激浪の人生 ‐ 人生は変えていける
勝木弘幸(旧姓田中)さん (1969年卒業 商学部/1期 平ゼミ 躰道部)

勝木弘幸〔旧姓田中〕さんは、国際商科大学(現・東京国際大学)開校時の商学部1期生です。卒業後は、大昭和製紙、キヤノンマーケティングで活躍され、その後レッズジャパン(後にコスタトレーディング)などを経営されています。2016年にはご自身の70歳を期に、これまでの人生を振り返り、冊子『激浪の人生‐人生は変えていける』に書き纏められました。「死ぬまでビジネスで挑戦し続けて社会貢献に尽くしたい」と、その波乱万丈の人生のお話を聞かせて頂きました。
「苦節と逆転の人生だが、大学時代に勉学に励み、躰道部では体と精神を鍛えたことが、今も元気で頑張れる秘訣です。これからも常に少年のような純粋な気持ちで「挑」み「戦」い続けたい
と述べられていました。

大学、会社員時代から独立まで

大学時代は苦学生で、勉学と躰道に勤しむ
国際商科大学(現・東京国際大学))を選んだのは、兄が一橋予備校の金子泰藏さん(大学創設者・学長)を知っていて、(国際商科大学を)うけたらどうだ?」と紹介されたのです。はじめは「霞が関にある」と聞いて「あれ、一等地にあるんだ!」って思っていたら、行ってみるととんでもない田舎でした。1965年当時は大学設立時で荒れた土地ばかりで凄かったんですよ。

中学2年の時に地元大分を襲った大洪水で砂鉄採集の施設・機械がすべて流失し、親父の事業は壊滅、一転して貧乏生活に陥りました。これが「人生の転機」の一回目です。大学時代は姉から毎月1万円の仕送り、月3千円の奨学金とアルバイトで稼いだお金で、学費から下宿代、飲食から部活費用などすべてを賄っていた苦学生でした。この時姉から受けた恩義は将来自分が「社会貢献」することによって返していこうと決意しました。

大学では躰道部を創設しました。創設メンバー7名のうちの一人です。当時まだ40代だった躰道の創設者・祝嶺正献先生が直接指導に来てくださって、その薫陶を受けました。「躰道の理念は、最終的には社会貢献だ」と仰っていて、その言葉が今も私の中に生きています。
躰道の稽古はきつく、部員は普通あんまり勉強しないのですけど(笑)、私は全部授業に出ていましたよ。ゼミは経営学でしたが、就職先を決めることになり、指導教官の西山先生から「同級生が大昭和製紙の専務をしているから受けてみなさい」と推薦され、大昭和製紙に就職することになりました。


(大学躰道部時代の合宿にて) 

   

(躰道の創設者・祝嶺正献先生と)
 

紙の売り上げを年商100億円にまで拡大
大昭和製紙は1969年の入社当時、資本金56億円の大会社で、オーナー経営者の下で急成長を遂げている会社でした。私も出版社ほか紙業界に顧客・知己を広げた時代でした。1977年当時は既にバブル状態で、毎晩銀座で2-3軒飲みに行ってました。
1980年、脱カメラとして複写機を中心とするオフィス機器の販売に活路を求めていたキヤノンから大昭和に「紙の専門家」を提供してほしいとの要請があり、どういう訳か私に白羽の矢が立ったんです。

当時のキヤノン販売の滝川精一社長の最終面接を受けて、私の採用が決まりました。私が34歳の時でした。ここでマーケティング・企画部門に在籍して、紙の売り上げをバンバン増やしました。当時のキヤノン販売は面白い会社で、意思決定を下に任せるところがありました。
素早く意思決定ができるので、業績がグングン伸びていったんです。私も思い切り仕事をしました。その結果、入社当時1980年、年商3千万円程度の売り上げだったコピー紙の商売を役職定年直前の2001年には年商100億円にまでに伸ばすことができました。 業績を伸ばせた理由としては、1)再生紙など時代の動向・ニーズをタイムリーに捉えた商品投入、2)全国に紙の専任販売担当者を配置、3)紙メーカーとの協調体制、4)紙メーカーの代理店網を利用したVAN直納システムの構築、などがあげられます。そして55歳で役職定年となり、営業の第一線から退くことになったので、独立を考え始めました。

独立後するも赤字体質、そしてあの 3・11 が襲ってきました
2003年、大昭和時代からの取引先・レッツジャパンの増田社長から「自分は歳だし仕事を引き継いでくれないか?」と声を掛けられ、会社を引き継ぐことにしました。これが現在のコスタトレーディングの始まりなんです。
会社は家庭用紙の問屋で、私が引き継いだころは月商300万程度の赤字会社でした。社員 1~2人の日本橋の零細企業もいいところでした。コピー用紙を中心に2011年3月までには、月商3000万円にまで売り上げを伸ばしました。でも紙の商売は粗利が薄く、月商3000万円でも赤字体質で、キヤノンの退職金を切り崩して経営していました。そこに、あの 3・11 が襲ってきたのです。

極限の三重苦、そして奇跡の逆転劇

売り上げゼロになるんですよ。給料も払えない
つらくて厳しい時期はその前から始まっていました。2010年9月に、一年半に及ぶ闘病の末、最愛の妻が亡くなりました。妻の発病・入院から3~4年が、金銭的にも心身の面でも、人生で最もつらい日々でした。

2011年に3月11日の東日本大地震により、コピー用紙の仕入れ先である三菱製紙八戸工場が壊滅し、コスタトレーディング(当時この名前に商号変更していました)は売上ゼロになるんですよ。従業員と顧問にも給料も払えないので、何名かリストラせざるを得なくなりました。2012年まで売り上げゼロで、やくざみたいな借金取りも来ました。商品(紙)の仕入れで借金もあり、赤字経営の累損で6千万円ぐらいの借金になっていました。相手は高田馬場にある会社で、そこから紙を仕入れてたのです。その会社の社長が「どうするんだ!」「今月いくら払えるか?」って、毎月私を呼びつけて、報告させ。催促するんですよ。
もう心身ともボロボロでした。

ちょうどそのころ、元キヤノン販売の技術本部長だった金野信次さんから偶然電話があったのです。彼とはお互いキヤノンを辞めてからずっと音信不通だったんです。近況を聞いてみると「船に乗って居る」というのです。東神奈川の彼の船に行ったら、バイオ事業の会社をやっていて、海の浄化作業を行う船を所有しており、その船に事務所を構えていたのです。
そのころ私は地獄の借金取り立て攻撃を受け、心身はボロボロ。「もう会社を畳もうかな、いまの事務所の家賃も払えないし」と状況を話したら、彼が「じゃ、この船広いし、ウチに来れば?」ということで船にオフィスを置かせてもらうことにしたのです。

そうそう、高須義男顧問はキヤノン本体の開発部門に居た人で、キヤノンのコピー機用のトナーをゼロから創り上げた人なんです。キャノンを定年退職後、縁あってコスタトレーディングに入って頂き、以来苦節を共にした盟友で、その知識と経験を生かして、商品開発・技術開発を受け持ってもらっています。フイルム開発も高須さんが手がけたものなんです。

競争相手は世界的化学メーカーでしたが、我々が勝ったのです
船上オフィスの頃、高須さんと2人で色んな企業から開発案件を請け負い、追っかけていました。その中の1社が、柴野恒夫社長のATT株式会社です。2012年3月に柴野社長から、かねてからワーク中だった韓国の世界的電子メーカー向けにスマホ液晶画面用フイルムの商談が成立し、受注が決定したとの電話を受けました。
我々の開発したポレウレタン・フイルムがマッチしたのです。R(アール:弧)を描いた画面を持つスマホに柔らかくてぴったりだったのです。競争相手は世界的化学メーカーでしたが、我々が勝ったのです。

船のオーナーの関係者などに融資をお願いし、300万円の融資からスタートした液晶画面用フィルムに事業は、韓国メーカーのスマホビジネスの伸長とともに拡大を続け、今や韓国メーカーのみならず、中国・台湾のメーカーへの輸出ビジネスが倍々ゲームで増進中で、すべてのタッチパネルユーザーやメーカーに売込中です。このフイルム・ビジネスはATTと共同で展開しています。おかげで、東京信用金庫から優良企業として表彰されたりもしました。


(社員旅行、ハワイにて)
 

今、これからの挑戦。

一番大切なことは「信用」だと言い切れますね
逆転のきっかけは、「人との縁」が運命を変える大きな働きをしてきたのだなぁという気はしますね。でも、私は、ビジネスマン・人間として一番大切なことは「信用」だと言い切ることが出来ますね。「約束を守る」「言ったことを守る」こと。単純なんだけど、これを一度でも破ると、もう相手は信用してくれませんね。信用のない人に誰もお金を貸してくれませんよ。

白鵬関に「地獄の苦しみを知った人」にしか備わらない人間性に共感を覚えました
白鵬関とは元横綱・輪島さんに紹介されて、初めて会ったのは関取が関脇の時でした。会った途端、その人の人格・人柄の良さ・やさしさ・育ちの良さに魅了されました。「地獄の苦しみを知った人」にしか備わらない人間性に共感を覚えたのです。
事実、関取は来日した時、62キロしか体重がなく、「これじゃすぐ辞めるだろう」とみんなに思われていたらしいのです。それを地獄の思いで稽古し、死ぬほど食べることにより、努力に努力を重ねて、今の身体と横綱の地位を獲得し、それを維持し、さらに上を極めようとしているのです。
白鵬関とは、ご家族ぐるみでお付き合いをさせて頂いており、モンゴル・ウランバートルのログハウス(大分県の日田杉造り)建設に協力したり、白鵬関へ刀匠・松田次泰先生作の太刀を贈呈するなど、今の私にできる範囲の応援をさせてもらっています。
ビジネス上では2016年に銀座にちゃんこ屋「鵬」を共同で開店しました。ゆくゆくは白鵬関と一緒に、モンゴルで大きな事業をやりたいですね。


(太刀を前に白鵬関とプロゴルファー片山晋呉氏と)

 

(輪島関と台湾旅行での一枚)
 

(2014年5月場所優勝パレードで白鵬関とオープンカーに)
 

(白鵬関の優勝記念祝賀会にて)
 

常に少年のように純粋な気持ちで前を向いていくしかない
あまりカッコイイ言葉では言えませんけど、敢えて座右の銘というなら「Do your Best !」ですね。「あきらめない。やるしかない。やり通す」ことです。人間、ベストを尽くすしかないですよ。それには、努力・忍耐力が必要です。己で解決しなければ他人は助けてくれませんからね。
また、ビジネスとは「挑戦」でしょうね。私は若いころから起業の意識が強かったですね。「生涯挑戦続ける!」ですね。死ぬまで挑戦しかないですね。だから、「ゆっくりしてどこか旅行でも」なんて気は全くないですね(笑)、ほんとに。常に少年のような純粋な気持ちで前を向いていくしかない。ビジネスは挑戦する、死ぬまで辞めない。まだもうちょっとやれるでしょう。
会社のモットーとして「エコロジーを尊重したエコノミー(eco-mmunity)づくりを掲げていますが、レッズジャパンを引き継いだころからの社提です。先にお話ししましたように、学生時代に姉の仕送りを受けていたという恩義を「社会貢献」という形で社会に返したいと決意しました。その決意から、「持続可能な社会づくり」に貢献する仕事を通じて「社会貢献」を形にしていく姿勢を表した言葉として(eco-mmunity)という造語を考え出したわけです。

これからも新しい事業に挑戦し続けること、それが夢なんです。誰かのため、人のためです
将来の夢は、死ぬまで、ビジネスを辞めない。動けなくなったらしようがないけど。それまでに自分の入る老人ホームを作りたいのです(笑)。自分でホームを作り、仲間を入れたいんです。入りたいって言う人がたくさんいるから、月5万円程度に費用にすることができたら、庶民でも入れるじゃないですか。国民年金受給者でも入れる施設を作らなきゃだめですよ。あと、最後に、これからも新しい事業に挑戦し続けることですね。繰り返しますが、死ぬまで挑戦ですよ。いつまでも前を向いてポジティブに。

モンゴルでのビジネスもそうですが、他にも今まさに始めたばかりの事業が何個かあります。健康・環境・福祉・安全、さらにファッションまで、幅広く手掛け始めています。もうお金じゃないんですよ。名誉でも地位でもなくて、ただ、いままで支えてくれた人たち、周りにいる人たち、皆に幸せを作ることが出来ればそれでいいんです。最後は世の中への社会貢献ですよ。そのためにビジネスで挑戦し続けていること、それが夢なんです。誰かのため、人のためにですよ。純粋に。


 

               

*上記掲載内容は、2016年3月発行の『激浪の人生』冊子から纏めています。

  

(勝木弘幸〈旧姓田中〉さんプロフィール)
 大分県杵築市出身  大分県立杵紫高等学校卒業
1969年3月国際商科大学(現・東京国際大学)商学部卒業 平ゼミ 躰道部
1969年4月大昭和製紙(株)入社
1980年8月大昭和製紙(株)退社
1980年9月キヤノン販売(株)入社〈現・キヤノンマーケティングジャパン(株)〉
2003年5月キヤノン販売(株)退社
2003年6月レッツ・ジャパン(株) 取締役社長に就任
 〈コスタトレーディング〔株〕に名称変更〉
現在、別会社を立ち上げて、Eco-mmunityビジネスを推進中、
(業務内容)
* タッチパネルの高性能フイルムの開発・製造・販売
* サービス高齢者住宅の検討 
* 介護用品の販売
* モンゴル関連ビジネスや健康・環境・福祉・安全、さらにファッションまで幅広く手掛けている 

 

 

TIU 霞会シンガポール支部