謝しています。
 
しかし、内心怖くて震えていました。英語には子供の頃から触れていたとはいえ、かたことレベル。渡米した際には証券のBrokerとなる資格を取らなければならず、ビザの関係で、それに受からなければ帰国という条件。試験は6時間(500問)のテストで合格率は30%以下。ましてや英語を母国語としない人にとっては難度が増します。突破できたとしても、完全実力主義。数字をあげなければ容赦なく解雇。周りには「何夢みてんだよ」とか「お前は甘いよ」等、止める人の方が断然多かったです。三村先生にも相談しました。先生は背中を押してくれた数少ない人の中のひとりでした。決心する過程の中で私は、中途半端では無理だと悟り、親には「アメリカで何年か経験を積んで、日本で将来役にたてる」と安心させる為に言っていましたが、内心は帰ってくるつもりはありませんでした。これは、駄目だったら帰ってくればいいやという選択肢があると、どこかで甘えてしまうからです。
 
チャレンジを決心した理由は他にもあります。自分に少し苦労をさせないといけないと感じたのです。私の世代は高度経済成長後の生まれ。幸いにも中流家庭に育てられた私は、苦労というのは味わっていません。高校大学時代はバブルに甘やかされ、就職活動は当時「売り手市場」と呼ばれ、今では考えられないように学生がちやほやされ、なんの苦労もなく就職。その時点での人生を振り返った時、「このまま歳を重ねていったら、俺、嫌なやつになっちゃうな」と、ふと思ったんです。そして、1991年の春、就職の保証はないまま渡米しました。

足踏みからスタート
よく「期待と不安で云々」という表現が使われますが、正直不安しかありませんでした。その不安は出鼻から的中し、飛行機を降りたことろから難関に出会います。実はその時、正式なビザは取得しておらず、観光ビザで渡米。これは説明すると長くなるので省きますが、先ず行かないと何も始まらないのでそれを優先し賭けにでました。案の定入国審査でひっかかり、数時間拘束されます。そのまま不正入国者の留置所に送られることは防げましたが、就職活動等は一切行なわないよう強い口調で警告を受け、ゲートをでました。在学中に夏季講習で知り合い、そして卒業前に証券マンのDarrell君を紹介してくれたSandy君が、数時間待たされたにも関わらず、出迎えてくれました。
 
この後、Sandy君は私に移民弁護士を探してくれたり、住む場所を確保してくれました。またその後の弁護士や証券会社との交渉の仲介などもDarrell君と協力し、2人とも公私ともに多忙な時期にも関わらず、私をサポートしてくれました。このサポートがなければ、間違いなく今の私はなく、彼らには感謝しきれません。彼らと彼らの両親、兄弟とその家族とは、今でも家族同様のお付き合いをさせていただいています。人生、誰でも大きな転期を迎えた時、キーとなる人に出会うものですが、間違いなくこの2人は、そうです。その出会いを提供してくれたのは東京国際大学です。その他多くの方々のサポートのもと、1991年の春夏を正式なビザ取得の為に費やし、手続き上一度日本に戻り、秋に改めて渡米しました。春に感じた変な胸騒ぎはなく、今度は純粋な挑戦に対する不安と緊張で、食事が喉を通りませんでしたが健康的な緊張でした。


(Sandy君、Darrell君とPortlandで証券マンをしていた時に遊びに来ていた私の母です)

証券取引ライセンス取得
まず、最初にやらなければならなかったのが、証券Brokerのライセンスの取得。これをしなければ、紹介してもらった証券会社からの雇用はありません。その時はビザの関係で転職の選択肢はなく、絶対条件でした。選択肢がなかったことが、逆に必死になれた要因だと思います。当時はインターネットは一般的に普及するかなり前で、日本からの情報など簡単に入ってこない時代。日本人の知り合いもいなかった為、日本語を話す機会等まったくありませんでした。それで集中できたのも事実です。テストに向け猛勉強を始め、今まで人生でこんなに勉強したことなかったように勉強しました。頭の中を英語にするため、寝る時はラジオをつけっぱなしにしたり、常に独り言を言っていたり、映画を英語の字幕でみて何度も同じところを繰り返したり、考えられることは何でもしました。やはりWall Streetは何回も観ました。会話を練習するために銀行の残高照会に電話をし、残高を聞いた後、世間話をしてみたり。必要の無いものをコンビニに買いに言って、店員と話をしたりと、人ってやけくそになると、結構いろんなことできるんだなと思いました。 
 
その時ふと、三村先生に言っていただいた、「やらなければならない時がきた時」って今なのかなぁと、ふと思ったのを覚えています。そんな生活を7か月し、テストは3回かかってしまいましたが、何とか合格し、Stock Brokerとして仕事ができるようになりました。実は3回不合格となると、半年間は受験することができず、会社からはそれには待ってくれないことを伝えられていました。合格ラインからわずか5問差での合格だったこともあり、ほんとに首の皮が一枚つながった状況でした。1991年5月7日のことで、今でも全てのモーメントをはっき覚えています。ただ、その夜どれだけ飲んだかは覚えていません。

TIUAにご挨拶
この頃、ポートランドから約1時間程南のSalemという街に、東京国際大学アメリカ(TIUA)が開校して数年がたっていました。私は、Brokerライセンスを取得し、正式に就職したのを機に、ここに卒業生がいることを知っていただこうと、挨拶に伺いました。当時赴任していたのは川嶋先生で、よくお昼をご馳走になったり、ご自宅に夕食に招いていただいたり、よくしていただきました。川嶋先生と言えば当時、常時和服で通し、アメリカでも洋服は着ない主義。私の在学中もそうでした。私は、川嶋先生の洋服姿を見たことのある数少ない人間です(笑)。在学中は川嶋先生の授業は履修していましたが、なかなか直接話す機会はありませんでした。このような縁でお会いでき、いろいろとお話させていただいたことは貴重な時間でした。そして当時、事務局長をされていた卒業生でもある鳥原さんに、「ポートランドの日本領事館に先輩がいるぞ。会いにいってこいよ」と言われ、このサイトにもオレゴンから愛とかなんとか言って(笑)投稿されている島田さんに出会います。http://kasumikai-sg.rfsc.info/archives/1191

こんな遠くにいた近い先輩
さて、こうして始まったアメリカでの生活ですが、アメリカの証券マンは全て歩合制。多くの若者がアメリカンドリームを夢見て挑戦します。現実は大半が半年もたずで諦めていきます。私は離脱する選択肢がなかったので必死でした。当時は電話での飛び込みセールスからスタート。かたこと英語でセールスの電話をするわけですから、簡単ではありませんでした。人種差別的な言葉を浴びせられたこともあったりしましたが、あの手この手で何とか少しづつ顧客を獲得していきました。もちろん、日系企業も片っ端から周り、ポートランドだけではなくシアトルにも足を延ばしネットワークを広げていきました。電話帳から日系または日本人だと思われる人たちに片っ端にコンタクトし、顧客を獲得していき、順調かと思いきや、やはり厳しい世界。うまくいってある程度の収入を得られる月もあれば、ほぼ無い月もあります。家賃を払えなくなる危機になったり、冷蔵庫が空になることもありました。不調な月が続いてしまうと、ほんとに食べるのにも苦労しました。
 
そんな時、今では笑い話になっていますが、島田先輩宅へ、ちょうど食事をしているだろうと思われる時間に「ご挨拶」に現れるようにしました。心の中で「飯食ってく?」と言ってもらえるのを期待しながら、そんなことないふりを一生懸命してました(笑)。しまいには島田さんに「もう面倒くさいからうちに住んじゃえば?」と言われ、空いている部屋に1年程下宿させていただきました。ここでまた、東京国際大学を通して知り合った人に、危機を救っていただくことになり感謝しきれません。母親には今でも「島田さんには足を向けて寝てはいけません」と言われています。今では島田家とは自宅も近く、家族ぐるみでお付き合いさせていただいて30年になります。

日本社会に逆戻り
Stock Brokerとしてのキャリアは何とか3年弱もったのですが、私にも潮時が訪れてしまいます。ただ、諦めたわけではなかったので、いつかは返り咲いてやると思いながら転職先を探しました。ですが結局取り敢えず落ち着いた先は日系企業でした。まだバブルに陰りが見えてきたとは言え崩壊前。優越感を持った日本の駐在員サラリーマンとその家族で構成された、閉ざされた独特な社会に身を投じることとなりました。社内ではいい上司や同僚に恵まれたのですが、業務上では顧客や取引先等は日本社会そのもの。異国の地に「造られた」社会は、日本社会の嫌な部分だけを凝縮させたような場所になってしまい、ドロドロした世界でした。
 
更に私は「現地の人間」と、見下されたりもしました。なんでアメリカ来てまでこんな思いをしなければならないんだと、悔しくなったり、Brokerとして成功ができなかった結果と沈んだりもしました。正直、2度と日本人社会と関わる仕事はしたくないと思ってしまいました。結果的にはまたひねくれてしまうこととなりましたが、この経験で、また牙が伸びてきてくれたのかと思います。

メディア業界に方向転換
1996年。また転機が訪れます。経緯は長くなるので省きますが、当時ポートランドにあったマイナーリーグ1Aの球団職員となります。元高校球児の私にはドリームジョブでした。面接に行った時、グランドに立ってここが職場だと思うとウキウキしたのを覚えています。業務はスポンサーセールスでしたが、マイナーの小さな組織でしたので、あらゆる経験をさせてもらいました。当時はまだ日本人選手がメジャーに多く渡る前でしたが、当時の監督や選手たちと私の日本での高校野球での経験をシェアしたり、日米の野球の違いの話が盛り上がったりしたのはとてもいい思い出です。確かに楽しめる仕事ではありましたが、決して安定を求められる仕事ではありませんでした。マイナーですので球団の移転や買収とはいつも隣り合わせ。また、収入はとても家計を支えられるものではなく、オーナーとGM以外は皆、ここで何かを学び、それぞれの道へ進んで行きます。経営側もそれを前提として運営しています。結局私も球団買収及び移転もあり、余儀なく転職先を探すこととなります。
 
Stock Brokerとしてのセールスや顧客管理の経験と、球団職員として経験したマーケティング、プロモーション等が幸いし、ラジオ放送局に転職します。再び、数字をあげないと解雇と隣りあわせとなるチャレンジングな業界でしたが、もう一回実力の世界で勝負したと思いました。ここでも山あり谷ありの2年半程を過ごしましたが、その時の顧客との縁で、当時シアトルに本社を置きNBAのシアトルスーパーソニックスのオーナーで主にシアトル、ボストン、マイアミに多数のテレビ、ラジオ局を保有する会社に紹介されました。その会社は他にもアウトドアメディアを展開していて、そのアウトドア部門で、ある地域を担当してほしいとAK Mediaという会社に誘っていただけました。業務そのものよりも、会社の理念や方針、人材育成に対する考え方等に共感できる会社がやっと見つかったと感じました。もちろん、ここでも数字が全てです。しかし、会社が自分と同じ方向を向いていると感じ、ここなら大丈夫だと確信しました。その後順調に過ごし、この会社に引退するまでいられるかもしれない、いや、いたいと感じ始めた頃、会社が少しずつポートフォリオを売却しはじめ、やな予感がしてきました。最初はNBAチームの売却でしたが、それはプロスポーツの世界なのでさほど気にはなりませんでしたが、少しずつ小さなアウトドアマーケットやテレビ局等を売却し始め、そろそろ大きな一発がくるなと感じでいました。
 
案の定2001年、ClearChannelという大手に売却されました。懸念していたのは、この大手のイメージが、私が転職を決めた時に共感した会社の理念や方針とは全く反対の評判だったからです。噂通り、会社の方針は反対に進み、職場環境は悪化。どんどん容赦なく人は切られて行き、2007年、私も耐えられなくなりました。タイミングは最悪でした。この数年前には自宅を購入。奥さんは妊娠中。収入は現在も含め、その時が一番稼いでいた時期だったので、仕事を辞めている場合ではなかったのは確かですが、あの時の精神状態では、いい父親になれないと感じました。人生何が大切なのかを考え直し、辞表を出すことを決めました。周りにはサポートとなる家族や友人がいたのでなんとかなっていましたが、精神的には疲れ切ってました。ここまで大学を出てから、自分なりの「成功」を求めて全力疾走し、余力がなくなったという感じでしょうか。この辞表提出で、一つの章が終わったような感覚さえありました。

ちょっとここで息抜き
やはり私生活とのバランスがあっての人生。のめりこんだのはアイスホッケーです。私は東京小平の錦城高校で野球をしてました。甲子園出場経験はなく、当時は中堅レベルでした。何年かに一度は甲子園に出ても恥ずかしくないチームとなり、年の近い先輩後輩には、もうあと数歩まで行った年もありましが、私の時は数歩どころかマラソンより長いレベルでした。(笑)80年代の典型的な高校野球の厳しい世界を通ったことは誇りでもありますが、いろいろ後悔や疑問が残り、不完全燃焼状態でいたのですが、こちらに来て間もないころ、友人に誘われホッケーを観戦し、残り分を燃焼させるのは「これだ」と目覚めてしまいました。その影響で13歳の息子もプレーしています。少し前まで週2~3回氷上で暴れてましたが、最近ではコロナの影響もありますが、体力の衰えも顕著に見え始め、かなりスローダウンしてます。息子の練習を手伝ったり、息子のチームとパパ軍の試合に出たりするのが楽しみになっています。野球の指導もしてますが、こちらでは不完全燃焼を八つ当たりするわけにはいきません。(笑) 


(息子の野球チームと私)

冷却期間
それから数年は、元AK Mediaの重役数人と、私と同じようにClearChannelを去っていった人たちで立ち上げた会社でコンサルタントとして働いたり、知り合いのインターネット関連の会社を手伝ったりしていましたが、2008年の深刻な景気悪化もあり、なかなか安定したポジションに着くことができませんでした。しかし、この数年間は自宅勤務で時間もある程度自由に設定できたため、子供と出産時からずっと一緒に過ごすことができました。子育てをフルタイムで行うことができて、成長の過程を見逃すことなく過ごせたのは大きな財産です。子供が初めて笑った時、最初の言葉を発した時、最初の一歩を踏んだ時を見逃さなかったんです。仕事が当時は「最悪」だと感じた一連の出来事も、実はこのような時間を過ごせるように、必然的に起こったことなんだと感じてます。またこの数年は改めて自分のことを見つめ直す時間にもなりました。
 
若い時は誰もが「成功」というのを地位や収入と直接結び付けてしまいがちです。決して間違いではありませんし、それを最後まで追い続けるのもひとつの人生であり、ある意味持ち続けていたいパワーです。しかし、もっとバランスの取れた生き方があるのではないかと、この頃気づきます。日本の社会に反感を感じ、ひねくれてアメリカに渡り、こちらの日系企業での経験で更にひねくれてしまい、日本とは全く縁のない仕事をしてきました。日本で生まれ育った月日よりも、渡米してからの月日が長くなる時が近くなるにつれ、少し肩の力を抜いて、今まで経験してきたことを活かせて、より自然体に生きるのがいいのかなと感じ始めました。「いい歳こいていつまでも意地はってないで」と自分に言い、日本語を必要とする仕事も視野に入れはじめました。そして巡り合ったのがSurveyMonkeyというオンラインアンケートツールの会社でした。

活躍できる場所を求めて再出発
SurveyMonkeyは日本市場から2017年に撤退してしまいましたが、当時2010年は、日本語サイトを立ち上げる準備中で将来の日本市場進出を目指していました。そこで私は5年半、日本市場の開拓全般にかかわりました。プロジェクトは順調に進み、いよいよ日本支社を立ち上げる準備にかかった時、日本への移動を考えるよう相談されます。こちらでは、日本の会社のように転勤は一方的に命ぜられるのではなく、選択肢を与えられたり相談等、過程を踏むのが通常です。私は悩んだ末、やはり家族を優先し、こちらに留まることを伝えました。
 
会社の反応は、「それなら事実上の解雇」でした。ただ、「今辞められたら困るので、日本で支社長になる人をトレーニングしてからにしてほしい」とも言われ、酷な話だとは思いながら、そうした場合のボーナスに目がくらみ(笑)承諾しました。今度こそ長く居られる、いや、居たいと思える場所が見つかったと感じ、努力してきたので大変複雑な心境でしたが、人生そんなものですね。状況がレモンを投げつけてきたら、それを拾ってレモネードを作らなければ、先に進めないのだと。そしてこれも何かの理由があってのことなんだと言い聞かせて前を向くようにしました。

現在の職場へ
無事にその責務を果たし、さぁこの後どうするかと思っている時、現在の職場であるColumbia Sportwearが日本であるプロジェクトが進行中であることを耳にし、知り合いを通して紹介してもらいます。日米のビジネス文化の近いからくる溝があり、なかなかスムーズに事が進まないようでした。私は、今こそ今まで自分が歩んできた道を無駄にしない機会が訪れたのかもしれないと感じました。日本で生まれ育っていなければ、わからないことってもちろんたくさんありますよね。そして、ある時期はひねくれて日本と全く関係ない場所にいたかもしれませんが、そこまでどっぷりこちらの社会に浸かることで学んできたこともたくさんあり、またそうしないとわからなかったこともあると思います。ここで日本側と本社の間に入り、お互いの「声」となれるよう、常に新しいことへのチャレンジをモットーに勉強させていただいて6年目になります。数年前から、中国と韓国も担当するようになり、更なる勉強の毎日です。

今後の人生
自分ではまだまだ若いと思い続けてきましたが、現実には引退を考えるまであと10~15年。ですが正直まだ発展途上であると感じています。転職を繰り返した事で、現職に就いたのはわずか5年半前で、ベテラン感がないことがあると思いますが、今の自分を必要としてくれている場所に居ることができていると感じています。就職活動の頃、特に強く進みたい業種や職種があるわけでもなく、迷っていたといことを申し上げましたが、正直いまだにその状態であるような気がします。しかし、一日が終り、鏡に向かいどのように自分のことを感じるかが大事で、職種やポジション等はそれを受け入れられるものにするツールのひとつととらえています。そして、最初に何故自分がアメリカに移住したかったのかを改めて考えるようにしています。
 
自分らしく生きることができて、仕事よりも家族を第一に考えることのできる環境。だからと言って、20代の頃にあったような強い志を捨てなくてもいい、ある程度バランスの取れた状況に感謝しています。勿論、ある程度の犠牲はありますが、何よりも、子供の成長過程を見逃さなかったこと。今でも子供のホッケーの練習や試合はほとんど見逃しません。子供の野球チームの監督も毎年こなしてきました。それを仕事と両立できていることに満足しています。
 
私のメインプロジェクトは、今13歳の一人息子が家を出ていく時に、独り立ちできる準備をしてあげること。そして、そこまでの人生での後悔を最小限にできるようガイドしてあげること。渡米して30年、辛いことのほうが多かったような気がしますが、一度も後悔したり諦めようと思ったことはありません。ただ、同じこと繰り返せって言われたら考えちゃいますけどね(笑)。あの時、周りの声や恐怖心に惑わされながらも、何故あんなに渡米したかったのか自分でも不思議です。しかし、自分の内側から聞こえる声に耳を傾けたことで今があります。もし彼がそのような状況になった時には、的確なアドバイスができるようになりたいです。今息子はより高いレベルを目指し、400マイル(約650キロ)離れた地でホッケーをしています。親としてはお金はかかるし、毎週片道6時間の運転等、犠牲は少なくありません。彼が最終的にどのレベルまで上がっていけるかわかりませんが、終わった時に、できることは全てやりきったと感じてほしいのです。正直なところ、自分が味わって不完全燃焼になってしまった野球での経験を彼にして欲しくないというのが本音です。結構その後引きずってしまうんですよ。
 
私のこれまでの人生で経験した、良かったことと後悔や反省の両方がそこにポジティブに凝縮されていると信じ、今後も進んで行きたいです。また、それを可能にできている要因には、山あり谷ありで、不安定な時期も多々あった中、同じ価値観を共有し、いつも応援してくれた奥さんのサポートがあり、大変感謝しています。


(親子対決後の一枚)

(横山亮信(あきのぶ)さんプロフィール)

埼玉県出身錦城高校卒業
1990年3月東京国際大学商学部卒業 三村ゼミ
大学2年の時、南オレゴン州立大学での夏季講習に参加
1990年4月卒業後、明光証券入社。(現SMBC日興証券の一部)
1991年渡米。 ポートランドでStock Brokerとしてのキャリアを積み、現地の日系企業へ転職
1996年~ マイナーリーグ1A(ポートランド)の球団職員、 音楽ラジオ放送局、 AK Media/ClearChannel(アウトドアメディア), SurveyMonkey(オンラインアンケー ツールの会社)などに勤務
2015年~ Columbia Sportwear(ポートランド)勤務。サプライチェーンアナリストとして主に日本、中国、韓国をサポート
*会社ホームページ  
https://www.columbia.com/
https://www.columbiasports.co.jp/(日本語)

 

TIU 霞会シンガポール支部