TIUとカセットテープが私の人生を変えた
吉野宏さん(1975年商学部卒業、本田実ゼミ、マンドリン愛好会)

(カセットテープが私の人生を変えた)
(カセットテープが私の人生を変えた)

2次試験のある国際商科大学(現東京国際大学)へ入学
1971年の春は私にとって憂鬱な季節でした。第一志望の早稲田を落ち、第二志望の明治にも入れず浪人を考えていましたが、弟がいてそれも許されずまだ間に合う大学を探して国際商科大学(現在の東京国際大学)に入学しました。国際人になるための英語教育や少人数でのチュートリアルや専門分野ゼミがあるとのことに興味を持ちました。
高校も第一志望には入れなかったので回復力はある方でしたので、すぐに気持ちを入れ替えて学生生活をエンジョイすることにしました。クラブ活動は、マンドリン愛好会を同期の仲間と作って楽しみました。マンドリンなら女の子も入って来るだろうと期待していたのですが、一人だけ後輩が入って来ただけでした。ゼミは、本田実ゼミで商学、貿易の授業が多く先輩や同期には商社へ就職した者が多くいました。海外に行きたかったので私も自然と商社希望になりました。

1974年、4年生になった私は5月から就職活動が始まりました。当時は、まだ就職協定が比較的守られている時代で、大手企業は5月1日から会社訪問が解禁、7月1日に一斉の入社試験がありました。つまり、活動は2ヶ月間でその間に第一志望の会社を決めて、7月1日に受けるという一発勝負の試験でした。会社訪問をすると、“もう他には行かなくていいのではないのですか”というように柔らかく内示の感触をくれるところもありましたが、反対に会社によっては「国立大学、6大学、他」のように受付の机が分けられているところがあり(今だったら差別で問題になったでしょうが)こんなところに入ったら派閥や格差があって大変だろうと思って申し込みもせずに帰ったことを覚えています。
ということで、三菱商事、三井物産、丸紅の当時の3大商社は諦めて、中堅の商社に狙いを定めました。M商事、K商事、Y商事などです。大手の総合商社と違って鉄鋼や木材などの特定の分野に強い専門商社です。一次試験は何とか受かり2次、3次面接まではいくのですがそこで全て落ちました。前年からの第一次オイルショックで商社は景気が悪くなり採用人数を削減していたのも理由の一つでしたが、数年後にこの3社が苦しんでいるのを日経新聞で知った時は複雑な気持ちでした。

当時の録音テープのブランドTDK(東京電機化学工業)に内定
大学の就職課の担当者からは、銀行やメーカーでは駄目なの?と言われ、商社に拘ってもしょうがないという気持ちもあり、他の業種の会社訪問を考えました。その中で、K銀行と外資系のM石油から内示を貰えましたが、試験を受けに行ったのはTDKでした。当時は、まだ社名を東京電機化学工業という古めかしい名前でした。TDKは録音テープのブランド・商標として使われていました。東京のT、電気のD、化学工業のKの頭文字を取ったもので、その後私が入社して数年後に正式に社名をTDKに変更しました。株式欄に英文表記した日本で最初の会社です。因みに、ソニーは今でも“ソニー“です。
何故TDKを選んだかというと、私が最初に使った録音テープ、当時はまだオープンリールテープでしたが、それがTDKだったのです。その後にカセットテープになるのですがそれもTDKが最初でした。そういう意味では何か縁があったのでしょう。就職課の担当者からは、まだ大きな会社ではないが、成長性がある会社だからいいのではと言われて会社訪問に行ったのを覚えています。一部上場はしていましたが、売り上げはまだ600億円、株価は450円の会社でした。ただ利益率が良いのが目立っていて10%の60億円はありました。今年の3月の売り上げが2兆2,000億円、利益が1,900億円、株価は4,700円(株式分割前の高値は17,000円)ですから、隔世の感があります。

私は試験には縁がないのか、実力以上の高望みなのか分かりませんが、高校、大学、就職と第一志望に受かったことはありません。1回で受かったのは自動車の免許の試験だけでこれは競争率が無く基本的に落とす試験ではないので受かったのでしょう。そういう状況ですから、就職も第一志望に受からなかったことはあまり気にならず、TDKの試験を受けました。筆記試験では前の日に読んだ日経新聞の記事と同じ問題が出ましたし、英語もそれまでに受けた会社の中では一番出来たので、これで駄目ならばしょうがないという気持ちでした。
2次の役員面接では、希望の職種と勤務先を聞かれましたので、磁気テープの営業を希望し、勤務地は次男なので国内・海外のどこでも可能ですと答えました。結果的にはこれが良かったのかも知れませんがとにかく入社試験に受かりました。

テープ事業部に配属され、神戸出張所に転勤になる
同期入社が28人いたのですが、技術職を含めて電子部品部門を希望したのが26人で磁気テープ部門を希望したのは私を含めて2名でした。私はTDKはテープの会社だと思っていたのに本流は電子部品だったのです。発祥がマグネットやフェライト、コンデンサーの会社ですから。ということで、磁気テープの営業部門に配属されて最初は秋葉原の電気店の店頭で3ヶ月間テープの販売応援をやらされました。TDKという会社に入ったのに、毎日の出勤は秋葉原の代理店、それから電気店に行くという毎日で、土日も休みがありませんでしたので入社前のイメージとは違って少し嫌な気持ちになりました。


(宣伝・商品企画時代に勤務していた当時の東京・日本橋の本社ビル)

カセットテープはTDKが一番売れていると思っていましたが、当時はSONYが一番でTDKは2番目、マクセルがマニアの中で意外と人気なのも分かりました。コンシューマービジネスではお客さんと接することが重要なので、店頭販売は貴重な経験でした。3ヶ月の実習訓練も終わるといよいよ先輩の営業マンと一緒に営業に出るOJTが始まりました。営業は販売代理店への営業と直販店(大手の電気店やレコード店)に分けられます。
挨拶の仕方や名刺の渡し方から始まって、製品紹介、キャンペーン案内、価格交渉などと営業のイロハを先輩から教えて貰いました。私が配属された東京営業所は全国でも一番売り上げが多くて、月商で1億ぐらいだったと思いますが、このような地道な営業活動の積み重ねが大きな数字になるのだと肌で感じることが出来ました。

10月になるとOJTも終わり、営業部長から“いよいよ出番だよ“と言われ、神戸出張所に転勤になりました。生まれてからずっと関東以外を知らなかったので少し不安でしたがこれから始まる新しいことに対する期待の方が大きかったことを覚えています。この神戸行きが私のその後の人生を大きく左右するのですから、やはり人生は運と縁が大事だと思います。神戸は、大阪のように大きな営業所ではなく小世帯の出張所でした。所長と先輩の営業マンが2人、事務の女性が1人でした。(この女性が後に私の妻となります)
神戸出張所のテリトリーは兵庫県と岡山県です。先輩の一人が岡山を担当し、兵庫県をも一人の先輩と私が担当することになりました。神戸で一番賑やかな三宮から大阪よりの東の大きな市場を先輩が、西の明石、姫路方面を私が担当しました。私はTDKのテープはトップブランドなので、アタッシュケースを持ってカッコよく売りに行けると思っていましたが、現実は違っていました。コンシューマービジネスのヒエラルキーは、ユーザーが一番上で、次が小売店、それから販売代理店でメーカーは一番下です。私がイメージしていた階層と真逆です。従って、私のようなメーカーの営業マンは全てに頭を下げてお願いしなければならないことを学びました。しかし、このようにして物が売れて行くのだという仕組みを知ったことは私のその後の仕事の底辺に根付いたので良い経験になりました。

この時の営業の仕事で大変だったことがあります。代理店営業ですが販売代理店は文字通りTDKの営業マンの代わりに町の電気屋さん(当時は松下電器や東芝のお店)にテープを売ってくれるのですが、この代理店は何百種類以上の製品を扱っているのでTDKのテープだけを売ってくれるわけではありません。そこで如何にして他の製品よりもTDKのテープを売って貰えるようにするかが大変でした。それで当時やったのが“トラックセールス”という手法でした。代理店の営業部長に頼んで市場の巡回という名目で営業マンのトラックに乗せて貰い一緒にテープを売るというやり方です。代理店の営業マンも私が一緒にいるので、その日は電気屋さんにテープを売り込まないわけにはいかないのです。
これを続けていくうちに代理店の営業マンにも気に入られてTDKの製品に力を入れて売ってくれるようになりました。営業の基本“製品よりもまず自分を売れ”を身を持って体験した訳です。神戸に転勤になって2年目の春に事務をやっていた女性と結婚しました。
神戸に行かなければ、妻とは結婚しなかったのですからこれも運命・縁でしょうか。


(神戸出張所のメンバーと。左端が私で右側から2人目の女性が現在の妻です)

もう一つあります。大阪でエレクトロニクスショーがあり、手伝いに神戸からも人を出して欲しいと要請があり、新人の私が行きました。会場には本社から宣伝担当者が来ていました。
準備や製品紹介の合間にその宣伝担当者と話をする機会がありました。私のことを気に入ってくれたのか、今、宣伝部員を増員しようと考えているのでもし興味があれば上司に話してくれると言われました。即答はしませんでした。営業を始めてまだ3年なのでやっと営業の面白さが分かって来たところでしたから。ただ、当時全国で営業マンは50人ほどいたと思いますが、私が全国最年少営業マンでした。何故ならば、第一次オイルショックの不況で文系の新入社員は私が採用されてからは2年間採用されていなかったからです。
当時は営業所長の権限は大きかったので私も営業所長になりたいと思いましたが、上に営業マンが50人もいるのでは難しいと思い、宣伝の仕事に興味があったこともあり本社の宣伝部の誘いに手を挙げました。営業所長からまだ早いと言われましたが、最後は快く送り出してくれたので感謝しました。

本社に転勤になり、営業企画部で宣伝担当になる
本社の宣伝の仕事は営業の仕事とは全く違っていて最初は戸惑いましたが、やっていくうちに面白くなり自分でいうのもおかしいですが、自分にはこれが天職かなと思えるようになり、仕事に打ち込みました。
誤算は私を誘ってくれた先輩の宣伝担当者が、私を宣伝部に誘っておきながらすぐに会社を辞めてオーディオ評論家になってしまったことです。私はそれからしばらくは一人でカセットテープの宣伝担当をやりましたが、当時のお金で年間16億円使っていました。まだ26歳の若手にそれだけのお金と仕事を任せてくれた会社に驚きと感謝ですね。ここで宣伝時代の思い出話を記します。

私が入社した1975年(昭和50年)はカセットテープ市場が拡大しようとする時でした。当時私が神戸で営業を担当していた時にテレビCMでは愛川欽也の“お宅何DK?俺TDK!”が流れていました。その後に当時のアイドルの榊原郁恵、キャンディーズを起用、TDKの知名度は一気に上がり売り上げも急増してついにSONYを抜いて業界一になりました。
しかし、出荷総数では勝ててもHiFi分野では未だSONYには勝てませんでした。 営業から宣伝に移った私は調査・分析をしてTDKとSONYの差は音楽イメージであると 確信しました。相手は、ハードとソフトを持った世界のSONY、普通のことをやっていては勝てないと思いました。

1981年音楽の基準となるテープ“ミュージック・リファレンス”をコンセプトに音楽用カセットADの新製品を発売。それを機会に大キャンペーンをやることになりました。タイトルは“アメリカン・サウンド・シーン”、クラシック、ジャズ、ポップス、ロック等、全ての音楽があるアメリカの音楽シーンを宣伝のコンセプトにしました。 その象徴として、第一弾は当時ディスコミュージックで人気のアーチスト“ビージーズ”を起用、翌年の1982年にはグラミー賞7部門を受賞したスティービー・ワンダーを起用した。NHKのプロジェクトXでも紹介された有名な言葉“TDKが私を選ぶ前に私がTDKを選んだ”。

スティービー・ワンダーのCM撮影のため、2週間の同行は感動的でした。
私は彼のコンサート、CM撮影のため2週間彼と同行しました。ニューオリンズのスーパー・ドームのコンサートでは数万人の観客が彼の音楽に熱狂しました。CMの撮影は、ニューメキシコ州のサンタフェ(あの宮沢りえがヌード写真集を出した場所)近くのホワイトサンズいう砂漠。目が見えないスティービーが砂漠を走るシーン、スティービーには彼の兄が持つラジカセから流れる音の方向に走ってくれと頼みました。転んでも下は砂漠の砂で怪我はしないというと彼は走ってくれ、感動的なシーンが撮れました。(スティービー・ワンダーと二人で撮った写真があるのですが、肖像権の関係でお見せ出来ないのが残念!)

スティービー・ワンダーは片時も音楽と離れずいつも音楽を聴いていました。撮影の合間でもラジカセで、もちろん横にはTDKのテープがありました。移動中も自分の耳の形に合わせた特製のイヤホーンで音楽を聴いていました。私はスティービーにインタビューを申し込んでいましたが、2日経ってもO.Kがもらえませんでした。3日目の夜中12時頃、今からならばO.Kと言われると眠い目をこすりながら彼の部屋に行くと彼はいつものように音楽を聴いていました。彼に音楽との関わりについて話して欲しいと尋ねました。
通訳は区切りながら進めるかと聞いてきましたが私は時間がもったいないので、通訳はいいから進めてくれと言いました。彼は音楽で世界中の人を幸せにして、平和にしたいということを語り始めました。この時ほど自分の英語力の無さを悔いたことはありません。その後1985年スティービーは、”We are the world” を多くのミュージシャンと一緒に歌いその夢を実現させました。

アメリカン・サウンド・シーンのキャンペーンはTDKのイメージを一気に変えてくれ、TDKは名実ともにSONYを抜きトップになりました。多くの大学生がスティービー・ワンダーのCMを見てTDKへ入社しました。現在の社長は私もその一人であるとTDKタイムズで語っています。スティービー・ワンダーは、TDKの音楽性を高めただけでなくリクルート効果も果たしてくれたようです。

商品企画課では、カセットテープの新製品企画を担当する
その後私は商品企画部に移り、新製品の企画を担当することになりました。宣伝では出来上がったものをPRする仕事でしたが、今度は製品そのものを企画・造る仕事に携わることになったのです。数年はカセットテープの市場が拡大していたので企画する製品がヒットして良い時代でしたが、その後市場が成熟してカセットテープが趣味の製品からコモディテー化すると差別化が難しくなりました。それにCDコンパクトディスクの登場が拍車を掛け需要は落ち込んでいくことになりました。

そんな時、アメリカで商品企画が出来る人が欲しいということになり、私が行くことになりました。TDKには自己申告制度があり毎年自分がやりたい仕事や行きたい勤務地の希望を出せる制度です。私は大学時代から海外に行きたかったので、毎年海外赴任を希望していたのですがそれがかなわず16年が過ぎていました。 子供が中学生になっていたのでもう海外はいいなということで取り下げたのですが皮肉なことに声が掛ったのです。少しは迷いましたが、海外で仕事をするのは学生時代からの夢だったので行くことにしました。


(私が商品企画をしたカセットテープの一部)

アメリカ・ニューヨークの現地法人に転勤になり商品企画を担当
赴任先はニューヨークの現地法人です。アメリカにはカセットテープを製造する工場がカルフォルニアにビデオテープを製造する工場がジョージアにありましたが、商品を企画する部門はなく日本にその業務を委託していました。それを私が現地で行い日本の商品企画・デザイン・開発部門と連携して進めていくことでした。現地化の走りでした。 英語も堪能でなかったのでアメリカ人の部下とのコミュニケーションにも苦労しましたが、アメリカ市場でのTDKブランドの浸透・拡大という共通した目的を共有することが出来ればアメリカ人とでも仕事は出来るのだということが分かりました。


(TDK ELECTRONICS CORPORATION 社屋) 

 

(オフィスの部屋)
   

家族とアメリカ生活をエンジョイ
一緒に赴任した家族のことも心配しましたが、現地校に入った息子も最初は英語の授業に苦労していましたが、1年も経つと私よりヒアリングは上になり学校の授業にも追いていけるようになりました。子供が落ち着くと母親も安心するのか、友達とマンハッタンにミュージカルを見に行くようになり、私は毎週のゴルフと家族皆がアメリカ生活をエンジョイするようになりました。休みにはナイアガラの滝、グランド・キャニオン、イエローストーンとアメリカの自然を満喫できたこともいい想い出です。

 
 

(ニューヨークで住んでいた家)

 

(自由の女神の前で家族と)
     

日本に戻り、磁気テープ営業からTDK本流の電子部品営業で心機一転
6年間の赴任後日本に戻りました。既にカセットテープやビデオテープの市場は販売価格が下がり利益が出ないビジネスとなって来ていました。新しいビジネスを模索するためにTDKのブランドと技術を使った製品の商品企画部門やパソコンを使った教育ソフトの営業企画部門の仕事をしました。そして、また大きな転機が訪れたのです。アメリカに私を推薦してくれた先輩が定年退職するので、後任に私を推薦してくれたのです。

部署は、もう一つのTDKである電子部品事業部の宣伝部門です。テープビジネスが好きで入ったのですから、テープビジネスを最後まで見届けたいという気持ちが強かったのですが、先細るビジネスに将来を見いだせなかったのと自分のキャリアを生かせる仕事をしたいと思い、先輩の誘いを受けることにしました。しかし、電子部品の宣伝はテープの宣伝とは全く異なっていました。
テープの宣伝は個人のユーザーが対象なのに対して、電子部品の宣伝は企業の購買担当者や技術者です。所謂、B to CとB to Bの違いです。製品の種類とアイテム数がテープの比ではなく技術的にも難しい製品が多いのでそれを理解するのは大変でしたが、優秀な部下が多くいたので助かりました。定年までの8年間でTDKの本流の電子部品でのビジネスを経験できたことは後で振り返ると良かったと思います。誘ってくれた先輩に感謝です。
こうして、満60歳で無事定年を迎えられました。再雇用の制度もあったのですが、今のように良い条件でなかったこともあり、同期の28人で残ったのは1人だけでした。

定年後はインターネット放送などのボランティア活動で楽しんでいます。
定年後は生活のために仕事をする気はなく、現役時代にお世話になった広告協会から誘いを受けた仕事を手伝ったり(無給)、住んでいる地域で始まったFM放送のボランティアをやり、今はインターネット放送の番組でMCをやっています。私が2番目の年長者でほとんどが若い人ですが刺激を貰って楽しんでいます。


(地元のインターネット放送でMCを担当)

TIU同窓会もグローバル化が高まっていくことを期待しています。
TIUの同窓会へは定年する少し前の現役時代から誘われていたのですが、茨城県支部の会に参加するようになったのは定年退職してからです。4年前に順番で支部長になり現在4年目を迎えています。最初は持ち回りの2年間だけのつもりでしたが、関東ブロックの私より若い支部長たちの同窓会を良くしたいという熱意に影響を受けて支部長を続けています。
霞会の各支部同窓会活動にもっと多くの若い方々の参加が増えて、国内外の霞会ネットワークが広がると良いですね。

今年の秋には池袋キャンパスが出来て、名実と共に“東京国際大学”となります。グローバルな時代と言われて久しいですが、私が学生だった頃とは違って、ビジネスや文化、レジャーもグローバル化が当たり前の時代になっています。そうした時代に大学の後輩に臨むことは、日本人というアイデンティティを失わずに積極的に多くの大学にいる留学生とコミュニケーションを取り、そして海外に飛び出して外国の良さを吸収して真のグローバルな人材になってくれることを期待したいと思います。


(茨城県支部の総会で会員の皆さんと)

(吉野宏さんプロフィール)
 埼玉県川越市出身
1971年私立城北高校卒業(東京)
1975年国際商科大学(現東京国際大学)商学部卒業(7期) 本田実ゼミ マンドリン愛好会
1975年東京電機化学工業株式会社(現TDK株式会社)に入社
1975年神戸出張所に転勤
1979年東京本社に転勤 営業企画部で宣伝担当
1986年商品企画課に異動
1991年アメリカ・ニューヨークの現地法人TDK ELECTRONICS CORPORATIONに赴任
1997年日本に帰国、 磁気テープ事業部・応用商品部の商品企画部門
2004年電子部品営業事業本部 宣伝企画部に異動
2012年TDKを定年退職
2019年TIU霞会茨城県支部長に就任して現在に至る

 

TIU 霞会シンガポール支部