私の半生は反省と再起。ベトナムで再スタートです。
山岸和秀さん(1978年卒 商学部10期 高橋宏ゼミ)

一流の教授陣と高橋宏ゼミ(前学長)との出会いが、東南アジアに目を向けることに。
旧名は国際商科大学ICC、現在は東京国際大学TIUの10期生です。TIU前学長で現在はTIUA学長でアメリカ在住の高橋宏先生のゼミでした。我を張って、高橋先生の初めてのゼミだったのにご迷惑をかけたのを思い出します。それでも、好き勝手なテーマでしたが、忍耐強く、面倒を見ていただきました。そのあたりの教育姿勢がとても好きでした。
また、加えて、TBSキャスターやNHK TV英会話中級講師の浅野輔先生や、翻訳者で同時通訳者の國弘正雄先生などの授業を、ついてゆくことも出来ないのに受けておりました。学生時代に初めて肌で感じた一流の人々でした。 留学はしませんでしたが、四年の時に英語の教材を丸暗記しての、30日間米国貧乏旅行を経験。 就職後は、片言の英語ができるようになったのがうれしくてこっそり英語学習を続け、縁故入社の印刷会社を2年で辞めて、米国系会社では電子材料の購買課長まで務めました。

アウトドアスポーツブランドの会社を起業しましたが、20年目にして挫折。
趣味のスカイスポーツが高じて、日本でのPGパイオニアの一人となり、ライセンス制度やスクールの普及に一役買いながら、30歳の時に自社のブランドを立ち上げて独立します。やがてブームが去り、自社スクールでの事故に嫌気がさし、借金も増えるばかりなので閉鎖を決意。その時は、縫製工場をベトナムに持っていました。20年も続けた趣味の延長の自社をきっぱりやめて、再出発。この辺から挫折と再起を繰り返すことになります。
挫折した時は意気消沈しており、体調も最悪、原因不明の病気にもかかり、ステロイド投与を一ヶ月も受けていました。しかし、その間も気功瞑想をしていたおかげか、医者も驚く奇跡の回復、後遺症もなしとなったのです。気功を継続することで、その後の薬漬けの糖尿病も治ってしまいました。

ベトナムホーチミンで心機一転、経験を生かして縫製工場を拡大。
日本では、お世話になった人、義理を欠く方も大勢おり、お許しをいだだきながらも正直、気持ちは逃げの出国だったでしょうか。ですから、ベトナムホーチミンでは、当然一からの再起になりました。
縫製工場の経験を買われて、手縫い着物の工場を二つ立ち上げます。大学で学んだ国際感覚がどこかで目覚めたらしく、ベトナムでの着物工場では初めてのISO9001を取得し、文化的な古い日本語で構成される着物の縫製工程を標準化、お直しをミスフィードバックとして捉えて、縫製ミスを激減させ、パターン翻訳をアクセスソフトで作ったりと、再起の元気は爆発して成功を重ねていきました。


(ホーチミン着物手縫い縫製工場)

分野違いの冷凍野菜工場をベトナムで立ち上げ、ミャンマーでの操業にも貢献はしたが。
その覇気を買われて、中部ダラットにある分野違いの冷凍食品工場立て直しにチャレンジ。生産能力を倍にしたり、従業員の定着率を上げたり、歩留まり生産性の向上も目に見張るほどにしましたが、実は、信頼していた社員に裏切られ、利用されていたことが後で判明することになります。これも挫折ですね。ショックは強烈でしたが、これはここでは書けませんが…。


 (中部ダラットの冷凍野菜工場)

ただ、本社は数字だけを見ているわけで、山岸にミャンマー政府に頼まれている冷凍野菜工場を作らせようという話になります。これは当然、ミャンマーは行ってみたい国の筆頭になっていましたから、私は喜んで飛んで行きました。 これが実は再起になります。
足掛け2年で、土地の選定、ライセンス、建設、設備導入、社員教育等々のすべてを創業まで持ってゆきます。また、材料の日本野菜の産地を開発します。これが大変でした。世界の農家が豊かになれば世界の経済が変わると息巻いていたころです。もしかして、日本の農協が農家を豊かにしたので、日本経済は発展したのではと思っていたころですね。それも一理あるでしょう?


(ミャンマーの冷凍野菜工場)

4人いた日本人は、若い人から体を悪くして帰国してしまいます。最後に残ったのは私一人、一人で工場建設と産地開発はできませんよね。ところが本社にお願いしても、俺は知らねえという孤立無援が続きます。向こうはサラリーマンで、こちらは独創性のあるICCの卒業生ですからね。ベースが違うわけで、大会社の社長や役員ら10数名を前にして、激怒しながら大声で不満をぶつけましたら、即、首となったわけです。ははは。思い出せば痛快ですが、当時は真剣に怒っていました。
でも、首になってホーチミンの家に戻ったときの例えようもない解放感、ストレスフリー、自由な自分を感じた時、初めて自分を反省しました。ああ、執着が強すぎたのではと。体もボロボロ、心もボロボロだったんです。なぜ、あの時、十数名の社長や役員らを味方につけられなかったのか? なぜ、孤立する道を選んだのかってね。そうです、違う道もあったのですね。私という人間に、もし、徳があったとすればですが。無かったからこうなったのです。どうせ、仕事するなら徳を積むことなのです。これ以外に仕事がうまくゆく方法はありません。
そうそう、高橋宏教授が学長になられた話を聞いた時、ああ、あの先生なら徳があるからと感じた次第です。私はお世辞で書いているのではないのです。そう、45年前、チュートリアル授業を先生から初めて教えを受けた時に、そう感じたのです。
ミャンマーから戻った後はタイバンコックに丸二年、FDフリーズドライの会社に勤め、多少の改善を収めて昨年9月に帰国。既に65歳になっておりました。


(タイのFD工場)

半生を反省し、再々再起はベトナムで。
このコロナの騒ぎの中、就職口もあるわけなく、「もういいんじゃね」と思っていましたが、ベトナム式の管理運営から日本式の管理運営にしたいという会社が不意に現れ、社長に会ってみるとこれまたとても人徳のある素晴らしい人だったのです。一肌脱ぎたくなりまして、本年6月1日から社長を務めています。なんと、今回は金型成形の会社でして、今は必死に勉強中です。

縫製から食品、そして金型成形と懲りもせず異業界を渡り歩ける理由は、昔ICC今TIUの“International Gentleman-ship“、その卒業生のなせる業でしょう。後輩の皆さんには是非、ストレスの多い仕事の中でも徳を重ねることを忘れずに、善人であれば、そして善人であろうとしていれば、必ず、捨てる神あれば拾う神が現れます。これは本当です。

好きなことにのめりこみ、挫折、反省と再起の連続から必ず幸運がやってくる。
私の半生は、好きなことにのめり込み,多大な犠牲(家族、時間、人、お金)を払って、そして挫折。しかしそこからの再起。挫折と再起の中から、とても大切なことを学びました。そして、私の人生は、多かれ少かれ、このパターンの繰り返しであったように思います。
身をもって分かったことは、過度な執着はダメ。目に見えないものが大事で、お金で買えないものを大事にすることですね。そして、自分なりの幸せというのは、とても何気ない小さなことの積み重ねだと気づいた次第です。

文章が長くなりました。後、10年は働けると感じています。何かの良縁で皆様と結ばれてゆくように祈念しております。


(山岸和秀さんのプロファイル)

  • 埼玉県出身 上尾高校卒業
  • 1978年3月  国際商科大学(現東京国際大学)商学部卒業 高橋宏ゼミ
  • 1978年~1980年 廣済堂印刷株式会社 営業 (印刷会社)
  • 1981年~1986年 日本オーク株式会社 課長 (電子材料商社)
  • 1986年~2004年 株式会社蒼穹 社長、President (スポーツ用品ブランド)
  • 2004年~2010年 Pearl Tone Vietnam株式会社 社長、Director (着物手縫い縫製)
  • 2011年~2016年 Dalat Japan Food株式会社 社長、Director (冷凍野菜)
  • 2015年~2017年 Myanmar Agri Foods株式会社 副社長CEO (冷凍野菜)
  • 2017年~2019年 EiyoThai株式会社 副社長 (具材フリーズドライ)
  • 2020年6月~    Iida Mold Vietnam株式会社 社長、Director (金型成形)

    TIU 霞会シンガポール支部