「国際関係の”アクター”を目指して、愚直に、不器用に、そして反骨的に」-グローバル活動の基礎を築いた東京国際大学・TIUA等での経験 –
高橋 秀征さん (1996年卒業 教養学部国際学科 平山龍水ゼミ TIUA 小林多加士ゼミ) 

(クアラルンプールで開催のAFECA Forumに、スピーカーとして登壇)
(クアラルンプールで開催のAFECA Forumに、スピーカーとして登壇)

はじめに:
 最早メディアで取り上げられない日はないくらいに昨今当たり前となった「グローバル」や「国際」という言葉。昨年初めに始まった新型コロナウイルスの世界的感染拡大以前は、人々が概ね自由に国境を越え、ビジネスや観光が行われていました。2019年までは日本の各自治体が海外からの誘客に力を入れ、インバウンド需要が景気を押し上げていた時期もありました。コロナ禍で国境を跨いだ人々の往来がほぼ不可能になった現在でも、オンラインミーティングやバーチャル展示会、越境EC等を活用し、国と国とを跨いだ活動や取引は活発に行われています。現在勤務する豊橋市内のとある企業の方にビジネスの現状を伺ったところ、コロナ禍の中でも業績は良く、特に海外関係は売上が好調と仰っています。グローバル活動や国境を跨いだビジネスや取引、コミュニケーションは、最早普通なものとなっています。

 現在は普通となった「グローバル」や「国際」ですが、30年以上前は真新しいものでした。それらに中学生の時に興味を示し、それ以来国際舞台で活動したいという夢を、愚直に、不器用に、そして反骨精神も持ちながら追い求めてきました。加えて大学からは、学んだ国際関係学におけるアクターという考えのもと、国際的に影響力や役割を果たせる組織で働きたいという希望を持ちました。本文では、「グローバル」や「国際」に目覚めた契機、グローバル活動の基礎を築いた東京国際大学や米国・インド留学での学生生活、時として迷いや挫折、限界、方向転換をしながら夢を追求した社会人時代を振り返り、如何に地元の商工会議所に着地したかをお伝えします。今後グローバルな活動を目指している若い方に、私の経験が多少なりとも参考になれば幸いです。

「グローバル」や「国際」に目覚めた契機
 私は中学校の卒業文集の中で、将来の夢を「世界を行き来するような仕事に就きたい、出来れば国際機関に勤務したい」と書き、同級生から奇異の目で見られたことを覚えています。現在はごく自然な「グローバル」や「国際」は、当時は(特に田舎では)奇異の対象でした。一介の園芸を営む長男として生まれた私が、奇異の目を跳ねのけグローバルや国際関係に興味を持った切欠は、もともと小学生から歴史や社会科が好きであり、中学生からは英語を中心とする外国語に興味を持ち始め、高校生では世界史を選択したことが大きく関わっていました。この他、中学生の時にタイの方を数日間ホームステイ先として受け入れ、その縁が切欠でタイを訪れたこと(海外初渡航)、地域の学校が集まる英語暗唱大会で賞を頂いたことも、興味を持ち始めた契機となりました。一方でグローバルや国際に関心を持っていたにもかかわらず、中学三年生の際、生徒を数人選抜して韓国に数日間派遣するというプログラムに選考漏れしたという悔しい思いも味わい、是非グローバルに活動して見返したい、という反骨精神も芽生えました。

  更に当時の世界情勢も、私をグローバルや国際の世界に駆り立てました。高校に在学した1989年から92年にかけて、天安門事件、東欧諸国の民主革命、ドイツ統一、湾岸戦争、ソビエト連邦崩壊、ソマリアやボスニアでの民族紛争等、世界を揺るがす大事件が立て続けに起こり、否が応でもそれらのニュースに触れない日はない毎日でした。また当時はベルリンの壁崩壊に象徴される東西冷戦と分断が終結し、世界が新たな秩序を模索し始めた希望溢れる時代でもありました。そのような世界に少しでも関わりたいという夢や希望を高校時代に培いました。

東京国際大学で得た財産:
 グローバルに、国際的に活動したいという夢を実現するため、大学は国際学部や学科がある大学を中心に受験しました。現在は“国際”と付く名前の学部は数多くありますが、当時はまだ少なく、幾つか受験した中で、東京国際大学に合格することができました。大学では教養学部国際学科に所属し、主に第二キャンパスで国際関係学や国際法、地域研究、外国語等の授業を受けました。また二年時には米国・オレゴン州にある東京国際大学アメリカ校(TIUA)で勉強し、夏休みには一か月間米国・カナダをグレイハウンドバスで一周するという貴重な機会も得ました。

  4年間の大学生活の中で、大きく三つの財産を得たと考えています。一つ目は何といっても国際関係学に関する基礎的知識です。その一丁目一番地が国際関係学におけるアクター(行為主体)は誰かという考えで、リアリストの学派が主権国家のみをアクターと捉えるのに対し、リベラリストの学派は主権国家でない国際機関や多国籍企業、非政府機関、個人までもがアクターとして認められるという考えに立ち、当時はリベラリストの考えに共鳴したことを覚えています。またリベラリストが唱えていた国際レジームという理論にも共感を抱きました。(リアリストのすべての国家は国益を追求し、国力を高め、争う中で勢力均衡が生まれるという考えも最もである)この知識を習得したことにより、アクターとなる組織で活動したいという方向性が芽生えました。

  二つ目は語学、特に使える英語力です。グローバルに、国際的に活動するには英語が必須であることは大学入学前から認識しており、大学では国際関係と同様に英語の勉強に時間を費やしました。TIUAでは授業のほか、普段の生活も英語を使うという好環境に恵まれ、また幸い良いルームメイトや仲間にも囲まれ、自然と使える英語を身に付けることができました。学生期間中、TOEFL等を受験しましたが、胸を張れるほどの成績を取れたとは言えません。しかしTOEFLに付随したTWEと呼ばれるライティングの試験は比較的良いスコアを取れたことは、使える英語を身に付けた賜物であったと思っています。またその後のネルー大学では、英語で修士論文を執筆し、修士号を取得できたほか、いくつかの論文を英語の学術雑誌に掲載することもできました。

  三つ目はコミュニケーション力と“繋がり”です。東京国際大学のキャンパスは他に比べ比較的小さいこともあり、人と人との距離が近く、ゼミや部活サークル活動などを通じて、教職員や同級生、先輩等と多く触れ合う機会を得ました。様々な人たちと触れることによって、コミュニケーション力が磨かれ、多くの友人や知り合いに恵まれました。特にTIUAでは寮生活という更に人との距離が近い生活を経験できました。“同じ釜の飯”を食べた仲間ということもあり、ルームメイトをはじめ当時繋がりを持てた日本、アメリカの友人とは、コロナ禍以前は会ったり、今でもFacebookなどで繋がっています。コロナ禍前の2019年3月、当時同じ寮に住み仲良くしていたアメリカ人の友人が来日し、私に連絡をくれ、食事を共にしました。彼女に会うのは20年以上ぶりでしたが、当時の繋がりが今でも生きていると実感できた時でもありました。


全米一周バス旅行で訪問したワシントンDCのホワイトハウス前にて
(1993年7月)

全米一周バス旅行で訪問したアトランタのCNN本社を見学
(1993年7月)
TIUA滞在中に参加した米国の子供たちに日本文化を伝えるDay Campの様子
(1993年8月)

23年ぶりにTIUAを訪問し、当時お世話になった方々に挨拶
(2016年2月)

26年ぶりに東京でTIUAの友人と再会
(2019年3月)
 

帰国後の苦悩と見つけた一筋の光:
 1993年12月にTIUAのプログラムを終え、意気揚々と日本に帰国しましたが、その後大学を卒業しインドに留学する1996年8月までは、まさに苦悩と模索の日々でした。同級生が企業へ就職、もしくは留学するなか、国際舞台でアクターとして活動したいという中学生からの夢を実現するため、自分は何をすべきなのか、どのような進路を進めばよいのか、もがき苦しみました。企業への就職という選択は、国際関係上でのアクターにはなれないと考えた当時の私は、就職活動という選択肢は最初から捨てており、大学院への進学もしくは留学、国際機関やNGO、研究機関等への勤務などを模索しました。留学先として、英米加豪の大学だけでなく、ほかの欧州やアジア、果てはガイアナという南米の国にま で願書を請求したことを覚えています。

  結局は1996年から2000年までインド政府奨学金留学生としてインドに留学するという選択肢を選び、それが結果的に一筋の光となる訳ですが、それを突き動かしたのは主に二つの理由がありました。その一つは、TIUAというプログラムが果たして本当に胸を張って留学していたのかという疑問であり、是非現地の大学に入学し卒業したいと考えました。確かにTIUAのプログラムは、留年せずにアメリカで約一年間勉強できるというプログラムであり、参加できたことを誇りに思い、その後の人生の財産になったことは間違いありません。ただ、あくまでTIUAはアメリカにある東京国際大学の分校であり、姉妹校のウイラメット大学の授業を受け寮に住むことができたものの、ウイラメット大学の学位を取得した訳ではありません。アメリカで勉強はしましたが、本当の意味で留学であったのか、現地の大学を卒業して初めて留学なのか、帰国後考えるようになりました。

  もう一つが今後の人生を見据え、何を専門にすべきかということでした。TIUAでは英語やアメリカ等を学びましたが、あくまで基礎的知識を学んだと理解しています。世の中は当時から複雑化しており、且つ競争も激しいため、ある特定の地域や分野の専門性が当時から求められていました。留学先もアメリカが圧倒的であったのが、徐々に多様化しつつある時期でもありました。川越のキャンパスに戻り、3・4年生はアメリカに限らず世界全体の情勢に目を向けるようになりました。当時は中国を中心とするアジア地域が経済的に隆盛の時代であったため、時流を見据え、アジア地域を専門にされていた小林多加士先生のゼミに属しました。先生は中国の専門家でしたが、広い意味で私の目をアジア地域に向けさせてくれました。

  進路を模索する中で知ったのが、世界の多くの国が実施している国費留学制度でした。その制度は、毎年日本をはじめ各国から数人を選抜してその国の一流大学院に派遣し、多くの場合、学費全般や生活費の一部を受入国が支給する給付金制度です。アメリカやイギリスの大学は半ば商業化しており、また公的な給付金がほとんどないため、大学院で勉強するには高額の費用が掛かります。また仮に英米の大学院で修士や博士課程に入学できたとしても、金銭面で両親に更に高額の負担を掛けるほか、学位を修了しても、いわゆる”学位難民”になる可能性もあり、先行きは不透明でした。従って給付金制度があり、且つ英語が使え、特にアジア地域を専門にできる場所ということで、最終的にはインド政府が行っている給付金留学制度の門を叩くことになったのです。当時、インドを中心とする南アジア地域は、日本では認識が薄く、その地域を専門にしている人も少数でした。それゆえ、日本にとりまだ未開の地域を専門にすることで、夢を実現できるのではと考えたのでした。

目指した南アジア地域の専門職と限界:
 インド政府より給付金を頂き、2000年までの4年間、ニューデリーにあるジャワハルラル・ネルー大学(以降ネルー大学)国際学部に留学することができました。インドでは修士課程が二つに分かれており、96年からの2年間は国際関係学や地域研究を全体的に学ぶMaster of Arts (MA)課程に、98年からの2年間は同学部の南アジア学科に在籍し、それぞれ修士課程を修了することができました。ネルー大学は、1969年にインド独立とその後の国家建設に大きな役割を果たしたジャワハルラル・ネルー初代首相の意思を受け継ぐ形で創設された大学で、国際学部や言語学部をはじめ、ライフサイエンスやバイオテクノロジー、コンピューターサイエンスなど、比較的新しい分野の学問が学べる大学です。加えて、言語学部除き他の学部には学士課程はなく、MAコースから始まっており、ある意味で大学院大学とも言えます。

  数あるインドの大学からネルー大学国際学部を選択した理由は、インド内で最高レベルの専門家を揃えた最強の南アジア学科が首都にあること、その一点に尽きるかと思います。インドだけでなく周辺地域のパキスタン、バングラディシュ、ネパール・ブータン、スリランカ・モルディブそれぞれに専門の教授が居り、各国の政治・経済や歴史、外交、南アジア地域協力連合(SAARC)を中心とする地域協力等を習得することができました。また私と同じく南アジア地域を勉強するため、欧州やアフリカ、アジアからの学生も居り、ともに切磋琢磨しながら勉強や研究ができました。  南アジア学科在籍2年目は修士論文の執筆に時間を割き、モルディブを研究対象として選び、「モルディブをケーススタディとした極小島嶼国の安全保障」という修士論文を執筆できました。モルディブは中東と東南アジアとを結ぶシーレーンの中間にあり、戦略的に重要な国であると捉え、対象として選びました。また1988年に傭兵という非国家の勢力に国を乗っ取られるという危機があり、如何にモルディブや他の極小島嶼国が脆弱なのかにも興味を持ちました。

  日本に帰国後、2005年までの4年間はインド貿易振興局東京事務所に勤務し、インドと関わることができました。ただ本心は研究職を目指していました。しかし己の能力の無さも去ることながら、南アジア地域の政治や外交を専門として受け入れる就職先が少ないこと、日本の学術関係者との繋がりを作ることができなかったこと、博士課程を取得しても研究職には就くのが難しいという現実、地方から上京した私にとり日々の生活を犠牲にはできなかったことなどにより、研究を本職とすることは結局諦めざるを得ませんでした。

  次に考えたのが、ジャーナリストとしての南アジア地域専門家で、新聞社勤務を通してそれを目指そうと考えた時期もありました。数年間記者として経験や実績を積み、独立してフリージャーナリストになることを視野に入れていました。2005年に日刊工業新聞社への入社が叶い、記者職を希望していましたが、2011年までの6年間、残念ながら希望は叶わず、展示会主催を担当するイベント事業部に配属されてしまい、その望みも潰えてしまいました。

 それでも仕事とは別に、2003年より岐阜女子大学から特別研究員という立場を頂き、モルディブや同様の脆弱性を持つ南太平洋地域、インド等について論文や文章を投稿して雑誌等に掲載できたほか、モルディブの情勢が緊迫した際はマスコミから取材依頼も頂いています。ただ、あくまでその時々で就いている職場の業務を優先しなければならず、ここ10年ほど研究調査活動は正直行えていません。しかしながら、私に一筋の光を与えてくれた南アジア地域はライフワークにしたいと考えており、後日時間ができれば研究や勉強を続けたいと考えています。


ルームメイトの家族とネルー大学にて
(1999年4月)

友人宅を訪問した際に南インドの家庭食を右手で頂く
(1998年6月)

ネパール東部にあるブータン人難民キャンプを訪問
(1997年12月)

インド・ビハール州の農家を訪問
(1998年12月)

世界遺産タージ・マハルを訪問
(2000年7月)

ジャイプールのアンベール城にて
(2000年10月)
 

ディスティネーションマーケティングへの関心:
 南アジア地域を本職とすることに限界を感じた私は、日刊工業新聞社を退社後、自動車の調査会社2社に勤務しますが、専門を半ば封印せざるを得ず、悶々とした日々を過ごしていました。その苦境の時期を抜け出し、私に新たな興味関心を与えてくれたのが、前職のサクラインターナショナルでした。同社はGlobal M.I.C.E. Producerのスローガンを柱に、世界中で展示会やイベントをプロデュース(主に施工や運営)するユニークな会社で、7年の勤務の間、主に海外・国内の新規顧客を開拓する業務を担いました。その中で、調査研究を行い、新たな顧客を同社に引っ張るというセールス&マーケティング業務に目覚めました。特に日本でイベントや会議を主催したい海外の主催者を調査し、担当者を見つけ出し、展示会等でアプローチやプレゼンテーションを行い、実際顧客にすることができたことは大きな喜びでした。大手旅行社と競合の上、国際パラリンピック委員会関連の業務を開拓ことができたことは、同社での大きな成果であったと自負しています。

  同社では南アジア地域の専門性をある程度認めて頂いたほか、幾つかの貴重な経験をさせてもらい、感謝の言葉もありません。その一つがセールス&マーケティング活動のために、世界の様々な国を出張できたことです。サクラインターナショナルに勤務中、欧米やアジア、中東を中心に凡そ20か国・地域を訪問することができました。それらの出張が、南アジア地域を専門としていた私の目を大きく開かせてくれました。出張の際、同社のミッションを果たすことが最優先ですが、付随してその国や都市の歴史や文化にも触れ、視野を広げることができました。

 それに関連して、二つ目が海外のM.I.C.E.(Meeting, Incentives, Convention, Exhibition/Eventの総称)関連展示会への出展と、その中で垣間見えたグローバルな都市間の国際会議・イベントの誘致競争でした。M.I.C.E.関係の世界的展示会として、フランクフルトやラスベガスで開催のIMEXや、バルセロナで開催のIBTMが有名であり、それらの展示会に出展する機会を得ました。その展示会にはホテルや旅行社だけでなく、世界各都市にあるコンベンションビューローと呼ばれる観光M.I.C.E.を推進・誘致する団体が数多く出展をしており、それらが鎬を削る姿を目の当たりにできました。コロナ禍以前のM.I.C.E.業界は世界的に隆盛しており、国家ではなく都市が主導して激しい誘致競争が行われていました。一つのイベントをその都市に誘致することは、国内外的に大きなインパクトを持ち、その状況を見る限り、都市レベルでも国際関係学におけるアクターになれるのではと考え、その分野や状況に関心を持つようになりました。

  グローバルな競争という側面と同時に関心を持ったのが、国際協力という分野でした。2016年から19年の間、国際協力機構(JICA)の研修をお手伝いするようになり、主に発展途上国の貿易・観光関係の政府関係者に対して、講師として展示会への出展やマスコミの活用など商品・製品のプロモーションに関するプログラムをお手伝いできたことは非常に貴重な経験でした。JICAが行う研修生受け入れのプログラムは、技術協力として1955年に始まったプログラムであり、そのような歴史あるプログラムに微力ながら参加できたことは、誇りと自信を与えてくれました。


和服を着てIMEX Frankfurtに出展
(2015年5月)

クアラルンプールで開催のAFECA Forumに、スピーカーとして登壇
(2015年11月)

イスタンブールで開催のIFES Summitに出席
(2016年6月)

韓国・江原道で開催のKIMCに出席
(2017年1月)

観光関係者向けのJICA研修にて
(2017年9月)

展示会場におけるJICA研修
(2018年7月)
 

商工会議所に入所:
 ディスティネーション、すなわち都市や地域を世界的にマーケティングやプロモーションすることに関心を持ち始めた私は、2020年12月、出身地である愛知県豊橋市に戻り、商工会議所で新たな道を歩み始めました。家庭の事情から地元に戻る必要が出てきたという個人的な側面もありましたが、地元の中心都市である豊橋を元気にしたい、発展に寄与したい、将来的にグローバルに知名度を上げたいという理由で、商工会議所の門を叩きました。商工会議所は自治体の下部機関と誤解されがちですが、自治体からは独立した地域経済団体であり、地元の事業所を様々な側面からサポートするほか、自治体への提言や意見集約も行っています。豊橋をマーケティングする前に必要なのは、市内の状況を熟知したうえで事業所をサポートし、元気にすることであり、その使命感を持ち業務に臨んでいます。

  このほか商工会議所は、貿易証明の交付を通じて国際間の取引の円滑化を図るという役割も果たしています。商工会議所は世界の各都市にあり、それぞれの会議所は、1923年に署名された「税関手続の簡易化に関する国際条約」(ジュネーブ条約)に基づき、原産地証明書という書類を交付しています。原産地証明とは、貿易取引される輸出品の国籍を証明するもので、多くの貿易取引で税関を通る際(通関)に必要となる書類です。この原産地証明書のほか、会議所ではサイン証明書やインボイス証明書など、通関に必要な書類も交付しています。私はその担当のほか、市内の事業所の海外展開を支援する業務も担っています。

さいごに:
 これまで私の活動をサポートし応援してくれた両親や妹には感謝の言葉もありません。通常長男は実家の家業を継ぐことが求められますが、特に父親はそれには一言も触れず、私の思いや考えを尊重し後押ししてくれました。東京国際大学への進学やTIUAでの勉強は強力にサポートしてくれ、インドに行く際も反対はありませんでした。それらのサポートを恩返しするのは、お金ではなく、これまで経験を積んだ分野で実績や業績を残さなければという気持ちは今でも持ち続けています。その父は2018年9月に他界してしまいましたが、今でも本当に恩返しができているのか、まだ足りないのか自問自答する日々です。

 これまで様々な楽しいこと、苦難や挫折を味わってきましたが、それらを経験したからこそ今があると認識しています。グローバルな舞台で活動したいという中学生からの夢はある程度叶えることができ、また廻りまわって商工会議所という国際的な役割も一部担う組織にも入所することができました。様々な経験の中で、東京国際大学やTIUAでの経験は、夢を実現するための基礎を築けたと考えています。東京国際大学の在校生の皆さんも、またそうでない方も、是非大学で基礎を固め、且つ専門分野を見つけ、自らの道を模索して頂きたいと思います。
 

(高橋秀征さんプロフィール)

1973年12月愛知県新城市生まれ
1989年4月愛知県立新城東高等学校 入学
1992年4月東京国際大学教養学部国際学科 入学 (1年:平山龍水ゼミ)
1993年東京国際大学アメリカ校 (TIUA) 在学
1996年3月東京国際大学教養学部国際学会 卒業 (3・4年:小林多加士ゼミ)
1996年8月インド政府奨学金留学生として、インド・ジャワハルラルネルー大学国際学部MA課程入学
1998年5月ジャワハルラル・ネルー大学国際学部MA課程修了
1998年8月ジャワハルラル・ネルー大学国際学部南アジア学科M.Phil.課程入学
2000年7月ジャワハルラル・ネルー大学国際学部南アジア学科M.Phil.課程修了
(修士論文は、モルディブをケースとした極小島嶼国の安全保障)
2000年8~12月アジアアフリカ法律諮問機関/AALCO(政府間国際機関)に研修生として勤務     https://aalco.int/
2001~2005年インド貿易振興局東京事務所 勤務
www.indiatradefair.com/
2003年~岐阜女子大学南アジア研究センター特別研究員 拝命
www.gijodai.ac.jp/csas/
2005~2011年日刊工業新聞社 勤務
www.nikkan.co.jp/
2011~13年自動車調査会社2社 勤務
2013~2020年サクラインターナショナル(株) 勤務
www.sakurain.co.jp/
2020年~豊橋商工会議所 勤務   現在に至る。
www.toyohashi-cci.or.jp/

主な出版・掲載記事
  • モーリシャス・インド関係」, 月刊アフリカ(東京・アフリカ協会), 第37巻10号, 1997年10月発行, 28~32ページ。
  • New Japanese Role in the Indian Ocean”, Journal of India Ocean Studies (New Delhi), Vol. 5, No. 1, November 1997, pp. 13-20.
  • Japanese View on Collective Security”, Journal of Peace Studies (New Delhi), Vol. 5, No. 6, November-December 1998, pp. 16-22.
  • Maldivian National Security –And the Threats of Mercenaries”, The Round Table (London), No. 351, July 1999, pp. 433-444.
  • 自由化のもと急成長を続ける展示会産業 -インド」,見本市展示会通信(㈱ピーオーピー),2003年10月発行。
  • 台頭するアジアの大国・インド」,「IBO News」(社団法人大阪国際ビジネス振興協会),2003年11月発行。
  • 非欧米圏への留学の可能性」,「留学交流」(独立行政法人日本学生支援機構),2004年5月発行。
  • ビケタワ宣言の国際法的考察」,  パシフィック・ウェイ(東京・太平洋諸島地域研究所), 第124号, 2004年7月発行, 36~48ページ。 https://www.jaipas.or.jp/124/124_4.htm”
  • 海外人づくりハンドブック・インド」,(財)海外職業訓練協会, 千葉, 2004年,(共著: 第2章の「職業訓練教育制度」を担当)。
  • 自由化の下で急成長するインドの広告産業」,「産業広告」(社団法人日本産業広告協会),2006年1月発行。
  • 観光客が「地上最後の楽園」の政治を変えた? モルディブ・ガユーム長期政権と民主化の展開」,「国際人権ひろば」(財団法人アジア・太平洋人権情報センター),2007年1月発行。 https://www.hurights.or.jp/archives/newsletter/section2/2007/01/post-234.html
  • インド洋平和地帯が今後目指すもの ―国際法的アプローチ―」, 南アジア・アフェアーズ(岐阜・岐阜女子大学南アジア研究センター),第5号,2008年11月発行,32~52ページ。

 

TIU 霞会シンガポール支部