「たくさんの素晴らしい出会いに感謝」
曽我部光由さん(1978年卒業 商学部10期 石井寛ゼミ)                                 

1978年国際商科大学(現東京国際大学)商学部卒の曽我部光由と申します。 数少ないICCの後輩かつ友人の島田昌己さんに紹介&背中を押され、恥ずかしながら今までの人生の大半を占める海外出向生活の良い時代大変な時代をまとめて振り返る良い機会と思い寄稿させていただきます。

ICC学生時代を振り返って
四国の田舎町の裕福でもない家庭で育った私が海外とくにアメリカにあこがれを持つきっかけは、ミッキー安川さんの自伝漫画だったと思います。戦後間もない時代にお金もなく言葉も分からない米国に行って奮闘されたお姿に「自分もいつか体験したい」と漠然と思ったものです。
 
当時国際と名のつく大学は今ほど多くなく、私の中では今では死語となっている「ハイカラ」に感じて受けた国際商科大学に入学することができました。残念ながら卒業までの5年間は褒められたものではなく生活に追われアルバイト三昧で、島田さんのように留学と学業に情熱を傾けられた誇らしい学生生活と比しまして恥ずかしながらやっと5年でICCを卒業できたといった有様でした。
 
それでも交換留学中でキャンパスで学んでいる姉妹校W大生のカウンセラーとしてお世話をしながら様々な出会いができたのも良き思い出です。W大の当時副学長だった故Dean Yocum先生に「W大の大学院でDegree取りたいなら私が推薦してあげる」という温かいお言葉に、真剣に留学を考えた時期もありました。米国留学にあこがれ、交換留学していたW大学生の友人たちに誘われ卒業前にW大キャンパスも訪れ特別体験授業も受ける機会も得られました。オレゴンの州都Salemの歴史あるキャンパスや自由な学生たちの雰囲気に魅了され、Graduate Schoolに必須のGMATの難解さも考えずその気になったものです。しかしながら実父が病に倒れ入院。そんな中で不確かな夢を追い続ける余裕もなく実家の父の生存中に就職して安心させなければと遅い就活をスタートした次第です。




(ウ大交換留学生のカウンセラーをしていた時)

卒業後、メガネのパリー三城入社
同級生が内定を複数社もらいだした後でスタートした就活、ましてや学生最後の大切な人生のイベント(就活)を真摯にとらえず周りに流されて何とかなると人生をなめていたと思います。「異文化との出会い」にほのかな期待だけで海外に拠点のある企業にばかり足が向き、甘い考えで受けた旅行会社の最終面接に遅刻するというポンコツぶりでした。そんな中、眼鏡チェーン企業という認識すら薄く国際性豊かな小売り企業に映った眼鏡のパリー三城(現三城ホールディング)の入社試験を受け、運よく拾っていただきました。
 
入社当時1978年には、海外拠点と言っても社名にもある都市のパリ、そしてシンガポール、法人設立したばかりのハワイのみでした。同期入社数は150名以上と当時の三城の企業規模からは多すぎる採用でしたが、会社も専務(二代目オーナー)も当時若く勢いがあった時期だったと思います。
 
それでも小売業とは言え、扱う商品の眼鏡が視力矯正商品という医療関連サポート小売りの仕事に自分でも驚くほど思いのほかはまり、プライドを持って業務に没頭できるようになれたのは幸いでした。もちろん銀行に勤める友人たちから週末に誘われるたびに、周りがレジャーで出かける週末が一番多忙になる小売業の悩める定めを感じました。嫌気がさして辞めていく同期入社の仲間を送り出すたびに「因果な商売」と他業種が羨ましく映り、小売りが真に自分の天職なのか?と心が揺れたのも事実です。 
 
三城は1979年当時海外第2番目の法人(海外進出第1号はパリのオペラ店)として、シンガポールに当時旧ヤオハン所有のプラザシンガプーラに進出しておりました。入社2年目でお客様のエスコート係としてシンガポールに社員旅行で出かけた時、当時の支配人の活き活きとして働く姿が目に焼き付きました。朝の3-4時まで私たちやお客様を接待し、その翌朝10時前にお店で全現地社員への朝礼でてきぱきと指示する姿に、そして2号店に向けての現地ディベロッパーとの交渉事も目の当たりにし海外支配人という職位にあこがれたものです。

入社3年目にハワイ法人への出向を命じられました。
その後人事に海外勤務希望をアピールし続けたことが幸いし、入社3年目にハワイ法人への出向を命じられました。
 
時は1981年5月、日本人投資家によるオアフ島不動産バブルが始まる前でしたが、そのころでもすでに巨大アラモアナショッピングモールの当時オーナー企業が日本のスーパーダイエー社、ワイキキの主要ホテルも故小佐野賢治氏率いる国際興業社に買収されたあとでした。私どもパリー三城ハワイ店もカラカウア目抜き通りで営業していましたが、お客様の半数が現地のいわゆるローカル日系のお客様、そして半数近くが日本人ツーリスト、特に新婚カップルの方々でした。ここは本当にアメリカ?と感じるくらいアウェイ感もなく、当時の州知事も日系のジョージ有吉知事で島中が「アロハスピリッツ」で包まれていて、我々日本人にとってはまさしく魅惑の楽園だったと思います。
 
ただ周りはリゾート気分満載でも、仕事する身になると異なります。初めての海外店での勤務はワイキキという観光地だからこそ営業時間も長く、ハードな毎日でした。現地のお客様や本土からのお客様への英語での販売では失敗の連続に自己嫌悪の毎日でした。「あなたじゃダメ、ちゃんとした人に代わって」と何度言われたことでしょう。お店は設立3年経っていましたが、お家賃も景気に連動して毎年上昇し法人の資金繰りも芳しくありませんでした。今のハワイも米国一物価高の州ですが、当時は1ドル=230円前後で、何を買っても日本の倍ほどしていた記憶があります。
 
当時の支配人が諸事情により退社後、赴任して3年弱の何の功績もない私に仮とはいえ資金繰りが厳しい法人の支配人を任せた親会社はよほど人材不足に悩んでいたのでしょう! 法人とは言え、私を含め社員4名で自転車操業のお店の管理は文字通り綱渡り状態でした。毎月末買い付け商品や家賃、人件費などの支払いに追われていたのを覚えています。今思えば、この時期に私自身の中で「雇われサラリーマン」から零細ですが経営者として成長できた時代なのかもしれません。小さいお店の管理ですが、販売や眼鏡加工はもちろん商品調達のための仕入れや貿易業務も私一人がすべて担いわなければ会社が機能しません。当時PCメールも存在しない時代なのでTelex通信(FAXが出回るまで)、家賃交渉や店舗改装、決算書などの会計諸表作成、収支増で資金潤沢になった時点での新店出店計画、雇用と人材育成などなど、すべて初めての取り組みで大いに職位に育てられた時期でもありました。商学部出身にもかかわらず、簿記会計学などの学業に専念しなかったことを悔やみ自己嫌悪の毎日でした。毎四半期に恥を忍んで親会社の経理部長や現地の会計士に初歩から教えていただいたのを覚えています。
 
それでも私が支配人になった1986年から1991年にかけてのバブル景気(日本でのバブル崩壊は1989年の株価暴落)にはワイキキ全体が「ショッピング天国」状態で、パリ三城もその恩恵を受け現地法人のキャッシュフローも毎年右肩上がりに増えました。そしてその勢いで3店舗にまでお店も増やすことができました。


(1988年ハワイの自宅で)

常夏のリゾート地ハワイで家族を持ち子供(息子二人)にも恵まれ、このまま何の疑いもなく家族一同で第2の故郷ハワイでの永住を考えていた矢先に豪法人移動の話が入ってきました。
 
バブルに連動したハワイ経済躍動の波に乗っただけの現地会社のRed to Blackという実績だけで規模の大きい豪州法人社長任命とは、親会社が私に対して過大評価をされたのだと思います。当時の三城のオーナー&会長の直々のご指名による人事異動に逆らえるはずもなく、後ろ髪をひかれる思いで新天地であるシドニーに向かいました。
 

豪州法人出向のためシドニーへ赴任
1994年春に移動したころのシドニーは、南半球一の繁華街と呼ばれていたにもかかわらずホノルルの広く整備された町でのゆったりした運転に慣れた私には豪人の運転マナーの悪さ、そして道路も狭くデコボコしているように感じ戸惑い辟易としたものです。当時の豪法人のスタッフ数は200名前後でシドニー9店舗、メルボルン7店舗、キャンベラ1店舗と広い大陸に店舗間の距離も半端なく移動も大変でした。収支の出ているお店がほとんどなく、まずは定石通りスクラップ&ビルトで2年で10店舗閉店、その後収支の出る立地やモールに14店舗オープンし計21店舗体制にし、何とか赴任4年目で利益を生む法人に立て直すことができました。お客様との出会いもそうですが、ハワイ法人のような規模の小さい会社の運営では経験できないマーケット戦略(テレビでのCM制作やWestfieldなど豪州大手ディベロッパーとの交流)の没頭し、現地法人の発展期を通して大切な出会いをたくさんさせていただいた時代でした。
 
わがままな私に辛抱強く付き合ってくれた現地の優秀な仲間たちにも恵まれて、私自身も様々な面で成長できた豪州赴任でした。
 
赴任当初は現地の会社も資金枯渇状態で、恒例の会社主催の真夏(夜10時まで日が長く明るい夜)のクリスマスパーティーも節約のため近隣の河川敷にある公園やキャンプ場にテントを張って食事もケイタリング外注して催している状態でした。そんな会社主催のパーティーも年々資金的余裕ができ出すごとに、ホテルのボールルームに格上げしていき、赴任の終わりごろには豪華なシドニー湾クルージング客船を貸し切りバンドを呼んでのパーティーができるまでになりました。



当時のシドニーは、2000年のシドニーオリンピック開催に向けて国を挙げての建設ラッシュ、そしてレベルの高いインフラ整備を国際的にアピールする絶好の機会と豪政府も豪国民も大いに意気高揚としていました。その余波で移民も激増し経済成長も著しかった時代でした。 私の豪法人再建も当時のオリンピック好景気という時代に助けられ、運が良かっただけなのかもしれません。
 
仕事に没頭し家庭や自分自身の身体の管理をおろそかにしていた報いなのか、医者いらずだった私の身体にも2000年12月ごろ、メルボルンへの出張前日に異常な倦怠感に襲われました。 かかりつけの主治医に診察してもらったところ脾臓がかなり腫れているとのこと、詳細は追って連絡とのことで自宅療養するように伝えられ帰宅しました。その夕方に、主治医から「明日朝すぐに入院してもらいます。」との電話があり、病名を告知されました。
 
主治医の診断は「慢性骨髄性白血病」。今でこそ新薬が開発され完治もしくは寛解まで治癒できる病気にまで医療は進歩していますが、当時は白血病と言えば「不治の病」骨髄移植しなければ余命3-4年と告げられました。
 

2001年3月、海外出向から20年後に病気療養での帰国
骨髄移植をするためには、まず骨髄提供者ドナーを探さなければいけません。HLA(Human Leukocyte antigen)という白血球の型が適合する確率は兄弟姉妹で25%、幸い私の妹が適合し、無事東京で移植手術を行い命拾いしました。
 
今だから喉元過ぎれば的にさらっと記していますが、当時は家族はもとより本当に周りの皆さんにどれだけ心配をかけ、どれだけ助けていただいたか。人と人との大切な繋がりや、周りの皆様にいただいた温かい思いやりに深く感謝してもしきれないくらいです。
 
特に当時の三城オーナー兼会長には、骨髄移植の名医と病院までご紹介くださり高額な治療費だけでなく退院後の住居など親身になってサポートいただき、ドナーである妹と同様「命の恩人」と深く感謝しています。

2002年に久しぶりの国内で仕事復帰
1年近い病気休暇のあと、本社事務所の海外事業に仕事復帰して2年後東日本営業担当を命じられました。希望していた念願の営業現場復帰ですが、当時で300店舗近い店舗の営業統括を任されたのですからかなり気負っていたと思います。 海外支配人歴が長く全ての部署をコントロールしなければという責務に対する思い入れが強く、営業外の本部と他部署とも大小の衝突を繰り返していたと思います。2007年春にシアトル支店を命じられた時は、52歳でようやく母国日本で家族と一緒に地に足付けた人生を描いていたこともあり正直Reluctantという言葉がぴったりの気持ちでした。
 
二人の息子は日本の大学に通っていましたので日本に残しましたが、大きな病の経験もありさすがに単身赴任はきついので妻にお願いしてシアトルについてきてもらいました。

2007年6月 シアトル支店出向
赴任先シアトル支店も業績が長年厳しく、私の52歳過ぎての出向もどうやら海外子会社の再建請負人のような人事異動と後で聞きました。
 
店舗閉店による支店縮小の最中で現地の社員は会社の財務状態を熟知しているだけに、支店が清算されるか否か非常に敏感でした。 たとえ私の本音が「不承不承の赴任」だったとしても、そのような素振りはおくびにも出してはいけないと努めたものです。
 
赴任後すぐの2008年のリーマンショックもシアトル経済特に小売業を直撃し、支店存続の危機にもあい、苦しい時代のかじ取りを強いられました。苦節4年目でようやく支店の通期利益が出るまでに業績も回復できたのも良き現地スタッフに恵まれたおかげだと感謝しています。


(PortlandからMauiJim本社のあるイリノイ州PeoriaにMauiJimオーナーの自家用ジェットで)

(MauiJimとの商談後の食事 Peoriaにて)

サンフランシスコでの同窓会
2018年には同じICC卒業生の羽鳥誠一郎さんご夫妻、島田昌己さんご夫妻とサンフランシスコで久しぶりの同窓旅行を楽しみました。羽鳥さんご夫妻、島田さんご夫妻とは在学時代からの長いお付き合いで私の結婚式にもご出席いただき、ハワイにもご夫婦で遊びに来ていただく数少ない大切な友人でいてくださっています。


(サンフランシスコでの同窓会)

(SEFCO球場で島田ご夫妻と)

たくさんの素晴らしい出会いに感謝
2020年のコロナ禍の始まりは、世界中人々を翻弄し私どもの生活習慣を大きく変えました。もう元の日常には戻らない、異なる生活様式の導入を余儀なくされるのではと言われています。 私どもの支店が位置する北米Washington州も昨年3月末から6月一杯の州政府主導のLockdownは、途絶えた収入源に実店舗を商う小売りのもろさを感じたものです。2021年の今も北米では外出自粛令が続いています。お店は幸いエッセンシャル小売り(Healthcare小売り)として入店数制限を条件に細々と営業させていただいています。経営者として、社員一人一人の雇用と健全な生活を守るため、急速な変革期に適応すべく全方位で舵取りに専念しなければいけません。 不透明な2021年の始まりですが、「明けない夜はない」新しいポストコロナ禍での通常生活に戻れることを願い、日々健康であることに感謝しながら企業人として最後のご奉公に励んでいます。
 
様々なワクチンの接種がここシアトルでもスタートし、身近の知人も受けた話も多くなってきています。 
 
私共夫婦も、異なる国や都市で暮らす二組の息子夫婦と孫たちのところに訪れることを指折り数えながらパンデミック終焉を待っています。 周りの同世代が定年で隠居生活に入る話が多くなりました。あと少しこの支店が盤石になることを見届け、夫婦で懐かしいハワイでの隠遁生活を夢見ているところです。
 
皆様におかれましても、愛するご家族や大切なお友達に会いに行きたくても旅行もままならない中、ご不便な生活が続いているとお察しいたします。今回のパンデミックが終息するのもあと少しの辛抱と信じたく存じます。
 
新しい生活様式で自由に旅行ができるようになり、TIU卒業生の皆様との出会いをシアトルもしくはホノルルで楽しみにしています。 どうぞよろしくお願い致します。


次男の娘(孫娘)の1歳誕生日

(曽我部光由さんプロファイル)

1955年3月愛媛県新居浜市生まれ
1973年4月国際商科大学(現東京国際大学)商学部入学
1978年3月国際商科大学商学部卒業 石井寛ゼミ
1978年4月(株)パリ三城 入社 
1981年5月パリ三城ハワイ法人MIKI INCに出向
1986年2月ハワイ法人MIKI INC 支配人に昇格
1994年5月パリ三城豪州法人に出向 Paris miki optical/Vision Express 現地法人社長に任命される。
2001年3月病気治療&療養のため帰国
2001年7月移植手術準備のため東京慈恵医大病院に入院
2002年4月(株)三城 新横浜本部 海外事業部に職場復帰
2004年4月(株)三城 執行役員東日本営業担当を任命される。
2007年5月Paris miki USA Seattle Branchに支社長として再び海外再出向
2021年2月現在にいたる。

 

TIU 霞会シンガポール支部