「古民家現地再生:古民家移築再生」で、社会公共性の高いビジネスを全国に展開しています。
井上幸一さん 1984年 商学部卒業/16期 臼井ゼミ 剣道部 

(「古民家再生で地域活性を」のセミナー講師として)
学生時代は剣道部で全日本に出場。
愛媛から東京へのイメージで川越に大学進学しましたが、愛媛より自然豊富だった「的場」で、大都会東京のイメージとはかけ離れた「納屋の2階を借りて」の学生生活のスタートでした。小学2年生から剣道をやっていたので、迷わず剣道部へ。
それが地獄の始まりでした(笑)。こんなに、大学は上下関係が厳しいとは思いませんでした。体育会系の考え方「何事も『はい』か『YES』でまずはやる」という教育は、社会人になって結果的にはいい学びとなりました。4年生のときに、主将として全日本に出場できましたし楽しい充実した霞ヶ関キャンパスの4年間でした。(勉強した記憶はないです)

(大学正門前にて) 
 

(剣道部メンバー) 
 
          

松山青年会議所(JC)に入会したことが、劇的に人生を変えました。
卒業後、即家業であった材木屋入社。社長の息子として「なんとなく仕事していた」そんな感じでしたが、29歳で「松山青年会議所(JC)に入会」し、これが劇的に人生を変えました。「社会公共性が大事」を叩き込まれた、その卒業までの11年間でした。会員200名を超える松山JC理事長、愛媛ブロック長・四国協議会会長、日本JCにも出向し、海外での井戸掘りや学校建設など11回参加させて頂き、日本JCの役員も経験できました。この時の「多くの経験と多くの仲間」が今の私を支えることになるとは当時は考えもしなかったです。
その後、商工会議所青年部(YEG)でも「青年部会長」をさせて頂き「地域貢献活動はいっぱい」させて頂きました。そんな経験をさせてくれた会社に感謝しています。


(松山青年会議所(JC)海外研修) 
 

(セミナー講師として講演中)
 
        

不動産投資などが裏目に出て、木材業も時代に合わず右肩下がりに。
しかし気づいてみると会社は「火の車」。先代(父)の(32歳で社長に就任していました)不動産投資などが裏目に出て、木材業も時代に合わず右肩下がり・・・リフォームなどの新規事業にも取り組みましたが、社員50名を背負うのは大変でした。銀行の「晴れの日に傘を貸し、雨の日に傘を貸さない」を肌身で感じました。
このままでは倒産する。1、下請けに徹する。2、材木屋から不動産賃貸業になる。3、メーカーになる。この3つからの選択をしなければなりません。1は未来がない、2は面白くないと3を目指しました。誰もやっていない商品を扱うメーカーへ・・・「古材」を選択しました。2002年のことです。

時は資源、廃棄物などの分別回収・再資源化・再利用について定めた「リサイクル法」が施行された年です。今でこそ「古材は当たり前」になりましたが、その当時は「古材はゴミ」でした。戦前、木は貴重な資源として「再利用は当たり前」だったんです。
それを文献で読んで「環境の時代、社会公共性も高くこれはビジネスになる」と思いスタートしましたが、社員は「ゴミ屋さんは出来ない」と次々退社。一緒に働いていた会長であった父、常務であった弟も退社して、社員3名(妻も入れて)、借金19億円からのスタートとなりました。銀行は「債務を子会社に付け替えたり」でそう問題はなかったのですが、コツコツ借金を返しながらの40代でした。  

新聞は「天声人語」、テレビは「カンブリア宮殿」「ガイアの夜明け」などで多数取り上げて頂き、「古材買取・販売ビジネス」を大きく伸ばすことができました。
しかし「捨てる神あれば、拾う神」もあるものです。環境に優しいビジネスとマスコミに次々取り上げられ、新聞は「天声人語」テレビは「カンブリア宮殿」「ガイアの夜明け」など多数取り上げて頂き、「古材買取・販売ビジネス」は大きく伸ばすことができました。
ひとりでトラックを走らせて「古材買取・古材販売」を全国駆け巡りました。その後、ビジネスが大きくなってきたので『フランチャイズ(FC)展開』に切り替えました。50店を超えた頃・・・「FC内グループ分裂」が起きました。あとで調べてみてわかったのですが「参入障壁なければすぐ真似される」のです。今考えれば当たり前のことですが、当時は気がつきませんでした。せっかく構築したFCも崩壊しまた苦難に陥りました。


(古民家再生作業) 
 

 (現地で完成後の調査)

「ふるや・ふる家。民家」と言われ、古民家の言う言葉のない時代「古民家」という造語を創りました。古材は古民家から取り出されていたので「壊すのでなく活かすのもいいのではないか?」とヒラメキきました。今では当たり前なのですが、当時は大きな決断で「1981年以前の建物は耐震性がないので建て替えなきゃいけない」と言われた時代です。「古民家は耐震性のない危ない建築物」だったのです。
「それを残し、活かすことが出来るとビジネスになるはず」と私的資格として「古民家鑑定士」という資格制度を作り(今では延べ2万名弱の有資格者となりました)、国の仕組みも変えてもらわなきゃいけないので「古民家再生議員連盟」もつくってもらいました。 これらは「JC・YEG時代の人脈と経験」が大いに生きました。この資格制度や再生への安全と安心の仕組みの構築が大きな「参入障壁」となり、今では全国約200店舗のネットワークが構築されています。


(菅元総理に「古民家再生」について説明をさせていただきました) 

(古民家再生議員連盟が発足) 
 

(古民家解体中)
 
      

「古民家現地再生:古民家移築再生」で、社会公共性の高いビジネスを展開しています。
自治体連携も約50自治体となり、「古民家現地再生:古民家移築再生」というビジネスを通して、各地域の空き家古民家の課題解決、解体古民家の古材利用などをさせて頂いています。内閣府・総務省・観光庁・農水省などの専門員もさせて頂き「社会公共性の高いビジネス展開」が出来るようになりました。


(アメリカへ古民家を移築)
 

(古材を使った家)

卒業して・・・もう38年。随分昔のような大学生活はたった4年間でしたが、その後、紆余曲折、様々な経験をさせて頂きました。東京国際大学(当時は国際商科大学)の剣道部で「全日本に行く」という強い気持ちを持つ精神力を養えたおかげだと、あっという間の4年間に感謝しています。そんな鍛えた精神力には未来の「運も味方をする」のですね。
年明けには60歳還暦です。後継者も育ち、孫も生まれ、幸せな充実した日々を過ごしています。妻は「もう引退して、楽をしたら?
と言ってくれますが、バランスよくもう少し「未来の子ども達の為に持続可能な循環型社会の市場創造」を楽しみたいと思います。


 

(井上幸一さんプロフィール)

 愛媛県松山市出身
1984年東京国際大学商学部卒業/16期 臼井ゼミ 剣道部
1985年株式会社アイモクへ入社。
1994年株式会社アイモク代表取締役社長に就任。
1996年リフォーム事業会社、株式会社ミスタービルド愛媛常務取締役へ就任。
1998年社団法人松山青年会議所理事長。
2000年公益社団法人日本青年会議所愛媛ブロック会長。株式会社アイモクにて古材事業をスタートさせる。
2001年公益社団法人日本青年会議所四国地区協議会会長。
2004年株式会社ミスタービルド愛媛を株式会社ヴィンテージアイモク(現・株式会社アステティックスジャパン)に変更し株式会社アイモクの古材事業を引き継ぐ。同時に代表取締役社長へ就任。
2005年古材事業のFC化を開始し、古材倉庫グループを運営。
2006年松山商工会議所青年部会長。
2009年古民家鑑定士資格事業をスタートさせる。
2011年グリーン建築推進協議会(現・一般社団法人全国古民家再生協会)を創立。
2015年株式会社ヴィンテージアイモク(現:株式会社アステティックスジャパン) 代表取締役社長を退任。
2017年内閣官房歴史的資源を通した観光のまちづくり専門家会議 専門員へ着任。
2019年総務省 地域力創造アドバイザーへ着任。
  • 一般社団法人全国空き家アドバイザー協会 専務理事
  • 一般社団法人古材リユース推進協会 理事長
  • 一般社団法人住教育推進機構 専務理事
  • 一般社団法人住まい教育推進協会 顧問
  • 一般社団法人地域観光開発推進機構 理事長
  • 一般社団法人全国古民家再生協会 専門員
    東京都千代田区内幸町1−3−1 幸ビルディング 9F
  • 株式会社アステティックスジャパン 顧問
    愛媛県松山市大可賀2丁目1番28号 アイテム愛媛 内
    ホームページ:https://astj.jp/about


  • 内閣府 歴史的資源を通した観光のまちづくり専門家会議専門員
  • 総務省 地域力創造アドバイザー
  • 農林水産省 農泊地域専門家
  • 観光庁 広域周遊観光促進専門家

 

TIU 霞会シンガポール支部