大学時代に経験したアメリカ留学、異文化体験からパワーエレクトロニクス半導体デバイスサプライチェーンの世界へ
木村徳明さん(1998年卒業 経済学部国際経済学科 鐘ヶ江ゼミ、ESS/1997年Willamette Univ. 教養学部経済学卒業)

(2017 ASP/TIUA Alumni Reunion にてGunnar Gunderson先生と)

29年前、大学入学した頃

私が東京国際大学への入学をしたのは、1993年、今からもう29年前になる。1993年というと、東武東上線のふじみ野駅が開業、当時はみずほ台駅と上福岡駅の間は住宅も少なく、広い畑が残っていて、今の高層マンションが立ち並ぶ住宅街もまだなかった。

当時、家庭にはインターネットがようやく普及し始めた頃で、ダイヤルアップ接続。ネットを接続していると、家の電話が繋がらなくて、自宅でPCを繋ぐのも気を使ったような時代だった。モニターもCRT(ブラウン管)、今のように液晶を使ったフラットパネルディスプレイは存在していなかった。 

学生が持っていたのもポケベルで、“ポケベルが鳴らなくて”という歌も流行っていた。携帯電話も通話しかできないPHSがようやく普及し始めた頃だった。今のように、誰もがスマートフォンを手にして、動画、ゲーム、電子書籍、ニュースを見る時代になるとも想像が及ばなかった。当時アメリカでの留学経験を振り返りながら、今にどうつながってきたのか振り返ってみたい。 

1991年の夏休みにアリゾナ州に約1か月ホームステイをする機会があり、その時に体験したアメリカでの生活、英語が不自由ながらも温かく私を迎えてくれたホストファミリーにまた会いたい。次に会う際には、英語でコミュニケーションを取りたいというのが、英語を勉強、習得したいというモチベーションだった。

大学進学先を決める際にも、Willamette大学でのAmerican Study Program(ASP, 旧TIUA)をはじめ海外提携校との留学制度が充実していたことが東京国際大学へ進学を決めた理由だった。

1993年、大学入学後はESSに入部し、ディベートセクションに入った。1年時には、とにかく英語力が足りず、先輩のやっている様子を必死にまねることに精一杯でした。一つの議題に対して、賛成、反対に分かれて、スピーチをまとめ、議論をしていた。よく議論としてあがったのは、憲法9条の問題、少年法の適用について、原子力発電の是非などで、必要な情報を集めるため、当時は今のように、Wikipediaもなく、インターネットは図書検索で使える程度で、Imidas(イミダス)や、現代用語の基礎知識といった分厚い情報、用語集、日経、朝日新聞、東洋経済、ダイヤモンド、日経ビジネスといった経済誌、文芸春秋、中央公論などの月刊誌を大学の図書館で情報収集のためによく読んでいた。 

ESSでの活動は、論理的に議論を組み立てるための手法、伝え方、物事の賛成、反対、両方の視点からとらえて意見をまとめる作業は、後のASPに参加した際や、WUでのリーディング、ライティング、ディスカッションなどアカデミックスキルの基礎となった。


(95年 ESS 4年生の卒業式、TIU第一キャンパス図書館前にて)
 

ASPプログラム(旧TIUAプログラム)での思い出

大学1年の課程を終え、2月に、ASPプログラムに参加することになった。ASPプログラムは非常によくできたプログラムで、語学を習得するのみではなく、異文化での生活、留学経験を積むことができた。“When in Roma, Do as a Romans do.”“郷に入れば、郷に従え” ということわざがあるが、Willamette Universityで寮生活をしながら、実際に WU生たちのやっていることを見よう、見まねでどんどん吸収しようという気持ちでいっぱいだった。

プログラムに参加して、すぐにSpring Break(春休み)があり、WUの学生たちが主催しているAlternative Spring Breakという泊りがけで参加するボランティア活動に参加した。7-8名のWUの学生中で、留学生で参加したのは私一人。リスニングもスピーキングもまだおぼつかない状態ながら、Warm SpringsというOregon州にあるネイティブアメリカンの居留地を訪れ、ネイティブアメリカンの文化保護センターで草刈り、清掃などボランティアに参加した。

土着文化を持つネイティブアメリカの人たちはアメリカ社会に適合できず、アルコール依存症、貧困、社会問題を抱えている実情などを見た。居留地周辺は街灯もなく、夜になると満天の星空、静寂の中、コヨーテの遠吠えが聞こえてきそうな雰囲気。Warm Springsの族長の方に招かれて、参加した学生とテントの中で、薬草を炊いたサウナ、スウェットバスに入った。

その族長は呪術師で、テントの中に入った一人、一人に、前世がどんな人物だった告げはじめた。そのお告げは、具体的に、いつの時代の、誰なのかはわからないが、南蛮貿易で頃に東南アジアに進出した人物か、旧日本軍で、オランダかイギリスに支配された地域で、解放のために現地人と戦った人物なのか、支配されていた現地人を指揮して解放のために戦った人物だった。因みに、私の家系は武士の家でもなく、第二次世界大戦中に、南方に従軍した人物もいないので、全くの迷信なのだが。


(Willamette大学新聞 Collegianに載った、TIUA生到着の記事)
 

94年の夏休み、アメリカワールドカップ

1994年はアメリカでサッカーのワールドカップが開催された年だった。日本は1992年にJリーグが始まり、プロ化され、三浦知良、ラモス瑠偉などの選手が活躍し、ワールドカップ出場の期待が大きく高まっていた頃だったが、日本代表はワールドカップ出場が掛かったアジア予選で、カタール・ドーハで行われた試合、後半2-1でリードしながら、ロスタイムに同点に追いつかれ、ワールドカップ出場権を逃したこの試合は、ドーハの悲劇と記憶され、あと一歩で出場を逃した大会だ。

今年サッカー日本代表はアジア予選を勝ち抜き、7大会連続でワールドカップ出場を決めている。ドイツ、イングランドをはじめ、ヨーロッパのリーグで活躍する選手がほとんど占めている今、当時ワールドカップ出場することが難しかった時代を想うと、日本サッカーが着実に強化を進んでいることがよくわかる。

ワールドカップを観に行きたいという気持ちは強かったが、まずチケットの入手方法がわからない。週末にASPに参加した学生のグループで訪れた、Portlandで、日本とアジアの食材を扱っているグローサリーストアで買った、日本の新聞の米国版に偶然、ワールドカップのチケット販売の広告を見つけた。当時は、チケット販売会社に電話でオペレーターにつないで、拙い英語で欲しいチケットを伝え、何とかチケットを手にした。

購入できたチケットは7/4 独立記念日に行われる、San Francisco近郊のPalo Alotoスタンフォードスタジアムでのアメリカ対ブラジルの試合だった。試合前のスタジアム周辺は、大勢のブラジル人サポーターたちがサンバを踊りながらお祭り騒ぎで盛り上がっていた。スタンフォードスタジアムには86,000人の大観衆が詰め寄せた。

試合はブラジルが優勢に進めるも、アメリカがなかなかゴールを割らせない展開。終盤にブラジルが選手交代後に得点を決め1-0で勝利した拮抗した内容だった。アメリカではまだサッカーはメジャーなスポーツではなく、サイドをブラジル人選手が駆け上がり、座っていた観衆が盛り上がって立ち上がると、後方から“Sit Down‼”と大声で注意をされたことを覚えている。

今や、アメリカでもMLSプロサッカーリーグが立ち上がり、人気も定着して、観客がサッカーを見る眼も成熟し当時のようなことはないのだろうが。その夜はSan Francisco湾、フィッシャーマンズワーフで独立記念日の花火を見たことはいい思い出である。 

San Franciscoを訪れたあと、Los Angels、San Bernardino とAmtrakを乗り継ぎ、Grand Canyonを訪れ、その後、Arizona 州Phoenix近郊のMesaという街へ。高校2年の夏休みにお世話になったホストファミリーとの再会を果たす。94年ワールドカップアメリカ大会も佳境を迎え、ブラジル対イタリアの決勝戦もホストファミリー宅で観た。高校の頃、ほとんど英語で会話できなかったが、ASPに参加して上達した英語が活きて、自分の英語力の向上も実感できた体験でした。


 



   

ASPプログラムの終了から、Willamette大学への長期留学

夏休みが終わると、TOEFLのスコア上がり、長期留学の要件を満たすレベルまで英語力も向上した。Willamette大学への奨学生試験にも何とか受かり、翌年の1995年の秋からWillamette大学へ編入することが決まった。ASPに参加して、語学力も身についてはいたもの、少人数で行われることの多いWillamette大学での授業はついていくのが大変だった。最初のセメスターで取った、アカデミックライティングの授業は特に印象に残っていて、テーマは“核問題”。7~8名の少人数で行われるディスカッション、ASPである程度通用すると思っていたが、全く通用せず、完全に自信を喪失した。語学力のみではなく、近現代史の知識が圧倒的に不足していること。また、日本は唯一の被爆国、非核三原則、憲法9条で規定されている平和憲法、いずれも日本では当たり前とされている知識がなぜそうなのかと問われるとどうにも説明ができない。 

高校の修学旅行で、長崎での被ばく者の体験談を聞いたことを伝えようにも、アメリカ人に対して、それが何を意味しているのかは非常に難しかった。そんな時にそのライティングの授業を受け持った教授から、読むことを勧められたのは、Noam Chomskyの著作だった。Chomskyの著作や論文は日本語訳も多数出版されているが、一般的な日本で受け入れられているメディアを通じて捉えられているアメリカではなく、冷戦後のアメリカ、新自由主義に傾きすぎる政治、行き過ぎた資本主義社会に対する批判だった。教授がChomskyの著作を勧めたのも、当時日本で身に着けた私のアメリカ観を考え直すきっかけを与えたかったのだろう。 

専攻したのは経済学で、冷戦後の東ヨーロッパ、旧ソビエトがどのような過程で、資本主義、自由主義経済に移行していくのかを研究する講義が印象に残っている。今、ロシアがウクライナを侵攻して、一部の報道などでは、東西冷戦の再来するのではなどの意見も出ているが、1995年頃は、社会主義、計画経済から、資本主義経済の移行は、人、モノ、お金、情報を遮る壁がなくなり、より豊かな世界になる明るい見方が主流だった。

あと、印象に残っているのは、芭蕉のおくの細道とEmily Dickenson詩を比較、源氏物語とホメイロス オデッセイ、川端康成の雪国とヘミングウェイの老人と海を比較して読み解いていく比較文学の授業だった。おくの細道も、源氏物語も、雪国も、すべて英語版があるのだが、日本語と読み比べると非常に興味深かった。漢字と仮名が混じった文章が表現する情景や心情の豊さを感じる体験だった。

ASP、Willamette大学での留学経験は、授業、当時読んだ本を通じて、自分のもの見方、考え方に大きな影響を与えた。日本の大学での授業ではあまり取り上げられない、古典を原文で読んだことは、すぐに役立つ知識ではなかったが、今でも読み返すと新たな気づきを得られる。変化の激しい時代だからこそ、じっくりと古典と向き合い、その中から得られた知識で行動、判断することが習慣になった。

大学卒業後、半導体・エレクトロニクス業界へ 

Willamette大学卒業後、TIUを卒業し、その後の進路としてはサンケン電気(株)パワーエレクトロニクス、電力変換、制御を専門とする半導体デバイス製造メーカーに1998年入社した。入社時の配属先は、海外営業部でアメリカ市場の日系大手テレビメーカーを担当した、当時はメキシコに日系テレビメーカーが多数製造工場を持ち、設計開発をカリフォルニアで行っていた頃だった。ブラウン管(CRT)テレビ、プロジェクションテレビ用の電源に使われる、IC、ダイオードの売り込みをした。

その後、アメリカ担当から欧州市場向けの車載部品の営業を担当し、フランス、ドイツの車のヘッドライト製造メーカー向けにHID(高輝度ディスチャージ)ランプの点灯を制御するICの販売。自動車用発電機(オルタネーター)用の電圧制御IC、ダイオードなどの売り込みを経験した。その後、2007年に当時イギリス ウェールズにある販売子会社に出向をした。残念ながら、2008年リーマンショック後の業績の悪化を受け、出向期間は1年半と短期間だった。HIDランプもLEDに置き換えられ、自動車用のオルタネーターも内燃機関が電動モーターに置き換えられることによって、なくなりつつある。 

2012年から、現在はサプライチェーンを統括する部門で、半導体のミネソタ州にある自社のウェハ製造工場の生産管理を経験。2019年から現在は、車載用のディスプレイ用の電源制御用ICの生産管理をしている。

コロナウイルスは日本では感染対策の徹底、ワクチン接種が進み、今年の年始から感染が広まった、オミクロン株による第6波も終息に向かいつつあるが、2019年以来広まったコロナウィルスは、東南アジアにある製造委託先の作業者に感染し、一時期、操業が停止。半導体需要の急増により、生産能力が大きく不足、使用する材料、部材も入手困難な状況があり、供給の遅延が状態している。

ようやくコロナウイルス感染も落ち着きを見せるかと思いきや、欧州で、ロシアによるウクライナ侵攻がはじまり、大手車メーカーも生産を大幅に減らしている状況である。需要側の動き、生産供給側の動きをにらみながら、東南アジア、中国、アメリカにある製造場所と連携を取り、日々生産のコントロール、調整していく対応はまだまだ続いていく。長期的にはパワーエレクトロニクスの領域はこれから、車の電動化、省エネの必要性から、さらに広がっていく、世界的な需要増をにらみながら、サプライチェーンの構築していく仕事はまだまだ続いていく。




(Sanken Power Systemsウェールズ出向時のオフィスにて / Cardiff Castle)
     

これから

今、インターネット上に存在する、主なウェブサイトの60%で使われている言語は英語、日本語は2.1%しかないといわれている。世界で話されている言語の話者数でも英語は15億人いて、10億人以上は英語を母国語としない人が使用している。

学生時代のASP、Willamette大学の留学経験は英語を身に着ける上で非常に役立った。また、異文化体験は自分のモノの見方、考え方に大きな影響を与えた。また慣れ親しんだ日本での生活から離れ、海外で生活した経験は、異文化に対する寛容性、環境の変化に対するレジリエンスを身に着けることができた。

29年前から、現在とは、身の回りに存在している環境も技術も全くことなり、私の経験をそのまま役立てられることも正直ないだろう。ただ海外経験もほとんどなく、英語力も高くなかった自分が、留学をし、英語を使えるようになり、今につながってきた。

ASP(TIUAプログラム)は1990年から始まり、32年続いている留学プログラムで、たくさんの学生が、留学経験、異文化体験を積み重ねてきた。時代が変わり、かつてのような先輩、後輩という縦の人間関係が役立つことも少なくなっているし、SNS、オンラインでの交流が主流になっていますが、コロナウイルスの流行も落ち着いたらまた、同窓会の開催をまた行いたいと思っている。


(2017 ASP/TIUA Alumni Reunion にてGunnar Gunderson先生と)
 
TIUA/ ASP 同窓会 ホームページ
http://www.tiuaalumni.net/web/japanese/

             
(木村徳明さんプロフィール)
 埼玉県出身  鴻巣高校卒業
1993年入学東京国際大学経済学部国際経済学科 鐘ヶ江ゼミ、ESS
1994年2月ASPプログラムに参加
1995年9月Willamette大学へ編入、1997年教養学部経済学卒業
1998年3月東京国際大学経済学部国際経済学科卒業
1998年4月サンケン電気(株)入社 海外営業部勤務
2007年英国販売子会社へ1年半出向
2012年米国ミネソタ州自社製造工場の生産管理を担当
2018年米国グループ会社 Allegro Micro Systemsの生産管理を担当
 
 

 

TIU 霞会シンガポール支部