全ては繋がっている。四半世紀を超えて続く友情。
藤原直美さん(1997年 商学部経営情報学科卒業 1992年TIUA留学 1996年ウィラメット大学経済学部卒業)

(TIUAを再訪問)

神奈川県の湘南に生まれ、毎年お正月は沿道に出て箱根駅伝を見て育ち、子供の頃から「箱根駅伝に出ている大学に行きたい」と思っていました。卒業して何年も経って母校が箱根駅伝に出ることになるとは嬉しい驚きでした。

女性の就職は難しい、現役でないとダメ、実家からじゃないと就職できない…
今ではコンプライアンスに引っかかるような女性の就職難そんな時代だったので、卒業を遅らせることなく留学できるプログラムのある東京国際大学に入学しました。
まさか自分が米国の大学に行けるなんて!Willamette大学の奨学金プログラムに合格したときは私を含めて誰もがそう思ったに違いありません。

1992年TIUA(現ASP)プログラムが人生で生まれて初めての海外渡航でした。
TIUAでは真ん中のレベルのクラス、英語の成績がすごく良かったわけでもありませんでした。ただ思い返してみれば、小さな頃から日本を出たいと思っていました。思い続けていれば夢が叶うものですね。

親に4年間で卒業するという約束でアメリカにいかせてもらいましたので、卒業が2年遅れる長期留学は親には反対され、お金は一切出さないとも言われました。
幸運にも当時の奨学金は渡航費も出たので、両親に伝えたのは出発の二週間前。反対される時間もなかったです(笑)
反対を押し切って渡米したものの生活費を含めてサポートしてくれた両親に感謝しています。

人生初の海外渡航がTIUA。国際色豊かな理想の環境でした
入った寮は今では無くなってしまったのですが、WISH (Willamette University International Studies House)でした。 


 
各国からの留学生がアメリカ人と暮らす寮で、白人率の非常に高い学内で、アジア各国、中東、ヨーロッパからの学生、各言語のTeaching Assistantがいたりと国際色豊かで、私には理想の環境でした。当時は、寮で食事が出ていたので、各国の学生が自分の国料理を振る舞う日があったり、いつも賑やかな寮でした。

悪天候で飛行機が大幅に遅れて到着した初日、ターバンを巻いたインド人の寮長がカレーを作って待っていてくれたのは今でも良い思い出です。

ルームメイトはJunior(3年生)のブルガリア人留学生で自分が苦労した経験から、私が日本語を話すことを極力減らすために毎日ランチはWISHの食堂で一緒にご飯を食べようと言ってくれ、KANEKOの食堂で談笑しながら日本語でランチを食べる同級生を見ながら、通称スカイブリッジを渡る毎日でした。WISHに戻ってのランチも、はじめの頃は会話に入っていけず「Naomiっておとなしいのねー」なんて言われて、「本当は全然おとなしくないんだけど…」と、いつかみんなの会話に入りたいと思って過ごしました。


 

WISHは様々な国の生徒が一緒に暮らしていました。国同士の対立のことが議論になったり、アジア人に対する差別も経験しました。日本人は、英語がわからないと思われていたようで、あからさまに悪口を言っている生徒もいました。でも、その悪口がわかるようになっている自分が嬉しくもあり、いつか「聞こえてるよ」って英語で言い返してやろうと思っていました。

当時戦争状態だった、イランとイラクの生徒が同じ部屋で暮らしていたり、各国の語学アシスタントの方が暮らしていたり、世界とつながることができる寮でした。当時はバブルがはじけて間もない頃で、日本人に対する差別もありましたが、ほとんどの学生は、とてもフレンドリーで日本のことを聞いてくれたり、宿題を見てくれたり、大学の中に世界があるような素晴らしい環境で過ごすことができたことはその後の私に大きな影響を与えました。

プログラムも終わりに近づいた頃、小さい頃から患っていたアトピーと喘息が良くなっていることに気がつき、もっと長くアメリカに居たいと、長期留学を考えるようになりました。



TIUAでTOEFLの点数が上がったとはいえ、レベルは真ん中、長期留学にチャレンジするのはトップレベルの生徒ばかりで自分にはとてもハードルが高く思えました。また、親との1年で帰る、4年で大学を卒業するという約束もあり帰国することになりました。

先生方からのサポートで乗り越えられたWillamette大学
日本に帰国し、TIUAのDeanでいらした川嶋先生が「お前は、アメリカの方が合っているから、挑戦してみるといい。」 そのひと言がきっかけでした。もしかするとはっきりと「日本は合ってない」とおっしゃっていたかもしれません(笑)。先生のお見立ては正しかったと今でも思います。

プログラムのディレクターをしていらしたGunnar Gundersen 先生が「Naomiは耳がいい。」と言ってくださったことが励みになり、留学に挑戦しようという思いを新たにしました。アメリカにいたのはトータルで4年弱ですが、発音については「こっち(アメリカ)で生まれたの?」って聞かれるくらいです。本当のネイティブはそれも聞かれないだろうなとも思いますけどね(笑)

専攻は経済学部。心理学なども興味がありましたが、英語がギリギリだった私はなるべく単位が移行できること、そして漠然とビジネスに興味があったので、Business Economicsを専攻しました。


 

勉強の大変さはTIUAの比ではありませんでした。噂では聞いていましたが、魔の三角地帯、いわゆる寮の部屋、教室、図書館…本当にこの3点だけで生活する日々でした。経済学部は統計学など数学が必須で、数学が不得意だった私は、毎度クラスの後に“Come see me” と呼び出されていました。先生は怒っているわけではなく、クラスについていけているか、何かサポートが必要ではないかをチェックしてくれました。このような、サポートがあることは小さな大学であるWillametteの素晴らしいところだと思います。それでも寮のロビーのソファで倒れ込んだまま寝てしまい、慌ててクラスに出てクイズ(小テストのようなもの)を受けたことが何度あったかわからないくらいです。


 

クリスマスブレイクを利用して、里帰りをしているWISHの生徒を訪ねながらヨーロッパを回りました。当時はインターネットはまだ出始めの頃で、トーマスクックという紙の時刻表と地球の歩き方を片手に、ユーロパスを利用しての電車の旅。時にユースホステルに泊まりながら、寝台列車を宿にしながらの旅でした。旅のスタートがベルリンでまだ崩壊から間もないベルリンの壁、東西ドイツの違い、世界が変わったのを目の当たりにしました。その後ブルガリアを陸路で訪ねようとしたのですが、ビザの取得に領事館に行ってみたところ、当時紛争中だったボスニアヘルツェゴビナを通らなくてはならないから、やめなさいと言われ諦めなければならなりませんでした。

12月31日電車の遅れで極寒の真冬のスイスで泊まる宿がなくなり途方に暮れていたところ、同じように途方に暮れている日本人のご家族がいらして、一緒に雪の中観光協会まで行って宿を探すお手伝いをしたところ、一緒にディーナーをご馳走になった上に、宿代まで出していただいたのは良い思いです。
スイスでジュネーブに向かう電車でご一緒したスイスの方に「レストランではチーズフォンデュが1人では食べられなかった」と話していたら「うちに来なさい!」と招待され、チーズフォンデュをご馳走になった上に、泊めていただいただき、今でもフォンデュを食べる時に、この時教わったチーズは8の字で混ぜるを実践しています。今では考えられないことですが、駅で眠ったり、知り合った方に泊めていただいたり、大冒険の旅でした。

Senior (4年生)になると、勉強法も要領を得るようになり、相変わらず大変ではありましたが、授業が楽しくなってきました。実際に社会で活躍している方が講師として授業を行なったり、オレゴン州経済開発局でインターンも経験し、Travel Oregon(https://traveloregon.com/)の冊子の編纂を担当しました。

キャンパス外に住む生徒が多い中、卒業するまでWISHに暮らしました。残念ながら現在は無くなってしまったようですが、私にとって家のような、大切な場所になっています。

卒業後は通信会社へ。3年目から全米各地を廻る機会が増えました
アメリカの大学の卒業は5月、氷河期と言われる就職活動には遅すぎる時期でした。米国での就職も試みましたが、なかなかうまくいかず、とにかく勉強が大変だったので、一度日本に帰りたいとも思っていました。2、3年働いて、お金をためてMBAで戻ってこようと思っていたのです。ラッキーにも、これから世界に拠点を展開しようとしていた大手通信事業者に就職が決まりました。

最初の配属先が、群馬県で、英語とは全く縁のない社会人生活のスタートでした。通勤と営業での車の運転、初めての仕事、英語とは無縁の生活に、もうこれ以上ここで働くのは無理かもしれないなーと思っていました。

ところが、見てくれている方はいるもので入社から3年目で、米国勤務から帰国した上司の元で働くチャンスが来ました。

東京に異動になり、海外の会社との提携を進める上司のお供として、アメリカに行く機会が増えました。ここで頑張れば、海外勤務のチャンスがあるかもしれないと思い。自分より上のマネージャー陣を飛ばして部長と一緒に全米各地を回っていたので、メンバーの中では英語ができる方だという自覚もありましたし、トップクラスの方との打ち合わせにも同席させてもらっていたので、少々天狗になっていたところもあると思います。

今でも忘れられないのですが、出張中のカリフォルニア州のパロアルトのバーで「藤原さんさぁ、英語ができるのはいいんだけど、学生みたいな話し方やめてくれる?」と部長から言われました。
カジュアルな雰囲気のシリコンバレーの企業、自分もカジュアルでフレンドリーな英語で話していたのだと思います。正直なところ、カジュアルな英語と洗練されたビジネス英語の区別もあまりついていなかったと思います。お会いしているのはシリコンバレーの企業のトップ、本当に反省しましたし、悔しかったです。でも、これを言ってくれた部長には今でも大変感謝しています。
それからも、海外出張は何度も行きましたが、フレンドリーにペラペラ話すことなく、話を振られた時にだけ答えるようにし、ビジネスのプロの会話を聞くことを徹底しました。この経験がその後の世界各国の方々と仕事をしていくのにとても役立ちました。

再びアメリカへ。リモートワークとワークライフバランスは当たり前でした
Willametteを卒業して10年、いつかはアメリカへ戻りたい、海外で働きたいと思っていましたが、駐在員になるのは家族持ちの男性ばかり。待っているだけでは自分にチャンスは回ってこないと思い、海外オフィスで募集しているポジションに直接応募する制度にチャレンジしました。すべてを会社が手配してくれる駐在員とは違い、待遇も現地社員と同等、家探し、車の購入まで、すべてを自分でやる必要がありました。


 

アメリカ人VPのもとで、私はカリフォルニアで日本本社とのリエゾン役、上司とエンジニアがいるITチームはテキサス、プロダクトチームはニューヨークという体制でのリモートワークが2006年の時点ですでに当たり前になっていました。カリフォルニアの夜間に先に明けるニューヨーク、ダラスのチームが仕事を上げ、それを日本のオープンに合わせて私が本社にプレゼンをするという時差をうまく利用した働き方は眼から鱗でした。

ワークライフバランスもしっかりしており、7時過ぎにはもうオフィスには誰もいません。ゆとりができた時間を利用して、ヨガの指導者資格も取得しました。

アメリカでの担当業務はIT部門、お客さまや、社内のユーザのリクエストを聞きながらITシステムを企画設計し、開発部門とつなぐ仕事を担当しました。世界中から集まったプライドも技術も高い優秀なエンジニアたちからは、「そんなリクエスト必要だとは思えない、無駄な開発はしたくない」と。そんな時は、現場にいればランチに行って話をしたり、ミーティングとは別に個人的に話して人間関係を築いて乗り切ってきました。日本と海外の間に入って色々苦労はしましたが、いつのまにか、これが私の役割、強みになっていました。

リーマンショックで帰国。東南アジアでは当たって砕けろ精神でトップと会えました
2度目のアメリカ生活も落ち着いてきた頃、いわゆるリーマンショックが起こりました。私がアメリカに残れるようにサポートしてくれていた上司も含め、お客さまも、社内も激震でした。アメリカオフィスは規模を縮小し、コストのかかる日本人は最小限にして、私も帰国することになりました。やっと、念願のアメリカ勤務が叶った矢先の出来事で大きなショックを受けましたが、一緒に働いてきたアメリカのメンバーの雇用を守るためだと納得させ、日本に帰国することになりました。

帰国後は、アジア各国の通信会社への営業や協業の業務につきました。これまではアメリカ、ヨーロッパの社内メンバーとの業務から、アジアの通信事業者との業務になりました。各国の営業部隊と協力して、お客さまを周りシンガポール、インドネシア、マレーシア、インド…アジアの発展は目覚しく、もうすっかり日本を追い越したなーという勢いを肌で感じました。アジアでの通信事業は、財閥系の企業が担っていることも多く、いわゆる大富豪の方々にもお会いすることもあったのですが、アメリカの大学時代に培った当たって砕けろ精神と、懐に飛び込める性格が功をそうしたのか、比較的すぐにトップの方に会うことができ、しかも女性一人で日本から来たというのが珍しいのか、商談中にご飯をとっていただいてご馳走になったり(商談中のオフィスで、です!)色々面白い体験をしました。

各国で開催されている通信事業者が集まる国際イベントがあるのですが、「あなたどこかであったよね、覚えているよー」と声をかけていただいたことも度々あります。人に覚えていただけるというのは、Willamette時代から、出会った人とはご縁を大切にと、次々話しかける度胸のおかげだと思っています。  

インドネシア、インドではバティックやサリーなどの伝統衣装を着て出勤する日があるのですが、サリーを着せてもらいオフィスで撮った写真をインドの同僚がSNSに乗せたのを見て「出張中なのに…」のようなことを言われることがありました。 



いつの間にか海外出張をSNSに載せないようにというお達しが出るようになりました。この日本独特の閉塞感、みんなが監視し合うような雰囲気(もちろん、そういうことばかりではないのですが)をどうにかできないか、自分にできることがあるのではないかと思うようになりました。

四半世紀を超えた友情



Willametteでのルームメイトは、高校卒業後、日本留学から帰ってきたオハイオ出身のアメリカ人でした。彼女との友情はを四半世紀経った今でも続いています。

実は、私の卒業間近に大喧嘩し、彼女はボーイフレンドと部屋を出ていき、卒業式にはきてくれたものの、ほとんど口を聞かないままお別れすることになりました。そのまま数年音信不通になっていたのですが、とあるReunionでMarci(ルームメイト)が「Naomiを探しているから連絡先を教えても良いか」と聞かれ、即答で ”YES!!!”。



当時は出張で頻繁にカリフォルニアに行っていたので、Palo Altoの出張先のホテルに飛んできてくれました。そこから7年の空白を埋めるように、毎年、年に1回は会っています。

2013年、彼女の旦那様が急逝されました。 原因は今でもはっきりとわからないのですが、過労だったと思います。入院したと連絡が来てから、わずか6時間のことでした。飛行機に飛び乗りお葬式に駆けつけました。大学時代にお世話になった彼女の家族や親戚にも再会しました。この時、彼女のお父様が私に言ったことばが今でも忘れられません。”Naomi, you are not living, just existing. Life can be very short, Live your life.”

ちょうどこの頃、自分の仕事に疑問を感じ始めていました。日本の本社の業務を海外に展開する仕事を担当していたのですが、働き方や時間、業務の進め方、日本のやり方を進めようとするほど、海外のオフィスのやり方が効率が良く、お客さまや時代のニーズに合っているということを肌で実感し始めていたからです。


 

それに伴ってだんだん、仕事や働き方を考えるようになりました。これを機に、仕事とは別に10年以上続けていたヨガに加え、マインドフルネスや瞑想を学びはじめ、人として豊かに生きる、働くバランスを考えるようになりました。
会社に副業申請を出し、ヨガを本格的に教え始めたところ、仕事で疲れてしまった方や、何かにつまづいて苦しくなっている方が集まってくるようになりました。

「初めてのヨガが直美先生で良かった。」と言っていただいたり、私のレッスンを受けたことがきっかけで、インストラクターにまでなった生徒さんもいます。
英語と日本語でのレッスンも開催することもあり、本当に色々な方に来ていただき、私自身もみなさんから元気をもらいました。

再び海外を目指す。何度でもチャレンジしたい。
2019年長年温めていた「2人の真ん中のハワイで女子旅をする」を実現しました。仕事で岐路に立っていた私に、彼女は泣きながら「私の旦那のようにならないで、もう大切なひとをなくしたくない。」と言われ、ハワイの海で2人で大泣きしました。

そして改めて自分が疲れきっていることに気づきました。そして2020年彼女との約束を実現するため、ずっと夢だった、ハワイ島での長期滞在を実現しました。 予定を立てず、朝起きて自分がしたいことをする。気がつくと、毎日、毎日海でイルカと泳いで過ごしました。

これまでも毎年ハワイに来ていましたが、この時の滞在は特別でした。いつのまにか、日々の仕事や立場を気にするあまり、自分に正直でいることが難しくなっていたことに気が付きました。

ハワイの長期滞在を通じて、もう一度海外で暮らすことを目指す決意をしました。海外で人を探しているという卒業生の方や、お知り合いがいらっしゃったらぜひご連絡ください。

どんなときも私を支え続けてくれたのは、アメリカ生活で培った英語、コミュニケーション力でした。いくつになっても、何度でもチャレンジできる、それを教えてくれたのも、アメリカでの生活があったからだと思っています。

もしも今、コロナや色々な事情でやりたいことを諦めそうになっている方がいらっしゃったら、希望を持ちづけて欲しいと思います。これからまた、海外への扉も再び開かれていくはずです。私自身も、これから自分には何ができるか、一人でも多くのかたが豊かに自分らしく生きていくためのお手伝いをライフワークにしていきたいと考えています。


 


TIUはとてもユニークな大学です。ASPプログラムをはじめ、早い段階から海外で学位を取得できる制度があり、自分さえやりたいと思えば色々なことに挑戦できる大学です。卒業生も色々なところで活躍していらっしゃいます。卒業後四半世紀が過ぎた今でも、仕事やプライベートを通じて知り合った方が偶然TIUやWillamette大学の卒業生だったことが何度もありました。長い間この制度を支え続けてくださった先生方や、職員の皆さんに感謝いたします。また、今回このような機会をいただいた大先輩の島田さん、落合さん、自分の半生を振り返る大変貴重な機会となりました、ありがとうございました。

(藤原直美さんプロフィール)

 神奈川県出身
1991年東京国際大学 商学部経営情報学科 入学
1992年TIUA (現ASP)(アメリカ・オレゴン州)1年間留学
1996年ウィラメット大学 経済学部卒業
1997年通信会社 入社
2006年同アメリカ カリフォルニア州 サンノゼオフィス勤務
2008年帰国
2008年同東京本社 インドネシア、マレーシア、シンガポール担当
2017年より インド担当
2022年東京在住
  (資格等)
  • 全米ヨガアライアンス 200 RYTヨガインストラクター資格
  • リストラティブヨガ 指導者資格
  • ヨガと精神疾患
  • マインドフルネスワークショップ、マインドフルネスキャリア

    YouTube ハワイと御蔵島のイルカの映像
    https://www.youtube.com/channel/UCkJZlag_smi2-aDiSrsjMyQ

     

     

    TIU 霞会シンガポール支部