『変なホテル』などロボットプロデュースの第一人者と言われ、成長する経営者としてこれまでやってきたこと。
富田直美さん(東京国際大学 1972年卒業/4期 商学部 大久保ゼミ) 

富田直美さんは国際商科大学(現東京国際大学)創設時の4期生です。現在は 2016年にhapi-robo st (代表取締役社長)を立ち上げ、エイチ・アイ・エス取締役CIO、ハウステンボス取締役CTOとしてエイチ・アイ・エスグループのテクノロジー全般を統括 されています。
これまで外資系IT企業の日本法人社長など11社の経営にも携わり、(財)日本総合研究所理事、社会開発研究センター理事、アジア太平洋地域ラジコンカー協会初代会長等を歴任。多摩大学の客員教授。考える塾である“富田考力塾”を全国的に展開中。ラジコンはプロレベル。ドローンによる空撮もプロとして活躍中。成長する経営者としてこれまでやってこられたことなど、‘富田流‘の話をお伺いしました。

富田さんは「変なホテル」をはじめ、ロボットプロデュースの第一人者と言われ、イノベーションを先導されていますね。
ロボットに関する興味は日本のBaby Boomer世代と大きく変わるわけではありません。戦後の復興、高度成長時代にロボットは夢であり、鉄人28号(無線操縦ロボット)鉄腕アトム(人口知能をもったアンドロイド)そしてドラエモン・・・・がロボットに対する我々の未来の夢を形成したのではと思います。でも現実は、遅くて巨大な大型コンピューター、そしてワープロ、そして工場のラインでは、テレビ、オーディオ、等々の真空管からトランジスタ、正に省電力で小型化が進み、更にLSI そして高度なチップ化と工業化と合理化された製造工程の中に、作業用のロボットがはいってきました。 

特にB to CでもB to Bでも共通な大量で高額な売上を上げる事ができる、自動車産業では著しい産業用ロボット、主に組み立てラインでの人の手の代用するロボットが開発され改善され、日本の自動車産業の隆盛と共に、Factory Automation における省人化と高度化に大いに貢献する。20世紀後半に入り、全ては生産性と多様性の為の発展をしてきました。 電話も有線の電話から、無線の電話へ、その過程で、更に多くのIT関係のコンピューターや、チップ、メモリー等々の半導体産業からのIT部品が製造され、半導体の記憶素子(メモリー)の世界的競争の中でも日本が世界のトップレベルの生産国、消費国ともなりましたが、肝心かなめの論理チップであるCPUにては米国のINTEL社の完全一人勝となったわけです。


(「変なホテル」のロボット・チェックインカウンター)

(ハピロボ、パーソナルロボット temi /テミ)
 

東京国際大学(当時の国際商科大学ICC)を選ばれたきっかけと最初のお仕事は?
実は私は学歴で差別化される一流企業には就職する気持ちが全くなく、実力で評価される企業を選んだのです。 当時の大学(国際商科大学ICC)は私達が入ってようやく1年~4年までが揃った段階で、新しいキャンパスが裸のグランドの中にあり、郊外型の団地である角栄団地の横にある、そんな呑気な場所に受験失敗をした人が行き場を求めて来てた感じでしたが、一流大学を目指していた人と、少人数によるチュートリアル教育と創始者であり予備校である一橋学院を創業された金子学長が如水会(一橋大学のOB会)をバックでの、新企業人(アントレプレナー?!)を育成するとの志に救われた学生も存在しておりました。 

一期生の就職が決まり出し、本当に金子学長と如水会の応援があってだと思いますが、成績優秀な先輩が、大手銀行、大手商社、大手メーカー等々への就職が決まって行く様を見て、ICCのような新設校であっても、しっかりと勉学に励む事で、一流大学を落ちた自分でも未来が開けると信じる事ができました。
なので、私も英検、商業英語検定、等々の資格取得と大学の授業での成績に拘る事ができました。Pre就活の始まりです。そんな中で、成績優秀?(ウイラメット大学のサマーセッションの補助金取得)な私には第一志望の大手商社への道も開けるのだと考えておりました。ところが考えてもいなかった大手広告代理店(学監のネットワーク)への早期就職内定の話もありましたが、貿易コースの私は大手商社を考えておりましたが、当時の親友がその大手商社を希望していたので、私は全く異なる選択をする決定をしました。それは一流企業には行かない・・・・でした。

≪Why ? 一流には行かない≫
私はこう考えました。一流大学を目指し、2浪までして、結局 ICCに拾われた自分が、いくら勉強したからと言って、凄い学歴にはならない。だとしたら一流企業に学長と如水会の力を得て入社できても、そこに集うエリート学歴の同期と出世競争をせざるを得ない。同じ実績をあげたとしても、ICCの先輩がいない私より、同窓の先輩が多く上司にいる人には勝負にならない。だとしたら実力で勝負できる、私の力?を必要としている企業にはいるべきだ。そうだ、一流ブランドを目指すのでなく、実力だけで勝負できる企業を選ぼう。 
こんなわけで、たまたま学生時代(両親の居ない苦学生)アルバイトをしていた会社の側にある2部上場で躍進中の田村電機製作所(現在のサクサホールディングズ)に入りたいと考えました。元々ラジコン模型を趣味としており、電子、通信、オーディオ、メカトロニクスが大好きでしたので、その視点から優れたProduct Lineを持っている事と海外に対しての躍進が見え、更にはNTT(当時は電電公社)ファミリーの企業だったからです。

≪凄い就活対応!?≫
残念ながらこの企業は大学の推薦リストには載っておらず(恐らく上を目指すICCでは二部上場は対象外?)、就職課の方々にお手伝いいただける部分は殆どなく、自分での対応を余儀なくされました。NTTファミリーの会社ですと、家柄、家族構成も多少は就活に影響を与えると聞き及んでいましたので、両親が他界している私のハンディをカバーする秘策を考えました。 亡父が高校で教師をしており、その教え子には名家出身の方もおり、銅の最大手である同和鉱業五代目会長の猪瀬弁一郎会長ご子息がおり、紹介していただき、お会いしました。 正に縁故リクルートを考えたのです。
猪瀬会長にお会いすると私の思いをくみ取ってくださり、目の前で、電電公社(NTT)の秋草副総裁に電話をされ、直接お会いできる手配をしてくださいました。 後日 秋草副総裁に日比谷の本社の副総裁室でお目にかかると早速、田村電機の桑原専務(電電公社から出向した筆頭役員)に電話をされ、全てのアレンジを整える事ができ、入社試験を受けましたが、無事入社する事ができました。

ここでの学びは、志望大学の受験に失敗し、ブランドでなく実力を高めるしか出世の道が無いと考える仲間が居る大学で救われ、更にブランド就職をするのではなく、金子学長を含む、建学の精神に燃え世界基準の教育を実践する為に呼び集められた、チャレンジングな精鋭教授陣に触れた私や仲間が、実力勝負の選択をも辞さず行った事が、今の私を醸成してくれたとの事だと考えます。

(2010年から2年間、大学同窓会の副会長を歴任。講演・セミナー講師として)
 
≪就職後の私を私らしくしてくれた荒波≫
田村電機に入社し、トップダウンのコネクションもあり、希望する海外営業(貿易)の部門に配属されると考えておりましたが、この会社にも学歴判断があり、貿易部門の採用はたったの一人、なんと上智大学の外国語学部の人間が配属、そして私は一番元気な国内営業部一課に配属になりました。 Why ???!!! それは貿易部は三井物産経由の御用部門であり、元気一杯な私をまずは活気のある民需(NTT対応は官需部門)部門で徹底的に営業として鍛え上げる意図があったのです。 
国内営業で大好きなメカトロと電子の計測器(カウンター = 電話の度数や、テープレコーダーの録音位置、コピー機械の枚数管理)部門の営業で、それらの営業の中でも、一流の電気メーカー、海外の商社を対応する部門に配属されました。外資系の事務機メーカーからリクルートされた優秀な上司と先輩との商社営業とメーカーの海外部門への営業を担当し、国内営業と海外営業の両方のチャンスを得て、御用営業でない自由な新規ビジネスを開拓する仕事ができ、入社半年後には、民需部門でのルーキーとして注目されるようになっておりました。 

今でこそ有名な会社になっておりますが、この当時、私の上司が攻めていたのが、三星電子、金星社、大宇電子・・・・・と言う韓国の財閥企業、そして香港にある華僑系、そしてSears(ユダヤ系、米国の大手Discount 通販&デパート)等々、更にはインド系の商社であり、日本のエリート商社の商流には入らない異世界の会社でした。そして 1年経った頃、インドの商社からLC(Letter of Credit)が届き、ナ・ナ・何とこの国内部門での輸出取引を行う事になったのです。 

その間、松下電機、三洋電機、SONY等々の貿易部門との取引も行っており、正に、国内一流電気関連、アジア新興国での商社取引、そして米国のXerox(コピー機械用カウンター)の日本駐在事務所との取引も学び、更に田村電機の諸先輩の経験則でできないビジネスを凄い上司とともに、私の貿易実務の資格に磨きをかけながら行う事ができ、入社翌年には田村電機の創設者の実弟である田村常務のお供でアジア出張も行い、国内営業部に居ながらにして、更に米国でのCES(CE Show)への出張も行うようになりました。

≪発展的転職≫
入社数年で自分の理想的な居場所を見つける事ができ、同期入社を超えて若手のホープとしての地位を確実な?!ものとした私に、当時、このカウンターを利用し、ドイツで始まった勤務時間管理システムの少数精鋭部門の先輩を受け入れる事を指示されました。 Flex Timeシステムのプロジェクトチームです。私は係長寸前の立場、そこにプロジェクトチームの課長、係長が入って来る?? 彼らは新しい制度とシステムを開発し販売する組織ですが、なかなかFlex Timeシステムは営業数字を挙げる事ができない状況で、営業数字をトップレベルで上げていた私の係に合併した形です。 

余談も含めて、今まで全く触れてなかった、大切な事実があります。それは当時、私はラジコン業界では若きレジェンド(笑)となっており、ラジコンメーカーのリーダーでもあったのです。 その事が私の営業を大きく支えてもいたのです?? 理由はラジコンの専門誌にしばしば登場する有名人であり、日本選手権のチャンピオンチームの若きリーダーである私を知っている、テープレコーダーのメカ(カセットテープレコーダーのメカ部分)には小型のテープカウンターが入っており、当時一番の得意先であり、世田谷の桜新町に本社を置く、タナシン電気(世界一のカセットテープレコーダーのメカメーカー)があり、そこの技術幹部の多くはラジコンマニアであり、私を頂点とするラジコンメーカーのクライアントでもあったのです。 

そんな事もあり、世界的に需要が高まった、カセットテープレコーダ、デジタル時計(電子でなく、メカ式)等々の主要部品に使われる計数機(カウンター)、そして人々の勤務形態を自由解放する自由時間勤務システム(Flex Working Time System = FLEX TIME)等の若手のProfessionalとのポジションを得て、先に田村電機を辞めて、新進気鋭のコンサル企業に転職していた先輩に誘われ、コンサルタントとしての第二のビジネス人生を始める事になったのです。 
そのコンサル企業が、世界中の先端テクノロジー、全く新しいマーケティングの手法、そして企業とプロダクトのブランディングを行う、もっとも先端諦な独立系コンサルティング企業と知る人は知るODS (Overseas Data Service)でした。

外資系IT企業の日本法人社長など11社の経営に長年携わってこられましたね。

≪コンサル企業から実業の世界へブーメラン回帰?!≫
外資系IT企業にお世話になる前の 8年間、前述のODSと言う、世界中の先端技術・手法を日本の高度成長期に世界中から持ち込んだ情報コンサル商社で私が担ったいくつかの貴重な経験を辿ってみます。

田村電機の最後での私の命運を決めるプロジェクトがシンガポール工場設立準備プロジェクトでした。当時高度成長の中で、日本から欧州への電気機器の輸出が輸入規制で問題になり始めており、Panasonic, Sanyo、等々の大手家電メーカーがOff Shore工場(海外工場を現地法人化)する流れがあり、田村電機の電気電子部品も現地生産する事で国内でのLost Businessを補う対応を私が提案しましたが、時機尚早との断がおり、私はこれ以上田村電機にお世話になる事を良しとせず、先輩に誘われるまま物売りから知財を売るコンサル仕事にチャレンジする事になったのです。

≪ODSでの最初の仕事≫
当時のODSは一見変人集団で、人員は30名弱。 スイスのバテル研究所の研究員をしていて、国立音大の創業者の子息である福井さん、世界的なCar Designをドイツフォードでしていた伊藤邦さん、ライフスタイル調査の主幹をしていた三浦さん、等々、と創業社長の山口峻宏とその仲間と言う、凄い知能集団でした。しかも、元々海外の先端技術文献を輸入する商社からスタートして、それらの技術を研究調査する海外のトップクラスのResearch Associate(調査研究機関)の200社以上の総代理権を保有しており、正に戦後から続く日本の近代工業化の元である、世界レベルの先端技術情報を基に調査コンサルを行う先端的企業でした。 

田村電機で電気・電子・メカトロ・働き方改革等々をして来た私への期待は先端技術関連の調査コンサル事業領域を拡大する事でした。既にこれがODSでの屋台骨になっており、おりしも、New Media, On Line Data Base, 等々の今流に言えば、DX(Digital Transformation)の夜明け前夜であり、技術的に言えば、真空管からダイオード、トランジスタ、IC そして大規模集積回路であるLSI さらにそれらを更に効率よくパッケージ化するチップキャリア等々、の先端技術の黎明期でもありました。その後、New MediaがMulti Mediaに、On Line Data Baseがクラウドに・・・・・LSI Chip carrierがSoC(System On a Chip = IoT)にと変遷して行く未来を俯瞰できる、正に私の好奇心を丸裸にする部門のリーダーとして成長する事ができたのです。。 

研究調査部門の後は、企業のブランディイングであるCI (Corporate Identity)でミノルタカメラのCI、そして世界No.1のIndustrial Designグループを日本へ紹介するうプロジェクトに従事もでき、ポルシェ、ルイジコラーニ、ハンスムートそしてアップルのデザインを担ったFrog Designの代表ハート・ムート・エスリンガー等々、世界の天才デザインナー&グループとの提携業務。さらには先端コンセプトをProductにするODS Tradingの設立責任者と、実に多くの事を実業の立ち上げで学ぶ事が出来ました。
中でも当時のマーケティングがDemographic(属性)データ主体に対して、Life Style(生き様)を中心とすべきとするヤンケロビッチ博士の手法Life Style Indicator(LSI)を展開し、多くのConsumerをターゲットとした企業の初期段階のデータマイイング&マーケティングに資する事が出来た事も大きかったです。

≪コンサルから実業家に最初のIT 企業≫
正に、私にとっての本物のOJT(On the Job Training)MBA教室となったODSでの役割の中で、最初のNew MediaとOn Line Data BaseのStudy予測で、1985年頃にはソフトウェアが成熟し、超小型のコンピューター(Hand Held Computer = HHC)が登場し、マルチメディアの時代が訪れるとの下りが登場しました。

更に、通信ネットワークのデジタル化が進むと私もコンサルタントとして語り始めた頃、そして工業デザインが単なる躯体(シャーシー)のカバーで無くなる時代がLSIによりリアルになるとデザインが人間工学(エルゴノミクス)やライフスタイルによって決定されるとの正にDXによる変革が起きると自覚した段階で、DXの中心となるソフトウェアの世界への好奇心が増大し、田村電機を卒業した他の大先輩からパソコンのソフトウェアの世界のBig 3の一つが日本法人のGM(General Manager = 法人社長)を探しているとの話があり、自分の好奇心を満たす天から降ってきたOpportunityと考え退社して、飛びつく事にしました。

当時のPCソフト業界のBig 3が ①Microsoft, ②Lotus, ③ Ashton Tate でありそのアシュトンテイトの日本法人の社長候補、但しまずは営業部長としてスタートし1年後に日本法人の社長となり、その後アジア大洋州の地域社長にもなるわけです。これを実業家と呼ぶには余りにも稚拙ですが、一応、日本法人の代表取締役社長ですので経営者になったのは確かです。(笑)

正にNECのPC88や98が寡占状態を占める伸びを示しており、パソコンで業務のアプリケーションを開発できるソフトウェアであるRDMS(Relational Database Management System)の世界①の会社のソフトはパソコン単体よりも高価格で、でも中小企業でも全ての取引のデータ管理、請求書、受注書、等々の管理を、パソコンで行えるソフトウェアは特に高度成長期の中小企業、更にはダウンサイジングが始まっていた大企業でも爆発的に売れ、私は日本だけでなく、アジア太平洋地域の統括社長、本社の副社長となり、4年後にアシュトンテイトが下位のボーランド社に吸収合併されるまで勤めあげ、IT業界でのいくつかの座長(日本パソコンソフトウェア協会理事、東芝ソフトウェア協議会会長、パソコンソフトウェア著作権協会副会長・・)をつとめる事になりました。

≪私の今にも影響を与えた2番目の凄いIT企業≫
アシュトンテイトを離れた半年後、アシュトンテイトの吸収合併を仕掛けた、米国のVC(Venture Capitalist)の担当Associateである原丈人氏が、なんと私に世界No.1のテレビ会議システム会社であるPictureTelの設立されたばかりの日本法人の社長のポジションを持ってきてくれました。因みに、アシュトンテイトの時代にあの孫正義氏のソフトバンクはアシュトンテイトの一番の代理店であり、アシュトンテイトが吸収され私がその年の暮れに離職した年明けの1月1日の早朝6時に、出張先のニューヨークから、“富田さん、お仕事ご苦労様でした、今ニューヨークで別なデータベース企業の社長と会っているのだけど、直ぐにニューヨークに来れない”との電話を下さったのです。

その時の孫さんはまだ、日本のソフト流通のBig 3の一社であるソフトバンクの社長に過ぎなかったのですが、彼がパソコン単体へのソフトウェアから、企業LAN仕様の初のソフトウェアであるアシュトンテイトdBASE LAN販の日本での初の展開、パソコンが大企業の大型コンピューターや、ワークステーションに伍して使える新時代 = ダウンサイジングの道を開く凄い製品であった事も明記させていただきます。

さてそのピクチャーテルで以下の事を成し遂げる事ができました。

  1. 6人の日本法人を数年で50名のトップ企業に
  2. その後、アジア太平洋地域の社長として17の地域、200名のスタッフ、シンガポール開発センター設立。
  3. NTTの世界初のデジタルネットワーク(N-ISDN)の普及の為の世界初のパソコン対応型テレビ会議システムをマイクロソフトWINDOWS 95上で実現するPhoenixプロジェクトを提案そして完成。
  4. 1996年にこのPhoenixを日本全国の小中学校1000校へ配り、この1000校への同時双方向配信をできるPhoenix通信網株式会社をNTTと共同で設立、そのシステムを世界に先駆けて納入、私も社外取締役に就任。
  5. このシステムを使ったマルチメディア教育 “コネっとプラン”(子供のデジタルネットワークによる双方向教育)を小室哲哉氏の“You are the One”と言うキャンペーンソングの収益金で開始、その後2000年2月まで24回、ビル・ゲーツまで含むリアルタイム双方向の教育を成し遂げ、24万人の生徒が学校に居ながらにして、遠隔双方向教育を受ける事ができた。(*図1参照)
  6. 1999年、ジョンソン&ジョンソンと世界初の遠隔内視鏡手術システムを開発し、遠隔医療の先鞭をつけた。今盛んになったテレ・ワークは既にその時点で使える状態になり、デジタル化は日本が世界で断トツだった。
  7. ピクチャーテルとシャープで先端のテレビ会議システム開発をするプロジェクトを開始し、その直後、私は ドットコム世界へ飛び込むべく、ピクチャーテルを辞める。 
(*図1)
 

≪ドットコムピーク時の業界に転職、ドットコムバブル弾ける中での乱世へ≫
2000年に孫正義氏がドットコムへの本格参入を発表し、彼が参考にしたと言われている米国の最大の投資インキュベーショングループである、ピクチャーテルと同じBoston地域にあるCMGIから誘われ、そのグループの最優良企業で、日本の住友商事と提携関係にあり日本法人(資本金30億)を設立済みのEngage社(世界トップのProfiling技術 = ネット上での人の行動から最適な広告バナーを瞬時に表示)の社長のポジションで引き受けました。 

結果2年後、ネットバブル崩壊とともに退職し、その後IT関連の先端企業5社の日本法人社長を歴任(①Pulse社=全ての写真からAvatarを生成する世界No.1の技術保有、②Collabnet社=唯一無二のオープンソースソフト開発のプラットフォーマー、③Opsware社= Web管理の自動化ソリューション1、④ArcSight社  = 世界No.1の厳しいネットセキュリティ企業で米国国防総省 日本自衛隊使用、⑤Paralles社 = クラウドサービスの自動化とAppleでWindowsを使える仮想化技術)を短期間に歴任し、60歳の時から初めて知った世界一のセールスマンと言われ、米国一流企業のメンタリングを行い、日本でも著書が10冊翻訳されている世界的なメンターであるジェフリー・ギトマー氏の公認トレーナー資格を取得、多摩大学の客員教授として大学院大学での教鞭をとり始める事になりました。。


(パラレルス(株)の社長就任挨拶) 
(IT関連セミナーで講演)
    

経済界は勿論、大学客員教授としても幅広くご活躍されていらっしゃいますね。
母校のTIUでは特別講義を依頼され行ってきましたが、正式な教鞭は、先に言及しました多摩大学の客員教授としてMBAのコースで始めたジェフリー・ギトマーの“ビジネスと人生で成功する科学”が最初です。。
何故、多摩大学か?と申しますと、65歳の時に、教育事業に身を投じたく、多摩大学の創立学長で私の恩人でもあった野田一夫先生、(孫正義、南部義之、澤田秀雄等の経営者のメンターとして著名でピーター・ドラッカーの近代経営の翻訳者でもあり、日本初のシンク・タンクである財団法人日本総合研究所(日本総研)の創設理事長)に相談した結果、まずは日本総研の理事と多摩大学の客員教授としての2つのお手伝いを本格的にスタートする事が叶ったからです。

≪日本総研の最初の仕事が、ハウステンボスに繫がる!?≫
日本総研の理事としての最初の仕事がハウステンボスの発端となった長崎オランダ村の再生事業のヘッド、オランダ村の再生事業には、その当時、既に、再生をしてV字回復を成し遂げた、エイチ・アイ・エス総帥であり、澤田秀雄(ハウステンボス社長でもある)も加わっており、オランダ村の調査を行った日に20年以上前に野田先生の紹介で旧知となっている澤田社長にハウステンボスでお会いした。地理的な関係は、オランダ村もハウステンボス 広大な内海である大村湾(無人島が多数存在)に面しています。 お会いして直ぐに無人島を買いに行く事を誘われ、オランダ村調査で持参した空撮用のドローンを携え無人島へ。

そこで澤田社長の目の前で、島全体の空撮を披露し、その結果、ハウステンボスの広告ビデオの空撮の仕事を日本総研の理事として受注、ハウステンボスの集客の目玉となっていた九州一花火の空撮を始め、いくつかの日本初ビデオを納入。その後、ロボットが管理する世界初のホテル“変なホテル”プロジェクトとハウステンボスの経営顧問&CTO(技術最高責任者)として日本総研の理事を兼任し、更に、エイチ・アイ・エスの取締役CIO(情報最高責任者)としての役職も得ることとなりました。

そこでもハウステンボス、多摩大学で始めた、人財教育の塾が後程、富田“考力塾”となり、特にハウステンボスが世界に先駆けた環境改善観光都市(スマートシティ)である事を広く世界に広め、SDGsを唱えたり、バッジをつけたりするだけでなく、環境を人間の欲望を満たす為に19世紀以来 生産性最優先で自然破壊をし続けて人類が目指す事をただちに止め、ハウステンボスのように破壊された環境を復活させる事が人類の一番の役割である事を広く伝える講演活動を始めました。コロナで一時止まっていますが、それまでに数百回の講演を行って来ています。

 

成長する経営者としてこれまでにやってこられた中で、印象的なプロジェクトはハウステンボスでしょうか?
ハウステンボスが、長崎大村湾(出口200mのほぼ閉鎖海域)に埋め立てた工業用地であり、埋め立て後20年、全く利用されない状態で放置された結果、ヘドロが発生し、綺麗な湾全体の汚染源となっていました。
他方、オランダ村は先進国の中で、国土が海面以下の環境での生活を継続する為に自然環境と闘い、生き抜いて来た技術と叡智の宝庫でした。その叡智を模範に設立された実験都市がオランダ村。年間200万人も訪れ隆盛を極め手狭になった時に、同じ大村湾に埋め立てられ全く利用されていない広大(モナコ公国の広さ)な土地を知り、オランダ村を創設した2人の偉人(池田武邦氏と神近義邦氏)が2000億円の借入をして、環境を改善する未来の観光都市ハウステンボスプロジェクトを立ち上げたのです。 

世の中のほぼ全てのビジネスが生産性を最優先にしていた時代に・・・その事で如何にこの二人が環境問題は地球、人類の存続の為に大きな問題であるかをオランダ人から学び、生産性エコノミーのみだけでなく、環境経済と言う本来あるエコノミーを示した来た凄い事実を知り、私のライフワークとしてハウステンボスにEngage(主体的)にかかわるようになりました。
この2人の偉人との出会いの中で、そして私の技術最高責任者(CTO)として、このお2人の偉業の上にハウステンボスの環境を改善しながら、多くの人を幸せにし、環境改善の技術、知恵の大切さを守る役割をこの二人から託された証として、E-Trinity (自己・自然摂理・環境経済 =Egology, Ecology, Economy) と言う3つの“E”を同時に実現する考えを示しました。その事を広めるKey Wordとして Love, Peace, Technology (世界平和は、自然の摂理への愛と技術で実現)を入れました。政治も国境も技術には関係ないと確信するからです。


(エゴロジー・エコロジー・エコノミーの三位一体「E-Trinity」)


(左からハピロボ代表取締役社長の富田直美、ハウステンボス代表取締役社長の澤田秀雄氏、インテル代表取締役社長の江田麻季子氏、インテル・コーポレーション ニューテクノロジー事業本部 副社長のアニール・ナンデュリ氏)
 

≪富田流の乗り越え方?≫
正に、池田さんと神近さんが絶望的な課題を、命がけの努力で乗り越え、結果常識的な人(多くの人は過剰投資で、破綻したと言う)がなんと言おうと、社会の継続と言う本質の中の本質の為に出来る全てを投じる事ができる人が実存し、やり切った事実を知った時、私も課題の難易度に拘わらず、真っすぐに対峙し、考え、解決する方法(技術含む)を探し見つけ創る事が地球と言う自然の摂理の備わった場所の存在する人間の役割であると考え事ができるようになってきました。 

エイチ・アイ・エスの澤田会長がコロナ禍の中、コアビジネスである観光旅行ビジネスが壊滅的になっている中で、カンブリア宮殿700回記念番組に登場し、笑顔で、私は失敗はしない・・・と言い切りました。それは“成功するまで、成し遂げるまでやり切る” だから失敗は無い。正に、誰でもが出来る事を考えもせずに真似(コピペ)してできた・・・では各人の内在する能力は増えない。前例のない課題への空くなき挑戦の中で、考力は鍛えられ、自身の創造力も対応力も増加する。そんな生き方を召される時までできたら ・・・・・です。

オフの時間はどうされていますか? 趣味のラジコンはプロレベルと聞いていますが。
はい、ラジコンの世界は全てが自己責任なのです。無線機を選ぶのも、機体を選び、組み立てるのも、操縦するのも。そして結果も。
ラジコンの技術的な要素には、ほぼ全てのテクノロジーが存在しています。 電気、電子、IT、センサー、メカトロ、ユーザーインターフェース、操縦・・・・
結果、変なホテル以降の中心的な仕事である、澤田さんと設立したロボット会社 ハピロボの仕事に必要な基本技術の全てを網羅しています。
それも世界のトップのテクノロジーを追求し、結果を体験できる。正に、生きた実証実験を自分の中で行う事で、新しい発見、好奇心が泉のように沸いてくるのです。
その結果、多くの事を身に着ける事ができる。 
【私にはOnもOffも無い?】
理由は全てが私のLifeだから、Work Lifeバランスは存在しない。


(ラジコンはプロレベル。ドローンによる空撮もプロとして活躍中)
 

同窓生へのメッセージ、人生のモットーなどをお願いします。
私は団塊の世代のピーク時に生まれた国際商科大学(現東京国際大学)4期卒生で、2022年は卒業50周年になります。私たちは無名の大学から社会へ飛び出し、その中で戦い抜いてきました。

2009年6月から2年間、霞会副会長を拝命し、同窓会活動に専念した時期がありました。新春の集いで、新井前学長は挨拶の中で同窓生からの“声”を紹介されました。それは「TIUの知名度を上げてもらいたい」という内容でした。TIUの名が上がれば、社会でのアドバンテージが期待できるのでしょうが、既に4万人を超える同窓生と比べて数百名の教授・講師陣、事務局員等だけにそれを期待するのは本末転倒ではないかと私は考えます。
本当に知名度を上げ、そしてその任を担うべきは、私たち社会に出た同窓生ではないでしょうか。私は「我々同窓生は一流ブランド大学出身者と社会で伍して戦い、勝利し、認めさせる中で大学の名前を押し上げていくことが確実にできる!」と述べました。出席された会員からは強い同意の拍手を頂戴したと記憶しています。

2023年には池袋に真のTokyo International Universityがオープンします。私たちが新たなグローバル時代への対応と未来社会へのリーダーシップを発揮して、皆で大学のブランド力を上げていきましょう。

≪多くの失敗をして学ぶこと。自分の幸せを第一にする≫

  1. 課題、依頼された事に人生価値を見出したら、迷わず、対峙する事。
  2. そして、是非、多くの失敗をしてください。成功から人が学ぶ事は極めて少ない、 失敗をすればするほど、学ぶ事ができる。
  3. 自分の幸せを第一にする、幸せに関しては自己中で良い。なぜなら自分の幸せの構 成要素の中に自分の大好きな人の幸せが入っているでしょう。
  4. グローバルである時、日本対世界との視点は捨てて欲しい、世界の中に日本も存在 しているのだから、世界だけを考える方がシンプル。

 

(富田直美さんプロフィール)

1948年生まれ静岡県出身
1972年3月国際商科大学(現東京国際大学)商学部 卒業 大久保ゼミ ESS
1972年4月株式会社田村電機製作所(現サクサホールディングス)計数機事業部海外営業担当
1980年オーディーエス 海外調査部部長、デザイン・システム事業部長
1988年日本アシュトンテイト社長
1992年ピクチャーテルジャパン社長
1998年ピクチャーテル・コーポレーションアジア大洋州統括社長
1998年NTT-Phoenix通信網(現、NTTビズリンク)取締役(兼務)
2000年エンゲージジャパン社長
2002年CollabNet日本法人社長
2003年レボテックパートナー社長
2005年Opsware日本法人社長
2008年ArcSight日本法人社長 本社日本担当Vice President
2010年4月多摩大学大学院 MBAコース
Human Resources Empowerment担当客員教授
2010年6月パラレルス株式会社 代表取締役社長
2013年4月 ~パラレルス株式会社 名誉会長
2013年3月 ~一財・社会開発研究センター理事
2013年6月 ~一財・日本総合研究所理事
2013年10月~GITOMER CERTIFIED ADVISOR
2014年9月 ~多摩大学経営情報学部 客員教授
2016年7月 ~株式会社hapi-robo st 取締役(Co-Founder)
2016年12月~ ハウステンボス株式会社 取締役 CTO
2017年1月 ~株式会社hapi-robo st 代表取締役社長
2019年7月 ~学法・東京第一バプテスト学園 こひつじ幼稚園 理事長
(団体経歴)
  • 東芝パソコンソフトウェア協議会会長
  • 日本パソコンソフトウェア協会理事
  • パソコンソフトウェア著作権協会副会長(初代)
  • 狭帯域テレビ会議コンソーシアム副会長
  • コンピューター補助教育コンソーシアム理事
  • アジア太平洋地域モデル・ラジオコントロールカー協会(FEMCA)初代会長
  • 日本モデルラジオコントロール協会理事
  • 東京第一バプテスト学園こひつじ幼稚園理事
  • 財団法人・社会開発研究センター 理事
  • 財団法人・日本総合研究所 理事
     

    TIU 霞会シンガポール支部