貧乏学生と旅の経験が今ある私の根源
齋藤竜一さん(2002年国際関係学部卒業 枇杷木賢生ゼミ、2004年大学院 国際関係学研究科卒業 枇杷木賢生研究室)

(家族写真 2021年シンガポールにて)

寄り道ばかりの人生でした。遠回りをして紆余曲折し、立ち止まったり、時には全力で走ってみたりと、私は人よりも時間をかけて大人になったような気がします。

浪人~大学2年の貧乏期
当初、とりあえず大学に入ることのみを目標として受験勉強をしておりましたが、大学受験直後にやりたい方向性(夢)を見つけました。1浪してようやく合格した大学の学部が将来進みたい進路と違うことから、入学金の支払を済ませた後にもかかわらず、入学を辞退してしまいました。そんな私のわがままに母は泣き、父は口をつぐみました。2浪時の予備校費用、大学受験代、大学入学金と大学1年の前期分の授業料、合計150~200万円くらいでしたでしょうか、それを全て自分で支払うことを約束し、2浪生活に突入しました。やりたいことが定まり、自分のお金で勉強をし、2浪という背水の陣から、更に勉強に熱が入りました。しかし受験シーズン真っ只中に熱を出し、ヘロヘロになりながら入試を受け、ようやく2期試験にて東京国際大学へ入学。長い長い暗黒時代からやっと抜け出せ、とても晴れ晴れした気持ちになったのを覚えています。

しかし、ホッとしたのも束の間、せっかくやりたい学問を学べるのに、お金の返済でバイト漬け生活が始まりました。お金は極力切り詰め、毎日家からおにぎりを持っていき、食堂でかけそばをおかずにおにぎりを頬張っておりました。平日は大学とバイト、土日は朝から夜までバイト、夏休みや年末年始は休みなく働きました。稼いだお金は全て返済へ。唯一バイトの給料日だけは、食堂でかけそばではなく、好きな定食を食べられるというルールを作り、月1回の(私にとっては)豪華なランチが私のご褒美でした。また、1年次のゼミ合宿が沖縄で現地集合現地解散で行われることになった際も、ゼミの仲間が飛行機で向かう中、私は1人安い船便(3等の雑魚寝部屋)で向かっていました。当然TIUAなんかには行けるはずもなく、留学を夢見ていた私には、憧れでした。TIUAから成長し帰国する友人らが一回り大きく、眩しく、そして羨ましく見えました。 この時期に体験したことは、私の忍耐力を大きく育ててくれました。これは、この後旅をするようになった私にとても貢献しました。

大学2年~4年旅行期
忘れもしない大学2年生の11月、やっと全ての返済が終わりました。翌月いつものように給料日がきて、預金口座を見ると当たり前のようにお金が振り込まれています。今まではこのお金はごっそり無くなっていましたが、今月からは全て自分の物です。何に使っても良いお金。今まで何も考えずに、ひたすら返済のために我武者羅に働いてきていましたので、完済後のことなど何も考えていませんでした。正直、突然やってきた自由なお金に戸惑いました。いったい何に使ったらいいのだろうと。

そんな時に偶然出会ったのが、「遣唐使」と言う中国短期留学プログラムです。名前の通り船で大陸に渡り1ヶ月くらい現地の大学で学ぶというものでした。そこでは色々な背景の人間と寝食を共にし、とても刺激を受けました。何より2000年の上海は今と全く異なっており、見る物全てにカルチャーショックを受けました。街中にニーハオ(ドア無し)トイレがあったり、舗装されていないデコボコの道やその上でゴザを敷いて物を売っていたりと、当時の日本と比べるとまだまだ未開発の都市でした。私は逆にそういう未開の中国を訪れることに興味を持ち、それから秘境と呼ばれる地を旅行して回わることになります。普段は大学生活とバイトを両立させ、夏休みや春休みのまとまった休みになると、貯めたお金で1~2ヵ月くらいの旅行に出ていきました。

最初は、中国の知識が無かったので、とりあえず上海まで船で行き、そこで買った中国地図を的にしてダーツの旅をしました。当時はまだTVでダーツの旅はやってなかったので、その先駆けでしたでしょうか(笑。最初に当たったのは、中国南部にある雲南省でした。長距離列車に5日間揺られ省内中心都市「昆明」に着きました。風呂もシャワーも無い夏の車内で、5日間を過ごせたのも今まで培った忍耐力のおかげかもしれません。雲南省は少数民族が多く暮らす地域で、日本では見ることにできない独特の衣装や文化、習慣がありました。そういった出会いが私の好奇心を大きく刺激し、日本人が行ったことの無い場所を求め、更に秘境へ秘境へと足を進めて行きました。 やはり中国は沿岸部より西部はまだ発展していない町が多く、蘭州や敦煌、新疆ウイグル自治区の烏魯木斉(ウルムチ)、博楽(ボルタラ)等未開の地を探し、西へ西へと向かっていきました。タクラマカン砂漠を長距離バスで抜けていた時に、長時間景色の変わらない一面砂しか見えない場所で、他のバスが横転していました。そのバスの日陰に乗客たちが体育座りをしていた光景を今でも覚えています。あの方たちは助かったのでしょうか。今でも砂漠の映像を見ると思い出されます。


雲南省の少数民族ナシ族の人たちと

 

上海から昆明への列車
(中央が本人)

中国とカザフスタンの国境近くにある町「博楽(ボルタラ)」の
花崗斑岩怪石群風景

 

内モンゴルで乗馬

大学院入学金問題で再び貧乏期
色々な国々を巡って環境問題や貧困を解決したいと更に強く思うようになりました。そこで国際協力の仕事に携わりたいという明確な夢を抱き、その中でもUNDPで働く国際公務員に憧れました。国際公務員になるには最低でも修士号が必要と言う条件から、大学院に進学することを決めました。当然家にはお金が無く、自分で学費を払うことで親から入学の許可を得ました。既に2浪している為、ここから修士課程となると更に2年間社会に出るのが遅くなります。

大学院に合格すればすぐに奨学金(当時の育英会)が借りられ、入学金や授業料の問題は無いと安易に考えておりました。しかし、なんと奨学金は4月の入学後に申請をして、6月から適用になるというものでした。東京国際大学大学院国際関係学研究科(枇杷木教授の国際経済学の研究室)に入学することになったのですが、合格しておきながら入学金がありません。授業料も払えません。大学側に6月の奨学金まで待ってほしいと掛け合うも。3月31日までに支払いが無ければ合格は破棄されると言われてしまいました。

そこで人生最初で最後の利用となるであろう市中の消費者金融にてお金を借りました。また再び貧乏生活に逆戻りです。利息がとても高いことから早期に返済したく、高収入の仕事を探しました。そこで見つけたのがCATVの営業です。「月50万も夢じゃない!」という広告を見てすぐにTELをしてました。獲得した契約件数による歩合で給料が決まるシステムです。そこで、私は研修を受け現場に配属となるのですが、その研修の内容がとても素晴らしく、毎日ワクワクして受けておりました。 ここで学んだことは、その後の私の営業スタイルに大きく影響しております。現場では営業エリアとしてアパートを2~3棟を与えられ、そのアパートの一軒一軒を訪ねてCATVの勧誘をして契約を獲得していきます。最初に当てがわれた物件が、「八千代荘」というボロアパートでした。まず各ドアに呼び鈴が無く、ドアをノックするのですが、木製のドアが雨に打たれ、それが乾き、また雨に打たれと繰り返しているのか、ドアの表面は波をうっており、中身は素材がボロボロで空洞になっており、ノックしてもコンコンではなく、カスカスと音がします。出てきたご老人は耳が遠くテレビを見ていないと言います。他の部屋も回りますが、「年金生活でカツカツだからCATVなんて払えない」とか「そもそもTVを持っていない」「ラジオを使っている。」といった状況です。

最初はとても苦戦しましたが、研修で習ったこと忠実に真似、実践していくと契約が取れるようになってきました。契約が取れてくると、ボロアパートだけでなく、普通のアパートやマンション等も担当させてもらえるようになりました。マンションに住む方はボロアパートと客層が全く異なり、契約の獲得率が大幅に上がりました。大学卒業前の2月頃から契約社員として働き始め、大学院入学後の4月末までフルに働き、最終的にその地域のCATV局の営業成績がトップになりました。そのおかげで入学後最初の1ヵ月は全く授業に出席できず無駄にしてしまいましたが、何とか2ヵ月半で120万円を稼ぐことができ無事完済できました。4月の給料は、あの広告の50万の夢を超えることができ、あの広告もまんざらでもないと思いました。

ニュージーランドへ語学留学・ドイツへの旅
大学院に通いながら英語の必要性を痛感します。今まで英語から逃げ中国語を勉強してきた私は、自分の夢のためにも中国語だけでは駄目だと考え、ニュージーランドに語学留学に行きました。お金の無い私は、日本で企業の用意する留学のパッケージを利用するのはコストがかかると考え、まず飛行機のチケットだけ購入し、現地ではドミトリー(バックパッカー)に滞在し、語学学校を探しました。全て自分で手配することで余計なコストを排除し、格安で学校に通うことができました。更にドミトリーで同じ部屋になったアイルランド人との出会いです。彼らは私のことを毎晩のようにアイリッシュパブに連れて行ってくれました。海やBBQ、パーティーに誘ってくれました。私以外は全てアイルランド人でしたので、少々癖のあるなまりがありましたが学校より遥かに英語の勉強になりました。


アイルランドの友人達とセントパトリックデーのパーティー

 

『西遊記』にも登場するタクラマカン砂漠の火焔山(かえんざん)

大学院2年生の時、学生最後の長い旅を計画しました。私はビールが好きで、昔から本場ドイツのビールを飲んでみたいと思っておりました。ただ飛行機でドイツまで行き、ビールで乾杯して戻ってくるといったありきたりの旅行では面白くないと考え、秘境好きな私は飛行機を使わずにドイツまで行こうと計画しました。

まず、東京から大阪まで電車に乗り、大阪から上海まで船で移動、その後は電車、バス、乗合タクシー等を使ってドイツに到着しました。本当ならシルクロードの南ルート(中国―パキスタンーイランーイラクートルコ)を使おうと思っていたのですが、その当時インドとパキスタンが緊張関係にあり、国境を通過できないという話がありました。
よって、急遽ルートを北に変更し、中国―カザフスタンーロシアーバルト三国―ポーランドードイツへと移動していきました。こうすると、訪れた各地の地ビールを飲むことができ、ドイツまで様々なビールを楽しんで巡ることができました。とても駆け足でしたが、何とか夏休みの2ヵ月間でドイツまでたどり着けました。授業の関係で、ドイツでの滞在日数はベルリンに2日間だけでした。ミュンヘンのビール祭りに参加できなかったのが今でも後悔しております。


中国-カザフスタンのボーダー

 

カザフスタンのアルマトイにある永久氷河

カザフスタンからロシアへの国際列車で一緒になった人々

 

ポーランド・ワルシャワの並木道

大学院卒業式

ようやく社会人 東京計器入社後、韓国、中国、東南アジア市場を経て
大学院の卒業後、2年の派遣社員期間を経て東京計器株式会社に入社しました。舶用機器の海外営業部に配属となりました。取扱う製品は大型船に搭載されるレーダや自動航行システム(オートパイロット)、ジャイロコンパス(磁石より高精度で方位を検出する精密機器)といったもので、文系の私にはとても勉強が大変でした。CATVの売り込みとは全く内容が異なり、初めてまじまじと見る機器の図面、わけのわからない記号や表記にこんなものを自分が売っていけるのかとても心配でした。

時には「小学生の理科の教科書からやり直せ」と指導を受けたこともありました。会社や仕事は私の学力など待ってくれません。最初はひたすら流れてくる仕事をこなしていくだけで、毎日自分が何をやっているのかわけがわからなくなる事もありました。いちいち家に帰る時間が惜しく、寝る時間を確保するために漫画喫茶やカプセルホテルに泊まることもありました。会社の通勤途中、追い込まれすぎて歩きながら涙が出てくることもありました。

入社した2006年~2009年まで担当した韓国市場はそんな状況でした。今まで鍛え上げられた忍耐力があったからこそ辞めずに続けられてきたのだと思います。2009年に担当する市場が中国に変わりました。学生時代によく渡航した中国を担当でき嬉しくてモチベーションが上がりました。中国を担当した3年間で、自分一人で営業活動をこなせるようになり、やりがいと達成感を感じられるようになりました。

その後2012~2017年まで香港/オセアニアを担当し、2017年~2021年までシンガポール支店に赴任しました。特に2016~2017年は私にとって激動の時期でした。2016年にマンションを購入し、すぐにシンガポール赴任が言い渡され、1年も住むことなくマンションを売りに出しました。またちょうどその時に長女が生まれました。生活基盤を作ったり、現地の仕事を把握をするために、先に半年間単身でシンガポールに渡り生活をし、その後家族を呼び寄せることになりました。里帰り出産にて2月に生まれ、私は3月に出国だったので、長女に会えたのはほんの数回のみでした。妻には大きな負担をかけてしまったこと、生まれた長女にほとんど会えなかったことに、申し訳なくそして残念な気持ちでいっぱいでした。

人生の大きなイベントであるマンションの購入、売却、出産、転勤がその一年のうちに全てやってきました。心身ともに疲れ切って悲鳴を上げている中、シンガポール生活が始まりました。支店に配属と言っても、実際に支店にいるのは私だけです。現地代理店のオフィスの一部屋を間借りして、活動しておりました。赴任当時は誰も知り合いがいなく、現地のローカルスタッフに助けてもらい家具を揃え、電気ガス水道、携帯電話、インターネット等のインフラ環境を整えていきました。半年後に無事に家族を迎え入れ、仕事や生活に慣れてきた頃、いよいよシンガポールでの仕事を拡大していきます。

シンガポール支店ではシンガポールだけでなく周辺の東南アジア諸国も担当します。マレーシア、インドネシア、タイ、ベトナム、ミャンマーを行き来する生活が始まり、更にやりがいを感じました。売上げを増やすために、市場を開拓していきます。新しい販売代理店やアフターサービスの代行店を探し、販路を拡大していきます。シンガポールで出会った人との関係を大切にし、そのコネクションでインドネシアやマレーシアの代理代行店候補となる企業を紹介していただいたりと、精力的に活動しました。その頃には当初の国際公務員という夢は、なくなっておりました。家庭を持ち子供たちを一人前に育てていくことを考えると途上国(最貧国)での勤務は、現実的ではなくなったからです。何より今の仕事にやりがいを感じておりました。

そんな矢先に訪れたのが、コロナウィルスの感染問題です。シンガポールではロックダウンが厳しく、生活必需品の購入以外は一切外出が許されません。今まで順調に進んでいた市場開拓もここで全てストップです。1年間ほぼ毎日在宅勤務の日々が続きました。何もできず悶々とした中、ついに帰任の通達が出ます。志し半ばで帰国となり、大変残念でした。帰国後もコロナウィルスの影響は続き、市場開拓の成果を見ることなく、東南アジア担当を後にします。2023年から新しく中国/韓国担当へと変わりました。昔担当していた市場なので勝手はわかっています。しかし、当社としては既にできあがっている成熟した市場ですので、正直面白みがありません。また、いつか未成熟の市場に飛び出し、自ら進んで開拓していきたいと思います。


ベトナムでの会議の様子(右から2番目が本人)

マレーシアセミナーでのプレゼンの様子①

マレーシアセミナーでのプレゼンの様子②

最後に
本来、大学をストレートに卒業した人は22歳頃に新卒で就職し、立派な社会人として働き始めます。しかし、私は学校を卒業し正社員になるまでに6年間(2浪+大学院2年+派遣社員2年)も遠回りをしてしまいました。しかし、この遠回りは決して無駄ではありませんでした。将来のことを真剣に考える時間であったり、自分の将来を変える出会いがあったり、その間に学んだこと・経験したことが後々役に立ったりと、全てのこと一つ一つが今を生きる自分の大事な構成要素となっているのです。ストレートに最短で社会人になる人もいますが、人生一度だけ、私みたいに少し回り道をしても面白いのでは。

(齋藤竜一さんプロフィール)
 東京都出身
1996年私立正則高校卒業
1998年 東京国際大学 国際関係学部 国際関係学科 入学
2002年大学卒業
2002年東京国際大学大学院 国際関係学研究科 入学
2004年大学院修士課程 修了
2006年東京計器株式会社 入社
2006~2009年韓国市場を担当
2009~2012年中国市場を担当
2012~2017年香港/オセアニア市場を担当
2017~2021年シンガポールに赴任 東南アジア市場を担当
2022年~ 韓国/中国市場を担当

 

TIU 霞会シンガポール支部