どこに行っても楽しかった海外です。
加藤 賢さん (商学部14期/1982年卒、清水川ゼミ)

1982年商学部14期(清水川ゼミ)卒業の加藤賢です。現在は、東洋インキグループの関連会社東洋アドレの代表をしています。 まず、簡単に自己紹介させて頂きますと、1978年に国際商科大学(現、東京国際大)の商学部に入学しました。入学時、すでに「あちこち」寄り道をし過ぎており、21才の新入生でした。

本人は、別に同級性との年の差などは、全く気にしていませんでしたが、周りは結構気を使ってくれて居たようです。その仲間たちとは、今でも時々、一杯飲んでいますが。入学後、普通の企業は、入社の年齢制限等もあるので、サラリーマンになるより、税理士でも目指そうか?といった気持ちで、学生生活をスタートさせましたが、3か月も経つと、簿記は分からないし、数字は嫌いだし、あっという間に、会計を投げ出してしまい、楽しい学生生活をエンジョイし始めました。 でも、学生生活で数多くの友人を得、バイトで稼いだ小銭で、インド、ネパール、中東をバックパッカーとして歩き、社会勉強できた事は、大きな収穫だったと思います。

東洋インキ製造(株)に入社後は、プラスチックの営業、マーケティング部門、経営企画部門を経て、当社が1990年代に投資した「デジタル印刷機(プロユースのコピーの様な機械)とそのトナー」の部門に異動しました。
 
パートナーはイスラエル企業であり、今でもそうですが、中東各国とは、オイルの関係もあり、日系企業でイスラエルと取引している企業は極めて珍しい時期でした。このイスラエル企業は、米国NASAの画像解析の技術を基に数々の特許を有しており、それを基礎に、デジタル印刷機とそのトナーの製造販売を行い、当社はアジア地区の販売とそのトナー製造を行いました。事業はゆっくりと成長し、現在は、米国HP社がその事業を引き継いでいますが、事業そのものより、このイスラエル人、つまり、ユダヤ人との仕事が、きわめて印象的でした。彼らは、欧米では、特殊なビジネスマンといわれていますが、4000年前にカナンの地を離れた彼らは、第二次世界大戦後にイスラエルを建国したわけですが、ビジネス上は、世界全部が彼らの土俵でした。また、ユダヤ人とはユダヤ教徒であり、母親がユダヤ人であるとの定義だそうで、それぞれの人は、スラブ系あり、ラテン系あり、アフリカ系あり、各地にそのネットワークを張り巡らせていました。
だから、まだ電話会議も始まったばかりの1990年代後半でも、世界5各国以上の電話会議や、今月はパリで会議したと思えば、次の月はサンパウロに呼び出されるといった状況で、10年にわたって、年間150日以上の出張生活でした。ただ、この経験は、民族、国籍で特徴はあるものの、ビジネスや人間関係は、その人柄と相手を尊重する姿勢が最も重要な事を教えてもらいました。また、交渉事は、どの土俵で議論するか?自分の土俵で議論できるか?などのテクニカルな面も随分と感じました。

その後、2005年にこの仕事を離れ、当社の本業である化学製品でシンガポールに駐在し、その後帰国し、2010年に執行役員、2012年に常務執行役となり、特殊化学品の生産、販売の責任者として過ごしました。また、その後、再度インドネシアに駐在しましたが、現在は、グループ内の接着剤メーカーの代表となりました。シンガポール、インドネシアへ赴任中、大学の同窓生とのネットワークが広がりました。シンガポールでは第3代支部長を歴任し、東南アジアでも色んな同窓生との交わり、今も交流が継続しています。

私は、イスラエルをはじめ、30年程を海外とのビジネスに費やしてきましたが、やはり、全ては人であり、相手を尊敬、思う気持ちさえあれば、活路は常に見いだせると思っております。
皆さんは、いかがでしょうか?

(加藤 賢さんプロファイル)

  • 1982年3月 東京国際大学 商学部(清水川ゼミ)卒業
  • 卒業後、東洋インキ製造(株)に入社。
  • 2005年にシンガポール赴任。東洋インキアジア極社長兼東洋インキアジア 代表取締役社長
  • 2010年 東洋インキ グループ本社 執行役員
  • 2012年 東洋インキ グループ本社 常務執行役員
  • その後、再度インドネシアへ赴任。東洋インキ インドネシア 代表取締役社長
  • 現在は、東洋インキグループ会社の東洋アドレ 代表取締役社長、他関連会社社長などを兼務

    TIU 霞会シンガポール支部