自分を見つけに世界へ、ブラジル・サンパウロから。
吉田章則さん(1997年卒業 経済学部国際経済学科、田村ゼミ/ウィラメット大学1996年卒業)

(ブラジル埼玉県人会で日系児童福祉施設に寄付)
(ブラジル埼玉県人会で日系児童福祉施設に寄付)

ブラジル・サンパウロから
私は93年のTIUA生で、島田さんの紹介で今回投稿させていただいております。私は今ブラジルのサンパウロ市に住んでおり、南米に同窓生がいたら一緒に思い出話でもしたいです。もちろん今の時代、日本や世界のどこからでもつながることができるので、南米や国際開発関係の仕事に興味があれば気軽に連絡していただきたいです。大学のネットワークを広げ、ブラジルまで来る人がいたら大変嬉しく思います。

私は自分のやりたいことを見つけながらブラジルまで来てしまいましたが、そのきっかけとなったのは、大学時代をオレゴンで過ごし、様々な出会いと新しい発見を重ね、そして人生を変える経験ができたからだと思います。TIUAは自分にとっての初めての海外で、言葉も文化も違う世界でしたが、違う環境で生活する楽しみを見つけました。なんでも新しいことに挑戦できるチャンスの多い大学生は、まだまだ選択肢が多く、海外留学など、今できる何か違う体験をしてみてはと思っております。

ブラジルから見た日本との距離
皆さんは、ブラジルと言って何を想像しますか。日本からのブラジルは距離があるので、なかなか印象が薄いのではないでしょうか。しかし、ブラジルから見た日本は比較的近く感じることができ、ブラジル人にとって日本は憧れの存在です。大使館や総領事館のフェイスブック登録数では、ブラジルが世界で一番多いそうです。つまりブラジル人は日本に高い関心を持っており、日本料理や日本文化配信を興味深く観ています。日本は、治安も良く、町もきれいで、インフラも整備され、いろいろな面で便利で、現地の朝のニュース番組などでも日本の公共施設が模範として取り上げられることもあります。ブラジルはサッカー王国で知られ、ワールドカップ試合日には学校や仕事が休みになります。そのブラジル人にとっての日本サッカーは、ライバルではなく、選手のロッカールーム掃除、サポーターのスタジアム掃除として知られております。

日本人に対するリスペクトは、ブラジル日系移民の歴史も影響していると思います。ブラジルには世界最大の日系社会が存在し、5世6世までの子孫を合わせると約2百万人いると言われております。今は、その日系人が、ブラジルの政治、医療、教育分野などでもブラジル社会の中心人物となり活躍し、日本のプラスイメージや親近感を持たせています。若者日系人に日本人をルーツに持つことをどう思うかとのアンケートでは、ほぼ100%がそのルーツに誇りに持っていると答えるそうです。日本人の勤勉さや誠実さが、ブラジル日系人にも継承され、ブラジルで存在感を増し、ブラジルからリスペクトされています。ブラジルは、日本人にとってとても住みやすい国です。

東京国際大学との縁
しかし、小さい頃からブラジルと縁があったわけではなく、大学時代もブラジルのことはほとんど知りませんでした。ただもっと世界を知ろうと思ったのは、TIUAをきっかけに英語ができるようになってからです。高校時代は野球ばかりやっており、国語がずっと苦手で、理系への進学を考えていました。浪人中に国際関係に興味を持ち、英語を勉強し始め、6大学を目指して10大学程受験したのですが、合格したのは東京国際大学だけでした。受験戦争の厳しさと、合格した縁を感じました。

大学1年目は、体育会系のスキー部に入り、留学するかどうか迷うこともありました。しかし、せっかく留学制度のある大学を選んだのだからとTIUAで留学することに決めました。そして初めての海外経験を積んだTIUAでの生活は、自分の人生を少しずつ変えていきました。特にアメリカ以外にもっと世界に出ていきたい気持ちも更に強くなっていきました。

TIUAへの留学で学んだこと
世界で生活する自身に繋がったのは、英語を習得できたことです。TIUAは英語のプログラムがしっかりしており、仲間と学んだ授業も面白く、先生も友人も学習意欲が高く、学ぶ環境が整っていました。授業以外の時間にも、イベントに参加しながらネイティブの友達を作ったり、日本人同士でも英語でしゃべったり、英語に触れる時間を作る努力をしました。一番お世話になったのは、IPC(学生カウンセラー)やRA(寮長)の人達でした。他の人には通じない英語が彼らには理解してもらえました。時間をかけて親身に付き合ってもらい大いに励ましてくれました。IPCが旅行を計画してくれたカリフォルニア州とアリゾナ州の長距離旅行は楽しかったです。言語能力は履歴書にもずっと残りますし、今の仕事でも英語を使います。TIUAでは重要な英語のスキルを習得することができたと思います。

言語とともに習得したのは、異文化理解や外国人とのコミュニケーション能力だと思います。TIUAのミッションを作成していたガナー先生と話したことを覚えていますが、自分にとってのTIUAの魅力は、友達ファミリー、コミュニティーイベント、課外授業やウ大生との交流活動でした。まだ英語が流暢に話せない学生でも積極的に参加できる環境が整っており、コミュニケーション能力を磨くことにつながりました。読み書きだけではなく話す英語を学び、TIUAの一年でたくさんの友達を作ることができ、大きな財産になりました。日本に帰っても、視野を広げるため留学生と友好関係を持ち、世界のどんな人とも友達を作りどんな国でも生活していけると思えました。


(東京国際大学の留学生たちと)

(ウ大でWISHの友達と)
        

ウ大長期留学、ボランティア活動の経験
TIUAでの1年は早かったです。特に将来を考えていたわけでもなく、ウ大の長期留学を受け、オレゴンに戻ることができました。長期留学の2年間では、WISH(学生寮名)で知り合った他の国からの留学生や、後輩のTIUA生とも交流関係を深めることができました。授業も大変でしたが、プライベートでの友好関係を更に増やすことができたと思います。現地の大学生とのイベントやパーティーなど、日本ではできない経験ができ、楽しく充実した時間を過ごすことができました。特に自分が好きだったのは、ボランティア活動でした。近所の学校訪問、貧困エリアの子供のメンターやリフォームなど、ウ大のボランティアの募集があったら必ず参加していました。人種や地位などに関わらず受け入れてくれる感じが自分にとっても過ごしやすい環境でもあり、昔から困っている人を助けたいという気持ちとも重なり、いろんな形で貧困などの社会問題などに触れる機会が多くなりました。

ウ大時代のボランティア活動で、更なる挑戦をする自分を見つける体験をします。長期夏休み中に、大学で紹介されたニューメキシコのYouth Development Inc.というNGOに、数か月お世話になることに決めたのです。NGOは、どのような仕事をするのかを理解するためでしたが、そこでの体験は今でも忘れられず、自分を成長させてくれる経験となりました。Youth Development Inc.は、ヒスパニックやネイティブのマイノリティ中高生で社会問題を抱えている若者を保護、指導、育成するNGOでした。児童虐待、麻薬、アル中、強盗、不良、若年妊娠など、少年院に入りそうな人達と時間を過ごすことになり、そこには未知の世界がありました。日本人がそんなところで何ができるかと言っても、実際は何を変えることも、そして彼らを助けることもできなかったと思います。NGOで働く職員の信念の強さや優しさ、そしていろいろな問題に立ち向かい立ち直ろうとする青年達の生命力など、自分の経験したことのない社会に出会い多くを学んだと思います。


(ニューメキシコでNGO職員の家族と)

(ウ大卒業式)
        

ワシントンDCから中南米へ、大学院とソフトウェア企業での経験
もともと落ち着きがなく飽きやすい性格で、大学時代に経験したボランティアで更なる好奇心と行動力を育み、人とは違う人生を歩むことに興味を持ち始めます。そこで、東京国際大学卒業後は、国際開発を研究するためにワシントンDCにあるアメリカン大学大学院に進学することにしました。その際には、ヨーカム先生、ガナー先生に推薦状を書いていただき大学院に進学することができました。オレゴンでの経験を活かし、勉強以外では負けない友好関係を深め、イベントやボランティアにも積極的に参加し続けました。アメリカン大学には、日本からの留学生だけで200人程、更に世界中からも優秀な留学生が集まり、同じDC地区の他大学との交流もあり、更に国際的な視野を広げることができました。少し周りを見渡すと、世銀やIMFなどの国際機関、また各国の大使館などでインターンする友達も多くいました。本当に国際性豊かな大学で楽しかったです。アメリカン大学では、留学生をケアする事務所で働くなどして、交流関係を世界中に広げることができ、今でも世界中にいる友達とつながっています。 国際開発論では、なんでも「参加すること」の大切さを学びました。ボランティア活動に参加させるには、その活動に興味も持たせることが必要で、興味あるイベントにするには参加数や集客力が大切です。その地域のお祭りなどは、政治的な関係もあり、人々が集まることこそが大切で、日米交流協会が運営するワシントンDC桜祭りも毎年手伝っていました。イベントでもボランティアでも何か企画するのには金銭的のみならず、社会貢献など人の気持ちや興味に訴えることが大切だと思います。

大学院卒業後も日本に帰ることは考えず、ワシントンDCで国際サプライチェーンのソフトウェア企業で、データアナリストとして就職することにしました。国際的なワシントンDC滞在中に感じていたのは、留学に来るような優秀な人は英語もできますが、現地の言葉、第二外国語ができないと、そのコミュニティーに溶け込んでいくのは難しいということです。違う世界で自分のやりたいことを見つけることに興味が溢れ、中南米の友人の影響もありもっと中南米を知りたくなり、会社を辞め、アメリカを出ることにしました。スペイン語の能力が十分ではなく、最初は大学院時代の友達のところにお世話人なりながら、メキシコ、グアテマラ、エルサルバドルなどで、スペイン語学習プログラムやインターンなどをしました。そしてしばらく、自分のできることを探しながら、中南米の国々を渡り歩いていました。


(アメリカン大学の友達と)

(アメリカン大学大学院卒業)
               

中南米からブラジルへ、食品貿易企業、鉄鋼企業、商工会議所などで経験
中南米滞在中、ブラジルに来る縁があるのですが、その時の縁をつないでくれたのはTIUA時代の同期でした。彼は、食肉商社で仕事をしていた関係で、チリやブラジルと取引があり、ブラジルの現地企業で人を探しているからと知り合いを紹介してくれました。仕事内容は、牛の屠畜場を巡り、日本向けにボイル腸を企画、生産、品質管理して、日本に輸出することでした。牛以外にも鳥や豚の屠畜場にも買い付けや品質管理の仕事も担い、ブラジル中を駆け回ったのを覚えています。TIUA同期の彼とは、馬肉と鴨肉の貿易で一緒に仕事をしましたが、大学時代には想像できない繋がりでした。

食肉の仕事の後、リオにある大手の鉄鋼企業にプロジェクトコーディネーターとして勤務しました。その時の仕事内容は、現地鉄鋼事業の調査や情報配信、特にポルトガル語の鉄鋼記事を日本語にして配信することなどでした。また、大手商社を通じ、技術営業や原料購買部などの事業支援などもしていました。ちなみにブラジルは、農業や畜産大国でもありますが、鉄鉱石などの生産・輸出もしており、世界有数の鉱物資源大国でもあります。

また、ブラジル日本商工会議所の調査員として事務局の仕事も経験しました。商工会議所では、日伯政府間の会議や政策対話の機会を通じ、ブラジルでの日系企業のビジネス環境整備の目的のもと、ブラジル政府や政府関連機関と官民合同の政策対話会合を運営しておりました。経産省からの補助金で、政策対話委員会の事務局員として雇われ、官民会合の国際会議の調整役の仕事をしていました。   


(屠畜場にて、牛の腸解体前) 

(日本の製品、ブラジル産ボイル腸)
        

(廃鉱となっている鉱山) 

(労働法改正など労働問題研究会)
           

ブラジル味の素とブラジル埼玉県人会
そして現在は、ブラジル味の素との縁があり、コーポレート部のマネージャーとして勤務しております。ブラジル味の素は、農業大国であるブラジルにも生産拠点があり、調味料を中心にブラジル全土に販売し、現地化が進んでいる企業です。うまみやアミノ酸の働きで社会価値と経済価値を創造する取り組みを様々な分野で行っております。ブラジル工場で生産された製品を海外のグループ会社に輸出したりもしております。

味の素はグローバルで「食と健康の課題解決企業」を目指し、ブラジルにもその企業理念はきちんと根付き、会社と社員一人一人が一体となって食と健康の課題解決のため日々働いております。自分は現地の中途採用で、毎週行われている入社研修を20代の若者たちと一緒にポル語字幕の日本語の会社説明ビデオを見ました。入社時に「我々は何のために働いているのか?」など問いかけられ、会社は利益を追求しなければなりませんが、社会貢献など社会価値創造する事業にも力を入れる必要があるとの説明も受けました。経営理念がしっかりしていて、それに共感が持てる従業員が集まり、日伯の間で成長し続けていける魅力のある企業です。

(ブラジルにある味の素工場)
(ブラジル味の素の同僚と) 
仕事以外の時間には、いまでも自分の好きなボランティアや祭りイベントの企画をしたり、参加したりしています。その一つとして、ブラジル埼玉県人会の会長をしております。何をするかといいますと、ブラジルで埼玉県をPRしたり、日伯の交流を埼玉通じて行ったりします。20万人規模の日本祭りなどで埼玉ブースを出展し、オリンピック事前キャンプ地の新座市の紹介や県の観光地などを伝えたりしています。ブラジルには47都道府県人会があり、その中で埼玉は特徴も郷土愛も薄れがちで、日本からの支援も少なく、継続も大変なのですが、日伯交流に貢献できればと活動しています。日本に帰った際に、県庁の国際課を訪問して事業報告するなど、日伯交換留学実現にむけ埼玉大学を訪問したこともあります。

また、埼玉県人会は、初心者向けの日本語クラスも運営しています。一昔前の日系移民は、子孫に日本語教育を行っていましたが、ブラジル社会に浸透していくにつれ、日本語を話さない新しい世代の日系人が増えています。日系人は、日本人としての誇りは持っておりますが、狭い日系コロニアで使われる日本語は、ブラジル社会ではほとんど使う機会がなく、日本語離れは否めない事実となっています。現在の日本語学習者は、漫画に興味の高い非日系人もおりますが、全体的には減少傾向にあります。少しでも日本語や日本文化がブラジルで伝われば幸いです。

ブラジルは、多様性が豊かで、何かと新しい発見が転がっているのも楽しいです。自分を見つけて中南米を歩いて来ましたが、今でも新しいチャレンジが生まれています。パンデミックもその一つだと思います。大学時代を思い出しながら長々と書いてしまいましたが、最後まで読んでいただき、本当にどうもありがとうございました。

(サンパウロ日本祭り、埼玉ブース)

(日本語スピーチコンテストの審査員として) 

(ブラジル選手事前キャンプ地新座市の市長と)

(埼玉県人会で日系児童福祉施設に寄付) 

 

(吉田章則さんプロフィール)

埼玉県出身越谷北高校卒業
1992年4月東京国際大学 経済学部 国際経済学科入学(田村ゼミ、スキー部)
1993年TIUアメリカ校 留学
1996年5月ウィラメット大学 経済学部 卒業
1997年3月東京国際大学 経済学部 国際経済学科 卒業
2000年12月アメリカン大学 国際開発論修士号 卒業
同大学     MBAビジネススクール修士号 卒業
2000年~2003年ソフトウェア企業・ネクストリンクス 貿易シニアアナリスト(米国メリーランド州)
2003年~2004年スペイン語学校(メキシコ・グワナフアト市、ガテマラ・アンティグア市、ニカラグア・エステリ市)、ハザマ組(エルサルバドル・サンサルバドル市)、ジェトロサンチアゴ(チリ・サンチアゴ市) 
2004年~2010年食品商社・アンデスフーズ(ブラジル・カンポグランデ市、マリンガ市、サンパウロ市)
2010年~2011年ブラジルJFEスチール プロジェクトコーディネーター(ブラジル・リオデジャネイロ市)
2012年~2013年自営業・レストラン経営 (ブラジル・サンパウロ市)
2014年~2019年ブラジル日本商工会議所 政策対話委員会調査員(ブラジル・サンパウロ市)
2019年~現在ブラジル味の素 コーポレート部マネージャー(ブラジル・サンパウロ市)

 

TIU 霞会シンガポール支部