日本人初の熱気球世界チャンピオン、再び大空へ
藤田昌彦さん(1978年卒業 商学部10期 米田ゼミ)

(2011年、熱気球でキリマンジャロ最高峰のKIBO越えに成功後の写真)

藤田昌彦さんは国際商科大学(現東京国際大学)3年の時に熱気球を手作りされ、熱気球競技では1989年、2000年と2回の日本選手権優勝、熱気球ホンダグランプリ3連覇、熱気球ワールドホンダグランプリ優勝、日本人初のワールドエアゲームス金メダルなどの成績を上げられ、日本熱気球界で「世界の藤田」と呼ばれる存在となられています。
また冒険飛行にも挑戦され、1992年には日本人初・世界初の熱気球によるベーリング海峡横断飛行に成功。2011年にはキリマンジャロ横断フライトに世界で初めて成功。2013年にはアルプス山脈を約400キロにわたって横断するロングフライトも果たされています。
現在は、熱気球競技選手、冒険家。熱気球の販売・レンタル及び熱気球を用いた広告宣伝の企画運営等を行う有限会社バルーンカンパニーの代表取締役。

やるからには”熱気球で世界の頂点に立つ、世界チャンピオンになる”
草野球が大リーグに勝つようなものだ、そんなの出来るわけがない、バカげた挑戦だ。誰もがそう思った。
“グオウーゴウー”夜明けの静寂を引き裂くようなバーナーの轟音が響き渡る。もう一焚きで僕らは空中へ解き放たれる。どこへ行くかって?野暮なことを聞くな。風に吹かれてどこ行くが分かりゃしない。だから、どっち行ってもいいように、広ーい広い場所の真ん中から飛ぶ、そしてどこかへ降りる。国際商科大学(現東京国際大学)3年の約1年間をかけて、他大学の仲間とチームを組み自分達で熱気球を手作りした。自分達で作った気球で大空を飛ぶ。こんなエキサイティングなことは大学時代にしか出来ない。
約1年間を費やし、球皮(気球本体)、ゴンドラ、バーナーが完成した。見よう見まねのフライトは毎回が冒険だった。毎回命がけだった。現在のように、風を測り、高度による方向の違う風を利用して自分の行きたい場所へ行くなど、考えも及ばぬことだった。どこ行くか分からないが風まかせにただ飛んでどこかへ降りる、それが楽しくてしょうがなかった。就職活動もせずのめり込んだ。

卒業後は実家の仕事の手伝いとバイトで金をため、憧れのアメリカへ修行を目的に渡った。アメリカは世界一の熱気球大国だ。肌で感じるアメリカの革新的な熱気球事情は若かった私に強烈なインパクトを与えた。1年ほどして、その自作した気球をもって後輩達が卒業旅行へ来ることになった。カルフォルニアで飛んだあと、世界一の熱気球大会があるアルバカーキへ行くためダッジバンを借り機材を積み込み、駐車し、部屋に戻り準備をしているわずかな時間にそれは起きた。バンを見に行った友人が血相を変えてもどった。「バンがない」そんな馬鹿な!そこには割れたガラスの破片が散らばっているだけだった。あんなに苦労して作った気球が跡形もなく消え去った。打ちのめされた。アメリカという国の贖えない洗礼を受け、完全に叩き潰された。
後輩の中に、僕をなぐさめてくれた女性がいた。それが今の女房となる。

アメリカから帰国後、結婚してバルーンカンパニーを設立
帰国後、結婚してバルーンカンパニーを起こした。イベント会社に自作気球を数機販売した。1年で300万円を貯め、仕事を整理し、女房の夢であった世界旅行へ旅立った。中国からシベリア鉄道でモスクワ、東ヨーロッパ、トルコ、ギリシャ、エジプト、ドイツを起点にヨーロッパを周り、イギリスからアメリカへ。アメリカで妊娠が分かり約1年の旅を終えて帰国。30歳。
ヨーロッパの気球の歴史は長い。多くの気球乗り達に会い刺激を受けた。親子4代気球乗りには大いに感銘を受けた。スペインの立ち上げたばかりの気球メーカーとも出くわした。この出会いが後に人生の大きな礎となる。帰国後、日本の総代理店契約を結び、これが世界第1号だった。今や世界トップの熱気球メーカーと成長した。

このころから、日本にも気球競技が少しずつ浸透し始めてきた。気球大会も北海道以外、佐賀やその他の地域でも開催されるようになって来た。日本選手権も毎年開催されるようになって来た。世界選手権にも日本の代表を派遣し始めた。結果は散々だった。
日本のレべルは、当然まだまだ世界と戦えるレベルではなかった。日本のトップでもフライト時間は100時間程度、かたや、1000時間を超すツワモノ揃いの欧米勢に太刀打ちできるわけがなかった。経験値が違い過ぎた。それでも、同じ人間がやること、敵は怪物ではない、俺にだってできるはずだ。やるからには世界チャンピオンになる。周りからはたわ言に捉えられた。出来る訳がない、草野球レベルが大リーグに勝てるとでも思ってるのか?めげなかった。世界との溝を埋めるには、日本で飛んでてもだめだ、世界に出て世界レベルと戦う力を付けなければ勝てない。それには資金がいる。スポンサーを真剣に探した。簡単には見つからない。自分の分身のような子供が生まれ、何としても家族を幸せにする。それがモティベーションを強くした。ラッキーが訪れた。

自己鍛錬、企業教育等のプログラムを販売する、モティベーションを日本に広めたPJMジャパンとスポンサー契約が成立したのだ。有田代表がマイナーな熱気球の世界チャンピオンになる夢を応援してくれたのだ。それからは年に2回世界の大会に参戦した。出来る限り濃い練習をした。通常の1時間を、その3倍の内容で練習した。
33歳、初出場の日本選手権で優勝した。2年後の世界選手権出場初出場の権利を得た。翌年のプレ大会2位となり舞い上がった、世界チャンピオンはもう直ぐと過信した。甘かった。本戦はミスが重なり100機中の50位台。この悔しさをバネにした。

日本では世界標準の競技を取り入れた、年間5戦を日本各地で戦い、総合成績で王者を決めるグランプリ戦がスタートした。いきなり3連覇した。あまりに勝ちすぎるのでハンディーを付けられた。
ハンディーなど関係なく優勝した。グランプリ戦は日本の競技レベルを世界へ近づけていった。グランプリ戦は今年で30回を迎えた。その内の20回の優勝を2人のパイロットが成し遂げた。私と息子である。私は競技の第一線は引退したが、息子はまだまだ勝ち続けるだろう。

2001年に念願の世界チャンピオンになった。
2000年、競技人生でピークを迎えた。日本選手権、日本グランプはもちろん、世界グランプリで日本人初優勝、日本グランプリ最終戦佐賀インターナショナルバルーンフェスタ優勝、世界グランプリ(アメリカ、ヨーロッパ、日本で3戦)最終戦茂木優勝。世界歴代1位の賞金王になった。
そして遂に、2001年念願の世界チャンピオンになった。スペインのワールドエアゲーム(航空スポーツのオリンピック)で気球部門金メダルを獲得した。

 
  

「世界の藤田」と呼ばれる存在となる。
1989年、2000年と2回の日本選手権優勝、熱気球ホンダグランプリ3連覇、熱気球ワールドホンダグランプリ優勝、日本人初のワールドエアゲームス金メダルなどの成績を上げ、日本熱気球界で「世界の藤田」と呼ばれる存在となる。飛行経験のある国は35か国に上る。
また競技と並行して冒険飛行にも挑戦し、1992年には日本初の宇宙飛行経験者である秋山豊寛さんを同乗させて世界初の熱気球によるベーリング海峡横断飛行に成功。2011年には複数機の熱気球によるキリマンジャロ横断フライトに世界で初めて成功した。2013年にはアルプス山脈を約400キロにわたって横断するロングフライトも果たしている。

(2013年、イタリア、オーストリア、スイスとアルプス山脈を約400キロにわたって
横断するロングフライトを果たす)

競技分野で2001年財団法人日本航空協会「航空スポーツ賞」、日本気球連盟「イカロス賞」を受賞。冒険家として2015年にファウスト冒険家賞を息子雄大と共に受賞しました。

(私の主な大会記録)
  • 日本選手権優勝2回(1989、2000)
  • 日本ホンダグランプリ総合優勝8回(1993~1995、1997、1998、2000、2001、2005)
  • ワールドエアゲームス熱気球部門金メダル(2001)
  • 1988年 オーストリア建国100周年大会3位
  • 1992年 スペイングランプリ部門優勝、中国インターナショナル部門優勝
  • 1994年 スイス・シャトーデー(アルプス越え) 部門優勝
  • 1995年 フィリピンインターナショナル3連覇(~97年)
  • 1997年 韓国インターナショナル優勝
  • 2000年 ホンダワールドグランプリ優勝
  • 2004年 熱気球世界選手権(オーストラリア)5位入賞
  • 2006年 熱気球世界選手権(日本)9位入賞
  • 息子の藤田雄大が日本選手権を史上最年少の21歳で制するなど優勝7回。さらに2014年の世界選手権では、アジア人パイロットとして初優勝を飾った。
    世界の大会に参加するたびに息子もクルーとして、学校を休んで連れて行った。バーナーに背が届くようになった中学生から操縦を覚えさせた。その甲斐あり、海外大会で外人相手でも物おじしない、堂々と戦えるようになった。2014年ブラジルの世界選手権で2世パイロットとして世界初の優勝をした。

    『翔べ、フジタ 熱気球世界チャンピオン 再び大空へ』が放映される
     
      

    “番組は、競技者の一人・藤田雄大選手(34)に9カ月間に及ぶ独占密着取材を敢行した。熱気球競技界のレジェンドを父に持つ藤田は「母親のお腹の中にいるときから気球に乗っていた」まさに“気球の申し子”。日本選手権を史上最年少の21歳で制するなど優勝7回。さらに2014年の世界選手権では、アジア人パイロットとして初優勝を飾った熱気球競技の世界的アイコンだ。”
    (テレQホームページより)

    私は12年のブランク後、2021年最高齢パイロット65歳としてグランプリ戦に復活
    20年間の競技人生で、世界の大会で数々の優勝をしてきました。第一線を退いた後は息子のチーフクルーとしてサポートし世界チャンピオンに育てました。息子は結婚を機に独立し、私は12年のブランク後、最高年齢パイロットでグランプリ戦に復活しました。年間ランキング6位入賞。

    ブランク明けにしては上出来。シード権を得たので今年度もあまり気張らず参戦します。現在は、熱気球競技選手、冒険家。熱気球の販売・レンタル及び熱気球を用いた広告宣伝の企画運営等を行う有限会社バルーンカンパニーの代表取締役を務めています。


    (熱気球を用いたイベント運営)
     

    (2005年竜虎万博にて)

    イベント
    愛知万博オープニングイベント 龍虎型熱気球をショーとして演出。
    スペインイベリア万博、日本館オープニングイベントで龍虎バルーンを会場に舞い降ろした。
    山本寛斎元気プロジェクトで、東京ドームで初めて巨大なクジラ船バルーンを掲揚した。
    今年は東京オリンピックのイベントで、東京のど真ん中で巨大な顔を出現させた。 


    (熱気球体験フライト)
     
     

    (係留フライト)
      
     

    (藤田昌彦さんのプロフィール)

    • 東京都出身  東京都立松原高等学校卒
    • 1978年3月 国際商科大学(現東京国際大学)卒業 商学部/10期 米田ゼミ 
    • 大学卒業後は熱気球競技の盛んなアメリカに一年間渡り、技術を磨く。
    • 1989年、2000年と2回の日本選手権優勝、熱気球ホンダグランプリ3連覇、熱気球ワールドホンダグランプリ優勝、日本人初のワールドエアゲームス金メダルなどの成績を上げ日本熱気球界で「世界の藤田」と呼ばれる存在となる。
      冒険飛行にも挑戦し、1992年に日本初・世界初の熱気球によるベーリング海峡横断飛行に成功。2011年にキリマンジャロ横断フライトに世界で初めて成功。2013年にはアルプス山脈を約400キロにわたって横断するロングフライトも果たす。
    • 現在は熱気球競技選手、冒険家。熱気球の販売・レンタル及び熱気球を用いた広告宣伝の企画運営等を行う有限会社バルーンカンパニーの代表取締役。

      有限会社 バルーンカンパニー
      住所:〒329-0101 栃木県下都賀郡野木町友沼5488-11
      電話:0280-55-1238
      FAX :0280-55-1525
      設立:1988年3月
      ホームページ:https://www.balcomjp.com
      Facebook:熱気球の会社Balloon Company

     

    TIU 霞会シンガポール支部