約半世紀かけたグローバルビジネス。いまだ珍道中!
保井 和毅さん(1982年商学部卒業 小峯ゼミ ELI(English Language Institute)

(現在は、ドイツ企業の日本代表で、日本企業とのアライアンス、市場開拓をしています。)
(現在は、ドイツ企業の日本代表で、日本企業とのアライアンス、市場開拓をしています。)

TIUとウイラメット大学
1978年4月に国際商科大学(TIU)に入学しました。当時は、外国の歴史、国際関係の理解深堀と必要な語学力を高めグローバル人になりたい思いが漠然とありましたが、特に専門の学行などに行くこともなくマイペースな独学で英語など勉強していました。
2年時の夏休みにアルバイトで貯めたお金でリンガフォンと言う英語教材を購入し、ややスイッチが入った感がありました。3年時からは小峯ゼミで国際金融論を専攻しました。当時の欧州通貨制度関連の文書を読まされましたが、現在の共通通貨ユーロへの生みの苦しみなどの流れが概念的に理解出来ました。
それと、並行し中学から始めた陸上競技(短距離)を継続していました。残念ながら、当時のTIUには陸上競技部がなく、近くの入間川グランドでの自主トレからの出発です。
幸いに、英語はELI(English Language Institute)、陸上は小川町のチームからお誘いがありようやくメンバとしての活動が叶いました。  

1980年夏のウ大のスカラシップを受験したのですが、確か最後の3名まで残り、自分以外の2名が公費留学生に採用されました。その2名の中の1名が同郷の兵庫県立芦屋高校出身の和田昇君で、就職後現在も付き合いが続いています。当方も、御慰めで夏季セミナーの奨学金を頂く事出来たのでが、当然参加させていただきました。


(ウ大でカウンセラーをしていただいたJudyさんと。小柄でチャーミングでテニスが上手な方でした。英語の発音をバッチリと叩き込まれました。英会話は、かなり自信がつきました。) 
   

就職活動
1982年の就職戦線は、TIU全体でも好調だったと思います。小峯ゼミでは、東京海上、三菱商事、三菱銀行など大手超一流企業の内定者が続出しました。当方も、運よく日本電気、キャノン、City Bankなど複数社で内定を頂きました。悩んだ末、当時理系・文系男子人気ナンバーワンの日本電気に入社する事にしました。日本電気には、1名だけTIUのOBの方がおられ、自分以降も続いて欲しいなと感じていましたし、入社後数年間は毎年数名の在学生がOB訪問として当方へ来られていました。1名の方が入社されたのは記憶がありますが、残念ながら途中で退職されています。  

今は、当時とは大分事情が違うと思いますが、入社したらどこの大学出身とか関係ないと思います。すべて、ゼロスタートで個人の成長に委ねる事が非常に大きいと感じています。
咋今の学歴フィルータは、受け入れ企業側が効率を優先(応募の数を絞る)するには仕方がない方法ですが、実力のあるB,Cランク大学の学生に取り残念な手段だと思います。ただ、今は個人の情報発信がかなり自由に出来るので、いい意味で目立つ活動を在学中にされたらいいと思います。パフォーマンスは処世術として姑息な手段とも取れますが、会社に入っても重要となります。

日本電気入社
前半は半導体ビジネス:
1982年に入社後、すぐに半導体事業グループの当時の最先端半導体の工場の管理部門に配属されました。希望していた海外営業でなく暫くふて腐れていましたが、モノ作り側なので表面的ですが技術あるいは供給側のサプライチェーンなどの理解に役立ちました。
当時NECは半導体世界ナンバーワンで、毎年海外の工場の大型投資を進めており、その仕事に関われたこともモチベーションの向上に繋がりました。当時は、海外ビジネスに携われる人材が不足しており、入社2-3年の当方も数億円の投資企画書の作成を自ら作成せざるを得ない状況でした。地球儀を俯瞰しながら、グローバルサプライチェーンの最適を上司・仲間と検討する日々でした。


入社当時のNEC相模原事業場です。当時最先端の6インチウエハーの工場でした。この様な工場が、日本のみならず、北米、欧州、シンガポール等で複数稼働していました) 
 

最初の転機は、結婚後の1988年です。上司から、UKの工場の管理部門に行かないかとの打診がありました。ただ、マーケットに向かい合いたい希望が擽っていたので営業部門への異動を希望し、北米向けの半導体営業への異動が実現しました。ASICと言うカスタム(顧客用途別)LSIの担当となり、米国法人の営業と連携しIBM、AT&Tなど大手ICT顧客からDesign win獲得のため出張などを重ねながらビジネスの拡大を進めました。当時は、係長でしたが年商50億円+の予算が与えられていました。営業は顧客が優先ですが、モノ作り部門出身というサプライサイドでの経験は大いに役たちました。 ビジネスは、Market in であつてProduct outではだめだ(主にB2Bですが)とよく言われますが、十分な供給側のマーケティング、高い技術力のある分野では後者も通じると思います。素材、部品など一部の日本企業はproducts outパターンでも対応出来ますが、それ以外の分野は厳しくなりました。  

その後、北米の半導体販売会社への駐在の話などもありましたが、今度は海外営業グループの企画・新規ビジネス関連部門への異動が命ぜられました。バブル後に、会社として海外含めて売る新製品が不足する大変な時期でした。カラー液晶の海外営業組織が立ちあがり、営業での再登板となりました。この製品も、やはり日系の大手企業が複数参入してきました。当初から、いずれ台湾・韓国勢に追い抜かれると言う半導体事業と同じ構図がグローバルでも描かれていました。  

営業アプローチは、シンプルで従来のCRT(ブラウン管)モニタを使用している業種・顧客への売り込みです。主に、PC、Work station、POCレジなどのメーカであるApple, Compaq, Dell, Sun Micro,台湾系PC OEM,NCRと測定器などのTechtronics, Agirentなどが主要顧客です。現地営業の日々の営業活動と日本からの新規技術紹介などを連動させ事業拡大を進めました。
ただ、IBMはPCビジネスのHQが神奈川県大和市にあり、そこの開発購買へのアプローチが重要です。日本での直販は初めてでしたが、これがまた楽しく社会人人生後半へ生かすことが出来たと(今から振り返って)感じます。本来、海外市場で営業活動するのがグローバルと捉えていたのが、日本も含めての活動がグローバルとの概念へと軌道修正した瞬間でした。確か、世の中も「海外、国際」から「グローバル」と言う言葉が使用された時期でした。


(三田にあるNEC本社ビル。本社スタッフ、営業部門が集結しています。) 
 

後半はICTビジネス
1990年代後半から、米国のパソコンメーカ、Microsoftなどが一気に日本へ参入して来て、IT、情報化と言う言葉が広く使用されだしました。日本の半導体メーカの凋落が始まった時期でした。転職なども考え、Intel社まどから内定がもらえましたが、最終的には社内公募制度で情報システム部門へ異動しました。これは、専業企業では転職そのもので、すべて一からの出直しを覚悟し臨みました。
組織デザインも全然別で、全ての損益責任はフロントの営業が持つ仕組みです。ご存知の通リ日本のIT企業の多くは自社製品単品のビジネスモデルでなく、仕入れ製品、SE(System Engineer)のシステム開発費用、アフターサービス等含めたSystem integrationモデルです。これは、日本独特のモデルで、後々グローバル化が上手く進まないと言う事に気ずく事になります。大変なとこに来たなと感じました。  

異動先の事業部長と相談し、最初は勉強も兼ねSE部門のプリセールスとしてERP(Enterprise Resource Planning)ソフトおよびSystem Integrationの拡販を進めました。ERPソフトは従来の汎用機(大型コンピュータ)上ですべて個別開発していたシステムに代わる業務パッケージソフトです。基本的な業務プロセスは、Pre Packageされているので開発工数の低減と早期導入が可能と言うのがうたい文句です。ただ、お客様の生産管理、販売管理などの理解がないと追加開発領域が多くなるので、業務コンサル的なサービスが必要となります。
当方が、異動出来たのは半導体中心ですが、生産、販売、グローバルの経験があり、それなりにお客様先で語れるのが大きな理由だったと思います。担当は、日本の大手製造業でしたので、当然システムもグローバル展開が条件となります。ここで、ようやく得意と感じていたグローバルが出てくるわけです。  

ただ、お客様が製造業と言う事もあり、東南アジア、中国の工場システム案件が多く一度は欧米から離れる事になります。海外出張でお客様の情報システムの方に会うと、その方の同期の東京の何処の誰だれはどうしているか・・。など宴席で聞かれながら商談をしたことが多々あります。日本人全般ですが、海外にいると本社情報が少なくなり気になるのでしょう。お客様本体との間柄を上手くブリッジするのも営業の役目です。本当に、Domesticなグローバルビジネスでした。

新事業を担当した時期もありました。RFID(Radio Frequency Identification)ソリューションの立ち上げの際には、米国のWal Mart様に大胆にも出向きました。彼らの商品の入出庫、倉庫業務の効率化システムの提案を行うのが目的です。何度もアーカンサスにある本社に足を運びました。結局、現地体制が上手く出来ず受注には至らずでした。しかし、世界ナンバーワンの企業と仕事が出来たのは自分含めてメンバにもいい経験だったと思います。

ドイツ企業とのアライアンスと駐在:
その後、社内でもIT部門のグローバル化の推進と外資大手企業とのアライアンス推進の動きが加速し始めました。双方のマーケット(顧客)を連携して深掘する戦略です。綺麗な絵ですが、現場の営業レベルに落ちるとドロドロした事となります。そのような状況の中で、2008年の春頃に上司の事業本部長から突然ドイツのSAP社とアライアンスと市場開拓の目的でドイツに行くよう命じられました。

理由は、「欧米でIT関連の仕事を任せられるのはお前しかいない」との事でした。エレベータ内のやり取りで周りの連中も聞いていました。あえて、その場を利用したのでしょう。すでに、現地組織の立上げスケジュールも確定し、メンバもほぼ確定していた様でしたが、マネジメント、対外折衝、営業活動など雑用役として白羽の矢が立ちました。
時間が無い中で、組織の役割、企画案など作成し関連部門と調整しコメントを貰おうとしましたが、誰も経験が無いのでいい回答が得られませんでした。不満と不安が募り、辞令を拝命した例の上司に話したところ、目の覚めるような返事が返ってきました。「気持ちは分かるが、お前が不安になれば皆が不安になる・・・・」。これは、上司との信頼関係が構築されており、すべて思った通リにやれと言う内容として励みになりました。駐在は、いろいろ家族とも話し合いましたが子供の教育などもあり単身で行くことになりました。


(40歳後半で単身赴任前の家族での送別会です。もう少し、時期が早ければとも思いましたが・・。) 
 

2008年7月14日に現地に到着し、ドイツ南西部Baden-Württemberg州のマンハイムと言う町に住む事にしました。人口40万の中堅都市でしたが、職場、フランクフルトなどへのアクセスもよく快適な暮らしができました。


(マンハイムのダウンタウンの入り口の公園です。季節の色とりどりの花が美しく クリスマス・マーケッとも開催されます。)  
 

業務は、事務所立上げから始まり現地法人内での組織、ITシステムの適用、エンジニア用のコンピュータルーム、IT機器・事務機など調達、ドイツ人秘書の採用など一からです。次は、日本から帯同したエンジニアの仕事の内容を本社、他地域のメンバと調整しながら進めました。SAPと言うグローバル業務ソフトにNECのソリューションを連携しグローバルで売れるようにする仕組み作りです。当然、SAP本社、関連するITパートナへの連携も重要です。ほとんど、部下とパートナなどのモチベーション向上の仕掛け作りが仕事です。

一方、自分としては、やはり営業ですので日系のお客様が中心になりますが現地での市場開拓に邁進しました。10人弱の組織で対外的に如何に影響力を持たせるかが重要な役割です。営業も、SAPのような大きなシステムは東京本社含めたお客様コンタクト無ではそうは売れるわけではないので、適時東京に戻り東京の営業との顧客訪問などを行いました。ドイツ顧客に対しては、手離れがいい商材を本社から持ち込みドイツ企業などへアプローチをかけました。先日も、当時のドイツのお客様の社長とコンタクトしたりして、ネッとワークは今でも役立っています。  

また、欧州のIT企業への出資などの戦略も本社側で検討していた時期で、何社かの評価など本社の企画部門の方と進めました。ご存じの方も多いかと思いますが、日系IT企業が得意としているのは単品の販売ではなくSystem Integrationです。お客様の、戦略ならびに業務を理解しITで課題解決を提案する内容です。その為、各地域、国のお客様自身のビジネスが理解出来ているIT会社を買収するのが手っ取り早くなります。競争力のあるハードウェア製品を保有している企業に比べ、グローバル化の難易度が一段と上がります。ただ、現地でしか出来ない経験が出来たのは、僅かな成功体験よりよかったと思います。
また、余暇の話は腐るほどあるのですが割愛させていただきますが、一点前述の和田昇君もPanasonicの社員としてドイツのハンブルグに同時期に駐在されており偶にフランクフルトで合流しました。現在も交流が続いています。

2012年の春に帰任する事になりますが、ドイツ駐在で得た経験、人脈がその後役立つ事になります。帰国後は、中華圏APAC営業本部で大洋州・シンガポール地域の営業とITソリューション軸で本部責任を担う事になりました。
方針はシンプルで、シンガポールにSAP, MicrosoftのERP要員がいましたので、彼らの体制強化と他のAPAC地域へのビジネス展開です。上記のERP製品は他社製品ですのでプラスで自社製品、例えばPOS端末などと連携した流通業向けSystem integrationメニューの強化などを行いました。欧米に比べ、アジアは多少日本と近いITビジネスモデルがあるのとNECの企業バリューが高いので、数字は上がりました。  

2014年には、国際情報化協力センタ(CICC:Center of the International Corporation of Computerization)を兼務しました。ここは、元経済産業省の外郭団体で日本の大手IT企業の参画をベースに東南アジアを中心にICTの協力、企業側としてはODAなど国際協力資金を活用したビジネスの拡大を推進する組織です。すでに、55歳になっていたのでNECでの最後の楽しみ場所と考え、好きな様にさせてもらいました。海外の政府機関との折衝などは初めての経験で勉強になりました。CICCの名目でNECの災害、防衛、サイバーセキュリティなどの提案を行い、実証なども行いました。内戦前のミャンマーとかバングラディシュ、カンボジアなどの警察・軍関係の方々面会出来たのは貴重な経験でした。

NEC卒業後と現在
最終的には、2019年にNECを予定通り退職しましたが、帰任後も、ドイツ関連の方々とのネットワークを大切にしてきたので、その腐れ縁が思いもよらぬ方向へ進みました。
現在は、駐在中に名刺交換をさせていただいたドイツの人材会社のご紹介もありELATEC GmbHの日本代表(と言つても小所帯ですが)をさせて頂いています。日本市場の立ち上げに日本企業の本社とのアライアンス、新規市場開拓です。コロナ下で、なかなか本社のミュンヘンには行けませんでしたが、昨年の10月のお客様セミナ+Oktober Festでの打ち上げに入社前面接以来久々に行く事が出来ました。


(現会社のお客様向けセミナおよびイベントに参加、2022年10月) 
 

長々と、お付き合いいただきありがとうございました。最後になりますが、振り返り自分の歩いたグローバルビジネスは、遠回りしながらも多数の方々に支えられて来たのだと思います。
何十年も外国でご活躍されている優秀な方とは違い、日本国内の営業も経験出来たのが現職の外資系企業では評価されたのかも知れません。特に、これから社会人になられる方は人生長丁場となります。数年で成果が出ず悩んだ時は、焦らずに一呼吸おいて自問しながら再スタートを切って下さい。

(保井和毅さんプロフィール)
1977年3月兵庫県西宮高等学校卒業
1978年4月国際商科大学商学部入学(小峯ゼミ/ELI: English Language Institute)
1982年3月同校卒業
1982年4月日本電気株式会社入社
第一LSI事業部計画部配属
1986年6月半導体企画室海外推進部異動
1990年6月北米電子デバイス部異動
1999年6月製造装置ソリューション事業部(ITシステム営業)移動
2008年6月NEC Europe Ltd. NEC SAP Solution Center(ドイツ)駐在
2012年6月APAC営業本部へ帰任(ITソリューション全体統括) 
2016年4月財団法人 国際情報化協力センタ(CICC)兼務
2019年4月日本電気株式会社退職
2019年5月~2020年5月日欧ビジネス開拓コンサル
2020年6月ELATEC GmbH日本代表就任
2022年9月ドイツECOSコンサルティング 特別顧問就任(副業)

 

TIU 霞会シンガポール支部